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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼記

写真はブルゴス(Burgos)を過ぎて、ラベ・デ・ラス・カルサダス(Rabé de las Calzadas)からホルニロス・デル・カミーノ(Hornillos del Camino)に到る丘(Cuesta de Matamulos)を下るところです。Google

皆さま、いつも楽しくお付き合い下さり、ありがとうございます。誕生日のお祝いのお言葉かけを賜り、心より感謝申し上げます。本日は誕生日を迎えました。丁度10年前の誕生日は南フランスのピレーネ山麓のルルド(Lourdes)を父と旅行していて回想しておりました。

フランスのサン=ジャン=ピエ=ド=ポル (Saint-Jean-Pied-de-Port)に到り、ピレーネ山脈を登り、スペインへ国境を超え、「フランスの巡礼路(El Camino Francés)」をサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)と大西洋を望むフィニステール(Finisterre)とムヒア(Muxía)まで約一か月間、1000km近く、歩き続けました。

ピレーネ山中では雹・雨・霰・突風・晴・曇・雷・雪とありとあらゆる天気を体験して国境を越え、パンプローナ(Pamplona)・ブルゴス(Burgos)・レオン(León)・アストルガ (Astorga)を散策したり、グラニョン(Grañón)で中世教会の祭壇の前で一晩を過ごしたり、ガリシア地方は湿り気が多く、石造りのケルト風建物を見たり、日曜のミサのため、最後は夜通し歩き、サンティアゴ・デ・コンポステーラでは巡礼仲間が聖書を朗読する係りになり、特別席に入れてもらい大司教から直に聖体拝領を受け、振り香炉(botafumeiro)が目の前を通り過ぎ圧巻でした。フィニステーラに近づくと、突然大西洋が開けてきて感無量でした。

ムヒア(Muxía)の美しい海岸の小さな聖堂の前で巡礼を終えて戻り、ヴィーゴ(Vigo)からポルトガルに鉄道で旅して、ポルト(Porto)・ブラガ(Braga)・アヴェイロ(Aveiro)など美しい青タイル張りの街を歩き、コインブラ(Coimbra)では旧市街や大学を訪れ、ナザレ(Nazaré)の丘の上から美しい海岸や漁を眺めたり、アルコバサ(Alcobaça)の大聖堂でラテン語の碑文を楽しんだり、オヴィドス(Óbidos)の城壁に囲まれた箱庭のような旧市街を探検したり、ファティマ(Fátima)で聖母が出現したとされる樫の木を見たり、ドメニコ会の修道女と一日中お話したり、リスボン(Lisboa)で巡礼仲間と再会して家に泊めてもらいました。

彼は新聞記者をしていて巡礼体験記を記事にしていたため、私たちがポルトガルの新聞に載りました。リスボンの下町を何日も歩いたりバスで動きました。シントラ(Sintra)の宮殿やロカ岬(Cabo da Roca)から大西洋を一望したり、エボラ(Évora)でローマ神殿や骸骨で作られた礼拝堂を見たり、ファーロ(Faro)を経由して、ポルトガルの国境に面したスペインの町アヤモンテ(Ayamonte)からセビリア(Sevilla)までバスに乗りました。アンダルシアにはモスクを改築した教会など、レコンキスタの遺産を体験して、最南端の町タリファ(Tarifa)からアルヘシラス(Algeciras)に到り、海の向こうにアフリカ大陸が見えて渡ることにしました。

モロッコのタンジェ(طنجة Tanger)まで船でジブラルタル海峡を渡りました。大旅行家イブン=バットゥータが生まれた町で狭い路地が張り巡らされた旧市街を探検しました。美しいモスクや路地裏の生活を触れて、イスラム文化圏にきた実感が湧きました。古い城壁の門を抜けると大西洋と地中海が一望できました。アフリカ大陸で一泊することにして、翌日に船でイベリア半島に戻り、アルヘシラス(Algeciras)から鉄道でロンダ(Ronda)に向かい、イスラム時代の建築や深い渓谷で橋を見ました。グラナダ(Granada)でアルハンブラ宮殿(Alhambra)や下町(Albaicín)を巡り、マラガ(Málaga)でピカソの生家などを訪れました。

コルドバ(Córdoba)では八年ぶりにメスキータ(Mesquita)を訪れ、ローマ神殿やゴシック建築も多く、アルマグロ(Almagro)でスペイン最古の劇場を見たり、トレド(Toledo)でローマ遺跡、シナゴーグ、モスク跡を見て、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存して、色んな文化や人種が住んできたことを実感して、マドリッド(Madrid)でプラド美術館や考古博物館、スペイン広場近くのスカルラッティが亡くなったレガニトス通り(Calle de Leganitos)を見たり、セゴビア(Segovia)で小川や森林に囲まれた素敵な城(Alcázar)やローマ水道橋を見て、アビラ(Ávila)で美しい城壁や大テレサの部屋や美しい夕日を見ました。

エル・エスコリアル(El Escolial)の修道院は石造りでがっしりとして、アルカラ・デ・エラネス(Alcalá de Henares)ではセルバンテスの生家を訪れ、アランフェス(Aranjuez)ではスカルラッティやマリア・バルバラが過ごした美しい宮殿や庭園を散策して、クエンカ(Cuenca)では断崖絶壁の宙吊りの家を見たり、夕陽に染まる旧市街を楽しみ、修道院から聖歌が聞こえてきました。バレンシア(València)ではローマ遺跡、ペニスコラ(Peñiscola)で法王の居城、タラゴナ(Tarragona)でローマ神殿跡を見て、カタルーニャのジローナ(Girona)では大聖堂の宝物殿で天地創造のタペストリーや中世の聖母子像やパピルス文書を見ました。

プボル(Púbol)のガラ=ダリ城でダリがアインシュタインの舌に時計を落書きしていたり、フィゲラス(Figueres)ではダリの美術館や生家、カダケス(Cadaqués)から丘を越え、ポルト・リガト(Port Lligat)のダリの別荘を訪れて、彼の絵に出てくる風景を楽しみ、地中海料理を食べました。リポイ(Ripoll)で美しいロマネスク様式の門と教会を見て、ビック(Vic)の司教博物館でたくさんの宗教美術を見て、ローマ神殿も訪れました。バルセロナ(Barcelona)ではガウディが設計したサグラダ・ファミリア教会やグエル公園、旧市街の大聖堂、モン・ジュイク(Montjuïc)の丘から都市を一望して、海岸で地中海の水平線を楽しみました。

私は無宗教でして、カトリック教徒でもありませんが、文化を体験するには、歩くしないですから、巡礼を敢行しました。中世哲学者(Philosophus)や吟遊詩人(Troubadour)の目から見ることができ、彼らの気持ちを肌で感じられた気がします。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂にある《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》(1173年)には第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》や補巻(Appendix)の第2S巻に有名な多声音楽(organum)があり、三声オルガヌムの行列歌(Conductus)〈喜ぼう、カトリック教徒よ(Congaudeant catholici)〉で巡礼を達成した喜びが歌われていますね。

中世の欧州全土に張り巡らされたサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路により、中世ラテン語を公用語として哲学も音楽など情報のやり取りをしていました。「12世紀ルネサンス」といわれる文化への目覚めが、アンダルシアのイスラム文化における教育機関(مَدْرَسَة madrasa‎)に触発され、中世大学(Studium generale)がイタリア、フランス、イングランド、スペイン、ポルトガル、ドイツ語圏に名物教授を中心に学生が集結して設立されまして、スコラ学的(scholasticus)な研究方法でアリストテレスやイブン=ルシュドの哲学を中心に発展しました。「賢人(sophicus)」とは彼らを指しており、思考様式や発想過程が重視されました。

旅をすると思いもよらない経験をたくさんでき、思いや考えのスケールが大きくなることを感じます。私たちは何も計画することなく、次に行く場所を即決で決めて進んでゆきました。人類が技術や発想を縦に連続継承を続け、横に交友関係を拡げ、創造活動などにより、突然変異を繰り返した知的活動の総体を文化と考えており、好奇心と探求心のみに突き動かされ、先ずは色んなことに幅広く触れ、気づきを繰り返し、奥深く進みます。どんなことにでも、なぜそうなるのか、何がそうさせているか、背景にある基本の発想などを洞察して、常に新しいものに触れながら、洞察と実践をしてゆき、人間の魅力が高まると考えるからです。

今後とも地球の人類の文化をあらゆる観点から探求してまいります。文化の面白さは、ある時代やある地域の社会背景や人間関係を如実に反映しており、そうした空気を味わいながら、現代には廃れた興味深い発想などをアイディアとして取り入れてゆき、クリエイティブに考える種となり、チャーミングなユーモアを伴い、エキサイティングに創りだす事ができ、自由自在で融通無碍にアイディアの貸し借りをしたり、思考様式や発想過程に触れながら、人間らしく生きてゆけると確信しております。今後ともよろしくご教示のほどお願い申し上げます。皆さまに感謝を致しますと共にお元気にお過ごし下さりますように祈念申し上げます。

ヨーロッパ全土に張り巡らされたサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路(Peregrinatio Compostellana)

2021年7月28日

巡礼記や旅行記に対して細かい校正や註釈を加えました。個人の体験を昇華させるためには、詳しく記録をつけておき、旅の全てをまた読者が追体験できるほど、精密に考証して、事実を淡々と書き連ねてゆくスタイルで大げさな表現など誇張を一切交えることなく、その時にその場で見たり感じたことをそのままの言葉で表すことが大切と考えております。一つ一つのどんな小さな要素は、それぞれが重要な意義を帯びており、それらが結合して、その人物、その時代、その地方、その社会の人生観や歴史観が形成されるからです。一つのどんなにささいな事からでも、どれほど強く感じて、どれほど深められるかが大切ではないかと考えております。長く生きて、多く触れて、一つ一つと関わり、感じることを通じてこそ、それらのあらゆる種類の体験から、知や心の糧とすることができます。

人間の社会はお互いに影響しあい、関係しあいながら生きており、その中で文化や歴史が生まれてきます。それらを丹念にたどることにより、重層的に多角的に人間の社会や文化を捉えることができます。特に中世は極めて重要な時代であり、それ以降のもちろん現代の社会や人生、学問や芸術の在り方や考え方を根底から規定していますから、中世の人たちの思いや考えに触れることは、遠い過去の人たちではなく、今ここにいる自分たちの存在や発想と直結していることを感じました。

例えば、都や市の構造、町や村の生活など、あらゆる尺度でみたとき、人間の思いや考えなどが営みとして表れてきて、それらが積み重なり、われわれまで受け継がれてきています。都市の形成においても、水利や地利がある場所に作られた村落から始まり、中心地が形成され、城郭をどんどん外へ拡張して、郊外に新しく生まれた小さな街を吸収して、大都市に成長していました。

そうした人間の活動や生活を中心として、定点的に観察することに意義を感じました。そのため通過した市や町や村や山や川など、全ての地名の語源を注記しまして、土地の歴史を調べてまいりまして、初めてその地に住んだ人たちが、どんな民族で言語を話していたか、どんな印象を土地に感じていたかなどが分かり、実感がより深まりました。 また、教会や街道、建築や芸術などについて、土地の言い伝えについて、史書に書き記されたことについても、とても面白い知見をもたらしてくれます。私はそのときに目で見たことや耳で聞いたことを映像と音声のようにそのまま再現する思い出しますから、そうした細かいことでも一つ一つ書き加えて、宿泊した場所や立ち寄った小さなカフェや名前に至るまで、記録を残しておくことにしました。(今はGoogle MapsとGoogle Street Viewで地図と連動して現地の映像を見れることができますから、それらでご検索を下されば、また、古くは2008年頃からデータがありますから、実際に書かれている頃の様子を追体験することができます。)

学問の発達においても、モロッコのフェズ(فاس Fās)で859年にマドラサ(مَدْرَسَة madrasa)が設立され、文化的に交流がありましたアンダルシアやシチリアからヨーロッパにも刺激が伝わり、中世に大学(universitas)が組織され、イスラム勢力と対峙したり融和しながら、様々な刺激や交流により、関係を保ち続けながら、影響を及ぼし合いながら、それぞれの地域で独自に発展してくると、また、それらをまとめる方向に進み、またそれから独自に発展して、付いたり離れたりしながら、全体として緩やかにネットワークが形成されてゆき、あるときに「文化の相転移」を起こして、「精神革命」として後の人に捉えられる変革が起きました。中世においては巡礼路や交易路は、単なる宗教や商業ではなく、今でいうとてつもなく強固な社会インフラであることが感じられます。

巡礼(peregrinus, حَجّ ḥajj)は、キリスト教徒やイスラム教徒の務めとして歩こうとする宗教的動機や自分から聖地へ歩こうとする自発的動機だけではなく、通信や連絡の手段でもありました。巡礼はただ前に進んで歩くという繰り返しの中で心の浄化や人生における内省により、日常の生活や社会の活動を深めてゆこうという、社会的動機が存在すると考えられます。中世に生きた人たちの思いや考えは実際に歩いてこそ分かると感じられました。巡礼に人を駆り立てるのは、俗から聖へ、日常から神聖な空間へというような、非日常の体験や異次元への旅立ちではなく、むしろ、その逆の日常の深まり、即ち、思いや考えと向き合い掘り下げることになることになると確信しております。むしろ、普段暮らしている場所から離れたところから、自らの心が見えてくると考えております。

巡礼路や交易路は、時に思いもよらない出会い、人との関わり合いを生み出してきました。また、人が旅をする理由は、そこに道があるから、旅がおもしろいからという理由ではなく、昔の人は生きるか死ぬかの中で生きてきた中、実際に交易をして、先ずは具体的な物品の交換や輸送から始まり、次に知識や技術の交換や伝搬を起こして、更に宗教や思想など、段々と具体的な事物から、抽象的な概念まで、人間の移動を介して、ユーラシア大陸全体でつながりを持ちながら、偶発の連続が文化や社会の形成に寄与してきたことが分かります。人類は自らの歴史を振り返ったとき、この人物がこの時代にこの場所でこの理由でこの事件が起きたと認識をして、理由を説明したがりますが、実は偶然性が事件を誘発していることが多く、限定的な理由で説明することは困難であると感じております。ただ、量子力学が確率論により法則性を記述するように、撞着語法になりますが、偶然性にも法則性がある程度存在していることも確かです。そうした人間の歴史や文化の発生と継承と発展と変遷を考えてゆく捉えてゆく感じてゆく上でも旅をすることは極めて大切なことだと思います。

巡礼や旅行、商業や学芸は、人類の文明や社会を強固にしてきたことをひしひしと感じております。古代から「絹の道」と呼ばれるユーラシア大陸を東西に結んだ交易路が開かれ、特にソグド系やテュルク系の遊牧民が中継ぎをして交易をして、東西は連絡をしました。前漢の張騫や後漢の甘英は西域を訪れて、記録を残しました。ユーラシア大陸の東西をものすごい数の商人や使節が行き来をしましたが、著書をなして記録に残した人たちが、歴史に名前を留めました。例えば、629-45年に玄奘(602-664)の巡礼を弁機が筆記して《大唐西域記》(646年)を著しましたり、1405-33年に鄭和(1371-1434)の航海を馬歓は編纂して《瀛涯勝覧》(1451年)を著しました。

中世の西欧から元朝の中国に達した人たち、1245-47年にヴェネツィア共和国のプラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini, 1182-1252)が《モンゴルの歴史(Ystoria Mongalorum)》を著しましたり、1253-54年にフランドル伯領のウィリアム・ルブルック(Guillaume de Rubrouck, c.1220-1293)が《旅行記(Itinerarium)》を著しましたり、1271-95年にヴェネツィア共和国のマルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254-1324)の口述をルスティケロ・ダ・ピサ(Rustichello da Pisa)が筆記して《世界の驚嘆に関する本(Livres des Merveilles du Monde)》(1299年)を著しましたり、1289-1328年にモンテコルヴィーノのジョヴァンニ(Giovanni di Montecorvino, 1247-1328)は大都(北京)に達して《書簡(Annales minorum)》(1305-06年)を著しましたり、1296-1329年にポルデノーネのオドリコ(Odorico Mattiussi, 1286-1331)は《オリエント地方の記述(Descriptio orientalium partium)》(1330年)を著しましたり、1338-53年にフィレンツェ共和国のジョヴァンニ・デ・マリニョーリ(Giovanni de' Marignolli, c.1290-1357)が《ボヘミア年代記(Cronica Boemorum)》(1357年)を著しました。13-14世紀には東西を自由に行き来して、特にイスラム、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ビザンツの商人たちが、陸と海の交易路のネットワークを確立していました(現在は高田英樹編訳《原典 中世ヨーロッパ東方記》(名古屋大学出版会,2019年)で読むことができます)。

1275-1288年にラッバーン・バール・サウマ(ܪܒܢ ܒܪ ܨܘܡܐ Rabban Bar Ṣawma, c. 1220-1294)の旅行記は《マール・ヤバラーハー3世の歴史(ܬܫܥܝܬܐ ܕܡܪܥ ܝܗܒܐܠܗܐ Tashiʻta de-mar Yahvalaha)》(1317年)に大部分が引用されて残されました。1325-54年にイブン・バットゥータ(أبو عبد الله محمد بن بطوطة‎ Abū ʿAbdallāh Muḥammad Ibn Baṭṭūṭa, 1304-1369)は旅立ち、イブン・ジュザイイ(محمد بن محمد بن أحمد بن عبد الله بن يحيى بن يوسف بن عبد الرحمن بن جزي الكلبي الغرناطي Muḥammad ibn Muḥammad ibn Aḥmad ibn ʿAbd Allāh ibn Yaḥya ibn Yūsuf ibn ʿAbd ar-Raḥmān ibn Dschuzayy al-Kalbī al-Garnāṭī)が口述筆記をして、《色んな土地の珍しきことや旅の驚異を観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار Tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār)》を著しました。前者はネストリウス派のキリスト教会、後者はイスラム商人のネットワークが、極めて広範囲にわたり、網目のように張り巡らされていたことを伝えており、特に物品輸送や為替送金のシステムなど、商業のインフラが信頼の上に築き上げられていたことを今に伝えてくれます(佐口透《モンゴル帝国と西洋:東西文明の交流4》(平凡社,1970年)やイブン・バットゥータ述、イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳注《大旅行記》(東洋文庫,1996-2002年)で読むことができます)。

Charles Defrémery & Beniamino Raffaello Sanguinetti (1853-58). Voyages d'Ibn Batoutah, Paris Imprimerie Impériale.
Paul Bedjan (1895). Histoire de Mar Jab-Alaha, patriarche et de Raban Sauma, Leipzig: Otto Harrassowitz.

中世にはヨーロッパ全土で驚異すべき速度でロマネスク様式やゴシック様式にしても、トロバドゥールやミンネザンガーにしても、文化が遠くに伝わり、共有されてきたことが分かります。また、ユーラシア大陸全体としても、西欧社会と東洋社会において、西の果てのイベリア半島やブリテン諸島から、東の果ての中国や日本まで、連鎖的に古代から中世へと社会システムが変容したのは、イスラムの誕生と東西の知的交流が根底において関係しています。特に中世においては、イスラム教がコスモポリタンなネットワークを古代のオリエント、バビロニア、エジプト、ペルシア、ギリシア、ローマ、ソグド、インド、モンゴル、中国の西域に至るまで、様々な人種、様々な宗教、様々な社会、様々な思考、様々な芸術、様々な社会、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒、ゾロアスター教徒、マニ教徒、バラモン教徒、仏教徒などを取り込み、ウマイヤ朝やアッバース朝を作り上げて、交易、巡礼、学芸、文化の交流をしたことが伺われます。それらがイスラム勢力と地を接していたイベリア半島でキリスト教徒たちに受け継がれてきたことが分かります。われわれは文明社会と称する一連の生活環境や社会制度を当たり前のように受け入れていますが、実はそれを下支えとしている知的な活動は、時代や地域や宗教や社会を越えて、人類の歴史の上で間断なく続けられていること自体が奇跡です。そうした様々な時代の様々な工夫の蓄積として、日常生活や現代社会があります。

人間の歴史や文化の発生と変遷と継承は、大きな事件や英雄ではなく、小さな日常や生活の蓄積の総体が大きな出来事に代表されて表現されることが現実ですから、どんなに新しいその後に潮流となる思考様式やシステムも一人や数人から始まり、次第に賛同する人が増えて、少しずつ力を得て、社会を席巻してゆきます。例えば、ロマネスク様式(romanesque、古典学者(William Gunn, 1750-1841)の命名でローマ風romanescoの英訳、考古学者(Charles-Alexis-Adrien Duhérissier de Gerville, 1769-1853)が使用したフランス語romaneに相当)も、915-27年に建てられたフランス中部のクリュニー修道院(Abbatia Cluniacensis)など、いくつかの修道会のコネクション、巡礼路や交易路を通じて、ヨーロッパ全土に広がり、ゴシック様式(同時代人はopus Francigenum, opus modernumと呼称)も、1131-44年に建てられたイル=ド=フランスのサン=ドニの聖堂(Basilica cathedralis Sancti Dionysii)から、ヨーロッパのあらゆる都市に石工が派遣されて波及しました。例えば、ゴシック建築では飛梁(arc boutant)により、建物が垂直に立ち上がり高層化を可能にしました。

ヨーロッパの建築史において、ロマネスク様式以前は資料が少ないですが、西ゴート王国時代の教会建築は、ガリシア地方にある小さな単廊式の聖堂などに後継されて影響がみられることを実際に見て感じてきたり、東ローマ帝国のビザンツ様式などのバシリカの基礎部分も発掘により解明されてきており、考古学的、歴史学的な手法は、実地(現物)と記録(文献)の両方が補完して事実を詳細に理解できます。特に14世紀以前は、地球規模(ユーラシア大陸の東西)で人的交流(交易や移住)が活発に行われており、欧州全体が一体として緊密に関係しあい、現代の社会につながる制度や思考の根底を規定した時代であることが、特に都市の構造や建築、美術や著作など、当時の状況を伝える資料により如実に分かります。過去の人間の活動とその関係性や影響力を理解するには、同時代の資料で同時代の思考で同時代の人間になり捉えてゆくことに越したことはないです。

私の頭の中で起きていることを記憶や思考の過程を辿りながら反芻して書き出してみると、あらゆる言語、シュメール語、フルリ語、ウラルトゥ語、カッシート語、エジプト語、コプト語、アッカド語、エブラ語、フェニキア語、アラム語、ウガリット語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、ゲエズ語、アムハラ語、サイハド語、ソマリ語、トゥアレグ語、ハウサ語、ヒッタイト語、ルウィ語、リュキア語、リュディア語、カリア語、フリュギア語、サンスクリット、パーリ語、アヴェスタ語、古ペルシア語、バクトリア語、パフラヴィー語、古典ギリシア語、ミケーネ語、オスク語、ラテン語、イタリア語、モザラベ語、カスティーリャ語、ガリシア語、ポルトガル語、オック語、カタルーニャ語、フランス語、イベロ=ケルト語、ゴール語、古アイルランド語、古ウェールズ語、ゴート語、古ノルド語、アイスランド語、古英語、古フリジア語、古ザクセン語、古フランク語、古高ドイツ語、古スラヴ語、ロシア語、チェコ語、ポーランド語、古プロシア語、リトアニア語、ラトビア語、アルメニア語、アルバニア語、トカラ語、ミノア語、ラエティア語、エトルリア語、イベリア語、アクイタニア語、バスク語、グルジア語、スヴァン語、チェチェン語、アヴァル語、チェルケス語、アブハズ語、ハンガリー語、フィンランド語、古テュルク語 、古ウイグル語、タタール語、クマン語、チャガタイ語、オスマン語、モンゴル語、女真語、満州語、エヴェンキ語、ベトナム語、ムオン語、モン語、クメール語、タイ語、カダイ語、ミャオ語、ヤオ語、マレー語、ジャワ語、チャム語、バリ語、バタク語、マカッサル語、ブギス語、タガログ語、アタヤル語、パイワン語、ファボラン語、シラヤ語、ルカイ語、ツォウ語、タミル語、マラヤーラム語、カンナダ語、テルグ語、チベット語、ビルマ語、白語、彝語、ナシ語、西夏語、チアン語、トゥチャ語、タマン語、レプチャ語 、ネワール語、キランティ語、リンブー語、チェパン語、タニ語、メイテイ語、ボド語、ガロ語、ムル語、コニャック語、ピュー語、ジンポー語、クキ語、チン語、ミゾ語、ナガ語、アヌン語、タンクル語、カレン語、上古漢語、中古漢語、現代漢語(官話、晋語、呉語、贛語、湘語、閩語、客語、粤語)、朝鮮語、日本語、琉球語など、様々な言語で得た情報をメタ言語に変換して、論理や思考のパターンの構造全体を映像で蓄積しておくため、言語の特性に依存しない体験や思考をすることができます。

人類は好奇心や探究心から、ユニークな人間性が生まれます。他社や事物と深く関わり合うことにより、ダイナミックなネットワークを作り出して、自らの力を合わせて、自らの手で生み出してきましたから、音楽史、社会史、制度史、法制史、建築史、文学史、美術史、経済史、哲学史、精神史、学術史、出版史などの観点から、言語学、地名学、歴史学、考古学などにより、分析をすることにより、人類の歴史、社会、文化、学芸などの営みの流れを縦方向の時間軸にも、横方向の空間軸にも、包括的、横断的、相対的、絶対的、局所的、専門的に見識を拡げてゆけると考えております。また、最後の目的として、著作、建築、美術など作品の背景にある人間の考えや思いを読み解けます。

以上から、自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の足であるいたこと、自分の頭で考えたことなど、些細なことであるにしても記録を残すことは、後世に語り継がれることの第一前提であることが分かります。そして、単に個人的な趣味や興味ではなく、普遍的な価値や意義を具備する内容が記録として受け継がれてきたことも分かります。KF-Scholaでは、究極において、地球上における人類の歴史や文化、社会や言語を網目のように張り巡らされたネットワーク、人間のつながり、社会のつながり、農村のつながり、都市のつながり、地域のつながり、時代のつながり、交易のつながり、思考のつながりなど、人類の関係と影響を綿密に考察される総体として、特異で重要な事件だけを取り上げることをはるかに超えた現実に即した実態を知りたいという、好奇心や探究心により、人類のユニークな系譜を探究しようとするプロジェクトですから、巡礼や旅行は、人間のライフワークとして、極めて重要な位置を占めており、人生において極めて強い指針となると考えております。

Liber Sancti Jacobi [Santiago de Compostela, Archivo-Biblioteca de la Catedral de Santiago de Compostela, Codex Calixtinus, 4r]

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂所蔵《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》(1173年)

第1章〈使徒ヤコブの道について(De viis sancti Jacobi apostoli)〉

Quatuor viae sunt, quae ad sanctum Jacobum tendentes, in unum, ad Pontem Reginae, in oris Hispaniae coadunantur: alia per sanctum Aegidium et Montem Pessulanum et Tolosam et Portus Asperi tendit; alia per sanctam Mariam Podii el sanctam Fidem de Conquis et sanclum Petrum de Moyssaco incedit; alia per sanctam Mariam Magdalenam Viziliaci et sanctum Leonardum Lemovicensem et urbem Petragoricensem pergit; alia per sanctum Martinum Turonensem et sanctum Hilarium Piclavensem et sanctum Joannem Angeliacensem, et sanctum Putropium Sanctonensem et urbem Burdegalensem vadit. Illa quae per Sanctam Fidem, et alia quae per sanctum Leonardum, et alia quae per sanctum Marlinum tendit, ad Hostavallam coadunantur; et, transito portu Ciserae, ad Pontem Reginae sociantur viae quae per portus Asperi transit. Et una via exinde usque ad sanctum Jacobum efficitur.

四つの道がSantiago de Compostelaに至り、スペインのPuente la Reinaの近くで一つになる。一つ目はSaint-Gilles-du-Gard、Montpellier、Toulouse、Somport峠を通る。二つ目はLe Puy-Notre-Dame、Sainte-Foy de Conques、Saint-Pierre de Moissac、三つ目はSainte-Marie-Madeleine de Vézelay、Saint-Leonard de Limoges、Périgordを通る。四つ目はSaint-Martin de Tours、Saint-Pierre de Poitiers、Saint-Jean-d'Angély、Saint-Eutrope de Saintes、Bordeauxを通る。Saint-Foyの道、Saint-Leonardの道、Saint-Martinの道はOstabatの近くで合わさり、Cise峠(Ibañeta峠)を越えて、Puente la Reinaの近くでSomport峠を越えた道と合わさり、Santiago de Compostelaまで一つの道になる。

第2章〈聖ヤコブの道の路程について(De dietis itineris sancti Jacobi)〉

A portibus Asperi usque ad Pontem Reginae, tres paucae habentur dietse. Prima est a Borcia, quae est villa in pede montis Asperi, sitaadversus Gasconiam, usque ad Jaccam; secunda est a Jacca usque ad montem Reellum; tertia est a Monte Reello usque ad Pontem Reginae. A portibus vero Cisereis usque ad sanctum Jacobuni tredecim dietoe habentur. Prima est a villa sancti Michaelis, quae est in pede portuum Ciserae, versus scilicet Gasconiam, usque ad Biscaretum: et ipsa est parva. Secunda est a Biscareto usque ad Pampiloniam: et ipsa est pauca. Tertia est a Pampilonia urbe usque ad Stellam. Quarta est a Stella usque ad Nageram urbem, scilicet equitibus. Quinta est a Nagera usque ad urbem quae dicitur Burgas, similiter equitibus. Sexta est a Burgis usque ad Frumestam. Septima a Frumesta usque ad sanctum Facundum est. Octava est a sancto Facundo usque ad urbem Legionem. Nona est a Legione usque ad Raphanellum. Decima est a Raphanello usque ad Villamfrancam, scilicet in bucca Valhscarceris, transitis portibus montis Iraci. Undecima est a Villafranca usque ad Triacastellam, transitis portibus montis Februarii. Duodecima est a Triacaslella usque ad Palatium. Terdecima vero est a Palatio usque ad sanctum Jacobum: et ipsa modica est.

Somport峠からPuente la Reinaまで三日弱である。一日目はSomport峠の麓のGascogneにある町BorceからJaca、二日目はJacaからMontreal、三日目はMontrealからPuente la Reinaである。Cisa峠(Ibañeta峠)まで十三日である。一日目はCise峠(Ibañeta峠)の麓のGascogneにある町Saint-Michele-de-Cice (Saint- Jean-Pied-de-Port)からViscarret、二日目はViscarretからPamplonaまでは短くて、三日目はPamplonaからEstella、四日目はEstellaからNájeraの町まで、それは馬で行くときであり、五日目はNájeraからBurgosと呼ばれる町まで同じく馬で行くときであり、六日目はBurgosからFromista、七日目はFromistaからSahagún、八日目はSahagúnからLeónの町、九日目はLeónからRabanal del Camino、十日目はRabanal del CaminoからIrago峠を越え、Valcarce渓谷の入り口に当たるVillafranca del Bierzo、十一日目はVillafranca del BierzoからCebreiro峠を越え、Triacastela、十二日目はTriacastelaからPalas de Rei、十三日目はPalas de ReiからSantiago de Compostelaまで比較的短い。

第3章〈聖ヤコブの路程にある村々の名前について(De nominibus villarum sancti Jacobi itineris)〉(Papa Callixtus II > Pape Calixte II, c.1065-1124)

A portibus Asperi usque ad Pontem Reginae, hae villae in via Jacobitana habentur. Primitus est in pede montis, versus Gasconiam, Borcia; inde transito montis cacumine est hospitalis sanctae Christinae; inde Canfrancus; inde Jacca; inde Osturiz; inde Thermas, ubi regales balnei jugiter calidi habentur; inde Mons Reellus; inde Pons Reginae constat. A portibus vero Cisereis in beati Jacobi itinere usque ad eius basilicam Gallaecianam hae villae majores habentur. Primitus in pede eiusdem montis Ciserei, versus scilicet Gasconiam, est villa sancti Michaelis; deinde transito cacumine eiusdem montis reperitur hospitale Rotolandi; deinde villa Runcievallis; deinde reperitur Biscarellus; inde Resogna; inde urbs Pampilonia; inde Pons Reginse. Inde Stella, quae pane bono, et optimo vino, carne et piscibus fertilis est, cunctisque felicitatibus plena. Inde est Arcus; inde Grugnus; inde Villarubea; inde urbs Nagera; inde sanctus Dominicus; inde Radicellas; inde Belfuratus; inde Francavilla; inde nemus Oquae; inde Altaporca; inde urbs Burgas. Inde Alterdalia; inde Furnellos; inde Castrasorecia; inde pons Fiteriae; inde Frumesta; inde Carrionus, quae est villa habilis et optima, pane et vino carne et omni fertilitate felix. Inde est sanctus Facundus, omnibus fertilitatibus affluens, ubi est pratum, ubi haste fulgurantes victorum pugnatorum ad Domini laudem, infixae olim, fronduisse referuntur; inde est Manxilla; inde Legio, urbs regalis et curialis, cunctisque felicitatibus plena. Inde est Orbega; inde urbs Osturga; inde Raphanellus qui Captivus cognominatus est; inde portus montis Iraci; inde Sicca Molina; inde Ponsferratus; inde Carcavellus; inde Villafranca de bucca Valliscarceris. Inde castrum Sarracenicum; inde Villaus; inde portus montis Cebruarii inde hospitale in cacumine eiusdem montis; inde Linar de Rege; inde Triacastella, in pede scilicet eiusdem montis in Gallaecia, ubi peregrini accipiunt petram et secum deferunt usque ad Castaniollam ad faciendam calcem ad opus basilicae Apostolicae; inde est villa sancti Michaelis; inde Barbadellus; inde pons Mineae; inde Sala Reginae; inde Palatium Regis. Inde campus Levurarius; inde sanctus Jacobus de Boento; inde Castaniolla; inde Villanova; inde Ferreras; inde COMPOSTELLA apostolica, urbs excellentissima, cunctis deliciis plenissima, corporale talentum beati Jacobi habens in custodia; unde felicior et excelsior cunctis Hispaniae urbibus est approbata. Idcirco has villas et praefatas dietas praescriptione restrinxi pro exceptione, ut peregrini ad sanctum Jacobum proficiscentes expensas suo itineri necessarias sibi, haec audientes, praemeditari studeant.

Somport峠からPuente la Reinaまでのヤコブの道にはこれらの村々がある。第一にGascogneの方の麓のBorce、ここから山の頂を越えるとSainte-Christine救護所があり、Canfranc、Jaca、温泉がいつも湧いているTiermas、Montreal、Puente la Reinaに至る。Cise峠(Ibañeta峠)のGascogneの方の麓にある町Saint-Michele-de-Cice (Saint- Jean-Pied-de-Port)、山の頂を超えるとRolandの救護所があり、Roncesvalles渓谷に至る。また、Viscarret、Larrasoaña、Pamplonaの町、また、Puente la Reina、そして美味しいパンと最高の葡萄酒、肉と魚、あらゆる種類の幸で満たされているEstella、それからLos Arcos、Logroño、Villaroja (Navarrete)、Nájeraの町、Santo Domingo de la Calzada、Redecilla、Belorado、またVillafranca Montes de Oca、Atapuerca、Burgosの町、Tardajos、Hornillos del Camino、Castrojeriz、またPuente de Itero、Frómista、更にパン、葡萄酒、肉、あらゆる種類の幸が豊かで過ごしやすい素晴らしい町Carrión de los Condes、また、あらゆる幸に満たされているSahagún、ここの川岸に突き立てられた勝利の戦士の輝く槍の柄に神の誉れにより枝葉が生じたと伝えられている。また、Mansilla de las Mulasに至る。それから、王国の首都かつ文化の中心であり、あらゆる幸に満たされているLeónの町がある。そして、Hospital de Órbigo、Astorgaの町、(Rabanal de Viejoと区別して)小とされるRabanal del Camino、また、Irago峠、Molinaseca、Ponferrada、Cacabelos、Valcarce渓谷の入り口に当たるVillafranca del Bierzo、Castrosarracín、Villaus (Vega de Valcarce)、Cebreiro峠、その頂にある救護所(Hospedería de San Giraldo de Aurillac)、また、Liñares de Rei、ガリシアの山麓にあるTriacastelaである。ここで巡礼者は一つの石を受け取り、ヤコブの聖堂建設の石灰を作るためCastañedaまで運ぶ。次にSan Miguelの町(Montán)があり、またBarbadelo、Portomarín、Sala de la Reina (Ventas de Narón)、Palas de Rei、また、Leboreiro、Santiago de Boente、Castañeda、Villanova (Arzúa)、Ferreiros (Outeiro)に至る。そして、最も素晴らしいあらゆる喜びに満ちた使徒の町Compostela。ここには栄えある聖ヤコブのご聖体が安置されており、スペインの他のどんな都市よりも幸多く気高い。簡単にこれらの町々と途上について概略を述べたに過ぎないけれども、Santiagoへと向かう巡礼者がこれに従い、旅の経費を予め見積もれるように配慮をするためである。

Liber peregrinationis ad Compostellam (Codex Calixtinus, 192r)

2008年4月10日(木)1日目(Tokyo-Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

朝早くに家を出て、飛行機に乗り、フランスのParisに着いた。宿がある3区の広場(Place de la République)の周辺には、住宅と商店が並んでいて、地元の人が住んでいる様子がよく分かった。宿ではアルザス出身のフランス人とお話して、旅に関する情報を交換した。

今日、午前5時過ぎに起きて、午前6時55分に家を出た。家を出るとき、母が父と私に気を付けて行っていらっしゃいと見送りをしてくれた。午前7時25分発の成田空港行きのバスに乗り、午前10時40分に成田空港に着いた。午前11時に第1ターミナルでAir Franceのチェックインを行ってから少し時間があり、休憩所で身を休めて、搭乗へ向かった。搭乗を終えた飛行機は午後0時に成田空港を発った。

日本の東京-ロシアのウラジオストク(Владивосток)-ハバロフスク(Хабaровск)-イルクーツク(Иркутск)-ウラル山脈(Уральские горы)-フィンランドのヘルシンキ(Helsinki)-スウェーデンのストックホルム(Stockholm)を経て、デンマークのコペンハーゲン(København)-ドイツのハンブルク(Hamburg)-ケルン(Köln)を通った。大都市を中心に飛行してゆき印象的だった。

飛行機の中でスペイン語、フランス語、英語、イタリア語、ポルトガル語を自在に操るカタルーニャ人とずっと後ろで話した。日本に出張して滞在していたが、富士山の近くでお花見をして、美味しいお酒と食べ物を腹いっぱい食べれて感激したことが、日本でいい思い出になったと話していた。Barcelonaに帰るためにParisで飛行機を乗り継いでいく所だった。空港に降りる時にも、ゲートでまた会い、イタリア語で会話をして、「良い旅を(Buona fortuna !)」と言い合って別れた。

Parisの空港(Paris-Charles-de-Gaulle)には、午後5時25分に着いた。午後6時過ぎに空港を出るとRER(鉄道Réseau express régional d'Île-de-France)に乗って、北駅(Paris Gare du Nord)に行こうとしたら、切符の買い方が分からず戸惑って、学生2人を見つけ、地元の人と思い、フランス語で質問したら、流暢でないフランス語で英語らしい発音だった。英語に切り替えると、急に笑顔になり、イギリス人と分かり、英語で途端に話し出して答えが返ってきて驚いた。

電車の切符を購入する窓口を発見した。フランスでは外国人を見ると英語で話しかけてくることが多いが、券売所(guichet)の係員さんに「二枚のパリ行きの切符を下さい(Je voudrais deux billets vers Paris)」と注文すると、にこにこしてとても喜ばれて、フランス語で話しかけると親切にしてもらえることを実感した。

フランスの鉄道は、十分遅れが当たり前であり、実際にそれくらい遅れていた。ホームの高さが日本に比べて低いのに驚いた。また、車内の落書きがすさまじかった。車内のお喋りは初めて乗り合わせてくる人にも及んでいた。最近あったことや家族とどこに行ったなど、他愛ない話だったが、乗り合わせた初対面の人と楽しくおしゃべりしながら、電車に乗っていてフレンドリーに感じられた。

午後7時過ぎに北駅(Gare du Nord)に着いた。黒人が多い場所と白人が多い場所があり、棲み分けがはっきりとなされていて驚かされた。黒人の多い場所は、見るからに貧しそうな身なりをした人が多く歩いていて、白人の多い場所は、昔からあるような、所謂Parisの街並みに近い暮らしだった。

北駅は人通りがとても多くて、見るからに怪しそうな人や目つきの悪い人がうようよとおり、治安の悪さが肌でひしひしと感じられたので、早々に通り過ぎた。

地下鉄に乗り、三駅先の駅(République)で降りて、広場(Place de la République)から、通り(Rue du Faubourg du Temple)を進み、大通り(Boulevard Jules Ferry)と通り(Rue de la Folie Méricourt)に挟まれた宿(Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)に向かった。

このあたりの地域も治安が良くなさそうだが、広々とした通りに住宅や商店が立ち並んでいて、地元の人の暮らしが楽しめた。街を散策して戻ろうとしたとき、宿がある通りが見つからず、人に声をかけたら、地元の人がとても親切に対応してくれて感謝した。

午後8時頃に部屋に荷物を置いてから、宿の近くを散策すると、少し先の通り(Rue Beaurepaire)の食料品店(Leader Price)を発見して、ミモレットチーズ(Mimolette au lait pasteurisé)と炭酸飲料(Soda citron, Cola light)を買った。食料品が日本と比較にならないほど安く、レジで袋(sac en plastique)を買わなければならないのを知ってとても驚いた。

レジ係りの人が外国人に容赦なく、早口のフランス語で来られたが、何を言いたいのか分かり、「籠を戻していただけませんか(Pourriez-vous me retourner le panier)」ということだった。

清算をしているとき、今日ここに着いたんだと話すと、「良い旅を(Bon voyage !)」と優しく声をかけてくれて、良い旅の始まりになりそうだった。Parisのフランス語はとても早口で刺激的だった。

宿に戻るとフランス人やドイツ人と同じ部屋になり、皆Parisについたばかりで良い人たちばかりだった。色んな情報を交換し合い旅ができて面白かった。夜はフランス語しか話せない人を探して話をした。彼は北西のAlsace出身でStrasbourgのお話などをきかせてくれた。名前がAlbertだったので、フランス人なのにドイツ人みたいな名前でアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)も、シュヴァイツァ(Albert Schweitzer, 1875-1965)も、同じ名前だねと言うと、とても喜んで大笑いしていた。

(特にシュヴァイツァはAlsace出身であり、彼の名は、古英語Æþelbeorht、ラテン語Albertus、ノルマン=フランス語Albertに当たり、西ゲルマン祖語*Aþalberhtに遡り、ゲルマン祖語「高貴な」*aþalaz + 「光栄な」*berhtazと分析され、印欧祖語「家族」*at-al(< 「過ぎる」*at(i)、もしくは「父」*átta)+ 接尾辞(形容詞化)*-tós + 「育つ」*h₂el- +「輝き」*bʰerHǵ- + 接尾辞(形容詞化)*-tósまで分析される名前である。古英語æþeleからEthel、古高ドイツ語adalからAdelなどの人名になり、古英語beorht(英語bright)やケルト祖語*berxtos(ウェールズ語berth)と同根である。

ドイツ南部Schwabenで生まれ、13世紀にParisやKölnでアリストテレスを西洋に定着させて、スコラ学を発展させた哲学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, c.1200年頃 - 1280)を思い起こさせる。フランス語の基層は、少なくとも、ラテン語(ロマンス語)、ケルト語(ゴール語)、ゲルマン語(フランク語、ノルマン語)などが、古い時代に混ざり合い、成り立つために言語、地名、人名を分析することは、民族の定住、移動、発展を考える上で欠かせないことであると考えられる。

通常はl'habitant (< habiter < habitāre < habitō), l'homme (< home, hom < homō, hominem), l'humain (< humain, umain < hūmānus < homō), l'histoire (< historia < ἱστορία)など、無音のh(h muet)だが、la hâte (< haste < *hai(f)st < *haifstiz), la haie (< haye < *haggju < *hagjō), la hache (*happja < *hapjō, *habjō), la halte (< halten < *haldan < *haldaną)など有音のh(h aspiré)はゲルマン語派のフランク語や高ドイツ語から、古い時代(古フランス語、中フランス語)に借用された語彙が多い。フランス語の辞書には、有音のh(h aspiré)にはダガー(†)やアスタリスク(*)が書かれている。)

Parisは前250年頃にケルト系部族のパリシイ族(Parisii < Παρίσιοι / Parísioi)の集落から始まり、Saine川のシテ島(Île de la Cité)とされていたが、郊外のナンテール(Nanterre)に居住していた(ゴール語「釜」*parios < ケルト祖語 *kʷaryos < 印欧祖語*kʷr̥-yos < 「作る」*kʷer-が語源)。

紀元前52年にカエサル(Gaius Iulius Caesar, 100-44 a.C.n.) によるローマ帝国のガリア侵攻(Bellum Gallicum)で陥落、アルウェルニ族(Arverni)のウェルキンゲトリクス(Vercingetorix, 72-46 a.C.n.)が反抗したが鎮圧された。《ガリア戦記(Commentarii de Bello Gallico)》に顛末が書かれた。

パリのシテ島とサント・ジュヌヴィエーヴ(Sainte-Geneviève)の丘は、セーヌ川が流れているためぬかるんだ土地であったため、ラテン語「泥(lutum)」から、パリシイ族(Parisii)の沼沢地(Lutetiam Oppidum Parisiorum)と呼ばれて、ローマ人が入植して定住地を作り、212年にParisと呼ばれるようになった。307年に建てられた道標に都市名(Civitas Parisiorum)が書かれた。

451年にフン族アッティラ王(Attila, 406-453)に侵略されそうになり、464年にフランク王キルデリク1世(Childericus, c.435-482)により攻撃され、 506年に子のクローヴィス1世(Clovis I, 466- 511)が、Parisをメロヴィング朝(Mérovingiens)フランク王国(Regnum Francorum)の首都とした。

751年にカロリング朝(Carolingiens)のピピン3世(Pippin III, 714-768)が即位して、子のカール大帝(Charlemagne, 748-814)は、神聖ローマ帝国(Sacrum Romanum Imperium)の首都をAachenに移した。885年にヴァイキングが来襲、アンジュー伯ロベール(Robert le Fort, c. 830-866)と子のパリ伯ウード1世(Eudes, 852-898)に救援を要請して、ヴァイキングによる包囲攻撃から防衛して、西フランク王シャルル3世(Charles III, 879-929)と帝国の共同統治者となった。アボ・ケルヌウス(Abbo Cernuus)が《美しいパリ市について(De bellis Parisiacæ urbis)》でその顛末を書いた。

987年に大甥のユーグ・カペー(Hugues Capet, c.940-996)が、 フランス(France)の語源となったフランク人の地(Francia)の王に選ばれ、カペー朝(Capétiens)を創始して、 Parisを首都とした。

1163年にシテ島にノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)が建造され、政治、商業、学術、文化の中心となった。南フランスのLimogesやAquitaineなどで反映していた伝統を引き継ぎ、多声音楽オルガヌム(organum)を発展させ、ノートルダム楽派(École de Notre-Dame)が繁栄して、サン・ヴィクトールのアダン(Adamus Sancti Victoris / Adam de St.Victor, c. 1075-1146)、パリのアルベルトゥス(Albertus Parisiensis / Albert de Paris, c.1100-1177)、レオニヌス(Leoninus / Léonin, c.1125-1201)、ペロティヌス(Perotinus / Pérotin, c.1160-1238)などが活躍した。

11世紀半ばにパリ大学(Universitas magistrorum et scholarium Parisiensis、Université de Paris)が、ノートルダム大聖堂の教師組合のような状態から始まり、例えば、ピエール・アベラール(Pierre Abélard, 1079-1142)やペトルス・ロンバルドゥス(Petrus Lombardus, c.1100-1160)など、有能な神学や論理学の教師の許に学生が集まりだして始まり、1200年1月15日にフィリップ2世(Philippe II, 1165-1223)により大学として認識され、1211年にローマ教皇インノケンティウス3世(Innocentius III, 1161-1216)の勅書により、法的に大学(studium generale)として認可した。ボローニャ大学(Universitas Bononiensis、Università di Bologna)と同じくらい古い大学となった。

イスラム世界からヨーロッパ世界へといくつかのルートで学問探究の移入と継承がなされ、12世紀のスペインやビザンツで大量のギリシアやアラビアの哲学や科学の文献が翻訳された刺激により、シャルトル学派などが発達して、修道院や大聖堂に集結した知の集団が集まり始め、それらが国王や教皇の権威により追認された流れが自然であると考えられる。ドイツ人(ケルン)のアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, c.1200-1280)やイタリア人(シチリア王国)のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)などヨーロッパ各地と知の交流をした。

オックスフォード大学(Universitas Oxoniensis, University of Oxford)は、1167年にヘンリー2世が、パリ大学でイギリス人が学ぶことを禁じたことにより設立され、1209年にケンブリッジ大学(University of Cambridge, Universitas Cantabrigiensis)が分かれたため、イングランドの学術の活動にも影響を与えた。 ロジャー・ベーコン(Roger Bacon, 1214-1294)はオックスフォード大学とパリ大学で学んだ。ところで、ジャン・ビュリダン(Johannes Buridanus, Jean Buridan, c.1295-1358)はインペトゥス理論を古代ギリシアのピロポノスやイスラム哲学者イブン=スィーナーから受け継いで展開して、ニコル・オレーム(Nicolas Oresme, 1323-1382)が発達させた。

Parisの科学アカデミー(Académie française)とマザラン図書館(La bibliothèque Mazarine)

2008年4月11日(金)2日目(Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

Parisの古くからある中心地区をくまなく歩き回り、様々な地区の特色を見た。クープラン家がオルガニストを務めた教会(Église Saint-Gervais-Saint-Protais)、ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)、ヴォルテール(François-Marie Arouet, dit Voltaire, 1694-1778)が亡くなった邸宅(Hôtel de Villette)、 19世紀に建てられたゴシック様式の聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère) などを見たり、不思議のメダイ教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)、 パリ造幣局(Monnaie de Paris) 、ピカソ美術館 (Musée National Picasso)を訪れた。国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France)でフランスの外交文書を見れたり、モーツァルトが演奏した邸宅(Hôtel de Soubise-Clisson)の部屋を訪れるなど、美しい街並みや歴史的建造物を楽しめた。

今日、朝早く起きた。やはり、大きな時差があり、眠れなかった。更に慣れない環境にも、まだ十分に対応していないことが、原因であると思われるが、今日一日は大きな収穫のある一日であった。今日は、朝食の前に午前5時半から計画を練り、大きな歩き旅を行おうとした。

午前7時に始まった朝食を食べ終わった後早速荷の準備をして、午前8時少し過ぎに宿を後に行き先までの徒歩を試みた。1830年に聖母マリアが聖カトリーヌ・ラブレ(Catherine Labouré, 1806-1876)に現れたと伝えられる不思議のメダイ教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)である。その徒歩の旅が思いがけない思い出を残してくれることは思いもしなかった。

最大の収穫は宿泊している地域がいかに雑多に文化が交わりあう場所であると知ったことである。宿泊する地域から出て行くと道路を境にして、全く異なる雰囲気を醸していた。都市を多様にしていて、様々な刺激が混じり合い、新しい発想が生み出され、面白い文化の都とすると思った。

広場(Place de la République)から、ホテルやレストランや商店や住宅が立ち並んだいくつかの通り(Rue de Turbigo, Église Saint-Nicolas-des-Champs, Rue Beaubourg, Rue Chapon, Rue du Temple, Rue de Braque, Rue des Archives)を進み、小さな商店が立ち並んだ治安が悪そうな地域を過ぎると、突然美しい邸宅(Hôtel de Soubise-Clisson)や住宅地が現れて意表をつかれた(国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France) の裏手に出た)。Parisのエスカルゴ型構造に由来しているかもしれない。街を歩くと成り立ちが手に取るように分かり面白かった。

4区の道路(Rue de Lobau)から広場(Place Saint-Gervais)に至ると、387年にバシリカが建てられ、1494年に現在の建物の基礎が作られ、1616年に建て替えられた由緒ある美しい教会(Église Saint-Gervais-Saint-Protais)があった。1653年からルイ・クープラン(Louis Couperin, 1626-1661)や大クープラン(François Couperin, 1668-1733)がオルガニストを務めた由緒ある教会である。(1918年に第一次世界大戦でドイツ軍の爆撃を受けて破壊されたが、クリコー家(Robert Clicquot, 1645-1719)が建造した当時のオルガンは無傷だった。)

1357年と1533年に建てられた市庁舎(Hôtel de Ville)、1789年に建てられた市庁舎の別館(Mairie de Paris)が建っていた。高級住宅地を進むと官庁街が見えてきた。そこにはSeine川が流れていて、美しい景色だった。大量の警備用の柵があり、北京オリンピックの聖火が通ったようだった。

大通り(Quai de l'Hôtel de ville)に出ると、通り(Rue de Lobau)との交差点でSaine川が流れる向こうにノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の(2019年の火災で焼失した)尖塔が、病院(Hôpital Hôtel-Dieu AP-HP)の後ろから、空に突き出ているのが見えた。警察が馬に乗ってパトロールをしていて、街並みととても似合っていた。

西に少し進むと対岸の美しい病院(Hôpital Hôtel-Dieu)と鉄橋(Pont d'Arcole)が見えてきて、1357年に建てられて、1533年にフランソワ1世(François I, 1494-1547)により建て替えられた市庁舎(Hôtel de Ville de Paris)に「パリは世界の人権を擁護する(Paris defend les droits de l'homme partout dans le monde.)」と標語が掲げられていた。

市立劇場(Théâtre de la Ville)の前にある橋 (Pont Notre-Dame)を裁判所(Conférence Générale des Juges Consulaires de France)と6世紀から歴代の王により使われ続けた由緒がある(現在の建物は1622年に再建された)宮殿(Palais de la Cité)を遠目に見ながら、Cité島へ渡り、警察(Préfecture de Police)を見てから、Seine川の北岸の道(Quai de la Corse)から階段を降りて、立派な石橋(Pont au Change)や対岸の建物(Théâtre du Châtelet)を望むことができた。

司法宮(Palais de Justice)の建物には、フランス革命の標語「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」が書かれていた。通り(Quai de la Corse)から橋(Pont au Change)を望んで父と写真を撮ってもらい、1239年にルイ9世(Louis IX, 1214-1270)により建てられた聖なる礼拝堂(Sainte-Chapelle)の脇にある宮殿(Palais de la Cité)の時計(La Conciergerie Horloge)には、ラテン語碑文(Machina quae bis sex tam juste dividit horas, justitiam servare monet legesque tueri.)があった。

そして、Seine川沿いに通り(Quai de l'Horloge)を歩いて行くと、1791年に建てられた破毀院・最高裁判所(Cour de cassation)があり、美しい歴史的なメダイ屋さん(Médailles Canale)、古本屋さん(Librairie du Palais)、骨董屋さん(Antiquites)などが立ち並んでいた。

広場(Place du Pont Neuf)を通り、1578年に架けられて、現存最古の橋だが「新橋(Pont Neuf)」という名前の橋を渡り、橋の真ん中のたまり場から、デパート(La Samaritaine)やアンリ4世の騎馬像(Statue équestre d'Henri IV)を望みながら、北の橋を散策してから、南橋で対岸の南側に渡った。

Seine川の川岸の道(Quai de Conti, Quai Malaquais, Quai Voltaire, Quai Anatole France)には、大量の大きな緑の箱が並んでいて、何かと思ったが、露天と後に分かった。ルーヴル美術館(Musée du Louvre)を対岸に見ながら 、864年に西フランク王シャルル2世(Charles II, 823-877)が設立して、1767-75年にジャック・ドニ・アントワーヌ(Jacques Denis Antoine, 1733-1801)により建てられたパリ造幣局(Monnaie de Paris)、著名な数学者・哲学者・社会学者・政治学者のコンドルセ侯爵像(Statue du Marquis de Condorcet)、1635年にルイ13世(Louis XII, 1601-1643)がフランス語の文法整備のために設立したフランス学士院 (Académie française)、マザラン図書館(La bibliothèque Mazarine)、国立高等美術学校(Palais des Beaux-Arts)の前の橋(Pont des Arts)から両岸を眺めて、1635年に建てられた邸宅(Hôtel de Chimay)、1768年に建てられた邸宅(Hôtel de Tessé)、1663年に建てられた邸宅(Hôtel Pioust de Saint-Gilles)、 1636年に建てられ、ヴォルテール(François-Marie Arouet, dit Voltaire, 1694-1778)が亡くなった邸宅(Hôtel de Villette)を過ぎて、オルセー美術館(Musée d'Orsay)は、既に開館していたが、先に不思議なメダイ教会に向かった。

レジオンドヌール博物館(Musée national de la Légion d'honneur et des ordres de chevalerie)がある邸宅(Hôtel de Salm)との間の小道(Rue de la Légion d'Honneur)を進み、レストランが立ち並んだ商店街(Rue de Bellechasse)を歩いて、右の通り(Rue las Cases)に入ると、1846-57年に新ゴシック様式で建てられた聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère)の美しい塔が見えてきた。

Parisの聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère)

聖堂の前の広場(Square Samuel Rousseau)で少し休憩してから、少し西に来過ぎたので、いくつかの道(Rue de Martignac, Rue de Grenelle, Rue de Berllechasse, Rue Vaneau, Rue de Babylone)を行くと庭園(Jardin Catherine-Labouré)があり、近いと確信したが、目的の通り(Rue du Bac)を見つからず、Parisの市街全図が大雑把に描かれていたため、道を歩く人に尋ねながら、教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)に着いた。ヨーロッパの教会には出口に物乞いの人がいた。

教会の中には美しいマリア様出現のレリーフがあり説明があった。教会堂の中は青を基調とした美しく明るい雰囲気があり、マリア様の恩寵で満たされている感じがした。

右側には大蛇を踏み潰したマリア様が、地球の上に乗り、左側にはカトリーヌ・ラヴレー(Catherine Labouré, 1806-1876)の不朽体の入った棺とマリア様が出現した時の図があった。

今さっき死んだように横たわり、とても不思議なことが、目の前にあると思うとても感激した。メダイ(Médaille Miraculeuse argentée Pichard-Balme)とロザリオとマリア様の栞二つを貰った。

日本人の修道女がいて、とても丁寧に接して下さり、出て行こうとすると、フランス人の修道女に呼び止められて話をした。30年も日本の神戸に住んでいたと聞いてとても驚いた。「御免下さい」というとても上品な丁重な言葉遣いで素晴らしかった。レリーフの写真を撮っていいですかと聞いたら、もちろんですが、きれいな写真がお店に売っていますから、ちょっと待ってて下さいと、直に戻ってきて、説明のカードを下さった。神戸に住んでいたときやParisの修道生活に関するお話を聞いて、とても印象深い体験となった。そして、マリア様のレリーフの前で写真を撮って教会を後にした。

それから、商店やレストランが立ち並んだ路地(Rue du Bac)を通り、北に向かい7区から6区を歩いていると、沢山のアトリエ、美術書専門店、古本屋、骨董店があり美しかった。

帰りにオルセー美術館(Musée d'Orsay)を通り過ぎて行くと、Bonjour!とすれ違いに言われて驚いたり、物乞いがいたり、画家が絵を売っていたり、多くの人が行きかっていた。

Seine川沿いに行きに来た道(Quai Voltaire, Quai Malaquais, Quai de Conti)を歩き、パリ造幣局(Monnaie de Paris)の貨幣博物館に行った。古代ローマの貨幣製造用具、カロリング朝・メロヴィング朝・中世・近代など、様々な種類の貨幣が一堂に展示されていて、とても興味深かった。

それから、いくつかの通り(Rue Guénégaud, Rue Jacques Callo, Rue de Saine, Rue Jacob)を歩いて、558年にパリ王キルデベルト1世(Childebert I, 496-558)が創建して、司教ゲルマヌス(Germanus, 496-576)に献呈され、1606年に現在の形に立て直された由緒ある教会(Église de Saint Germain des Prés)と1646年にルイ13世(Louis XIII, 1601-1643)の王妃アンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche, 1601-1666)により建てられたサン=シュルピス教会(Église Saint-Sulpice)の建築を見た。現代制作中の所もあった。教会を出るとメダイが美しく置いてあり、献金して一つを頂くと、日本人ですかとたずねられて案内をくれた。来訪者がなくじっくりと見ることができた。

修復が行われており、解説が興味深かった。第一段がドリア式列柱、第二段がイオニア式、第三段がコリント式が、一つの教会の中にまとめられていてものすごい構造だった。それから大通り(Rue Bonaparte)を北に進み、Saine川まで出て、橋(Pont des Arts)からシテ島(Île de la Cité)を望んだ。先端から見ると戦艦のように見え、新橋(Pont Neuf)が両岸から架けられていて美しかった。

橋(Pont des Arts)を渡り切り、北側から新橋(Pont Neuf)を渡り、シテ島(Île de la Cité)に戻った。通り(Quai de l'Horloge)からの橋(Pont au Change)は美しく、後ろにパリ市立劇場(Théâtre de la Ville)が見え、更にサン・ジャックの塔(Tour Saint-Jacques)と重なり美しい眺めだった。Saine川には荷物を運ぶ船が行き来していた。

朝にも通った司法宮(Palais de Justice)の正門や聖なる礼拝堂(Sainte-Chapelle)を通り、シテ島(Île de la Cité)の真ん中の道(Rue de Lutèce)を通り、広場(Parvis Notre Dame)に出て、ローマのジュピター神殿の跡にキルデベルト1世(Childebert I, 496-558)により建てられたバシリカ(Basilique Saint-Étienne de Paris)の隣に1163-1225年に司教モーリス・ド・シュリー(Maurice de Sully, c. 1120-1196)により建てられたノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の外観を見た。聖人たちの像が彫られた柱が面白かった。この時間になると人が多く出て来て、通りがいっぱいになり歩きづらかった。交差点(Rue d'Arcol, Quai de la Corse)で偶然に友人と出くわした人がいて、お互いにとても興奮して「元気?(Ça va?)」と声を掛け合っていた。

北側に橋(Pont d'Arcole)を渡り、広場(Parvis de l'Hôtel de Ville)を過ぎ、通り(Rue du Renard)に面したMcDonald’sで昼食をとった。日本人が一人も入ってこなかった。

パンは日本よりも、パサパサしていてレタスの量が少なかった。二階で食べてから、Parisの市街にはトイレがないために用を出してから一息ついて出かけた。Parisの人たちはMcDonald’sの店員さんが客とフレンドリーに話したり、通行人は二人組以上で必ず話していた。

北へいくつか道(Rue de Rivoli, Rue des Archives)を通り、国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France)に行った。1371年に作られて、1705年に建築家ドラメール(Pierre-Alexis Delamair, 1676-1745)が立て直したオテル・ド・スビース(Hôtel de Soubise)の建物が使われていた。フランスを代表する歴史的文書が一堂に展示されていてとても興味深かった。

中世の公文書やジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc, 1412-1431)の処刑に関する文書、1791年憲法(Constitution de 1791)の草案、1289年にイルハン朝アルグン汗(ارغون خان / Arġun, 1258-1291)がラッバーン・バール・サウマ(ܪܒܢ ܒܪ ܨܘܡܐ / Rabban Bar Ṣawma, c. 1220-1294)をフランス王フィリップ4世(Philippe IV, 1268-1314)に遣わした文書、1305年のイルハン朝オルジェイトゥ汗(اولجايتو خان / Öljaitü, 1280-1316)の手紙とそのブスカレッロ(Buscarello de Ghizolfi)による翻訳、1402年にアンカラでオスマン帝国のバヤズィト1世(بايزيد / Beyazıt, 1360-1403)に勝利したティムール(تيمور‎ / Tīmūr, 1336-1405)がフランス王シャルル6世(Charles VI, 1368-1422)に充てた書簡、オスマン・トルコの太守(پاشا‎ / paşa < 「頭」باش / baş < テュルク祖語*baĺč + 「主」آغا / ağa < テュルク祖語「年長者」*ākaが語源)やペルシアの国王(شاه / shāh < 中世ペルシア語𐭬𐭫𐭪𐭠‎ / šāh < 古ペルシア語𐏋 / xšāyaθiya < インド=イラン祖語*kšáyati < 印欧祖語 *tk-éy-ti < 「取る」*tek-が語源)からの手紙など盛り沢山の内容であった。1526-36年にオスマン帝国のスルターン・スレイマン1世(سليمان / Süleyman I, 1464-1566)から数次にわたり条約を締結するため、フランス王フランソワ1世(François I, 1494-1547)に発信された書簡にある署名は美しかった。特に外交文書は興味深く見入った。

奥の部屋に行くと、チェンバロ(clavecin)やフォルテピアノ(forte-piano)、ルイ15世(Louis XV, 1710-1774)が使用していた机などが「王子の館」にあり、当時の生活が偲ばれた。

更に奥にはギリシア神話を主題にした彫刻が天井にあり、美術館の学芸員がこの部屋でモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)が演奏したと述べていた。

フランス語の発音でモザール/mɔ.zaʁ/と言うので、誰かと聞き返すと、ドイツの作曲家(le compositeur allemand)というので、なるほど、モーツァルトの事かと分かった!不意打ちで来たので、直ぐに固有名詞が分からなかったが、最愛の音楽家がここにも来ていたのかと感慨深かった。

中高ドイツ語「沼」mos < 西ゲルマン祖語「苔」*mos < ゲルマン祖語*musą < 印欧祖語*mus-o-m < *mews- + 接尾辞「奴」-hart < 西ゲルマン祖語「ひどい」*hard(ī) < ゲルマン祖語「硬い」*harduz < 印欧祖語*kort-ús < 「強い」*kret-が付いた「泥んこの奴」語源で、14世紀からBayern地方でMozahrt, Motzart, Motzhart, Motzhardt, Mutzhart, Muzert, Motzetと記録された。

1763年に近くの通り(Rue François Miron)にある邸宅(Hôtel de Beauvais)にバイエルン公国の大使館があり、伯爵(Maximilian Emanuel Franz van Eyck, 1743-1830)の邸宅に父と姉と滞在した記録があるから、幼少期の一回目のParis滞在の際に訪れたと考えた。

当時の広報新聞(L'Avantcoureur : feuille hebdomadaire, où sont annoncés les objets particuliers des sciences & des arts, le cours & les nouveautés des spectacles, & les livres nouveaux en tout genre)にも、モーツァルト一家について、イングランドに向かう前日(1764年4月9日)に書かれた貴重な記録があり、Parisで定宿としていたこの邸宅(Hôtel de Beauvais)からLondonへ発ったことが分かる。

LES SONATES pour le clavessin, dédiées à madame VICTOIRE DE FRANCE, & composées par le petit Virtuose de sept ans, J. G. Wolfgang Mozart, dont nous avons eu occasion de parler dans notre Feuille du 5 Mars, se trouvent chez l’auteur, à l’hôtel de Beauvais, rue S. Antoine; chez le Portier d’une maison, rue neuve de Luxembourg, la troisiéme porte à gauche en entrant par la rue S. Honoré & aux adresses ordinaires de musique. 4 liv. 4 sols.

Ce même enfant extraordinaire vient de publier deux autres Sonates de sa composition dédiées à madame la comtesse de Tessé, dame de madame la DAUPHINE. On trouve cette nouvelle production aux mêmes adresses, & le succès de ces premières Sonates prévient en faveur des autres.

1764年2月22日にレオポルド(Leopold Mozart, 1719-1787)は市庁舎(Hôtel de Ville / Place de Grève)についても、Parisを訪れた人は必ず立ち寄るとよいと書き残した。

1762年6月16日にSalzburgにMetuetto II、1763年10月14日にBrusselsでAllegro, Andanteが作曲され、1764年4月9日にParisで《クラヴサン・ソナタ集(Sonates, pour le clavecin, qui peuvent se jouer avec l'accompagnement de violon, Œuvre premiere)》として出版され、 ルイ15世(Louis XV, 1710-1774)の娘ヴィクトワール(Victoire de France, 1733-1799)に献呈されたKV 6を思い出した。

特にチャーミングで《ナンネルの楽譜帳(Nannerl Notenbuch)》にも書き込まれていたことから、モーツァルト一家のお気に入りでもあったことが伺われる。

国立公文書館の二階には、始め小学生の社会見学するための子供たちがいたが、既に退館して、フランスの近代画家の特別展を少ない来館者と共に見ることができた。

庭園(Jardin des Archives nationales)から、小道(Rue des Francs Bourgeois, Rue Payenne)で多少迷いながらも、庭園(Square Georges Cain)で一休みして、路地(Rue du Parc Royal, Rue de Thorigny)を進み、近くの1656年に建てられた邸宅(Hôtel Salé)にあるピカソ美術館 (Musée National Picasso) に行った。平日にもかかわらず、沢山の来館者がいて、家族、恋人、友達たちと来ていて、芸術が生活に浸透しているのを実感した。ピカソの若い頃の作品を中心として沢山あり、素晴らしいと感じたのは、ほんの一部であったが楽しい一日を過ごせた。

帰りに近くの1826-35年に建てられたギリシア建築による教会(Église Saint-Denys-du-Saint-Sacrement)の美しい柱とフリーズ彫刻を見てから、 大通り(Rue de Turenne)を南に行き、道に少し迷いながらも、美しい公園(Place des Vosges)に出た。沢山の市民がくつろいでいて、憩いの場となっていた。そこから、路地(Rue du Pas de la Mule)を行き、大通り(Boulevard Beaumarchais)を歩いて、バスティーユ広場(Place de la Bastille)に出て、中央が公園になっていた。

大通り(Boulevard Beaumarchais, Boulevard Temple)を進み、広場(Place de la République)に戻って来た。1240年にテンプル騎士団が要塞を築き、北にタンプル塔(Tour du Temple)があり、タンプル地区 (Quartier du Temple)と呼ばれていたが、今はマレ地区(Le Marais)と呼ばれており、有名なヴィオール奏者マラン・マレ(Marin Marais, 1656-1728)の先祖が住んでいたかもしれないと感じた。(中世フランス語「沼地」marais < 古フランス語mareis < 古フランク語「湖らしい」marisk <「海」mari < ゲルマン祖語*mari < 印欧祖語*móri + 接尾辞*-isk < ゲルマン祖語*-iskaz < 印欧祖語*-iskosが語源でラテン語「海」mare < イタリック祖語*mariやサンスクリット「岸」मर्यादा / maryā́dā < インド=イラン祖語*maryáHdaHと関連)

Parisは全然車やバイクが止められるように駐車場が設計されておらず、通りに駐車スペースがあった。昨日と同じ通り(Rue Beaurepaire)の食料品店(Leader Price)で食べ物を買って宿に戻った。大きなミモレット・チーズ(Mimolette)とコーラ(Cola)とレモンソーダ(Limonade)など炭酸飲料を買った。宿に着いてから、早くベットを確保した後、食事を取り、寛いでいたら、話好きなイギリス人Andyと気が合った。様々な話題、言語学や自然言語の把握においてその不完全性、文化や習慣について話をして、日記を書いてから、午後10時過ぎに寝た。

Parisの司法宮(Le Palais de Justice)に書かれた標語「自由、平等、友愛(LIBERTÉ · EGALITÉ · FRATERNITÉ)」
Wolfgang Amadeus Mozart (1764). Sonates, pour le clavecin, qui peuvent se jouer avec l'accompagnement de violon.
フランス王女ヴィクトワール(Madame Victoire de France, 1732-1799)への献呈文

À Madame Victoire de France

Madame ! Les essais que je met à vos pieds, sont sans doute médiocres ; mais lorsque Votre bonté me permet de les parer de votre Auguste nom, le succès n'en est plus douteux, et le Public ne peut manquer d'indulgence pour un Auteur de sept ans qui paroit sous Vos auspices.

Je voudrois, Madame, que la langue de la Musique fût celle de la reconnaissance ; je serois moins embarassé de parler de l'impression que vos bienfaits ont laissée dans mon cœur.

J'en remporterai le souvenir dans mon pays ; et tant que la Nature qui m'a fait Musicien comme elle fait les ressignols, m'inspirera, le nom de Victoire restera gravé dans ma mémoire avec les traits ineffeçables qu'il porte dans le cœur de tous les François.

Je suis avec le plus profond respect,

Madame,

Votre très humble, très obéissant et très petit Serviteur,
J. G. Wolfgang Mozart

ヴィクトワール・フランス王女へ

王女さま!私があなたの足下に献げます試みは凡庸でしょうが、あなたのご寵愛により、私がこれらの音楽作品をあなたの令名で飾りますことが許されるなら、これらの作品の成功は疑いなく、また、聴衆はあなたの庇護のもとに現れました七歳の作者に寛大に接するでしょう。

王女さま、音楽の言葉は感謝の言葉であることを望みます。あなたのお恵みが私の心に残りましたことをお話しすることが当惑が少ないでしょう。

私はそうした思い出を私の国へ持ち帰ります。そして、鶯が作られたよう、私を音楽家とした自然が、私に霊感を吹き込む限り、ヴィクトワールの令名は、この令名が全てのフランス人の心に刻まれて忘れられないよう、私の記憶の中に刻まれて残るでしょう。

深々とした敬意を以て

王女さま

あなたさまのいとも賤しく、いとも従順にして、またいとも小さき僕
J. G.ヴォルフガング・モーツァルト

2008年4月12日(土)3日目(Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

オルセー美術館(Musée d'Orsay)で聖セシリアがスピネットかクラヴィコードを弾く絵画が美しく気に入った。 モーツァルトが交響曲第31番「パリ」(KV 297/300a)を初演した宮殿(Palais des Tuileries)があった庭園(Jardin des Tuileries)を臨んだり、地下鉄の中でジャズの演奏をしていて楽しかった。モンマルトル(Montmartre)の丘からParis市街を臨み、バシリカ(Basilique du Sacré-Cœur)やダリ美術館(Dalí Paris)を訪れたり、ユースホステルでイギリス人とアカデミックな話をしたり、皆で夕食を食べながら、情報交換ができて、とても盛り上がった。

午前7時に食事をとった。内容は昨日と同様に、リンゴとバナナをすり潰したもの、パンと紅茶だった。朝食の部屋の前で待っていると、昨日に美しい英語を話していた人がヘブライ語を話していて、昨日にMarais地区で見つけたユダヤ歴史美術館(Musée d'art et d'histoire du Judaïsme)を思い出して行きたかったが時間がなかった。特にユダヤ人が多く、沢山シナゴーグがあって驚いた。

荷物を整理して、ロッカ-に入れた後、オルセー美術館(Musée d'Orsay)が混みあう前にたどり着きたかったため、事前に最短ルートを研究しておき、スムースに宿から歩いて行くことができた。

共和国広場(Place de la République)から、大通り(Rue de Turbigo, Boulevard de Sébastopol)を経て、広場(Place du Châtelet)にある中世の塔(Tour Saint Jacques)の横を通り、Saine川に出て、橋(Pont au Change)を渡り、サント・シャペル (Sainte-Chapelle)を右側に見ながら、シテ島(Île de la Cité)をつきり、橋(Pont Saint-Michel)で対岸に出てから、Saine川に沿いに大きな道(Quai de Grands Augustins, Quai de Conti, Quai Malaquais, Quai Voltaire, Quai Anatole France)をひらすら歩いて、オルセー美術館(Musée d'Orsay)に向かった。

昨日も歩いていた道のため、近道を早く行くことができ、出発の遅れを取り戻して、思ったよりも早く着いて、少し並んだだけで直ぐに入館できた。館内には、近現代(17-20世紀前半)の絵画が一堂に展示され素晴らしかった。彫刻や建築、日用品に関する展示もあった。

ヴェルディ(Giuseppe Verdi, 1813-1901)の《椿姫(La traviata)》のオペラ舞台のデザインや、古い写真家の作品など様々だった。ミレー(Jean-François Millet, 1814-1875)の《晩鐘(L'Angélus)》や《落穂拾い(Des glaneuses)》などの名画の数々を見た。

初期の写真術は芸術と認識されていたようで絵画の構図とよく似て撮影されており、とても興味深かった。二階が閉じられていて、見ることができず、とても残念だったが、一階や五階にはとても価値のある絵画が沢山あり、とても見ごたえがあった。

ゴヤ(Francisco Goya, 1776-1828)やゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919)や(Mr. Beanの映画に出てきた)ホイッスラー(James McNeill Whistler, 1834-1903)の《母の肖像(Arrangement en gris et noir n°1, dit Portrait de la mère de l'artiste)》もあった。美術館を出て、靴が足に当たり、骨の出ている踝が痛んだが、少しずつ慣れてきた。

Seine川沿いに通り(Quai Anatole France)を少し西に歩き、橋(Passerelle Léopold Sédar-Senghor)を渡り、対岸の通り(Quai des Tuileries)を歩いて、1778年にモーツァルトが交響曲第31番「パリ」(KV 297/300a)を初演した宮殿(Palais des Tuileries)があった庭園(Jardin des Tuileries)に行った。

(交響曲の初演が大成功して、モーツァルトは喜んで王宮(Parais Royal)の近くにあったカフェでアイスクリームを食べて、家(8 Rue du Sentier)に帰ったと1778年7月3日のSalzburgの父に手紙で書いた。1778年7月3日にこの家で母が亡くなり、教会(Église Saint-Eustache)に埋葬された。Café du CaveauかCafé de Foyと考えられる Elizabeth David (1994). Harvest of the Cold Months: Social History of Ice and Ices, London: Michael Joseph. )。

橋(Pont de la Concorde)や1722-28年にルイ14世(Louis XIV, 1638-1715)の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン(Louise Françoise de Bourbon, 1673-1743)によって建てられたブルボン宮殿 (Palais Bourbon)、更にその奥にエッフェル塔(La tour Eiffel)を眺めながら歩いて、フランス革命でルイ16世(Louis XVI, 1754-1793)とマリー=アントワネット(Marie-Antoinette d'Autriche, 1755-1793)の首が落ちた広場(Place de la Concorde)に至った。広場の中心には1819年にエジプトのルクソール神殿(Temple d'Amon à Louxor)から持ってきたオベリスクがあった。そこでは沢山の芸術家が絵を売っていて、芸術の街らしい良い景色を作り出していた。

大通り(Rue Royale)や1806年にナポレオン1世(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)によりギリシア神殿のコリント様式で建てられたマドレーヌ寺院(Église de la Madeleine)、大通り(Boulevard de la Madeleine, Boulevard des Capucines)から広場(Place Opéra)に出て、音楽院(Académie nationale de musique)や歌劇場(Opéra national de Paris)として使われる1669年に建てられた宮殿(Palais Garnier)から、北東に進みゆくとき、日本の三越(2010年に閉店)をはじめとする沢山の外国人用の百貨店が立ち並んでいた。大通り(Boulevard des Italiens)には、イタリア料理店があり、ピザを食べようとしたが高かったので、通り(Rue Drouet)との交差点でMcDonald’s見つけ入った。

正午をちょうど過ぎて、宿からたくさん歩いてきて、お腹が空いてきた頃だった。フランス語でLとMサイズのハンバーガーのセットを頼むと、店員さんは嬉しかったようで、これでもかというくらいのストローとケチャップやポテト用のタルタルソースを付けてくれた。上の階に運んで食べた。

風船を自由は取っていって良いよと言われて驚いた。ありがたいけれども、今は街を歩いて旅をしているのでと言うと、「良い旅を!(Bon voyage !)」と笑って声をかけてくれた。父が今日も沢山歩いてきて、巡礼をする前に足を馴らすのにちょうど良いね。時差ボケも取れてきたし、今日はとても調子がいいよと話していた。

店を出てから、大通り(Bd Haussmann, Rue la Fayette)辺りで少し迷ったので、近くの駅(Chaussée d'Antin — La Fayette)で地下鉄(Métro de Paris)に乗り、Gare de l'Estで7号線から4号線に乗り換えて、Château Rouge駅まで行った。地下鉄の駅名には1861年に建てられた教会(Église Saint-François-Xavier)があるSaint-François-Xavier(13号線)、通り(Avenue Franklin-D.-Roosevelt)があるFranklin D. Roosevelt(1号線と9号線)、1885年に作られた広場(Place Victor-Hugo)があるVictor Hugo(2号線)など有名人の名前があり面白かった。街の歴史が幾層にも重なり、古代から現代まで、大きな出来事が地名として記録されてゆくのが面白く感じた。

地下鉄や鉄道は乗る際には、ドアのボタンを押して自分で開閉した。Porte de Clignancourt駅からGard d’Este駅の間で突然ジャズを演奏する楽団が、車内に入ってきて、陽気な人たちが楽しい演奏を聴かせてくれて、とても愉快で楽しい時間を社内で過ごした。多くの人が楽しんでいた。Parisの地下鉄(Métro de Paris)には、入り口だけで清算して、出口でチェックがないので、タダ乗りできてしまう。何人もの人がタダ乗りをしようとして、出口ゲートで出てくる人を待っているのを見かけた。

Montmartreではバシリカ(Basilique du Sacré-Cœur)へ行った。Château Rouge駅から雑居ビルが立ち並んだ下町という感じがする繁華街を抜けてゆくいくつかの通り(Rue Poulet, Rue de Clignancourt)を進んだ。辺りは商店街や住宅地が広がり、19世紀に建てられた家が多かった。坂道(Rue Muller)になり、階段(Rue Maurice Utrillo)を登って、通り(Rue du Cardinal-Dubois)でバシリカの前から階段を上がり、モンマルトル(Montmartre)の丘の頂上まで登った。

バシリカは丘の上に位置しており、展望台(Square Louise-Michel)から、市街を一望できるため、沢山の観光客がいた。また、お土産物を売る人も多く出ていて賑わいがあった。Parisの市街が一望できる展望台でこれだけの建物が立ち並び、これだけの人々が暮らしていることを俯瞰して実感できた。

(「殉教者の丘」Mont des Martyrs < Mons Martyrum < 「殉教者」martyr < 古典ギリシア語μάρτυρ / mártur < 「証人」μάρτυς / mártus < ヘレニック祖語*mértos < 印欧祖語*(s)mer-t-os < 「記憶する」*(s)mer-が語源で3世紀中頃にディオニュシウス(Dionysius < Διόνυσος / Dionysos)が殉教した。

トゥールのグレゴリウス(Gregorius Turonensis, 538-594)の《フランク史(Historia Francorum)》やヴェナンティウス・ホノリウス(Venantius Honorius, c. 530-609)に帰せられる《聖ディオニュシウス、ルスティクスとエレウテリスの受難(Passio SS. Dionysii Rustici et Eleutherii)》で記載され、 836年にサン=ドニの修道院長イルデュアン(Hilduin de Saint-Denis)が《伝記(Areopagitica)》を書き、ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine, 1230-1298)の《黄金伝説(Legenda aurea)》で首を刎ねられた後、自分の首を抱えて歩いてゆき、サン=ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)がある場所で息絶えたという伝説が流布された。

1534年にイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio de Loyola, 1491-1556)、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier, 1506-1552)、ピエール・ファーヴル(Pierre Favre, 1506-1546)、アルフォンソ・サルメロン(Alfonso Salmerón, 1515-1585)、ディエゴ・ライネス(Diego Laínez, 1512-1565)、ニコラス・ボバディリャ(Nicolas Bobadilla, 1511-1590)、シモン・ロドリゲス(Simão Rodrigues, 1510-1579)が誓願を立てて、イエズス会(Societas Iesu)を設立した。)

バシリカに入ると、キリストの心が金色で表現されていた。レストランやお土産物屋さんが立ち並んでいる周りの通り(Rue du Cardinal Guibert, Rue du Chevalier de la Barre, Rue du Mont-Cenis, Rue Norvins, Rue des Saules)を散策して、沢山の画廊を横目に見ながら、広場(Place du Tertre)に戻った。丘には沢山のヴァイオリニストやフルーティストがいて、大バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータをヴァイオリンで弾いていたり、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のトルコ行進曲をフルートで弾いていて、多くの人が立ち止まり、演奏に耳を傾けていてにぎわっていた。

周辺には数えきれないほどの喫茶店があり人でごった返していた。観光地らしく、沢山の商売人がいて、観光客を見つけて、手に編んだ糸をかけて、高額を請求したり、スリのような人が沢山いて、無視したがしつこく付いてくるので、早歩きで立ち去った。フランス人は、街を歩くのが早くて、無視して颯爽と通り過ぎていくので、捕まりにくく慣れていると思った。バシリカまで戻り、前の広場(Square Louise-Michel)の階段を降りて、丘を少し下り、散策をしたり、パリ市街を望むところで父と一息をつくことにした。

それから、近くの広場(Place du Calvaire)の小道(Rue Poulbot)に面するダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)の美術館(Dalí Paris)に向かった。地図が大雑把過ぎて、近くにあるはずなのに見つからず、立ち止まり、道を聞くと、そこへ行こうとしている地元の人がいて、一緒に行きましょうと案内してくれた。美術館は人通りの少ない所にひっそりと建ち、聞かなかったら見つけられそうにないほど、路地の入り組んだ所にひっそりとあった。

小さなスペースから館内に入ると、素描や鉛筆がや彫刻作品を中心として所狭しと並べられていた、昨日のピカソ美術館 (Musée National Picasso)に較べて、もう少し真面な絵が多くて楽しめた。有名な柔らかいチーズのようにソフトにとろけた時計をモチーフとした作品が多く、彼がアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)の相対性理論が発表された頃、時計のモチーフが大層気に入っていたのが窺えた。DalíもMontmartreに住んでいたことがあり、そこで絵を描いている時の写真とその実物の作品が展示されていて、とても興味深い時間を過ごせた。

美術館を出てから、階段(Rue du Calvaire, Rue Gabrielle, Rue Drevet)で坂を下り、街に出た。通り(Rue la Vieuville)を下ると、広場(Place des Abbesses)に出て、「私はあなたを愛している」とあらゆる言語で書かれた壁(Le Mur des Je t'aime)を見た。フランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語、英語、中国語、日本語でも書かれていて笑ってしまった。隣の広場(Place des Abbesses)に煉瓦造りの美しい教会(Église Saint-Jean de Montmartre)があった。更に通り(Rue André Antoine, Rue Véron, Rue Germain Pilon)を通り、丘を下り、真ん中に緑がある大通り(Boulevard de Clichy)に出てから、西に歩いた。9区は酒場などの夜のお店が多くて、治安があまりよくなさそうだった。

近くの駅(Blanche)から地下鉄に乗り、途中の駅(Barbès-Rochechouart)で2号線から4号線に乗り換え、数駅先の駅(Porte de Clignancourt)で降りて、大通り(Avenue de la Porte de Clignancourt)を北に歩き、Paris市街の新しい外殻をなしている一番北側の端へ行くと、クラクションが鳴り響いていて、街の雰囲気が良くなかった。環状道路(Boulevard Périphérique)を越えた北側の大通り(Avenue Michelet)に面した蚤の市(Marché aux puces de St-Ouen)を訪れたかったが、その前に有名なジャズのギタリストの名前ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt, 1910-1953)を冠した市場(Place Django Reinhardt)があり、スリが多そうで治安が悪くて危険な上、雰囲気が良くなかったので、さっさと切り上げて、近くの駅(Porte de Clignancourt)から、地下鉄に戻り、途中の駅(Gare de l'Est)で4号線から5号線に乗り換えて、宿の近くの駅(République)まで戻ってきた。

食料品を少し買って、宿に戻った。昨晩にも沢山お話をしたイギリス人Andyが食堂にいて、英語とフランス語で、ヨーロッパの言語の成り立ちと発展について話したり、出身のイングランド南部の街(Bristol)の名所などを教えてくれて、4時間以上も話が盛り上がり話し込んだ。

Bristolは、やはり、橋(bridge)に関係して、橋がある町という意味だそうである(中英語Brigstow < 古英語Bryċġstōw < 「橋」bryċġ +‎ 「所」stōwと分析でき、西ゲルマン祖語*bruggju < ゲルマン祖語*brugjǭ < 印欧祖語*bʰerǵʰ-i-Hon- < 「高い」*bʰerǵʰ-、西ゲルマン祖語*stōwu < ゲルマン祖語*stōwō < 印欧祖語*steh₂-weh₂ < 「定住」*steh₂w-にまで遡り、橋が架けられたAvon川はウェールズ語「川」afon < ブレトン祖語*aβon < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō < 「水」*h₂ep-が語源)。ケルト人が住んでいて、ローマ人が入り、サクソン人が来て、典型的なイングランドの町の変遷に感じた。

お城と大聖堂が特に素晴らしいそうで来てくれたら案内をするから、是非とも歴史を語ろうと話していた。日本人とシンガポール人と彼と五人ほどで食料品を割り勘して、一人5€ほどでスモークサーモン・サラダ・ご飯・味噌汁を食べることができた。特に友達ができると食事も楽しくできた。ご飯と味噌汁は、日本人が多く持ってきたために持て余してして、タダで振る舞ってくれた。夜まで話明かして、シンガポール人にParisで変わったといいところなどを聞かれて、昨日と今日に見てきた場所について、詳しく話したりと楽しい時間を過ごした。

ホテルで個室が与えられるより、食堂や応接室で多くの人とおしゃべりをして、情報交換をすることができるのが、旅の一つの面白さであり、昼は街の中をくまなく歩き回り、夜は色んな面白いお話をお互いにすることができるのが、旅の醍醐味であると感じて、これからもそうしてゆこうと思った。

Parisの市街をモンマルトルの丘(Montmartre)から臨む

2008年4月13日(日)4日目(Paris-Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

Parisでシャンゼリゼ通り(Les Champs-Élysées)を歩いて、凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile) やエッフェル塔(La tour Eiffel)から街を一望した。飛行機に乗り、Lourdesに着いてから、雨が降ってきたが、洞窟(Grotte de Massabielle)の手前で水を汲んだ。

今日は、Paris最後の日のため、有名所を回った。朝食後、荷物を地下のコインロッカーに入れて、最寄駅(République)で地下鉄に乗り、途中の駅(Hôtel de Ville)で11号線から1号線に乗り換えて、目的の駅(Champs-Élysées - Clemenceau)で降りた。1号線は車輛も、駅もきれいで、どの駅にもParisの歴史に関する展示があった。朝の大通り(Avenue des Champs-Élysées)は人通りが少なく、喫茶店や店は閉まっていたが、建物が整然と立てられた街並みが美しかった。朝早く清掃局の人が来て、水で一つ一つの通りが洗われ、路面がきれいに流されて、石畳が黒光りした朝の街が最も美しかった。

駅を出てから、公園(Square Marigny, Square de Berlin)の間を通り、大きなロータリーの噴水(Les Fontaines)を見て、邸宅(Hôtel d'Espeyran)や有名なフランス料理店(Brasserie L'Alsace)、シャネル(Chanel)、ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)の本店を見ながら、凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile)に着いた。

凱旋門に登るための券売所がまだ閉じていて、おまけに目立たない所にあり、券売所を探すのに戸惑ったが、係が中から出て来て場所が分かった。少し待つと、入場券を買って登ることできた。大通り(Avenue des Champs-Élysées)やエッフェル塔(La tour Eiffel)の雄姿は圧巻だった。凱旋門から、四方八方に放射状に通りが伸びていて、大層美しかった。

特に大通り(Avenu d'IénaとAvenue Kléber)の間にエッフェル塔が見えて、南側の眺めが気に入った。父と眺めを楽しんでいたら、フランス人がお写真をお取りしましょうと父と一緒に収めてくれた。特に人が多くいるところでは、相手の方から写真をお取りしましょうと声をかけて下さるので凱旋門の上でエッフェル塔の前で写真を取ることができて父と一つ良い思い出ができた。

下には凱旋門に関する展示室があり、色んなデザイン案が展示されていて、興味深かった。どれも美しかったが、確かに今ある形が一番無駄がなくスマートに見えた。凱旋門を下りて、エッフェル塔(La tour Eiffel)に向かうために大通り(Avenue Marceau)をひたすら南に進んだ。1931年に建てられた石造りの教会(Église Saint-Pierre-de-Chaillot)、スペイン大使館(Ambassade d'Espagne à Paris)、イヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent)を見て、通り(Avenue du Président Wilson)を歩いた。ガリエラ美術館(Palais Galliera)や近代美術館(Musée d'Art Moderne de Paris)を見て、その脇から通り(Rue Gaston de Saint-Paul)を歩いた。

(裏の通り(Avenue George V)に面したアメリカン・カテドラル(American Cathedral)があり、少し遠くには通り(Avenue du Président Kennedy)もあり、アメリカ人が多く住んでいる地域と感じられた。ガーシュウィン(George Gershwin, 1898-1937)の《パリのアメリカ人(An American in Paris・1928年)》を思い出した。)

Seine川沿いに大通り(Voie Georges Pompidou)を歩いてゆくとエッフェル塔が見えてきた。橋(Pont d'Iéna)には、見るからに怪しそうなスリがいて、物を落としたふりをして、拾おうとしていたので無視して、速足で歩いて去った。大通り(Quai Jacques Chirac)をエッフェル塔を目印に歩いて近づいていった。

エッフェル塔(La tour Eiffel)に着いて、登るために長蛇の列に並び、一時間位待たされた。警察や軍の兵士が行き来して、強力な防犯の対策をしていた。警察は自転車に乗っていて、スリが物を盗んで通り去ろうとして、警察犬が追いかけていたり、治安の悪さを感じながら、頼もしさも感じた。

三階まで昇降機で登った。二階で昇降機を乗り換え、人がごった返していて、居心地はよくなかったが、高い所からの眺めは素晴らしかった。特にエッフェル塔の南側には公園(Bassins du Champ de Mars)があり、北側にはSaine川を挟んで、庭園(Jardins du Trocadéro)とシャイヨー宮(Palais de Chaillot)があるために眺めが良かった。吹き飛ばされそうなくらい風が強く、髪の毛がもじゃもじゃになったが、Parisで最も高い所に入れて嬉しかった。

晴れていて大層美しく、街並みや景色を臨めて大満足だった。父とまた記念撮影をした。父が凱旋門よりも高いから見晴らしが良くていいね。これでParisにもお別れができたねと話していた。塔を降りてから周りを散歩して、川岸の来た道(Quai Jacques Chirac)を戻り、橋(Pont de l'Alma)を通り、駅(Alma - Marceau)で地下鉄9号線に乗り、最寄の駅(République)に直行して、宿に戻った。

午後2時少し前に宿に着いて、飲み物を飲んだり、少し休憩してから、昨日、一昨日話したイギリス人Andyとお別れをして、チェックアウトをして、空港(Aéroport de Paris-Orly)への行き方を受け付けの人にきいて確認して、宿を後にした。République駅で切符を買い、地下鉄に乗り、Châtelet駅で11号線から、4号線に乗り換えて、Denfert-Rochereau駅でRER(鉄道Réseau express régional d'Île-de-France)のB線に乗り換えた。地下鉄の中にも物乞いがいて驚いた。

RERの駅で人に行き方を聞くと、途中の駅(Antony)でモノレール(Orlyval : navette automatique Orly)に乗り換えるとのことだった。この線は途中で分かれていて、入念に確認して乗り込んだ。駅(Cité Universitaire)の構内で自転車で乗っている人がいて、日本では普通の自転車は鉄道に乗せることはあまり歓迎されないので興味深かった。

無事に午後3時頃、空港(Aéroport Orly Ouest)に着き、チェックインをした。荷物を持つ人用に袋をくれて、その中に入れて出した。搭乗口に向かうと直に搭乗をした。搭乗口からバスで飛行機まで向かうのだが、タラップから乗る仕組みで、初めての経験だった。機内は狭かったが、快適でヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741)やモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の協奏曲が流れていた。席に落ち着いてから少し経つと、隣の席に小さな男の子が空港職員や客室乗務員に連れられてきた。幼稚園生か小学校低学年の小さな子供が、飛行機に乗り、ParisからLourdesに一人旅をするとは、フランスの小さな子はタフに感じられた。

飛行機が飛び立つと、空港の周辺すぐ近くまで畑があり、風景がとても美しかった。初めの頃は、隣の子供が静かにフランス語の絵本を読んでいた。

途中で飲み物のサービスがあり、ビスケットを貰った。レモン入りのビスケットはとても美味しかった。飲料配給の直前に隣の子が机を出すんだよと、フランス語で実演をしながら丁寧に説明をして教えてくれたり、隣の座席のシールを剥がして口に張って笑わせて来たり、なかなかお茶目な子だった。中国人かと聞かれて、日本人だよと答えると、目を大きくして手を叩いてなぜか喜ばれた。

客室乗務員と話をしていると、直ぐに空港(Aéroport de Tarbes-Lourdes Pyrénées)に着いた。午後5時半にタラップを降りると目の前にはかき氷のように雪をかぶったピレーネの山々が連なり、新鮮な空気もおいしくて風光明媚な所に来たという感じがして気持ちがすがすがしかった。小さな空港のため、飛行機から降りると、直ぐにロビーがあり、荷物を取って外に出た。

空港を出るとロータリと駐車場しかなかった。タクシーが皆、出払ってしまい、20分位待っていると陽気で優しい運転手さんが声をかけてくれた。Lourdesの町に行きたいと話すと、OK !と言って、景色や高山に雲が綺麗だとか、話をしているうちに町に着いた。運転をしながら、水を取り出して飲もうとしたとき、ウィスキーじゃないから安心してと大笑いで冗談を言うので、「これはルルドの洞窟の水でしょうか?(C'est l'eau de la grotte de Lourdes ?)」とすかさず切り返すと、「これはルルドの水だけれども、洞窟のじゃないよ!(C'est l'eau de Lourdes, mais ne pas de la grotte !)」とまたまた大笑いしながら、空港から田舎道(N21とD914)を少し走るとLourdesの街が見えてきた。

タクシーの運転手に洞窟に近くて良い宿を紹介して欲しいとお願いをすると任せてくれと、私たちを宿の前まで連れて行ってくれた。運転手さんが荷物を出しながら、ここは部屋がきれいだし、店主が気前がいいから、快適に過ごせると思うよと言ってウィンクをした。フレンドリーで親切にして頂いたので料金とチップを渡すと、運転手さんはとても喜んで受け取った。

通り(Rue Sainte-Marie)に面した宿(Hôtel Saint-Sauveur)は、マリア様が出現した洞窟(Grotte)から、通り(Rue Saint-Joseph)を歩いて、5分もしない所にあり、中心街の良い場所に位置していた。受付に黒人の女性がいらして、素晴らしい宿だよと興奮していた。三泊のチェックインをして部屋に入ると、狭くても小ざっぱりして、内装がカラフルできれいだった。部屋の前の通りの眺めも美しくて快適に過ごせそうだった。雨が降ってきたが、早速マリア様が出現した洞窟に行ってみることにした。水筒を持ち、五分ほど下ると、水汲み場があり、そこで水を汲んだ。雨が激しくなってきたので、洞窟に行くのは、次の日にお預けして、宿に戻り、併設のレストランで食べることにした。

スープとマルゲリータピザとグリーンサラダを注文した。スープはホウレンソウが入りパンとあって、寒い日には体を温めるのに良かった。パンのお代わりまで頂いて、サラダとピザを食べるとお腹が一杯になった。出ようとした時、先ほどの黒人の女性が横に座っているのに気がついた。

アメリカ人の夫人も交えて、Lourdesの美しさ、マリア様は世界各地の様々な所に出現して忙しそうだねなど、冗談を交えながら、2時間くらい、レストランでおしゃべりをして楽しんだ。

旅に出る前に家の前で撮影した桜の写真を見せると、とても感動して、日本の話になった。彼女の親戚が日本のガーナ大使館で働いていることから、日本の宗教事情をよくご存じで、様々な宗教の長所を取り入れ争いがないこと、日本の精神性を高く評価していた。

Lourdesに20年前から2カ月に1回来ているそうで、今まで150回は来ていると言っていた。そんなに来たんですかと驚くと、もうLourdesは私の故郷よと豪傑笑いをしていた。宿の人とも仲良しで、常連だったから、支配人が少し留守をしているとき、受付で店番を任されてしていたようだった。部屋に戻り、シャワーを浴びて寝た。誕生日が明後日と伝えると、宿の支配人に言っておくよと言っていた。

Parisでは、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)やパンテオン(Panthéon)など有名どころには行かなかったが、前にも訪れたことがあるし、いつでも来れるため、今回は特に都市の成り立ちを示しているCité島を中心とした南北の中心地を歩いて回ることができ、大満足だった。

夜にはスペインの国境にほど近い南フランスのLourdesで過ごせて、都会の喧騒を離れて、お部屋も個室に泊まることができ、数日はゆっくりとLourdesで休んで、巡礼を始めることができてほっとした。

Parisは大都会過ぎて、宿においても、街においても、特に危険を警戒する必要があるため、余計に気を使わなくてはならず、また、歩いても、歩いても、石造りの建物が多くて、自然が少ないため、圧迫感があると感じた。Lourdesは自然が豊かで山や川や緑に囲まれて、空気もきれいで美味しくて、また、洞窟からはきれいな水が湧きだしていて、心が伸びやかになるような良い場所に感じられた。

凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile) から眺めたエッフェル塔(La tour Eiffel)

2008年4月14日(月)5日目(Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

Lourdesで聖母が出現した洞窟(Grotte de Massabielle)や聖ベルナデッタ(Bernadette Soubirous, 1844-1879)の生家(Maison Natale de Bernadette)や家(Maison Paternelle de Sainte-Bernadette)などの史跡を訪れたり、街中を散策した。古城(Château fort de Lourdes)から見えた街並みは箱庭のようで美しかった。夜には大聖堂の前の蝋燭行列に参加した。

今日は晴れと曇りを繰り返す不安定な天気だった。雲がピレネー山脈(Les Pyrénées)にぶつかり溜ってくると、雨が降ってきた。朝食は7時半でパンとチョコレート飲料等で美味しかった。

朝食後、荷を整えてから、洞窟(Grotte de Massabielle)に行った。朝早くだったので人が殆んどおらず、マリア様の像が美しく立っていた。下には「私は無原罪の御宿りである(Que soy era Immaculada councepciou.)」と地元の方言で書かれていた(オック語(occitan)のガスコーニュ方言(Gascon)でフランス語「Je suis l'Immaculée Conception.」に当たる)。

Pau川も水を湛えて美しかった。洞窟の周辺は整備され過ぎていて、1943年に作られた聖母出現の映画「聖処女」に出てくるような150年前と風景とは大きく違った。洞窟の表面がみんな触り、つるつるになっていた。おでこを当てている人、ロザリオを付けている人もいた。水源は蓋をされていて、水が湧きだしているところまでは、よく見えなかったので少し残念だった。しかし、ここに150年前マリア様が現れたことを思うと、こんなことはささいなことで清らかな場所であった。

そして、大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)に入った。朝のミサの直前で人が沢山集まっていた。中央にある、マントも広げたマリア様が印象的だった。側面の聖書物語の話を見て後にした。一度洞窟を訪れたが、お昼時間中は人がとても少なくて、ゆっくりと見ることができた。Lourdesは、フランスでありながら、Pyrénées山脈を隔て、スペインに近いため、Siestaの習慣が根付いていた。大聖堂の時報の鐘からは、Ave Mariaの旋律が流れてきて、Lourdesらしいと思った。

それから、橋(Pont Saint-Michel)で川(Gave de Pau)を渡り、雨の中、ベルナデッタ・スビルー(Bernadette Soubirous, 1844-1879)とマリア様の出現に関する博物館(Musée Sainte-Bernadette)に行った。そこは無料で入館でき、1858年2月11日から日付を追い、何が起きていたのか、詳しく述べられていた。Bernadetteに関する本物の資料もあり、とても興味深かった。

Bernadetteの肖像画や手紙もあり、特に手紙の文字はとても美しく、マリア様に出会った当時は無学だったが、一生懸命勉強したことが窺われた。その後のことや大聖堂の建築について詳細まで述べられ素晴らしかった。その外にはマリア様の出現地と説明があり興味深かった。それから、大通り(Boulevard de Grotte, Avenue Général Baron Maransin)を歩いて、街中に入った。

Bernadetteが洗礼を受けた教会(Église Paroissiale du Sacre-Cœur de Lourdes)に入り、本物の洗礼盤を見た。広場(Place Peyramale)に出て、不思議なメダイ博物館(Museo della Medaglia Miracolosa)を訪れたが入れず、通り(Rue Basse, Rue de la Fontaine, Rue du Bourg)を進み、マリア様が出現した当時住んでいた家(Maison Paternelle de Sainte-Bernadette)を訪れた。そこは人でごった返していたが、牢獄の跡でとても貧しくみすぼらしい外観だったが、思いの外、中は広くて、日本の住宅事情を考えると酷いとは思えなかった。Bernadetteの靴やロザリオが展示されていた。そこで街の名所を巡るシールをもらい、先ほどの教会に戻り、首から下げる台帳とシールをもらった。

それから、通り(Rue Latour de Brie, Rue de Pau)を歩いて、病院(Hospice de Nevers)に向かった。イタリア人の集団と車椅子の人でごった返していた。Bernadetteの貴重な写真があった。晩年の手紙を見ると達筆で小さな紙にぎっしりと書かれて美しかった。少し晴れてから、また酷い雨に降ってきた。それから、街(Avenue Général Baron Maransin, Boulevard de la Grotte)を通り、Bernadetteの家まで戻ってきて、一度ホテルに戻り、雨合羽を来て、一息をついてから、バシリカ(Basilique Notre Dame du Rosaire)や洞窟(Grotte de Massabielle)の辺りを散策した。

それから、父と街を見下ろす高台の古城(Château fort de Lourdes / Castèth de Lorda)にある博物館(Château Fort Musée Pyrénéen)に行こうと話し合い対岸に渡り訪れた。昇降機で城まで上がると、美しい小さな町がお城の中に広がっていた。塔の上に登り雨宿りをすると、直に晴れてきて、町が一望できて、美しかった。町はコンパクトにまとまっていて、街のど真ん中に建てられた城の四方からは、街の全体が見えて、城が建てられた意味がよく分かった。

塔を下り、城の中の礼拝所や物見台に行った。物見台には、1732年製の東インド会社の紋章付きの大砲があった。博物館には、Pyrénéesの民族の生活、服装、家の中、農耕、職人、宗教など様々な展示があり、生活感のある美しい道具が溢れていた。墓地の城壁に埋め込まれていた15世紀に作られた謎の文字が書かれた石板(La pierre d’Espeldoy)や鋼板(La stèle discoïdale)があり興味を持った。

それから、Bernadetteが生まれた家(Maison Natale de Bernadette)に行った。先ほどの牢の跡に暮らしていた家とは違って、美しくつつましやかな家で良い環境だった。そのため、生まれたときは、暮らしは不自由でなかったが、それから一家の大黒柱が働けなくなり、苦しい生活をしていたことがうかがわれた。家族で使っていたベッドや当時の聖職者たちの写真や肖像画があった。

上の階には、Bernadetteが生まれた部屋があり、皆いたずら書きをするため、ガラス張りとなっていて、こんなところにも落書きをするのかと興醒めしてしまったが、生家を訪ねることができた喜びは大きかった。大通り(Boulevard de la Grotte)には沢山の商店やレストランやホテルが立ち並んでいて活気があった。二種類のBernadetteに関する説明をフランス語でしている栞を土産物屋さん(Palais du Rosaire)で買った。

宿に戻り、2時間くらい仮眠してから、夕食を宿の下の階にあるレストランで食べた。スープはラザニア風のトマトべースでパスタは筒状でパンをつけて食べると美味しかった。ボローニャ風のスぺゲッティを食べてから、サラダを沢山おかわりした。Lourdesには、フランスと同じカトリック教徒であるイタリア人が多く訪れるため、美味しいイタリア料理店が多かった。

食後、部屋に戻り、少し休んでから、宿の中の売店でフード付きの蝋燭を求め、洞窟の前の広場(Sanctuaire Notre-Dame de Lourdes)に行き、蝋燭行列に加わった。夜になると晴れてきて、蝋燭行列が無事に行われた。暗くなっていくと、段々と蝋燭を灯す人が増え、美しさを増してきた。

フランス人の老夫妻に人分けてもらい点火すると、美しく温かい炎が灯った。ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語、英語、ドイツ語、オランダ語で挨拶があり、教会の中から出てきたマリア様の像を先頭に祈りの言葉や聖歌を歌いながらゆっくりと進み、Ave Mariaの間に皆が蝋燭を挙げて、聖歌が声高々に歌われて一体感があった。平和を切実に望み願い、マリアやイエスに取り次ぎを頼む、皆のお祈りが一体となり、ミサが屋外で行われて、行列を歩いてゆく人々の祈りに満たされていて、全てを清らかなものに変えるような強さを感じた。

宿に戻って、温かいお風呂に入り、フランス語のドラマを見て、眠りについた。今日はLourdesの街を歩き回り、お城から眺めることもできて充実していた。父が明日は誕生日だね。こんなに空気がきれいで景色も素晴らしいLourdesで迎えることができて良かったねと話していた。

古城(Château fort de Lourdes)から眺めた街並み

2008年4月15日(火)6日目(Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

誕生日をLourdesの洞窟(Grotte de Massabielle)の前で迎えることができた。生まれた時刻の午後1時13分ちょうどに記念撮影をした。聖品博物館で出現に関する色んな展示を見た。

今日は誕生日で予てから、洞窟(Grotte de Massabielle)の聖母の前で迎えたかった。午前6時に起きて、朝早くに父と洞窟(Grotte de Massabielle)に向かった。午前6時53分の日の出の前の15分前後に、既に敬虔な人々が沢山集い、朝のミサを行い、マリア様にお祈りを捧げていた。とても美しい場所で前日から燃える蝋燭が色を添えていた。日の出を洞窟の前で迎えて、穏やか気持ちになり、宿に向かい、昨日と同じように朝食をとった。身の回りの片付けをして、また、洞窟の前に行った。

昨日と違い天気も良く、人が多く得に車椅子の人が列をなして、宿の前を通過していた。皆、身体が健康でないために祈りに来ている人が沢山いた。洞窟に着き、昨日にも訪れた大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)に入った。

昨日とは反対側の側面の絵を見て出て、大聖堂の脇からスロープを上り、十字架への道(Chemin de croix)を進んだ。丘の上からは見晴らしがとてもよく、ピレネー山脈や市街が見渡せた。イエスの受難物語の彫像の前で祈りを捧げている人たちいて、聖歌を歌いながら歩いていて、ミニ巡礼のようだった。途中の道から見える雪を湛えたPyrénées山脈はとても美しく心に残った。

また、ケルト十字の立派な彫刻が施された石の十字架(Croix en mémoire du premier pèlerinage irlandais 1913)があった。岩が沢山置かれた塀の間を縫うようにある道(Route de la Forêt)の坂を下り、バシリカ(Basilique Notre Dame du Rosaire)のスロープを通り、博物館(Musée des Miracles de Lourdes)に行った。入館料を一切取らず、本当にLourdesの歴史を知って欲しいことが伝わる展示の内容でとても良心的だった。修道女の方がたが熱心に見ているのと同じくらい私も熱心に見た。Toulouse大司教から賜った聖品や行列の先頭の司教が持った聖品や聖旗等、展示物は沢山あった。

地下聖堂(Basilique Saint Pie X)を少し訪れるとミサをしていた。それから、隣の郵便局(La Poste Relais)に入り、日本に荷物を送るのにかかる送料を調べた。明日の旅立ちの準備のため、いくつかの大通り(Boulevard Rémi Sempé, Boulevard de la Grotte, Boulevard du Lapacca, Aveune de la Gare)を駅(Gare de Lourdes)まで歩いて、スペイン国境近くの巡礼を始める町(Saint Jean Pied de Port)まで切符を購入して、発車時間を確認した。駅員さんは丁寧に教えて下さり、午後0時10分発の大都市(Bayonne)行きの鉄道に乗り、そこで乗り換えて、午後5時少し過ぎに到着するとのことだった。

それから来た道を戻り、川を渡り、洞窟(Grotte de Massabielle)を訪れた。生まれた時刻(午後1時13分)に洞窟の前で待ち、きっかりの時間にマリア像の前で感謝のお祈りをして記念撮影をした。それから、街中を歩いて、大通り(Boulevard de la Grotte)に面した土産物屋さん(A la Protection de Marie)に美しいマリア様の像があり、大きい方と迷ったが、重さを考えて、小さい方を求めた。

途中で立ち寄ったある土産物屋では、聖母像を探していたら、店の人が中から出てきて、いきなりプラスチックで作られた聖母像を床に落として壊れないでしょうと実演するのには本当に驚いてしまった。聖母像を床に落とすのが考えられず、それ以前に商品を落とす店では、買いたくないと思った。

宿に戻り、郵送する荷物を纏めて、街中の通り(Avenue Général Baron Maransin)に面した大きな郵便局(La Poste Relais)に向かった。途中で通り(Rue de la Grotte)に面した本屋さん(Palais du Rosaire)でBernadetteに関する本を買うとき、レジの店員さんがマリア様の恩寵があなたの巡礼中も、それからも満たされますようにとフランス語でとても暖かい挨拶をしてくれた。

郵便局について、2kgまでの小包の発送キットを購入して、日本に送りたい荷物を入れると5kg超過して、栞のブックレットを抜くと8g超過だったが平気で2kgぎりぎりで出せた。

郵便局には、沢山美しい切手があり、Lourdesのマリア様やBernadetteの図柄の切手や台紙が多かった。宿に戻る途中(Rue de la Grotte)に美しい古葉書を売る古本屋さん(Atelier Marie M.)があり、古書や葉書があり興味が湧いてきて、ゆっくりと探し求めることにした。

二時間位、宿で仮眠してから、宿内のレストランが混んでいたため、午後6時に夕食の前に大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)でTorinoの聖骸布の展示を見た。大聖堂前の広場には沢山の人がいてにぎやかだった。科学的に分析していて興味深い内容だった。二千年前の布が現代に残されたとはとても不思議であった。1500年代に火災や水害に遭い修理を受けていた。布に付着した花粉や跡がどう付いたかなどが分析されていて、独立して発見された手稿で発見された聖骸布の記述や絵図と比較がなされていた。科学的かつ文献的な調査の結果が展示されていて興味深かった。

宿に戻ってレストランで食べようとしたら、給仕の人が午後7時にならないと開かないから、同じ内容で同じ人が営む、同じ通り(Rue Sainte-Marie)に面した隣の隣のレストラン(New Orleans Café)に丁寧に一緒に案内して連れて行ってくれた。ホテルと内装の雰囲気は大きく違ったけれども、提供される料理の内容や価格は同じだった。サラダとスープと4種のチーズのピザを注文した。日替わりトマトベースの白菜と豆が入った美味しいスープがあった。

サラダもふんだんでパンや水もお代わりを持ってきてくれた。ピザがクリスピーでイタリアで食べられるのと同じように石窯で焼かれたとのことで、とても美味しかった。宿の支配人がイタリア系であるからと店員さんが教えてくれて、イタリアと同じような本場のこだわりの味を楽しめた。

食後部屋で少し休んで、テレビをつけると、国境が近いため、フランス語・スペイン語・イタリア語・英語・オランダ語・ドイツ語と言語が盛り沢山だった。テレビを見ていると、段々と日が暮れてきて、大聖堂に向かおうと思ったとき、大音量で夜の蠟燭行列の始まりの挨拶が聞こえてきた。

今日は行列には加わらず、大聖堂の上から美しい蝋燭行列を眺めた。上から見るととても美しく、ほんわりとした光が揺れていて、また違った雰囲気を味わえた。大聖堂も点灯されて、今まで見た中でも、最も美しい景色の一つだった。

蠟燭行列の式が終わると洞窟の脇で聖水を汲んで宿に帰り、今日は色んな所を歩いて回り、立ち続けて疲れていたため、また明日は巡礼を始める村まで移動をするため、午後11時に眠りにつき、Lourdesでの誕生日を終えた。Lourdesは小さな町で端から端まで半日もあれば直ぐに歩けてしまうほどコンパクトで空気が透き通るほどきれいで小川のせせらぎも爽やかな街で居心地が良かった。

Lourdesは、3世紀の記録(Itinerarium Antonini Augusti)にローマ植民都市(oppidum novum)のLapurdumと(Bayonneと同名で)記録され、732年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のヒシャーム(هشام بن عبد الملك / Hishām ibn ʿAbd al-Malik, 691-743)、778年にカロリング朝フランク王国(Regnum Francorum)のカール大帝(Charlemagne, 748-814)が支配して、ビゴール伯(Comté de Bigorre)が本拠とした。

983年に修道院(Abbaye de Saint-Pé-de-Bigorre)を建設した文書でアストラック伯アルノー(Arnaud II d'Astarac, c. 950-1023)にLourdesの居住者に第三の市場を与えた記録(tertiam partem mercati Lurdensis)として現れ、1114-30年にルルドの士(lo senhor de Lorda)、1163-85年にビゴール伯のルルド城(Petro comiti Bigorrensi in castro de Lorda)と記録されており、13世紀にシャンパーニュ伯(Comté de Champagne)、14世紀にフランス王フィリップ4世(Philippe IV le Bel, 1268-1314)が支配して、1360年の百年戦争のブレティニー条約(Traité de Brétigny)により、1373年までイングランドが支配して、1405年にフランス王シャルル6世(Charles VI, 1368-1422)の領地となった。

Lapurdum > Lourdesの語源は今のBayonneに当たる地方(Lapurdi, Labourd)と同じく、バスク語「盗人」lapur < バスク祖語「盗む」*lap- + 接尾辞 *-urが語源と考えられる。確かにバスク人がピレーネ山脈を越える人を狙う盗賊をした記録が多くあり、778年にロンスヴォーの戦い(La bataille de Roncevaux)でも、カール大帝の軍隊をも苦しめたことから、地名の語源と符合して面白い。

洞窟(Grotte de Massabielle)の前の広場に立つ聖母像

2008年4月16日(水)7日目(Lourdes-Bayonne-Saint-Jean-Pied-de-Port: Le Chemin vers l’Étoile)

Lourdesの街を午前に散策してのんびりした。鉄道に乗り、Bayonne経由でPyrénées山脈麓のSaint-Jean-Pied-de-Portに至り、フランス最後の夜を過ごした。駅や巡礼事務所で最初の巡礼仲間たちと出会い、通行証(credencial)を発行してもらい、リュックサックに聖ヤコブの帆立貝を付けてもらい、巡礼宿に泊まり、今日から巡礼を始めた。もう初日から仲間ができて幸先が良い予感がした。

今朝は寝坊して午前8時過ぎに起きた。急いで朝食をとり、父は荷物の整理と部屋の片づけがあるため、一人で街に出た。とてもよい天気で、沢山の車椅子の人が宿の前を通って洞窟に向かった。宿の前から、道(Rue Sainte-Marie, Avenue Bernadette Soubirous)を歩いて、川(Gave de Pau)に架かる橋(Pont Vieux)を渡り、通り(Rue de la Grotte)を登っていくと蠟人形博物館(Musée de Cire Lourdes)があった。少し奥まった所に位置しているため見つけづらく、受付に人がいなかった。

談話している人に話しかけると、音声ガイドの機械を貸してくれて入場した。19世紀のLourdesの職業や市場について、のどかな暮らしぶりが分かるように洗濯などが展示されていて、当時の町の人の声や説明を聞いた。最後の展示はチョコレート工場や木工上、粉ひきで、洞窟での出現があった。

博物館を出ると、午前10時を少し回り、町のお店も開きだした。町の中心部の目貫通り(Boulevard de la Grotte, Boulevard du Lapacca)を歩きながら、気に入ったポストカードを古本屋さんやお土産物屋さんで見つけて、一枚一枚、気に入ったものを求めてゆくのが楽しかった。宿の近くの広場(Place Mgr Laurence)に面した一軒とても古い(100~150年前)の絵葉書を売る店(Magasin Alliance Catholique)があり、昨日見たものより未使用で状態が良く美しかったので10枚ほど選んで求めた。

午後11時に父と約束していた時間に宿に戻れた。最後に洞窟(Grotte de Massabielle)を訪れて、マリア様にお別れの挨拶をして、今日から始まるSantiago de Compostelaへの巡礼とそれから続いてゆく旅行の無事をお祈りした。天気も良く人も多く出ていたが、聖母像は洞窟にひっそりと佇んでいた。Lourdesの雰囲気を目に焼き付けて、水汲み場で巡礼のための水筒と土産物屋さんで買った小さな容器にも入れて宿に戻り、午後0時10分発の電車に乗り遅れないように急いで出発して駅に向かった。

先程の店(Magasin Alliance Catholique)で気になっていたPontmainやLourdesに出現した聖母、Bernadetteの写真などの絵柄のアンティークな栞を幾つか求めて、急いで駅に向かった。直に電車(TER Nouvelle-Aquitaine 65)が来て、二等客席に乗り込んだ。

Bayonne行きの電車には、巡礼者らしき数人が乗っていた。電車が走り出すと美しいLourdesの町の高台を通り過ぎてゆき、車窓から大聖堂や洞窟も見えて、聖母に本当に最後の挨拶ができた。町から少し離れると、牧場や畑が一面に広がり、その中に転々と家々がある風景が広がり、フランスは農業国であることを実感した。窓から入ってくる空気が気持ちよく顔に当たり、標高が高くてすっきりとした風が吹いていた。ピレネー山脈(Les Pyrénées)を遠くに望むことができ、ポー川(Gave de Pau)の渓谷が美しく、車窓から存分に楽しむことができた。

途中に町があると必ず、教会の塔を中心に人が住んでいるのが解った。4、5つの大きな駅といくつかの小さな駅(Lourdes-Saint-Pé-de-Bigorre-Montaut-Bétharram-Coarraze-Nay-Assat-Pau-Orthez-Puyoô-Peyrehorade-Urt-Bayonne)に停車しながら走り続けて、2時間もすると山がちの地形から、急に平野が開けてきて、家々の大群が見えてきて、海に近い感じがしてきた。

Bayonneに停車して、ホームを降りると、Lourdesの町が治安が良すぎたせいか、治安がとても悪く感じられた。スリに注意しながら、駅の長椅子に腰かけて、日記の続きを書いてから、街を少し歩いた。駅前には1243年に建てられたゴシック様式の教会(Église de Saint-Esprit)があり、とても美しく質素な建物だった。少し歩くと大きなAdour川に橋(Pont Saint-Esprit)が架けられていて、1213年に建てられた大聖堂(Cathédrale Sainte-Marie)の美しい二つの尖塔が対岸に見えた。

(Bayonneは、紀元前3世紀にローマ人が住んだ駐屯地(castrum)のラプルドゥム(Lapurdum)があり、Lourdes < Lapurdumと同じく、バスク語「盗人」lapurが語源。ヴァスコン人はバスク語「川」ibai < *ɦibai + 「良い」on < *honからBaionaと呼んだ。840年にヴァイキングが侵攻して、アキテーヌ公領となり、1152年にトルバドゥールを庇護したアリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, 1122-1204)が、イングランド王ヘンリー2世(Henry II, 1133-1189)と再婚してから、イングランドのアンジュー帝国(Empire Plantagenêt)に支配され、百年戦争で係争地の一つとなった。)

駅に戻り、直に乗車すると、乗客が巡礼者だけになった。皆さんと少しお喋りしながら、日記を書き続けた。ドイツやアメリカからの巡礼者だった。町は小さいが質素で美しい生活の営みがあった。

中央にある大聖堂や教会を中心に発展した典型的な中世都市だった。電車(TER Nouvelle-Aquitaine 62)は、Bayonneの町を後にして、畑や森、林を通り抜けながら、Pyrénées山脈に沿い進んでいった(Bayonne-Villefranque-Ustaritz-Jatxou-Halsou-Larressore-Cambo-les-Bains-Itxassou-Louhossoa-Pont-Noblia-Bidarray-Ossès-Saint-Martin-d'Arrossa-Saint-Jean-Pied-de-Port)。

フランスの鉄道のホームには、柵が設置されておらず、しかも、電車に乗るときに急な階段を上り、線路から高くないため、線路に簡単に入れてしまうのが、日本と違うと思った。日本でも田舎に行けば、そうかもしれない。南西側の窓から陽射しが強く暑かった。鉄道は巡礼者を乗せて、La Nive川沿いに渓谷をひた走った。山がちの地形になり、トンネルや小さな川を越える橋が多くなってきた。通過する駅名は-itzや-ouで終わるものが多く、綴りにxが多いため、バスクの土地に来ていると感じた。

Saint-Jean-Pied-de-Portの近くには、牧場が沢山あり、牛やヤギが沢山飼われていた。駅に着いて、電車を降りると、街並みは赤いレンガに白い漆喰が塗られた家が多く、素敵な田舎町に辿り着いた。

駅でアメリカ人Paulとハンガリー人Nándorの巡礼者に会い、道が少し込み入っていて、ガイドブックなども誰も持っていないので、街中にある看板などを頼りにして、一緒に道を探しながら、いくつかの通り(Avenue de la Gare, Avenue Renaud)を歩いて、門(Porte de Franca)を過ぎてから細い道(Rue de France)から左手に曲がり、風情のある古い家が立ち並んだ通り(Rue de la Citadelle)に面した巡礼事務所(Les Amis du Chemin de Saint-Jacques)に向かった。そこで英語、ドイツ語、アフリカーンス語に堪能な南アフリカ人Winnyと会った。

巡礼証明書(credential)を発行してもらう間、Paulが、ヤコブの貝殻があるぞと喜んで盛り上がり、きれいな形のものを選んで、リュックサックに付けてくれた。皆が発行してもらえるまで、英語でおしゃべりを楽しんでいた。これから宿泊した場所(Albergue)や通過した場所などでスタンプを一つずつ捺してもらいながら、Santiago de Compostelaを目指して歩いていくということだった。

無事に巡礼証明書を発行してもらい、巡礼事務局の前で記念撮影をして、きれいな街だねと色んな気づいたことをおしゃべりしながら、街の中を進んだ。巡礼が始まったねと皆とても興奮気味だった!

Saint-Jean-Pied-de-Port(バスク語Donibane Garazi)は、Basque人の町で石畳がきれいに敷かれていて、家々の壁は赤と白で美しく、とても清潔感のある街でゴミ一つも落ちていなかった。

家々の門はロマネスク様式の教会のように立派な石造りか防腐のためか赤く塗られた木製であり、ドアの上には、必ず石製や金属の銘文が取り付けられていて、建てられた年が書かれてあった。

中心街に至ると、17世紀、18世紀に建てられた建築が多く、400年も経っている家があるよと驚きながら歩いていた。家々そのものが、街の歴史を物語っていた。巡礼事務局の裏庭には、城壁の遺構(Citadelle de Mendiguren)があり、小さな鉄砲を向ける穴が開けられていた。

通り(Rue de la Citadelle)を行くと、お菓子屋さん(La Fabrique de Macarons)があり、地元の有名のお菓子であるココナッツ味の美味しいマカロン(Macarons saudáveis de coco)を買い、 通り(Rue d'Espagne)に面した小さな15世紀に建てられた教会(Église paroissiale de l’Assomption de la Vierge)と時計がある門(Porte Notre-Dame / Porte d'Espagne)があった。

直ぐに川(Nive de Béhérobie)に架かる橋(Pont Notre-Dame)を渡った。橋の上からの眺めが素敵で川に面した壁の漆喰が一部剥がれ落ち、赤いレンガがむき出しになり、古びた感じに何とも言えない風情があった。高地にある村はとても清潔で快適だった。

それから食料品店(Le Relais des Mousquetaires)でイチゴ味の飲むヨーグルト、羊の乳で作ったブルーチーズ(Roquefort. Société)、トマト、ポテトチップスを買い、巡礼宿(Albergue)に向かった。

巡礼宿(Le Chemin vers l’Étoile)は、古いバスクの家が改装されていて、家具や調度品が素晴らしく美しかった。美しい木造りで建物は17世紀に建てられたそうである。シャワーを浴びて、さっぱりとしてから、皆で近くのレストランに入って、夕食を食べることにした。

南アフリカ人Winnieが巡礼宿の主人に美味しい所を聞いてくれていた。橋(Place Floquet)を渡った町の中にある通り(Rue de l'Eglise)に面した開放的な場所にあるレストラン(Chez Edouard)でピザを食べた。裏手には城壁があり、立派な城門があった。

皆で巡礼の成功を祝いながら、沢山のお国の話などを聞かせてもらいながら、楽しい夕食となった。牛糞の匂いがする中、宿に戻った。更に2人のスウェーデン人女性AnjaとEmmaが加わり、南アフリカ、アジア、ヨーロッパ、アメリカの五大陸制覇だねと冗談を言って笑ったりして盛り上がった。夜を迎えて、明日から早起きして歩いて、巡礼を始めるため、皆で早く寝てしまった。

Saint-Jean-Pied-de-Port / Donibane Garaziは、Donianen, Donibanenと記録され、「聖」don < ラテン語dom < 「主人」domnus < 「家」domus < イタリック祖語*domos < 印欧祖語*dṓm < 「建てる」*dem-、人名「ヨハネ」Ibáñez < ラテン語Iohannes < ギリシア語 Ἰωάννης / Iōánnēs < ヘブライ語יוֹחָנָן / Yōḥānān < יְהוֹחָנָן‎ / Yəhōḥānān < 「神」יְהֹוָה / YAVH < 「在る」ה-י-ה / h-y-h < セム祖語*haway- + 「恩寵に満たされた」חַנּוּן / khanún < 「慈悲深い」ח-נ-נ / kh-n-n < セム祖語*ḥanan-が語源)、バスク語「恩寵」garazi < ラテン語gratia < 「喜び」grātus < イタリック祖語*gʷrātos < 印欧祖語*gʷr̥H-tós < 「崇める」*gʷerH-、もしくは、バスク語「高地」garai < 「高い」*gar̄- + 接尾辞*-aiが語源。

古代ローマの地誌(Itinerarium Antonini Augusti)にImus Pyrenoeusと記載され、1150年にSancti Johannis de Ciseraと記録され、1154年にシチリアでノルマン王ルッジェーロ2世(Ruggero II, 1095-1154)の勅命で編纂されたアルアンダルスの地理学者イドリースィー(الإدريسي)の地誌(نزهة المشتاق في اختراق الآفاق, Tabula Rogeriana)にも記載された。1168年にVia Sancti Johannis et Johannes de Cisera(Cartulaire de Bayonne)、1173年にVilla Sancti Michaelis (Liber peregrinationis ad Compostellam) 、1234年にSanctus Johannes sub Pede Portus(Collection Duchesne CX)、1253年にSan Juan del Pie de Puertos(Collection Duchesne CXIV)と記録された。

バスク語で初めて出版された散文の献辞と韻文の詩集からなる文学作品《バスク初文集(Linguae Vasconum Primitiae)》(1545年)の著者であるバスク人司祭ベルナト・エチェパレ(Bernat Etxepare)の出身地(Bussunarits-Sarrasquette < Duzunaritze-Sarasketa)の隣町である。彼の姓(Etxepare / Echepare < Etxegapare)はバスク語「家」etxe < *e=će + 「主要な」gapare < 古スペイン語capital < ラテン語capitalis < 「頭」caput < イタリック祖語*kaput < 印欧祖語*káput ~ *kap-wét-sが語源で「高貴な家系」という意味である。「バスク語よ、表へ出でよ(Heuscara ialgui adi cãpora)」という冒頭のフレーズが有名でバスク語の文芸運動の端緒となる貴重な遺産となった。

Saint-Jean-Pied-de-Portの中央通り(Rue de la Citadelle)
Konrad Miller (1928). Weltkarte des Idrisi vom Jahrn. Ch., Charta Rogeriana, Stuttgart: Konrad Miller.

2008年4月17日(木)8日目(Saint-Jean-Pied-de-Port-Erreculuch-Huntto-Orisson-Roncesvalles: Conventus Hospitalis Roncidevallis)

巡礼路(Camino francés)を歩き始めた。雨や雹の中、泥道を進み、スイス人修道女の二人組と共に行った。アメリカ人Paulや南アフリカ人Winnyとピレネー山脈(Les Pyrénées)を無事に越えて峠で祝い、Roncesvallesに下り泊まることにした。高地を歩いたため、空気はきれいで見晴らしも良くて快適だったが、雹・雨・霰・突風・晴・曇・雷・雪とありとあらゆる天気を一日で体験した。フランスからスペインに脚で歩いて、国境を越えた時の感動は忘れられない。フランス人の家族が犬と共に巡礼していて、Montpellierに住む、美しい家族とRoncesvallesでフランス語で話が盛り上がった。

今日は皆で寝坊をして、午前7時半頃起き、急いで朝食を取り出発した。今日はPyrénées越えのため、とても忙しく、急な斜面を上り下りしなければならない。生憎天候にも恵まれず大変だった。

父が宿を出るときに今日から実際に巡礼が始まるね。最初の難関とされているピレネー越えをする日がやってきたね。気を付けて無理をしないように歩いて進んでゆこうと話していた。

Saint-Jean-Pied-de-Portの街を出てから、田舎道(Route du Maréchal-Harispe / D-428)を進み、少しずつ坂を上りながら尾根伝いに進んだ。舗装されたナポレオン街道(Route Napoleón / D-428)に沿った巡礼路を少し歩いて小道を入った。出発の頃は少し靄がかっていたが、雨には降られず、時どき晴れ間も見られた。

途中上りで激しく雨が降り、村Erreculuch(バスク語「川」erreka < *er̄ekaと「長い」luze < *luseが語源。Nive de Béhérobieの支流Latsarritako Errékaがあり、ラテン語Erreculusやスペイン語Arrocaluzとも記録された地名)の牛舎に避難した。牛のにおいが耐えられないほど臭かったが、豪雨を避けるには仕方なかった。バスク地方の家は牛舎と一体となっていて、現地の人はこの臭いの中で暮らしているから、もう慣れているように感じた。

道にもよく牛糞が落ちていて、雨が降るとぐちゃぐちゃになるが、高地で腐ることは少なく、自然の風化に任せて、直ぐに乾燥してしまうため、臭いに圧倒されずに生きて行けるように感じられた。

高原や牧場の間を縫うようにある巡礼路を歩いていると辺り一面にカーペットのように青々とした草が見え、遠くに山々を臨め、谷間には家々が点在していて、自然に囲まれた素晴らしい景色だった。山道が少しずつ上下をしたり、蛇行をするようになり、舗装された車も通れるような道であるため、楽に歩いて進んでゆけた。

次の村Huntto(バスク語Huntto, Hounto, Honto, Untto、「良い」on, hon, hun < 、*hon + tto、バスク語「茸」ontto < スペイン語hongo < ラテン語fungus < sfungus < 古典ギリシア語σπόγγος spóngos、バスク語「幹」ondo < *ondo < スペイン語hondo < ラテン語fundu(m) < fundus < イタリック祖語*funðos < 印欧祖語*bʰudʰ-(m)n-o-s < *bʰudʰmḗn < 「深い」*dʰewbʰ- ~ *dʰubʰ- +‎ *-mḗn ~ *-mn̥が語源で山麓に由来)を過ぎてから山道になり、急な斜面を蛇行しながら高度を上げて進んだ。遥か彼方に集落が点々と見えて、草原から森林へと景色が変わり登山をしている実感が湧いてきた。

私たちは二回、道路から牧場に入ってから、道に迷ったが、スイス人の修道女2人が農夫の人に道を聞いてくれて、巡礼路に戻ることができて助かった。

フランス語圏の修道女で母国語で話すことができ、フランスでは快適に過ごせています。スイスからル・ピュイの道(Le Chemin du Puy < Via Podiensis)を歩いてきました。(950-51年に)初めて巡礼をしたLe Puy-en-Velayの司教(Godescalc)が歩いた最も古い道ですよと話していた。

羊を放牧している場所で糞が沢山転がっていた。道路に戻ると少しして、案内板がある展望台があり、そこで休んでいたアメリカ人Paul、南アフリカ人Winnie、ハンガリー人Nándorとまた会った。それから、更に坂道を上り続けてからなだらかになり、Paulとお話しながら尾根を歩き続けた。

Orissonに立派な石造りの巡礼者の休憩所(Refuge Orisson)があり、一休みしてから、Pyrénées越えした。大勢の巡礼者でごった返していた。何人かここ(Auberge Orisson)に泊ると言っていたが、公営の巡礼宿ではなく価格が高い上、更に進みたかったために止めた。(古くは1388年にSancta Maria d’Oriçunと記録され、古フランス語「祈り」 oraisun < 「祈る」orer < ラテン語orare < 「口」os < イタリック祖語*ōs < 印欧祖語*h₁óh₃sでヒッタイト語𒀀𒄿𒅖 / aišやルウィ語𒀀𒀀𒀸𒊭 / āssa < アナトリア祖語*āiss、サンスクリットआस् / āsやアヴェスタ語āh < インド=イラン祖語*HáHs、古プロシア語austoや古教会スラヴ語оуста / usta < バルト=スラヴ祖語*aušt-と関連、もしくはイタリック祖語*orāō < 印欧祖語「祈る」*h₂r̥-eh₂-yé-ti < 「合わせる」*h₂er-が語源で古典ギリシア語「祈り」ἀρά / ará < ヘレニック祖語*arwā、ヒッタイト語「頭を垂れる」𒅈𒌋𒉿𒄿 / aruwae-zi < アナトリア祖語*ʔorwyéti、サンスクリット「崇める」आर्यन्ति / āryanti < インド=イラン祖語*Háwšatiと関連。バスク語Biakurriは「二つ」biak < *bi + 「セイヨウハシバミ」ur, urritz < *hur̄が語源)

山道の巡礼路は続き、高原を幾重にも重なるピレネー山脈(Les Pyrénées)の山々を臨みながら進んだ。標高が高いため背の高い木がなくなり原っぱが広がっていた(Bois d'Arloté)。

高度をかなり上げてきたと感じた(Pic d'Orisson)。羊や馬が放牧された高原をアメリカ人Paulと一緒に歩いた(Pic d'Itchachéguy)。アメリカのコロラドにもこんなきれいな雪景色がある景色がある山道があり、小さい頃によくハイキングをしたことを思い出すんだ。今度遊びに来てよと話していた。

辺りは見渡すばかりの緑で遠くに山が幾重にも連なり美しくて景色を楽しみながら歩けた。天候も安定してきて、晴れ間がみられるようになりすがすがしく気持ちが良かった。分かれ道がある前(Pic d'Hastateguy)から、遠くの岩の上に聖母像(La Vierge d'Orisson)がこちらを向いて立っていた。

(Itchachéguy, Itchashéguy, Itsasegiはバスク語「湖」itsas < 「水」*itz- + 「沢山」-śo + 「丘」egi < *hegiが語源。Hastateguy, Hostatéguy, Hastategiは「嫌」hastio < ガスコーニュ語hastiàu < ラテン語fastidium < 「軽蔑」fastus < イタリック祖語 *farstos < 印欧祖語*bʰérs-tós < 「尖る」*bʰers- + ラテン語「倦怠」taedium < 「厭う」taeter < イタリック祖語*taedros < 印欧祖語*téngʰ-teros < 「重い」*tengʰ- + バスク語「丘」egi < *hegiが語源。)

それからも車も通れる舗装された良い道(D 428)が続いて、高台(Col d'Elhursaro)を進んだ。牧草地になっていて、家々も点在しており、車が走れる道があるとはいえ、こんなに高い所にも人が住んでいることを驚きながら歩いて行った。

(Elhursaroはバスク語「風車」eihera < 「曳く」*e(i)h- + 「牧草地」saroi < *śaleが語源で地名Eiheralarre, Eiheralaŕe, Eyheralarréと関連 )

小道に入る所(Pic Urdanarre)に十字架(Cruz de Thibault)があり 、お祈りをしてから少し進むとSantiago de Compostelaまで765kmという道標があった(Pic de Léizar Athéka)。

(Urdanarre, Urdanarré, Urdanharriはバスク語「泉」urdun < 「水」ur < *hur + 「がある」-dun < *e=uka-n + 「村」hiri < *huriが語源)

小屋(Puesto de Caza)の近くには、自然に水が湧き出している場所が多く、飲み水が出る泉(Fontaine de Roland / Fuente de Roldán / Roldango Itturria)で水筒を満たした。泉の前でオーストラリア人Amandaと南アフリカ人Winnieと会い、雨が時どき降ってきて寒いねとおしゃべりをした。

(Léizar Athéka, Lissérateca, Leizarathekaはバスク語「トリネコ」leizar < *lais- + 植物の接尾辞-ar + 「戸」ateka < *ate + 接小辞-koが語源)

国境(Col de Bentarte / Collado de Bentartea)に着いて、スペインに入った。Paulとこれでフランスとお別れだねと話しながら、こんなに見晴らしがよい国境は素晴らしかった。普通は検問所の厳しいチェックがあるから緊張するけれども、ピレーネは何て開放的な国境なんだと冗談を言っていた。

(Bentartea, Bentarté, Bentartekoはバスク語「店」benta < 古スペイン語venta < ラテン語vendita < 「売る」vendo < venum < イタリック祖語*vesnos < 印欧祖語*wós-n̥ < *wes- + ラテン語「与える」do < イタリック祖語*didō < 印欧祖語*dé-deh₃-ti < *deh₃- + バスク語「羊牧場」artegi < 「雌羊」ardi < *ardi + 「丘」egi < *hegiが語源)

そこから、泥沼のような状態の道が続き、泥が跳ね上がって、ズボンやリュックに付着して、大変だったが、Txangoa / Elizarra辺りの道端には雪が沢山残っていて、足を突っ込んで綺麗にした。雪の中に寝そべりながら、先ほど泉で汲んだ水を飲んで、足をいたわりながら、のんびりと過ごした。

(Txangoa, Changoaはバスク語「ツルオヘビイチゴ」txangorri < zaingorri < 「根」zain < *sain + 「赤い」gorri < *gor̄i、Elizarraはバスク語「トリネコ」leizar < *lais- + 植物の接尾辞-ar + 「村」hiri < *huriが語源。)

少しするとMenditxipiの道沿いに小さな小屋(Refugio Izandorre)があり、更に泥道を行き、しばらく経つと道が下りになった。 峠(Alto de Lepoeder)を越えるとき、大量の雹がばらばらと降ってきて驚いた。手に取ると結晶が美しかったが、フードをかぶっていても、顔や頭に当たり痛かった。悪条件の中、山を下ると、Alto Don Simónで雹が雨に変わり、激しく降り注いだが、雹よりましだった。

(Menditxipiは1269年の文書にSancta Euffaと記載、バスク語「山」mendi < *bendi + 「小さな」 xipi < *tipiが語源。Izandorreはバスク語「ある」izan < *eizani < 過去分詞*e- + 動詞「なる」*sa + 過去分詞*-n + 「塔」dorre < 古スペイン語torre < ラテン語turris < 古典ギリシア語τύρσις / túrsisが語源)

Paulと中世の神学について、また、彼がフランスのプロヴァンス地方を旅行した時の体験を話してくれたり、彼の身の上の話を聞いた。コロラド州Denverで料理人として働いていて、自分はアイルランド系移民の子孫だから、先祖代々カトリックなんだと話していたから、冗談でアメリカにはピューリタンとプロテスタントが多いと思っていたが、カトリックも多いんだねと言うと大笑いして、アメリカでも、きちんとアイルランドの聖パトリックを思い出して、とても盛り上がるよと話していた。

彼は昔ながらの生活をしていて、家にテレビもなく、またパソコンも携帯電話もないからインターネットをしないが、新聞を読めばニュースは見られるし、別に不自由なく暮らしていると話していた。インターネットがないのに色んな情報を集めて、フランスとスペインまで巡礼に来れてすごいねと言うと、実際に現地に行けば何とかなるものだよ。航空券さえ買えれば問題ないよと笑っていた。

私たちも事前に何か調べてきたわけでもないから、そう考えてみれば、別に気持ちさえあれば、体当たりで現地に行けば何とかなるものだと感じていた。そうして、おしゃべりを楽しみながら道を行くと、遠くに大きい美しい建物が目に入り、直にRoncesvallesに着いた。

13世紀にナバラ王サンチョ7世(Sancho VII, 1154-1234)によりロマネスク様式で建てられた古い教会(Real Colegiata de Santa María de Roncesvalles)があり、14世紀に作られた美しい聖母子像(Escultura de Santa María)が安置されていた。また、13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de Santiago)のファサードも特に美しかった。二軒のレストランと巡礼宿(Albergue de peregrinos)があった。1123年に作られた巡礼者の救護院(Hospital de la Caridad)に由来して、今でも巡礼者を手厚くもてなす精神が受け継がれているように感じた。

巡礼宿(Albergue)で片付けをして、シャワーを浴び、午後8時に始まるミサの前に食事を皆と食べることにした。巡礼宿(Albergue)としても泊まることができるレストラン(Casa Sabina Hosteria)では、9€で特大パスタと鱒の油揚げとポテトとワインが出た(スペインでは巡礼者用のメニューがplato combinadoとして9€で提供されていることが多かった)。パスタは塩辛くなく脂っこくなく美味しかった。鱒もフレンチフライも味付けが美味しく、自然の味で塩や湖沼をかけなくても美味しかった。

食後に寒くて雨や雹で濡れて随分と体力を奪われて、登山をしてきた疲れがかなり出てしまい、片頭痛がしていたため、巡礼仲間たちに無理をしない方がいいと言われ、教会(Iglesia Colegial de Santa María)でのミサには行けなくて残念だが、安静にして回復してきて、Albergueの地下室で日記を書いていると、フランスの3人の姉妹の少女たちが、フランス語で話しかけてきて盛り上がった。

黒のレトリバーの犬と一緒に巡礼していて、お父さんのDominiqueは犬と一緒に外に寝るとのことだった。犬は活発で道を行ったり来たりしながら動き回り、元気でいいなと思っていたと話した。

家族で余暇が出て来たとき、歩ける所まで歩き、次にその地点からスタートして、最後はSantiago de Conpostellaに到達する計画を話してくれた。今回はMontpelierから、Pamplonaまで歩き、次の機会にBurgosまで歩いて、何分割かして、最後に完成させると聞いて、なるほど、巡礼を分割できるかと驚いた。午後10時の就寝時間になり、電気が消える前にはオルガンと聖歌が流れる中、眠りについた。

スペイン語でRoncesvalles、フランス語でRoncevauxと呼ばれ、フランス語ronceは、ラテン語「キイチゴ(Rubus fruticosus)」rumicemから来ているが、また、「厳しい」という意味もある。ラテン語「谷」vallis(複数形valles)は、フランス語val(複数形vaux)となった。古くは1050年にRozaballes、1127年にRonzasbals、1226年にRocideuallis、1254年にRonçasuayllesと記録された。

バスク語でOrreagaと呼ばれ、17世紀にOrreriagua, Orrierriagaと記録され、バスク語「岩」erroitz < *er̄oic、「切り株」erro < *her̄oが語源と考えられる。また、「エニシダ(Cytisus scoparius)」erratz < *erhacも考えられ、近くにバスク語「白」zuri < *suriと組み合わされた村(Erratzu)や山(Erratxurizko > Ortxasko)の名前があり、同じ語源の地名かもしれない。

カール大帝(Charlemagne, 748-814)が唯一敗北を喫したロンスヴォーの戦い(La bataille de Roncevaux)があり、アインハルト(Einhard, c. 775-840)が編纂した《カール大帝の伝記(Historia de vita Caroli magni IX)》でも言及され、778年8月15日にRolandが戦死した。

バスク人の山賊が、峠(Puerto de Ibañeta)でイベリア半島遠征から帰るカール大帝の軍を待ち伏せして奇襲して、カール大帝の甥ブルターニュ辺境伯ローランが戦死して、古フランス語の叙事詩《ローランの歌(La Chanson de Roland CLXXVI)》で「Morz est Rollant, Deus en ad l'anme es cels. Li emperere en Rence[s]val[s] parvient.(ローランは死んだ。天の神の許へ彼の魂は行った。皇帝はロンセスバーリェスに着いた。)」と詠われた。Pamplona / Iruñaを破壊された報復とも考えられる。

アインハルト(Eginhardus, c.775-840):《カール大帝伝(Historia de vita Caroli magni)〉第9巻

Cum enim assiduo ac poene continuo cum Saxonibus bello certaretur, dispositis per congrua confiniorum loca praesidiis, Hispaniam quam maximo poterat belli apparatu adgreditur; saltuque Pyrinei superato, omnibus, quae adierat, oppidis atque castellis in deditionem acceptis, salvo et incolomi exercitu revertitur; praeter quod in ipso Pyrinei iugo Wasconicam perfidiam parumper in redeundo contigit experiri. Nam cum agmine longo, ut loci et angustiarum situs permittebat, porrectus iret exercitus, Wascones in summi montis vertice positis insidiis - est enim locus ex opacitate silvarum, quarum ibi maxima est copia, insidiis ponendis oportunus - extremam impedimentorum partem et eos qui novissimi agminis incedentes subsidio praecedentes tuebantur desuper incursantes in subiectam vallem deiciunt, consertoque cum eis proelio usque ad unum omnes interficiunt, ac direptis impedimentis, noctis beneficio, quae iam instabat, protecti summa cum celeritate in diversa disperguntur. Adiuvabat in hoc facto Wascones et levitas armorum et loci, in quo res gerebatur, situs, econtra Francos et armorum gravitas et loci iniquitas per omnia Wasconibus reddidit impares. In quo proelio Eggihardus regiae mensae praepositus, Anshelmus comes palatii et Hruodlandus Brittannici limitis praefectus cum aliis conpluribus interficiuntur. Neque hoc factum ad praesens vindicari poterat, quia hostis re perpetrata ita dispersus est, ut ne fama quidem remaneret, ubinam gentium quaeri potuisset.

ザクセン人との戦さは間断なく続き、境が明らかな所に陣営を敷くと、彼は戦の準備を万全にして、スペインへ赴いた。ピレネーを越え、襲撃しては、全ての都市や城を降伏させ、軍隊は無事で無傷のまま帰路についた。しかしながら、ピレネー山脈では、帰路で一たびガスコン人の奇襲を受けた。土地が狭いため、軍は長い隊列を組んで進んだが、ガスコン人の側は切り立った山頂で待ち伏せ(そこは森の最も茂った所で隠れて見えずらいため、待ち伏せには好都合だった)、荷物運搬の最後と、最後尾を進み、先を行く部隊を守る隊列に上から襲いかかり、谷に突き落とそうとした。彼らとの戦闘は、最後の一人を殺害するまで続き、荷物は略奪された、夜になるに乗じて、彼らは様々な方向に急いで散っていった。この一件では、ガスコン人にとって、武具が軽く、土地からしても、有利であった。反対に、フランク人にとって、武具が重く、場所からしても、あらゆる方面でガスコン人より、不利な戦いを強いられた。この戦いにおいて、王の給仕エギハルドゥス、宮廷の侍臣アンセルムス、ブルターニュ属領総督ロランなど、多くの者が命を落とした。この件については、直ぐに復讐することもままならなかった。何故なら、一たび戦を成し遂げると、敵は分散してしまい、情報も残らず、どの民族の許に潜り込んだかすら、知ることもできなかったからである。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第7章〈(De nominibus terrarum et qualitatibus gentium, quae in itinere sancti Jacobi habentur)〉

In terra etiam Basclorum, via sancti Jacobi est excellentissimus mons, quod dicitur Portus Ciserae, aut quia porta Hispanise ibi habetur, aut quia per illum montem res necessariae de alia terra ad aliam transportantur, cuius ascensus octo milliariis, et descensus similiter octo, habetur. Sublimitas namque eius tanta est, qued visa est usque ad coelum tangere, cuius adscensori visum est propria manu coelum posse palpitari : de cuius fastigio potest videri mare Britannicum et occidentale, et ora etiam trium regionum, scilicet Castellae et Aragoni et Galliae.

バスクの土地には聖ヤコブの道にCise峠と呼ばれる最高に素晴らしい山がある。スペインの入り口にあり、この山を越えて必要な物資がこちらの土地(フランス)からあちら(スペイン)へ運ばれている。上りは8マイル、下りは同じく8マイルである。山の頂はとても高くて、空に届くほどである。そこを上る人は自らの手で天空に触れることができるように思われる。この頂から、ビスケー湾と西の海、三つの王国、即ちカスティーリャ、アラゴン、フランスを望める。

In summitate vero eiusdem montis est locus, quod dicitur Crux Caroli, quia super illum securibus et dolabris et fossoriis caeterisque manubriis Carolus cum suis exercitibus in Hispaniam pergens olim tramitem fecit, signumque Dominicae crucis prius in eo elevavit, et tandem flexis genibus versus Gallaeciam Deo et sancto Jacobo precem fudit ; quapropter, peregrini, genua sua ibi curvantes versus sancti Jacobi patriam, ex more orant, et singuli singula vexilla dominicae Crucis infigunt. Mille etiam cruces ibi possunt inveniri, unde primus locus orationis sancti Jacobi ibi habetur.

この山の頂にカール大帝の十字架と呼ばれる場所がある。カール大帝が軍隊とともにスペインに向かう途上、斧やつるはしやスコップなどの道具で道を作り、主の十字架の標を立てたのがこの場所であるからである。それから、カール大帝はガリシアに向かい、跪いて、神と聖ヤコブに祈りを捧げた。そのことから、巡礼者は聖ヤコブの土地に向かい、膝をついて祈り、それぞれが自分の主の十字架の標を立てる習わしになった。そこには無数の十字架がみられる。そのことから、ここが聖ヤコブに最初に祈る場所とみなされている。

Postea vero in descensione eiusdem montis invenitur hospitale et ecclesia, in qua est petronus, quem Rotolandus heros potentissimus, spatha sua, a summo usque deorsum per medium trino ictu scidit. Deinde invenitur Runciavallis, locus scilicet quo bellam magnum olim fuit factum, in quo rex Marsirus, ei Rotolandus, et Oliverus, et alii pugnalores cxl millibus christianorum simul et sarracenorum occisi fuere.

最後にこの山の下り道に救護所とRollandの岩がある教会がある。きわめて勇敢な英雄はこの岩を剣で三回斬り付け、真っ二つに割った。それから、Roncesvallesに至る。正にここでかつてMarsilie王、Rolland、Olivier、他の戦士たちが4万人のキリスト教徒、イスラム教徒ともに命を落とした戦いが繰り広げられた。

André Burger (1948). La légende de Roncevaux avant la Chanson de Roland, Romania 70(280): 433-473.

フランスとスペインの国境(Col de Bentarte / Collado de Bentartea)

2008年4月18日(金)9日目(Roncesvalles-Burguete-Espinal-Viscarret-Linzoáin-Zubiri: Arbergue Zaldiko)

Roncesvallesから悪天候で泥道に難儀しながら進み、次の町(Burguete)を過ぎたときにエストニア人Tiinaと会い、様々な話をして楽しんだ。また、バスク地方の赤い屋根に白い漆喰で作られた美しい家々を眺めながら歩いた。午後直ぐに更に天候が悪くなるため、Zubiriで予定の半分ほどではあるが、早めに切り上げた。Saint-Jean-Pied-de-Portの巡礼宿で一緒の部屋だったスウェーデン人と夕食を作りおしゃべりしながら食べてから、また巡礼仲間から誘われて、近くのBarで郷土料理を食べた。

今日は朝から生憎の雨で寒いが、空気は美味しかった。午前8時に宿を出ると、直ぐに森の中に出て、少し行くと抜けてから、次は泥沼が続き、悪路を進んだ。

道路(N-135)と並行してある巡礼路は舗装されていないため、昨日の雨であったため、水が流れ込んできて歩きづらかった。町を出るときに石造りの古い十字架(Cruz de Roldán / Croix de Pierre)があった。(《サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》に「カール大帝の十字架(Crux Karoli)」が記録されており、それを記念して建てられた。)

Burgueteでは、1104年に建てられた立派な教会(Iglesia de San Nicolás de Bari)の前でイギリス人Margaretと会った。私が歩くのが早いため、次の村で父が来るまで教会の前のベンチで座っていた。村の中には18世紀に建てられた民家などがあり、古くからこの村に人が住んでいたことに感激した。

村(Burguete)を通り過ぎたとき、牛舎の中で牛が草を食べていたり、牧場の中に巡礼路が通り、柵を開け閉めして、牧草を食んでいる牛たちと目を合わせながら歩いた。巡礼路は舗装されていない砂利道だったが歩きやすくて、一本道のために迷うこともなくぐんぐん進めた。

そのとき、エストニア人で語学に堪能でスペイン語も淀みなく話せるTiinaと出会い話しながら、一緒に巡礼路を歩いた。アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935-)の話をすると、まさかここでこんな話がでてくるなんてと驚いて喜んで、父の音楽の先生だった人だと言っていた。

(Burgueteは、1127年に巡礼者の救護院が建てられて、1197年にフランク人が入植して、Burgum Roscideuallis, Burgo de Roncasuaylles, Ronçasvayllesと記録され、ラテン語「要塞」burgus < フランク語*burg < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és < 「丘」*bʰerǵʰ- + 接小辞-ete < ラテン語-ittum < -itus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源。burgo deが訛り、 1532年にburguetと記録された。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》では、Villa Runcievallisと記録された。)

(バスク名Auritzは、1110年にAuriçと記録され、地域一帯がErro(バスク語Erroibar)と呼ばれた。バスク語「岩」erroitz < *er̄oic、もしくは、「切り株」erro < *her̄o +「場所」-itz + 「新しい」barri < *ber̄iと分析され、Roncesvallesのバスク名Orreaga < Errozabaと同じ語源である。)

(バスク語の土地を示す接尾辞-itzは、ナバラ地方の地名に多い接尾辞を持ち、アラゴン語 -ués, -o(t)z < バスク語 -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosから発展したとも考えられ、ラテン語「ハリネズミ」ericius > *auriciusや ローマ人名 Aurius > *Aurusなどの訛形ともされるが、バスク語起源が正しい語源である。また、実際に谷にはごつごつした岩が転がっていたため、地形から名付けられたことが現地の状況から分かることが面白い。ナバラ地方の街や村には、バスク語名とスペイン語名がある。Patxi Salaberri Zaratiegi (2011). De toponimia vasco-pirenaica: sobre el sufijo -otz, -oz(e), Nouvelle revue d'onomastique 53: 33-63; (2013). Topónimos alaveses de base antroponímica terminados en –iz, -ez y –ona / -oa, Lapurdum 17: 201-20.)

Espinal(1264年に作られた町でスペイン語「茨」espino < ラテン語spina < イタリック祖語*speinā < 印欧祖語*spey-neh₂ < 「尖った」*spey-が語源。バスク語Aurizberriは「アウリス」Auriz < ラテン語「耳」auris < イタリック祖語*auzis < 印欧祖語*h₂ṓws + バスク語「新しい」berri < *ber̄iが語源)の美しい教会(Parroquia de San Bartolomé)の前で一休みして、Tiinaと一緒に村を歩いて出た。

家々は立派な石造りで特に紋章が付いた古い家が立ち並んでいて由緒がありそうだった。特に玄関のアーチや窓枠の石組みが頑丈そうで壁には漆喰が塗られておりどの家もしっかりと造られていた。

直に車道(N-135)から離れて、山道の舗装されていない歩道に入り、牧場の柵の中を歩いて進んだ。巡礼路に降った雨の水が流れて、川のようになっている悪路を進み、峠(Alto de Mezquiriz)を越えてから下りになった。Tiinaとこれは道というより、川の中を歩いているみたいだねと冗談を言いながら悪路を進んだ。未舗装のこうした道が昔の巡礼者たちの苦労を偲ばせてくれて良いと感じた。

それから、また車道に沿いながら歩道の巡礼路が続いて歩きやすかった。途中の小さな村Viscarret(バスク語Bizkarretaは、1196年にViscarreteと記録され、1245年にBiscarret、1274年にBisquareta, Bisquarret、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBiscaretus, Biscarellusと記録され、バスク語「起伏がある」bizkar < *bi=ska-r̄が語源、Biscarrosse, Biscarrague, Bizkarze, Bixquert, Visker とも関係)で村の中にあるBar Juanに入り、チョコレートドリンクをイタリア人、アメリカ人、ケベック人Claude、エストニア人Tiinaと飲んで一服した。小雨が降り続いて寒い日であるため、温かい飲み物で心も体も温めることができた。父が冷たい中を歩いてきたから体が温まって嬉しいと話していた。

それから、牧場の脇を通る一本道(Calle San Saturnino)の歩きやすい巡礼路を進んでゆき、近くの町Linzoáinを正午前に通り、13世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Saturnino)や赤い煉瓦と白い漆喰が美しい家の間を過ぎた。

(バスク名Lintzoainは、1245年にLinçoayn、1267年にLiçoain、1274年にLinçoan, Linçoanh、1534年にLinzoáinと記録され、バスク語「トネリコ」leizar, lizar < *lais-‎ + -ar、もしくは「洞窟」leize, leze < *le(i)s- + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源。Patxi Salaberri Zaratiegi (2000). Acerca del sufijo toponímico -ain, Fontes Linguae Vasconum 32: 113-137.)

それからは少し上り坂になり、岩がごつごつした谷(Valle de Erro)に至り、ローランの道(Pasos de Roldán)と呼ばれる橋(Puerto de Erro)や沼や川のような悪い道や綺麗に舗装された道を進んだ。

午後2時半に天候が悪くて、道も泥だらけなため、Pamplonaまで歩こうと思っていたが、無理をせずZubiriで切り上げた。巡礼宿(Albergue)に入ると直に雹が降ってきて、早く切り上げて良かった。

街中はSiestaで閑散としていたが、巡礼宿はにぎやかだった。シャワーを浴び、午後5時にSiestaから終わり、近くの食料品店(Embutidos Arrieta)に行き、夕食の食材を買ってきた。

巡礼宿の前で皆と話していると、自転車で巡礼していて、自転車のハンドル前にテディベアーが付いていて、濡れていたので絞っていたスペイン人や赤ちゃんを連れてベビーカーをひいて夫妻で巡礼をしていたBarcelona出身の夫妻José Luis & Vanessaがいて、特に気さくで底抜けに明るかった。今日はずっと雨で道が大変でしたねと話していたら、雨が続くわけがないから、陽がこれから出て来るから、心配いらないよ。太陽に向かって歩いて行けば、必ず着くんだと笑顔で言っていた。

巡礼宿で様々な人たちとおしゃべりできて楽しかった。同年代のフランス系カナダ人(ケベック人)Davidと話したり、Saint-Jean-Pied-de-Portの巡礼宿で一緒の部屋だったスウェーデン人AnjaとEmmaと一緒に夕食を作り(というよりも作るのを手伝ってもらい)、野菜をおしゃべりしながら食べた。

それから、巡礼仲間の南アフリカ人Winny、オーストラリア人Amanda、イギリス人Margaret、フランス人Dinaたちから、夕食をBar Valentínでとるが、どうかと誘われたのでついてゆくことにした。

バスク地方のインゲン豆のスープ(Garbure)やお肉、デザートのチーズケーキも美味しかったので大満足だった。隣の席ではケベック人David, Claude, Gillesが楽しそうに話していて、フランス語でこっちにもおいでよと誘われたり、温かい雰囲気の中で沢山おしゃべりを楽しみながら、二度目の夕食を食べることができて楽しかった。

Zubiriは、1040年にZubiria、1095年にZubbiria、1137年にPons de Çubiria、1269年にÇuuiriと記録され、バスク語で「橋」zubi(「木」zur < *sul + 「歩く」ibili < *bil)+「街」iri < *huriが語源。アルガ川(Río Arga)に架けられた橋(Puente de la Rabia)に由来。2世紀にポルトガルのBraga(古代ローマ都市Bracara)で殉教した聖キテリア(Quiteria)の聖遺物が埋められたとされ、狂犬病に架かった家畜を三回渡らせると直るという伝説が生まれた。エウロギウス(Eulogius Cordobae, 800-859)の地図にラテン語でSeburisと記録され、Seburriumとも称された。古い記録にはバスク祖語に近い元形が残されており、新しい記録では訛りや子音が落ちてしまうことが多いため、地名を探究するとき、古い記録を集めて、綴りの違いなど、表記の揺れを調べることが大切である。(José Luis Ramírez Sádaba (1987). Toponimia vascona y toponimia navarra: su contribución para ponderar los efectos del proceso de aculturación, Príncipe de Viana Anejo Nº. 7, 1987: 563-576.)

Espinalに立ち並ぶ石造りの立派な家々

2008年4月19日(土)10日目(Zubiri-Ilárraz-Esquíroz-Larrasoaña-Zuriáin-Iroz-Zabaldica-Huarte-Villava-Burlada-Pamplona: Freundeskreis der Jakobuspilger Paderborn)

HuarteからArga川とUrbi川が合流する美しい川岸(Presa Huarte)を爽快に歩けた。巡礼を始めて3日目のため足を慣らすため、Pamplonaで午後直ぐに切り上げた。ドイツ系の巡礼協会が経営する巡礼宿で清潔で快適に過ごせた。夜にケベック人(フランス系カナダ人)Claudeと町に繰り出して、フランス語で沢山話をして、夕食を食べてから、街の中を一緒に散策して、Pamplonaの夜景を楽しんだ。

今日は快適な巡礼宿で良く眠れた。午前6時半に起き、身支度をして靴の泥を落として、午前7時半に出発して、橋(Puente de la Rabia) を渡り、村を出た。南アフリカ人Winnyとオーストラリア人Amandaと歩いた。最初は車道(NA-2335)と並行していたが、直ぐに巡礼路は山道になり、泥がまだ残る道をぬかるみに注意をしながら歩いた。今日は天気が良かったので、早く進むことができた。

Ilárraz(バスク語Ilarratzは、1244年にIllarraçと記録され、バスク語「ソラマメ(Vicia faba)」ilar < *iłha-rが語源)を過ぎた場所に古いロマネスク様式の教会(La Abadia)があり、日陰に座る場所があり、一休みして水を飲んだ。Esquíroz(バスク語Ezkirotzは、1071年にEzquirozと記録され、バスク語「シナノキ(Tilia europaea)」ezki < 「木」*ez-が語源)を通った。なだらかな平原を縫うように歩きやすい道が続いていて、心地よい上下があり、ハイキングをしているように快適に進めた。

ナラ、クルミ、ハシバミ、カエデなどの木が生えている山道を行き、河川を渡り、牧場の中を通るなどした。牧場の入り口には必ず柵があり、巡礼者が開け閉めして、柵の中の牛が逃げないようにされていた。巡礼路を示すために帆立貝の標とBasque語が書かれていて迷うことなく進めた。

Larrasoaña(1049年にLarresoin, Larressoyn、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でResogna, Risognaと記載され、バスク語「平地」larrain < *lar̄e + 「後ろ」soin < *śoinが語源)に午前9時に着いた。街の中で少し父が付いてくるのを待ちながら散策をした。

昔に追い剥ぎが出たという、14世紀にArga川に架けられた橋(Puente de los Bandidos)を渡り、巡礼路を進むとAquerreta(バスク語Akerreta、1217年にAquerretaと記録され、「雄山羊」aker <「雄」*ake- + 接尾辞-reta < *-oz(e), *-tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)の村に15世紀に建てられた古い教会(Iglesia de la Transfiguración)があった。

Zuriáin(バスク語Zuriainは、1090年にZuriain、1268年にÇuriayn、1277年にSurianh、1280年にÇuriainと記録され、「白」zuri < *suri < *sur- + 接尾辞「色」-i + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源)を通り、道路(MN-135)を進んだ。

左手に川(Río Arga)が流れていて、爽やかな風は吹いていて、道もとても良くて、気分良く歩いてゆけた。交差点でPaulにまた会い驚いた。またここで出会うとは、coincidenceではなく、providenceだねと冗談を言いながら、昨日はどこに泊まったんだとか、次はどこまで歩くつもりなのかなど、談笑しながら進んでいたら、話に明け暮れて帆立貝の道標を失い、途中で別の道(Carretera a Ilurdotz / NA-2339)を進んでしまい、迷いながらも方向を感じながら歩いてゆくと正しい道に戻った。

(Ilurdotzは1066年にIllurdoç、1268年にIlurdoz、1274年にIlurdos、1278年にYlurdoz、1279年にElurdosと記録、人名Ilurdo, Ilurde < 「雪」elur, elhur < *e=ɫhu-r̄ + 「猪」urde < *urde + 接尾辞-o(t)z < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源。)

Iroz(バスク名Irotzは、931年にIrioz、1220年にYrotç、1268年にYraoz, Yrotzと記録、バスク語「町」iri < *huri + 接尾辞-o(t)z < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)の村では、16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の手前の古い納屋の前を畑に向かう農夫が歩いていた。村を出た所に橋(Puente de Irotz)があり、川(Río Arga)に沿う山道の巡礼路を進んだ。

Zabaldica(バスク語Zabaldikaは、1268年にÇavaldicaと記録され、「拡げた」zabaldu < 「開けた」zabal < 「平ら」*sab-, *sap- + 古スペイン語-ica < ラテン語-icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語 *-ḱosが語源)からいきなり平地が続くようになり、Arga川の向こうのArleta(1268年にArletaと記録され、バスク語「放浪」arlot(e) < 古スペイン語arlote < 古フランス語arlot < herlot < ゴート語「軍隊」harjis < ゲルマン祖語*harjaz < 印欧祖語「軍団」*kór-yos < *ker- + 接小辞-ot < ラテン語-ittus < -itus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源) に行かず、先の道が入り組んで分かりにくい場所で地図がなかったため、道路脇(N-135)の小道を歩いてゆき、白い花崗岩で作られた十字架を見つけた。

新興住宅地Ollokiに入ったり迷いながら、山道に少しでも入ると泥道が歩きづらかったため、スペイン人が自転車で走ってゆく道を進むことにした。宅地開発された地域で風情がないが道は良くて長い距離を歩けた。(Ollokiは1192年にOlloqui、1266年にOylloqui、1268年にOylloquy、1274年にoloquiと記録され、バスク語「雌鶏」ollo, oilo < 古スペイン語pollo < ラテン語pullus < イタリック祖語*polnos < 印欧祖語*polH-nós < 「灰色」*pelH- + 接尾辞-oki, -toki < 「持つ」euki < *e=uka-nが語源。)

流石に貝殻の道標がないため、おかしいとは思いながら、まあ、Pamplonaに向かう道路(N-135)を歩いて行けば、目的地に近づけるかと思いながらも、舗装された道路を車が脇を通り過ぎていく中を歩いてゆくのは風情がないため、町の人にたずねながら、近くを通っているであろう巡礼路を必死に探しながら、川(Río Arga)に沿う道を歩いた。川のせせらぎが気持ちよくてどんどん進めた。

Huarte(バスク語Uharteは、1007年にUhart、1052年にHuarteと記録され、「水の間」ur < *hur + arte < アラゴン語arto < ラテン語「撒かれた」substratum < 「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó +‎ ラテン語「拡がる」sterno < イタリック祖語*stornō < 印欧祖語*str̥-n-h₃- < *sterh₃-が語源で川(Río Arga)がS字型に蛇行しており、U字型の砂洲にできた町であり、たびたび洪水に見舞われたため、川岸は広く取られており、周りには建物がなく、一面の芝生が美しい公園とされていた)の町に入る前で川(Río Arga, Río Urbi)が合流する美しい川岸(Presa Huarte)を歩いた。

父が箱根みたいなきれいな風景だと気に入っていて、温泉は出ないけれどねと冗談を言って笑っていた。町に入る前にしばらく、川の周りを散策して気持ちの良い時間を過ごした。

大きなロータリー(PA-30, NA-4200)を通り、Huertaの街の中を抜けて、Villava(1194年にVilla Nova, Villava、1226年にAtarrauiaと記録され、バスク語Atarrabia < 「玄関」atari(「戸」ate + 「周り」iri)+「浅瀬」ibia(「川」ibi < *ib-)、スペイン語Villava < Villaova < Villanova < Villa noua < ラテン語「村」villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + ラテン語「新しい」novus < イタリック祖語*nowos < 印欧祖語*néwosが語源)やBurlada(バスク語Burlata、1097年にBruslata, Buruslata、1195年にBrusladam, Brusladaと記録され、ラテン語「赤」burrus < ギリシア語「炎」πυρρός < 「火」πῦρ < 印欧祖語*péh₂wr̥が語源)の町には入らず、Ultzama川との合流地点からArga川沿いに小道(Paseo del Arga / Argako Ibilaldia)を歩き、美しい橋(Puente viejo de Burlada / Burlatako zubi zaharrea)を見た。公園で犬の散歩をしたり、町の人たちが寛いでいた。それから、巡礼路(Camino Burlada)に戻り、帆立貝の道標をやっと発見してホッとした。美しい川岸の小道をハイキングのように歩いて、爽やかな川の流れを楽しめて気持ちが良かった。

Navarraの古都Pamplonaに入る直前のBurladaで川(Río Arga)にかかる美しいアーチの中世の橋(Puente de la Magdalena)を渡った。直ぐに公園(Playa de Ca­par­ro­so)に面した巡礼宿(Albergue)を見つけて泊ることにした。

今日は午後2時半に着いたが、天候もまずまずであり、早めに切り上げることにした。ドイツ人の巡礼者協会(Freundeskreis der Jakobuspilger Paderborn)が経営している公営の巡礼宿(Albergue municipal)で安くて7€で泊まることができ、とても清潔で木造の建物が美しかった。

巡礼者にとても親切に持て成して下さり、きめ細かく、お風呂にも入れた。靴を脱いで、受付の部屋に入るとオレンジジュースとクッキーを出してくれた。

Wolfgangという名前だったので、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の話をすると、とても喜んで、ホルン協奏曲を流してくれた。ホルン協奏曲第3番でKöchel 447番でしょうというと、とても驚いて、夜にはクラリネット協奏曲(Köchel 622番)を流してくれるとお話された。

巡礼宿で久しぶりに温かいお風呂に入ることができた。ドイツ人らしく、綺麗にされていて、きちんとシャンプーや石鹸も備え付けられていた。それから少し貯め込んでいた洗濯をした。洗濯機は5€だったが、出来上がりに巡礼宿の主人(hospitalero)Wolfgangさんの奥様 (hospitalera) Roswithaさんが、全ての洗濯物をきちんと畳んでくれて、とても感じが良かった。

それから、Pamplonaの街を散策した。建物に近づくと落書きだらけだった。教会にまで落書きされていて呆れるほど激しかった。大通り(Calle de Juan de Labrit, Avenida de Carlos III el Noble Etorbidea)を行き、ギリシア建築の中央官庁(Palacio de Navarra)を見た。

街に着いたときは、Siestaだったので活気がなかったが、中央広場(Plaza del Castillo)に近い通り(Calle San Nicolás, Calle del Pozo Blanco)がにぎやかになってきた。

有名な牛追い祭でも映像で見る場所(Calle de la Chapitela)があった。大通り(Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)に面した立派な像(Monumento a los Fueros)を見てから進んでゆくと1117年に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Nicolás)が美しかった。

南側にあるバシリカ(Iglesia San Ignacio)の塔の丸窓が美しくて印象深かった。大通り(Calle Cortes de Navarra, Calle Amaya)を歩いて、巡礼宿に帰るとき、闘牛場(Plaza de Toros)の前にヘミングウェイ(Ernest Hemingway, 1899-1961)の銅像(Monumento a Ernest Hemingway Oroitarria)があり、前に英語を話す人がいて、アメリカ人かと聞くと大当たりだった。Santiago de Compostelaへの巡礼をしていることを話すと、今はSaint-Jean-Pied-de-Port近くに住んでいると言っていた。

それからお城(Fortín de San Bartolomé)の上から、Arga川とPamplonaの町を見渡した。高台になっていて、要塞が築かれた意味が分かった。町を敵から守るのに適した場所は、必ず見晴らしがよくて、町にお城があると登ってみたくなった。

午後4時半前に巡礼宿で一時間ほど少し仮眠して、食料を買いに街に出た。商店街(Calle de San Agustín)に面した1897年に建てられた教会(Parroquia de San Agustín)やその先にある通り(Calle Calderería)に面した18世紀に建てられた教会(Capilla de San Martín)を見た。

それから、狭い路地の商店街(Calle Curia)を進むと1394年に建てられた大聖堂(Catedral Metropolitana de Santa María de la Asunción)が見えてきた。

大聖堂に近い中心部の商店街でも食料品店を見つけられず、街の人にどこにあるかをたずね回っていると、エストニア人のTiinaが現れて、スペイン語に通訳してくれて、街の人に道を尋ねてくれた。

近くにある通り(Calle Mañueta)に面した食料品店(Aceitunas Valero Lafoz)で無事に手に入れた。そこで他のAlbergueに泊まる仲間と出くわして思わぬ再会をして、路地(Calle de la Compañia)に面した1782年に建てられたイエズス会の旧神学校(Seminario Episcopal)の建物にある巡礼宿(Albergue Jesus y Maria)の中に入ろうとしたら、受付係の人がここに泊まる人しか入れないと言われて戸惑っていたら、Tiinaがまた現れて、スペイン語で説明してくれて、直ぐに中に入れてくれた。

巡礼宿の中に入ると沢山の巡礼仲間と再会できた。中央には巡礼の美しい写真展示があり、展示には仏教の修行僧がキリスト教の巡礼路を行く写真があった。

午後6時45分に夕食を一緒に食べに行こうと誘われて、また会う約束をして、一度、私たちが泊っている巡礼宿(Albergue)に戻り、荷物を置いてから、また直ぐに出かけた。

ケベック人Claudeを誘い、広場(Plaza de la Compañía)でゆっくりしたり、周辺を散策して、Albergue Jesus y Mariaから、少し離れたところにある通り(Calle de la Merced)のバー(Bar La Raspa)に行き、皆で食べた。9€でパスタ・牛肉とポテト・アイスクリームなど大盛りだった。

給仕の人はおおざっぱだが、大らかでとてもフレンドリーで良い人だった。店内には大音響でロック音楽が流れていて、皆と話していると気にはならなかったが、煙草の煙で喉を壊してしまった。

食後に皆で記念に写真を撮っていると、オーストラリア人Leeがサックスを吹いてくれてとても盛り上がった。愛知での地球博覧会でも吹いたそうでとても上手だった。彼はベジタリアンで食べるものを選んでいて面倒そうだった。バーを出ると外では音楽が鳴っていて、スペイン人らしくみんな陽気でノリが良い人たちばかりだった。

Claudeと皆が宿泊する巡礼宿(Albergue Jesus y Maria)を訪れたり、大聖堂(Catedral Metropolitana de Santa María de la Asunción)の近くなど、街を見て回り、一緒に沢山の写真を撮った。商店街(Calle Dormitalería)の本屋さん(Librería Diocesana)に行くが閉まっていてがっかりしたが、先ほどの音楽が流れていた広場(Calle Calderería)で陽気な地元の人たちと楽しい時間を過ごした。

地元の人たちはとにかく良く喋っていた。スペイン語に慣れていないが相手が言っていることが何となく解った。Claudeと通り(Calle Javier)を行き、夜景が美しい広場(Plaza del Castillo)や記念碑(Monumento a los Fueros)の周り(Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)を散策して、巡礼宿に戻ってきた。Claudeがメダイを差し上げるとお礼にQuebecから持ってきた小さな貝を付けてくれた。

消灯時間の午後10時の10分前に巡礼宿に帰って来て、モーツァルトのクラリネット協奏曲の第2楽章を聞いてから就寝した。ガイドブックを求めて本屋に行ったが、今日は土曜日のためにお休みで手に入れられなかった。巡礼をしている最中に見つけて購入することにした。

Pamplonaは、ナバラ王国の首都であったため大きな都市だった。紀元前75-74年にローマの将軍ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, 106-28 a.C.n.)がセルトリウス(Quintus Sertorius, c. 126-73 a.C.n.)と戦うための駐屯地(Pompaelo)を築いた。

古代にはラテン語Pompelon, Pompaelo, Pompaelonis, Ponpelonensis、ギリシア語Πομπέλων / Pompélōn, Πομπηιόπολις / Pompēiópolisと呼ばれ、1016年にPampilona、1051年にPamplona、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPampiloniaと記録された。

1014年にIrunia, Iruniensisと記録され、Iruña < Iruñea < *Irumna < バスク語「町」iri < *huri + 「川」umna < 「水」*ib-, *eb- + 接尾辞 -na < *-nanが語源。Carlos Jordán Cólera (2001). Del topónimo euskara de Pamplona, Fontes Linguae Vasconum 88, pp. 417-429.)と併称された。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Cice峠から多くの人たちからRunaと呼ばれ、Pamplonaを走る清い川が流れている。Arga川はRuna川に沿いPuente la Reinaへ走る(De portibus vero Cisereis flumen sanum egreditur, quod a multis Runa dicitur et decurrit Pampiloniam; ad Pontem Reginse decurrunt Arga simul et Runa.)」と書かれている。

466年にゴート王エウリック(*Aiwareiks > Eurico, c. 420-484)、542年にフランク王キルデベルト1世(Childebert I, c. 496-558)に支配され、カール大帝が778年にパンプローナの市壁を破壊して帰還する途上でロンスヴォーの戦いで敗北したが、パンプローナの破壊でヴァスコン人と戦さが起きた。

799年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のムタリフ・イブン=ムーサ(مطرف بن موسى / Muṭarrif ibn Mūsà)が支配して、824年にイニゴ・アリスタ(Íñigo Arista, c.790-852)が王になり、11世紀にパンプローナ司教がレイレ修道院 (Monasterio de Leyre)を創設して、ナバラ人とフランス人が定住、1124年にパンプローナ大聖堂が完成した。近代にヴァイオリニストのサラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)の生まれた町で丁度100周年で市庁舎には垂れ幕があった。

Pamplonaの夜景が美しい広場(Plaza del Castillo / Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)

2008年4月20日(日)11日目(Pamplona-Cizur Menor-Guenduláin-Zariquiegui-Uterga-Muruzábal-Obanos-Puente la Reina: Albergue Jakue)

Pamplonaから丘に上がり下がりはしたが、おおむね平らな土地を歩くことができ、天気も良くてどんどん進めた。巡礼を終えて復路をくる元気な人に道で会った。Puente la Reinaで清潔で快適な巡礼宿で過ごせた。巡礼ガイドと地図を買うことができ、道に迷わなくて済むようになった。道を失うとスペイン人が直ぐに助けたり教えてくれて、巡礼者に対して優しく接してくれた。

今日はグレゴリオ聖歌ともに朝を迎え、午前6時半に起き、荷作りと日記を付けてから、午前7時少し過ぎにClaudeと朝食を取り、午前8時に出発した。巡礼宿の主人(hospitalero)Wolfgangさんと奥様 (hospitalera) RoswithaさんがMozartをかけてくれた。

旅支度をしていざ出発するとき、管理人Wolfgangさんがメールアドレスが書かれたメモを渡してくれた。そして、宿の外まで夫妻でおでまりになり、お見送りをしてくれた。とても清潔な宿で心配りが行き届いて、温かい主人はおもてなしの心に満たされた方がたで、また泊まりたいと思える巡礼宿だった。父もとても温かい雰囲気が気に入り、Wolfgangさんに巡礼宿の前で記念撮影をして頂いた。

巡礼宿から公園(Playa de Caparroso)の中の通り(Paseo Vergel)を行き、北に位置しているお城(Baluarte de Guadalupe)の門(Portal de Francia / Zumalacárregui)を通り、町の中に入った。

目貫通り(Calle del Carmen, Calle Mercaderes)を行き、狭い路地(Curva de Estafeta)や広場(Plaza Consistorial)の市役所(Ayuntamiento de Pamplona)を通り、12世紀に建てられたロマネスク=ゴシック=バロック様式の教会(Iglesia de San Saturnino)の前から、中央通り(Calle Mayor)を歩いて、丸窓がかわいらしい教会(Iglesia de San Lorenzo)や五稜郭のような要塞(Ciudadela)がある公園(Parque de la Vuelta del Castillo)をつきり、大通り(Calle Fuente del Hierro, Calle Universidad, Calle Sadar / NA-7027 & NA-6000)を歩いて、Navarraの古都Pamplonaを後にした。

小川のせせらぎを渡る古い小さな橋のたもとにイロハモミジ(Acer palmatum)が植えられていて、各国語(スペイン語、バスク語、フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語)で¡Buen Camino! Ongi ibili! Bonne Route ! Good Journey! Gute Reise! Buon Cammino!と書かれたホテル(La Primera de Camino - Hostal Bidean)の看板があった。街中でも道が分かれる場所には必ず巡礼路の黄色の矢印や青色と黄色の帆立貝があるために迷うことなく進めた。

直ぐに次の町Cizur Menor(バスク語Zizur Txikiaは、1097年にCiçurr, Ziçur、1135年にSciçur, Ciçur, Çiçur, Çizur minorと記録され、「喉(渓谷)」zintzur < *sincu-r̄ + 「小さい」txiki < *čikiが語源。マルタ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)による巡礼者の救護院が作られた町)が見えてきた。

12世紀に建てられた二つのロマネスク様式の教会(Iglesia de San Miguel Arcángel)や教会(Parroquia de San Emeterio y San Celedonio)を通り、歴史を感じながら、町を後にした。小さな町ながら、通りは広くて、空気がきれいな上、清潔で住み心地がよさそうだった。近くの住宅街(Cizur Mayor)の町はずれを歩いていたとき、公園(Parque chorra)の柵の向こうから犬が迎えてくれた。

街を出ると直ぐに荒涼とした大地が拡がり、巡礼路が真っすぐに伸びているのが遠くまで見えた。やがて、平野を通る舗装されていない巡礼路(Calle Encarnación)になり遠くの風景を楽しみながらぐんぐん進んだ。今までは山道でかつぬかるんだ道で天候も悪くて大変だったが、平坦な道路や踏み慣らされた道を歩いて行けたので、今日からは気持ちよくどんどん飛ばして行ける気がした。

道路からセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いた草原に入り、一筋の巡礼路(Calle Encarnación)をひたすら歩いていて、目の前に歩いている人に追いつくと、何と一昨日と昨日にレストランで一緒だったフランス系カナダ人Gillesだった。フランス語で話しながら歩いた。Montrealで科学捜査官をしていて休暇を取り、巡礼に来たと聞いた。

次の村Guenduláin(バスク語Gendulain、1092年にGentulain, Genduleng, Guentulainと記録され、人名de Centulu, Guendullusとしても現れ、名前Centullus < ラテン語「百」centum < イタリック祖語*kentom < 印欧祖語*ḱm̥tóm + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源)の古い宮殿跡(Palacio de Guenduláin)を通り過ぎた。

Zariquiegui(1167年にZarichegi、1207年にÇariquieguiと記録され、バスク語「柳」zarika < zumarika < *sumhV +「丘」egi < *hegiが語源)の13世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Andrés)の前で別れて、丘(Sierra del Perdón / Erreniega)を上った。

丘の上には鉄の板で出来た巡礼者の像や風力発電機が沢山あり、眺望台(Mirador Alto del Perdón)からの見晴らしも最高で美しかった。 見晴らしの良い場所で昨日に街中で買ったパンに生ハムやチーズを挟んで昼食をとり一息をついた。

峠を下る途中に美しいマリア像(La Virgen de Irunbidea)があり、前のベンチには、四人のフランス人とイタリア人がいて、皆さんと一緒に腰かけて、フランス語とイタリア語で話をして記念撮影をした。父がもうすごい上がり下がりが激しい道だったね。丘の上には風車があり発電をしていたねと話していた。そこで一休みしてから、いくつかの村を過ぎ、美しく整備された道を歩けた。

先ずUterga(1268年にHutargua, Hutergaと記録され、Otiergaからバスク語「ハリエニシダ」othe < 「先端」*ote +「丘」egi < *hegiが語源)の家々は白い漆喰で壁が塗られ、間口は広く、村の中は生活感があった。真ん中を通る巡礼路の脇に石造りの頑丈な住宅が整然と並んでいた。そこから、巡礼路は直ぐに畑の中に入り、農道のような踏みなされた砂利道を少しずつ下りながら進めた。

次にMuruzábal(バスク語Muruzabalは、1221年にMuruzabalと記録され、バスク語「壁」murru, muru < 古スペイン語muro < ラテン語murus < イタリック祖語*moiros < 印欧祖語「延ばす」*mey- + バスク語「開けた」zabal < 「平ら」*sab-, *sap-が語源)の14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Esteban)が美しかった。

私はどんどん歩いてゆき、広場(Plaza de San Esteban)で父を待っていたら、直に歩いてきた。そこから、車道(NA-6062)に沿いながら、畑の中を通る巡礼路(Camino de Roncesvalles)を歩いて進んだ。辺りの村は丘の上に作られていて、敵が来たときに直ぐに見つけられたりするためと感じた。村が見えると必ず少し上ると村の中に入れた。2リットルのコーラのボトルをひっさげて歩いた。

直ぐに近くのObanosの美しい石造りの教会(Iglesia de San Juan Bautista)が見えてきた。(聖ギヨーム・ド・ジェローヌ(Guillaume de Gellone, c.755-812)の頭蓋骨が残されているが、教会には訪れられなかった。)また、広場(Plaza de los Fueros de Obanos)は広々としていた。 巡礼路には帆立貝の標が道に埋め込まれていて、村の中で迷わないように正しい道が示されていた。

(1084年にOvanos、1097年にOvansと記録され、13世紀のGonzalo Ibáñez de Baztánが知られ、人名「ヨハネ」Ibáñez < ラテン語Iohannes < ギリシア語 Ἰωάννης < ヘブライ語יוֹחָנָן Yōḥānān < יְהוֹחָנָן‎ Yəhōḥānān < 「神」יְהֹוָה YAVH < 「在る」ה-י-ה h-y-h < セム祖語*haway- + 「恩寵に満たされた」חַנּוּן khanún < 「慈悲深い」ח-נ-נ kh-n-n < セム祖語*ḥanan- + 接尾辞-oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)

13世紀に「郷土を自由にするには人々を自由にするべし(Pro libertate patriae gens libera state)」と王侯貴族からの支配を嫌い、自由主義を掲げて法律を制定して自治をした一族(Juntas de Infanzones de Obanos)が住んだ「貴人の町(Villa de los Infanzones)」だが、 1323年にナバラ王フェリペ3世(Felipe III, 1306-1343)とフアナ2世(Juana II, 1311-1349)が解散させ、1510年に消滅した。

村を出る所に16世紀に建てられた小さな古い教会(Ermita de San Salvador)があった。それから丘を下りゆく未舗装の巡礼路(Carretera Campanas)を歩いて行った。

巡礼者は、どの町でも歓迎されて、車に乗っている人も、道行く人も手を振ったり、声をかけてくれた。話が盛り上がりすぎて、一度道を失いかけたが、英語がとても上手なスペイン人が、車を止めてくれて助けられた。畑の中で道を失っても、その方向だよと示してくれて、とても親切だった。

一人の老人が逆から歩いてきて日本語で挨拶をされて驚いた。巡礼証明書(Compostela)を見せてくれて、巡礼を終えて家に戻る最中だと話していた。手を少し怪我したそうだがとても元気で巡礼を終えてきたとは思えないほどだった。直ぐに畑の道を行くと、午後2時にPuente la Reinaに着いた。

街に入る直前に1965年に建てられた巡礼者の像があり、フランスの道(Camino Francés)とアラゴンの道(Camino Aragonés)が合流するため、「ここでサンティアゴ巡礼路は一つになる(Y desde aquí todos los Caminos a Santiago se hacen uno solo)」と書かれていた。Pamplonaからは見違えるほど道がきれいに整備されていて、多くの人がPamplonaから始めるのを納得させられた。

巡礼宿(Albergue)の前でオランダ人の旅行者と会い、英語でお話をして盛り上がった。巡礼宿は私設のようであるが6€で泊まれて、タイル張りの床があり、とても清潔で快適に過ごすことができ、シャワー室もインターネットも、ラウンジもサロンも完備されていて新しく生活な場所であった。直ぐにシャワーを浴びてから、ズボンの泥が跳ねた部分だけを洗って、庭に干して乾かした。

足に小さい擦り傷と腰あたりの背中に張れた部分ができた以外は健康で足の方は全然問題がない良い状態だった。数日が建ち、皆さんも足が疲れてきたようだが、私は馬のように足を蹴り出して歩いて、余分な筋肉をあまり使わないため、筋肉痛にもならず、肉刺もまだ出来ていなかった。一歩一歩、足の負担にならないよう、無理な力を加えたりせず、自然で効率よく歩くことが大切に思えた。

街を少し散策していると、12世紀にマルタ騎士団が建てたゴシック様式の教会(Iglesia del Crucifijo)の塔が美しかった。中央通り(Calle Mayor)にある12世紀の教会(Parroquia de Santiago y San Pedro)の13世紀に作られたファサードも素晴らしかった。ロマネスク様式で作られているがムデハル様式を取り入れて、イスラム建築のような装飾がアーチの部分に施されていた。(教会の門は閉じられていて、有名な像(Betlza)があるが見ることができなかった。)帰りに車道(Calle Irunbidea)から街全体を眺めた。中央の教会(Iglesia del Crucifijo)の尖塔が遠くからきれいに見えた。

巡礼宿には、レストランが併設されており、9€で野菜やヨーグルト・果物・パン・ワイン・水・パスタ・エビの空揚げなど、選り取り見取りで食べ放題な上、魚のオリーブオイルソテーまで出てきて、腹一杯食べられた。食べていると他のAlbergueに泊まったTinaやケベックの人たちも加わり盛り上がった。イタリア人たちもとても盛り上がっていた。広々とした食堂でゆったりと食べられて快適だった。皆は古い巡礼宿に泊まったが、新しくて安くて快適に止まることができて、こっちにすれば良かったと羨ましがっていた。部屋に戻ると8時15分になっていたので歯を磨いて直ぐに寝た。

今日は街に出て、中央通り(Calle Mayor 14)に面した書店(Librería Ohiuka)で巡礼用のガイドブック(José María Anguita Jaén (2003). El Camino de Santiago: Guía práctica del peregrino, León: Editorial Everest.)を買えて良かった。明日から道に迷わずに行くことができそうで安心した。

しかし、AlimentaciónやSupermercadoは、日曜日のため休みで空いておらず、食料品を買うことができないが、夕食にレストランで大量の生野菜を食べることができて良かった。

Puente la Reinaは、バスク語でガレス(Gares)と呼ばれ、Chartae populationis / Carta PueblaにはGaresch, Garex, Garezと記録され、1090年にPons Regine、1085年にPonte Arga、1139年にPonte de la Regina、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPons Reginaeと記録された。11世紀にナバーラ王妃(サンチョ3世妃ムニアドナMuniadona de Castilla, 995-1066、または、ガルシア3世妃エステファニアEstefanía de Navarra)が、巡礼者のためにアルガ川にロマネスク様式の橋を架けたとされるが、Pons Runeの訛りともされる。Rune < Runaは、Arga川のバスク語名であり、その川が流れているPamplonaのバスク語名Iruña < Iruñea < *Irumna < 「町」iri < *huri + umna < バスク祖語「水」*ib-, *eb- + 接尾辞 -na < *-nanの語源と同じと考えられ、実際に1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRunaと記載された。

更に「平地の橋」Pons Larraínから、バスク語「平地」larrain < 「荒地」larre < 古フランス語larrisという説もある。古い町はMurugarrenと呼ばれていた。ラテン語の町名Caresの訛りともされるが、バスク語「壁」murru, muru < 古スペイン語muro < ラテン語murus < イタリック祖語moiros < 印欧祖語「延ばす」mey- + バスク語「高い」garai, garun < *gar-, gar̄-が語源。フランス人が入植して、テンプル騎士団が、イスラムの侵攻を食い止めた(Koldo Colomo Castro, Fernando Pérez de Laborda (2011). Puente la Reina/Gares, historia de un topónimo, Fontes Linguae Vasconum 113: 191-202.)。

CizurからGuenduláinの間の巡礼路

2008年4月21日(月)12日目(Puente la Reina-Mañeru-Cirauqui-Lorca-Villatuerta-Estella: Asociación los Amigos del Camino de Santiago)

葡萄畑の中を歩いたり、ローマ時代の橋を渡った。フランス人やイタリア人と一緒に歩いた。黒い犬を連れて巡礼をしている人がいて、巡礼犬はとても活発に動いていた。長く歩かずに少し早めに切り上げて、計画よりも一つ手前の小さな町(Estella)で泊まることにして、街の中を散策した。

今日は午前7時頃、朝食をとらずに出発した。巡礼宿は町はずれにあるため、Puente la Reinaの街の大通り(Calle Mayor)をつきり、美しいロマネスク様式の橋(Puente la Reina)を渡って町を出た。出かけ際に同じ町の別の巡礼宿に泊まっていたエストニア人Tiinaと会った。畑や峠を歩き連ねて、途中小さな町に立ち寄り、休憩しながら進んだ。途中で少しだけ雨が降ったが、天気は概ね良好だった。

途中で四つの小さな村を通過した。Mañeru(1035年にMangero、1189年にManneru、1193年にMayneru、1229年にmagneruと記録され、ラテン語「大商店」magnarius <「大きい」magnus < イタリック祖語*magnos < 印欧祖語*m̥ǵh₂-nós < 「偉大な」*méǵh₂s + 接尾辞-arius < イタリック祖語*-ās-(i)jo < *-āso- < 印欧祖語*-eh₂so- < *-yósが語源)は、13世紀から1555年まで聖ヨハネ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)が統治していた。村の名には1543年に建てられた古い教会(Parroquia de San Pedro Apóstol)があった。村を離れるときに美しく見えた。

Cirauqui(バスク語Ziraukiは、1035年にCiroquin、1264年にCirauquiと記録され、バスク語「ドングリ」zira < zi < *zinV + 接尾辞-oki, -toki < 「持つ」euki < *e=uka-nが語源)の町は丘の中腹にあり、巡礼路(Calle Bidegorria)を歩いていくと見上げるように町が見えてきて圧巻だった。

丘の上に建物がびっしりと建てられており、箱庭のように一つの村を眺めることができた。周りには赤茶けた粘土質の土が一面を覆っていて、巡礼路の横には葡萄畑が広がっていた。

町の中には中世のアーチの門(Arco de sillería)の横に1658年の道標(Don Martyn D. Yryarte)があり、立派な町役場(Ayuntamiento)があり、広場(Plaza Grande)にはロマネスク様式のファサードが美しい教会(Iglesia de San Román)があった。Puente la Reinaの12世紀の教会(Parroquia de Santiago y San Pedro)と同じく、ムデハル様式が取り入れられており、イスラム建築のような馬蹄形の装飾が門に施されていた。街の中は迷路(Calle Eskinza)のようで道に迷いそうだが、全ての曲がり角には帆立貝のマークがあった。美しく花が家々のバルコニーに育てられていた。

町を過ぎると枯れた川にローマ時代の橋(Puente y calzada romana)が今にも崩れそうに架かっていた。また、巡礼路には当時の石畳が残っていた。また枯れた川(Ragacho de Dorrondoa)に架かる中世の橋を渡り、オリーブ畑の中をしばらく歩いてゆくと、Lorca(バスク語Lorka)に着いた。

(1175年にLorca、1268年にLorqua, Lorrqua、1287年にLorchaと記録、920年にバヌー=カシー家(بنو قاسي / Banū Qāsī)のイブン=ルッブ(Aben Lope < لب بن محمد بن لب بن موسى القسوي بن موسى بن فرتون بن قاسي بن فرتون / Lubb ibn Muḥammad ibn Lubb ibn Mūsa al-Qasawī ibn Mūsa ibn Furtūn ibn Qāsī ibn Furtūn)がパンプローナ王サンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)に勝利した古戦場があり、アラビア語「戦い」مَعْرَكَة / maʿraka < 「泥」ع ر ك‎ ʿ-r-k < セム祖語*ʕakar-が語源でヘブライ語「諍い」עָכַר‎ / ʿakhar < 「泥」ע־כ־ר / ʿ-k-rと関連)

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Lorcaと呼ばれる場所の東には塩辛い川と呼ばれる川が流れている。その水に口をつけてはならない。また、そこで馬に水をやらないように気をつけなさい。これは死に至る川でだからである。私たちがSantiagoへ向かうとき、土手に座り、ナイフを研ぐ二人のNavarra人に出くわした。彼らはその水を飲んで死んだ巡礼者の馬の皮を剥ぐことを生業としている。この嘘つきたちは私たちにきかれて、『その水は飲んでも大丈夫』と言った。だから、私たちは馬に水を飲ませたら、直ぐにその中の二頭が死んだ。するとその人たちは立ちどころに皮を剥いだ(Ad Locum qui dicitur Lorca, in orientali parte decurrit flumen, quod dicitur Rivus Salatus: ibi os equum tuum observa, quia flumen lethiferum est. Super cuius ripam nos, ad sanctum Jacobum pergentes, invenimus duos Navarros sedentes, artavos suos acuentes, solitos excoriare peregrinorum jumenta, quae lympham illam bibebant et moriebantur. Qui nobis interrogantibus mentientes dixerunt «quia sana erat ad potandum»; quapropter equis nostris illam dedimus ad bibendum, et statim duo ex his obierunt, quos illico ipsi excoriaverunt.)」と書かれている。

村の教会(Parroquia de San Salvador)を過ぎて、広場(Plaza Mayor)で一息をついてから、車道(NA-1110)に沿う巡礼路を行き、また草原の間を歩いて進むと、黒い巡礼犬が一緒について歩いてきた!犬は真っ直ぐに歩かずにクルクル回りながら人間の10倍くらいの距離を歩いていた。巡礼路(Calle Morartia)は何度か車道と交差して葡萄畑や草原の中を歩いて行った。

最後のVillatuerta(バスク語Bilatortaは、1061年にVillatorta, Vilatortaと記録され、ラテン語「村」villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「曲がる」tortus < torqueo < イタリック祖語*torkʷeō < 印欧祖語*torkʷ-éye-ti < *terkʷ-が語源)の近くに流れる川(Río Iranzu)に13世紀に架けられたロマネスク様式の橋(Calle Gobierno de Navarra)は美しかった。橋の前で父と写真を撮っていると、二人で撮ってあげますよと声をかけてくれた巡礼者の方がいた。

それから、14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)を通り、町の中で通りにスペイン語とバスク語で「聖ヤコブの巡礼路(Camino de Santiago / Donejakue Bidea)」と書かれた素敵なタイルを見つけた。町外れに971-79年に建てられた特に古い貴重なロマネスク様式の教会(Ermita de San Miguel Arcángel)があるそうが巡礼路は行かなかった。

そこから少し歩いて、川(Río Ega)を渡り、川沿いに巡礼路(Calle Curtidores)を歩き、水汲み場(Fuente de Los Peregrinos)を過ぎて、次の町Estella(バスク語Lizarra)に着いた。1123年に建てられた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)は素晴らしいロマネスク建築だった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「EstellaにはEga川が流れている。この水は清く甘く澄んで良いことこの上ない(Ad Stellam decurrit flumen Aiega: ipsa est lympha dulcis, sana et optima.)」と書かれていて推奨されている。)

通り(Calle La Rúa / Kalea)に面した巡礼宿(Albergue)は大きく、一人5.5€で泊まれた。現地の巡礼者友の会(Asociación los Amigos del Camino de Santiago)が運営する公営の巡礼宿だった。私営の巡礼宿はサービスは良いが、料金が高く、また、ホテルのようで巡礼をしているという気持ちにならないため、一切泊まらず、町に着いたら公営の巡礼宿が、どこにあるかをたずねて見つけた。 初日にピレーネの山中で迷い、お互いによく話しながら、一緒に抜け出した二人のスイス人修道女と会った。

巡礼宿に荷物を置き、近くにある1259年に建てられた修道院(Convento de Santo Domingo)を見てから、12世紀に架けられた美しいアーチの橋(Puente de la Cárcel)を渡り、市内を見に出かけた。

巡礼者が通るのは、旧市街で新市街が橋を挟んで広がっていた。新市街はとても美しく整備されていて快適に過ごせた。中華料理の店まで市内にあった。美しい教会(Iglesia de San Miguel, Capilla de San Jorge)や広場(Plaza San Miguel)が二つ、三つあり美しかった。

Siestaのため、市内には人が殆んどいなかったが、とても良い街だった。金髪の人が多くて、昔ゲルマン人が多く侵入した歴史を物語っていた。また、大きな広場(Plaza de la Coronación)を訪れるとそこから山のてっぺんに十字架が立てられていた。新市街の教会(Iglesia San Juan Bautista)がある広場(Plaza de los Fueros)の長椅子でくつろいだりして、巡礼宿に戻り、シャワーを浴びた。

巡礼宿(Albergue)の外を見ると、丁度TiinaとGillesが楽しくお話をしながら、目の前を過ぎて行くところに出くわして、予定をたずねると、次の町(Ayegui)で泊まると話していた。

それからまた街に出て、1187-96年に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Miguel Arcángel)の素晴らしい彫刻を見て、大通り(Celle Zapateria, Calle Mayor)を歩いたり、広場(Plaza de Santiago)の噴水を見て、大通り(Paseo de la Immaculada)に面した街(Supermercado Carrefour Express)で食料品を買って、巡礼宿に戻った。

お腹が空いて仕方なかったため、午後7時の夕食まで寝た。レストランは橋を越えた所にあり、9€で食べれたが余り満足のいく量でなかった。フランス人と話をして楽しんだ。アルザス地方からずっと歩いてきた人たちで70と71の人だと言っていたが、その元気さには驚かされた。父は日本で3年も英語を教えて住んでいたOregon出身のアメリカ人Richardとお話をしていた。巡礼宿に戻り就寝した。

Estellaは、914年にサンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)が支配して、958年にLizarrara、1012年にLiçarra, Lizarra、1072年にStella en Lizarra、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でStellaと記録され、ラテン語「星」stella > イタリック祖語*stērolā < 印欧祖語*h₂stḗrが語源で流れ星に導かれた羊飼いが、聖堂(Basílica de Nuestra Señora del Puy)が建てられた近くで聖母像(Nuestra Señora del Puy / Nôtre Dame du Puy)を発見したという逸話が伝えられ、Santiago de Compostelaで聖ヤコブの墓所発見の逸話とよく似ている。

バスク名LizarraはLinzoáin(バスク語 Lintzoain)と同じく、「トネリコ」leizar < *lais-‎ + -ar + 接尾辞-ara < ラテン語-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源。

1123年に建てられた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)や1174年に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de la Rúa)のゴシック様式の門は美しく、特に後者はムデハル様式の装飾がなされていた。広場(Plaza de San Martín)に面した12世紀に建てられたナバラ王の宮殿(Palacio de los Reyes de Navarra / Nafarroako Erregeen jauregia)や1259年に建てられた修道院(Convento de Santo Domingo)が巡礼宿の近くにあり、川を渡る手前が特に町の中心部であり、一つの奇蹟が町に起こり伝わり、宮殿や教会が建てられて、周辺の町や村に優先して、都市が形成されてゆくことを感じた。

Villatuertaで見つけた素敵なタイル(Camino de Santiago / Donejakue Bidea)

2008年4月22日(火)13日目(Estella-Ayegui-Irache-Ázqueta-Villamayor de Monjardín-Los Arcos-Sansol-Torres del Río-Viana: Alberguería Andrés Muñoz)

Villamayor de Monjardínのロマネスク様式の塔を持つ教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)やLos Arcosのロマネスク様式の門(Portal de Nuestra Señora de la Concha)を持つ教会(Iglesia de Santa María)が美しかった。巡礼路が羊の大軍勢でいっぱいになった。Torres del Ríoは、中世都市がそのまま残されていて、テンプル騎士団が建てた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)が美しく、ロマネスク様式の教会のシンプルな機能美と様式美に魅せられた。巡礼宿では、フランス人たちと一緒の部屋で泊まり、本当に親切で陽気な方がたと楽しく過ごせた。

今日は巡礼宿で少しチョコレート飲料とビスケットの朝食を食べて、Estellaを午前7時過ぎに出た。本当に長い道のりを歩いた。道が平らで天気も良好で日に焼けたが、40キロメートル近く飛ばせた。

Ayegui(バスク語Aiegiは、1060年にAiegui、1072年にAlhegi、1098年にAgegui、1104年にAyeguiと記録され、定冠詞a < *ha + 「丘」egi < *hegiが語源)から、巡礼路を少し逸れて、国道(N-111)を渡ると、直にIrache(バスク語Iratxe)の町に入り、有名な葡萄酒醸造所(Bodegas Irache)が巡礼者に葡萄酒を無料で提供するワインの泉(Fuente del Vino)を通った。「¡ PEREGRINO ! Si quieres llegar a Santiago con fuerza y vitalidad, de este gran vino echa un trago y brinda por la Felicidad. FUENTE DE IRACHE | FUENTE DEL VINO(巡礼者よ!もし元気に健康にサンティアゴに到ることをお望みでしたら、この素晴らしい葡萄酒を一杯飲んで喜びを味わって下さい)」と書かれていた。

私はお酒を飲まないが、皆は喜んで蛇口から葡萄酒を水筒に注いで飲んでいた。一帯には葡萄畑が広がり、葡萄酒の名産地であることを感じた。8世紀(西ゴート王国時代)に創建した古い修道院で958年にMonasterio de Santa Maria de Yrachと記録されたロマネスク様式のベネディクト会修道院(Monasterio de Santa María la Real de Irache)の荘厳な建物を通り過ぎた。(1035年にIraxe、1067年にIrasce、1136年にIrase、バスク語に近いHiraçi、ラテン語化してIllascensis, Irascensis, Iraxensis, Iraxsensisと記録され、「ウラボシ(Polypodiopsida)」iratze < 「シダ」ira + -tza, -tzeか「去勢された山羊」irazko <「去勢する」iraziが語源。)そして、幹線道路(N-111)を渡り、巡礼路に戻った。

左手に山(Montejurra, Monte Luquín)の頂を眺めながら、葡萄畑や小麦畑の中の巡礼路をひたすら歩いた。丘の上に築かれた町Ázqueta(バスク語Azketaは、1090年にAzchita、1106年にAzquetaと記録され、「岩」haitz, aitz < *ɦaic + 接尾辞-keta < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)の塔を見ながら進んだ。

目の前に778年にカール大帝(Charlemagne, 748-814)がサラゴサ王国と戦い、また、908年にサンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)が奪還したという城(Castillo de Monjardín / San Esteban de Deyo)が丘の上にそびえていた。高台から御城や赤茶けた大地や葡萄畑が見下ろせて美しかった。

巡礼路の脇に13世紀に作られたムーア人の泉(Fuente de los Moros)と呼ばれる建物の遺構があり、日陰になっていたのでお休みできた。(建物は後の時代に作られてはいたが、イスラム統治時代の9世紀頃から泉があり利用されていたかもしれない。)少し進むと村の教会の美しい塔が見えてきた。

Villamayor de Monjardínに12世紀に建てられた優美な塔を持つロマネスク様式の教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)があった。町を出るとどんどん下り坂になり、見通しの良い一本道の途中でTiinaとGillesとまた出くわして追い越して、今日はとにかく歩けるだけ進んだ。小麦畑や葡萄畑の中にT字に折れ曲がる巡礼路が高台(Portillo de las Cabras)から見渡せて美しかった。

(1255年にSancti Stephani de Montejardini, Monteiardiniと記録、ラテン語「村」villa + 「大きな」maior、「山」mons > スペイン語 monte + 古フランス語「庭」jardin > スペイン語 jardínとされるが、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でMons Garciniと記録され、Mons Garseaniの訛形。バスク語「若い」gazte < *gasteを語源とするGarcía、古フランス語「下僕」garçon < 民衆ラテン語garciō < フランク語*wrakjō < ゲルマン祖語*wrakjô < 「努力する」*wrekaną +‎ *-jô < 印欧祖語*w(o)rǵʰ-e-ti + *-ō < 「絞る」*werǵʰ-を語源とするGarcin、バスク語「牢」garzela < 古スペイン語carcel < ラテン語carcer < イタリック祖語*karkros < 「縛る」*(s)kr̥-kr̥- < 「回る」*(s)ker-が語源ともされるが、ナバラ王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)の墓所に由来する。)

Los Arcos(バスク語Arkoetaは1007年にUrranci、1087年にLos Archos、1109年にUrancia que dicitur Arcus、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でArcus, Uranciaと記録。スペイン語「アーチ」arco < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s、バスク名Urancia, Urranciは「遠い」urrun < *hur̄u-が語源)の街中(Calle Mayor)は、赤レンガで作られた家々が灼熱の太陽に照らされて暑かったが、通りは左右の建物で日影ができ、涼しい風が吹き抜けて快適だった。

12世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María)は、外側はロマネスク様式、回廊はゴシック様式、内側はバロック様式で増築を繰り返していた。12世紀に作られたロマネスク様式の門(Portal de Nuestra Señora de la Concha)が貴重で美しかった。中央通りの両側に整然と家や店が並んでいた。17世紀に建てられた門(Portal de Castilla)から町を出た。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Los Arcosと呼ばれている場所には死をもたらす川が流れていて、Los Arcosを出て、救護所 (Ermita de San Blas) の前に水を飲む人や動物に死をもたらす川が流れている(Per villam quae dicitur Arcus, decurrit aqua lethifera ; et ultra Arcum ad primum hospitale, intra Arcum scilicet et hospitale idem, decurrit aqua lethifera jumentis et hominibus bibentibus eam.)」と書かれていて、Río OdrónとAcequia del Regadíoに比定される。)

町外れに12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Ermita de San Blas)の遺構があった。一面が草原の中を一本の道が通り、気持ちよく歩いていくと、サンスクリット語ができるBarcelonaからきたカタルーニャ人に出会い、沢山お話しをしながら進めて楽しかった。

途中で羊の放牧から帰ってきた羊飼いが犬を伴い、羊の大軍勢を引き連れて、巡礼路が羊でいっぱいになり、羊たちが通り過ぎるまで面白く眺めながら待った。

そこからは車道(NA-7205)を歩いてゆくと村が丘の上に見えてきた。小さな村Sansol(バスク語Santsolは、1176年にSancto Sole in Los Arcosと記録され、聖ゾイルス教会(Ecclesia Sancti Zoili)が建てられ、スペイン語の太陽(ラテン語のsolus)ではなく、304年にコルドバで殉教した聖ゾイルス(Sanctus Zoilus)の古典ギリシア語「人名」Ζωΐλος / Zōḯlos < 「生きる」ζάω / záō < ヘレニック祖語*ďṓwō < 印欧祖語*gʷih₃-wó-s < *gʷeyh₃-が語源)のベンチに座り、一緒に一息をついてから別れて、私たちはもう少し先まで歩いた。次の村(Torres del Río)が美しく箱庭のように一望できた。

直ぐ近くのTorres del Río(1109年にTurres、1175年にTorresと記録があり、古スペイン語「塔」torre < ラテン語turris < 古典ギリシア語τύρσις / túrsisとスペイン語「川」río < 古スペイン語rio < ラテン語rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語*h₃rih₂-wó-s < 「動く」*h₃reyH-が語源)は、中世都市がそのままカプセルのように残されていて美しい外観で気に入った。町の中心に1160-70年にエルサレムの聖墳墓教会を模してテンプル騎士団が建てたロマネスク様式の教会(Iglesia del Santo Sepulcro)は立派な石造りで六角形をしていた。中世に夜に灯りを灯して、灯台のように巡礼者を導いていた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Navarra領内のTorres del Ríoと呼ばれる街に水を飲む人や馬に死をもたらす川が流れている(Ad villam, quae dicitur Turres, intra scilicet Navarrorum decurrit flumen lethiferum jumentis et hominibus bibentibus illud.)」と書かれていてRío Linaresとその支流Río de Mariñanasに比定される。)

更にハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いている田舎道を進むと丘の上に14世紀に建てられた古めかしい教会(Ermita de Nuestra Señora del Poyo)がぽつんとあった。

そこから蛇行をしながら、スロープのように下り坂になり、父より先に歩いていくと、父が谷の先に見えてきたりして面白かった。山道を抜けるといきなり視界が開けてきて、次の町(Viana)が見えてきた。町に着いたとき、父を待つ間、地元のスペイン人と話していた。

巡礼路(Calle la Pila)から門をくぐると町の中に入った。中央通り(Calle Rúa Santa María)にある13世紀に建てられた教会(Igresia de Santa María)の塔が優美にたたずんでいた。ファサードの彫刻も立派だった。13世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の18世紀に作られたファサードも立派で巡礼宿として使われていた。午後6時過ぎまで歩いてきたため、今日はここに泊まることにした。

巡礼はグルメ旅行ではない上、旅費の節約にもなるため、食料品店で沢山の食料を求め、町の真ん中の通り(Calle Medio de San Pedro)に面した巡礼宿(Albergue)で皆でおしゃべりをして盛り上がりながら食べた。巡礼宿に着くと、とても陽気なフランス人が部屋にいてほっとした。

スペイン人のおとなしめの人と、フランス人のよくしゃべる人くらいがちょうどよく、ドイツ人は少し真面目で几帳面すぎるきらいがある感じがした。面白い事にヨーロッパでも、北に行くほど、几帳面な国民性を持ち、南に行くほど地中海の温暖な気候で大らかになることを感じた。

夕食はアメリカ人、フランス人、ドイツ人、チェコスロバキア人と食べた。一緒の部屋のフランス人Kikeが沢山写真を撮ってくれて、本当にフレンドリーで就寝まで心温まる時間を過ごせた。同じ部屋にはフランス人の家族が宿泊していて、皆でフランス語で話が盛り上がった。

(Vianaは、1219年にナバラ王サンチョ7世(Sancho VII de Navarra, 1194-1234)が作った町で1229年にviana, vianna、1234年にvianam、1311年にbiana、1313年にbianeと記録され、オーストリアの首都Wien, Vienaやフランスの都市Vienneと同じ語源である。ローマ人が各地に建築した都市Viennaはラテン語Vindobonaに遡り、先住民族のケルト語*Vedunia < ケルト祖語「森」*widus < 印欧祖語*h₁widʰ(h₁)-u-s < 「分かれる」*h₁weydʰh₁-が語源である。スペインやポルトガル北部にもケルト系の地名が多くあり、ポルトガル北部の港町Viana do Casteloなどがある。町の中心にある教会(Iglesia de Santa María)にはレオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)が技術者として仕えたチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia, duca di Valentino, 1475-1507)の墓所がある。)

ベネディクト会修道院(Monasterio de Santa María la Real de Irache)
Sansolの手前で遭遇した羊の群れ

2008年4月23日(水)14日目(Viana-CuevasLogroño-Navarrete-Nájera: Asociación de Amigos del Camino de Nájera)

Navarra地方からLa Rioja地方に入った。Logroñoで教会(Iglesia de San Bartolomé)は美しかった。美しい湖(Pantaro de la Grajera)を見たり、葡萄畑が広がる乾いた大地を歩いていると一面にかかる虹が見えた。Nájeraの街を抜けて橋を渡った先に寄付金で運営される公営の巡礼宿に泊まれた。

今日は午前7時過ぎに宿を出た。巡礼宿の前が巡礼路のために直ぐに歩きだして、門(Portal de San Felices)をくぐり町を出た。昨日と同じような景色を40kmほど歩き続けて進んだ。

途中でフェンスに十字架が沢山建てられていたり、道はバラエティーに富んでいた。町で食料を買い込んんだため、荷物の重さに押しつぶされながら、何とか乗り切った。車道(N-111)に沿う一本道のためどんどん歩いてゆき、町や目立つ場所で父が追い付いてくるのを待ちながら進んだ。

街を出てしばらく歩くと14世紀に建てられた立派な教会(Ermita de la Virgen de la Cuevas)がぽつんとあり、ローマ人が来る前から町Covasがあり、Vianaの町ができるまで栄えていた場所だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「また、Cuevasと呼ばれる町があり、同じく死をもたらす川が流れている(Inde ad villam quae dicitur Covas, flumen defluit mortiferum)」とあり、Río de Perezuelasに比定され、1270年にCueuasと記録、ラテン語「洞窟」cavus < イタリック祖語*kawos < 印欧祖語「恐れる」*ḱowh₁-ós < 「膨れる」*ḱewh₁-が語源)

平原を一本に貫いている巡礼路(Camino a San Andrés)をひたすら進むと直に製紙工場(Papelera del Ebro SA)があり、遂にバスク人が多く住むNavarra地方からLa Rioja地方に入った。県境を越えた途端に砂利道から赤い舗装がされて良い道になり歩きやすくなった。

街に入る前にローマ都市の跡(Cerro de Cantabria)があり(イベロ=ケルト語「岩」*cant- < ケルト祖語「縁」*kantos < 印欧祖語「曲がる」*kh₂em- + イベロ=ケルト語「土地」*broɣ < ケルト祖語「境界」*mrogis < 印欧祖語*morǵ-is < *morǵ-が語源)を過ぎ、高速道路の下を何度かくぐり、葡萄畑の中の平坦な道(Camino Viejo de Viana)を歩いていると、Bar Donna Felisaに飼われていた犬が懐いて、私の周りを歩き回っていた。通りにはきれいな赤と白の花が咲いていた。

町に近づくといくつか塔が見えた。町を見渡せる葡萄畑にある石の腰かけで少し一休みして、父が来るのを待った。町の中は道が入り組んでいるから町に入る前の一本道で父を待てば必ずはぐれることがないと思った。それから大通り(Carrera Mendavia)を歩いてゆくと町の教会の塔が見えてきた。

橋(Puente de Piedra)を渡り、町に入ると大通り(Calle Mercaderes)に面した博物館(Centro de la Cultura del Rioja)や1130年に建てられたカスティーリャ王ルフォンソ7世(Alfonso VII, 1105-1157)の宮殿に由来する教会(Iglesia de Santa María de Palacio)があり、1500-27年に建てられた美しい教会(Iglesia de Santiago el Real)の中に入った。祭壇にとても美しく装飾が施されていた。御心を持ったイエス像や、聖ヤコブや幼きイエスを抱いた聖母子像など美しい聖像があった。

塔の横にある壁の高い所には、クラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で現れた聖ヤコブの姿が大きく彫刻されたレリーフがあった。また、12世紀にゴシック様式で建てられた教会(Iglesia de San Bartolomé)や12世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María de Palacio)の尖塔が素敵だった。

正午過ぎにLogroñoのBanco Santanderでお金を下して、Supermercadoで買い物をした。城門(Muralla del Revellín)や美しい噴水がある広場(Plaza Alférez Provisional)を過ぎた大通り(Calle Marqués de Murrieta)に面したDiaでは、安くてIbérico豚のChorizoがとても美味しかった。

Logroñoは大きな町で金髪の住民が多く、古くからゲルマン人が住みついたことを感じた。(575年に西ゴート王リウヴィギルド(Liuvigild, 519-586)が駐屯したCantabriaがあり、965年のレオン王サンチョ1世 (Sancho I de León, 935-966)に関係してLucronioとして記録された。

特に古スペイン語lo < ラテン語illo < ille < イタリック祖語*olle < 印欧祖語*h₂ol-no- ~ h₂l̥-no- < 「他」*h₂el-と合わせて、gronio, groino, groyno, gravio, grivio, graio, gruio, gronoなどと記録され、ラテン語「ケルト系民族Beronesの土地」Lucus Berunius / Brunius < Varia, Vareia, Vereia, Baregia < ケルト=イベリア語「民族名」Uarakos, Barakos < ケルト=イベリア語「川」*uaro- < 印欧祖語*wódr̥ < 「水」*wed- +‎ 接尾辞*-r̥、もしくはEbro川と同じくバスク語「川」ibai < *ɦibaiが語源と考えられる。

1095年にはカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が自治(fuero)を認め、カスティーリャ王ルフォンソ7世(Alfonso VII, 1105-1157)が宮殿を建てた。1109年にGrugnus、1162年にLogroino、1164年にPont Locronii, Lucronzum、1259年にLogroyno、1264年にLogroynno、1270年にLogroño、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でGrugnusと記録された。1431年に市(ciudad)になり、1516年に大聖堂(Concatedral de Santa María de la Redonda)が建てられた。町の北側を通り過ぎて中心にある大聖堂には訪れなかった。

町の更に南15kmほどの丘にある村(Castillo de Clavijo)こそが、844年5月23日にアストゥリアス王ラミーロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)がクラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン2世(عبد الرحمن بن الحكم / ʿAbd ar-Raḥman ibn al-Ḥakam, 792-852)との戦いで白馬の騎士が現れ、勝利に導いたとされ、聖ヤコブ信仰につながり、巡礼路が開かれた伝説のある地である。Ildefonso Rodríguez de Lama (1976-79). Colección diplomática medieval de la Rioja (923-1225), Logroño: Instituto de Estudios Riojanos.やUrbano Espinosa (2004). El gentilicio Berones en el topónimo Logroño, Alicante : Biblioteca Virtual Miguel de Cervantesを参照)

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Logroñoに向かいEbroという大きな川が流れており、その水は清く魚が多くいる。EstellaからLogroñoまでの全ての川は人間と動物が飲むには危険であり、そして、それらの川で捕れた魚を食べると毒である。(ad Grugnum decurrit aqua ingens, nomine Ebra, quae est sana et piscibus abundat. Omnes fluvii, qui a Stella usque ad Grugnum habentur, lethiferi ad bibendum hominibus et jumentis, et pisces eorum ad comedendum approbantur.)」と書かれていてRío Ebroは大きな川として良く知られていた。)

町を出るとしばらく幹線道路(N-232)に沿う歩きやすい道を進んだ。新市街はかなり広くて大通り(Avenida de Burgos, Calle Entrena, Calle Rodejòn, Calle Prado Viejo, Avenida Manuel de Falla)や公園(Parque Camino de Santiago)をひたすら歩いた。段々と商店街から住宅地になり、郊外に出ていき、幹線道路をくぐり、巡礼路(Camino Prado Viejo)に出た。

美しい湖(Pantaro de la Grajera)の前の石段に腰掛けて、町で買った昼食を食べた。それから、また幹線道路(N-232)に沿う殺風景な巡礼路を歩き、高速道路(AP-68)を陸橋で渡ると1185年にテンプル騎士団により建てられた古い巡礼宿の遺跡(Ruinas del antiguo hospital medieval de San Juan de Acre)があり、門がきれいに建てられており、建物の土台だけが残されていた。そこで石に腰かけて休み、父が歩いてくるを待っていた。父が追い付いてきて、目的の街を決めてから歩き出した。

直ぐに町Navarrete(1196年にNauarret、1268年にNavarreteと記録され、 バスク語「谷」naba < *naba + 「村」herri < *her̄i + 「扉」ateka < *ateが語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillarubeaと記録)が目の前に見えてきた。1195年にアルフォンソ8世(Alfonso VIII de Castilla, 1155-1214)が統治して、13世紀の城壁(Muralla)が丘の中腹に作られており、1523年に建てられた教会(Iglesia de Santa María de la Asunción)の尖塔が街のシンボルだった。町の周りの道(Callela Cruz)を進んだ。黒い石畳がきれいで歩きやすかった。父と次の町で今日は泊る約束をして、父は町外れの通り(Calle San Roque)のベンチで休み、私は先に歩いた。

町を出てから、幹線道路(Calle Carretera de Burgos / N-120)や高速道路(Autovia del Camino de Santiago / A-12)に沿いながら歩いた。途中から巡礼路の辺り一面が葡萄畑で乾いた土地(Alto de San Antón)を歩いてしばらくしたら、巡礼路の近くの少し南に塚(Poyo de Roldán)があり、778年にフランク王カール大帝(Carolus Magnus, 748-814)がスペインに遠征をしたとき、ブルターニュ辺境伯ローラン(Hruodlandus)が巨人を退治した御礼に村人から受けた財宝を埋めた伝え聞いた。

川(Río Yalde)を渡る少し前に美しい虹が空一面にかかっていて、ひたすら平原が広がる中を歩いてきて、息をのむほど美しかった。飲むヨ-グルトを飲んで一服した。

目的地のNájeraに父よりも何時間も早く着いてしまい、イタリア語とフランス語の本を読んでいた。通り(Calle San Fernando)に面した食料品店(Schlecker S.A.U.)でジュース(Zumo de multivitaminas)、ヨーグルト飲料(Danone Font Vella vital)、レモンティ(Té de limón)などの飲み物を求めて、巡礼宿(Albergue)の前で待つことにした。

父は陽気なスペイン人の集団と一緒に歩いて、途中で休憩をしてきたため、到着するまでに時間がかかったと話してきた。巡礼宿(Albergue)が町の中でなかなか見つからず、地元の人に聞きながら進み、やっと町の中を縦断するように流れている大きな川に架かる橋(Puente sobre el río Najerilla)を渡った先の左にある町はずれの広場(Plaza Santiago)に見つけた。そこは寄付金のみで運営されていて、宿泊した巡礼者が寄付を入れる公営の巡礼宿だった。

パスタを作ろうと思ったが、電磁式(IH)のキッチンに慣れないため、調理に戸惑っていたら、管理人(hospitalera)のフランス人Yolandaさんが全て親切に助けてくれて感謝した。両親が韓国から来て、アジア人の顔をしているけれども、フランス語が母語だとフランス語で話していた。

出来上ったパスタはアルデンテだが、水を入れ過ぎてしまい、スープパスタになったが、薄味で消化に良く、身体に優しく美味しかった。食事後、シャワーを浴びて寝る前に陽気なイタリア人Stefanoやアメリカ人Saraとおしゃべりを楽しんでから床についた。

Nájeraは歴史が古い町で川(Río Najerilla)が流れ、アラビア語「川」نَهَر‎ / nahar < セム祖語*nahar-(アッカド語 𒈾𒀀𒀸 / nārum、ウガリト語 𐎐𐎅𐎗 / naharu、アラム語 ܢܲܗܪܵܐ‎ / nahrā、ヘブライ語 נהר‎ / naharと関連)が語源とされるが、青銅器時代や鉄器時代から人が住み、ローマ時代にTritium Magallumが築かれ、西ゴート語に遡るともされ、地域名のスペイン語Navarra、フランス語Navarre、バスク語Nafarroaとも関連して、Nagara, Najela, Naiara, Nayra, Nasara, Naxera, Nazara, Naçaraなどの綴りで記録されるが、故に先住のヴァスコン人のバスク語「谷」naba < *naba + 「村」herri < *her̄iが語源である可能性が高い。確かにNavarra地方には多少の起伏や村々があり、後者の説が納得がゆく。

923年にナバラ国王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)がレオン王オルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 871-924)と後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)から奪還して、924年にアブド・アッラフマーン3世(عبد الرحمن / ʿAbd ar-Raḥmān III, 889-961)にPamplonaを破壊されたナバラ国王ガルシア1世が居住して、1054年までナヴァラ王国(Regnum Navarrae > Reino de Navarra)の首都にして、1076年に遷都した。

1080年に西欧最古の現存する紙に書かれた本としてモザラベ典礼(Rito mozárabe)のミサ曲集(El Misal de Silos)が書かれた。1142年にフランスからトレドに向かう途中のクリュニーの修道士ペトルス(Petrus Venerabilis, 1092-1156)がダルマティアのヘルマン(Hermannus Dalmata)やケットンのロバート(Rodbertus Ketenensis)など翻訳者とこの街で会い、修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)でコーラン(قرآن / al-Qurʼān)やサラセン人の歴史(Chronica mendosa Saracenorum)をラテン語に始めて翻訳した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でNageraと記録された。1218年にカスティーリャ王国(Regnum Castellae / Reino de Castilla)のフェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が戴冠式をした。

(Lecuona Don Manuel (1962). Etimología de la voz "Navarra”, Munibe 1962: 3-4. "Tenemos, por tanto, como elementos de comparación y estudio las variantes siguientes: Navarra (forma v), Nafarra (forma f), Naharr(uri) (forma h), y por fin Najarro con Nájera o Nájara (forma j). Formas todas, que, en su conjunto, nos aproximan, como decimos, tan notablemente al nahar, nuestro supuesto origen del histórico nombre."と書かれている。María Dolores Gordón Peral (2010). Toponimia de España: estado actual y perspectivas de la investigación, Berlin: Walter Mouton de Gruyter: 145.)‎

Alto de San Antónで見えた巡礼路にかかる虹
西欧最古の現存する紙の本(E-SI (Santo Domingo de Silos), Archivo del Monasterio, MS 6, 25v-26r)

6949 * 2008年4月24日(木)15日目(Nájera-Azofra-Cirueña-Santo Domingo de la Calzada-Grañón: Hospital de Peregrinos San Juan Bautista)

Xavierと偶然出会い、東洋哲学の話で盛り上った。Santo Domingo de la Calzadaで杖を買った。Grañonの巡礼宿は寄付だけで運営されていて、巡礼者が皆で全てを準備して片付けするため、フレンドリーでアットホームな時間を過ごせた。教会の中で祭壇の前で寝て、一晩を過ごした。

今日の朝は遅く、午前7時15分に起きて、食堂でLombardia出身のイタリア人Stefanoたちと朝食を食べて、午前8時少し前に巡礼宿(Albergue)を後にした。父と私が巡礼宿を出たとき、最後の二人目だった。近くの1052年にパンプローナ王ガルシア・サンチェス(García Sánchez III, 1012-1054)が創設したナバラ王族たちが多く眠る修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)を訪れてから、住宅地の中を通っている巡礼路(Calle Costanilla)を少し進んだ。

美しい景色の場所(Monte Calavera)が直ぐにあり、左に雪をかぶった美しい山々(Sierra de Cebollera)を見た。イタリア人Stefanoやアメリカ人Saraたちと出くわして、おしゃべりをした。

それから森の中に入り、坂を上り、丘を上がり切ると緩やかな下りになり、辺り一面が葡萄畑の中を通る平坦な道を歩いてゆき、一つのコンパクトで美しい村Azofra(1199年の修道院(Monasterio de San Millán de la Cogolla)に対する教皇勅書で記録があり、アラビア語「素晴らしい」سِحْر / siḥr < 「暁」سَحَر / saḥar < セム祖語「曙」*šaḥ(a)r-が語源。アッカド語𒀉𒄘𒍣𒂵 / šērum、ヘブライ語שַׁחַר‎ / šáḥar、アラム語𐡔𐡇𐡓 / šaḥrā、ウガリット語𐎌𐎈𐎗 / šḥrと関連)の美しい鉢植えのお花が飾られた家の間を抜けて、村から出た所に面白い形の柱(Picota de Azofra)が草むらの中に建っていた。その前で石に腰かけて、父が歩いてくるのを待ちながら休憩をした。

葡萄畑や小麦畑など草原の中を通る良く踏みならされた一本道を遠くの山々を望みながら歩いてゆくと、チェコ人Liaとスペイン系フランス人Xavierと会った。見晴らしが良い所で腰を下ろして一休みして父を待った。Liaの弟(か兄)が物理学者で日本を学会に出席するために何度も訪れているそうだ。皆、日本に来たり、関わりがある人が多くて面白く感じた。

それから丘を上がりながら後ろを振り返ると歩いてきた巡礼路が一望できて圧巻だった。ここまで歩いて登ってきた実感があった。尾根に休憩できる場所があり、ベンチに腰を下ろして水を飲んだ。

Cirueña(972年にCironia、1052年にCeroniam、1056年にCironiam、1191年にCyrueina、1193年にCyronia、1277年にCirueño、1287年にÇiruennaと記録され、バスク語Zuriona < 「木」zur < *sul +「足(根)」oin < *hoinが語源)では、ジャガイモが道端で潰れていて笑いながら歩いた。

(今は小さな教会(Iglesia de San Andrés)しかないが、927年にはパンプローナ王サンチョ2世(Sancho Garcés II, 938-994)が修道院に寄進して、1052年にサンチョ3世(García Sánchez III, 1012-1054)が​修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)に寄進した由緒ある土地である。)

町は丘の上に作られており、そこからは下り坂(Alto de Matacón)になり、羊が放牧されている牧場を歩いた。なだらかな丘が遠くに見えて、一面が春の新緑で染まり美しい風景のパノラマだった。ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いていて彩りを添えていた。

丘を登ると幾重にも重なる先の巡礼路が見えて見通しがとてもよくどんどん歩いてぐんぐん進んでゆけた。なだらかな丘陵を歩いてゆくと視界が突然開けてきて、目の前に大きな町が見えてきた。

(巡礼路から少し南にある村San Millán de la Cogollaには、6世紀に創建され、 954年にナバラ国王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)が建てたが、1024年に アルマンソル(المعافري / al-Manṣūr > Almanzor, 939-1002)に攻撃され、1030年と1053年にナバラ王サンチョ3世(Sancho III, 992-1035)が再建した歴史ある二つの修道院(Monasterio de San Millán de Suso y Yuso)があり、11世紀に書かれた聖ミリャン修道院の注解(Glosas Emilianenses)にカスティーリャ語やバスク語で欄外に註釈が加えられた。更にリエバーナのベアトゥス(Beatus de Liébana, c.730-0798)による《ヨハネの黙示録》の注解(Beato de Cirueña)の写本、946年に筆写されたセビリアのイシドルス(Isidorus Hispalensis, c. 560-636)の《語源学(Etymologiae u Originum sive etymologiarum libri viginti)》や1195年の歴史書(Becerro Galicano)などの大量の書籍が筆写室(Scriptorium)で生まれた。)

Santo Domingo de la Calzadaに着いて、車道(Calle del Doce de Mayo)から中央通り(Calle Mayor)に入ると城壁があり、旧市街という感じがしてきた。16世紀に建てられた古い家(Albergue Cofradía Casa del Santo)が巡礼宿だった。立派な扉が付いて中に広い納屋があった。その前の広場(Plaza de la Alameda)の長椅子で父を待った。すると、先ずXavierが歩いて来て、彼も少し休憩するよと一緒に座りながら、話が盛り上がった。東洋哲学への造詣にとても驚かされた。般若心経を見せてくれ、仏教の修行の話を聞いたり、李白や荘子・老子が大好きと聞き、更に驚いた。父は先ほど会ったから、直ぐに来ると思うよ。今日はGrañónの巡礼宿に泊まる予定だから待っているよ。そこは巡礼者が家族のように感じられる特別な巡礼宿だから、是非ともそこに泊まるといいと教えてくれた。

聖ドミンゴ(Domingo de la Calzada, 1019-1109)が、1044年にOja川に橋(Puente de Santo Domingo)を架けたり、敷石(calzados)を道にひいて築いた町で広場(Plaza del Santo)に巡礼者を助けた救護院(Hospital de Peregrinos)があり印象的だった。1106年に建てられた聖ドミンゴが埋葬された大聖堂(Catedral de Santo Domingo de la Calzada)には、鶏が飼われていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Dominicusと記録された。

昔に父親Xantenと巡礼をしていた青年Hugonellが、銀食器を盗んだと無実の罪を着せられて首吊りの刑に処せられたが、父親がSantiago de Compostelaへ巡礼を終え、町に戻ってきたら、首吊り台で生きていて、聖ドミンゴが足を支えてくれていた奇蹟が起き、裁判官に父親が首吊り台から息子を下ろして欲しいとお願いしたところ、絞首刑に処せられた人が生き返るのは、料理された鶏が生き返るように絶対にありえないと言った途端、鶏が生き返り鳴き出して、無実が証明された話が伝えられた。

大聖堂(Catedral)や宿泊施設(Parador)になっている救護院(Hospital)の正面にある聖ドミンゴの像には巡礼の杖が必ず刻されていた。町で軽量で丈夫で良い巡礼用の杖を求めることにした。

広場(Plaza del Santo)から少し通り(Calle Hilario Pérez)に入ると雑貨屋(Moderna Regalos)があり、店頭に並んでいた杖がシンプルで気に入った。実際に杖がある方が、急な斜面で支えてくれたりして、足場が悪いところでもバランスを取りやすく、足に負担をかけずに歩いてゆけると感じた。

店主にSupermercadoの位置をたずねると丁寧に教えてくれた。商店街になっていた隣の通り(Calle Pinar)にお菓子屋さん(Pastelería Isidro Heladería)を見つけて入り、父と一緒にアイスクリームを食べて、チョコレート菓子を頂き、とても美味しくて、至福の時を過ごした。同じ通りで食料品店(Autoservicios Gama)を見つけて入り、飲料や食料を買い、午後2時半に町を出た。

13世紀の城門(Muralla)を抜けて、町を出るとその川(Río Oja)があり、立派な道路橋(Puente de Santo Domingo)を渡り、幹線道路(Carreras de Burgos)沿いの巡礼路を少し進むと鉄の十字架(Cruz de los Valientes)があった。幹線道路(N-120)から少し逸れて、途中で少しだけ、小道に入る所で迷いながら、小さな村Grañón(885年にレオン王アルフォンソ3世(Alfonso III de Asturias, 848-910)が砦を作り、古スペイン語「穀物」grano < ラテン語granum < イタリック祖語*grānom < 印欧祖語 *ǵr̥h₂-nóm <「育つ」*ǵerh₂-が語源)に着き、街中の長椅子で父を待っていたら、スペイン人の夫人が来て、巡礼宿(Albergue)に案内してくれた。すると、Xavierが既にいて中から出てきて、温かく迎え入れてくれた。父は小麦畑の中の巡礼路ではなく、途中から幹線道路(N-120)に沿う道を歩いてきたと話していた。村の中の道(Calle Santiago)は家々の様子も風情があった。

今日は午後4時過ぎまで歩いた。巡礼宿は教会の隣にあり、古い建物で内装と外装共に美しかった。ここも寄付だけで成り立っていて、しかも、お金を入れるのは義務ではないどころか、募金箱には鍵がかけられておらず、「必要なら取ってゆきなさい。可能なら置いてゆきなさい(Toma lo que necesites, deja lo que puedas.)」と書かれていて、巡礼者が助け合う精神が溢れていて、巡礼宿の本来の姿を感じさせてくれて、フレンドリーでアットホームだった。

寝る場所と庭でXavierと少し話をした後、シャワーを浴びた。それから庭でXavierやLiaやカリフォルニアから来たオランダ系アメリカ人夫妻Miriam & Donと沢山のお話をした。

Xavierが寝る部屋の隣の教会を案内してくれて、祭壇の豪華絢爛さに驚き、村にもこんなに立派な教会が建てられていることに心を打たれた。今日は英語は話す人が、沢山いて盛り上がれそうに感じた。

Xavierとシャワー後にも沢山お話をした。彼は知識として東洋哲学を知るだけではなく、心で感じる人で話には深みがあり敬服した。宗教的に重要な場所を西東問わず訪れた話を聞いて、彼のような旅をしたいと思った。トルコ、シリア、アラビアなど、世界を広く旅する精力的な人だった。

中国哲学について、色んな本を読んでいて、好きな詩人は李白だと言っていた。合気道について読んだり、居合も習っていたと言っていた。私と同じで全ての源は人の心であって、物理的な方法はそれに伴うことであると考えて、人間的な精神を大事にする人であり、そのような人と会えたことに対して縁(providentia)を感じたと話すと、彼はにこりと笑って、人との出会いはそのようなものだねと言った。特に中国の古典、特に易経にも通じていて、儒教についても造詣が深かった。

夕食の準備を皆とおしゃべりをしながら手伝い、食堂にはものすごい長いテーブルが用意されており、ものすごい数の食器がずらりと整列していて、晩餐と言えるようなにぎやかさだった。皆で食卓のお祈りをしてから、食事を始めた。

夕食では本当に様々な言語、スペイン語、フランス語、スウェーデン語、イタリア語、英語などが飛び交っていて楽しかった。右隣のフランスのご婦人と一緒になりおしゃべりをした。左隣はチェコ人Liaとスペイン系フランス人Xavierだった。ものすごい数の巡礼者がいて、大きな晩餐だった。

XavierやLiaと話をしながら、私はパンを切ったり、チーズやサラミを盛りつけて、サンドイッチ(Bocadillo)を作った。Xavierはこれはスペイン語で何というのかと食材について聞いてゆくと、喜んで教えてくれた。特に紙の上では、むしろ難しい言葉は多く覚えることができるが、実際に言葉を話すためには、実際に生活をして、食材や料理、日常で使う言葉を実地で学ぶことが大切と考えた。

夕食はフランス人とフランス語で話した。食後、皆で片付けをして、イタリアのご夫妻DavideとLisa、アメリカのご夫妻DonとMiriamと話をして、時間を過ごして、皆で晩餐を行った。隣の教会の屋根裏で祈りの言葉を各国語で読み上げて、一日を終えた。巡礼中にあったことをお話してシェアーしたり、最後に蝋燭を手渡しして行き、一人一人お祈りをしたり、お祈りを心で描くなどした。

今日は教会で眠ることにした。祭壇の前に寝袋を敷き、眠りについた。ライトアップされた祭壇はとても美しく、マリア様やイエズス様に囲まれ、深い神聖な眠りにつけた(笑)教会には、正面にイエズス様とマリア様の昇天、右面に幼子イエズス様とマリア様の母子像、洗礼者ヨハネの像、マリア様で、左面が洗礼者ヨハネの遺体を安置する所や (1933年とある) 大きな十字架があった。

葡萄畑と巡礼路(Azofra-Cirueña)

6950 * 2008年4月25日(金)16日目(Grañón-Redecilla del Camino-Castildelgado-Viloria de Rioja-Villamayor del Río-Belorado-Tosantos-Villambistia-Espinosa del Camino-Villafranca Montes de Oca: Montes Dom. Rex. Hospitalis)

乾いた大地を貫いている巡礼路をひたすら歩き進んだ。La Rioja地方から、Burgos地方に入った。Beloradoの町はずれにある川に架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")が立派で気に入った。巡礼宿でフランス人、ハンガリー人、フィンランド人とお話をしながら夕食を作って食べた。

今日は朝は、午前7時に父が教会まで起こしに来てくれて、朝食を食べて、荷を整理して、ゆっくりしていると、午前8時半になって出た。思い出が詰まった巡礼宿(Albergue)を出て、少し進んだとき、杖を忘れたのに気付いて取りに戻った。小一時間ほど歩いてゆくと、La Rioja地方から、Burgos地方に入った。県境の丘の上からは歩いてゆく道を見下ろすことができ、次の村が彼方に見えた。具体的な目標があると次はあそこまで歩いてゆこうという進んでゆこうとする意欲につながることを感じた。今日も昨日と同じく山を眺めながら、丘を上がり下がりして、緑がきれいな中をひたすら進んだ。

次の町Redecilla del Camino(968年にRadicella、1028年にRateziella、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRadicellasと記録され、古スペイン語「蕪」radici < ラテン語 radix < イタリック祖語*wrādīks < 印欧祖語*wréh₂ds. + 接小辞 -cilla < ラテン語 -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lós、もしくはスペイン語「網」red < ラテン語 rete < イタリック祖語*rēti- < 印欧祖語*h₁reh₁-t- < 「並ばせる」*h₁reh₁- + 接小辞 -ecilla < ラテン語 -icula < -ulusが語源)に入る所に十字架や水汲み場がある広場があった。ベンチに腰掛けて少しだけ休んで水を飲んだ。17世紀に建てられた教会(Iglesia de la Virgen de La Calle)に入ると、美しいパイプオルガン、いくつもの金ぴかの祭壇や絵画があった。マリア様の昇天の絵画はとても美しかった。教会の中は工事をしていて貴重な絵画がそこらに置かれていてびっくりした。

蝋燭に火を付けるのが、電化されていて、LEDが付いて驚くと共に少しだけ拍子抜けしたが、13世紀に作られたロマネスク様式の古い洗礼盤(Pila bautismal románica)が目を引いた。バベルの塔のような形をしていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRadicellaと出てきて、今は小さな集落だが昔から巡礼路に面していて栄えていた場所であることを感じた。

また、村を出てひたすら幹線道路(N-120)に沿う道を歩いてゆき、直ぐに隣の村Castildelgado(956年に記録され、古スペイン語「城」castiello < ラテン語castellum < castrum < イタリック祖語*kastrom < 印欧祖語*ḱs-trom < 「切る」*ḱes- + 前置詞 de + 定冠詞 el + 「家畜」ganado < 「増やす」ganar < ゴート語「欲しがる」*ganan < ゲルマン祖語「口を開ける」*ginōną < 印欧祖語*ǵʰeyh₁-e-ti > *ǵʰeyh₁-が語源)に着いた。

村の真ん中に洗濯場(Lavadero)がある広場(Plaza Mayor)に面した16世紀にゴシック様式で建てられた教会(Iglesia de San Pedro Apóstol)と13世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Ermita de Santa María del Campo)を通り、直ぐに幹線道路に沿う巡礼路に出た。

道は真っ直ぐで辺りは平原のため、起伏も殆どなく、歩きやすく進んでゆけた。父と話をして、今日は次の大きな町Beloradoより先まで歩いてゆくから、また町の中で会う約束をした。

途中に二つの村を通過した。Viloria de Rioja(1028年に記録され、ラテン語「村」villa + 「金」aurea < aurum < 古ラテン語ausum < イタリック祖語*auzom < 印欧祖語*h₂é-h₂us-óm < 「光り輝く」*h₂ews-+‎ 接尾辞-eusが語源)の村villa de Oriaが語源。ナバラ地方の同名の村も1032年にVilla Oria、1087年にVillorienses, Vicini, Villoria, Vylloriaと記録された。1082年にRivo de Ogga、1099年にRiogaと出てきて、川(Río Oja)はバスク語「森」oian < *oi=hanが語源)の17世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)があった。聖ドミンゴ(Domingo de la Calzada, 1019-1109)が生まれた村である。しばらく畑の中を歩いてゆき、幹線道路(N-120)沿いに進んだ。

Villamayor del Río(1151年に記録され、ラテン語「村」villa + 「大きな」major < magnus < イタリック祖語*magnos < 印欧祖語*m̥ǵh₂-nós < 「偉大な」*méǵh₂sが語源)の18世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Gil Abad)を通り、丘陵地を歩いてゆくと、町が下に見えてきた。巡礼路(Camimo los Paúles)は幹線道路から離れて山道になるとスフィンクスのような形に奇岩が見えた。

Belorado(ケルト人アウトリゴニ族(Autrigoni < 古典ギリシア語「他」ἄλλος / állos < ヘレニック祖語*áľľos < 印欧祖語*h₂él-yo-s < *h₂el- + 「三」τρεῖς / treîs < ヘレニック祖語*tréyes < 印欧祖語*tréyes + 「角」γῶνος / gônos < γωνία / gōnía < 「膝」γόνυ / gónu < ヘレニック祖語*gónu < 印欧祖語*ǵónuが語源)が築いた古い町で945年にBilforatuと記録され、1116年にアラゴン王アルフォンソ1世(Alfonso I, 1073-1134)により自治(fuero)が認められた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBelfuratusと記録され、ラテン語「戦さ」bellum < 古ラテン語duellum < イタリック祖語*dwellom < 印欧祖語「傷つける」*deh₂w- +‎ ラテン語「破れた」foratus < foro < イタリック祖語*forāō < 印欧祖語*bʰorH-eh₂yé-ti < 「退屈」*bʰerH-が語源)に入ると直ぐに16世紀に建てられた古い教会(Iglesia de Santa María La Mayor)があり巡礼宿として使われていた。

迷路のように入り組んだ通りを進んだ。街の真ん中にある17世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の広場(Plaza Mayor)には、不思議な形のプラタナス(Plátano)の街路樹があり、隣の木と枝が手をつないで結ばれていた。今の季節は葉は落ちてしまい枝がむき出しだったが、下にはベンチが置かれており、夏になると日影ができて、憩いの場となる工夫を感じた。

昨日のSanto Domingo de la Calzadaの大聖堂の前にも植えられていた。旧市街を出ると通りの幅が広くなり整然とした街並みになった。町はずれにある川(Río Tirón)に架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")が立派だった。11世紀にサンティアゴ・デ・コンポステーラに大司教座を置いたレオン王国のアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が巡礼者のために架けたとされ、車が通れるほど広くて頑丈な石造りの端で巡礼路から右手に眺めることができた。

幹線道路(N-120)に沿う巡礼路を何度か川(Río Retorto)の支流を何度か渡りながら平地を小一時間ほど進むと次の村Tosantos(972年4月6日にSan Millán de la Cogollaの修道院の古文書でTolsantosと記録され、「全ての聖人」Todos los Santosが語源)が見えてきた。

村に入ると直ぐにLiaが家の前のベンチで寛いでいるところに出くわした。巡礼路がある村には、銀行が寄贈したベンチが多く置かれていて、巡礼者が一休みできるように配慮がなされていた。歩き続けていると足に疲れがたまるので、時どき腰を下ろすだけでも気分が変わり良いと思った。村を過ぎると右に崖の上の洞窟に16世紀に建てられた教会(Ermita de la Virgen de la Peña)が見えた。

次の村Villambistia(1515年に初出でスペイン語「村」villa + 「赦し」amnistía < ラテン語amnestia < ギリシア語ἀμνηστία / amnēstíā < 「忘れる」ᾰ̓́μνηστος / ámnēstos < 否定辞ἀ- / a- < ヘレニック祖語*ə- < 印欧祖語 *n̥- + 「覚える」μνηστός / mnistós +‎ 名詞化 -ῐ́ᾱ / -íā < ヘレニック祖語*-ia < 印欧祖語*-i-eh₂が語源)が見えてきて、半時間ほど歩くと着いた。

16世紀に建てられた入り口の美しい教会(Parroquia de San Esteban Protomártir)の鐘楼を見ながら通り、村を抜けると巡礼路(Calle la Fuente)は農道になり、幹線道路(N-120)を横切ると直に別の村Espinosa del Camino(1515年に初出で古スペイン語「棘がある」espinoso < ラテン語spinosus < espina < イタリック祖語*speinā < 印欧祖語*spey-neh₂ < 「尖った」*spey- +‎ -osus < 古ラテン語-osos < イタリック祖語*-owonssos < 印欧祖語*-went-tós < *-wéntsが語源)が現れた。

幹線道路(N-120)から巡礼路が離れてゆき、真っ平の平原にぽつんと863年に建てられた西ゴート王国(Regnum Visigothorum > Reino Visigodo)やアストゥリアス王国(Asturorum Regnum > Reino de Asturias)の時代(6-9世紀)に栄えた聖フェリックス修道院(Ruinas de monasterio de San Félix)の遺構があり、昔に暮らした人を廃墟と化した建物から感じられることが不思議な感じがした。

587年にレカレド1世(Reccared, 559-601)がアリウス派からカトリックに改宗した時代からある貴重な遺構である。また、西ゴート王レオヴィギルド(Liuvigild, 519-586)の子ヘルメネギルド (Hermenegild, 557-585)の子孫でアストゥリアス王ラミロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)の孫でBurgosの町の礎を築いたディエゴ・ロドリゲス(Diego Rodríguez Porcelos, c.855-885) が葬られた。そうした家系であることから土地に愛着があることが感じられた。

途中には、鶏が放し飼いにされていたり、美しい田園の景色があり、日航が降り注ぐ中、爽やかな気持ちで道を歩くことができて楽しめたが、Villafranca Montes de Ocaに着く直前には、幹線道路(N-120)を行き、ゴミが多く落ちていたりして汚れていた。しかも、車道すれすれを歩いてゆかなければならず、大型トラックが来ると吹き飛ばされそうな強風が吹く中をひたすら歩いて進んだ。

Villafranca Montes de Ocaに泊まることにした。巡礼宿でフランス人Nathalie、ハンガリー人KristofとBogi、フィンランド人Jaana、ドイツ人Gabrieleとお話をして、夕食を作って食べて、ボードゲームをして遊んだ。それから、町を散策して、特に白い石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de Santiago Apóstol)が美しかった。

587年に西ゴート王レカレド1世(Reccared, 559-601)がカトリック教徒になり、589年の第三トレド会議に司教(Asterius)、653年の第八トレド会議、656年の第十トレド会議に司教(Amanungus)が出席した。1266年の有名な詩(Poema de Fernán González, Biblioteca de El Escorial, IV-B-21)には、「当時はカスティーリャは小さい隅にあった。オカ山はカスティーリャの道標であった(Entonces era Castiella un pequeño rincón / Era de castellanos Montes de Oca mojón)」と詠われた。

1075年にBurgosの司教座(Archidioecesis Burgensis > Archidiócesis de Burgos)が置され、Gamonalに移転するまで司教座 (Dioecesis Aucensis > Sede Episcopal de Auca)も置かれ、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFrancavilla; inde nemus Oquaeと記録され、Oca山のフランス人の町と称され、フランスと由縁があり、古代末期から中世初期には繁栄していた。

Beloradoの町はずれに架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")

2008年4月26日(土)17日目(Villafranca Montes de Oca-San Juan de Ortega-Agés-Atapuerca-Villalval-Cardeñuela Ríopico-Orbaneja Ríopico-Castañares-Burgos: Amigos del Camino de Santiago de Burgos)

San Juan de Ortegaの修道院の前でオランダのRotterdamから歩いてきた巡礼者と会った。Cardeñuela Riopicoで無線アンテナを見ていると家の中に招き入れてくれて無線機を見せてくれた。Burgosは大都会で歩いても歩いても旧市街にたどり着かなかったが、大聖堂(Catedral de Santa María de Burgos)は立派だった。夕方に着いて旧市街で巡礼宿を探したが見つけることができず、日没近くに日本に住んでいたとても優しい仕事帰りの地元の人に出会い、巡礼宿まで連れて行ってくれて感動した。

今日は朝が遅く、昨日買ったウエハースをベットで食べて、午前8時半頃に出た。概ね森の中を歩き、Burgosに到着する前には山(Montes de Oca)を上り下りして険しかった。

泉(Fuente de Mojapán)からの眺めは素晴らしく、遠くに山脈(Sierra de San Millán)を望めた。昔から難所の一つとして知られていた峠だった。また、1936年のスペイン内戦の戦没者の追悼碑(Monumento La Pedraja)や19世紀に建てられた小さな教会(Ermita de Valdefuentes)があり、峠(Alto de la Pedraja)を過ぎてから下りになり、巡礼路の両脇には紫の花(Calluna vulgaris)が咲き乱れていて、道は踏み慣らされていて、とても歩きやすく、かなりの距離を行けた。

San Juan de Ortega(1200年にSanctus Joannes de Ortegaと記録)でオルテガの聖ヨハネ(Juan de Ortega, 1080-1163)により、1138年に建てられたロマネスク様式の立派な修道院(Monasterio de San Juan de Ortega)の横にある泉の前のベンチに座り、陽気なオランダ人Jean-Noelとベンチで歓談しながら休憩をした。巡礼者と会うと挨拶がわりに「どこから歩いてきたのですか」とたずね合うことが多いが、オランダのRotterdamと答えが返ってきたので驚いた。「Rotterdamと言ったら、Den Haagの近くで北の北ではないですか。ベルギーやフランスも貫通して歩いてきたのですね」と驚いて言うと、フランス国内を1か月もかけて歩いてきたんだよと言うので驚いてしまった。

小さな村に立派な修道院がドカンと建てられていて圧巻であり、都市部よりも、こうした田舎に修道院が建てられているからこそ、意味があると感じた。1431年にパブロ・デ・サンタ・マリア(Pablo de Santa María, 1350-1431)が修復して、1477年にカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel I de Castilla, 1451-1504)が巡礼の途上で訪れた(Ortegaはラテン語「イラクサ」urtica < 「燃やす」uro < イタリック祖語*ouzō < 印欧祖語*h₁éws-e-ti < *h₁ews-が語源で古典ギリシア語εὕω /. heúō < ヘレニック祖語*éuhōやサンスクリットओषति / óṣati < インド=イラン祖語*Háwšatiと関連)に由来しており、有名な哲学者ホセ・オルテガ(José Ortega y Gasset, 1883-1955)を思わせる地名である)。

昼食は森の中を歩いて、丘(Monte del Rebollar)を越えて、下ると目の前に青々とした絨毯の中に家赤い屋根が見えてきた村Agés(972年5月1日にSancta Eugenia de Haggegeと「修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)、994年にFagegと修道院(Monasterio de San Salvador de Oña)の古文書で記録、アラビア語「巡礼」حِجَاج ḥijāj < حَاجّ ḥājj < ح ج ج‎ ḥ-j-j < セム祖語*ḥagg-が語源でヘブライ語「祝日」חַג / khág、シリア語「祝日」ܚܓܐ‎ / ḥaggāと関連。ゲエズ語「法律」ሕግ / ḥəggとの類推から、アラビア語「正す」حَقّ‎ / ḥaqq < ح ق ق‎ / ḥ-q-q < セム祖語ḥuḳḳ-、ヘブライ語「法律」חֻקֵּ / khók < ח־ק־ק‎ / kh-k-k、シリア語「規則」ܚܘܩܐ ‎/ ḥuqqā、ゲエズ語「断食」ሐቀቀ / ḥäḳäḳäやティグリニャ語「真理」ሓቂ / ḥaqqiとも関連してアッカド語「桁」𒄷𒄣 ḫūquが原義)のBar El Alquimistaで食べた。

スペイン風オムレツ(tortilla de patatas)は、じゃがいもを角切りにして、タルトに敷かれていて焼かれていて、塩っぽくも脂っこくなく丁度良い味で美味して、アイスティがすごく合った。フランス人Natalieとまた会い、おしゃべりを楽しみながら食べた。スペイン人の店主は、英語もフランス語も堪能でおしゃべり好きで愛想がすこぶるよくて、Natalieともフランス語で話していた。店の中にフランス語で書かれた気圧計や古いブラウン管のコンピュータがあった。店にはとても可愛い子犬が遊んでいて、一緒に写真を撮った。私の膝の上に上がろうと頑張っていた。昼食を食べて元気が出てきて、Burgosに向かって、幹線道路(BU-V-7012)をひたすら歩いた。

Atapuerca(963年にAdtaporkaと修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)の古文書、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でAltaporcaで記録され、バスク語 「戸」ateka < *ate + スペイン語「戸」puerta < ラテン語porta < イタリック祖語*portā < 印欧祖語*por-teh₂ <「入る」*per-が語源。1054年9月1日にカスティーリャ国王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)と兄のナバラ国王ガルシア5世(García Sánchez III, 1012-1054)と戦闘した古戦場や1992年に発見された有名な80万年前のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の祖先(Homo heidelbergensis)やクロマニョン人(Homo sapiens)の祖先(Homo antecessor)が暮らした遺跡(Homo antecessor)の近郊)から少し上りになり、山(Matagrande)の尾根に出ると十字架や石を置かれて作られたストーンサークルがあった。

丘を下ってから歩きやすい平坦な一本道をひたすら進み、小さな村Villalval(1073年に記録され、Villavalとも綴られ、スペイン語「村」villa +「谷」valle < ラテン語vallis < 「柵」vallus < 「壁」vallum < イタリック祖語*wolwumen < 印欧祖語*wolg-mn̥ < 「回す」*welH-が語源)を通り過ぎた。

次の村Cardeñuela Ríopico(978年に記録され、スペイン語「アザミ」cardo < ラテン語carduus < イタリック祖語*carridus < 印欧祖語*kars-d-os < 「引っかく」*kars- + 接尾辞 -ana < -anus +‎ 接小辞 -uela < -olus、Río Picoは、スペイン語「川」río < 古スペイン語rio < 民衆ラテン語rius < 古典ラテン語 rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語 *h₃riH-wó-s < 「動く」*h₃reyH- +「鋭い」pico < 古スペイン語bico < ラテン語beccus < ケルト祖語*bekkos < 印欧祖語*bakk-o-s < 「杭」*bak-が語源)でアマチュア無線のアンテナが家の屋根に着いているのを父が発見した。

家から出てきたFélixさんと話をしたら、家に招き入れてくれて、無線機を見せてくれた。父と主人が無線の話で盛り上がり、打ちとけてしまい、メールアドレスをQSLカードに書いてくれた。巡礼宿を探しながら歩いていたら、また、Félixさんが車で戻ってきた所ですれ違い、Burgosに行かないと無いよと教えてくれた。小さな田舎道(Calle Real, Carretera Cardeñuela)を歩いて行った。

Orbaneja Ríopico(Orbaneja del Castilloなどにも見られ、Río Picoが近くに流れており、*orbは印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名でスペイン語「古い」añeja < añejo < 民衆ラテン語*anniclus < ラテン語anniculus < 「年」annus < イタリック祖語*atnos < 印欧祖語*h₂et-no-s <「過ぎる」*h₂et- +‎ -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源。Edelmiro Bascuas (2000). Rego y requeixo: Una pervivencia hispana de la raíz indoeuropea er- "moverse", Verba: Anuario galego de filoloxia 27: 359-378. ヒッタイト語𒄩𒉺𒀸 / ḫa-pa-aš、ルウィ語𒄩𒀀𒉿 / hāpi、リュキア語𐊜𐊂𐊀 / χba < アナトリア祖語*h₂ebo-、古ペルシア語𐎠𐎱𐎡𐎹𐎠 / apiyā、アヴェスタ語ap、サンスクリットअप् ápなど、印欧祖語*h₂ep-、アナトリア祖語*h₂abʰ-、インド=イラン祖語*Hā́ps、トカラ祖語*āp、ゲルマン祖語*apô、イタリック祖語*āpā、ケルト祖語*abū、アルバニア祖語*abnā、バルト=スラヴ祖語*apē-、アルメニア祖語*haw-に関連。また、南フランスのÒrb川、ロシアのОбь Ob川、インドのपंजाब Pañjāb地方(五つの川(पञ्‍च pañca + अप् áp)を意味して、サンスクリットपञ्चनद Pañcanadaや古典ギリシア語Πενταποταμία Pentapotamíaと記載)も同じ語源。1039年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)、1181年にアルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)から特権(fuero)を授受)で17世紀に建てられた教会(Ermita de la Inmaculada)を通り過ぎた。

ここから、 Burgosまでが長かった。 車道(Carretera Provincial)を歩いて、高速道路(AP-1)の上の陸橋を行き、空港を通り過ぎると鉄道の線路が右から近づいてきた。都市の手前に工事現場があり、1kmほど遠回りして、Castañares(963年に修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)で記録され、スペイン語「クリ」castaño < ラテン語castanea < 古典ギリシア語καστάνεια / kastáneia < κάστανα / kástanaが語源。印欧祖語「モミ」*dʰónu < ヒッタイト語「モミ」𒄑𒋫𒈾𒀀𒌑 / GIŠta-na-a-ú /tanau/ともされるが、地中海基層語*ḱastnàやサンスクリット「木」काष्ठ / kāṣṭha、アルバニア祖語「ミズキ」*tsànaや古典アルメニア語կասկ / kaskと関連)には行かない道を歩いた。

Villafría(931年に修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)で記録され、スペイン語「村」villa +「寒い」fría < 民衆ラテン語fridus < 古典ラテン語frigidus < frigus + -idus < イタリック祖語 *frigos < *θrigos < 印欧祖語*sriHg-os < 「寒い」*sriHg-が語源)への道を歩いた。鉄道の上の陸橋(Carretera Orbaneja)を登り降りして街が見えてきたが、手前の工業団地(Polígono de Villayuda)が広く、Burgosの旧市街の中心部にはなかなか着かなかった。

市街地に入ると大通り(Calle Victoria / N-1)をひたすら進み、大通り(Calle Juan Ramón Jiménez)と交差するロータリで巡礼路の立て看板を見つけ、立派な十字架の柱がある14世紀に建てられたゴシック様式の立派な教会(Iglesia de Santa María la Real y Antigua de Gamonal)を通った。

午後7時近くに大通り(Calle Victoria / N-1)に面した大通り(Avenida de la Constitucion Española / N-120)との交差点の手前のSupermercado Mercadonaで食料品を買った。レタスのパック(Cogollos)、タコス(Triángulos de maíz)、アーモンドチョコレート(Chocolate almendra)、トマトパン(Pan con tomate)、ボローニャ風ピザ(Pizza boloñesa)、四種チーズのピザ(Pizza cuatro quesos)、レモネード(Granizado de limón)、ストロベリー味の炭酸飲料(Fresa con gas)、レモンティ(Té de limón)など、大都市で数日分の食料を買い込んだ。

大通り(Avenida Cantabria / N-627)と交差するまで進み、そこから商店街(Calle de las Calzadas)に入り、今は音楽院(Escuela Municipal de Música de Burgos)として使われる修道院(Convento de las Bernardas)が面した広場(Plaza de las Bernardas)の十字架や広場(Plaza San Juan)に面した図書館(Biblioteca Pública del Estado)の立派な入り口や教会(Iglesia de San Lesmes Abad)から、橋を渡ると旧市街にたどり着くことができ、門(Arco de San Juan)をくぐった。街の中ではごちゃごちゃしていて、道が多すぎて失いやすいため、黄色い矢印や帆立貝のマークを探しながら歩いた。印が見えなくてきょろきょろしていると直ぐに街の人があっちだよと入る道を指して教えて下さった。

街に入ってから、ものすごい距離を歩いてきて、やはり、Burgosは大都会に感じられた。レストランが多く立ち並んだ風情のあるにぎやかな通り(Calle San Juan)を抜けて、通り(Calle de Santander)に面した銀行(Caja de Burgos)を通り、アーケードを見ながら進むと、広場(Plaza Santo Domingo de Guzmán)に面した地方庁舎(Diputación Provincial de Burgos)が見えてきて、中央広場(Praza Mayor)で美しい建物を見た。市庁舎(Ayuntamiento de Burgos)の建物が立派だった。

広場からは大聖堂(Catedral de Santa María de Burgos)の尖塔が見えて気分が上がった。建物(Casa Consistorial)の下をくぐり、通り(Paseo del Espolón)を歩いて、14-15世紀に建てられた立派な城門(Arco de Santa María)の前にある16世紀に川(Río Arlanzón)に架けられた橋(Puente de Santa María)を渡り、1272年に巡礼者の救護院(Hospital de San Lázaro)の横に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Merced)の立派な尖塔を過ぎた。街中はSiesta後で沢山の人で賑わい、アイスクリーム屋さんがあり、様々な商店を見たり、大聖堂をくぐり抜けて楽しかった。

川沿いの通り(Acenida Palencia / N-120)を歩いて、巡礼宿を目指すが、旧市街に入っても巡礼宿が見当たらず、途中で5、6人の人に道を聞きながら、巡礼宿を探しながら進んだ。

ロータリー(Giratoria Diario de Burgos)で最後に聞いたSanyoさんは、たまたま浦和に友人が住んでいて、日本が大好きで二年に一度訪れるから、日本人を見つけて大喜びして親切にして頂いた。

巡礼宿がある公園(Parque El Parral)まで連れて行ってくれるそうで、一緒に話しながら行くと、日本語の辞書を持っていたり、合気道や居合道を習っていた話、日本にいたときに撮った写真などを沢山見せてくれた。片言の日本語を話せたが、スペイン語で会話が弾んだ。

仕事帰りで二人の小さな女の子を連れていた。筋肉質で強そうで格闘技をしていて教えていたり、また、警備員をしているなど、会話がものすごく弾み、実は繊細で温厚そうな人であることが分かり、一緒に話に花を咲かせながら歩いて、とても楽しいひと時を過ごせた。

公園の前まで連れてきてくれて、巡礼宿はこの先にあるよと指さして教えてくれて、私たちの姿が消えるまで手を振っていてくれた。思いがけないことから、超日本通のSanyoさんとお会いできて、本当に助けられた。また、日本に行くときには会おうねと言ってお別れをした。

巡礼宿は公園の真ん中に設営された休憩所のような場所にあった。そこには料理可能な設備がなく、Supermercadoで買ったピザを調理することができずに困っていたら、イタリア人の巡礼者が、ピザを沢山くれて、本当にありがたかった。そして、もし、このような逆の立場だったら、是非とも同じようにしたいと思った。また、ポーランド人Dominikaさんが調理を手伝ってくれて話がとても弾んだ。

巡礼宿に着くのが遅かったため、食事を済ませると直ぐに就寝の午後10時になった。食事の前に着いて直ぐシャワーを浴びたが、今まで一番設備が悪くて驚いた。夜はベットの中で消灯合図の後にも人たちがいてげらげら笑っていたり、いびきが凄くて寝付きにくかった。

Burgosはケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源、もしくは西ゴート語「城塞都市」baurgs < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語 *bʰerǵʰ-が語源である。

884年に アストゥリアス王国のディエゴ・ロドリゲス(Diego Rodríguez Porcelos)がレコンキスタのために城塞を拡張した。彼は昨日に宿泊した Villafranca Montes de Ocaで亡くなった。また、アラビア人に棟梁(السَّيِّد‎ / sayyid)と呼ばれていて、それが訛って「エル・シッド(El Cid)」と呼ばれたロドリコ・ディアス(Rodrigo Díaz de Vivar, 1043-1099)の故郷としても知られる。

11世紀にToledo、Madrid、Burgosが、カスティーリャ王国の都城(Caput Castellae)となり、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でurbs Burgasと記録された。1221年7月20日にロマネスク様式のブルゴス大聖堂の改築が始まり、1567年までゴシック様式でフランスやドイツの石工たちが300年以上もかけて工事を続けた。

Burgosの大聖堂

2008年4月27日(日)18日目(Burgos-Villalbilla de BurgosTardajos-Rabé de las Calzadas-Hornillos del Camino: Centro Cultural San Román)

今日も風景の変化が少なく、ひたすら草原や畑の中を通る平坦な一本道を歩いた。Tardajosの立派な塔を持つ教会(Parroquia Asunción de Nuestra Señora)の佇まいやRabé de las Calzadasの丸みを帯びた塔を持つ教会(Iglesia parroquial de Santa Marina)が気に入った。Hornillos del Caminoの巡礼宿がいっぱいのため、バスケットボール場に寝袋を敷いて寝た。

今日は午前7時頃、皆が起きるのに促されて起きた。急いで支度をして、町はずれの巡礼宿がある公園から、来た道を戻り、Burgosの街を見に出かけた。橋(Puente de Malatos)で川(Río Arlanzón)を渡り、公園(Parque de la Isla)で城壁の一部(Los Arcos de Castilfalé)を見て、ロータリー(Plaza Castilla)から川沿いの通り(Paseo de la Audiencia)を歩いて、城門(Arco de Santa María)から、大聖堂の裏手の広場(Plaza Rey San Fernando)に入った。美しい街で、ごみも殆ど落ちておらず、石畳が美しく、何よりも大聖堂が美しかった。 入場料を取られるので外観だけ楽しんだ。

大聖堂脇の通り(Calle Paloma, Calle de Lain Calvo)を直進して、18-19世紀頃の美しい色調の建物が並んでいる広場(Plaza de Alonso-Martínez)を通り、大通り(Avenida del Cid Campeador)のパン屋さん(Pastelería y Panadería El Horno)でカスタード入りのパンを食べた。朝の時間で市民が多く店の中に入ってきて食べていたのでおいしそうだったので入って正解だった。

それから通り(Calle San Juan)を歩いて、旧市街に入る門(Arco de San Juan)や橋(Puente de San Juan)に面した広場(Plaza San Juan)にある図書館(Biblioteca Pública del Estado)の方まで昨日に来た道を戻り、旧市街を散策した。教会(Iglesia de San Lesmes Abad)に入った。

そこから大通り(Calle San Juan, Calle del Almirante Bonifaz)を通り、広場(Plaza Mayor)に出た。建物(Casa Consistorial)の下をくぐり、外に出て通り(Paseo Espolón)を歩き、また、門(Arco de Santa María)をくぐり、広場(Plaza Rey San Fernando)で大聖堂を見納めしてから、川沿いの通り(Paseo de la Audiencia)を歩き、橋(Puente de Castilla)を渡り、川沿いの大通り(Avenida Palencia)を進み、宿泊した巡礼宿(Albergue)がある公園(El Parral)まで戻ってきた。

1614年に建てられた聖堂(Ermita de San Amaro Peregrino)の門の前を通り、 1195年にカスティーリャ王アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)が建てた巡礼者の救護院(Hospital de Rey)に由来する大学(Universidad de Burgos)を通り、町はずれの由緒ある場所に宿泊できたと思った。

幹線道路(Calle de Villadiego / N-120)沿いに歩き、郊外の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Pilar)を通り過ぎて、道路(Calle Benito Pérez Galdós)を歩いてゆき、直に巡礼路になり、左手に鉄道が走るのを見た。巡礼路(Camino Fábricas)に面した小さな村Villalbilla de Burgos(スペイン語「村」villa +「エンドウマメ(Vicia sativa)」albilla < 「白」alba + 接小辞-illa、もしくは「ソラマメ(Vicia ervilia)」 arveja < ラテン語ervum < 古典ギリシア語ὄροβοςが語源でゲルマン祖語「エンドウマメ」*arwītsと関連)を通り過ぎた。そこには巡礼宿がないため、次の村Tardajosに向かった。

高速道路のインターチェンジを越え、幹線道路(N-120)に戻り、川(Río Arlanzón)に架けられた橋 (Puente del Arzobispo)を渡った。村に入る所には石灰岩の立派な十字架が立っていた。巡礼者の泉(Fuente el peregrino)や広場の噴水(Fuente Principal de la Plaza Leandro Mayoral)があった。

また、13世紀に建てられたゴシック様式の立派な方形の塔を持つ教会(Parroquia Asunción de Nuestra Señora)の佇まいが気に入った。

巡礼宿があったが、午後2時で泊まるには早すぎるため、通行証(credential)にスタンプをもらい、 川(Río Úrbell)にかかる橋(Puente de San Lázaro)を渡り、隣町Rabé de las Calzadasに進んだ。

(Tardajosは、紀元前8世紀にケルト人トゥルモディギ族(Curgoni < Turmogi < Turmodigi < Μούρβογοι / Moúrbogoi < ケルト祖語「蟻」*morwis < 印欧祖語*morwi-が語源で古アイルランド語moirb、サンスクリットवम्र / vamráやアヴェスタ語maoiri < インド=イラン祖語*marwíšと関係)が住みつき、ローマ人がDeobrigula(ラテン語「神」deo < deus < 古ラテン語deivos < イタリック祖語*deiwos < 印欧祖語*deyw-ós < 「天」*dyew- + イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源)と称した。村に入る手前にローマ時代の遺跡(Villa romana)があった。1041年に修道院(monasterio de San Pedro de Cardeña)でOtero de Aggos、1068年にUter de Allios、1127年にOter de Alliis、1258年にOter de Ajos、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でAlterdaliaと記録され、スペイン語「丘」otero < ラテン語altarium < altus < イタリック祖語*altos < 印欧祖語*h₂eltós <「育つ」*h₂el- +‎ -o < イタリック祖語*ōō < 印欧祖語*-h₃onh₂- + 前置詞de + 人名Aggos < ラテン語Argos < ギリシア語「輝き」ἀργός / argós < 印欧祖語*h₂r̥ǵ-ró-s < 「白」*h₂erǵ-が語源でヒッタイト語𒄯𒆠𒅖 / ḫarkiš < アナトリア祖語*Hárǵisやサンスクリットअर्जुन / árjuna < インド=イラン祖語*Hárȷ́unasと関連。La Real Academia de la Historia (1852). Colección de fueros y cartas-pueblas de España: catálogo, Madrid: Imprenta de la Real Academia de la Historia.)

Rabé de las Calzadas(949年に記録され、ローマ人の「石畳」calzadas < ラテン語*calciāta < 大理石calx)、アラビア語「四分の一」رُبْع / rubʿ < 「四」أَرْبَعَة‎ / ʾarbaʿa < ر ب ع‎ / r-b-ʿ < セム祖語*ʔarbaʕ-が語源でアッカド語𒐉 / erbet、フェニキア語𐤀𐤓𐤁𐤏𐤕‎ / ʾrbʿt、ウガリット語𐎀𐎗𐎁𐎓𐎚 / ảrbʿt /ʾarbaʿatu/、ヘブライ語אַרְבָּעָה / ʾarbaʿá、アラム語𐡀𐡓𐡐𐡏‎ / ʾarpʿa、シリア語ܐܰܪܒ݁ܥܳܐ‎ / ʾarbʿā、ゲエズ語አርበዕቱ / ʾärbäʿtu、アムハラ語አራት / ʾärat。古スペイン語の重量単位arrouaと同じ語源。1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が救護院(Hospital del Emperador)に寄進した村)に近づくと、13世紀に建てられた教会の丸みを帯びた塔(Iglesia parroquial de Santa Marina)が見えてきて気に入った。村にある巡礼宿の主人が、巡礼者にそんなに近くから歩いてきて、どうしてここで止めるのかと詰問していた所に出くわして感じが良くない上、宿泊料25€が高すぎるために素通りした。巡礼者はそれぞれ無理をせずに歩いているため、わざわざどこから歩いてきたのかを聞かれたり、全然歩いてきてないねと言われるのはおかしいと感じた。村を出るときに農工具が置かれていて、羊の群れが裏手に飼われていた。16世紀に建てられた石造りの教会(Ermita Nuestra Señora del Monasterio)の前で一休みして、午後3時に村を出て、次へ進んだ。

羊が草を食んでいた牧場や麦畑の中を通る一本道(Cuesta de Matamulos)を歩いた。先の巡礼路が目の前に開けているとても見晴らしの良い丘(Alto Meseta)を少し上がり下がりした。先の先まで道がつながっている景色が美しく、緑の大地に一筋の道がうねりながら貫かれていて最高の眺めだった。

午後4時半に次の村Hornillos del Caminoに着くと、食料品店(Alimentación)が目に入ってきた(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFurnellos、1181年にFornellosと記録され、「タイルを焼く窯」を意味。古フランス語「供給する」furnir, fornirやカタルーニャ語fornir, fromir < フランク語*frumjan < ゲルマン祖語*frumjaną < *fram + *-janą < 印欧祖語「前置詞(前に)」*pro- + 「接尾辞(動詞化)」*-yétiが語源)。公営の巡礼宿(Albergue municipal)が一杯と聞いていたが、早速、訪れてみたら、既に一杯で泊まれなかった。

教会(Iglesia de San Román)でお祈りをしてから、村に入る所の食料品店に戻り、食べ物を手に入れた。サラミと飲み物を求めた。とても安く優しい店主でたくさん試食させてくれた。田舎の食料品店では、瓶や缶に入った飲み物などは高いため、また、保存が利くことから、都市のSupermercadoで買い溜めしておき、保存が利かないハムやチーズやパンなどのみを田舎で買うようにした。

村の中で巡礼宿の管理人に会い、泊まる場所に案内してくれた。公営で宿泊料は寄付で運営されていた。併設された体育館の中で折り畳み式のベットが用意されていた。設備としては、シャワーもあり、快適そうだったが、水が少ししか出なかったり、体育館は遮るものがなく、広い空間のために随分と寒い思いをした。持ってきたピザをキッチンで調理しようと思ったが、オーブンがなく、戸惑っていると、ドイツ人の巡礼者がフライパンに蓋を付けて、オリーブ油をひいて、さっと作ってくれた。オーブンで焼いたのと同じくきれいにできて感動した。お礼に一緒に食べるかと聞いたら、もう既にお食事が済んでお腹がいっぱいなのでお気持ちだけで感謝するよとにこにこしていた。

食後は日記を書いたり、フランス系カナダ人の巡礼者と面白い経験を英語やフランス語で語り合い、とても楽しい時間を過ごした。彼はとても日本に関心があり、ヨーロッパには沢山の人が、日本の文化に関心があり、コネクションが多く感じられた。話していると、外が暗くなり、就寝時間になったので、歯磨きをして、日記を完成させて、室内バスケットボール場に戻り、床に就いた。スペインに来て教会に寝たり、室内バスケットボール状に眠ったりと様々な場所で眠れて面白い体験ができた。

Burgosの街並み(Calle San Juan)

2008年4月28日(月)19日目(Hornillos del Camino-Hontanas-Castrojeriz-Itero de la Vega-Boadilla del Camino: En El Camino)

起伏が激しい田舎道をひたすら歩いた。Castrojerizのゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Manzano)は素晴らしく、中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Vallarna)を渡り、Burgos地方からPalencia地方に入った。Boadilla del CaminoでXavierやLiaと会い、また、巡礼宿の食堂で音楽や哲学を愛するドイツ人と色んなお話をして楽しかった。

今日は午前7時前に起きて支度をして、午前7時半には巡礼宿を出た。麦畑や向日葵畑が一面に広がる大地をひたすら歩いた。小高い丘を登り、少し尾根を歩いて、途中で一つ小さな巡礼宿(Albergue de San Sol)の看板を通り過ぎてから下ると、直に次の村Hontanasが目の前に姿を現してきて、村に入る前にアイルランドの聖人ブリギット(Brígida de Kildare, 451-525))の祠(Ermita de Santa Brígida)や12世紀に建てられた物見やぐらや13世紀に建てられたゴシック様式の巡礼宿(Mesón de los Franceses)の脇から、14世紀に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Inmaculada Concepción)の塔が突き出た美しい村を坂の下に見下ろすことができ、箱庭のようなパノラマをとても楽しむことができた。(1210年に修道院(Monasterio de San Salvador de Oña)でFontanと記録され、昨日に訪れたforniellos > Hornillosと同じく、「泉」fontanas > Hontanasに訛った)。

村の中は人が住まなくなり、壁が崩れた家などが立ち並んでいて、過疎化が進んでいるように思えた。巡礼宿(Hostal Fuente Strella)で朝食にチョコレート牛乳(ColaCao)と小さなスペイン風オムレツ(Tortilla de Patatas)を食べて、腹ごしらえしてから、田舎道を歩いてゆくと、崩れかかった城壁があった。特に建物の角に当たる場所だけは、頑丈に組まれていて、風化に耐えて残っていた。

巡礼路は丘陵地帯を通り抜けており、車道に出て少し歩いてゆくと1136年に建てられた初期ゴシック様式の修道院跡(Ruinas del Convento de San Antón)が見えてきて驚いた。特にゴシック建築の特徴である強固な構造の大きな飛梁(Arc boutant)だけがぽつんと平原の中に残されていた。門の立派な彫刻などの装飾や薔薇窓の枠、巡礼者のために夜食を置いた棚などが、今でも残されていた。直ぐに視界が開けてきて、山の上にぽつんとお城(Castillo de Castrojeriz < Castrum Sigerici)が見えた。

次の町Castrojerizまで舗装された歩きやすい田舎の農道を歩き、1214年に建てられた美しいゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Manzano)の門の横を通るとき、地元の人が父を私で一緒に写真を撮りますよと声をかけてくれた。町の中心に向かうとき通り(Avenida Colegiata)から高台にOdra川の畔の城(Castillo de Castrojeriz / Castrum Sigerici)が目の前にどんと見えた。(882-83年のCodex Conciliorum AlbeldensisでCastrum Sigericiと記録され、974年にカスティーリャの領主ガルシア・フェルナンデス(García Fernández, 938-995)が自治(Fuero de Castrojeriz)を認めた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastrasoreciaと記録された。)

町の入り口の通り(Calle Real de Oriente)に面した18世紀に建てられた教会(Iglesia de Santo Domingo)の門で可愛らしい聖母子像のレリーフを見た。小さな広場で水を汲んで休憩して、中央広場(Plaza Mayor)に面した食料品店(Bazar El Peregrino)で食料品を買い、昼食を食べた。アップルタルトはとても美味しかった。パイナップルジュースを飲んで出発した。14世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Juan)の星の形をした窓も美しくてとても印象的だった。

草原の中にポツンときれいな道標があった。中世に巡礼路を整備した時に乾いた川(Río Odra)に架けられた橋(Puente de Bárcena)を通り、山(Alto de Mostelares)を登った。山の全体は花崗岩で風化に耐えた白雲母(Muscovite)が沢山落ちていて、きらきらしていた。記念に一つを拾った。

田舎道を行き、目の前に青い麦畑の中を走る一筋の道を眺めながら山を下るとき、直に17世紀の井戸(Fuente del Piojo)や13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Ermita de San Nicolás)を過ぎ、11世紀にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109) が架けた中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Pisuerga)を渡った(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でpons Fiteriaeと記録され、ラテン語「工場」factorium < factor < 「作る」facio < 古ラテン語fhakiō < イタリック祖語*fakjō < 印欧祖語*dʰh₁k-yé-ti < 「置く」*dʰeh₁-が語源でオスク語𐌅𐌀𐌊𐌕𐌖𐌃 / factudやウンブリア語𐌚𐌀𐌊𐌖𐌌 / fakum、サンスクリットदधाति / dádhātiやアヴェスタ語dadaitī < *dʰádʰaHti、古典ギリシア語τίθημι / títhēmi < ヘレニック祖語*t(e/i)tʰēmiと関連)。

Burgos地方からPalencia地方に入った(ラテン語Pallantia < 古典ギリシア語Παλλαντία / Pallantía < ケルト祖語「平地」*ɸlārom < 印欧祖語「平ら」*pelh₂- + ケルト祖語「土地」*landā < 印欧祖語 *lendʰ- + ラテン語 接尾辞 -ia < イタリック祖語*-iā < 印欧祖語*-i-eh₂が語源)。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Itero del Castilloの橋(Puente de Itero)の下を流れるPisuerga川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: Pisorga, aqua scilicet quae decurrit ad pontem Fiteriae)」と書かれている。

Itero de la Vega(スペイン語「道標」hito < 古スペイン語fito < 民衆ラテン語*fictus < 古典ラテン語fixus <「結わえ付ける」figo < 古ラテン語fivo < イタリック祖語*feigʷō < 印欧祖語*dʰeygʷ-e-ti < 「貼る」*dʰeygʷ- + スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -kiが語源)の13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Ermita de la Virgen de la Piedad)の鐘楼を横目に見てから、平らな土地(Tierra de Campos)のひたすら直線の道を歩き、白いコスモス(Cosmos bipinnatus)が咲き乱れる丘(Otero Largo)を越えて、Boadilla del Caminoに着いた。

(950年にFuero de Melgar de Susoで記録され、ラテン語Boadicea, Boudicea, Boudicca < ケルト祖語「勝利の」*boudīkos <「勝利」*boudi < 印欧祖語「注ぐ」*ǵʰewd-か「打つ」*bʰewd-が語源。スペインに他にもBoadilla del MonteやBoadaなどのイベロ=ケルト語に由来する地名が残されている。)

町には公営の巡礼宿(Albergue municipal)があったが、休業中か人がいないため、もう一つの沢山の人がいる巡礼宿に泊まることにした。片言の日本語のできる人が案内してくれた。ベットに就いた後、シャワーを浴び、出てきて食料品店を探しに行こうとすると、Xavierがやって来て驚いた。

もう他の人から私がこの村にいるのを聞いていて知っていて、彼は驚いていないよと笑って言っていた。Liaも巡礼宿の外にいて、村の中で少し立ち話をしたり、次に彼らが泊まる所などを教わったり記念撮影をした。13世紀に建てられたゴシック様式の美しい塔を持つ教会(Iglesia de Santa María de la Asunción)の外で木を植えている人とXavierが話していて、スペイン人の男の人は、子供が生まれたとき、木を植えて、本を一冊買うのだと言っていた。教会の外の広場にはカスティーリャ王エンリケ4世(Enrique IV, 1425-1474)が村に与えた自治権(autonomía)を記念として建てられたゴシック様式の柱(Rollo jurisdiccional)がぽつんと立っていた。鳥籠のような奇怪な形をしていた。

日記を書いていると、食事の時間になり、食堂に行った。一昨日、Burgosで隣のベットにいたドイツ人LucasとEvaと一緒に食べた。隣に座ったドイツ人Peterは、音楽とフランス語に通じていて話が合った。バロック音楽における通奏低音の解釈、大好きな指揮者のことなどを話した。ドイツでは今でも教会で十分の一税を払わなくてはならないそうで中世の封建社会みたいだと冗談を聞いた。皆、日本に興味がある人が多くて驚いた。食事はスープにビーフとアイスクリームで美味しく、沢山話をして盛り上がった。ドイツ語は話せないが、ドイツ人は英語を流暢に話せるため盛り上がれた。ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)やカント(Immanuel Kant, 1724-1804)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling, 1775-1854)などの哲学の話をした。彼の父はHeideggerに習っていたと話していて、とても驚いた。

食後は少しPeterとしばらく食堂に残り、お話を続けて、日記を就寝する前に書いていると、Kölnから来たLukasが日記を書いているのを日本語を上から下に書くのをとても不思議がっていた。LukasとEvaは二日前のAlbergueで隣のベットにいて、私がトランポリンをベットで楽しんでいたのを微笑ましく見ていたと話していた。Evaはポーランド系の名字Łukasiewicz(ウカシェヴィチ)で、ポーランド語特有の綴りで、ドイツでも皆がなかなか読めないだろうと言ってきたのを読めたのでとても驚いていた。有名な論理学者ヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz, 1878-1956)やフランシェスク・ウカシェヴィチ(Franciszek Łukasiewicz, 1890-1950)がいたから読めたんだよと話すと更に驚いていた。

Peterはフランス系ドイツ人で8代前にドイツに来たと話していた。だから、彼はフランス語を先祖が話していた言葉として興味を持って学んだそうである。皆、ヨーロッパは地続きで昔から旅や商いで国を行き来していて、ドイツにはフランスやスラヴ語圏から、人が出入りしていて面白いと思った。

中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Vallarna)を渡り、Burgos地方からPalencia地方へ入る

2008年4月29日(火)20日目(Boadilla del Camino-Frómista-Población de Campos-Revenda de Campos-Villarmentero de Campos-Villalcázar de Sirga-Carrión de los Condes-Santa María de Benevívere-Calzadilla de la Cueza: Albergue Los Canarios)

朝早くにBoadilla del Caminoの先で野宿をしたXavierとLiaに会い、Frómistaで11世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de San Martín de Tours)を訪れて、近くのバー(Café Bar Garigolo)で一緒に朝食をとった。Xavierが描き溜めているスケッチブックを見せてくれて、ヨーロッパの名所を紹介してくれた。Villalcázar de Sirgaでゴシック様式の美しい教会(Iglesia de Santa María la Blanca)を訪れると、外の彫刻は立派で中に入るとステンドグラスから入る光が美しかった。Carrión de los Condesにも門の上のレリーフが美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago)があり大満足だった。Calzadilla de la Cuezaまで突風に吹き飛ばされそうになりながら一本道を進んだ。

今日は朝まだ暗い内に起きて、午前7時15分に出た。朝はとても冷え込み、手が縮こまっていた。村を出て少しするとPamplonaで会ったドイツ人やイタリア人Giuseppeと一緒になった。16世紀に開削された美しい運河(Canal de Castilla)と並行して走る道を進んだが、風が吹くととても寒かった。しばらく歩いてゆくと、滝のように落ちる美しい場所(Esclusa n° 16)があり、皆で写真を撮り合った。

そこで、父を待っていると、Xavierと一緒に歩いて来た。途中で野宿している人が動いているのを見たが、それが何とXavierだった。お話しながら歩いてゆき、小さな聖堂(Ermita del Oter)を通り過ぎ、直に町Frómistaに着いた。Liaとも落ちあい、1066年に建てられた外壁の石が真っ白な美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de San Martín de Tours)を訪れた。Xavierが柱の装飾を見てよと呼び指すと、アダムとイブ(Adán y Eva)、狐と烏(La zorra y el cuervo)などの物語がロマネスク美術らしい愛嬌のある顔や形で彫られていた。内部はバシリカ様式で完璧に残されていて美しい建築だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFrumestaと記録され、中高ドイツ語 beruomen < 「接頭辞(過去分詞)」be- < 古高ドイツ語bi- < ゲルマン祖語*bi- < 印欧祖語*h₁epi + 中高ドイツ語「名声」ruom < 古高ドイツ語ruom < ゲルマン祖語*hrōmiz < 印欧祖語 *kreH(u)-meh-t < 「叫ぶ」*kreH- + 中高ドイツ語「接尾辞(動詞化)」-en < 古高ドイツ語-en < ゲルマン祖語*-āną < 印欧祖語*-néh₂- ~ *-nh₂ + 中高ドイツ語「地域」stat < 古高ドイツ語stat < ゲルマン祖語*stadiz < 印欧祖語*stéh₂-ti-s ~ *sth₂-téy-s < 「立つ」*steh₂-が語源)

朝早くの時間のため、多くのお店は閉じていたが、町の中で唯一開いていたカフェ(Café Bar Garigolo)に入り、Xavierにチョコレートドリンクを御馳走になった。そこにはスロットマシーンや飲み物の自動販売機などが置かれており、地元の常連客が来るような生活感が溢れた場所だった。

Parisの美しい名所の話を聞かせてくれて、私がスペインで面白く感じているのは、美味しそうな食材が並んでいるSupermercadoであり、包装に色んな言葉が書かれていて、棚から取り出して見ると、スペイン語でこれは何というのかが面白くて興味が尽きないから、一日でも飽きないでいられそうであり、私が最も好きなスペイン語の言葉は、supermercadoとalimentaciónだから、新しい町に着くと直ぐに捜索をすると、Supermercadoがどれほど好きか、冗談を言うと、手を叩いて大笑いして、それは良かった!良かった!と言って、大笑いして大うけしていた。Xavierたちも、田舎では値段が高いから、町でSupermercadoを見つけると、必ず食料を補給してから進んでいると話していた。

街中のSupermercadoが開くまで、Xavierが絵を見せてくれた。スコットランド、フランス、スペイン各地で描かれた絵は美しく、写実的に描写されていた。XavierとLiaはイタリアのAssisiの美しい教会(Santa Maria Maggiore)の前で7年前に出会い、それから前にもSantiago de Compostelaへの巡礼を一緒にしたこと、Xavierの家族はスペインのValencia出身で本人もそこで生まれたが、小さい頃に両親の仕事の関係でフランスに移り住み、Parisの7区に住んでいることなどを話していた。

近くの通り(Avenida Carmen Montes)にあるSupermercadoに入ると全体として値段が少し高いため、最低限の食料品だけを購入した。Xavierはビスケット(Galletas integrales sin azucar)を買い、Liaと二人では食べきれないから、好きなだけあげるよと沢山分けてくれた。私に包装を見せて、全粒粉(integrales)、砂糖がない(sin azucar)ところが身体に良いからポイントだと力説していた。私はパンとソーセージとレモンタイザーを買った。大通り(Paseo Julio Senador / P-980)を歩いて町を出て、高速道路(A-62)を越えた。Xavierと東洋哲学や好きな哲学者の話をしながら歩いた。

1227年に建てられた美しい教会(Ermita De San Miguel)を過ぎて、小さな村Población de Campos(スペイン語「村」población < poblar < ラテン語「民」populatio < populus < 古ラテン語poplus < イタリック祖語「軍隊」*poplos < 都市名Populonia < エトルリア語𐌐𐌖𐌐𐌋𐌖𐌍𐌀 / Pupluna < 「神」𐌐𐌖𐌘𐌋𐌖𐌍𐌔 / Puphluns < 𐌚𐌖𐌚𐌋𐌖𐌍𐌔 / Fufluns、もしくは古ラテン語plēbēs < イタリック祖語*plēðwēs < 印欧祖語*pl̥h₁dʰwḗh₁s ~ *pl̥h₁dʰuh₁és < 「補う」*pleh₁- +‎ スペイン語-ción < ラテン語-tio < イタリック祖語*-tjō < 印欧祖語*-tisが語源)で12世紀に建てられたロマネスク様式の質素な教会(Ermita de Nuestra Señora del Socorro)を見た。村を出ると道が二つに分かれていた。

Villovieco(ラテン語「村」villa + Ovieco < obicumは、印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名*orb (ob-, ub-, op-, up-) + 「沿う」-cum < ラテン語cum < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語 *ḱómが語源。実際に近くに川(Río Ucieza)が流れる。SalamancaのRío Oviecoも同じ。Francisco Villar (2002). Los hidrónimos con *up- (op-) ‘agua, río’, en la toponimia prerromana hispana, Palaeohispanica 2: 277-291.)に行く山道ではなく、幹線道路(Calle Francesa / P-980)を歩いた。

次の町Revenga de Campos(スペイン語「戻る」revenga < revenir < ラテン語revenire <「再び」re- +「来る」venio < イタリック祖語*gʷenjō < 印欧祖語*gʷm̥-yéti <「脚」*gʷem-が語源)の12世紀に建てられて、16世紀にバロック様式に代えられた教会(Iglesia de San Lorenzo)の横にある巡礼者の像(Monumento al peregrino)の横で少し休憩をして、XavierとLiaと父と一緒にハムや野菜を挟んだパンを食べた。先にどこで泊まるかなどの作戦会議をして、正午前に出発した。

そこから、Xavierはスペイン人と話しながら歩いていたので、今度はLiaとお話をしながら幹線道路(Calle Francesa / P-980)を歩いた。現代美術、現代音楽、東洋文化などの話が盛り上がり、歩くのが遅くなったが、気にせず話した。日本の俳句のスケールの大きさに興味があり、中国の太極拳に興味があり、また、美術の展覧会に出かけたり、文化的生活をしている人で話が盛り上がった。西洋では足して芸術を作るが、東洋では、無駄を省いて作るなど、本質的な話でも通じ合えて嬉しかった。

途中で小さな村Villarmentero de Camposを通った(Frómistaにある教会が捧げられたトゥールの聖マルティヌス(Martinus Turonensis, 316-397)が大きなラバ(mulo)で通過した伝説からacémilaと呼ばれた。スペイン語「大きな家畜」armetro < ラテン語armentum < 印欧祖語「伴うもの」*h₂er-mn̥-teh₂、スペイン語「平原」campo < ラテン語campus < 印欧祖語*kh₂ém-po-s < 「曲がる」*kh₂emp-が語源。1072年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1041-1109)とエル・シッド(Rodrigo Díaz de Vivar, c.1045-1099)が仕えた兄サンチョ2世(Sancho II, 1036-1072)と近くで戦い(Batalla de Golpejera)、アルフォンソ6世が勝利して、カスティーリャ=レオンを相続した。)

次の村Villalcázar de Sirga(ラテン語「村」villa + アラビア語「要塞」القصر / al-qaṣr < 「切る」ق ص ر / q-ṣ-r < セム祖語*ḳas(a)r-が語源でアラビア語「短い」قَصِير‎ / qaṣīrに対応するヘブライ語「短い」קָצָר / katsár < 「切る」ק־צ־ר‎ / q-ṣ-rと関連)まで、Xavierと父が歩いた。

12世紀に建てられたゴシック様式のとても美しい教会(Iglesia de Santa María la Blanca)があり、前にあるHostal-Bar Las Cantigasの店主が、巡礼者のために鍵を開けて、特別に中を見せてくれた。Xavierが昨日に話してくれたよう、左側の列が傾いていて、外観も面白かった。

ファサードや門は立派な装飾を風化から守るように屋根が付けられていて保存状態が良好だった。内部は薔薇窓のステンドグラスから差し込んだ光に満たされ、言葉に言い表せないくらい美しかった。店側には三つの棺桶があり、その彩色は見事だった。一つはカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)の子(Felipe de Castilla, 1231-1274)のものだった。

Xavierがスペイン語で案内してくれる村人に聞いたところでは、ここにある棺はテンプル騎士団のもので、その彩色は当時のまま残っていて、スペインでここにしか現存していない貴重な遺産だと通訳をしてくれた。更に、主祭壇はとても美しく、イエスの十字架上の磔が主題だった。その他、十字架に向かうイエスの絵が順にあり、マリア様が棺を見ていたり、とても美しかった。

Barに戻り、教会の鍵を開けてくれたお礼にホットチョコレート(ColaCao)を注文した。XavierとLiaは、そこでしばらくゆっくりするため、別れを告げ、先を急いだ。巡礼者像の前で父と記念撮影をした。明後日にXavierたちに会うには、本日は更に進む必要があるからである。村を出るとき、Santiago de Compostelaまで463kmの道路標識があり、半分ほど歩いてきたんだねと父と話していた。

幹線道路(Calle Francesa / P-980)沿いに進み、丘(Cerro de San Cristóbal)を越え、小一時間歩くと6km先の次の大きな町Carrión de los Condes(791年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)から奪還したAlonso Carreñoの愛称Carrión < ラテン語「車」carrus < ゴール語*karros < ケルト祖語*karros < 印欧祖語*ḱr̥sós < 「走る」*ḱers-が語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCarrionusと記録)に着いた。

村の入り口に十字架があった。1231年に設立された修道院(Monasterio de Santa Clara)を見た。また、この村の広場にも巡礼者像があった。12世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santa María del Camino)の前には、カスティーリャ・イ・レオン州の旗が掲げられていた。

中央広場(Plaza Mayor)の時計台の前で一休みした。1160年に建てられた門の上のレリーフが美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago)を見た。商店街(Calle la Rúa, Calle Esteban Collantes)は賑わっていた。16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)の丸いドームがきれいに見えてきた。小さい村なのに沢山の教会や修道院があり素敵だった。

(近くには巡礼路の南にSanta María de Benevívereの1169年に建てられた修道院跡(Abadía de Santa María de Benevívere)があるなど、昔から平原に人が住んでいたことを感じながら歩いた。)

16世紀に架けられた立派な橋(Puente Mayor)で川(Río Carrión)を渡り、1076年に建てられた修道院(Real Monasterio de San Zoilo)の横を進み、幹線道路(PP-2411)に沿う巡礼路を更に16km歩いた。途中で休む場所で一休みして、真っ平の地平線を見ながら、山も丘も一つもない平原の麦畑の中の一本道で先の先まで見通しのきいた直線の巡礼路をひたすら歩いた。何でも吹き飛ばしてしまうような強い風で遮るものも何もないため、容赦なく吹き付けてきたが、途中で二度だけ休んだだけで二時間半をぶっ通し歩き続けた。父と次の町で泊まることを伝えておき、一人でどんどん進んだ。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Carrión de los Condesを流れるCarrión川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Carriona, quce decurrit ad Carrionum)」と書かれている。)

Calzadilla de la Cueza(スペイン語「舗道」calzada < 民衆ラテン語calciata < 古典ラテン語「小石」calx < ギリシア語χάλιξ / khálixが語源。川やその谷の名前Cueza < 古スペイン語「喜ぶ」gozo < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源で「叫び」*ǵeh₂r-と関連)に着いた。村に入って直ぐの目立つところにある16世紀に建てられた古びた教会(Iglesia de San Martín de Tours)の前にある公営の巡礼宿(Albergue municipal)の前で座り、炭酸飲料を飲んで父を待った。父が到着して、巡礼宿に入ると感じ良い方がもてなして下さり、二階の部屋に通された。ブラジル人が多くてとても賑やかだった。彼らは私たちを見つけると直ぐに喜んで話しかけてきてくれて、チョコレートをくれて、ものすごい会話が弾んだ。ここまで長い道のりを歩いてきた人たちなのにエネルギーが有り余っていてパワフルな方たちだった。

それから併設されたBar Restauranteで食事を食べた。朝に会ったイタリア人Giuseppeが招いてくれて席に着いた。そして注文しようとしたら、鳥と兎と魚と何かがあった。Giuseppeが頼んだので同じにした。初めはミネストローネ(父)とパスタ(私)が来た。何かが来て、食べるとイカと分かった。巡礼者にとても良心的なレストランで居心地が良かった。 レストランでは、スペイン人Franciscoも加わり、フランス語、英語で話した。フランス語、スペイン語、イタリア語なら、何を言いたいのかが分かり、会話が弾んだ。ブラジル人たちは、ポルトガル語でとても盛り上がり、食事から帰って来てからも、げらげら笑ってとても陽気さを更に通り超してハイテンションだったが、彼らはものすごくフレンドリーで巡礼者は皆友達だと叫んでいた。 そして、食後はベットに戻り、日記を書いて寝た。

Villalcázar de Sirgaの教会(Iglesia de Santa María la Blanca)の入口上部にあるレリーフ

2008年4月30日(水)21日目(Calzadilla de la Cueza-Santa María de las Tiendas-Ledigos-Terradillos de los Templarios-Moratinos-San Nicolás del Real Camino-Sahagún-Bercianos del Real Camino: Albergue Parroquial. Casa Rectoral)

朝に起きるとポルトガル語が飛び交っていた、陽気なブラジル人とポルトガル人と盛り上がり出発した。幹線道路を歩いていると後ろから来た車がクラクションを鳴らして巡礼者を応援してくれていた。Sahagúnで家を出てから初めて、久しぶりに国際電話で母と話した。教会(Iglesia de San Lorenzo)の立派な煉瓦造りの塔が印象的だった。 立派な橋(Puente Canto)を渡り、Bercianos del Real CaminoでXavierと再会して、同じ巡礼宿に泊まり、旅行の色んなお話を聞いた。そこも寄付で運営されていた。Berlinから歩いてきたドイツ人Martinと出会って感銘を受けた。

今日は朝遅く起きたとき、ポルトガル語が飛び交っていた。朝から超ハイテンションなブラジル人たちと盛り上がり、巡礼宿の前で記念撮影をして、午前8時半に出発した。

ポルトガル人Joachimが、私とブラジル人Viniciusが、顔が日に焼けて似ていて兄弟みたいだねと冗談を言っていた。巡礼宿の主人(hospitaleiro)が出てきて、皆で写真を撮ってくれた。宿泊した巡礼宿は、ブラジル人が管理をしていたから、ポルトガル語話者が多かった。皆と握手して出発をした。

幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)をひらすら進み、二つ目の村Santa María de las Tiendas(スペイン語「店」tienda < ラテン語「拡げた」tentus < イタリック祖語*tendos < 印欧祖語*tén-tu-s ~ *tn̥-téw-s < *ten-が語源)の次のLedigos(スペイン語「喜び」leticio < ラテン語「喜び」laetitius <laetitia < laetus < イタリック祖語*laies < 印欧祖語*h₂ol-éye-ti < 「育つ」*h₂el-が語源)で父を待っていたら、Liaがイギリス人と一緒に歩いているのに出くわした。父が村に着いてから、開放的な雰囲気のバー(Bar El Palomar)に入り、チョコレート牛乳(chocolate con leche)を飲み、身体を温めて一息を着いた。ColaCaoとは違った味のココアだった。村を出てから幹線道路をひたすら進んだ。

Terradillos de los Templarios(スペイン語「領地」terrado < tierra < ラテン語「土地」terra < イタリック祖語*terzā < *ters-eh₂ < 「乾いた」*ters- + 接小辞-illo < -illus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós <*-lósが語源。1191年にアルフォンソ8世がテンプル騎士団に寄進)に入る所に巡礼者が休憩できるようにベンチが置かれていて一休みした。辺りの村には憩いの場があり、村人たちが集まりおしゃべりをよくしていた。14世紀に建てられた赤煉瓦造りの教会(Iglesia de San Pedro)を見た。白い砂岩ではなく赤い煉瓦を積み上げた建物が多くなった。幹線道路を離れて、草原の巡礼路を歩いた。

Moratinos(ラテン語「死者」moratus <「死む」morior < イタリック祖語*morjōr < 印欧祖語*mr̥-yé-tor < 「死ぬ」*mer- + 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源)の村に近づくと丘には横穴(bodegas)がいくつも掘られていて、葡萄酒を貯蔵ができるようにされていて面白かった。16世紀に建てられた赤煉瓦造りの教会(Iglesia Santo Tomás de Aquino)の塔も見えて美しい眺めだった。Sahagúnで買い物をしたかったので、Siesta前に着くため、父より先に出発して、幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)に沿う道を急ぎ足で進んだ。直ぐに次の村が見えてきた。

San Nicolás del Real Caminoを通り過ぎて、直にPalencia地方とLéon地方の境界を通った。幹線道路を歩いていると消防自動車がクラクションをポンポンポンと鳴らしてくれて走ってきたので振り返ると、三人の消防士が笑顔で手を振ってくれて、巡礼者を応援してくれた。スペインでは巡礼者をとても丁重に扱い、車道と並行して歩く道では、通り過ぎる車がよくクラクションを鳴らして振り返ると手を振ってくれたり、手を振り返すと更に鳴らして盛り上げて答えてくれることが多かった。

町に近づいて、インターチェンジ(A-231との交差)を過ぎてから、小川(Río Valderaduey)を渡る橋の袂から、草原の巡礼路に入り、16世紀の小さな橋の傍らに13世紀に建てられた赤煉瓦造りの小さな教会(Ermita de la Virgen del Puente)を見た。その前には巡礼者が休憩できるようにベンチが置かれていた。そこから平原の巡礼路(Calle Ronda de La Estación)を歩いた。幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)をくぐるトンネルを過ぎた。

直に鉄道が見えてきて、線路の上を通る道を通り、大きな町に入っていった。その手前にパン屋さん(Panificadora Santos Franco)があり、忙しそうにパンを沢山トラックに搬入していた。鉄道の高架を越えて町に入ると、16世紀に建てられた立派な煉瓦造りの教会(Iglesia de la Santísima Trinidad)の塔が見えた。大きな町で巡礼路沿いに食料品店(Alimentación Elías)を見つけた。田舎町のため少し高かったので、ウエハースとファンタオレンジなど必要最低限の食料や飲料だけ買い、中央広場(Plaza Mayor)のベンチで休んでいると、午後2時前に父が追いついてきた。大通り(Avenida la Constitución)に面した銀行(Banco Santander)でお金を下してきて、お金の心配もなくなった。

中央広場(Plaza Mayor)の町役場(Ayuntamiento de Sahagún)の前で長い時間休憩して、父が日本の自宅に携帯から電話をかけて、母と久しぶりに話をした。今はちょうどスペインのど真ん中にいて、巡礼もフランスから歩き始めてやっとSantiago de Compostelaとの中間地点の町にいて、その広場にいることを話すと、良くここまで来たね。午後2時過ぎに電話をかけたので、日本時間では午後9時過ぎでそろそろ寝ようとしていた時に電話を取ったと話していた。国際電話のために電話代が高いので直ぐに話を終えて、直ぐに父に代わったが、母がとにかく元気に順調に進んでいて安心したと話していた。父も久しぶりに母と話ができて、数週間ぶりのはずなのに一年も話していないみたいだね。まだ数週間しか経っていないのに旅に出てからそれだけ色んなことを体験して濃い時間を過ごしてきたんだねと。まだまだこれから沢山の日にちがあるからどうなっちゃうんだろうねと話した。

それから、町に残されている歴史的建造物を見て回った。町の教会は全て煉瓦造りで建てられており似た外観だが、特に1093年に建てられて、カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が葬られた修道院(Monasterio Real de San Benito)の塔(Torre del Reloj)や1180年に建てられた教会(Iglesia de San Tirso)の塔は立派で煉瓦の間は藁を泥で塗り固めて作られており、イスラム地域の家を作るときの構造であった。1666年に建てられた立派な門(Arco de San Benito)を潜り抜けた。碑文には「Basilicam istam regiamolle insignem Alphonsus i rex Catholicus a maluris dirutam primus instaurat aera 792. Alphonsus 3 rex magnus iterum destructam aediflcat. Alfonsus 6 rex mol nacachus magnificentissime ampliat. Dominicus 3 abbas perficit aera 1221」と書かれていた。

(Sahagúnは、304年11月27日にファクンドゥス(Sanctus Facundus)とプリミティウス(Sanctus Primitivus)が殉教した。652年に記録され、スペイン語San Facundoが語源である。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でsanctum Facundumと記録され、カール大帝が彼らを祀るバシリカを建てた(Item, visitanda sunt corpora beatorum martirum Facundi scilitet et Primitivi, quorum basilicam Karolus fecit)と書かれているが、実際は872年に創建された。カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の時代にCórdobaなどからモザラベが多く移り住んだため、ムデハル様式の赤煉瓦を積み上げて多くが建てられた。また、1109-17年の年代記(Crónicas anónimas de Sahagún)がある。1529年にメキシコ「新スペイン」(Virreinato de Nueva España)に宣教して、1568年に現地のナワトル語で百科事典(Historía universal de las cosas de la Nueva España)を作成したベルナルディーノ(Bernardino de Sahagún, 1499-1590)を輩出した。)

町から出るとき、川(Río Cea)に架けられた立派な橋(Puente Canto)を渡った。ローマ人が橋を架けて、次に1085年にアルフォンソ6世が架けて、現在の橋は16世紀に架けられた頑丈な石造りだった。父が橋の上を歩いているところを撮ってあげるよと袂の十字架の前で構えていてくれた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、SahagúnのCea川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Ceia, quae ad sanctum Facundum; Aisela, ad Maxillam)」と書かれている。)

次の町に向かうとき、自動車道(Carretera León)と幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)に沿う巡礼路を歩いた。15世紀に建てられた小さな教会(Ermita de San Roque)の前で巡礼路が二手に分かれていた。昨日にXavierと会うことを約束していたBercianos del Real Caminoに行くために左手の旧道を選んだ(近くに似た地名Bercianos del Páramoがあり、スペイン語bercianoは人名。ケルト=イベリア人の集落Bergidom, Bergidumは9世紀頃にBerizumと記録。イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源でゲルマン祖語*burgzとも関係。)靴紐を結んでいたら、Pamplonaから来た、スペイン人の仲が良い夫婦MarcusとLuciaが声をかけてきて握手をしてくれた。彼らはとてもきれいな英語を話した。(巡礼宿で一緒になり食後に理由を尋ねると、Marcosは小さいときアメリカやドイツに住んでいたそうだ。)

羊の放牧に遭遇しながら、なだらかな田舎道を2時間ほど歩くと、街の入り口に12世紀に建てられた古い教会(Ermita de Nuestra Señora de Perales)がぽつんと平原の中にあり史跡とされていた。村に入ると何もないが、巡礼宿の看板に従い進むとすんなりと着いた。

巡礼宿の入り口でXavierが待っていましたと言わんばかりに喜んで出迎えてくれて再会した。チェックインを済ませて、二階のベットに通された。寄付のみで運営され、フランス人が主にボランティアをしていた。二週間で交代すると聞いた。古い農家を改造したとても風情のある良い巡礼宿だった。

周辺の整理後、シャワーを浴びてから、Xavierと一階の長椅子で話をした。フランスの地図を見せてくれて、お勧めスポットを教えてくれたり、彼が旅をして、気に入ったフリーズやレリーフを描いたノートをフランス語で話しながら示してくれて、旅行の体験を聞かせてくれて、とても興味深かった。

そうこうしていると、食事の時間になり、食器の手伝いをした。皆で食卓について食べた。隣のオーストリア人がとても無礼で困った。水を飲んでいると、要らないと強く断っても、酔っていたためか、私のコップにだぶだぶと葡萄酒を注いできて困った。スープは熱いが、美味しかった。それから食事を続けるが気が乗らず、外も雨がぽつぽつ降ってきて、洗濯物を取り込んだりと忙しかった。

食後、バスク人がスペインとフランスの国境地帯バスクの歌を上手に歌ってくれたりして楽しんだ。片付けでは、Xavierが洗剤でごしごしした食器を拭くのを手伝い、それから、皆で晩課をした。

寝る少し前にお話したBerlinから歩いて来たドイツ人Martinがとても流暢なフランス語を使うので驚いた。彼は音楽家でヴィオラ奏者をしているが、仕事を休み五か月かけて、フランスを数か月かけて縦断して、スペインに辿りついたと話していた。Xavierのようにいつか大旅行をしたくて、5年以上はかかりそうだが、中国の上海から、自転車でひたすらユーラシア大陸を横断して、スペインのSantiago de Compostelaまで巡礼をしたいと話した。Martinはフランス語がものすごく上手でもちろん英語もスペイン語も流暢に話すことができ、秘訣をたずねたら、言語学習はやる気さえあれば、何歳になってもできる。沢山の人と話したいという心さえあればできると話していた。

Sahagúnを出た所に架けられた立派な橋(Puente Canto)

2008年5月1日(木)22日目(Bercianos del Real Camino-El Burgo Ranero-Reliegos-Mansilla de las Mulas: Albergue Amigos del Peregrino)

足を痛めてしまい、少し歩くのが遅くなったが、無事に歩き終えることができた。Santiago de Compostelaまで大きい河が流れていて、その自然な水の流れに沿い、体が流れていくように歩くようになった。一切どこまで歩こうと決めることは考えず、自然に行ける所まで行くだけであり、馬のように最小限の筋肉を使い、脚が出るように歩くことが大事と思った。最小限の疲れで早く歩けた。

今日は午前6時半に起床して、午前6時45分に朝食を食べて、部屋でMartinとおしゃべりをして、玄関でXavierにこの先の道について教えてもらい、情報交換をしてから、巡礼宿を午前7時半に出た。とても美味しい糖衣の小さいパンがあり、沢山取って、バターを塗って食べた。チョコレートドリンクを2回お代わりした。村で道を進むと、Xavierを発見して、一緒に歩いた。日本の芸道について話をした。

すると、畑の向こうからLiaが歩いて来た。彼女は昨日見かけたきり、巡礼宿にはいなかったので心配していると、散歩道を行ってしまい、鉄道(Ferrocarril León-La Coruña)や高速道路(A-231)をよじ登って越えて、正しい巡礼路(Real Camino Francés)に戻ることができたようだった(Calzada del CotoやCalzadilla de los Hermanillosの右側の道に行ったようである)。Xavierが、巡礼中に友と一時ははぐれたとしても、我々が向かうべき場所(Santiago de Compostela)は同じであるから、途中で友と分かれても、必ず最後には一緒になるから心配することはない。我々は一人一人はそれぞれ異なるけれども、到達するべき場所は一緒であるのが巡礼だと力説していた。朝から尋常でない程、足が痛むので、ハンカチを入れるといいよと、Xavierが教えてくれて、休憩をとり、入れると収まった。

Liaに昨日のことやスペインのSupermercadoで見たことなどを話していると、隣の村(El Burgo Ranero)に着いた(1136年にBurgum Ranerium、1163年にBurgo Ranero、1163年にBrugo Reinero、1185年にBurgo Rranneroと記録され、ラテン語「町」burgus < フランク語*burg < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és < 「高い」*bʰerǵʰ- + 人名Ragenerius, Rainerius, Ranarius < ゲルマン祖語*Raginaharjaz(ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- + ゴート語「軍隊」harjis < ゲルマン祖語*harjaz < 印欧祖語*kóryos < 「軍」*ker-)が語源。古くからゴート族やヴァンダル族などゲルマン人たちがイベリア半島に住み着いたことが分かる地名である。Francisco Javier García Martínez (1993). Etimología e interpretación popular en los pueblos de León (II), Lletres asturianes: Boletín Oficial de l'Academia de la Llingua Asturiana 47: 125-133.)。16世紀に建てられた村の中心にある教会(Parroquia de San Pedro Apóstol)も家々と同じく赤煉瓦で作られていた。この地域には小さな池(Laguna Manzana)が多くあり、灌漑や牧畜などに使われていたが、水をあんまり湛えていない枯れた池や川も多かった。

辺り一面は真っ平な地形で殆ど地平線だけを望みながら巡礼路(Calle del Norte / LE-6615)を歩き進んだ。足が痛むのでペースを落として、父とXavierとLiaと別れて、十字架(Crucero de El Burgo Ranero)の前で少し休んだ。それから少しペースが上がってきて、少しするとLiaが一人でとぼとぼ歩いていて、挨拶をして先を急いだ。辺り一面が畑の中に道路が通されており、刈り取られた牧草がブロックで積み重ねられていた。また、しばらく歩いてゆくと空港(Aeródromo Villamarco)を過ぎ、Xavierが十字架(Crucero de Villamarco)の台座に座っていて、一緒に少し歩いていった。彼は巡礼をもう4度もしていて、今までの思い出や旅のおもしろさについて色んな事をお話してくれて、豊富な人生経験を持つことは大切であることを感じて、沢山の旅をすることが大切だというお話が印象に残った。鉄道の線路をくぐると、Reliegosの手前に休憩所(Área de descanso para peregrinos)があり、Xavierは木陰で少しお昼寝をするということで別れて、一人でMansilla de las Mulasまで歩いた。

Reliegos(古代ローマ時代の町Pallantiaにまで遡り、916年にレオン王国のオルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 873-924)が教会(Iglesia de Santa María de León)に寄進した村として、Relligosと記録された。ラテン語「残余」relinquo < イタリック祖語*wre-linkʷō < 印欧祖語「後ろ」*ure- + 「離れる」*linékʷti ~ *linkʷénti < *leykʷ-か「再結集」relego < イタリック祖語*legō < 印欧祖語*léǵ-e-ti < 「集める」*leǵ-が語源)の村に入ると直ぐの所に葡萄酒や食料を貯蔵する横穴(bodegas)があったが、村の中には住宅しかなかったため、そのまま巡礼路(Calle Real / LE-6615) をひたすら歩き続けた。足は痛かったが一本道で上り下りもないため進めた。

村に入る少し前に休憩所(Área de descanso para peregrinos)があり、ベンチとテーブルを見つけて、歩くと靴に踝が当たり、足が激しく痛むため、一時間半ほど、日記を書いたり、ぼーっとしていた。 日記を書いていると、何人かの巡礼者が目の前を通ってお話をした。

それから、一人で歩き出すと、反対側から歩いてくるフランス人と出会い、最初は相手の母国語が分からないため、スペイン語で話しかけたら、フランス語でSantiago de Compostelaから歩き始め、Saint-Jean-Pied-de-Portまで戻る途上だと話し始めた。行くのも楽しいが、帰るのも楽しそうだねと、冗談を言い合い、握手をして別れた。足を痛めて休みながら歩いている私が遅いため、父は私が通ったときに伝えて欲しいと色んな人にコメントを残していてくれていたため、歩いているときには、色んな人から声をかけられた。村に入る前に十字架(Crucero de Mansilla de las Mulas)があり、幹線道路(N-601)を上を陸橋を越えると目の前に村が一望できて到着したことが分かって安心した。

Mansilla de las Mulas (ローマ時代の町Mansella, Mansiellaを起源として、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でManxillaと記録。ラテン語「住居」mansio + 接尾辞 -ella、ラテン語「雌騾馬」mula <「雄騾馬」mulus < イタリック祖語*mukslos < 印欧祖語*mukslósが語源で古典ギリシア語μύκλος / múklosやスラヴ祖語*mъ̀skъと関連)の入口の広場(Avenida Picos de Europa)で父が待っていた。通り(Calle Puente)に面した巡礼宿にチェックインを済ませて、広場(Plaza Grano)に面したSupermercados Diaに直行した。今日はスペインの休日で午後5時半にやっと開いた。そこで昨日会ったPamplonaから北スペイン人のLuciaと一緒にスパゲッティとそのソースの素となるトマトを購入した。パンはただで持って行けるように置かれていて助かった。

帰りに広場(Plaza del Pozo)に面した1220年に建てられた教会(Iglesia de Santa María)などを見た。また、1181年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)が築いた城壁(Muralla)や城門(Puerta de Santiago, Puerta de San Agustín, Arco de la Concepción)などが残されていた。

スパゲッティを茹でて、トマトソースにパセリ、オリーブ油と塩を加えて、ソースを作り、サラダは後で食べた。その頃にXavierとLiaがやって来て、一緒にカマンベールチーズを切って食べた。彼らはここには泊まらず、少し先でまた野宿をするそうである。二日前に会ったスペイン人Franciscoは私達が食べている頃から、パエリアを作り始めた。カキやトマト・玉ねぎやコメを鍋に入れ、加熱しながらおしゃべりをしていた。スペインでは、早くても夕食が午後8時から始まるため、調理は午後6時半辺りからしていた。左靴のくるぶしに当たるので、石を入れて拡張させて、早く就寝した。

今日は靴に踝が当たり、足が痛むため、余り機嫌が良くなかったが、何とか無事に歩けて、順調に進めだ。巡礼宿のテーブルには、スペインの地図があり、Xavierがスペインの名所を沢山教えてくれた。(巡礼の後に旅をするときに大いに役に立った。)パンをオリーブオイルとパセリと塩と一緒に食べたり、ココナッツ入りのヨーグルトを食べて美味しかった。今日は大量に食べた。

Mansilla de las Mulasの広場(Plaza Arrabal)

2008年5月2日(金)23日目(Mansilla de las Mulas-Villamoros de Mansilla-Villarente-Arcahueja-Valdelafuente-Puente del Castro-León: Albergue Las Carbajalas en León)

大聖堂(Catedral de Santa María de Regla de León)では、結婚式が執り行われていた。オルガンが壮麗に響いていて、ステンドグラスが美しかった。Lisboaの家に呼んでくれたポルトガル人Joaquimと大聖堂の中で会い、Leónの街を一緒に散策した。楽しいお店(HiperGol)でパンを買って帰ってきた。

朝は遅めの午前7時半で昨日Supermercadoでもらったパンとオリーブオイルとパセリに塩を付けてチョコレートを食べた。チョコレートは気持ちが悪いほど不味くてよく読んだら、料理用と書いてあった。隣のベットのイタリア人も同じチョコレートを買ってしまい、不味そうに食べていた。カマンベールは美味しくて、気分が少し盛り上がった。午前8時半頃に出発して、車道に沿いながら歩いた。

町を出るとき、12世紀に架けられた立派な橋(Puente Medieval sobre el río Esla)で川(Río Esla)を渡った。橋の前には必ずと言っていいほど、石で作られた十字架が建てられていたが、スペインがまだイスラム教徒が多かった時代にキリスト教徒が住んでいる町と示した名残りかもしれないと感じられた。また、街をの方を振り返るとレオン王フェルナンド2世が築いた城壁(Muralla)が見えた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、MansillaのEsla川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Aisela, ad Maxillam)」と書かれている。)

一昨日と同じく幹線道路沿い(Avenida de Madrid / N-601)を歩いていると、巡礼者を大事にしてくれた。巡礼の道で後ろから車が来ると、巡礼者を驚かせないよう、絶対にクラクションを鳴らさずに来て、抜き去る時に手を振ってくれたり、クラクションを鳴らして元気づけてくれた。

今日は村というより、幹線道路沿いに町が点々と存在する道を歩いた。Villamoros de Mansilla(ラテン語「ムーア人」maurus < ギリシア語「褐色の」μαυρός / maurós < ヘレニック祖語*mergos < 印欧祖語*mergʷ-os < 「暗い」*(h₂)merHgʷ-と呼ばれたイスラム教徒が住んでいたか、聖マウルス(Maurus, 512-584)など人名が語源)を過ぎた。

Liaが休憩所(Área de Descanso para Peregrinos)で水を汲んでいてばったりと会い、幹線道路をお話ししながら歩いた。川(Río Porma)に架かる立派な中世の橋(Pasarela para peregrinos)を渡り、町Villarente(ラテン語「数える」rente< rens < reor < イタリック祖語*rēōr < 印欧祖語*h₂reh₁-yé-ti < 「考える」*h₂reh₁-が語源)に入り、Liaは銀行(La Caixa)を見つけ、お金を少し下ろした。巡礼中はお金を使うことが少ないため、防犯のため少額ずつ下ろしていると話していた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、MansillaとLeónの間に架けられた大きな橋の下のPorma川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Porma ad quemdam ingentem pontem, qui est inter Maxillam et Legionem)」と書かれている。)

町を過ぎると幹線道路から少し逸れてゆき、巡礼路らしくなると高速道路(A-60)の下をくぐり、 大都市Leónに近づいていることを感じさせた。先に水汲み場(Lavadero público de Arcahueja)があり、スペイン人の友達MarcosとLuciaとFranciscoに会った。彼らと一緒に歩いて、Léonを目指した。

Arcahueja(古スペイン語「アーチ」arca < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s + 古スペイン語「堀」fuexa < ラテン語fossa terra < 「掘る」fodio < イタリック祖語*foðjō < 印欧祖語*bʰódʰh₂-ey ~ *bʰdʰh₂-énti < *bʰedʰh₂-が語源)やValdelafuente(スペイン語「谷」valle + 前置詞 de + 定冠詞 la +「泉」fuente < ラテン語fons < イタリック祖語*ðonts < 印欧祖語*dʰónh₂-ti-s ~ *dʰn̥h₂-téy-s < 「流れる」*dʰenh₂-が語源)を過ぎて、幹線道路(N-601)を抜けてから、高速道路(LE-30)の上の陸橋(Pasarela del Camino de Santiago)をゆき、小高い丘(Alto del Portillo)を過ぎた。スペイン銀行(Caja España)の看板があり、そこから先の大都市の市街地が見えてきた。

Puente del Castro(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉で「Leónの近くユダヤ人の城の下を流れるTorío川(Turio, quae decurrit ad Legionem sub Castrum judaeorum)」と記録。スペイン語「橋」puente +「城」castroが語源)の町に入り、18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de Puente Castro / Centro de Interpretación del León Judío y del Camino de Santiago)の鐘楼には鳥の巣が作られていた。通り(Calle Victoriano Martínez)で赤煉瓦の家を見たり、広場(Plaza Tomás Mallo)の十字架を過ぎた。広場で少し一休みをして水を飲んだ。

町の端や橋の袂に十字架の柱があるのを不思議に思いながら、川(Río Torío)を渡り、Léonに入ると大都市であったため、巡礼路も大きな幹線道路(Avenida del Alcalde Miguel Castaño)などを渡らなければならず、大変だった。Burgosの町へ入る大通りと同じく、道路の境界のフェンスに木の枝やパイプで沢山の十字架が作られていて、通過した巡礼者が結んでいったようだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Leónの近くPuente de Castroの下を流れるTorío川、Leónの近くTorío川と逆にAstorgaに向かい流れるBernesga川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Turio, quae decurrit ad Legionem sub Castrum judaeorum ; Bernesgua, quae juxta eamdem urbem ex alia parte, adversus scilicet Austurgam defluit)」と書かれている。)

Léonの街はごみが余り落ちておらずきれいだった。途中で巡礼路の標を見失い、同じように困っていたドイツ人と会い、地元の人に聞きながら、旧市街に向けて慎重に進んだ。大通り(Avenida del Alcalde Miguel Castaño, Avenida de Fernández Ladreda)を行き、大きな闘牛場(León Arena / Plaza de Toros)を過ぎて、旧市街は北にあるためにひたすら通り(Calle la Corredera)を進んでから、学校(Colegio Leonés)から老人ホーム(Residencia Hogar San José / Hermanitas de los Ancianos Desamparados)が面した通り(Calle Octavio Alvarez Carballo)に曲がった。

公園(Parque del Corte Inglés)をつきる通り(Calle las Fuentes)を歩いていたとき、父が果物屋(Frutería Alfonso Alegre)を見つけた。店頭に美味しそうな果物が並んでいて、オレンジ、リンゴ、アンズなどを買った。お店には大豆などの穀物も売られていて、日用品もあった。昔からあるような雰囲気の店構えで店主は愛想がとても良くて、地元の人がひっきりなしに買い物に来ていた。

それから、町の中心部でSupermercadoをたずねて教えてもらった大通り(Avenida del Alcalde Miguel Castaño)に面したMercadonaは大きくて便利だった。カートに1€玉を投入するとき困っていると、店の人が親切にしてくれた。イベリコ豚のチョリソ(Chorizo Ibérico de Bellota)や大きいカマンベールチーズ(Queso Camembert)など、日本では輸入のために高いが、安価で大量に買えた。

また、ピザ(Pizza Pepperoni)や野菜(Cogollos)、チョコレート(Tableta de Chocolate con Leche)、レモンティー(Té de Limón)、ハーブティー(Té de Cogollos)、グレープジュース(Sumo de Uva Don Simon Mosto Tinto)、パイナップルジュース(Piña colada)などを買った。

大体の物価の相場が分かり買いやすかった。巡礼宿になくて困っていた液体石鹸などの日用品を購入した。イベリコ豚のハムの切り売りがあり、ものすごく大きな肉の塊でも20€近くでとても驚いた。

Supermercadoの近くにまた正規の巡礼路(Calle Barahona)を発見した。14世紀に建てられた教会(Parroquia de Santa Ana)の脇を通っていた。教会を探していくと正規の巡礼路を見つけやすいことが分かった。Burgosと同じく大都市では路地が多すぎて道を失いやすいため、黄色い矢印を探しながら行かなくてはならず、特に分かれ道で注意を要するため、重要な建物を目印として進んでいった。

通り(Calle Barahona)を少し行くと旧市街に入る城壁(Puerta Moneda)があり、それを境に途端に街の雰囲気が変わった。また、通り(Calle Puerta Moneda)に面した11世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)の前に可愛いライオンの石像があり、少し行くと巡礼宿(Albergue)はこっちだよと方向を指さして親切に教えてくれる地元の人がいた。巡礼宿は巡礼路には面しておらず、奥まった場所にあるため、昔から迷う人が多いかもしれないと感じた。

まだ、午後2時過ぎであり、今日はLéonには泊まる予定がなかったが、通り(Calle Escurial)を進み、印を貰いにAlbergueに入ると、ベネディクト会の女子修道院により、寄付で運営されているため、滞在料を取っていなかったので、もう少し先まで歩く予定だったが、急遽ここに泊まることにした。もう既にベットは一つ、二つしか開いておらず、ぎりぎり入ることができて良かった。

先ほどSupermercadoで買ったイベリコ豚のチョリソとカマンベールチーズと果物を食べて、日記を書いてから、旧市街を見に行くことにした。Pamplona在住のスペイン人LuciaとMarcosも泊まっていて、食堂で食べている途中に親切に市内の地図をくれた。巡礼宿から出ると巡礼路で直ぐにLisboaの家に招いてくれたJoaquimに会った。午後4時に巡礼宿がある奥まった場所を教えてから街に出た。

巡礼宿がある通り(Calle Escurial)から教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)に出て、雰囲気のある小さな美しい通り(Calle Herreros)からフランシスコ会の修道院(Religiosas Concepcionistas Franciscanas)がある広場(Plaza de las Concepcionistas)から、先ほどの美しい教会の尖塔を見て、少し広い通り(Calle Fernández Cadórniga)を進み、広場(Plaza Don Gutiérrez)から通り(Calle Zapaterías)を進み、広場(Plaza San Martín)から通り(Calle Plegarias, Calle Platerias, Calle Paloma)を進み、大聖堂(Catedral de Santa María de Regla de León)がある広場(Plaza de Regla)に着いた。そこにはものすごい数の観光客が大聖堂を見上げていて混雑していた。少しでも路地に入ると人一人にも会わないことが多いのに、大聖堂の前に沢山人がいるのは、どこからこれだけの人が湧いてきたのか知りたいぐらい不思議に感じられた。

典型的なゴシック様式の大聖堂はそびえ建ち、特に正面の薔薇窓や正門の彫刻は印象的だった。1456年に作られた柱の碑文に「IHS. El reverendo in Cristo Padre eseñor don Pedro Cabeca de baca, por la gracia de Dios obispo de León, otorga a qualquier persona que aquí, delante la ymagen de Santa María la Blanca, estovyere en estado de gracia sábado a la vigilia, porcada vez, quarenta días de perdón. Ítem, otorga a cualquier persona, por cada vegada que diere elemosina para decir las dichas vigilias, quarenta días de perdón. Datum anno domini MCCCCLVI in XXVII diemarcii.」とあった。

大聖堂の中に入ると美しい絵画がはめ込まれた小さな祭壇があり、中央の祭壇も美しかった。丁度、四半時間ほどの間、大聖堂の中を見て回っていると、地元の人がどんどん集まってきた。何が始まるのかと思ったら、結婚式だった。ミサが始まり、オルガンの音楽と共に花婿と花嫁が入ってきた。三人の子供がいる花婿は五十代で花嫁は二十代で年の差に驚いた。オルガン演奏が始まったとき、ポルトガル人Joachimがやって来て、大盛り上がりした。教会の売店でLéon大聖堂の歴史の古い本のEdiciones Leonesasによるファクシミリ(Matías Laviña (1876). La catedral de León, Madrid: Eduardo de Medina.)と聖歌の楽譜と大聖堂のステンドグラスが印刷された美しいポストカードを求めた。

大聖堂からはにぎわう大通り(Calle Ancha)を散策してから、旧市街の小さな通り(Calle Mariano Domínguez Berrueta)を歩くのを楽しんだ。中央広場(Plaza Mayor)で旧庁舎(Antiguo Consistorio)の立派な建物を見た。それから、商店や飲食店が立ち並ぶ下町(Calle Plegarias, Plaza San Martín, Calle Zapaterías, Plaza Don Gutierre, Calle Cascaleria, Calle Conde Rebolledo)を歩いていたが、スーパーマーケットや食料品店などが見つけられなかった。商店街(Calle la Rúa)を歩いていたとき、小さな軽食・菓子やおもちゃを売る店(HiperGol)のウィンドウに美味しそうなアップルパイ(tarta de manzana)やチーズケーキ(pastel de queso)やサラミ入りパン(Napolitana de jamón y queso)などが並んでいるのが目に入ったので入り、スペイン語で注文すると喜ばれた。

巡礼宿戻って、先ほど買ったパンを食べて、夕食をとりながら、スコットランド人やブラジル人と話をした。それから、スペイン人やポルトガル人に様々なイベリア半島の名所を教えてもらった。ポルトガル人Joaquimは新聞記者だそうだ。テーブルで日記を書いていると、彼も何か書き物をしていた。何を書いているのかとたずねたら、今日あったことを忘れないうちに思い出しながら、新聞記事を書いているんだよと、答えが返ってきて意外だった。(彼とそれから仲良くなり、私たちをポルトガルのLisboa郊外の家に招いてくれて泊めてくれた。)あるフランス人とポルトガル人が盛り上がりすぎて、ホスピタレーロから抑えてと言われていたが、テンションは上がったままだった。

巡礼宿には、Pamplonaの巡礼宿やBoadilla del Caminoの運河でも会ったドイツ人Aloisもいて、再会を喜んだ。日記を少し書いてから就寝した。Léonに着いたのは午後2時少し前、お買い物などをして、巡礼宿には午後3時前には着いた。今日は一つ先まで行きたかったが、Léonの旧市街を満喫できて泊まって良かった。修道院が経営している巡礼宿で修道女が時どき出てきて、巡礼者たちと話していた。

Léonは紀元前1世紀にローマ軍団Legio VI Victrixが駐屯して、68年にLegio VII Gemina Felixが軍事基地castra legionisを建設して始まり、586年に西ゴート王リウヴィギルド(Liuvigild, 519-586)が支配をしてから、要塞として機能して、856年にアストゥリアス王オルドーニョ1世(Ordoño I de Asturias, 821-866)が植民して、レコンキスタの中心地となり、910年にガルシア1世(García I de León, c.870-914)に軍事機能を移転して、914年にオルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 871-924)がレオン王国(Regnum Legionense, Reino de León)の首都として繁栄した。レオン王サンチョ1世 (Sancho I de León, 935-966)が即位した956年にバシリカ(Real Colegiata Basílica de San Isidoro)が建てられた。

11世紀に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)も古くから巡礼路を守るようにあった。レオン王国はアストゥリアス王国(Regnum Asturum, Reinu d'Asturies)や更に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)の精神を引き継いでレコンキスタを遂行した。1037年カスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)がレオン王国の継承して、カスティーリャ王国(Regnum Castellae, Reino de Castilla)に併合され、カスティーリャ=レオン王国が成立した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「王国の首都かつ文化の中心であり、あらゆる幸に満ちたLeónの町(Legio, urbs regalis et curialis, cunctisque felicitatibus plena)」と記録された。

大聖堂はローマ時代の浴場跡にイスラム勢力が建てた王宮から発展して、917年にオルドーニョ2世が、サン・エステバン・デ・ゴルマス(San Esteban de Gormaz)の戦い(Batalla de Castromoros)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン3世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān III, 889-961)に勝利した記念として王宮を捧げ、999年にアルフォンソ5世(Alfonso V de León, 994-1028)が戴冠式を行い、1073年にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1119)がロマネスク様式で建造、1205年にゴシック様式で建築を計画したが、1255年にアルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が、フランスのゴシック様式でブルゴス大聖堂やランス大聖堂に似た工事を開始、1289年に基礎、1302年に大概、15世紀中頃に全部が完成した。

Leónの大聖堂の内部

2008年5月3日(土)24日目(León-Trobajo de Camino-La Virgen del Camino-Valverde de la Virgen-San Miguel del Camino-Villadangos del Páramo-San Martín del Camino-Puente de Órbigo-Hospital de Órbigo: Albergue parroquial Karl Leisner)

高熱が出て、体調を崩したので、我慢しながら、Santiago de Compostelaに向かい歩き続けた。San Martín del Caminoでお魚屋さんのトラックと出会い、お店の人とおしゃべりをして一休みした。Hospital de Órbigoに美しい橋を渡り、巡礼宿に着くとXavierが巡礼宿の主人にここに日本人の父子が来ると伝えてくれていて温かく迎えられた。また、頭痛がしていたが、Londonに長く住んでいるスペイン人Joséがアスピリンをくれたり、足風呂を作ってくれたり、ポルトガル人Joaquimとブラジル人Viniciusが美味しい料理を作ってくれて、巡礼仲間の温かさに触れられて良い思い出となった。

今日は枕がなかったので、フリースを着込んで寝たが、全然眠れなかった。巡礼宿は大きくて多くの巡礼者がおり、他の巡礼者のいびきやくしゃみも止まらず、寝心地が悪かった。今日は朝起きると高熱があったが、絶対に寒い内に出て歩けば、外気で冷やされて、熱が下がると考えて出発した。

午前7時半過ぎに巡礼宿を出て、小さな通り(Calle Herreros, Calle la Rúa)をひたすら直進して、地方庁舎(Diputación Provincial de León)がある邸宅(Palacio De Los Guzmanes)やガウディ博物館(Museo Gaudí)がある邸宅(Casa Botines)の前で右に曲がり、大通り(Calle Ancha)に入り、大聖堂の前で今日ここで巡礼を終わるフランス人の巡礼者とお別れをした。

大聖堂の周りを散策して、11世紀にロマネスク様式で建てられて、歴代のレオン王が埋葬されたバシリカ(Real Colegiata Basílica de San Isidoro)を通った。今から1000年前(11世紀)に作られた贖罪の門(Puerta del Perdón)のアーチに「我が父の許に昇らん(Ascendo ad Patrem meum)」と書かれており、Mochetaには可愛らしいライオンのような装飾があり、ロマネスクのユーモアを感じた。

大通り(Calle Ramón y Cajal)で大きな噴水のあるロータリー(Plaza de Santo Domingo)に戻り、1096年に建てられた教会(Iglesia de San Marcelo)を見て、最も太い立派な道(Gran Vía de San Marcos)を歩き、更に大きなロータリーがある広場(Plaza de la Inmaculada)を過ぎて、1152年に巡礼者の救護院として建てられた修道院(Convento de San Marcos)の前の広場(Plaza de San Marcos)を通り、イタリア人のご年配の巡礼者と一緒に道を確認しながら進んだ。

町は続いていて、川(Río Bernesga)に架かる橋(Puente de San Marcos)を渡り、鉄道駅前の大通り(Avenida Quevedo, Avenida Del Párroco Pablo Díez)を通り、Léonの街に別れを告げて出ると直ぐに違う町(Trobajo del Camino)があった(Trobajuelo, Trebalio, Trepalio, Troballoとも記録。10世紀にユダヤ人Jacob Trepalioが住んだ村Villa Trebalioに由来。古スペイン語 trobar < 民衆ラテン語*tropo < 古典ラテン語tropus < 古典ギリシア語τρόπος / trópos < 「曲がる」τρέπω / trépō < ヘレニック祖語*trəpʰō < 印欧祖語*terbʰ-é-ti < 「回る」*ter-bʰ- < *ter-kʷ- < *terh₁- + 接小辞-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源でヒッタイト語「鋤き返す」𒋼𒊑𒅁𒍣 / terep-tsi < アナトリア祖語*teripp-、サンスクリット「動転する」त्रपते / trápate < インド=イラン祖語*trápatay、ラテン語「捻転する」torqueo < イタリック祖語*torkʷeōと関連)。

幹線道路から離れた巡礼路(Camino de la Cruz, Calle las Vacas)を歩いてゆき、空港(Aeropuerto de León)の滑走路が見えてきて、また、幹線道路(Avenida Astorga / N-120)に並行する巡礼路を歩いてゆくと町(La Virgen del Camino)には1957年に建てられた斬新なデザインの教会(Basílica de la Virgen del Camino)があり、大きなインターチェンジ(N-120とA-66)の隙間を潜り抜けた。

次の町(Valverde de la Virgen)の1987年に建てられた教会(Iglesia de Santa Engracia)が見えてきた。その前にあるベンチで父が後ろから追い付いて歩いてくるのを待ちながら日記を書いていた。昨日と同じく教会の塔楼には鳥の巣ができていた。今日は日差しが強いためか、熱中症気味になり、頭がかち割れるほどの痛みに耐えながら、幹線道路(N-120)に沿った細い巡礼路を進んだ。

次の町(San Miguel del Camino)に二十年以上、巡礼者を熱心に励まし続ける有名人(Agapito Trigal Lópezさん)の家の前の大通り(Avenida Ruta Jacobea)に面したベンチに巡礼者用にビスケットやピーナッツなどが置かれており、自由に取っていって下さいと書かれていた。(「PEREGRINO esto es para ti. Te lo da AGAPITO, el amigo de los peregrinos. Buen Camino. A 200m tienes agua potable.」)しかも、自身の名刺が置かれ、助けが必要なときは連絡を下さいと書かれていた。通行証(credential)に特製のスタンプを押してもらえるが、留守にされていて頂けなかった。

今日はずっと国道(Carretera de León-Astorga / N-120)に沿い、直線の巡礼路で変化が少なく、真っ平らな土地を歩き続けた。Villadangos del Páramo(Villa de Eneco, Enneco, de Angos, Ancosと記録され、バスク人名Eneko <「私の」ene <「私」ni < *ni + 接小辞 -ko < *-koが語源、もしくはラテン人名Ancus <「角」angulus < 印欧祖語*h₂éng-ul-os < 「節」*h₂eng-, *h₂enk-が語源でサンスクリット「爪先」अङ्गुरि / aṅgúri < インド=イラン祖語*Hanguri-、ゲルマン祖語「足首」*ankulaz、古典ギリシア語「曲線」ἀγκύλος / ankúlos < ヘレニック祖語*ankúlos、古スラヴ語「角度」ѫгълъ / ǫgŭlŭ < バルト=スラヴ祖語*ángulasと関連、スペイン語「荒地」páramo < ラテン語paramusが語源)を過ぎてから橋を渡り、道路から少し離れて森の中を進んだ。木々で日影ができて歩きやすかった。

また、木陰の下のベンチでくつろいでいたポルトガル人Joaquimやブラジル人Vinicius, Fátimaたちと再会して、彼らが一緒にお話しようと熱烈に歓迎してくれたので少し木陰で一休みをして、ものすごく話が盛り上がった。それから直ぐに田舎道から幹線道路に出た。San Martín del Caminoで魚屋さん(Pescadería Dani)のトラックがあり、お店の人とおしゃべりして記念撮影した。

Hospital de Órbigoの町に小道(Calle el Paso Honroso)を歩いて着いたとき、太陽が照り付け、また、道路から反射して蒸し暑く、何も遮るものがない中を歩いてきたため、脱水症状ぎみだったので、1434年(聖ヤコブの年)に架けられた橋(Puente del paso honroso)で川(Rió Órbigo)を渡り、街に入って直ぐの所にある食料品店(Supermercado Carpy)で炭酸飲料を買って飲んだ。

Órbigoは一週間前に通過したOrbanejaと同じく、印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名であり、ラテン語の接小辞-icusが付加された形を語源として、ヒダティコス(Hydatius, c. 400-469)がAd fluvium nomine Urbicumと記録した。456年に西ゴート王テオドリック2世 (Theodoric II, c. 426-466)とスエビ王レキアリウス(Rechiarius, c.415-456)が荒れ地(Campus Paramus)で戦い(Batalla del río Órbigo)、900年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)とアストゥリアス王国(Asturorum Regnum)のアルフォンソ3世(Alfonso III de Asturias, 848-910)が戦った。中世に聖ヨハネ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)が救護院(hospital)を建設した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でOrbegaと記録された。

1434年にLeónの騎士スエロ・デ・キニョネス(Suero de Quiñones, 1409-1456)が、カスティーリャ王フアン2世(Juan II, 1405-1454)に300本の槍を折るか、一か月の間に誰もこの橋を通さないと誓い、もし馬上槍試合を受けないなら、臆病者として手袋を外して、川の中を歩いて渡らなければならないとした。実際に試合を申し込んできたスペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ポルトガルの騎士たち、166人全員の槍を折って勝ち、誰も橋を通さなかったことから、アルフォンソ・エンリケス(Alfonso Enríquez, 1354-1429)の娘(Doña Leonor de Tovar, 1380-1437)の金のブレスレット(Si a vous ne playst avoyr mesura, certes ie di que ie suy sans ventura)をSantiago de Compostelaの大聖堂の聖ヤコブ像に奉納したことから、橋の名前「名誉の路(paso honroso)」が付けられた。

巡礼宿(Albergue parroquial Karl Leisner)は、18世紀に建てられた美しい塔がある教会(Iglesia de San Juan Bautista)の近くにある場所(Calle Álvarez Vega)に泊まることを初めから決めてあり、約束通りに入るとXavierがいた。もう、ホスピタレーロに日本人の2人の親子が、絶対ここに泊まるからと事前に伝えていてくれて、私たちが到着すると直ぐに熱烈に歓待してくれた。

Xavierは私たちが、Léonに着いたことも、また人伝手に聞き知っていて、ここでまた一緒に会えると思っていたと話していて、再会をお互いに喜んだ。そこには、中庭もあり、外庭もあり、とても居心地が良い場所だった。Xavierは、昨日はLeónの街外れにあるLa Virgen del Caminoの空軍の基地(Campo de aviación)の近くに泊まったので安心だったと言っていた。自転車で巡礼するスペイン人たちと同じ部屋になり、楽しい会話をした後、巡礼宿と同じ通りに面した食料品店(Supermercado Carpy)でウエハース(Oblea)や美味しいビスケット(galletas)などを買った。

同じ部屋のLondonに住んでいるスペイン人Joséに熱がありそうだと伝えると、アスピリンをくれて、飲むと良くなるよと声をかけてくれて、彼の優しさや気づかいは巡礼者らしかった。来年は日本を旅をしたいと話していた。Joséは足風呂を作ってくれた。彼は友達の双子の兄弟と彼の甥とその彼女たちと自転車で巡礼していた。塩に酢をたっぷり入れて、水を加えて、足を入れた。冷たいと悴んでいると、彼は優しく台所でお湯を沸かして入れて温めてくれた。20分ほど、皆でチェコ人Liaやアイルランド人Rosaryと会話を楽しみながら、気持ちの良い足風呂に使っていた。Joseが、それは中世の昔から巡礼者が足をいたわるためによくしていたun antiguo remedio(古い治療法)だよと笑っていた。

フライパンでピザを焼こうとすると、ポルトガルとブラジルの友人JoaquimとFatimaとViniciusが食事を作ってくれて招かれて一緒に食べた。米とトマト煮の鳥、月桂樹まで入れていて、味も本格的で即席で作ったとは思えないほど美味しかった。(Viniciusはサンパウロでコックさんをしていることを聞いた。彼ら三人は食事係、洗濯係などの役割分担をして、チームとして機能していた。)

また、ピザを焼いて、一緒に食べた。食後Joaquimと沢山の話をして楽しんだ。彼は新聞記者で、今は新聞記事の投稿のために忙しいが、これはSantiago de Compostelaへの巡礼に関する本を書いている過程なんだと話していた。それに、彼は50カ国も毎年異なる国を訪れて、今度はチベットやネパールを訪れると話していた。彼は他の国にとても関心があり、その記事があると切り抜き、仕分けして情報を蓄えていると言っていた。日本にも強い興味があり、四国の巡礼の話をすると、それは是非やってみたい。近いうちにあなたの国を訪れることになるだろうと笑って話していた。(実際に彼は2012年に四国のお遍路さんをしに訪れた。)彼の話が面白いのは様々な経験をしているからだと思った。

それから、外に出て、XavierとLiaと話しながら日記を書いていると、スペイン人Joséたちが集ってきて、話が盛り上がった。Joséが英語を良く話すことができるのは、ロンドンに25年間住んでいるからだと話していた。スペイン人は話好きで午後10時を過ぎても続けていたが、少し眠くなって来たのでお暇をして、先に床についた。寝る直前にXavierとLiaが煎茶を出してくれて、思いがけず、久しぶりに日本の味に触れた。彼らは不思議なものを持っていて驚かされた。Joséたちの配慮のおかげで、とても快適なベットで、今日はとてもよく眠ることができた。彼等ともし巡礼者がお金を持っていなかったら、無料で止めて盛られると冗談を言っていて、それが巡礼者の精神だと笑って言っていた。

Leónの大聖堂の正面

2008年5月4日(日)25日目(Hospital de Órbigo-Villares de Órbigo-Santibáñez de Valdeiglesias-San Justo de la Vega-Astorga-Valdeviejas-Murias de Rechivaldo-Santa Catalina de Somoza-El Ganso-Rabanal del Camino: Albergue Municipal)

Rabanal del Caminoで山中のアルベルゲの主人が巡礼で留守にしていて、近くで牧場を営むスウェーデン人の親子が、温かい人たちで真に巡礼らしい時間を過ごした。更に都市での生活に疑問を抱き、自然に生きたいというドイツ人と対話をして、素敵な人たちに会うことができた。

今日は快く眠れたので、朝も良く起きれた。Joséたちの素晴らしい配慮により、午前7時まで静かにしてくれていた。皆で記念撮影をして、自転車で巡礼しているJoséたちをXavierと見送った。下痢ぎみだと伝えると、また様々な対処法を教えてくれた。下痢の時は余り食べず、水分を適度に飲んでいると良くなるよと教えてくれた。JoaquimとFatimaとViniciusたちを見送ってから、お腹が痛いので少しずつ歩き始めた。今日はAstorgaまで畑の中や用水路沿いをずっと進み、途中2、3の小さな村を過ぎた。

次の村(Villares de Órbigo)の広場(Calle el Arnal)で一休みした。また、登山道に近くなり、小さな村(Santibáñez de Valdeiglesias)の入り口で牛が草を食んでいるところに遭遇した(スペイン語「聖ヨハネ」Santibáñez < ラテン語Sanctus Johanes +「谷」valle + 前置詞 de +「教会」iglesia < ラテン語ecclesia < ギリシア語「会合」ἐκκλησία / ekklēsíā < 「外に」ἐκ / ek + 「呼ぶ」καλέω / kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyō < *kl̥h₁-éh₁yeti < *kelh₁-が語源)。それから、起伏が激しく、聖トリビオ(Toribio de Astorga, 402-476)が、履物の砂を払った言い伝えがある丘(Monte de la Colomba)を登り、頂(Majada de Ventura)を越えて尾根を下る所に大きな十字架(Crucero de Santo Toribio)があった。

丘を下がると平野が目の前に拓けてきて、町(San Justo de la Vega)が見えた。見晴らしがとてもよく、視界の中に町が収まり、美しい景色だった(5世紀に聖ユストゥス(Sanctus Justus)が住み、スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -ki < *-kiが語源)。町の中には彼に捧げられた16世紀に建てられた教会(Iglesia San Justo y Pastor)があった。町を出ると川(Río Tuerto)を渡り、そこからは平原に通る一本の道路に沿いながら歩いた。

Astorgaの直前には鉄道の線路と交わる踏切があり、町が丘の上に築かれているため、門(Puerta del Sol)をくぐると、特に起伏が激しくきつい坂道を上がり、町に入っていった。(878年にOsturga、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でurbs Osturgaと記録され、ラテン語Asturica, Astiria, Astirica, Asturiaはケルト人アストゥレス族(Astures < 古典ギリシア語Αστυρες / Astures)と同じくラテン語「神」Astarte < 古典ギリシア語Ἀστάρτη / Astártē < フェニキア語 𐤏𐤔𐤕𐤓𐤕 / ʿAštart < アッカド語 𒀭𒈹 / dIštar < セム祖語*ʕaṯtar-など神名が語源と考えられているが、ケルト=イベリア語「広い」*astura < ケルト祖語*sturas < 印欧祖語 *sth₂-ró-s < *steh₂-が語源で古高地ドイツ語stūri < ゲルマン祖語*stōrazやサンスクリットस्थूर / sthūra < インド=イラン祖語*stHrásと関連する後者の説が確からしい。Las Médulasの金鉱山があり、ローマ時代から開けていた。)

街の中は賑わっていた。先ず、17世紀に建てられた教会(Iglesia Perpetuo Socorro)が併設された13世紀に建てられた教会(Iglesia de San Francisco)や11世紀に建てられた教会(Iglesia de San Bartolomé)を見た。町の建物は少し赤みがかった石が積み上げられて作られており独特だった。

中央広場(Plaza Mayor)の市庁舎(Ayuntamiento de Astorga) の前でXavierと会った。彼はチョコレートドリンクを飲んでいる最中でホッとしていた。隣の広場(Plaza Santocildes)で町の防衛者の記念碑(Monumento a los defensores de la ciudad)を見てから、ガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)が設計した司教館(Palacio Episcopal de Astorga)の庭を訪れて、展望台から遠くを望んだ。

城壁(Muralla)を散策して会った巡礼者たちに招かれて、1471年に建てられた大聖堂(Catedral de Santa María)の前の巡礼宿(Albergue San Javier)で一休みした。そこでLiaとXavierと落ち合い一緒になり、緊密に連絡を取り合いながら、幹線道路(Carretera Santa Colomba / LE-142)を進んだ。

Valdeviejas(「谷」valle + 前置詞 de +「妻」vieja < ラテン語vetula <「古い」vetus +‎ -ulus < イタリック祖語*wetos < 印欧祖語「年」*wétosが語源)の15世紀に建てられた小さな聖堂(Ermita del Ecce Homo)の前で一休みをした。門の前には屋根が付き、日陰になっていて、ベンチが用意されていて、巡礼者が腰を下ろして、一休みできるようにされていた。

LiaとXavierと一緒に水を飲みながらおしゃべりをして休憩をした。そこから、また幹線道路(Carretera Santa Colomba / LE-142)に沿う巡礼路(Camino del Corral)を歩いていった。

次の村(Murias de Rechivaldo)で三日前の巡礼宿(Bercianos del Real Camino)で一緒だった歌が上手なバスク人やLiaとばったりと会った(ラテン語「塩水」muriaと人名Rechivaldo < ラテン語*Recibaldus < ゲルマン祖語「王」*rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵs +「輝く」*berhtaz < ケルト祖語*berxtos < 印欧祖語*bʰer(H)ǵ-tós < *bʰerHǵ-が語源)。

私たちがLeónで町の中を散策したり休みながら歩いていた間、彼らは先に進んでいたが、今日は沢山の道程を進んだため、また彼らに追いついた。彼らは私たちよりも2つ手前で泊まっていた。巡礼はお互いに進んだり進まなかったりして、会ったり分かれたりしながら、また、前に一緒に歩いていた人と思いがけないところで会うことができて、一期一会が奥深くて面白いものだと思った。

それから長い山道を進んだ。Santa Catalina de Somoza(ガリシア語Somoza < ラテン語「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó +「山」montia < mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men-が語源)で休憩をしてから、幹線道路(Calle Sol / LE-6304)に沿い荒涼とした大地を歩いていった。

El Ganso(スペイン語「雁」ganso < ゴート語gans < ゲルマン祖語 *gans < 印欧祖語 *ǵʰh₂énsが語源)の15世紀に建てられた立派な村の教会(Iglesia de Santiago)には、巡礼者姿のイエス像があり、鐘が二つ釣り下がる楼には鳥の巣があった。ローマ時代に遡る古い橋(Puente del Pañote)を渡った。幹線道路(LE-6304)に沿い荒涼とした大地を見ながらとにかく進んだ。

Rabanal del Caminoの近くの休憩所(Roble del Peregrino)でXavierが大きな木の上に登って休んでいるのが見えた。彼はその木はCarballo de Fonso Pedredoという名前でとても生命力があると教えてくれた。樹齢は数百年で大変なものだった。Xavierが見せてくれたAstorgaのスタンプはこの木の葉っぱが入っていてきれいだった。少し行くと18世紀に建てられた小さな聖堂(Ermita del Bendito Cristo de la Vera Cruz)があり、村が見えてきた。木の下で休んでいる間に父が抜いて先に行ってしまったようで、街の中で戸惑っていたが、Xavierが村の中で父に私と会ったことを説明してくれて理解していた。

村の入り口で7回鐘が鳴ったので、午後7時にRabanal del Camino(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「(Rabanal de Viejoと区別して)小とされるRabanal del Camino(Raphanellus qui Captivus cognominatus est)」と記録され、スペイン語「大根畑」rabanal <「大根」rábano < ラテン語 raphanus < ギリシア語ῥάφανος / rháphanos < 「蕪」ῥάφη / rháphē < ヘレニック祖語*rhápʰā < 印欧祖語*(s)rábʰ-eh₂ < *(s)rā́psが語源)に着いたことが分かった。

テンプル騎士団が駐在して巡礼路を守り、12世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)が残されていた。

スペインの村や町は必ず人が住んでいる範囲に教会の鐘が聞こえた。村や町に入る場所には必ず十字架があることと同じよう、中世の昔からずっとそのようなシステムで暮らしてきたようだった。

Xavierとは村に入ったところで、明日にPonferradaで会うことを約束して別れた。彼らは夜通し歩いて、峠を越えて下ったどこかで野宿をすると話していた。旅費の節約のため、巡礼宿にできるだけ泊まらないつもりだけれども、夜に山で寝るのが寒いからだという。一週間前には雪が降ったこと、また、 夜は寒くなるから歩き続けた方が体に良いと話していた。

殆ど脱水状態で疲れていたが、50メートルもしないうちに小さな食料品店(Tienda La Despensa)があり救われた。飲み物を買って飲んだ。少し食料品店で話していると、初めからいたアイスクリームを食べていた人が、巡礼宿(Albergue)の管理人(hospitaleira)をしていて、車で帰る途中で巡礼宿を案内してくれると言ってくれた。スぺゲッティのためのトマトソースとレモン味のヨーグルトを求めて出ようとすると、近くの巡礼宿のホスピタレーロが親子で歩いてやって来た。

私たちの所に止まりますかと優しく声をかけてくれた。スウェーデン人の管理人(hospitaleira)は、抜け道の狭い近道を教えてくれて過ぎると巡礼宿(Albergue)が二軒あった。どちらにするか迷っていると、今日朝出る前に見送ったポルトガル人とブラジル人たちと一緒になった。彼らはAstorgaのスタンプはとてもきれいだと教えてくれて、観光案内所に貰いに行ったが、少し前に閉じられていて、もらえなくて残念だったと話していた。朝からハイテンションで少し遠くにいても、話し声や歌が聞こえてきて、遠くからでも、彼らがどこにいるのか、直ぐに分かるほど、いつも元気に話していた。

この巡礼宿(Albergue)の本当の管理人(hospitaleiro)も、現在、巡礼をしていて、留守にしていて、友達として彼の留守を預かるように頼まれましたと話していた。管理人はもし午後8時頃に来てから、会えなかったかもしれないと言っていた。先程の母親と娘さんもいらして、私たちのはこちらですと教えてくれた。中を見てお気に召さないようでしたら、もう一つの方に行って下さって構いませんと、全く商売っ気がなく、また小綺麗な場所であり、何かの縁を感じて、 直ぐにそこに決めた。

巡礼宿(Albergue)の2階でパスタを茹でて、トマトソースを作って、お湯を沸かしスープを作って食べた。この広いAlbergueには、スペイン人カップル2人と私たち合わせて4人しかおらず、とても快適にクッキングできた。そして、食べ始める頃に、巡礼宿の外の庭で盛り上がっているのを見てみると、管理人の家族を含めて、7、8人が集まっていた。食事が終ると、彼らはビールを飲んだり、サッカーボールで楽しんでいた。宴もお開きになりかけた頃、外に出ると、管理人と2、3人がいた。

皆スペイン語で話していて、管理人の小学生の娘さんがノートを持ってきて、記帳して下さいとスペイン語で話しかけてきたので、スペイン語と英語で書いて、外に持っていくと喜んでくれて、皆で読んで楽しんでくれた。管理人はとても美しい英語を話したのが丁寧で優しさが滲み出た人だった。彼女たちは乗馬を楽しんでもらうため、馬を育てる牧場を村の近くで営んでいる人だった。

皆はスペイン語で話していて、管理人以外は英語が通じないと思っていたら、一番スペイン人らしい伝統的な服を着ている人が、一番英語をネイティブと同じほどに流暢に話すので驚いた。彼は犬を連れていて、とても賢そうに見えた。それはペットではなく、羊をまとめるための犬だった。彼の父がイギリス人で母がスウェーデン人だったため、スウェーデンで生まれたと話し出した。

彼は馬や羊や犬など動物と共に暮らしていて、文明から離れた生活をしている人だった。彼は巡礼を2度もSaint-Jean-Pied-de-Portからしたことがあり、最近は巡礼がよくレジャーのようにされることが悲しいと話していた。少しの興味で面白そうだから歩いてみようかと話の種にするために来ている人が多いため、マナーがない人も多くて困っていると話していた。そのような真面目な話を聞いて、何で巡礼するのかと聞かれて、自分と周りの人、更には人類の贖罪のためだと(それを聞いていたので大げさな)冗談で答えると、そのような人は初めて会ったねと大笑いしていた。私もレジャーのために巡礼はしているわけではないから、巡礼宿もここのように公営(municipal)で来ていて、ホテルのような何でも完備された宿に泊まれば、快適かもしれないが、巡礼までしに来て、人と接して関わり合うこともなく、ありがたみが感じられないと話したら、まさにその通りだと頷いて聞いてくれた。

彼と外で話していたが、日没が近くなり、冷えてきたので、二階に上がり話しを続けた。彼は身の上話を私にして、本当は商社マンだったから、国際経済の事にもよく通じていて、文明生活をしていたが、ある時、そうした生活に疑問を感じて、動物や作物を育て山で暮らすようになったそうだ。

巡礼者が工業製品のような野菜ばかり買い、山のプロが作った完全に有機農法の作物を買わないことに疑問を抱いていた。彼自身も巡礼は我々の日常の生活を見直すことの良いきっかけになると考えていると話していた。彼にはドイツ人の妻がいて、10歳の子供もいるが、彼のような自由奔放だが、きつい暮らしについて行けず、ドイツに娘を連れて帰ってしまったそうだ。

彼は教育を受けた人に見えたが、学校が嫌いで社会的な生活が必ずしも人間を幸せにするとは限らないと切実に感じていると話していた。娘が学校に行きたくないなら、それはそれで良いね。人間が生きてゆくことを学校では教えていないから、別に行かなくても、大きな問題ではない。自分が屠殺の仕方から、作物の育て方、夜道に迷った時の対処法など、厳しい山の生活方法を教えるから生きていけると言ったが、奥さんはお金や安全性にこだわり、意見が別れてしまったと話していた。

彼は巡礼路(camino)と同じで違った人生の道(camino)を行く時があれば、また一緒になる時もあるから、それは仕方がないことであり、それで構わないと話していて、とても自由な発想や精神の持ち主だった。先日にXavierが話していたことを思い出させた。全く同じことを聞いた。

彼の気質は明らかにゲルマン人らしく几帳面だった。名前もゲルマン系Erikだった(古ノルド語Eiríkr < ゴート語*aiwareiks < ゲルマン祖語「永遠」*aiwaz < 印欧祖語*h₂óyu ~ *h₂yéws < 「永遠」*h₂ey-、もしくは「唯一」*ainaz < 印欧祖語*óynos +「王」rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵs が語源)。彼は自ら見たもの、触れたものを大切にして生きていくことが大事だと話していた。話し方も理論や概念などの借り物ではなく、体験や事実に基づいたことが語られて説得力があった。

彼は、自由な発想の人が少なく、私に対して、自由にものを考える人だと感じられて、話を理解をしてもらえたと、とても喜んでいた。私も一般社会の固定観念に縛られず、事実を直視して、自由に物事を考えて、柔軟に生きていく必要があるという、自分と考えが近い人に会えてとても嬉しかったと伝えると、更に喜んでいた。今の世の中ではそうした生き方をする人は少ないと話していた。

彼は巡礼者に限らず、キリストが福音書に示したような生活を営んでいる人が少なくて、悲しいことだと言い、全ての宗教は一つの口から出ており、細かな解釈の違いだけだと考えていて、山に登るにも、色んな道があってよいが、最後には同じ頂にたどり着くものだと話していた。その点も(全ての文化や社会は、それぞれの歴史や経緯の上で、それぞれの解釈や方法が生まれてきただけであり、人類の基本としての発想はそれほど大きな相違があるわけではないとする)私と似た発想だった。

午後11時近くまで話し込んでいて、外に出ると星がきれいだった。そのとき、彼が夜に道に迷って外で寝ることになってしまったとき、星空はとてもきれいで電気がないから、ライターを何度も点火して、獣道を見つけて、野生の豚に会い、彼は馬に乗っていたため、馬と豚の間にある信頼関係により、人がいたとしても、動物たちは安心して、野生のキツネが飛びながら走り、イルカのようだった。獣道を見るとどれ程の獣が通ったかも分かるように慣れてきたと体験を話してくれた。彼は本当に商社マンだったと分からない程、自然に深く根を下ろし、悠々自適な生活をしていた。

彼は、また、タイや韓国、ヨーロッパ各国、アメリカなど、ビジネスマンの頃に出張で訪れたときの体験談も話してくれた。英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、スウェーデン語に通じていて、スペイン語で皆と話して、猟犬を調教していた。彼の犬はとても大人しく従順できれいだった。犬も馬も若いうちは雌を見つけると、一目散に行ってしまい大変だねと笑っていた。

しかし、動物によって調教の仕方に違いがあると話していた。そして、ラテン語を学んだことを知り、自分の枕にラテン語で何か書いてあるから、明日、巡礼路に面した自分の家に少し立ち寄って行って欲しい。彼は近所の女性たちに混ざって、近くの水汲み場で洗濯をしているから声をかけて欲しいと言い残して、馬に乗って犬を連れて、闇の中に入ってゆき、家に帰って行った。彼と別れてすぐに床につき、二人しかおらず、いびきにも悩まされることなく、静かにすぐに眠りにつけたが、腹痛が始まり、何度か起きた。でも、静かな村で夜を過ごすことができて満足した。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂所蔵《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》(1173年)

第5章〈素晴らしいヤコブの道を修復した人たちの名前について(De nominibus quorumdam qui beati Jacobi viam refecerunt)〉(Aimericus Picaudus > Aymeric Picaud de Parthenay-le-Vieux, Poitou, France)

Haec sunt nomina quorumdam viatorum, qui temporibus Didaci archiepiscopi Jacobitae, et Adefonsi imperatoris Hispaniae et Gallasciae, et Calixti papae, viam sancti Jacobi a Raphanello usque ad pontem Mineae, pio amore Dei et Apostoli, citra annum Dominicum mcxx, regnante Adefonso rege Aragoni et Ludovico pinguissimo rege Galliarum, refecerunt: Andreas, Rotgerius, Alvitus, Fortus, Arnaldus, Stephanus, Petrus qui pontem Mineae, a regina Urraca confractum, refecit. Istorum adiutorumque animee requiescant in pace.

これらの名前が、サンティアゴ大司教(Didacus Gelmirici > Diego Gelmírez, 1069-1140)、スペインとガリシアの皇帝Alfonso(VI, 1040-1109)、教皇Callixtus(II, 1068-1124)の時代に神と使徒への敬愛により、Rabanal del CaminoからPortomarínまでの聖ヤコブの道を修復した監督者たちである。それは西暦1120年以前、アラゴン王Alfonso(I, 1074-1134「武人王(el Batallador)」)、フランス王Louis(VI, 1081-1137)「肥満王(le Gros)」の時代であった。Andreas、Rogerius、Alvitus、Fortus、Arnaldus、Stephanus、またPetrusが、女王Urraca(I de León, 1081-1126)が破壊したMiño川にかかる橋を再建した。これらの人たちと人夫たちの魂が永遠の平和において休まれますよう。

Rabanal del Caminoの教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)

2008年5月5日(月)26日目(Rabanal del Camino-Foncebadón-Manjarín-El Acebo de San Miguel-Riego de Ambrós-Molinaseca-Campo-Ponferrada: Albergue parroquial San Nicolás de Flüe "El Carmen")

山を上り下りするとき、 ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色や白色、ハンニチバナ(Cistus ladanifer)の珍しい色彩のきれいな花が咲き乱れていた。El Acebo de San Miguelの黒い屋根が美しい村全体が上から箱庭のようにきれいに見えて良い眺めだった。Ponferradaで標高の高い所にある寄付で運営されている大きな巡礼宿に宿泊したが、皆のマナーが悪く、いびきもすごくて、まるで動物園で寝ているようだった。

今日は腹痛により、午前7時に起き、トイレに直行して下痢をして、半時間ほどして出て来ると、管理人(hospitarela)のTinaさんは、もう既に宿に来ていて、庭を掃除していた。とても働き者で驚いた。朝食をヨーグルトとスープで簡単に済ませて、トイレに入り、午前9時の少し前に支度を整えて出ようとすると、子供が小学校に行く前の様子だった。巡礼宿の前で管理人で朝の記念撮影をして、お別れをして出発するとき、スクールバスが子供を迎えに来て、お見送りをしてから出発した。

午前9時ちょうどに村を出て、今日はずっと上りで進んだ。Erikさんを村のあちらこちらを歩いて探したが、見つからなかったので、管理人のTinaさんに昨日の御礼と伝言をお願いして、先の村に歩いて行った。今日は一日中、昨日と同じく突発性の腹痛に悩まされたが、足はコンディションが良く、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色やハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色や白色の花が咲き乱れた割と起伏がある巡礼路を快適に歩けて、Foncebadónまで直ぐに着いた(ラテン語Fons Sabbatonis <「泉」fons +「安息日」sabbatum < ギリシア語σάββατον < ヘブライ語שַׁבָּת‎ shabát)。

巡礼宿(Albergue de peregrinos Monte Irago)で紅茶とレモン味のトニックを飲んだ。そこのシリアルはとても美味しかった。村の入口と出口には木製で簡素に作られた十字架があった。それから、山道を上がると峠(Puerta Irago)に大きな十字架(Cruz de Ferro)が、大量の石が集積した上に建っていた。それらは、皆が故郷から持ってきた石で、一人一人の巡礼者の願いが込められ、メッセージが書かれたり、自転車の歯車まで置かれていた。ローマ時代には旅人や商人の神(Mercurius)を祀る祠があり、神聖な場所とされていて、今では小さな聖堂(Ermita de Santiago)が建てられていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でportus montis Iraciと記録された。

小さい村Manjarín(スペイン語「山」monte < ラテン語mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men- + 「兄弟」hermano < ラテン語germanus < 「子孫」germen < イタリック祖語*genmen < 印欧祖語*ǵénh₁-mn̥ < 「産む」*ǵenh₁-が語源)の入り口の建物の前の道端で黒い犬が寝そべっていた。段々と植物が少なくなり、地衣類が増えてきて、今までの平地から登山をしているような感覚になってきた。また、建物の屋根が赤い煉瓦から黒光りになってきた。

高地で空気がきれいだった。牛が放牧されていて、牧草を食んでいる風景を眺めながら、また、遠くに雪をかぶる山脈の連なり(Montes de León)を望みながら、巡礼路をひたすら歩いた。間もなく頂上(Punto Alto)に到達した。そこから、今日の目的地である大きな町Ponferradaが遠くに微かに見えた。直行では近そうだが、山道なのでかなりの距離がありそうだった。

ここから急な下りになり、次の黒い屋根が美しい村El Acebo de San Miguelの全体が上から箱庭のようにきれいに見えて良い眺めだった(スペイン語「ヒイラギ(Ilex aquifolium)」acebo < 古スペイン語azevo < 民衆ラテン語*acifulum < 古典ラテン語aquifolium <「針」acus < イタリック祖語*akus < 印欧祖語*h₂eḱus < 「尖った」*h₂eḱ- +「葉」folium < イタリック祖語*foliom < 印欧祖語*bʰolh₃-yom < 「蕾」*bʰleh₃-が語源)。村の巡礼宿(Meson El Acebo)の前に置かれていたベンチで一息をつくことにして、スペイン人の巡礼者とおしゃべりを楽しんで一服した。

山の中は霞がかっていたが、下り始めると晴れてきて、山の向こう側はとても晴れていた。Riego de Ambrósの街中はバルコニーが道に張り出したクリーム色のきれいな家が多かった(スペイン語「灌漑」riego < ラテン語riguus < rigo +‎ -uus < イタリック祖語 < 印欧祖語 *Hreyǵ-e-ti < 「真っ直ぐにする」*Hreyǵ-、スペイン語「ブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)」ambrosías < ラテン語ambrosia < ギリシア語「不滅」ἀμβρόσιος / ambrósios < 「不死」ἄμβροτος / ámbrotos < ヘレニック祖語*ə́mrətos < 印欧祖語*n̥mr̥tós < 否定辞*n̥- +‎ 「死ぬ」*mr̥tósが語源)。

それから、黄色、白色、紫色の花が咲き乱れた巡礼路を歩いてゆくことができ、色とりどりでとても美しかった。また、牧場の脇で牧犬が寝ていたり、牧草を羊が食んでいるのを見ながら歩いた。岩石が露出していて、上りの道では石英がなかったが、下りは片理が発達した片麻岩だった。

父が珍しい五枚の花弁を持ち、真ん中が黄色で間に臙脂色の斑模様がある白い花を見つけた。道端にこんなにきれいな花が咲いているよと呼ばれて見てみると、珍しい色彩のハンニチバナ(Cistus ladanifer)の花がかわいらしく咲いていた。山道にはきれいなお花が咲き乱れていた。父がきれいな花が咲いている中を歩けて嬉しい。この辺りがとても気に入ったと話していた。

山を下るとMolinasecaの街が見えてきた。美しい街でPonferradaの人々の避暑地のようだった。美しい街は昔の面影を残していて、教会(町外れにある11世紀に建てられたErmita de Nuestra Señora de las Angustiasと町中にある17世紀に建てられたIglesia de San Nicolás de Bari)の二つの尖塔が川を挟んで見えてきて、美しい中世の橋がかかり、三圃式の畑が広がり、コントラストが実に美しかった。父がこの橋はきれいだから、渡っているところを遠くから写真を撮ってあげるよと言ってくれた。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSicca Molinaと記録され、ラテン語「乾いた」siccus < イタリック祖語*siskos < 印欧祖語*h₂sys-kós < *h₂sews-が語源でサンスクリットशुष्क / śúṣkaやアヴェスタ語huška < インド=イラン祖語*Hsúškas、古典ギリシア語ἰσχνός / iskhnós < ヘレニック祖語*sisksnós、古アイルランド語sesc < ケルト祖語*siskʷos、古英語sēarや古ノルド語sayra < ゲルマン祖語*sauzaz、古スラヴ語ⱄⱆⱈⱏ / suxŭやリトアニア語saũsas < バルト=スラヴ祖語*saušásと関連 + ラテン語「風車」molinus < 「挽く」molo < イタリック祖語*melō < 印欧祖語*melh₂-e-ti < *melh₂-が語源でサンスクリットमृणाति / mṛṇā́ti < インド=イラン祖語*mr̥náHti、古典ギリシア語μύλη / múlē < ヘレニック祖語*mólā、古アイルランド語meilid < ケルト祖語*meleti、古スラヴ語ⰿⰾⱑⱅⰻ / mlětiやリトアニア語málti < バルト=スラヴ祖語*mélˀteiと関連)

今でも中世の佇まいを残していた。特に町の中の家の建物や通りの様子も素晴らしく気に入り、泊まりたいと思ったが、まだ、午後4時であるため、また、足早に通過して、今日の目的地の町Ponferradaへと向かった。車道(Traversa Manuel Fraga)に舗装された歩道が続いていたために歩きやすくて、先へどんどん進めた。途中(Urbanización Patricia)で二つの道に分かれるが、新しい方の近道を取り、Campoには寄らず、また川(Río Boeza)に架けられた立派な橋(Puente Mascarón)は通らず、幹線道路(Carretera Molinaseca / LE-142)に沿う巡礼路を歩いてゆき、Ponferradaの街に入っていった。昨日見たような綿が木から落ちて来て、町中を漂っていて不思議だった。

(Ponferradaは、紀元前29-19年のカンタブリクムとアストゥリクムの戦い(Bellum Cantabricum et Asturicum)に勝利した古代ローマ初代皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus, 63-14 a.C.n.)が占領してローマ人が居住した。1082年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)とアストルガ司教(Osmundo de Astorga)がSil川に架けた「鉄の橋(pons ferrata)」が語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPonsferratusと記録され、第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Oza渓谷のPonferradaを流れるSil川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Sil, quae ad Pontem ferratum in Valleviridi)」と書かれている。1180年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)がテンプル騎士団に寄進した。)

街の人に教えてもらい通り(Calle Doña Beatriz)に大きなSupermercado Mercadonaを見つけた。新しい道路は新市街を貫き、山並みの高台に高級住宅地が広がっていた。今日の最高度は1500メートルで泊まった町は1200メートルまで下った。町に入る手前で腹痛に再び襲われ、やっと原因が分かった。お腹に付けたポーチが圧迫して、当たりが悪かったようで外したら一時間後に解決した。

Supermercadoの店員さんは優しくて、カートを助けてくれたり、スペイン語で必要なものを伝えると広い店内でそれぞれの場所まで案内をしてくれて、一緒に探してくれた。そして、フランスパン(Barra de pan)、シリアル(Muesli con frutas)、苺入りのヨーグルト(Yogur de Fresa)、サーモンのマリネ(Salmón Marinade)、チーズ入りベーコン(Salchichas empanizadas rellenas de queso)、イチゴ(Freson)、青林檎(Manzana Granny Smith)、マカデミアナッツ(Avellana tostada)、スープの素(Sopa de verduras, Crema de champiñones)、ヨーグルト飲料(Yogur líquido bífidus cereales)、オレンジジュース(Zumo de mandarina)、ファンタオレンジ(Bebida isotónica de naranja)、コーラ(Cola Light)を買った。ファンタの林檎味(Manzana con gas)と緑茶味(Té con gas)があり、飲むと意外に美味しかった。また、腹痛に襲われて困り、店員さんに助けを求めると、直ぐにトイレに案内してくれた。調子が良くなり安心して店を出た。

町の中を少し歩いて、1681年に建てられた小さな教会(Capilla de Nuestra Señora del Carmen)に隣接した公営の巡礼宿を見つけた。この巡礼宿も寄付のみで運営されていて、雰囲気はとてもきれいだったが、受付を済ませ、部屋に案内してくれた管理人は、白昼から酒に酔っていて、重い荷物を持って疲れた巡礼者にお構いなしに、山を登るとここまで800mも下ってきて・・・と長話を始めたのでかなり辛かったけれども、親切そうな人で憎めない人だったので、まあ良いかとお話にお付き合いをした。シャワーを5日ぶりに浴びると少しは調子が良くなり、また町に出て、Supermercadoに行った。

今までも、田舎をずっと歩いてきて、都市につくとほっとして、先ほどと同じSupermercado Mercadonaでいつも大量に食料を買い物していた。Supermercadoが好きな理由は沢山の小品にスペイン語やフランス語で書いてあって読むことができるからである。粉スープ(Crema de champiñones, Crema de marisco, Sopa de cocido)を買い足して、ドリトス(Triángulos de maíz sabor Tex Mex Doritos)、サラダ(Ensalada romana)、コーラ(Cola Light)を買った。レジに進むと、大きいテディベアーを持った小さい子がいて、そのテディベアーはとても可愛かった。

巡礼宿に戻り日記を書いていると、先に下のベットを取っていたから、上に移って欲しいと言う人がいて、上のベットに仕方なく移った。それから、食堂で夕食をスープとサラダのみで済ませた。 皆、日によって食事をする時間が違うので、台所はいつも込み合っていた。

スペイン人は遅くて、イギリス人やフランス人は、日本人と同じ位の時間に食べることが多かった。この巡礼宿は100人以上収容でき、ほぼ一杯になっていたが、大きな所はなかなか細やかな人が少なく、心が温まる交流ができるチャンスがなく失望した。小さな20人程の巡礼宿がちょうど良いとつくづく思った。おまけに、今日の宿はマナーが悪い人が多く、食器を出しっぱなしだったり、隣にいたスペイン系アメリカ人たちも雑でひどかった。英語を聞くと、出身や階層がよく分かるが、彼らの英語は上品でなかった。しかし、良いこともあり、ドイツ人がスープの素をくれてとても助かった。

また、皆巡礼者はフレンドリーですごいことは、相手の国の言葉を直ぐに覚えようとたずね合うことである。フランス人は人の気持ちを尊重する人が多くてよく共に過ごした。アメリカ人の巡礼者が少ないのは、物質社会で巡礼などに熱い人が少ないからだと思われた。少数ながらアメリカ人とも合うことがあり、巡礼に来た人は皆、例外かもしれないと思った。 ヨーロッパやアメリカ人は後ろに人がいても、日本人のようには全く気がつかないことが多く、それは日本のように人の気配などをあまり感じにくいからと思った。とても気さくな韓国人の家族に会い、とても盛り上がって優しい人たちだった。今までかなりの距離を歩いてきて、日本人はもちろん中国人や韓国人など、アジア人と会うことがなく久しぶりだった。まだ、欧米で認知されて始めたばかりでアジアの国々では、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼があることすら、あまり知る人が少ないかもしれないと思った。

そして、食事が終わる頃、午後10時になり、布団の中で日記を書くと、隣のベッドにいたベルリンに住んでいるノルウェー人と沢山話した。そして消灯の時間になっても、すごすごとポケットライトを付け入ってくる人がいたり、携帯電話の光が明るくマナーが悪く、おまけにいびきの大合唱が、今までで一番ひどく、動物園で寝ているようだった。突発的に腹痛がひどくなり、20分ごとにトイレに行き、眠れなかった。トイレも隣の臭いが酷いと思ったら流さずに出ていかれていて、誰も手を洗わずにへ出ていたり、日本では考えられないほど、ヨーロッパの衛生状態はひどかった。

昨日はずっと登りと下りを繰り返したため、足に二つ小さな肉刺ができた。Xavierが4日前に登山靴など重装備な人より、街を歩くような軽い人の方が、肉刺や足の問題も起こらずに上手くいくと教えてくれたことを思い出した。昨日にXavierとPonfferadaでまた会おうと約束をしていて探したが見つけられず、別の宿か近くで野宿をしているかもしれず、また、この先でいずれの機会に会えると思った。

今日は巡礼を始めた頃にピレーネ越えをした時と同じくらい山道が多くて、幸いに晴れていたが、激しい道を歩いてきた。イラゴ峠(Puerta Irago)を越えてから、気候や建物の作りがガラリと変わり、フランスの田舎町のような風情のある街並みが多くなり、ガリシア地方に近づいてきた予感がした。

Foncebadónの先にある山(Monte Irago)の峠(Puerta Irago)の大きな十字架(Cruz de Ferro)

2008年5月6日(火)27日目(Ponferrada-Compostilla-Columbrianos-Fuentes Nuevas-Camponaraya-Cacabelos-Pieros-Villafranca del Bierzo-Pereje-Trabadelo: Albergue Crispeta)

Ponferradaから高台に上がり、Fuentes Nuevas辺りはとても美しいバラの花が咲き乱れた巡礼路を歩いて葡萄畑を通り、特に気に入った区間となった。Villafranca del Bierzoからは気候の街の雰囲気もガラリと変わり、Trabadeloは、フランスか伊豆の田舎町のような山間部の村で涼しくて快適だった。

今日は朝から腹痛に悩まされ、午前7時に起きてから、トイレに入りっぱなしで、午前9時近くに出発した。しかし、管理人は体調を心配して了承してくれて、安心して出発した。

17世紀に建てられた黒い石造りの立派な教会(Iglesia de San Andrés)の塔を望みながら、とても雰囲気のある街の通り(Calle Pregoneros)を抜けて進んだ。1178年に建てられたテンプル騎士団の城(Castillo "templario")など、雰囲気のある歴史的建造物が多くある街だった。

広場(Plaza Virgen de la Encina)から16世紀に建てられた時計台(Torre del Reloj)まで坂(Calle Gil y Carrasco)を上った。1573年に建てられた中央の聖マリア教会(Basílica de la Virgen de la Encina)はとても素朴で外観も内観も美しく、柏の木の聖母(Virgen de la Encina)が祀られていた。

それから、商店街(Calle Reloj)を歩いて、時計塔(Torre del Reloj)をくぐり、市庁舎(Ayuntamiento de Ponferrada)がある18-19世紀に建てられたと思われる色とりどりの美しい建物が並んでいた広場(Plaza del Ayuntamiento)に出た。そこから、大通り(Calle Gral Vives)に出て、橋(Puente Cubelos)を渡り、旧市街を抜けて、公園(Parque de la Concordia)や大通り(Avenida Gran Vía Reino de León)を歩いてゆくとロータリー(Rotonda de Las Pimenteras)を過ぎた。

丘を登る通り(Avenida Huertas del Sacramento, Avenida de la Libertad)を進み、博物館(Museo de la Energía)の近くの高台から、遠くの山々(Montes de León)や車のための立派な白い吊り橋(Puente del Centenario)を望みながら、通り(Avenida Cuarta)を歩いた。高台から美しい山や街並みを一望しながら歩くことができ、気分がどんどん上がってきた。

直ぐ隣の新しい市街地(Compostilla < ラテン語「整備された」compositella < composita + -ella < 「共に」con- < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語ḱóm + 「置く」pono < 古ラテン語pozno <イタリック祖語*pozinō < *po + *sinō < 印欧祖語「から」*h₂pó + 「産む」*tḱi-né-ti ~ *tḱi-n-énti < *tḱey- + 接小辞-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)に到り、日当たりの良い丘の上に最近にネオロマネスク様式で建てられた教会(Parroquia de Santa María de Compostilla)があった。前の広場(Plaza Poblado)は緑が多くて気持ちが良く、下痢気味な状態と腹痛を抑えるためにシリアルを食べて一休みした。

しばらく高級住宅地(Avenida 3ᵃ Transversal)を歩いてゆき、郊外(Calle Cabo de Finisterre)に出ると、巡礼路らしくなり、畑が見えてきて、気持ちの良い中を歩いて行けた。

次の町(Columbrianos)まで1km歩いて、18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Blas)が見えてきて、風光明媚なのどかな田園地帯で家が点々とあるようになった。街の中で道路(C-631とLE-711)を渡り、17世紀に建てられた教会(Ermita de San Blas ya San Roque)の脇から少し住宅地を進んだ。

(923年にColumbrianoと記録され、レオン語「高地」columbriar < ラテン語「頂部」columen < culmen < 印欧祖語「丘」*kelH-が語源でラテン語collis < 古典ギリシア語κολώνη / kolṓnē < 印欧祖語*kl̥H-ní-sは英語hill < 古英語 hyll < ゲルマン祖語*hullizと関連。地名に多い接尾辞「丘」-bra < -bris < ケルト祖語*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源でゲルマン祖語*burgzと関連。もしくは1043年にConinbrianosと記録、ポルトガルConinbriga(Coimbra)の移民が語源。)

幹線道路から外れると、直ぐに田舎の巡礼路になり、道が歩きやすくなった。特に道が込み入った町の中では、帆立貝の道標をものすごく目を凝らして探して、少しでも現れなかったら、直ぐに引き返すなどして、見失わないように探さなければならないので大変だった。地図も持っているけれども、縮尺が広すぎるため、小さな分かれ道でどちらに行けばいいかは、道標を頼りにするしかなかった。

それからはずっと一本道(Calle San Blas, Calle la Valiña)を進んだが、遠くに山を望み、平らな土地ながらも、畑の緑が美しくて、特にFuentes Nuevas(スペイン語「新しい泉」の複数形)に入る直前のお花畑の赤いお花が美しくて、時どき大きな家が現れてきて、こんな風光明媚な場所なら気持ちよく住めると感じながら歩いて行った。街に入る直前に巡礼者姿の聖ヤコブがあしらわれた十字架が建てられていた。そこで腹痛に襲われ、近くの草むらの茂みの中で下痢をした。

一本道の通り(Calle el Paraiso, Calle Real)を進み、道の真ん中に15世紀に建てられた教会(Ermita del Divino Cristo)があり美しかった。クリーム色の家に巡礼者姿の聖ヤコブがあしらわれた装飾があり、18世紀に建てられた小さな教会(Iglesia parroquial de La Asunción)を見た。風光明媚で今まで歩いてきた中で最も気に入った区間となった。大通り(LE-713)と一緒になり、次の町に入った。

Camponaraya(857年にIn latere montis Nauranci、992年にPer vadunm Stephany viam que ducit fonten ausalem usque ad vallem mayorem, et descendit viam que vadit Magace usque ad terminium de Narayolaと記録され、スペイン語「平原」campo < ラテン語campusとバスク語*narbと関係すると考えられるイベリア語の河川名(hidronimia)*nar-が語源)を通ると葡萄を作っている2、3の畑(Viñedos)を通った。葡萄の木は植えられたばかりでまだ背が低かった。

道端にオレンジのきれいなヒナゲシ(Papaver rhoeas)が咲いていた。高台の大地にただ巡礼路が通されており、頭の上に何も遮るものがなく、容赦なく陽が照り付けるため、巡礼者は昨日の山の上り下り、今日の炎天下でかなり滅入っていた。水分を取らないと脱水症状になりやすいからである。

それからいくつかの幹線道路(Calle Cimadevilla)に面した街を通った。平地だが山に囲まれていて盆地のようで、スペイン特有の激しい太陽と低い湿度の冷たい風が吹いてきた。

特にCacabelosはお気に入りの町となった。石造りの建物が整然と並んだ美しい街並みが美しく、10世紀に建てられた教会(Iglesia de San Roque)が巡礼路に面して建っていた。

街中の石造りの家の間を抜けて歩くと1108年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの大司教(Diego Gelmírez / Didacus Gelmirici, c.1069–c.1140)により聖別されて、16世紀にロマネスク様式で建てられた優美な教会(Iglesia Parroquial de Santa María)があった。

町を通り過ぎて川(Río Cúa)を渡ると、直に1764年に建てられた立派な教会(Santuario de Quinta Angustia)が見えてきて、手前の広場(Plaza el Santuario)の建物(Lavado Y Engrase Las Angustias Sl)は小川の上に建てられていて涼しげだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Cacabelosを流れるCúa川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Cua quae ad Carcavellum)」と書かれている。)

そこから幹線道路(LE-713)に沿い、Pierosを過ぎて山道(Cerro de la Ventosa)をひたすら歩いた。辺りには葡萄畑(Viñedos)が広がり、醸造所(Bodegas)が多く、巡礼路には花が咲き乱れていた。

葡萄畑の中でBordeauxから歩いてきたフランス人に会い、フランス語で話すととても喜ばれた。ここ辺りの雰囲気はフランスの田舎町によく似ていて、家の近くに似ているでしょと言うと、彼もまた本当にフランスに戻ってきちゃったみたいだねと言って大笑いしていた。

(Cacabelosはケルト人アストゥリアス族(Astures < Αστυρες / Astures < ケルト=イベリア語「広い」*astura < ケルト祖語*sturas < 印欧祖語 *sth₂-ró-s < *steh₂-)が住んだBergida(イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源)があり、紀元前25-23年に近くの小高い丘に城跡(Castrum Bergidum / Castro de la Ventosa)が建てられ、572年にスエビ王ミロ(Mirus, c.530-583)、585年に西ゴート王レオウィギルド(Leovigild, 519-586)が支配して、714年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、737年にアストゥリアス王国が奪還して、791年にアストゥリアス王ベルムード1世(Bermudo I de Asturias, c.750-797)が後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)と戦い(Batalla del río Burbia)、857年に修道院(Monasterio de San Julián de Samos)の領地となり、990年にレオン王ベルムード2世 (Bermudo II de León, 953-999)が修道院(Monasterio de Santa María de Carracedo)に寄進して、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCarcavellusと記録され、ラテン語cacabulus <「鍋」caccabus < ギリシア語κάκκαβος / kákkabos + 接小辞-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源。Pierosは人名「ペトルス」Pedro, Pero < ラテン語Petrus < ギリシア語「石」πέτρα / pétrāが語源)。

そして、Villafranca del Bierzoに入る直前にがらりと雰囲気が変わり、スペインよりもフランスの山間にあるような町が谷間に広がっていた。川(Río Burbia)を中心に鰻の寝床のように街が広がり、湯河原のような雰囲気だった。街に入るとき、立派な城門(Castillo de Santa María de Autares)を見た。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Villafrancaの橋の下を流れるBurbia川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Burdua quae decurrit ad pontem Villaefrancae)」と書かれている。)

1186年に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago Apóstol)が巡礼路の脇に建てられており頑丈な石造りで圧巻だった。Santiago de Compostelaに病気などで到達できなかった巡礼者がこの教会の門をくぐれば、巡礼をしたと見なしてもよいとされた「赦しの門(Puerta del Perdón)」があった。立派な城壁(Castillo-Palacio de los Marqueses de Villafranca)を通り過ぎて、細い路地(Calle Salinas, Calle Puente Nuevo, Calle Campairo)を歩いた。

町中で中央広場(Plaza Mayor)の銀行(Banco Pastor)の前のテントの下のベンチに腰かけていたら、カフェ(Bar Genin)の人が注文を取りに来て驚いたが、カフェの店の中と気づいた。しかし、優しく声をかけてくれて、ここにしばらく座って休んでいって下さいねと言ってくれて、出発するときに「良い旅を!(¡Buen Camino!)」と笑顔でお見送りをしてくれた。

17世紀に建てられた石造りの立派な教会(Iglesia de San Nicolás El Real)や16世紀に建てられた教会(Colegiata de Santa María de Cluni)を過ぎて、山あいの街の雰囲気を楽しめた。気候も湯河原のように霧に包まれていて、先ほどの灼熱の大地とは打って変わり、涼しくて快適に過ごせた。スペインの街とは思えないほど、屋根も赤ではなく、濃青や黒で雰囲気があった。

(Villafranca del Bierzoは、スペイン語「村」villa +「フランク人」franca < ラテン語Francus < フランク語*Franko < ゲルマン祖語「槍」*frankô < 印欧祖語*preng-、イベロ=ケルト語「高地」Bierzo < Bierçi[d]u < Bergidom, Bergidumはイベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ- + イベロ=ケルト語「家」*dom < ケルト祖語*dāmos < 印欧祖語*dōm-o-s < 「住む」*dem-が語源でラテン語「家」domus < イタリック祖語*domos < 印欧祖語*dom-o-s < 「住む」*dem-と関連。1070年にフランスのClunyの修道士が修道院(Colegiata de Santa María de Cluniaco)を建て、フランク人の村villa francorumができ、1072年にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が特権(fuero)を与えて、1120年にVico Francorumと記録された。1192年にレオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)の后(Teresa de Portugal, 1176-1250)が訪れた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillamfranca, scilicet in bucca Valhscarceris, Villafranca de bucca Valliscarcerisと記録された。)

街を出る時に渡った川(Río Burbia)に架かる橋(Puente Medieval de Villafranca)も美しかった。また、1541年に建てられた大きな修道院(Convento de la Purísima Concepción)があった。

橋を渡ってから、違った道に進んでしまいそうになったとき、工事現場の人がこっちだよと指さして教えてくれて助かった。そこからは、また、川(Río Valcarce)に沿った山道(Calle Espíritu Santo)をに入ったが、日本の箱根の山と同じような日差しと雰囲気が漂い、まだ、ここはLeón地方だが、前にTinaが、ガリシア地方に入ると神秘的で幻想的な雰囲気に変わるよと言っていたのを思い出した。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Valcarce渓谷を流れるValcarce川)」と書かれている。)

そうした道を歩いて行くと、高速道路(Autovia del Noroeste / A-6)の高架下に出て、幹線道路(N-VI)に沿う歩道を行き、小さな村Pereje(スペイン語 人名Pérez < ラテン語Petrus < ギリシア語「石」πέτρα / pétrāが語源)が一つあった。村に入口には墓場があり、十字架が見え、やはりスペインらしさが感じた。町の人も優しく、必ずすれ違うとあいさつしてくれた。道路の車線が逆であることを除けば、日本に似ていて、箱根の山の中を歩いている感じだった。そうした山間部に住んでいるスペイン人は、話しぶりなどが大人しくて、礼儀正しく感じられた。

それから、渓谷沿いの森の中の幹線道路に沿う巡礼路をひたすら歩いた。また、高速道路の下を数回くぐり、山道を歩いて行った。木陰ができていて、適度な湿度があり、快適で歩きやすかった。その次の村Trabadelo(Trabadillo < Tabladilloと記録され、スペイン語「床」taburado < ラテン語tabulatum < 「板」tabula < イタリック祖語*taðla < 印欧祖語*tal-dʰlom < 「平ら」*telh₂- + 接尾辞 -illo < ラテン語-illus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós <*-lósが語源)に泊まることにした。

伊豆の山の中の村のような入り口にある看板から、日本の森のような道を材木が置いてあるところを1.5メートルほど歩いてゆくと、建物が見えて来て、巡礼宿(Albergue Crispeta)があった。建物の前に三人のスペイン人が前に座っていて、スペイン語で話をするととても喜んでくれた。父が来ることや東京の近くに住んでいるなどを話していると、彼らはPamplonaから来ていると話していた。

他にも同じ町に巡礼宿があるか宿の前にいた人に尋ねると、公営(Albergue parroquial, Albergue municipal)がこの先にある教会(Parroquia de San Nicolás)の側や先に二つあるそうだが、父が歩いてくる間に村を少し見て回ると、ここがとても清潔だったから、ここに泊るよと宿の前にいた人に伝えると、目の前に住んでいる管理人(hospitaleiro)を呼んでくれた。価格も公営とそれほど違わなくて良心的だった。食事は近くの同じ人が経営している巡礼者のためのレストランで2€で食べれるそうで嬉しかった。部屋に通されるときれいでベットの数も少なくてとてもよく眠れそうだった。カナダ人は編み物をしていた。ドイツ人とカナダ人が英語で話していた。彼らに食料品店の場所をたずねて、外に出ようとしたら、突然、雨が降ってきたので少し話をしてから、村へ出かけた。

食料品店(Superalimentación Carmen)までは徒歩で1, 2分あり、川沿いに上がると直ぐに着いた。途中で陽気なおばあちゃんたちと話したり、川釣りをしている人と会って、何を釣っているのかを聞くと、釣った魚を見せてくれた。欲しいかというので、巡礼中で調理することも大変だからいいよと言うと、そうかと笑っていた。川(Río Valcarce)も、日本の山の中ような感じだった。

食料品店に着いてから、アクエリアスやレモンのトニックを買おうとするが、古いためか、缶の中が錆び付いているのを見つけ、賞味期限をみると去年の10月だったので止めて、賞味期限内のヨーグルトドリンクを買って飲んだ。店の人に薬屋を聞いたら、教会の隣にあるそうだが、行くのはやめた。

帰るときに川の向こうにレストラン(Nova Ruta)を見つけて、橋を渡り覗きに行った。近くの自販機でファンタを買うと、やはり缶の底が錆びていた。スペイン人は期限にルーズだと感じながら、宿に戻るとスペイン人たちがサッカーをしていた。そして一緒にやろるかと誘われたが、お腹の調子が勝れないから、しばらく横で見ているよと話した。食堂でスープを作っていると、ドイツ人の人から、ヨーグルトをありがたく頂き、食事をしていると、バナナをレモンと割ってくれた。下痢に利くという、レモンを絞り、水を加えて、バナナを食べながら飲み、それを繰り返したら、少し楽になった。

そして、シャワーを浴びた。その間に先ほどサッカーをしていたスペイン人たちが、管理人(hospitaleiro)に症状を伝えてくれていて、シャワーから出ると、管理人が薬をくれた。スペイン人に症状を説明するとき、今日は歩いていたら、急にお腹が痛くなって・・・と説明をしていたが、薬の包みにスペイン語(Anti-Diarrea)で書いてあり、英語(Anti-Diarrhea)と殆ど同じじゃないかと思い、明日、薬局を見つけたら、確保しておくことにした。洗濯機を使い、料金(4€)を払おうとシャワーの中の父に財布の場所を聞いて出すと3.50€しか小銭がなかったが、5€の札を出したら、小銭の3.50€だけでいいよと言ってくれた。薬までくれて、洗濯代を負けてくれて、二重でありがたかった。

その後、足の肉刺の手入れをしながら、スペイン人と話すと、折り紙と紙瑠璃を持っていたので、どうしてかと聞くと、Puente la Reinaでも、あなたに会ったことがあると言っていた。(巡礼者の中で欧米人は多いけれども、日本人は全く見かけなかったので、東洋人は非常に目立つことを感じた。)更に彼らはあと3日でSantiago de Compostelaに金曜日に着く予定で、土曜日に沢山そこで食べて飲み、日曜日に帰り、もうその日から働くそうだ。ものすごい強行スケジュールだと思い、巡礼をしてから、次の日から働くとはタフだなと思いながら聞いていた。消灯時間まで台所で日記を書いてから眠りに就いた。今日の宿は巡礼者によく配慮が行き届いていて、ゆっくりと休むことができた。

今まで巡礼宿(Albergue)は公営(municipal)に限り、ずっと泊まってきたが、個人のAlbergueに泊まってゆっくり過ごせて、更に値段もそんなに差はないので、個人運営の巡礼宿その良さを見直した。明日からは、39km・38km・39km・38km・16kmでサンチアゴに日曜日に着いて、大ミサに出席したいため、大変な旅程になりそうなため、6時半に起き、7時に出なければならない。今日は皆の優しさに触れた一日だった、久しぶりにとても温かいシャワーを浴びられてとても幸せだった。

Ponferradaの広場(Plaza Virgen de la Encina)にある聖マリア教会(Basílica de la Virgen de la Encina)

2008年5月7日(水)28日目(Trabadelo-La Portela de Valcarce-Ambasmestas-Vega de Valcarce-Ruitelán-San Julián-Ruitelán-Las Herrerías-La Faba-La Laguna de Castilla-O Cebreiro-Liñares-Hospital da Condesa-Padornelo-Fonfría-Biduedo-Fillobal-Pasantes-Ramil-Triacastela: Albergue del Refugio del Oribio)

ガリシア地方(Léon地方からLugo地方)に入り、気候が大きく変化した。Linaresの手前で突然の豪雨があり、雨宿りをしてから、ぬかるんだ道を進んだ。Hospital da Condesaの美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)を見た。Triacastelaの村に入る手前で牛の群れと巡礼路ですれ違った。村の中には美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago de Triacastela) があった。

今日は午前7時半に起き、昨日もらった下痢止めを飲んでから、午前8時半に出発した。9世紀に建てられた城(Castillo de Santa María de Auctares)を前方に小さく見ながら、渓谷沿いに幹線道路沿いに進んだ。牧場の中を巡礼路が通っていて、牧草を食んでいる牛と見つめ合いながら歩いた。

(715年にValcazarとイスラム勢力との戦闘記録があり、アラビア語「城」اَلْقَصْر‎ / al-qaṣrが語源、「Castrosarracín(サラセン人の砦)」と呼ばれる城は、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastrum Sarracenicumと記録された。狭い谷を形容したガリシア語「牢」cárcere < ラテン語carcer < イタリック祖語*karkros < 「縛る」*(s)kr̥-kr̥- < 「回る」*(s)ker-が語源ともされるが、古い記録からアラビア語起源説が正しい語源と考えられる。)

昨日から山の中を谷に添うように進む道が続いていた。森の中を歩いてゆき、近くに水(Río Valcarce)が流れているため、日陰に爽やかな風が吹いていて、避暑地のようでとても快適だった。

高速道路(Autovia del Noroeste / A-6)や幹線道路(N-VI)としばしば交わりながら、La Portela de Valcarce(ラテン語「戸」porta < イタリック祖語*portā < 印欧祖語*porteh₂ <「入る」*per- + 接小辞 -ellaが語源)で17世紀に石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de San Juan Bautista)やAmbasmestas(イベロ=ケルト語「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō ~ *h₂p-h₃nés < 「水」*h₂ep- + イベロ=ケルト語「混ざる」*mistos < ケルト祖語 *miskos < 印欧祖語 *miḱ-sḱ-ó/éh₂-s < 「混ぜる」*meyḱ- < 「変える」*mey-が語源でラテン語mixtus < イタリック祖語*mikstosや英語mixture < ゲルマン祖語*maiskazと関連)の1854年に建てられた細かい石積みで作られた教会(Iglesia de Nuestra Señora del Carmen)を過ぎてから、谷あいの村を通った。村を出ると直ぐに高速道路と交差する陸橋(Viaducto Via de Valcarce)の下を通り、美しい村が見えてきた。

Vega de Valcarce(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillausと記録されているが、スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -ki < *-kiが語源)は少し大きな村で道幅の広い商店街(Carretera Antigua / N-006A)があり、小さな食料品店や銀行を見つけた。薬局(Farmacia Lda. Ana María Zabala)で下痢止めの薬を買った。カプセル状で利きそうだった。それから、隣にある食料品店(Supermercado Carolina)に入ると山の中にも関わらず、安い値段で品揃えがあり、都市のMercadona並みの価格で買えた。17世紀に石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de Santa María Magdalena)を通り過ぎてから村を後にした。

美しい渓谷沿いの道(Calle Carretera Nacional VI / N-006A)をゆっくりと上がった。水辺なので涼しく心地よかった。水を少し飲み過ぎて、川沿いの草むらで下痢をしたが、それからは順調だった。

Ruitelánで1194年に建てられた教会(Iglesia de San Juan)を通った。 (古代ローマ街道Via XIX / Itinerario de AntoninoのUttarisに比定。ガリシア語ruto < 古フランス語rote <ラテン語「舗道」via rupta < 「道」via < イタリック祖語*wijā < 印欧祖語 *wih₁-eh₂ < 「追う」*weyh₁- + ラテン語「壊す」rupto < イタリック祖語*rumpō < 印欧祖語*Hru-né-p-ti ~ *Hru-m-p-énti < *Hrewp- + 接小辞-iño < 古ガリシア語-ĩo < ラテン語 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源。聖フロイラン(San Froilán, 833-904)が隠棲して、16世紀に聖堂(Capilla de San Froilán)が作られた)。

Las Herrerías(12世紀にfragoas < 古スペイン語「工場」fragua < 民衆ラテン語*frauga < *frabica < 古典ラテン語fabrica <「鍛冶」faber < イタリック祖語*faβros < *θaβros < 印欧祖語*dʰh₂bʰ-ró-s < 「合せる」*dʰh₂ebʰ-と記録された。スペイン語「鍛冶場」ferrería, herrería <「鉄」fierro, hierro < 古スペイン語fierro < ラテン語ferrum < 古ラテン語*ferzom < フェニキア語𐤁𐤓𐤆𐤋 / barzel < アッカド語𒀭𒁇 / AN.BARparzillum < シュメール語𒀭𒁇𒋤 / an-bar-sug₄が語源)の美しい街並みや小川(Río das Lamas)のせせらぎを満喫した。遠くに18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Julián)を望み、美しい家々が目の前に見えて最高の眺めだった。

1178年にイギリス人巡礼者の救護院(Hospital de los Ingleses / In valle Carceris Hospitali quod dicitur Anglorum)が建てられた場所を過ぎた。今はもう平原や牧場で名残りはなかったが立て看板があった。ここから坂を上がり、山を登り始めた。登山道は白や黄や紫の花が咲いていて美しかった。

La Faba(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillaus、1198年にeccesiam Sancti Andree de Villa Oxiと記載、ガリシア語「低木」uz < ラテン語ulexが語源。現在の名称はガリシア語「豆」faba < 古ガリシア語fava < ラテン語 faba < イタリック祖語*fabā < 印欧祖語*bʰabʰ- < *bʰaḱ-が語源でゲルマン祖語*baunō、スラヴ祖語*bòbъ、古典ギリシア語φακός / phakós、アルバニア祖語*batsāと関連して、セム語族の古典シリア語ܦܘܗܘ‎ / pāhū < アッカド語𒄘𒌉 / GU₂.TURkakkûに由来)で16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Andrés)を通り過ぎてからは、ずっと急勾配の山道となった。

La Laguna de Castilla(スペイン語「湖」laguna < ラテン語lacuna)の村の入り口で馬が草を食んでいる風景を見た。また、民家の裏手で竪穴式住居を棟上げしたような面白い形をした藁葺きの倉庫(hórreo)を見た。村の真ん中に泉が湧き出していて洗濯場(Lavadeiro)があった。村を過ぎてからやや険しい道を進むと、直にLéon地方とLugo地方の境標(Punto de entrada a Galicia)を見つけた。

遂にガリシア地方に到達するとき、山間の気候ががらりと変わりとても驚いた。段々と雲が増えてきて、湿度が高くなってきたように感じられた。雰囲気が日本の伊豆の山中のような感じになり、桜に似たセイヨウミザクラ(Prunus avium)が白い花を咲かせていて美しかった。Liaが話していたように霧がかった神秘的な雰囲気を感じられるのがよく分かる感じがした。

リュックサックも持たず、観光バスから降りてきて、ハイキング気分で行く、ドイツ人観光客の団体が45人もいて、細い巡礼路が占拠されてしまい、歩く速度が異なるため、すれ違うのも厳しいほどの狭い山道を進んだためにとても疲れてしまった。追い抜いて行く時も一人一人から挨拶をされたりしなくてはならず、更に話しかけてきたり、写真を撮ってきたり、今まで長い距離をきて黙々と歩いてゆきたい巡礼者にとっては迷惑で疲れ切っているときにはたまったものではないと感じた。

Hospital da Condesaの美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)

O Cebrero(Santa María do Cebreiro、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でportus montis Cebruariiと記録され、ガリシア語「野生の馬」cebro < 古ガリシア語ezebro < 民衆ラテン語*eciferus < 古典ラテン語equiferus <「馬」equus < イタリック祖語*ekwos < 印欧祖語*h₁éḱwos +「野生」ferus < イタリック祖語*feros < 印欧祖語*ǵʰwér-os < *ǵʰwer-が語源)には、9世紀に遡り、1962年に建て直された美しい石造りの教会(Santuario de Santa María a Real)があり、中に入ると調和が取れて簡素の美があった。

昔に雪が降る中に老人がミサを司祭に頼むと、司祭はパンを食べ、葡萄酒を飲みたいだけだろうと考えて断ろうとしたら、パンと葡萄酒がキリストの血と体になった言い伝えがあり、聖杯を保管する1486年にカスティーリャ女王イザベラ(Isabella I, 1451-1504) が寄進した銀製の箱が置かれていた。

隣には1072年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)によって建てられた巡礼者の救護院(Hospedería de San Giraldo de Aurillac)があった。冬になると雪深くなり、霧が多く発生することから、巡礼者のために鐘を鳴らし続けていたそうである。

ガリシア地方に入ると、急に村の雰囲気が変わり驚いた。家の建て方も人の雰囲気も、今でもケルト人が多く住んでいるアイルランドやブルターニュとよく似ている感じがした。峠を越えると緩やかな下りになり、舗装されたきれいな山道(Monte Pozo de Area) でどんどん先に進むことができた。

Liñares(Santo Estevo de Liñares、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でLinar de Regeと記録。 ガリシア語「アマが生えた土地」liñar <「アマ」liño < 古ガリシア語lỹo < ラテン語linum < イタリック祖語*līnom < 印欧祖語*līno-m +‎ 接尾辞 -ar < ラテン語-aris < イタリック祖語*-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源)に着く手前でとても黒い雲が来て、雨の予感をさせ、少しぽつぽつ来て、少し激しくなってきた頃、大きな納屋があり待避した。雨が収まると納屋を出て、村に入った。道路(LU-633)に面しており、高山にある拓けた村だった。8世紀に遡り、1963年に建て直された教会(Igrexa de Santo Estevo de Liñares)を通り過ぎた。

村を通り過ぎて直ぐに一面が黄色のお花畑を見つけた。それから、林の中の巡礼路を歩き、紫の花に覆われた美しい斜面を見た。見晴らしが良くて気分が最高だった。峠(Alto do San Roque)に差し掛かり、少し上り下りした(フランスのMontpellierで生まれた聖ロクス (Sanctus Rochus, 1295-1327)はローマに巡礼したとき、ペストの患者に十字を切ると治したという言い伝えがあり、今までも見てきたようにものすごい数の聖堂(Ermita de San Roque)が巡礼路に建てられた)。

Hospital da Condesa(San Xoán de Hospital、ガリシア語「伯爵夫人」condesa、アストゥリアス王ラミロ1世 (Ramiro I de Asturias, c. 790-850)の子とされる伯爵(Gatón del Bierzo, 813-878)の妻(Egilona Ramírez de Coimbra, 812-842)と比定)の16世紀に建てられた美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)を見た。山々の中にある村の教会は灰色の石を積み上げて作られており、殆ど変わらない外観をしていた。形が異なる石を巧みに組み合わせて建てられていた。

Padornelo(San Xoán de Padornelo、ガリシア語 padornelo < 民衆ラテン語*petronetoで「道標」padrón <「石」pedra < ラテン語petra < πέτρα / pétra + 接小辞-nelo < ラテン語-tus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源)で17世紀に建てられた教会(Iglesia de San Xoán de Padornelo)を通り過ぎた。石積みのバロック様式で同じ建て方だった。嵐をもたらす黒い雲に遭遇して、雨合羽に着替えて、村から幹線道路(LU-633)に出て、霧が立ちこんでいる中へ車道に沿い進んだ。天候が急にころころと変わった。峠(Alto do Poio)を越えて、少しすると激しい雨は収まった。先のどこかでまた雷の音がゴロゴロとして聞こえてくるが、雲は頭上になく良く晴れていたため、雨合羽を取った。

Fonfría(San Xoán de Fonfría、ガリシア語「泉」fonte < ラテン語fons < イタリック祖語*ðonts < 印欧祖語*dʰónh₂-ti-s ~ *dʰn̥h₂-téy-s < 「流れる」*dʰenh₂-が語源 +「冷たい」fría < 民衆ラテン語fridus < 古典ラテン語frigidus < frigus + -idus < イタリック祖語 *frigos < *θrigos < 印欧祖語*sriHg-os < 「寒い」*sriHg-が語源で古典ギリシア語「寒い」ῥῖγος / rhîgosや接尾辞-τίς / -tísと関連)で16世紀に建てられた教会(Igrexa de San Xoán de Fonfría)を通り、幹線道路(LU-633)沿いにひたすら歩き、時どき道路から離れて、牛が草を食んでいる様子を見ながら牧場の脇を歩いた。巡礼路との境には石が積まれていて垣が作られていた。それから、道路から離れて、山道の巡礼路に入った。

Biduedo(San Pedro de Viduedo、ガリシア語「カバノキ(Betula pubescens)」bidueiro < bitulario < ラテン語betulla < ゴール語*betua < ケルト祖語*betuyā < 印欧祖語*gʷétw-ih₂ ~ *gʷtu-yéh₂ < 「樹脂」*gʷétu + ガリシア語「地名」接尾辞-eiro < ラテン語-arius < イタリック祖語*-ās-(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-s < *-yósが語源)で18世紀に建てられた小さな聖堂(Ermida de San Pedro de Biduedo)を通り過ぎた。巡礼者は大事にされていて、道路には巡礼者に注意するように車を運転する人に喚起する標識があった。通り過ぎたどの村にも必ず一つ、石を積み重ねた小さな教会があった。鐘が上に高く掲げられていて教会と分かるが、民家と全く同じ作り方をされていた。

それから山道(Chao do Monte)にあるいくつかの集落は、特に荒れていて、道が牛の糞まみれな上、湿度が高くて悪臭を放っていた。ガリシア地方は多雨で道がぐちゃぐちゃにぬかるんでとても歩きにくかった。Fillobal(Foyllebar < *Foya lobar < ラテン語「洞」fovea < イタリック祖語*foweā < 印欧祖語*bʰow-yé-eh₂ < 「穴」*bʰow- +「トリカブト(Aconitum lycoctonum)」luparia <「狼」lupus < イタリック祖語*lukʷos < 印欧祖語*wĺ̥kʷos + ラテン語-aris < イタリック祖語*-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源)で石組みの土台を持つ高床式の藁葺きの倉庫(hórreo)を見かけた。

また、Pasantes(Pasandus <「小道」pasante < 民衆ラテン語*passo < 古典ラテン語「通り」passum <「拡げる」pando < イタリック祖語*patnō < 印欧祖語*pth₂én-e-ti < 「飛ぶ」*peth₂-が語源で「拡げる」tendo < イタリック祖語*tendō < 印欧祖語*ténd-e-ti < 「拡げる」*tend-と関連して発展)で17世紀に建てられた小さな聖堂(Capilla de la Virgen de los Remedios en Pasantes)を見かけた。

村を出ると牧草地から帰る牛と遭遇してとても驚いた。巡礼路を牛が歩いてきて、牛とすれ違うというより、牛の間を歩いて行くとRamil(人名Ramirus < ゴート語*Ranamers < *Raginameraz < 「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- + 「名誉」mērs < ゲルマン祖語*mēraz < 印欧祖語*mḗh₁-ró-s < 「測る」*meh₁-が語源)に着いた。樹齢800年という栗の老木(Castaño Centenario)があり、風情のある古い石積みの家々が立ち並んでいた。

それから幹線道路(Avenida Castilla / LU-633)に出て、直にTriacastelaに着いた。(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でTriacastella、更に古くはTriancastelaenと記録。ガリシア語「三」tria < ラテン語tres < イタリック祖語*trēs < 印欧祖語*tréyes +「城」castelo < ラテン語castrumが語源。ケルト人が築いた城(Castro Celta)があり、ケルト祖語「三番」*triyanom < 印欧祖語*tréyes-nós < 「三」*tréyesが語源でゴール語trianisや古アイルランド語trïanと関連。)

街を少し歩いてゆき、ここで上がると巡礼宿を発見して入った。とても快適な部屋で良かった。日本に少女時代住んでいたアメリカ人Marciaと会って話をした。軍人の家に生まれて、佐世保・東京・神戸の基地に住んでいたと言っていた。とても深い関わりを日本ともつ人が多く驚いた。

部屋はとても美しく、窓の外には古い教会が見えていた。Marciaはベットに腰掛けて、黙々と写生をしていて、水彩画で描いた絵を見せてくれた。隣にSupermercado Tandy / Alimentación Castroがあり、飲料を買った。パン屋さん(Panadería Sánchez)を訪れて、店主がとても丁寧で焼き立てのパンを買えた。村の中には9世紀に遡り、18世紀に立て直された美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago de Triacastela)があり、特に塔の形が美しかった。巡礼宿の窓の外からも見えて楽しめた。

今日は峠をいくつも越えて歩いてきて、疲れているので、食事をして、シャワーを浴びてから、直ぐに寝た。今日はガリシア地方に入り、ケルト人が多く住む地域を歩き、人々の言葉も、家の雰囲気も、今まで歩いてきた土地とは、同じスペインの中でも、かなり異なることに気づいた。スペイン語よりも、ガリシア語はポルトガル語に似ていて、口ごもったような複雑な子音が多い言葉だった。

Fillobalの村を出て遭遇した牛の群れ

2008年5月8日(木)29日目(Triacastela-San Cristovo do Real-Renche-Lastres-Freituxe-San Martiño do Real-Samos-Foxos-Teiguín-Pascáis-Gorolfe-Reiriz-Sivil-Perros-Aguiada-San Mamede do Camiño-Carballal-San Pedro do Camiño-Vigo-Sarria-Vilei-Barbadelo-Rente-Mercado de Serra-Peruscallo-Cortiñas-Lavandeira-Brea-Morgade-Ferreiros-Mirallos-Pena-Couto-Rozas-Moimentos-Mercadoiro-Moutras-Parrocha-Vilachá-Portomarín: Albergue de peregrinos de la Xunta de Galicia de Portomarín)

Samosで立派な修道院(Mosteiro de San Xulián de Samos)を訪れた。途中の山道では緑が映えていて、田園風景がとても美しかった。急に雨がちな気候になり、更にぬかるんだ道を進んだ。Sarriaで美しい石造りの橋(Ponte da Áspera)を渡った。そこから、高床式穀倉(hórreo)を見かけるようになった。Ferreirosで巡礼宿は既に一杯で空きがないため、仕方なく先に進んだ。 日が暮れる頃、ブラジル人Felipeとアメリカ人Groriと偶然に出会い、お互いに励まし合いながら夜道を進むことができて、真夜中になったが無事にPortomarínにたどり着けた。予定よりも倍も歩き、長い一日となった。

今日はTriacastelaを午前7時半に出た。出かけるとき、アメリカ人Marciaが声をかけてくれて、連絡先を交換した。巡礼路は二手に分かれていて、左側の道路沿いに日本の南アルプスのような道を進んだ。岩(Desfiladero de Penapartida)が道路に露出していて、今にも崩れてきそうなほど迫力があった。水が所々の崖から湧き出していた。

(Triacastelaを出るときにSan Xilや1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でvilla sancti Michaelisと書かれていて、1158年と1195年のSAamos修道院の古文書(loco sancto isto de Sancti Michaelis et Sancti Andree, quorum reliquie ibidem sunt recondite in villa vocabulo Montan)にSan Miguel de Montánとして出てくるSanta María de Montánに至る右側の道を選んだつもりが、左側に進んでいて不思議に感じた。ガリシア語San Xil < フランス語 Saint Égide, Gilles < 聖アエギディウス(Sanctus Aegidius / Αἰγιδιός, c. 650-710)が語源で古典ギリシア語「若山羊」αἰγίδιον / aigídion < 「山羊」αἴξ / aíx < ヘレニック祖語*aíks < 印欧祖語*h₂éyǵ-s < *h₂eyǵ-が語源でサンスクリットअज / ajáや古ペルシア語aza < インド=イラン祖語*Haȷ́ás、リトアニア語ožỹsやラトビア語āzis < バルト=スラヴ祖語*āˀźis、古アルメニア語այծի / ayci < アルメニア祖語*ayci、アルバニア語dhi < アルバニア祖語*aidzijāと関連。Montánはラテン語montanus < 「山」mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men-が語源)

San Cristovo do Realで道路から逸れて、山中の巡礼路に入った。17世紀に建てられた小さな教会(Igrexa de San Cristovo do Real)の白い漆喰が美しかった。相変わらず村の中に風があまり吹き抜けることがなく、道路まで村からひどい牛糞の臭いが漂ってきた。

Renche(ラテン語 人名Raniscli < Ranisclus < ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- +「人質」*gīslazが語源)では18世紀に建てられた教会(Igrexa de Santiago de Renche)の前にお墓があり、辺りの村には墓地が必ずあった。

小川(Río Sarria)を渡ると直ぐに次の村Lastres(ゲルマン祖語「積み荷」*hlastuz <「積む」*hlaþanąが語源)に入り、しばらく山道を歩いた。Freituxe(ラテン語 人名Fructux <「喜び」fructus < fruor < イタリック祖語*frūgjōr < 印欧祖語*bʰruHg-ye-ti < 「享受する」*bʰruHg-が語源)の17世紀に建てられた教会(Igrexa da Virxe da Saúde de Freituxe)の白い漆喰が美しかった。

San Martiño do Realの村の入り口に高い石積みの塀があり、村に入ると12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de San Martiño do Real)の梁にはかわいらしい人物や動物の装飾が顔を出して出迎えてくれて、ロマネスク美術のおもしろさを感じた。教会の前にはお墓があった。この村に生まれた人はここで一生を終えて、ここで埋葬をされてゆくのかと思った。それから山道を歩いた。

大きな村(Samos)にたどり着くと、突然、665年に創建され、988年にレオン王ベルムード2世 (Bermudo II de León, 953-999)が増築して、16-18世紀にバロック様式で建てられた立派な修道院(Mosteiro de San Xulián e San Xulián e Santa Basilisa de Samos)が現れて驚いた(Samãos < ゴート語「一緒」samana < ゲルマン祖語*samanai < 「同じ」*sumaz < 印欧祖語*sm̥-h₁-o- < *sem-が語源。958年にvilla de Zurraccoと記録。Zorraquinus < バスク語「木」zur < *sulか「白」zuri < *suri + 接小辞 -cco < *-ko + ラテン語 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源)。

脇道(Calle Fontao)に面した食料品店(Autoservizo Manxarín)で飲み物を求め、修道院横の巡礼宿で通行証(credencial)に美しいスタンプを頂いた。観光バスが出入りして繁盛していた。

修道院は半分修理中で外装を衣替えしていた。また、9世紀に建てられた石造りの教会(Capela do Ciprés)も簡素ながら質素でとても美しかった。父がATM(Banco Pastor Telebanco)でお金を下すと手数料無料だった。街を出た所に巡礼路(camiño do peregrino)の看板が、ガリシア語で書かれていて、ポルトガル語(caminho do peregrino)に似ていながら、スペイン語のような表記に感じた。

小川(Río Sarria)沿いの平原を通る幹線道路(LU-633)を進んだ。Foxos(ガリシア語「穴」foxo < 古ガリシア語fogio < 民衆ラテン語*foveum < 古典ラテン語fovea < イタリック祖語*foweā< 印欧祖語*bʰow-yé-eh₂ < *bʰow-が語源)に着いたら、休憩所(Áreas de descanso)の前で美しい風景が見えてとても気に入り、せせらぎを見ながら、川辺の公園で一休みした。

Teiguín(ケルト祖語「家」*tegos- < 印欧祖語*teges-が語源)で18世紀に建てられた教会(Capela de Santo Domingo)を過ぎてから山道に入ると林の間に点々とある小さな村を4、5つ通過した。田園風景がとても美しかった。12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Parroquia de Santa Eulalia)を通り、Pascáis(Pascasiと記録され、聖パスカシウス(Paschasius Radbertus, 785–865)が語源)の18世紀に建てられた教会(Iglesia de Santalla de Pascáis)の前に大八車など農具が置かれていた。

そこからは森の中の獣道のような巡礼路を進んだ。水際(Río Sarriaの支流)に村が作られていて、Gorolfe(人名Gorulfus < ゲルマン祖語「準備した」*garwijaną < 「共に」*ga- < 印欧祖語*ḱóm +‎ 「用意する」*arwaz < 印欧祖語*h₂er-wó-s +「狼」*wulfaz < 印欧祖語*wĺ̥kʷos)の畑の中にある美しい18世紀に建てられた小さな聖堂(Capela de San Xumil)を通り、セイヨウミザクラ(Prunus avium)の白い花が咲き乱れていて、美しい田園風景を楽しむことができた。

Reiriz(人名Rairicus < ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- +「王」*rīks)の近くで小川(Río de Romelle)を何度も渡りながら、羊が放牧されている牧場を見た。道祖神のような小さな祠があり、絵になるような景色だった。

Sivil(Sevirと記録され、ラテン語 人名Severus < 「酷い」severus < イタリック祖語*seɣwēros < 印欧祖語*seǵʰ-wr̥ < 「保つ」*seǵʰ-が語源)には立派な石造りの家があり、Perros(スペイン語から借用されたガリシア語「犬」perro < ラテン語「伸ばす」porrigo、もしくは人名Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < πέτρα / pétraが語源)の近くには牛が放牧されている牧場があった。また、小さな聖堂(Capela da Ascensión de Perros) を通り過ぎると鬱蒼とした山道から視界が開けてきた。

Aguiada(ガリシア語「水」agua < ラテン語aqua + 接尾辞-ada < ラテン語 -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)で幹線道路(LU-P-5642)に出てからは、緩やかな下りで歩きやすい道で村々(San Mamede do Camiño-Carballal-San Pedro do Camiño-Vigo)を通り過ぎてからは、どんどん進んでゆくことができ、大きな町(Sarria)が目の前に見えてきて二時間弱でたどり着いた。

(San Mamedeは聖ママス(Mamas de Caesarea / Μάμας, 259-275)が語源。Carballalはガリシア語「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源。Vigoはラテン語「小村」vicus < イタリック祖語*weikos < 印欧祖語*weyḱ-ós < *weyḱ-が語源。)

川(Río Sarria)の橋(Puente Ribeira)を渡った所で一時間ほど、父を待つと現れた。途中で突然、雨が降ってきてとても寒かった。父は山中の道に入り組んだ場所(Gorolfe附近)で道を失ない、来た道を引き返して、道標を探してきたため、1時間ほどロスしたらしい。父と合流して、橋を渡り、階段(Rúa Arrabaldo, Rúa Escalinata Maior)を登り、12世紀に建てられた教会(Iglesia Santa Mariña de Sarria)を通り過ぎて、趣のある通り(Rúa Maior)を進み、坂を上がり、旧市街の中心部を抜けてゆき、高台(Letras de Sarria)に出て、13世紀に建てられた教会(Igrexa de San Salvador)を見た。

8世紀にSarriaと記録され、印欧祖語「流れ」*ser- + ラテン語の接尾辞-ia < 印欧祖語*-i-eh₂が語源。ケルト人セウリ族(Seurri)が住み、ローマ人がLucus Augustiを築いた(地域名Lugo < ラテン語「木立」lucus < 古ラテン語loucos < 印欧祖語「空き地」*lówkos <「輝き」*lewk-が語源)。785年に修道院(Monasterio de Santo Estevo de Calvor)が建てられた。レオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)はVillanueva de Sarriaで亡くなり、Santiago de Compostelaの大聖堂に葬られた。

12世紀にカスティーリャ人グティエレ・ロドリゲス(Gutierre Rodríguez de Castro)が建てた城(Fortaleza)の1467年に建てられた塔(Torre dos Batallóns)があった。町を見渡せる高台(Miradoiro do Cárcere)に十字架の柱があった。13世紀にロマネスク様式、15-16世紀にゴシック様式、18世紀にバロック様式で建てられた美しい修道院(Convento da Mercé)を見てから、通り(Avenida Mercede)をゆき、郊外に出て美しい清流(Río Pequeno)に18世紀に架けられた美しい石造りの橋(Ponte da Áspera)を渡った。そこからは田舎道の巡礼路をひたすら歩いた。

ReirizとSivilの間で放牧されていた羊たち

Sarriaの町を出るときには、既に午後4時を過ぎていて、当たり少し陽が傾き始めていたが、日曜日までにSantiago de Compostelaにたどり着きたいため、先に12kmのFerreirosまで進むことにした。4、5日前に会ったオーストリア人のカップルと一緒に線路に沿う道を通り、広い草原の中にポツンポツンと村が点在する中を馬や牛が放牧された牧場や農道や獣道のような巡礼路を進んだ。

Sarriaからは帆立貝の道標が、道端に沢山建てられており、聖地までのカウントダウンが始まった。Vilei(地名Vileirizと同じくラテン語「エリクの村」villa Eirici < 人名Eiricus < ゴート語*aiwareiks < ゲルマン祖語「永遠」*aiwaz < 印欧祖語*h₂óyu ~ *h₂yéws < 「永遠」*h₂ey-、もしくは「唯一」*ainaz < 印欧祖語*óynos +「王」rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵsが語源)を過ぎた。

近くのBarbadelo(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBarbadellusと記録され、人名Barbaldus < ゲルマン祖語「大麦」*baraz < 印欧祖語*bʰar-es- < 「突き出た」*bʰers- +「統治」*waldaną < 「統治する」*wulþǭ < 印欧祖語*welh₁-t ~ *wl̥h₁-ént < *h₂welh₁-が語源)に入るとき、馬が牧草を食んでいた。村の入り口には石垣がきれいに作られていた。

11世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago)があった。泉が湧いていて、水を溜めた桶が置かれていて、洗濯場(Lavadeiro)として使われていた。そこからは車も通れるような舗装された歩きやすい一本道が進むと直ぐに次の村が見えてきた。

Rente(ガリシア語「返す」render < 民衆ラテン語*rendere < 古典ラテン語reddere < 「再び」re- < イタリック祖語*wre < 印欧祖語「回る」*wert-もしくは「後ろ」*ure- +「与える」do < イタリック祖語*didō < 印欧祖語*dé-deh₃-ti ~ *dé-dh₃-n̥ti < *deh₃-が語源)を過ぎた。

Mercado de Serra(ガリシア語「市場」mercado < ラテン語mercatus <「交易」mercor + 接尾辞 -tusが語源)の入り口で幹線道路(LU-P-5709)を横切り、1920年に作られた大きな石でできた泉(Fuente del Pelegrín)や粉挽小屋があった跡(Molino de Marzán:ラテン語「マルティウスの村」villa Martiani < 人名Martius < 「マルス神」Mars +‎ 接尾辞-ius < 古ラテン語Mavors + -ios < イタリック祖語*Māwortis +‎ *-jos < 印欧祖語*-yósが語源)を通り過ぎた。幹線道路(LU-633)をつきり、広々とした農道を歩いていき、高床式穀倉(hórreo) やラバを見た。

Peruscallo(ラテン語 人名Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < 「石」πέτρα / pétra + 接小辞 -ello < ラテン語-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)の村の中を歩いていたら、昨日と同じように放牧を終えた牛が、村の中を行進するように歩いてきてすれ違った。

Cortiñas(ガリシア語cortiña <「水飲み場」corte < ラテン語cortem < cors < cohors <「共に」co- < cum < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語 *ḱóm +「庭」hortus < *hortos < 印欧祖語*ǵʰortósが語源)やLavandeira(ガリシア語「洗濯する女性」lavandeira < 民衆ラテン語lavandarius < ラテン語「洗う」lavo < イタリック祖語*lawāō < 印欧祖語*(le-)lówh₃-ti < *lewh₃-が語源)を過ぎて、小川(Rego de Chelo)を渡った。

Brea(ガリシア語「突風」brea < 古ガリシア語briza < 民衆ラテン語「北風」*brevidia < ゲルマン祖語「壊れる」*brausijaną < 印欧祖語 *bʰrews-が語源)を通り過ぎたら、丘からの見晴らしが良く、牧場で牛が草を食んでいる様子が見えた。石垣が美しく作られており、巡礼路と牧場や農地が整然と分けられていた。Santiago de Compostelaまで、あと丁度100kmの道標(Mojón)を見つけて通過した。

Morgade(人名Maurecatus < ゲルマン祖語「黒い」*merkuz < 印欧祖語 *(h₂)mer(H)gʷ-os < *(h₂)mer(H)gʷ- +「戦い」*haþuz < 印欧祖語*kéh₃tusが語源)の村の中にある泉の前で一休みして、父が追い付いてくるのを待った。午後7時を過ぎて暗くなってきたが、辺りにの村には巡礼宿がないために先を急ぐことにした。村を出て直ぐの所に小さな聖堂(Capela de Santa Mariña)があった。100kmを切り、父といよいよここまで来たねと話しながら歩いた。

Ferreiros(ガリシア語「鍛冶場」ferreiro < ラテン語ferrarius < 「鉄」ferrum < 古ラテン語*ferzom < フェニキア語𐤁𐤓𐤆𐤋 / barzel < アッカド語𒀭𒁇 / AN.BARparzillum < シュメール語𒀭𒁇𒋤 / an-bar-sug₄が語源)に学校を改装した公営の巡礼宿(Albergue municipal)に泊まりたかったが、オーストリア人のカップルが、もう既に満杯で泊まれないと、巡礼宿の前で嘆いていた。

既に午後8時に近かったが、巡礼宿が一杯で泊まれないなら仕方がないから、更に10km先のPortomarínを2時間かけ目指した。1798年に建てられた村の教会(Igrexa de Santa María)を過ぎた所に見晴らしがよく遠くの山々の稜線が重なり美しい場所があった。

雨がどしゃ降りになり、建物(Bar Casa Cruceiro de Ferreiros)で雨宿りをした。そこにはPamplona出身のスペイン人の自転車で来た3人もいた。雨合羽を付けて出た。途中雷も鳴り出してきて、大変だったが、森の中の巡礼路は美しかった。辺りの村には道と住居の間に石を積んで垣が作られていた。石垣の間を抜けて、水が流れ込んだ川のような巡礼路を抜けると、次々と集落が見えてきた。

Mirallos(ガリシア語「鏡」mirallo < 民衆ラテン語*miraclum < 古典ラテン語miraculum < 「驚く」miror < mirus < イタリック祖語*smeiros < 印欧祖語「笑い」*(s)méy-ros < *(s)mey- + ガリシア語-allo < ラテン語-aculum < -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源)の村に入る手前で美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santa María)が見えてきた。辺りが霧で霞んでいて、また、暗くなり始めてきて、村の灯りが見えてくると安心した。

Pena(ガリシア語「岩」peña < ラテン語「石」pinna < ゲルマン祖語*pinnaz < 印欧祖語*péth₂r̥ ~ pth₂én- < 「飛ぶ」*peth₂-とラテン語「石」pedra < ラテン語petra < πέτρα / pétraが語源)の辺りは道がよく、ものすごい速さで進めた。牧場の中を通る農道が巡礼路で小さな集落が点々としていた。

Couto(ガリシア語「禁制地」couto < ラテン語cautum < 「気を付ける」caveo < イタリック祖語*kawēō < 印欧祖語*(s)kewh₁-éh₁-(ye)-ti < 「観る」*(s)kewh₁-が語源)やRozas(ガリシア語「柴」roza < 「伐採する」rozar < 古ガリシア語roçar < 民衆ラテン語*ruptiare < ラテン語「壊れた」ruptus <「壊す」rumpo < イタリック祖語*rumpō < 印欧祖語*Hru-né-p-ti ~ *Hru-m-p-énti < *Hrewp-が語源)の附近には牧場があり、牛が草を食んでいた。家畜が水を飲む桶が置かれていた。また村の中には泉があり水が湧き出していた。その村を出てから山道に入った。

Moimentos(古ガリシア語「記念碑」mõimento < ラテン語 monumentum < 「気に留める」moneo < イタリック祖語*moneō < 印欧祖語*mon-éye-ti < 「考える」*men- + ラテン語-mentum < イタリック祖語*-menta < 印欧祖語*-mn̥-teh₂が語源)にはきれいな石畳の道があり、立派な家が立ち並んでいた。途中で石垣の間を歩いていたら車が通った。田舎の山道ですれ違いに車の窓を開けて、いきなり父に日本語で「お元気ですか?」と聞いてきたので驚いたと話していた。

しばらく舗装された農道を歩いていたが、木製の十字架があり、そこから未舗装の巡礼路を歩いて行き、一つの村Mercadoiro(ラテン語「商人」mercatorius <「商いをする」mercator < mercor < 「商品」merx < イタリック祖語*merks < 印欧祖語「外に出す」*merkʷ-でトカラ語A märk- < トカラ祖語*mərk-と関連、もしくは印欧祖語「分け与える」*merǵ- < 「分ける」*(s)mer-でヒッタイト語「割る」𒈥𒀝𒍣 / marktsi < ヒッタイト祖語*mergetiと関連 + 接尾辞-ius < イタリック祖語*-jos < 印欧祖語*-yósが語源)を通り過ぎた。

Moutras(ガリシア語「見せる」mostrar < ラテン語monstro < 「気づく」moneo < イタリック祖語*moneō < 印欧祖語*mon-éye-ti < 「考える」*men- +‎ 接尾辞-trum < イタリック祖語*-trom < 印欧祖語*-tromが語源)を過ぎてから、車が通れる広い道に出て、高い所から見晴らしがよい尾根を進み、風景を満喫しながら歩けた。次の村まで少し長く歩き、坂をどんどん下り、Parrochaを通り過ぎた。

(ガリシア語「小屋」parrocha < 「アヒル」parrulo < parroで印欧祖語 擬声語*pī-または「鳴く」*(s)peys-が語源、サンスクリット「鳥」पिप्पका / píppakā、「笛」पिच्छोरा / picchorā、古典ギリシア語「アカゲラ」πῑπώ / pīpṓ、「口笛を吹く」πιππίζω / pippízō、古英語「笛」pīpe < ゲルマン祖語「鳴く」*pīpaną < ラテン語「笛を吹く」pipo、古ウェールズ語「鶏」yar、中アイルランド語eréne < ケルト祖語「鶏」*yarā < *ɸiɸeros、リトアニア語「アヒル」pỹlė、「鳴らす」pyškė́ti、ラトビア語「アヒル」pīle、「きしむ」pĩkstêt、古スラヴ語「笛を吹く」пискати / piskati < バルト=スラヴ祖語「アヒル」*pīṣklę < 「鳴らす」*pīṣketi < 擬声語*pīṣk- < 印欧祖語*pī-sk-と関連)

それから林の中を歩いていたら間もなく前に二人の巡礼者を発見した。少しずつ距離が近づいてゆくと、New York出身のアメリカ人GroriとPorto Aregre出身のブラジル人Felipeの二人が流暢な英語を話しているのが聞こえてホッとした。話しかけると友達よとFelipeが大喜びして、Groriも大盛り上がりして、初対面なのにもう長く一緒に歩いてきたよう、直ぐに打ち解けてしまい、フレンドリーな二人ともお話し好きで盛り上がりながら、石垣に夕焼けが美しく照らされた巡礼路を進んだ。

FelipeとGroriとの出会いはとても劇的だった。夕暮れで巡礼路に取り残されている静寂感を取り払ってくれて、お互いに励ましながら進めた。途中でおしゃべりに明け暮れて、村の中に入るときに数回ほど道に迷いながらも、寂れた集落Vilacháを通るとき、奇妙な脚が長くて、大きな箱のような建物(hórreo)があり、何に使うのだろうねと話し合った(高床式穀倉でトウモロコシなどを貯蔵するため、ガリシア地方とつながりがあるポルトガル北部でもespigueiroとも呼ばれて使われている)。

(ガリシア語「村」vila < ラテン語villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「平ら」chá < 古ガリシア語chãa < ラテン語plana < イタリック祖語*plānos < 印欧祖語*pleh₂-no-s < *pleh₂-、もしくはラテン語villaticus < 「村」villa +‎ 接尾辞-aticus < -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)

また、平坦な道から、急な下り坂になり、町に近づいていった。90kmの地点を通過して、見晴らしが良い場所があり、皆で記念撮影をした。直に日没を迎えて辺りが暗くなったが、もう山の中の難所は越え、ここからはもう一本道で迷う必要もなく、目の前に町明かりが見えていて安心して進めた。大きな街の風景は久しぶりに見るため、電気が美しく光り輝いていて、宝石箱のようだった。

街の手前の大きな湖が見えてきて、長い橋(Ponte Nova de Portomarín)がかかり、渡る頃に日没になり完全に暗くなった。Felipeが湖に石を投げ入れると、水面は穏やかなため、波紋がどこまでも広がっていった。石段(Escalinata)を登り、小さな聖堂(Capela das Neves)をくぐり、街に入った。中央通り(Calle General Franco)のアーケードが素敵でFelipeと大盛り上がりした。

Filipeがガリシア語に近いポルトガル語を使い、街の人に道やSupermercadoやAlbergue municipalの位置を聞いてくれた。12-13世紀に聖ヨハネ騎士団が建てた後期ロマネスク様式の薔薇窓が美しい教会(Igrexa de San Xoán)と広場(Praza Conde Fenosa)があった(教会はダム底に水没した村から移築された)。Supermercadoは、もう既に閉まっていた。宿に着いたのは、午後10時10分前だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPons Mineae(Miño川の橋)と記録され、近くに1181年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)が建てた修道院(Monasterio de Santa María de Loio)があり、1212年に聖ヨハネ騎士団の領地となった。

ガリシア語「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per- + 「航海者」marín < ラテン語marinus < 「海」mare < イタリック祖語*mari < 印欧祖語*móri < *mer- + 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源。

Miño川はラテン語Minius、ギリシア語Μίνιος / Míniosと記載され、ラテン語「朱」minium < 「鉱石」mina < ケルト祖語*mēnis < 印欧祖語*mēy(H)nis < 「叩き切る」*(s)mēy(H)-が語源でSil川などが合流して、河口付近でスペインのガリシアとポルトガルの国境線となる川である。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Portomarínを流れるMiño川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Minea, quae defluit ad pontem Mineae)」と書かれている。)

Felipeはポルトガル語とガリシア語は良く似ているから、ガリシア人の気分になれると笑っていた。気づいたのは、Samosの街を出た所にある看板にガリシア語(camiño do peregrino)と書いてあり、ポルトガル語(caminho do peregrino)に対応して、スペイン語の前置詞deがガリシア語でdoに代わり、ポルトガル語のようだったと話すと、Felipeは何だか変な綴りのポルトガル語みたいだけれども、発音すると意味が分かるねと笑っていた。巡礼宿に着くとベットがなかった。

巡礼宿の管理人を探したが、もう夜遅すぎて見つからず、大広間(サロン)に寝具を敷いて寝た。着いた時は消灯10分前で、もう皆眠りに入る直前で大忙しだった。午後10時の消灯時間を過ぎたが、晩御飯を食べる必要があるため、静かにスープを作り、Groriがパンにチョリソとチーズを乗せた。

夕食は皆(FelipeとGloriと父)で話しながら盛り上がり、とても楽しかった。Felipeは陽気で気さくで沢山の冗談や逸話を私たちに残してくれた。二つの蝋燭の火だけで照らして食べた。寝る支度をして、リュックサックや靴も下に持ってきて、明日直ぐに出れるようにしてソファーの上で寝た。Groriと父はマットを見つけてきて、その上に寝ていた。Felipeは椅子をいくつか集めてきて繋げて眠った。

Peruscalloの村中を疾走する牛たち

2008年5月9日(金)30日目(Portomarín-Toxibó-Gonzar-Castromaior-Hospital da Cruz-Ventas de Narón-Previsa-Os Lameiros-Ligonde-Eirexe-Portos-Lestedo-Valos-Mamurria-Brea-Lamelas-Rosario-Palas de Rei-Carballal-San Xulián do Camiño-Pallota-Ponte Campaña-Casanova-Porto de Bois-Campanilla-Coto-Leboreiro-Furelos-Melide: Albergue de peregrinos de la Xunta de Galicia)

本日は霧がかった中、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色の花が咲き乱れていた巡礼路を歩いていくと徐々に晴れてきた。Leboreiroの先に中世の美しい橋(Calzada Empedrada)が雨上がりに映えていた。数日間は40km近く歩き続けたため、疲れが出て来たが、日曜日のミサに間に合うようにSantiago de Compostelaへ順調に進めた。

今日は、巡礼宿のラウンジで眠っていたので、午前5時に出る巡礼者たちに起こされて、午前6時に目が覚めた。夜は寒くて一度起きただけでよく眠れた。午前7時頃まで日の出を待ち、少し明るくなってきた頃に町を出た。GroriとFelipeは、まだ寝袋の中から見送ってくれた。

Portomarínの街へ来た道を少し引き返して、坂を下り町を出て小さな川(Rió da Barrela)に架かる橋を渡り、森の中の道を進んだ。車道(LU-633)に沿う平坦な道をしばらく歩いた。

Toxibó(1798年にTogebónと記録され、ガリシア語tocabamos < ラテン語(直説法能相未完了第一人称複数形)tangebamus <「触る」tangere < イタリック祖語*tangō < 印欧祖語*th₂-né-g-ti < *teh₂g-、もしくは西ゲルマン祖語*tukkōn < ゲルマン祖語「握る」tukkōną < 印欧祖語*dewk-kéh₂-ti < 「引く」*dewk-が語源)には立派な石造りの穀物倉庫(hórreo)があり、村の中の道には立派な石垣があり、その間を歩いてゆき、村を通り過ぎた。

それから幹線道路に沿いながら、巡礼路は時どき森の中の道を歩いた。途中のGonzar(ガリシア語「喜び」gozo +‎ 動詞を形成する接尾辞-ar < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源)の12世紀に建てられたロマネスク様式の立派な教会(Igrexa de Santa María de Gonzar)の前にある巡礼宿(Casa García)でホットチョコレートを飲んだ。寒い中を歩いてきて、父と二人で2€で一休みできて体を温められた。

それから、森と畑の中の道を進んだ。Castromaior(ガリシア語「城」castro +「大きな」maiorが語源。近くに紀元前4世紀から紀元後1世紀にかけて作られたケルト人のガラエキ族(Gallaeci)とローマ人が築いた城が存在)に80kmの道標があり、父とここまで来たねと話した。村には立派な高床式穀倉(hórreo)や12世紀に建てられたロマネスク様式の立派な教会(Igrexa de Santa María de Castromaior)があった。それから、舗装されたきれいな巡礼路を歩いた。霧がかった中、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色の花が咲き乱れていた。

Hospital da Cruz(ガリシア語「救護院」hospital +「十字架」cruzが語源)の少し先で大きな幹線道路(N-640)を渡った。そこからはハイキングコースのように歩きやすい舗装道路の山道を進んだ。Ventas de Narón(ガリシア語「鼻孔」venta < 古ガリシア語ventãa < 民衆ラテン語 *ventana < ラテン語「風」ventus < イタリック祖語*wentos < 印欧祖語*h₂wéh₁n̥ts < 「吹く」*h₂weh₁- + バスク語「川」*narb、もしくは印欧祖語「貫く」*ner-と関係すると考えられるイベリア語の河川名(hidronimia)*nar- + 接尾辞-ónが語源。Río Miñoの支流のRío Neira、León地方のNaraya, Narayola 、Asturias地方のNarcea, Naravalと同じ語源)の村の中では、高床式穀倉(hórreo)が巡礼路にせり出していた。13世紀に建てられたロマネスク様式の聖堂(Capela da Magdalena)を通り過ぎた。聖堂の脇には77kmの道標(Mojón)があり、徐々に近づいてきているのを実感した。

それから山々(Sierra de Ligonde)を眺めながら、丘を少し上り始めた。見晴らしの良い高台を歩いてゆき、それからゆるやかな坂を下りゆき、Previsa(ガリシア語「予知」prevista < prever < ラテン語praevideo <「前」prae- < イタリック祖語*prai- < 印欧祖語*préh₂ +「見る」video < イタリック祖語*widēō < 印欧祖語*wid-eh₁-(ye)-ti < *weyd-が語源)を通り過ぎた。

また、Lameiros(ガリシア語「沼地」lameir < ラテン語lama < イタリック祖語*lacma < 印欧祖語 *lókus +‎ 接尾辞-eiro < ラテン語-elus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源)を通り過ぎた所に十字架(Cruceiro de Lameiros)があった。

(Ventas de Narónの近くに1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSala Reginae > 「女王の部屋(Sala de la Reina)」と記録され、カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の妻イネス(Inés de Aquitania, 1059-1078)、コンスタンサ(Constanza de Borgoña, 1046-1093)、もしくはウラカ(Urraca, 1082-1126)に関係する。ゼベダイの子の大ヤコブ(Ἰάκωβος ὁ τοῦ Ζεβεδαίου > Iacobus Maior, filius Zebedaei, 3-44)ではなく、アルファイの子の小ヤコブ(Ἰάκωβος ὁ τοῦ Ἁλφαίου > Iacobus Minor, filius Alphaei, c.10 a.C.n.-62)の頭部をSantiago de Compostelaに聖遺物として、当時は失われた大ヤコブの頭部として奉納した。)

Ligonde(956年にLedegundiと記録があり、1494年にLegundiと記録され、人名Ledegundia< ゲルマン祖語「人」*liudiz < 印欧祖語*h₁lewdʰ-i-s < 「育つ」h₁lewdʰ- +「戦い」*gunþiz < 印欧祖語*gʷʰén-ti-s ~ *gʷʰn̥-téy-s < 「殺す」*gʷʰen-が語源)は立派な石造りの家々が立ち並んでいた。

巡礼中に亡くなった人を弔う古い十字架の柱(Cementerio de peregrinos)があり、苔むしていて、年代を感じさせた。辺りは丘陵地(Sierra de Ligonde)や牧草地が広がり、ブナや栗の木、赤松や白樺の林の中に巡礼路が通っていた。そこから何度かカーブをしながら急な坂をゆき丘を下った。全ての集落に高床式穀倉(hórreo)があり、村の中の様子や教会や家々の建築はよく似ていた。

Eirexe(ガリシア語「教会」igrexa < 古ガリシア語ygreja < ラテン語ecclesia < ギリシア語「会合」ἐκκλησία / ekklēsíā < 「外に」ἐκ / ek + 「呼ぶ」καλέω / kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyō < *kl̥h₁-éh₁yeti < *kelh₁-が語源)の近くで小川(Río Irixe)を渡り、村に入る所に十字架の柱があり、18世紀に建てられた教会(Igrexa de Santiago)の鐘楼を遠くに臨んだ。村の外れには洗濯場があった。幹線道路(LU-P-3301)と交差してから、風景を楽しみながら歩きやすい一本道をひたすら進んだ。

丘を下るとPortos(ガリシア語「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per-が語源)が見えてきた。廃屋があり寒村だった。川(Rego da Portos)を渡り村を出たら直ぐに次の村が見えてきた。

Lestedo(819年にLestetumと記録、ガリシア語「ハルガヤ(Anthoxanthum odoratum)」lesta < 「敏捷な」lesto < ゲルマン祖語「理解する」*lizaną < 印欧祖語*léys-ti-s ~ *lis-téy-s < 「辿る」*leys-が語源)の家々や石垣の石積みは緻密で16世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de Santiago)があり、教会の前には墓地が広がっていた。70kmの地点を通過した。(巡礼路から少し外れた1184年に聖ヤコブ騎士団が建てたロマネスク様式の修道院(Iglesia de Vilar de Donas)は訪れなかった。)

直ぐにValos(ガリシア語「谷」valo < ラテン語vallis < 「柵」vallus < 「壁」vallum < イタリック祖語wolwumen < 印欧祖語wolg-mn̥ < 「回す」*welH-が語源)やMamurria(ガリシア語「つぶやく」murmurio < 古典ラテン語murmur < 印欧祖語*mor-mur- < *mur-が語源。古典ギリシア語μορμύρω / mormúrō < ヘレニック祖語*mormúrō、サンスクリットमर्मर / marmara < インド=イラン祖語*marmara、リトアニア語mùrmėti < バルト=スラヴ祖語*mormutei、アルメニア語մռմռամ / mṙmṙam < アルメニア祖語*mr̥mr̥amと関係)の村を通り過ぎて、牧場の脇を進んだ。

Brea(ガリシア語「街道」vereda < ラテン語「厩舎」veredus < ゴール語*werēdos < ケルト祖語「馬」*uɸorēdosが語源)で幹線道路(N-547)に出てから、また並行する山道の巡礼路を歩いた。

Lamelas(ガリシア語「牧草地」lamela < 中世ラテン語lamella < 古典ラテン語「沼地」lama < イタリック祖語*lacma < 印欧祖語 *lókus + 接尾辞-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)の先で幹線道路の脇を歩くようになり、Rosario(ガリシア語rosario < ラテン語rosarium <「薔薇」rosa < 古典ギリシア語ρόδεα /ródea < ῥόδον / rhódon < エオリア語ϝρόδον / wródon、ヘレニック祖語*wródon < 印欧祖語*wr̥dʰ-os < 「育つ」*Hwardʰ-が語源でサンスクリットवर्धति / várdhatiやアヴェスタ語varədaiti < インド=イラン祖語*Hwárdʰati、ラテン語「蕾」rubus < イタリック祖語*wruðos、アルバニア語「アイビー」hurdhe < アルバニア祖語*wurdāと関連、更に「バラ」はアヴェスタ語varəδa-、古アルメニア語վարդ / vardを派生、グルジア語ვარდი / vardi、エジプト語wrṱ、コプト語ⲟⲩⲣⲧ / ourt、アラム語𐡅𐡀𐡓𐡃𐡀‎ / warda、シリア語ܘܪܕܐ‎ / wardā、ヘブライ語וֶרֶד‎ / wéreḏ、アラビア語وَرْدَة /wardaに借用 + 接尾辞-ariumが語源)を通り過ぎた所で山道にまた入り、それから少し進むと大きな町(Palas de Rei)が見えてきて、住宅や商店などが増えてきた。

Castromaiorの高床式穀倉(hórreo)

道路沿いの多くの田舎町を通過して、Palas de Reiに午後1時半に着いた。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPalatium Regisと記録され、「王の宮殿」が語源とされ、702年から西ゴート王ウィティザ(Wittiza, 687-710)の宮廷が所在したとされるが、実は11世紀にSan Tirso de Ulloaの教会だけが記録されており、13世紀にPalazと記録されたことから、「宮殿(palas)」ではなく「邸宅(pazo)」が正しい語源と考えられる。

当地の教会は西ゴート時代の7世紀後半に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de la NaveやErmita de Santa María de Quintanilla de las Viñas)に似ており、特に変形の黒い石を積み重ねて作られ方などが多く見られ、ロマネスク様式やゴシック様式以前の素朴な建築を感じた。

ガリシアは、ケルト人の影響が多いと思いきや、ゲルマン語族に由来する名前や地名が多く見られ、古くからヴァンダル族(Vandali)、スエヴィ族(Suebi)、西ゴート族(Visigothi)など、ゲルマン人が移住して定着していたことを感じさせてくれる土地だった。(地名を調べると土地の歴史が分かりおもしろく、また、特にガリシア地方には、山間にものすごい数の村や集落が点在していた。)

町に入ると直ぐに12世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de San Tirso)があり、中に入ると聖母像が沢山安置されていてとても美しかった。教会の人がスタンプを押してくれて、押してもらうときれいなデザインだった。とても感じのよい人で教会を訪れて良かったと思った。

町の中(Avenida Compostela / N-547)でSupermercadoを見つけて飲料を買った。近くの小さな商店(Supermercado Casa Benilde)もあったが、大きいお店(Supermercado Cemar)に入った。昼食を広場(Praza do Concello)で食べてから、午後2時半に町を出た。急ぎ足でやや下りの道を進んだ。

Carballal(ガリシア語carballeira < 「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós + 接尾辞-eira < -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)には、1225-28年に建てられた美しい石積みの教会(Igrexa de San Mamés)があった。途中で1回道を間違えてしまい、父と離れてしまったが、山の中の道で追いついた。美しい巡礼路だった。

San Xulián do Camiño(ラテン語「ユリアヌス」Sanctus Iulianus)の12世紀に建てられた教会(Igrexa de San Xiao do Camiño)や村の十字架も立派だった。直ぐにPallota(ガリシア語「藁葺きの小屋」pallota <「藁」palla < ラテン語「籾殻」palea < イタリック祖語*pelea < 印欧祖語*pél-eh₂ < 「覆う」*pel-が語源でサンスクリットपलाव / palā́va < インド=イラン祖語*palH ā́vasや古スラヴ語плѣва / plěvaや古プロシア語pelwo < *pelwasと関連) が見えてきて、Ponte Campaña(ガリシア語「橋」ponte +「田舎」campañaが語源)に入る手前で小川(Río Pambre)に架かる橋を渡り、Casanova(ガリシア語「家」casa +「新しい」novaが語源)で60kmの地点を通過した。

Porto de Bois(ガリシア語「港」porto +「牡牛」boi < 民衆ラテン語*boem < 古典ラテン語 bovem < 「牛」bos < イタリック祖語*gʷōs < 印欧祖語*gʷṓwsが語源でヒッタイト語𒆪𒉿𒌋 / kuwau-やルウィ語BOSwa/i-s(a) / wāwis < アナトリア祖語*gwóʔu-、ミケーネ語qo-oやギリシア語βοῦς / boûs < ヘレニック祖語*gʷous、サンスクリットगो / goや古ペルシア語𐎥𐎢 / gaua < インド=イラン祖語*gā́wš、古ブレトン語*bʉや古アイルランド語bó < ケルト祖語*bāus、古英語cūや古ノルド語kýr < ゲルマン祖語*kūz、古スラヴ語ⰳⱁⰲⱔⰴⱁ / govędoやラトビア語 govs < バルト=スラヴ祖語*gaw- ~ *gōw-、アルメニア語կով / kov < アルメニア祖語*gwov、アルバニア語ka < アルバニア祖語*kʷē、トカラ語B keᵤ < トカラ祖語*kew-と関係)など小さな村々の間に牛や羊の牧場を通り、Campanilla(ガリシア語「田舎」campaña + 接小辞-nillaが語源)で山道から舗装された道路(LU-P-4001)に出て歩きやすくなった。

Coto(ガリシア語「丘」coto < イベロ=ケルト語*cŏtto- < ケルト祖語「曲がった」*kassos < 印欧祖語*kés-s-os < 「擦る」*kes-が語源)でLugo地方からCoruña地方の境を過ぎた。高床式穀倉(hórreo)が見えた。森の中や並木がずっとあり、雨上がりにとても美しかった。

Leboreiro(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「兎の地」Campus Levurarius (Leporarius)と記録)の14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de Santa María de Leboreiro)や十字架が立派だった。(ゴシック様式はフランスからスペインに広がったが、村では昔からの伝統で古い様式で教会が建て続けられた。)そこから美しい舗装道(calzada empedrada)を歩いてゆき、小川(Río Seco)に架かる中世の美しい橋(Puente de Magdalena)を渡った。途中でおやつ休憩をとり、父とサクランボを食べた。アメリカンチェリーと違い、甘くて美味しかった。

それからも、幹線道路(N-547)に並行する山道を歩いた。牧場の脇を歩いていると馬が巡礼路に顔を出していて可愛らしかった。少し森を歩いてゆき、Furelos(ガリシア語「貫く」furar < 民衆ラテン語*furare < ラテン語forare < foro < イタリック祖語*forāō < 印欧祖語*bʰorH-eh₂yé-ti < 「貫く」*bʰerH-が語源)の手前で1185年に架けられた美しく立派な橋(Ponte de San Xoán de Furelos)を渡った。可愛らしい帆立貝の飾りが付いた扉の家や12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de San Xoán)があり、巡礼路を示す矢印が壁に書かれていた。

午後のガリシアは曇りがちで歩くには最高に良い条件と感じられたが、午後2時を過ぎると誰も街に歩いておらず不思議だった。皆は巡礼路を25kmほど歩くと巡礼宿に入ってしまった。少し経つとトイレに行きたくなり、近くの巡礼宿のサインがあり、巡礼路から少し逸れて行くとバー(Bar A Taberna)があった。そこにいた人が店主と思いたずねると場所を教えてくれて駆け込んだ。まだお腹の調子は良くなかったが、何と偶然にトイレがありたまげた。トイレから出ると店主がいて、トイレをお借りしましたと告げると、「良かった!良かった!(Moi ben ! Moi ben !)」と言って、歌を歌いながら、とても優しく接してくれて、流石ガリシア人と思い、商売気のなさに頭が下がる思いだった。

それから、一気に開けて平地の石垣の間を通る道を歩いていたら、馬が牧草を食んでいた。街に入る通り(Rúa Circunvalación Campo Feira)でジョギングしている地元の二人と会い、「近くだよ!頑張れ!(Está próxima! Animar!)」など励ましの言葉をかけてくれた。それから、石畳の道(Rua Camiño Vello de Santiago)を進み、Melideの街中へ入っていった。

Portomarínから25km歩いたPalas de Reiから、更に15km歩き、4、5の村々(10つの集落)を過ぎ、Melide(11世紀にMilierata、1189年に修道院(Monasterio de Sobrado dos Monxes)の古文書で「casa mea propria quam habemus in burgo que vocatur Melide」と記録。ラテン語「道標」miliario < 「千」milie < イタリック祖語*smīɣeslī < 印欧祖語*sm-ih₂-ǵʰésl-ih₂ < *sm̥-が語源)に着いた。

Melideは大きな町で散策すると、大通り(Rúa Cantón San Roque)に1325年に建てられた修道院(Convento franciscano de Sancti Spiritus)のファサードを転用して、1949年に建てられた立派な教会(Capela de San Roque)があった。大きなSupermercadoがいくつもあり、噴水(Fonte dos catro canos)がある大通り(Rua do Convento)や聖母子像がある広場(Plaza Constitución)を通った。

人通りも多く、街の人にたずねながら、巡礼宿がありそうな旧市街に入った。街の人たちは皆とても優しくて、Albergueはこっちだよと何人もの人が、こちらから道をきかなくても示してくれた。おかげさまで奥まった通り(Rúa San Antonio)に面した巡礼宿を難なく見つけられた。

巡礼宿の管理人も感じ良くて、直ぐに打ち解けてしまった。お金のおつりがないとき、色んな人に話しかけて助けてもらい、それだけで話が盛り上がり、スペインの人はとても人情があると思った。直ぐにSupermercadoに行くため、管理人(hospitaleiro)は、とても丁寧に地図を書いてくれた。

大通り(Ronda Coruña / AC-840)に面したSupermercado Garcíaはとても細長く、鰻の寝床のようで逆側にも出口があった。食料品は安くて、日本ではとても高価な羊乳のチーズ(Queso de Roncal)やゴーダ・チーズ(Queso Santa María)を切り売りされていて、チョリソ(Surtido del cura)の角切りや種無しオリーブ(Aceituna Bolsa)、ポテトチップス(Ruffles Patatas Fritas con Sabor a Jamón)やパン菓子(Panadería)、コーラ(Coca-Cola Zero)も購入した。

巡礼宿に戻り、インターネットコーナーで久しぶりにメールをチェックした。15分0.50€で使うことができ、手頃な価格だった。今までの巡礼宿ではコンピュータさえ置かれていなかった。父が夕食のスープを作ってくれていて、パンを浸して、チョリソ、オリーブ、チーズを食べた。食事のとき、ドイツ人Petraたちと話が盛り上がり、打ち解けて和やかになった。

日記を書いていたら、管理人がびっくりして、日本語で名前を書いてと言われて会話が盛り上がった。ヨーロッパでは、日本語の表記システムや日本の文化などが珍しく、皆が興味津々だから、日本人であるだけでスペイン語や英語で話が盛り上がり、日本人は巡礼者で少ないので特権だと思った。

本日もぬかるんだ山道を長く歩いてきて、今まで経験したことのない程の疲れが来たが、昨日と今日の日記を思い出せる限り書き、それ以外には何もせず、ベットに直行した。

今日は、沢山の優しい人々に会って感謝の連続だった。40km近く歩いた3日間は過ぎたが、明日は35km、明後日は15kmほど歩いて、Santiago de Compostelaに着く計画であるため、今日はとても気楽に夜を迎えられた。今日までは順調に進めていて、日曜日にまでは着けそうで安心した。

Leboreiroの先に架けられた美しい橋(Calzada Empedrada)

2008年5月10日(土)31日目(Melide-Carballal-Raído-Parabispo-Peroxa-Boente-Castañeda-Ribadiso-Arzúa-Barrosas-Pregontoño-Cortobe-QuintasCalzada-Outeiro-Boavista-Salceda-Cerceda-Empalme-Santa Irene-Rúa-Burgo-Pedrouzo-San Antón-Amenal-Cimadevila-San Paio: Casa Porta de Santiago)

今日は結局は深夜の午前0時少し前まで歩き続けた。父は足を少し痛めていたがかなり頑張り、夜も更けて寒くなり、凍え死にそうなとき、Santiago de Compostelaの手前の村(San Paio)でBarを偶然に見つけて、ガリシア風スープやパエリアを食べて温まることができ、明日に到着するお祝いをした。

今日は午前8時に巡礼宿を出発した。町を出るところには墓地があり、幹線道路(N-547)を横切り、50kmの地点を通過した。12世紀に建てられた美しい石造りの美しい教会(Iglexa de Santa María)があり、教会の前に立派な十字架があり、教会の中に高床式穀倉(hórreo)があった。

それから、洗濯場(Lavadeiro)を通り抜け、雑木林や住宅地を通る小道を進み、村々を通った。今日は父の足の調子が悪いためゆっくりと進んだ。MelideからArzúaまでは、あっという間であった。村に石造りの教会があり、高床式穀倉(hórreo)が立ち並んでいた。

Carballal(ガリシア語carballeira < 「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós + 接尾辞-eira < -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)から森の中をゆき、小川に飛び石のような橋(Ponte do río Catasol)が架けられていた。

Raído(ガリシア語「刈られた」raído <「刈る」rasar < ラテン語radere < rado < 印欧祖語*rh₁d-dʰ- < *reh₁d-が語源)の近くで幹線道路(N-547)に近づき、またしばらく林の中の道を歩いた。

Parabispo(ガリシア語 前置詞「のため」para < ラテン語per < イタリック祖語*per < 印欧祖語*per- + ad < イタリック祖語*ad < 印欧祖語*h₂éd + ガリシア語「司教」bispo < ラテン語episcopus < ギリシア語ἐπίσκοπος / epískopos <「その上で」ἐπι- / epi- < ヘレニック祖語*epí < 印欧祖語*h₁epi +‎「見る人」σκοπός / skopós < 「見る」σκέπτομαι / sképtomai < イタリック祖語*sképťomai < 印欧祖語*spéḱ-ye-ti < *speḱ-.が語源)を通り過ぎてから、小川(Rego de Valverde)を渡った。

Peroxa(ガリシア語「梨の木」pereira < 中世ラテン語petraria <「石」petra < ギリシア語πέτρα / pétrā + -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)でも立派な高床式穀倉(hórreo)を見た。噴水がある広場から道路(N-547)に出て、直にBoente(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Jacobus de Boentoと記録され、人名Bonentius < ラテン語「良い」bonus < 古ラテン語duonus < duenos < イタリック祖語*dwenos < 印欧祖語*dew-nos < *dew- + -ntius < -ius < イタリック祖語*-jos < 印欧祖語*-yósが語源)の12世紀に建てられた美しい白い漆喰のロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago)から、また、きれいに石が敷き詰められた道がある村に入っていき、そこからまた雑木林の中を歩いた。

Castañeda(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastaniollaと記録され、ガリシア語「栗」castaño < 古ガリシア語castanno < ラテン語castaneus < ギリシア語καστάνεια / kastáneia < κάστανα / kástana < ドーリア方言κάστον / kástonが語源でサンスクリットकाष्ठ / kāṣṭha、古アルメニア語կասկ / kask、アルバニア語thanë < アルバニア祖語*tsàna、もしくは印欧祖語「灰色」*ḱas- + 「モミ」*dʰónuと関連)の少し前で牛が家の前で飼われていて遭遇した。

Pedriro(ガリシア語「石」pedra / 人名Petro < ラテン語petra / Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < πέτρα / pétra + 接尾辞-iroが語源)からRío(ガリシア語「川」río < 古ガリシア語rio < 民衆ラテン語rius < 古典ラテン語rivus < 印欧祖語*h₃riH-wó-s < *h₃reyH-が語源)に向かうとき、見晴らしがとても良かった。村を出た小川(Rego Ribeiral)がある場所で一息をついた。

幹線道路(N-547)を越えてから、下り坂になり美しい風景を望みながら歩いた。聖地まで40kmになった。小川(Río Iso)を渡る前からまたきれいな石畳みの巡礼路になった。14世紀に架けられた立派な橋の袂には、15世紀に建てられた巡礼者の救護院(Hospital de San Antón de Ponte de Ribadiso)があり、その建物は今でも巡礼宿(Albergue de Ribadiso de Baixo)として使われていた。

Ribadiso(ガリシア語「崖」arriba < ラテン語「に」ad- +「岸」ripa < イタリック祖語*reipā < 印欧祖語「階段」*h₁réyp-eh₂ < 「破れ落ちる」*h₁reyp- + 前置詞 de + 河川名 Iso < バスク祖語「水」*izが語源。Carlos Benjamín Jordán Cólera (1998). De la raíz *IZ- "agua" en vasco, Fontes Linguae Vasconum 78: 267-280.)を通り抜けてから、幹線道路(N-547)沿いに歩いた。

Arzúa(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「新しい村」Vilanova、14-15世紀にArcerouze, dit Villeneufe; Arsetouse, dicte Villeneuve; Alserance, dit la Villeneuveと記録、ガリシア語「アーチ」arco < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s + 「リブ」ramaxe < 古フランス語ranche < ラテン語ramex < ramus < イタリック祖語*wrād-mo- < 印欧祖語「根」*wréh₂dmos < *wréh₂ds)の大通り(Avenida de Lugo / N-547)にSupermercados Froizを見つけて買い物をした。今まで経験したことないほど安かった。レジで500€札を出す人がいて驚いた。

レディフィンガーのビスケット(Bizcochos La Bella Easo Bizcocho con huevo)やオレンジジュース(Zumo Zumosol naranja)、ポテトチップス(Patatas fritas Pringles cream & onion)やパン(Pan Froiz Baguette Integral)、苺味のヨーグルト飲料(Danonup Yoghurt bebible licuado con fresa plátano)やコーラ(Pepsi light sin cafeína)などを買った。

12世紀に建てられた立派な石造りの白漆喰が塗られた美しい教会(Igrexa de Santiago de Arzúa)を訪れると、気持ちよくスタンプをクレデンシャルに押してくれた。聖ヤコブと巡礼者の祈りの栞も付けてくれて、スペイン語版と英語版を頂いた。近くの14世紀に建てられた石積みの教会(Capilla de la Madalena)も素敵だった。調子が悪くなって来たため、父は先に歩いてもらい、街で一休みした。

街を出るとき、アーケード(Calle Carmen)を抜け、巡礼者のための水飲み場(Fuente del Peregrino)を通り、小川(Río Vello)を渡り、Barrosas(ガリシア語「泥るんだ」barroso <「泥」barro < 民衆ラテン語*barrum < ゴール語*barros < ケルト祖語*berros < 印欧祖語*bʰelH-os < 「白」*bʰelH- + 形容詞化-oso < -osusが語源でリトアニア語balàや古スラヴ語ⰱⰾⰰⱅⱁ / blato < バルト=スラヴ祖語*bálˀtasやアルバニア語baltë < アルバニア祖語*baltāと関連)を通り過ぎた。

先に歩いていった父を森の中に入ると直ぐに発見した。脚に少し痛みがきたが、平坦な雑木林を縫う巡礼路は、歩きやすくかなり距離を進んだ。鬱蒼として霧がかった森の中を歩き、いくつかの村Pregontoño(ガリシア語「宣言する」pregonar < ラテン語praeconor <「到来を告げる」praeco <「前に」prae- +「声」vox < イタリック祖語*wōks < 印欧祖語 *wṓkʷsが語源)やCortobe(ガリシア語「短い」corto < 古ガリシア語curto < ラテン語 curtus < イタリック祖語*kortos < 印欧祖語*(s)kr̥tós < 「切る」*(s)ker-+ イベロ=ケルト語 接尾辞「丘」-bre < -bris < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-sが語源)を過ぎて、小川(Rego do Ladrón)を渡った。

Quintas(ガリシア語「五つ目」quinto < ラテン語quintus < 古ラテン語quinctus < イタリック祖語*kʷenktos < 印欧祖語*pénkʷtos < 「五」*pénkʷe +‎ 接尾辞*-tósが語源)では、牧場で黒と白の斑模様の牛たちが草を食んでいた。 Calzada(ガリシア語「舗道」calzada < 古ガリシア語calçada < ラテン語*calciāta < 「小石」calx < ギリシア語χάλιξ / khálixが語源)を過ぎ、小川(Río Lengüello)を渡り、聖地まであと30kmになった。

Outeiro(ガリシア語「丘の頂」outeiro < 中世ラテン語autarium, auctarium < 古典ラテン語 altarium < 「高い」altus < イタリック祖語*altos < 印欧祖語*h₂el-tó-s < 「育つ」*h₂el-が語源)からCalle(ガリシア語「通り」calle < ラテン語callis < ギリシア語「運ぶ」κέλλω / kéllō < ヘレニック祖語*keľľō < 印欧祖語*kel-yeti < *kel-が語源) の村には入らず、巡礼路から少し外れて馬が牧草を食んでいる農道を歩いていった。村から歩いてゆくとおもしろい高床式穀倉(hórreo)の前に車輪が置かれていた。

18世紀に建てられた素敵な塔を持つ教会(Igrexa de San Breixo de Ferreiros)の前に公園(Campo de Festas de San Breixo de Ferreiros)があり、コンクリートの屋根付の建物に日陰を見つけて腰掛けて、午後3時半近くに遅めの昼食をとった。(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFerrerasと記録され、ガリシア語「鍛冶場」ferreiroが語源)

見晴らしがよい所でフランス人たちも一休みしていて、最初は相手の母国語が初めは分からないため、英語で話しかけたが通じないため、フランス語で話しかけると喜ばれて長話をした。ビデオカメラで私や会話を取ってくれた。相手の国の言葉を使うととても喜ばれて良いことだと思った。

緑色のゴミ入れの中を開けて、写真を撮っている不思議なフランス人、また、巡礼が終わりを迎えて、「Santiago ! Santiago !」と興奮しているスペイン人など様々な人が通り過ぎた。フランス人は南部出身で都市をきくとBayonne出身で、北部のフランス語と発音が少し違うのに気付いた。北部は鼻音が多くてこもり、フランス語らしいが、南部方言はスペイン語に近く、さらさらな言葉だった。

昼食を終えてから、父が足をつり苦労した。今日の予定は7km先のSanta Ireneに切り替えて、明日は日曜日のミサに間に合うようにするには、朝早くに出て更に長く歩かなくてはならず大変と思った。

Boavista(ガリシア語「蛇」boa < ラテン語bonus < 古ラテン語duonus < duenos < イタリック祖語*dwenos < 印欧祖語*dew-nos < *dew- +「眺め」vista < 民衆ラテン語*visita < 古典ラテン語visa <「見る」video < イタリック祖語widēō < 印欧祖語wid-eh₁-(ye)-ti < *weyd-が語源)の村に入る前で直ぐに正規の巡礼路に戻り、Salceda(ガリシア語「柳林」salceda < 民衆ラテン語*salicatus < 古典ラテン語「柳」salix < イタリック祖語*saliks < 印欧祖語*sl̥H-ik-s < *sh₂lk- + 接尾辞-ado < -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源で古アイルランド語sailechやブレトン祖語*hėlɨg < ケルト祖語*salixsや古英語sealh, saliġや古ノルド語selja < ゲルマン祖語*salhôと関連)の近くで幹線道路(N-547)に出た。

少し山道を入るとここで命を落とした巡礼者を追悼する碑文があった。そこから幹線道路沿いの村々、Ras(ガリシア語「露頭」raso < ラテン語rasus < 「剃る」rado < イタリック祖語*razdō < 印欧祖語*rh₁d-dʰ-e-ti < 「削る」*reh₁d-が語源)やBrea(昨日に通過した村とは別で古くはVeredaと記載。ガリシア語「歩道」vereda < 民衆ラテン語*vereda <「小さい馬」 *veredus < ゴール語*werēdos < ケルト祖語「馬」*uɸorēdos < 「下に」*uɸo- < 印欧祖語*upo +‎ 「乗る」*rēdos < *rēdeti < 印欧祖語*h₃reyH-dʰh₁é-ti < *h₃reyH-が語源)の迷路のような小道を過ぎると下りになり、歩きやすい道が続いて、また幹線道路と並行する道に戻ってきた。

Cerceda(ガリシア語「調べる」cercedar < ラテン語circito < 「円」circus < 「指輪」κίρκος / kírkos < κρίκος / kríkos < ヘレニック祖語*ke-ker- < 印欧祖語*(s)ker-k- < 「曲がる」*(s)ker-が語源)やEmpalme(ガリシア語「繋がり」empalme <「繋げる」empalomar < 民衆ラテン語*inpalumba < 古典ラテン語「中に」in- +「鳩」palumbes < イタリック祖語*palwos < *palH-wos < 「灰色」*pelH-が語源でサンスクリット「灰色」पलित / palitá < インド=イラン祖語*palHtás、古スラヴ語ⱂⰾⰰⰲⱏ / plavŭやリトアニア語pal̃vas < バルト=スラヴ祖語*palwasと関連)の村を通り過ぎて森の中を歩いた。ガリシア地方では村の間に畑や牧場が広がっており、無数に小さな村があった。

Santa Ireneでは石造りの教会(Romería de San Pedro)の前に288年にRomaで殉教した聖イレーネ(Irene < ギリシア語「平和」εἰρήνη / eirḗnē < 「結ぶ」εἴρω / eírō < ヘレニック祖語*héřřō < 印欧祖語*sér-ye-ti < *ser-が語源)を祀る小さな祠(Ermida de Santa Irene)まで歩いてきて、父が少しずつ足が良くなってきて、もう少し進めそうということで、更に先を急ぐことにした。幹線道路沿いに巡礼者のための水飲み場(Fuente del peregrino)があった。林の中で聖地まであと20kmの道標を見つけた。明日には着けるから、日曜日のミサに間に合いそうだと、父と共に安心した。

Rúa(ガリシア語「通り」rúa < 古フランス語rue < ラテン語「皺」ruga < イタリック祖語*rougā < 印欧祖語*h₁roug-h₂- < 「轟」*h₁rewg-が語源)では、紋章が入った立派な石積みの家を見た。ここからは開けてきて、道が舗装されてよくなり、更にどんどん歩けた。大きな家が多く立ち並んでいた。

Burgo(ガリシア語「町」burgo < 中世ラテン語burgus < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語「高い」*bʰerǵʰ-が語源)で幹線道路(N-547)に出てから、直ぐに脇の道に入った。

Pedrouzo(ガリシア語「岩場」pedroso < ラテン語petrosusか「霰」pedrazo <「石」pedra + -azoが語源、別名O Pinoはガリシア語「丘の石」pino < ラテン語pinna < ゲルマン祖語*pinnaz <「頂」*pint- < 印欧祖語「角」*bend-が語源)の外れを通り、San Antón(エジプトの砂漠で修道生活を始めて営んだ聖人Sanctus Antonius / Ἀντώνιος, 251-356が語源)の村の中を通り、Amenal(ガリシア語「愛する」amer < 古ガリシア語amar < ラテン語amare < amoが語源)まで山道を歩いた。古い橋が小川(Rego de Amenal)に架けられていた。幹線道路(N-547)をつきり、また林の中を歩いた。

Cimadevila(ガリシア語「頂」cima < ラテン語cyma < ギリシア語 「膨れ」κῦμα / kûma < ヘレニック祖語*kūmə < 印欧祖語*ḱéwh₁-mn̥ ~ *ḱuh₁-mén-s < *ḱewh₁- + 前置詞 de < イタリック祖語*dē < 印欧祖語*de + 「村」vila < ラテン語villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「平ら」chá < 古ガリシア語chãa < ラテン語plana < イタリック祖語*plānos < 印欧祖語*pleh₂-no-s < *pleh₂- が語源)を過ぎて、森の中の道を抜けて、大通り(Via Servizo)に出た。

Amarelle(ラテン語「スミミザクラ」amarellum < 「苦い」amarus < イタリック祖語amāros < 印欧祖語「苦い」*h₂h₃m-ros < 「熱い」*h₂eh₃-が語源)に午後9時過ぎに到着して、帆立貝のマークに「SANTIAGO」と書かれた立派な石造りの道標(Hito entrada Concello de Santiago de Compostela)を通り過ぎて、もう少しで聖地に着くと思うと歩く気が湧いてきた。

今日は足に問題がありながらも、既に歩行距離が40kmを超えどんどん進み、夜の午後10時半になってしまったが、私は先に進み、父を空港(Aeropuerto de Lavacolla)の辺りで待っていた。日没も過ぎて寒くなってきて、霧雨に濡れて体温が奪われて凍えそうで、座っていると熱が奪われてしまうため、辺りを歩きながら待った。飛行機が目の前で離陸するのが見え、滑走路の誘導灯の光が美しかった。丁度、滑走路のお尻の部分に位置しており、飛行機が真上を飛んで離着陸して圧巻だった。

そこで1時間ほど待ち、午後11時頃に父が現れた。少し休憩してから、歩き始めて間もなく、深夜の午前0時頃にSan Paio(聖人名Sanctus Pelagius, c. 912–926でスペイン語San Pelayo、ポルトガル語São Pelágio > São Paio, Sampaioで古典ギリシア語Πελάγιος / Pelágios < 「海の人」πελάγιος / pelágios < 「海」πέλαγος / pélagos)でCafé-Bar(Casa Porta de Santiago)を見つけ入った。地元の人が、楽しそうにぺちゃくちゃと話していたり、カードで遊んでいる人々など、様々に盛り上がっていた。

皆こんな時間の巡礼者がいてびっくりしていた。レストランの人はとても親切だった。今の場所を聞いて、もう少し歩けば、Santiago de Compostelaだから頑張ろうと父と話した。テーブルに載りきれないほど、ガリシア風スープ(caldo gallego)とメインにバレンシア風パエリア(paella valenciana)、アイス・レモンティ(refrescos lata)や父はコーヒー(cafe con leche)を注文した。

ガリシア風スープはとてもシンプルだがコクがあり、とても美味しかった。それからパエリアが来た。スープが終わるのを見極めて作ってくれて、配慮のよく行き届いたレストランだった。

パエリアは鍋一つ出てきて、2人分と書いてあったが、日本だと4人分くらい盛り沢山だった。大きな海老と中位の海老や白身魚や蛤など、とても新鮮な魚介類ばかりだが、海が近いため、新鮮で生臭さは全くなかった。オリーヴオイルをふんだんに使い、ご飯に染み渡っていた。味も最高で、4人前位の量をあっという間に食べてしまった。パエリアを食べた後、レモンの香りがするお手拭きも添えられていた。父がSantiago de Compostelaに到着する前夜祭としてよい晩餐になったねと話していた。

食後ゆっくりしていると、午前1時近くになった。スペインのおじさんたちは、まだまだカード遊びを辞める気配がなく粘っていた。出る直前には、焼き肉を始めたりして、夜半にとても愉快な人たちと思った。店の人が通行証にスタンプを押してくれた。おつりが10セント多いので告げると、にこにこ笑って照れていた。お店の人は、こんなに遅いのに歩きだして大丈夫か、朝まで店が開いてるから、休んでいかないかと申し出てくれたが、明日の朝にSantiago de Compostelaについて、ミサに参加したいと話すと、今から歩いて行けば着くから心配ない。Buen Camino !と言って送り出してくれた。

そこから道路標識が当てにならず、5kmも多く歩かなくては、最後の巡礼宿があるLabacollaに着かないため、お店でしばらく体を温めてから、父と徹夜で歩き続けることにした。

CarballalとRaídoの間の森の中を通る巡礼路

2008年5月11日(日)32日目(San Paio-Labacolla-San Marcos-Monte do Gozo-Santiago de Compostela: Albergue Seminario Menor)

午前1時から最後の巡礼宿がある村Labacollaまで徹夜で歩いた。巡礼路が通る敷地を通ることができず、先に進むことができないため、巡礼宿が開くまで少しだけ仮眠をした。朝を迎えて、直ぐにSantiago de Compostelaに到着した。巡礼証明書をもらい正午のミサに参列した。日曜日のミサに間に合い感無量だった。大聖堂の前でXavierとLiaと再会して巡礼の成就を喜んだ。香炉が落ちてきそうなくらい、大きく振れていたので迫力があった。ドイツ人Ernstが聖書をドイツ語で朗読する当番になり、特別席に数人の友達を入れられることになり、直ぐに私と父に声をかけてくれて、彼のおかげでミサの一部始終を間近で見ることができ、大司教から直々に聖体拝領を受けられて感謝した。ミサの後に大聖堂から出た広場で母に無事に到着したことを電話で伝えるととても喜んだ。

午前1時過ぎにSan PaioのBarから歩き出した。12世紀に建てられて、1753年に建て替えられた村の教会(Capela de Santa Lucía)は立派な石積みで作られ、街頭に照らされていて佇まいが美しかった。

辺り一面が闇の中、坂を上りゆくと少し森の中を進むため不安だったが、ライトで照らしながら歩いてゆくと、徐々に目が順応してきて、肉眼でも道が見えるようになってきた。

幸いにSantiago de Compostelaは大都会で人家が多い所が集まり、道路もしっかりしているため、直に山道を歩かなくても済んだ。そこから、小道(Lugar Esquipa)を進んだ。

Labacolla(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でLavamentulaと記録され、 ガリシア語「洗う」lavar < ラテン語lavo < イタリック祖語*lawāō < 印欧祖語*(le-)lówh₃-ti < *lewh₃- +「陰茎」mentula < 「心」mens < イタリック祖語*mentis < 印欧祖語*mén-tis < 「考える」*men-、もしくは「首」colo < ラテン語collum < イタリック祖語*kʷolsom < 印欧祖語*kʷolsom- < 「回す」*kʷel-から、聖地に入る前に小川(Río Lavacolla)のせせらぎで身体を清めたことが語源)の19世紀に建てられた聖堂(Igrexa de San Paio de Sabugueira)がライトアップされてきれいだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Santiago de Compostelaの町から2マイルの森の中をLabacollaと称する川が流れている。Santiago de Compostelaへ巡礼してきたフランス人は使徒に敬意を示して、自らの局部を洗うのみならず、服を脱いで体の汚れを落とすことを習慣とするからである。Monte do GozoとSantiago de Compostelaの町の間を流れるSarria川は清い水とみなされ、同じくSantiago de Compostelaの逆を西へと流れるSarelaも清らかであると言われている(fluvius quidam, qui distat ab urbe sancti Jacobi duobus milliariis in nemoroso loco: qui Lavamentula dicitur, idcirco quia in eo gens Gallica peregrina, ad sanctum Jacobum tendens, non solum mentulas suas verum etiam totius corporis sui sordes, Apostoli amore, lavare solet, vestimentis suis expoliata. Sar fluvius, qui inter montem Gaudii et urbem sancti Jacobi decurrit, sanus habetur; Sarela fluvius similiter, qui ex alia parte urbis versus occasum defluit sanus habetur.)」と書かれている。

そこから、深夜で街頭がない道は危険なため、山道には入らずにオレンジ色の街灯が点々とある幹線道路(N-634)に沿いながら歩いて進んだ。村を出た先の18世紀に建てられた小さな聖堂(Capela de San Roque)が遠くに見えた。Vilamaior(ガリシア語「村」vila +「大きな」maiorが語源)で左の道(Rúa de San Marcos Bando)に入り、また、ラジオ局(RTVE Galicia)の前で巡礼路に合流した。

深夜に犬の遠吠えが聞こえてきて、周辺の住民は迷惑とは思わないのかと考えながら歩いていると、真夜中の午前3時にラテン音楽が何軒かの家から大音量で聞こえてきたので笑ってしまった。San Marcos(福音書を書いた聖人名Sanctus Marcus, 5-68が語源)の1105年に建てられたロマネスク様式の聖堂(Capela de San Marcos)の先にある公園で一度だけ休憩をして進んだ。

午前4時半を過ぎていたため、門が閉じられており、巡礼宿の敷地をつきるように道が続いていたが、先に進めなかったため、午前6時過ぎまで聖堂の前で野宿して開門を待つことにした。荷を下ろして、ビニールシートを敷いて横になり仮眠をすることにした。

最後の数日は40km以上も歩き、また、最後は徹夜をして歩いてきたため、とても疲れていて、寝る前に叢の中で下痢をした。幸いにも、父がレストランで紙をもらっていてくれたから助かった。

直ぐに寝てしまい、再び起きたのは、午前6時半だった。目が覚めると門が空いていて、午前7時近くに出発して、巡礼宿で最後のスタンプを通行証(credencial)にもらい、Santiago de Compostelaに入る手前の歓喜の丘(Monte do Gozo)の頂から街を見ながら、一気に坂を下り、線路を渡り、街に入った。1924年に建てられた新ロマネスク様式の教会(Igrexa de San Lázaro)の前を通りひたすら進んだ。

父と遂に目指して歩いてきたところが見えてきたね。最後の何日間は強行スケジュールだったけれども、日曜日の午前中のミサに間に合うように頑張って歩いて来れて良かったと安心して話していた。

Monte do Gozo(ガリシア語「山」monte < 古ガリシア語mõte < ラテン語montem < mons + 前置詞do + 「喜び」gozo < 古スペイン語gozo < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源)では、丘の上から聖地が見えるため、中世フランス語Monxoi, Montjoieと記録され、巡礼者は喜んで叫んだり、聖歌「我らが神であるあなたを讃えん(Te deum laudamus)」を歌い、中世に巡礼仲間で初めにSantiago de Compostelaの大聖堂の尖塔を見た人が「王」と呼ばれて、スペインでRey、フランスでRoiという姓が生まれた。

新市街で道に迷い、父とはぐれてしまった。大通り(Adenida do Camiño Francés)から、通り(Rúa do Valiño, Rúa das Fontiñas, Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Praza de Cervantes, Rúa da Acibechería, Plaza de la Azabachería)を歩いてゆくとき、道が入り組んでいて、町の中では分かれ道が多すぎて大変だったが、道標の矢印と大聖堂をめがけて歩いた。

朝早くに着いたため、通りには人が少なくて歩きやすかった。旧市街らしき場所を探りながら、町の人に大聖堂の位置を10回以上もききながら、町の中心に近づいてゆくと、巡礼者に会い、ほっとして大聖堂に赴いた。大聖堂と思った建物(Igrexa de San Martiño Pinario)は違い、更に奥にあった。

午前8時少し前に着いて、父を一時間以上、大聖堂の前(Plaza de la Azabachería)で待ち、10日前や5日前に会ったイギリス人とFisterraについて話を聞いた。フランス人が近くに別の広場(Praza do Obradoiro)があり、父をそこで見かけたから、まだそこにいるかも知れないから行ってみるといいよと教えてくれて、直ぐに赴くと父がいた。父も私が先に行ったか、違う道を行っていたか分からず、探しても見当たらないのを不思議に思っていたようで、巡礼者に居場所を伝えて待っていてくれた。そして、イギリス人が巡礼者へのミサが、午前9時半からあると教えてくれて、大聖堂に急いだ。

Santiago de Compostelaの大聖堂
聖ヤコブの墓を発見したイリア・フラビア司教テオデミルス(Teodemirus)
(Archivo-Biblioteca de la Catedral de Santiago de Compostela, Tumbo A, 1v )

大聖堂に入るとミサが始まる気配がないので、ドイツ人に場所を聞いて、教会の反対側のドアから出て、巡礼事務所(Oficina de Acogida al Peregrino)に行った。何十人もの巡礼者がコンポステーラを受理していて、30分ほど、オーストラリア人とフランス人と話しながら順番を待った。その間にLiaと母に電話したが、携帯電話の電源が切られていて通じなかったので、また後ほどかけることにした。

巡礼証明書(Compostela)を発行してくれた女性は感じ良くて、流暢な英語を話した。どこから何日間かけて歩いてきましたかと質問をされ、4月17日にSaint-Jean-Pied-de-Portから、25日をかけて歩いてきましたと答えると、係の人は随分と早く歩いて来られましたねとにこりと笑った。

最後の数日は日曜日のミサに間に合うために40km以上、徹夜で歩いてきましたよと話したら、それは大変でしたね。無事に着いて良かったですねと言われた。

午前10時過ぎに無事に父と共に巡礼証明書が発行され、巡礼を完結することができた。巡礼事務所前の広場(Praza das Praterías)で記念撮影をした。

ミサは午前10時からのようで大聖堂に入ると丁度、香炉が上げられて、香を入れている最中だった。オルガンの音楽と共に香炉が少しずつ大きく振れてきて、大聖堂の高い天井に着きそうなほど、大きく振れると歓声が上がった。香は巡礼者のにおいを消すため、昔からの伝統を受け継いでいて、重厚感のある厳かな儀式だった。外れて香炉が落ちてきそうな位、大きく振れていたので迫力があった。

ヨーロッパの街では歴史と現代が溶け込んでいる情景に出くわすことがあり、実に面白かった。今日は大聖堂の前でロックコンサートがあり、ミスマッチはとても笑えた。ヨーロッパの広場では、このようなコンサートが良く行われ、歴史と現代が溶け込んで(?)いて、実に面白く感じた。

大聖堂から出てくると、偶然にXavierとLiaの姿を見つけた。彼らは正午のミサに間に合わせるよう計画通りにきちんと着いていた。正午まで近くのカフェで軽食を食べる前に大聖堂の中に入った。

Xavierが瞑想していて、Liaは席でお祈りに集中していたので、ミサに参列するために席を確保して座っていると、先ほどのフランス人がやってきた。間もなくBerlinから歩いてきたドイツ人Ernstが現れた。お互いに無事に到着した喜びで歓喜しながら、隣に座ってもらおうとするが、他の人に席を取られてしまった。仕方なく別の席を探し出して、父と座っていたら、Ernstが近づいてきて、ミサの最中に巡礼者の代表として、聖書を朗読するから、二人の友人を最前列の祭壇の前の特別席に招いて良いと言われたと話しかけてきて、父と私を招いてくれた。この光栄は何て表現をしたら良いか分からないくらい感謝をしますと言うと、あなた方はとても印象深い巡礼仲間だったから、大聖堂の中で見かけて探し出して、招待したいと思っていましたと話してくれて、ご恩情をとてもありがたく感じた。

最前列の特別席は柵で囲まれており、司教や助祭の方たちと同じ空間であったから、そこに行き座ると目立ちすぎて、皆の視線をひしひしと感じた。祭壇はキリスト教的なモチーフではなく、ローマ神話やギリシア神話のようなモチーフの装飾がなされていて圧倒された。ブドウの装飾やマリア様の御像もあった。すると、今日のミサにおける聖歌の紹介が修道女からあり、皆で修道女が歌うのに会衆が合わせて、繰り返して覚えた。聖歌(Gloria in excelsis deo、Alleluia. Omnes gentes、Antiphona. Ubi caritasなど)を歌った。間もなくミサが始まり、直にErnstが朗読をした。彼はドイツ人なのにフランス語や英語が達者であり、更にスペイン語も流暢でたまげた。特別席だったため、ミサの中で大司教から直々に聖体拝領を受け、私はカトリック教徒ではないのですがと伝えると、巡礼者のためのキリストの御体ですと言って、聖体拝領のパンを口の中に入れて頂けたのでとても驚いた。

目の前で聖職者がミサの儀式を執り行われていたため、細かい所までとても見やすく分かりやすかった。オルガンの音の美しさと迫力にも圧倒された。ミサの最後に香炉(botafumeiro)に司祭が香をつめて、火をつけているのが、目の前で繰り広げられていて、とても臨場感と迫力があった。香炉が揚げられてから、五人の修道士が力と息を合わせて、少しずつ揺さぶりながら、振れ幅を大きくして、丁度、香炉が真ん中の修道士たちがいる前を通る時にぴんと綱が張られて、綱を一斉に引いて、力を加えているのが見えた。振れ幅が最大になると、綱を引くのを止めて、自然に段々と小さくなるのを待ち、最後には一人の修道士が抱きつくように香炉を止めた。香炉は午前中ほどは振れなかったが(午前中に修道士たちが張り切り過ぎて疲れたからであろうか?)、香炉(botafumeiro)の儀式を間近で見れる体験をして、最後の五日間頑張って一日40km近くも歩いてきたことが報われた気がした。

ミサは説教と巡礼者の朗読を除いて、ラテン語で行われたため、理解することができた。ミサの最中、司教の説教の最中にとても睡魔に襲われたが、何とか乗り切った。献金袋が回ってきて入れた。司教の説教は、スペイン人らしく、熱気に充ち溢れていて、ものすごい早口だったために聞き取りにくくて困った。Ernstはとても気さくで心が広くて好奇心が強い人であった。彼は自ら朗読を申し出て、彼の積極性をとても尊敬した。また、そのおかげで貴重な体験ができたことに感謝した。

ミサの終了してから、XavierとLiaの姿が見えなくなり、辺りをしばらく探したが見当たらなかった。一緒に食事をしようとしていたのでとても残念だった。広場で休憩して、母に電話をかけた。Santiago de Compostelaについたことを報告して、最後の五日間は一日40kmも歩いてきたこと、昨日はミサに間に合うために徹夜で寝ずに歩いたこと、ミサに最高の席で出席できたことなどを報告すると興奮していた。巡礼証明書(compostela)をきれいに持ち帰るためにファイルを買おうと、広場(Praza do Obradoiro)の近くの土産物屋に入るが見つからなかった。今まで宿泊してきたいくつかの巡礼宿に張られていた巡礼路の全体が横にパノラマに見られる地図を探したが見つからなかった。

昨日徹夜の夜でとても疲れていて、巡礼宿を探そうと案内所(Turismo)で街中の地図ををもらい、Supermercadoの位置などを質問して、詳しくご説明を頂いた。目の前に石造りのアーケードにあり、雰囲気の良さそうなカフェ(Cafetería Bar A Capela)を見つけて入った。巡礼者や観光客でなく、地元のスペイン人が気兼ねなく出入りしていた老舗を選んだ。クリーム入りチョコレートドリンク(chocolate caliente a la taza)とハンバーガー(hamburguesa)を注文した。天然の素材から作られたものでとても体に良くて美味しかった。食事中も睡魔に襲われた。少しリラックスすると、カフェの中で眠ってしまっていた。徹夜に近い状態で歩いてきたのでしばらく休めてよかった。

それから巡礼宿を目指して、旧市街の大通り(Rúa do Vilar)を歩いて、大聖堂の近くに行くと、昨日ごみ箱の中の写真を撮っていた不思議なフランス人に会った。巡礼証明書(diplôme)をもらったかとたずねられて、もうもらったから大丈夫だよと伝えると、もらってなかったら、巡礼事務所まで一緒に行くよと言ってくれて、変わった人だと思っていたら、実はとてもフレンドリーで優しくしてくれていい人だった。Rotterdamから歩いてきたオランダ人Jean-Noelとも会った。オランダ人は英語を美しく話すことができて、言語がとても近いけれども、発音もとても美しくて、いつも驚かされた。

巡礼宿に向かう途中にSantiago de Compostela大学の構内でダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)展を催していたのを知った。展示パネルだけが見えて、日時を見ると少し前まで催されていたことが分かった。巡礼宿の入り口には、一般のスペイン人が沢山屯していて、どうしてかと思ったら、聖堂ではミサが執り行われていたり、巡礼宿の下の階が、今でも学校として使われていることが分かった。

巡礼宿は旧市街から外れた小高い丘の寂れた地区にあった。途中の通り(Rúa das Trompas)から公園(Parque de Belvís)に入る所でHospital de Órbigoの巡礼宿で足湯を作ってくれてお世話になったBurgos出身でLondonに住んでいる自転車で巡礼をしていたスペイン人Joséと再会を果たした。彼はもうFisterraまで行って帰ってきて、丘の上の巡礼宿に泊まっていた。

一緒に丘を登りきると巡礼宿に着いた。受付を済ませて部屋に入ると、全て一段ベットで荷物を入れる受付のトランクもあり、セキュリティーがしっかりしていた。神学校(Seminario Menor)だった建物が改装されており、清潔感とシンプルさと明るさがあり、部屋の中が広々としていて快適な上、町の中心部までとても近かった。チェックインにはパスポートや身分証明書の提示があり、防犯カメラも沢山設置されていて、セキュリティーが厳しくて安心した。ホスピタレーロはとても親切で、何でも助けられることがあれば力になりますから、ご遠慮なく仰って下さいと言った。ベットが用意されるのを待つ間、Joseとあれからあったことをお互いに話し合ってから、シャワーを浴びた。温度調節が不可能で、突然、熱い湯や冷たい水が出てきた。部屋でドイツ人と話し込んでから少し仮眠した。

午後5時半頃に起きて、軽食をとってから、午後8時過ぎから街の様子を見に出かけた。巡礼宿の管理人にMcDonald'sの位置やSupermercadoを詳しく教えてもらい、いくつかの通り(Rúa de Andújar, Avenida de Quiroga Palacios, Avenida de Lugo)を通り、ロータリーに出て、大きな通り(Rúa de Berlin)を直進して、ショッピングモール(Área Central Centro Comercial)に着いた。

新市街を主に通ってきたが、殆んどの商店は休日で閉まっていて、町は閑散としていた。McDonald'sでデラックスを注文し、飲み物のFantaとフライドポテトを注文すると、ものすごく大量に出てきて驚いた。ケチャップも手につかむほどくれたり、ハンバーガーのセットが10€少しでとても安かった。

スペインやフランスでは、ファンタ・レモンとオレンジしかないけれども、日本のように無果汁でなく、9パーセントほど、果汁が入っているので美味しく感じた。それは農業を守るために、法律で定められている政策によるらしいと、Triacastelaの巡礼宿でスペイン人が教えてくれたことを思い出した。

今まで歩いてきた分まで、今日はよく食べたので、食後に沢山歩いた。ロータリーまで大通り(Rúa de Berlin)を戻り、いくつかの通り(Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Rúa da Algalia de Arriba, Rúa de San Miguel dos Agros)を通り、教会(Igrexa de San Martiño Pinario)を過ぎて、広場(Praza de Immaculada)から大聖堂に出て、巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を訪れたが、日曜日は午前中のみの開館で午後は閉じていて、月曜日は休館日で一日中閉じているため、火曜日にFisterraへ向かう前にまた訪れることにした。

旧市街に入る門(Porta do Camiño)の近くで美味しそうなピザ屋さん(Pizzeria Margherita)を見つけた。狭い路地(Rúa de Xerusalén)を通り、広場(Plaza de Cervantes)に面しているという教えてもらった美味しいガリシア料理のレストラン(Casa Manolo)を探すが見つからなかった。古本屋さん(Librería Couceiro)があり、とても美しい装丁の古い本が並んでいた。

いくつかの通り(Rúa de San Bieito, Rúa de Santo Agostiño, Rúa das Ameas)を歩いて、教会(Igrexa de Santo Agostiño)や広場(Praza San Fiz Salovio, Plaza San Félix)を楽しみ、大通り(Rúa da Ensinanza)から坂道(Rúa das Trompas)を下り、また、公園(Parque de Belvís)の坂道を上がり、巡礼宿に戻った。途中でSaint-Jean-Pied-de-Portで最初に巡礼事務所で一緒に通行証を作成した南アフリカ人Winnyとばったり会い、巡礼を一緒に始めたオーストラリア人Amandaは、途中で足を痛めてしまい、巡礼宿でお手伝いをする仕事を得て、二週間ほど休憩してから歩き出したと聞いた。

巡礼宿の近くでLourdesと同じAve Mariaの鐘の時報が聞こえてきた。巡礼宿に戻り、日記を書き、直ぐに眠りについた。昨日は徹夜した上、連日40kmも歩き通したため、足の疲れが全身に回ってきて疲れていた上、久しぶりに寝心地が良いベットで寝ることができたので、直ぐによく眠れた。

Santiago de Compostelaは、914年にurbe Compostella、12世紀初の《イリヤ年代記(Cronicon Iriense)》で「埋葬された土地からコンポステーラと称される(Compositum telus, a quo dicitur Compostella)」と記録され、ラテン語 「聖ヤコブ」 Sanctus Iacobusと 「墓地」 compositum < 「整然とした」compositus < 「並べる」compono < 「共に」con- < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語ḱóm + 「置く」pono < 古ラテン語pozno < イタリック祖語*pozinō < *po + *sinō < 印欧祖語「から」*h₂pó + 「産む」*tḱi-né-ti ~ *tḱi-n-énti < *tḱey- が語源とされたり、「星の土地」Campus Stellaeが語源とされるが、実は Ponferrada郊外のCompostillaと同じく、ガリシア語「整然とした」composta < ラテン語compositusに接小辞-ella < ラテン語-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源である可能性が高い(Salustiano Portela Pazos (1957). Origen del topónimo compostela, Compostellanum 2(4): 681-704.)。

紀元44年に大ヤコブがエルサレムで殉教して弟子たちが船で遺体をガリシアまで運び、森(Liberum Donum)に埋葬したとされる。411年にガラエキアのスエビ王国(Regnum Suevorum)が支配して、561年にIria Flaviaの司教座が置かれ、585年に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)に編入された。711-39年に西ゴート王国の滅亡とともにアラビア人が侵入して、750年頃にアストゥリアス王国(Asturum Regnum)に編入され、 813年に聖ヤコブの墓が羊飼いにより発見され、818年にイリア・フラビア司教テオデミルス(Theodemirus, c. 780-847)がアストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, 760-842)に報告をして、聖ヤコブのために聖堂を立てた。

ローマ教皇レオ3世(Leo III)やカール大帝(Charlemagne, 748-814)に認定され、844年にアストゥリアス王ラミーロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)がクラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン2世(عبد الرحمن بن الحكم / ʿAbd ar-Raḥman ibn al-Ḥakam, 792-852)の軍勢に押されて士気を下げていたとき、白馬の騎士が現れて、戦に勝利したという伝説から、聖ヤコブへの信仰が高まった。

950年にフランスのLe Puy-en-Velayの大司教(Godescalc)が初めて巡礼をして、貴重な書籍(Paris, Bibliothèque Nationale de France, Latin 2855)を持ち帰った。997年にはアルマンソル(المنصور بن أبي عامر / Almanzor, 939-1002)の攻撃を受けたり、イベリア半島南部のイスラム勢力に脅かされながらも、《コンポステラの歴史書(Historia Compostelana)》によれば、1101年に大司教ディエゴ・ゲルミレス(Diego Gelmírez / Didacus Gelmirici, 1069-1149)が一大巡礼地として整備した。

現在の大聖堂は、1075年にカスティーリャのアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の治世にトゥールーズの聖セルナン修道院(Saint Sernin)をモデルとして建造が始まり、1122年に完成して、 1211年にレオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)が奉献した。主祭壇の下には地下墓地(Catacumba)があり、829年に建てられた最初の教会の構造が残されていた。

1173年のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂にある《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Jacobusと記録され、また、「最も素晴らしいあらゆる喜びに満ちた使徒の町Compostela。ここには栄えある聖ヤコブのご聖体が安置されており、スペインの他のいかなる都市よりも幸多く気高い(COMPOSTELLA apostolica, urbs excellentissima, cunctis deliciis plenissima, corporale talentum beati Jacobi habens in custodia; unde felicior et excelsior cunctis Hispaniae urbibus est approbata.)」と形容された。

CAPITULUM hujus Almae Apostolicae et Metropolitanae Ecclesiae Compostellanae sigilli Altaris Beati Jacobi Apostoli custos, ut omnibus Fidelibus et Peregrinis ex toto terrarum Orbe, devotionis affectu vel voti causa, ad limina Apostoli Nostri Hispaniarum Patroni ac Titularis SANCTI JACOBI convenientibus, authenticas visitationis litteras expediat, omnibus et singulis praesentes inspecturis, notum facit: Dnum (Dnam) (prénom) (nom) hoc sacratissimum Templum pietatis causa devote visitasse. In quorum fidem praesentes litteras, sigillo ejusdem Sanctae Ecclesiae munitas, ei confero. Datum Compostellae die 11 mensis Maii anno Dni 2008. Secretarius Capitularis pro Peregrinis

「証明書、聖なる使徒かつ諸都市の大聖堂、使徒ヤコブの祭壇の印章の管理者は、全ての誠意なる者、かつ、世界の至る地から、献身の行為の結果として、我らがスペインの守護聖人である聖ヤコブの墓へ巡礼してきた人たちに対して、この証明書を読むことになる全ての人に対して、(巡礼者の氏名)が、崇高なる聖堂を敬虔な理由に基づいて恭しく訪れたことを証明する。故にこの聖なる教会が所有する印章により認証されたこの証明書をこの者へ授与する。西暦2008年5月11日」

2008年5月12日(月)33日目(Santiago de Compostela: Albergue Seminario Menor)

街の中を散策して、美味しいパン屋さんを見つけたり、聖ヤコブの廟に詣でたり、夜には巡礼仲間たちと記念撮影をしてお別れ会を楽しんだ。長い巡礼路では色んな人と会って別れてを繰り返して、お互いに気づかいながら、無事に聖地までたどり着けた喜びを分かち合うことができた。

今日はとても疲れていたので、午前8時半まで眠っていた。午前9時頃に支度を整え、父がEstellaで夕食でご一緒したアメリカ人Richardと偶然に再会して住所交換をした。

それから、Santiago de Compostelaの街に出かけた。見晴らしが良い展望台(Miradoiro de Belvís)を通り抜けて、街を眺めながら、市場(Mercado de Abastos)に降りてゆく途中に小学校(Centro Concertado de Ensino Compañía de María)があり、通学の時間で大混雑して大渋滞していた。

市場を少し過ぎてから、スロープ(Rúa de Tras San Fiz de Solovio)を登りゆき、二つの広場(Praza San Félix, Plaza de Entrepraciñas)の更に奥にある広場(Praza da Fonte Seca)から路地(Rúa da Caldeirería)を左に少し入った所に小さなパン屋さん(Pastelería Tentación)を見つけ、美味しそうなパイ、また、サラミを挟んだパンなど選り取り見取りにあり、買って歩きながら食べた。

目立たない所にある小さなお店だが、スペイン人がひっきりなしに出入りしていたので、確かに味も良い上にとても安かった。特にミルフィーユ状のお菓子は、 クリームが沢山入れられていて甘すぎず、今まで食べた中でも信じられないほど美味しかった。父も思い出に残る味だと大絶賛していた。近くの広場(Praza de Mazarelos)で美味しいパンを食べてから、旧市街に入って散策をした。

大聖堂に至る道を失い、教会(Capela das Ánimas)まで行き過ぎたとき、近くの広場(Praza de Cervantes)に食料品店(Cepeda)があり、イチゴ味のヨーグルト飲み物を買った。小さな食料品店でとても安くて驚いた。1888年に創業しており、街に根差したお店だった。旅ではその場所に根差したお見せに入ると、ただ物を買うだけではなく、街の雰囲気も味わえて面白いと感じた。

それから、広場(Plaza de la Azabachería)から、1740年に作られた北門(Fachada de la Azabacheria)から大聖堂に入り、静かな内部を見た。観光客も余りおらず、とても静かだった。祭壇に聖ヤコブ像があり、祭壇の下に入ることができる入り口を発見して、中には一人修道士がいて、聖ヤコブの墓を見張っていた。聖ヤコブ像にはヨハネの黙示録にあるよう、12個の宝石が付いていたが、1つだけ失われていた。昨日のミサの最中に聖ヤコブ像の後ろに人がいて、何かと気になっていたのが、この通路だった。地下には、聖ヤコブの銀製の棺があり、少し離れた所から見られた。(祭壇下の地下墳墓こそが、聖ヤコブの亡骸を納めた極めて重要かつ現在の建物より古い時代の教会の遺構を伝えているそうである。)そこで、ゴミ箱の中を撮影していたフランス人とまた会った。

1103-17年に作られた南門(Fachada de las Platerías)から大聖堂を出ていくと、広場(Praza das Praterias)で昨日のミサで特別席に招待してくれたドイツ人Ernstとばったり会った。彼も同じ巡礼宿(Seminario minor)に泊まっていて、快適に過ごせていると話していた。

(南門にはΑとΩが彫られており、ギリシア文字の最初と最後の文字から、普通は始まりと終わりを意味しているが、こちらでは、逆にΩからΑと書かれており、新たな人生の生まれ変わりを意味する。)

それから、今は大学図書館(Biblioteca Universitaria / Universidade de Santiago de Compostela)として使われている1522-44年に建てられた司教館(Pazo de Fonseca)を訪れて、旧市街の中心通り(Rúa do Franco)を散策して、新市街の方向に歩き、商業地に入った。大通り(Rúa da Senra)はとても賑やかで人通りも多かった。Burger Kingの前で昨日のミサで綺麗な歌声で先唱していた修道女と会い、挨拶をすると、少し会話をした。彼女はきれいなフランス語を話した。旧市街に戻る途中、ピザ屋さんがあり、スペイン人がひっきりなしに出て来るので、夕食か昼食に食べることにした。

また、少し道を行くとSupermercadoの袋を持った人が沢山歩いてきて、大通り(Rúa de Montero Ríos)を少し行くとCarrefour Expressを見つけて入った。ここも面白くて、入り口の所でさっとパンや飲み物が簡単に買えて、奥がSupermercadoになっていた。

パン菓子の詰め合わせ(Carrefour Surtido de pasteles a granel)、カマンベールチーズ(Queso Camembert)、アイスクリーム(Mini sándwich sabor nata)、ドリトス(Nachos sabor queso)、ピーナッツ(Cacahuate Colombia)、コーラ味のゼリー(Gelatina Cola)、ポテトチップス(Carrefour Patatas fritas con sabor a queso)、アイスサンド(Carrefour Sándwich de duo nata)、コーラ(Cola Light Gold)、トマト(Tomate bola)、イチゴ(Fresón tarrina)、チェリー(Cereza tarrina)や巡礼証明書を入れるクリアファイル(Carrefour Clasificador plástico A-4)を買った。

Supermercadoの前のベンチを発見して食べていると、沢山の人が通りがかり、皆、街の中でアイスクリームを味わう私を不思議そうに見ていた。コーラ味のゼリー、アイスクリームがビスケットに挟まれていて、半分チョコレートでコーティングされているアイスサンドに驚いていた。

それから大通り(Rúa da República de El Salvador, Rúa do Hórreo, Plaza de Galicia)などを散策してから、旧市街の周りを全てみたいと思い、くまなく歩き回って、門(Porta da Mámoa)から旧市街の通り(Rúa das Orfas, Rúa da Caldeirería)を行き様子を伺い、アストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, 760-842)の石像がある広場(Praza de Entrepraciñas)で父と別れた。父は足が疲れていたため、部屋でゆっくり休みたいと巡礼宿に戻った。

大聖堂の前に居るとFelipeとGloriが丁度入ってきて、今ここに着いたばかりだ!とかなり興奮していた。皆で巡礼の成功をとても喜び合った。午後7時に皆で中央広場に巡礼仲間が集まることを教えてもらい、集まりに行くことを約束して、彼らと別れた。大聖堂をまた訪れて、全ての祭壇や、装飾彫刻やステンドグラスやオルガンなどをくまなく見てから外に出た。やはり、ロマネスク様式の彫刻で最高傑作とされる栄光の門(Pórtico da Gloria)の聖ヤコブ像は表情が豊かで石に彫られているとは思えないほどだった。巡礼者はこの門の柱をさすり続けたため、手の跡が残るほどに窪んでいた。

Pórtico de la Gloria de la Catedral de Santiago de Compostela [1168-88]

Siestaの時間帯になり、お土産屋さんを含めて、全て閉まっていた。500年前ほどに作られた地図や現代の地図を探し求めた。地図をどこで売っているのかをたずねると、お土産屋さんは商売っ気がなくて、優しく本屋の場所まで書いてくれた。 大聖堂近くの小広場(Rúa de San Francisco) でその本屋(Libreria Medica)を見つけ、500年前の地図のファクシミリ求めた。

Siestaが終わり、本屋さんが開いたので、通り(Rúa do Vilar)で現代の地図を本屋(Libraría San Pablo)で求めた。帆立貝のキーホルダーを同じ通りのお土産屋さん(Benvido)で買い求めてから、一旦、巡礼宿(Albergue)に戻った。父も大分くつろいですっきりしたと話していた。15分ほどして、午後5時半になり、午後7時に間に合うように町の中心へ急ぎ、昨日に見つけたピザ屋(Pizzería Margherita)でマルゲリータピザと飲み物、ニンニク入りパンのセットを注文して食べた。

ピザもニンニク入りパンも美味しかったので、三種のチーズピザを追加注文すると嬉しそうに焼いて作ってくれた。食べていたら、午後7時10分前になり急いで出た。ピザ屋さんの店員さんの友達が入って来て、お客さんたちに構わず話し込んでいたとき、ドイツ人客が入ってきたが、店員さんが素っ気なく対応していたため、怒って出て行ってしまった。お国柄の違いを感じた。しかし、私たちにはとても感じよく、注文してから、直ぐに焼いてくれて、熱々の美味しいピザを食べることができた。

博物館(Fundación Eugenio Granell)の近くの通り(Praza do Toural)に面したSupermercado Froizでシャンプ(Shampú)と飲み物の缶(Refresco de manzana KAS Lata)を買い、直ぐに急いで通り(Rúa do Vilar)を歩いて、大聖堂の前の広場(Praza do Obradoiro)に行くと段々と集まり始め、少し経った頃、皆で集合写真を撮った。巡礼者は皆、たった今、到着したばかりで大興奮していた。

アメリカの看護婦さんJoanieと会い、父と私といろいろとお話したら、あなたはかなりユニークだから、日本ではなく、アメリカに来たらいいと言っていた。ずっと一緒だったアイルランド人Rosaryと再会した。また、FelipeとGloriが私を見つけて、良く来たねと彼らはものすごく興奮していた。

それから、大聖堂の前の広場(Praza do Obradoiro)で皆で記念撮影をして、色んな人と話した後、皆で広場(Praza de Fonseca)に面したガリシア料理を出してくれるカフェ(Casa Barbantes)の屋外テーブルに座り、飲み物や酒を注文して話し込んだ。Felipeはずる賢くて、1€でスーパでワインを買って隠し持ち、店員さんがいなくなると、秘かににやにやとしながらコップに注いで飲んでいた。

Felipeはどんどん酔っていき、色んな人にBuen camino!と挨拶をして、返事がもらえないと巡礼者なのにあいさつしない人に巡礼者の心がないねと叫んでいた(通りがかりの人からしたら、酔った人に絡まれたと思われていただけかもしれない)。Felipeは独りで巡礼を始めたのに途中で仲間を見つけてこうして気心の知れた皆で一緒に食べられることは、本当に素晴らしいことだと言っていた。

巡礼路では人とのコミュニケーションを大事にしてきて、沢山の友達ができていた。最後の数日間殆んど人と交わらず、40キロ近く歩き続け、どんどんハイペースで歩いてきたため、Santiago de Compostelaに着いた時は、殆んどが知らない人だったが、少し遅れてどんどん巡礼仲間が到着した。

FelipeとGloriaとRosaryとPortomarinで遅れた私たちに枕をわざわざ持ってきてくれたIsabellaだけが知っている人だった。皆で話しこんで、ハンガリー人の巡礼者と沢山の話ができた。バルトーク(Béla Bartók, 1881-1945)やコダーイ(Zoltán Kodály, 1882-1967)など、ハンガリーの音楽家の話をすると、とても喜んでいた。Felipeは他の巡礼者が通ると、相変わらず興奮して、ワイン瓶を片手に一緒に飲もうと誘っていた。そうして、5、6人で食べ始めた仲間がどんどん増えて数倍になり、片方のバーに巡礼者は入り切れず、外の2つの店にまたがり、皆で料理を注文して色んな料理を味わえた。

午後8時頃になって、お話会兼お別れ会はお開きになり、Felipeと一緒に巡礼宿の方に向かった。皆、巡礼を終えて、ご褒美として、巡礼宿に泊まらず、ホステルに止まり、一晩に30€も払っていた。皆、巡礼宿に帰るのかと思いきや、また、二次会が始まるそうで、隣の広場(Plaza Franco)に面したレストラン兼バーみたいな場所で食べ始めたので、FelipeとGloriaとRosaryに最後の別れをした。Felipeが「あなたの心が好きだから、絶対にそれを失わないでね」と別れ際に強く抱きしめて私に言った。

そして、夜の美しい街を楽しみながら、巡礼宿に戻ると、午後10時半を回っていたので直ぐに寝た。巡礼宿の前の扉は閉まっていて、カメラの方を向くと電子錠がガチャッと開く、最新式のセキュリティー・システムだった。事務所には管理人がいて開けてくれた。しかし、Londonに長く住んでいるスペイン人Joséがタオルを干していたが、無くなってしまい、失望していたので治安が良いとは言い切れなかった。ホスピタレーロも荷物の盗難には気を付けて下さいと言っていたが、もしかしたら、干していたタオルはホテルの人が片付けてしまっただけかもしれないとも思った。

Santiago de Compostelaの街並みを巡礼宿(Albergue Seminario Menor)の前から臨む

2008年5月13日(火)34日目(Santiago de Compostela-Sarela de AbaixoBarcia-Carballal-Villestro-Ventosa-Lombao-Aguapesada-Carballo-Reino-Burgueiros-Pontemaceira-Barca-Chancela-Negreira: Albergue de peregrinos de Negreira)

Santiago de Compostelaで巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を見学して、大聖堂を訪れてから、街を離れてFisterraに向かい始めた。川沿い(Rió Sarela) の近くに教会(Igrexa do Carme de Abaixo)があり美しい場所で休憩をした。道を間違えて、見晴らしの良い、小高い丘(Mirador de Santiago)に上がろ、町を一望できて楽しんだ。それから、巡礼路に戻ることができたが、父の足がむくんできてしまい、父はSantiago de Compostelaに引き返して、Fisterraまでバスで来ることにした。私は山道を歩き続けて、Pontemaceiraの美しい町を通り、Negreiraに泊まった。

今日は午前8時に起き、午前9時少し過ぎに巡礼宿(Albergue)を出た。市場(Mercado de Abastos)の周辺を歩いて、昨日のパン屋さんを探して、路地を入ったが、小さすぎて見つけられなかった。

午後10時になる2分前、 巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を訪れると、係の人がとても感じ良く、しかも、入場料を取られず無料で入館できた。上質のパンフレットを頂いて、展示室に入ると、直ぐに世界の巡礼路のパネルがあり、中に熊野神社や四国のお遍路、富士山など日本の巡礼路もあった。熊野古道の巡礼路の写真が、インドの巡礼路の隣にあった。500年前の巡礼路の手引書や様々な聖像が手が触れられるように展示されていて、至近距離で見ることができた。

昔の巡礼者の携帯物の展示もあった。金を延べ棒にしたり、リング状にしたり、携帯金を隠して、盗賊などから、安全を図られていて、巡礼の旅がどれほど大変であったかが分かった。大聖堂の変遷が事細かに年代を追って示されていて、最初期の5世紀の聖堂の花崗岩の断片まであり、起源が古いことにとても驚いた。通行証(credential)や巡礼証明書(compostella)や携帯可能な巡礼者用の聖書などがあった。階段を上がり、大聖堂で実際に使われていた聖具が沢山展示されていた。その中の1つの装飾が極めて美しく高度なものだった。薔薇を銀で作っていて、花びらがとても繊細でどう見ても、素晴らしい職人技だった。その奥は、聖ヤコブや巡礼者の像が何十体も並んでいて圧巻だった。

その更に奥には、素晴らしい絵画が何点かあり、手前に目立たないが、貴重な品々があった。木製で小さい祭壇が開き、至る所に骨があり、ラベルを見ると、聖ルチア(Santa Lucia, 283-304)など、聖人たちの骨が収められていた。驚くべきことに、こうした貴重な展示物でさえ、囲いなく触りたければ、触れるようになっていた(もちろん手を触れなかった)。しかも、ケースには防犯のため、絶対に近づいたままで居ないで下さいと書いてあった。博物館では巡礼者に優しく、無料で拝観できるだけでなく、荷物を預かっていてくれるのでゆっくりと見れた。預けた荷物を出してもらい、博物館の受付でFátimaのパンフレットをもらい外に出ると午後11時になっていた。

大聖堂に付属した教会(Parroquia de Nosa Señora a Antiga da Corticela)が開いていたので中に入った。中央の祭壇は美しく、大事に花々に彩どられていた。側面には聖人の棺を似せて作られていて、聖人が熱心に信仰されてきたことを物語っていた。

大聖堂へ歩いてゆき、町を離れる前、最後に中に入った。主祭壇を横目に見ながら、裏側の広場(Praza das Praterías)に出て、巡礼事務所(Oficina de Acogida al Peregrino)がある通り(Rúa do Vilar)を歩いた。父に広場の階段で待っていてもらい、昨日聖ヤコブの貝のキーホルダーを買ったお店 (Benvido) で三つ追加で求めた。また、煙を振りまく香炉のミニチュアも求めた。

父の所へ戻ると私のことを聞いてきたハンガリー人の若い巡礼者がいたと話していたが、誰か特定できなかった。(昨日に夕食でお話をしたハンガリー人と思われる。)

今日もよく知っている人が少なかったが、一、二人知っている人が新たに着いた。そこでまた記念撮影をした。大聖堂の中央広場(Praza do Obradoiro)から出た所でTelebancoでお金を下ろした。中央広場で巡礼仲間が撮ってあげるよと声をかけてくれて、父と記念撮影をしてから街を出た。

Santiago de Compostelaから、Fisterraに向かい、道(Rúa de San Francesco)に面した修道院(Convento de San Francesco)を通り、途中で歩行者も車もひっ切りなしに通っているにもかかわらず、線が引かれておらず、何度も車と歩行者がぶつかりそうになるところに遭遇した。事故が起こらないのが不思議なほど危険な場所だった。

始めは北の方向に行ってしまったが、西に進路を修正して進むと、 町を少し出た所に大通り(Costa de Santa Isabel)に面した見晴らしの良い公園(Parque do Monte Pío)が高台にあり、美しい大聖堂を中心としたSantiago de Compostela市街の全貌が一望できて美しかった。

そこで昨日Supermercadoで買ったパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel) にいれたチョコレートバー(Barra de chocolate)、アップルパイ(Tarta de manzana)、大好物のミルフィーユ(milhojas)などを食べて一休みした。特にミルフィーユが美味しかった。粉砂糖が降られていて、中はパイ生地でカスタードクリームが入れられ、味のバランスが良く取れていた。

町を出ていくとちょうどパトカーが通ったので道をたずねると、仕事の途中なのにとても丁寧に教えてくれた。丘から通り(Rúa do Monte Pío)を少し下り、幹線道路(Rúa do Carme de Abaixo)に出て、教会(Igrexa do Carme de Abaixo)近くの小川(Rió Sarela)に美しい橋が架けられていて渡ろうとすると、先に行った二人のスペイン人が直ぐ戻って来て、詳しく説明してくれた。英語をきれいに話す人だった。Finisterraへの道の位置とPontemaceiraが限りなく美しいから見逃さないでねと教えてくれた。特にガリシア人はとても繊細で気遣いがあり、カスティーリャ人は少し大雑把だが、エネルギーに満ちておしゃべりなど、スペインでも山脈を隔てると人の気質が大きく違い、驚きを感じた。

川沿い(Rió Sarela) の教会(Igrexa do Carme de Abaixo)がある美しい風景の場所で休憩をした。広場に面した家の人が顔を窓から出していて会釈すると喜んでいた。道に迷っていたそうなのを見取ってくれ、近くに住んでいる人を連れて来てくれて、Fisterraらへの道を教えてくれた。小川に沿う小道を歩いて行くと、小さな路地(Rúa Rueiro de Figueiriñas)に入り、そこに4人のスペイン人がいた。一人は英語が流暢でPamplona近郊出身で日本語で自分の名前を書いて欲しいと手帳を差し出した。

彼らは石を運ぶ仕事があるから、通りの仕事場に戻っていった。溜まった石を運んでいる間に休んでいて、とても賑やかに仕事を楽しんでいた。仕事をやっている所を通りかかり、石を一つずつ父と手伝うと、皆がとても喜んで盛り上がった。彼らは歌を歌いながら楽しく仕事をして、日本人も見習わうべき、スペイン人との微笑ましい時間だった。皆、地元の人は優しく、「良い旅を!(¡Buen viaje!)」と言ってくれた(Santiago de CompostelaからFisterraやMuxíaはextensiónだからである。)

それから、川沿い(Rió Sarela)に美しく花が咲いた道を爽やかな風を切りながら歩いていたとき、古い家の一部の破片が落ちていて、魚や人の顔のような不思議な絵(Petroglifos)が刻まれていた。(印欧祖語「流れ」*ser- + ガリシア語 接小辞-ela < ラテン語-elus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源。)この地区は鄙びていて、廃墟の家もいくつかあるが、美しい場所だった。

道を少し失いながら、地元の人が助けてくれて、赤い矢印に沿いながら道(Camiño Regueiro)を進んだが、違う道(Rua Sarela de Abaixo)を登ってしまい、山の中に入り、キャンプ場のような所(Sendero Pedroso)を通り、急な坂道(Estrada do Pedroso)を登りきると、山の頂上の電波塔(Redes de Telecomunicación Galegas)がある展望台(Vigilancia de incendios)まで来た。

そこからの眺めはとても美しく、Santiago de Compostelaの街だけではなく、今まで通ってきた道や最寄りの村々まで全て見えてとても感動して、しばらく景色を眺めまた。巡礼路には紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)やルピナス(Lupinus angustifolius)、黄色のセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の花が咲き乱れていた。

それから、少し歩いて小屋(Casa de las tejas verdes)まで下り、車にいる人に道を聞くと親切な人が出てきて、丁寧に地図を見取りながら教えてくれた。巡礼路が通っている村(Carballal)を目指していくと、道路(DP-7803)に出たとき、一台の車が通り、道に迷っていると感づいてくれて止まってくれた。一生懸命、英語の片言で話しかけてくれたが、スペイン語で良いですよと言うと地図をみながら丁寧に教えてくれた。森をショートカットして、来た道に戻ると先ほど通ったような道(Rua Sarela de Abaixo)に出た。教えて頂いた通りに歩いて行くと、無事に巡礼路に戻れた。

父の足がむくんで張ってきたため、午後5時半にCarballal(ガリシア語carballo <ラテン語「樫」carba < 「曲がる」curvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós +‎ ガリシア語 接小辞 -llo < ラテン語-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós)に入る前の山道で別れた。父は巡礼路をSantiago de Compostelaへ逆に歩いて戻り、私はMuxía経由でFisterraに歩き、3日後に父がバスで行き、Fisterraで落ち合うことにした。山道を少し歩いていたら、父が私の通行証(credential)を渡し忘れて引き返してきた。それから、一人で山道をひたすら歩き、途中にとても急な坂を登り、Negreiraを目指した。

Villestro(ガリシア語「村」vila + 「敷石」estro < estrar < ラテン語estrado < 「床」stratum < 印欧祖語「広げる」*sterh₃-が語源)で川(Rió Roxos)を渡り、幹線道路(AC-453)沿いに歩いた。

Ventosa(ガリシア語「風が多い」ventoso < ラテン語ventosusが語源)を進み、Lombao(ガリシア語lombán <「丘」lombo < ラテン語lumbus < イタリック祖語*lonðwos < 印欧祖語*londʰ-wos < 「土地」*lendʰ-+‎ 接尾辞-án < ラテン語-anus < -nus < イタリック祖語*-no < 印欧祖語*-nósが語源)の手前で小川(Rego Luceiro)を渡った。

午後7時半にAguapesada(ガリシア語「水」agua < 古ガリシア語auga < ラテン語aqua < イタリック祖語*akʷā < 印欧祖語*h₂ekʷeh₂ < 「早い」*h₁eḱ- +「重い」pesada < 「測る」pesar < ラテン語penso < イタリック祖語*pendō < 印欧祖語*(s)pénd-e-ti < 「引く」*(s)pend-が語源)で小川(Rego Dos Pasos)に架けられた古い橋を渡った。赤い屋根の石造りの家が立ち並ぶ青い草原が美しかった。

雑木林の中の巡礼路(Aldea Castiñeiro de Lobo)を歩いていたら泉(Mar De Ovellas)で巡礼者が一休みしているのを見つけた。ドイツ人の父親と息子と娘の三人で、息子さんが16歳、娘さんが18歳の丁度同じ年頃で流暢に英語を話した。父親がイタリアの国旗が付いたセーターを着ていたが、Hamburg出身のドイツ人だった。Santiago de Compostelaの空港から歩いてきて、一日目だそうで不思議に思い、巡礼路を歩こうとした訳をたずねたら、カナダ人の友達が家に遊びに来て、彼にヨーロッパの歴史的で美しい所を連れて行くために一週間の学校休みの合間に来ていた。ドイツ人からするとスペインは同じユーロ圏で飛行機に乗れば数時間で飛んで来れて国内旅行のようだと話していた。

Carballo(ガリシア語「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源)の村の中に立派な十字架が建てられていた。辺りはまるで日本の里山の田園風景のようだった。Reino(ガリシア語「王国」reino < ラテン語regnum < 「王」rex < イタリック祖語*rēks < 印欧祖語*h₃rḗǵs < 「正しい」*h₃reǵ-が語源でサンスクリットराजन् / rā́jan < インド=イラン祖語*Hrā́ȷ́āや古アイルランド語「王国」ríge < ケルト祖語*rīgyomと関係)まで舗装道がとても歩きやすかった。牧場で牛が草を食んでいた。高床式穀倉(hórreo)を不思議に思ったらしくてきかれた。

Burgueiros(ガリシア語「干し草」burgueiro <「丘」burgo < 民衆ラテン語burgus < ゲルマン祖語*burgz <「高い」*bʰerǵʰ- + 接小辞-eiroが語源)からは少し山道に入り、直にPontemaceira(ガリシア語「橋」ponte +「林檎の木」maceira 古ガリシア語maçẽeyra <「林檎」maçãa < 民衆ラテン語*mala < ドリア方言μᾶλον / mâlon < 印欧祖語*(s)m̥h₂l-Hō < *(s)h₂émlo- < カルトヴェリ祖語「ナシ」*msxal- +‎ -eira < ラテン語-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源でヒッタイト語𒊭𒈠𒇻 / šamalu-と関連)に着いた。先ほどSantiago de Compostelaでお勧めされた美しい村で大きな川(Rió Tambre)に美しい中世の橋がかかり、釣り人が何人かいて風情があり花を添えていた。また、街並みも美しく石積みされた赤い屋根の家々が立ち並んでいて見事だった。立派な紋章が付いている家や石造りの十字架があり、昔に貴人などの落人がいたような風情のある村だった。

それから、道路(AC-447)や平坦な田舎道や起伏ある雑木林の中の道を行き、いくつかの村を通り、Negreiraに着いた。Barca(ガリシア語「筏」barca < ラテン語*barica < baris < 古典ギリシア語βᾶρις / bâris < コプト語ⲃⲁⲁⲣⲉ / baare < 中エジプト語br < 古エジプト語bꜣjrが語源)に葡萄畑の横に美しい家があり、Chancela(ガリシア語「印章」chancela < ラテン語cancellus < 「桝を引く」cancer < イタリック祖語*karkros < 印欧祖語*(s)kr̥-kr̥- < 「切る」*(s)ker-が語源)で幹線道路(Avenida Santiago / AC-447)に出る手前に美しい高床式穀倉(hórreo)があった。

Negreira(ガリシア語「奴隷」negreiro <「黒」negro + -eiroが語源)の街中に直ぐに入り、ピザ屋さんや薬屋さんなど、沢山の商店があり、大きな町だった。街の入口の中央のロータリーには牧人の石像(Estatua á Vaca)があった。大きなSupermercado Gadisを見つけたが、残念ながら10分前の午後9時に閉まったばかりだった。坂(Carreira de San Mauro / DP-5601)を下り、18世紀に建てられた教会(Capela de San Mauro)の前に立派な建物(Pazo do Cotón)があり、その下をぐぐり、 旧市街を抜けて、公営の巡礼宿の看板を辿り、街外れに食料品屋さんを見つけたが、そちらも閉まっていてがっかりした。街を抜けて橋を渡ると通り(Calle Patrocinio)に巡礼宿があった。

管理人が直ぐに応対してくれて、もうベットが無いそうだが、今は寒くないから外で寝ても寒くないので大丈夫ですよと案内してくれた。5、6人が外で寝るので、外で寝ることにした。アイルランド人Rosaryと再会して盛り上がった。父が足を痛めたから、数日Santiago de Compostelaで休み、Fisterraまでバスで来て、そこで落ちあい、Muxíaに行くつもりとお話した。Rpsaryも外で寝た。

それから、スペイン人やフランス人Michelと話をした。二人とも日本に住んでいたことがあり、スペイン人は経済の研究に東京、フランス人は京都に住んでいたので、日本話を片言ながら話すことができた。驚いたことにドイツ人の娘さんが、フランス語をとても流暢に話して、スペイン人がドイツ語と英語を話したり、皆は三カ国語は当たり前に話せることが多いと感じた。ファンタが0.75€で悪くないと思い、ホスピタレーロに両替してもらい買って飲んだ。

巡礼宿は寄付で運営され、お金を取らなかった。少しばかりではあるが、感謝の気持ちで寄付をして、ドイツ人とお話をして、外に出て寝袋の中で寝た。ドイツ人が寝る前に明日はOlveiroaで泊まれるけれども、小さいので直ぐに一杯になるから、争奪戦になるよと教えてくれた。ドイツ人も、フランスには昼休みがあるが、スペインにはSiestaで眠りタイムまであり、笑ってしまうねと話していた。

Pontemaceiraの美しい中世の橋

2008年5月14日(水)35日目(Negreira-Zas-Rapote-Piaxe-Portocamiño-Vilaserio-Quintela-Pedrouzo-Maroñas-Santa Mariña-Bon Xesús-Gueima-Vilar de Castro-Lago-Abeleiroa-Corzón-Ponteolveiroa-Olveiroa: Albergue de peregrinos)

雨が激しく全身がびしょ濡れになりながら、早朝から午後の少し過ぎまで、霧がかりぬかるんだ巡礼路を歩き続け、立派な高床式穀倉(hórreo)や石製の十字架を見て、Olveiroaの村にたどり着いた。

今日は外がとても臭かった上、ドアの前で人が通るたびに煩くて眠れなかった。おまけに犬が遠くで吠えていたり、車が通ったりして騒音も酷く、眠りが妨げられたため、午前5時に目が覚めてしまい、もう歩き始めて良いかと思い、午前5時半にドイツ人の巡礼者と一緒に町を出ることにした。

町の出口で少し道に迷ったが、二人で相談しながら、直に正しい道(DP-5603)を得て解決した。特にFisterraまでの道のりは標識も少なくて道に迷いやすいから注意深く歩いてゆこうと思った。

明るくなるまで森の中の道(Calle Negreiroa)を進み、Zas(1207年にJohannes Petri de Sazと記録、Saz, Sas, Saaz, Saasとも書き、ガリシア語「村」Sa, Saa < ラテン語「居住地」solum < イタリック祖語*solom、もしくはゴート語「家」*sala < ゲルマン祖語*salą < 印欧祖語「居住地」*selomが語源で古教会スラヴ語「村」ⱄⰵⰾⱁ / seloやリトアニア語「村」salà < バルト=スラヴ祖語*seloと関連)の手前で幹線道路(DP-5603)に戻った。村に高床式穀倉(hórreo) があり、巡礼路沿いにぽつんと質素な小さな美しい聖堂(Capela de San Mamede de Zas)が経っていた。それからしばらく幹線道路から離れて、草原や林の中の巡礼路を歩いた。

Rapote(ガリシア語「刈る」rapar < ゴート語*hrapōn < ゲルマン祖語「壊す」*hrapōną < 印欧祖語「触れる」*(s)kreb-が語源)の村に入る前に立派な洗濯場(Lavadeiro)があった。村の中で高床式穀倉(hórreo)を見た。村を通るとき、電気が付いている家があり、朝起きのスペイン人が多いのに驚かされた(もしくは、夜なべかもしれない)。また、しばらく野原の中の道を歩いた。

明るくなってきて、Piaxe(人名Pelagius < ギリシア語Πελάγιος /Pélagios <「海」πέλαγος / pélagosが語源)には1854年に建てられた新ロマネスク様式の立派な教会(Iglexa de San Mamede da Pena)があった。一緒に歩いてきたドイツ人はBar(Albergue Cafetería Alto da Pena)に寄り、一息をつくそうなのでここで別れて、私は先を急いだ。

Portocamiño(ガリシア語 「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per- +「道」camiño < 古ガリシア語camỹo, caminno < 民衆ラテン語camminus < ゴール語「ステップ」*kamman < ケルト祖語*kanxsman < 「ステップする」*kengeti < 印欧祖語*(s)kéng-e-ti < 「跳ねる」*(s)keng- + 接尾辞*-man < 印欧祖語*-mn̥が語源で古アイルランド語cingid < ケルト祖語*kengeti、サンスクリットखञ्जति / kháñjati < インド=イラン祖語*k⁽ʰ⁾ánȷ́ati、古典ギリシア語σκάζω / skázo < ヘレニック祖語*skəďďō、古英語hincian < ゲルマン祖語*hinkanąと関連)に入る前に幹線道路(DP-5603)に出た。村に中にも教会(Parroquia de San Mamede da Pena)があった。

Vilaserio(ガリシア語「村」vila +「荘厳な」serio < ラテン語serius < 印欧祖語*swer-yo-s < 「思い」*swer-が語源)を過ぎてから、幹線道路から分かれて田舎道に入り、小川(Rego de Forxán)を渡った。Quintela(ラテン語「五番目」quintanella < quintanaが語源)やPedrouzo(ガリシア語「石」pedra < ラテン語petra < 古典ギリシア語πέτρα / pétra + 接尾辞-azo < 古ガリシア語-aço < ラテン語-aceus < -ax < イタリック祖語*-āks < 印欧祖語*-eh₂-k-s +‎ -eus < イタリック祖語*-eos < 印欧祖語*-e-yósが語源)などを通り過ぎてひたすら美しい景色を楽しみながらのどかな巡礼路を歩いた。

Maroñas(ラテン語 人名Maroneus < 地名Maronea < ギリシア語Μαρώνεια / Marṓneia < 神名Μάρων / Márōn < エトルリア語𐌌𐌀𐌓𐌖 / maru < イタリック祖語「海」*mari < 印欧祖語*móriが語源)で立派な二棟の高床式穀倉(hórreo)、Santa Mariña(聖人名Sancta Marina, 120-139が語源)の12世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de Santa Mariña)や十字架(Cruceiro de Santa Mariña)を過ぎた。

今日はぬかるんだ田舎道を歩き、雨が激し過ぎて、快適で楽しい巡礼路ではなかったが、ひたすら歩いて進んだ。そこからは幹線道路(AC-400)に沿う歩きやすい巡礼路を進んだ。そして、また農道に入り、小川(Rego de Foxas)を渡り、しばらくなだらかな平原の中の一本道を歩いた。

Bon Xesús(ガリシア語「良い」bon < 古ガリシア語bõo < ラテン語bonus + 人名「イエス」Xesús < 古ガリシア語Ihesus < ラテン語Iesus < ギリシア語Ἰησοῦς / Iēsoûs < Ἰησοῦ / Iēsoû +‎ -ος - -os < アラム語  יֵשׁוּע‎ / Yēšū́ʿ < ヘブライ語יֵשׁוּעַ‎ / yəhôšuaʿ < 「神」יְהֹוָה YAVH < 「在る」ה-י-ה h-y-h < セム祖語*haway- + 「救う」הוֹשִׁיעַ / hōšī́a < アッカド語𒁹𒀀𒌑𒋛𒀪 / ausi'i < セム祖語*hušəy-が語源)の近くのGueima(人名Guillerme < ラテン語Gulielmus < ゲルマン祖語*Wiljahelmaz <「望み」*wiljô < 「望む」*wiljaną < 印欧祖語*wélh₁-ye-ti < *welh₁- +「甲冑」*helmaz < 印欧祖語*ḱel-mos < 「かぶる」*ḱel-が語源)の屋根付きバス停のベンチで初めて休憩をとった。Santiago de Compostelaで買った硬いチーズをSan PaioのBarでもらったパンにはさんで食べて、朝食を済ませた。

それから小さな村、Vilar de Castro(ガリシア語「集落」vilar < ラテン語villaris < villa + ガリシア語 前置詞do < 「より」de + 定冠詞 o < ラテン語「それ」illum +「城」castro < ラテン語castellum < castrum < イタリック祖語*kastrom < 印欧祖語*ḱs-trom < 「切る」*ḱes-が語源)から丘(Monte Aro)を上ると見晴らしがとても良かった。近くに大きな湖(Embalse de Fervenza)があった。

Lago(ガリシア語「湖」lago < ラテン語lacus < イタリック祖語*lakus < 印欧祖語*lókusが語源)やAbeleiroa(ガリシア語「ハシバミ」abeleira < 古ガリシア語avelãeira < avelãa < ラテン語nux abellana < 地名Abella < オスク語*Abella < 印欧祖語「林檎」*h₂ébōlが語源)を通り過ぎた。

それから美しい紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)やルピナス(Lupinus angustifolius)、黄色のセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の花が咲き乱れ、岩がごつごつ露出したカルスト地形のような場所を通る巡礼路だった。

Corzón(ガリシア語「心」corazón < 古ガリシア語coraçon < 民衆ラテン語*coratio < ラテン語cor < イタリック祖語*kord < 印欧祖語*ḱérd + ラテン語-tio < イタリック祖語*-tjō < 印欧祖語*-tisが語源)で18世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de San Cristobal)の墓地を通り過ぎた。ロッカーのような建物が建てられており、遺骨などが横穴式で置かれて葬られていた。それからも農道をひたすら歩いて、小川(Rio de Mazaricos)を渡ると直に村が見えてきた。

Ponteolveiroa(ガリシア語「橋」ponte +「オリーブ畑」olveira < ラテン語olivaria <「オリーブ」oliva < エトルリア語*𐌄𐌋𐌄𐌉𐌅𐌀 / *eleiva < 𐌄𐌋𐌄𐌉𐌅𐌀𐌍𐌀 / eleivana < 古典ギリシア語ἐλαία / elaíā < ミケーネ語e-ra-wa < ヘレニック祖語*elaíwā < 印欧祖語*h₁loywomが語源で古スラヴ語「油」лои / loiや古アルメニア語「油」իւղ / iwłと関連 + 接尾辞-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)から幹線道路(DP-3404)を行き、湖(Ponte Olveiroa)が見えてきたが、激しい雨の中、霧の中に霞むように見えただけだった。途中、雨が一旦止み、美しい虹が現れた。

霧がかった巡礼路を少し歩いていくと、速足のフランス人Jacquesが自分の後で転げて、ものすごい音がして倒れて驚いた。大丈夫かと声をかけたら、問題ないよとステッキを上げて答えたので安心した。道がぬかるみ、気を付けないと石が苔むしてつるつるして、直ぐに足を滑らせる悪路を歩いた。速足のJacquesにずっと付いて行き、森の中を通り、橋を渡ると急に開けてきて、Olveiroaに着いた。

午後1時に着いたが、今日は雨が断続的に降り、路面も濡れて水溜りが多い悪路のため、また、巡礼宿がこの先には目的地のFisterraまでしかなく、ここから更に先に歩くと逆に時間が遅くなってしまうため、早く切り上げた。巡礼宿は午後3時半まで閉まっていた。仕方ないので話し合い、巡礼宿の前にあるBar O Peregrinoで休むことにした。きれいに清掃されていて、居心地が良かった。

チョコレートドリンク(Colacao)を注文した。巡礼者用のメニュー(Prato combinado)があることを知り、目玉焼きとベーコンとハムにポテトフライのセットを注文した。フランス人Jacquesも同じものを注文して、フランス語で会話を楽しんだ。Bordeaux出身Léognan在住のフランス人で訛りのないきれいなフランス語を話した。すると、注文したメニューが来た。目玉焼きは半熟で美味しく、ベーコンもハムもポテトも沢山盛られていて量に驚いた。パンも付いて、意外に安くて、美味しかった(巡礼者用のメニューは9€が多い)。お腹一杯になり、温かいカフェの中で日記を書いていた。

店員さんはガリシア人らしく、優しく気が利いて、地図が濡れてしまっていたのを見かねて、コーピーメーカーの上に置いて乾かしてくれて、とても助かった。しばらくすると、オーストラリア人2人が来て、英語の会話になった。日曜のミサの話から、ラテン語をよく学んできた話となり、ラテン語や古典ギリシア語や古英語の研究の話をすると、彼らも言語学が興味があり、とても喜んでいた。オックスフォード英語辞典の話で盛り上がり、午後3時を過ぎたので、巡礼宿に向かうが、道が分からず、Barに戻り、フランス人Jacquesに道をたずねると、一緒に行こうと言ってくれた。巡礼宿の前で30分ほど待つと、管理人が現れた。皆、Albergueが開くのを心待ちにしていたので、拍手が上がった。

そして、チェックインして、ベットの争奪戦になった。皆が我さきにとベットを取るため、先に来た人が、先に選べず、急いだ甲斐も無く、とても残念だった。しかも、良いベットをとった人は、少ない毛布も独り占めして顰蹙を買っていた。皆の自己中心的な気持ちが疲れたときに現れることを感じた。そして、脚の浸水から逃れるため、スリッパに履き替えて、少し周りの支度を済ました後、靴下を洗い、手を乾かす機械で乾かした。キッチンに行き、スープを作り、飲みながら、日記を書いた。

ドイツ人の食事とご一緒して、ご馳走してくれたり、お茶やチョコレートをもらい、話が弾んだ。ドイツで流行っている日本の小説家について話していた。名前だけ聞いたことがあったが、私はむしろ現代小説より、古典文学や哲学などに興味があると話すと興味があるそうで話が盛り上がった。

カント(Immanuel Kant, 1724-1804)やヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788- 1860)やハイデッガー(Martin Heidegger, 1889- 1976)などを読んでいたと言うと、ドイツでは今はもう誰も読んでいないよと驚いていた。

食事に誘ってくれて、とても良い時間を過ごせた。 食事をしていると、パン屋さんの車が村に売りに来て、パンを買うことができた。一袋10€くらいで割高だが、こんな山中でパンを買えるとは期待していなかったので嬉しかった。また、野菜スープとは、別のクリームポタージュを作り、ゆっくりと飲みながら、日記を書き終えた。

午後6時半位に昨日の巡礼宿で話した日本に四年も暮らしていたフランス人Michelがやって来た。今日は激しい雨にとても苦しんだが、午後7時頃から晴れ間が見え、全てを乾かすのに丁度良い陽気となった。近くのBarでアルコールで火を起こしてくれて、皆で周りを囲んで温まった。そうしたほっとするひと時で会話がとても弾んだ。欧米人は日本人のように人のことをあまり考えず、暖房器具の上に自分が乾かしたいものを放って置かれていて見苦しかったが、巡礼宿は清潔で安心して眠りについた。

今日は食堂で一人だったため、人と話しが盛り上がることなく、ゆっくりと日記を書くことができた。この巡礼宿では、食堂と受付とドミトリーが離れていて、静かに時間を過ごすことができ、とても良かった。もし、受付から食堂の中が見えると、多くの人が挨拶をしてきて、今日あったことを思い出しながら書いてゆく作業が妨げられてしまうからである。今日は疲れたので良く眠れた。

Olveiroaの手前の山道で紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)や黄色のハリエニシダ(Ulex europaeus)が咲いていた

2008年5月15日(木)36日目(Olveiroa-Logoso-Camiños Chans-Cée-Corcubión-San Roque-Amarela-EstordeSardiñeiro-Escaselas Fisterra: Albergue de peregrinos de FisterraFin da Ruta Xacobea)

Santiago de Compostelaを出てから数日間はずっと霧がかった山道だったが、CéeやCorcubiónで山道が急に開けてきて、美しい海岸を見えてきて、一気に気分が上がった。山道は美しい花が咲き乱れており、雨上がりで映えて見えた。無事にFisterraに到着した。帆立貝のマークが付いた0.00kmのマイルストンを発見した。岬の灯台から一面の大西洋を望んだ。港での夕暮れは、とても美しかった。

今朝は少し長く、午前7時半まで寝ていた。午前8時少し過ぎに上のベットに寝るケベック人と少し情報交換をしてから出発した。巡礼宿では、皆の使用態度が酷くて、居心地が良くないため、あまりよく眠ることができなかった。最初は紫色や黄色の花が咲き乱れた山道をゆき、Logoso(ガリシア語「場所」logo < 古典ラテン語locus < 古ラテン語stlocus < イタリック祖語*stlokos < 印欧祖語*stel-が語源)の手前で小川(Rió de Hopital)に架かる橋(Puente Vao de Ripas)を渡った。

それから巡礼路は主に幹線道路(DP-3404)に沿い、雨の中を歩く途中、Hospital(ガリシア語「救護院」hospital, espital, spital < 後期ラテン語hospitale < ラテン語hospitalis < イタリック祖語*hostipotjālis < *hostipotis < *xostipotis < 印欧祖語*gʰóstipotis < *gʰóstis < 「食べる」*gʰes- +‎ 接尾辞*-tis + 「主人」*pótis + *-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源でバルトスラヴ祖語「主人」*gástipatis < スラヴ祖語*gostьpodь < *gȍspodь < 古スラヴ語ⰳⱁⱄⱂⱁⰴⱐ / gospodĭと関連)の先のBar O Casteliñoで朝食を取ろうとしているとき、昨日、朝から一緒に歩いたドイツ人と会った。

彼が言うには、巡礼宿には、Santiago de Compostelaで巡礼を終えたという気持ちが強いためか、Fisterraまでの道のりについて、遠足感覚(extensión)でしているためか、自分の足で歩かず、タクシーを利用して、ずるをして着いた巡礼者だらけであったから、使用態度も悪かったそうである。到着した順番も守らず、良いベットを独り占めしたり、更に布団を取り合ったり、洗濯物の乾燥のために人のことを考えず、暖房器具の上の洗濯物を平気で干せるような人たちは、当たり前にずるをするんだと彼は怒っていた。そうしたずるをする人たちが損をするのは、彼らの人生そのものだと、彼が強い口調で話していた。巡礼路においても、この有様で非常に困ったものだと感じた。

朝食はBarには立ち寄らず、道端の石に腰掛けて、カマンベールチーズ一切れを食べて終えた。それから少し行くとMuxíaとFisterraの分かれ道(Bifurcacion Finisterre - Muxia)にさし当り、右側(DP-3404)のMuxíaではなく、左側(DP-2302)のFisterra方面を目指した。

CorcubiónとCéeの美しい海岸を見たかったため、計画を変更して、先にFisterraに行き、Muxíaに後でバスで行き、Santiagoに帰ろうと考えた。(元は私が先にMuxíaも歩きで行き、そこからFisterraにまた歩いて、そこで父がSantiago de Compostelaからバスで来て落ちあい、またバスで戻るという考えであったが、実際に歩いて見ると悪路でFisterraまで余計に一日かかったため、三日でMuxíaへ行き、更にFisterraまで進むのは、時間的に難しいと途中で判明した上、)父ともFisterraからMuxíaに行けて、そこで一緒に巡礼を終えることができるため、父も喜ぶことになり良い考えと思った。

山道に入り、黄色い花が咲き乱れる巡礼路は美しかった。晴れのち曇りになり、時折太陽も姿を出してきた。年輩のフランス人の巡礼者に会い、その方たちは歌いながら歩いていて、巡礼路をとても楽しんでいた。いつもフランス人とちょうど馬が合う感じがした。思慮がありながら、物事の細かい所にこだわらないマイルドな大らかさが好きになるポイントであった。

山を歩いていくと立派な十字架(Cruceiro de Marco do Couto)とその先に15世紀に建てられた美しい小さな聖堂(Capela da Nosa Señora das Neves)があり、戸は閉まっていて中を窺えなかったが、自然と調和して、風情があった。教会の前には泉(Fonte Santa das Neves de Buxantes)があった。

途中とても美しい緑色の瑪瑙のような石が(Pedras Loiras)があった。それからしばらく山道(Brañas de Fonte Romeu)を歩くと、また谷あいに開けた場所に15世紀に建てられた教会(Ermita de San Pedro Mártir)がぽつんとあり、苔むした立派な十字架の石柱が建てられていた。昔には村が近くにあったかもしれないと感じた。教会の前に屋根付きの休憩場所があり一息をついた。また少し歩いていくと、目の前に海が姿を現してきた。遂に海岸線にたどり着いたと興奮してAldea os Camiños Chans)は終わり、幹線道路(Rúa Campo do Sacramento / AC-550)と出会った。

小さな村Camiños Chans(ガリシア語「道」camiño < 古ガリシア語camỹo, caminno < 民衆ラテン語camminus < ゴール語「ステップ」*kamman < ケルト祖語*kanxsman < 「ステップする」*kengeti < 印欧祖語*(s)kéng-e-ti < 「跳ねる」*(s)keng- + 接尾辞*-man < 印欧祖語*-mn̥ + ガリシア語「床」chan < 古ガリシア語chão < ラテン語「平地」planus < イタリック祖語*plānos < *pleh₂-no-s < 「平ら」*pleh₂-が語源)を一つ通り過ぎたとき、道を間違えそうになったが、直ぐに地元の人が、こっちだよと教えてくれてとても助かった。また、お年寄りが家の窓から外を覗いて、海を眺めていて、挨拶をすると道を教えてくれて助かった。スペイン人の田舎の人は皆、優しくて大らかに感じられた。

Cée(ラテン語「埠頭」caium < ゴール語「囲い」cagiíum < ケルト祖語*kagyom < 印欧祖語*kagʰyómが語源でアイルランド語「埠頭」céやウェールズ語「垣根」cae、ガリシア語「埠頭」caesやフランス語「埠頭」quayと関連。もしくは、イベロ=ケルト人の神名Diis Ceceaigis, Laribus Ceceaecis < Gegeiqis, Gegeiquisが語源。プトレマイオスが《地理誌(Γεωγραφικά > Geographica)》で書いたPortus ArtabrorumはCéeの港、Promontorium NeriumはFisterraの岬に比定)の町に出た。

港を眺めながら大通り(Avenida Fernando Blanco / AC-550)をひたすら進み、広場(Praza do Olvido, Praza da Constitución)など市街地の中心部に行った。町の人は皆優しく、挨拶をすれば返事が返ってきて、Supermercadoの場所をきけば教会(Igrexa de Santa María da Xunqueira)の近くの広場(Plaza do Mercado)にあるよと丁寧に教えてくれた。

Supermercados Gadisについて、炭酸飲料(Fanta Naranja)、清涼飲料(Aquarius Version 3)、ヨーグルト(Yogurt de Fresa)、Dulcesolのパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel)、アップルパイ(Tarta de manzana)、クリームパン(Triángulo de crema)、チョコレートバー(Barra de chocolate)、大好物のミルフィーユ(milhojas)を量り売りで安く手に入った。箱入の大好物の砂糖をまぶしたレディーフィンガーと呼ばれる棒状のビスケット(Bizcocho galletas Fontaneda)とホワイトチョコレート(chocolate blanco)も買った。近くにCarrefourを見つけて、そちらなら品ぞろえが更に豊富で良かったかもしれないと思った。

大通り(Avenida Fisterra / AC-445)でパトカーに道をたずねると、一生懸命、英語を話そうとしてくれたが、スペイン語で大丈夫ですよと言うと、ものすごく熱を込めて道を教えてくれた。それから、少し歩いて行くと美しい海岸線(Paseo Marítimo)が見えてきて、大通り(Rúa Santa Isabel / AC-445)をドイツ人やオーストリア人の巡礼者たちと会い一緒に歩いた。

Corcubión(ガリシア語「円い」cerco, circo < ラテン語circus < 「指輪」κίρκος / kírkos < κρίκος / kríkos < ヘレニック祖語*ke-ker- < 印欧祖語*(s)ker-k- < 「曲がる」*(s)ker- + イベロ=ケルト語「入り江」-bión, -beón < 「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō ~ *h₂p-h₃nés < 「水」*h₂ep-が語源)もとても美しい街で、特に中央の少し登った所に13世紀に建てられた教会(Igrexa de San Marcos de Corcubión)の塔があり美しかった。教会の前の通り(Rúa Mercedes)で帆立貝のデザインの面白いマンホールを見つけた。しかし、 小さな漁師町で商店が少なくて不便である上、巡礼宿も発見できず、この町に泊まるのは諦めて、皆でFisterraに向かった。

広場(Rúa Campo do Rollo)から狭い道(Rúa Fontiñas)を通り、急な上り坂を少し上がると、平らな山道(Camiño Curro)に入り、Céeで買ったAquarius Versión 3を飲んだ。甘過ぎて口に合わなかった。スペインでは、何にでも砂糖が入れられていて、飲み物がだるいほど甘くてつらかった。

山道を行くと車のナンバープレートがFisterraになっていた。ずっとそこから下りになり、幹線道路(AC-445)を歩いた。San Roque(聖ロクス (Sanctus Rochus, 1295-1327)が語源)、Amarela(ガリシア語「黄色」amarelo < 民衆ラテン語amarellus < 古典ラテン語「苦い」amarus < イタリック祖語amāros < 印欧祖語「苦い」*h₂h₃m-ros < 「熱い」*h₂eh₃-が語源)を通り過ぎて、Estorde(ガリシア語「ぼんやりする」estordir < 民衆ラテン語*exturdire < 古典ラテン語「完全に」ex- < 「外」ex < イタリック祖語*eks < 印欧祖語*h₁eǵʰs + 「眩んだ」turdus < イタリック祖語*torzdos < 印欧祖語*trósdosが語源)に近づくと海岸線が一気に見えてきた。

Sardiñeiro(ガリシア語「サンマ」sardiña < 古ガリシア語sardĩa < ラテン語sardina < 古典ギリシア語「サルジニアの」Σαρδώ / Sardṓ < ヘレニック祖語*Sărdōs < 印欧祖語「敵として振るまう人」*sr̥h₃-dʰeh₁-nom < 「敵」*serh₃- + 「行う」*dʰeh₁-が語源で古代エジプト語「海の民」𓈙𓄿𓂋𓂧𓄿𓈖𓄿 / šꜣrdꜣnꜣ, 𓈙𓄿𓂋𓂧𓄿𓇌𓄿 / šꜣrdynꜣ < フェニキア語 𐤔𐤓𐤃𐤍 / šrdn /šardan/ < ウガリット語𐎌𐎗𐎄𐎐𐎐𐎎 / šrdnn(m), 𐎚𐎗𐎚𐎐𐎎 / trtn(m) < アッカド語𒊺𒅕𒋫𒀭𒉡 / še-er-ta-an-nu /šertanu/ < シュメール語「庭」𒊬 / sar + 「全て」𒆕 / du₃と関連)など、いくつかの村々を通過して、小道(Rúa Fisterra)に入り、幹線道路(AC-445)を横切り、海岸線(Praia de Talón)に沿った道をとった。

Fisterraまで約2kmのEscaselas(ガリシア語「珍しい」escaso < 古ガリシア語escasso < 民衆ラテン語*excarsus < 古典ラテン語excerptus < 「選ぶ」excerpo < 「完全に」ex- + 「摘む」carpere < イタリック祖語*karpō < 印欧祖語*kerp-eh₁-(ye)-ti < *kerp- < 「切る」*(s)ker-が語源)で海岸線(Playa de Langosteira)とFisterraの町や岬(Faro de Finisterre)が美しく見える場所があり、暫しの休憩をとった。大好物の棒状のビスケット(Bizcocho galletas Fontaneda)の箱が広告の品で安くて美味しく、美しい風景の中で食べられて幸せだった。少し港の中で日記を書いた。潮風が気持ちよく、日記を書くのも捗った。食事をしてから、靴下と靴の中に入れるハンカチを洗って、山道での汚れを落とした。

30分ほど休憩してから、また海岸沿いの道に行き、沢山の散歩をするスペイン人とすれ違いながら、Fisterra(ラテン語「最果ての地」Finisterra < ガリシア語「終わり」fin < ラテン語finis < イタリック祖語*fignis < *θignis < 印欧祖語*dʰeygʷ-n-ís < 「立てる」*dʰeygʷ-、もしくはイタリック祖語*fidnis < 印欧祖語*bʰeyd-n-ís「分かれる」*bʰeyd- +「地」terraが語源)の街に入り、通り(Rúa Cruz de Baixar, Rúa Santa Catalina, Rúa Real)を歩いて、港(Porto de Fisterra)の近くに着くと、直ぐに目立つ所に巡礼宿を見つけた。その前には巡礼者がたむろしていた。

昨日Barで一緒に食べたフランス人Jacquesと話をして、午後5時まで待った。私は二着だった。すると、十人ほどの巡礼者が続々とやってきた。皆と話をしたり、靴を脱ぎ中の靴箆を出して、靴下も乾かした。山の中の天気と全く違い、よく晴れていて、とても乾燥していて、直ぐに乾いた。十人でも多いと思ったが、近くのカフェまで足を延ばすと、そこにも何十人もの巡礼者が寛いでいて驚いた。

歩き始めた最初の頃に一緒に食事をしたイタリア人GiuseppeとAlbergueの前でまた会えて、抱き合った。少しすると巡礼宿の管理人が現れて入っていいよと言われた。今日の巡礼者たちは節度があり、あなたが一着、ニ着と並び、順番に受付が始まった。二着なので、直ぐに順番がきた。日本からと知ると、東京から歩いて来ましたかと、冗談を言われたので、残念ながら、海の上は歩けませんのでと切り返すと、皆がどっと笑って盛り上がった。ここまで来る日本人は少ないらしく大歓迎された。

巡礼宿に着いて、少し休憩してから、直ぐに岬へ散歩をした。港(Paseo Ribeira)を抜けて、住宅地(Rúa Virxe das Areas)に入り、12世紀に建てられた教会(Igrexa de Santa María das Areas)を通り、一本道の車道(Rúa Cabo Fisterra / AC-445)を20分、3, 4km歩いていくと岬に着いた。 そこには昨日の巡礼宿で一緒だったスペイン人のサイクリストが横になっていた。

岬の先端に行き、灯台に入り、展示を見た。そこから出ると、帆立貝のマークが付いた0.00kmのマイルストーン(Mojón Km 0 Camino de Santiago)や十字架(Cruceiro faro de Fisterra)を発見して、通りすがりのフランス人を見つけて、フランス語で写真を頼むととても喜んで沢山良い写真を撮ってくれた。しばらくすると、Málaga出身のスペイン人Pepeら巡礼者が現れてマイルストーンの前で記念撮影をした。少し手前の十字架前で写真をスペイン人サイクリストに撮ってもらった。

巡礼宿がある町中まで一本道を戻り、美しい教会(Igrexa de Santa María das Areas)と15世紀に建てられた十字架(Cruceiro de Santa María)の前を通ると音楽が聞こえてきたので近づくと地元の子供たちがバグパイプ(gaita < ゴート語「山羊」gaits < ゲルマン祖語 *gaits < イタリック祖語*haidos < *χaidos < セム祖語*gady- < ナフ祖語*gaazaᶰが語源)を演奏していた。

町の中へ戻り、港の道(Rúa Alfredo Saralegui)に面したSupermercados Froizでスパゲッティー(espaguetes)とコーラ(Cola)とチョリソ(Chourizo)とパン(Pan)を求めた。

途中、港での夕暮れはとても美しかった。海全体が赤く染まり、今までずっと陸を歩いてきて、やはり海が好きなことを感じた。近く(Praia da Ribeira)で子供たちが遊んでいて、皆、東洋人にびっくりして、スペイン語で話しかけられて、地元の子供たちと沢山お話をした。

通り(Rúa Real)に面した巡礼宿に戻り、プリングスを買いに隣のSupermercado Eroskiに行った。サワークリーム味のプリングスは無かったが、美味しそうなアーモンドとチョコレートでコーティングされたアイスクリーム(Bombón herado almendrado)を求めて、巡礼宿で到着を記念して食べた。もう一つのスーパーマーケットは巡礼宿の斜め前にあり、買い物がとても便利だった。

巡礼宿で皆がキッチンを使う前に、スープとスパゲッティをさっと作った。スペイン人が助けてくれて、直ぐに出来上がった。パスタとスープは多すぎて、全て食べられなかったが、皆と分け合いながら味わって食べた。最後に疲れていて、パンを落としてしまい、捨てる羽目になり残念だった。

日記を書きながら、バスの時間をチェックしていると、日本に4年も住んでいた一昨日からいつも一緒のフランス人Michelがいた。フランス語で色んなお話をして、住所交換をした。また、近いうちに日本に来ること、彼の娘さんは18歳でAvignonの大学で薬学を専攻していることなどを話していた。彼は殆んど旅に出て、家に殆どいないようで、とても不思議な人だった。

明日、父と会う時間とバス停の場所を確認した。Muxíaへバスで行くにはCéeへ一回出て、一回乗り換える必要があった。午前0時になり床についた。今日の巡礼宿はとても清潔で快適でよく眠れた。

Tenda Peregrina / Fin do Camiño, Rúa Santa Catalina, Fisterra

2008年5月16日(金)37日目(Fisterra-Escaselas-Hermedesuxo-Rial-Buxán-Suarriba-Castrexe-Lires: Restaurante As Eiras)

父と午後に再会して、岬の灯台をまた訪れた。Fisterraで豪華に巡礼を終える人が多いが、Muxíaの穏やかで美しい海岸で巡礼を終えるのが良いと思った。最後の最後にXavierとLiaとFisterraで偶然会い、一緒に聖ヤコブの貝殻を探すこともでき、本当に良かった。彼らも運命的な再開だと喜んでいた。Muxíaに向かう道で美しい海岸(Mexadoira Fervenza)で一休みした。Liresの街に着いたとき、日暮れになり、Barでガリシア料理を食べてから、前の広場の寒さがしのげそうな軒の下で野宿した。

今日は朝、午前8時半頃起きて、靴下を乾かしてから、フランス人たちとお話をした。アイルランド人Rosarieなど、午前8時半のバスで発つ人たちと別れて、午前9時のバスは少なかったので、午前10時までフランス人Jacquesたちと、それからもMelideの巡礼宿の食堂でおしゃべりしたドイツ人Petraと談笑して、父をAlbergueの隣のバス停で待つ間、フランス語とイタリア語とスペイン語で読書した。

バス停でフランス人Lagiereと話していると、Hostel Nicolaの宣伝しに来た男の人が、子犬と一緒に来ておしゃべりをした。彼はガリシア語で話しかけてきて、私はスペイン語で話をして、お互いに何を話しているか理解できて、会話が成立した。彼は生粋のガリシア人で子犬が小さな頃、子犬をバックに入れて、一緒に巡礼をした思い出話を聞かせてくれた。杖を持って来て、元の杖は巡礼で擦り切れたと言って見せてくれた。自分の杖を見せると一緒だねと巡礼の思い出話を沢山聞かせてくれた。

町を少し見回っていると、広場(Plaza Santa Catalina)のバス停の近くでBerlinから来たドイツ人Annikと会った。彼女とはBurgosから何十回も道で会ったことが思い出された。そして、バスが時刻表にあるよう、午前9時と午前10時にバスが来なくて、父と会えないため、どうしてかたずねると、それはSantiago de Compostelaを発つ時間だから、3時間を足した時間に来ると教えてもらい安心した。

近くのCafé Bar La Fronteraで一杯ご馳走してあげるから、そこでゆっくりお話しようとチョコレートドリンク(Colacao)一杯をごちそうしてくれた。感謝をすると、今日が本当に巡礼の最後で人のために何か良いことを一つできて良かった。本当にありがとうと逆に感謝をされてしまい恐縮した。それに、父が足に問題があり、Fisterraまで歩いてこれなかったことを告げると、脚の腫れ止め薬をくれた。彼女も足に同じ問題を抱えていて、巡礼の途中で薬局に立ち寄り買ったと話していた。

別れを告げて、間もなく正午になりバスが来た。父が乗ってきて、無事に再会して、近くの通り(Rúa Alfredo Saralegui)にあるSupermercado Froizでアイスクリーム(Frigo magnum almandras)を買った。レジは多く買い求める人たちで混雑していたが、皆は笑いながら行きなさいと目配せしてくれて、列の最初に通してくれて、快く譲ってくれて、優しくして頂いた。海岸や港を眺めながらアイスクリームを楽しみ、Fisterraの岬を目指して父と歩いた。30分ほど歩いて、岬に辿り付いた。

港には朝市が立ち並んでいて賑やかだった。岬まで車道と並んで歩いてゆかなければならず、とても危険だが、皆、巡礼者に優しくて、遠い車線を走ってよけてくれた。岬には人が沢山いて賑わっていた。灯台は午前中は閉まっていた。岬の先まで行き、先端の海岸線が見える所まで行った。

岬の先で休憩して大西洋を眺めながら果物を食べた。昨日が生まれて初めて大西洋を見た。こんな美しい海岸線で、しかも巡礼中に見れるのはとても幸せに感じられた。岬を後にする前に十字架の前で写真を撮った。スペイン人が杖を貸せだ、写真を何度も撮れだ、降りるとき手を貸せだ、図々しく重い荷物を背負う人に無関心で驚くほど飽きれた。フランス人Michelがいきなり現れて追っ払ってくれた。彼と記念撮影して、岬を後にした。昔の巡礼路はここまで来ていて、ヨーロッパ人にも関わらず、生まれて初めての大西洋を見たが、私もそのようで会って驚くべきことではないと話していた。

町の中に戻り、Supermercado Froizで食糧や飲料、 Dulcesolのパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel) 、ウエハース(Galletas coral boer con chocolate)、量り売りのバナナ(Banana)、リンゴジュース(Zumo Zumosol Manzana)、レモンティ(Nestea té negro con limón sin azúcar)、アイスクリーム(Helado de chocolate con leche y almendras Magnum Frigo)を買い求めて、町を抜けていくと、海岸近くでXavierとLiaが一緒に歩いているのを発見した。彼らの姿が一目で直ぐに分かり、声をかけると、彼らもとてもびっくりして再会を大喜びした。

Santiago de Compostelaの大聖堂の中でXavierとLiaに少しだけ会えたが、それから見失ってしまっていたので、巡礼の終わりに思わず再会できて本当に嬉しかった。巡礼路を歩いてくる途中で沢山の巡礼者と会っては別れてきたが、彼らとはいつも大切な要所で会っていたので不思議な縁を感じた。父もXavierとLiaには巡礼路で会っては別れて、不思議な縁を感じると話していた。

近くの美しい長い海岸(Praia da Langosteira)の前の美しい十字架(Cruz de Baixar)の前で記念撮影をして、通り(Rúa Cruz de Baixar)を下り、XavierとLiaと父と海岸線を歩いた。Xavierと一緒に美しい形の貝を探した。少し遠くに行き、面白い場所を見つけ、砂浜が半島のようになり、そこに川が流れていたので、川の流れを変えようと、砂で出来た半島を崩して、運河を掘削する遊びをしていた。すると、始めは少しの流れだがある所まで行くと、急に大きな流れになり削られてゆき、最終的に自分が作った流れに川が流れてくれた。帰るとXavierとLiaは私が戻らないため心配していて、Santiago de Compostelaに帰るバスの時間があるから、父に別れを告げてとうに立ってしまっていた。

彼らもFisterraで巡礼宿や見どころを見たようだった。Xavierは地図と沢山のMuxíaからFisterraへの道の情報を教えてくれた。彼らは始めにMuxíaに行き、Fisterraに戻ってきた所に会うことができたから、色んな道について詳しく教えてもらえた。Muxíaから帰るより、Fisterraからのほうがバスの便が良いから、先に訪れたと話していた。海岸で砂を落として、Fisterraを海岸沿いに歩いて後にした。

海岸では、一つとても美しい薄っすらと紅の色をした貝を見つけて、大事に膝ポケットにしまい持ち帰ることにした。(中世の巡礼者たちは、実際に聖ヤコブに詣でた証として、大西洋に面したFisterraでしか拾うことができない貝殻を拾い、それを故郷まで持ち帰ったそうである。だから、Santiago de Compostela巡礼の象徴となり、巡礼路には至る所に帆立貝(concha)の道標があった。)

Fisterraの海岸沿いに大通り(Rúa Anchoa)を歩いてゆくと、小さな食料品店(Supermercado Laura)があり、パンと飲料を購入した。XavierがFisterraからMuxíaに行くとき、Liresまで何も泉や町が無いから、食料を調達してから出ると良いことを教えてくれたので少し多めに買った。パンは数種類しかない中から選んで買ったが、少し歩いて行くとパン屋さん(Panadería Escaselas)があった。

Xavierに教えてもらった通りにガソリンスタンドを探したが、右に入る道が見つからず、辺りをさまよっていると、運よく左に入る道があり、帆立貝のマークを見つけて、巡礼路を歩けて安心した。

途中美しい海岸の風景に見とれて立ち尽くしていると、道に迷ったと見えたらしく、通りすがりの車の人がわざわざ車を止めて、道はこっちだよと教えてくれて、何て優しい人だと思った。

私たちはEscaselasの海岸から、住宅地や草原の中を貫いている平坦な一本道を進んだ。(Xavierが教えてくれた道は、大通り(Avenida de Galicia)の道路(AC-445)に面したGasolinera Aspiradorから、Aldea San Martiño de Abaixoを通り、近くの村San Martiño de Duioに進む道だった。)

Hermedesuxo(ガリシア語「隔てられた」ermo < 古ガリシア語hermo < ラテン語eremus < ギリシア語「隔てられた」ἐρῆμος / erêmos < 「静かな」ἤρεμος / ḗremos < ヘレニック祖語*herémos < 印欧祖語*h₁reh₁-mó-s < 「隔てる」*h₁reh₁- + 前置詞de +「下側」suso < ラテン語sursus < 「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó + ラテン語「向き」vorsum, versum < verto < イタリック祖語*wertō < 印欧祖語*wért-ti ~ *wr̥t-énti < 「回る」*wert-が語源)に入る所には、帆立貝の道標(mojón)にFisterra-Muxíaと書かれており、双方向の巡礼者に配慮して、貝は下を向いていた。村には素敵な十字架があり、また、高床式倉庫(hórreo)がたくさん立ち並んでいて圧巻だった。

もう午後7時近くになっていた。その村の先から、森や林の中へ巡礼路が続いていた。丘を少し上がり、下るときにはRial(ラテン語「小川」rivalis < rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語*h₃riH-wó-s < 「流れ」*h₃reyH- < 「注ぐ」*h₃er-が語源)の村から美しい景色が見えてきた。

直ぐにBuxán(ガリシア語「ツゲ」buxo < ラテン語buxus < ギリシア語πύξος / púxos < ヘレニック祖語*púksos < 印欧祖語*bʰowgʰ-k-so-s < 「曲がる」*bʰewgʰ-が語源)に入り、数棟もの立派な高床式穀倉(hórreo)を見た。Suarriba(ガリシア語「下」so < ラテン語sub +「丘」arriba < ラテン語「おいて」ad+「崖」ripamが語源)の手前で視界が急に開けて大西洋が見えてきて興奮した。もう既に午後8時だったが、まだ太陽は高くて明るく、やわらかい日差しに照らされた海岸が美しかった。

Castrexe(人名Vistregis < ゴート語*Wistregis < ゲルマン祖語「西」*westrą < 印欧祖語「晩」*we-k(ʷ)sp-e-ro-s < 「夜」*kʷsép-でヒッタイト語𒅖𒉺𒀭𒍝 / ispanza < 印欧祖語*kʷsp-ént-s、サンスクリット「夜」क्षप् / kṣáp、古ペルシア語𐎧𐏁𐎱 / xšapa、古典ラテン語vesper、古典ギリシア語ἕσπερος / hésperos、古スラヴ語ⰲⰵⱍⰵⱃⱏ / večerŭ、古アルメニア語գիշեր / gišerと関連 +「人質」*gīslaz < ケルト祖語*gēstlos < 印欧祖語*gʰeydʰ-lo-s < 「待つ」*gʰeydʰ-が語源)を過ぎた森の中で道を失った。

Canosa(ガリシア語「灰色」canosus < 「鉛」cana < ラテン語canna < 古典ギリシア語κάννα / kánnā < アッカド語𒄀 / qanû < シュメール語𒄀𒈾 / gi.naが語源)を通る巡礼路ではなく、海岸線(Praia do Rostro)を行く道に入ってしまい、Xavierがくれた地図で正しい道と平行に進んでいることを確認しながら歩いた。XavierたちはMuxíaからFisterraへ向かう途中で一晩、美しい海岸で寝たと話していたことを思い出して、正にここの海岸(Mexadoira Fervenza)と納得した。

巡礼路から外れて、帆立貝の道標はないが、黄色や紫色の花が咲き乱れた獣道から、美しい海岸の波打ち際が見えて、景色が素晴らしく、嬉しい寄り道をできた。夕暮れになったが雲があり、太陽が水平線に沈むのはきれいには見えなかった。美しい風景を見つけて、父がFisterraから歩き続けてきたから、ここで一休みしてゆこうと言うのでSupermercadoで量り売りで買ったDulcesolのミルフィーユ(milhojas)を食べて楽しみながら、しばし一服をして、目の前の美しい海岸と景色を楽しんだ。

それから少し進むと、車道(Parroquia Lires)に入り、海岸でテントを張っている人がいた。こんな所でキャンプをできるなんて楽しそうと思いながら、川(Ría de Lires)の河口をぐるりと回るように少し歩いて、Lires(ラテン語「畝」lira < イタリック祖語*loizā、もしくはゴート語「跡」laists < ゲルマン祖語*laistaz < 印欧祖語「溝」*lóys-eh₂ < 「沿う」*leys-で両者は印欧祖語のレベルで同じ語源)の町の入口の17世紀に建てられた教会(Igrexa de Santo Estevo)辺りで日没の時間(午後10時)を迎えて、とても運が良かった。巡礼者が来ると犬が吠え、巡礼者を歓迎しているのか、驚かしているか分からなかった。しかし、この家の人とあいさつすると、犬がピタッと鳴きやんだので賢い番犬だった。町の中でBarを見つけ、Xavierが教えてくれた通り、左のBar(Restaurante As Eiras)に入った。この町でも、Barの位置をきくと、とても親切に教えてくれて、ガリシア人の優しさに感謝した。

Barにはスペイン人が沢山いて、皆テレビを見たり話し込んだり、お酒が入ってくると、皆ビリヤードやカードなど、取りとめもなく盛り上がっていた。トイレに入り、顔を洗ったら、さっぱりとした。スープ(Sopa caldo)とPrato combinado(Huevos, Patatas, Chorizo)とジャガイモのオムレツ(Tortilla de patatas)やパン(Pan)を注文した。スープはものすごい量で地元のガリシア風でとても美味しかった。旨味成分(アミノ酸)の種類が似てるのか、日本のみそ汁のだしの味がして、ジャガイモと菜っ葉とベーコンが入り美味しかった。Prato combinadoは、一昨日のBarと同じで、ジャガイモのトルティーヤは大きく、卵で溶いたジャガイモを閉じてあるオムレツがとても美味しかった。チョリソは濃厚な味で一緒に食べると口に合い、水が飲みたかったが、節約のため、注文しなかった。

Barやレストランでは、必ずパンや水がチャージされることをSantiagoの直前のBarで知ったので、水は頼まず、パンもほどほどに食べた。Barでスペイン人の皆さんが盛り上がっている中、食事を終えてからは日記を書き終えてから、外に出ていくと、Barの前にちょうど雨をしのげるひさしがある建物が公園のような広場に見つけた。今日はLiresの町中の夜の寒さをしのげそうな所で野宿することにした。床はコンクリートで固いが、寝袋をひくと寝心地が良くなった。

Fisterraの美しい海岸(Praia da Langosteira)

2008年5月17日(土)38日目 (Lires-Vaosilveiro-Frixe-Guisamonde-Morquintián-Xurarantes-Muxía-Santiago de Compostela: Albergue Acuario)

Vaosilveiroの手前に小川に水没した石を渡った。Muxíaの小さな美しい教会(Ermita de Nuestra Señora de la Barca)の前の巡礼を終えて、のんびりとした中、大西洋を眺めながら、イベリコ豚のハムのサンドイッチを食べた。帰りはSantiago de Compostelaまでバスで戻り一泊した。

Barの前の広場の屋根つきの建物で野宿したため、寒くなくとても気持ちよく寝れた。布団が無くて、硬い地面の上に寝ていたため、起きた時体の至る所が痛んだが、朝食に大好物のミルフィーユを食べて、オレンジジュースを飲んだら、調子が少しずつ良くなり、午前8時前にMuxíaへ歩き出した。

昨日半分まで歩いてきたため、大分楽で山道を2km程歩き、舗装道路を進んだ。巡礼者には反対側から3人に会っただけだった。15分もしない内にVaosilveiro(ガリシア語「砦」vao < ラテン語vadum < イタリック祖語*waðom < 印欧祖語*uh₂dʰ-om < 「行く」*weh₂dʰ- + 人名Silverius < ラテン語「森林」silvestris < silva < イタリック祖語*selwa < 印欧祖語*selw-eh₂ < 「木材」*swel- + 接尾辞-stris < -tris < -trix < イタリック祖語*-trīks < 印欧祖語*-trih₂-k-s < *-tḗr + *-ih₂が語源で古典ギリシア語「木材」ῡ̔́λη / hū́lē、ゲルマン祖語「木梁」*sūliz、リトアニア語「屋根」šelmuõ、ラトビア語「木桶」sileと関連)の手前に川(Río Castro)の中に水没している道があり、川の中に飛び石があり、靴を脱ぎ、ズボンの袖を太ももまで上げ、水没した石を渡った。最後の三つは流されていて、川の中を行かなくてはならなかった。Xavier達は太もも以上まで来て、川渡りが大変だったと言っていたが、幸い水の量も少なく、袖をまくり上げるだけで済んだ。川を渡ると直ぐに村に入り、沢山の立派な高床式穀倉(hórreo)があった。

Muxíaまで更に4km山道があり、Frixe(ガリシア語「炒める」frixir < ラテン語frigo < 古典ギリシア語φρύγω / phrúgō < 印欧祖語*bʰerǵ ~ *bʰreǵが語源)を通り、舗装されていない水たまりや泥が多い道を進み、Guisamonde(西ゴート語の人名*Witimundus < ゲルマン祖語「良い」*wesuz < 印欧祖語*h₁wésus +「守る」*mundō < 印欧祖語「招く」*mh₂-nt-éh₂ < *meh₂-が語源。 Castilla-La Mancha地方のQuismondo < Quizamondo, Queiximonde, Guizamondeとも記録されたことから類推)の村の入口で巡礼路に可愛い白い羊がお出ましして出迎えてくれた。村の中には牧場があり、牛が草を食んでいた。のどかな村を通り過ぎて気分が良かった。

そこからは舗装された道で歩きやすくなり、田園風景がとても美しかった。泉の前に十字架(Fonte do Cruceiro)があった。Morquintián(ガリシア語「大きな」mor < 古ガリシア語moor, maor < ラテン語maior +「五つ目」quinto < ラテン語quintus < 古ラテン語quinctus < イタリック祖語*kʷenktos < 印欧祖語*pénkʷtos < 「五」*pénkʷe +‎ 接尾辞*-tósが語源)に18世紀に建てられた頑丈な石造りの教会(Igrexa de Santa María)がひっそりと佇んでいて、その手前に泉があり、水が湧き出していた。

それからも美しい田舎道が続き、黄色(ガリシア語「エニシダ(Cytisus scoparius)」xesta < 古ガリシア語gẽesta < ラテン語genesta < イタリック祖語*genestā < 印欧祖語*gʷₑnestāが語源)や紫色(ガリシア語「ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)」queiroa < 古ガリシア語*cariola < ラテン語calluna < ギリシア語「掃く」καλλύνω / kallū́nō <「美しい」καλός / kalós < 印欧祖語*kal-wo-s < 「良い」*kal-が語源で サンスクリット「美しい」कल्य / kalyaやアルバニア語「見てくれが良い」kolmë < アルバニア祖語*kālimaと関連)の花が咲き乱れていた。

そこから少し車道を歩き、山道をしばらく進んだ。Xurarantes(ガリシア語「誓う」xurar < 古ガリシア語jurar < ラテン語iurare < iuro < 古ラテン語ioveso < イタリック祖語*jowezāō < 印欧祖語*h₂yew-es-eh₂-ye- < 「正しい」*h₂yew- + ガリシア語「列」antes < ラテン語antes < 「前」ante < イタリック祖語*anti < 印欧祖語*h₂énti < *h₂ent-が語源)は高台の村で美しい展望を楽しめた。

美しい紫の花(ガリシア語「ルピナス(Lupinus angustifolius)」altramuz < アラビア語التَرْمُوس / al-tarmūs < アッカド語𒋻𒄷 / tarmuš < シュメール語𒋻𒄷 / TAR.MUŠ8が語源)が咲いた小道を通り、幹線道路(Avenida Doctor Toba / DP-5201)に出る手前で曲がると美しい海岸(Praia de Lourido)が少しづつ姿を現してきた。砂浜と分かりとても嬉しく、そこには人も殆んどおらず、美しい風景を楽しめた。全く自然が手つかずのまま残されていて、海の家なども全くなく、自然のままの海岸だった。

岩が多い海岸(Coido das Margaridas)沿いの道を行き、入江(Cala de Arliña)やサッカー場(Campo Arliña)が見えて、更に進むと、Muxíaの町が見えてきた。皆出会った人たちが、丁寧に挨拶をすると、必ず返事をくれた。町に入るとき、建物の前に馬が放し飼いされていた。

街並みが美しく、西伊豆の港町のような雰囲気だった。海岸線や道路もFisterraからMuxíaまで、建物を除くと、日本の伊豆のような感じでよく似ていた(しかも、ガリシアのOurenseには温泉もあるそうである)。海岸線が見え、波が岩がごつごつした岸に打ちつけて、白く泡立つのを見ながら、足取りも山の中と比べて軽やかになり、道路も歩きやすくて良いこともあり、最後はとても早く進めた。

街の入り口に岩が多い海岸(Praia do Coido)があり、その前のマイルストーン(mojón)で記念撮影をして、路地(Rúa Atalaia)を進み、高床式倉庫(hórreo)ともお別れになると思われて記念撮影をした。街の中から港までは少し距離があり、その先に家が点々とする道(Rúa Virxe da Barca)を進み、灼熱の太陽の中、岬を目指した。海風を避けるために畑には石垣が作られていた。

岬(Cabo de Muxía)でスペイン人のJabiとカナリア島出身のSusiとドイツ人のClaudiaと会った。岬の教会(Ermita de Nuestra Señora de la Barca)の中を格子越しに覗いて、教会の丁度前で石(Pedra dos Cadrís)に腰かけ、イベリコ豚の生ハムとパンをサラダと共にサンドイッチにして贅沢に頂いた。イベリコ豚の生ハム(Jamón ibérico)は、Santiago de Compostelaで父がFisterraに向かうバスに乗る前に市場(Mercado de Abastos)のお肉屋さん(Charcutería y Jamonería Lolita Cardelle)で買い、真空パックにしてもらい、冷やして運んできたため、新鮮なままでとても美味しかった。

大西洋の大海原の前でフランスとの国境から始まった長い巡礼の旅を終えることができて感謝をした。太陽もぽかぽかと温かく照っていて、恵まれた巡礼の締めをのんびりと過ごすことができた。岬の先でスペイン人とスペイン語でおしゃべりをした。岬の一番先端の石(Pedra dos Namorados)の上で沢山会話をして風景も楽しんだ。Susiが教えてくれた8回周りをくぐると腰が、3回周りをくぐると足が良くなるという言い伝えがある岩(Pedra dos Cadrís)の下を3回くぐった。キリスト教が伝わる前から、ケルト人が太陽信仰をしていた聖地で特に大きな岩(Pedra de Abalar)が大切にされてきた。スペイン人と岩の形を面白い動物に見立てて、冗談を言い合い笑って過ごした。

Muxíaで巡礼を終えることができて良かった。聖ヤコブがCaesar Augusta(現Zaragosa)に来て、現在の「柱の聖母」大聖堂(Catedral-Basílica de Nuestra Señora del Pilar)がある場所で異国での宣教に難儀していたとき、聖母が現れて、聖堂を建てるようにと勇気づけたという有名な伝承がある。

古いGalicia地方に伝わる伝承では、当時はEmerita Augusta(現Mérida)から、Lusitania(現Portugal)、Conimbriga(現Coimbra)、Bracara Augusta(現Braga)を経て、Gallaecia(現Galicia)に来たが、宣教が上手くいかず、心が折れそうなとき、再び聖母が現れたと伝えられている。

特に航海の難所「死の岬」(costa da morte)とされていたMuxíaの岬と伝えられている。今でも岩場が多くて、少し前(2002年)にタンカーが座礁して、オイルが流れ出た事件(Desastre del Prestige)があり、岩が黒くなっていると教えてくれた。

イベリア半島で布教に失敗した聖ヤコブはパレスチナへ戻り、44年(Pseudo-Abdias, Historia Certaminis Apostoliciでは42年)に斬首をされて殉教をしたとき、弟子たちが遺骸をGalicia地方Iria Flaviaの港町Padrón(聖ヤコブが初めて説教をしたSantiaguiño do Monte)にたどり着き、そこから少し内陸に入った現在のSantiago de Compostelaで丁重に埋葬したとされる。

少し岬の教会(Santuario da Virxe da Barca)に立ち寄り、その前でおしゃべりしてから、バスに2時間半ほど乗り、Santiago de Compostelaに帰るため、皆で一緒に町の中へ戻った。

中学生位の男の子がごみ出しをしていて、Supermercadoの位置をたずねると、ちょっと待ってねと言って、ゴミを捨ててから、家に戻ってきて、Supermercado FroizやSupermercado Eroskiの前まで案内をして連れて行ってくれたが、休日で両方とも閉まっていて、少し困っていると通り(Rúa Enfesto)に面した巡礼宿まで、また案内をして連れて行ってくれて優しさに感謝した。そこも全然開く気配がないため、午後2時半のバスでSusiとJabiたちと一緒に帰ることにした。

Muxíaのバス停(Estacion de Autobús)の前の通り(Rúa Mariña)のカフェ(Café Bar Don Quijote)でお茶をして、皆でコーラを飲んだ。田舎の港町なので、少し割高だが仕方がなかった。帽子売りの人やバグパイプ(gaita)などの楽器を持った楽団などがカフェに出入りして、皆に歓迎されていた頃、午後2時半になりバスがやってきた。Santiago de Compostelaまで、10€以上と思ったが、5€で戻れた。スペイン人が利用する民間のバスで乗り換えもなく、直通で戻れてとても助かった。

Muxíaは小さな海辺の町で岬の美しい風景は素晴らしかったが、滞在するには少し不便だったので、早く出てきて良かったと思った。バスは巡礼路に沿った車道を進み、Negreiraあたりから、5日前に歩いて通った覚えのある町の名前や風景に出くわして懐かしく感じた。道や町の一つ一つに思い出が詰まっていて、色々と美しかった風景や雨の中を歩くのが大変だったことを思い出した。

Negreiraは思ったよりも、大きな街で多くの市民が乗ってきた。そこから各所のバス停に停まり、人が乗降して混みあってきた。バスの運転はスペイン人らしく大まかでお客さんと話しながらしていた。とても疲れていて、少しうとうとしていたら、直ぐにSantiago de Compostelaに着いた。

バスターミナル(Parada de bus das Cancelas Centro Comercial)は大通り(Avenida do Camiño Francés)にあり、旧市街から外れにある広場(Praza de Sofía)に面した巡礼宿(Albergue Aquario)の近くに着いた。そこから巡礼宿まで10分ほど歩いたが、デンマーク人がかなりチェックをしまくるため、通りの名前をいちいちチェックしなくてもと思い、それでも巡礼宿は通りに面した所に看板がないため、近くに行っても見当たらず、地元の人も知らないらしく、変な道を教えられたりして、近くをぐるぐるさまよっていたら、やっと見つけられた。巡礼路には沿っているが、少し隠れた場所にあった。管理人さんはきれいな英語を話す、感じのいい人だった。

荷物を置いて、直ぐに近くのショッピングモール(Centro Comercial As Cancelas)にあるMcDonald’sでビックマックとサラダとチキンナゲットを食べた。スペインの物価は日本と殆んど変わらず、€が強くなったせいか、少し高めに感じられた。McDonald’sで腹一杯食べた後、Hypermercardoに行くが、今日は閉まっていると工事現場の人が言っていたので、旧市街まで歩いていくことにした。

以前にSantiago de Compostelaに着いた時に通った道通り(Rúa do Valiño, Rúa das Fontiñas, Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Praza de Cervantes, Rúa da Acibechería, Plaza de la Azabachería)を歩いて、旧市街に入っていった。休日でカフェやレストラン、パン屋さんと少々の食料品店以外、全てが閉まっていたが、通りは人通りが多く賑わっていた。

本屋さん(Librería Couceiro)に入ると、二階には古い本が沢山あり、ファクシミリも沢山売られていた。最上階(三階)には、本を修理する場所があり、綴じ直している本が沢山置かれていた。

そして、父はこの間に町を離れる時に見つけられなかったパン屋(Pastelaría Tentación)を市場(Mercado de Abastos de Santiago de Compostela)や大学(Universidade de Santiago de Compostela)の近くで探したが、いくら探しても見つけることができず、Santiago de Compostelaを離れる前にまた食べたいと思い、明日の朝にまた探してみようと話していた。それほど美味しくて記憶に残った地元のパン屋だった。前に寄った 広場(Praza de Cervantes)に面した小さな食料品店(Cepeda)は開いていて、またヨーグルト飲料(Yogures Líquidos Danone)を買って飲んだ。

大聖堂の前まで行くと、驚いたことにLombardia出身のイタリア人StefanoとVermont出身のアメリカ人Saraが一緒にいて、偶然に再会して喜び合った。Santiago de Compostelaまでずっと一緒に歩いてきて、昨日に着いたばかりだそうだ。午後8時半に大聖堂の正面広場(Praza do Obradoiro)に行けば、沢山の巡礼者に会えると聞いたので行ってみると、沢山の顔なじみが沢山いた。

そこにはSan Juan de Ortegaの修道院の前で会ったRotterdamから歩いてきたオランダ人Jean-Noel、Grañonで一緒だったVerona出身のイタリア人DavideとLisa夫妻、Lleida出身のスペイン人ZuarとMiriam夫妻もいて、皆でとても盛り上がった。少し話した後、皆はカフェに一緒に行くが、明日Portoに発つための時間を調べに行く途中だったのを思い出して、父と駅(Estación de Tren)に向かった。

新市街も相変わらず、皆閉まっていて、人通りが多いだけであった。駅に着いて、駅員さんに列車の時間を教えてもらい、逆に旧市街まで戻り、皆を探してみたが、どの通りのCafé Barを探しても見つからず残念に思い、巡礼宿に戻った。巡礼路を逆戻りして、長い道のりを戻ってきたが、食後の腹一杯のときに散歩すると健康に良いと感じた。食料品店(Cepeda)でコーラを買って飲みながら戻った。

巡礼宿に午後10時過ぎに着いたが、まだ皆さんが起きていて、電気が付いていた。管理人からカナリア諸島からの巡礼者Susiから別れの挨拶を言付けされていますと聞いて、また、Villafranca Montes de Ocaで一緒に夕食を食べたハンガリー人Kristofともばったりと会い、再会を喜び合い、興奮して楽しかった。我々は特に最後はかなり早いペースで歩いてきたが、フランスから歩き始めた最初の頃に顔なじみだった人たちは、 一週間ほど、 FisterraやMuxíaまでexcursiónしてきた間に丁度Santiago de Compostelaに着き始めたようだった。我々は最初は普通のペースで始めたが、途中から調子が出てきて、最後の五日間は連日のように一日40km以上歩いたため、通常の1.5~2倍ほどのかなりのハイペースで巡礼を完遂したことを実感した。シャワーを浴びて、午後11時にベットに入った。

Vaosilveiroの近くの川(Río Castro)に水没した巡礼路

2008年5月18日(日)39日目(Santiago de Compostela-Vigo: Hostal Buenos Aires)

Santiago de Compostelaの街を後にして、列車でVigoに向かった。巡礼で1000キロを25日も歩いて、すごいエネルギーと気力がついた。Vigoの小高い丘から港を一望した。13世紀にMartim CodaxのCantiga de amigoでOndas do mar de Vigoと詠われている景色に感銘を受けた。コンパクトな田舎町でのんびりと過ごすことができた。久しぶりに宿に泊まり、ゆったりと夜を過ごすことができた。

今日は朝父が先に早く起き、シャワーを浴び、午前5時半に起き、日記の続きを書いたり、荷物の整理をして、郵送する服や物品を整理した。 朝ばったりと巡礼宿で南アフリカ人Winnyと会い、巡礼の最初と最後に会えて嬉しかったとお互いに喜びあった。Winnyとは、先週にもSantiago de Compostelaで会ったが、私たちと同じくFisterraに行って戻ってきたと話していた。

午前8時半頃、朝のSantiago de Compostelaの町に出て、例のパン屋(Pastelaría Tentación)を旧市街の中で探すが、全く見当が付かなかった。午前9時半のミサの合図の鐘が鳴り響いていた。結局、見つからず、昨日父が買った市場のパン屋でミルフィーユとリーフパイを買った。巡礼宿に戻って、ミルフィーユを食べたが、吐き気がするほど甘くて後悔した。ミサの時間は終わり、大聖堂の前の広場で父が隣に荷物を置いて座っていると言うので、そこに荷物を置いて、巡礼事務所の前で知っている人を探した。しかし、Negreiraを朝早く一緒に出た、オーストリア人2人だけと会っただけだった。

今日のミサはドイツから大司教が来て、スペイン語とドイツ語で行われると教えてくれた。大聖堂に入りミサに参列した。皆2時間前から、貴賓たちのために予約されていて、座れなかったので、祭壇の横から立っていた。ミサの途中で日本の観光客がぺちゃくちゃおしゃべりをして、スペイン人たちが嫌な顔をしていたので、日本語で注意すると驚いて立ち去って行った。ミサの最中、蜂が教会の中に入ってきたのを何度か見て驚いた。ミサはスペイン語とドイツ語の二か国語だった。

振り香炉(botafumeiro)は今まで見た中で一番高く上がり美しかった。大聖堂の中に巡礼者を待ってはいるが、殆んどいなかった。今日のミサは先週と少し異なっていて、更に巡礼者が少なかった。先週はミサの初めに巡礼者の出身の町の紹介があったが、今週に着いた巡礼者の数とどこから歩いてきたのか紹介があった。今週のミサはドイツからの大司教が出席して、人数も多くて盛大だった。

ミサが終わった後、父と町を出ると、大規模なデモ行進があり、ガリシアの独立を大勢の人が叫んでいた。警察も出動して、少し物々しい雰囲気だった。(同じスペインにありながら、カスティーリャ語と異なるガリシア語を話しており、カタルーニャ語を話しているカタルーニャ人と同じく、スペインとは異なるアイデンティティを持つことを感じた。むしろ、ガリシア語はポルトガル語に近く、1128年にギマランイス(Guimarães)近郊のサン・マメデ(São Mamede)でポルトゥカーレ軍とガリシア軍が戦い、そこからガリシアとポルトガルが分かれた。1139年にポルトガル王を称したアフォンソ1世(Afonso I, 1109- 1185)がレコンキスタを推進して、ポルトガルがガリシアから南へと広がってゆく中でポルトゥカーレ伯やコインブラ伯がイスラム勢力を駆逐して、南へ領土を拡げた。)

大聖堂に最後に別れを告げてから、旧市街の通り(Rúa do Vilar)を進み、新市街に入り、通り(Rúa do Hórreo)に面した小さなパン屋(Panadería Pastelería El Hórreo)でアップルパイ(Tarta de mazá)とミートパイ(Empanada de carne)とクロワッサン(Croissant)などを買い、駅まで食べながら行った。駅(Estación de tren)で切符を購入して、列車を待っていると、雨が信じられないほど強く降って来て、その前に駅に着いて安堵した。

(海から少し内陸に入った盆地にあるため、天候がい非常に不安定で晴れていたと思ったら、いきなり雨が降ってきたりして、からりと晴れることはなく、どんよりとして雲が多い町であった。)

列車を待つ間に日記を書いた。列車は定刻通りに着いた。清潔できれいな車両で安心して落ち着いて日記が書けた。ディーゼルエンジンの音が眠りを誘い、同じ車両の人は、皆寝てしまった。

Santiago de Compostelaの町を出て、Vigoに旅立つことができて良かった。途中の駅Pontevedraでは、大型の丸太が組んであった(ラテン語「橋」pontis < pons < イタリック祖語*ponts < 印欧祖語 *pónt-oh₁-s < 「通り」*pent- + ラテン語「古い」vetris < vetus < イタリック祖語*wetos < 印欧祖語「年」*wétosが語源。実際にローマ時代の橋が残された町である)。列車に乗り遅れた人がいて、動き出した列車は、また止まり、その人たちを乗せてあげていた。スペイン人の融通の良さに実感した。また、 列車にSantiagoからVigoまで200kmほど乗ったが、たったの8€でまたまた安さに驚いた。

そして、Vigoの町に入る手前、とても美しい海岸の港と工業地帯が見えてきた。海があり、奥まった所にもう一つ港があり、そこには美しい塔が建っていた。

(ラテン語「小村」vicus < イタリック祖語*weikos < 印欧祖語*weyḱ-ós < *weyḱ-が語源。13世紀の隠者Martin Codaxによる「友の歌(cantigas d'amigo)」には、愛しい人を待ちわびた女性が、ビーゴの海の波に語りかける「ビーゴ海の浪よ、私の友を見ましたか。神よ、彼は来るでしょうか(Ondas do mar de Vigo, se vistes meu amigo? E ai Deus!, se verra cedo?)」や教会に妹と行くことを歌う「愛しき妹よ、私と詣りましょう。ヴィーゴの教会へ。そこの海は荒立ち、波を一緒に見ましょう(Mia irmana fremosa, treides comigo a la igreja de Vigo u é o mar salido e miraremos las ondas.)などが、ヴィンデルの羊皮紙(Pergaminho Vindel)で伝わる。当時の教会はIglesia de San Salvador de Corujo(1142年)、Iglesia de Santiago de Bembrive(1185年)、Iglesia de Santa Cristina de Lavadores(1201年)、Iglesia de Santa María de Castrelos(1216年)などが残されている。)

駅に着くとガリシア語(galego)とカスティーリャ語(castellano)の二ヶ国語で書かれており、お互いの文化を大事にしているのを実感した。FisterraでSupermercado Eroskiでアイスクリームを買った時、そこには四ヶ国語(euskera, català, galego, castellano)で書かれていて驚いた。スペインには少なくとも、それぞれの地域に多くの言語や方言や変種があり、更にアラゴン語(aragonés)やレオン語(leonés)、バレンシア語(valencià)やなどは方言とも、別の言語ともされており、多くの言語が共生していることを感じた。歴史的にはモサラベ語(mozárabe)やアストゥリアス語(asturianu)などがあり、ラテン語から分岐したロマンス語(lenguas romances)も色とりどりである。

駅で明日Porto行きの列車の時刻などをきいた。距離はとても近いのにポルトガルとスペイン間の電車は、一日に二本しかなく、朝と夕の7時40分だけでとても不便だった。

Vigoには外国人や観光客が全くおらず、コンパクトで居心地がよい港町だった。Santiago de Compostelaの町中と似ているが、少し多くのゴミが落ちているくらいだった。ピザ屋(
Restaurante La Tagliatella)があり、Santiago de Compostelaで食べたときのことを思い出した。

スペインの土日はとても厄介で、駅から出ると、全ての商店が閉められていて困らされた。Santiago de Compostelaとは違い、皆午前中だけで、午後は営業しておらず、町は閑散としていた。僅かに開いているカフェがあり、多くの人が入っていた。

スペイン人がSiestaでおしゃべりしたり、寝そべったり、食べるのでその時間も働けば、世界一の経済大国になるであろうが、ほどよく休むことができ、人生を無理をしないで生きてゆくような環境で住みたいと思った。しかし、食べ物の選択肢が日本ほどなく、少し飽きてしまうかもしれない。

町の中には「O」で始まる看板が多かった。(ガリシア語の男性単数の定冠詞o, loでポルトガル語やアラゴン語o、カスティーリャ語el、イタリア語il, lo、古フランス語li, leに相当。古典ラテン語ille < 古ラテン語 ille < イタリック祖語*olle < 印欧祖語*h₂ol-no- ~ h₂l̥-no- < 「他」*h₂el-が語源)。

SupermercadoはMercadonaとCarrefourを除いたBajos, Eroski, Diaなどがあったが、全て閉まっていた。宿を探しながら、町を港の方に出ると大通り(Rúa do Areal)があり、近くの通り(Rúa de Rosalía de Castro)に一つだけ24時間開いているコンビニ(OpenCor)があり、スペイン人が多く入っていた。皆も日曜日に閉まっていて、困っていることが見て取れた。外見は本屋さんだったり、電気屋さん雑貨屋に見えたが、中に入ると沢山の食料品が並ベられていた。

午後5時過ぎにパン(Agujas de Atún)、チーズケーキ(Plancha para pastel)、リーフパイ(Super Palmeritas de hojaldre con azúcar)、ファンタレモン(Refresco de Limón)、オレンジジュース(Zumo de naranja)、タイガーナッツ(Cyperus Esculentus)のValència風味の飲み物(Horchata de chufa)を購入して、外に出て、前の石に腰かけて飲んだが、不思議な味がして、口には合わなかった。スペインではファンタレモンとオレンジのゼロカロリーがあった。

大通り(Rúa de Rosalía de Castro)に面した宿(Hostal Buenos Aires)を見つけて入ると、二階に受付があり、Schindlerの古い昇降機で手で開ける面白いタイプに乗った。扉に取っ手が付いていてそれで扉を鳴らすと、親切そうな婦人が出てきた。今日一日泊まることを告げると、直ぐに部屋を用意してくれた。スペイン語で話をする一生懸命聞いてくれた。部屋で少し寛いでから、町に出てみた。

大通り(Avenida de García Barbón)の店は、全て閉じていて、閑散としているが車は多く、賑わっていた。皆どこへ行くのかと思う程だった。19世紀に建てられた美しい教会(Igrexa de Santiago de Vigo)があり、その辺りに町が発展していた。

大通り(Rúa da República Arxentina)を行き、大きな噴水(Fonte da Paellera)があるロータリーを通り、港に出ようと商業地や住宅地の通り(Rúa do Areal, Avenida de García Barbón)を進むが、工業地帯(貨物ターミナル)に出てしまったので引き返して、丘の上から街を見てみたいと思い、いくつかの通り(Rúa de Sanjurjo Badía, Rúa de Pedro Alvarado, Rúa dos Irmáns Misioneiros dos Enfermos Pobres)を歩いて北上してゆき、港が一望できる通り(Rúa do Doutor Corbal)に面した高台の住宅地から湾内の風景(Enseada de Teis)を楽しんだ。丘を登りゆき、かなりの高さまで来たため、赤い家々の屋根と青い海や白い桟橋や吊り橋が美しく見えて大満足だった。

13世紀にMartim CodaxのCantiga de amigoで詠われている景色そのものでのどかな光景だった。そこは入り江の中の出た場所で雰囲気が良く、高級住宅地だった。帰りも同じ道を通り、 少しばかりの商店が開いていて、通り(Rúa de Sanjurjo Badía, Rúa de Pedro Alvarado)のロータリーに面したお菓子屋さん(Confitería Pastelería Charcutería La Camelia)でハム(xamón)とホワイトチョコレート(chocolate branco)のアーモンド(améndoa)の量り売りを買った。ホワイトチョコレートの量り売りは100g 4€で少し割高だが、ハムはとても安かった。ハムを300g、チョコレートを100g買い求めて味わった。雑貨屋や一部のブティックだけが開いているのを見つけた。

少し戻るとパン屋さん(Panadería Porto Panaderos)が開いていたので、パンを求めて食べた。 通り(Rúa do Areal)の街路樹にマンダリンと椿が交互に植わっていて、大通り(Avenida de García Barbón)を進むと街路樹のマンダリンの木にはミカンがたわわに成っていて驚き、誰か収穫して食べるのかと思った。19世紀に建てられた美しい教会(Igrexa de Santiago de Vigo)まで戻った。

そして、ホステル前のコンビニ(OpenCor)で長い明日の朝食のフランスパン(Baguette)とカマンベールチーズ(Queso Camembert)とヨーグルト飲料(Yogures Líquidos Danone)を求め、ホステルに帰り、パンにSantiago de Compostelaの市場(Mercado de Abastos)のお肉屋さん(Charcutería Jamonería Hernández)で父が買ったハムを挟んで食べた。湾内は外が大型で工業地帯、内が旅客、一番奥が遠航用の港になっていた。ハムは油と肉の配分がちょうど良くて、とても美味しかった。

今日はホステルに戻る頃から激しい雨が降り、天気についていると思った。テレビを見て、スペイン語のニュースを沢山聞いて、一カ月ぶりのお風呂に浸かり寛げて、寝際にスペイン語とフランス語の本を読んで寝た。ホステルはスペイン人が普段寝ているような部屋でとても落ち着いていて、小綺麗な良い部屋だった。35€で二人泊まれて、窓からはにぎやかな通りがあり、前のコンビニ(OpenCor)に人が入っていくのが見えた。夜の2時近くになっても、ひっきりなしに入っていきとても驚いた。その先には物乞いがいて、5人に1人がお金を入れているのが見え、街には優しい人が多いと思った。

大通り(Avenida García Barbón)の街路樹になるミカン

2008年5月19日(月)40日目(Vigo-Viana do Castelo-Porto: Duas Naçôes)

ポルトガルに入り、Portoの駅(Estação de Porto São Bento)や教会(Igreja de Santo António dos Congregados)は美しい青タイル(Azulejo)で彩どられていた。駅前で偶然Santiago de Compostelaの巡礼事務局で後ろに並んでいたオーストラリア人に会った。街中を観光して、 エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832-1923)が設計した鉄橋(Ponte Luís I) からの眺めは素晴らしく、赤い屋根が印象的だった。ロマネスク様式の大聖堂(Sé do Porto)の前には、不思議な捻じれた柱が建てられていた。ポルトガルとスペインの主要な歴史的都市を全て見て回ることにした。

今日は朝、午前6時半に起き、午前7時40分の電車に間に合うよう、午前7時に宿を出た。宿(Hostal Buenos Aires)の方はとても優しく、朝早くに起こしてしまったが、笑顔でお見送りしてくれて、今日は電車でポルトガルのPortoに向かうことを告げると旅を楽しんで下さいと送り出して下さった。しかも、部屋を出るまで出迎えてくれて、ガリシア人らしい細やかな優しさに感謝した。

ヨーロッパの都市は、朝歩くと人通りが少なく、美しい街並みを楽しめた。警察官も多く、町に立っていて、とても治安が良かった。町の近道を通り歩いて、午前7時10分に駅に着いた。昨日の雨は激しく、路面が凄い水だらけになっていた。スペイン語で要件を告げると、駅員さんはとても丁寧にポルトガルに入るまでのルートを説明してくれた。スペイン側の料金を5.1€を先ずここで払い、ポルトガルに入ると、車内でまた払うということだった。列車は14のホームから出ることを丁寧に教えてくれ、駅のプラットホームにはローカルな列車が待機していて、乗り込むととても居心地が良かった。

朝食のパンとリーフパイを食べて、日記を書いていると、直に発車した。父がポルトガルに入るためにデジタルカメラの時間を一時間ずらした。今日は一時間得をした気がした。昨日と同じ線路を少し戻り、美しい湾が見え朝の雰囲気は美しく格別だった。列車はどんどん山中に入り、田舎を抜けていった。山中はやはり激しい雨で向こう側は青空なのに霧が立ちこめていて、雨が激しく降るという、日本ではありえない天気の中を走っていった。この地方の葡萄畑は、日本とは異なり、高い所に実が成るようになっていた。それは、機械化されておらず、人が手で摘んでいるからだと思った。

列車の中でスペイン語の本を読んでいた。これからは巡礼宿も無く、巡礼で一日長く歩くことも無いため、ゆっくりと日記を書いたり、語学を学ぶ時間が取れると感じた。Vinçaoの鉄橋(Ponte Internacional Tui-Valença)で大河(Río Miño)を渡るとポルトガルに入った。すると、天気も村の様子も、町の様子も一気に変わり、町並みは青いタイル張りの家で彩どられて美しくなった。

車掌さんから「こんにちは(Bom dia)」と話しかけられ、始めはガリシア語かと思ったが、会話をすると少しスペイン語と違う発音で極めつけは「ありがとう(Obrigado)」と言われ、ポルトガルに入ったことを知り、スペインの切符は使えないため、初めて入国に気付いた(スペインではRenfe、ポルトガルではComboiosの管轄でCeltaという、国際の相互乗り入れシステムがある。Vigo-Redondela-O Porriño-Tuy-Valença-Vila Nova de Cerveira-Caminha-Âncora-Praia-Viana do Castelo-Barroselas-Barcelos-Nine-Famalicão-Trofa-Ermesinde-Porto-Campanhãをつないでいる)。

ポルトガルに入り、始めの駅Valença(ラテン語Valentia < 「強い」valens < valeo < イタリック祖語*walēō < 印欧祖語*h₂wl̥h₁-eh₁-(ye)-ti < 「治める」*h₂welh₁-が語源)で一気に乗客が乗り込んできた。それは丁度、通勤の時間でViana do Casteloで一斉に降りた。駅の雰囲気も変わり、青色のタイル壁画が映えていて美しかった。美しい街並みを通過して、途中下車できず少しもったいなく感じた。

(1253年にアフォンソ3世(Afonso III, 1210-1279)が作った町で城の中にいた美しい少女に恋をした対岸に住む青年が「Vi a Ana do castelo!(アナを城の中に見たぞ!)」と叫んだことから、町の名前になったという逸話が伝わるが、スペインの巡礼路で通ったViana、オーストリアの首都Wien, Viena、フランスの都市Vienneなど、ローマ人が各地に建築した都市Viennaは、ラテン語Vindobona < *Vedunia < ケルト祖語「森」*widus < 印欧祖語*h₁widʰ(h₁)-u-s < 「分かれる」*h₁weydʰh₁-が語源である。)

皆、中年から年配の人が多く、Joaquimが、ポルトガル人は若い人が皆、外に出稼ぎに出てしまうと話していたことを思い出した。車掌さんは駅に着くたびに回って来て、一回払った客と新しく乗ってきた客を全て見分けていて、かなりの客がいるのに鮮やかにさばいてゆく、手際の良さと記憶の確かさに感心した。駅名も全てポルトガル語に変わり、EstaciónはEstaçãoとなり、ポルトガルに入った実感をした。更に村々や町の中はきれいでごみが一つも散らからず、落書きも全く見当たらなかった。

天気は雲一つない快晴で、ガリシアとの差には驚くほどだった。少し森の中を通り、小雨が振っていたが、直ぐに快晴になり、美しい天気だった。

ポルトガル人同士の会話を聞くと、言葉に抑揚があり、周波数が似ているせいか、ドイツ語やフランス語に似た響きがあった。ポルトガル語はフランス語から沢山の語を借用したので、フランス語と共通する単語が多く、発音も全くスペイン語と異なり、ポルトガルに入国したことを実感した。

時差を考えて、午前10時にPorto郊外のCampanhã駅(Estación de Porto-Campanhã)に着いた。プラットホームにはごみやガム一つなく、町並みは美しかった。駅前の美しいタイル張りの教会を探すが見当たらず、どうしたかと考えたら、Porto旧市街のSão Bento駅(Estación de Porto-São Bento)に着いたため、普通列車に乗り換えて一つ先の川沿いの駅に行かなければならなかった。

São Bento駅に着くと1900年前半に建てられた駅舎は雰囲気があり、入り口の美しい青色のタイル壁画が圧巻だった。下にはポルトの歴史パネルがあり、少し佇んでタイル壁画も楽しんだ。

旧市街に出ていくと、駅前の1703年に建てられた美しいタイルの教会(Igreja de Santo António dos Congregados)の前の大通り(Rua de Sá da Bandeira)でいきなり、¡Buen camino!と後ろから、二人が声をかけてきて、驚いて振り向くと、Santiago de Compostelaで巡礼証明書を発行されるのを一緒に話しながら待っていたオーストラリア人LiaとBronwynと偶然に再会して驚いた。しかも、彼女たちはPortoをよく研究していて、Liaの友達が本をコピーして製本して送ってくれたと話していた。

川沿いに向かっていたそうだが、わざわざ引き返して、10分程歩いた所にある素晴らしい宿に連れて行ってくれた。広場(Praça da Liberdade)から、坂を上がる通り(Rua da Fábrica)を歩いてゆくと広場(Praça de Guilherme Gomes Fernandes)に面した雰囲気の良い宿(Duas Naçôes)に着いた。

ドアは奥まった所にあり、雰囲気はとても良く、呼び鈴を押して、受付の人を一回呼んで開ける方式でセキュリティーも徹底していた。必ず全ての人は受付を通るため、怪しい人や泥棒も入りにくい。驚いたことに受付には日本人がいた。ポルトガル語がネイティブで日本語が少し変なため、ポルトガルで生まれて教育を受けたか、ポルトガル人と結婚して、Portoに長く住んでいるのかと思った。

美しい道路や廊下を通り、階段を上がった4階に部屋があり、小さいが小ざっぱりしていて快適だった。トイレとシャワーは共用だが、巡礼宿のプライバシーが無い、とてもひどい宿ばかりを沢山経験してきた我々にとっては、何のことも無かった。宿を出ようとすると、一人旅でヨーロッパを周遊する日本人がいて少し話をした。自分で電車を手配してしっかりした日本人だと思った。

直ぐに街に出て、郵便局を探した。始め違う方向に行ってしまい迷ったが、黄色と青色の矢印があり、ポルトガルからSantiago de Compostelaへ向かう巡礼者が通る道と直ぐに分かった。

宿の位置に戻り、再度、街を歩いた。Portoは坂道が多く、上下が激しい街で、歩き回るのに足腰を使い大変だった。市電が町中を通っていて、町の人たちは皆バスと同じ感覚で利用していた。

広場(Praça de Carlos Alberto)から1756-68年に建てられた美しい青タイルの教会(Igreja de Nossa Senhora Carmo)を見たた。カフェの値段表を見たら、スペインと物価が殆んど同じで、ポルトガルの物価も日本並みであった。通り(Rua de Sampaio Bruno)に面した郵便局(Correios)に着いて、順番待ちの札を取るのを忘れ、少し待ち時間を無駄にしてしまったが、並んで順番が来て、郵便局員の人は美しい英語を話して、とても優しく国際郵便の発送方法を提案してくれた。

Lourdesよりも高く、始めは4kg位送る予定だが2kg以内とした。箱をもう一つ入れると、重さが少し出てしまい、少し出していると丁度2.000gと表示されて、郵便局員も歓声を上げて喜んでくれた。郵便局には本が売られていたり、雑貨や宝くじまで買うことができ、日本と雰囲気が違っていた。

町の人にSupermercadoの場所を教えてもらい、通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)の中にSupermercado Froizを見つけて、ニンニク味のパン(Pão torrado de alho castello)や菓子パン(Croissant brioche, Folhado queijo e bacon)、シリアル(Cereais Nestlé)、ビスケット(Biscoito de clara de ovo)やポテトチップス(Lay's al Punto de Sal Matutano)、ハム(Mortadela siciliana con aceitunas)やチーズ(Queijo Gran Capitán)、林檎(Maçã Starking)やマンゴ(Manga)、リンゴジュース(Sumo Zumosol de maçã)やオレンジジュース(Sumo Don Simón de laranja)、レモンティ(Nestea Chá de limão)やヨーグルト飲料(Bifidus Clesa líquido com sumo limão)、コカコーラ(Coca Cola Zero)やパイナップル味のファンタ(Fanta Ananás Lata)など、食料品を買い込んだ。スペインと殆んど物価は変わらなかったので驚いた。ポルトガルには、パイナップル味のファンタがあった。

そして、大通り(Avenida dos Aliados)の歴史的建物(Câmara Municipal)の前で昼食をとる間、犬が来て、周りをうろちょろと歩き回っていた。そこは丘の上にあり、非常に大きな通りを見下ろすように建てられており、見晴らしがとても良かった。

宿に戻るとき、市役所(Câmara Municipal)の裏手に観光案内所を見つけて地図をもらった。小冊子もくれて感じが良く、流暢に英語を話す人がいた。(ポルトガルの若い人は給料が多いヨーロッパ諸国に出稼ぎに行くために英語やフランス語を話せる人が多いことを感じた。)ヨーロッパの各都市には、どんなに小さな町にでも、必ず観光案内所があった。様々な通り(Rua de Ramalho Ortigão, Rua do Almada, Rua de Ceuta, Rua de José Falcão)を歩いて、街の雰囲気を楽しみながら、宿に戻った。路地には商店が立ち並んでいて楽しかった。それから、市電が走る坂を上がってゆき、宿に着いた。

ポルトガルの町は午後2時前でも活気づいていて、Siestaが無いので旅行者にはとても助かった。Hostelで少し休憩して、先ほどのSupermercadoで買ったおやつを食べて、午後3時頃にまた街に出た。ポルトガルでは、パン屋さん(padaria)はパンしか売らず、ミルフィーユやパイはカフェテリアのような店で食べられたり、お菓子屋さん(pastelaria)で売られていた。

ホステル近くには本屋さん(livraria)が数十軒もありとても驚いた。(特に通り(Rua da Fábrica)に面した書店(Livraria Bertrand)は繁盛していて、通り(Rua das Carmelitas)に面した書店(Livraria Lello)はアールヌーヴォ様式の木製の階段など内装が有名でとても繁盛していた。)

町には、カフェが沢山あったが、立て看板を見たら一杯がとても高そうだったので入らなかった。路面電車(22号線)を眺めてから、ポルト大学(Universidad de Oporto)の横の坂(Rua do Dr. Ferreira da Silva)を下り、1732-63年に建てられた素敵な塔(Torre dos Clérigos)などを見た。

旧市街との境界線を通る大通り(Campo dos Mártires da Pátria)を行き、旧市街の下町の路地(Rua das Virtudes, Rua das Taipas, Rua de Belomonte)を下がっていった。旧市街は世界遺産に指定されていて、高台(Largo São João Novo)からの眺めは美しかった。崖のような急斜面の階段(Escada do Caminho Novo)を下り、川辺(Rio Douro)の道(Rua Nova da Alfândega)に出ると釣り人が沢山いて、船が沢山行き来して、港(Porto)という感じがした。対岸の町並みは美しかった。

1383-1410年に建てられたゴシック様式の教会(Igreja de São Francisco)の前を通り、坂(Rua do Infante D. Henrique, Rua de São João)を上り、トンネルの前で細い路地(Rua de São João)を進み、広場(Praça Ribeira)でエッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832-1923)が設計した鉄橋(Ponte Luís I)を見上げて、通り(Rua de São João, Rua de Mouzinho da Silveira)をまた上がり、小さな広場(Largo São Domingos)を過ぎて、駅前の広場(Praça de Almeida Garrett)に面した1703年に建てられた青タイルが美しい教会(Igreja de Santo António dos Congregados)まで来た。

それから、大通り(Avenida Dom Afonso Henriques, Avenida Vimara Peres)を歩いて、大聖堂(Sé do Porto)の裏や城壁(Muralha Fernandina da Sé)を通り、鉄橋(Ponte Luís I)に行った。橋は太くて市電も走っていて、赤い屋根の港町が一望できて壮観だった。鉄橋でボランティアのガイドを名乗る人がいたが怪しそうで避けた。対岸の高台からの旧市街の眺めは美しかったが、垂れ幕があって、見えないところがあり少し残念だった。Portoは山が多いため、多くのトンネルが貫かれていた。対岸には1538年に建てられた修道院(Mosteiro da Serra do Pilar)を下から見上げた。

橋を渡って戻るとき、市電が通り、時々すれ違った。大通り(Avenida Vimara Peres)に中国料理店(Restaurante Chinês)をまた見つけ、ヨーロッパ中に中国人が住み着き、独自のネットワークを気づいていることに驚いた。1110年に建て始められた美しい双塔を持つロマネスク様式の大聖堂(Sé do Porto)の中はとても広々としていて、主祭壇の前は特に美しかった。

大聖堂の前(Terreiro Sé)には面白い捻じれた柱(Pelourinho do Porto)が立てられていて、変わったモニュメントだった。ポルトガルの紋章が刻まれた花崗岩でできていた。大聖堂の前には黄色と青色の矢印があり、Santiago de Compostelaにこちらからもつながっているのかと想像でき、ポルトガルの巡礼路(Caminho Português)を見つけられた。巡礼宿(Albergue)は見当たらなかった。

大通り(Avenida Dom Afonso Henriques)を通り、駅前(Estação de São Bento)の教会(Igreja de Santo António dos Congregados)がある旧市街を戻り、父は駅前の果物屋(Fruta na Cidade)で買い物をして、私は ショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)のSupermercado Froiz に戻り、アイスクリームを探した。しかし、選択肢が少なく高かったので手ぶらで帰った。

特に通り(Rua da Fábrica)に本屋が多く、初版本だけを扱う本屋や歴史ある古本屋(Livraria Sousa & Almeidaなど)が多くあって面白かった。様々な通りを歩いてみようと思い、遠回りをして、立地条件も周辺環境の良い場所に位置していた宿に戻った。宿は丘の中腹に位置しており、周囲の環境がとても良かった。もう少し坂を上がった所には、もう少し治安が悪そうで雑多だが、駅には近かった。

宿でテレビを見てポルトガル語を聞きながら寛ぎ、大量に買い込んだ食料を食べていると、オーストラリア人のLiaが入って来て、食事に誘い出してくれた。彼女たちは5日もPortoに泊まり、美味しい食べ物がある店にも通じていた。近くの広場(Praça D. Filipa de Lencastre)に面したトルコ料理店(Restaurante Divan)が近くにあり、とても安く美味しそうな食べ物が並んでいた。シシカバブの二人用にスライスとサラダ、ポテトフライのコンビナードを頼んだ。様々な巡礼の話をしたりした。

Ponferradaの巡礼宿(Albergue)が国際動物園(international zoo)のようでいびきが煩かったり、フランス人の巡礼者とスペイン人の管理人が母国語で喧嘩していたり、陽気なイタリア人から、私のおしゃべりが面白いと言ってくれて、色んな国の人が色んな言葉で話しかけて来てくれたり、父が色んな荷物を調えるのに慣れていて、有能な秘書みたいだと言われたり、巡礼の途中で真ん中あたりのカスティーリャの乾いた大地を歩いて、Grañonで教会の中で寝たことなどを話した。

LiaはまだCamino de Santiagoを巡礼をしているような気分でいて、まだ夢の中に浸っていると言っていた。ミサの振り香炉(botafumeiro)を見たときの感想やVigoやPortoで帆立貝のマークを見つけて、巡礼路を通って少し巡礼をしたんだよというような冗談をたくさん言い合って大いに盛り上がった。LiaとBronwynは、明日空港に下見に行き、オーストラリアに帰るための予約手続きをして、情報を集めてから、London経由で日本で乗り継いで国に帰る準備をすると話していた。

宿に午後10時少し前に戻り、前で記念撮影をした。部屋に戻り、テレビを見たり、フランス語、スペイン語、イタリア語で読書して、夜を迎えて、眠りに着いた。ポルトガルは1時間時差があり、少し得をした日だった。Santiago de CompostelaやGreenwichと同じ経度であるにもかかわらず、スペインとポルトガルで標準時間の地点が異なるため、時差があったが、感覚としては、全く変わりなかった。

Portoはローマ都市「ガッラエキの港(Portus Cale)」があり、リスボン(Olissipona)やブラガ(Bracara Augusta)と交易をする中継港とされた。588年に司教座が置かれ、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūns)が征服、868年にヴィマラ・ペレス(Vímara Peres)がポルトガル伯(Condado de Portucale)を称してレコンキスタを始め、12世紀にポルトゥカーレ伯アンリ・ド・ブルゴーニュ(Henri de Bourgogne / Henrique de Borgonha, 1066-1112)が奪還した。

ポルトガルの特にCaleの語源にもケルトに関連する説の他にいくつかの説がある。

①ラテン語「ガッラエキ族」Cale < Gallaeci, Callaeciが定説である。ポルトガルPortugal < Portucale, Portugallia < Portus Cale < Portus Gallaeci, Callaeciが語源であり、ガリシア地方Galicia < Gallicia < Gallaecia < Gallaeci, Callaeciの語源でもあるケルト系の部族でケルトの語源と共に後述。

②ラテン語「熱い」calidus < 「温める」caleo < イタリック祖語*kalēō < 印欧祖語*ḱelh₁-eh₁-(ye)-ti < *ḱelh₁- < *ḱlēw- < *gʷʰer-が語源でサンスクリット「秋」शरद् / śarádや古ペルシア語「年」𐎰𐎼𐎭 / θrda < インド=イラン祖語*ćarHáts、古英語「温かい」hlēow, hlēowe, hlīwe, hlīewe, hlȳweや古ノルド語「温い」hlær, hlýr < ゲルマン祖語*hliwjaz, *hlēwaz, *hliwjaz, *hlēwijaz、リトアニア語「温かい」šiltasやラトビア語「温かい」sìlts < バルト=スラヴ祖語*šiltasに関連。

③古典ギリシア語 「美しい」καλός / kalós < 印欧祖語*kal-wo-s < 「良い」*kal-が語源でサンスクリット「美しい」कल्य / kalyaやアルバニア語「見てくれが良い」kolmë < アルバニア祖語*kālimaと関連。

④古典ギリシア語「神名」Γαῖα / Gaîa < 「大地」γαῖα / gaîa < アッティカ方言γῆ / gê、ドリア方言γᾶ / gâ < δᾶ / dâ(「神名」Δημήτηρ / Dēmḗtēr, Ποσειδῶν / Poseidôn)、アルカディア方言ζᾶς / zâs、ミケーネ方言ga(「母なる地」ma-ga) < da(「地震」e-ne-si-da-o-ne)が語源(Robert S. P. Beekes (2009). Etymological Dictionary of Greek, Leiden: E. J. Brill:pp. 269–270.)でPortoと近くにあるGaia(Vila Nova de Gaia)の二つの町の名を合わせて、Portogalの名が興ったともされる。

更に印欧祖語「地」*dʰéǵʰōm < *dʰeǵʰ-が語源でヒッタイト語「地」𒋼𒂊𒃷 / tēkanやルウィ語「地」𒋾𒄿𒀀𒄠𒈪𒅖 / tiyammiš < アナトリア祖語*déǵm̥、サンスクリット「地」क्षम् / kṣám < インド=イラン祖語*ȷ́ʰžʰáHsや古典ギリシア語「地」χθών / khthṓn < ヘレニック祖語*kʰtʰṓn、古ケルト語「所」*dú < ケルト祖語*gdūや古スラヴ語ⰸⰵⰿⰾⱑ / zemlě < バルト=スラヴ祖語*źémē、アルバニア祖語*dzōやトカラ祖語*tken、ラテン語「人」humus < イタリック祖語*homosや古アイルランド語「人」duine < ケルト祖語*gdonyosに関連するとも考えられる。

⑤古アイルランド語「港」calad < ラテン語「入り江」calatum < 「呼ぶ」calo < イタリック祖語*kalō < 印欧祖語*kl̥h₁-eh₂-(ye)-ti < *kelh₁-が語源で古典ギリシア語「呼ぶ」καλέω /kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyōと関連、もしくはラテン語「緩める」chalo < 古典ギリシア語χαλάω / khaláō < ヘレニック祖語*kʰəlā́ō < 印欧祖語*khal-eh₂-ye-ti < *khal-が語源でサンスクリット「緩める」खल्लते / khallateと関連。ラテン語「入り江」calatumからロマンス諸語のイタリア語(シチリア語)とオック語(カタルーニャ語)「入り江」calaやオイル語(フランス語)「入り江」caleが派生。古アイルランド語は地域が隔たり、ロマンス諸語の派生は時間が遅いことから、イベリア半島の地名として適切ではない。

⑥フランス語Gaule < ラテン語Volcae < 古典ギリシア語Βλάχοι, Vláhi < Οὐόλκαι / Ouólkai < 古フランク語Walha, Walah, Walh < 西ゲルマン祖語「見知らぬ人」*walh < ゲルマン祖語*walhaz < ケルト祖語「鷹」*wolkos < 「悪い」*ulkos < 印欧祖語*h₁elḱ-os < 「悪い」*h₁elḱ-か「狼」*wĺ̥kʷos、もしくはケルト祖語「野人」*wēdelos < 「野生」*wēdus < 印欧祖語*h₁weydʰh₁-u-s < *h₁weydʰh₁- < 「離れた」*dwi- +‎ 「場所」*dʰeh₁-が語源で地名Walloon, Walen, Wales, Cornwall, Galway, Gaelと関連するゴール(Volcae)はケルト(Celtae)とは別の語源である。イベリア半島の地名として適切ではない。

ケルトは欧州各地に分布しており、地名や人名として残されている。古代の著作者、ミレトスのヘカタイオス(Ἑκαταῖος ὁ Μιλήσιος > Hecataeus Milesius, c.-550–c.-476)やヘロドトス(Ἡρόδοτος > Herodotus, c.-484–c.-425)、ストラボン(Στράβων > Strabo, c.-63–c.-24)、プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος > Claudius Ptolemaeus, c.83–c.168)らが、古典ギリシア語Κελτοί / Keltoí, Κέλται / Kéltai, Κελτικοί / Keltikoí, Καλλαϊκοί / Kallaïkoí, Γαλάτης / Galátēs, Γαλάται / Galátai, Γαλατία / Galatía, Γαλάτεια / Galateiaと記録、カエサル(Gaius Julius Caesar, -100–-44)やプリニウス(Gaius Plinius Secundus, c.24–79)らが、ラテン語Celtae, Celtici, Callus, Gallus, Gallia, Galatiaと記録した。

①古典ギリシア語「乳」γάλα / gála < 印欧祖語*ǵlákt-s < 「絞る」*gl̥kt-が語源でヒッタイト語𒂵𒆷𒀝𒋻 / galaktar < 「落ち着かせる」𒂵𒌨 / galak-やラテン語lac < 古ラテン語lacte、古アルメニア語կաթն / katʿn < アルメニア祖語*gl̥kt-mやアルバニア語dhallë < アルバニア祖語*dzalāと関連だが古代ギリシア著述家の説であり、ケルト語で分析されていないため適当ではない。

②ケルト祖語「力がある」*galnati < 印欧祖語*gl̥-né-H-ti ~ *gl̥-n-H-énti < 「できる」*gelH-が語源で古アイルランド語galやウェールズ語gallu、また、古スラヴ語「できる」голѣмыи / golěmyiやリトアニア語「できる」galėti < バルト=スラヴ語祖語*galḗˀteiと関連。

③ケルト祖語「高められた」*keltos < 印欧祖語*kelH-tós < 「登る」*kelH-が語源でブレトン祖語「柱」*koloβ̃nや古アイルランド語「柱」colba < ケルト祖語*koloben、ラテン語「柱」columen < イタリック祖語*kolamenやラテン語「抜きんでた」celsus < *celo < イタリック祖語*kelnōやリトアニア語「上げる」kéltiやラトビア語「上げる」cel̂t < バルト=スラヴ祖語*kelˀtéiと関連。

④ケルト祖語 「木」 *kallī < 印欧祖語「丘」*kl̥H-ní-s < 「登る」*kelH- + ケルト祖語*-ākos < 印欧祖語*-eh₂-ḱosが語源で古ノルド語「島」holmr < ゲルマン祖語「丘」*hulmazやリトアニア語kálnas < バルト=スラヴ祖語*kalˀnás、古典ギリシア語「丘」κολώνη / kolṓnē < ヘレニック祖語*kolōnā́やラテン語「丘」collis < イタリック祖語*kolnisと関連。

接尾辞は古典ギリシア語-κός / -kós < ヘレニック祖語*-kosやラテン語-cus < イタリック祖語*-kos、サンスクリット-कस / -kasaや古ペルシア語-𐎡𐎣 / -ikah < インド=イラン祖語*-kas、リトアニア語-ingasや古スラヴ語-ъкъ / -ŭkŭ < バルト=スラヴ祖語*-kas、ゴート語 -𐌲𐍃 / -gs < ゲルマン祖語*-gazやアルバニア語-kë < アルバニア祖語*-kāと関連。

⑤ケルト祖語「掘る」*kladeti < 印欧祖語*kl̥h₂d-é-ti < 「打つ」*kelh₂-が語源で古典ギリシア語「打つ」κλάω / kláō < ヘレニック祖語 *klā́ō < 印欧祖語*kl̥h₂-eh₂-ye-tiや古典ギリシア語「低木」κλάδος / kládos < ヘレニック祖語*klə́dos < 印欧祖語*kl̥h₂-d-osやリトアニア語「打つ」káltiやラトビア語「打つ」kal̃t < バルト=スラヴ祖語*kálˀteiと関連。

⑥ケルト祖語「隠れる」*keleti < 印欧祖語*ḱél-e-ti < 「覆う」*ḱel-が語源でブレトン祖語*kelɨdや古アイルランド語ceilid、また、ゲルマン祖語「覆う」*helanąと関連。

Portoの街並みを鉄橋(Ponte Luís I)から臨む

2008年5月20日(火)41日目(Porto-Braga-Porto: Duas Naçôes)

Bragaまで電車で旅をした。歴史的な都市で大聖堂や博物館を見学した。52年から歴代の司教の名が刻まれていて驚いたと同時にローマ時代からの歴史がある町であることを感じた。Portoに戻る車内で地元の人と大盛り上がりして、Portoの見所をたくさん教えてもらった。オーストラリア人LiaとBrowynと地元の人が出入りしていたレストランで別れの夕食をした。

今日は午前7時少し前に起きて、身の回りの支度をして、午前8時半頃に街に出た。午前9時頃に駅で電車の時刻を確認した。掲示の行先を見誤り、発着の時間を取り違えたが、Braga行きの電車は1時間に1本出ていたので、次の午前9時45分に乗ることにして少し町に出た。

昨日にも行った通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)のSupermercado Froizに行くが、スペインとは異なり、午前10時から営業のため、飲料を求められなかった。父は中央広場(Praça da Liberdade)のベンチで待っていた。

直ぐ列車が来る時間になり、駅構内でトイレを済ませて乗り込んだ。郊外に行く電車(Comboios Urbanos)なので、長距離電車では無く、気楽に乗っていけた。明日行く予定のAveiroへも、1時間に1本は出ていて、Porto(Oporto)の郊外のような感覚で鉄道で気軽に行けて嬉しかった。

電車の中では日記を書いたり、風景を楽しんだり、朝食を食べたり、本を読んだり、人が少ないので快適に過ごせてよかった。Bragaまで2.15€と安く移動できるのも嬉しかった。

電車では車掌さんが駅ごとに回って来て、社内で払うシステムが面白かった。ポルトガルは人が少なくてのんびりとしているからこそ、システム化せずにマニュアルでできることを感じた。畑の中にプラットホームがある駅も驚きだった。駅の周りに何もなかった。

電車はBraga駅に着いたが、駅前にはロータリーやバス停以外は何もなかった。バス停で地図を見て、旧市街を目指して通り(Rua Andrade Corvo)を歩くと、バスに乗るまでもなく、公園(Campo das Hortas)を過ぎて、十分ほどで入り口の門(Arco da Porta Nova)と城壁(Paços do Concelho de Braga)が見えてきた。商店街になっている大通り(Rua Dom Diogo de Sousa)を渡り、中央のまるで砦のような外観の1071-89年に建てられた大聖堂(Sé de Braga)に出た。

大聖堂には博物館(Tesouro-Museu da Sé de Braga)があり、沢山の柱の一部の石材が置かれ、聖人の骨を納めた家具が置かれていた。また、面白いポジティブ・オルガン(Órgão positivo D. Luís de Sousa)などが展示されていた。朝の祈りの最中で小規模なミサが行われていた。前に大きな広場があり、大量の廃材があり、ラテン語が刻まれていたが、風化が激しくて読むのは大変だった。

教会(Igreja da Misericórdia de Braga)の中は貴重な祭壇があり、金箔がふんだんに使われていた。もう少しこじんまりしていても良いとも思ったが、ステンドグラスや祭壇の周辺は美しかった。

教会隣の博物館には美しいパネルがあり、52年の聖ペドロ・デ・ラテス(Pedro de Rates)以来の教会の管理者の名が刻まれていて、歴代の司教の名がびっしりと書かれていた。1970年まで続いて書かれており、ローマ時代からBragaは栄えていたことを物語っていた。

それから、先に進み城の塔(Torre de Menagem)を見て、大通り(Avenida Central)を歩き、噴水(Chafariz do Castelo)がある広場(Praça da República)に出た。駅からここまでは一本道で分かりやすかった。ポルトガルでは家はきれいな青タイルで装飾され、道は小さな白い石が敷き詰められてきれいな街並みだった。大通り(Avenida da Liberdade)に面した目立つところに観光案内所(Posto de Turismo de Braga)を見つけて、地図をもらい、Supermercadoの位置をきいた。

ショッピングモール(BragaShopping)の中にSupermercado Pingo Doce Braga IIがあり、食料を少し買って、椅子で食べた。ホワイトチョコレート(Tablete de Chocolate Branco)、 クリームパン(Bola de Berlim con creme)、リーフパイ(Palmeiras de hojaldre com açúcar)、バナナ(Banana)、ピーナッツを砂糖でまぶしたお菓子(Crocante de Amendoins com açúcar)、コーラ(Cola Light)、マンゴジュース(Nectaríssimo de Manga Clássico Compal)などを買った。

昼休みになり、大学生が大量に押し寄せてきた。皆お昼にものすごい量を食べていて驚いた。周りにはピザ屋さん、お惣菜屋さん、パスタ屋さんと沢山の飲食店があった。近くの新聞を読んでいるだけの人がいて、混みあってきたのでショッピングモールを出て、街の中を少し歩いた。

公園(Jardim da Senhora A Branca)の先に16世紀に建てられたバロック様式の美しい教会(Alminhas de Nossa Senhora do Carmo)があった。近くの広場(Largo Senhora A Branca)にあるパン屋さん(Hotel Cântaro Doce / Residencial Dora)に入り、小さなピザ(Pizza)やミートパイ(Pastel de carne)を求めた。ポルトガル人の大学生で賑わっていて良さそうだったので入った。

1629年に建てられた教会(Santuário do Bom Jesus do Monte)に向かおうとしたが、地図の場所にたどり着けず、大学(Universidade do Minho)の構内に入り、住宅地を通るが何もなかった。

バス停を見つけて、路線図を確認すると、その教会は地図の外にあり、その方向にあるため書かれているだけと分かった。おまけに観光案内所で02系統のバスで行くと教えてくれたことを思い出した。街中から少し遠いため、行くのは諦めて、旧市街の中心部に戻って、近くの広場(Praça da República)から、旧市街の美しい街並みを楽しんだ。それぞれの建物はとても美しかった。

大通り(Largo do Barão de São Martinho)から通り(Rua de São Marcos)に入ると広場に噴水(Fonte Seiscentista do Largo Carlos Amarante)が見えてきて、18世紀に建てられた教会(Igreja de São Marcos)の隣には薬局(Farmácia da Misericórdia de Braga)があり、教会の中は明るくとても美しかった。スペインのように金きら金ではなく、フランスのように青を基調とした美しい空間が広がり、ステンドグラスは技が素敵だった。そこから小道(Rua de São Lázaro)を行くと青いタイルが印象的なライオ家邸(Palácio do Raio)は病院として使われていて美しかった。

広場(Largo Carlos Amarante)から通り(Rua de Santa Cruz)を歩いて、教会(Igreja de Santa Cruz, Igreja de São João do Souto / Capela e Casa dos Coimbras)の色んな様式の歴史的建築物を楽しみながら、美しい石畳の広場(Largo de São João do Souto)や通り(Rua Dom Afonso Henriques, Rua do Farto)から、小さな広場(Rossio da Sé)を歩いて、中央の大聖堂(Sé de Braga)に辿り着いた。

大聖堂の壁にはポルトガルの紋章と聖母子のレリーフがあり、目立たないところでも小さな遊び心が感じられた。大聖堂の前には巡礼者用の矢印があり、入り口の泉には、聖ヤコブの帆立貝の標がある盤があった。内部はとても美しく、中央の祭壇は質素で小さかった。特に左側の側面が美しくポルトガルらしい青いタオルの壁画の中には、美しいマリア様が幼きイエスを抱いて安置されていた。祈りをゆっくり捧げている人が沢山いた。側面には、イエズスの十二使徒と重そうな初期の聖人像があった。ステンドグラスは新しく作られていたが、優しい光が差し込んでとても美しかった。

大聖堂から出て、細い路地(Rua da Misericórdia)を過ぎると広場(Praça do Município)に出た。噴水(Fuente del Pelícano)があり市民の憩いの場となっていた。私立大学(Universidade do Minho)や公立図書館(Biblioteca Pública de Braga)として使われる旧大司教宮殿(Antigo Paço Arquiepiscopal)や市民会館(Paços do Concelho de Braga)など、他の古典的建築物を見た。

町の入り口の門(Arco da Porta Nova)に向かった。アイスクリームが食べたくなり、Supermercadoに行こうと通り(Avenida São Miguel O Anjo, Rua do Matadouro)を歩いたが、ローマ時代の道路や家の跡がある他は何もなかった。観光案内所でここにはローマ時代の都市(Bracara Augusta)に関する遺跡(Ruínas Romanas das Carvalheiras)があると教えて頂いたのを思い出した。今日は日差しが強くて、街の中を歩き通して疲れてきて、行きたい場所と異なる所に歩いてしまったが、思いがけず、ローマ時代の都市遺跡を見れて、都市の成り立ちを感じることができて面白かった。

まだ、電車まで時間があるため、来た道を戻り、旧市街に入り、大聖堂の横を通り、大広場(Praça da República)に出て、ショッピングモール(BragaShopping)の中にあるSupermercado Pingo Doce Braga IIへ行った。このスーパーマーケットはとても安く、ポルトガルでは物価が安いと感じた。

そして、Santiago de Compostelaで食べたようなアーモンドコーティングのアイスクリーム(Mini sándwich sabor nata)やレディフィンガーのビスケット(Biscoitos Palitos de Champanhe Savoiardi)を購入して、広場(Praça da República)で食べた。

大聖堂の方向へ歩いて、 旧市街の中心部にある商店街(Rua Dom Diogo de Sousa)で古いポストカードを探すが見つけられなかった。途中で美しい柱(Chafariz do Castelo)が建っていて、その装飾がとても気に入った。一本道を歩いて駅に戻り、午後4時の5分前に電車に乗った。

電車には沢山の人が乗っていて、おじさんの隣に座った。スペイン語で話しかけると、それから話がとても盛り上がった。彼が電車を降りた後、大聖堂の横の16世紀に建てられた教会(Igreja da Misericórdia de Braga)でもらったポルトガル語のミサの内容紹介を読んでいると、隣のベンチのおじさんに隣に来てと誘われて、沢山会話して楽しんだ。Porto近郊に住んでいて見どころやお勧めをたずねたら、私が持っていた地図に印を沢山つけて紹介してくれた。(1383年にポルトガル王フェルナンド1世(Fernando I, 1345-1383)が建てた)聖フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)を特にお勧めしていた。昨日、川の近くまで下ってゆき、美しい教会を見たが、そこではないかと思った。

前に座っていたおじさんは、私が日記を書き始めると、上から下に書いているので、覗き込むようにして不思議そうに見ていた。日本語の書く方向だよと言うと、そこからおしゃべりが始まった。すると、車内でPorto近くで皆が降りるまで、私を中心にとても盛り上がった。斜め隣に日本人がいて、その後に話しかけてきた。電車の中で大盛り上がりしていましたから、降りるときにお声をかけようとしていましたと言われた。彼らはPortoとAveiroの港町に泊まり、この近くを見て回っていると言っていた。Portoには観光で来る人は多いけれども、Bragaに行くのは相当の物好きですねと言われた。

PortoのSão Bento駅で下車して、父がフリースのセーターを忘れたので、近くの広場(Praça D. Filipa de Lencastre)に面したトルコ料理店(Restaurante Divan)に行くと、外でメニューを見ている間にこちらから言わなくても、私たちに直ぐに気付き、お店の人がにこりと笑い、セーターを持って来てくれた。ポルトガルの人々の親切でとても感謝だった。そして、感謝にケバブのサンドを注文した。

父は銀行Telebancoでお金を下ろすため、先に宿(Duas Naçôes)に戻った。宿に持ち帰り食べると、今まで食べたサンドの中で指折りのほっぺたが落ちるほどの美味しさでボリュームもあり食べごたえがあった。沢山の野菜が挟まれていて、ヨーグルトとチリソースで健康に良さそうだった。

宿に戻ると昨日の日本人とまた会い、これからどこに行くか、どこを見てきたかなどを少し話し合った。南スペインやポルトガルのLisboaから北上して、Santiago de Compostelaに行き、北スペイン、南フランス、イタリアを周遊して、フランスのParisから日本に帰るそうでお互いに長旅になりそうだと話していた。北スペインやフランスの良い所をお話すると熱心にメモをしていた。ヨーロッパに来てから、父以外の日本人とは久しく会わなかったので不思議な感覚がした。

部屋に戻り、少し軽食やお菓子を食べてから、イベリア半島の地図と飲み物を求めて、また街に出た。もう午後7時15分前で急いで近くの通り(Rua da Fábrica)にある書店(Livraria Bertrand)でイベリア半島の道路地図の全図を7.30€で求めた。どの本屋も同じ地図があり、同じ値段だった。

本屋さんでレジに並んでいたとき、先に行って下さいと譲るとmuito obrigadoと言われた。道をたずねたとき、スペイン語izquierdaをポルトガル語esquerdaと発音して、ポルトガル語はスペイン語の方言の(ガリシア語に近い)ように聞こえた。(バスク語「左利き」ezkerra <「手」*eśku +「曲がった」*okerが語源でポルトガル語「左手」sestra < 古ガリシア語sẽestra < ラテン語 sinistra < 「左」sinister < *senisterosと混同された。更なる語源は不詳だが、「右」dexter < イタリック祖語*deksteros < 印欧祖語*deḱs-tero-s < *deḱs-に影響されて、イタリック祖語レベルで *-teros < 印欧祖語*-tero-sが付いた可能性があり、固有の印欧祖語「右」*(h₁)sewyósが語源かもしれない。)

それから、通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したSupermercado Froizで飲み物(Schweppes limão spirit, Chá Don Simon de limão, Sumo compal clássico néctar de manga)を求め、宿に戻るとインターネットを受付前でしていたオーストラリア人Liaに今日の夕食はどこかへ行こうと誘われた。テレビを見て、ポルトガル語を聞いて寛いでいたとき、オーストラリア人Liaの部屋に父が訪ねていくと、少ししたら行きましょうということになった。LiaとBronwynは今日もPorto市内を歩いていたら、川沿いに美味しくて安い店を見つけたそうで丘を下り、川沿いに降りていった。

先ず坂(Rua do Dr. Ferreira da Silva, Rua de São Bento da Vitória)を下りゆき、川沿いの料理店を探したが見つからず、少し大通りを歩き、街を見渡せる広場(Miradouro da Vitória)や16世紀に建てられた教会(Igreja Paroquial de Nossa Senhora da Vitória)がある少し入った通り(Rua de São Bento da Vitória)に面した修道院(Mosteiro de São Bento da Vitória)の横にある小さなカフェ兼レストラン(O Lanchinho da Vitória)でPrato combinadoの魚とサラダとご飯を食べた。4€で沢山のご飯にサラダ、オリーブソテー風フライの魚が出てきてたらふく食べることができて大満足だった。

入口前を歩いていた地元の人にここは美味しいかとたずねると、そうだと大きく頷いたので看板は書きなぐったように大文字で書かれていて少しジャンキーだったが、逆に商売っ気がなく、家族経営で質素な感じがして、美味しい料理を出しそうと勘で感じて入って正解だった。地元の人が出入りしている地域に愛されるお店が見つかり良い所を探し当てた。

食後に沢山の会話をしながら、宿に戻った。今日は主に英語の語源とロマンス語について話をした。Liaは、ポルトガル語は、ドイツ語やスラヴ語などに発音が似ている気がすると話していたが、確かにロシア語やチェコ語などにも発音が似ている感じがした。また、フランス語のように鼻母音が多く感じた。曖昧な音が多くて通りの名前もとても発音するのが難しく感じた。

Liaは今日骨董品店のようなガラクタ屋で古いポットや古い新聞などを、息子さんにお土産に買ったと話していた。その前を通ったが、なんでも屋という感じがして、おもちゃから、マネキンなどでゴミだめ近い状態で玉石混交な感じがしてお宝探しのようだった。

オーストラリアからヨーロッパに来るには、香港経由で時間がかかり大変だと嘆いていた。日本の成田空港などを経由しないとヨーロッパまで直接は飛んでいないと聞き、日本からヨーロッパも遠いが、それ以上に大変な旅に感じた。Santiago de Compostelaからバスに乗って来て高くついてしまい、更に川沿いのレストランで昼食がものすごく高く払わされたことに怒っていた。

宿の近くで別れの挨拶をして、トルコ料理店に行き、明日電車の中でケバブのサンドを求めた。宿に戻ってから、シャワーを浴び、テレビでニュースを見て、ポルトガル語を聞いた。大分ポルトガル語に慣れてきて、何を話しているくらいは分かるようになってきた。

Bragaには古代ローマ都市(Bracara Augusta)があり、ケルト系のブラカリ人Callaeci Bracariが定住した村落を基礎として、紀元前16年(初代皇帝アウグストゥスの治世下)に建設された(紀元前41年のローマの道標が出土)。3世紀にディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus, 244-311)がHispania Gallaeciaの首都とした。410年にスエビ王国(Regnum Suevorum)の首都になり、584年に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)に編入された。

45-60年の初代ブラガ司教(Archidioecesis Bracarensis)には聖ヤコブの弟子である聖ペトルス・デ・ラテス(Pedro de Rates)が着任した。1世紀に聖アウディトゥス(Auditus)が住み、4世紀に著作家のパウルス・オロシウス(Paulus Orosius)が生まれた。6世紀に聖マルティン(Martinus Bracarensis)が、スエビ族をアリウス派からカトリックへ改宗した。

561-63, 572, 675年にブラガ会議が行われ、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が征服して、司教座が廃止されたが、1040年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)が奪還して、1071年に司教座が再び置かれ、1089年にクリュニー修道院を模したフランス風ロマネスク様式の大聖堂が献堂された。1093-1147年には宮廷が置かれていた。

ケルト族Bracari, Bracaraはケルト祖語「ズボン」*brāca < ゲルマン祖語*brōks < *brāks < 印欧祖語「股」*bʰrāg- < 「分かれた」*bʰreg-が語源で古英語「ズボン」brēċと関連。ラテン語「脚」suffrago < sub- +‎ frango < イタリック祖語*frangō < 印欧祖語*bʰr̥-ne-g- ~ *bʰr̥-n-g-と語源が同じである。

Bragaの広場(Praça do Município)から臨む教会(Igreja de São Marcos)

2008年5月21日(水)42日目(Porto-Aveiro: Pensão Residencial Estrela)

Aveiroは駅舎も街中も青タイルで溢れていて白黒の敷石があり、清潔感があり爽やかでコンパクトな街を自転車で回れて、海岸もあり避暑地のようで気に入った。宿も清潔で快適に過ごせた。

今日は午前7時半に起き、午前9時頃に宿を出て駅に向かった。朝は交通量が少なく、美しい駅前と長いタイル張りの教会を楽しんだ。商店や書店が立ち並んだ小道(Rua da Fábrica)を行き、中央広場(Praça da Liberdade)に出て、直ぐ駅に着いたが、Aveiro行きの1時間に1本の電車は出たばかりで50分も待つことになった。駅構内のベンチで電車を待つ間、昨日に買っておいたケバブを食べた。

ベンチの前は写真機で日本人らしき人が戸惑っていて、助けに行こうと腰を上げたら、直ぐにポルトガル人が助けてあげていたのでお任せした。ポルトガルで日本人に助けられるより、現地の人に助けられた方が思い出になると思ったからである。とても微笑ましい光景だった。ポルトガル人とスペイン人は人懐こくて思いやりがあり、街中で困っている旅行者がいると、必ず助けてあげていた。

午前9時45分の電車に乗りAveiroへ発った。初めCampanhã駅に行き、Effel設計の鉄橋を見ながら、引き返していくとき、川沿いに巡礼路が見えて、帆立貝のマークを付けた巡礼者が歩いていた。途中、海に近づいた時(Aguda-Granja-Espinho-Vouga)、海岸線が美しく見えた。山側は雲だらけで、海側は雲一つなく、対照的な光景で驚いた。更に太陽が射して眩しかった。電車の中でロマンス諸語を学んだ。少しずつ学ぶスピードが上がり、読書をする速度が速くなり、効率が良くなった。

鉄道に1時間ほど乗るとに着いた。駅(Estação de Aveiro)のエスカレータを上がると、美しいタイル張りの駅舎があり、観光客のバスがあり沢山の人がいた。駅舎の壁に青タイルで漁民や塩田、婦人などの人物や建物や風物が描かれていて、美しかった。観光客はバスの文字から、フランス人だと分かったので、フランス語で話しかけると嬉しがって興奮していた。Santiago de Compostelaからの巡礼者で25日かけ、フランスから歩いてきたことを知ると、更に興奮してSantiago de Compostelaの大聖堂前で撮った写真を見せてくれた。Santiago de Compostelaから、Aveiroに着いたばかりだったそうで、巡礼者を見て興奮して、貝殻がリュックに着いていて、ビデオで会話の一部始終を撮っていた。

フランス人としばし盛り上がり別れてから、観光案内書を探しに中央広場までの大通り(Avenida Dr. Lourenço Peixinho)を直進した。ヨーロッパの都市には、必ず観光案内所(Turismo)があり、地図で観光案内書までの道のりを確認して行くことが、新しい町に着いて始めにすることと感じた。

通りを行くとDiaの系列のSupermercado Minipreçoを見つけて入った。チョコレートパフェは、予想を良く裏切ってくれて、甘くなかったので良かった。今日は無性にココナッツが食べたくなり、ココナッツマカロン(Petit Fours Coco)やココナッツの乾燥(Coco ralado)を沢山買った。

ポルトガルに入ってから、長いフランスパンが店頭から消えて、ポルトガル人は余り食べないらしいことが分かった。変わりに丸いパン(Pao carcaça regional)を買った。また、丸いチーズ(Queijo Amanteigado de Ovelha Pastor)やフルーツ入りヨーグルト(Iogurte de frutas)、バナナ(Banana)やオレンジ(Mandarina)を買った。スペインではおなじみのDulcesolの美味しいミルフィーユ(Milhojas)や砂糖をまぶしたケーキ(Miguelitos)が手に入らず、少し残念だったが、レディーフィンガー(Palitos de Champanhe)と呼ばれる大好物のビスケット(Bizcochos)は安く手に入った。また、ココナッツのマカロン(Coco Ralado)やホワイトチョコレート(Chocolate branco)も買った。

安く食料品が売られており、流石にポルトガルは物価が安いと感じた。肉売り場でハムのスライスをもらうが、普通は職人技のようにとても薄く切ってくれるので、逆に少し厚めに切ってもらい、チョコレートのパフェ(Chocolate liégeois)やヨーグルト(Yogurt stracciatella)、マンゴージュース(Sumo Pessego/Manga)やマンゴー風味のアイスティ(Ice Tea Manga)なども買った。

それから、大通りを少し歩いたロータリーの先に運河(Canal do Cojo)に面した広場を見つけて食べた。目の前には町の中心の運河に面したショッピングセンター(Forum Aveiro)があり、McDonald'sなどのレストランやアウトレットショップが並んでいて賑わっていた。平日にもかかわらず、ポルトガル人も、スペイン人と同じく、人前で激しくキスをしている人が多く見られた。

市営の無料貸し自転車(Bicicleta de Utilização Gratuita de Aveiro / BUGA)があった。市内を観光する人たちが、車に乗らなくても、自分で好きな所まで行けて、エコロジーで良い考えと思った。

食後に大通りを進み、中央広場(Obelisco da Liberdade)に出た。観光案内所(Turismo Centro de Portugal)で職員の長電話を待ち、地図をもらった。歴史的な地区にあるお勧めの宿の位置を教えてもらい、全てスペイン語でやり取りをしたら、親切で丁寧に答えてくれて助かった。

観光案内所を出てから小さな通りに入ると、直ぐにいくつかの宿が立ち並んでいる趣きのある通り(Rua José Estevão)に面した宿(Pensão Residencial Estrela)を見つけた。一階に呼び鈴があり、二階に受付があるとポルトガル語で書いてあり、上がると宿の人が出てきていた。値段を聞くと2人で25€で泊まれた。3階の部屋はとても美しく、驚いたのは広かったベットを一つは2人分あり、広々として天井も高く開放感があった。隣は工事中というより、改装中で奥にお風呂とトイレがあった。

宿で1時間少し休憩した後、町に出て運河(Cais do Côjo)や広場(Praça do Mercado)を散策した。運河には小舟(ゴンドラ)が動いていて活気があって気に入った。自転車乗り場(Loja Buga)で無料貸し自転車(Bicicleta de Utilização Gratuita de Aveiro / BUGA)を借りた。

ポルトガルではHostelでも、自転車乗り場でも、パスポートを預けて身分を保障するシステムになっている。初めは誤って、内陸の方へ行ったが、直ぐに戻り、海岸に出たくて、海に向かって走った。Aveiroは運河が発達しており、町の中心のロータリからの運河への眺めは美しかった。

橋(Ponte dos Namorados)を渡った後、運河沿い(Rua Homem de Cristo)に行き、釣りをしている人とスペイン語で少しお話して楽しんだ。道(Rua do Dr. Bernardino Machado)が行き止まりになっていて、左側に港口が右側に運河があり、橋を掛けている途中だった。公園(Jardim do Rossio)には、ヨーロッパ各地の観光バスが何台か止まり、観光客が市内を見物しているのによく出くわした。

市内に戻り、雰囲気などのある通り(Rua de João Afonso de Aveiro, Largo da Praça do Peixe, Rua dos Marnotos)を抜け、広場(Praça 14 de Julho, Largo da Apresentação)から、1606年に建てられた美しい青タイル張りの教会(Igreja de Nossa Senhora da Apresentação)を見た。内側もタイル張りで美しく、祭壇も金きらで無く、慎ましやかで美しい巡礼服が展示されていた。

街の路地(Rua Dom Jorge de Lencastre, Rua Manuel Firmino, Rua do Gravito, Rua de Alberto Soares Machado)を進み、1613年に建てられた小さな教会(Igreja do Convento do Carmo)に入ると、全面が白で美しい外装で中は涼しかった。入り口には聖ヤコブを思わせる帆立貝の聖水盤があり、隣には十字架上の生々しいキリスト像があり、横に聖人の像が配されていた。

それから、大通り(Rua Dr. Alberto Souto, Avenida Dr. Lourenço Peixinho)を行き、ロータリー(Praça Gen. Humberto Delgado)の道側に出て、宿に近い所に出たため、父は宿に戻り、トイレに行き、部屋から先ほど買ったお菓子を持ってきてくれた。

ロータリー前の記念碑(Obelisco da Liberdade)がある広場(Praça General Humberto Delgado)で沢山の観光客が通り過ぎてゆくのを眺めながらおやつを食べた。

運河を越えた小さな広場(Praça da República)にも、1585年に建てられた青タイルが美しい教会(Igreja da Misericórdia)があり、前に自転車を停めて中に入るとグレゴリオ聖歌が流れていて、美しい空間だった。隣には1792年建立の美しい建物や市庁舎(Câmara Municipal de Aveiro)があった。

近くの大広場(Praça Marquês de Pombal)には市庁舎(Domus Iustitiae)や郵便局(Central Correios Aveiro)や美しいタイル張りの壁の家(Casa de Santa Zita)が集まり、18世紀に建てられた教会(Igreja de São João Evangelista)は小さかったが、入り口に人がいて、声をかけるとにこやかに応じて下さり、祭壇も飾り気がなく質素でつつましやかで美しかった。

自転車で1464年にドメニコ会の修道院として建てられた大聖堂(Sé Catedral de Aveiro / Igreja de Nossa Senhora da Misericórdia)とその前の博物館(Museu de Aveiro / Antigo Mosteiro de Jesus)まで行った。大聖堂は修繕中で入れなかったが、博物館は午後5時半まで入場できた。

二人の職員の人に声をかけると、中の美しい教会(Convento de Jesus)を開けて見せてくれた。ポルトガルの王女も訪れたことを説明してくれた。教会は小さいが美しく、青色のタイルと金色の祭壇やオルガンの対象が美しかった。天井画もあり、良い空間だった。

隣には聖アウグスティヌスの像と、侯爵の石棺があり、その中にはポルトガル王アフォンソ5世(Afonso V,  1432 -1481)の娘(Joana Princesa, 1542-1490)の棺があり、美しい装飾が施された美術品だった。4つの大石棺の一人には天使が支えていて、色をふんだんに用いた石棺があり、最上部にはポルトガルの旗にもある紋章があった。再び教会の中の碑文を読むと、右側には14世紀後半に作られたことが、ラテン語で書かれており、左側に短いポルトガル語で書かれていた。

博物館の職員とスペイン語で話をした。青いタイルが美しいという話になり、どこで作っているのかをたずねると、Aveiro近郊には青色タイル工場があり、今でも盛んに作られていると言っていた。

出口で記帳をしながら、職員の人とスペイン語で話をした。彼女たちはポルトガル語を話していたが、言語が近いため、お互いに言いたいことが分かり合えて喜んでいた。記帳にはラテン語で感想を書いた。美しい栞とパンフレットを手渡してくれたとても感じが良く親切な職員とお別れした。

大聖堂の前に止めていた自転車に乗り、町中に戻った。自転車はスタンドが無いため、駐輪をするときに困った上、ブレーキが無くて、急に止まれず、更に困ったが、無料なので文句を言えない。

自転車を乗り場に着いて戻してから、近くのSupermercado Minipreço - Aveiro III(Avenida Doutor Lourenço Peixinho 134)で少し食料を仕入れた。先程のSupermercado Minipreço - Aveiro I(Avenida Doutor Lourenço Peixinho 242)と同じ会社で規模がもう少し大きかった。

ポルトガルのSupermercadoでは、袋を3¢で買うことになるため、必ず自分で持って行った。ここでは手に入らないものがあり、手に入るものもあった。規模が少し大きいため、殆んど必要なものが揃ったが、レディーフィンガーのビスケット(Bizcochos / Palitos de Champanhe)は無かった。

パン(Pão Carcaça, Pão Bijou)、ホワイトチョコレート(cocolate branco)、アーモンドとチョコレートでコーティングされて中に苺とバニラが入っているアイスクリーム(Gelado Bombom nougat de morango)、オレンジ(Laranja)、トマト(Tomate rama)、ピーマン(Pimentão vermelho)、トウモロコシ(Milho Doce)、バター(Manteiga Magra)、ハム(Presunto serrano)やシャンプー(Pleno revitalizante)を買った。

ブラジル風味のブドウのファンタが、ポルトガルで限定販売と書かれていたが、日本では葡萄味が売られていて珍しいものではなかった。アイスクリームが溶けないうちに近くの石に腰かけて食べた。

また、先ほど訪れた少し遠くにあるSupermercado Minipreço - Aveiro Iに足を伸ばして、レディーフィンガー(Bizcochos / Palitos de Champanhe)と牛乳(Leite)を買って、宿に戻った。

宿で少し食料を食べながら、テレビを付けて、ポルトガル語でニュースを聞いた。ココナッツのマカロンを食べながら、巡礼の初めにSaint-Jean-Pied-de-Portで求め、スペインとフランス国境のPyrénéesの山頂でPaulと一緒に食べたことを思い出した。あれからものすごく色んな事が起きて体験を重ねてきたため、巡礼の初めの頃が昔のように懐かしく感じるようになっていた。

午後10時あたりまでゆっくりしたり、ロマンス諸語を学んだり、日記を書いたりした。シャワーを浴びて出て来ると、テレビで英語のアメリカの映画が流れていて、ポルトガル語字幕と照らし合わせながら見た。コマーシャルも面白いが、番組の構成や発想が全然違い、ポルトガル人に限らず、ヨーロッパ人は文字を見るより、耳から得ていることが分かった。ポルトガルでは番組の数が少なくて三つしかなかった。同じ番組が違うチャンネルにも流れていた。事件や事故があると死体まで映っていて驚いた。宣伝も必ず文字が言葉で読み上げられて、耳を通じて情報を受ける人が多いと分かった。

Aveiroは街全体が美しい青のタイルで飾られていて、上品で凛とした美しい街並みに爽やかな風が吹き抜けていて、お気に入りの町の一つとなった。特に青タイルは美しく様々な模様があった。タイル職人が一つ一つ手作業で通りのタイルを作り上げていくには、時間と労力がかかると思った。また、舗道には小石が敷き詰められていて、街中には運河が流れていて、清潔で快適な街に感じた。旧市街の大きさもコンパクトで半日で美しい歴史的な建物を全て見て回ることができて大満足だった。

Aveiroはラテン語「鳥の狩り場」aviarium < 「鳥」avis < イタリック祖語*awis < 印欧祖語*h₂éwis +‎ 「場所」-arium < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósから来ていると言われることが多いが、中世にはAlavariusとも記録され、ラテン語Averiusから、ケルト語「河口」*adberos < 「向かう」*ad- < 印欧祖語*h₂éd +‎ 「流れ」*beros < 「運ぶ」*bereti < 印欧祖語*bʰér-e-ti < *bʰer- +‎ 接尾辞 *-os < 印欧祖語*-osと分析されて正しい語源が得られる。ウェールズの地名Aberystwythと同じようにイベロ=ケルト語でポルトガルの地名Aveiroが生まれた。

Aveiroの駅舎(Estação)の青タイル(azulejo)

2008年5月22日(木)43日目(Aveiro-Coimbra: Residencial Moderna)

Coimbra市内で雨が時どき振りながらも、お菓子屋さんでおやつを食べたり、教会(Igreja de São Tiago)の近くの宿に泊まり、砦のような旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)や大学など旧市街の名所を観光した。街中の建物は非常に堅牢で歩道も道路も白黒の石で敷き詰められていて美しかった。

今日は朝ゆっくりと広々とした宿の部屋でフランス語、イタリア語、スペイン語でテレビを見てから、午前9時半に宿を出るとき、宿の人が出迎えてくれた。Aveiroの町の大通り(Avenida Dr. Lourenço Peixinho)をひたすら歩き、駅に向かった。長距離電車でCoimbraまで5€で行けた。

駅の美しいタイルを見ていると雨が降ってきた。街を出るとき、雨が降ってきた。Santiago de Compostela, Vigo, Porto, Aveiroと4回も街を見ているときは晴れていたが、街を出るとき雨が続いた。父が本当に天気にはついているね。ガリシア地方やポルトガルは雨が多いねと話していた。

新市街の駅(Coimbra-B)を通り越して、旧市街近くの駅(Coimbra-A)に着いた。途中には、鶏、犬、羊まで飼われていた教会を見つけて驚いた。駅で電車の時間を確認した。観光案内所が閉じていたので、駅から旧市街まで大通り(Avenida Emídio Navarro)を歩き、地図を確認して、広場(Largo da Portagem)から旧市街に入り、商店街(Rua Ferreira Borges)を行った。

今日は全ての商店が一斉に閉まっていて、ポルトガルの祝日であることを知った。美味しそうなお菓子を売るパン屋さん(Pastelaria Toledo)を見つけた。すると雨が激しくなったため、ショーウィンドウに美味しそうなお菓子が並んでいたお菓子屋さん(Pastelaria Briosa)に入った。英語を話している観光客が多かった。英語の方言から察するとオーストラリア人らしかった。

混雑していて、少し待ってから、パイらしきお菓子と苺タルトとお茶を注文した。パイは60¢、タルトも1.2€でとても安かった。パイ(Folhado misto)には、不思議な味がするペースト状の果物が入っていた。苺タルト(Mini tarte de frutos vermelhos)はとても美味しかった。

店の人は美しい英語を話していたので、不自由なく注文できた。食べ終わり、トイレに行くとドアが中にいる人に当たってしまい、スペイン語でお詫びしたが、英語で返事が来て、オーストラリア人でしょうかとたずねると喜んで、上で話をしようと言われた。上に戻ると隣の席の人だった。

成田空港からFrankfurtやLondon経由でLisboaに来たそうで、日本人に親近感があり、嬉しそうに話していたが、バスの時間が来て別れた。出際に「あなたは見事な英語を話すから(You speak marvelous English)、オーストラリアで全く問題ないから来てね(You have no difficulty communicating, so you are welcome in Australia!)」と言われた。会計を済ませ、外に出ると、雨はぴたりと止んでいた。パン屋さんの前でショーケースに飾られたお菓子たちの写真を撮ろうとすると、先のオーストラリア人が「反射に注意してね(Beware of reflection! )」と、大笑いしながら声をかけてきた。

近くにある観光案内所(Turismo Centro de Portugal)は休日のため、午後2時半まで開かないため、20分ほど大きな広場(Largo da Portagem)の立派な銀行(Agencia do Banco de Portugal)の前のベンチで本を読んでいると直に開いたので町の地図と泊まれる場所とお勧めの場所をたずねた。

観光案内所の人は英語とフランス語とスペイン語を流暢に話して、母語のポルトガル語も話すことができて素晴らしかった。地図を頂いて、旧市街に入り、1206年に建てられた入り口に不思議な柱を持つロマネスク様式の教会(Igreja de São Tiago)の前で左手の階段(Escadas de São Tiago)を通り、宿(Residencial)を探した。地図には沢山の宿(Residencial)が密集して記載されていた。

広場(Praça do Comércio)を歩いていると、町には黒人が多く住んでいることに驚いた。ヨーロッパの大都市には、特にイギリスやフランスなどでも、旧植民地などから旧宗主国に逆に入り、沢山の黒人が住んでいるが、Coimbraはもしかしたら、旧植民地のブラジルから来た人たちかもしれない。

宿(Residencial Moderna)は通り(Rua Adelino Veiga)が入り組んでいて、見つけるのに難儀したが、環境も立地が良かった。雑居ビルの二階に受付があり、上がると感じの良いおじさんがいた。値段を聞くと30€で2人で泊まるそうである。スペイン語で全てのやり取りをしたら理解してもらえた。相手も英語では無く、ポルトガル語に近いスペイン語を話したので喜んでくれて、それからいろいろと話をした。直ぐに日本人と言い当てられて驚いた。Coimbraには日本人が多く来ていて、以前にここに泊まったかも知れないと思った。彼は私たちが巡礼者であると分かり、Santiago de Compostelaまで行きましたかと聞いてきた。フランスから25日かけて歩いたと話すと感激していた。

案内してもらうと、ベットが大きく、通りに面した良い部屋だった。テレビのコントローラーのボタンを押しても利かないため、フロントに行き、伝えたら、部屋まで来て、少し強く押すんだよとデモンストレーションをして優しく教えてくれた。荷物を少し整理してから、午後4時過ぎに街に出た。

近くの広場(Praça do Comércio)の二つの教会(Igreja de São Tiago)や1756年(モーツァルトが生まれた年)に建てられた教会(Igreja de São Bartolomeu)は外装は美しかったが中に入れなかった。教会には黄色い矢印が付けられていて、Santiago de Compostelaの巡礼路を見つけた。

大通り(Rua Ferreira Borges)に出て、また、先ほどの観光案内所でNazaréまでの行き方をきいた。鉄道よりバスが良いそうで、発車時間まで細かく印刷して手渡してくれた。Supermercadoの位置もきけた。前の人は全ての宿の値段をきいていて、係員の人が優しく、全てに電話をかけて、確認していたので待たされてしまい、自分の番が来るまで時間がかかった。出際に日本人が入ってきた。

城壁の中の旧市街に入ると、小さな門(Porta e Torre de Almedina)があり、町に入る人や軍隊から街を守るために通行を制限していた。趣きある道(Rua Quebra Costas)のきつい階段で丘を登った。途中にカフェやインターネット喫茶があり、町の雰囲気とは好対照をなしていて面白かった。

直ぐに中心の1162年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が建て始めたロマネスク様式のまるで要塞のように堅牢な旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)にたどり着いた。大きな貝が聖水盤になっていた。床には墓標などの碑文(Lápide de D. Jorge de Almeida)があるが、古い石は人が歩いて磨り減っていたり、その上に椅子が置かれていて判読不能だったが、祭壇は立派で美しかった。

旧大聖堂には1218年にゴシック様式で作られた中庭を望む回廊があり、入場料1€だが、見る価値がありそうで入った。学生は75¢で伝えると25¢還ってきた。中は涼しく本を読むのに丁度良さそうだった。周りには格子があり、十字架や小さな祭壇があり、出ようとしたとき、イタリア人のガイドさんから、写真を撮って下さいとお願いされ、イタリア語で話すとものすごく興奮して喜んでいた。

二つ目の部屋には、1902年に刻された最後のポルトガル王妃(Amelia d'Orléans, 1865-1951)の名前が出てきて、コインブラ大学の教授(António Augusto Gonçalves, 1848-1932)が修復したことを記録するラテン語の美しい碑文があり、不思議な書体で書かれていた。

外に出ると旧大聖堂は、黄色い大理石で作られており、イスラム建築の影響からか、砂漠の中の砦のような外観だった。内装は完璧なカトリック教会で対照が面白かった。側面の門も美しかった。

旧大聖堂前の広場(Largo da Sé Velha)から路地(Rua Borges Carneiro)を少し歩いて、国立城壁博物館前(Museu Nacional Machado de Castro)の広場(Largo Dr. José Rodrigues)に出た。まるでイスラム建築のような馬蹄形のアーチがある城壁を見た。奥には1064年に建てられたロマネスク様式の教会(Igreja de São João de Almedina)が見えて好対照をなしていた。

そこから階段(Largo da Sé Nova)を上ると1598年にイエズス会学校として建てられた新大聖堂(Sé Nova)前の広場(Largo Feira dos Estudantes)に着き、多くの人や修道女や司祭が集まり、行列ができていた。今日は休日で大聖堂から人が出てきて、行列が始まり、何かのお祭りのようだった。

近くの広場(Largo Marquês de Pombal)にある科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)を訪れたが、午後5時半になり、あと30分しかなく、また明日に来ることにした。

大学の近くから植物園(Jardim Botânico)を見ると、沢山の木が植えられ、様々な種の花が咲いていた。近くにはフランスのParisの地区(Cartier Latin)と同じく、中世に学者街でラテン語で議論がされた通り(Via Latina)があった。周辺の通り(Rua Estudos, Rua Larga)を行き、大学の正門(Porta Férrea)から中を覗くと美しい時計塔(Torre da Universidade)見えて、歴史を感じさせていた。

階段を降りて、路地(Rua do Norte)を行き、坂をどんどん下り、旧大聖堂に出て、来た道を戻り、門(Porta e Torre de Almedina)をくぐり、旧市街の商店街(Rua Visconde da Luz)に出た。

今度は北に行くことにして、広場(Praça 8 de Maio)に面した1131年に建てられた修道院(Mosteiro de Santa Cruz)の前を通り、修道院に修道女が入るとき、晩課の祈りの雰囲気が見えて美しかった。

銀行(Caixa Geral de Depósitos)の前から商店が立ち並んだ大通り(Rua Sofia)を北に少し歩いてゆき、1543年に建てられた教会(Igreja da Graça)を外観だけを見た。

午後7時近くになり、近くの大きなSupermercado Pingo Doceで食料品、シリアル(Cereais My Time Maçã e Canela)、パン(Bicas/Brasileiro)、ハム(Fiambre Extra Fumado)、チョリソ(Chourição)、イチゴ(morango)、マンゴー(manga)、トマト(tomate)、ミックスサラダ(Salada mista)、チーズバーガーのセット(Hambúrgueres de queijo)、コーンを炒って塩にまぶしたお菓子(Milho Frito com Sal)、レディーフィンガー(Bizcochos / Savoiardi Palitos Champagne)、アーモンドのチョコレートがコーティングされたアイスクリーム(Gelados Stick de Manteiga de Amendoim)やチョコレートパフェ(Sobremesas chocolate liégeois)、ミックスジュース(Nectaríssimo Light de Tropical)、リンゴジュース(Nectaríssimo Light de Maçã)、アイスティ(Iced Tea Lata)など飲み物を買った。ポルトガルのSupermercadoでは、魚の腐った臭いが漂っていることが多く、また、長いフランスパンはなく、短いパンとガリシア地方にもある丸っこいパンが良く売られていた。良い味のチョリソはパックより、量り売りの方が安く、いつもこのように買った。

Supermercadoで買い物をした後、宿でアイスクリームを食べた。冷蔵の温度が高く、少し柔らかくなってしまい残念だった。夕食を自分たちで作って食べていると、再び激しい雨が降り、早く戻ってきてよかったと思った。宿の係の人とスペイン語とポルトガル語で話をして楽しんだ。エアコンもあり、テレビは英語、スペイン語、フランス語もあり、様々な言葉を楽しめた。

食後にフランス語や英語のテレビを見て、ロマンス語を学び、日記を書いてから、長風呂に入り、寛ぐことができて、午後11時頃に寝た。長旅をするときは、多くは安い宿に泊まるが、時どき良い宿に泊まり、お風呂に入ったりして寛ぐことができるようにするのも、一つの良い工夫だと思った。

Coimbraの大聖堂に作られた中庭を望む回廊

2008年5月23日(金)44日目(Coimbra: Residencial Moderna)

Coimbraの町を橋(Ponte de Santa Clara)を渡った対岸から臨んだ。お菓子屋さんにいたとき、雨や雷が鳴り、停電も経験した。科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)で実験の展示を見たり、都市博物館(Museu Municipal de Coimbra)から町を一望することができた。

今日は明日も泊まるのでチェックアウトをする必要がなく、午前10時頃まで宿にいてゆっくりと過ごした。朝食を宿で食べてから、街に出た。川(Rio Mondego)に架けられた橋(Ponte de Santa Clara)の向こうの通り(Rua Feitoria dos Linhos)に面した小さな郵便局で航空便で荷物を2kg以内で送るため、スペイン語でやりとりをした。雨合羽を取り出して、荷物を作り、家に送った。

近くの1283年に建てられた修道院(Mosteiro de Santa Clara a Velha)は修復工事中だったが、美しい薔薇窓をみることができた。広場(Praça da Canção)は広々としていて、丘の上に幾重もの建物が重なって建てられているのがよく分かった。橋向こうに戻ると、街の眺めが美しく、観光案内所にあった昔の町の様子と同じようだった。大体古い街並みを描いた図は、川の向こうや丘の上から描かれており、少し遠くから街を一望するのも、ヨーロッパの中世都市を楽しむ面白い視点であると感じた。

午前11時頃に昨日にも入った大通り(Rua Ferreira Borges)の広場(Largo da Portagem)に面したお菓子屋さん(Pastelaria Briosa Coimbra)で苺のタルトと紅茶を飲んで一服していたら、二度も停電に遭遇した。それから、中心街(Rua Ferreira Borges)を歩き、広場(Praça do Comércio)を歩いて、教会(Igreja de São Bartolomeu)を見て、外に出ようとすると激しい雨が降り、宿に避難した。

少し寛いでから、科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)に行った。コインブラ大学(Universidade de Coimbra)の構内にあり、博物館の中には、近代的で絶滅危惧種の剥製、リンネ(Carl von Linné, 1707-1778)の本の初版や貴重な本などの数々があった。東側には17世紀に使われた科学実験器具が沢山展示され、水の合成の実験に使われたラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743-1794)の実験器具、ボルタ(Alessandro Volta, 1745-1827)の電錐などがあった。奥には物理学の実験が展示され分かりやすくなっていた。ガイスラー管やスペクトル管が美しかった。

近くの宗教画の美術館(Museu Nacional Machado de Castro)と都市博物館(Museu Municipal de Coimbra)は、午後2時から開くことから、大通りを散歩してから、博物館の前で座って待っていた。午後2時に再び美術館の呼び鈴を鳴らしても、返答がなかったのであきらめ、博物館に行った。入りこんだ所で見つけるのが大変で入るとき、ノックすると優しい人が出てきた。今週は博物館週間のため、入館料は無料で都市の概略を丁寧に説明してくれた。上の階に上がると、Coimbraの旧市街が一望できて美しかった。雨が激しくなり、少し雨宿りをしてから外に出て宿に戻った。

平日で宿近くの商店街(Rua da Louça, Rua da Gala, Rua do Paço do Conde, Rua Adelino da Veiga)が賑わっていた。帰りがけに路地でコインや切手の店を見つけた。ポルトガルの大都市にコイン商やアンティークショップ(Numismática e Antiguidades)が必ずあり、趣味を持つ人が多いと感じられた。

午後2時過ぎに宿に戻ると部屋をきれいにしていてくれた。宿で少しゆっくりしていると、父が昨日にも訪れたSupermercado Pingo Doceから戻ってきた。少しヨーグルトやレディフィンガーやシリアルを食べてゆっくりした。少しずつ外が暗くなってきて、街に出ることにした。

出掛けに突然ドアをノックされて、誰かと思ったら、支配人が部屋のベットを計らせて下さいと来て驚いた。宿の主人に話を聞いたら、近々、全体を改装工事をしてリニューアルすると興奮してお話されていた。直ぐにメジャーでベットの長さを計り終えると部屋を出ていった。

広場(Praça do Comércio)から出て、細くて狭い路地(Rua Eduardo Coelho)には、美しい青タイルがあり、沢山の商店が並んでいて活気があり、人通りも多く、またSantiago de Compostelaの巡礼路の黄色の矢印があった。Fátimaへの道も青色の矢印でしっかりと示されていた。路地の中にアンティークショップを見つけて入るが、ガラクタが多くあり、ポストカードも一枚2.50€と高かった。

通り(Largo do Poço, Rua da Louça)を行き、教会(Igreja de Santa Cruz)が面した広場(Lago da Praça)に出た。大通り(Rua Visconte da Luz)を歩き、階段(Escadas de São Tiago)を降りて、広場(Praça do Comércio)に戻り、先ほど歩いてきた通り(Rua Eduardo Coelho)に戻り、ピザ屋さんとアンティークショップの隣の路地(Largo da Freiria)に入り、小さな店で夕食を取ることにした。

スープは塩気が足りない薄味で二つ目の皿はレンジで冷凍食品を解凍で4.5€もして残念だった。17€と見込んでいたが、更に税金がかかり19€だった。Puente la Reinaで冷凍イカリングが出されたレストランを思い出して、父と不味い方が印象に残っているねと笑っていた。ポルトガルやスペインで地元のBarもレンジで作ることから、安くて量も多く味も安定しているMcDonald’sと変わらないと思った。

帰りに洋服屋さんが多い通り(Rua das Padeiras)を一直線にゆき、駅近くの通り(Rua António Granjo)に面したSupermercado Minipreçoでファンタグレープ(Fanta uva)やトロピカルジュース(Sumo tropical)とレディーフィンガー(Bizcochos / Savoiardi Palitos Champagne)だけを買い、通り(Avenida Fernão de Magalhães, Rua Adelino da Veiga)をゆき、宿に戻った。部屋でフランス語のテレビを見て、ゆっくりと日記を書いたり、語学をして、お風呂に1時間程入り、午後11時半に寝た。

Coimbraは、古代ローマ都市Aeminium(ラテン語「模倣」aemulus < イタリック祖語*aimelos < *aimos < 印欧祖語*h₂éym-o-s < *h₂eym-が語源)の近くにConimbrigaがあり、ケルト系のConii人が住んでいた。(ギリシア語Κυνήσιοι / Kynísioiやラテン語cuneusと記録され、イベロ=ケルト語 「犬」複数対格*kwon < ケルト祖語*kū < 印欧祖語*ḱwṓ + イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源。「犬」について、ヒッタイト語𒆪𒉿𒀸 / kuwašやルウィ語CANISzú-wa/in(i)- / zuwani < アナトリア祖語*k̂won、サンスクリットश्वन् / śvánやアヴェスタ語spā < インド=イラン祖語*ćwā́、リトアニア語šuõと古プロシア語 sunnis < バルト=スラヴ祖語*śwṓ、古英語hundや古ノルド語hundr < ゲルマン祖語*hundaz、古典ギリシア語κύων / kúōn < ヘレニック祖語 *kúōn、古典ラテン語canis < イタリック祖語*kʷan- < *kō、古アルメニア語շուն / šun < アルメニア祖語*ḱwon、トカラ語A/B ku < トカラ祖語*kuと関連)

紀元前139年にローマ人が入植、ラテン語でColimbriaと記録され、468年にスエビ族(Suevi)が支配して、563年に司教座が置かれ、西ゴート王ウィティザ(Wittiza, 687-710)がコインブラ伯領(Condado de Coimbraga)を置き、714年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のイブン・ヌサイル(بن نصير, c.640-716)が攻略、アラビア語(قُلُمْرِيَة / qulumriya)と記録された。

1064年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)が奪還、1139年にポルトガル王国の首都になり、1288年にコインブラ大学(Universitas Conimbrigensis)が設立、1290年に中世大学(Studium generale > Estudo Geral)に認定、1385年にLisboaに遷都されるまで首都だった 。

Coimbraの街並みを橋(Ponte de Santa Clara)を渡った対岸から臨む

2008年5月24日(土)45日目(Coimbra-Nazaré: Rua Ocidental)

Nazaréの丘の上の展望台(Miradouro do Suberco)から街並みと海岸線を臨んだ。小さな教会(Capela de Nossa Senhora da Nazaré)があり、青タイル(Azulejo)がとても綺麗だった。博物館(Museu Etnográfico e Arqueológico Dr. Joaquim Manso)で歴史や漁民の暮らしを見れて楽しかった。地引網を海岸で引いているのを見た。

今日は午前8時半に起き、身の回りの支度を整え、午前9時に宿を出た。宿の支配人は優しく見送ってくれた。大通り(Av. Fernão de Magalhães)を歩いてゆき、バスターミナル(Terminal Rodoviário de Coimbra)の近くになると激しい雨が降り、Coimbraでも出掛けに雨が降ってきた。

奥から入り、切符売り場になかなか着かず、入り口で親切な方が案内してくれた。バスの行き先は書かれておらず、一つ一つ確認して時間がかかったが、何とか見つけて、乗車と共にバスが出発した。バスに乗っていると前の耳が悪い老人が手話を使い話していて、話好きで陽気な方だと思った。

途中でFigueiras, Leiria, Batalha, Alcobaçaなどに止まった。Alcobaçaから20分でNazaréに着いた。(4世紀にイスラエルのナザレ(Nazaré < נָצְרַת / Nāṣəraṯ)から、スペインのメリダ(Mérida < Augusta Emerita)の修道院に来たマリア像が、711年に西ゴート王ロデリック(Ruderic)によりもたらされた。また、1182年9月14日にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)の忠臣の騎士(Don Fuas Roupinho / Fernão Gonçalves Churrichão / Farroupim, c.1130-1184)が霧の中で鹿の狩りをしていたとき、 断崖絶壁まで馬で走り落ちそうになり、小さな祠の聖母像にお祈りをしたら、急に馬の足が止まり、命拾いをした伝説があり、崖の上に聖母像の小さな聖堂と大きな教会が建てられた。)

街の大通り(Avenida Vieira Guimarães)にある小さな停留所でバスを降りると直ぐに宿の勧誘が始まり、始めは25€で少し高いと感じて、去ろうとすると20€になり、最後は15€と言われた。観光案内所で町の全体を把握して、宿を選びたいので向かい、観光案内所をたずねると親切に教えてくれて、勧誘は止まった。観光案内所で地図をもらい、宿の相場とスーパの位置を教えてもらい、宿探しをした。美しい海岸を歩いていると探すまでもなく、部屋をお探しですかと、民族衣装を着た婦人がやって来て、15€で交渉すると良いと言われて、部屋に案内してもらった。宿は少し狭い路地(Rua Ocidental)を入った住宅地の中にあり、絶対に見つけられない所にあった。

中に入ると、台所があり、リビングに寝室があってベットは3つあった。値段の交渉通りの15€と思ったら、見ての通り設備が良いから、25€と言い張りだしたため、最初の話と違うと言うと20€になり、先ほど15€で泊めてくれるという人がいたから、そこへ行きますと言うと15€で良いと交渉がまとまった。ホテルと違い民宿で値段も交渉次第でいくらでもなることを感じた。Coimbraの宿で30€と聞いたと思ったら、後で実は40€だったため、取り交わした際にお金を支払ってしまう方が賢明だと思いそうした(Coimbraの老舗の宿であり、評価も高い場所であったため、騙すような商売はしていないと思われたため、特にポルトガル語はとても聞き取りにくく、聞き違いである可能性が高かった)。

宿が決まってから、直ぐに荷を置いて、正午頃に海岸線(Praia da Vila Nazaré)に出かけた。美しい砂間が広がり、最高の眺めだった。16世紀に建てられた青いタイルがとても美しい小さな教会(Paróquia da Pederneira / Capela de Santo António)を見つけた。Nazaréの町は白を基調とした壁や石を敷き詰めた道に青い海やタイルが映えていて素晴らしいコントラストをなしていた。

崖の下にあるリフト(Ascensor da Nazaré)に乗り、崖の上の町を目指した。リフトの係員は、普通のお客さんと同じ格好で分からなかったが、こっちだよと手招きをして乗り場を教えてくれた。

リフトに乗り上がると展望台(Miradouro do Suberco)があり、目の前には美しい海岸と街並みが広がっていた。裏手にある広場(Largo de Nossa Senhora da Nazaré)に教会(Santuário de Nossa Senhora da Nazaré)があり、教会の中は美しく簡素で気に入った。結婚式が開かれていて、教会の中から新郎、新婦が出てきて、教会の鐘が鳴り響いていた。

博物館(Museu Etnográfico e Arqueológico Dr. Joaquim Manso)が閉まる時間になり、午後2時半にまた空くため、岬の先端(Promontório da Nazaré)の灯台(Farol da Nazaré)に行くことにした。小さな聖堂(Ermida da Memória)が広場(Estrada do Farol)にあり、中に入ると美しいタイルに外も中も縁どられていて、十字架上のイエス像があり、シンプルな聖堂が気に入った。

下に降りて行くと美しい聖母子像と海岸が見える小屋があった。岬に向けて一本道(Estrada do Farol)を歩くと要塞(Fortress São Miguel Arcanjo)が少し下った所にあり、北側にもう一つの砂浜(Praia do Norte)が見えた。そこには家一つなく、美しい浜が広がっていた。

要塞の近くに来ると雨が強く降ってきた、急いで要塞の扉の跡の下に隠れて、雨宿りをして、雨が止んできた頃、町に向けて、急ぎ足で戻った。先ほどの小さな教会まで5分程歩いた。聖堂(Ermida da Memória)の中で雨宿りを民族衣装を着た婦人として、雨が弱まってきたので外に出た。

博物館前の広場(Largo de Nossa Sra. da Nazaré)で休憩して、開館時間の午後2時半まで待った。博物館が開くと中に入った。2€で入館できて、先史時代から中世、5世紀の教会の一部、中世の聖母子像などが展示され、奥には美しい模様の民族衣装が展示されていた。

布は手が込んでいて美しく織られていた。展示室で見終わりかと思ったら、美しい中庭があり、そこにはNazaréで昔に使われていた小さな漁船が展示されていた。奥にも、古い船の設計図、航海法の書籍や海図など、様々な資料や錨や地引網、蛸壷や網を治す道具などが展示されていた。博物館の小さな売店で美しいナザレの1909年に撮られたセピア色の写真のポストカードを求めた。

展望台(Miradouro de São Brás)の脇の階段(Ladeira do Sítio)を海岸と街並みを楽しみながら下り、通り(Rua Doutor José Laborinho Marques da Silveira)を歩いて、海岸線に近い街中に降りた。

少し大きな通り(Travessa do Elevador)に面した小さな食料品店(Minimercado Carlos Manuel Baptista)で飲み物とおやつを求めて、港の前の広場で食べた。辺りには多くのレストランがあるが、高くて驚いた。ナザレは観光地になり、漁民独特の質素な生活も消されてしまいそうだった。

宿に戻る前に観光案内所(Posto de Turismo de Nazaré)に立ち寄り、明日のAlcobaçaへのバスを教えてもらった。午後5時から地引の実演があることを教えてもらい、宿にお買い物した荷を置いてから、見物しに海岸に向かい、地引網が始まるまで、砂浜を散策して海を眺めた。

午後5時15分頃に中央の商店が立ち並んだ通り(Rua Sub-Vila)に面したSupermercado Minipreçoで冷凍ピザやチーズなどを少し買い物をしていると地引が始まった。網が引かれて沢山の魚がかかっているのを期待したが、2、3匹しか小魚がかかっていなくて少し残念だった。

また、Supermercado Minipreçoで夕食のパンを買い、民宿に戻った。今日は調理器具があり助かった。スープとハンバーガを焼くことができて、パンに挟んで食べた。それから、テレビを見たり、日記を書いていると、午後10時半になり、今日は早く床に入ることにした。

Nazaréの街並みと海岸線を展望台(Miradouro do Suberco)から臨む

2008年5月25日(日)46日目(Nazaré-Batalha-Alcobaça-Nazaré: Rua Ocidental)

Batalhaの修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)は、天井が高くてステンドグラスが美しく、聖堂の中が美しい光で満たされていた。Alcobaçaの修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)では、オーストラリア人と石棺の碑文に書かれたラテン語を読んで楽しんだ。彼は古英語も学んでおり、教養のある方だった。住宅地の中にぽつんとある廃城に上がると、街が一望できて美しかったが、柵がなくまっさかさまに落ちてしまうくらいだった。喫茶店でオーストラリア人と一緒に会話を楽しんだ。Nazaréでバスから降りて、海岸に夕日が沈むのが見えたときに美しくて感動した。

今日は午前10時15分発のバスでBatalhaに向かうため、午前9時少し前に起き、軽く朝食を食べて、午前9時半に宿を出た。宿の近くの通り(Avenida Vieira Guimarães)にバス停(Estação Rodoviária)があり、バスを待つ間に明日や明後日のためにÓbidosやFátima行きのバスの発着時間を確認した。バスは定刻通りに来てすんなりと乗れて、Alcobaçaに少し止まりBatalhaに向かった。

始めは、AlcobaçaからBatalhaと見ようと思っていたが、遠い所から先に見て近くに帰るため、Batalhaまで乗ることにした。 (ケルト系イベリア人Turduli < Τουρδοῦλοι / Tourdouloi < 語根Turd-, Turt-が居住した土地でケルト祖語「乾いた」*tartus < 印欧祖語*térs-tu-s ~ *tr̥s-téw-s < *ters-が語源で古アイルランド語「乾燥した」turadやゴール語「乾燥した」*tarto、また、古英語þurst, þyrstやゴート語𐌸𐌰𐌿𐍂𐍃𐍄𐌴𐌹 / þaurstei < ゲルマン祖語*þurstuzと関連すると考えられる。

また、近くには古代ローマの都市Collippo(古典ギリシア語「丘」κολώνη / kolṓnē < ヘレニック祖語*kolōnā́ < 印欧祖語*kolH-ōn-eh₂ < 「上げる」*kelH- もしくは「繋ぐ」κολλῶ / kollô < ヘレニック祖語*kolaō < 印欧祖語*kolh₂-e-ti < *kolh₂- < 「叩く」*kelh₂- + 「馬」ἵππος / híppos < ヘレニック祖語*íkkʷos < 印欧祖語*h₁éḱwosが語源)が存在した。

1385年8月14日にポルトガル王ジョアン1世(João I, 1357-1433)がカスティーリャ王フアン1世(Juan I, 1358-1390)にアルジュバロータの戦い(Batalha de Aljubarrota)に勝ち、ポルトガル内戦を終結させた記念に修道院が建てられてから発展した。)

Batalhaで目の前に大きな修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)が見えてきた。同時にバスターミナルの前には大きなSupermercado Intermarché Batalhaがあり、飲み物とアイスクリームをさっと買い、量り売りのクッキーを買った。観光案内所(Posto de Turismo Batalha)を修道院の近くに発見して、地図をもらい、帰りのバスの時刻を教えてもらった。

観光案内所(Turismo)で美しいポストカードが売られていて、いろいろと見せてもらったが、隣町のLeiriaにある大聖堂の古い写真ばかりだったため、訪れる場所では無かったのでセットを買うのを止めた。直ぐに雨がザーザーと降りだして、観光案内所の人も驚いていた。

雨が止んだ頃に出て、先の広場(Largo do Mosteiro da Batalha)でクッキーを頬張りながら、一服してゆっくりとした。修道院を修復する現場の横で作業が見えて面白かった。直ぐに突然雨が降ってきそうで広場の木陰に避難した。そこで少し待ち、ビスケットを食べてから、直ぐ近くに教会(Capela do Fundador)の入り口があり入ろうとしたが、日曜ミサの直後で人が溢れ出てきたため、修復現場を見て回った。広場(Praça de Mouzinho de Albuquerque)で床石の敷詰めや石工を実演していた。

特に修道院のステンドグラスが美しく、祭壇は質素で今まで見た教会の中で最も磨かれた美しさがあり、今までポルトガルで見た教会建築で最も気に入った。幼児洗礼が終わった後で、沢山の親と小さな子供が祭壇の前で記念撮影をしていた。祭壇の前の最前列の席に座り、教会の中を見た。

祭壇の直ぐ下は美しくて、十字架上のイエス像とステンドグラスは最高に美しかった。入り口は十字の側面で修道院の中は長かった。直ぐに美しい中世風の服装したマリア様の像と美しいステンドグラスがあり、教会の一番奥にポルトガル王ジョアン1世(João I, 1357-1433)の墓(Túmulo do Rei João I)があり、石棺にはゴシック体でラテン語の碑文があり、ポルトガル王家の紋章があった。

大聖堂の外観がとても美しく黒ずんでいて、歴史を感じさせてくれるが、内装はとても美しく、去年建てられたように新しい雰囲気だった。ステンドグラスから漏れた光が満たされていた。ゴシック建築の長所である切り立ったような高い天井が印象深く、柱が垂直に伸びていて、また、内部空間が長方形に作られているため、天井がものすごく高く見えて、広々と感じられる工夫がなされていた。

大聖堂前の広場(Largo do Mosteiro da Batalha)には立派な銅像(Estátua Equestre do Condestável Don Nuno Álvares Pereira)があり、近くの1514-32年に建てられた小さな教会(Igreja Matriz da Exaltação a Santa Cruz)の前にFátimaまで17kmとあり、遂にここまで近づいて来たかと思った。それからまた大聖堂を訪れて、石職人の工房を見た。美しい中世写本のファクシミリがあった。

修道院を一周して、バスの時刻までゆっくりとして、午後2時少し前にバス停に着いた。オーストラリア人とスペイン人がいて、小さなバス停だが、国際色が豊かだった。バスの中ではオーストラリア人Adrianとかなり話が盛り上がった。彼は言語や文化に強い興味がある方だった。

ポルトガルで英語を話す人に会ったらしく、とても喜んで話をしていたら、時間が経つのが速かった。「ポルトガル語とスペイン語はとても良く似ていますね(Portuguese and Spanish are quite similar.)」と言われたとき、「ちょっとだけですが、かなり異なりますよ(Slightly, but it’s totallydifferent.)」と返したところから、相手も乗って来て、両言語の違いについて話が弾んだ。

Batalhaの修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)の内部

直ぐにAlcobaçaに着き、バスが経つ時間を確めて、直ぐにトイレに行くため、Adrianと街の中でまた会おうと別れた。街に出て旧市街に行こうとしたとき、タクシー運転手にスペイン語で道をたずねると、親切に教えてくれて、ものすごく盛り上がった。教えられた通りに行くと、雰囲気ある旧市街に行く橋(Rua Dr. José Nascimento e Sousa)があり、川(Rio Alcobaça)が流れていて、町の名前は、Baça川にかかるAlcoでAlcobaçaと案内板にあった。

(しかし、実際はAlcobaçaはAlcoa谷に流れるBaça川の色を形容してポルトガル語「輝かない」baço < ラテン語「赤茶色」badius < イタリック祖語*badyos < 印欧祖語*badyo-s < 「褐色」*badyo-が語源で古アイルランド語buide, boide < ケルト祖語*bodyosと関連するか、民衆ラテン語「赤茶」*hepatium < 古典ギリシア語ἡπάτιον / hēpátion < ἧπαρ / hêpar < ヘレニック祖語*yêkʷər < 印欧祖語*yókʷr̥ < *Hyékʷ-が語源である。ポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が1147年にSantarémを奪回した記念に1153年にシトー会修道院をAlcobaçaに建てた。)

修道院の前に教えられた通り、郵便局(Estação dos Correios de Alcobaça)があり、午後3時まで閉まっていたため、先に1252年にゴシック様式で建てられた修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)に入った。質素で空間があり美しく、Batalhaの修道院が私の好みに近いが、こちらもまた別の良さがあった。ゴシック建築として、立派な薔薇窓があり、標準的に感じられた。前方には美しい石棺が右側に置かれ、透かし彫りは手が込んでいて美しかった。1989年に作られた二つの鐘が右側に置かれていて、土台のプラスチックが、鐘の重さで壊れていた。古棺桶の透かし彫りには、福音書の物語、善きサマリア人、キリストの十字架への磔、最後の晩餐や最後の審判などが彫られていた。

ポルトガル王ペドロ1世(Pedro I, 1320-1367)と王妃イネス・デ・カストロ(Inês de Castro, 1325-1355)の石棺(Túmulos)の前でAdrianと会い、碑文を読みながら、フランス語で話した。Adrianは、自分はカトリック教徒だが、オーストラリアでも、最近は物質的なものばかりがもてはやされて、精神的なものは信じない人が増えて残念に感じていると話していた。

また、ヨーロッパの石刻と同じくらい、日本の木工は素晴らしいと言っていた。ヨーロッパでは芸術を固定して伝えようとするが、日本では変化やうつろいを楽しむことを話した。彼は、石棺の首が取れて、少し壊れているのは、破壊行為(vandalism)によるかもしれず、悲しいことだと話していた。

ペドロ1世が王位に就く前、王妃イネスは、カスティーリャ王国とポルトガル王国の微妙な関係の犠牲となり、貴族の謀略により、冤罪で処刑されたが、ペドロ1世が王位についたとき、丁重に葬られて、夫婦が向かい合わせに葬られているという説明がポルトガル語でなされていた。

石棺の横には美しい聖母子像があり、右側にはポルトガル語でNossa Senhora do Castelo(スペイン語Nuestra Señora del Castilloに相当)と書かれていて、即スペイン語とラテン語と英語とフランス語に翻訳して言い換えをすると驚いていた。ラテン語を個人的興味でやっていると話したら驚いて喜び、彼も40年前に習ったが、もう殆ど忘れてしまったと言っていた。

近くに一つ教会(Capela de Nossa Senhora do Desterro)があり、沢山の石棺が置かれていて、ラテン語の碑文があったので、一つ一つ二人で確認しながら、英語やフランス語に訳した。30分ほど碑文を楽しんだ後、碑文に興味を示す観光客は少ないねと冗談を言い合った。碑文に興味を感じて訳していくのは物好きだねと言っていた。周りのポルトガル人も驚いて、とても不思議そうに見ていた。

古英語に興味があり、Beowulfの話をすると、彼は最初の有名な文章を暗誦していて、昔に大学で英語の歴史を学んでいたことが懐かしいと回想していて、教養のある方と思った。修道院を出る頃には、すっかり友達になってしまい、修道院前の広場でメールアドレスや住所交換や記念撮影をした。

ラテン語と古典ギリシア語とヘブライ語とサンスクリット語と漢文を理解するとは文化的であり、ジェントルマンだ。西洋でラテン語を読み書きが出来るのは教養人(literatus)だと言われた。東洋では漢文が文化の基礎であり、西洋ではギリシア語やラテン語が文化の基礎であると実感した。古典言語は手堅いため、地域も時代も越え、長く広く使われ、文化の伝承に寄与してきたことを深く感じた。

修道院の前で父やAdrianと妻とその妹と記念撮影をしてから、彼と別れて通り(Rua Araújo Guimarães)に面した観光案内所(Posto de Turismo)に行き、地図をもらい、住宅地を通り、1148年に建てられた城跡(Castelo de Alcobaça)に歩いていくことにした。

修道院の前で写真を撮るとき、美しい城跡が見えていて、その場所だった。住宅地の中に突然お城が現れて、登るとお花が美しく咲き、城跡は何も飾りなく残されていて美しかった。城跡からはAlcobaçaの町が一望できて美しかったが、足場が小さくて、崖が切り立っていて、下を見たら落ちたら真っ逆さまで危険だった。観光客がよく来そうな場所ではなかったが、柵がなくて驚いた。

町中に戻り、1520年に建てられた小さな教会(Igreja da Misericórdia Alcobaça)を見て、大通り(Rua 16 de Outubro)を戻り、いくつかの屋敷を見た。趣のある通りが多くて、街並みが気に入った。それから川の畔の屋敷(Palacete Rino)の前でAdrianに再び会い、地図をプレゼントして、午後5時15分に通り(Rua Alexandre Herculano)に面した喫茶店でお茶しようと待ち合わせをした。

小川に出てAlcobaçaの名前の由来になったアーチを間近に見ることができた。川沿いの通り(Rua Dr. José Nascimento e Sousa)に面した1648年に建てられた美しい教会(Igreja de Nossa Senhora da Conceição)の近くを歩いてから、また、橋を渡り修道院の方に戻り、彼らは午後5時40分に出るため、喫茶店(Café Bar Portugal) で急いで半時間弱お茶をした。

ポルトガルの古地図があり、お互いにラテン語を読みながら、楽しんで話に花が咲いた。彼らは注文で戸惑っていたので、スペイン語でミルク入りの紅茶(Te con leche)とミルク入りのコーヒー(Café con leche)と頼むとポルトガル人にきちんと意志が伝わり嬉しかった。(ポルトガルでお茶(chá)というが、広東語「茶(caa4 /t͡sʰɑː²¹/)」から取り入れられた。シャボン(sabão)やカルタ(carta)やカステラ(pao de Castelra)は、ポルトガル語から日本語に取り入れられた。)

教会の石棺にラテン語「妻(uxor)」と書かれていたのを見つけたとき、英語でも「愛妻家(uxorious)」という言葉あるねと盛り上がった話などをしていた。アドレス交換のときメールアドレスをラテン語(mea inscriptio electronica)で書いたら、絶対に忘れないよと笑っていた。

皆、ローマ帝国の領土に住んでいた人たちは、ローマ帝国が滅亡してからも、ラテン語を話し続けて、ポルトガル語やスペイン語に変化したことに感激して、スペイン語が分からないとき、ラテン語を考えてみたら、二千年の時を超えた子孫たちと通じ合えることが分かったんだと冗談を言うと大いに笑って感動していた。(街の通りで人に路をたずねたとき、ポルトガル語で「行き続けて(sempre andar)」と言われたけれども、ラテン語(semper ambulare)と殆ど同じに聞こえた。)

バスの時間が来たので、彼らは早く御暇して、5€も置いて行ってくれた。店員さんとスペイン語で話して、ポルトガル語で返答が来て会話を楽しんだ。最後に10.10€から10¢負けてくれた。

カフェを出てから、バスターミナル近くに戻ると美しい邸宅(Câmara Municipal de Alcobaça)やその前にテニスコート(Clube de Ténis de Alcobaça)があった。小さい子供から中学生くらいの子供たちが、テニスをしていて、上手い人が何人かいた。公園(Jardim dos Paços do Concelho)を散策した。

バス停近くで市場(Mercado Municipal de Alcobaça)も見つけた。殆どのお店が閉まっていたが、普段色々な物を売っていそうな雰囲気だった。近くで道に迷うと優しく声をかけてくれて、バスを待っていることを言うと番号などを教えてくれた。近くを散策して、食べもの屋さんを探した。市庁舎(Edifícios públicos de Alcobaça)があり、裁判所(Domus Iustitiæ)と書かれていた。

父とAlcobaçaで食べていこうと話して、広場(Praça João de Deus Ramos)の中央のロータリーに面したカフェ(Esplanada do Artur)があり、チーズバーガー(Hamburguer com Queijo)、ポテトフライ(batatas fritas)、飲み物のセットを注文して、夜は日曜日で飲食できる場がないため、Nazarénに戻っても、レストランやお店が閉まっているから、腹いっぱいにたらふく食べた。

バスに20分も乗ると、Nazaréに着いた。誤ってLeiria行に乗りそうになると声をかけて助けてくれた。Nazaréに着き、バス停から宿までたったの2分歩くだけで着いた。その間にある細い路地(Rua Doutor José Maria Carvalho Júnior)に入る所にパン屋さん(Pão Quente Volta D'Mar)があり、二つずつ菓子パンを求めて、宿で食べていると、宿のご婦人がノックしてくれて、今晩の宿泊費用をお支払いした。ご婦人は優しくお湯を沸かし方を教えてくれた。それから、また、海岸に出るとき、パン屋さんで追加で2つのパンを買った。スープを2袋持っているのを思い出したからである。

夕日を見る太陽が沈むとき海岸が美しかった。Supermercadoを探してバス停近くの商店街をふらりと歩いた。コンビニエンスストアを見つけ、Nazaréの商店街を散策した。鰻の寝床のような細い通りが海岸に向かい真っ直ぐに伸びていて、独特の雰囲気を生み出していた。通り(Rua Gil Vicente)の雰囲気を楽しんでから宿に戻り、スープを作り、パンをつけて食べてゆっくりと寛いだ。

テレビを見ながら日記を書いた。歌番組でポルトガル語の字幕に書かれている意味が分かった。喫茶店でAdrianと話していた通り、皆はラテン語は死語だと考えているが、実はポルトガル人、スペイン人、フランス人、イタリア人、ルーマニア人も、ラテン語を使うのを止めておらず、(冗談で)私たちのような物好きな人やカトリック教会でも今でも使っていると盛り上がったことを思い出した。ラテン語を学ぶとポルトガル語も知らなくても分かる強みを実感した。午後11時に床に入った。

Alcobaçaの修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)の外観

2008年5月26日(月)47日目(Nazaré-Caldas da Rainha-Óbidos-Nazaré: Rua Ocidental)

Óbidosは城壁の中に町があり、家がひしめき合う用に建てられていて、城壁が完存して珍しく、箱庭のような中世都市で楽しかった。Nazaréで民宿のマリアさんにメダイをプレゼントすると心から喜んで旦那さんを呼んできた。日の入りが息をのむほど美しく、大西洋を染めていた。

昨日の夜は雨が激しかった。午前8時少し前に起き、午前8時半のバスでCaldas da Rainhaで乗り換えて、Óbidosに向かった。車窓からバロック様式の教会や葡萄畑の丘や美しい城壁が見えた。

(イベロ=ケルト語Eburobricio > ラテン語Eburobrittiumは、713年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、アラビア語でأوبِيدُوس / Ubidusと記録され、1148年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が奪還。ケルト祖語「イチイ」*eburos < 印欧祖語*h₁ebʰros + ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-やラテン語「植民地」oppidum < イタリック祖語*oppedom < 古典ギリシア語「土地」ἐπίπεδος / epípedos <「上に」ἐπι- / epi- < ヘレニック祖語*epí < 印欧祖語*h₁epi +‎ 「地面」πέδον / pédon < ヘレニック祖語*pedóm < 印欧祖語*ped-om < 「歩く」*ped-が語源でヒッタイト語「土地」𒁉𒂊𒁕𒀭 / pēdan < アナトリア祖語*pedómやサンスクリット「歩み」पद / padá < インド=イラン祖語*padámと関連)

バス停(Auto-táxis Central Obidense)の直ぐ上には、11世紀に建てられた城門(Porta da Vila)があり、18世紀に作られた美しい青タイル(azulejo)が圧巻だった。中央通り(Rua Direita)には、マリア様の像が小さいガラスウィンドウの中にいて、イエスのヨルダン川での洗礼のタイルの絵があり美しかった。マリア様の目はぱっちりとし過ぎていて、インパクトが絶大だった。

13世紀に建てられた聖ペテロ教会(Igreja de São Pedro)やその前に建てられた1331年に建てられた小ぶりの聖マルティン聖堂(Capela de São Martinho)を訪れた。

町の中心部にある博物館(Museu Municipal de Óbidos)が開いたばかりで入った。ニ階には宗教画や彫像があり、一階には地元の画家や中世時代の建物の柱の一部や洗礼盤があり、宝物館があった。また、14-15世紀のラテン語の碑文(Estas Casas S(am) de Sam PedroやHesta Casa he de Sa(n)ta M(ari)a)も展示されていた。アンシャルとゴシック体の中間のような独特な書体で面白かった。

それから、1148年に建てられた聖マリア教会(Igreja de Santa Maria)を訪れた。特に最後の教会は、青タイルの壁と質素な祭壇が調和していて美しくて気に入った。

それから、中央通り(Rua Direita)を一番奥まで進み、11世紀に建てられた城壁(Castelo de Óbidos)に向かった。昨日のAlcobaçaの城跡とは違い、城壁は手入れが良くされていて美しかった。

城の前の1186年に建てられた聖ヤコブ教会(Igreja Paroquial de São Tiago)の前にある学校(Escola de Hotelaria e Turismo do Oeste)に入ってしまったが、 看板にEscola da São Tiago e Turismoと書かれていて、 観光案内所と紛らわしかった。それから、城門を通り広場に出ると城の全体が見えた。城壁(Castelo de Óbidos)に上ると眺めは美しく、一面葡萄畑や村々を下には単線と駅が見えた。

城壁には中世の市場(Mercado Medieval de Óbidos)を復元している最中で工事をしていた。中世の雰囲気が大きなべニア板に描かれていて、古の街の市の雰囲気を出していた。城壁の周りの道(Estrada da Cerca)を歩くことができて楽しいが、柵が付いておらず、落ちたら死んでしまいそうなほど高く切り立ち、崖から落ちたら自己責任という感じで驚いた。

それから、小道(Rua do Colonel Pacheco, Rua de São Teotónio)を歩いて戻ってきた。レオノール・デ・ヴィゼウ(Leonor de Viseu, 1458-1525)が建てたと伝えられる教会(Igreja da Misericórdia)の隣には白い壁の扉の上部に青い陶器の聖母子像があり、更に上には紋章があり興味深かった。

街(Calçada de Misericórdia, Rua do Padre nuno Tavares)を歩いて、中央の門(Porta do Vale ou Senhora da Graça)から街を出た通り(Rua Porta do Vale)の家のドアの上に《マタイの福音書》のラテン語碑文があり、「あなたがたを受けいれる人は、私を受けいれる。水一杯でも飲ませてくれる人は、決してその報いからもれることはない(40 Qui recipit vos, me recipit: 42 Et quicumque dederit uni ex minimis istis potum aquae, non perdet mercedem. Math(aeus) Cap(ut) X)」で書かれていた。

それから、城壁の外の道(Rua Porta do Vale, Rua Dom João D'Ornelas)を下り、広場(Traverso Ordem da Terceira)に面した1300年に建てられた白壁の美しい塔を持つ教会(Igreja de Nossa Senhora de Monserrate)を訪れた。その手前の広場(Largo do Chafariz Novo)で工事現場の人とお話したり、教会の前の庭の手入れをする庭師4人と話をした。

庭師の方は私がスペイン語を話せるのを知り、それからものすごくお話が盛り上がった。教会まで降りていく通りは、白壁の家々があり、花が咲き乱れている上、手入れされていて美しかった。

広場(Largo do Chafariz Novo)に面した中程の門から、城壁で囲まれた街に戻り、中央通り(Rua do Padre nuno Tavares)を通り、入口の城門(Porta da Vila)に戻り、観光案内所(Posto de Turismo)で帰りのバスの時刻を聞いて確かめた。イギリス人が英語版の地図がなくて困ったと嘆いていた。

近くの通り(Rua da Porta da Vila)にある乾物屋さん(Loja de frutos secos aGuardada)を父が見つけて、乾果物のミックス、カシュナッツ(Castanha de caju)や杏子(Damasco)、メレンゲのお菓子(Molotof do caseiro)を求めて、近くの門(Porta da Vila)の前の広場の長椅子でお昼に食べた。

それから1309年に建てられた教会(Igreja de São João Baptista)の隣にある博物館(Museu Paroquial de Óbidos)で聖人の人の骨が入った製品箱や中世の素晴らしい美術品を見た。また、15世紀に作られた水道橋(Aqueduto)を見て、町の外のムーア人との戦いを記念して造られた十字架を見た。

町の外を周る道(Rua Dom João de Ornelas, Rua da Biquinha)を歩いて、先ほどおしゃべりをした工事現場の広場(Largo do Chafariz Novo)を下り、幹線道路(N114)を少し歩いて、郊外の1730年に建てられたバロック様式の教会(Santuário do Senhor Jesus da Pedra)を見た。

バスで来たときに見えた建物で長く歩いてきて、教会の中には入れなかったのは残念だが、歩いていくとき、Óbidosの外観を全て見ることができて、美しさを町全体の堪能できて満足だった。

それから、町の周りの城壁をぐるりと回り、鉄道駅まで上るとき、道端(Estrada da Estação)に青いスカーレット(Anagallis arvensis f. azurea)がきれいに咲いていた。城壁の直ぐ下の14世紀に建てられたゴシック様式のカルメル会教会(Capela de Nossa Senhora do Carmo ou do Mucharro)を訪れた。ローマ時代にジュピター神殿があった場所と頷けるほど、小高い丘の上にあり、美しい風景であった。教会には入れなかったが、その前に石柱が柵無しで置かれていて、十分に修復されていないが、逆に教会のそのままの姿が残されていて、観光地化されておらず、遺跡として興味深かった。

小道(Estrada da Cerca)を歩いて、街の中に再び戻り、中央通り(Rua Direita)を戻り、手前の広場(Estacionamento Óbidos)の日陰で1時間半位バスの時刻まで待った。広場には電話ボックスがあり、何も変哲もないが、皆写真を撮っていて4、5人見た。ヨーロッパ人は面白いものに興味を示すと思った。今日は遠足で来るポルトガル人の小学生が多く賑やかだった。 バス停で待っていると手を振って来てくれたので、振りかえすと喜んでいた。 遠足で来ていた小学生たちは、私たちが鎌倉に遠足で行くように感じた。また、観光案内所で冗談を言い合ったイギリス人が時刻を確認していた。

日本人のツアー客が2組いたが、1時間半だけ滞在できるそうで短い時間で好きな所を回れず辛そうに感じた。私たちは観光案内所で地図をもらい、歴史的建造物でマークして、全て歩いて訪れて存分に楽しめた。街の広場などは上は白、下は青に縁どられていて、街並みのコントラストが美しかった。

バス停で座っていると、地元の婦人が横にきて、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、スウェーデン語、ガリシア語まで話せると言っていた。Óbidosで生まれ育ち、城壁の裏手にずっと住んでいると話していた。一緒にバスに乗り、隣町のCaldas da Rainhaで降りそうになったとき、その方や運転手さんがそのまま乗り続けてと優しく教えてくれた。

坂を上がり下がりしたり、街の周りを歩いたため、バスの中ではよく寝て、起きるとNazaré海岸の前だった。Nazaréで降り、通り(Rua Sub-Vila)に面したSupermercado Minipreçoでピザやポテトや飲み物、パン屋さん(Pão Quente Volta D'Mar)でパンを6つ買い、宿に戻った。

宿のベットでしばらく休んでから、ハンバーグを食べたいと思い、歩いて、先ほどのSupermercado Minipreçoにハンバーグを買いに行き、宿に戻り、ピザとハンバーグを焼いて食べた。

すると、宿主の婦人がノックして入ってきて、今日もまた一泊することを告げ、宿泊料金を払って出ていかれようとするとき、メダイをプレゼントすると大喜びして、メダイにキスをして、私たちを抱きしめてくれた。明日Fátimaに朝早く出ることを告げ、朝の午前6時にあなたがたを起こしたくありませんと、スぺイン語で言うと分かりました。鍵はここに置いておいていいですよと言われた。

宿の前で記念撮影をするとまた大喜びして、隣の家の人が出てきて、撮影した写真を嬉しそうに見せていた。ご主人にもとメダイを渡したとき、心から喜んで「どうもありがとう!(Muito obrigado!)」と言われた。ポルトガルでは、お金の冷たさより、人情の温かさが勝る素晴らしい国と思った。婦人は抱きしめてくれたとき、「良い旅を!(Boa viagem!)」と言われた。

婦人の名はマリアで自分の守護聖人の聖母マリアのメダイにとても感激してくれた。そもそも、Nazaréの地名の由来も聖母マリアに関係する伝説があり、信仰が熱いことを感じた。素晴らしい漁村だから、観光地化されてしまうことなく、そうした素朴な美しさを失わないでほしいと思った。

今度Nazaréに来るときに電話を下さいと言われ、住所と連絡先を書いてくれた。日本に帰ったら、直ぐに手紙を書いて、写真をお送りするとお伝えしたら、とても喜んでいた。

Nazaréに着き、ハンバーグを買うときは、雨が降っていたが、ポテトを揚げて食べ終わる頃に雨が止み、午後8時半頃に日の入りの時間に近づいた。宿から歩いて細い路地を抜けて、海岸に出る所に行った。雲の合間から太陽が鋭く強く輝き、大西洋の水平線とNazaréの岬と浜が、何とも言えない美しさのため、急いで宿で休んでいた父を呼びに行った。遂に水平線上の厚い雲の下に入りゆき、それを見届けた。父が日の入りがとてもきれいだね。Nazaréに三日いて、これで見納めだねと話していた。

食事の続きを食べてから、日記をテレビを見ながら書いた。明日の朝に鍵と共に置いていくメモをMuito obrigado por sua amabilidad! Ponemos a chave aqui, porque hoje vamos rapidamente para Fátima. Quando chegamos Tóquio, Japão, vamos escrever uma lettra com a photo. A Dios! 27 de majo de 2008 na Nazaré.とポルトガル語で書いた。明日は午前7時10分のバスでNazaréを出て、念願のFátimaに行くからである。遂に明日にたどり着くと思うと感慨深かった。今日は早く床に入った。

Óbidosの城壁の上から街並みを臨む

2008年5月27日(火)48日目(Nazaré-Fátima: Casa das Irmãs Dominicanas)

Fátimaで聖母が出現した樫の木(Azinheira Grande Centenaria)や天使が出現した場所(Loca do Cabeço)、Luciaの生家(Casa da Lúcia)やMarto家(Casa de Francisco e Jacinta Marto)、宗教美術の博物館(Consolata Museu de Arte Sacra e Etnologia)や博物館(Museu Interativo - O Milagre de Fátima)を訪れた。Casa das Irmãs Dominicanasで修道女と沢山お話をした。

今日は朝早く午前6時半に起き、午前7時10分のバスに間に合うように出た。昨日の夜も朝方も雨が降っていたが、今朝には既に止んでいた。宿に鍵を置いて出て、海岸を一目見て、バス停に着いた。

乗り場でどのバスに乗ればよいか分からず困ると、必ず助けてくれる人がいて、今日も婦人が助けてくれた。バスの中で昨晩に父がケチャップを付けて、パンに挟んで作っておいたハムと野菜を食べた。車窓から、昨日に訪れたAlcobaçaのテニスコートやBatalhaの修道院をまた見れて良かった。

二時間ほどバスに揺られて、午前9時15分にFátimaに着いた。今日は曇り晴れたり雨が降ったり中途半端な天気だった。 ヨハネ・パウロ二世通り(Rua João Paulo II)があり、雨が降りそうな中、大聖堂の塔と鐘の位置から、東側に着いたと考えて、陽の向きを頼りに大聖堂に近づいてゆくとあっさりと道に迷わずに着いた。写真ではなく、自分の目で見た聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)は調和が取れていて美しかった。午前9時15分で人も広場に殆んどおらずゆっくりと見れた。

大聖堂に入るとミサが行われていて、美しい歌声が聞こえてきて、アーチの門のマリア様を三人の牧童のモザイクは美しかった。大聖堂は思ったより小さく、明るい色彩で統一されていて、質素で美しかった。大聖堂の入り口には、大きな液晶テレビがあり、ミサの時間を知らせていた。

大聖堂の周りを一周して、側面のイエスの受難のモザイクを見て、マリア様が出現した場所にある聖堂に急いだ。雨が激しく降って来て、急いで近づくと聖歌(Ave Maria)が聞こえてきて入ると、ミサの始まりで出席した。全て英語で行われていたので、アメリカ人の団体と代表者の英語で分かった。教会に入る前に十字を切るとき、目の近くで小さく切り、顔全体の大きさで切り、普通の大きさで十字を切る、三段階で十字を切る人が多いことに気づいた。初めて見たので驚いた。

新聖堂(Basílica da Santíssima Trindade)から旧聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)へ膝をついて進む信徒や修道女がいた。ミサが終わると午前10時過ぎになり、近くの案内所(Turismo de Fátima)に入った。係りの人は優しく丁寧に質問に答えてくれて、ポルトガル語版の地図も下さいと言うと、それぞれの言語がセットでお祈りの栞とFranciscoやJacintaの栞まで頂いた。

激しい雨が降り続いていたので、中の椅子に座り、机の上にある聖母の出現に関する分厚い資料に目を通した。あらゆる資料が集められていて調査されていて興味深かった。

Santiago de Compostelaへの巡礼者と思われたらしく、巡礼宿を案内所で教えてくれたが、ここまで歩いてきたわけではなく、歩いてきた巡礼者に泊る場所であるため、係員さんは巡礼をしてきたのですから大丈夫ですよとお話されていたが遠慮して、修道院(Irmãs Dominicanas de Santa Catarina de Sena)が運営するホテル(Casa das Irmãs Dominicanas)に泊まることに決めた。

大聖堂前の広々とした場所(Santuário de Fátima)には、マリア様が現れた樫の木(Azinheira Grande Centenaria)があった(Azinheira grande, sob esta árvore oraram os pastorinhos enquanto esperavam nossa senhora. A azinheira situava se no local onde hoje se encontra a pequena coluna no alpendre da capelinha)。ここに聖母が出現したかと、現地でしか得られない感嘆をした。

聖母が出現した場所に小さな祈りの場所や教会(Capelinha das Aparições)があり、祭壇が設けられていた。ガラス張りで明るい雰囲気の場所だった。早朝に多くの修道女が跪いて祈りを捧げていた。

案内所の人が紹介してくれた宿(Casa das Irmãs Dominicanas)に通り(Praceta de Santo António)を歩いて行った。修道会が経営して質素かと思ったら、巡礼宿ではなくホテル並みの設備があり、一泊55€かかるが、部屋は信じられないほど美しく、お風呂場も広くて清潔感があり、寛ぐことのできる高級ホテルのようにきれいな部屋でエアコンもあり、大きな窓も二つあり明るく、文句なしで今まで泊まってきた中で最高の部屋だった。食事も付きでゆっくりと寛いで旅の疲れを取ることができた。

父は広々とした部屋で休みたいとのことで私だけ街に出て、宿の隣の宗教美術の博物館(Consolata Museu de Arte Sacra e Etnologia)を訪れた。沢山の幼子イエスズと母子像、十字架上のイエズスやミサの式次第の本、楽譜が再現されていたり、展示品は多岐にわたり、自分の気に入った幼子イエズスなども見つけた。あらゆる時代の品が一堂に展示され、様式の違いなどを比較でき、興味深かった。

奥の部屋ではキリスト教の広まり方やミッションについて説明されていて、更に他の様々な宗教との関わり、キリスト教の受容のされ方が説明されていた。中世から近世にかけての古地図が多くあり、見ていて飽きなかった。アジアやアフリカの原住民の道具や宗教が展示されていて、中国の祭壇など国際色も豊かだった。Franciscoの父親の写真と共に彼の父が使っていた帽子や三人の牧童(Francisco, Lucia, Jacinta)のロザリオや臍の緒を収めた箱など、三人に縁の深い品々も展示されていた。

地下には小さな祭壇と特別展があり、幼子イエズスや十字架から降ろされるイエズスの巨大な再現をしたガラスケースなど、十字架の磔に関する美術品を納めてあった。前には修復作業室があり、道具が放置されていた。上には十字架への道のステンドグラスがあり、一つ一つに物語が詰まっていた。

宿に戻り、聖堂(Basilica)の横の通り(Rua Jacinta Marto)にある博物館(Museu das Aparições de Fátima 1917)を訪れた。近くには沢山のレストランやカフェやお土産物屋で埋め尽くされていて繁盛していた。特にお土産物屋さんには、同じ人形が無駄に多くあり、町で一つ大きな店を経営して、チャリティーに使えばいいのにと思った。博物館の係の人に話しかけると、ドアを開けてくれて、ディズニーランドのアトラクションのよう、当時の情景や風景を忠実に再現されていた。

細かい説明や会話を気が済むまで聞くことができて、Fátimaの歴史を知ることができた。Lourdesで見た博物館と似ていた。一人も来ないので、貸し切り状態でゆっくりと回ることができて感謝した。昔と今の街並みは変わってしまっていたが、出現当時の街並みが忠実に再現されていて楽しかった。

近くにもう一つの博物館(Museu de Cera de Fátima)を見つけたが、同じような感じで訪れなかった。帰りに書店(Livraria do Santuário de Fátima)に立ち寄り、ロザリオの祈りの栞を買った。案内所でTomar行きのバスの時間をたずねたが情報がなく、バス停で時間を確認して宿に戻った。

昨日買った乾物の杏や果物を食べて、ゆっくりしてから、父と十字架への道や三人の牧童の生家の方に行ってみることにした。宿を出る時、修道女María de los Ángelesさんが話しかけてくれた。スペイン人でMadridで生まれて、父はGalicia地方の人でSantiago de Compostela巡礼の話をしたら、今イタリア人の友達が歩いているとお聞きした。聖母が出現したParisの不思議なメダイ教会やLourdesの洞窟、Santiago de CompostelaやFisterraで聖ヤコブの帆立て貝を拾った話をしたりした。

十字架への道に行くと話したら、一つ一つの前で唱えるお祈りが、全て載っている栞を下さった。町はずれにある三人が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)に行くといいよとお勧めされた。車で来たのかと思われていて、足で歩き、バスで来たと後で知ると驚かれた。アメリカのBostonに長くいたこともあるそうできれいな英語を話していた。静かな雰囲気だがお話好きで優しい方だった。

出掛けにパスポートと宿のチェックイン表を外まで出てきて手渡して下さった。Parisの教会でも、Pyrénéesの山中でも、修道女が親しく話しかけてくれたことを思い出した。

十字架の道(Via Sacra / Caminho dos Pastorinhos)まで通り(Rua Francisco Marto)を5分程ほど歩いた。宿の立地条件が良くて贅沢だった。十字架の道は長く続いていてよく整備されていて、オリーブ畑の中にポルトガルらしい石畳が敷かれ歩きやすかった。Lourdesの道よりも平坦だった。

Lourdesでは立体的なオブジェでキリストの受難を示していたが、Fátimaは小さな聖堂の中にレリーフが置かれ、白一色で統一されていて美しかった。12のレリーフはLourdesよりも詳しく、キリストの受難を描いていた。14しか祈りが栞には無かったがレリーフは15あり、最後に小聖堂(Capela de Santo Estevão)で祈りを捧げられるようになっていた。質素でステンドグラスが美しかった。

少し歩いて戻ると、1917年5月13日にマリア様が始めに出現された場所(Valinhos)があった。美しいマリア様の像が小聖堂の中にあった。LourdesやFátimaの樫のように周りが整備され過ぎず、自然のまま、当時のままで美しかった。それから少し歩くと、1916年に聖母の出現の前に天使が3人の前に現れた場所(Loca do Cabeço)があった。自然のまま林が残されていて美しかったが、天使が現れた場所に簡易トイレがあり、雰囲気が失われていてがっかりしたり、遠足で来た中学生が大声を出して、道一杯に広がって歩いてきたりして、落ち着いて見られなかったが、素晴らしい道のりだった。

小道(Rua dos Valinhos)を少し歩いて、近くにあるLuciaの生家(Casa da Lúcia)やMarto家(Casa de Francisco e Jacinta Marto)を見に行った。19世紀後半に建てられた当時の家が残り興味深かった。観光客が沢山いて少し見づらかったが、少し待つと皆がバスに戻り、人がいなくなったのでゆっくりと見れた。農村だった当時の雰囲気がよく残されていて、素敵で質素な家だった。Luciaの家の裏には天使が現れた井戸があり、水を飲めるようになっていた。静かで穏やかな場所で天使が現れたいと思ったのも頷ける気がした。マルト家ではおじさんが家の中に座り、英語で詳しく説明してくれた。

大通り(Avenida dos Pastorinhos, Rua Francisco Marto)を通り、町中に戻り、父と宿の前で別れて、大きなホテル(Domus Pacis)の前にある書店(Paulus Livraria de Fátima)で本を見てから、大聖堂の周りをぐるりと回り、もう一つの書店(Livraria do Santuário de Fátima)をまた訪れて、ゆっくり本を見て、宿に戻った。書店の前に巡礼宿(Albergue Peregrinos a Pé)を見つけた。

宿で少しゆっくりして、夕食を食べに出かけた。バス発着所(Terminal Rodoviário de Fátima)の近くにCoimbraやAlcobaçaと同じくSegafredo Zanettiのお茶を出している地元の人が行きそうなカフェ(Pastelaria Santo Agostinho)があり、ピザ(Pizza)とタルト(Tarte de maçã)を食べて休憩した。

街中にあるレストランは観光客を相手に商売していてかなり高い価格設定だったので入らなかった。バス発着所でバスの時間を確認して、その手前のSupermercado Pingo Doceでお菓子のポテトチップス(Batatas Fritas Originais Lay's)や飲み物(Néctar de Frutos Vermelhos Vital, Néctar de Manga Laranja Kiwi Vital Equilíbrio Compal)を買い、ホテルに戻った。

修道女のMaría de los Ángelesさんと今日あったことをお話したりして、会話を楽しんでから、部屋に戻った。サンドウィッチを作って食べて、広々とした部屋で食後はゆっくりとして、お風呂にゆっくりと浸かった。お風呂もとても広くて足をゆっくりと伸ばすことができ、よく寛げた。その後、フランス語のテレビを見ながら、日記を書き、午前0時を少し過ぎた頃に床に入った。

Fátimaの聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)

2008年5月28日(水)49日目(Fátima-Tomar-Fátima: Casa das Irmãs Dominicanas)

Tomarのテンプル騎士団により建てられた城のような修道院(Convento de Cristo) は外見はごつごつしていたが、内部は色んな部屋や美しく、テンプル騎士団がいた旧跡を観光した。街の全てが見渡せる丘の上に築かれていた。夕方はFátimaで蝋燭行列や多言語のミサに参列した。

今日は午前6時半に起きて、午前8時にホテルの食堂で朝食を食べた。パンと紅茶とコーヒーもお代わり自由で朝食のサービスが素晴らしかった。部屋から出て、階段を降りると修道女のMaría de los Ángelesさんに会い、Tomarに今日は行くつもりとお伝えすると見どころをお話してくれた。

食後、部屋に戻り、急いで午前9時15分のTomar行きのバスに乗ろうとするが、午後0時半と言われて、どうしてかと考えたら、Fátima東駅を発車する時刻と途中の町(Lagoa do Furadouro)を通過する時刻を勘違いしていたようだった。流石に20分で32km先のTomarに着くとは早すぎると思った。バスが出るまでの午前中、大聖堂や広場に戻り、街の至る所を見て回ろうと思った。

大聖堂はミサの最中で礼拝の聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário)に入り祈りを捧げている12人ほどの人たちがいたにもかかわらず、物音一つ立たずに、静寂が完璧に保たれていた。マリア様が現れた樫(Azinheira Grande Centenaria)の前に座り、日記を書いた。

途中、十時の鐘が鳴り、目の前だったので耳に響いた。Lourdesの時報と同じく聖歌が流れていた。大聖堂(Basílica da Santíssima Trindade)でお祈りをした。聖堂の上部に「ロザリオのマリア様、私たちの為に祈り給え(Regina Sacratissimi Rosarii Fatimae ora pro nobis)」と書かれていた。

大聖堂の屋根伝いに悲しみの聖母の聖堂(Capela de Nossa Senhora das Dores)に行った。Parisのメダイ教会と同じく、地球の上に乗った聖母が描かれていて、メダイと同じマリア様だった。美しい太陽の奇跡のステンドグラスが印象的で美しい聖堂だった。終盤のマリア様の出現とマリア様との対話、写真をとられている三人、最後に太陽の奇跡で終わり、一番美しい部分を見れた。太陽の奇跡の後、皆マリア様の出現を信じて、祈りに入る場面のステンドグラスが美しかった。

バス停でTomar行きのバスに乗った。Fátimaを出て直ぐに修道女のMaría de los Ángelesさんが紹介してくれた三人の牧童が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)が見えた。Tomarまでは山がちで途中に大きな都市(Ourém)に止まり、Fátima東駅から50分かかり、それから35分ほど乗り、Tomarに着いた。バス停は旧市街にあり便利だった。観光案内所(Posto de Turismo de Tomar)は午後1時半頃には開いておらず、先に1118年に建てられた修道院(Convento de Cristo)を訪れた。巡礼路のような急な山道(Avenida Dr. Vieira Guimarães)を登り、5、10分すると壮大なお城が見えてきた。

テンプル騎士団(Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)の十字架が至る所にあり、歴史を感じさせた。(紀元前5世紀にケルト系Turduli族が住み、紀元1世紀に古代ローマ都市Selliumが築かれて起源となり、652年に西ゴート王国、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、1147年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が征服、1159年にテンプル騎士団の総長(Gualdim Pais, 1118-1195)に与えられて城が築かれ始めた。アラビア語「果樹」ثَمُرَة / ṯamara、複数形ثُمُر‎ / ṯumar < 「日々」تَمْر / tamr < ث م ر‎ / ṯ-m-r < セム祖語*təmar-が語源でアラム語𐡕𐡌𐡓𐡀 / tamrā, tamrē, təmārā、ヘブライ語תָּמָר‎ / tāmār、古代南アラビア語𐩩𐩣𐩧 / tmr、ゲエズ語ተምር / tämrと関連。12世紀に川(Rio Nabão)に架けられた橋(Portus de Thomar)と記録)

修道院に列車の形をした観光用のバスが止まった場所から入っていくと外庭があり、美しい青タイルがふんだんに用いられていたベンチがあった。観光客は数える程しかおらず、過ごしやすかった。入口にいくつか碑文を発見した。ラテン語やポルトガル語で記されていた。美しい入口の門があり、旧約聖書と新約聖書が一緒になり、沢山の聖人たちがマリア様と幼子イエスの像の周りに建っていた。

細い路地を通りチケットを購入して入ると、美しい中庭(Claustro da Lavagem, Claustro do Cemitério, Claustro de D. João III)があり、様々な時代に建てられた聖堂(Capela dos Portocarreiros, Capella do Cruzeiro)、部屋(Sacristia Nova)、教会(Charola do Convento de Cristo)、寝室(Dormitório grande)、台所(Cozinha)、食堂(Refeitório)、応接間(Alojamento para visitantes)、文書室(Arquivo)、図書室(Biblioteca)、噴水(Fonte)などは圧巻だった。

特に円堂(Charola)は美しく、中央にはテンプル騎士団の十字架が真ん中から見えるように設計されていた。周りの雰囲気もよく、エルサレムの神殿を模した塔の様式がポルトガルの教会の塔によく見られる壷型のイスラム建築のデザインで興味深かった。フランス人の団体と遭遇してしまい、おしゃべりが煩いため、ゆっくりと落ち着いて見れるようになるまで待っていた。

寝室に至る大廊下(Corredor do Cruzeiro)は圧巻で一つ一つの部屋は小さいが、質素でつつましい生活をテンプル騎士団や修道士たちがしていたことが伺われた。屋上にも螺旋階段で登ることができて、高台に建つ修道院の最も高い所から眺めがとても美しかった。修道院は要塞のようにゴツゴツしていて、砦のような作りだった。実際に1190年にムワヒッド朝のヤアクーブ・アル=マンスール(يعقوب المنصور‎ / Ya'qūb al-Mansūr, 1160- 1199)の攻撃にも見事に耐え抜いた。

修道院の全ての場所を見終わり出ようとしたら、フランス人の団体と一緒になり、遊歩道を下っていった。ラテン語で書かれた面白い碑文を見つけた。何とか石段が残っているような道で降りるのが大変だが、15世紀に建てられた美しい教会(Igreja de São João Baptista)の尖塔が見えてきた。

一本道(Avenida Dr. Vieira Guimarães)を下り、町に出るとき、美しい小さな通り(Calçada de São Tiago)を見つけて行くと、大きな広場(Praça da república)と重厚な町役場(Câmara Municipal de Tomar)が現れた。特に広場の白と黒のチェスのようなチェック模様の石畳は美しかった。沢山の観光客と共に地元の人が寛いでいて賑わっていた。広場からは丘の上にお城が顔を出して見えていた。

賑やかな大通り(Rua Serpa Pinto)を通って、川沿いの通り(Praceta de Olivença)に出るとき、観光案内所(Turismo de Lisboa e Vale do Tejo)も発見した。美しい建物の中にあり、歴史感あふれた空間だった。係の方は優しく説明をして下さり、地図や美しい写真のパンフレットを頂いた。

旧橋(Ponte Velha)で川を渡り、16世紀に建てられた修道院(Convento Santa Iria)を訪れた。その教会(Capela de Santa Iria)は他の建物と似ていて見つけにくかったが、人々の生活の中に溶け込んでいることを思わせた。床に石畳が敷かれていて、消えかけた碑文があった。ポルトガルの教会の中では消えかけた碑文をよく見るが、石材を再利用しているからであると分かった。南に通り(Santa Iria)を歩いてゆくとアーチをくぐり、大きなロータリーが見えてきた。

先にある12世紀に建てられた大きな薔薇窓を持つ美しいゴシック様式の教会 (Igreja de Santa Maria dos Olivais)に行くとき、市場(Mercado Municipal)の前で行き止まりとなり、止む無く別の新しい橋(Avenida Norton de Matos)を通って、旧市街に戻った。石畳にはテンプル騎士団の十字架の文様が多くて圧巻だった。川沿いの通り(Rua João Carlos Everard)を行き、細い通り(Rua Dr. Joaquim Jacinto)を入り、15世紀に建てられたユダヤ人のシナゴーグ(Sinagoga de Tomar)に至った。

Tomarでは、どんな細い通りからでも山の上の城(Castelo de Almourol)がよく見え、逆に城から町の全てが見渡せることに気づいた。シナゴーグのドアの上には美しいダビデの星の花がかけられていて、中に入ると美しい英語を話す人がいらした。キリストの教会とは違い、質素で祈りと集会を出来れば十分であるようにされていた。15世紀に建てられたシナゴーグは、普通の家と同じで全く飾り気がなかった。当時キリスト教とユダヤ教が仲良く暮らしていたのを思い起こさせた。中には美しい墓碑やユダヤ教の説明板や古い資料が並べられ、異教徒の共生の歴史が感じられて興味深かった。

静かにゆっくりと見ていたが、途中に沢山のフランス人の団体が大勢でやって来たため、隣の資料館(Museu Luso-Hebraico Abraão Zacuto)に行った。小さくて一つの部屋しか無くて見つけるのが大変だった。中のおじさんにスペイン語で話しかけると喜んで会話して、写真のパネルを十枚ほど見た。

美しい道(Rua Infantaria 15)を通り、中央広場(Praça da República)の教会(Igreja de São João Baptista)まで再び戻り、それから、細い道(Rua da Silva Magalhães)を散策していくと、ルネサンス調の美しい家(Casa Manuel Guimarães)に辿りついた。今は資料館として使われている建物は、昔の面影をよく残していて美しかった。それから、通り(Rua Gil Avô)を歩いて、川沿いに出て、美しい水車を眺めた。川の中洲が公園(Jardim e Parque de Merendas)とされていて、水車(Roda Hidráulica do Mouchão)は川の水の流れを使い、自ら水を汲み上げていた。

バスの時間まで5分ほど、ゆったりと公園(Jardim e Parque De Merendas)の中で過ごして、近くにあるバス停から、Fátima行きのバスに乗った。Tomarから通学の中高生が沢山乗って、バスの中は賑やかだった。Ourémでも沢山の通学の生徒が乗り降りしていた。

日中はずっと晴れていたが、その数分前から、雨が降り出してきて、天気に恵まれていた。Fátimaの近くにある三人の牧童が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)でバスを途中で降り、立ち寄ろうと思ったが、雨が降ってきて、明日の朝に訪れることにした。

Fátimaに午後6時45分頃に着いた。バス停の前にあるSupermercado Pingo Doceで夕食として、シリアル(Cereais Nestlé Cookie Crisp)、パン(Pão de Mistura Trigo e Centeio)、チーズ(Queijo Mozzarella)、マヨネーズ(Mayonaise)、ハム(Paio do Lombo)、ツナ缶(Patê de atum)、イワシ缶(Patê de sardinha)、キウイ(Kíwi)、オレンジ(Laranga)、モモ(Nectarina)、トマト(Tomate)、豆乳(Bebida de Soja)、飲むヨーグルト(Iogurte Líquido)などを求めた。

雲行きがあやしくなり、雨がぽつぽつ降り始め、急ぎ足で大聖堂を通り、宿に戻った。FátimaはSantiago de Compostelaと同じような気候で大西洋から東に少し入った盆地にあるため、天気が不安定で晴れていたと思ったら、いきなり雨が降ってきたりして、天気雨が多い町だった。

宿に着いて、受付で修道女のMaría de los Ángelesさんに今日バスでTomarに行き、昨日紹介してくれた教会を車窓から見たことを話すと、「それは良かったね!」と、自分の事のように喜んでいた。明日はFátimaの町の中を見て回ることを告げると、沢山の見どころをいろいろと教えて頂いた。

部屋に戻って、ハムサンドを作って食べた。シリアルも買ったのでお腹一杯になり、フランス語のテレビを見ながら食べた。午後9時15分を過ぎになると外の通りから、蝋燭行列に参加する人たちの声が聞こえてきて、中央広場(Santuário de Fátima)に行くことにした。午後9時25分に出て、大聖堂に着いたと同時にミサが始まり、雨が激しくなってきて、皆で小さな聖堂に肩を寄せ合い参列した。

ミサはラテン語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語の七ヶ国語で執り行われ、ロザリオの祈りをして、聖歌(Gloria et filio, Ave Maria, Salve Regina)を歌い、開始の直前に着いて、後の方に立っていたため、聖堂の端で屋根が切れていて、雨が吹き込んできてずぶ濡れになってしまったが、ミサでマリア様の出現した場所にて、皆の心が一つになりお祈りをした。

蝋燭行列の時間になると激しい雨となり、傘を持っている人だけ外に出て、大聖堂の前をぐるりと一周した。蛍光灯の十字架は、現代的に感じられた。それぞれの国の言葉でミサを行うために沢山の神父がいて、一人一人それぞれの国の言語で祈りを捧げていたため、通常の何倍もの長さだった。蝋燭行列はLourdesに比べつつましやかに行われた。激しい雨の中であったが良い晩のひと時を過ごせた。

午後10時半に宿に戻る頃に一番、雨が激しくずぶぬれになり、傘を持たない人は小さな聖堂(Capelinha das Aparições)の屋根の下に留まっていた。宿に戻ってきて、直ぐにシャワーやお風呂に浸かり、午前0時半に床に入った。父は朝風呂に入ることにして、直ぐに寝ることにした。

Tomarの修道院(Convento de Cristo)の外観

2008年5月29日(木)50日目(Fátima-Santarém-Lisboa: Casa de amigo)

Fátimaで修道女María de los Ángelesさん と別れ際に数時間ほど沢山お話した。Lisboaの中央広場(Praça do Comércio)でJoaquimと再会して、彼の家に招いてくれた。電車賃から食料まで全て払ってくれて、温かいおもてなしだった。 長い赤い鉄橋(Ponte 25 de Abril) を渡るとき、街の全体が見えて圧巻だった。彼の家の近くには大きなショッピングモールがあり規模に圧倒された。Santiago de Compostela巡礼路の新聞の連載が始まり、私たちのことを書いてくれた。

今日は午前8時少し前に起きて、午前8時15分頃にホテルの食堂で朝食を食べた。食堂のレオナルド(Leonardo da Vinci, 1452-1519)作「最後の晩餐(L'Ultima Cena)」を模した青タイルの壁画が素晴らしかった。朝食はパンとバターとマーマレード、チーズクリーム、ジャムなど、昨日と同じく沢山お代わりが自由で腹一杯になった。部屋を空けるのは、正午で良いと受付の方が教えてくれたので、教会に正午過ぎに歩いて訪れることにした。着いたら直ぐに出られるように身支度をしておいた。

宿の前でばったりと修道女María de los Ángelesさんに会い、徒歩で昨日教えて頂いた教会(Igreja Matriz de Fátima)に行くことを伝えると喜んで、「神の御加護がありますように」と言われた。教会まではロータリーから20分かかった。車道を歩いてゆき、途中雨にも降られながら、直ぐに着いた。

教会の前には美しいマリア様とFranciscoとJachintaの像があった。小さな教会で入って直ぐの場所に三人が洗礼を受けた洗礼盤があり、前方には美しいマリア像や聖アントニウス像があった。祭壇から右側には古い聖母子像があり、左側には美しい聖家族の像があり、中に敷かれていたレースは十字架が編み出されていて、天井には平和の鳩や聖心があるイエス像があり、美しい教会だった。

教会の中には洗礼盤の周りに聖母が三人の牧童の前に出現した様子を描いたステンドグラスや三人の洗礼記録の写しが展示されていた。誰も訪れる人がおらず、私たちも教えていただかなければ、見過ごしてしまう場所であるが、教会には歴史がきちんと展示されて説明されていた。教会の前に建てられた十字架の横に展示された三人がマリア様出現の直後に撮られた写真を見てから、宿に戻った。

受付で修道女María de los Ángelesさんと歩いて訪れたことを話していると、日本人観光客が昼食を食べるために宿の中にぞろぞろと入って来て驚いた。宿のロビーには、聖なる場所の土や砂、小石の標本が展示されていて、1916年に天使が出現した井戸(Casa de Lucía)、二回目に天使が現れた場所(Valinhos)、1917年5月13日に初めて聖母が現れた所(Cova da Iria)、樫の土や樫の葉など、どの場所で採られたどの標本なのか、ポルトガル語の説明を読んで説明をして差し上げると喜ばれた。また、77日ほどフランスとイベリア半島を旅することなどをお話すると驚かれた。

部屋に戻り、荷物をとり、入り口で修道女と出発まで話していた。Fátimaは、キリスト教徒ではないあなたにとりましても親しみやすかったですかとたずねられたり、修道生活の話などをお聞きした。部屋に戻る前に日本人の添乗員さんに頼み、修道女と私と父の三人で写真を撮り、修道女に日本に帰ったら、スペイン語で手紙を書く約束をすると喜んで、父に息子さんにお渡し下さいと住所と名前のカードを渡してくれた。出掛け際に宿の前まで見送って下さり気持ちよくFátimaを後にできた。

バス停に至る前に大聖堂に広間に行き、マリア様の出現場所に向かい、お祈りをしてから、バス停に向かった。バス停で切符を買い、5分もすると、一台のバスが現れて、2分すると、また違うバスが現れた。どちらもLisboa行きでExpressと書いてあるが、後のほうに乗ると良いと教えてもらい乗った。殆ど同時刻に出るバスが2本もあり、それだけ、首都LisboaとFátimaの交通量が多いと考えられた。

Fátimaの聖母が出現した樫の木(Azinheira Grande Centenaria)

バスは長距離用でこの3、4日乗ったバスよりもきれいで新しく乗り心地は最高だった。Fátimaを出るとSantarémまで下りぱなしで、Fátimaが小高い場所にあることが良く分かった。Lisboaまでたったの1時間半で行けて、午後0時45分に乗り、午後2時45分に着いた。バスの中で日記を書き、風景を楽しんだ。川幅(Rio Tejo)がどんどん広くなり、Lisboaに段々と近付いてゆくのが分かった。

先ずは郊外の空港(Aeroporto Humberto Delgado)に止まり、バスターミナルに着いた。到着したターミナルが、Lisboaのどこに位置するか見当がつかないが、先ずJoaquimに電話すると直ぐに出てハイテンションだった。待ち合わせ時間は分かったが、Lisboaの土地勘が一切ないため、場所が分からなかったので、近くにいた女性にお願いして、携帯で話してもらい指示を仰いだ。ポルトガル人は初対面の人にも優しく、困っていたら声をかけて来てくれて、引き受けて助けてくれた。Joaquimからの指示を紙に書き留めてくれて、待ち合わせ場所の広場にどこにあるか教えて頂けた。

案内所の人にスペイン語でたずねたら、バスよりもメトロが良いと教えてくれて、教わった通りに行くと、バスターミナルに近い地下鉄駅(Jardim Zoológico)は鉄道駅(Sete Rios)と乗り入れをしているために同じだが、地下鉄駅と郊外線の鉄道駅もすんなりと判別することができ、青路線にTerreiro do Paço駅まで乗り、近くの博物館(Casa do Bicos)がある広場(Largo José Saramago)と混同しそうながら、慎重に周りを歩いてゆくと無事に中央広場(Praça do Comércio)にたどり着けた。

通り(Rua da Alfândega)に16世紀に建てられたマヌエル様式の立派な門がある教会(Igreja de Nossa Senhora da Conceição Velha)があり、中に入ると右側直ぐに十字架上のイエス像があり、心に鈍い痛みがじんわりと響くほど生々しかった。前には大聖堂の修復作業の説明や大聖堂の構造があり興味深かった。また、路面電車が人も車も多い中、狭い通りを走っていて、活気にあふれていた。

中央広場(Praça do Comércio)に着くと観光客が大勢いて写真を撮っていた。また、ビジネスマンらしき人が港の様子を携帯で写真を撮っていた。広場の中には、物乞いや変な人など怪しそうな人が多く屯していたのでなるべく離れて、港に近い所に座って、Joaquimが来るまで待つことにした。周辺は発掘作業を行い、歴史ある街であると感じさせた。直ぐ近くが港で潮風が気持ち良かった。

待ち合わせ時間の午後5時半までまで2時間近くあるため、青タイル博物館(Museu Nacional do Azulejo)の看板を見つけ歩いて訪れることにした。地図で確認すると往復5キロありため、1時間半はかかりそうだが、早歩きで行くことにした。父と広場に近い先ほど降りた駅前(Terreiro do Paço)で別れてから、途中に駅(Santa Apolónia)や軍事博物館(Museu Militar)を横目に見ながら、大通り(Avenida Infante Dom Henrique)を歩いて行くと、線路がどんどん増えてきて、大きな鉄道基地(Parque de Material Circulante de Santa Apolónia)があった。また、歩道(Rua Teixeira Lopes)はどんどん高くなり、鉄道の上の橋(Avenida Mouzinho de Albuquerque)を渡った。

車通りが多いが、運転手は急いでいても、歩行者が横断歩道にいると遠くからでも、必ず止まってくれて嬉しかった。誰もがきちんと守るため、厳しく法律で定められているのかもしれないと思った。坂をどんどん登ってゆくが、何もない空き地ばかりが目立ち、博物館は見つからなかった。修道院(Convento Santos-o-Novo)を見つけたが、博物館ではなさそうで入らず、坂を下って戻った。

鉄道をまたぐ橋(Avenida Mouzinho de Albuquerque)でSantiago de Compostelaに向かう巡礼路を見つけた。黄色い矢印で示されていて分かりやすかった。橋の上からこの辺りに博物館がありそうと見当をつけてから、急いで引き返した。広場で父と合流して、左側の観光案内所に行き地図をもらい、一つしかもらわなかったので、父が近くの案内書で地図をもらってくる間、地図に行きたい場所をマークしていると、突然、後ろから「まだ巡礼中か?」と声をかけられて、振り返るとJoaquimが笑って立っていた。ひょうきんさが懐かしかった。流石、彼らしく父が地図をもらいに行っているから、もう直ぐ戻ってくるというと、昨日、既に観光案内所で二人分の地図をもらって来てくれていた。

荷物を持ち、観光案内所まで行き、父とJoaquimが再会した。横に有名なレストラン(Restaurante Chefe Cordeiro)があり、Caminoで会ったViniciusが、来月ここにきて修業をすると言っていた。

直ぐに彼の家に案内してくれて、近くの駅(Baixa-Chiado)で地下鉄(metrô)に乗った。彼のオフィスは観光案内所がある広場の二階にあり、いつもこうして通勤していると話していた。広場からかなり坂を上がって歩いた。駅の前は商店が立ち並んでいて賑やかな通り(Rua da Vitória)があり、コイン商(Numismática Vitória)を見つけた。Joaquimもコインを集めるのが好きと話してくれた。

地下鉄駅でJardín zoológico駅まで乗る切符二人分をJoachimが買ってくれた。エスカレータの乗り方が、日本とは違い、右に乗って左を急ぐ人に空けていた。地下鉄の切符は来た時に発行された乗車券を再利用して書き換えていた。Joaquimが、地下鉄はかなり治安が悪いから気を付けてと教えてくれた。しかし、設備はきれいであり、切符もセンサーでタッチする方式で、最新技術が使われていた。

Jardín zoológico駅に着いて、地下鉄を降りた所で先ほど中央広場(Praça do Comércio)の行き方を教えてくれた係の人にJoaquimが一日乗り放題の券は35€でどのように買うかを聞いてくれた。

Sete Rios駅から最寄りのFogueteiro駅まで、特急列車の乗車券も買ってくれた。鉄道のシステムも面白く、改札口は無く、ホールに券を通す機械が設置され、券を通して乗るだけで直ぐに鉄道が来た。

二階建ての車両の二階に席を見つけて座った。6時は通勤ラッシュ前で少し込み始めて来た。FogueteiroはSete Riosから7、8駅あり、10分少しで着いた。途中Lisboaを出るとき、長い赤い鉄橋(Ponte 25 de Abril)をかなりの時間をかけて渡るとき、町を望めて美しかった。

San FranciscoのGolden Gateと同じ構造の橋だそうだ。Joaquimは3、4分渡り切るのにかかる橋の上でBelémなど、車窓の外を指さしながら、Lisboaの名所を説明してくれた。アコーディオンを犬を肩に乗せて弾いている人がいた。Parisの地下鉄でジャズ楽団が乗って来て、演奏していたのを思い出した。

Fogueteiro駅を出ると閑静な住宅街が広がり、駅前には緑が多く美しいカラフルな家が二軒目に入ってきた。横に巨大なショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)があり、Joaquimはコンピュータ店にパソコンを預けていて様子を見るため入った。巨大なフードコートが入り口付近にあり、McDonald's、Pizza Hutなど大型チェーン店やポルトガル特有のお店が沢山あり繁盛していた。

エスカレーターで下がり、Hypermercado Continenteの近くに行くと直ぐに彼の隣人と会い、Joaquimは楽しそうに沢山の話をしていた。温厚そうな人で話し好きな優しい人だった。Supermercadoから出てくる人はカートンに一杯、満タンになる程食料品を買うことができ、スケールが違うと思った。ショッピングモールにアトリエまであり、絵を売っている人がいたり、驚きの連続だった。子供のおもちゃ売り場があり、テディーベアーの写真を撮っていると、赤ちゃんができて、子供のおもちゃを買うため、写真を撮っていると思われるのかもしれないねと、Joaquimらしい冗談を言って笑っていた。

コンピュータ店は、Hypermercadoの直ぐ隣にあり、Joaquimを待つとき、Supermercadoをはるかに超える大きさに息を飲んだ。コンピュータショップはチョイスが少なく、日本よりも価格が高めで購入が大変そうだった。Joaquimはお金を下ろして、雑誌屋(Papelería)でNational Geographicを買い、家に連れて行ってくれた。彼の家はモールの裏出口から5分かからない所で便利だった。少し通りから入ったアパートにあり、近くには公園やHypermercadoもあり、どんなものでも手に入り、公園でも寛げて快適な街だと言っていた。彼の家は一階で外に電子鍵、中に鍵があり二重だった。

家に入ると地中海風のオレンジの色彩で風鈴のようなものや、旅した国から持ち帰った民芸品、マカオから中国の磁器まであった。天使や宇宙人のコレクションや置物、本、CD/DVD、世界各国にまつわる品々が置かれていて、博物館のようで夢に溢れていた。鉱物学の本もあり、小物を集めるのが趣味だと話していた。テディーベアーや外国の写真があり、彼が50カ国以上も訪れていて羨ましかった。

巡礼仲間のViniciusは、巡礼でできた友達のMilanoにある家、スイス人の友達の家に泊まり、Lisboaに来て、先ほど私たちが再開した広場に面した有名なレストランで修業をするため、一ヶ月後に家に泊まると興奮気味に言っていた。彼はRio de Janeiroでオーナーと話をして、無償でLisboaで修業をさせてもらえることになったと聞いた。Fátimaは夫と離婚すると言って出てきたけれども、酒びたりだった夫が巡礼中に素晴らしい人になったと娘から電話で聞いて、巡礼で危機を回避したと言っていて、色んな理由で巡礼をしている人がいたことを知った。とにかく皆さんが良い方に向かい良かった。

それから、ポルトガルの伝統の演歌(Fado)を聴かせてくれた。アンダルシア音楽と似ていて、ポルトガル語の歌詞が乗っているが、イスラム時代の名残りが根底に残されている感じがした。外国人もはまる人ははまり、日本人でも歌詞を理解するだけのため、ポルトガル語を始めた人も沢山いて、Joaquimもそういう人を何人も知っていると言っていた。歌が上手な友達のCDも聞かせてくれた。

彼は記者で顔が広く、友達の詩人から詩を献呈されたり、色んなもので家があふれていた。彼は若い頃、水兵さんでセーラー服を着た若い頃の写真や彼の兄弟がいた。彼は結婚していないが、彼の兄はしていて、甥っ子の写真もあった。トイレはアヒルさんのカバーが付けられていて、夢がある空間にしていると話していた。彼はテディベアーやライオンまで持っていた。Joaquimはオレンジが大好きで、洗面所・トイレ・シャワー室・お風呂場も、全てオレンジ色に統一されていた。帆立て貝の石鹸入れがあり、Santiago de Compostelaへの道標だねと言うと、前からあったんだと笑っていた。

食事に行く前、Joaquimは屋根裏部屋にある倉庫に案内してくれて、秘密基地のような狭い部屋には、大量の世界に関する雑誌の切り抜きなどがあり、日本の封筒には日本関する雑誌の切り抜きやパンフレットが入れられていた。明日訪れると良い名所や美しい場所を丁寧に教えてくれて、地図に書き込んでくれた。ポルトガルの所からSintraやAlcácerに関するパンフレットや地図をくれた。彼は建築物のミニチュアのコレクションを沢山持っていて、明日行く建物はこれだよと教えてくれた。

夕食に前にベットを用意してくれた。私のベットは普通に置かれていたが、父のベットは普通のソファーのような所からクッションを取り出して引き出すだけで立派なベットに早変わりして驚いた。彼の家にはよく友人が泊りに来るため、沢山の隠しベットがあるんだと冗談を言っていた。

午後8時頃に近くのショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)でお勧めの店に連れて行ってくれた。二つのお店の内、どちらがいいかときかれて、バイキングスタイルのレストラン(Alentejo)に入った。皿当たりの値段で清算すると思ったが、後で測ってグラム当たりの価格を支払うことが分かった。私と父は野菜や果物、肉を炙る機械から出してもらい、ラムとハムと豚肉と牛肉をスライスしてもらった。日本には無い食べ物や買い方が多くて驚きの連続で楽しかった。

バナナのフリッターを父が取り、安かったので一人一個ずつ食べた。ポテトフライに砂糖でまぶしたような生まれて初めて食べる味だった。スモールの苺味の飲み物を注文した。Joaquimが会計をしようとしたら、皿を合わせて、さっと払ってくれて、ごちそうしてくれた。感謝をして楽しく話をした。

Joaquimは友達が集まり大事な人には寿司を振るまうほど、高級で美味しい食べ物だから、日本は何でも高くてお金持ちの国ではないかと言うので、逆にポルトガルを旅していて、物価が高くて驚いたことを色んな例を挙げながら話したら、特に日本の物価がポルトガルより安いことを知って、日本のイメージが変わり、本気で日本に住みたくなったと冗談を言っていた。日本に関する情報を欲しがり、一、二年の内に日本の大使館に私は新聞記者で日本の宣伝をするからと連絡をして協力してもらい、四国遍路をしたり、日本の各都市を回りたいと話していた(彼は実際に四年後に日本の四国遍路をして本を書いた)。ポルトガルではフードコートで食べ終わると置いていき、係の人が片付けていた。

夕食後はHypermercado Continenteに直行して、何点か必要なものを買った。多くの店があり、自転車、またその整備用品、鍋など金属製品、掃除用品も、食料品も信じられないほどの種類と数のおもしろい商品が並んでいて、夢のような空間だった。二種類の自社ブランドの製品があり、ヨーグルト飲料、ポテトチップス、クッキー、ゼリー、飲み物、豆乳、果物などが安く手に入った。

Joaquimは「Hypermercadoの会員カードを持っているから、ゼリーが半額になるよ!おめでとう!」と叫んで買ってくれた。また、袋が多くもらえて助かった。それから、ショッピングモールの中を歩き回り、彼の家に着いたのは、午後11時近くで飲むヨーグルトの苺味を一本飲んで寝る準備をした。

彼はHypermercadoの袋をすぐ使えるよう、ケースの中にしっかり畳んでしまい効率的だった。Joaquimは、陽気でテンションが高いけれども、実は色んなところで細かい配慮をして下さり、また、本当はとても繊細な人だと感じた。父はシャワーを浴び、私はその間に既に眠ってしまった。

就寝中、彼の同居者である猫のJeremiaが部屋の中に来て、ベットの上でニャーニャー鳴くので起こされたりして眠つけなかったが、Joaquimがとても親切にして下さり、感謝の一日だった。

Lisboa郊外のFogueteiroにあるショッピングセンター(Hypermercado Continente)

2008年5月30日(金)51日目(Lisboa: Casa de amigo)

Lisboaの中心地の広場(Praça do Município)にある捩じれた柱の記念碑(Pelourinho de Lisboa)の前でJoaquimと別れた。城(Castelo de São Jorge)から市内を一望できて最高の眺めだった。市電に乗り、Baixa地区、Estrela地区、Belém地区など旧市街の主要な見どころを回り、修道院(Mosteiro dos Jerónimos)や考古学博物館(Museu Nacional de Arqueologia)を訪れた。有名な菓子屋(Pastéis de Belém)でクリームタルト(Pastel de nata)を食べて、ベレンの塔(Torre de Belém) を訪れた。Joaquimが夕食をご馳走してくれて話が盛り上がった。明日は仕事で遠出してしまい家に帰らないことから、私たちを信頼して家の鍵を貸してくれた。

今日は午前7時少し過ぎに起きて、Joaquimと一緒に朝食を取った。彼は私たちより早く起きて、朝食を全て用意してくれて、家に迎え入れた友を持て成すのは、当たり前だと温かく持て成してくれた。

彼と沢山の話をしながら食べた。パンにバターと彼特製のオレンジのマーマレードを付けて食べたら美味しかった。Segafredo Zanettiのコーヒーカップを沢山持っていて、この喫茶店をCoimbraで見つけて、AlcobaçaやFátimaでも入った言うと1セットずつ2種類をくれた。コーヒーを店で買うともらえるから、気にしないでと言っていた(Segafredo Zanettiは、カフェ(Café)やバール(Bar)、パン屋さん(Padaria)、お菓子屋さん(Confeitaria)などに喫茶のチェーン展開していて、それぞれの独特のパンや菓子などを出しながら、紅茶やコーヒーなどのアメニティを卸していた)。

巡礼仲間のブラジルで料理人をしているViniciusはバターが大好物で塗りたくり、バターのケース1個を1日に食べ切る話とか、また、ヨーロッパはどこへ行っても、文化は殆ど均質で似ているけれども、Joaquimは旅行が好きで特にアジアは、それぞれの特徴があり、おもしろいと話していた。

また、ポルトガルは税金だけ払わせて、若者が才能を発揮できないから、ヨーロッパの他国やアメリカに行ってしまう社会事情などを話していたが、私は仕事をもらえて幸運だったんだけどねとにやりと笑って付け加えているところが、シリアスになりすぎる日本人とは異なり、ユーモアのセンスがあり、政治などの議論でも、本質は突いても、深刻にならずに皮肉にしてお話するコツを感じた。

Lisboaの中心部まで、彼の通勤と一緒に行くことにして、午前8時に家を出た。今日も中心まで向かう電車の切符をJoaquimが買ってくれた。Fogueteiro駅の朝は通勤の人々で込み合っていた。駅のタイルには、スマイルの模様があり、コンクリートで作られたホームを明るくする遊び心を感じた。昨日と同じように行くが、Jardín zoológico駅で一日乗り放題券を購入するのを手伝ってくれた。

Baixa-Chiado駅に着いてから少し歩いて、市庁舎(Paços do Concelho de Lisboa) に連れて行ってくれた。横に元教会(Igreja de São Julião)があり、今は駐車場(Parque Saba)になっていた(2016年には貨幣博物館(Museu do Dinheiro)が開館した)。市庁舎の前の広場(Praça do Município)には、Portoの大聖堂前でも見覚えのある捩じれた柱の記念碑(Pelourinho de Lisboa)があり、彼とその前で記念撮影をして、城(Castelo de São Jorge)に至るまでの全ての道を親切に教えてくれた。彼は近くの仕事場に向かい、教わった通り、市電のレールに沿い、坂を上がっていった。

政府機関(Ministério da Justiça)や最高裁判所(Supremo Tribunal de Justiça)などが立ち並ぶ官庁街や商店街(Rua do Comércio, Rua Augusta, Rua da Conceição)を過ぎて、市電が鉄のレールで登れることが不思議なほど急な坂(Largo Santo António da Sé)を上り、1783年に建てられた美しい小さな教会(Igreja de Santa Maria Madalena)でお祈りしてから、1755年に建てられた別の教会(Igreja de Santo António de Lisboa)を通り過ぎて、大聖堂(Sé de Lisboa)に至ると、観光客が多かった。

不思議なことに大きな教会が立ち並んでいて、急激に人口が増えるなどして、もしくは教区などの役割分担があるか、1755年の大地震から復興をしてゆく上で段階的に建てられたかもしれないと考えた。大聖堂前の小さな公園(Jardim Augusto Rosa)でポテトチップスを休憩に食べた。1147年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が再征服された年から建設が開始された大聖堂は、ゴシック様式で中は厳かだった。振り香炉(botafumeiro)のような容器がぶら下がっていた。

大聖堂の正面は入場料をとるために入らずに出てから、坂(Rua Augusto Rosa, Largo Santa Luzia)をまた少し上がり、1755年に建てられた教会(Igreja de Santa Luzia)の白壁や青タイルの壁画を眺めながら、美しい展望台(Miradouro das Portas do Sol)に至った。途中とても年数が経った木が、歩道のど真ん中にあり、面白い風景を作り出していた。展望台からの眺めは素晴らしかった。

展望台の前の屋根は無ければ風景を遮ることがないから更に良かったが、工事中のためで仕方がなかった。展望台はお土産屋さんや楽器を演奏している人が多く、Lisboaの町とその対岸が美しく見えて、赤い屋根が白い建物とコントラストをなして映えていた。まだ、午前10時で人も少なく見れた。

そこから、小道(Tvaversa de Santa Luzia)を行き、広場(Largo do Contador Mor)へ少し登ると小道(Traversa do Funil, Rua do Chão da Feira)があり、フランス人の観光客をかき分けていくと、城壁(Castelo de São Jorge)が見えてきて、1846年に作られた城門(Arco do Castelo)があった。

城壁の一部が邪魔なのにきちんと券売所の建物内に保存されていて不思議だった。チケットを購入して入場した。城の中からの町の眺めは美しく、高台に位置しているため、Lisboaの街並みがパノラマのように一望できた。小学生が遠足をしていて、元気一杯すぎて騒がしかった。沢山の大砲が置かれていて、要塞としての役割を思い起こさせた。城の上のやぐらに登ると更に美しい風景が広がり最高だった。Lisboaのどこから敵が侵入してきても、見つけられるようになっていた。

城門を出て、目の前のバス停(Castelo)でバスに乗り、次は坂道を下り、Baixa地区(ポルトガル語「下町」)に至った。Lisboaは七つの港の町といわれるほど坂が多くて、全体が大きすぎるため、歩きでは見るのが大変な都市だった。Baixaは低い土地を意味している通り、よく開けていて、下町のような地区で賑わっていた。Joaquimの仕事場はそこにあり、良い場所に通勤をしていると思った。この地区はとりわけ美しく整備されていて、縦横に通りが碁盤のように作られていた。建物も18世紀以降が主であり、1755年の大地震以降にきちんとした都市計画を基に町が作られたことが感じられた。

騎馬像(Estátua Equestre de Dom João I)がある広場(Praça da Figueira)から国立劇場(Teatro Nacional D. Maria II)の前にある広場(Praça de D. Pedro IV)に行くと、直ぐにMcDonald’s Rossioを見つけ入った。スペシャルバーガーのセットを注文しファンタとポテトがサイドで来た。ポルトガルでは、日本の二倍近くして、税金が12%と高くて、高価なのに繁盛していた。

ニ階のきれいな席で食べてから、一回のトイレの入り口から地下に入った。McDonald’sのお客専用と書いてあった。Lisboaはトイレが少なく有料で高い税金をとるなら、そういう所にお金を使って欲しいと思った。スペインでは、ケチャップをもらうとどっさりくれたが、2つしかもらえなかった。

食後広場でゆっくりとして、近くにある考古学博物館(Convento do Carmo)を訪れた。父は庭(Chafariz do Carmo)で待っていた。急な坂道(Calçada do Carmo)を登ると美しい庭があり、その前に1423年に建てられたゴシック様式の古い修道院の建物があり博物館だった。

1755年のリスボン大地震で門だけを残して殆ど壊れてしまい、1864年に遺構を修復してポルトガル考古学協会初代会長(Joaquim Possidónio Narciso da Silva, 1806-1896)が設立した由緒ある考古博物館で楽しみだったが、館内整理日で入場できず、前の庭の紫色の花を愛でれただけ良かった。

博物館に至る道(Travessa do Carmo)には、市電の線路があり、急勾配でどうして重い車体が上がってゆけるか不思議で仕方がなく、特に雨の日などは、線路が滑って大変そうだった。この地区は路地が入り組んでいて、Fadoを聴けるカフェが多く、音楽が漏れ聞こえてきて楽しめた。

同じ道を下り、広場(Praça de D. Pedro IV)に出るとき、近くの通り(Calçada do Carmo)に面した大きなHypermercado Pingo Doceを発見して父と入り、飲み物にリンゴジュース(Sumo Natural de Maçã)や軽食にレディーフィンガーのビスケット(Biscoitos Palitos de Champanhe La Reine Savoiardi)やアップルタルト(Bolo de Maçã)を買った。

広場(Praça de D. Pedro IV)から出る所で警官がアメリカで開発された立ったまま進める乗り物(バランススクーター)で颯爽と街を巡回している様子に出くわした。Fátimaの街中でも、警官が乗ってすいすいと動いているのをよく見かけて、ポルトガルの警察は流行の先端を行っていると感じた。

バスを乗り継いでEstrela地区に向かった。通過した広場(Praça dos Restauradores)で美しいオベリスク上の石碑を見つけ、後で戻ってくることにした。広場(Praça Marquês de Pombal)にバスで大通り(Avenida da Liberdade)を行き、立派な銅像と公園(Parque Eduardo VII)を楽しみ、Estrela地区に向かった。バスを待っているとき、銀行(Bankinter Marquês de Pombal)の窓枠に腰かけながら、絶対他のポルトガル人もそうすると思っていたら、本当にそうで笑ってしまった。

Estrelaは美しく、特に1779-90年に建てられた白亜の大聖堂(Basílica da Estrela)は壮観だった。内側もとても荘厳な雰囲気だった。前の庭園(Jardim Guerra Junqueiro)は静かで良い雰囲気だった。

市電が走る商店街(Calçada da Estrela)を少し歩いて坂を下ると、国会議事堂(Palácio de São Bento / Assembleia da República)のギリシア建築が圧巻だった。門の前に二人の長い銃剣を持った守衛の兵隊が2人いて、時どき行進して動くのが面白かった。美しい紫色の花が咲いた街路樹が植わっている通り(Avenida Dom Carlos)を海辺まで歩き、Santos駅に至るとき、大通り(Avenida 24 de Julho)の手前にある18-19世紀の歴史的建物の中にMcDonald’sがあり、ミスマッチに驚いた。

駅員さんによると鉄道は一日券が使えないため、市電(Elétricos)の18号線でBelém地区(ポルトガル語でBethlehem < ヘブライ語「パンの家」בֵּית לֶחֶם‎ / bēṯ léḥem < 「家」בֵּית‎ / bet < セム祖語*bayt- +‎ 「パン」לֶחֶם‎ / lékhem < セム祖語「食べ物」*laḥm-が語源でアッカド語𒂍 / bītumやウガリット語𐎁𐎚 / bêtu、アラビア語بَيْت‎ / baytやゲエズ語ቤት / bet、アフロ=アジア祖語*laḥam-やウガリット語𐎍𐎈𐎎 / laḥmu、アラビア語لَحْم / laḥmやゲエズ語ላህም / lahmと関連)まで移動した。市電の車内は明るく広くて清潔だった。観光客が多くて、地方の人は少なかった。

途中の駅(Alcántara、アラビア語「橋」القنطرة‎ al-qánṭaraが語源)で15号線に乗り換えたとき、交差点(Rua Prior do CratoとRua Vieira da Silva)に青いタイル(azujelo)の古めかしい美しい建物が美しかった。大きな橋(Ponte 25 de Abril)の袂から風景を見降ろすことができたが、川(Rio Tejo)から少し離れた所を川と並行して市電が走るため、橋の全体は見えなかった。橋の近くには、市電の車庫(Estação Sto. Amaro)があり、沢山の車両を見た。

修道院(Mosteiro dos Jerónimos)の前で降りた。ポルトガルが世界一繁栄していた大航海時代の頃、1501年から1601年まで100年間、金をつぎ込んだだけあり立派な建物だった。マヌエル様式の南門(Portal sul)の彫刻は立派だった。前には沢山の水兵さんが警備に当たっていた。インドで亡くなったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, c.1460-1524)の石棺が安置された教会は真ん中にあり、父は中庭(Claustro)でゆっくりしている間、私は考古学博物館(Museu Nacional de Arqueologia)を訪れた。入場券を買うとき、大人で買ってから、25歳以下(jubileu)は半額と書かれていて、直ぐに言い直したが、もう発券したので無理です。今度から気をつけて下さい言われ、倍払わされて頭に来た。普通なら再発券をしてくれるが、ポルトガルでは公的機関でも不親切である。その係員にはいくら言っても通じないから、出る時に他の係員に苦情を申し出るとすんなりと返金してくれた。

警備は厳しく入館時のボディーチェックと二人の警備員と沢山の防犯カメラで厳重に監視されていた。博物館は5つ資料室があり、展示されている資料は素晴らしく、ポルトガル周辺で発掘された、先史時代、イベリア人、フェニキア人、印欧語族の民族がきた頃、ケルト、ギリシア、ローマ、スエビ、西ゴート、イスラム時代、中世と沢山の碑文があり面白かった。ラテン語の碑文が多く、歴史が読めて面白かった。沢山の省略が行われていた墓石は解読するのが少し難しかった。

スエビ王国や西ゴート王国に属していた頃、初期キリスト教徒たちの墓があり、535年○月○日に○で葬ったと書かれていて、年代と日付まで特定できるものもあった。古代末期の1500年も前の石棺や墓石まで残されていて興味深かった。黄金や宝石の展示室では、ローマ時代の宝飾品を間近で見れて楽しかった。エジプトの部屋も興味深く、先史時代、新王国時代、プトレマイオス朝、コプトまであらゆる時代の宝飾品、文献資料があった。コプト語のパピルスも興味深く、ミイラの棺も沢山あり、また、舟を象った3500年前の彫刻も素晴らしく、初期ケルトの金の宝飾品の展示で黄金尽くしだった。

博物館を正門から出て、教会前の売店の前で父と会い、教会(Igreja de Santa Maria de Belém)の中に入った。沢山の観光客がフラッシュをたきまくり、ガイドが大声で説明して落ち着かず、祈りの雰囲気ではなかった。聖堂自体も豪華絢爛過ぎて、神様はこんな豪華な聖堂を喜ぶのかと思った。側面にある部屋に入ると、沢山の絵画が掛けられていて、側面に美しい中世の服装をした聖母像があった。教会の中だけ、時が止まっているようにマリア様だけが佇んでいて、Santiago de Compostelaの巡礼宿(Seminario minor)の近くにあった教会(Igrexa de Nosa Señora do Portal)を思いだした。

教会を出て、庭園(Jardim da Praça do Império)をつきり、川岸の方に歩いて、Belém名物の発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)を見物した。川沿いにあり近くにヨットを停泊するマリーナ(Doca de Belém)があり、橋(Ponte 25 de Abril)の眺めは美しかった。モニュメントは圧巻で写実的だった。前には世界地図(Rosa dos Ventos)があり、日本は1541年に発見と示され、パラオ発見よりも16年も後だった。日本からみると発見というより、ポルトガル船の難破であり、日本人による西洋人(遭難者)の発見に過ぎないと思い、立場が違うと捉え方が真逆となることを実感した。

庭園(Jardim da Praça do Império)でゆっくりとしてから、トイレに行きたくなりながら、Joaquimお勧めの1837年創業のお菓子屋さん(Pastéis de Belém)をすんなりと見つけた。観光客が写真を見せ前でぱちぱち撮っていて、青タイル張りの雰囲気のある建物だった。1€のクリームタルト(Pastel de nata)を注文して、紅茶を入れてもらった。クリームタルトは外はカリカリして香ばしく、中はクリーミーで触感が良く、シナモンと砂糖を振りかけて食べていると美味しかった。本来は修道女たちが作っていたそうである。お店は繁盛し過ぎていて、空きテーブルが無く、店員さんと一緒に店内を一周して、やっと一人で四人のテーブルに座っている人に相席を頼んで席を見つけた。

店内は広く、アンティークのレジスターやレシピなどが展示されていた。タルトを味わった後、父がトイレに行くが、カフェの中でさえ、50¢の切符を買って入るトイレしかなかった。本通り(Rua de Belém)を歩いて、1726年に建てられた大統領公邸(Palacio de Belém)の前まで歩くと、長いサーベルを持った警備員が2人立っていて、厳重な警備だった。新しい車両の市電に乗り、塔(Torre de Belém)まで行った。Largo Princesaから一つ乗り過ごしてしまい、Pedrouçosで人通りが少なく、茂みがある場所で用を足した。ポルトガルではトイレだけは、街中に整備されておらず不便で困った。

1514-19年に建てられた塔(Torre de Belém)の周辺は美しく整備されていた。白亜の塔の美しさを期待していたが、電球らしき変なカラフルなブイのような飾りが付けられていて、せっかくの素敵な建物の風景がぶち壊しで苦笑した。午後6時までに塔の下に来ないと入れないため、もう午後7時近かったため、入場できなかったが、周辺の雰囲気は美しく十分だった。市電でBaixa地区まで戻った。新型の車両で乗り心地が良かった。目の前に座っていた若い女性は、ただ乗りをしていたらしく、車掌さんに気づいて逃げるように降りようとしたが、呼び止められて、お金を払わされていた。

市電の駅(Largo Princesa)に戻る前にBelém地区の発掘の案内を読んだら、西暦30年頃の都市機構が存在したことが書いてあり驚いた。確かに初期の都市は川岸に近い場所に港湾ができて発達したと思った。Baixa地区に着き、広場(Praça da Figueira)から、二つ先の広場(Praça dos Restauradores)まで歩いた。1886年に建てられた美しい駅舎(Estação Ferroviária do Rossio)や1842-46年に建てられた国立劇場(Teatro Nacional D.Maria II)を通って、美しい広場(Praça Dom Pedro IV)に戻った。

Joaquimに電話すると一緒に夕食を食べたいと話していたので、彼の家に直ぐに帰った。Sete-Rios駅でセーラ服を着た水兵さんが階段を走って上がっていくのを見た。Joaquimも13年前もポルトガル海軍の記者をしていて水兵と一緒に映された写真があったことを思い出した。記者も旅行にも書いたり、従軍記者もして、冗談ばかり言い、陽気に笑うだけだから、そうには見えないが、実は色んな経験をしてきた人だと感じていた。一度乗り換えして、午後8時45分頃にFogueteiroに着いた。

彼の家に着くと白のボタンを呼び出して良いか分からなかったのでドアをノックしたら、明るい声と共に「友よ!」と大歓迎で迎えてくれて、今日の旅を話した。彼の巡礼の連載が今日の新聞から始まったと大興奮しながら見せてくれて、「不届者によるフランスの道の巡礼記(Eu, Português Impuro no Caminho Francês de Santiago)」という見出しで「不純(Impuro)」という言葉が冗談が込められたキーワードで題名が面白くて皆が読んでくれるか、パスされるかが決まるんだと解説していた。

彼のコンピューターは無事に直ったと喜んでいた。デジタルカメラを接続をして、1時間半かけて、500枚の写真を思い出を語り合い楽しんだ。彼も美しい傑作写真を撮っていて、巡礼を楽しんでいた。

夕食と昨日と同じショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)のフードコートに食べに行き、ブラジル料理(Ò Kilo)の店で食べた。Joaquimは賢くて、自宅から自前のビールを持ち込んでいた。今日も彼の入念なお持て成しに恐縮した。彼自身はお金を節約して、ビールを自分で持って行き、私たちには飲み物とデザートまで、メインディッシュと共に払ってくれた。

日本料理のような繊細さは無くてアバウトでごった煮のように詰め込まれて盛り付けられているが、ブラジル料理の味はよかった。父が鳥を食べられないことを知ると、他のお肉に変えてくれた。

昨日買ったクッキー(Continente Bolachas Maria sem Glúten)は味が良くて、Joaquimの推薦は間違えがなかったと言うと、僕は友に嘘をつかないよと笑い合っていた。ショッピングセンターを出たときは、もう午後11時半を過ぎていたが、それでも赤ちゃんも一年経っていない子供たちが多くいて、日本では考えられない光景だった。親も同じく遅く寝るため、ポルトガル人は割と余り背が高くならないかと思ったほど驚いた。インターネットコーナーは15分1€と高いが繁盛していた。

家に帰り、明日仕事で80キロ先の小さな港町に泊まるので、明日は昼間に出てしまい、もう夜には家に帰ることがなく話せないから、今晩中に鍵を渡しておくよと鍵を貸してくれた。

私たちを信じてくれて、万全なお持て成しにも感動した。彼の家の鍵は頑丈で4回転して、やっと施錠が完了するようにできていて、外にも電子が気があり、何重にもバリアされていた。説明通りに何回か練習して、やっと開閉できるようになった。鍵がなければ入れないし、鍵があっても入れないねと冗談を言うと、ポルトガルはそこまでしないと泥棒が来るからねと大笑いしていた。午前2時位まで今日あったことや見てきたことを絞り出すように思い出しながら、日記を一生懸命書いてから寝た。

Lisboaの街並みを城(Castelo de São Jorge)から臨む

2008年5月31日(土)52日目(Lisboa: Casa de amigo)

Lisboaの広場(Campo de Santa Clara)で開かれていた泥棒市(Feira da Ladra)でポルトガルで出版されたラテン語の美しい古い本を見つけた。古い本の複製が沢山売られていた。美術館(Museu Nacional do Azulejo)では、青タイルを見れて楽しかった。天正遣欧使節が宿泊した教会(Igreja de São Roque)、高台(Campo de Ourique)まで市電に乗り、Lisboa市内の色んな地区を体験できた。

今日は昨日の就寝が遅いため、午前8時半に起きた。Joaquimはすでに外出していたが、思いやりがあり、今日も私たちよりも早く起きて、食事のパンとバターをお手製のオレンジのジャム、マグカップにティーバックも父のコーヒーの粉、ナイフ、スプーン、コンロの上に鍋に水とミルクも火を付けるだけにしてくれており、繊細な心遣いに感動した。彼の猫もテーブルの上ですやすや寝ていた。猫は起き上がるとストレッチしてから、高い所に飛んでいった。朝食のゼリーを食べてから支度をして、午前9時半に出た。デポジットのカードを忘れてしまい取りに戻った。駅に向かうと少し怪しい何かの宣伝か勧誘の人が話しかけて来たので、ポルトガル語が分かりませんと言いさらりと抜けた。

Sete-Rios駅に午前11時近くに着き、Jardín Zoológico駅で一日乗り放題の切符を求めようとすると、券売機が故障しているらしく、窓口には一人しか係員がおらず、何十分も待たされたが、皆が辛抱強く待ち、誰も文句を言う人がおらず、ポルトガルの皆さんの忍耐力に感服した。

今日は鉄道で上の階ではなく、初めて下の階の席に座った。ポルトガルの電車は美しい内装で二段からなり、上下で異なる眺めを楽しむことができた。Sete-Rios駅の前の Campolide駅のホームから、今日は出来なかったが、明日は途中下車して、美しい水道橋をホームから見たいと思った。

駅(Estação Santa Apolónia)から泥棒市(Feira da Ladra)に2、3分ほど歩いた。人に道をたずねると英語で丁寧に教えてくれたが、その後、何か食べ物を下さいと言われて、申し訳ないが、今は持ってないと伝えた。ヨーロッパでも普通は通りの人に道を聞いて、食べ物やチップを要求する人はいないので驚いた。時どき通りには、突然大声で叫んだり、不可解な行動で驚かせる人もいたりした。

1682年に建てられた美しい教会(Igreja de Santa Engrácia)は、今hパンテオン(Panteão Nacional)として使われていて、大きなドームが見えてきた。前の広場(Campo de Santa Clara)には、沢山の人が出ていて、泥棒市(Feira da Ladra)が直ぐに分かった。

既に多くの人が出ていて、すれ違うのも大変なほど活況だった。普通の家にあるガラクタから、日用品、大工道具、コンピュータ、骨董品、コイン、DVD、CD、ビデオなど、何でも売られていて、衣類屋、アフリカの民芸品、靴屋さんとあらゆる種類が並んでいた。メダイを見つけて聞いたが、アルミ製なのに1つ1€、他の所でFátimaのマリア様の小さなガラス製の像が2€と高い値で売られていた。

古本専門店があり、古書を片っ端からチェックして、英語の詩の本やラテン語の歴史書があったが、1786年出版のポルトガル語の聖人伝を選んだ。始めの言い値は10€だったが、値段交渉をして5€で手に入れた。別れ際に教えて頂きたいことがありますと言われ、中国の陶器を見せられて、漢字で書かれた銘文の意味を伝えると喜んでいた。市場には、Joaquimが昨日朝にくれたSegafredo Zanettiのコーヒーカップも何脚か売られていた。青空市に正午に着いたが、2時間もいて、午後2時近くになってしまった。警察官の人が違法コピーのDVDを購入していて苦笑してしまった。

賑わう市場で貴重な経験ができた。父は木陰に座って待っていた。登録をして出店をするシステムであるにもかかわらず、父は免許なしに取引をしていて取り締まられるのを見たと言っていた。

教会(Igreja de Santa Engrácia / Panteão Nacional)を一目見てから、坂を登り、美しい門(Arco Grande de Cima)から両側高い壁に囲まれた険しい道を上がり、1582年に建てられた教会(Igreja de São Vicente de Fora)を通り、宮殿(Palácio de São Vicente)の前(Voz Operário)で市電(Elétricos de Lisboa)に乗り、途中の広場(Largo do Chiado)で降りた。

通り(Rua Garrett)に面した1147年に建てられ1784年に立て直された教会(Basílica de Nossa Senhora dos Mártires)を進み、通り(Calçada do Sacramento)を歩いて、考古学博物館(Museu Arqueológico do Carmo)を先に訪れようと思ったら、本日まで四日間、館内整理期間だった。

そこから、大通り(Rua Nova do Almada, Rua de São Nicolau, Rua do Crucifixo, Rua Áurea)を歩いて広場(Praça do Comércio)に向かった。美術館(Museu Nacional do Azulejo)は近くにあるようだが、バスが直接行かないため、中央に出ることにした。

先ず広場(Praça de D. Pedro IV)までバスに乗り、更に広場(Praça do Chile)までバスに乗った。途中に見えた1579年に建てられた美しい教会(Igreja de Nossa Senhora dos Anjos)に後で訪れることにした。午後3時でおやつの時間になったので、広場(Praça do Chile)のバス停の直ぐそばにパン屋さんが2軒(もう一軒はPastelaria Estrela de Paris)あり、(1866年に創業した老舗(274 Rua do Comércio)の支店(129 Rua Morais Soares)として営業していた)パン屋さん(Folar de Chaves)でベーコンやサラダの肉がふんだんに入ったパンを量り売りしてもらい食べた。

博物館の近くまで行くバスを探したが、地図がいい加減なため、バス停も分からず、通りの方向を教えられて、大通り(Rua Morais Soares, Avenida Afonso III)を通るバスに乗り、近くまで来れたが、住宅地しか無くてかなりてこずり、何人かの人にたずねたが、適当にこっちじゃないかなと答えたりするため、教えてくれるのはありがたいが、知らないなら、知らないと言ってくれれば良いことが多いことを感じた。相手の話しぶりで途中から信用できそうか見分けられるようになった。最後に警察の車が通りかかり、道をたずねると、更に先を左に曲がると丁寧に教えてくれて、30分ほど住宅地の中をうろうろして、やっと美術館(Museu Nacional do Azulejo)にたどり着けた。

美術館は元は邸宅だった美しい建物だった。入場券を買うとき、前のアメリカ人が英語で話しかけると、係員がものすごく感じ悪く接していて、パンフレットを投げ渡していて嫌な予感がしたが、次に私がスペイン語で話しかけるとものすごく感じ良く接してくれて、笑顔で丁重に手を添えてポルトガル語と英語のパンフレットを一部ずつくれた。やはり、ポルトガル語とスペイン語は同じロマンス語でラテン語から派生した兄弟のような言語であるからよく似ていて、お互いに通じることを感じた。

美術館の中は二階まで中庭もあり、美しい青タイルの教会も美しかった。現代の最高の技術でも、日本・中国・朝鮮の技術には敵わず、何だか物足りない感じがして、細部へのこだわりなど、繊細さが欠けているため、遠くから見るときれいでも、近づくと雑だったけれども、聖家族が表現されていたセットは美しかった。中庭の展示に官庁や幾何学の文様、舞踏のレッスンの様子など面白い題材があった。博物館は建物が素晴らしく、タイルが最も自然で美しかった。青タイルはある部分だけを切り取るのではなく、建物の中にあるからこそ、遠くから美しく見えて、意味があることを実感した。

博物館を出てから、前庭で少し休憩して、目の前のバス停(Igreja Madre Deus)から広場(Praça do Chile)に戻り、乗り換えて、先ほど訪れたかった教会(Igreja de Nossa Senhora dos Anjos)に行くと、外観が美しく、通りの雰囲気と合っていた。近くの市電の停留所