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ギヨーム・デュファイとブルゴーニュ楽派

デュファイは1397年8月5日にブリュッセル近郊ベーアセルで生まれ、1409年にカンブレでロクヴィールに学び、1428年にボローニャで司祭に叙階され、ローマで教皇庁聖歌隊員に任命され、1434年にバンショワと対面しました。1435年にフィレンツェでスクアルチャルーピと交流して、1436年3月25日に大聖堂の献堂式で祝典モテトゥス(Nuper rosarum flores)、1451年2月14日にサヴォイアのシャルロットとフランスの皇太子ルイの結婚式で四声ミサ曲(Missa Se la face ay pale)を披露しました。

1458年にカンブレに戻り、1460年にティンクトリス、1464年にオケゲム、1468年にビュノワの訪問を受け、1464-74年にレジスが秘書を務め、1474年11月27日に亡くなりました。デュファイはロクヴィールからシャンソン様式を受け継ぎ、和声を実現しやすいエオリア旋法(短音階)やイオニア旋法(長音階)に近い世俗音楽を教会音楽に転用しました。ブルゴーニュ楽派のランタンやバンショワから高音へ延びやかな旋律を受け継ぎ、和声の衝突を避け、明るい響きになりました。アルス・スブティリオルの華やかな装飾を経過音に取り入れ、横の旋律で細分化されたリズムを和らげ、縦の和声を美しく響かせました。初期に二重導音終止やアイソリズムも用い、後期に細かい装飾にメリスマ、掛け合いにホケトゥスの名残を留めチャーミングです。トレチェント音楽の耽美的旋律やランディーニの下三度終止、ザーカラのミサ断章やチコニアの模倣書法や和音の根音で旋法を規定するバスなども取り入れ、イングランドのダンスタブルから、ノートルダム楽派のコンドゥクトゥスから発達したディスカントゥス様式やファブルドン、三度と六度の協和音程や三和音の第一転回形を継承して、フォーブルドンから定旋律とバスから和声を構築する発想に到達しました。フランスの四度・五度の完全音程を兼ね備え、主音(トニック)・属音(ドミナント)・下属音(サブドミナント)を発見して、多声書法(ポリフォニー)に和声書法(ホモフォニー)を結合しました。

デュファイは初期からカノンを用い、中期に通作ミサの冒頭動機を一致させ、定旋律から自由になり、各声部が独立したフーガ書法になり、通模倣様式につながりました。テノールに定旋律、バスに和声の根音、ソプラノの外声に旋律の装飾、アルトの内声に和声を生み、アイソリズムを発展させ、定旋律をある比率で旋律型を繰り返し、カノンやフーガの拡大・縮小の技法につながりました。四声で三和音の転回形や非和声音の繋留も駆使して、和音を連続して和声を展開しました。和声で声部が緊密に進行する音楽の原型は、西洋音楽の基本発想を規定して、後世に多大な影響を与えました。

デュファイの書法を年代で追跡すると西洋音楽の基本発想が構築されてゆく過程が分かります。二重導音終止を離れて、ランディーニ終止を使いながら、完全終止や不完全終止に近くなりました。穏やかな低音部で和声を生み、通作ミサの定旋律に世俗曲を置き、最上声の美しい旋律で快活に語り、フォーブルドンで和声を組み、北方の影響でバスを見つけて、響きに深みが生まれました。フランドルのラリューの分厚い低音、ジョスカンの通作模倣に継承されました。三全音(増四度・減五度)や声部間の対斜(半音の食い違い)を避けるために用いた臨時記号を転用して旋法から調性に変更しました。デュファイの音楽では、中世とルネサンスの技法が共存して、自然に音楽が生まれるよう聴こえます。

デュファイは古い伝統を受け入れながら、新しい書法を実践で見つけました。発想の転換を重ねて、表現を豊かにして、次世代に種を蒔きました。ブルゴーニュやフランドルの巨匠たちが、彼の書法を発展させ、偉大であるといえます。中世の学問や文芸が下地となり、人間の感情を展開して発想を転換する契機となりました。文化の転換には発想の蓄積が大切です。デュファイは、フランスの構造、イタリアの旋律、イギリスの和声など、様式の長所を取り入れ、縦の旋律と横の和声を兼ね備え、絶妙な感情を自然に語り、人間らしい音楽をなし、芸術へと昇華しました。

詳細版

1397年8月5日にブリュッセル近郊ベーアセルで生まれ、1409年にカンブレ大聖堂でロクヴィールに学び、1414年に近郊のサン・ジェリー教会で働き始め、1418年までコンスタンツ公会議に附き添い、カンブレに帰り、1420年からイタリアのリミニ宮廷でユゴーとアルノルド・ド・ランタンの同僚になりました。同年8月20日にビザンツ皇帝の王子テオドロス2世に嫁ぐ領主の妹のため祝典モテット〈喜べ、妃よ (Vasilissa ergo gaude)〉、1423年7月18日に領主の親族の結婚に三声バラード〈目を覚ましなさい (Resvelliés vous)〉を作り、1424年にカンブレに戻り、1425年12月24日に母の従兄を看取りました。1426年2月にランで三声ロンド〈さようなら、ランの美きかの酒よ(Adieu ces bons vin de Lannoys)〉を作り、ボローニャのアレマン枢機卿に助祭として仕え、三声ミサ曲〈無名のミサ(Missa sine nomine)〉や〈聖ヤコブのミサ(Missa Sancti Jacobi)〉を作りました。1428年10月に司祭に叙階され、ローマで教皇庁聖歌隊員に任命されました。1431年3月3日に教皇エウゲニウス4世の即位式で五声モテット〈戦う教会(Ecclesiæ militantis)〉を披露しました。1433年2月からサヴォイア公アメデーオ8世に奉仕して、5月31日にバーゼル公会議で三声モテット〈人には平和こそ(Supremum est mortalibus)〉を披露、1434年2月12日にシャンベリで皇太子ルドヴィーコとキプロス王女の結婚式にてバンショワと対面しました。1435年7月にフィレンツェで教皇庁聖歌隊に所属しスクアルチャルーピと交流して、1436年3月25日にサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の献堂式でモテトゥス〈バラの花が先ごろ(Nuper rosarum flores)〉を披露しました。1437年にサヴォイア宮廷に復職、1439年7月6日にカンブレ大聖堂参事会員になり、1444年4月23日に母を看取り、1447年にトリノやパドヴァを訪れ、三声ミサ曲〈聖アントニウスのミサ(Missa Sancti Antonii Viennensis)〉を作り、1450年にカンブレに戻り、1451年2月14日にサヴォイアのシャルロットとフランスの皇太子ルイの結婚式で四声ミサ曲〈私の顔が蒼いのは(Missa Se la face ay pale)〉を披露、1452年4月21日にサヴォイア宮廷に復職しました。1453年5月29日のビザンツ陥落に哀歌〈コンスタンティノポリス聖母教会の嘆き(Lamentatio Sanctæ Matris Ecclesiæ Constantinopolitanæ)〉を作り、1458年秋にカンブレ参事会員になり、1460年にティンクトリスの訪問を受け、1461年に四声ミサ曲〈武装した人(Missa L'homme armé)〉を作り、1462年と1464年にオケゲムの訪問を受け、四声ミサ曲〈見よ、主のはしためを(Missa Ecce ancilla domini)〉を作り、1464-74年にレジスが秘書を務め、1468年にビュノワの訪問を受け、1472年に四声ミサ曲〈めでたし天の女王(Missa Ave regina cælorum)〉を作り、1474年7月に遺言書を作製して11月27日に亡くなりました。四声アンティフォナ〈めでたし天の女王(Ave Regina caelorum)〉(1463年)が「死にゆくデュファイを哀れんで下さい (Miserere tui labentis Dufay)」と加えて歌われました。

デュファイの現存作品は、モテット(Nuper rosarum floresなど)、通作ミサ曲(Missa Ave regina cælorumなど)、ミサ曲断章やマニフィカト(Gloria ad modum tubaeなど)、続唱(Benedicamus Dominoなど)、賛歌(Veni creator Spritusなど)、交唱(Alma redemptoris materなど)、歌謡(Se la face ay paleなど)が残されています。新しい技法を自由な歌詞のモテットやシャンソンで研究して、通作ミサやマニフィカトで応用しました。

デュファイはロクヴィールやグルノンから、12世紀にイスラム宮廷文化に接触した南欧のジャウフレ・リュデル、ベルナルト・デ・ヴェンタドルン、ギラウト・デ・ボルネーユ、アルナウト・ダニエルらのトルバドゥール、13世紀に北仏のガス・ブリュレやアダン・ド・ラ・アルらトロヴェール、14世紀にヴィトリーやマショーらの歌曲を受け継ぎました。宮廷で歌謡(chanson)と舞踏(basse danse: bransle, tordion)が流行して、中世舞踏(alta danza: saltarello, stampita, trotto, ductia)が洗練され詩形(lai, roundelay)と音楽が連なり、声楽に心地よいリズムの流れをもたらしました。和声を自然になせるエオリア旋法(短音階)やイオニア旋法(長音階)に近い世俗音楽を教会音楽に転用しました。ブルゴーニュ楽派のランタンやバンショワから高音へ延びやかな旋律を受け継ぎ、和声の衝突を避けた明るい響きになりました。

アヴィニョンのボード・コルディエやノワイェのタピシエから、アキテーヌ様式のメリスマやレオニヌスやペロティヌスらノートルダム楽派のモードリズム、ケルンのフランコやペトルス・デ・クルーチェのモテット、ヴィトリーやマショーらのアルス・ノーヴァ期、サンレーシュやソラージュらのアルス・スブティリオル期のクロスリズムによる華やかな装飾を受け継ぎ、旋律内の経過音に取り入れました。デュファイは、横の旋律で細分化されたリズムを和らげて、縦の和声を美しく響かせました。初期に二重導音終止やアイソリズムも用い、後期に細かい装飾にメリスマ、掛け合いにホケトゥスの名残を留めチャーミングです。自らの音楽を豊かにする技法を自らの感情を語るように使いました。

ランディーニの孫弟子スクアルチャルーピから、トレチェント音楽の耽美的旋律や下三度終止を受け継ぎました。また、簡素な書法や声部の交替を取り入れました。イタリアとフランスの技法を調和したザーカラのミサ断章やチコニアの模倣書法や和音の根音で旋法を規定するバスなども取り入れました。フランスの完全分割(三拍子)とイタリアの不完全分割(二拍子)を兼ねたヘミオラとして用いました。初期にはクレド―グローリアの組ミサやミサ断章〈トランペット風のグローリア(Gloria ad modum tubae)〉を作り、彼らの作品と共に伝えられました。

イングランドのパワーやダンスタブルから、ノートルダム楽派のコンドゥクトゥスから発達したディスカントゥス様式やファブルドン、三度と六度の協和音程や三和音の第一転回形など、「イングランドの装い(contenance angloise)」を知り、デュファイやバンショワらはフォーブルドンに発想を転換して、定旋律(cantus firmus)から構築する書法を完成して、バスから和声を構築する発想に到達しました。チョーサーがマショーの文芸から移入したシャンソン様式やアイソリズムも戻りました。オールドホール写本でヘンリー王(四世)のGloriaは伝統のディスカント様式、Credoは当世のシャンソン様式です。パワーの係留音やダンスタブルの三和音を受け継ぎ、フランスの四度・五度の完全音程を兼ね備え、主音(トニック)・属音(ドミナント)・下属音(サブドミナント)を発見しました。バスの上に和音を重ねて展開して、多声書法(ポリフォニー)に和声書法(ホモフォニー)を結合して、ジョスカンやパレストリーナを先取りしました。

14世紀にイングランドで中間声部(mean)の四度上に上声部(treble)、中間声部の同度から初めて三度上に仮想した下声部(sight)の五度下に最低声部(faburden)を一対一で歌う三声唱法(gymel)になり、ブルゴーニュで対旋律(discantus)と定旋律(tenor)の二声に対して、対旋律の四度下に(contratenor)を歌い三声にする偽低声部(fauxbourdon)に発展しました。デュファイの(fauxbourdon)は賛歌、ジョスカンの(falsobordone)は朗誦などに応用して構成しました。

デュファイは初期からイングランドのrota/roundやイタリアのçaça/cacciaなどカノンを好みました。オールドホール写本でピカードは二つのカノンを並列して四声、ジョアンのマシュエは五声のモテットをなしました。パワーの通作ミサやチコニアの冒頭動機を一致する書法を取り入れ、中期に定旋律を共有してミサ各章を一致させ、晩年に定旋律から自由になり、各声部が独立したフーガ書法になり、ジョスカンの通模倣様式につながりました。

9世紀にdiscantus(対旋律vox organalis)とtenor(定旋律vox principalis)の二声(duplum)、12世紀のアキテーヌ様式で三声(triplum)、ノートルダム楽派で四声(quadruplum)に拡張されました。

13世紀にペロタンは、四声(quadruplum)、三声(triplum)、二声(duplum)、テノール(tenor)、即ち、聖歌などの定旋律が据えられたtenorに対して、三つの対旋律が付けられたdiscantusを構成しました。

14世紀にマショーは、最上声(triplum)、モテトゥス(motetus)、テノール (tenor)、コントラテノール(contratenor)、即ち、上二声でホケトゥスを用いました。ザーカラはテノールの上にコントラを置きました。

15世紀にデュファイは、ソプラノ(superius)、アルト(contratenor altus)、テノール(tenor)、バス(contratenor bassus)となり、即ち、定旋律から自由になり、各声部が対等になり、カノンなどで模倣しました。

デュファイはテノールに定旋律、バスに和声の根音、ソプラノの外声に旋律の装飾、アルトの内声に和声を生みました。ダンスタブルらは、ディスカントゥス様式を発展させ、和音を連ねましたが、和声の流れを生みにくい制約がありました。デュファイはアイソリズムを発展させ、定旋律をある比率でタレア(リズム型)やコロル(旋律の型)を繰り返しました。ルネサンス音楽の記念碑、四声モテット〈バラの花が先ごろ(Nuper rosarum flores)〉は、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の身廊、交差部、後陣、クーポラの比率6:4:2:3で定旋律が、主和音Ⅰ・属和音Ⅳ・下属和音Ⅴと和声進行して、完全五度下のバスがカノンです。四声ミサ曲〈私の顔が蒼いのは(Missa Se la face ay pale)〉では、定旋律が3:2:1の比率(prolatio)による音価(mensula)です。カノンやフーガの拡大・縮小の技法につながりました。

デュファイは、四声を基準に作曲して、前後の和音で同音を共有しながら、三和音の転回形や非和声音の繋留も駆使して、和音を連続して和声を展開する中で主音(トニック)・属音(ドミナント)・下属音(サブドミナント)に自然と到達しました。和声により声部が緊密に関連して進行する基礎となり、ジョスカンの和声法、パレストリーナの古様式、バッハの対位法、ハイドンの四重奏の原型となり、西洋音楽の基本発想を規定して、後世に多大な影響を与えました。

デュファイの書法を年代で追跡すると西洋音楽の基本発想が構築されてゆく過程が分かります。デュファイが用いた書法は伝わり、避けた書法は廃れました。アダン・ド・ラ・アルやマショーの二重導音終止から離れて、ゲラルデッロ・ダ・フィレンツェやランディーニの下三度終止を使いながら、完全終止や不完全終止に近くなりました。中世のアキテーヌ型やノートルダム楽派のメリスマ型オルガヌムやアルス・ノーヴァ期・スブティリオル期のモテットは、経過音に不協和な音程が混じるため、デュファイは通作ミサの定旋律に世俗曲を置き、穏やかな低音部で和声を生み、最上声の美しい旋律で快活に語り、フォーブルドンで和声を組み、北方の影響でバスを見つけて、響きに深みが生まれました。フランドルのオケゲムやラリューらの分厚い低音、ジョスカンやパレストリーナの通作模倣や機能和声に継承されました。デュファイは不協和音を弱拍で使用しましたが、和音の根音や終止の第三音が抜けた空虚五度が多く、調性の感覚が薄く、旋法の感覚に近い、おもしろさがあります。ジョスカンは大胆に不協和音とその解決を表現に盛り込みました。

デュファイは、教会旋法から近代調性への過渡で禁則の三全音(増四度・減五度)や声部間の対斜(半音の食い違い)を避けるため導音に用いた臨時記号#や♭を旋法から調性に移行するよう転用して、教会旋法にないmusica fictaの契機となりました。民謡〈武装した人(L'homme armé)〉の旋律を、デュファイやビュノワはドリア旋法、オケゲムやジョスカンは、Bに♭が無く、柔かいB molleから硬いB durumになり、ミキソリディア旋法としました。エオリア旋法(短音階・ト短調)としても扱われました。デュファイの音楽には、中世とルネサンスの技法が共存しており、和声も整理され過ぎず、作為が少なく、即興で自然に音楽が生まれるよう聴こえます。和声法や対位法の規則や禁則が整備された後ですと、規則の中で作曲することが多くなり、マンネリズムになり均一になり、バロック音楽のモノディ形式へ変質しました。

デュファイは古い伝統を受け入れながら、新しい書法を実践で見つけました。エキサイティングな試みでチャーミングな音楽を作りました。また、発想の転換を重ねて、表現を豊かにして、時代を先取りした創造をして、次世代に種を蒔きました。デュファイは中世に発達した技法を組み合わせ、人間の感情を音楽で語るようになりました。ブルゴーニュやフランドルの巨匠たちが、彼のある書法を発展させ、ルネサンス音楽を発達させたことから、極めて偉大であるといえます。中世の学問や文芸が下地となり、人間の感情を展開して発想を転換する契機となりました。文化の転換には発想の蓄積が大切です。デュファイは、フランスの構造、イタリアの旋律、イギリスの和声など、様式の長所を取り入れ、縦の旋律と横の和声を兼ね備え、絶妙な感情を自然に語り、人間らしい音楽をなし、芸術へと昇華しました。

2018年2月14日

四声ロンドー〈私が嘆き苦しむのは当たり前のこと〉
Rondeau à 4. Par droit je suis bien complaindre et gemir(1420-36年頃・GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 18v-19r、1440年・I-Bc Q.15, 263v-264r)

「Contratenor concordans cum fuga.」「Contratenor concordans cum omnibus.」と指示されます。上二声が後半で二倍の音価(fuga duorum temporum)のフーガになり、下二声が反行型を現れ、細かに拍を刻みます。中世を多分に思わせる導音を含む終止です。

Par droit je puis bien complaindre et gemir,
Qui sui esent de liesse et de joye,
Un seul confort ou prendre ne scaroye,
Ne scay comment me puisse maintenir.

Raison me nuist et me veut relenquir,
Espoir me fault, en quel lieu que je soye :
Par droit [je puis bien complaindre et gemir,
Qui sui esent de liesse et de joye.]

Dechassiés suy, ne me scay ou tenir,
Par Fortune, qui si fort me gueroye ;
Anemis sont ceus qu'amis je cuidoye,
Et ce porter me convient et souffrir.

John Stainer (1898). Dufay and his Contemporaries, London: Novello and Company, 115

GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 18v-19r

2017年2月15日

四声ロンドー〈かくも激しく私の身に迫る痛みは〉
Rondeau à 4. Les douleurs, dont me sens tel somme(1465-69年・F-Dm MS 517, 133v-134r、1470年頃・F-PN Rés. Mus. Vmc. 57, 60v-61r、1490年頃・S-Uu Vokalmusik i Handskrift 76a, 4

「Auge etiam perfecte.」(Chansonnier Dijon)・「Ad secundum perfecte.」(Chansonnier Chaussée)と指示されます。上二声(Superinus・Canon t. p. unisonus)が同度でカノンをなします。下二声(Concordans)は長音価による優雅な伴奏で支えられます。

Les douleurs, dont me sens tel somme,
Font mon penser tout assommer,
Et si ne m'en puis dessommer,
Dont j'ay souvent mau jour et somme.

Et, sans cesser, je compte et somme,
Pensant tousjours les assommer.
Les douleurs, dont me sens tel somme,
Font mon penser tout assommer.

Mais moy mesmes du coup m'assomme ;
Et, se Mort me devoit sommer
Et de sa massue assommer,
Si ne les puis je mettre en somme.

Les douleurs, dont me sens tel somme,
Font mon penser tout assommer,
Et si ne m'en puis dessommer,
Dont j'ay souvent mau jour et somme.

Chansonnier Dijon 133v-134r (Clemens Goldberg, 246)
Chansonnier Chaussée 60v-61r (Clemens Goldberg, 101)

F-Dm MS 517 (Chansonnier Dijon), 133v-134r
 F-PN Rés. Mus. Vmc. 57 (Chansonnier Nivelle de la Chaussée), 60v-61r

2017年2月19日

三声カンツォーネ〈美しい乙女よ〉
Vergene bella(1420-36年頃・GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 133v-134r、1440年・I-Bc Q.15, 237v-238r、1440年頃・I-Bu MS 2216, 35v-36r)

1420-30年代にイタリア滞在の頃に書かれた初期作で中世の雰囲気を漂わせます。ペトラルカの〈カンツォニエーレ 第366番(Canzoniere CCCLXVI)〉(1336-74年・Rerum vulgarium fragmenta)により、パレストリーナも五声マドリガーレ(1581年・Il primo libro de madrigali a 5 voci)を作りました。

Vergine bella, che di sol vestita,
coronata di stelle, al sommo Sole
piacesti sí, che ’n te Sua luce ascose,
amor mi spinge a dir di te parole:
ma non so ’ncominciar senza tu’ aita,
et di Colui ch’amando in te si pose.
Invoco lei che ben sempre rispose,
chi la chiamò con fede:

Vergine, s’a mercede
miseria extrema de l’humane cose
già mai ti volse, al mio prego t’inchina,
soccorri a la mia guerra,
bench’i’ sia terra, et tu del ciel regina.

The new Guillame Du Fay Opera Omnia

GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 133v-134r

2017年2月26日

ジョン・ベディンガム(John Bedyngham)かウォルター・フライ(Walter Frye)の作とされる三声英語バラード〈私の心の欲は、私の慰めの星〉
Ballad à 3. 3. Myn hertis lust, sterre of my confort(1460年頃・I-TRbc MS 1377, 462v-463r、1475-76年・US-NHub 91, 65v-67r)

中世ラテン語〈Beata es〉、中世フランス語〈Grant temps ai eu et desire〉の歌詞も存在します。近代英語で〈My heart’s lust, star of my comfort〉です。

また、三声バラード〈おお、美しきバラよ(O Rosa Bella)〉(1450-55年・I-TRcap MS BL, 1r、1460-80年・I-TRbc MS 1376, 119v-120r、1460年頃・I-TRbc MS 1377, 361v-362r、1460年頃・P-Pm 714, 2v-3r、1460-74年・E-E MS IV.a.24, 35v-37r、1461-65年・D-W Cod. Guelf. 287 Extrav., 34v-36r、1465年頃・D-Bkk MS 78.C.28, 40v-42r、1465-69年・F-Dm MS 517, 93v-95r、1670年頃・I-PAVu MS Aldini 362, 41v-43r、1470-85年・E-Sc 5-1-43, 50r、1470-77年・F-Pnm Rothschild 2973, 8v-10r、1480-84年・F-Pnm Français 15123, 90v-92r、1480-1500年・I-MC 871, 101r)は、ダンスタブルの作とされましたが、ベディンガムの作です。また、ヨハネス・チコニアも作りました(1440-50年・V-CVbav MS Urb. lat. 1411, 7v-9r、1470-85年・F-Pnm NAF 4379, 46v-47r)。

Chansonnier Mellon 65v (Clemens Goldberg, 107)
Chansonnier Wolfenbüttel 34v (Clemens Goldberg, 64)
Chansonnier Dijon 93v (Clemens Goldberg, 178)

US-NHub 91 (Chansonnier Mellon), 65v-66r
F-Pnm Rothschild 2973 (Chansonnier Cordiforme), 8v-9r
F-Pnm Rothschild 2973 (Chansonnier Cordiforme), 9v-10r

2018年11月13日

ブルゴーニュ宮廷歌曲はとろけそうなくらい美しいですね。計量記譜法(Tempus perfectum・Prolatio minor)で書かれ、イングランドから来た甘美な三度音程(contenance anglois)とブルゴーニュらしい平行四度の終止が見られます。宮廷愛(愛する人と別れる悲しみ)が主に詠われます。

デュファイのシャンソンは凛とした美しさがあり最高です。彼は長生きして、後期の作風はある旋律の動きがあると内声がついてきて、エコー効果が感じられる通模倣様式に近づきます。彼のシャンソンは百近くも、多くの写本で現存しますが、殆どは彼が詩も書いていたと考えられ、音楽は優雅ですが、詩文は荒削りで熱情家でしたことが分かり、音楽と合わせて、典型的な宮廷愛が詠われた中世フランス語の詩文を見てみるとおもしろいです。中世からルネサンスの過渡期の15世紀のブルゴーニュ楽派というより、デュファイやバンショワの音楽は数年前に作られたように新鮮です。

総ての言葉には必ず語源があり、語彙が形成された系譜を追跡して、思考を知ることができておもしろいです。また、語源を分析すると現代でも原意を継いでいて語彙の本当の意味が分かり、微妙なニュアンスや使い分けが確かになります。語彙が豊富な言語は色んな民族が接触して言語が干渉し合い交換して、新しい語義が生み出されてきたことが分かります。

音楽でも旋律やリズム語法の起源を探究することは本来の意味が分かり意義があります。バラード(ballade)、ロンドー(rondeau)、ヴィルレー(virelai)、ヴェルグレット(bergerette)などの韻文の詩形がアンダルシアのイスラム文芸に影響を受けたロマンス語文学が、プロヴァンスのトロバドゥールや北フランスのトロヴェールの詩形になり、中世フランス詩形(formes fixes)に移入されるまですると大変なことになり、音楽の構造に集中するため、最小限にとどめますが、韻文の詩形と音楽の構造が対応することは当たり前のことですがおもしろいです。

言語を分析することにより、ロマンスの宮廷文化がどのように伝播したかを知ることができる言語学や語源学はおもしろいです。宮廷愛の伝統はアンダルシアのイスラム宮廷文芸が、プロヴァンス地方(南フランス)のトルバドゥール(Troubadour)に受け継がれ、ピカルディ地方(北フランス)まで北上してトルヴェール(Trouvère)になり、文学的に洗練を極め、アラスのギルドに継承され、更にドイツ語圏のミンネザング(Minnesänger)に伝わり、精神的な愛に昇華され、ニュルンベルクのマイスターに継承されました。ロマンスや音楽文化は人種も宗教も越えるところが人類の奇蹟です!

トルバドゥール(troubadour)は、オック語「見つける(trobar)」によるとされ、俗ラテン語(*tropāre)で古典ギリシア語「回す(τρόπος)」、印欧祖語(*terkʷ-)に遡り、サンスクリット(tarkú)やヒッタイト語(‎tarkuwanzi)、‎古典ラテン語(troquere)やトロープス(tropus)と同根ですが、アラビア語で「歌う(طَرَّبَ)」や「心が動かされる(طَرِبَ)」に関わる三子音の語根(ط رب, ṭ-r-b)ともされます。

ミンネザング(Minnesang)は、現代ドイツ語の愛(Minne)と歌手(sänger)に分解され、古高ドイツ語「追憶(minna)」で現代英語「気持ち(mind)」、中世英語(minde)、古英語(mynd)、ゲルマン祖語「記憶(*mundiz)」、印欧祖語「思考(*méntis)」、「考える*men-)」まで遡り、古典ラテン語(mēns)、古典ギリシア語(μένος)、サンスクリット(mánas)と同根です。

中世高ドイツ語(senger)、古高ドイツ語(sangāri)は、更に「歌う(sang)」と「人(-er)」に分解され、中世低地ドイツ語(sank)、古高ドイツ語(sanc)、古サクソン語(sang)は、ゲルマン祖語(*sangwaz)、印欧祖語(*sengʷʰ-)に遡り、現代ドイツ語(singen)、現代英語(sing)と同根です。接尾辞の「人(-er)」は、中世高ドイツ語(-ære)、古高ドイツ語(-āri)、ゲルマン祖語(*-ārijaz)、古典ラテン語(-arius)に遡り、印欧祖語の接頭辞(*yo-)に遡ります。英語「歌手(singer)」、「歌う(sing)」と「人(-er)」から成ります。

以上は言語学や語源学に関係するよもやま話ですが、文化も、言語も、音楽も、哲学も、起源があり継承され、人間が存在して発展しましたから、そうした起源と継承の系譜を追跡するアプローチにより、人類の文化の本質を正確に効率よく知り、味わい深めることができることを確信しております。言語では遡れる限り語源を知り、用法の移り変わりを捉え、音楽では遡れる限り楽譜を見つけ、表現の移り変わりを捉えますと、本質のラインが見えてきておもしろいです。

全く異なる分野の仏教哲学の唯識(vijñapti-mātratā)における末那識(mānas-vijñāna)とロマンスにおけるミンネ(minne)が、同じ源に発していることは、人間の意味の広げ方がおもしろいですね。言語や概念は連想ゲームのようにして別の世代や地域に伝達してゆき、何らかの関わりある概念に変化してゆくことを観察することは知的興奮を覚えます。その過程でどういう生活をして、どういう社会を作り、どういう発想をしていたかを知ることにより、人間への関心が高まると思います。

フランス語には意外とゲルマン語やケルト語が、中世ラテン語などを経由して借用されていることが分かります。言語年代学によれば、印欧語族は約8700年前にヒッタイト語と分かれ、約7900年前にトカラ語派が分かれ、約7300年前にギリシア語とアルメニア語が分かれ、約6900年前にインド・イラン語派とアルバニア語が分かれ、そこから約4600年前にインド語派(ヴェーダ語やサンスクリット)とイラン語派に分かれ、また約6500年前にバルト・スラヴ語派、約3400年前にバルト語派とスラヴ語派が分かれ、そして約6100年前にケルト語派、約5500年前にイタリック語派やゲルマン語派に分かれました。近くに住んでいて接触し続けた言語は、単語や文法で影響を受け合いました。

イタリック祖語はオスク・ウンブリア語群とラテン・ファリスク語群で約3000年ほど前に分岐しましたが、ラッツィウム人が勢力を大きくして、ローマ帝国が駆逐してゆき、ラテン語に同化して消滅してしまいました。先住民族の印欧語派ではないエトルリア語も南イタリアにいたフェニキア植民都市のカルタゴ語なども消滅しました。ネアポリス(ナポリ)など、ギリシア植民都市は東ローマ帝国の支援を受けて意外と中世初期くらいまで存続しました。古フランク語はメロヴィング朝で使われたゲルマン語族の言語でフランス語に多くの語彙を提供しました。カロリング朝が解体した〈ストラスブールの誓約〉(842年)はラテン語と古フランス語と古高ドイツ語で表記され貴重な資料です。

フランス語はラテン語(イタリック語派)とゴール語(ケルト語派)とフランク語(ゲルマン語派)が接触して、文法や語彙に変質を来たしました。一般的に異なる言語が接触するとコンフリクトが生じて、格変化が消失したり、語彙が選択されたりして、文法が大きく変わります。究極は英語で大陸のジュート人、アングル人、サクソン人がゲルマン語族を持ち込み、古英語のノーサンブリア、マーシア、ケント、ウェセックスの四大方言をなして、北からデーン人が古ノルド語を持ち込み、南から征服王ウィリアムがフランス語(ノルマン方言)を持ち込み、格を消失しまして、語彙も四割強もフランス語から借用しまして、古英語は理解できないほどになり、文法もシンプルになりました。

• Russell D. Gray & Quentin D. Atkinson (2003). Language-tree divergence times support the Anatolian theory of Indo-European origin, Nature 426: 435–39.

ジル・バンショワの三声ロンドー〈さようなら、さようなら、私の愛しい思い出よ〉
Rondeau à 3. Adieu, adieu, mon joileux souvenir(1425年頃・D-Mbs Clm. 14274 (Sankt Emmeram), 45v; F-Pnm NAF 4379 (Seville), 64v; GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 56v; V-CVbav MS Urb. lat. 1411, 5v-6r)

Adieu, adieu mon joieulx souvenir さようなら、さようなら、わたくしの愛しい思い出よ
Le plus hault bien qui me puist advenir, 最も良きことは私に来たるであろう
Belle et bonne que j'aim autant commoy. 己のように愛した美しく善き人

Le dire adieu me donne tant d'annoy さようならと言うことは、私に気がかりをもたらす
Qu'a grant paine puis je la bouche ouvrir. 大きな痛みを伴う、私が口を開くときには

Ce seroit fort que me puisse esjouir 私にとり喜ぶことは過ちである
Quant j'eslonge mon souverain desir 私を支配する欲望を 取り除くことができたとき
Et la chose que plus volontiers voy. またとりわけ進んで見るものを

Adieu vous dy, il est temps de partir, さようなら、とあなたに言う、もうお別れのときである
Adieu celle que tant ay chiers veir. さようなら、私が会うことを愛しいと思う人よ
Mon povre coer vous remaint par mafoi, 私のかわいそうな心は私の義理によりあなたと共にある

Aultre que vous ne jouira de soy, あなたを差し置いてどんな喜びもない
Tous deulx vous leesse, helas, desplaisir. 二人ともあなたを去る、ああ、不幸だ。

ジル・バンショワの三声ロンドー〈牢でもなく、病でもなく〉
Rondeau à 3. Pour prison, ne pour maladie(F-Pnm Français 15123 (Pixérécourt), 87v-88r; US-Wc M2.1.L25 Case (Laborde), 69v-70r; F-Pnm NAF 4379 (Seville), 22v-23r; V-CVbav MS Urb. lat. 1411, 18v-19r)

Pour prison, ne pour maladie, 牢でもなく、病でもなく
Se pour chose qu'on me die, 何も私に語りえないとしても
Se vous peut mon cuer oublier. 私の心はあなたを忘れられないとしても
St sy ne peult ailleurs penser, 私は何ごとも考えることができない
Tant ay de vous veoir en vie. それくらい私はあなたに会いたい

M'amour, ma princesse et amie, 私の愛、私の婦人と愛する人よ
Vous seule me tenes en vie, あなただけが私の生きがいである
Et ne peult mon desir cesser. そしてわたくしの望みは終わりを知らない

Ne doubtes ja que vous oblie, 私があなたを忘れることを恐れないで下さい
Qu'onques nulle tant assouvie 決してとても満たされた人はいない
Ne fust qui me peult faire amer, 誰が私を愛することに駆りたてるか
Que vous, belle et douce sans per, それはあなたである、美しさと愛おしさは比類無い
Don't amours point ne me deslie. 愛する人は私を正気からそらしている

四声ロンドー〈私の心は常に私を思いにふけさせる〉
Rondeau à 4. Mon cuer me fait tous dis penser(GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 19v-20r)

Mon cuer me fait tous dis penser わたしの心は常にわたしを思いにふけさせる
A vous, belle, bonne, sans per, あなた、美しく、優しく、比類なき
Rose odourans comme la grainne, 芳香のようにかぐわしい薔薇
Jone, gente, blanche que lainne, 若い、雅びな、羊毛のように白い
Amoureuse, sage en parler. 愛らしい、賢く語る女の人である

Aultre de vous ne puis amer あなたより他の誰も愛すことができない
Ne requerir ny honnourer, 求めることも、敬うこともできない
Dame de toute beaulté plainne; あらゆる美を備えたわが婦人よ

Resjoys sui et vueil chanter, 私の心は躍り、歌いたくなる
Et en mon cuer n'a point d'amer 心の中には苦しみはない
Ayms ay toute joye mondaynne 世の中のあらゆる歓びが集まるよう
Sans avoir tristesse ne painne, 微塵の悲しみも苦しみもない
Quant veoir puis vo beau vis cler. あなたの愛らしい晴れやかな顔を見たとき

三声ロンドー〈あなたの評判とあなたの高い名声は〉
Rondeau à 3. Vostre bruit et vostre grant fame(F-Pn Coll. Roths 2973 (Cordiforme), 28v-29r; F-Pnm NAF 4379 (Seville), 20v; I-TRbc MS 1376 (Trento 89), 415v-416r; US-Wc M2.1.L25 Case (Laborde), 22v-23r; V-CVbav MS Capp. Giulia XIII,27 (Medici), 85v-86; US-NHub 91 (Mellon), 22v-23r)

Vostre bruit et vostre grant fame あなたの評判とあなたの高い名声は
Me fait vous amer plus que femme, 私にどんな女性よりもあなたを愛させる
Qui de tous biens soit assouvie, 仮令、総てのよきことを満たしいたとしても
Ne ja d'autre servir envie 私はあなたより他に仕えることを望まない
N'auray plus que de rendre l'ame. ひたすらあなたに魂を委ねてゆこう

En rien ne crains reproche d'ame, 魂に対するいかなる非難も恐れない
Je vous tiens et tiendray ma dame 私はあなたをとらえ、私の愛する人をとらえてゆく
En accroissant toute ma vie. 私の人生をかけて高めてゆくようにして

Et pour ce donc, ce que je clame, それ故に私はこのように宣言する
C'est vostre grace sans nul blame, あなたの温情は非難の余地がない
Au moins, se je l'ay deservie, 少なくとも、仮令、私がよく仕えていないにしても
Ne veuillés pas que je desvie, 私が遠ざかることを望まないで欲しい
Car vous perdriés part du royaulme. 王国で立場を失うことになるであろうから

三声ヴィルレー〈恵まれぬ心よ、何がしたいのか〉
Malheureulx cueur, que vieulx tu faire?(D-W Cod. Guelf. 287 Extrav. (Wolfenbüttel), 25v-27r; US-Wc M2.1.L25 Case (Laborde), 26v-28r)

オルレアン公シャルル・ド・ヴァロワ(Charles Ier de Valois, duc d'Orléans, 1394-1465)の宮廷詩人ル・ルスレ(Le Rousselet)の詩です。

Malheureulx cueur, que vieulx tu faire? 恵まれぬ心よ、何がしたいのか
Vieulx tu tant a une complaire 君は一人の女性を喜ばせたいのか
que ung seul jour je n’aye repos? 一日たりとも心休まらない
Penser ne puis a quel propos 何が目的なのか全く考えつかない
tu me fais tant de paine traire. 君は私に強い苦しみを与えている

Nous n’avons ne joie ne bien, 私たちには喜びも楽しみもない
ne toy ne moy, tu le sces bien: 君も私も、君はそれをよく知っている
tous jours languissons en destresse. 毎日我らは悲嘆に明け暮れている

Ta leaulte ne nous vault rien, 君の誠実さは私たちに何ももたらさない
et qui pis est, seur je me tien さらに悪いことに、確かなことは
qu’il n’en chaut a nostre maistresse. それは我らの婦人に関りがない

Combien qu’aies volu parfaire, 君が思いを遂げようとどんなに望んだとしても
tes plaisirs craignant luy desplaire, 君の楽しみを彼女が気に入らない恐れがあり
accroissant son bon bruit et los,  彼女の名声と評判が高くなり
mal t’en est prins, pour ce tes los, 君の賞賛は地に落ちて、
que brief pense de te desfaire. 君を捨てようと直ぐに考え始めることになる

三声ロンドー〈さようなら、私の恋よ、さようなら、私の喜びよ〉
Rondeau à 3. Adieu m'amour, adieu ma joye(1449年・P-Pm 714, 70v-72r; I-MC 871, 3r)

Adieu m'amour, adieu ma joye, さようなら、わが恋よ、さようなら、わが歓びよ
Adieu le solas que j'avoye, さようなら、私に恵まれた慰めよ
Adieu ma leale mastresse! さようなら、わたしのかけがえのない愛する人よ
Le dire adieu tant fort me blesse, 別れを告げることは、これほどにもつらいのか
Qu'il me semble que morir doye. 死んでしまうかと思えるほどである

De desplaisir forment lermoye. 悲しくてさめざめと涙を流し
Il n'est reconfort que je voye, 心の安らぎも見ることはない
Quant vous esloigne, ma princesse. あなたから遠ざかるとき、私の姫君よ

Je prie a Dieu qu'il me convoye, 神がわたしと共にあらんことを祈る
Et doint que briefment vous revoye, またすぐにあなたと再会できるよう
Mon bien, m'amour et ma deesse! わが愛しい人よ、わが恋よ、わが女神よ
Car advis m'est, de ce que laisse, 私が残してゆく考えは
Qu'apres ma paine joye aroye. 苦しみの後に歓びがくること

三声ロンドー〈まどろむでもなく 目覚めるでもなく〉
Rondeau à 3. Ne je ne dors ne je ne veille(1470年頃・I-Fn MS Magl. XIX.176, 29v-30r)

Mettre (avoir) la puce à l'oreille(耳の中に蚤がいる)は、13世紀頃から恋愛詩で使われ、「情欲をかてられる」「激情する」の隠喩でしたが、17世紀に意味が転じて、「心配する」「発奮する」になり、現代フランス語でも使われています。歌詞はかなり危険な香りがしますが、音楽の響きと一致していておもしろいです。バロック時代以前の音楽家が何を考えていたかは、書簡も事務的なものが多く、楽譜以外には資料が少ないのですが、デュファイには大量のシャンソンがあり、また、その詩文を書いていたとしたら、デュファイは感受性が高く、情が深くて熱い人であることが分かります。

Ne je ne dors ne je ne veille, まどろむでもなく、目覚めるでもなく
Tant ay for la puce en l’oreille, 激しく愛の欲がかきたてられている
C’est du mains que de souspirer; ため息をつくばかりである
Car contraint suis de desirer 私は情欲にうなされているからである
Que mort centre moy se resveille. 死は私に向かい立ち上がる

Desir ne veult que je sommeille, 情欲は私が眠ることを許さない
L’oeil ouvert ennuy me conseille 開いた眼は憐んで私に忠告する
Que je transisse de pleurer. 泣いてばかりいると息絶えてしまうと

Je n’ay pas la coulleur vermeille, 私は血色のよさを失いそうである
C’est par vous, dont ie m’esmerveille, それはあなたのせいであり、驚いたことに
Comment vous povez endurer あなたが耐えているであろうことは
Que pour vous craindre et honnourer 私があなたを畏みあがめるからである
Je souffre doulleur nonpareille 私は比類なき悲しみに明け暮れている

Clemens Goldberg, Florenz 176, 43

三声ロンドー〈私の心のとても愛しい人よ〉
Rondeau à 3. Ma plus mignonne de mon cueur(F-Pn Rés. Mus. Vmc. 57 (Nivelle), 64v-65r)

Ma plus mignonne de mon cueur わが心のこよなく愛しい人よ
Je m'esbahis, dont ce me vient わたしはどうしてこうなるかと驚いている
Que sans cesser il me souvient 絶え間なく思い出されるとは
De vostre beaulté et doulceur. あなたの美しさと優しさが

Des bonnes estez la meilleur, あなたはめでたき女性の中でも最高である
Puisque dire le vous convient, こうして語るにふさわしい人であるから

Quant j'ay desplaisir ou douleur わたしが悲しみまたは苦しみにうちひしがれていても
Aucune foiz, comme il advient, 時どきこのようになる
Je ne scay que cela devient これからどうなるか分からない
Pensant en vostre grant valleur. あなたの稀有な素晴らしさを考えると

2016年12月27日

ジル・バンショワの三声バラード〈苦悩に満ちた嘆き(Dueil angoisseus)〉(1420年頃)

クリスティーヌ・ド・ピザンが父と夫の死を悼んだ詩により、美しい旋律がCodex Mancini(1420年頃・I-LUs MS 184, 1v-2r)やCodex Sankt Emmera(1440年頃・D-Mbs Clm. 14274, 107r)で伝えられます。

クリスティーヌ・ド・ピザン(クリスティーナ・ダ・ピッツァーノ)は、1364年にヴェネツィアで生まれ、1368年に父がフランス王シャルル5世に仕えてパリに移り、1379年に秘書官エティエンヌ・ド・カステルと結婚しましたが、1389年に父と夫を亡くし、1430年頃まで宮廷詩人として生きました。

ブルゴーニュ型シャンソンでは、音組織が長音階(イオニア旋法)と短音階(エオリア旋法)に近づき、終わりに近づくともぐりこんで跳ね上がるランディーニ終止の音型が優雅さなどいい味を出して、「中世の秋」らしく新しい時代の息吹が感じられますね。ブルゴーニュ楽派(デュファイやバンショワ)はランディーニ終止を使いましたが、フランドル楽派(オケゲムやジョスカン)は完全終止が多いですね。中世とルネサンスの要素が同居して独自の世界を描いているブルゴーニュ宮廷の歌謡にかなりはまりました!

Dueil angoisseus, rage desmesurée,
Grief desespoir, plein de forsennement,
Langour sansz fin et vie maleürée
Pleine de plour, d'angoisse et de tourment,
Cuer doloreux qui vit obscurement,
Tenebreux corps sur le point de partir
Ay, sanz cesser, continuellement;
Et si ne puis ne garir ne morir.

Fierté, durté de joye separée,
Triste penser, parfont gemissement,
Angoisse grant en las cuer enserrée,
Courroux amer porté couvertement
Morne maintien sanz resjoïssement,
Espoir dolent qui tous biens fait tarir,
Si sont en moy , sanz partir nullement;
Et si ne puis ne garir ne morir.

Soussi, anuy qui tous jours a durée,
Aspre veillier, tressaillir en dorment,
Labour en vain, à chiere alangourée
En grief travail infortunéement,
Et tout le mal, qu'on puet entierement
Dire et penser sanz espoir de garir,
Me tourmentent desmesuréement;
Et si ne puis ne garir ne morir.

Princes, priez à Dieu qui bien briefment
Me doint la mort, s'autrement secourir
Ne veult le mal ou languis durement;
Et si ne puis ne garir ne morir.

• Walter H. Kemp (1990). Burgundian court song in the time of Binchois, Oxford: Clarendon Press.
• Maria Giuseppina (2007). Christine de Pizan, intellettuale e donna, Bologna: Il mulino.

I-LUs MS 184, 2r-2v
D-Mbs Clm. 14274, 107r
Christine de Pisan(1407年・GB-Lbl Harley 4431, 4r)

2018年11月26日

ジル・バンショワの三声ロンドー〈いやましに新たになり〉
Rondeau à 3. De plus en plus se renouvelle

いつもありがとうございます。ブルゴーニュ宮廷歌曲は人類の奇蹟です!!中世フランス語のロマンス文学と多声音楽の文化が結合したヒューマニティーの極致です。美しい音楽が染みわたり頭がとろけてきて、チャーミングな人生が炸裂しています。ジル・バンショワの三声ロンドー〈いやましに新たになり(De plus en plus se renouvelle)〉(1425年頃)はエル・エスコリアル写本(E-E MS V.III.24, 39v-40r)とオックスフォード写本(GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 67v)で伝わります。

6/4拍子(計量記譜法のtempus imperfectum・prolatio perfectus)で書かれていて、最上声(cantus)にシンコペーションが使われ、テノール(tenor)と最下声(contratenor)にクロスリズムが出てきて、音楽がよどみなく流れていて清らかです。

ヨハネス・オケゲムはこれで四声の定旋律ミサ(Missa De plus en plus・1460年頃)を作りました。バチカンのチヒ写本(V-CVbav MS Chigi C.VIII.234, 75v-87r)とシスティーナ礼拝堂写本(V-CVbav MS Capp. Sist. 14, 149v-160r)で伝わります。

600年前の音楽とは思えないほど鮮やかです。中世フランス語の歌詞は美しく流れる音楽に反して、強烈でデンジャラスなものが多く、激しく愛し合いましたこと(笑)が偲ばれますが、典型的な宮廷愛が詠われており、比較的マイルドなため訳しました。

De plus en plus se renouvelle いやましに新たになり
Ma douce dame gente et belle 私の優しく美しい愛しい婦人よ
Ma volonté de vous veir. あなたに会いたい思いが募るばかりです
Ce me fait le tres grant desir 私にとても大きな望みが生まれています
Que j'ay de vous ouir nouvelle. あなたの新しい知らせを聞きたいという

Ne cuidiés pas que je recelle わたしが秘めごとをしていると思わないで下さい
Comme a tous jours vous estes celle あなたはどんなときもこのような方です
Que je vueil de tout obeir. 全てにおいて従いたいと望ませるような

Helas, se vous m'estes cruelle ああ、あなたが私につらく当たるなら
J'auroie au cuer angoisse telle 私の心は苦しみで満たされるでしょう
Que je voudroie bien morir それならわたしは死んでしまいたいくらいです
Mais ce seroit sans desservir しかしこれではお仕えすることになりません
En soustenant vostre querelle. あなたの気がかりを静めることにより

E-E MS V.III.24, 39v
GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 67v

2018年11月28日

三声バラード〈顔が蒼ざめているのは、それは恋のせいである〉
Ballade à 3. Se la face ay pale, la cause est amer

いつもありがとうございます。西洋音楽史上最高の大家の一人、ギヨーム・デュファイの三声バラード〈顔が蒼ざめているのは、それは恋のせいである(Se la face ay pale, la cause est amer)〉です。遊び心のある彼は引き延ばして定旋律に据えた画期的な四声ミサ曲(Missa Se la face ay pale・V-CVbav MS Capp. Sist. 14, 27v-38r; I-TRbc MS 1375 (Trent 88), 97v-105r)をフランスのルイ皇太子(Louis XI, 1423-1483)とシャルロット(Charlotte de Savoie, 1441-1483)の結婚式(1451年2月14日)で披露しました。

ミサ曲に恋の歌が織り込まれていて、歌う人は気づいてにんまりと微笑んでいたと思います(笑)しかし、Sanctusの「天と地は汝の栄光に満ちている(Pleni sunt Coeli et terra gloria tua)」で上下でフーガを構成して天地を対比されたり、「天のいと高きところ(Hosanna in excelsis)」で拍感が失われ、周期の大きな協和音程のかたまりが降り注いで恍惚感があり、新型の長旋法(イオニア旋法)の定旋律(cantus firmus)を採用したため、斬新な響きがして550年前の音楽に思えないです。
デュファイは中世に開拓された技法を凝縮させたアイディアマンで縦糸と横糸を織り重なるよう、快活なリズムに乗せ、旋律の切れ目から聞こえる美しい音程がチャーミングです。終わりに三度沈み込んでから跳ね上がるランディーニ終止にフォーブルドン風に平行四度を付け、三度音程で甘美なサウンドをなしました。デュファイの音楽には一定の比率で繰り返すイソリズム技法など中世音楽の名残があり、それらをきれいに洗い流した次世代のルネサンス音楽にない味わいがあります。

(前例として、カルロ・マラレスタ(Carlo Malatesta, 1368-1429)とヴィットリア・コロンナ(Vittoria Colonna, 1492-1547)の結婚式(1423年7月18日)で披露された三声バラード〈恋する私たちよ、目覚めましょう(Resvelliés vous et faites chiere lye)〉(GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 126v)を控えめに〈無名のミサ(Missa sine nomine)〉(I-Bc Q.15, 10v-17r)に織り込んでおります。また、ヴィットリア・コロンナは芸術家ミケランジェロのパトロンとしても知られています。)

Se la face ay pale, 顔が蒼ざめているのは
La cause est amer, それは恋のせいである
C’est la principale, それが主たる訳であり
Et tant m’est amer 恋することがこれほど
Amer, qu’en la mer 辛いのであれば 海に
Me voudroye voir; 身を投げてしまいたい
Or, scet bien de voir わたくしが心を捧げた
La belle a qui suis 美しい方は分かっている
Que nul bien avoir 私は何も持たざることを
Sans elle ne puis. あの方なしのわたしには

Se ay pesante male 深い悲しみを懐いて
De dueil aporter 苦しみの荷を負いながら
C'est amour est male 恋はあまりにも辛いことで
Pour moy de porter; 私には持ちこたえられない
Car soy deporter 何故ならひとり楽しむだけでは
Ne veult de vouloir, あの方は許してくれない
Fors qu’a son vouloir あの方が望むことを別にして
Obeisse et puis 従わざるを得ず、そうして
Qu’elle a tel pooir. あの方がこれほどの力を持つ
Sans elle ne puis. あの方なしのわたしには

C’est la plus reale あの方は最も真なる存在である
Qu’on puist regarder, どこ探しても他にはないだろう
De s’amour leiaule これほど一途な恋を
Ne me puis guarder, 守り通すことはできないなら
Fol sui de agarder 私は狂わんばかりに待ちこがれ
Ne faire devoir 義務を果たすことではなく
D’amour recevoir 他の愛を受ける羽目になり
Fors d’elle, je cuis わたしは身動きがとれない
Se ne veil douloir. もし苦しみたくないなら
Sans elle ne puis. あの方なしのわたしには

詩句の翻訳は難しく、学者により解釈が著しく異なり、解釈が相違する所は、語源や用例などを鑑み、意味が通るようにしました。中世フランス語(amer)は「恋」「愛」ですが、古フランス語(amer)、古典ラテン語(amārus)、印欧祖語(*h₃em-)に遡り、サンスクリット(āmá)や古典ギリシア語(ὠμός)と同根で「顔が蒼ざめているのは、それは辛さのせいである」として意味は通ります。 別に愛(amour)が使われるためそうした疑問を感じましたが、確かに中世フランス語(aymer)の変種として、古典ラテン語(*amāre)や印欧祖語ama-・母/叔母)に遡り、サンスクリット(ambā)、古典ギリシア語(ἀμμά)、ゲルマン祖語(*ammǭ)、古高地ドイツ語(amma・乳母)と同根です。海(mer)と韻を踏む恋(amer)としても解釈でき、和歌の掛詞のような言葉の使い方です。

デュファイの命日(1474年11月27日)は544年前の昨日でした。写本(GB-Ob MS. Canon. Misc. 213, 53v-54r; E-E MS IV.a.24, 135v-136r; I-TRbc MS 1376 (Trent 89), 425v-426r; V-CVbav MS Urb. lat. 1411, 9v-10r; D-W Cod. Guelf. 287 Extrav. (Wolfenbüttel), 40v-41rなど)で伝わり、美しい細密画の米国議会図書館写本(US-Wc M2.1.L25 Case (Laborde), 64v-65r)を選びました。

The Josquin Research Project

US-Wc M2.1.L25 Case (Laborde), 64v-65r

2016年9月24日

Gloria ad modum tubae à 3(1423年頃・I-AO 15, 95v-96r、1440年・I-Bc Q.15, 180v-181r、1450-55年・I-TRcap MS BL (Trento 93), 161v-162r、1460年頃・I-TRbc MS 1377 (Trento 90), 131v-132)

2016年9月24日

Nuper rosarum flores à 4(1436年・I-MOe MS α.X.1.11 (Modena B), 70v-71v、1430-45年頃・I-TRbc MS 1379 (Trento 92), 21v-23r)

デュファイの四声イソリズム・モテトゥス〈バラの花が先ごろ(Nuper rosarum flores )〉です。1436年3月25日にフィレッツェ大聖堂の献堂式で披露されました。ルネサンス音楽誕生の記念碑です!
ラテン語名(Florentia)にかけて花(flores)が題せられ、町の繁栄を祈願しております。ブルネレスキ設計のサンタ・マリーア・デル・フィオーレ大聖堂にて、デュファイの音楽とは粋な計らいです。

2016年9月21日

Ave regina caelorum III à 4(1464年・V-CVbav MS S. Pietro B.80, 25v-27r)

お気に入りの作で臨終の際に歌われるよう希望しました。横の旋律と縦の和声を配慮して、人間感情を音楽表現にすることに成功して、ルネサンス音楽芸術への道を拓きました。デュファイはフランスの構造、イギリスの和声、イタリアの旋律を兼ね、多声音楽を為した、最も偉大な巨匠の一人です。

Missa Ave regina caelorum à 4(1472年・B-Br MS 5557, 110v-120v、1474-75年・V-CVbav MS S. Pietro B.80, 9v-25r、1481年・I-MOe MS α.M.1.13, 159v-176r)

自由に四声が動いて、調和また衝突して、自然に進むようになりました。多様な経過和音が生じて、絶妙な感情変化が音楽で表現されております。

2017年12月27日

ジョン・ダンスタブルのVeni sancte spiritus / Veni creator spiritus mentes / Mentes tuorum visita à 4(1415年頃)

デュファイが好んだ細かい旋律の装飾や長い音価でゆったりと漂う感覚の対比や平行和声(fauxbourdon)、後半の始まりではフガートな二声が関わり合う技法が駆使されています。

デュファイのNuper rosarum flores à 4(1436年)に似た低音に先進性が伺えます。終止に半音上げ下げの臨時記号)を付け、ブルゴーニュ楽派のバンショワのチャーミングなシャンソンを思わせます。イングランドのオールドホール写本(1412-21年・GB-Lbl Add. MS 57950, 55v-56r)で伝わります。

アオスタ写本(1420-30年・I-AO 15, 276v-279r)、トレント92写本(1430-45年・I-TRbc MS 1379, 182r-184r)、モデナB写本(1430-60年・I-MOe MS α.X.1.11, 109v-111r & 134v-135r)、ミュンヘン写本(1440-50年・D-Mbs Mus. MS 3224, 5-6)などで大陸の資料で多く伝えられます。

GB-Lbl Add. MS 57950 (Old Hall Manuscript), 55v

デュファイ全集
○ Heinrich Besseler (1947-66). Guillelmi Dufay: Opera Omnia, Corpus Mensurabilis Musicæ 1-6.
The new Guillame Du Fay Opera Omnia

デュファイ文献
• Franz Xaver Haberl (1885). Wilhelm du Fay, Leipzig: Breitkopf & Härtel.
• Edna Richolson Sollitt (1933). Dufay to Sweelinck: Netherlands masters of music, New York: Washburn.
• Heinrich Besseler (1950). Bourdon und Fauxbourdon, Leipzig: Breitkopf & Härtel.
Ernest Trumble (1959). Fauxbourdon: An Historical Survey, Brooklyn: Institute of Medieval Music.
• Charles Hamm (1964). A Chronology of the Works of Guillaume Dufay, Princeton: Princeton University Press.
• David Fallows (1982). Dufay, London: J. M. Dent.
• Kevin N. Moll (1997). Counterpoint and Compositional Process in the Time of Dufay, New York: Garland.
• Peter Gülke (2003). Guillaume Du Fay: Musik des 15. Jahrhunderts, Stuttgart: J. B. Metzler.
• Alejandro Enrique Planchart (2018). Guillaume Du Fay: The Life and Works, Cambridge: Cambridge University Press.
Digital Image Archive of Medieval Music :: Du Fay, Guillaume (1397–1474)

西洋音楽史
• Carl Parrish (1957). The Notation of Medieval Music, New York: W. W. Norton.
• Reinhard Strohm (1993). The Rise of European Music, Cambridge: Cambridge University Press.
• Allen Scott (1993/2015). Sourcebook for Research in Music, Bloomington: Indiana University Press.
• Vincent H. Duckles; Ida Reed (1997). Music reference and research materials, New York: Schirmer.

日本語文献
• 今谷和徳:《中世・ルネサンスの社会と音楽》(東京:音楽之友社,1983年)
• 相良憲昭:《音楽史の中のミサ曲》(東京:音楽之友社,1993年)
• 皆川達夫:《西洋音楽史 中世・ルネッサンス》(東京:音楽之友社,1998年)
• 服部幸三:《西洋音楽史 バロック》(東京:音楽之友社,2001年)
• Johannes Tinctoris;皆川達夫:《音楽用語定義集》(東京:シンフォニア,2010年)
• Thrasybulos Georgios Georgiades;木村敏:《音楽と言語》(東京:講談社,2010年)
• 井上太郎:《レクィエムの歴史》(東京:河出書房新社,2013年)
• 金澤正剛:《中世音楽の精神史》(東京:河出書房新社,2015年)

Épitaphe de Guillaume Du Fay (1474)

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