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パレストリーナ・ビクトリアと古様式の対位法

Joan[nes] Pierluigi Palestrinensis An[no] Dom[ini] MDLXVI (1566)

音楽を愛する皆さま、いつもありがとうございます。音楽史を耳で聞くプロジェクトが、古代の聖歌から始まり、ルネサンス盛期のブルゴーニュ=フランドル=ローマ楽派の大家、そして、パレストリーナに到りました。パレストリーナのおもしろさを詰めこみ、専門用語が多くなりましたが、いつものように美しい音楽の味わいと楽しみで心を満たされて下さい。

ミサ曲は対位法と和声法を研究する最上のモデルです。ラテン語の母音は音価に対応して、通常文の構成は、音楽の構造や記譜を根底から規定しました。これから、声楽曲の対位法や和声法が、器楽曲のリュート・ビウエラの独奏、ヴィオールの合奏に応用され、弦楽四重奏曲まで系譜をたどります。
巨匠たちの実作を精査すると、教科書の規則が破られた創造の営みを味わい、対位法や和声法を楽しめます。四声は音域が均整して、音程を活用でき、和声の進行と終止が安定する最小要素です。デュファイが四声のバスや和声を発見、ジョスカンが調性の原型を開発、パレストリーナが対位法と和声法を大成、モンテヴェルディがモノディで七の和音を活用、バッハが四声コラールや器楽対位法を駆使、ハイドンの弦楽四重奏曲に継承されました。

パレストリーナの百以上のミサを精査すると、初期の定旋律ミサ(1554年・Ecce sacerdos magnus、1570年・L’homme armé)や通模倣ミサ(1554年・Ad cœnam Agni、1567年・Ad fugam)から、中期の自由主題(1562年・Papæ Marcelli)やヘクサコルド(1570年・Ut re mi fa sol la)から、跳躍音程や増減音程を避け、順次進行で不協和音を解決する様式(1579年・Assumpta est Maria、1588年・Æterna Christi munera)を確立して、後期の多声歌曲を転用した模倣ミサ(1592年・Dominicalis、1594年・Je suis déshériteé)、清冽で温雅な最高の境地(1600年出版・Già fu chi’ m’ebbe cara、1601年出版・Tu es Petrus)に到達した過程が分かります。

パレストリーナは順次進行の優雅な旋律を好み、半音進行を避け、跳躍進行は長三度・短三度・完全四度・完全五度、上行で短六度や完全八度を用い、協和音程を主として、不協和音を弱拍に置くか、旋律を変えて避け、装飾を省き、長い音価を好み、歌詞が聴きやすく、二度下降・三度下降・二度上昇するnota cambiataを用いました。模倣技法は、厳格(同度の主題応答)、自由(旋律の音程変化)、変格(跳躍の音程変化)、反行(上行下行の反転)、拡大(音価の長倍変更)、縮小(音価の短倍変更)に整理されました。対位法と和声法を兼ね、縦の響きと横の流れが調和して、透明な響きで満たされた自然な音楽になり、音楽の強勢と言葉の内容が一致しました。

ブルゴーニュ楽派の華やかな旋律が複雑に織りなす技法は、フランドル楽派で均質なリズムで和声を生み出す書法になり、イングランドやスペインで機能和声や調性音楽を加え、ローマ楽派で安定した和声が響く対位法へと移行して、古様式(stile antico)として後世の模範となりました。ヴェネツィア楽派は分割合唱(cori spezzati)や協奏様式(concertato)など、器楽を伴い、通奏低音やモノディ様式を自由な発想で生み、バロック音楽の原型となりました。

○ Theodor de Witt; et al (1862-1907). Opera omnia Ioannis Petraloysii Praenestini, Leipzig: Breitkopf & Härtel.
○ Raffaele Casimiri (1939). Giovanni Pierluigi da Palestrina: Le opere complete, Roma: Fratelli Scalera.

• Lino Bianchi (1995). Palestrina: nella vita, nelle opere, nel suo tempo, Palestrina: Fondazione.
• Clara Marvin (2002). Giovanni Pierluigi da Palestrina: A Guide to Research, New York: Routledge.

• Knud Jeppesen (1931/39). Counterpoint: The Polyphonic Vocal Style of the Sixteenth Century, Englewood Cliffs: Prentice Hall.
 柴田南雄; 皆川達夫:《イェッペセン対位法》(東京:音楽之友社,2013)
• Reginald Owen Morris (1978). Contrapuntal Technique in the Sixteenth Century, Oxford: Clarendon Press.

• Jose Ignatio Tejon:《パレストリーナ様式による対位法》(東京:音楽之友社,1971)
• Salvatore Nicolosi:《16世紀の実作に学ぶ古典純粋対位法》(東京:音楽之友社,1997)

詳細版

ジョヴァンニ・ピエルルイージは1525年頃にローマ近郊パレストリーナで生まれ、1537年にローマのサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂の聖歌隊員となり、1544年にパレストリーナの聖アガーピト教会で勤め、1547年に結婚をしました。1550年に司教が教皇ジュリウス3世に即位すると、1551年にローマのサン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂楽長になり、1554年に《ミサ曲集 第1巻》を献呈しました。1555年1月にシスティーナ礼拝堂聖歌隊に入りましたが、3月に教皇が亡くなり、5月にマルチェルス2世も即位直後に亡くなり、パウルス4世が就任すると9月に既婚者が解任され、10月にラッススの後任としてサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂楽長になり、1560年6月まで奉職しました。1561年3月1日にサンタ・マリア・マジョーレ大聖堂楽長になり、1567年8月に《ミサ曲集 第2巻》を出版、1570年に《ミサ曲集 第3巻》をハプスブルク家のフェリペ2世に献呈、1559年に教皇ピウス4世が即位すると年金を増額され、1564年にエステ家に仕えました。1566年に教皇ピウス5世が即位して、イエズス会のセミナリオ・ロマーノで教え、1568年に神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン2世にウィーンの宮廷に招かれましたが、1571年にアニムッチアの後任としてジュリア礼拝堂楽長になりました。1578年に教皇グレゴリオ13世の依頼でグレゴリオ聖歌の改訂をしました。1572年に弟と長男、1575年に次男、1580年に妻をペストで失いましたが、1581年に裕福な未亡人と再婚して、多くの作品を出版、1583年にマントヴァ公ゴンザーガの宮廷に招かれ、1584年に音楽家のギルド(Accadèmia di Santa Cecilia)でアネーリオと親交して、《マドリガーレ集》を出版しました。1594年2月2日にローマで亡くなりました。

パレストリーナ作品集は《ミサ曲集(Missarum)》第1巻(1554年)、第2巻(1567年)、第3巻(1570年)、第4巻(1582年)、第5巻(1590年)、第6巻・第7巻(1594年)、第8巻・第9巻(1599年)、第10巻・第11巻(1600年)、第12巻、《四声ミサ曲集(Missæ quatuor)》(1601年)、《モテット集(Motettarum)》第1巻(1569年)、第2巻(1572年)、第3巻(1575年)、第4巻(1584年)、第5巻(1584年)、第6巻(1604年)、《マドリガル集 (Madrigali)》第1巻(1555年)、第2巻(1586年)、《宗教マドリガル集(Madrigali spirituali)》第1巻(1581年)、第2巻(1594年)、《エレミア哀歌(Lamentationum Hieremiæ Prophetæ)》(1588年)、《マニフィカト集(Magnificat)》(1591年)、《通年聖週間曲集(Motecta festorum totius anni)》(1563年)、《通年賛歌集(Hymni totius anni)》(1589年)、《通年奉献唱集(Offertoria totius anni)》(1593年)、《晩課曲集(Litaniæ deiparæ Virginis)》(1601年)です。

パレストリーナの初期作風は四声〈祝福された聖処女(Missa De beata virgine)〉や五声〈武装した人(Missa L'homme armé)〉など定旋律ミサでした。中期作風は六声〈教皇マルチェリウスのミサ(Missa Papae Marcelli)〉や四声〈短いミサ(Missa brevis)〉など自由主題により、旋律を変形して和音を重視して、順次進行で不協和音を解決して、跳躍音程に三度、四度、五度、八度が多く、増減音程や半音進行がなく、ポリフォニーとホモフォニーが融合しました。後期作風は自作モテットを改作した模倣ミサになり、四声〈聖母被昇天のミサ(Missa Assumpta est Maria)〉、〈聖なる日(Missa Dies Sanctificatus)〉、六声〈あなたはペトロ(Missa Tu es Petrus)〉、八声〈今日キリストが生まれた(Missa Hodie Christus natus est)〉などが傑作です。ローマ楽派はブルゴーニュ=フランドルの伝統から清廉な声楽を作り、ヴェネツィア楽派は複合唱(cori spezzati)や協奏曲(concertato)など、自由な発想で器楽も発達させ、バロック音楽の源流になりました。

ミサ曲は異なる由来の五つの楽章(Kyrie・Gloria・Credo・Sanctus/Benedictus・Agnus dei)からなり、各楽章には多くの詩句に分かれて楽節を為すことから、あらゆる音楽様式を併存することができ、デュファイらブルゴーニュ楽派以来、世俗音楽・教会音楽を問わず、あらゆる技法を活用することができ、音楽家の試金石となりました。また、ミサ通常文の構成、Kyrie・Sanctus・Benedictus・Agnus(三部の構成)、Gloria(天地の対比や詩句の反復)、Credo(段落の分割や論理の展開)は、音楽構成に根底から影響を与え、音楽様式に内包され、西洋音楽の特徴となりました。

アルス・ノーヴァ期にギヨーム・ド・マショーが通作ミサを作り、トリチェントやアルス・スブティリオル期にザーカラやチコニアらがミサ断章にモテットやヴィルレなどで発達させたアイソリズムやホケトゥスなどを応用しました。また、イングランドのパワーやダンスタブルらは伝統のディスカントゥス様式や当世のシャンソン様式で循環ミサに応用して、ブルゴーニュのデュファイが冒頭動機を一致させ定旋律を配置した循環ミサ、ジョスカンが定旋律を主題にフーガを構成した模倣ミサに到達しました。対位法が定旋律の装飾から、定旋律の模倣に移行して、各声部が対等になり、テノールの定旋律から、バスの最低声部に中心が移動して、通奏低音につながります。対位法に和声法が調和して、ポリフォニーとホモフォニーが対比や共存して、和声法は多旋律の対位法から発見され、旋法から調性へ移行しました。ルネサンス盛期に偽りの音楽(musica ficta)と称され、旋律・和声・終止を整えるために臨時記号が使われました。旋律では上昇と下降で音階を変更して和声短音階、和声では三全音や対斜を避けるため、また、終止を安定させるために用いられました。

フランドルの巨匠たち、オケゲム、ビュノワ、コンペール、アグリコラ、ジョスカン、イザーク、ピプラール、ラリュー、オブレヒト、ブリューメル、ヴィラールト、アルカデルトらから技術を受け継ぎ、イタリアやスペインのガッフリオ、フェスタ、アルベルティ、モラーレス、エスコベド、アニムッキアらが、ローマ楽派をなしました。系譜はデュファイ→レギス→コンペール→ムートン→ロヴァン・マラペール→フィルマン・ルベル→パレストリーナです。パレストリーナは特にスペイン音楽黄金期の和声書法に影響を受けたと見られます。モラーレスとゲレーロらは機能和声を発達させ、旋法から調性へと移行して、美しい響きと深い味わいを湛えた静謐と激情を内包しており、パレストリーナはモラーレスの五声モテット〈おお、聖なる饗宴(O sacrum convivium)〉から、明るい響きに満たされた四声の模倣ミサを作りました。

モラーレスは、1512年1月2日にセビリアの聖ミゲル教区で生まれ、エスコバル・ペニャローサ・カスティージャに学び、1526年にアビラ大聖堂楽長、1527年にプラセンシア大聖堂楽長になり、1530年2月4日にセビリアで結婚式に参加、1531年に楽長を辞職しナポリに移住、1535年9月1日にローマで教皇庁聖歌隊員になり、フェスタやアルカデルトと同僚になり、1539年頃から作品が出版され、1540年4月4日から1541年5月25日まで一時帰国、1544年に《ミサ曲集》の第1巻をフィレンツェ大公コジモ1世、第2巻を教皇パウルス3世に献呈しました。1545年5月1日に教皇庁を持病により辞職して帰国、トレド大聖堂楽長になり、1548年マルチェナでアルコス侯爵の宮廷楽長、1551年にマラガ大聖堂楽長になり、1553年10月7日頃にマルチェナで亡くなりました。理論家のディエゴ・オルティスやファン・ベルムードも楽才を賞賛、ペルーのクスコ大聖堂やメキシコのプエブロ大聖堂に作品が伝わりました。機能和声の進行や三対四のポリリズムを多用して、門人フランシスコ・ゲレーロに継承されました。オケゲムがミサ曲でしたようにマニフィカトを全旋法で歌うようにしました。神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)が愛したジョスカンの四声シャンソン《千々の悲しみ(Mille regretz)》を六声模倣ミサ曲にして、1536年にローマで献呈したようです。

パレストリーナはゆるやかで跳躍が少ない優雅な旋律を好み、順次進行が多く、半音進行を避け、跳躍進行は長三度・短三度・完全四度・完全五度、上行で短六度や完全八度を用いました。イングランドとフランドルの音程を兼ねております。和声も協和音程を主体として、不協和音程は弱拍にするか、旋律を変更して避け、歌詞が聴き取りやすい、簡明な様式になりました。定旋律はデュファイの時代のよう、テノール声部ではなく、ジョスカンの影響から、通模倣様式になり、カノンやフーガを用いました。華やかで細かな装飾は出来るだけ省き、音価の長い旋律を好みました。二度下降・三度下降・二度上昇する音型(nota cambiata)を用いました。簡明な拍子は対位法の規則として第1種(一対一)、第2種(一対二)、第3種(一対四)、第4種(係留音)、第5種(混在型)に整理されました。模倣も厳格模倣(主題と応答が同度)、自由模倣(旋律の音程を変化)、変格模倣(跳躍の音程を変化)、反行模倣(上行と下行の反転)、拡大模倣(音価を長倍に変更)、縮小模倣(音価を短倍に変更)などになりました。終止も完全終止、変格終止、フリギア終止、ピカルディ終止などに整理されました。こうしてパレストリーナ様式が整いました。

デュファイ→オケゲム→ジョスカン→パレストリーナと継承され、通模倣書法や近代和声法が完成され、対位法と和声法、縦の響きと横の流れが生まれ、高度に洗練して透明な響きで満たされ自然な音楽になりました。音楽の強勢と言葉の内容を一致させて、ビクトリアの教会音楽やマレンツィオの世俗音楽が用いた音画技法の一歩手前まで到達しました。ブルゴーニュ楽派の華やかな旋律が複雑に織りなす対位法は、フランドル楽派で均質なリズムで和声を生み出す対位法になり、ローマ楽派で安定した和声が辿りゆく対位法へと移行して、古様式(stile antico)として後世の模範となりました。

パレストリーナの後継者はスペインのビクトリア、ソリアーノ、ナニーノ兄弟、アネーリオ兄弟らです。ビクトリアは1548年にアビラ近郊で生まれ、1558年に大聖堂でベルナルディーノ・デ・リベラに学び、1560年以前にカベゾンに接したとも、セゴビア大聖堂でモラーレスの門人エスコベドに学んだともされ、1565年にスペイン王フェリペ2世より奨学金を下賜され、ローマのコレギウム・ゲルマニクムに留学して、1566年からコレギウム・ロマーヌムで教えていたパレストリーナに学んだともされ、1571年に後任の楽長になり、1572年にアウグスブルク大司教に《モテット集》を献呈しました。1573年にコレギウム・ゲルマニクムの楽長になりました。1575年に聖フィリッポ・ネリのオラトリオ信心会へ入会して、アニムッキアやアネーリオらと活動して、8月28日司祭に叙階され、1578年にローマのサン・ジロラモ・デラ・カリタ教会の司祭になり、1583年のフェリペ2世に《ミサ曲集第2巻》を献呈して、帰国を依頼すると、1587年にマドリードのラス・デカルサス・レアレス修道院に隠棲するマリア皇太后に仕える司祭になりました。1593年にローマへ出張、1594年2月3日のパレストリーナの葬儀に参列して、1595年に帰国しました。1603年に皇太后が崩御すると、1605年に追悼して、《死者のための聖務曲集》を出版して、1611年8月27日に修道院の司教館で亡くなりました。

ビクトリア作品集は重複を除き、《モテット集(Motecta)》(1572年)、《聖母のためのミサ曲・詩篇・マニフィカト集 (Missas, Psalmos, Magnificat ad Virginem)》(1576年)、《通年賛歌集(Hymni totius anni)》、《マニフィカト集(Cantica B. Virginis vulgo Magnificat)》(1581年)、《ミサ曲集(Missarum)》、《モテット集 (Motecta)》(1583年)、《聖週間曲集 (Offifcium hebdomadae sanctae)》、《通年モテット集( Motecta festorum totius anni)》(1585年)、《四声・五声・六声・八声ミサ曲集(Missae, quattuor, quinque, sex, et octo vocibus)》(1592年)、《ミサ曲・マニフィカト・モテット・賛歌曲集(Missae, Magnificat, Motecta, Psalmi)》(1600年)、《死者のための聖務曲集(Officium Defunctorum)》(1605年)を出版しました。

ビクトリアの作品はミサ、モテット、賛歌、マニフィカトなど、教会音楽のみですが、世俗音楽の模倣ミサを作りました。フランドル楽派の通模倣様式やローマ楽派の透き通るような美しい響き、スペイン音楽黄金期のモラーレスらの味わいもあり、マドリガルで発達した音画技法やヴェネツィア楽派の複合唱様式を用いました。スペインに帰国してからは聖歌を定旋律にして、内省的かつ叙情的であり、静謐かつ激情が融合して、厳格対位法で禁則(長六度上行や減四度音程)も用いました。パレストリーナが透明な水晶で清冽な響きですが、ビクトリアは色彩豊かなくすみも含んだステンドグラスのようです。パレストリーナやビクトリアの音楽は、ルネサンス音楽の集大成として最後の輝きを放ちました。

ヴェネツィア楽派が主導したバロックの通奏低音やモノディ様式による和声と旋律が密接な書法とつながります。また、フレスコバルディやカリッシミらはパレストリーナ様式(古様式stile antico)による無伴奏の声楽曲に器楽伴奏を付け、また、フックスはパレストリーナ様式を対位法の模範として、ゼレンカのミサ曲に影響を与えました。大バッハは六声〈無名のミサ(Missa sine nomine)〉や四声〈見よ大いなる司祭を(Missa Ecce sacerdos magnus)〉を編曲して、〈ミサ曲 ロ短調〉(BWV 232)の第13曲Credo(1742-47年)や第20曲Confiteor(1749年)で古様式の合唱曲を入れました。

ドメニコ・スカルラッティは純粋なパレストリーナ様式の無伴奏合唱曲〈マニフィカト(Magnificat)〉や〈主は我らを養いたもう(Cibavit nos Dominus)〉(1708年)などを作曲しました。1714年12月22日にパレストリーナも1551/71年に奉職したサン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂楽長に任命されました。

パレストリーナ全集
○ Theodor de Witt; et al (1862-1907). Opera omnia Ioannis Petraloysii Praenestini, Leipzig: Breitkopf & Härtel.
○ Raffaele Casimiri (1939). Giovanni Pierluigi da Palestrina: Le opere complete, Roma: Fratelli Scalera.
パレストリーナ文献
• Zoë Kendrick Pyne (1922). Giovanni Pierluigi di Palestrina, London: Bodley Head.
• Karl Gustav Fellerer (1930). Palestrina, Regensburg: Pustet.
• Emilio Ferracci (1960). Il Palestrina: Documenti di vita, Roma: Centro di Studi Palestriniani.
• Leonardo Calì (1970). Giovanni Pierluigi da Palestrina: Vita, arte ed opere, Milano: Ricordi.
• Lino Bianchi (1995). Palestrina: nella vita, nelle opere, nel suo tempo, Palestrina: Fondazione.
• Clara Marvin (2002). Giovanni Pierluigi da Palestrina: A Guide to Research, New York: Routledge.

ビクトリア全集
○ Felipe Pedrell (1902-13). Tomás Luis de Victoria: Opera Omnia, Leipzig: Breitkopf & Härtel.
ビクトリア文献
• Ferreol Hernández (1960). Tomás Luis de Victoria “El Abulense”, Ávila: Diputación Provincial.
• Eugene Casjen Cramer (1998). Tomás Luis de Victoria: A Guide to Research, New York: Garland.

パレストリーナ様式
• Knud Jeppesen (1931/39). Counterpoint: The Polyphonic Vocal Style of the Sixteenth Century, Englewood Cliffs: Prentice Hall. [柴田南雄、皆川達夫:《イェッペセン対位法》(東京:音楽之友社,2013年)]
• Knud Jeppesen (1946). The Style of Palestrina and Dissonance, London: Oxford University Press.
• Owen Swindale (1962). Polyphonic Composition, London: Oxford University Press.
• Reginald Owen Morris (1978). Contrapuntal Technique in the Sixteenth Century, Oxford: Clarendon Press.

日本語による参考書
• Jose Ignatio Tejon:《パレストリーナ様式による対位法》(東京:音楽之友社,1971年)
• Arthur Jacobs;平田勝、松平陽子:《合唱音楽:その歴史と作品》(東京:全音楽譜出版,1980年)
• 今谷和徳:《ルネサンスの音楽家たち I-II》(東京:東京書籍,1993/98年)
• Salvatore Nicolosi:《16世紀の実作に学ぶ古典純粋対位法》(東京:音楽之友社,1997年)

Missa O Sacrum Convivium à 5 (1594)

Missa Missa Tu es Petrus à 6 (1601)

ドメニコ・スカルラッティはパレストリーナ様式の合唱曲Cibavit nos Dominum(1708年)を作曲しました。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハは晩年にパレストリーナ様式を研究して、ミサ曲 ロ短調(BWV 232)の第13曲Credo(1742-47年)や第20曲Confiteor(1749年)で五声合唱に器楽伴奏や通奏低音を導入しました。

• Christoph Wolff (1968). Der stile antico in der Musik Johann Sebastian Bachs, Wiesbaden: Steiner.

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