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サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼記

写真はブルゴス(Burgos)を過ぎて、ラベ・デ・ラス・カルサダス(Rabé de las Calzadas)からホルニロス・デル・カミーノ(Hornillos del Camino)に到る丘(Cuesta de Matamulos)を下るところです。Google

皆さま、いつも楽しくお付き合い下さり、ありがとうございます。誕生日のお祝いのお言葉かけを賜り、心より感謝申し上げます。本日は誕生日を迎えました。丁度10年前の誕生日は南フランスのピレーネ山麓のルルド(Lourdes)を父と旅行していて回想しておりました。

フランスのサン=ジャン=ピエ=ド=ポル (Saint-Jean-Pied-de-Port)に到り、ピレーネ山脈を登り、スペインへ国境を超え、「フランスの巡礼路(El Camino Francés)」をサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)と大西洋を望むフィニステール(Finisterre)とムヒア(Muxía)まで約一か月間、1000km近く、歩き続けました。

ピレーネ山中では雹・雨・霰・突風・晴・曇・雷・雪とありとあらゆる天気を体験して国境を越え、パンプローナ(Pamplona)・ブルゴス(Burgos)・レオン(León)・アストルガ (Astorga)を散策したり、グラニョン(Grañón)で中世教会の祭壇の前で一晩を過ごしたり、ガリシア地方は湿り気が多く、石造りのケルト風建物を見たり、日曜のミサのため、最後は夜通し歩き、サンティアゴ・デ・コンポステーラでは巡礼仲間が聖書を朗読する係りになり、特別席に入れてもらい大司教から直に聖体拝領を受け、振り香炉(botafumeiro)が目の前を通り過ぎ圧巻でした。フィニステーラに近づくと、突然大西洋が開けてきて感無量でした。

ムヒア(Muxía)の美しい海岸の小さな聖堂の前で巡礼を終えて戻り、ヴィーゴ(Vigo)からポルトガルに鉄道で旅して、ポルト(Porto)・ブラガ(Braga)・アヴェイロ(Aveiro)など美しい青タイル張りの街を歩き、コインブラ(Coimbra)では旧市街や大学を訪れ、ナザレ(Nazaré)の丘の上から美しい海岸や漁を眺めたり、アルコバサ(Alcobaça)の大聖堂でラテン語の碑文を楽しんだり、オヴィドス(Óbidos)の城壁に囲まれた箱庭のような旧市街を探検したり、ファティマ(Fátima)で聖母が出現したとされる樫の木を見たり、ドメニコ会の修道女と一日中お話したり、リスボン(Lisboa)で巡礼仲間と再会して家に泊めてもらいました。

彼は新聞記者をしていて巡礼体験記を記事にしていたため、私たちがポルトガルの新聞に載りました。リスボンの下町を何日も歩いたりバスで動きました。シントラ(Sintra)の宮殿やロカ岬(Cabo da Roca)から大西洋を一望したり、エボラ(Évora)でローマ神殿や骸骨で作られた礼拝堂を見たり、ファーロ(Faro)を経由して、ポルトガルの国境に面したスペインの町アヤモンテ(Ayamonte)からセビリア(Sevilla)までバスに乗りました。アンダルシアにはモスクを改築した教会など、レコンキスタの遺産を体験して、最南端の町タリファ(Tarifa)からアルヘシラス(Algeciras)に到り、海の向こうにアフリカ大陸が見えて渡ることにしました。

モロッコのタンジェ(طنجة Tanger)まで船でジブラルタル海峡を渡りました。大旅行家イブン=バットゥータが生まれた町で狭い路地が張り巡らされた旧市街を探検しました。美しいモスクや路地裏の生活を触れて、イスラム文化圏にきた実感が湧きました。古い城壁の門を抜けると大西洋と地中海が一望できました。アフリカ大陸で一泊することにして、翌日に船でイベリア半島に戻り、アルヘシラス(Algeciras)から鉄道でロンダ(Ronda)に向かい、イスラム時代の建築や深い渓谷で橋を見ました。グラナダ(Granada)でアルハンブラ宮殿(Alhambra)や下町(Albaicín)を巡り、マラガ(Málaga)でピカソの生家などを訪れました。

コルドバ(Córdoba)では八年ぶりにメスキータ(Mesquita)を訪れ、ローマ神殿やゴシック建築も多く、アルマグロ(Almagro)でスペイン最古の劇場を見たり、トレド(Toledo)でローマ遺跡、シナゴーグ、モスク跡を見て、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒が共存して、色んな文化や人種が住んできたことを実感して、マドリッド(Madrid)でプラド美術館や考古博物館、スペイン広場近くのスカルラッティが亡くなったレガニトス通り(Calle de Leganitos)を見たり、セゴビア(Segovia)で小川や森林に囲まれた素敵な城(Alcázar)やローマ水道橋を見て、アビラ(Ávila)で美しい城壁や大テレサの部屋や美しい夕日を見ました。

エル・エスコリアル(El Escolial)の修道院は石造りでがっしりとして、アルカラ・デ・エラネス(Alcalá de Henares)ではセルバンテスの生家を訪れ、アランフェス(Aranjuez)ではスカルラッティやマリア・バルバラが過ごした美しい宮殿や庭園を散策して、クエンカ(Cuenca)では断崖絶壁の宙吊りの家を見たり、夕陽に染まる旧市街を楽しみ、修道院から聖歌が聞こえてきました。バレンシア(València)ではローマ遺跡、ペニスコラ(Peñiscola)で法王の居城、タラゴナ(Tarragona)でローマ神殿跡を見て、カタルーニャのジローナ(Girona)では大聖堂の宝物殿で天地創造のタペストリーや中世の聖母子像やパピルス文書を見ました。

プボル(Púbol)のガラ=ダリ城でダリがアインシュタインの舌に時計を落書きしていたり、フィゲラス(Figueres)ではダリの美術館や生家、カダケス(Cadaqués)から丘を越え、ポルト・リガト(Port Lligat)のダリの別荘を訪れて、彼の絵に出てくる風景を楽しみ、地中海料理を食べました。リポイ(Ripoll)で美しいロマネスク様式の門と教会を見て、ビック(Vic)の司教博物館でたくさんの宗教美術を見て、ローマ神殿も訪れました。バルセロナ(Barcelona)ではガウディが設計したサグラダ・ファミリア教会やグエル公園、旧市街の大聖堂、モン・ジュイク(Montjuïc)の丘から都市を一望して、海岸で地中海の水平線を楽しみました。

私は無宗教でして、カトリック教徒でもありませんが、文化を体験するには、歩くしないですから、巡礼を敢行しました。中世哲学者(Philosophus)や吟遊詩人(Troubadour)の目から見ることができ、彼らの気持ちを肌で感じられた気がします。サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂にある《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》(1173年)には第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》や補巻(Appendix)の第2S巻に有名な多声音楽(organum)があり、三声オルガヌムの行列歌(Conductus)〈喜ぼう、カトリック教徒よ(Congaudeant catholici)〉で巡礼を達成した喜びが歌われていますね。

中世の欧州全土に張り巡らされたサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路により、中世ラテン語を公用語として哲学も音楽など情報のやり取りをしていました。「12世紀ルネサンス」といわれる文化への目覚めが、アンダルシアのイスラム文化における教育機関(مَدْرَسَة madrasa‎)に触発され、中世大学(Studium generale)がイタリア、フランス、イングランド、スペイン、ポルトガル、ドイツ語圏に名物教授を中心に学生が集結して設立されまして、スコラ学的(scholasticus)な研究方法でアリストテレスやイブン=ルシュドの哲学を中心に発展しました。「賢人(sophicus)」とは彼らを指しており、思考様式や発想過程が重視されました。

旅をすると思いもよらない経験をたくさんでき、思いや考えのスケールが大きくなることを感じます。私たちは何も計画することなく、次に行く場所を即決で決めて進んでゆきました。人類が技術や発想を縦に連続継承を続け、横に交友関係を拡げ、創造活動などにより、突然変異を繰り返した知的活動の総体を文化と考えており、好奇心と探求心のみに突き動かされ、先ずは色んなことに幅広く触れ、気づきを繰り返し、奥深く進みます。どんなことにでも、なぜそうなるのか、何がそうさせているか、背景にある基本の発想などを洞察して、常に新しいものに触れながら、洞察と実践をしてゆき、人間の魅力が高まると考えるからです。

今後とも地球の人類の文化をあらゆる観点から探求してまいります。文化の面白さは、ある時代やある地域の社会背景や人間関係を如実に反映しており、そうした空気を味わいながら、現代には廃れた興味深い発想などをアイディアとして取り入れてゆき、クリエイティブに考える種となり、チャーミングなユーモアを伴い、エキサイティングに創りだす事ができ、自由自在で融通無碍にアイディアの貸し借りをしたり、思考様式や発想過程に触れながら、人間らしく生きてゆけると確信しております。今後ともよろしくご教示のほどお願い申し上げます。皆さまに感謝を致しますと共にお元気にお過ごし下さりますように祈念申し上げます。

ヨーロッパ全土に張り巡らされたサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路(Peregrinatio Compostellana)

2021年7月28日

巡礼記や旅行記に対して細かい校正や註釈を加えました。個人の体験を昇華させるためには、詳しく記録をつけておき、旅の全てをまた読者が追体験できるほど、精密に考証して、事実を淡々と書き連ねてゆくスタイルで大げさな表現など誇張を一切交えることなく、その時にその場で見たり感じたことをそのままの言葉で表すことが大切と考えております。一つ一つのどんな小さな要素は、それぞれが重要な意義を帯びており、それらが結合して、その人物、その時代、その地方、その社会の人生観や歴史観が形成されるからです。一つのどんなにささいな事からでも、どれほど強く感じて、どれほど深められるかが大切ではないかと考えております。長く生きて、多く触れて、一つ一つと関わり、感じることを通じてこそ、それらのあらゆる種類の体験から、知や心の糧とすることができます。

人間の社会はお互いに影響しあい、関係しあいながら生きており、その中で文化や歴史が生まれてきます。それらを丹念にたどることにより、重層的に多角的に人間の社会や文化を捉えることができます。特に中世は極めて重要な時代であり、それ以降のもちろん現代の社会や人生、学問や芸術の在り方や考え方を根底から規定していますから、中世の人たちの思いや考えに触れることは、遠い過去の人たちではなく、今ここにいる自分たちの存在や発想と直結していることを感じました。

例えば、都や市の構造、町や村の生活など、あらゆる尺度でみたとき、人間の思いや考えなどが営みとして表れてきて、それらが積み重なり、われわれまで受け継がれてきています。都市の形成においても、水利や地利がある場所に作られた村落から始まり、中心地が形成され、城郭をどんどん外へ拡張して、郊外に新しく生まれた小さな街を吸収して、大都市に成長していました。

そうした人間の活動や生活を中心として、定点的に観察することに意義を感じました。そのため通過した市や町や村や山や川など、全ての地名の語源を注記しまして、土地の歴史を調べてまいりまして、初めてその地に住んだ人たちが、どんな民族で言語を話していたか、どんな印象を土地に感じていたかなどが分かり、実感がより深まりました。 また、教会や街道、建築や芸術などについて、土地の言い伝えについて、史書に書き記されたことについても、とても面白い知見をもたらしてくれます。私はそのときに目で見たことや耳で聞いたことを映像と音声のようにそのまま再現する思い出しますから、そうした細かいことでも一つ一つ書き加えて、宿泊した場所や立ち寄った小さなカフェや名前に至るまで、記録を残しておくことにしました。(今はGoogle MapsとGoogle Street Viewで地図と連動して現地の映像を見れることができますから、それらでご検索を下されば、また、古くは2008年頃からデータがありますから、実際に書かれている頃の様子を追体験することができます。)

学問の発達においても、モロッコのフェズ(فاس Fās)で859年にマドラサ(مَدْرَسَة madrasa)が設立され、文化的に交流がありましたアンダルシアやシチリアからヨーロッパにも刺激が伝わり、中世に大学(universitas)が組織され、イスラム勢力と対峙したり融和しながら、様々な刺激や交流により、関係を保ち続けながら、影響を及ぼし合いながら、それぞれの地域で独自に発展してくると、また、それらをまとめる方向に進み、またそれから独自に発展して、付いたり離れたりしながら、全体として緩やかにネットワークが形成されてゆき、あるときに「文化の相転移」を起こして、「精神革命」として後の人に捉えられる変革が起きました。中世においては巡礼路や交易路は、単なる宗教や商業ではなく、今でいうとてつもなく強固な社会インフラであることが感じられます。

巡礼(peregrinus, حَجّ ḥajj)は、キリスト教徒やイスラム教徒の務めとして歩こうとする宗教的動機や自分から聖地へ歩こうとする自発的動機だけではなく、通信や連絡の手段でもありました。巡礼はただ前に進んで歩くという繰り返しの中で心の浄化や人生における内省により、日常の生活や社会の活動を深めてゆこうという、社会的動機が存在すると考えられます。中世に生きた人たちの思いや考えは実際に歩いてこそ分かると感じられました。巡礼に人を駆り立てるのは、俗から聖へ、日常から神聖な空間へというような、非日常の体験や異次元への旅立ちではなく、むしろ、その逆の日常の深まり、即ち、思いや考えと向き合い掘り下げることになることになると確信しております。むしろ、普段暮らしている場所から離れたところから、自らの心が見えてくると考えております。

巡礼路や交易路は、時に思いもよらない出会い、人との関わり合いを生み出してきました。また、人が旅をする理由は、そこに道があるから、旅がおもしろいからという理由ではなく、昔の人は生きるか死ぬかの中で生きてきた中、実際に交易をして、先ずは具体的な物品の交換や輸送から始まり、次に知識や技術の交換や伝搬を起こして、更に宗教や思想など、段々と具体的な事物から、抽象的な概念まで、人間の移動を介して、ユーラシア大陸全体でつながりを持ちながら、偶発の連続が文化や社会の形成に寄与してきたことが分かります。人類は自らの歴史を振り返ったとき、この人物がこの時代にこの場所でこの理由でこの事件が起きたと認識をして、理由を説明したがりますが、実は偶然性が事件を誘発していることが多く、限定的な理由で説明することは困難であると感じております。ただ、量子力学が確率論により法則性を記述するように、撞着語法になりますが、偶然性にも法則性がある程度存在していることも確かです。そうした人間の歴史や文化の発生と継承と発展と変遷を考えてゆく捉えてゆく感じてゆく上でも旅をすることは極めて大切なことだと思います。

巡礼や旅行、商業や学芸は、人類の文明や社会を強固にしてきたことをひしひしと感じております。古代から「絹の道」と呼ばれるユーラシア大陸を東西に結んだ交易路が開かれ、特にソグド系やテュルク系の遊牧民が中継ぎをして交易をして、東西は連絡をしました。前漢の張騫や後漢の甘英は西域を訪れて、記録を残しました。ユーラシア大陸の東西をものすごい数の商人や使節が行き来をしましたが、著書をなして記録に残した人たちが、歴史に名前を留めました。例えば、629-45年に玄奘(602-664)の巡礼を弁機が筆記して《大唐西域記》(646年)を著しましたり、1405-33年に鄭和(1371-1434)の航海を馬歓は編纂して《瀛涯勝覧》(1451年)を著しました。

中世の西欧から元朝の中国に達した人たち、1245-47年にヴェネツィア共和国のプラノ・カルピニ(Iohannes de Plano Carpini, 1182-1252)が《モンゴルの歴史(Ystoria Mongalorum)》を著しましたり、1253-54年にフランドル伯領のウィリアム・ルブルック(Guillaume de Rubrouck, c.1220-1293)が《旅行記(Itinerarium)》を著しましたり、1271-95年にヴェネツィア共和国のマルコ・ポーロ(Marco Polo, 1254-1324)の口述をルスティケロ・ダ・ピサ(Rustichello da Pisa)が筆記して《世界の驚嘆に関する本(Livres des Merveilles du Monde)》(1299年)を著しましたり、1289-1328年にモンテコルヴィーノのジョヴァンニ(Giovanni di Montecorvino, 1247-1328)は大都(北京)に達して《書簡(Annales minorum)》(1305-06年)を著しましたり、1296-1329年にポルデノーネのオドリコ(Odorico Mattiussi, 1286-1331)は《オリエント地方の記述(Descriptio orientalium partium)》(1330年)を著しましたり、1338-53年にフィレンツェ共和国のジョヴァンニ・デ・マリニョーリ(Giovanni de' Marignolli, c.1290-1357)が《ボヘミア年代記(Cronica Boemorum)》(1357年)を著しました。13-14世紀には東西を自由に行き来して、特にイスラム、ジェノヴァ、ヴェネツィア、ビザンツの商人たちが、陸と海の交易路のネットワークを確立していました(現在は高田英樹編訳《原典 中世ヨーロッパ東方記》(名古屋大学出版会,2019年)で読むことができます)。

1275-1288年にラッバーン・バール・サウマ(ܪܒܢ ܒܪ ܨܘܡܐ Rabban Bar Ṣawma, c. 1220-1294)の旅行記は《マール・ヤバラーハー3世の歴史(ܬܫܥܝܬܐ ܕܡܪܥ ܝܗܒܐܠܗܐ Tashiʻta de-mar Yahvalaha)》(1317年)に大部分が引用されて残されました。1325-54年にイブン・バットゥータ(أبو عبد الله محمد بن بطوطة‎ Abū ʿAbdallāh Muḥammad Ibn Baṭṭūṭa, 1304-1369)は旅立ち、イブン・ジュザイイ(محمد بن محمد بن أحمد بن عبد الله بن يحيى بن يوسف بن عبد الرحمن بن جزي الكلبي الغرناطي Muḥammad ibn Muḥammad ibn Aḥmad ibn ʿAbd Allāh ibn Yaḥya ibn Yūsuf ibn ʿAbd ar-Raḥmān ibn Dschuzayy al-Kalbī al-Garnāṭī)が口述筆記をして、《色んな土地の珍しきことや旅の驚異を観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار Tuḥfat al-naẓār fī ġarāʾib al-ʾamṣār wa-ʿaǧāʾib al-ʾasfār)》を著しました。前者はネストリウス派のキリスト教会、後者はイスラム商人のネットワークが、極めて広範囲にわたり、網目のように張り巡らされていたことを伝えており、特に物品輸送や為替送金のシステムなど、商業のインフラが信頼の上に築き上げられていたことを今に伝えてくれます(佐口透《モンゴル帝国と西洋:東西文明の交流4》(平凡社,1970年)やイブン・バットゥータ述、イブン・ジュザイイ編、家島彦一訳注《大旅行記》(東洋文庫,1996-2002年)で読むことができます)。

Charles Defrémery & Beniamino Raffaello Sanguinetti (1853-58). Voyages d'Ibn Batoutah, Paris Imprimerie Impériale.
Paul Bedjan (1895). Histoire de Mar Jab-Alaha, patriarche et de Raban Sauma, Leipzig: Otto Harrassowitz.

中世にはヨーロッパ全土で驚異すべき速度でロマネスク様式やゴシック様式にしても、トロバドゥールやミンネザンガーにしても、文化が遠くに伝わり、共有されてきたことが分かります。また、ユーラシア大陸全体としても、西欧社会と東洋社会において、西の果てのイベリア半島やブリテン諸島から、東の果ての中国や日本まで、連鎖的に古代から中世へと社会システムが変容したのは、イスラムの誕生と東西の知的交流が根底において関係しています。特に中世においては、イスラム教がコスモポリタンなネットワークを古代のオリエント、バビロニア、エジプト、ペルシア、ギリシア、ローマ、ソグド、インド、モンゴル、中国の西域に至るまで、様々な人種、様々な宗教、様々な社会、様々な思考、様々な芸術、様々な社会、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒、ゾロアスター教徒、マニ教徒、バラモン教徒、仏教徒などを取り込み、ウマイヤ朝やアッバース朝を作り上げて、交易、巡礼、学芸、文化の交流をしたことが伺われます。それらがイスラム勢力と地を接していたイベリア半島でキリスト教徒たちに受け継がれてきたことが分かります。われわれは文明社会と称する一連の生活環境や社会制度を当たり前のように受け入れていますが、実はそれを下支えとしている知的な活動は、時代や地域や宗教や社会を越えて、人類の歴史の上で間断なく続けられていること自体が奇跡です。そうした様々な時代の様々な工夫の蓄積として、日常生活や現代社会があります。

人間の歴史や文化の発生と変遷と継承は、大きな事件や英雄ではなく、小さな日常や生活の蓄積の総体が大きな出来事に代表されて表現されることが現実ですから、どんなに新しいその後に潮流となる思考様式やシステムも一人や数人から始まり、次第に賛同する人が増えて、少しずつ力を得て、社会を席巻してゆきます。例えば、ロマネスク様式(romanesque、古典学者(William Gunn, 1750-1841)の命名でローマ風romanescoの英訳、考古学者(Charles-Alexis-Adrien Duhérissier de Gerville, 1769-1853)が使用したフランス語romaneに相当)も、915-27年に建てられたフランス中部のクリュニー修道院(Abbatia Cluniacensis)など、いくつかの修道会のコネクション、巡礼路や交易路を通じて、ヨーロッパ全土に広がり、ゴシック様式(同時代人はopus Francigenum, opus modernumと呼称)も、1131-44年に建てられたイル=ド=フランスのサン=ドニの聖堂(Basilica cathedralis Sancti Dionysii)から、ヨーロッパのあらゆる都市に石工が派遣されて波及しました。例えば、ゴシック建築では飛梁(arc boutant)により、建物が垂直に立ち上がり高層化を可能にしました。

ヨーロッパの建築史において、ロマネスク様式以前は資料が少ないですが、西ゴート王国時代の教会建築は、ガリシア地方にある小さな単廊式の聖堂などに後継されて影響がみられることを実際に見て感じてきたり、東ローマ帝国のビザンツ様式などのバシリカの基礎部分も発掘により解明されてきており、考古学的、歴史学的な手法は、実地(現物)と記録(文献)の両方が補完して事実を詳細に理解できます。特に14世紀以前は、地球規模(ユーラシア大陸の東西)で人的交流(交易や移住)が活発に行われており、欧州全体が一体として緊密に関係しあい、現代の社会につながる制度や思考の根底を規定した時代であることが、特に都市の構造や建築、美術や著作など、当時の状況を伝える資料により如実に分かります。過去の人間の活動とその関係性や影響力を理解するには、同時代の資料で同時代の思考で同時代の人間になり捉えてゆくことに越したことはないです。

私の頭の中で起きていることを記憶や思考の過程を辿りながら反芻して書き出してみると、あらゆる言語、シュメール語、フルリ語、ウラルトゥ語、カッシート語、エジプト語、コプト語、アッカド語、エブラ語、フェニキア語、アラム語、ウガリット語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、ゲエズ語、アムハラ語、サイハド語、ソマリ語、トゥアレグ語、ハウサ語、ヒッタイト語、ルウィ語、リュキア語、リュディア語、カリア語、フリュギア語、サンスクリット、パーリ語、アヴェスタ語、古ペルシア語、バクトリア語、パフラヴィー語、古典ギリシア語、ミケーネ語、オスク語、ラテン語、イタリア語、モザラベ語、カスティーリャ語、ガリシア語、ポルトガル語、オック語、カタルーニャ語、フランス語、イベロ=ケルト語、ゴール語、古アイルランド語、古ウェールズ語、ゴート語、古ノルド語、アイスランド語、古英語、古フリジア語、古ザクセン語、古フランク語、古高ドイツ語、古スラヴ語、ロシア語、チェコ語、ポーランド語、古プロシア語、リトアニア語、ラトビア語、アルメニア語、アルバニア語、トカラ語、ミノア語、ラエティア語、エトルリア語、イベリア語、アクイタニア語、バスク語、グルジア語、スヴァン語、チェチェン語、アヴァル語、チェルケス語、アブハズ語、ハンガリー語、フィンランド語、古テュルク語 、古ウイグル語、タタール語、クマン語、チャガタイ語、オスマン語、モンゴル語、女真語、満州語、エヴェンキ語、ベトナム語、ムオン語、モン語、クメール語、タイ語、カダイ語、ミャオ語、ヤオ語、マレー語、ジャワ語、チャム語、バリ語、バタク語、マカッサル語、ブギス語、タガログ語、アタヤル語、パイワン語、ファボラン語、シラヤ語、ルカイ語、ツォウ語、タミル語、マラヤーラム語、カンナダ語、テルグ語、チベット語、ビルマ語、白語、彝語、ナシ語、西夏語、チアン語、トゥチャ語、タマン語、レプチャ語 、ネワール語、キランティ語、リンブー語、チェパン語、タニ語、メイテイ語、ボド語、ガロ語、ムル語、コニャック語、ピュー語、ジンポー語、クキ語、チン語、ミゾ語、ナガ語、アヌン語、タンクル語、カレン語、上古漢語、中古漢語、現代漢語(官話、晋語、呉語、贛語、湘語、閩語、客語、粤語)、朝鮮語、日本語、琉球語など、様々な言語で得た情報をメタ言語に変換して、論理や思考のパターンの構造全体を映像で蓄積しておくため、言語の特性に依存しない体験や思考をすることができます。

人類は好奇心や探究心から、ユニークな人間性が生まれます。他社や事物と深く関わり合うことにより、ダイナミックなネットワークを作り出して、自らの力を合わせて、自らの手で生み出してきましたから、音楽史、社会史、制度史、法制史、建築史、文学史、美術史、経済史、哲学史、精神史、学術史、出版史などの観点から、言語学、地名学、歴史学、考古学などにより、分析をすることにより、人類の歴史、社会、文化、学芸などの営みの流れを縦方向の時間軸にも、横方向の空間軸にも、包括的、横断的、相対的、絶対的、局所的、専門的に見識を拡げてゆけると考えております。また、最後の目的として、著作、建築、美術など作品の背景にある人間の考えや思いを読み解けます。

以上から、自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の足であるいたこと、自分の頭で考えたことなど、些細なことであるにしても記録を残すことは、後世に語り継がれることの第一前提であることが分かります。そして、単に個人的な趣味や興味ではなく、普遍的な価値や意義を具備する内容が記録として受け継がれてきたことも分かります。KF-Scholaでは、究極において、地球上における人類の歴史や文化、社会や言語を網目のように張り巡らされたネットワーク、人間のつながり、社会のつながり、農村のつながり、都市のつながり、地域のつながり、時代のつながり、交易のつながり、思考のつながりなど、人類の関係と影響を綿密に考察される総体として、特異で重要な事件だけを取り上げることをはるかに超えた現実に即した実態を知りたいという、好奇心や探究心により、人類のユニークな系譜を探究しようとするプロジェクトですから、巡礼や旅行は、人間のライフワークとして、極めて重要な位置を占めており、人生において極めて強い指針となると考えております。

Liber Sancti Jacobi [Santiago de Compostela, Archivo-Biblioteca de la Catedral de Santiago de Compostela, Codex Calixtinus, 4r]

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂所蔵《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》(1173年)

第1章〈使徒ヤコブの道について(De viis sancti Jacobi apostoli)〉

Quatuor viae sunt, quae ad sanctum Jacobum tendentes, in unum, ad Pontem Reginae, in oris Hispaniae coadunantur: alia per sanctum Aegidium et Montem Pessulanum et Tolosam et Portus Asperi tendit; alia per sanctam Mariam Podii el sanctam Fidem de Conquis et sanclum Petrum de Moyssaco incedit; alia per sanctam Mariam Magdalenam Viziliaci et sanctum Leonardum Lemovicensem et urbem Petragoricensem pergit; alia per sanctum Martinum Turonensem et sanctum Hilarium Piclavensem et sanctum Joannem Angeliacensem, et sanctum Putropium Sanctonensem et urbem Burdegalensem vadit. Illa quae per Sanctam Fidem, et alia quae per sanctum Leonardum, et alia quae per sanctum Marlinum tendit, ad Hostavallam coadunantur; et, transito portu Ciserae, ad Pontem Reginae sociantur viae quae per portus Asperi transit. Et una via exinde usque ad sanctum Jacobum efficitur.

四つの道がSantiago de Compostelaに至り、スペインのPuente la Reinaの近くで一つになる。一つ目はSaint-Gilles-du-Gard、Montpellier、Toulouse、Somport峠を通る。二つ目はLe Puy-Notre-Dame、Sainte-Foy de Conques、Saint-Pierre de Moissac、三つ目はSainte-Marie-Madeleine de Vézelay、Saint-Leonard de Limoges、Périgordを通る。四つ目はSaint-Martin de Tours、Saint-Pierre de Poitiers、Saint-Jean-d'Angély、Saint-Eutrope de Saintes、Bordeauxを通る。Saint-Foyの道、Saint-Leonardの道、Saint-Martinの道はOstabatの近くで合わさり、Cise峠(Ibañeta峠)を越えて、Puente la Reinaの近くでSomport峠を越えた道と合わさり、Santiago de Compostelaまで一つの道になる。

第2章〈聖ヤコブの道の路程について(De dietis itineris sancti Jacobi)〉

A portibus Asperi usque ad Pontem Reginae, tres paucae habentur dietse. Prima est a Borcia, quae est villa in pede montis Asperi, sitaadversus Gasconiam, usque ad Jaccam; secunda est a Jacca usque ad montem Reellum; tertia est a Monte Reello usque ad Pontem Reginae. A portibus vero Cisereis usque ad sanctum Jacobuni tredecim dietoe habentur. Prima est a villa sancti Michaelis, quae est in pede portuum Ciserae, versus scilicet Gasconiam, usque ad Biscaretum: et ipsa est parva. Secunda est a Biscareto usque ad Pampiloniam: et ipsa est pauca. Tertia est a Pampilonia urbe usque ad Stellam. Quarta est a Stella usque ad Nageram urbem, scilicet equitibus. Quinta est a Nagera usque ad urbem quae dicitur Burgas, similiter equitibus. Sexta est a Burgis usque ad Frumestam. Septima a Frumesta usque ad sanctum Facundum est. Octava est a sancto Facundo usque ad urbem Legionem. Nona est a Legione usque ad Raphanellum. Decima est a Raphanello usque ad Villamfrancam, scilicet in bucca Valhscarceris, transitis portibus montis Iraci. Undecima est a Villafranca usque ad Triacastellam, transitis portibus montis Februarii. Duodecima est a Triacaslella usque ad Palatium. Terdecima vero est a Palatio usque ad sanctum Jacobum: et ipsa modica est.

Somport峠からPuente la Reinaまで三日弱である。一日目はSomport峠の麓のGascogneにある町BorceからJaca、二日目はJacaからMontreal、三日目はMontrealからPuente la Reinaである。Cisa峠(Ibañeta峠)まで十三日である。一日目はCise峠(Ibañeta峠)の麓のGascogneにある町Saint-Michele-de-Cice (Saint- Jean-Pied-de-Port)からViscarret、二日目はViscarretからPamplonaまでは短くて、三日目はPamplonaからEstella、四日目はEstellaからNájeraの町まで、それは馬で行くときであり、五日目はNájeraからBurgosと呼ばれる町まで同じく馬で行くときであり、六日目はBurgosからFromista、七日目はFromistaからSahagún、八日目はSahagúnからLeónの町、九日目はLeónからRabanal del Camino、十日目はRabanal del CaminoからIrago峠を越え、Valcarce渓谷の入り口に当たるVillafranca del Bierzo、十一日目はVillafranca del BierzoからCebreiro峠を越え、Triacastela、十二日目はTriacastelaからPalas de Rei、十三日目はPalas de ReiからSantiago de Compostelaまで比較的短い。

第3章〈聖ヤコブの路程にある村々の名前について(De nominibus villarum sancti Jacobi itineris)〉(Papa Callixtus II > Pape Calixte II, c.1065-1124)

A portibus Asperi usque ad Pontem Reginae, hae villae in via Jacobitana habentur. Primitus est in pede montis, versus Gasconiam, Borcia; inde transito montis cacumine est hospitalis sanctae Christinae; inde Canfrancus; inde Jacca; inde Osturiz; inde Thermas, ubi regales balnei jugiter calidi habentur; inde Mons Reellus; inde Pons Reginae constat. A portibus vero Cisereis in beati Jacobi itinere usque ad eius basilicam Gallaecianam hae villae majores habentur. Primitus in pede eiusdem montis Ciserei, versus scilicet Gasconiam, est villa sancti Michaelis; deinde transito cacumine eiusdem montis reperitur hospitale Rotolandi; deinde villa Runcievallis; deinde reperitur Biscarellus; inde Resogna; inde urbs Pampilonia; inde Pons Reginse. Inde Stella, quae pane bono, et optimo vino, carne et piscibus fertilis est, cunctisque felicitatibus plena. Inde est Arcus; inde Grugnus; inde Villarubea; inde urbs Nagera; inde sanctus Dominicus; inde Radicellas; inde Belfuratus; inde Francavilla; inde nemus Oquae; inde Altaporca; inde urbs Burgas. Inde Alterdalia; inde Furnellos; inde Castrasorecia; inde pons Fiteriae; inde Frumesta; inde Carrionus, quae est villa habilis et optima, pane et vino carne et omni fertilitate felix. Inde est sanctus Facundus, omnibus fertilitatibus affluens, ubi est pratum, ubi haste fulgurantes victorum pugnatorum ad Domini laudem, infixae olim, fronduisse referuntur; inde est Manxilla; inde Legio, urbs regalis et curialis, cunctisque felicitatibus plena. Inde est Orbega; inde urbs Osturga; inde Raphanellus qui Captivus cognominatus est; inde portus montis Iraci; inde Sicca Molina; inde Ponsferratus; inde Carcavellus; inde Villafranca de bucca Valliscarceris. Inde castrum Sarracenicum; inde Villaus; inde portus montis Cebruarii inde hospitale in cacumine eiusdem montis; inde Linar de Rege; inde Triacastella, in pede scilicet eiusdem montis in Gallaecia, ubi peregrini accipiunt petram et secum deferunt usque ad Castaniollam ad faciendam calcem ad opus basilicae Apostolicae; inde est villa sancti Michaelis; inde Barbadellus; inde pons Mineae; inde Sala Reginae; inde Palatium Regis. Inde campus Levurarius; inde sanctus Jacobus de Boento; inde Castaniolla; inde Villanova; inde Ferreras; inde COMPOSTELLA apostolica, urbs excellentissima, cunctis deliciis plenissima, corporale talentum beati Jacobi habens in custodia; unde felicior et excelsior cunctis Hispaniae urbibus est approbata. Idcirco has villas et praefatas dietas praescriptione restrinxi pro exceptione, ut peregrini ad sanctum Jacobum proficiscentes expensas suo itineri necessarias sibi, haec audientes, praemeditari studeant.

Somport峠からPuente la Reinaまでのヤコブの道にはこれらの村々がある。第一にGascogneの方の麓のBorce、ここから山の頂を越えるとSainte-Christine救護所があり、Canfranc、Jaca、温泉がいつも湧いているTiermas、Montreal、Puente la Reinaに至る。Cise峠(Ibañeta峠)のGascogneの方の麓にある町Saint-Michele-de-Cice (Saint- Jean-Pied-de-Port)、山の頂を超えるとRolandの救護所があり、Roncesvalles渓谷に至る。また、Viscarret、Larrasoaña、Pamplonaの町、また、Puente la Reina、そして美味しいパンと最高の葡萄酒、肉と魚、あらゆる種類の幸で満たされているEstella、それからLos Arcos、Logroño、Villaroja (Navarrete)、Nájeraの町、Santo Domingo de la Calzada、Redecilla、Belorado、またVillafranca Montes de Oca、Atapuerca、Burgosの町、Tardajos、Hornillos del Camino、Castrojeriz、またPuente de Itero、Frómista、更にパン、葡萄酒、肉、あらゆる種類の幸が豊かで過ごしやすい素晴らしい町Carrión de los Condes、また、あらゆる幸に満たされているSahagún、ここの川岸に突き立てられた勝利の戦士の輝く槍の柄に神の誉れにより枝葉が生じたと伝えられている。また、Mansilla de las Mulasに至る。それから、王国の首都かつ文化の中心であり、あらゆる幸に満たされているLeónの町がある。そして、Hospital de Órbigo、Astorgaの町、(Rabanal de Viejoと区別して)小とされるRabanal del Camino、また、Irago峠、Molinaseca、Ponferrada、Cacabelos、Valcarce渓谷の入り口に当たるVillafranca del Bierzo、Castrosarracín、Villaus (Vega de Valcarce)、Cebreiro峠、その頂にある救護所(Hospedería de San Giraldo de Aurillac)、また、Liñares de Rei、ガリシアの山麓にあるTriacastelaである。ここで巡礼者は一つの石を受け取り、ヤコブの聖堂建設の石灰を作るためCastañedaまで運ぶ。次にSan Miguelの町(Montán)があり、またBarbadelo、Portomarín、Sala de la Reina (Ventas de Narón)、Palas de Rei、また、Leboreiro、Santiago de Boente、Castañeda、Villanova (Arzúa)、Ferreiros (Outeiro)に至る。そして、最も素晴らしいあらゆる喜びに満ちた使徒の町Compostela。ここには栄えある聖ヤコブのご聖体が安置されており、スペインの他のどんな都市よりも幸多く気高い。簡単にこれらの町々と途上について概略を述べたに過ぎないけれども、Santiagoへと向かう巡礼者がこれに従い、旅の経費を予め見積もれるように配慮をするためである。

Liber peregrinationis ad Compostellam (Codex Calixtinus, 192r)

2008年4月10日(木)1日目(Tokyo-Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

朝早くに家を出て、飛行機に乗り、フランスのParisに着いた。宿がある3区の広場(Place de la République)の周辺には、住宅と商店が並んでいて、地元の人が住んでいる様子がよく分かった。宿ではアルザス出身のフランス人とお話して、旅に関する情報を交換した。

今日、午前5時過ぎに起きて、午前6時55分に家を出た。家を出るとき、母が父と私に気を付けて行っていらっしゃいと見送りをしてくれた。午前7時25分発の成田空港行きのバスに乗り、午前10時40分に成田空港に着いた。午前11時に第1ターミナルでAir Franceのチェックインを行ってから少し時間があり、休憩所で身を休めて、搭乗へ向かった。搭乗を終えた飛行機は午後0時に成田空港を発った。

日本の東京-ロシアのウラジオストク(Владивосток)-ハバロフスク(Хабaровск)-イルクーツク(Иркутск)-ウラル山脈(Уральские горы)-フィンランドのヘルシンキ(Helsinki)-スウェーデンのストックホルム(Stockholm)を経て、デンマークのコペンハーゲン(København)-ドイツのハンブルク(Hamburg)-ケルン(Köln)を通った。大都市を中心に飛行してゆき印象的だった。

飛行機の中でスペイン語、フランス語、英語、イタリア語、ポルトガル語を自在に操るカタルーニャ人とずっと後ろで話した。日本に出張して滞在していたが、富士山の近くでお花見をして、美味しいお酒と食べ物を腹いっぱい食べれて感激したことが、日本でいい思い出になったと話していた。Barcelonaに帰るためにParisで飛行機を乗り継いでいく所だった。空港に降りる時にも、ゲートでまた会い、イタリア語で会話をして、「良い旅を(Buona fortuna !)」と言い合って別れた。

Parisの空港(Paris-Charles-de-Gaulle)には、午後5時25分に着いた。午後6時過ぎに空港を出るとRER(鉄道Réseau express régional d'Île-de-France)に乗って、北駅(Paris Gare du Nord)に行こうとしたら、切符の買い方が分からず戸惑って、学生2人を見つけ、地元の人と思い、フランス語で質問したら、流暢でないフランス語で英語らしい発音だった。英語に切り替えると、急に笑顔になり、イギリス人と分かり、英語で途端に話し出して答えが返ってきて驚いた。

電車の切符を購入する窓口を発見した。フランスでは外国人を見ると英語で話しかけてくることが多いが、券売所(guichet)の係員さんに「二枚のパリ行きの切符を下さい(Je voudrais deux billets vers Paris)」と注文すると、にこにこしてとても喜ばれて、フランス語で話しかけると親切にしてもらえることを実感した。

フランスの鉄道は、十分遅れが当たり前であり、実際にそれくらい遅れていた。ホームの高さが日本に比べて低いのに驚いた。また、車内の落書きがすさまじかった。車内のお喋りは初めて乗り合わせてくる人にも及んでいた。最近あったことや家族とどこに行ったなど、他愛ない話だったが、乗り合わせた初対面の人と楽しくおしゃべりしながら、電車に乗っていてフレンドリーに感じられた。

午後7時過ぎに北駅(Gare du Nord)に着いた。黒人が多い場所と白人が多い場所があり、棲み分けがはっきりとなされていて驚かされた。黒人の多い場所は、見るからに貧しそうな身なりをした人が多く歩いていて、白人の多い場所は、昔からあるような、所謂Parisの街並みに近い暮らしだった。

北駅は人通りがとても多くて、見るからに怪しそうな人や目つきの悪い人がうようよとおり、治安の悪さが肌でひしひしと感じられたので、早々に通り過ぎた。

地下鉄に乗り、三駅先の駅(République)で降りて、広場(Place de la République)から、通り(Rue du Faubourg du Temple)を進み、大通り(Boulevard Jules Ferry)と通り(Rue de la Folie Méricourt)に挟まれた宿(Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)に向かった。

このあたりの地域も治安が良くなさそうだが、広々とした通りに住宅や商店が立ち並んでいて、地元の人の暮らしが楽しめた。街を散策して戻ろうとしたとき、宿がある通りが見つからず、人に声をかけたら、地元の人がとても親切に対応してくれて感謝した。

午後8時頃に部屋に荷物を置いてから、宿の近くを散策すると、少し先の通り(Rue Beaurepaire)の食料品店(Leader Price)を発見して、ミモレットチーズ(Mimolette au lait pasteurisé)と炭酸飲料(Soda citron, Cola light)を買った。食料品が日本と比較にならないほど安く、レジで袋(sac en plastique)を買わなければならないのを知ってとても驚いた。

レジ係りの人が外国人に容赦なく、早口のフランス語で来られたが、何を言いたいのか分かり、「籠を戻していただけませんか(Pourriez-vous me retourner le panier)」ということだった。

清算をしているとき、今日ここに着いたんだと話すと、「良い旅を(Bon voyage !)」と優しく声をかけてくれて、良い旅の始まりになりそうだった。Parisのフランス語はとても早口で刺激的だった。

宿に戻るとフランス人やドイツ人と同じ部屋になり、皆Parisについたばかりで良い人たちばかりだった。色んな情報を交換し合い旅ができて面白かった。夜はフランス語しか話せない人を探して話をした。彼は北西のAlsace出身でStrasbourgのお話などをきかせてくれた。名前がAlbertだったので、フランス人なのにドイツ人みたいな名前でアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)も、シュヴァイツァ(Albert Schweitzer, 1875-1965)も、同じ名前だねと言うと、とても喜んで大笑いしていた。

(特にシュヴァイツァはAlsace出身であり、彼の名は、古英語Æþelbeorht、ラテン語Albertus、ノルマン=フランス語Albertに当たり、西ゲルマン祖語*Aþalberhtに遡り、ゲルマン祖語「高貴な」*aþalaz + 「光栄な」*berhtazと分析され、印欧祖語「家族」*at-al(< 「過ぎる」*at(i)、もしくは「父」*átta)+ 接尾辞(形容詞化)*-tós + 「育つ」*h₂el- +「輝き」*bʰerHǵ- + 接尾辞(形容詞化)*-tósまで分析される名前である。古英語æþeleからEthel、古高ドイツ語adalからAdelなどの人名になり、古英語beorht(英語bright)やケルト祖語*berxtos(ウェールズ語berth)と同根である。

ドイツ南部Schwabenで生まれ、13世紀にParisやKölnでアリストテレスを西洋に定着させて、スコラ学を発展させた哲学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, c.1200年頃 - 1280)を思い起こさせる。フランス語の基層は、少なくとも、ラテン語(ロマンス語)、ケルト語(ゴール語)、ゲルマン語(フランク語、ノルマン語)などが、古い時代に混ざり合い、成り立つために言語、地名、人名を分析することは、民族の定住、移動、発展を考える上で欠かせないことであると考えられる。

通常はl'habitant (< habiter < habitāre < habitō), l'homme (< home, hom < homō, hominem), l'humain (< humain, umain < hūmānus < homō), l'histoire (< historia < ἱστορία)など、無音のh(h muet)だが、la hâte (< haste < *hai(f)st < *haifstiz), la haie (< haye < *haggju < *hagjō), la hache (*happja < *hapjō, *habjō), la halte (< halten < *haldan < *haldaną)など有音のh(h aspiré)はゲルマン語派のフランク語や高ドイツ語から、古い時代(古フランス語、中フランス語)に借用された語彙が多い。フランス語の辞書には、有音のh(h aspiré)にはダガー(†)やアスタリスク(*)が書かれている。)

Parisは前250年頃にケルト系部族のパリシイ族(Parisii < Παρίσιοι / Parísioi)の集落から始まり、Saine川のシテ島(Île de la Cité)とされていたが、郊外のナンテール(Nanterre)に居住していた(ゴール語「釜」*parios < ケルト祖語 *kʷaryos < 印欧祖語*kʷr̥-yos < 「作る」*kʷer-が語源)。

紀元前52年にカエサル(Gaius Iulius Caesar, 100-44 a.C.n.) によるローマ帝国のガリア侵攻(Bellum Gallicum)で陥落、アルウェルニ族(Arverni)のウェルキンゲトリクス(Vercingetorix, 72-46 a.C.n.)が反抗したが鎮圧された。《ガリア戦記(Commentarii de Bello Gallico)》に顛末が書かれた。

パリのシテ島とサント・ジュヌヴィエーヴ(Sainte-Geneviève)の丘は、セーヌ川が流れているためぬかるんだ土地であったため、ラテン語「泥(lutum)」から、パリシイ族(Parisii)の沼沢地(Lutetiam Oppidum Parisiorum)と呼ばれて、ローマ人が入植して定住地を作り、212年にParisと呼ばれるようになった。307年に建てられた道標に都市名(Civitas Parisiorum)が書かれた。

451年にフン族アッティラ王(Attila, 406-453)に侵略されそうになり、464年にフランク王キルデリク1世(Childericus, c.435-482)により攻撃され、 506年に子のクローヴィス1世(Clovis I, 466- 511)が、Parisをメロヴィング朝(Mérovingiens)フランク王国(Regnum Francorum)の首都とした。

751年にカロリング朝(Carolingiens)のピピン3世(Pippin III, 714-768)が即位して、子のカール大帝(Charlemagne, 748-814)は、神聖ローマ帝国(Sacrum Romanum Imperium)の首都をAachenに移した。885年にヴァイキングが来襲、アンジュー伯ロベール(Robert le Fort, c. 830-866)と子のパリ伯ウード1世(Eudes, 852-898)に救援を要請して、ヴァイキングによる包囲攻撃から防衛して、西フランク王シャルル3世(Charles III, 879-929)と帝国の共同統治者となった。アボ・ケルヌウス(Abbo Cernuus)が《美しいパリ市について(De bellis Parisiacæ urbis)》でその顛末を書いた。

987年に大甥のユーグ・カペー(Hugues Capet, c.940-996)が、 フランス(France)の語源となったフランク人の地(Francia)の王に選ばれ、カペー朝(Capétiens)を創始して、 Parisを首都とした。

1163年にシテ島にノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)が建造され、政治、商業、学術、文化の中心となった。南フランスのLimogesやAquitaineなどで反映していた伝統を引き継ぎ、多声音楽オルガヌム(organum)を発展させ、ノートルダム楽派(École de Notre-Dame)が繁栄して、サン・ヴィクトールのアダン(Adamus Sancti Victoris / Adam de St.Victor, c. 1075-1146)、パリのアルベルトゥス(Albertus Parisiensis / Albert de Paris, c.1100-1177)、レオニヌス(Leoninus / Léonin, c.1125-1201)、ペロティヌス(Perotinus / Pérotin, c.1160-1238)などが活躍した。

11世紀半ばにパリ大学(Universitas magistrorum et scholarium Parisiensis、Université de Paris)が、ノートルダム大聖堂の教師組合のような状態から始まり、例えば、ピエール・アベラール(Pierre Abélard, 1079-1142)やペトルス・ロンバルドゥス(Petrus Lombardus, c.1100-1160)など、有能な神学や論理学の教師の許に学生が集まりだして始まり、1200年1月15日にフィリップ2世(Philippe II, 1165-1223)により大学として認識され、1211年にローマ教皇インノケンティウス3世(Innocentius III, 1161-1216)の勅書により、法的に大学(studium generale)として認可した。ボローニャ大学(Universitas Bononiensis、Università di Bologna)と同じくらい古い大学となった。

イスラム世界からヨーロッパ世界へといくつかのルートで学問探究の移入と継承がなされ、12世紀のスペインやビザンツで大量のギリシアやアラビアの哲学や科学の文献が翻訳された刺激により、シャルトル学派などが発達して、修道院や大聖堂に集結した知の集団が集まり始め、それらが国王や教皇の権威により追認された流れが自然であると考えられる。ドイツ人(ケルン)のアルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, c.1200-1280)やイタリア人(シチリア王国)のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225-1274)などヨーロッパ各地と知の交流をした。

オックスフォード大学(Universitas Oxoniensis, University of Oxford)は、1167年にヘンリー2世が、パリ大学でイギリス人が学ぶことを禁じたことにより設立され、1209年にケンブリッジ大学(University of Cambridge, Universitas Cantabrigiensis)が分かれたため、イングランドの学術の活動にも影響を与えた。 ロジャー・ベーコン(Roger Bacon, 1214-1294)はオックスフォード大学とパリ大学で学んだ。ところで、ジャン・ビュリダン(Johannes Buridanus, Jean Buridan, c.1295-1358)はインペトゥス理論を古代ギリシアのピロポノスやイスラム哲学者イブン=スィーナーから受け継いで展開して、ニコル・オレーム(Nicolas Oresme, 1323-1382)が発達させた。

Parisの科学アカデミー(Académie française)とマザラン図書館(La bibliothèque Mazarine)

2008年4月11日(金)2日目(Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

Parisの古くからある中心地区をくまなく歩き回り、様々な地区の特色を見た。クープラン家がオルガニストを務めた教会(Église Saint-Gervais-Saint-Protais)、ノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の尖塔、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)、ヴォルテール(François-Marie Arouet, dit Voltaire, 1694-1778)が亡くなった邸宅(Hôtel de Villette)、 19世紀に建てられたゴシック様式の聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère) などを見たり、不思議のメダイ教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)、 パリ造幣局(Monnaie de Paris) 、ピカソ美術館 (Musée National Picasso)を訪れた。国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France)でフランスの外交文書を見れたり、モーツァルトが演奏した邸宅(Hôtel de Soubise-Clisson)の部屋を訪れるなど、美しい街並みや歴史的建造物を楽しめた。

今日、朝早く起きた。やはり、大きな時差があり、眠れなかった。更に慣れない環境にも、まだ十分に対応していないことが、原因であると思われるが、今日一日は大きな収穫のある一日であった。今日は、朝食の前に午前5時半から計画を練り、大きな歩き旅を行おうとした。

午前7時に始まった朝食を食べ終わった後早速荷の準備をして、午前8時少し過ぎに宿を後に行き先までの徒歩を試みた。1830年に聖母マリアが聖カトリーヌ・ラブレ(Catherine Labouré, 1806-1876)に現れたと伝えられる不思議のメダイ教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)である。その徒歩の旅が思いがけない思い出を残してくれることは思いもしなかった。

最大の収穫は宿泊している地域がいかに雑多に文化が交わりあう場所であると知ったことである。宿泊する地域から出て行くと道路を境にして、全く異なる雰囲気を醸していた。都市を多様にしていて、様々な刺激が混じり合い、新しい発想が生み出され、面白い文化の都とすると思った。

広場(Place de la République)から、ホテルやレストランや商店や住宅が立ち並んだいくつかの通り(Rue de Turbigo, Église Saint-Nicolas-des-Champs, Rue Beaubourg, Rue Chapon, Rue du Temple, Rue de Braque, Rue des Archives)を進み、小さな商店が立ち並んだ治安が悪そうな地域を過ぎると、突然美しい邸宅(Hôtel de Soubise-Clisson)や住宅地が現れて意表をつかれた(国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France) の裏手に出た)。Parisのエスカルゴ型構造に由来しているかもしれない。街を歩くと成り立ちが手に取るように分かり面白かった。

4区の道路(Rue de Lobau)から広場(Place Saint-Gervais)に至ると、387年にバシリカが建てられ、1494年に現在の建物の基礎が作られ、1616年に建て替えられた由緒ある美しい教会(Église Saint-Gervais-Saint-Protais)があった。1653年からルイ・クープラン(Louis Couperin, 1626-1661)や大クープラン(François Couperin, 1668-1733)がオルガニストを務めた由緒ある教会である。(1918年に第一次世界大戦でドイツ軍の爆撃を受けて破壊されたが、クリコー家(Robert Clicquot, 1645-1719)が建造した当時のオルガンは無傷だった。)

1357年と1533年に建てられた市庁舎(Hôtel de Ville)、1789年に建てられた市庁舎の別館(Mairie de Paris)が建っていた。高級住宅地を進むと官庁街が見えてきた。そこにはSeine川が流れていて、美しい景色だった。大量の警備用の柵があり、北京オリンピックの聖火が通ったようだった。

大通り(Quai de l'Hôtel de ville)に出ると、通り(Rue de Lobau)との交差点でSaine川が流れる向こうにノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の(2019年の火災で焼失した)尖塔が、病院(Hôpital Hôtel-Dieu AP-HP)の後ろから、空に突き出ているのが見えた。警察が馬に乗ってパトロールをしていて、街並みととても似合っていた。

西に少し進むと対岸の美しい病院(Hôpital Hôtel-Dieu)と鉄橋(Pont d'Arcole)が見えてきて、1357年に建てられて、1533年にフランソワ1世(François I, 1494-1547)により建て替えられた市庁舎(Hôtel de Ville de Paris)に「パリは世界の人権を擁護する(Paris defend les droits de l'homme partout dans le monde.)」と標語が掲げられていた。

市立劇場(Théâtre de la Ville)の前にある橋 (Pont Notre-Dame)を裁判所(Conférence Générale des Juges Consulaires de France)と6世紀から歴代の王により使われ続けた由緒がある(現在の建物は1622年に再建された)宮殿(Palais de la Cité)を遠目に見ながら、Cité島へ渡り、警察(Préfecture de Police)を見てから、Seine川の北岸の道(Quai de la Corse)から階段を降りて、立派な石橋(Pont au Change)や対岸の建物(Théâtre du Châtelet)を望むことができた。

司法宮(Palais de Justice)の建物には、フランス革命の標語「自由、平等、友愛(Liberté, Égalité, Fraternité)」が書かれていた。通り(Quai de la Corse)から橋(Pont au Change)を望んで父と写真を撮ってもらい、1239年にルイ9世(Louis IX, 1214-1270)により建てられた聖なる礼拝堂(Sainte-Chapelle)の脇にある宮殿(Palais de la Cité)の時計(La Conciergerie Horloge)には、ラテン語碑文(Machina quae bis sex tam juste dividit horas, justitiam servare monet legesque tueri.)があった。

そして、Seine川沿いに通り(Quai de l'Horloge)を歩いて行くと、1791年に建てられた破毀院・最高裁判所(Cour de cassation)があり、美しい歴史的なメダイ屋さん(Médailles Canale)、古本屋さん(Librairie du Palais)、骨董屋さん(Antiquites)などが立ち並んでいた。

広場(Place du Pont Neuf)を通り、1578年に架けられて、現存最古の橋だが「新橋(Pont Neuf)」という名前の橋を渡り、橋の真ん中のたまり場から、デパート(La Samaritaine)やアンリ4世の騎馬像(Statue équestre d'Henri IV)を望みながら、北の橋を散策してから、南橋で対岸の南側に渡った。

Seine川の川岸の道(Quai de Conti, Quai Malaquais, Quai Voltaire, Quai Anatole France)には、大量の大きな緑の箱が並んでいて、何かと思ったが、露天と後に分かった。ルーヴル美術館(Musée du Louvre)を対岸に見ながら 、864年に西フランク王シャルル2世(Charles II, 823-877)が設立して、1767-75年にジャック・ドニ・アントワーヌ(Jacques Denis Antoine, 1733-1801)により建てられたパリ造幣局(Monnaie de Paris)、著名な数学者・哲学者・社会学者・政治学者のコンドルセ侯爵像(Statue du Marquis de Condorcet)、1635年にルイ13世(Louis XII, 1601-1643)がフランス語の文法整備のために設立したフランス学士院 (Académie française)、マザラン図書館(La bibliothèque Mazarine)、国立高等美術学校(Palais des Beaux-Arts)の前の橋(Pont des Arts)から両岸を眺めて、1635年に建てられた邸宅(Hôtel de Chimay)、1768年に建てられた邸宅(Hôtel de Tessé)、1663年に建てられた邸宅(Hôtel Pioust de Saint-Gilles)、 1636年に建てられ、ヴォルテール(François-Marie Arouet, dit Voltaire, 1694-1778)が亡くなった邸宅(Hôtel de Villette)を過ぎて、オルセー美術館(Musée d'Orsay)は、既に開館していたが、先に不思議なメダイ教会に向かった。

レジオンドヌール博物館(Musée national de la Légion d'honneur et des ordres de chevalerie)がある邸宅(Hôtel de Salm)との間の小道(Rue de la Légion d'Honneur)を進み、レストランが立ち並んだ商店街(Rue de Bellechasse)を歩いて、右の通り(Rue las Cases)に入ると、1846-57年に新ゴシック様式で建てられた聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère)の美しい塔が見えてきた。

Parisの聖堂(Basilique Sainte-Clotilde et Sainte-Valère)

聖堂の前の広場(Square Samuel Rousseau)で少し休憩してから、少し西に来過ぎたので、いくつかの道(Rue de Martignac, Rue de Grenelle, Rue de Berllechasse, Rue Vaneau, Rue de Babylone)を行くと庭園(Jardin Catherine-Labouré)があり、近いと確信したが、目的の通り(Rue du Bac)を見つからず、Parisの市街全図が大雑把に描かれていたため、道を歩く人に尋ねながら、教会(Chapelle Notre Dame de la Médaille Miraculeuse)に着いた。ヨーロッパの教会には出口に物乞いの人がいた。

教会の中には美しいマリア様出現のレリーフがあり説明があった。教会堂の中は青を基調とした美しく明るい雰囲気があり、マリア様の恩寵で満たされている感じがした。

右側には大蛇を踏み潰したマリア様が、地球の上に乗り、左側にはカトリーヌ・ラヴレー(Catherine Labouré, 1806-1876)の不朽体の入った棺とマリア様が出現した時の図があった。

今さっき死んだように横たわり、とても不思議なことが、目の前にあると思うとても感激した。メダイ(Médaille Miraculeuse argentée Pichard-Balme)とロザリオとマリア様の栞二つを貰った。

日本人の修道女がいて、とても丁寧に接して下さり、出て行こうとすると、フランス人の修道女に呼び止められて話をした。30年も日本の神戸に住んでいたと聞いてとても驚いた。「御免下さい」というとても上品な丁重な言葉遣いで素晴らしかった。レリーフの写真を撮っていいですかと聞いたら、もちろんですが、きれいな写真がお店に売っていますから、ちょっと待ってて下さいと、直に戻ってきて、説明のカードを下さった。神戸に住んでいたときやParisの修道生活に関するお話を聞いて、とても印象深い体験となった。そして、マリア様のレリーフの前で写真を撮って教会を後にした。

それから、商店やレストランが立ち並んだ路地(Rue du Bac)を通り、北に向かい7区から6区を歩いていると、沢山のアトリエ、美術書専門店、古本屋、骨董店があり美しかった。

帰りにオルセー美術館(Musée d'Orsay)を通り過ぎて行くと、Bonjour!とすれ違いに言われて驚いたり、物乞いがいたり、画家が絵を売っていたり、多くの人が行きかっていた。

Seine川沿いに行きに来た道(Quai Voltaire, Quai Malaquais, Quai de Conti)を歩き、パリ造幣局(Monnaie de Paris)の貨幣博物館に行った。古代ローマの貨幣製造用具、カロリング朝・メロヴィング朝・中世・近代など、様々な種類の貨幣が一堂に展示されていて、とても興味深かった。

それから、いくつかの通り(Rue Guénégaud, Rue Jacques Callo, Rue de Saine, Rue Jacob)を歩いて、558年にパリ王キルデベルト1世(Childebert I, 496-558)が創建して、司教ゲルマヌス(Germanus, 496-576)に献呈され、1606年に現在の形に立て直された由緒ある教会(Église de Saint Germain des Prés)と1646年にルイ13世(Louis XIII, 1601-1643)の王妃アンヌ・ドートリッシュ(Anne d'Autriche, 1601-1666)により建てられたサン=シュルピス教会(Église Saint-Sulpice)の建築を見た。現代制作中の所もあった。教会を出るとメダイが美しく置いてあり、献金して一つを頂くと、日本人ですかとたずねられて案内をくれた。来訪者がなくじっくりと見ることができた。

修復が行われており、解説が興味深かった。第一段がドリア式列柱、第二段がイオニア式、第三段がコリント式が、一つの教会の中にまとめられていてものすごい構造だった。それから大通り(Rue Bonaparte)を北に進み、Saine川まで出て、橋(Pont des Arts)からシテ島(Île de la Cité)を望んだ。先端から見ると戦艦のように見え、新橋(Pont Neuf)が両岸から架けられていて美しかった。

橋(Pont des Arts)を渡り切り、北側から新橋(Pont Neuf)を渡り、シテ島(Île de la Cité)に戻った。通り(Quai de l'Horloge)からの橋(Pont au Change)は美しく、後ろにパリ市立劇場(Théâtre de la Ville)が見え、更にサン・ジャックの塔(Tour Saint-Jacques)と重なり美しい眺めだった。Saine川には荷物を運ぶ船が行き来していた。

朝にも通った司法宮(Palais de Justice)の正門や聖なる礼拝堂(Sainte-Chapelle)を通り、シテ島(Île de la Cité)の真ん中の道(Rue de Lutèce)を通り、広場(Parvis Notre Dame)に出て、ローマのジュピター神殿の跡にキルデベルト1世(Childebert I, 496-558)により建てられたバシリカ(Basilique Saint-Étienne de Paris)の隣に1163-1225年に司教モーリス・ド・シュリー(Maurice de Sully, c. 1120-1196)により建てられたノートルダム大聖堂(Cathédrale Notre-Dame de Paris)の外観を見た。聖人たちの像が彫られた柱が面白かった。この時間になると人が多く出て来て、通りがいっぱいになり歩きづらかった。交差点(Rue d'Arcol, Quai de la Corse)で偶然に友人と出くわした人がいて、お互いにとても興奮して「元気?(Ça va?)」と声を掛け合っていた。

北側に橋(Pont d'Arcole)を渡り、広場(Parvis de l'Hôtel de Ville)を過ぎ、通り(Rue du Renard)に面したMcDonald’sで昼食をとった。日本人が一人も入ってこなかった。

パンは日本よりも、パサパサしていてレタスの量が少なかった。二階で食べてから、Parisの市街にはトイレがないために用を出してから一息ついて出かけた。Parisの人たちはMcDonald’sの店員さんが客とフレンドリーに話したり、通行人は二人組以上で必ず話していた。

北へいくつか道(Rue de Rivoli, Rue des Archives)を通り、国立公文書館(Musée des Archives Nationales / Musée de l'Histoire de France)に行った。1371年に作られて、1705年に建築家ドラメール(Pierre-Alexis Delamair, 1676-1745)が立て直したオテル・ド・スビース(Hôtel de Soubise)の建物が使われていた。フランスを代表する歴史的文書が一堂に展示されていてとても興味深かった。

中世の公文書やジャンヌ・ダルク(Jeanne d’Arc, 1412-1431)の処刑に関する文書、1791年憲法(Constitution de 1791)の草案、1289年にイルハン朝アルグン汗(ارغون خان / Arġun, 1258-1291)がラッバーン・バール・サウマ(ܪܒܢ ܒܪ ܨܘܡܐ / Rabban Bar Ṣawma, c. 1220-1294)をフランス王フィリップ4世(Philippe IV, 1268-1314)に遣わした文書、1305年のイルハン朝オルジェイトゥ汗(اولجايتو خان / Öljaitü, 1280-1316)の手紙とそのブスカレッロ(Buscarello de Ghizolfi)による翻訳、1402年にアンカラでオスマン帝国のバヤズィト1世(بايزيد / Beyazıt, 1360-1403)に勝利したティムール(تيمور‎ / Tīmūr, 1336-1405)がフランス王シャルル6世(Charles VI, 1368-1422)に充てた書簡、オスマン・トルコの太守(پاشا‎ / paşa < 「頭」باش / baş < テュルク祖語*baĺč + 「主」آغا / ağa < テュルク祖語「年長者」*ākaが語源)やペルシアの国王(شاه / shāh < 中世ペルシア語𐭬𐭫𐭪𐭠‎ / šāh < 古ペルシア語𐏋 / xšāyaθiya < インド=イラン祖語*kšáyati < 印欧祖語 *tk-éy-ti < 「取る」*tek-が語源)からの手紙など盛り沢山の内容であった。1526-36年にオスマン帝国のスルターン・スレイマン1世(سليمان / Süleyman I, 1464-1566)から数次にわたり条約を締結するため、フランス王フランソワ1世(François I, 1494-1547)に発信された書簡にある署名は美しかった。特に外交文書は興味深く見入った。

奥の部屋に行くと、チェンバロ(clavecin)やフォルテピアノ(forte-piano)、ルイ15世(Louis XV, 1710-1774)が使用していた机などが「王子の館」にあり、当時の生活が偲ばれた。

更に奥にはギリシア神話を主題にした彫刻が天井にあり、美術館の学芸員がこの部屋でモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)が演奏したと述べていた。

フランス語の発音でモザール/mɔ.zaʁ/と言うので、誰かと聞き返すと、ドイツの作曲家(le compositeur allemand)というので、なるほど、モーツァルトの事かと分かった!不意打ちで来たので、直ぐに固有名詞が分からなかったが、最愛の音楽家がここにも来ていたのかと感慨深かった。

中高ドイツ語「沼」mos < 西ゲルマン祖語「苔」*mos < ゲルマン祖語*musą < 印欧祖語*mus-o-m < *mews- + 接尾辞「奴」-hart < 西ゲルマン祖語「ひどい」*hard(ī) < ゲルマン祖語「硬い」*harduz < 印欧祖語*kort-ús < 「強い」*kret-が付いた「泥んこの奴」語源で、14世紀からBayern地方でMozahrt, Motzart, Motzhart, Motzhardt, Mutzhart, Muzert, Motzetと記録された。

1763年に近くの通り(Rue François Miron)にある邸宅(Hôtel de Beauvais)にバイエルン公国の大使館があり、伯爵(Maximilian Emanuel Franz van Eyck, 1743-1830)の邸宅に父と姉と滞在した記録があるから、幼少期の一回目のParis滞在の際に訪れたと考えた。

当時の広報新聞(L'Avantcoureur : feuille hebdomadaire, où sont annoncés les objets particuliers des sciences & des arts, le cours & les nouveautés des spectacles, & les livres nouveaux en tout genre)にも、モーツァルト一家について、イングランドに向かう前日(1764年4月9日)に書かれた貴重な記録があり、Parisで定宿としていたこの邸宅(Hôtel de Beauvais)からLondonへ発ったことが分かる。

LES SONATES pour le clavessin, dédiées à madame VICTOIRE DE FRANCE, & composées par le petit Virtuose de sept ans, J. G. Wolfgang Mozart, dont nous avons eu occasion de parler dans notre Feuille du 5 Mars, se trouvent chez l’auteur, à l’hôtel de Beauvais, rue S. Antoine; chez le Portier d’une maison, rue neuve de Luxembourg, la troisiéme porte à gauche en entrant par la rue S. Honoré & aux adresses ordinaires de musique. 4 liv. 4 sols.

Ce même enfant extraordinaire vient de publier deux autres Sonates de sa composition dédiées à madame la comtesse de Tessé, dame de madame la DAUPHINE. On trouve cette nouvelle production aux mêmes adresses, & le succès de ces premières Sonates prévient en faveur des autres.

1764年2月22日にレオポルド(Leopold Mozart, 1719-1787)は市庁舎(Hôtel de Ville / Place de Grève)についても、Parisを訪れた人は必ず立ち寄るとよいと書き残した。

1762年6月16日にSalzburgにMetuetto II、1763年10月14日にBrusselsでAllegro, Andanteが作曲され、1764年4月9日にParisで《クラヴサン・ソナタ集(Sonates, pour le clavecin, qui peuvent se jouer avec l'accompagnement de violon, Œuvre premiere)》として出版され、 ルイ15世(Louis XV, 1710-1774)の娘ヴィクトワール(Victoire de France, 1733-1799)に献呈されたKV 6を思い出した。

特にチャーミングで《ナンネルの楽譜帳(Nannerl Notenbuch)》にも書き込まれていたことから、モーツァルト一家のお気に入りでもあったことが伺われる。

国立公文書館の二階には、始め小学生の社会見学するための子供たちがいたが、既に退館して、フランスの近代画家の特別展を少ない来館者と共に見ることができた。

庭園(Jardin des Archives nationales)から、小道(Rue des Francs Bourgeois, Rue Payenne)で多少迷いながらも、庭園(Square Georges Cain)で一休みして、路地(Rue du Parc Royal, Rue de Thorigny)を進み、近くの1656年に建てられた邸宅(Hôtel Salé)にあるピカソ美術館 (Musée National Picasso) に行った。平日にもかかわらず、沢山の来館者がいて、家族、恋人、友達たちと来ていて、芸術が生活に浸透しているのを実感した。ピカソの若い頃の作品を中心として沢山あり、素晴らしいと感じたのは、ほんの一部であったが楽しい一日を過ごせた。

帰りに近くの1826-35年に建てられたギリシア建築による教会(Église Saint-Denys-du-Saint-Sacrement)の美しい柱とフリーズ彫刻を見てから、 大通り(Rue de Turenne)を南に行き、道に少し迷いながらも、美しい公園(Place des Vosges)に出た。沢山の市民がくつろいでいて、憩いの場となっていた。そこから、路地(Rue du Pas de la Mule)を行き、大通り(Boulevard Beaumarchais)を歩いて、バスティーユ広場(Place de la Bastille)に出て、中央が公園になっていた。

大通り(Boulevard Beaumarchais, Boulevard Temple)を進み、広場(Place de la République)に戻って来た。1240年にテンプル騎士団が要塞を築き、北にタンプル塔(Tour du Temple)があり、タンプル地区 (Quartier du Temple)と呼ばれていたが、今はマレ地区(Le Marais)と呼ばれており、有名なヴィオール奏者マラン・マレ(Marin Marais, 1656-1728)の先祖が住んでいたかもしれないと感じた。(中世フランス語「沼地」marais < 古フランス語mareis < 古フランク語「湖らしい」marisk <「海」mari < ゲルマン祖語*mari < 印欧祖語*móri + 接尾辞*-isk < ゲルマン祖語*-iskaz < 印欧祖語*-iskosが語源でラテン語「海」mare < イタリック祖語*mariやサンスクリット「岸」मर्यादा / maryā́dā < インド=イラン祖語*maryáHdaHと関連)

Parisは全然車やバイクが止められるように駐車場が設計されておらず、通りに駐車スペースがあった。昨日と同じ通り(Rue Beaurepaire)の食料品店(Leader Price)で食べ物を買って宿に戻った。大きなミモレット・チーズ(Mimolette)とコーラ(Cola)とレモンソーダ(Limonade)など炭酸飲料を買った。宿に着いてから、早くベットを確保した後、食事を取り、寛いでいたら、話好きなイギリス人Andyと気が合った。様々な話題、言語学や自然言語の把握においてその不完全性、文化や習慣について話をして、日記を書いてから、午後10時過ぎに寝た。

Parisの司法宮(Le Palais de Justice)に書かれた標語「自由、平等、友愛(LIBERTÉ · EGALITÉ · FRATERNITÉ)」
Wolfgang Amadeus Mozart (1764). Sonates, pour le clavecin, qui peuvent se jouer avec l'accompagnement de violon.
フランス王女ヴィクトワール(Madame Victoire de France, 1732-1799)への献呈文

À Madame Victoire de France

Madame ! Les essais que je met à vos pieds, sont sans doute médiocres ; mais lorsque Votre bonté me permet de les parer de votre Auguste nom, le succès n'en est plus douteux, et le Public ne peut manquer d'indulgence pour un Auteur de sept ans qui paroit sous Vos auspices.

Je voudrois, Madame, que la langue de la Musique fût celle de la reconnaissance ; je serois moins embarassé de parler de l'impression que vos bienfaits ont laissée dans mon cœur.

J'en remporterai le souvenir dans mon pays ; et tant que la Nature qui m'a fait Musicien comme elle fait les ressignols, m'inspirera, le nom de Victoire restera gravé dans ma mémoire avec les traits ineffeçables qu'il porte dans le cœur de tous les François.

Je suis avec le plus profond respect,

Madame,

Votre très humble, très obéissant et très petit Serviteur,
J. G. Wolfgang Mozart

ヴィクトワール・フランス王女へ

王女さま!私があなたの足下に献げます試みは凡庸でしょうが、あなたのご寵愛により、私がこれらの音楽作品をあなたの令名で飾りますことが許されるなら、これらの作品の成功は疑いなく、また、聴衆はあなたの庇護のもとに現れました七歳の作者に寛大に接するでしょう。

王女さま、音楽の言葉は感謝の言葉であることを望みます。あなたのお恵みが私の心に残りましたことをお話しすることが当惑が少ないでしょう。

私はそうした思い出を私の国へ持ち帰ります。そして、鶯が作られたよう、私を音楽家とした自然が、私に霊感を吹き込む限り、ヴィクトワールの令名は、この令名が全てのフランス人の心に刻まれて忘れられないよう、私の記憶の中に刻まれて残るでしょう。

深々とした敬意を以て

王女さま

あなたさまのいとも賤しく、いとも従順にして、またいとも小さき僕
J. G.ヴォルフガング・モーツァルト

2008年4月12日(土)3日目(Paris: Auberge de Jeunesse Paris Jules Ferry)

オルセー美術館(Musée d'Orsay)で聖セシリアがスピネットかクラヴィコードを弾く絵画が美しく気に入った。 モーツァルトが交響曲第31番「パリ」(KV 297/300a)を初演した宮殿(Palais des Tuileries)があった庭園(Jardin des Tuileries)を臨んだり、地下鉄の中でジャズの演奏をしていて楽しかった。モンマルトル(Montmartre)の丘からParis市街を臨み、バシリカ(Basilique du Sacré-Cœur)やダリ美術館(Dalí Paris)を訪れたり、ユースホステルでイギリス人とアカデミックな話をしたり、皆で夕食を食べながら、情報交換ができて、とても盛り上がった。

午前7時に食事をとった。内容は昨日と同様に、リンゴとバナナをすり潰したもの、パンと紅茶だった。朝食の部屋の前で待っていると、昨日に美しい英語を話していた人がヘブライ語を話していて、昨日にMarais地区で見つけたユダヤ歴史美術館(Musée d'art et d'histoire du Judaïsme)を思い出して行きたかったが時間がなかった。特にユダヤ人が多く、沢山シナゴーグがあって驚いた。

荷物を整理して、ロッカ-に入れた後、オルセー美術館(Musée d'Orsay)が混みあう前にたどり着きたかったため、事前に最短ルートを研究しておき、スムースに宿から歩いて行くことができた。

共和国広場(Place de la République)から、大通り(Rue de Turbigo, Boulevard de Sébastopol)を経て、広場(Place du Châtelet)にある中世の塔(Tour Saint Jacques)の横を通り、Saine川に出て、橋(Pont au Change)を渡り、サント・シャペル (Sainte-Chapelle)を右側に見ながら、シテ島(Île de la Cité)をつきり、橋(Pont Saint-Michel)で対岸に出てから、Saine川に沿いに大きな道(Quai de Grands Augustins, Quai de Conti, Quai Malaquais, Quai Voltaire, Quai Anatole France)をひらすら歩いて、オルセー美術館(Musée d'Orsay)に向かった。

昨日も歩いていた道のため、近道を早く行くことができ、出発の遅れを取り戻して、思ったよりも早く着いて、少し並んだだけで直ぐに入館できた。館内には、近現代(17-20世紀前半)の絵画が一堂に展示され素晴らしかった。彫刻や建築、日用品に関する展示もあった。

ヴェルディ(Giuseppe Verdi, 1813-1901)の《椿姫(La traviata)》のオペラ舞台のデザインや、古い写真家の作品など様々だった。ミレー(Jean-François Millet, 1814-1875)の《晩鐘(L'Angélus)》や《落穂拾い(Des glaneuses)》などの名画の数々を見た。

初期の写真術は芸術と認識されていたようで絵画の構図とよく似て撮影されており、とても興味深かった。二階が閉じられていて、見ることができず、とても残念だったが、一階や五階にはとても価値のある絵画が沢山あり、とても見ごたえがあった。

ゴヤ(Francisco Goya, 1776-1828)やゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)、ルノワール(Pierre-Auguste Renoir, 1841-1919)や(Mr. Beanの映画に出てきた)ホイッスラー(James McNeill Whistler, 1834-1903)の《母の肖像(Arrangement en gris et noir n°1, dit Portrait de la mère de l'artiste)》もあった。美術館を出て、靴が足に当たり、骨の出ている踝が痛んだが、少しずつ慣れてきた。

Seine川沿いに通り(Quai Anatole France)を少し西に歩き、橋(Passerelle Léopold Sédar-Senghor)を渡り、対岸の通り(Quai des Tuileries)を歩いて、1778年にモーツァルトが交響曲第31番「パリ」(KV 297/300a)を初演した宮殿(Palais des Tuileries)があった庭園(Jardin des Tuileries)に行った。

(交響曲の初演が大成功して、モーツァルトは喜んで王宮(Parais Royal)の近くにあったカフェでアイスクリームを食べて、家(8 Rue du Sentier)に帰ったと1778年7月3日のSalzburgの父に手紙で書いた。1778年7月3日にこの家で母が亡くなり、教会(Église Saint-Eustache)に埋葬された。Café du CaveauかCafé de Foyと考えられる Elizabeth David (1994). Harvest of the Cold Months: Social History of Ice and Ices, London: Michael Joseph. )。

橋(Pont de la Concorde)や1722-28年にルイ14世(Louis XIV, 1638-1715)の庶子ルイーズ・フランソワーズ・ド・ブルボン(Louise Françoise de Bourbon, 1673-1743)によって建てられたブルボン宮殿 (Palais Bourbon)、更にその奥にエッフェル塔(La tour Eiffel)を眺めながら歩いて、フランス革命でルイ16世(Louis XVI, 1754-1793)とマリー=アントワネット(Marie-Antoinette d'Autriche, 1755-1793)の首が落ちた広場(Place de la Concorde)に至った。広場の中心には1819年にエジプトのルクソール神殿(Temple d'Amon à Louxor)から持ってきたオベリスクがあった。そこでは沢山の芸術家が絵を売っていて、芸術の街らしい良い景色を作り出していた。

大通り(Rue Royale)や1806年にナポレオン1世(Napoléon Bonaparte, 1769-1821)によりギリシア神殿のコリント様式で建てられたマドレーヌ寺院(Église de la Madeleine)、大通り(Boulevard de la Madeleine, Boulevard des Capucines)から広場(Place Opéra)に出て、音楽院(Académie nationale de musique)や歌劇場(Opéra national de Paris)として使われる1669年に建てられた宮殿(Palais Garnier)から、北東に進みゆくとき、日本の三越(2010年に閉店)をはじめとする沢山の外国人用の百貨店が立ち並んでいた。大通り(Boulevard des Italiens)には、イタリア料理店があり、ピザを食べようとしたが高かったので、通り(Rue Drouet)との交差点でMcDonald’s見つけ入った。

正午をちょうど過ぎて、宿からたくさん歩いてきて、お腹が空いてきた頃だった。フランス語でLとMサイズのハンバーガーのセットを頼むと、店員さんは嬉しかったようで、これでもかというくらいのストローとケチャップやポテト用のタルタルソースを付けてくれた。上の階に運んで食べた。

風船を自由は取っていって良いよと言われて驚いた。ありがたいけれども、今は街を歩いて旅をしているのでと言うと、「良い旅を!(Bon voyage !)」と笑って声をかけてくれた。父が今日も沢山歩いてきて、巡礼をする前に足を馴らすのにちょうど良いね。時差ボケも取れてきたし、今日はとても調子がいいよと話していた。

店を出てから、大通り(Bd Haussmann, Rue la Fayette)辺りで少し迷ったので、近くの駅(Chaussée d'Antin — La Fayette)で地下鉄(Métro de Paris)に乗り、Gare de l'Estで7号線から4号線に乗り換えて、Château Rouge駅まで行った。地下鉄の駅名には1861年に建てられた教会(Église Saint-François-Xavier)があるSaint-François-Xavier(13号線)、通り(Avenue Franklin-D.-Roosevelt)があるFranklin D. Roosevelt(1号線と9号線)、1885年に作られた広場(Place Victor-Hugo)があるVictor Hugo(2号線)など有名人の名前があり面白かった。街の歴史が幾層にも重なり、古代から現代まで、大きな出来事が地名として記録されてゆくのが面白く感じた。

地下鉄や鉄道は乗る際には、ドアのボタンを押して自分で開閉した。Porte de Clignancourt駅からGard d’Este駅の間で突然ジャズを演奏する楽団が、車内に入ってきて、陽気な人たちが楽しい演奏を聴かせてくれて、とても愉快で楽しい時間を社内で過ごした。多くの人が楽しんでいた。Parisの地下鉄(Métro de Paris)には、入り口だけで清算して、出口でチェックがないので、タダ乗りできてしまう。何人もの人がタダ乗りをしようとして、出口ゲートで出てくる人を待っているのを見かけた。

Montmartreではバシリカ(Basilique du Sacré-Cœur)へ行った。Château Rouge駅から雑居ビルが立ち並んだ下町という感じがする繁華街を抜けてゆくいくつかの通り(Rue Poulet, Rue de Clignancourt)を進んだ。辺りは商店街や住宅地が広がり、19世紀に建てられた家が多かった。坂道(Rue Muller)になり、階段(Rue Maurice Utrillo)を登って、通り(Rue du Cardinal-Dubois)でバシリカの前から階段を上がり、モンマルトル(Montmartre)の丘の頂上まで登った。

バシリカは丘の上に位置しており、展望台(Square Louise-Michel)から、市街を一望できるため、沢山の観光客がいた。また、お土産物を売る人も多く出ていて賑わいがあった。Parisの市街が一望できる展望台でこれだけの建物が立ち並び、これだけの人々が暮らしていることを俯瞰して実感できた。

(「殉教者の丘」Mont des Martyrs < Mons Martyrum < 「殉教者」martyr < 古典ギリシア語μάρτυρ / mártur < 「証人」μάρτυς / mártus < ヘレニック祖語*mértos < 印欧祖語*(s)mer-t-os < 「記憶する」*(s)mer-が語源で3世紀中頃にディオニュシウス(Dionysius < Διόνυσος / Dionysos)が殉教した。

トゥールのグレゴリウス(Gregorius Turonensis, 538-594)の《フランク史(Historia Francorum)》やヴェナンティウス・ホノリウス(Venantius Honorius, c. 530-609)に帰せられる《聖ディオニュシウス、ルスティクスとエレウテリスの受難(Passio SS. Dionysii Rustici et Eleutherii)》で記載され、 836年にサン=ドニの修道院長イルデュアン(Hilduin de Saint-Denis)が《伝記(Areopagitica)》を書き、ヤコブス・デ・ウォラギネ(Jacobus de Voragine, 1230-1298)の《黄金伝説(Legenda aurea)》で首を刎ねられた後、自分の首を抱えて歩いてゆき、サン=ドニ大聖堂(Basilique de Saint-Denis)がある場所で息絶えたという伝説が流布された。

1534年にイグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio de Loyola, 1491-1556)、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier, 1506-1552)、ピエール・ファーヴル(Pierre Favre, 1506-1546)、アルフォンソ・サルメロン(Alfonso Salmerón, 1515-1585)、ディエゴ・ライネス(Diego Laínez, 1512-1565)、ニコラス・ボバディリャ(Nicolas Bobadilla, 1511-1590)、シモン・ロドリゲス(Simão Rodrigues, 1510-1579)が誓願を立てて、イエズス会(Societas Iesu)を設立した。)

バシリカに入ると、キリストの心が金色で表現されていた。レストランやお土産物屋さんが立ち並んでいる周りの通り(Rue du Cardinal Guibert, Rue du Chevalier de la Barre, Rue du Mont-Cenis, Rue Norvins, Rue des Saules)を散策して、沢山の画廊を横目に見ながら、広場(Place du Tertre)に戻った。丘には沢山のヴァイオリニストやフルーティストがいて、大バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)の無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータをヴァイオリンで弾いていたり、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のトルコ行進曲をフルートで弾いていて、多くの人が立ち止まり、演奏に耳を傾けていてにぎわっていた。

周辺には数えきれないほどの喫茶店があり人でごった返していた。観光地らしく、沢山の商売人がいて、観光客を見つけて、手に編んだ糸をかけて、高額を請求したり、スリのような人が沢山いて、無視したがしつこく付いてくるので、早歩きで立ち去った。フランス人は、街を歩くのが早くて、無視して颯爽と通り過ぎていくので、捕まりにくく慣れていると思った。バシリカまで戻り、前の広場(Square Louise-Michel)の階段を降りて、丘を少し下り、散策をしたり、パリ市街を望むところで父と一息をつくことにした。

それから、近くの広場(Place du Calvaire)の小道(Rue Poulbot)に面するダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)の美術館(Dalí Paris)に向かった。地図が大雑把過ぎて、近くにあるはずなのに見つからず、立ち止まり、道を聞くと、そこへ行こうとしている地元の人がいて、一緒に行きましょうと案内してくれた。美術館は人通りの少ない所にひっそりと建ち、聞かなかったら見つけられそうにないほど、路地の入り組んだ所にひっそりとあった。

小さなスペースから館内に入ると、素描や鉛筆がや彫刻作品を中心として所狭しと並べられていた、昨日のピカソ美術館 (Musée National Picasso)に較べて、もう少し真面な絵が多くて楽しめた。有名な柔らかいチーズのようにソフトにとろけた時計をモチーフとした作品が多く、彼がアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)の相対性理論が発表された頃、時計のモチーフが大層気に入っていたのが窺えた。DalíもMontmartreに住んでいたことがあり、そこで絵を描いている時の写真とその実物の作品が展示されていて、とても興味深い時間を過ごせた。

美術館を出てから、階段(Rue du Calvaire, Rue Gabrielle, Rue Drevet)で坂を下り、街に出た。通り(Rue la Vieuville)を下ると、広場(Place des Abbesses)に出て、「私はあなたを愛している」とあらゆる言語で書かれた壁(Le Mur des Je t'aime)を見た。フランス語、イタリア語、スペイン語、ラテン語、英語、中国語、日本語でも書かれていて笑ってしまった。隣の広場(Place des Abbesses)に煉瓦造りの美しい教会(Église Saint-Jean de Montmartre)があった。更に通り(Rue André Antoine, Rue Véron, Rue Germain Pilon)を通り、丘を下り、真ん中に緑がある大通り(Boulevard de Clichy)に出てから、西に歩いた。9区は酒場などの夜のお店が多くて、治安があまりよくなさそうだった。

近くの駅(Blanche)から地下鉄に乗り、途中の駅(Barbès-Rochechouart)で2号線から4号線に乗り換え、数駅先の駅(Porte de Clignancourt)で降りて、大通り(Avenue de la Porte de Clignancourt)を北に歩き、Paris市街の新しい外殻をなしている一番北側の端へ行くと、クラクションが鳴り響いていて、街の雰囲気が良くなかった。環状道路(Boulevard Périphérique)を越えた北側の大通り(Avenue Michelet)に面した蚤の市(Marché aux puces de St-Ouen)を訪れたかったが、その前に有名なジャズのギタリストの名前ジャンゴ・ラインハルト(Django Reinhardt, 1910-1953)を冠した市場(Place Django Reinhardt)があり、スリが多そうで治安が悪くて危険な上、雰囲気が良くなかったので、さっさと切り上げて、近くの駅(Porte de Clignancourt)から、地下鉄に戻り、途中の駅(Gare de l'Est)で4号線から5号線に乗り換えて、宿の近くの駅(République)まで戻ってきた。

食料品を少し買って、宿に戻った。昨晩にも沢山お話をしたイギリス人Andyが食堂にいて、英語とフランス語で、ヨーロッパの言語の成り立ちと発展について話したり、出身のイングランド南部の街(Bristol)の名所などを教えてくれて、4時間以上も話が盛り上がり話し込んだ。

Bristolは、やはり、橋(bridge)に関係して、橋がある町という意味だそうである(中英語Brigstow < 古英語Bryċġstōw < 「橋」bryċġ +‎ 「所」stōwと分析でき、西ゲルマン祖語*bruggju < ゲルマン祖語*brugjǭ < 印欧祖語*bʰerǵʰ-i-Hon- < 「高い」*bʰerǵʰ-、西ゲルマン祖語*stōwu < ゲルマン祖語*stōwō < 印欧祖語*steh₂-weh₂ < 「定住」*steh₂w-にまで遡り、橋が架けられたAvon川はウェールズ語「川」afon < ブレトン祖語*aβon < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō < 「水」*h₂ep-が語源)。ケルト人が住んでいて、ローマ人が入り、サクソン人が来て、典型的なイングランドの町の変遷に感じた。

お城と大聖堂が特に素晴らしいそうで来てくれたら案内をするから、是非とも歴史を語ろうと話していた。日本人とシンガポール人と彼と五人ほどで食料品を割り勘して、一人5€ほどでスモークサーモン・サラダ・ご飯・味噌汁を食べることができた。特に友達ができると食事も楽しくできた。ご飯と味噌汁は、日本人が多く持ってきたために持て余してして、タダで振る舞ってくれた。夜まで話明かして、シンガポール人にParisで変わったといいところなどを聞かれて、昨日と今日に見てきた場所について、詳しく話したりと楽しい時間を過ごした。

ホテルで個室が与えられるより、食堂や応接室で多くの人とおしゃべりをして、情報交換をすることができるのが、旅の一つの面白さであり、昼は街の中をくまなく歩き回り、夜は色んな面白いお話をお互いにすることができるのが、旅の醍醐味であると感じて、これからもそうしてゆこうと思った。

Parisの市街をモンマルトルの丘(Montmartre)から臨む

2008年4月13日(日)4日目(Paris-Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

Parisでシャンゼリゼ通り(Les Champs-Élysées)を歩いて、凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile) やエッフェル塔(La tour Eiffel)から街を一望した。飛行機に乗り、Lourdesに着いてから、雨が降ってきたが、洞窟(Grotte de Massabielle)の手前で水を汲んだ。

今日は、Paris最後の日のため、有名所を回った。朝食後、荷物を地下のコインロッカーに入れて、最寄駅(République)で地下鉄に乗り、途中の駅(Hôtel de Ville)で11号線から1号線に乗り換えて、目的の駅(Champs-Élysées - Clemenceau)で降りた。1号線は車輛も、駅もきれいで、どの駅にもParisの歴史に関する展示があった。朝の大通り(Avenue des Champs-Élysées)は人通りが少なく、喫茶店や店は閉まっていたが、建物が整然と立てられた街並みが美しかった。朝早く清掃局の人が来て、水で一つ一つの通りが洗われ、路面がきれいに流されて、石畳が黒光りした朝の街が最も美しかった。

駅を出てから、公園(Square Marigny, Square de Berlin)の間を通り、大きなロータリーの噴水(Les Fontaines)を見て、邸宅(Hôtel d'Espeyran)や有名なフランス料理店(Brasserie L'Alsace)、シャネル(Chanel)、ルイ・ヴィトン(Louis Vuitton)、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)の本店を見ながら、凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile)に着いた。

凱旋門に登るための券売所がまだ閉じていて、おまけに目立たない所にあり、券売所を探すのに戸惑ったが、係が中から出て来て場所が分かった。少し待つと、入場券を買って登ることできた。大通り(Avenue des Champs-Élysées)やエッフェル塔(La tour Eiffel)の雄姿は圧巻だった。凱旋門から、四方八方に放射状に通りが伸びていて、大層美しかった。

特に大通り(Avenu d'IénaとAvenue Kléber)の間にエッフェル塔が見えて、南側の眺めが気に入った。父と眺めを楽しんでいたら、フランス人がお写真をお取りしましょうと父と一緒に収めてくれた。特に人が多くいるところでは、相手の方から写真をお取りしましょうと声をかけて下さるので凱旋門の上でエッフェル塔の前で写真を取ることができて父と一つ良い思い出ができた。

下には凱旋門に関する展示室があり、色んなデザイン案が展示されていて、興味深かった。どれも美しかったが、確かに今ある形が一番無駄がなくスマートに見えた。凱旋門を下りて、エッフェル塔(La tour Eiffel)に向かうために大通り(Avenue Marceau)をひたすら南に進んだ。1931年に建てられた石造りの教会(Église Saint-Pierre-de-Chaillot)、スペイン大使館(Ambassade d'Espagne à Paris)、イヴ・サンローラン美術館(Musée Yves Saint Laurent)を見て、通り(Avenue du Président Wilson)を歩いた。ガリエラ美術館(Palais Galliera)や近代美術館(Musée d'Art Moderne de Paris)を見て、その脇から通り(Rue Gaston de Saint-Paul)を歩いた。

(裏の通り(Avenue George V)に面したアメリカン・カテドラル(American Cathedral)があり、少し遠くには通り(Avenue du Président Kennedy)もあり、アメリカ人が多く住んでいる地域と感じられた。ガーシュウィン(George Gershwin, 1898-1937)の《パリのアメリカ人(An American in Paris・1928年)》を思い出した。)

Seine川沿いに大通り(Voie Georges Pompidou)を歩いてゆくとエッフェル塔が見えてきた。橋(Pont d'Iéna)には、見るからに怪しそうなスリがいて、物を落としたふりをして、拾おうとしていたので無視して、速足で歩いて去った。大通り(Quai Jacques Chirac)をエッフェル塔を目印に歩いて近づいていった。

エッフェル塔(La tour Eiffel)に着いて、登るために長蛇の列に並び、一時間位待たされた。警察や軍の兵士が行き来して、強力な防犯の対策をしていた。警察は自転車に乗っていて、スリが物を盗んで通り去ろうとして、警察犬が追いかけていたり、治安の悪さを感じながら、頼もしさも感じた。

三階まで昇降機で登った。二階で昇降機を乗り換え、人がごった返していて、居心地はよくなかったが、高い所からの眺めは素晴らしかった。特にエッフェル塔の南側には公園(Bassins du Champ de Mars)があり、北側にはSaine川を挟んで、庭園(Jardins du Trocadéro)とシャイヨー宮(Palais de Chaillot)があるために眺めが良かった。吹き飛ばされそうなくらい風が強く、髪の毛がもじゃもじゃになったが、Parisで最も高い所に入れて嬉しかった。

晴れていて大層美しく、街並みや景色を臨めて大満足だった。父とまた記念撮影をした。父が凱旋門よりも高いから見晴らしが良くていいね。これでParisにもお別れができたねと話していた。塔を降りてから周りを散歩して、川岸の来た道(Quai Jacques Chirac)を戻り、橋(Pont de l'Alma)を通り、駅(Alma - Marceau)で地下鉄9号線に乗り、最寄の駅(République)に直行して、宿に戻った。

午後2時少し前に宿に着いて、飲み物を飲んだり、少し休憩してから、昨日、一昨日話したイギリス人Andyとお別れをして、チェックアウトをして、空港(Aéroport de Paris-Orly)への行き方を受け付けの人にきいて確認して、宿を後にした。République駅で切符を買い、地下鉄に乗り、Châtelet駅で11号線から、4号線に乗り換えて、Denfert-Rochereau駅でRER(鉄道Réseau express régional d'Île-de-France)のB線に乗り換えた。地下鉄の中にも物乞いがいて驚いた。

RERの駅で人に行き方を聞くと、途中の駅(Antony)でモノレール(Orlyval : navette automatique Orly)に乗り換えるとのことだった。この線は途中で分かれていて、入念に確認して乗り込んだ。駅(Cité Universitaire)の構内で自転車で乗っている人がいて、日本では普通の自転車は鉄道に乗せることはあまり歓迎されないので興味深かった。

無事に午後3時頃、空港(Aéroport Orly Ouest)に着き、チェックインをした。荷物を持つ人用に袋をくれて、その中に入れて出した。搭乗口に向かうと直に搭乗をした。搭乗口からバスで飛行機まで向かうのだが、タラップから乗る仕組みで、初めての経験だった。機内は狭かったが、快適でヴィヴァルディ(Antonio Lucio Vivaldi, 1678-1741)やモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の協奏曲が流れていた。席に落ち着いてから少し経つと、隣の席に小さな男の子が空港職員や客室乗務員に連れられてきた。幼稚園生か小学校低学年の小さな子供が、飛行機に乗り、ParisからLourdesに一人旅をするとは、フランスの小さな子はタフに感じられた。

飛行機が飛び立つと、空港の周辺すぐ近くまで畑があり、風景がとても美しかった。初めの頃は、隣の子供が静かにフランス語の絵本を読んでいた。

途中で飲み物のサービスがあり、ビスケットを貰った。レモン入りのビスケットはとても美味しかった。飲料配給の直前に隣の子が机を出すんだよと、フランス語で実演をしながら丁寧に説明をして教えてくれたり、隣の座席のシールを剥がして口に張って笑わせて来たり、なかなかお茶目な子だった。中国人かと聞かれて、日本人だよと答えると、目を大きくして手を叩いてなぜか喜ばれた。

客室乗務員と話をしていると、直ぐに空港(Aéroport de Tarbes-Lourdes Pyrénées)に着いた。午後5時半にタラップを降りると目の前にはかき氷のように雪をかぶったピレーネの山々が連なり、新鮮な空気もおいしくて風光明媚な所に来たという感じがして気持ちがすがすがしかった。小さな空港のため、飛行機から降りると、直ぐにロビーがあり、荷物を取って外に出た。

空港を出るとロータリと駐車場しかなかった。タクシーが皆、出払ってしまい、20分位待っていると陽気で優しい運転手さんが声をかけてくれた。Lourdesの町に行きたいと話すと、OK !と言って、景色や高山に雲が綺麗だとか、話をしているうちに町に着いた。運転をしながら、水を取り出して飲もうとしたとき、ウィスキーじゃないから安心してと大笑いで冗談を言うので、「これはルルドの洞窟の水でしょうか?(C'est l'eau de la grotte de Lourdes ?)」とすかさず切り返すと、「これはルルドの水だけれども、洞窟のじゃないよ!(C'est l'eau de Lourdes, mais ne pas de la grotte !)」とまたまた大笑いしながら、空港から田舎道(N21とD914)を少し走るとLourdesの街が見えてきた。

タクシーの運転手に洞窟に近くて良い宿を紹介して欲しいとお願いをすると任せてくれと、私たちを宿の前まで連れて行ってくれた。運転手さんが荷物を出しながら、ここは部屋がきれいだし、店主が気前がいいから、快適に過ごせると思うよと言ってウィンクをした。フレンドリーで親切にして頂いたので料金とチップを渡すと、運転手さんはとても喜んで受け取った。

通り(Rue Sainte-Marie)に面した宿(Hôtel Saint-Sauveur)は、マリア様が出現した洞窟(Grotte)から、通り(Rue Saint-Joseph)を歩いて、5分もしない所にあり、中心街の良い場所に位置していた。受付に黒人の女性がいらして、素晴らしい宿だよと興奮していた。三泊のチェックインをして部屋に入ると、狭くても小ざっぱりして、内装がカラフルできれいだった。部屋の前の通りの眺めも美しくて快適に過ごせそうだった。雨が降ってきたが、早速マリア様が出現した洞窟に行ってみることにした。水筒を持ち、五分ほど下ると、水汲み場があり、そこで水を汲んだ。雨が激しくなってきたので、洞窟に行くのは、次の日にお預けして、宿に戻り、併設のレストランで食べることにした。

スープとマルゲリータピザとグリーンサラダを注文した。スープはホウレンソウが入りパンとあって、寒い日には体を温めるのに良かった。パンのお代わりまで頂いて、サラダとピザを食べるとお腹が一杯になった。出ようとした時、先ほどの黒人の女性が横に座っているのに気がついた。

アメリカ人の夫人も交えて、Lourdesの美しさ、マリア様は世界各地の様々な所に出現して忙しそうだねなど、冗談を交えながら、2時間くらい、レストランでおしゃべりをして楽しんだ。

旅に出る前に家の前で撮影した桜の写真を見せると、とても感動して、日本の話になった。彼女の親戚が日本のガーナ大使館で働いていることから、日本の宗教事情をよくご存じで、様々な宗教の長所を取り入れ争いがないこと、日本の精神性を高く評価していた。

Lourdesに20年前から2カ月に1回来ているそうで、今まで150回は来ていると言っていた。そんなに来たんですかと驚くと、もうLourdesは私の故郷よと豪傑笑いをしていた。宿の人とも仲良しで、常連だったから、支配人が少し留守をしているとき、受付で店番を任されてしていたようだった。部屋に戻り、シャワーを浴びて寝た。誕生日が明後日と伝えると、宿の支配人に言っておくよと言っていた。

Parisでは、ルーヴル美術館(Musée du Louvre)やパンテオン(Panthéon)など有名どころには行かなかったが、前にも訪れたことがあるし、いつでも来れるため、今回は特に都市の成り立ちを示しているCité島を中心とした南北の中心地を歩いて回ることができ、大満足だった。

夜にはスペインの国境にほど近い南フランスのLourdesで過ごせて、都会の喧騒を離れて、お部屋も個室に泊まることができ、数日はゆっくりとLourdesで休んで、巡礼を始めることができてほっとした。

Parisは大都会過ぎて、宿においても、街においても、特に危険を警戒する必要があるため、余計に気を使わなくてはならず、また、歩いても、歩いても、石造りの建物が多くて、自然が少ないため、圧迫感があると感じた。Lourdesは自然が豊かで山や川や緑に囲まれて、空気もきれいで美味しくて、また、洞窟からはきれいな水が湧きだしていて、心が伸びやかになるような良い場所に感じられた。

凱旋門(Arc de triomphe de l'Étoile) から眺めたエッフェル塔(La tour Eiffel)

2008年4月14日(月)5日目(Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

Lourdesで聖母が出現した洞窟(Grotte de Massabielle)や聖ベルナデッタ(Bernadette Soubirous, 1844-1879)の生家(Maison Natale de Bernadette)や家(Maison Paternelle de Sainte-Bernadette)などの史跡を訪れたり、街中を散策した。古城(Château fort de Lourdes)から見えた街並みは箱庭のようで美しかった。夜には大聖堂の前の蝋燭行列に参加した。

今日は晴れと曇りを繰り返す不安定な天気だった。雲がピレネー山脈(Les Pyrénées)にぶつかり溜ってくると、雨が降ってきた。朝食は7時半でパンとチョコレート飲料等で美味しかった。

朝食後、荷を整えてから、洞窟(Grotte de Massabielle)に行った。朝早くだったので人が殆んどおらず、マリア様の像が美しく立っていた。下には「私は無原罪の御宿りである(Que soy era Immaculada councepciou.)」と地元の方言で書かれていた(オック語(occitan)のガスコーニュ方言(Gascon)でフランス語「Je suis l'Immaculée Conception.」に当たる)。

Pau川も水を湛えて美しかった。洞窟の周辺は整備され過ぎていて、1943年に作られた聖母出現の映画「聖処女」に出てくるような150年前と風景とは大きく違った。洞窟の表面がみんな触り、つるつるになっていた。おでこを当てている人、ロザリオを付けている人もいた。水源は蓋をされていて、水が湧きだしているところまでは、よく見えなかったので少し残念だった。しかし、ここに150年前マリア様が現れたことを思うと、こんなことはささいなことで清らかな場所であった。

そして、大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)に入った。朝のミサの直前で人が沢山集まっていた。中央にある、マントも広げたマリア様が印象的だった。側面の聖書物語の話を見て後にした。一度洞窟を訪れたが、お昼時間中は人がとても少なくて、ゆっくりと見ることができた。Lourdesは、フランスでありながら、Pyrénées山脈を隔て、スペインに近いため、Siestaの習慣が根付いていた。大聖堂の時報の鐘からは、Ave Mariaの旋律が流れてきて、Lourdesらしいと思った。

それから、橋(Pont Saint-Michel)で川(Gave de Pau)を渡り、雨の中、ベルナデッタ・スビルー(Bernadette Soubirous, 1844-1879)とマリア様の出現に関する博物館(Musée Sainte-Bernadette)に行った。そこは無料で入館でき、1858年2月11日から日付を追い、何が起きていたのか、詳しく述べられていた。Bernadetteに関する本物の資料もあり、とても興味深かった。

Bernadetteの肖像画や手紙もあり、特に手紙の文字はとても美しく、マリア様に出会った当時は無学だったが、一生懸命勉強したことが窺われた。その後のことや大聖堂の建築について詳細まで述べられ素晴らしかった。その外にはマリア様の出現地と説明があり興味深かった。それから、大通り(Boulevard de Grotte, Avenue Général Baron Maransin)を歩いて、街中に入った。

Bernadetteが洗礼を受けた教会(Église Paroissiale du Sacre-Cœur de Lourdes)に入り、本物の洗礼盤を見た。広場(Place Peyramale)に出て、不思議なメダイ博物館(Museo della Medaglia Miracolosa)を訪れたが入れず、通り(Rue Basse, Rue de la Fontaine, Rue du Bourg)を進み、マリア様が出現した当時住んでいた家(Maison Paternelle de Sainte-Bernadette)を訪れた。そこは人でごった返していたが、牢獄の跡でとても貧しくみすぼらしい外観だったが、思いの外、中は広くて、日本の住宅事情を考えると酷いとは思えなかった。Bernadetteの靴やロザリオが展示されていた。そこで街の名所を巡るシールをもらい、先ほどの教会に戻り、首から下げる台帳とシールをもらった。

それから、通り(Rue Latour de Brie, Rue de Pau)を歩いて、病院(Hospice de Nevers)に向かった。イタリア人の集団と車椅子の人でごった返していた。Bernadetteの貴重な写真があった。晩年の手紙を見ると達筆で小さな紙にぎっしりと書かれて美しかった。少し晴れてから、また酷い雨に降ってきた。それから、街(Avenue Général Baron Maransin, Boulevard de la Grotte)を通り、Bernadetteの家まで戻ってきて、一度ホテルに戻り、雨合羽を来て、一息をついてから、バシリカ(Basilique Notre Dame du Rosaire)や洞窟(Grotte de Massabielle)の辺りを散策した。

それから、父と街を見下ろす高台の古城(Château fort de Lourdes / Castèth de Lorda)にある博物館(Château Fort Musée Pyrénéen)に行こうと話し合い対岸に渡り訪れた。昇降機で城まで上がると、美しい小さな町がお城の中に広がっていた。塔の上に登り雨宿りをすると、直に晴れてきて、町が一望できて、美しかった。町はコンパクトにまとまっていて、街のど真ん中に建てられた城の四方からは、街の全体が見えて、城が建てられた意味がよく分かった。

塔を下り、城の中の礼拝所や物見台に行った。物見台には、1732年製の東インド会社の紋章付きの大砲があった。博物館には、Pyrénéesの民族の生活、服装、家の中、農耕、職人、宗教など様々な展示があり、生活感のある美しい道具が溢れていた。墓地の城壁に埋め込まれていた15世紀に作られた謎の文字が書かれた石板(La pierre d’Espeldoy)や鋼板(La stèle discoïdale)があり興味を持った。

それから、Bernadetteが生まれた家(Maison Natale de Bernadette)に行った。先ほどの牢の跡に暮らしていた家とは違って、美しくつつましやかな家で良い環境だった。そのため、生まれたときは、暮らしは不自由でなかったが、それから一家の大黒柱が働けなくなり、苦しい生活をしていたことがうかがわれた。家族で使っていたベッドや当時の聖職者たちの写真や肖像画があった。

上の階には、Bernadetteが生まれた部屋があり、皆いたずら書きをするため、ガラス張りとなっていて、こんなところにも落書きをするのかと興醒めしてしまったが、生家を訪ねることができた喜びは大きかった。大通り(Boulevard de la Grotte)には沢山の商店やレストランやホテルが立ち並んでいて活気があった。二種類のBernadetteに関する説明をフランス語でしている栞を土産物屋さん(Palais du Rosaire)で買った。

宿に戻り、2時間くらい仮眠してから、夕食を宿の下の階にあるレストランで食べた。スープはラザニア風のトマトべースでパスタは筒状でパンをつけて食べると美味しかった。ボローニャ風のスぺゲッティを食べてから、サラダを沢山おかわりした。Lourdesには、フランスと同じカトリック教徒であるイタリア人が多く訪れるため、美味しいイタリア料理店が多かった。

食後、部屋に戻り、少し休んでから、宿の中の売店でフード付きの蝋燭を求め、洞窟の前の広場(Sanctuaire Notre-Dame de Lourdes)に行き、蝋燭行列に加わった。夜になると晴れてきて、蝋燭行列が無事に行われた。暗くなっていくと、段々と蝋燭を灯す人が増え、美しさを増してきた。

フランス人の老夫妻に人分けてもらい点火すると、美しく温かい炎が灯った。ラテン語、フランス語、イタリア語、スペイン語、英語、ドイツ語、オランダ語で挨拶があり、教会の中から出てきたマリア様の像を先頭に祈りの言葉や聖歌を歌いながらゆっくりと進み、Ave Mariaの間に皆が蝋燭を挙げて、聖歌が声高々に歌われて一体感があった。平和を切実に望み願い、マリアやイエスに取り次ぎを頼む、皆のお祈りが一体となり、ミサが屋外で行われて、行列を歩いてゆく人々の祈りに満たされていて、全てを清らかなものに変えるような強さを感じた。

宿に戻って、温かいお風呂に入り、フランス語のドラマを見て、眠りについた。今日はLourdesの街を歩き回り、お城から眺めることもできて充実していた。父が明日は誕生日だね。こんなに空気がきれいで景色も素晴らしいLourdesで迎えることができて良かったねと話していた。

古城(Château fort de Lourdes)から眺めた街並み

2008年4月15日(火)6日目(Lourdes: Hôtel Saint-Sauveur)

誕生日をLourdesの洞窟(Grotte de Massabielle)の前で迎えることができた。生まれた時刻の午後1時13分ちょうどに記念撮影をした。聖品博物館で出現に関する色んな展示を見た。

今日は誕生日で予てから、洞窟(Grotte de Massabielle)の聖母の前で迎えたかった。午前6時に起きて、朝早くに父と洞窟(Grotte de Massabielle)に向かった。午前6時53分の日の出の前の15分前後に、既に敬虔な人々が沢山集い、朝のミサを行い、マリア様にお祈りを捧げていた。とても美しい場所で前日から燃える蝋燭が色を添えていた。日の出を洞窟の前で迎えて、穏やか気持ちになり、宿に向かい、昨日と同じように朝食をとった。身の回りの片付けをして、また、洞窟の前に行った。

昨日と違い天気も良く、人が多く得に車椅子の人が列をなして、宿の前を通過していた。皆、身体が健康でないために祈りに来ている人が沢山いた。洞窟に着き、昨日にも訪れた大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)に入った。

昨日とは反対側の側面の絵を見て出て、大聖堂の脇からスロープを上り、十字架への道(Chemin de croix)を進んだ。丘の上からは見晴らしがとてもよく、ピレネー山脈や市街が見渡せた。イエスの受難物語の彫像の前で祈りを捧げている人たちいて、聖歌を歌いながら歩いていて、ミニ巡礼のようだった。途中の道から見える雪を湛えたPyrénées山脈はとても美しく心に残った。

また、ケルト十字の立派な彫刻が施された石の十字架(Croix en mémoire du premier pèlerinage irlandais 1913)があった。岩が沢山置かれた塀の間を縫うようにある道(Route de la Forêt)の坂を下り、バシリカ(Basilique Notre Dame du Rosaire)のスロープを通り、博物館(Musée des Miracles de Lourdes)に行った。入館料を一切取らず、本当にLourdesの歴史を知って欲しいことが伝わる展示の内容でとても良心的だった。修道女の方がたが熱心に見ているのと同じくらい私も熱心に見た。Toulouse大司教から賜った聖品や行列の先頭の司教が持った聖品や聖旗等、展示物は沢山あった。

地下聖堂(Basilique Saint Pie X)を少し訪れるとミサをしていた。それから、隣の郵便局(La Poste Relais)に入り、日本に荷物を送るのにかかる送料を調べた。明日の旅立ちの準備のため、いくつかの大通り(Boulevard Rémi Sempé, Boulevard de la Grotte, Boulevard du Lapacca, Aveune de la Gare)を駅(Gare de Lourdes)まで歩いて、スペイン国境近くの巡礼を始める町(Saint Jean Pied de Port)まで切符を購入して、発車時間を確認した。駅員さんは丁寧に教えて下さり、午後0時10分発の大都市(Bayonne)行きの鉄道に乗り、そこで乗り換えて、午後5時少し過ぎに到着するとのことだった。

それから来た道を戻り、川を渡り、洞窟(Grotte de Massabielle)を訪れた。生まれた時刻(午後1時13分)に洞窟の前で待ち、きっかりの時間にマリア像の前で感謝のお祈りをして記念撮影をした。それから、街中を歩いて、大通り(Boulevard de la Grotte)に面した土産物屋さん(A la Protection de Marie)に美しいマリア様の像があり、大きい方と迷ったが、重さを考えて、小さい方を求めた。

途中で立ち寄ったある土産物屋では、聖母像を探していたら、店の人が中から出てきて、いきなりプラスチックで作られた聖母像を床に落として壊れないでしょうと実演するのには本当に驚いてしまった。聖母像を床に落とすのが考えられず、それ以前に商品を落とす店では、買いたくないと思った。

宿に戻り、郵送する荷物を纏めて、街中の通り(Avenue Général Baron Maransin)に面した大きな郵便局(La Poste Relais)に向かった。途中で通り(Rue de la Grotte)に面した本屋さん(Palais du Rosaire)でBernadetteに関する本を買うとき、レジの店員さんがマリア様の恩寵があなたの巡礼中も、それからも満たされますようにとフランス語でとても暖かい挨拶をしてくれた。

郵便局について、2kgまでの小包の発送キットを購入して、日本に送りたい荷物を入れると5kg超過して、栞のブックレットを抜くと8g超過だったが平気で2kgぎりぎりで出せた。

郵便局には、沢山美しい切手があり、Lourdesのマリア様やBernadetteの図柄の切手や台紙が多かった。宿に戻る途中(Rue de la Grotte)に美しい古葉書を売る古本屋さん(Atelier Marie M.)があり、古書や葉書があり興味が湧いてきて、ゆっくりと探し求めることにした。

二時間位、宿で仮眠してから、宿内のレストランが混んでいたため、午後6時に夕食の前に大聖堂(Basilique de l'Immaculée-Conception de Lourdes)でTorinoの聖骸布の展示を見た。大聖堂前の広場には沢山の人がいてにぎやかだった。科学的に分析していて興味深い内容だった。二千年前の布が現代に残されたとはとても不思議であった。1500年代に火災や水害に遭い修理を受けていた。布に付着した花粉や跡がどう付いたかなどが分析されていて、独立して発見された手稿で発見された聖骸布の記述や絵図と比較がなされていた。科学的かつ文献的な調査の結果が展示されていて興味深かった。

宿に戻ってレストランで食べようとしたら、給仕の人が午後7時にならないと開かないから、同じ内容で同じ人が営む、同じ通り(Rue Sainte-Marie)に面した隣の隣のレストラン(New Orleans Café)に丁寧に一緒に案内して連れて行ってくれた。ホテルと内装の雰囲気は大きく違ったけれども、提供される料理の内容や価格は同じだった。サラダとスープと4種のチーズのピザを注文した。日替わりトマトベースの白菜と豆が入った美味しいスープがあった。

サラダもふんだんでパンや水もお代わりを持ってきてくれた。ピザがクリスピーでイタリアで食べられるのと同じように石窯で焼かれたとのことで、とても美味しかった。宿の支配人がイタリア系であるからと店員さんが教えてくれて、イタリアと同じような本場のこだわりの味を楽しめた。

食後部屋で少し休んで、テレビをつけると、国境が近いため、フランス語・スペイン語・イタリア語・英語・オランダ語・ドイツ語と言語が盛り沢山だった。テレビを見ていると、段々と日が暮れてきて、大聖堂に向かおうと思ったとき、大音量で夜の蠟燭行列の始まりの挨拶が聞こえてきた。

今日は行列には加わらず、大聖堂の上から美しい蝋燭行列を眺めた。上から見るととても美しく、ほんわりとした光が揺れていて、また違った雰囲気を味わえた。大聖堂も点灯されて、今まで見た中でも、最も美しい景色の一つだった。

蠟燭行列の式が終わると洞窟の脇で聖水を汲んで宿に帰り、今日は色んな所を歩いて回り、立ち続けて疲れていたため、また明日は巡礼を始める村まで移動をするため、午後11時に眠りにつき、Lourdesでの誕生日を終えた。Lourdesは小さな町で端から端まで半日もあれば直ぐに歩けてしまうほどコンパクトで空気が透き通るほどきれいで小川のせせらぎも爽やかな街で居心地が良かった。

Lourdesは、3世紀の記録(Itinerarium Antonini Augusti)にローマ植民都市(oppidum novum)のLapurdumと(Bayonneと同名で)記録され、732年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のヒシャーム(هشام بن عبد الملك / Hishām ibn ʿAbd al-Malik, 691-743)、778年にカロリング朝フランク王国(Regnum Francorum)のカール大帝(Charlemagne, 748-814)が支配して、ビゴール伯(Comté de Bigorre)が本拠とした。

983年に修道院(Abbaye de Saint-Pé-de-Bigorre)を建設した文書でアストラック伯アルノー(Arnaud II d'Astarac, c. 950-1023)にLourdesの居住者に第三の市場を与えた記録(tertiam partem mercati Lurdensis)として現れ、1114-30年にルルドの士(lo senhor de Lorda)、1163-85年にビゴール伯のルルド城(Petro comiti Bigorrensi in castro de Lorda)と記録されており、13世紀にシャンパーニュ伯(Comté de Champagne)、14世紀にフランス王フィリップ4世(Philippe IV le Bel, 1268-1314)が支配して、1360年の百年戦争のブレティニー条約(Traité de Brétigny)により、1373年までイングランドが支配して、1405年にフランス王シャルル6世(Charles VI, 1368-1422)の領地となった。

Lapurdum > Lourdesの語源は今のBayonneに当たる地方(Lapurdi, Labourd)と同じく、バスク語「盗人」lapur < バスク祖語「盗む」*lap- + 接尾辞 *-urが語源と考えられる。確かにバスク人がピレーネ山脈を越える人を狙う盗賊をした記録が多くあり、778年にロンスヴォーの戦い(La bataille de Roncevaux)でも、カール大帝の軍隊をも苦しめたことから、地名の語源と符合して面白い。

洞窟(Grotte de Massabielle)の前の広場に立つ聖母像

2008年4月16日(水)7日目(Lourdes-Bayonne-Saint-Jean-Pied-de-Port: Le Chemin vers l’Étoile)

Lourdesの街を午前に散策してのんびりした。鉄道に乗り、Bayonne経由でPyrénées山脈麓のSaint-Jean-Pied-de-Portに至り、フランス最後の夜を過ごした。駅や巡礼事務所で最初の巡礼仲間たちと出会い、通行証(credencial)を発行してもらい、リュックサックに聖ヤコブの帆立貝を付けてもらい、巡礼宿に泊まり、今日から巡礼を始めた。もう初日から仲間ができて幸先が良い予感がした。

今朝は寝坊して午前8時過ぎに起きた。急いで朝食をとり、父は荷物の整理と部屋の片づけがあるため、一人で街に出た。とてもよい天気で、沢山の車椅子の人が宿の前を通って洞窟に向かった。宿の前から、道(Rue Sainte-Marie, Avenue Bernadette Soubirous)を歩いて、川(Gave de Pau)に架かる橋(Pont Vieux)を渡り、通り(Rue de la Grotte)を登っていくと蠟人形博物館(Musée de Cire Lourdes)があった。少し奥まった所に位置しているため見つけづらく、受付に人がいなかった。

談話している人に話しかけると、音声ガイドの機械を貸してくれて入場した。19世紀のLourdesの職業や市場について、のどかな暮らしぶりが分かるように洗濯などが展示されていて、当時の町の人の声や説明を聞いた。最後の展示はチョコレート工場や木工上、粉ひきで、洞窟での出現があった。

博物館を出ると、午前10時を少し回り、町のお店も開きだした。町の中心部の目貫通り(Boulevard de la Grotte, Boulevard du Lapacca)を歩きながら、気に入ったポストカードを古本屋さんやお土産物屋さんで見つけて、一枚一枚、気に入ったものを求めてゆくのが楽しかった。宿の近くの広場(Place Mgr Laurence)に面した一軒とても古い(100~150年前)の絵葉書を売る店(Magasin Alliance Catholique)があり、昨日見たものより未使用で状態が良く美しかったので10枚ほど選んで求めた。

午後11時に父と約束していた時間に宿に戻れた。最後に洞窟(Grotte de Massabielle)を訪れて、マリア様にお別れの挨拶をして、今日から始まるSantiago de Compostelaへの巡礼とそれから続いてゆく旅行の無事をお祈りした。天気も良く人も多く出ていたが、聖母像は洞窟にひっそりと佇んでいた。Lourdesの雰囲気を目に焼き付けて、水汲み場で巡礼のための水筒と土産物屋さんで買った小さな容器にも入れて宿に戻り、午後0時10分発の電車に乗り遅れないように急いで出発して駅に向かった。

先程の店(Magasin Alliance Catholique)で気になっていたPontmainやLourdesに出現した聖母、Bernadetteの写真などの絵柄のアンティークな栞を幾つか求めて、急いで駅に向かった。直に電車(TER Nouvelle-Aquitaine 65)が来て、二等客席に乗り込んだ。

Bayonne行きの電車には、巡礼者らしき数人が乗っていた。電車が走り出すと美しいLourdesの町の高台を通り過ぎてゆき、車窓から大聖堂や洞窟も見えて、聖母に本当に最後の挨拶ができた。町から少し離れると、牧場や畑が一面に広がり、その中に転々と家々がある風景が広がり、フランスは農業国であることを実感した。窓から入ってくる空気が気持ちよく顔に当たり、標高が高くてすっきりとした風が吹いていた。ピレネー山脈(Les Pyrénées)を遠くに望むことができ、ポー川(Gave de Pau)の渓谷が美しく、車窓から存分に楽しむことができた。

途中に町があると必ず、教会の塔を中心に人が住んでいるのが解った。4、5つの大きな駅といくつかの小さな駅(Lourdes-Saint-Pé-de-Bigorre-Montaut-Bétharram-Coarraze-Nay-Assat-Pau-Orthez-Puyoô-Peyrehorade-Urt-Bayonne)に停車しながら走り続けて、2時間もすると山がちの地形から、急に平野が開けてきて、家々の大群が見えてきて、海に近い感じがしてきた。

Bayonneに停車して、ホームを降りると、Lourdesの町が治安が良すぎたせいか、治安がとても悪く感じられた。スリに注意しながら、駅の長椅子に腰かけて、日記の続きを書いてから、街を少し歩いた。駅前には1243年に建てられたゴシック様式の教会(Église de Saint-Esprit)があり、とても美しく質素な建物だった。少し歩くと大きなAdour川に橋(Pont Saint-Esprit)が架けられていて、1213年に建てられた大聖堂(Cathédrale Sainte-Marie)の美しい二つの尖塔が対岸に見えた。

(Bayonneは、紀元前3世紀にローマ人が住んだ駐屯地(castrum)のラプルドゥム(Lapurdum)があり、Lourdes < Lapurdumと同じく、バスク語「盗人」lapurが語源。ヴァスコン人はバスク語「川」ibai < *ɦibai + 「良い」on < *honからBaionaと呼んだ。840年にヴァイキングが侵攻して、アキテーヌ公領となり、1152年にトルバドゥールを庇護したアリエノール・ダキテーヌ(Aliénor d'Aquitaine, 1122-1204)が、イングランド王ヘンリー2世(Henry II, 1133-1189)と再婚してから、イングランドのアンジュー帝国(Empire Plantagenêt)に支配され、百年戦争で係争地の一つとなった。)

駅に戻り、直に乗車すると、乗客が巡礼者だけになった。皆さんと少しお喋りしながら、日記を書き続けた。ドイツやアメリカからの巡礼者だった。町は小さいが質素で美しい生活の営みがあった。

中央にある大聖堂や教会を中心に発展した典型的な中世都市だった。電車(TER Nouvelle-Aquitaine 62)は、Bayonneの町を後にして、畑や森、林を通り抜けながら、Pyrénées山脈に沿い進んでいった(Bayonne-Villefranque-Ustaritz-Jatxou-Halsou-Larressore-Cambo-les-Bains-Itxassou-Louhossoa-Pont-Noblia-Bidarray-Ossès-Saint-Martin-d'Arrossa-Saint-Jean-Pied-de-Port)。

フランスの鉄道のホームには、柵が設置されておらず、しかも、電車に乗るときに急な階段を上り、線路から高くないため、線路に簡単に入れてしまうのが、日本と違うと思った。日本でも田舎に行けば、そうかもしれない。南西側の窓から陽射しが強く暑かった。鉄道は巡礼者を乗せて、La Nive川沿いに渓谷をひた走った。山がちの地形になり、トンネルや小さな川を越える橋が多くなってきた。通過する駅名は-itzや-ouで終わるものが多く、綴りにxが多いため、バスクの土地に来ていると感じた。

Saint-Jean-Pied-de-Portの近くには、牧場が沢山あり、牛やヤギが沢山飼われていた。駅に着いて、電車を降りると、街並みは赤いレンガに白い漆喰が塗られた家が多く、素敵な田舎町に辿り着いた。

駅でアメリカ人Paulとハンガリー人Nándorの巡礼者に会い、道が少し込み入っていて、ガイドブックなども誰も持っていないので、街中にある看板などを頼りにして、一緒に道を探しながら、いくつかの通り(Avenue de la Gare, Avenue Renaud)を歩いて、門(Porte de Franca)を過ぎてから細い道(Rue de France)から左手に曲がり、風情のある古い家が立ち並んだ通り(Rue de la Citadelle)に面した巡礼事務所(Les Amis du Chemin de Saint-Jacques)に向かった。そこで英語、ドイツ語、アフリカーンス語に堪能な南アフリカ人Winnyと会った。

巡礼証明書(credential)を発行してもらう間、Paulが、ヤコブの貝殻があるぞと喜んで盛り上がり、きれいな形のものを選んで、リュックサックに付けてくれた。皆が発行してもらえるまで、英語でおしゃべりを楽しんでいた。これから宿泊した場所(Albergue)や通過した場所などでスタンプを一つずつ捺してもらいながら、Santiago de Compostelaを目指して歩いていくということだった。

無事に巡礼証明書を発行してもらい、巡礼事務局の前で記念撮影をして、きれいな街だねと色んな気づいたことをおしゃべりしながら、街の中を進んだ。巡礼が始まったねと皆とても興奮気味だった!

Saint-Jean-Pied-de-Port(バスク語Donibane Garazi)は、Basque人の町で石畳がきれいに敷かれていて、家々の壁は赤と白で美しく、とても清潔感のある街でゴミ一つも落ちていなかった。

家々の門はロマネスク様式の教会のように立派な石造りか防腐のためか赤く塗られた木製であり、ドアの上には、必ず石製や金属の銘文が取り付けられていて、建てられた年が書かれてあった。

中心街に至ると、17世紀、18世紀に建てられた建築が多く、400年も経っている家があるよと驚きながら歩いていた。家々そのものが、街の歴史を物語っていた。巡礼事務局の裏庭には、城壁の遺構(Citadelle de Mendiguren)があり、小さな鉄砲を向ける穴が開けられていた。

通り(Rue de la Citadelle)を行くと、お菓子屋さん(La Fabrique de Macarons)があり、地元の有名のお菓子であるココナッツ味の美味しいマカロン(Macarons saudáveis de coco)を買い、 通り(Rue d'Espagne)に面した小さな15世紀に建てられた教会(Église paroissiale de l’Assomption de la Vierge)と時計がある門(Porte Notre-Dame / Porte d'Espagne)があった。

直ぐに川(Nive de Béhérobie)に架かる橋(Pont Notre-Dame)を渡った。橋の上からの眺めが素敵で川に面した壁の漆喰が一部剥がれ落ち、赤いレンガがむき出しになり、古びた感じに何とも言えない風情があった。高地にある村はとても清潔で快適だった。

それから食料品店(Le Relais des Mousquetaires)でイチゴ味の飲むヨーグルト、羊の乳で作ったブルーチーズ(Roquefort. Société)、トマト、ポテトチップスを買い、巡礼宿(Albergue)に向かった。

巡礼宿(Le Chemin vers l’Étoile)は、古いバスクの家が改装されていて、家具や調度品が素晴らしく美しかった。美しい木造りで建物は17世紀に建てられたそうである。シャワーを浴びて、さっぱりとしてから、皆で近くのレストランに入って、夕食を食べることにした。

南アフリカ人Winnieが巡礼宿の主人に美味しい所を聞いてくれていた。橋(Place Floquet)を渡った町の中にある通り(Rue de l'Eglise)に面した開放的な場所にあるレストラン(Chez Edouard)でピザを食べた。裏手には城壁があり、立派な城門があった。

皆で巡礼の成功を祝いながら、沢山のお国の話などを聞かせてもらいながら、楽しい夕食となった。牛糞の匂いがする中、宿に戻った。更に2人のスウェーデン人女性AnjaとEmmaが加わり、南アフリカ、アジア、ヨーロッパ、アメリカの五大陸制覇だねと冗談を言って笑ったりして盛り上がった。夜を迎えて、明日から早起きして歩いて、巡礼を始めるため、皆で早く寝てしまった。

Saint-Jean-Pied-de-Port / Donibane Garaziは、Donianen, Donibanenと記録され、「聖」don < ラテン語dom < 「主人」domnus < 「家」domus < イタリック祖語*domos < 印欧祖語*dṓm < 「建てる」*dem-、人名「ヨハネ」Ibáñez < ラテン語Iohannes < ギリシア語 Ἰωάννης / Iōánnēs < ヘブライ語יוֹחָנָן / Yōḥānān < יְהוֹחָנָן‎ / Yəhōḥānān < 「神」יְהֹוָה / YAVH < 「在る」ה-י-ה / h-y-h < セム祖語*haway- + 「恩寵に満たされた」חַנּוּן / khanún < 「慈悲深い」ח-נ-נ / kh-n-n < セム祖語*ḥanan-が語源)、バスク語「恩寵」garazi < ラテン語gratia < 「喜び」grātus < イタリック祖語*gʷrātos < 印欧祖語*gʷr̥H-tós < 「崇める」*gʷerH-、もしくは、バスク語「高地」garai < 「高い」*gar̄- + 接尾辞*-aiが語源。

古代ローマの地誌(Itinerarium Antonini Augusti)にImus Pyrenoeusと記載され、1150年にSancti Johannis de Ciseraと記録され、1154年にシチリアでノルマン王ルッジェーロ2世(Ruggero II, 1095-1154)の勅命で編纂されたアルアンダルスの地理学者イドリースィー(الإدريسي)の地誌(نزهة المشتاق في اختراق الآفاق, Tabula Rogeriana)にも記載された。1168年にVia Sancti Johannis et Johannes de Cisera(Cartulaire de Bayonne)、1173年にVilla Sancti Michaelis (Liber peregrinationis ad Compostellam) 、1234年にSanctus Johannes sub Pede Portus(Collection Duchesne CX)、1253年にSan Juan del Pie de Puertos(Collection Duchesne CXIV)と記録された。

バスク語で初めて出版された散文の献辞と韻文の詩集からなる文学作品《バスク初文集(Linguae Vasconum Primitiae)》(1545年)の著者であるバスク人司祭ベルナト・エチェパレ(Bernat Etxepare)の出身地(Bussunarits-Sarrasquette < Duzunaritze-Sarasketa)の隣町である。彼の姓(Etxepare / Echepare < Etxegapare)はバスク語「家」etxe < *e=će + 「主要な」gapare < 古スペイン語capital < ラテン語capitalis < 「頭」caput < イタリック祖語*kaput < 印欧祖語*káput ~ *kap-wét-sが語源で「高貴な家系」という意味である。「バスク語よ、表へ出でよ(Heuscara ialgui adi cãpora)」という冒頭のフレーズが有名でバスク語の文芸運動の端緒となる貴重な遺産となった。

Saint-Jean-Pied-de-Portの中央通り(Rue de la Citadelle)
Konrad Miller (1928). Weltkarte des Idrisi vom Jahrn. Ch., Charta Rogeriana, Stuttgart: Konrad Miller.

2008年4月17日(木)8日目(Saint-Jean-Pied-de-Port-Erreculuch-Huntto-Orisson-Roncesvalles: Conventus Hospitalis Roncidevallis)

巡礼路(Camino francés)を歩き始めた。雨や雹の中、泥道を進み、スイス人修道女の二人組と共に行った。アメリカ人Paulや南アフリカ人Winnyとピレネー山脈(Les Pyrénées)を無事に越えて峠で祝い、Roncesvallesに下り泊まることにした。高地を歩いたため、空気はきれいで見晴らしも良くて快適だったが、雹・雨・霰・突風・晴・曇・雷・雪とありとあらゆる天気を一日で体験した。フランスからスペインに脚で歩いて、国境を越えた時の感動は忘れられない。フランス人の家族が犬と共に巡礼していて、Montpellierに住む、美しい家族とRoncesvallesでフランス語で話が盛り上がった。

今日は皆で寝坊をして、午前7時半頃起き、急いで朝食を取り出発した。今日はPyrénées越えのため、とても忙しく、急な斜面を上り下りしなければならない。生憎天候にも恵まれず大変だった。

父が宿を出るときに今日から実際に巡礼が始まるね。最初の難関とされているピレネー越えをする日がやってきたね。気を付けて無理をしないように歩いて進んでゆこうと話していた。

Saint-Jean-Pied-de-Portの街を出てから、田舎道(Route du Maréchal-Harispe / D-428)を進み、少しずつ坂を上りながら尾根伝いに進んだ。舗装されたナポレオン街道(Route Napoleón / D-428)に沿った巡礼路を少し歩いて小道を入った。出発の頃は少し靄がかっていたが、雨には降られず、時どき晴れ間も見られた。

途中上りで激しく雨が降り、村Erreculuch(バスク語「川」erreka < *er̄ekaと「長い」luze < *luseが語源。Nive de Béhérobieの支流Latsarritako Errékaがあり、ラテン語Erreculusやスペイン語Arrocaluzとも記録された地名)の牛舎に避難した。牛のにおいが耐えられないほど臭かったが、豪雨を避けるには仕方なかった。バスク地方の家は牛舎と一体となっていて、現地の人はこの臭いの中で暮らしているから、もう慣れているように感じた。

道にもよく牛糞が落ちていて、雨が降るとぐちゃぐちゃになるが、高地で腐ることは少なく、自然の風化に任せて、直ぐに乾燥してしまうため、臭いに圧倒されずに生きて行けるように感じられた。

高原や牧場の間を縫うようにある巡礼路を歩いていると辺り一面にカーペットのように青々とした草が見え、遠くに山々を臨め、谷間には家々が点在していて、自然に囲まれた素晴らしい景色だった。山道が少しずつ上下をしたり、蛇行をするようになり、舗装された車も通れるような道であるため、楽に歩いて進んでゆけた。

次の村Huntto(バスク語Huntto, Hounto, Honto, Untto、「良い」on, hon, hun < 、*hon + tto、バスク語「茸」ontto < スペイン語hongo < ラテン語fungus < sfungus < 古典ギリシア語σπόγγος spóngos、バスク語「幹」ondo < *ondo < スペイン語hondo < ラテン語fundu(m) < fundus < イタリック祖語*funðos < 印欧祖語*bʰudʰ-(m)n-o-s < *bʰudʰmḗn < 「深い」*dʰewbʰ- ~ *dʰubʰ- +‎ *-mḗn ~ *-mn̥が語源で山麓に由来)を過ぎてから山道になり、急な斜面を蛇行しながら高度を上げて進んだ。遥か彼方に集落が点々と見えて、草原から森林へと景色が変わり登山をしている実感が湧いてきた。

私たちは二回、道路から牧場に入ってから、道に迷ったが、スイス人の修道女2人が農夫の人に道を聞いてくれて、巡礼路に戻ることができて助かった。

フランス語圏の修道女で母国語で話すことができ、フランスでは快適に過ごせています。スイスからル・ピュイの道(Le Chemin du Puy < Via Podiensis)を歩いてきました。(950-51年に)初めて巡礼をしたLe Puy-en-Velayの司教(Godescalc)が歩いた最も古い道ですよと話していた。

羊を放牧している場所で糞が沢山転がっていた。道路に戻ると少しして、案内板がある展望台があり、そこで休んでいたアメリカ人Paul、南アフリカ人Winnie、ハンガリー人Nándorとまた会った。それから、更に坂道を上り続けてからなだらかになり、Paulとお話しながら尾根を歩き続けた。

Orissonに立派な石造りの巡礼者の休憩所(Refuge Orisson)があり、一休みしてから、Pyrénées越えした。大勢の巡礼者でごった返していた。何人かここ(Auberge Orisson)に泊ると言っていたが、公営の巡礼宿ではなく価格が高い上、更に進みたかったために止めた。(古くは1388年にSancta Maria d’Oriçunと記録され、古フランス語「祈り」 oraisun < 「祈る」orer < ラテン語orare < 「口」os < イタリック祖語*ōs < 印欧祖語*h₁óh₃sでヒッタイト語𒀀𒄿𒅖 / aišやルウィ語𒀀𒀀𒀸𒊭 / āssa < アナトリア祖語*āiss、サンスクリットआस् / āsやアヴェスタ語āh < インド=イラン祖語*HáHs、古プロシア語austoや古教会スラヴ語оуста / usta < バルト=スラヴ祖語*aušt-と関連、もしくはイタリック祖語*orāō < 印欧祖語「祈る」*h₂r̥-eh₂-yé-ti < 「合わせる」*h₂er-が語源で古典ギリシア語「祈り」ἀρά / ará < ヘレニック祖語*arwā、ヒッタイト語「頭を垂れる」𒅈𒌋𒉿𒄿 / aruwae-zi < アナトリア祖語*ʔorwyéti、サンスクリット「崇める」आर्यन्ति / āryanti < インド=イラン祖語*Háwšatiと関連。バスク語Biakurriは「二つ」biak < *bi + 「セイヨウハシバミ」ur, urritz < *hur̄が語源)

山道の巡礼路は続き、高原を幾重にも重なるピレネー山脈(Les Pyrénées)の山々を臨みながら進んだ。標高が高いため背の高い木がなくなり原っぱが広がっていた(Bois d'Arloté)。

高度をかなり上げてきたと感じた(Pic d'Orisson)。羊や馬が放牧された高原をアメリカ人Paulと一緒に歩いた(Pic d'Itchachéguy)。アメリカのコロラドにもこんなきれいな雪景色がある景色がある山道があり、小さい頃によくハイキングをしたことを思い出すんだ。今度遊びに来てよと話していた。

辺りは見渡すばかりの緑で遠くに山が幾重にも連なり美しくて景色を楽しみながら歩けた。天候も安定してきて、晴れ間がみられるようになりすがすがしく気持ちが良かった。分かれ道がある前(Pic d'Hastateguy)から、遠くの岩の上に聖母像(La Vierge d'Orisson)がこちらを向いて立っていた。

(Itchachéguy, Itchashéguy, Itsasegiはバスク語「湖」itsas < 「水」*itz- + 「沢山」-śo + 「丘」egi < *hegiが語源。Hastateguy, Hostatéguy, Hastategiは「嫌」hastio < ガスコーニュ語hastiàu < ラテン語fastidium < 「軽蔑」fastus < イタリック祖語 *farstos < 印欧祖語*bʰérs-tós < 「尖る」*bʰers- + ラテン語「倦怠」taedium < 「厭う」taeter < イタリック祖語*taedros < 印欧祖語*téngʰ-teros < 「重い」*tengʰ- + バスク語「丘」egi < *hegiが語源。)

それからも車も通れる舗装された良い道(D 428)が続いて、高台(Col d'Elhursaro)を進んだ。牧草地になっていて、家々も点在しており、車が走れる道があるとはいえ、こんなに高い所にも人が住んでいることを驚きながら歩いて行った。

(Elhursaroはバスク語「風車」eihera < 「曳く」*e(i)h- + 「牧草地」saroi < *śaleが語源で地名Eiheralarre, Eiheralaŕe, Eyheralarréと関連 )

小道に入る所(Pic Urdanarre)に十字架(Cruz de Thibault)があり 、お祈りをしてから少し進むとSantiago de Compostelaまで765kmという道標があった(Pic de Léizar Athéka)。

(Urdanarre, Urdanarré, Urdanharriはバスク語「泉」urdun < 「水」ur < *hur + 「がある」-dun < *e=uka-n + 「村」hiri < *huriが語源)

小屋(Puesto de Caza)の近くには、自然に水が湧き出している場所が多く、飲み水が出る泉(Fontaine de Roland / Fuente de Roldán / Roldango Itturria)で水筒を満たした。泉の前でオーストラリア人Amandaと南アフリカ人Winnieと会い、雨が時どき降ってきて寒いねとおしゃべりをした。

(Léizar Athéka, Lissérateca, Leizarathekaはバスク語「トリネコ」leizar < *lais- + 植物の接尾辞-ar + 「戸」ateka < *ate + 接小辞-koが語源)

国境(Col de Bentarte / Collado de Bentartea)に着いて、スペインに入った。Paulとこれでフランスとお別れだねと話しながら、こんなに見晴らしがよい国境は素晴らしかった。普通は検問所の厳しいチェックがあるから緊張するけれども、ピレーネは何て開放的な国境なんだと冗談を言っていた。

(Bentartea, Bentarté, Bentartekoはバスク語「店」benta < 古スペイン語venta < ラテン語vendita < 「売る」vendo < venum < イタリック祖語*vesnos < 印欧祖語*wós-n̥ < *wes- + ラテン語「与える」do < イタリック祖語*didō < 印欧祖語*dé-deh₃-ti < *deh₃- + バスク語「羊牧場」artegi < 「雌羊」ardi < *ardi + 「丘」egi < *hegiが語源)

そこから、泥沼のような状態の道が続き、泥が跳ね上がって、ズボンやリュックに付着して、大変だったが、Txangoa / Elizarra辺りの道端には雪が沢山残っていて、足を突っ込んで綺麗にした。雪の中に寝そべりながら、先ほど泉で汲んだ水を飲んで、足をいたわりながら、のんびりと過ごした。

(Txangoa, Changoaはバスク語「ツルオヘビイチゴ」txangorri < zaingorri < 「根」zain < *sain + 「赤い」gorri < *gor̄i、Elizarraはバスク語「トリネコ」leizar < *lais- + 植物の接尾辞-ar + 「村」hiri < *huriが語源。)

少しするとMenditxipiの道沿いに小さな小屋(Refugio Izandorre)があり、更に泥道を行き、しばらく経つと道が下りになった。 峠(Alto de Lepoeder)を越えるとき、大量の雹がばらばらと降ってきて驚いた。手に取ると結晶が美しかったが、フードをかぶっていても、顔や頭に当たり痛かった。悪条件の中、山を下ると、Alto Don Simónで雹が雨に変わり、激しく降り注いだが、雹よりましだった。

(Menditxipiは1269年の文書にSancta Euffaと記載、バスク語「山」mendi < *bendi + 「小さな」 xipi < *tipiが語源。Izandorreはバスク語「ある」izan < *eizani < 過去分詞*e- + 動詞「なる」*sa + 過去分詞*-n + 「塔」dorre < 古スペイン語torre < ラテン語turris < 古典ギリシア語τύρσις / túrsisが語源)

Paulと中世の神学について、また、彼がフランスのプロヴァンス地方を旅行した時の体験を話してくれたり、彼の身の上の話を聞いた。コロラド州Denverで料理人として働いていて、自分はアイルランド系移民の子孫だから、先祖代々カトリックなんだと話していたから、冗談でアメリカにはピューリタンとプロテスタントが多いと思っていたが、カトリックも多いんだねと言うと大笑いして、アメリカでも、きちんとアイルランドの聖パトリックを思い出して、とても盛り上がるよと話していた。

彼は昔ながらの生活をしていて、家にテレビもなく、またパソコンも携帯電話もないからインターネットをしないが、新聞を読めばニュースは見られるし、別に不自由なく暮らしていると話していた。インターネットがないのに色んな情報を集めて、フランスとスペインまで巡礼に来れてすごいねと言うと、実際に現地に行けば何とかなるものだよ。航空券さえ買えれば問題ないよと笑っていた。

私たちも事前に何か調べてきたわけでもないから、そう考えてみれば、別に気持ちさえあれば、体当たりで現地に行けば何とかなるものだと感じていた。そうして、おしゃべりを楽しみながら道を行くと、遠くに大きい美しい建物が目に入り、直にRoncesvallesに着いた。

13世紀にナバラ王サンチョ7世(Sancho VII, 1154-1234)によりロマネスク様式で建てられた古い教会(Real Colegiata de Santa María de Roncesvalles)があり、14世紀に作られた美しい聖母子像(Escultura de Santa María)が安置されていた。また、13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de Santiago)のファサードも特に美しかった。二軒のレストランと巡礼宿(Albergue de peregrinos)があった。1123年に作られた巡礼者の救護院(Hospital de la Caridad)に由来して、今でも巡礼者を手厚くもてなす精神が受け継がれているように感じた。

巡礼宿(Albergue)で片付けをして、シャワーを浴び、午後8時に始まるミサの前に食事を皆と食べることにした。巡礼宿(Albergue)としても泊まることができるレストラン(Casa Sabina Hosteria)では、9€で特大パスタと鱒の油揚げとポテトとワインが出た(スペインでは巡礼者用のメニューがplato combinadoとして9€で提供されていることが多かった)。パスタは塩辛くなく脂っこくなく美味しかった。鱒もフレンチフライも味付けが美味しく、自然の味で塩や湖沼をかけなくても美味しかった。

食後に寒くて雨や雹で濡れて随分と体力を奪われて、登山をしてきた疲れがかなり出てしまい、片頭痛がしていたため、巡礼仲間たちに無理をしない方がいいと言われ、教会(Iglesia Colegial de Santa María)でのミサには行けなくて残念だが、安静にして回復してきて、Albergueの地下室で日記を書いていると、フランスの3人の姉妹の少女たちが、フランス語で話しかけてきて盛り上がった。

黒のレトリバーの犬と一緒に巡礼していて、お父さんのDominiqueは犬と一緒に外に寝るとのことだった。犬は活発で道を行ったり来たりしながら動き回り、元気でいいなと思っていたと話した。

家族で余暇が出て来たとき、歩ける所まで歩き、次にその地点からスタートして、最後はSantiago de Conpostellaに到達する計画を話してくれた。今回はMontpelierから、Pamplonaまで歩き、次の機会にBurgosまで歩いて、何分割かして、最後に完成させると聞いて、なるほど、巡礼を分割できるかと驚いた。午後10時の就寝時間になり、電気が消える前にはオルガンと聖歌が流れる中、眠りについた。

スペイン語でRoncesvalles、フランス語でRoncevauxと呼ばれ、フランス語ronceは、ラテン語「キイチゴ(Rubus fruticosus)」rumicemから来ているが、また、「厳しい」という意味もある。ラテン語「谷」vallis(複数形valles)は、フランス語val(複数形vaux)となった。古くは1050年にRozaballes、1127年にRonzasbals、1226年にRocideuallis、1254年にRonçasuayllesと記録された。

バスク語でOrreagaと呼ばれ、17世紀にOrreriagua, Orrierriagaと記録され、バスク語「岩」erroitz < *er̄oic、「切り株」erro < *her̄oが語源と考えられる。また、「エニシダ(Cytisus scoparius)」erratz < *erhacも考えられ、近くにバスク語「白」zuri < *suriと組み合わされた村(Erratzu)や山(Erratxurizko > Ortxasko)の名前があり、同じ語源の地名かもしれない。

カール大帝(Charlemagne, 748-814)が唯一敗北を喫したロンスヴォーの戦い(La bataille de Roncevaux)があり、アインハルト(Einhard, c. 775-840)が編纂した《カール大帝の伝記(Historia de vita Caroli magni IX)》でも言及され、778年8月15日にRolandが戦死した。

バスク人の山賊が、峠(Puerto de Ibañeta)でイベリア半島遠征から帰るカール大帝の軍を待ち伏せして奇襲して、カール大帝の甥ブルターニュ辺境伯ローランが戦死して、古フランス語の叙事詩《ローランの歌(La Chanson de Roland CLXXVI)》で「Morz est Rollant, Deus en ad l'anme es cels. Li emperere en Rence[s]val[s] parvient.(ローランは死んだ。天の神の許へ彼の魂は行った。皇帝はロンセスバーリェスに着いた。)」と詠われた。Pamplona / Iruñaを破壊された報復とも考えられる。

アインハルト(Eginhardus, c.775-840):《カール大帝伝(Historia de vita Caroli magni)〉第9巻

Cum enim assiduo ac poene continuo cum Saxonibus bello certaretur, dispositis per congrua confiniorum loca praesidiis, Hispaniam quam maximo poterat belli apparatu adgreditur; saltuque Pyrinei superato, omnibus, quae adierat, oppidis atque castellis in deditionem acceptis, salvo et incolomi exercitu revertitur; praeter quod in ipso Pyrinei iugo Wasconicam perfidiam parumper in redeundo contigit experiri. Nam cum agmine longo, ut loci et angustiarum situs permittebat, porrectus iret exercitus, Wascones in summi montis vertice positis insidiis - est enim locus ex opacitate silvarum, quarum ibi maxima est copia, insidiis ponendis oportunus - extremam impedimentorum partem et eos qui novissimi agminis incedentes subsidio praecedentes tuebantur desuper incursantes in subiectam vallem deiciunt, consertoque cum eis proelio usque ad unum omnes interficiunt, ac direptis impedimentis, noctis beneficio, quae iam instabat, protecti summa cum celeritate in diversa disperguntur. Adiuvabat in hoc facto Wascones et levitas armorum et loci, in quo res gerebatur, situs, econtra Francos et armorum gravitas et loci iniquitas per omnia Wasconibus reddidit impares. In quo proelio Eggihardus regiae mensae praepositus, Anshelmus comes palatii et Hruodlandus Brittannici limitis praefectus cum aliis conpluribus interficiuntur. Neque hoc factum ad praesens vindicari poterat, quia hostis re perpetrata ita dispersus est, ut ne fama quidem remaneret, ubinam gentium quaeri potuisset.

ザクセン人との戦さは間断なく続き、境が明らかな所に陣営を敷くと、彼は戦の準備を万全にして、スペインへ赴いた。ピレネーを越え、襲撃しては、全ての都市や城を降伏させ、軍隊は無事で無傷のまま帰路についた。しかしながら、ピレネー山脈では、帰路で一たびガスコン人の奇襲を受けた。土地が狭いため、軍は長い隊列を組んで進んだが、ガスコン人の側は切り立った山頂で待ち伏せ(そこは森の最も茂った所で隠れて見えずらいため、待ち伏せには好都合だった)、荷物運搬の最後と、最後尾を進み、先を行く部隊を守る隊列に上から襲いかかり、谷に突き落とそうとした。彼らとの戦闘は、最後の一人を殺害するまで続き、荷物は略奪された、夜になるに乗じて、彼らは様々な方向に急いで散っていった。この一件では、ガスコン人にとって、武具が軽く、土地からしても、有利であった。反対に、フランク人にとって、武具が重く、場所からしても、あらゆる方面でガスコン人より、不利な戦いを強いられた。この戦いにおいて、王の給仕エギハルドゥス、宮廷の侍臣アンセルムス、ブルターニュ属領総督ロランなど、多くの者が命を落とした。この件については、直ぐに復讐することもままならなかった。何故なら、一たび戦を成し遂げると、敵は分散してしまい、情報も残らず、どの民族の許に潜り込んだかすら、知ることもできなかったからである。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第7章〈(De nominibus terrarum et qualitatibus gentium, quae in itinere sancti Jacobi habentur)〉

In terra etiam Basclorum, via sancti Jacobi est excellentissimus mons, quod dicitur Portus Ciserae, aut quia porta Hispanise ibi habetur, aut quia per illum montem res necessariae de alia terra ad aliam transportantur, cuius ascensus octo milliariis, et descensus similiter octo, habetur. Sublimitas namque eius tanta est, qued visa est usque ad coelum tangere, cuius adscensori visum est propria manu coelum posse palpitari : de cuius fastigio potest videri mare Britannicum et occidentale, et ora etiam trium regionum, scilicet Castellae et Aragoni et Galliae.

バスクの土地には聖ヤコブの道にCise峠と呼ばれる最高に素晴らしい山がある。スペインの入り口にあり、この山を越えて必要な物資がこちらの土地(フランス)からあちら(スペイン)へ運ばれている。上りは8マイル、下りは同じく8マイルである。山の頂はとても高くて、空に届くほどである。そこを上る人は自らの手で天空に触れることができるように思われる。この頂から、ビスケー湾と西の海、三つの王国、即ちカスティーリャ、アラゴン、フランスを望める。

In summitate vero eiusdem montis est locus, quod dicitur Crux Caroli, quia super illum securibus et dolabris et fossoriis caeterisque manubriis Carolus cum suis exercitibus in Hispaniam pergens olim tramitem fecit, signumque Dominicae crucis prius in eo elevavit, et tandem flexis genibus versus Gallaeciam Deo et sancto Jacobo precem fudit ; quapropter, peregrini, genua sua ibi curvantes versus sancti Jacobi patriam, ex more orant, et singuli singula vexilla dominicae Crucis infigunt. Mille etiam cruces ibi possunt inveniri, unde primus locus orationis sancti Jacobi ibi habetur.

この山の頂にカール大帝の十字架と呼ばれる場所がある。カール大帝が軍隊とともにスペインに向かう途上、斧やつるはしやスコップなどの道具で道を作り、主の十字架の標を立てたのがこの場所であるからである。それから、カール大帝はガリシアに向かい、跪いて、神と聖ヤコブに祈りを捧げた。そのことから、巡礼者は聖ヤコブの土地に向かい、膝をついて祈り、それぞれが自分の主の十字架の標を立てる習わしになった。そこには無数の十字架がみられる。そのことから、ここが聖ヤコブに最初に祈る場所とみなされている。

Postea vero in descensione eiusdem montis invenitur hospitale et ecclesia, in qua est petronus, quem Rotolandus heros potentissimus, spatha sua, a summo usque deorsum per medium trino ictu scidit. Deinde invenitur Runciavallis, locus scilicet quo bellam magnum olim fuit factum, in quo rex Marsirus, ei Rotolandus, et Oliverus, et alii pugnalores cxl millibus christianorum simul et sarracenorum occisi fuere.

最後にこの山の下り道に救護所とRollandの岩がある教会がある。きわめて勇敢な英雄はこの岩を剣で三回斬り付け、真っ二つに割った。それから、Roncesvallesに至る。正にここでかつてMarsilie王、Rolland、Olivier、他の戦士たちが4万人のキリスト教徒、イスラム教徒ともに命を落とした戦いが繰り広げられた。

André Burger (1948). La légende de Roncevaux avant la Chanson de Roland, Romania 70(280): 433-473.

フランスとスペインの国境(Col de Bentarte / Collado de Bentartea)

2008年4月18日(金)9日目(Roncesvalles-Burguete-Espinal-Viscarret-Linzoáin-Zubiri: Arbergue Zaldiko)

Roncesvallesから悪天候で泥道に難儀しながら進み、次の町(Burguete)を過ぎたときにエストニア人Tiinaと会い、様々な話をして楽しんだ。また、バスク地方の赤い屋根に白い漆喰で作られた美しい家々を眺めながら歩いた。午後直ぐに更に天候が悪くなるため、Zubiriで予定の半分ほどではあるが、早めに切り上げた。Saint-Jean-Pied-de-Portの巡礼宿で一緒の部屋だったスウェーデン人と夕食を作りおしゃべりしながら食べてから、また巡礼仲間から誘われて、近くのBarで郷土料理を食べた。

今日は朝から生憎の雨で寒いが、空気は美味しかった。午前8時に宿を出ると、直ぐに森の中に出て、少し行くと抜けてから、次は泥沼が続き、悪路を進んだ。

道路(N-135)と並行してある巡礼路は舗装されていないため、昨日の雨であったため、水が流れ込んできて歩きづらかった。町を出るときに石造りの古い十字架(Cruz de Roldán / Croix de Pierre)があった。(《サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》に「カール大帝の十字架(Crux Karoli)」が記録されており、それを記念して建てられた。)

Burgueteでは、1104年に建てられた立派な教会(Iglesia de San Nicolás de Bari)の前でイギリス人Margaretと会った。私が歩くのが早いため、次の村で父が来るまで教会の前のベンチで座っていた。村の中には18世紀に建てられた民家などがあり、古くからこの村に人が住んでいたことに感激した。

村(Burguete)を通り過ぎたとき、牛舎の中で牛が草を食べていたり、牧場の中に巡礼路が通り、柵を開け閉めして、牧草を食んでいる牛たちと目を合わせながら歩いた。巡礼路は舗装されていない砂利道だったが歩きやすくて、一本道のために迷うこともなくぐんぐん進めた。

そのとき、エストニア人で語学に堪能でスペイン語も淀みなく話せるTiinaと出会い話しながら、一緒に巡礼路を歩いた。アルヴォ・ペルト(Arvo Pärt, 1935-)の話をすると、まさかここでこんな話がでてくるなんてと驚いて喜んで、父の音楽の先生だった人だと言っていた。

(Burgueteは、1127年に巡礼者の救護院が建てられて、1197年にフランク人が入植して、Burgum Roscideuallis, Burgo de Roncasuaylles, Ronçasvayllesと記録され、ラテン語「要塞」burgus < フランク語*burg < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és < 「丘」*bʰerǵʰ- + 接小辞-ete < ラテン語-ittum < -itus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源。burgo deが訛り、 1532年にburguetと記録された。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》では、Villa Runcievallisと記録された。)

(バスク名Auritzは、1110年にAuriçと記録され、地域一帯がErro(バスク語Erroibar)と呼ばれた。バスク語「岩」erroitz < *er̄oic、もしくは、「切り株」erro < *her̄o +「場所」-itz + 「新しい」barri < *ber̄iと分析され、Roncesvallesのバスク名Orreaga < Errozabaと同じ語源である。)

(バスク語の土地を示す接尾辞-itzは、ナバラ地方の地名に多い接尾辞を持ち、アラゴン語 -ués, -o(t)z < バスク語 -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosから発展したとも考えられ、ラテン語「ハリネズミ」ericius > *auriciusや ローマ人名 Aurius > *Aurusなどの訛形ともされるが、バスク語起源が正しい語源である。また、実際に谷にはごつごつした岩が転がっていたため、地形から名付けられたことが現地の状況から分かることが面白い。ナバラ地方の街や村には、バスク語名とスペイン語名がある。Patxi Salaberri Zaratiegi (2011). De toponimia vasco-pirenaica: sobre el sufijo -otz, -oz(e), Nouvelle revue d'onomastique 53: 33-63; (2013). Topónimos alaveses de base antroponímica terminados en –iz, -ez y –ona / -oa, Lapurdum 17: 201-20.)

Espinal(1264年に作られた町でスペイン語「茨」espino < ラテン語spina < イタリック祖語*speinā < 印欧祖語*spey-neh₂ < 「尖った」*spey-が語源。バスク語Aurizberriは「アウリス」Auriz < ラテン語「耳」auris < イタリック祖語*auzis < 印欧祖語*h₂ṓws + バスク語「新しい」berri < *ber̄iが語源)の美しい教会(Parroquia de San Bartolomé)の前で一休みして、Tiinaと一緒に村を歩いて出た。

家々は立派な石造りで特に紋章が付いた古い家が立ち並んでいて由緒がありそうだった。特に玄関のアーチや窓枠の石組みが頑丈そうで壁には漆喰が塗られておりどの家もしっかりと造られていた。

直に車道(N-135)から離れて、山道の舗装されていない歩道に入り、牧場の柵の中を歩いて進んだ。巡礼路に降った雨の水が流れて、川のようになっている悪路を進み、峠(Alto de Mezquiriz)を越えてから下りになった。Tiinaとこれは道というより、川の中を歩いているみたいだねと冗談を言いながら悪路を進んだ。未舗装のこうした道が昔の巡礼者たちの苦労を偲ばせてくれて良いと感じた。

それから、また車道に沿いながら歩道の巡礼路が続いて歩きやすかった。途中の小さな村Viscarret(バスク語Bizkarretaは、1196年にViscarreteと記録され、1245年にBiscarret、1274年にBisquareta, Bisquarret、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBiscaretus, Biscarellusと記録され、バスク語「起伏がある」bizkar < *bi=ska-r̄が語源、Biscarrosse, Biscarrague, Bizkarze, Bixquert, Visker とも関係)で村の中にあるBar Juanに入り、チョコレートドリンクをイタリア人、アメリカ人、ケベック人Claude、エストニア人Tiinaと飲んで一服した。小雨が降り続いて寒い日であるため、温かい飲み物で心も体も温めることができた。父が冷たい中を歩いてきたから体が温まって嬉しいと話していた。

それから、牧場の脇を通る一本道(Calle San Saturnino)の歩きやすい巡礼路を進んでゆき、近くの町Linzoáinを正午前に通り、13世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Saturnino)や赤い煉瓦と白い漆喰が美しい家の間を過ぎた。

(バスク名Lintzoainは、1245年にLinçoayn、1267年にLiçoain、1274年にLinçoan, Linçoanh、1534年にLinzoáinと記録され、バスク語「トネリコ」leizar, lizar < *lais-‎ + -ar、もしくは「洞窟」leize, leze < *le(i)s- + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源。Patxi Salaberri Zaratiegi (2000). Acerca del sufijo toponímico -ain, Fontes Linguae Vasconum 32: 113-137.)

それからは少し上り坂になり、岩がごつごつした谷(Valle de Erro)に至り、ローランの道(Pasos de Roldán)と呼ばれる橋(Puerto de Erro)や沼や川のような悪い道や綺麗に舗装された道を進んだ。

午後2時半に天候が悪くて、道も泥だらけなため、Pamplonaまで歩こうと思っていたが、無理をせずZubiriで切り上げた。巡礼宿(Albergue)に入ると直に雹が降ってきて、早く切り上げて良かった。

街中はSiestaで閑散としていたが、巡礼宿はにぎやかだった。シャワーを浴び、午後5時にSiestaから終わり、近くの食料品店(Embutidos Arrieta)に行き、夕食の食材を買ってきた。

巡礼宿の前で皆と話していると、自転車で巡礼していて、自転車のハンドル前にテディベアーが付いていて、濡れていたので絞っていたスペイン人や赤ちゃんを連れてベビーカーをひいて夫妻で巡礼をしていたBarcelona出身の夫妻José Luis & Vanessaがいて、特に気さくで底抜けに明るかった。今日はずっと雨で道が大変でしたねと話していたら、雨が続くわけがないから、陽がこれから出て来るから、心配いらないよ。太陽に向かって歩いて行けば、必ず着くんだと笑顔で言っていた。

巡礼宿で様々な人たちとおしゃべりできて楽しかった。同年代のフランス系カナダ人(ケベック人)Davidと話したり、Saint-Jean-Pied-de-Portの巡礼宿で一緒の部屋だったスウェーデン人AnjaとEmmaと一緒に夕食を作り(というよりも作るのを手伝ってもらい)、野菜をおしゃべりしながら食べた。

それから、巡礼仲間の南アフリカ人Winny、オーストラリア人Amanda、イギリス人Margaret、フランス人Dinaたちから、夕食をBar Valentínでとるが、どうかと誘われたのでついてゆくことにした。

バスク地方のインゲン豆のスープ(Garbure)やお肉、デザートのチーズケーキも美味しかったので大満足だった。隣の席ではケベック人David, Claude, Gillesが楽しそうに話していて、フランス語でこっちにもおいでよと誘われたり、温かい雰囲気の中で沢山おしゃべりを楽しみながら、二度目の夕食を食べることができて楽しかった。

Zubiriは、1040年にZubiria、1095年にZubbiria、1137年にPons de Çubiria、1269年にÇuuiriと記録され、バスク語で「橋」zubi(「木」zur < *sul + 「歩く」ibili < *bil)+「街」iri < *huriが語源。アルガ川(Río Arga)に架けられた橋(Puente de la Rabia)に由来。2世紀にポルトガルのBraga(古代ローマ都市Bracara)で殉教した聖キテリア(Quiteria)の聖遺物が埋められたとされ、狂犬病に架かった家畜を三回渡らせると直るという伝説が生まれた。エウロギウス(Eulogius Cordobae, 800-859)の地図にラテン語でSeburisと記録され、Seburriumとも称された。古い記録にはバスク祖語に近い元形が残されており、新しい記録では訛りや子音が落ちてしまうことが多いため、地名を探究するとき、古い記録を集めて、綴りの違いなど、表記の揺れを調べることが大切である。(José Luis Ramírez Sádaba (1987). Toponimia vascona y toponimia navarra: su contribución para ponderar los efectos del proceso de aculturación, Príncipe de Viana Anejo Nº. 7, 1987: 563-576.)

Espinalに立ち並ぶ石造りの立派な家々

2008年4月19日(土)10日目(Zubiri-Ilárraz-Esquíroz-Larrasoaña-Zuriáin-Iroz-Zabaldica-Huarte-Villava-Burlada-Pamplona: Freundeskreis der Jakobuspilger Paderborn)

HuarteからArga川とUrbi川が合流する美しい川岸(Presa Huarte)を爽快に歩けた。巡礼を始めて3日目のため足を慣らすため、Pamplonaで午後直ぐに切り上げた。ドイツ系の巡礼協会が経営する巡礼宿で清潔で快適に過ごせた。夜にケベック人(フランス系カナダ人)Claudeと町に繰り出して、フランス語で沢山話をして、夕食を食べてから、街の中を一緒に散策して、Pamplonaの夜景を楽しんだ。

今日は快適な巡礼宿で良く眠れた。午前6時半に起き、身支度をして靴の泥を落として、午前7時半に出発して、橋(Puente de la Rabia) を渡り、村を出た。南アフリカ人Winnyとオーストラリア人Amandaと歩いた。最初は車道(NA-2335)と並行していたが、直ぐに巡礼路は山道になり、泥がまだ残る道をぬかるみに注意をしながら歩いた。今日は天気が良かったので、早く進むことができた。

Ilárraz(バスク語Ilarratzは、1244年にIllarraçと記録され、バスク語「ソラマメ(Vicia faba)」ilar < *iłha-rが語源)を過ぎた場所に古いロマネスク様式の教会(La Abadia)があり、日陰に座る場所があり、一休みして水を飲んだ。Esquíroz(バスク語Ezkirotzは、1071年にEzquirozと記録され、バスク語「シナノキ(Tilia europaea)」ezki < 「木」*ez-が語源)を通った。なだらかな平原を縫うように歩きやすい道が続いていて、心地よい上下があり、ハイキングをしているように快適に進めた。

ナラ、クルミ、ハシバミ、カエデなどの木が生えている山道を行き、河川を渡り、牧場の中を通るなどした。牧場の入り口には必ず柵があり、巡礼者が開け閉めして、柵の中の牛が逃げないようにされていた。巡礼路を示すために帆立貝の標とBasque語が書かれていて迷うことなく進めた。

Larrasoaña(1049年にLarresoin, Larressoyn、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でResogna, Risognaと記載され、バスク語「平地」larrain < *lar̄e + 「後ろ」soin < *śoinが語源)に午前9時に着いた。街の中で少し父が付いてくるのを待ちながら散策をした。

昔に追い剥ぎが出たという、14世紀にArga川に架けられた橋(Puente de los Bandidos)を渡り、巡礼路を進むとAquerreta(バスク語Akerreta、1217年にAquerretaと記録され、「雄山羊」aker <「雄」*ake- + 接尾辞-reta < *-oz(e), *-tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)の村に15世紀に建てられた古い教会(Iglesia de la Transfiguración)があった。

Zuriáin(バスク語Zuriainは、1090年にZuriain、1268年にÇuriayn、1277年にSurianh、1280年にÇuriainと記録され、「白」zuri < *suri < *sur- + 接尾辞「色」-i + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源)を通り、道路(MN-135)を進んだ。

左手に川(Río Arga)が流れていて、爽やかな風は吹いていて、道もとても良くて、気分良く歩いてゆけた。交差点でPaulにまた会い驚いた。またここで出会うとは、coincidenceではなく、providenceだねと冗談を言いながら、昨日はどこに泊まったんだとか、次はどこまで歩くつもりなのかなど、談笑しながら進んでいたら、話に明け暮れて帆立貝の道標を失い、途中で別の道(Carretera a Ilurdotz / NA-2339)を進んでしまい、迷いながらも方向を感じながら歩いてゆくと正しい道に戻った。

(Ilurdotzは1066年にIllurdoç、1268年にIlurdoz、1274年にIlurdos、1278年にYlurdoz、1279年にElurdosと記録、人名Ilurdo, Ilurde < 「雪」elur, elhur < *e=ɫhu-r̄ + 「猪」urde < *urde + 接尾辞-o(t)z < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源。)

Iroz(バスク名Irotzは、931年にIrioz、1220年にYrotç、1268年にYraoz, Yrotzと記録、バスク語「町」iri < *huri + 接尾辞-o(t)z < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)の村では、16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の手前の古い納屋の前を畑に向かう農夫が歩いていた。村を出た所に橋(Puente de Irotz)があり、川(Río Arga)に沿う山道の巡礼路を進んだ。

Zabaldica(バスク語Zabaldikaは、1268年にÇavaldicaと記録され、「拡げた」zabaldu < 「開けた」zabal < 「平ら」*sab-, *sap- + 古スペイン語-ica < ラテン語-icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語 *-ḱosが語源)からいきなり平地が続くようになり、Arga川の向こうのArleta(1268年にArletaと記録され、バスク語「放浪」arlot(e) < 古スペイン語arlote < 古フランス語arlot < herlot < ゴート語「軍隊」harjis < ゲルマン祖語*harjaz < 印欧祖語「軍団」*kór-yos < *ker- + 接小辞-ot < ラテン語-ittus < -itus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源) に行かず、先の道が入り組んで分かりにくい場所で地図がなかったため、道路脇(N-135)の小道を歩いてゆき、白い花崗岩で作られた十字架を見つけた。

新興住宅地Ollokiに入ったり迷いながら、山道に少しでも入ると泥道が歩きづらかったため、スペイン人が自転車で走ってゆく道を進むことにした。宅地開発された地域で風情がないが道は良くて長い距離を歩けた。(Ollokiは1192年にOlloqui、1266年にOylloqui、1268年にOylloquy、1274年にoloquiと記録され、バスク語「雌鶏」ollo, oilo < 古スペイン語pollo < ラテン語pullus < イタリック祖語*polnos < 印欧祖語*polH-nós < 「灰色」*pelH- + 接尾辞-oki, -toki < 「持つ」euki < *e=uka-nが語源。)

流石に貝殻の道標がないため、おかしいとは思いながら、まあ、Pamplonaに向かう道路(N-135)を歩いて行けば、目的地に近づけるかと思いながらも、舗装された道路を車が脇を通り過ぎていく中を歩いてゆくのは風情がないため、町の人にたずねながら、近くを通っているであろう巡礼路を必死に探しながら、川(Río Arga)に沿う道を歩いた。川のせせらぎが気持ちよくてどんどん進めた。

Huarte(バスク語Uharteは、1007年にUhart、1052年にHuarteと記録され、「水の間」ur < *hur + arte < アラゴン語arto < ラテン語「撒かれた」substratum < 「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó +‎ ラテン語「拡がる」sterno < イタリック祖語*stornō < 印欧祖語*str̥-n-h₃- < *sterh₃-が語源で川(Río Arga)がS字型に蛇行しており、U字型の砂洲にできた町であり、たびたび洪水に見舞われたため、川岸は広く取られており、周りには建物がなく、一面の芝生が美しい公園とされていた)の町に入る前で川(Río Arga, Río Urbi)が合流する美しい川岸(Presa Huarte)を歩いた。

父が箱根みたいなきれいな風景だと気に入っていて、温泉は出ないけれどねと冗談を言って笑っていた。町に入る前にしばらく、川の周りを散策して気持ちの良い時間を過ごした。

大きなロータリー(PA-30, NA-4200)を通り、Huertaの街の中を抜けて、Villava(1194年にVilla Nova, Villava、1226年にAtarrauiaと記録され、バスク語Atarrabia < 「玄関」atari(「戸」ate + 「周り」iri)+「浅瀬」ibia(「川」ibi < *ib-)、スペイン語Villava < Villaova < Villanova < Villa noua < ラテン語「村」villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + ラテン語「新しい」novus < イタリック祖語*nowos < 印欧祖語*néwosが語源)やBurlada(バスク語Burlata、1097年にBruslata, Buruslata、1195年にBrusladam, Brusladaと記録され、ラテン語「赤」burrus < ギリシア語「炎」πυρρός < 「火」πῦρ < 印欧祖語*péh₂wr̥が語源)の町には入らず、Ultzama川との合流地点からArga川沿いに小道(Paseo del Arga / Argako Ibilaldia)を歩き、美しい橋(Puente viejo de Burlada / Burlatako zubi zaharrea)を見た。公園で犬の散歩をしたり、町の人たちが寛いでいた。それから、巡礼路(Camino Burlada)に戻り、帆立貝の道標をやっと発見してホッとした。美しい川岸の小道をハイキングのように歩いて、爽やかな川の流れを楽しめて気持ちが良かった。

Navarraの古都Pamplonaに入る直前のBurladaで川(Río Arga)にかかる美しいアーチの中世の橋(Puente de la Magdalena)を渡った。直ぐに公園(Playa de Ca­par­ro­so)に面した巡礼宿(Albergue)を見つけて泊ることにした。

今日は午後2時半に着いたが、天候もまずまずであり、早めに切り上げることにした。ドイツ人の巡礼者協会(Freundeskreis der Jakobuspilger Paderborn)が経営している公営の巡礼宿(Albergue municipal)で安くて7€で泊まることができ、とても清潔で木造の建物が美しかった。

巡礼者にとても親切に持て成して下さり、きめ細かく、お風呂にも入れた。靴を脱いで、受付の部屋に入るとオレンジジュースとクッキーを出してくれた。

Wolfgangという名前だったので、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の話をすると、とても喜んで、ホルン協奏曲を流してくれた。ホルン協奏曲第3番でKöchel 447番でしょうというと、とても驚いて、夜にはクラリネット協奏曲(Köchel 622番)を流してくれるとお話された。

巡礼宿で久しぶりに温かいお風呂に入ることができた。ドイツ人らしく、綺麗にされていて、きちんとシャンプーや石鹸も備え付けられていた。それから少し貯め込んでいた洗濯をした。洗濯機は5€だったが、出来上がりに巡礼宿の主人(hospitalero)Wolfgangさんの奥様 (hospitalera) Roswithaさんが、全ての洗濯物をきちんと畳んでくれて、とても感じが良かった。

それから、Pamplonaの街を散策した。建物に近づくと落書きだらけだった。教会にまで落書きされていて呆れるほど激しかった。大通り(Calle de Juan de Labrit, Avenida de Carlos III el Noble Etorbidea)を行き、ギリシア建築の中央官庁(Palacio de Navarra)を見た。

街に着いたときは、Siestaだったので活気がなかったが、中央広場(Plaza del Castillo)に近い通り(Calle San Nicolás, Calle del Pozo Blanco)がにぎやかになってきた。

有名な牛追い祭でも映像で見る場所(Calle de la Chapitela)があった。大通り(Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)に面した立派な像(Monumento a los Fueros)を見てから進んでゆくと1117年に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Nicolás)が美しかった。

南側にあるバシリカ(Iglesia San Ignacio)の塔の丸窓が美しくて印象深かった。大通り(Calle Cortes de Navarra, Calle Amaya)を歩いて、巡礼宿に帰るとき、闘牛場(Plaza de Toros)の前にヘミングウェイ(Ernest Hemingway, 1899-1961)の銅像(Monumento a Ernest Hemingway Oroitarria)があり、前に英語を話す人がいて、アメリカ人かと聞くと大当たりだった。Santiago de Compostelaへの巡礼をしていることを話すと、今はSaint-Jean-Pied-de-Port近くに住んでいると言っていた。

それからお城(Fortín de San Bartolomé)の上から、Arga川とPamplonaの町を見渡した。高台になっていて、要塞が築かれた意味が分かった。町を敵から守るのに適した場所は、必ず見晴らしがよくて、町にお城があると登ってみたくなった。

午後4時半前に巡礼宿で一時間ほど少し仮眠して、食料を買いに街に出た。商店街(Calle de San Agustín)に面した1897年に建てられた教会(Parroquia de San Agustín)やその先にある通り(Calle Calderería)に面した18世紀に建てられた教会(Capilla de San Martín)を見た。

それから、狭い路地の商店街(Calle Curia)を進むと1394年に建てられた大聖堂(Catedral Metropolitana de Santa María de la Asunción)が見えてきた。

大聖堂に近い中心部の商店街でも食料品店を見つけられず、街の人にどこにあるかをたずね回っていると、エストニア人のTiinaが現れて、スペイン語に通訳してくれて、街の人に道を尋ねてくれた。

近くにある通り(Calle Mañueta)に面した食料品店(Aceitunas Valero Lafoz)で無事に手に入れた。そこで他のAlbergueに泊まる仲間と出くわして思わぬ再会をして、路地(Calle de la Compañia)に面した1782年に建てられたイエズス会の旧神学校(Seminario Episcopal)の建物にある巡礼宿(Albergue Jesus y Maria)の中に入ろうとしたら、受付係の人がここに泊まる人しか入れないと言われて戸惑っていたら、Tiinaがまた現れて、スペイン語で説明してくれて、直ぐに中に入れてくれた。

巡礼宿の中に入ると沢山の巡礼仲間と再会できた。中央には巡礼の美しい写真展示があり、展示には仏教の修行僧がキリスト教の巡礼路を行く写真があった。

午後6時45分に夕食を一緒に食べに行こうと誘われて、また会う約束をして、一度、私たちが泊っている巡礼宿(Albergue)に戻り、荷物を置いてから、また直ぐに出かけた。

ケベック人Claudeを誘い、広場(Plaza de la Compañía)でゆっくりしたり、周辺を散策して、Albergue Jesus y Mariaから、少し離れたところにある通り(Calle de la Merced)のバー(Bar La Raspa)に行き、皆で食べた。9€でパスタ・牛肉とポテト・アイスクリームなど大盛りだった。

給仕の人はおおざっぱだが、大らかでとてもフレンドリーで良い人だった。店内には大音響でロック音楽が流れていて、皆と話していると気にはならなかったが、煙草の煙で喉を壊してしまった。

食後に皆で記念に写真を撮っていると、オーストラリア人Leeがサックスを吹いてくれてとても盛り上がった。愛知での地球博覧会でも吹いたそうでとても上手だった。彼はベジタリアンで食べるものを選んでいて面倒そうだった。バーを出ると外では音楽が鳴っていて、スペイン人らしくみんな陽気でノリが良い人たちばかりだった。

Claudeと皆が宿泊する巡礼宿(Albergue Jesus y Maria)を訪れたり、大聖堂(Catedral Metropolitana de Santa María de la Asunción)の近くなど、街を見て回り、一緒に沢山の写真を撮った。商店街(Calle Dormitalería)の本屋さん(Librería Diocesana)に行くが閉まっていてがっかりしたが、先ほどの音楽が流れていた広場(Calle Calderería)で陽気な地元の人たちと楽しい時間を過ごした。

地元の人たちはとにかく良く喋っていた。スペイン語に慣れていないが相手が言っていることが何となく解った。Claudeと通り(Calle Javier)を行き、夜景が美しい広場(Plaza del Castillo)や記念碑(Monumento a los Fueros)の周り(Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)を散策して、巡礼宿に戻ってきた。Claudeがメダイを差し上げるとお礼にQuebecから持ってきた小さな貝を付けてくれた。

消灯時間の午後10時の10分前に巡礼宿に帰って来て、モーツァルトのクラリネット協奏曲の第2楽章を聞いてから就寝した。ガイドブックを求めて本屋に行ったが、今日は土曜日のためにお休みで手に入れられなかった。巡礼をしている最中に見つけて購入することにした。

Pamplonaは、ナバラ王国の首都であったため大きな都市だった。紀元前75-74年にローマの将軍ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, 106-28 a.C.n.)がセルトリウス(Quintus Sertorius, c. 126-73 a.C.n.)と戦うための駐屯地(Pompaelo)を築いた。

古代にはラテン語Pompelon, Pompaelo, Pompaelonis, Ponpelonensis、ギリシア語Πομπέλων / Pompélōn, Πομπηιόπολις / Pompēiópolisと呼ばれ、1016年にPampilona、1051年にPamplona、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPampiloniaと記録された。

1014年にIrunia, Iruniensisと記録され、Iruña < Iruñea < *Irumna < バスク語「町」iri < *huri + 「川」umna < 「水」*ib-, *eb- + 接尾辞 -na < *-nanが語源。Carlos Jordán Cólera (2001). Del topónimo euskara de Pamplona, Fontes Linguae Vasconum 88, pp. 417-429.)と併称された。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Cice峠から多くの人たちからRunaと呼ばれ、Pamplonaを走る清い川が流れている。Arga川はRuna川に沿いPuente la Reinaへ走る(De portibus vero Cisereis flumen sanum egreditur, quod a multis Runa dicitur et decurrit Pampiloniam; ad Pontem Reginse decurrunt Arga simul et Runa.)」と書かれている。

466年にゴート王エウリック(*Aiwareiks > Eurico, c. 420-484)、542年にフランク王キルデベルト1世(Childebert I, c. 496-558)に支配され、カール大帝が778年にパンプローナの市壁を破壊して帰還する途上でロンスヴォーの戦いで敗北したが、パンプローナの破壊でヴァスコン人と戦さが起きた。

799年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のムタリフ・イブン=ムーサ(مطرف بن موسى / Muṭarrif ibn Mūsà)が支配して、824年にイニゴ・アリスタ(Íñigo Arista, c.790-852)が王になり、11世紀にパンプローナ司教がレイレ修道院 (Monasterio de Leyre)を創設して、ナバラ人とフランス人が定住、1124年にパンプローナ大聖堂が完成した。近代にヴァイオリニストのサラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)の生まれた町で丁度100周年で市庁舎には垂れ幕があった。

Pamplonaの夜景が美しい広場(Plaza del Castillo / Paseo de Pablo Sarasate Pasalekua)

2008年4月20日(日)11日目(Pamplona-Cizur Menor-Guenduláin-Zariquiegui-Uterga-Muruzábal-Obanos-Puente la Reina: Albergue Jakue)

Pamplonaから丘に上がり下がりはしたが、おおむね平らな土地を歩くことができ、天気も良くてどんどん進めた。巡礼を終えて復路をくる元気な人に道で会った。Puente la Reinaで清潔で快適な巡礼宿で過ごせた。巡礼ガイドと地図を買うことができ、道に迷わなくて済むようになった。道を失うとスペイン人が直ぐに助けたり教えてくれて、巡礼者に対して優しく接してくれた。

今日はグレゴリオ聖歌ともに朝を迎え、午前6時半に起き、荷作りと日記を付けてから、午前7時少し過ぎにClaudeと朝食を取り、午前8時に出発した。巡礼宿の主人(hospitalero)Wolfgangさんと奥様 (hospitalera) RoswithaさんがMozartをかけてくれた。

旅支度をしていざ出発するとき、管理人Wolfgangさんがメールアドレスが書かれたメモを渡してくれた。そして、宿の外まで夫妻でおでまりになり、お見送りをしてくれた。とても清潔な宿で心配りが行き届いて、温かい主人はおもてなしの心に満たされた方がたで、また泊まりたいと思える巡礼宿だった。父もとても温かい雰囲気が気に入り、Wolfgangさんに巡礼宿の前で記念撮影をして頂いた。

巡礼宿から公園(Playa de Caparroso)の中の通り(Paseo Vergel)を行き、北に位置しているお城(Baluarte de Guadalupe)の門(Portal de Francia / Zumalacárregui)を通り、町の中に入った。

目貫通り(Calle del Carmen, Calle Mercaderes)を行き、狭い路地(Curva de Estafeta)や広場(Plaza Consistorial)の市役所(Ayuntamiento de Pamplona)を通り、12世紀に建てられたロマネスク=ゴシック=バロック様式の教会(Iglesia de San Saturnino)の前から、中央通り(Calle Mayor)を歩いて、丸窓がかわいらしい教会(Iglesia de San Lorenzo)や五稜郭のような要塞(Ciudadela)がある公園(Parque de la Vuelta del Castillo)をつきり、大通り(Calle Fuente del Hierro, Calle Universidad, Calle Sadar / NA-7027 & NA-6000)を歩いて、Navarraの古都Pamplonaを後にした。

小川のせせらぎを渡る古い小さな橋のたもとにイロハモミジ(Acer palmatum)が植えられていて、各国語(スペイン語、バスク語、フランス語、英語、ドイツ語、イタリア語)で¡Buen Camino! Ongi ibili! Bonne Route ! Good Journey! Gute Reise! Buon Cammino!と書かれたホテル(La Primera de Camino - Hostal Bidean)の看板があった。街中でも道が分かれる場所には必ず巡礼路の黄色の矢印や青色と黄色の帆立貝があるために迷うことなく進めた。

直ぐに次の町Cizur Menor(バスク語Zizur Txikiaは、1097年にCiçurr, Ziçur、1135年にSciçur, Ciçur, Çiçur, Çizur minorと記録され、「喉(渓谷)」zintzur < *sincu-r̄ + 「小さい」txiki < *čikiが語源。マルタ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)による巡礼者の救護院が作られた町)が見えてきた。

12世紀に建てられた二つのロマネスク様式の教会(Iglesia de San Miguel Arcángel)や教会(Parroquia de San Emeterio y San Celedonio)を通り、歴史を感じながら、町を後にした。小さな町ながら、通りは広くて、空気がきれいな上、清潔で住み心地がよさそうだった。近くの住宅街(Cizur Mayor)の町はずれを歩いていたとき、公園(Parque chorra)の柵の向こうから犬が迎えてくれた。

街を出ると直ぐに荒涼とした大地が拡がり、巡礼路が真っすぐに伸びているのが遠くまで見えた。やがて、平野を通る舗装されていない巡礼路(Calle Encarnación)になり遠くの風景を楽しみながらぐんぐん進んだ。今までは山道でかつぬかるんだ道で天候も悪くて大変だったが、平坦な道路や踏み慣らされた道を歩いて行けたので、今日からは気持ちよくどんどん飛ばして行ける気がした。

道路からセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いた草原に入り、一筋の巡礼路(Calle Encarnación)をひたすら歩いていて、目の前に歩いている人に追いつくと、何と一昨日と昨日にレストランで一緒だったフランス系カナダ人Gillesだった。フランス語で話しながら歩いた。Montrealで科学捜査官をしていて休暇を取り、巡礼に来たと聞いた。

次の村Guenduláin(バスク語Gendulain、1092年にGentulain, Genduleng, Guentulainと記録され、人名de Centulu, Guendullusとしても現れ、名前Centullus < ラテン語「百」centum < イタリック祖語*kentom < 印欧祖語*ḱm̥tóm + 接尾辞-ain < 古フランス語-ain < ラテン語-anus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源)の古い宮殿跡(Palacio de Guenduláin)を通り過ぎた。

Zariquiegui(1167年にZarichegi、1207年にÇariquieguiと記録され、バスク語「柳」zarika < zumarika < *sumhV +「丘」egi < *hegiが語源)の13世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Andrés)の前で別れて、丘(Sierra del Perdón / Erreniega)を上った。

丘の上には鉄の板で出来た巡礼者の像や風力発電機が沢山あり、眺望台(Mirador Alto del Perdón)からの見晴らしも最高で美しかった。 見晴らしの良い場所で昨日に街中で買ったパンに生ハムやチーズを挟んで昼食をとり一息をついた。

峠を下る途中に美しいマリア像(La Virgen de Irunbidea)があり、前のベンチには、四人のフランス人とイタリア人がいて、皆さんと一緒に腰かけて、フランス語とイタリア語で話をして記念撮影をした。父がもうすごい上がり下がりが激しい道だったね。丘の上には風車があり発電をしていたねと話していた。そこで一休みしてから、いくつかの村を過ぎ、美しく整備された道を歩けた。

先ずUterga(1268年にHutargua, Hutergaと記録され、Otiergaからバスク語「ハリエニシダ」othe < 「先端」*ote +「丘」egi < *hegiが語源)の家々は白い漆喰で壁が塗られ、間口は広く、村の中は生活感があった。真ん中を通る巡礼路の脇に石造りの頑丈な住宅が整然と並んでいた。そこから、巡礼路は直ぐに畑の中に入り、農道のような踏みなされた砂利道を少しずつ下りながら進めた。

次にMuruzábal(バスク語Muruzabalは、1221年にMuruzabalと記録され、バスク語「壁」murru, muru < 古スペイン語muro < ラテン語murus < イタリック祖語*moiros < 印欧祖語「延ばす」*mey- + バスク語「開けた」zabal < 「平ら」*sab-, *sap-が語源)の14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Esteban)が美しかった。

私はどんどん歩いてゆき、広場(Plaza de San Esteban)で父を待っていたら、直に歩いてきた。そこから、車道(NA-6062)に沿いながら、畑の中を通る巡礼路(Camino de Roncesvalles)を歩いて進んだ。辺りの村は丘の上に作られていて、敵が来たときに直ぐに見つけられたりするためと感じた。村が見えると必ず少し上ると村の中に入れた。2リットルのコーラのボトルをひっさげて歩いた。

直ぐに近くのObanosの美しい石造りの教会(Iglesia de San Juan Bautista)が見えてきた。(聖ギヨーム・ド・ジェローヌ(Guillaume de Gellone, c.755-812)の頭蓋骨が残されているが、教会には訪れられなかった。)また、広場(Plaza de los Fueros de Obanos)は広々としていた。 巡礼路には帆立貝の標が道に埋め込まれていて、村の中で迷わないように正しい道が示されていた。

(1084年にOvanos、1097年にOvansと記録され、13世紀のGonzalo Ibáñez de Baztánが知られ、人名「ヨハネ」Ibáñez < ラテン語Iohannes < ギリシア語 Ἰωάννης < ヘブライ語יוֹחָנָן Yōḥānān < יְהוֹחָנָן‎ Yəhōḥānān < 「神」יְהֹוָה YAVH < 「在る」ה-י-ה h-y-h < セム祖語*haway- + 「恩寵に満たされた」חַנּוּן khanún < 「慈悲深い」ח-נ-נ kh-n-n < セム祖語*ḥanan- + 接尾辞-oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)

13世紀に「郷土を自由にするには人々を自由にするべし(Pro libertate patriae gens libera state)」と王侯貴族からの支配を嫌い、自由主義を掲げて法律を制定して自治をした一族(Juntas de Infanzones de Obanos)が住んだ「貴人の町(Villa de los Infanzones)」だが、 1323年にナバラ王フェリペ3世(Felipe III, 1306-1343)とフアナ2世(Juana II, 1311-1349)が解散させ、1510年に消滅した。

村を出る所に16世紀に建てられた小さな古い教会(Ermita de San Salvador)があった。それから丘を下りゆく未舗装の巡礼路(Carretera Campanas)を歩いて行った。

巡礼者は、どの町でも歓迎されて、車に乗っている人も、道行く人も手を振ったり、声をかけてくれた。話が盛り上がりすぎて、一度道を失いかけたが、英語がとても上手なスペイン人が、車を止めてくれて助けられた。畑の中で道を失っても、その方向だよと示してくれて、とても親切だった。

一人の老人が逆から歩いてきて日本語で挨拶をされて驚いた。巡礼証明書(Compostela)を見せてくれて、巡礼を終えて家に戻る最中だと話していた。手を少し怪我したそうだがとても元気で巡礼を終えてきたとは思えないほどだった。直ぐに畑の道を行くと、午後2時にPuente la Reinaに着いた。

街に入る直前に1965年に建てられた巡礼者の像があり、フランスの道(Camino Francés)とアラゴンの道(Camino Aragonés)が合流するため、「ここでサンティアゴ巡礼路は一つになる(Y desde aquí todos los Caminos a Santiago se hacen uno solo)」と書かれていた。Pamplonaからは見違えるほど道がきれいに整備されていて、多くの人がPamplonaから始めるのを納得させられた。

巡礼宿(Albergue)の前でオランダ人の旅行者と会い、英語でお話をして盛り上がった。巡礼宿は私設のようであるが6€で泊まれて、タイル張りの床があり、とても清潔で快適に過ごすことができ、シャワー室もインターネットも、ラウンジもサロンも完備されていて新しく生活な場所であった。直ぐにシャワーを浴びてから、ズボンの泥が跳ねた部分だけを洗って、庭に干して乾かした。

足に小さい擦り傷と腰あたりの背中に張れた部分ができた以外は健康で足の方は全然問題がない良い状態だった。数日が建ち、皆さんも足が疲れてきたようだが、私は馬のように足を蹴り出して歩いて、余分な筋肉をあまり使わないため、筋肉痛にもならず、肉刺もまだ出来ていなかった。一歩一歩、足の負担にならないよう、無理な力を加えたりせず、自然で効率よく歩くことが大切に思えた。

街を少し散策していると、12世紀にマルタ騎士団が建てたゴシック様式の教会(Iglesia del Crucifijo)の塔が美しかった。中央通り(Calle Mayor)にある12世紀の教会(Parroquia de Santiago y San Pedro)の13世紀に作られたファサードも素晴らしかった。ロマネスク様式で作られているがムデハル様式を取り入れて、イスラム建築のような装飾がアーチの部分に施されていた。(教会の門は閉じられていて、有名な像(Betlza)があるが見ることができなかった。)帰りに車道(Calle Irunbidea)から街全体を眺めた。中央の教会(Iglesia del Crucifijo)の尖塔が遠くからきれいに見えた。

巡礼宿には、レストランが併設されており、9€で野菜やヨーグルト・果物・パン・ワイン・水・パスタ・エビの空揚げなど、選り取り見取りで食べ放題な上、魚のオリーブオイルソテーまで出てきて、腹一杯食べられた。食べていると他のAlbergueに泊まったTinaやケベックの人たちも加わり盛り上がった。イタリア人たちもとても盛り上がっていた。広々とした食堂でゆったりと食べられて快適だった。皆は古い巡礼宿に泊まったが、新しくて安くて快適に止まることができて、こっちにすれば良かったと羨ましがっていた。部屋に戻ると8時15分になっていたので歯を磨いて直ぐに寝た。

今日は街に出て、中央通り(Calle Mayor 14)に面した書店(Librería Ohiuka)で巡礼用のガイドブック(José María Anguita Jaén (2003). El Camino de Santiago: Guía práctica del peregrino, León: Editorial Everest.)を買えて良かった。明日から道に迷わずに行くことができそうで安心した。

しかし、AlimentaciónやSupermercadoは、日曜日のため休みで空いておらず、食料品を買うことができないが、夕食にレストランで大量の生野菜を食べることができて良かった。

Puente la Reinaは、バスク語でガレス(Gares)と呼ばれ、Chartae populationis / Carta PueblaにはGaresch, Garex, Garezと記録され、1090年にPons Regine、1085年にPonte Arga、1139年にPonte de la Regina、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPons Reginaeと記録された。11世紀にナバーラ王妃(サンチョ3世妃ムニアドナMuniadona de Castilla, 995-1066、または、ガルシア3世妃エステファニアEstefanía de Navarra)が、巡礼者のためにアルガ川にロマネスク様式の橋を架けたとされるが、Pons Runeの訛りともされる。Rune < Runaは、Arga川のバスク語名であり、その川が流れているPamplonaのバスク語名Iruña < Iruñea < *Irumna < 「町」iri < *huri + umna < バスク祖語「水」*ib-, *eb- + 接尾辞 -na < *-nanの語源と同じと考えられ、実際に1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRunaと記載された。

更に「平地の橋」Pons Larraínから、バスク語「平地」larrain < 「荒地」larre < 古フランス語larrisという説もある。古い町はMurugarrenと呼ばれていた。ラテン語の町名Caresの訛りともされるが、バスク語「壁」murru, muru < 古スペイン語muro < ラテン語murus < イタリック祖語moiros < 印欧祖語「延ばす」mey- + バスク語「高い」garai, garun < *gar-, gar̄-が語源。フランス人が入植して、テンプル騎士団が、イスラムの侵攻を食い止めた(Koldo Colomo Castro, Fernando Pérez de Laborda (2011). Puente la Reina/Gares, historia de un topónimo, Fontes Linguae Vasconum 113: 191-202.)。

CizurからGuenduláinの間の巡礼路

2008年4月21日(月)12日目(Puente la Reina-Mañeru-Cirauqui-Lorca-Villatuerta-Estella: Asociación los Amigos del Camino de Santiago)

葡萄畑の中を歩いたり、ローマ時代の橋を渡った。フランス人やイタリア人と一緒に歩いた。黒い犬を連れて巡礼をしている人がいて、巡礼犬はとても活発に動いていた。長く歩かずに少し早めに切り上げて、計画よりも一つ手前の小さな町(Estella)で泊まることにして、街の中を散策した。

今日は午前7時頃、朝食をとらずに出発した。巡礼宿は町はずれにあるため、Puente la Reinaの街の大通り(Calle Mayor)をつきり、美しいロマネスク様式の橋(Puente la Reina)を渡って町を出た。出かけ際に同じ町の別の巡礼宿に泊まっていたエストニア人Tiinaと会った。畑や峠を歩き連ねて、途中小さな町に立ち寄り、休憩しながら進んだ。途中で少しだけ雨が降ったが、天気は概ね良好だった。

途中で四つの小さな村を通過した。Mañeru(1035年にMangero、1189年にManneru、1193年にMayneru、1229年にmagneruと記録され、ラテン語「大商店」magnarius <「大きい」magnus < イタリック祖語*magnos < 印欧祖語*m̥ǵh₂-nós < 「偉大な」*méǵh₂s + 接尾辞-arius < イタリック祖語*-ās-(i)jo < *-āso- < 印欧祖語*-eh₂so- < *-yósが語源)は、13世紀から1555年まで聖ヨハネ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)が統治していた。村の名には1543年に建てられた古い教会(Parroquia de San Pedro Apóstol)があった。村を離れるときに美しく見えた。

Cirauqui(バスク語Ziraukiは、1035年にCiroquin、1264年にCirauquiと記録され、バスク語「ドングリ」zira < zi < *zinV + 接尾辞-oki, -toki < 「持つ」euki < *e=uka-nが語源)の町は丘の中腹にあり、巡礼路(Calle Bidegorria)を歩いていくと見上げるように町が見えてきて圧巻だった。

丘の上に建物がびっしりと建てられており、箱庭のように一つの村を眺めることができた。周りには赤茶けた粘土質の土が一面を覆っていて、巡礼路の横には葡萄畑が広がっていた。

町の中には中世のアーチの門(Arco de sillería)の横に1658年の道標(Don Martyn D. Yryarte)があり、立派な町役場(Ayuntamiento)があり、広場(Plaza Grande)にはロマネスク様式のファサードが美しい教会(Iglesia de San Román)があった。Puente la Reinaの12世紀の教会(Parroquia de Santiago y San Pedro)と同じく、ムデハル様式が取り入れられており、イスラム建築のような馬蹄形の装飾が門に施されていた。街の中は迷路(Calle Eskinza)のようで道に迷いそうだが、全ての曲がり角には帆立貝のマークがあった。美しく花が家々のバルコニーに育てられていた。

町を過ぎると枯れた川にローマ時代の橋(Puente y calzada romana)が今にも崩れそうに架かっていた。また、巡礼路には当時の石畳が残っていた。また枯れた川(Ragacho de Dorrondoa)に架かる中世の橋を渡り、オリーブ畑の中をしばらく歩いてゆくと、Lorca(バスク語Lorka)に着いた。

(1175年にLorca、1268年にLorqua, Lorrqua、1287年にLorchaと記録、920年にバヌー=カシー家(بنو قاسي / Banū Qāsī)のイブン=ルッブ(Aben Lope < لب بن محمد بن لب بن موسى القسوي بن موسى بن فرتون بن قاسي بن فرتون / Lubb ibn Muḥammad ibn Lubb ibn Mūsa al-Qasawī ibn Mūsa ibn Furtūn ibn Qāsī ibn Furtūn)がパンプローナ王サンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)に勝利した古戦場があり、アラビア語「戦い」مَعْرَكَة / maʿraka < 「泥」ع ر ك‎ ʿ-r-k < セム祖語*ʕakar-が語源でヘブライ語「諍い」עָכַר‎ / ʿakhar < 「泥」ע־כ־ר / ʿ-k-rと関連)

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Lorcaと呼ばれる場所の東には塩辛い川と呼ばれる川が流れている。その水に口をつけてはならない。また、そこで馬に水をやらないように気をつけなさい。これは死に至る川でだからである。私たちがSantiagoへ向かうとき、土手に座り、ナイフを研ぐ二人のNavarra人に出くわした。彼らはその水を飲んで死んだ巡礼者の馬の皮を剥ぐことを生業としている。この嘘つきたちは私たちにきかれて、『その水は飲んでも大丈夫』と言った。だから、私たちは馬に水を飲ませたら、直ぐにその中の二頭が死んだ。するとその人たちは立ちどころに皮を剥いだ(Ad Locum qui dicitur Lorca, in orientali parte decurrit flumen, quod dicitur Rivus Salatus: ibi os equum tuum observa, quia flumen lethiferum est. Super cuius ripam nos, ad sanctum Jacobum pergentes, invenimus duos Navarros sedentes, artavos suos acuentes, solitos excoriare peregrinorum jumenta, quae lympham illam bibebant et moriebantur. Qui nobis interrogantibus mentientes dixerunt «quia sana erat ad potandum»; quapropter equis nostris illam dedimus ad bibendum, et statim duo ex his obierunt, quos illico ipsi excoriaverunt.)」と書かれている。

村の教会(Parroquia de San Salvador)を過ぎて、広場(Plaza Mayor)で一息をついてから、車道(NA-1110)に沿う巡礼路を行き、また草原の間を歩いて進むと、黒い巡礼犬が一緒について歩いてきた!犬は真っ直ぐに歩かずにクルクル回りながら人間の10倍くらいの距離を歩いていた。巡礼路(Calle Morartia)は何度か車道と交差して葡萄畑や草原の中を歩いて行った。

最後のVillatuerta(バスク語Bilatortaは、1061年にVillatorta, Vilatortaと記録され、ラテン語「村」villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「曲がる」tortus < torqueo < イタリック祖語*torkʷeō < 印欧祖語*torkʷ-éye-ti < *terkʷ-が語源)の近くに流れる川(Río Iranzu)に13世紀に架けられたロマネスク様式の橋(Calle Gobierno de Navarra)は美しかった。橋の前で父と写真を撮っていると、二人で撮ってあげますよと声をかけてくれた巡礼者の方がいた。

それから、14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)を通り、町の中で通りにスペイン語とバスク語で「聖ヤコブの巡礼路(Camino de Santiago / Donejakue Bidea)」と書かれた素敵なタイルを見つけた。町外れに971-79年に建てられた特に古い貴重なロマネスク様式の教会(Ermita de San Miguel Arcángel)があるそうが巡礼路は行かなかった。

そこから少し歩いて、川(Río Ega)を渡り、川沿いに巡礼路(Calle Curtidores)を歩き、水汲み場(Fuente de Los Peregrinos)を過ぎて、次の町Estella(バスク語Lizarra)に着いた。1123年に建てられた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)は素晴らしいロマネスク建築だった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「EstellaにはEga川が流れている。この水は清く甘く澄んで良いことこの上ない(Ad Stellam decurrit flumen Aiega: ipsa est lympha dulcis, sana et optima.)」と書かれていて推奨されている。)

通り(Calle La Rúa / Kalea)に面した巡礼宿(Albergue)は大きく、一人5.5€で泊まれた。現地の巡礼者友の会(Asociación los Amigos del Camino de Santiago)が運営する公営の巡礼宿だった。私営の巡礼宿はサービスは良いが、料金が高く、また、ホテルのようで巡礼をしているという気持ちにならないため、一切泊まらず、町に着いたら公営の巡礼宿が、どこにあるかをたずねて見つけた。 初日にピレーネの山中で迷い、お互いによく話しながら、一緒に抜け出した二人のスイス人修道女と会った。

巡礼宿に荷物を置き、近くにある1259年に建てられた修道院(Convento de Santo Domingo)を見てから、12世紀に架けられた美しいアーチの橋(Puente de la Cárcel)を渡り、市内を見に出かけた。

巡礼者が通るのは、旧市街で新市街が橋を挟んで広がっていた。新市街はとても美しく整備されていて快適に過ごせた。中華料理の店まで市内にあった。美しい教会(Iglesia de San Miguel, Capilla de San Jorge)や広場(Plaza San Miguel)が二つ、三つあり美しかった。

Siestaのため、市内には人が殆んどいなかったが、とても良い街だった。金髪の人が多くて、昔ゲルマン人が多く侵入した歴史を物語っていた。また、大きな広場(Plaza de la Coronación)を訪れるとそこから山のてっぺんに十字架が立てられていた。新市街の教会(Iglesia San Juan Bautista)がある広場(Plaza de los Fueros)の長椅子でくつろいだりして、巡礼宿に戻り、シャワーを浴びた。

巡礼宿(Albergue)の外を見ると、丁度TiinaとGillesが楽しくお話をしながら、目の前を過ぎて行くところに出くわして、予定をたずねると、次の町(Ayegui)で泊まると話していた。

それからまた街に出て、1187-96年に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Miguel Arcángel)の素晴らしい彫刻を見て、大通り(Celle Zapateria, Calle Mayor)を歩いたり、広場(Plaza de Santiago)の噴水を見て、大通り(Paseo de la Immaculada)に面した街(Supermercado Carrefour Express)で食料品を買って、巡礼宿に戻った。

お腹が空いて仕方なかったため、午後7時の夕食まで寝た。レストランは橋を越えた所にあり、9€で食べれたが余り満足のいく量でなかった。フランス人と話をして楽しんだ。アルザス地方からずっと歩いてきた人たちで70と71の人だと言っていたが、その元気さには驚かされた。父は日本で3年も英語を教えて住んでいたOregon出身のアメリカ人Richardとお話をしていた。巡礼宿に戻り就寝した。

Estellaは、914年にサンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)が支配して、958年にLizarrara、1012年にLiçarra, Lizarra、1072年にStella en Lizarra、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でStellaと記録され、ラテン語「星」stella > イタリック祖語*stērolā < 印欧祖語*h₂stḗrが語源で流れ星に導かれた羊飼いが、聖堂(Basílica de Nuestra Señora del Puy)が建てられた近くで聖母像(Nuestra Señora del Puy / Nôtre Dame du Puy)を発見したという逸話が伝えられ、Santiago de Compostelaで聖ヤコブの墓所発見の逸話とよく似ている。

バスク名LizarraはLinzoáin(バスク語 Lintzoain)と同じく、「トネリコ」leizar < *lais-‎ + -ar + 接尾辞-ara < ラテン語-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源。

1123年に建てられた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)や1174年に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de la Rúa)のゴシック様式の門は美しく、特に後者はムデハル様式の装飾がなされていた。広場(Plaza de San Martín)に面した12世紀に建てられたナバラ王の宮殿(Palacio de los Reyes de Navarra / Nafarroako Erregeen jauregia)や1259年に建てられた修道院(Convento de Santo Domingo)が巡礼宿の近くにあり、川を渡る手前が特に町の中心部であり、一つの奇蹟が町に起こり伝わり、宮殿や教会が建てられて、周辺の町や村に優先して、都市が形成されてゆくことを感じた。

Villatuertaで見つけた素敵なタイル(Camino de Santiago / Donejakue Bidea)

2008年4月22日(火)13日目(Estella-Ayegui-Irache-Ázqueta-Villamayor de Monjardín-Los Arcos-Sansol-Torres del Río-Viana: Alberguería Andrés Muñoz)

Villamayor de Monjardínのロマネスク様式の塔を持つ教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)やLos Arcosのロマネスク様式の門(Portal de Nuestra Señora de la Concha)を持つ教会(Iglesia de Santa María)が美しかった。巡礼路が羊の大軍勢でいっぱいになった。Torres del Ríoは、中世都市がそのまま残されていて、テンプル騎士団が建てた教会(Iglesia del Santo Sepulcro)が美しく、ロマネスク様式の教会のシンプルな機能美と様式美に魅せられた。巡礼宿では、フランス人たちと一緒の部屋で泊まり、本当に親切で陽気な方がたと楽しく過ごせた。

今日は巡礼宿で少しチョコレート飲料とビスケットの朝食を食べて、Estellaを午前7時過ぎに出た。本当に長い道のりを歩いた。道が平らで天気も良好で日に焼けたが、40キロメートル近く飛ばせた。

Ayegui(バスク語Aiegiは、1060年にAiegui、1072年にAlhegi、1098年にAgegui、1104年にAyeguiと記録され、定冠詞a < *ha + 「丘」egi < *hegiが語源)から、巡礼路を少し逸れて、国道(N-111)を渡ると、直にIrache(バスク語Iratxe)の町に入り、有名な葡萄酒醸造所(Bodegas Irache)が巡礼者に葡萄酒を無料で提供するワインの泉(Fuente del Vino)を通った。「¡ PEREGRINO ! Si quieres llegar a Santiago con fuerza y vitalidad, de este gran vino echa un trago y brinda por la Felicidad. FUENTE DE IRACHE | FUENTE DEL VINO(巡礼者よ!もし元気に健康にサンティアゴに到ることをお望みでしたら、この素晴らしい葡萄酒を一杯飲んで喜びを味わって下さい)」と書かれていた。

私はお酒を飲まないが、皆は喜んで蛇口から葡萄酒を水筒に注いで飲んでいた。一帯には葡萄畑が広がり、葡萄酒の名産地であることを感じた。8世紀(西ゴート王国時代)に創建した古い修道院で958年にMonasterio de Santa Maria de Yrachと記録されたロマネスク様式のベネディクト会修道院(Monasterio de Santa María la Real de Irache)の荘厳な建物を通り過ぎた。(1035年にIraxe、1067年にIrasce、1136年にIrase、バスク語に近いHiraçi、ラテン語化してIllascensis, Irascensis, Iraxensis, Iraxsensisと記録され、「ウラボシ(Polypodiopsida)」iratze < 「シダ」ira + -tza, -tzeか「去勢された山羊」irazko <「去勢する」iraziが語源。)そして、幹線道路(N-111)を渡り、巡礼路に戻った。

左手に山(Montejurra, Monte Luquín)の頂を眺めながら、葡萄畑や小麦畑の中の巡礼路をひたすら歩いた。丘の上に築かれた町Ázqueta(バスク語Azketaは、1090年にAzchita、1106年にAzquetaと記録され、「岩」haitz, aitz < *ɦaic + 接尾辞-keta < -oz(e), -tze < アクイタニア語 -os < ラテン語 -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語-ḱosが語源)の塔を見ながら進んだ。

目の前に778年にカール大帝(Charlemagne, 748-814)がサラゴサ王国と戦い、また、908年にサンチョ1世(Sancho Garcés I, c.860-925)が奪還したという城(Castillo de Monjardín / San Esteban de Deyo)が丘の上にそびえていた。高台から御城や赤茶けた大地や葡萄畑が見下ろせて美しかった。

巡礼路の脇に13世紀に作られたムーア人の泉(Fuente de los Moros)と呼ばれる建物の遺構があり、日陰になっていたのでお休みできた。(建物は後の時代に作られてはいたが、イスラム統治時代の9世紀頃から泉があり利用されていたかもしれない。)少し進むと村の教会の美しい塔が見えてきた。

Villamayor de Monjardínに12世紀に建てられた優美な塔を持つロマネスク様式の教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)があった。町を出るとどんどん下り坂になり、見通しの良い一本道の途中でTiinaとGillesとまた出くわして追い越して、今日はとにかく歩けるだけ進んだ。小麦畑や葡萄畑の中にT字に折れ曲がる巡礼路が高台(Portillo de las Cabras)から見渡せて美しかった。

(1255年にSancti Stephani de Montejardini, Monteiardiniと記録、ラテン語「村」villa + 「大きな」maior、「山」mons > スペイン語 monte + 古フランス語「庭」jardin > スペイン語 jardínとされるが、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でMons Garciniと記録され、Mons Garseaniの訛形。バスク語「若い」gazte < *gasteを語源とするGarcía、古フランス語「下僕」garçon < 民衆ラテン語garciō < フランク語*wrakjō < ゲルマン祖語*wrakjô < 「努力する」*wrekaną +‎ *-jô < 印欧祖語*w(o)rǵʰ-e-ti + *-ō < 「絞る」*werǵʰ-を語源とするGarcin、バスク語「牢」garzela < 古スペイン語carcel < ラテン語carcer < イタリック祖語*karkros < 「縛る」*(s)kr̥-kr̥- < 「回る」*(s)ker-が語源ともされるが、ナバラ王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)の墓所に由来する。)

Los Arcos(バスク語Arkoetaは1007年にUrranci、1087年にLos Archos、1109年にUrancia que dicitur Arcus、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でArcus, Uranciaと記録。スペイン語「アーチ」arco < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s、バスク名Urancia, Urranciは「遠い」urrun < *hur̄u-が語源)の街中(Calle Mayor)は、赤レンガで作られた家々が灼熱の太陽に照らされて暑かったが、通りは左右の建物で日影ができ、涼しい風が吹き抜けて快適だった。

12世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María)は、外側はロマネスク様式、回廊はゴシック様式、内側はバロック様式で増築を繰り返していた。12世紀に作られたロマネスク様式の門(Portal de Nuestra Señora de la Concha)が貴重で美しかった。中央通りの両側に整然と家や店が並んでいた。17世紀に建てられた門(Portal de Castilla)から町を出た。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Los Arcosと呼ばれている場所には死をもたらす川が流れていて、Los Arcosを出て、救護所 (Ermita de San Blas) の前に水を飲む人や動物に死をもたらす川が流れている(Per villam quae dicitur Arcus, decurrit aqua lethifera ; et ultra Arcum ad primum hospitale, intra Arcum scilicet et hospitale idem, decurrit aqua lethifera jumentis et hominibus bibentibus eam.)」と書かれていて、Río OdrónとAcequia del Regadíoに比定される。)

町外れに12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Ermita de San Blas)の遺構があった。一面が草原の中を一本の道が通り、気持ちよく歩いていくと、サンスクリット語ができるBarcelonaからきたカタルーニャ人に出会い、沢山お話しをしながら進めて楽しかった。

途中で羊の放牧から帰ってきた羊飼いが犬を伴い、羊の大軍勢を引き連れて、巡礼路が羊でいっぱいになり、羊たちが通り過ぎるまで面白く眺めながら待った。

そこからは車道(NA-7205)を歩いてゆくと村が丘の上に見えてきた。小さな村Sansol(バスク語Santsolは、1176年にSancto Sole in Los Arcosと記録され、聖ゾイルス教会(Ecclesia Sancti Zoili)が建てられ、スペイン語の太陽(ラテン語のsolus)ではなく、304年にコルドバで殉教した聖ゾイルス(Sanctus Zoilus)の古典ギリシア語「人名」Ζωΐλος / Zōḯlos < 「生きる」ζάω / záō < ヘレニック祖語*ďṓwō < 印欧祖語*gʷih₃-wó-s < *gʷeyh₃-が語源)のベンチに座り、一緒に一息をついてから別れて、私たちはもう少し先まで歩いた。次の村(Torres del Río)が美しく箱庭のように一望できた。

直ぐ近くのTorres del Río(1109年にTurres、1175年にTorresと記録があり、古スペイン語「塔」torre < ラテン語turris < 古典ギリシア語τύρσις / túrsisとスペイン語「川」río < 古スペイン語rio < ラテン語rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語*h₃rih₂-wó-s < 「動く」*h₃reyH-が語源)は、中世都市がそのままカプセルのように残されていて美しい外観で気に入った。町の中心に1160-70年にエルサレムの聖墳墓教会を模してテンプル騎士団が建てたロマネスク様式の教会(Iglesia del Santo Sepulcro)は立派な石造りで六角形をしていた。中世に夜に灯りを灯して、灯台のように巡礼者を導いていた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Navarra領内のTorres del Ríoと呼ばれる街に水を飲む人や馬に死をもたらす川が流れている(Ad villam, quae dicitur Turres, intra scilicet Navarrorum decurrit flumen lethiferum jumentis et hominibus bibentibus illud.)」と書かれていてRío Linaresとその支流Río de Mariñanasに比定される。)

更にハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いている田舎道を進むと丘の上に14世紀に建てられた古めかしい教会(Ermita de Nuestra Señora del Poyo)がぽつんとあった。

そこから蛇行をしながら、スロープのように下り坂になり、父より先に歩いていくと、父が谷の先に見えてきたりして面白かった。山道を抜けるといきなり視界が開けてきて、次の町(Viana)が見えてきた。町に着いたとき、父を待つ間、地元のスペイン人と話していた。

巡礼路(Calle la Pila)から門をくぐると町の中に入った。中央通り(Calle Rúa Santa María)にある13世紀に建てられた教会(Igresia de Santa María)の塔が優美にたたずんでいた。ファサードの彫刻も立派だった。13世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の18世紀に作られたファサードも立派で巡礼宿として使われていた。午後6時過ぎまで歩いてきたため、今日はここに泊まることにした。

巡礼はグルメ旅行ではない上、旅費の節約にもなるため、食料品店で沢山の食料を求め、町の真ん中の通り(Calle Medio de San Pedro)に面した巡礼宿(Albergue)で皆でおしゃべりをして盛り上がりながら食べた。巡礼宿に着くと、とても陽気なフランス人が部屋にいてほっとした。

スペイン人のおとなしめの人と、フランス人のよくしゃべる人くらいがちょうどよく、ドイツ人は少し真面目で几帳面すぎるきらいがある感じがした。面白い事にヨーロッパでも、北に行くほど、几帳面な国民性を持ち、南に行くほど地中海の温暖な気候で大らかになることを感じた。

夕食はアメリカ人、フランス人、ドイツ人、チェコスロバキア人と食べた。一緒の部屋のフランス人Kikeが沢山写真を撮ってくれて、本当にフレンドリーで就寝まで心温まる時間を過ごせた。同じ部屋にはフランス人の家族が宿泊していて、皆でフランス語で話が盛り上がった。

(Vianaは、1219年にナバラ王サンチョ7世(Sancho VII de Navarra, 1194-1234)が作った町で1229年にviana, vianna、1234年にvianam、1311年にbiana、1313年にbianeと記録され、オーストリアの首都Wien, Vienaやフランスの都市Vienneと同じ語源である。ローマ人が各地に建築した都市Viennaはラテン語Vindobonaに遡り、先住民族のケルト語*Vedunia < ケルト祖語「森」*widus < 印欧祖語*h₁widʰ(h₁)-u-s < 「分かれる」*h₁weydʰh₁-が語源である。スペインやポルトガル北部にもケルト系の地名が多くあり、ポルトガル北部の港町Viana do Casteloなどがある。町の中心にある教会(Iglesia de Santa María)にはレオナルド=ダ=ヴィンチ(Leonardo da Vinci, 1452-1519)が技術者として仕えたチェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia, duca di Valentino, 1475-1507)の墓所がある。)

ベネディクト会修道院(Monasterio de Santa María la Real de Irache)
Sansolの手前で遭遇した羊の群れ

2008年4月23日(水)14日目(Viana-CuevasLogroño-Navarrete-Nájera: Asociación de Amigos del Camino de Nájera)

Navarra地方からLa Rioja地方に入った。Logroñoで教会(Iglesia de San Bartolomé)は美しかった。美しい湖(Pantaro de la Grajera)を見たり、葡萄畑が広がる乾いた大地を歩いていると一面にかかる虹が見えた。Nájeraの街を抜けて橋を渡った先に寄付金で運営される公営の巡礼宿に泊まれた。

今日は午前7時過ぎに宿を出た。巡礼宿の前が巡礼路のために直ぐに歩きだして、門(Portal de San Felices)をくぐり町を出た。昨日と同じような景色を40kmほど歩き続けて進んだ。

途中でフェンスに十字架が沢山建てられていたり、道はバラエティーに富んでいた。町で食料を買い込んんだため、荷物の重さに押しつぶされながら、何とか乗り切った。車道(N-111)に沿う一本道のためどんどん歩いてゆき、町や目立つ場所で父が追い付いてくるのを待ちながら進んだ。

街を出てしばらく歩くと14世紀に建てられた立派な教会(Ermita de la Virgen de la Cuevas)がぽつんとあり、ローマ人が来る前から町Covasがあり、Vianaの町ができるまで栄えていた場所だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「また、Cuevasと呼ばれる町があり、同じく死をもたらす川が流れている(Inde ad villam quae dicitur Covas, flumen defluit mortiferum)」とあり、Río de Perezuelasに比定され、1270年にCueuasと記録、ラテン語「洞窟」cavus < イタリック祖語*kawos < 印欧祖語「恐れる」*ḱowh₁-ós < 「膨れる」*ḱewh₁-が語源)

平原を一本に貫いている巡礼路(Camino a San Andrés)をひたすら進むと直に製紙工場(Papelera del Ebro SA)があり、遂にバスク人が多く住むNavarra地方からLa Rioja地方に入った。県境を越えた途端に砂利道から赤い舗装がされて良い道になり歩きやすくなった。

街に入る前にローマ都市の跡(Cerro de Cantabria)があり(イベロ=ケルト語「岩」*cant- < ケルト祖語「縁」*kantos < 印欧祖語「曲がる」*kh₂em- + イベロ=ケルト語「土地」*broɣ < ケルト祖語「境界」*mrogis < 印欧祖語*morǵ-is < *morǵ-が語源)を過ぎ、高速道路の下を何度かくぐり、葡萄畑の中の平坦な道(Camino Viejo de Viana)を歩いていると、Bar Donna Felisaに飼われていた犬が懐いて、私の周りを歩き回っていた。通りにはきれいな赤と白の花が咲いていた。

町に近づくといくつか塔が見えた。町を見渡せる葡萄畑にある石の腰かけで少し一休みして、父が来るのを待った。町の中は道が入り組んでいるから町に入る前の一本道で父を待てば必ずはぐれることがないと思った。それから大通り(Carrera Mendavia)を歩いてゆくと町の教会の塔が見えてきた。

橋(Puente de Piedra)を渡り、町に入ると大通り(Calle Mercaderes)に面した博物館(Centro de la Cultura del Rioja)や1130年に建てられたカスティーリャ王ルフォンソ7世(Alfonso VII, 1105-1157)の宮殿に由来する教会(Iglesia de Santa María de Palacio)があり、1500-27年に建てられた美しい教会(Iglesia de Santiago el Real)の中に入った。祭壇にとても美しく装飾が施されていた。御心を持ったイエス像や、聖ヤコブや幼きイエスを抱いた聖母子像など美しい聖像があった。

塔の横にある壁の高い所には、クラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で現れた聖ヤコブの姿が大きく彫刻されたレリーフがあった。また、12世紀にゴシック様式で建てられた教会(Iglesia de San Bartolomé)や12世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María de Palacio)の尖塔が素敵だった。

正午過ぎにLogroñoのBanco Santanderでお金を下して、Supermercadoで買い物をした。城門(Muralla del Revellín)や美しい噴水がある広場(Plaza Alférez Provisional)を過ぎた大通り(Calle Marqués de Murrieta)に面したDiaでは、安くてIbérico豚のChorizoがとても美味しかった。

Logroñoは大きな町で金髪の住民が多く、古くからゲルマン人が住みついたことを感じた。(575年に西ゴート王リウヴィギルド(Liuvigild, 519-586)が駐屯したCantabriaがあり、965年のレオン王サンチョ1世 (Sancho I de León, 935-966)に関係してLucronioとして記録された。

特に古スペイン語lo < ラテン語illo < ille < イタリック祖語*olle < 印欧祖語*h₂ol-no- ~ h₂l̥-no- < 「他」*h₂el-と合わせて、gronio, groino, groyno, gravio, grivio, graio, gruio, gronoなどと記録され、ラテン語「ケルト系民族Beronesの土地」Lucus Berunius / Brunius < Varia, Vareia, Vereia, Baregia < ケルト=イベリア語「民族名」Uarakos, Barakos < ケルト=イベリア語「川」*uaro- < 印欧祖語*wódr̥ < 「水」*wed- +‎ 接尾辞*-r̥、もしくはEbro川と同じくバスク語「川」ibai < *ɦibaiが語源と考えられる。

1095年にはカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が自治(fuero)を認め、カスティーリャ王ルフォンソ7世(Alfonso VII, 1105-1157)が宮殿を建てた。1109年にGrugnus、1162年にLogroino、1164年にPont Locronii, Lucronzum、1259年にLogroyno、1264年にLogroynno、1270年にLogroño、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でGrugnusと記録された。1431年に市(ciudad)になり、1516年に大聖堂(Concatedral de Santa María de la Redonda)が建てられた。町の北側を通り過ぎて中心にある大聖堂には訪れなかった。

町の更に南15kmほどの丘にある村(Castillo de Clavijo)こそが、844年5月23日にアストゥリアス王ラミーロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)がクラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン2世(عبد الرحمن بن الحكم / ʿAbd ar-Raḥman ibn al-Ḥakam, 792-852)との戦いで白馬の騎士が現れ、勝利に導いたとされ、聖ヤコブ信仰につながり、巡礼路が開かれた伝説のある地である。Ildefonso Rodríguez de Lama (1976-79). Colección diplomática medieval de la Rioja (923-1225), Logroño: Instituto de Estudios Riojanos.やUrbano Espinosa (2004). El gentilicio Berones en el topónimo Logroño, Alicante : Biblioteca Virtual Miguel de Cervantesを参照)

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Logroñoに向かいEbroという大きな川が流れており、その水は清く魚が多くいる。EstellaからLogroñoまでの全ての川は人間と動物が飲むには危険であり、そして、それらの川で捕れた魚を食べると毒である。(ad Grugnum decurrit aqua ingens, nomine Ebra, quae est sana et piscibus abundat. Omnes fluvii, qui a Stella usque ad Grugnum habentur, lethiferi ad bibendum hominibus et jumentis, et pisces eorum ad comedendum approbantur.)」と書かれていてRío Ebroは大きな川として良く知られていた。)

町を出るとしばらく幹線道路(N-232)に沿う歩きやすい道を進んだ。新市街はかなり広くて大通り(Avenida de Burgos, Calle Entrena, Calle Rodejòn, Calle Prado Viejo, Avenida Manuel de Falla)や公園(Parque Camino de Santiago)をひたすら歩いた。段々と商店街から住宅地になり、郊外に出ていき、幹線道路をくぐり、巡礼路(Camino Prado Viejo)に出た。

美しい湖(Pantaro de la Grajera)の前の石段に腰掛けて、町で買った昼食を食べた。それから、また幹線道路(N-232)に沿う殺風景な巡礼路を歩き、高速道路(AP-68)を陸橋で渡ると1185年にテンプル騎士団により建てられた古い巡礼宿の遺跡(Ruinas del antiguo hospital medieval de San Juan de Acre)があり、門がきれいに建てられており、建物の土台だけが残されていた。そこで石に腰かけて休み、父が歩いてくるを待っていた。父が追い付いてきて、目的の街を決めてから歩き出した。

直ぐに町Navarrete(1196年にNauarret、1268年にNavarreteと記録され、 バスク語「谷」naba < *naba + 「村」herri < *her̄i + 「扉」ateka < *ateが語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillarubeaと記録)が目の前に見えてきた。1195年にアルフォンソ8世(Alfonso VIII de Castilla, 1155-1214)が統治して、13世紀の城壁(Muralla)が丘の中腹に作られており、1523年に建てられた教会(Iglesia de Santa María de la Asunción)の尖塔が街のシンボルだった。町の周りの道(Callela Cruz)を進んだ。黒い石畳がきれいで歩きやすかった。父と次の町で今日は泊る約束をして、父は町外れの通り(Calle San Roque)のベンチで休み、私は先に歩いた。

町を出てから、幹線道路(Calle Carretera de Burgos / N-120)や高速道路(Autovia del Camino de Santiago / A-12)に沿いながら歩いた。途中から巡礼路の辺り一面が葡萄畑で乾いた土地(Alto de San Antón)を歩いてしばらくしたら、巡礼路の近くの少し南に塚(Poyo de Roldán)があり、778年にフランク王カール大帝(Carolus Magnus, 748-814)がスペインに遠征をしたとき、ブルターニュ辺境伯ローラン(Hruodlandus)が巨人を退治した御礼に村人から受けた財宝を埋めた伝え聞いた。

川(Río Yalde)を渡る少し前に美しい虹が空一面にかかっていて、ひたすら平原が広がる中を歩いてきて、息をのむほど美しかった。飲むヨ-グルトを飲んで一服した。

目的地のNájeraに父よりも何時間も早く着いてしまい、イタリア語とフランス語の本を読んでいた。通り(Calle San Fernando)に面した食料品店(Schlecker S.A.U.)でジュース(Zumo de multivitaminas)、ヨーグルト飲料(Danone Font Vella vital)、レモンティ(Té de limón)などの飲み物を求めて、巡礼宿(Albergue)の前で待つことにした。

父は陽気なスペイン人の集団と一緒に歩いて、途中で休憩をしてきたため、到着するまでに時間がかかったと話してきた。巡礼宿(Albergue)が町の中でなかなか見つからず、地元の人に聞きながら進み、やっと町の中を縦断するように流れている大きな川に架かる橋(Puente sobre el río Najerilla)を渡った先の左にある町はずれの広場(Plaza Santiago)に見つけた。そこは寄付金のみで運営されていて、宿泊した巡礼者が寄付を入れる公営の巡礼宿だった。

パスタを作ろうと思ったが、電磁式(IH)のキッチンに慣れないため、調理に戸惑っていたら、管理人(hospitalera)のフランス人Yolandaさんが全て親切に助けてくれて感謝した。両親が韓国から来て、アジア人の顔をしているけれども、フランス語が母語だとフランス語で話していた。

出来上ったパスタはアルデンテだが、水を入れ過ぎてしまい、スープパスタになったが、薄味で消化に良く、身体に優しく美味しかった。食事後、シャワーを浴びて寝る前に陽気なイタリア人Stefanoやアメリカ人Saraとおしゃべりを楽しんでから床についた。

Nájeraは歴史が古い町で川(Río Najerilla)が流れ、アラビア語「川」نَهَر‎ / nahar < セム祖語*nahar-(アッカド語 𒈾𒀀𒀸 / nārum、ウガリト語 𐎐𐎅𐎗 / naharu、アラム語 ܢܲܗܪܵܐ‎ / nahrā、ヘブライ語 נהר‎ / naharと関連)が語源とされるが、青銅器時代や鉄器時代から人が住み、ローマ時代にTritium Magallumが築かれ、西ゴート語に遡るともされ、地域名のスペイン語Navarra、フランス語Navarre、バスク語Nafarroaとも関連して、Nagara, Najela, Naiara, Nayra, Nasara, Naxera, Nazara, Naçaraなどの綴りで記録されるが、故に先住のヴァスコン人のバスク語「谷」naba < *naba + 「村」herri < *her̄iが語源である可能性が高い。確かにNavarra地方には多少の起伏や村々があり、後者の説が納得がゆく。

923年にナバラ国王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)がレオン王オルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 871-924)と後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)から奪還して、924年にアブド・アッラフマーン3世(عبد الرحمن / ʿAbd ar-Raḥmān III, 889-961)にPamplonaを破壊されたナバラ国王ガルシア1世が居住して、1054年までナヴァラ王国(Regnum Navarrae > Reino de Navarra)の首都にして、1076年に遷都した。

1080年に西欧最古の現存する紙に書かれた本としてモザラベ典礼(Rito mozárabe)のミサ曲集(El Misal de Silos)が書かれた。1142年にフランスからトレドに向かう途中のクリュニーの修道士ペトルス(Petrus Venerabilis, 1092-1156)がダルマティアのヘルマン(Hermannus Dalmata)やケットンのロバート(Rodbertus Ketenensis)など翻訳者とこの街で会い、修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)でコーラン(قرآن / al-Qurʼān)やサラセン人の歴史(Chronica mendosa Saracenorum)をラテン語に始めて翻訳した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でNageraと記録された。1218年にカスティーリャ王国(Regnum Castellae / Reino de Castilla)のフェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が戴冠式をした。

(Lecuona Don Manuel (1962). Etimología de la voz "Navarra”, Munibe 1962: 3-4. "Tenemos, por tanto, como elementos de comparación y estudio las variantes siguientes: Navarra (forma v), Nafarra (forma f), Naharr(uri) (forma h), y por fin Najarro con Nájera o Nájara (forma j). Formas todas, que, en su conjunto, nos aproximan, como decimos, tan notablemente al nahar, nuestro supuesto origen del histórico nombre."と書かれている。María Dolores Gordón Peral (2010). Toponimia de España: estado actual y perspectivas de la investigación, Berlin: Walter Mouton de Gruyter: 145.)‎

Alto de San Antónで見えた巡礼路にかかる虹
西欧最古の現存する紙の本(E-SI (Santo Domingo de Silos), Archivo del Monasterio, MS 6, 25v-26r)

6949 * 2008年4月24日(木)15日目(Nájera-Azofra-Cirueña-Santo Domingo de la Calzada-Grañón: Hospital de Peregrinos San Juan Bautista)

Xavierと偶然出会い、東洋哲学の話で盛り上った。Santo Domingo de la Calzadaで杖を買った。Grañonの巡礼宿は寄付だけで運営されていて、巡礼者が皆で全てを準備して片付けするため、フレンドリーでアットホームな時間を過ごせた。教会の中で祭壇の前で寝て、一晩を過ごした。

今日の朝は遅く、午前7時15分に起きて、食堂でLombardia出身のイタリア人Stefanoたちと朝食を食べて、午前8時少し前に巡礼宿(Albergue)を後にした。父と私が巡礼宿を出たとき、最後の二人目だった。近くの1052年にパンプローナ王ガルシア・サンチェス(García Sánchez III, 1012-1054)が創設したナバラ王族たちが多く眠る修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)を訪れてから、住宅地の中を通っている巡礼路(Calle Costanilla)を少し進んだ。

美しい景色の場所(Monte Calavera)が直ぐにあり、左に雪をかぶった美しい山々(Sierra de Cebollera)を見た。イタリア人Stefanoやアメリカ人Saraたちと出くわして、おしゃべりをした。

それから森の中に入り、坂を上り、丘を上がり切ると緩やかな下りになり、辺り一面が葡萄畑の中を通る平坦な道を歩いてゆき、一つのコンパクトで美しい村Azofra(1199年の修道院(Monasterio de San Millán de la Cogolla)に対する教皇勅書で記録があり、アラビア語「素晴らしい」سِحْر / siḥr < 「暁」سَحَر / saḥar < セム祖語「曙」*šaḥ(a)r-が語源。アッカド語𒀉𒄘𒍣𒂵 / šērum、ヘブライ語שַׁחַר‎ / šáḥar、アラム語𐡔𐡇𐡓 / šaḥrā、ウガリット語𐎌𐎈𐎗 / šḥrと関連)の美しい鉢植えのお花が飾られた家の間を抜けて、村から出た所に面白い形の柱(Picota de Azofra)が草むらの中に建っていた。その前で石に腰かけて、父が歩いてくるのを待ちながら休憩をした。

葡萄畑や小麦畑など草原の中を通る良く踏みならされた一本道を遠くの山々を望みながら歩いてゆくと、チェコ人Liaとスペイン系フランス人Xavierと会った。見晴らしが良い所で腰を下ろして一休みして父を待った。Liaの弟(か兄)が物理学者で日本を学会に出席するために何度も訪れているそうだ。皆、日本に来たり、関わりがある人が多くて面白く感じた。

それから丘を上がりながら後ろを振り返ると歩いてきた巡礼路が一望できて圧巻だった。ここまで歩いて登ってきた実感があった。尾根に休憩できる場所があり、ベンチに腰を下ろして水を飲んだ。

Cirueña(972年にCironia、1052年にCeroniam、1056年にCironiam、1191年にCyrueina、1193年にCyronia、1277年にCirueño、1287年にÇiruennaと記録され、バスク語Zuriona < 「木」zur < *sul +「足(根)」oin < *hoinが語源)では、ジャガイモが道端で潰れていて笑いながら歩いた。

(今は小さな教会(Iglesia de San Andrés)しかないが、927年にはパンプローナ王サンチョ2世(Sancho Garcés II, 938-994)が修道院に寄進して、1052年にサンチョ3世(García Sánchez III, 1012-1054)が​修道院(Monasterio de Santa María la Real de Nájera)に寄進した由緒ある土地である。)

町は丘の上に作られており、そこからは下り坂(Alto de Matacón)になり、羊が放牧されている牧場を歩いた。なだらかな丘が遠くに見えて、一面が春の新緑で染まり美しい風景のパノラマだった。ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色い花が咲いていて彩りを添えていた。

丘を登ると幾重にも重なる先の巡礼路が見えて見通しがとてもよくどんどん歩いてぐんぐん進んでゆけた。なだらかな丘陵を歩いてゆくと視界が突然開けてきて、目の前に大きな町が見えてきた。

(巡礼路から少し南にある村San Millán de la Cogollaには、6世紀に創建され、 954年にナバラ国王ガルシア1世(García Sánchez I, 919-970)が建てたが、1024年に アルマンソル(المعافري / al-Manṣūr > Almanzor, 939-1002)に攻撃され、1030年と1053年にナバラ王サンチョ3世(Sancho III, 992-1035)が再建した歴史ある二つの修道院(Monasterio de San Millán de Suso y Yuso)があり、11世紀に書かれた聖ミリャン修道院の注解(Glosas Emilianenses)にカスティーリャ語やバスク語で欄外に註釈が加えられた。更にリエバーナのベアトゥス(Beatus de Liébana, c.730-0798)による《ヨハネの黙示録》の注解(Beato de Cirueña)の写本、946年に筆写されたセビリアのイシドルス(Isidorus Hispalensis, c. 560-636)の《語源学(Etymologiae u Originum sive etymologiarum libri viginti)》や1195年の歴史書(Becerro Galicano)などの大量の書籍が筆写室(Scriptorium)で生まれた。)

Santo Domingo de la Calzadaに着いて、車道(Calle del Doce de Mayo)から中央通り(Calle Mayor)に入ると城壁があり、旧市街という感じがしてきた。16世紀に建てられた古い家(Albergue Cofradía Casa del Santo)が巡礼宿だった。立派な扉が付いて中に広い納屋があった。その前の広場(Plaza de la Alameda)の長椅子で父を待った。すると、先ずXavierが歩いて来て、彼も少し休憩するよと一緒に座りながら、話が盛り上がった。東洋哲学への造詣にとても驚かされた。般若心経を見せてくれ、仏教の修行の話を聞いたり、李白や荘子・老子が大好きと聞き、更に驚いた。父は先ほど会ったから、直ぐに来ると思うよ。今日はGrañónの巡礼宿に泊まる予定だから待っているよ。そこは巡礼者が家族のように感じられる特別な巡礼宿だから、是非ともそこに泊まるといいと教えてくれた。

聖ドミンゴ(Domingo de la Calzada, 1019-1109)が、1044年にOja川に橋(Puente de Santo Domingo)を架けたり、敷石(calzados)を道にひいて築いた町で広場(Plaza del Santo)に巡礼者を助けた救護院(Hospital de Peregrinos)があり印象的だった。1106年に建てられた聖ドミンゴが埋葬された大聖堂(Catedral de Santo Domingo de la Calzada)には、鶏が飼われていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Dominicusと記録された。

昔に父親Xantenと巡礼をしていた青年Hugonellが、銀食器を盗んだと無実の罪を着せられて首吊りの刑に処せられたが、父親がSantiago de Compostelaへ巡礼を終え、町に戻ってきたら、首吊り台で生きていて、聖ドミンゴが足を支えてくれていた奇蹟が起き、裁判官に父親が首吊り台から息子を下ろして欲しいとお願いしたところ、絞首刑に処せられた人が生き返るのは、料理された鶏が生き返るように絶対にありえないと言った途端、鶏が生き返り鳴き出して、無実が証明された話が伝えられた。

大聖堂(Catedral)や宿泊施設(Parador)になっている救護院(Hospital)の正面にある聖ドミンゴの像には巡礼の杖が必ず刻されていた。町で軽量で丈夫で良い巡礼用の杖を求めることにした。

広場(Plaza del Santo)から少し通り(Calle Hilario Pérez)に入ると雑貨屋(Moderna Regalos)があり、店頭に並んでいた杖がシンプルで気に入った。実際に杖がある方が、急な斜面で支えてくれたりして、足場が悪いところでもバランスを取りやすく、足に負担をかけずに歩いてゆけると感じた。

店主にSupermercadoの位置をたずねると丁寧に教えてくれた。商店街になっていた隣の通り(Calle Pinar)にお菓子屋さん(Pastelería Isidro Heladería)を見つけて入り、父と一緒にアイスクリームを食べて、チョコレート菓子を頂き、とても美味しくて、至福の時を過ごした。同じ通りで食料品店(Autoservicios Gama)を見つけて入り、飲料や食料を買い、午後2時半に町を出た。

13世紀の城門(Muralla)を抜けて、町を出るとその川(Río Oja)があり、立派な道路橋(Puente de Santo Domingo)を渡り、幹線道路(Carreras de Burgos)沿いの巡礼路を少し進むと鉄の十字架(Cruz de los Valientes)があった。幹線道路(N-120)から少し逸れて、途中で少しだけ、小道に入る所で迷いながら、小さな村Grañón(885年にレオン王アルフォンソ3世(Alfonso III de Asturias, 848-910)が砦を作り、古スペイン語「穀物」grano < ラテン語granum < イタリック祖語*grānom < 印欧祖語 *ǵr̥h₂-nóm <「育つ」*ǵerh₂-が語源)に着き、街中の長椅子で父を待っていたら、スペイン人の夫人が来て、巡礼宿(Albergue)に案内してくれた。すると、Xavierが既にいて中から出てきて、温かく迎え入れてくれた。父は小麦畑の中の巡礼路ではなく、途中から幹線道路(N-120)に沿う道を歩いてきたと話していた。村の中の道(Calle Santiago)は家々の様子も風情があった。

今日は午後4時過ぎまで歩いた。巡礼宿は教会の隣にあり、古い建物で内装と外装共に美しかった。ここも寄付だけで成り立っていて、しかも、お金を入れるのは義務ではないどころか、募金箱には鍵がかけられておらず、「必要なら取ってゆきなさい。可能なら置いてゆきなさい(Toma lo que necesites, deja lo que puedas.)」と書かれていて、巡礼者が助け合う精神が溢れていて、巡礼宿の本来の姿を感じさせてくれて、フレンドリーでアットホームだった。

寝る場所と庭でXavierと少し話をした後、シャワーを浴びた。それから庭でXavierやLiaやカリフォルニアから来たオランダ系アメリカ人夫妻Miriam & Donと沢山のお話をした。

Xavierが寝る部屋の隣の教会を案内してくれて、祭壇の豪華絢爛さに驚き、村にもこんなに立派な教会が建てられていることに心を打たれた。今日は英語は話す人が、沢山いて盛り上がれそうに感じた。

Xavierとシャワー後にも沢山お話をした。彼は知識として東洋哲学を知るだけではなく、心で感じる人で話には深みがあり敬服した。宗教的に重要な場所を西東問わず訪れた話を聞いて、彼のような旅をしたいと思った。トルコ、シリア、アラビアなど、世界を広く旅する精力的な人だった。

中国哲学について、色んな本を読んでいて、好きな詩人は李白だと言っていた。合気道について読んだり、居合も習っていたと言っていた。私と同じで全ての源は人の心であって、物理的な方法はそれに伴うことであると考えて、人間的な精神を大事にする人であり、そのような人と会えたことに対して縁(providentia)を感じたと話すと、彼はにこりと笑って、人との出会いはそのようなものだねと言った。特に中国の古典、特に易経にも通じていて、儒教についても造詣が深かった。

夕食の準備を皆とおしゃべりをしながら手伝い、食堂にはものすごい長いテーブルが用意されており、ものすごい数の食器がずらりと整列していて、晩餐と言えるようなにぎやかさだった。皆で食卓のお祈りをしてから、食事を始めた。

夕食では本当に様々な言語、スペイン語、フランス語、スウェーデン語、イタリア語、英語などが飛び交っていて楽しかった。右隣のフランスのご婦人と一緒になりおしゃべりをした。左隣はチェコ人Liaとスペイン系フランス人Xavierだった。ものすごい数の巡礼者がいて、大きな晩餐だった。

XavierやLiaと話をしながら、私はパンを切ったり、チーズやサラミを盛りつけて、サンドイッチ(Bocadillo)を作った。Xavierはこれはスペイン語で何というのかと食材について聞いてゆくと、喜んで教えてくれた。特に紙の上では、むしろ難しい言葉は多く覚えることができるが、実際に言葉を話すためには、実際に生活をして、食材や料理、日常で使う言葉を実地で学ぶことが大切と考えた。

夕食はフランス人とフランス語で話した。食後、皆で片付けをして、イタリアのご夫妻DavideとLisa、アメリカのご夫妻DonとMiriamと話をして、時間を過ごして、皆で晩餐を行った。隣の教会の屋根裏で祈りの言葉を各国語で読み上げて、一日を終えた。巡礼中にあったことをお話してシェアーしたり、最後に蝋燭を手渡しして行き、一人一人お祈りをしたり、お祈りを心で描くなどした。

今日は教会で眠ることにした。祭壇の前に寝袋を敷き、眠りについた。ライトアップされた祭壇はとても美しく、マリア様やイエズス様に囲まれ、深い神聖な眠りにつけた(笑)教会には、正面にイエズス様とマリア様の昇天、右面に幼子イエズス様とマリア様の母子像、洗礼者ヨハネの像、マリア様で、左面が洗礼者ヨハネの遺体を安置する所や (1933年とある) 大きな十字架があった。

葡萄畑と巡礼路(Azofra-Cirueña)

6950 * 2008年4月25日(金)16日目(Grañón-Redecilla del Camino-Castildelgado-Viloria de Rioja-Villamayor del Río-Belorado-Tosantos-Villambistia-Espinosa del Camino-Villafranca Montes de Oca: Montes Dom. Rex. Hospitalis)

乾いた大地を貫いている巡礼路をひたすら歩き進んだ。La Rioja地方から、Burgos地方に入った。Beloradoの町はずれにある川に架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")が立派で気に入った。巡礼宿でフランス人、ハンガリー人、フィンランド人とお話をしながら夕食を作って食べた。

今日は朝は、午前7時に父が教会まで起こしに来てくれて、朝食を食べて、荷を整理して、ゆっくりしていると、午前8時半になって出た。思い出が詰まった巡礼宿(Albergue)を出て、少し進んだとき、杖を忘れたのに気付いて取りに戻った。小一時間ほど歩いてゆくと、La Rioja地方から、Burgos地方に入った。県境の丘の上からは歩いてゆく道を見下ろすことができ、次の村が彼方に見えた。具体的な目標があると次はあそこまで歩いてゆこうという進んでゆこうとする意欲につながることを感じた。今日も昨日と同じく山を眺めながら、丘を上がり下がりして、緑がきれいな中をひたすら進んだ。

次の町Redecilla del Camino(968年にRadicella、1028年にRateziella、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRadicellasと記録され、古スペイン語「蕪」radici < ラテン語 radix < イタリック祖語*wrādīks < 印欧祖語*wréh₂ds. + 接小辞 -cilla < ラテン語 -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lós、もしくはスペイン語「網」red < ラテン語 rete < イタリック祖語*rēti- < 印欧祖語*h₁reh₁-t- < 「並ばせる」*h₁reh₁- + 接小辞 -ecilla < ラテン語 -icula < -ulusが語源)に入る所に十字架や水汲み場がある広場があった。ベンチに腰掛けて少しだけ休んで水を飲んだ。17世紀に建てられた教会(Iglesia de la Virgen de La Calle)に入ると、美しいパイプオルガン、いくつもの金ぴかの祭壇や絵画があった。マリア様の昇天の絵画はとても美しかった。教会の中は工事をしていて貴重な絵画がそこらに置かれていてびっくりした。

蝋燭に火を付けるのが、電化されていて、LEDが付いて驚くと共に少しだけ拍子抜けしたが、13世紀に作られたロマネスク様式の古い洗礼盤(Pila bautismal románica)が目を引いた。バベルの塔のような形をしていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でRadicellaと出てきて、今は小さな集落だが昔から巡礼路に面していて栄えていた場所であることを感じた。

また、村を出てひたすら幹線道路(N-120)に沿う道を歩いてゆき、直ぐに隣の村Castildelgado(956年に記録され、古スペイン語「城」castiello < ラテン語castellum < castrum < イタリック祖語*kastrom < 印欧祖語*ḱs-trom < 「切る」*ḱes- + 前置詞 de + 定冠詞 el + 「家畜」ganado < 「増やす」ganar < ゴート語「欲しがる」*ganan < ゲルマン祖語「口を開ける」*ginōną < 印欧祖語*ǵʰeyh₁-e-ti > *ǵʰeyh₁-が語源)に着いた。

村の真ん中に洗濯場(Lavadero)がある広場(Plaza Mayor)に面した16世紀にゴシック様式で建てられた教会(Iglesia de San Pedro Apóstol)と13世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Ermita de Santa María del Campo)を通り、直ぐに幹線道路に沿う巡礼路に出た。

道は真っ直ぐで辺りは平原のため、起伏も殆どなく、歩きやすく進んでゆけた。父と話をして、今日は次の大きな町Beloradoより先まで歩いてゆくから、また町の中で会う約束をした。

途中に二つの村を通過した。Viloria de Rioja(1028年に記録され、ラテン語「村」villa + 「金」aurea < aurum < 古ラテン語ausum < イタリック祖語*auzom < 印欧祖語*h₂é-h₂us-óm < 「光り輝く」*h₂ews-+‎ 接尾辞-eusが語源)の村villa de Oriaが語源。ナバラ地方の同名の村も1032年にVilla Oria、1087年にVillorienses, Vicini, Villoria, Vylloriaと記録された。1082年にRivo de Ogga、1099年にRiogaと出てきて、川(Río Oja)はバスク語「森」oian < *oi=hanが語源)の17世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)があった。聖ドミンゴ(Domingo de la Calzada, 1019-1109)が生まれた村である。しばらく畑の中を歩いてゆき、幹線道路(N-120)沿いに進んだ。

Villamayor del Río(1151年に記録され、ラテン語「村」villa + 「大きな」major < magnus < イタリック祖語*magnos < 印欧祖語*m̥ǵh₂-nós < 「偉大な」*méǵh₂sが語源)の18世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Gil Abad)を通り、丘陵地を歩いてゆくと、町が下に見えてきた。巡礼路(Camimo los Paúles)は幹線道路から離れて山道になるとスフィンクスのような形に奇岩が見えた。

Belorado(ケルト人アウトリゴニ族(Autrigoni < 古典ギリシア語「他」ἄλλος / állos < ヘレニック祖語*áľľos < 印欧祖語*h₂él-yo-s < *h₂el- + 「三」τρεῖς / treîs < ヘレニック祖語*tréyes < 印欧祖語*tréyes + 「角」γῶνος / gônos < γωνία / gōnía < 「膝」γόνυ / gónu < ヘレニック祖語*gónu < 印欧祖語*ǵónuが語源)が築いた古い町で945年にBilforatuと記録され、1116年にアラゴン王アルフォンソ1世(Alfonso I, 1073-1134)により自治(fuero)が認められた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBelfuratusと記録され、ラテン語「戦さ」bellum < 古ラテン語duellum < イタリック祖語*dwellom < 印欧祖語「傷つける」*deh₂w- +‎ ラテン語「破れた」foratus < foro < イタリック祖語*forāō < 印欧祖語*bʰorH-eh₂yé-ti < 「退屈」*bʰerH-が語源)に入ると直ぐに16世紀に建てられた古い教会(Iglesia de Santa María La Mayor)があり巡礼宿として使われていた。

迷路のように入り組んだ通りを進んだ。街の真ん中にある17世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の広場(Plaza Mayor)には、不思議な形のプラタナス(Plátano)の街路樹があり、隣の木と枝が手をつないで結ばれていた。今の季節は葉は落ちてしまい枝がむき出しだったが、下にはベンチが置かれており、夏になると日影ができて、憩いの場となる工夫を感じた。

昨日のSanto Domingo de la Calzadaの大聖堂の前にも植えられていた。旧市街を出ると通りの幅が広くなり整然とした街並みになった。町はずれにある川(Río Tirón)に架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")が立派だった。11世紀にサンティアゴ・デ・コンポステーラに大司教座を置いたレオン王国のアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が巡礼者のために架けたとされ、車が通れるほど広くて頑丈な石造りの端で巡礼路から右手に眺めることができた。

幹線道路(N-120)に沿う巡礼路を何度か川(Río Retorto)の支流を何度か渡りながら平地を小一時間ほど進むと次の村Tosantos(972年4月6日にSan Millán de la Cogollaの修道院の古文書でTolsantosと記録され、「全ての聖人」Todos los Santosが語源)が見えてきた。

村に入ると直ぐにLiaが家の前のベンチで寛いでいるところに出くわした。巡礼路がある村には、銀行が寄贈したベンチが多く置かれていて、巡礼者が一休みできるように配慮がなされていた。歩き続けていると足に疲れがたまるので、時どき腰を下ろすだけでも気分が変わり良いと思った。村を過ぎると右に崖の上の洞窟に16世紀に建てられた教会(Ermita de la Virgen de la Peña)が見えた。

次の村Villambistia(1515年に初出でスペイン語「村」villa + 「赦し」amnistía < ラテン語amnestia < ギリシア語ἀμνηστία / amnēstíā < 「忘れる」ᾰ̓́μνηστος / ámnēstos < 否定辞ἀ- / a- < ヘレニック祖語*ə- < 印欧祖語 *n̥- + 「覚える」μνηστός / mnistós +‎ 名詞化 -ῐ́ᾱ / -íā < ヘレニック祖語*-ia < 印欧祖語*-i-eh₂が語源)が見えてきて、半時間ほど歩くと着いた。

16世紀に建てられた入り口の美しい教会(Parroquia de San Esteban Protomártir)の鐘楼を見ながら通り、村を抜けると巡礼路(Calle la Fuente)は農道になり、幹線道路(N-120)を横切ると直に別の村Espinosa del Camino(1515年に初出で古スペイン語「棘がある」espinoso < ラテン語spinosus < espina < イタリック祖語*speinā < 印欧祖語*spey-neh₂ < 「尖った」*spey- +‎ -osus < 古ラテン語-osos < イタリック祖語*-owonssos < 印欧祖語*-went-tós < *-wéntsが語源)が現れた。

幹線道路(N-120)から巡礼路が離れてゆき、真っ平の平原にぽつんと863年に建てられた西ゴート王国(Regnum Visigothorum > Reino Visigodo)やアストゥリアス王国(Asturorum Regnum > Reino de Asturias)の時代(6-9世紀)に栄えた聖フェリックス修道院(Ruinas de monasterio de San Félix)の遺構があり、昔に暮らした人を廃墟と化した建物から感じられることが不思議な感じがした。

587年にレカレド1世(Reccared, 559-601)がアリウス派からカトリックに改宗した時代からある貴重な遺構である。また、西ゴート王レオヴィギルド(Liuvigild, 519-586)の子ヘルメネギルド (Hermenegild, 557-585)の子孫でアストゥリアス王ラミロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)の孫でBurgosの町の礎を築いたディエゴ・ロドリゲス(Diego Rodríguez Porcelos, c.855-885) が葬られた。そうした家系であることから土地に愛着があることが感じられた。

途中には、鶏が放し飼いにされていたり、美しい田園の景色があり、日航が降り注ぐ中、爽やかな気持ちで道を歩くことができて楽しめたが、Villafranca Montes de Ocaに着く直前には、幹線道路(N-120)を行き、ゴミが多く落ちていたりして汚れていた。しかも、車道すれすれを歩いてゆかなければならず、大型トラックが来ると吹き飛ばされそうな強風が吹く中をひたすら歩いて進んだ。

Villafranca Montes de Ocaに泊まることにした。巡礼宿でフランス人Nathalie、ハンガリー人KristofとBogi、フィンランド人Jaana、ドイツ人Gabrieleとお話をして、夕食を作って食べて、ボードゲームをして遊んだ。それから、町を散策して、特に白い石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de Santiago Apóstol)が美しかった。

587年に西ゴート王レカレド1世(Reccared, 559-601)がカトリック教徒になり、589年の第三トレド会議に司教(Asterius)、653年の第八トレド会議、656年の第十トレド会議に司教(Amanungus)が出席した。1266年の有名な詩(Poema de Fernán González, Biblioteca de El Escorial, IV-B-21)には、「当時はカスティーリャは小さい隅にあった。オカ山はカスティーリャの道標であった(Entonces era Castiella un pequeño rincón / Era de castellanos Montes de Oca mojón)」と詠われた。

1075年にBurgosの司教座(Archidioecesis Burgensis > Archidiócesis de Burgos)が置され、Gamonalに移転するまで司教座 (Dioecesis Aucensis > Sede Episcopal de Auca)も置かれ、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFrancavilla; inde nemus Oquaeと記録され、Oca山のフランス人の町と称され、フランスと由縁があり、古代末期から中世初期には繁栄していた。

Beloradoの町はずれに架けられた石造りの橋(Puente de "El Canto")

2008年4月26日(土)17日目(Villafranca Montes de Oca-San Juan de Ortega-Agés-Atapuerca-Villalval-Cardeñuela Ríopico-Orbaneja Ríopico-Castañares-Burgos: Amigos del Camino de Santiago de Burgos)

San Juan de Ortegaの修道院の前でオランダのRotterdamから歩いてきた巡礼者と会った。Cardeñuela Riopicoで無線アンテナを見ていると家の中に招き入れてくれて無線機を見せてくれた。Burgosは大都会で歩いても歩いても旧市街にたどり着かなかったが、大聖堂(Catedral de Santa María de Burgos)は立派だった。夕方に着いて旧市街で巡礼宿を探したが見つけることができず、日没近くに日本に住んでいたとても優しい仕事帰りの地元の人に出会い、巡礼宿まで連れて行ってくれて感動した。

今日は朝が遅く、昨日買ったウエハースをベットで食べて、午前8時半頃に出た。概ね森の中を歩き、Burgosに到着する前には山(Montes de Oca)を上り下りして険しかった。

泉(Fuente de Mojapán)からの眺めは素晴らしく、遠くに山脈(Sierra de San Millán)を望めた。昔から難所の一つとして知られていた峠だった。また、1936年のスペイン内戦の戦没者の追悼碑(Monumento La Pedraja)や19世紀に建てられた小さな教会(Ermita de Valdefuentes)があり、峠(Alto de la Pedraja)を過ぎてから下りになり、巡礼路の両脇には紫の花(Calluna vulgaris)が咲き乱れていて、道は踏み慣らされていて、とても歩きやすく、かなりの距離を行けた。

San Juan de Ortega(1200年にSanctus Joannes de Ortegaと記録)でオルテガの聖ヨハネ(Juan de Ortega, 1080-1163)により、1138年に建てられたロマネスク様式の立派な修道院(Monasterio de San Juan de Ortega)の横にある泉の前のベンチに座り、陽気なオランダ人Jean-Noelとベンチで歓談しながら休憩をした。巡礼者と会うと挨拶がわりに「どこから歩いてきたのですか」とたずね合うことが多いが、オランダのRotterdamと答えが返ってきたので驚いた。「Rotterdamと言ったら、Den Haagの近くで北の北ではないですか。ベルギーやフランスも貫通して歩いてきたのですね」と驚いて言うと、フランス国内を1か月もかけて歩いてきたんだよと言うので驚いてしまった。

小さな村に立派な修道院がドカンと建てられていて圧巻であり、都市部よりも、こうした田舎に修道院が建てられているからこそ、意味があると感じた。1431年にパブロ・デ・サンタ・マリア(Pablo de Santa María, 1350-1431)が修復して、1477年にカスティーリャ女王イサベル1世(Isabel I de Castilla, 1451-1504)が巡礼の途上で訪れた(Ortegaはラテン語「イラクサ」urtica < 「燃やす」uro < イタリック祖語*ouzō < 印欧祖語*h₁éws-e-ti < *h₁ews-が語源で古典ギリシア語εὕω /. heúō < ヘレニック祖語*éuhōやサンスクリットओषति / óṣati < インド=イラン祖語*Háwšatiと関連)に由来しており、有名な哲学者ホセ・オルテガ(José Ortega y Gasset, 1883-1955)を思わせる地名である)。

昼食は森の中を歩いて、丘(Monte del Rebollar)を越えて、下ると目の前に青々とした絨毯の中に家赤い屋根が見えてきた村Agés(972年5月1日にSancta Eugenia de Haggegeと「修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)、994年にFagegと修道院(Monasterio de San Salvador de Oña)の古文書で記録、アラビア語「巡礼」حِجَاج ḥijāj < حَاجّ ḥājj < ح ج ج‎ ḥ-j-j < セム祖語*ḥagg-が語源でヘブライ語「祝日」חַג / khág、シリア語「祝日」ܚܓܐ‎ / ḥaggāと関連。ゲエズ語「法律」ሕግ / ḥəggとの類推から、アラビア語「正す」حَقّ‎ / ḥaqq < ح ق ق‎ / ḥ-q-q < セム祖語ḥuḳḳ-、ヘブライ語「法律」חֻקֵּ / khók < ח־ק־ק‎ / kh-k-k、シリア語「規則」ܚܘܩܐ ‎/ ḥuqqā、ゲエズ語「断食」ሐቀቀ / ḥäḳäḳäやティグリニャ語「真理」ሓቂ / ḥaqqiとも関連してアッカド語「桁」𒄷𒄣 ḫūquが原義)のBar El Alquimistaで食べた。

スペイン風オムレツ(tortilla de patatas)は、じゃがいもを角切りにして、タルトに敷かれていて焼かれていて、塩っぽくも脂っこくなく丁度良い味で美味して、アイスティがすごく合った。フランス人Natalieとまた会い、おしゃべりを楽しみながら食べた。スペイン人の店主は、英語もフランス語も堪能でおしゃべり好きで愛想がすこぶるよくて、Natalieともフランス語で話していた。店の中にフランス語で書かれた気圧計や古いブラウン管のコンピュータがあった。店にはとても可愛い子犬が遊んでいて、一緒に写真を撮った。私の膝の上に上がろうと頑張っていた。昼食を食べて元気が出てきて、Burgosに向かって、幹線道路(BU-V-7012)をひたすら歩いた。

Atapuerca(963年にAdtaporkaと修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)の古文書、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でAltaporcaで記録され、バスク語 「戸」ateka < *ate + スペイン語「戸」puerta < ラテン語porta < イタリック祖語*portā < 印欧祖語*por-teh₂ <「入る」*per-が語源。1054年9月1日にカスティーリャ国王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)と兄のナバラ国王ガルシア5世(García Sánchez III, 1012-1054)と戦闘した古戦場や1992年に発見された有名な80万年前のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の祖先(Homo heidelbergensis)やクロマニョン人(Homo sapiens)の祖先(Homo antecessor)が暮らした遺跡(Homo antecessor)の近郊)から少し上りになり、山(Matagrande)の尾根に出ると十字架や石を置かれて作られたストーンサークルがあった。

丘を下ってから歩きやすい平坦な一本道をひたすら進み、小さな村Villalval(1073年に記録され、Villavalとも綴られ、スペイン語「村」villa +「谷」valle < ラテン語vallis < 「柵」vallus < 「壁」vallum < イタリック祖語*wolwumen < 印欧祖語*wolg-mn̥ < 「回す」*welH-が語源)を通り過ぎた。

次の村Cardeñuela Ríopico(978年に記録され、スペイン語「アザミ」cardo < ラテン語carduus < イタリック祖語*carridus < 印欧祖語*kars-d-os < 「引っかく」*kars- + 接尾辞 -ana < -anus +‎ 接小辞 -uela < -olus、Río Picoは、スペイン語「川」río < 古スペイン語rio < 民衆ラテン語rius < 古典ラテン語 rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語 *h₃riH-wó-s < 「動く」*h₃reyH- +「鋭い」pico < 古スペイン語bico < ラテン語beccus < ケルト祖語*bekkos < 印欧祖語*bakk-o-s < 「杭」*bak-が語源)でアマチュア無線のアンテナが家の屋根に着いているのを父が発見した。

家から出てきたFélixさんと話をしたら、家に招き入れてくれて、無線機を見せてくれた。父と主人が無線の話で盛り上がり、打ちとけてしまい、メールアドレスをQSLカードに書いてくれた。巡礼宿を探しながら歩いていたら、また、Félixさんが車で戻ってきた所ですれ違い、Burgosに行かないと無いよと教えてくれた。小さな田舎道(Calle Real, Carretera Cardeñuela)を歩いて行った。

Orbaneja Ríopico(Orbaneja del Castilloなどにも見られ、Río Picoが近くに流れており、*orbは印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名でスペイン語「古い」añeja < añejo < 民衆ラテン語*anniclus < ラテン語anniculus < 「年」annus < イタリック祖語*atnos < 印欧祖語*h₂et-no-s <「過ぎる」*h₂et- +‎ -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源。Edelmiro Bascuas (2000). Rego y requeixo: Una pervivencia hispana de la raíz indoeuropea er- "moverse", Verba: Anuario galego de filoloxia 27: 359-378. ヒッタイト語𒄩𒉺𒀸 / ḫa-pa-aš、ルウィ語𒄩𒀀𒉿 / hāpi、リュキア語𐊜𐊂𐊀 / χba < アナトリア祖語*h₂ebo-、古ペルシア語𐎠𐎱𐎡𐎹𐎠 / apiyā、アヴェスタ語ap、サンスクリットअप् ápなど、印欧祖語*h₂ep-、アナトリア祖語*h₂abʰ-、インド=イラン祖語*Hā́ps、トカラ祖語*āp、ゲルマン祖語*apô、イタリック祖語*āpā、ケルト祖語*abū、アルバニア祖語*abnā、バルト=スラヴ祖語*apē-、アルメニア祖語*haw-に関連。また、南フランスのÒrb川、ロシアのОбь Ob川、インドのपंजाब Pañjāb地方(五つの川(पञ्‍च pañca + अप् áp)を意味して、サンスクリットपञ्चनद Pañcanadaや古典ギリシア語Πενταποταμία Pentapotamíaと記載)も同じ語源。1039年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)、1181年にアルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)から特権(fuero)を授受)で17世紀に建てられた教会(Ermita de la Inmaculada)を通り過ぎた。

ここから、 Burgosまでが長かった。 車道(Carretera Provincial)を歩いて、高速道路(AP-1)の上の陸橋を行き、空港を通り過ぎると鉄道の線路が右から近づいてきた。都市の手前に工事現場があり、1kmほど遠回りして、Castañares(963年に修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)で記録され、スペイン語「クリ」castaño < ラテン語castanea < 古典ギリシア語καστάνεια / kastáneia < κάστανα / kástanaが語源。印欧祖語「モミ」*dʰónu < ヒッタイト語「モミ」𒄑𒋫𒈾𒀀𒌑 / GIŠta-na-a-ú /tanau/ともされるが、地中海基層語*ḱastnàやサンスクリット「木」काष्ठ / kāṣṭha、アルバニア祖語「ミズキ」*tsànaや古典アルメニア語կասկ / kaskと関連)には行かない道を歩いた。

Villafría(931年に修道院(Monasterio de San Pedro de Cardeña)で記録され、スペイン語「村」villa +「寒い」fría < 民衆ラテン語fridus < 古典ラテン語frigidus < frigus + -idus < イタリック祖語 *frigos < *θrigos < 印欧祖語*sriHg-os < 「寒い」*sriHg-が語源)への道を歩いた。鉄道の上の陸橋(Carretera Orbaneja)を登り降りして街が見えてきたが、手前の工業団地(Polígono de Villayuda)が広く、Burgosの旧市街の中心部にはなかなか着かなかった。

市街地に入ると大通り(Calle Victoria / N-1)をひたすら進み、大通り(Calle Juan Ramón Jiménez)と交差するロータリで巡礼路の立て看板を見つけ、立派な十字架の柱がある14世紀に建てられたゴシック様式の立派な教会(Iglesia de Santa María la Real y Antigua de Gamonal)を通った。

午後7時近くに大通り(Calle Victoria / N-1)に面した大通り(Avenida de la Constitucion Española / N-120)との交差点の手前のSupermercado Mercadonaで食料品を買った。レタスのパック(Cogollos)、タコス(Triángulos de maíz)、アーモンドチョコレート(Chocolate almendra)、トマトパン(Pan con tomate)、ボローニャ風ピザ(Pizza boloñesa)、四種チーズのピザ(Pizza cuatro quesos)、レモネード(Granizado de limón)、ストロベリー味の炭酸飲料(Fresa con gas)、レモンティ(Té de limón)など、大都市で数日分の食料を買い込んだ。

大通り(Avenida Cantabria / N-627)と交差するまで進み、そこから商店街(Calle de las Calzadas)に入り、今は音楽院(Escuela Municipal de Música de Burgos)として使われる修道院(Convento de las Bernardas)が面した広場(Plaza de las Bernardas)の十字架や広場(Plaza San Juan)に面した図書館(Biblioteca Pública del Estado)の立派な入り口や教会(Iglesia de San Lesmes Abad)から、橋を渡ると旧市街にたどり着くことができ、門(Arco de San Juan)をくぐった。街の中ではごちゃごちゃしていて、道が多すぎて失いやすいため、黄色い矢印や帆立貝のマークを探しながら歩いた。印が見えなくてきょろきょろしていると直ぐに街の人があっちだよと入る道を指して教えて下さった。

街に入ってから、ものすごい距離を歩いてきて、やはり、Burgosは大都会に感じられた。レストランが多く立ち並んだ風情のあるにぎやかな通り(Calle San Juan)を抜けて、通り(Calle de Santander)に面した銀行(Caja de Burgos)を通り、アーケードを見ながら進むと、広場(Plaza Santo Domingo de Guzmán)に面した地方庁舎(Diputación Provincial de Burgos)が見えてきて、中央広場(Praza Mayor)で美しい建物を見た。市庁舎(Ayuntamiento de Burgos)の建物が立派だった。

広場からは大聖堂(Catedral de Santa María de Burgos)の尖塔が見えて気分が上がった。建物(Casa Consistorial)の下をくぐり、通り(Paseo del Espolón)を歩いて、14-15世紀に建てられた立派な城門(Arco de Santa María)の前にある16世紀に川(Río Arlanzón)に架けられた橋(Puente de Santa María)を渡り、1272年に巡礼者の救護院(Hospital de San Lázaro)の横に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Merced)の立派な尖塔を過ぎた。街中はSiesta後で沢山の人で賑わい、アイスクリーム屋さんがあり、様々な商店を見たり、大聖堂をくぐり抜けて楽しかった。

川沿いの通り(Acenida Palencia / N-120)を歩いて、巡礼宿を目指すが、旧市街に入っても巡礼宿が見当たらず、途中で5、6人の人に道を聞きながら、巡礼宿を探しながら進んだ。

ロータリー(Giratoria Diario de Burgos)で最後に聞いたSanyoさんは、たまたま浦和に友人が住んでいて、日本が大好きで二年に一度訪れるから、日本人を見つけて大喜びして親切にして頂いた。

巡礼宿がある公園(Parque El Parral)まで連れて行ってくれるそうで、一緒に話しながら行くと、日本語の辞書を持っていたり、合気道や居合道を習っていた話、日本にいたときに撮った写真などを沢山見せてくれた。片言の日本語を話せたが、スペイン語で会話が弾んだ。

仕事帰りで二人の小さな女の子を連れていた。筋肉質で強そうで格闘技をしていて教えていたり、また、警備員をしているなど、会話がものすごく弾み、実は繊細で温厚そうな人であることが分かり、一緒に話に花を咲かせながら歩いて、とても楽しいひと時を過ごせた。

公園の前まで連れてきてくれて、巡礼宿はこの先にあるよと指さして教えてくれて、私たちの姿が消えるまで手を振っていてくれた。思いがけないことから、超日本通のSanyoさんとお会いできて、本当に助けられた。また、日本に行くときには会おうねと言ってお別れをした。

巡礼宿は公園の真ん中に設営された休憩所のような場所にあった。そこには料理可能な設備がなく、Supermercadoで買ったピザを調理することができずに困っていたら、イタリア人の巡礼者が、ピザを沢山くれて、本当にありがたかった。そして、もし、このような逆の立場だったら、是非とも同じようにしたいと思った。また、ポーランド人Dominikaさんが調理を手伝ってくれて話がとても弾んだ。

巡礼宿に着くのが遅かったため、食事を済ませると直ぐに就寝の午後10時になった。食事の前に着いて直ぐシャワーを浴びたが、今まで一番設備が悪くて驚いた。夜はベットの中で消灯合図の後にも人たちがいてげらげら笑っていたり、いびきが凄くて寝付きにくかった。

Burgosはケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源、もしくは西ゴート語「城塞都市」baurgs < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語 *bʰerǵʰ-が語源である。

884年に アストゥリアス王国のディエゴ・ロドリゲス(Diego Rodríguez Porcelos)がレコンキスタのために城塞を拡張した。彼は昨日に宿泊した Villafranca Montes de Ocaで亡くなった。また、アラビア人に棟梁(السَّيِّد‎ / sayyid)と呼ばれていて、それが訛って「エル・シッド(El Cid)」と呼ばれたロドリコ・ディアス(Rodrigo Díaz de Vivar, 1043-1099)の故郷としても知られる。

11世紀にToledo、Madrid、Burgosが、カスティーリャ王国の都城(Caput Castellae)となり、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でurbs Burgasと記録された。1221年7月20日にロマネスク様式のブルゴス大聖堂の改築が始まり、1567年までゴシック様式でフランスやドイツの石工たちが300年以上もかけて工事を続けた。

Burgosの大聖堂

2008年4月27日(日)18日目(Burgos-Villalbilla de BurgosTardajos-Rabé de las Calzadas-Hornillos del Camino: Centro Cultural San Román)

今日も風景の変化が少なく、ひたすら草原や畑の中を通る平坦な一本道を歩いた。Tardajosの立派な塔を持つ教会(Parroquia Asunción de Nuestra Señora)の佇まいやRabé de las Calzadasの丸みを帯びた塔を持つ教会(Iglesia parroquial de Santa Marina)が気に入った。Hornillos del Caminoの巡礼宿がいっぱいのため、バスケットボール場に寝袋を敷いて寝た。

今日は午前7時頃、皆が起きるのに促されて起きた。急いで支度をして、町はずれの巡礼宿がある公園から、来た道を戻り、Burgosの街を見に出かけた。橋(Puente de Malatos)で川(Río Arlanzón)を渡り、公園(Parque de la Isla)で城壁の一部(Los Arcos de Castilfalé)を見て、ロータリー(Plaza Castilla)から川沿いの通り(Paseo de la Audiencia)を歩いて、城門(Arco de Santa María)から、大聖堂の裏手の広場(Plaza Rey San Fernando)に入った。美しい街で、ごみも殆ど落ちておらず、石畳が美しく、何よりも大聖堂が美しかった。 入場料を取られるので外観だけ楽しんだ。

大聖堂脇の通り(Calle Paloma, Calle de Lain Calvo)を直進して、18-19世紀頃の美しい色調の建物が並んでいる広場(Plaza de Alonso-Martínez)を通り、大通り(Avenida del Cid Campeador)のパン屋さん(Pastelería y Panadería El Horno)でカスタード入りのパンを食べた。朝の時間で市民が多く店の中に入ってきて食べていたのでおいしそうだったので入って正解だった。

それから通り(Calle San Juan)を歩いて、旧市街に入る門(Arco de San Juan)や橋(Puente de San Juan)に面した広場(Plaza San Juan)にある図書館(Biblioteca Pública del Estado)の方まで昨日に来た道を戻り、旧市街を散策した。教会(Iglesia de San Lesmes Abad)に入った。

そこから大通り(Calle San Juan, Calle del Almirante Bonifaz)を通り、広場(Plaza Mayor)に出た。建物(Casa Consistorial)の下をくぐり、外に出て通り(Paseo Espolón)を歩き、また、門(Arco de Santa María)をくぐり、広場(Plaza Rey San Fernando)で大聖堂を見納めしてから、川沿いの通り(Paseo de la Audiencia)を歩き、橋(Puente de Castilla)を渡り、川沿いの大通り(Avenida Palencia)を進み、宿泊した巡礼宿(Albergue)がある公園(El Parral)まで戻ってきた。

1614年に建てられた聖堂(Ermita de San Amaro Peregrino)の門の前を通り、 1195年にカスティーリャ王アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)が建てた巡礼者の救護院(Hospital de Rey)に由来する大学(Universidad de Burgos)を通り、町はずれの由緒ある場所に宿泊できたと思った。

幹線道路(Calle de Villadiego / N-120)沿いに歩き、郊外の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Pilar)を通り過ぎて、道路(Calle Benito Pérez Galdós)を歩いてゆき、直に巡礼路になり、左手に鉄道が走るのを見た。巡礼路(Camino Fábricas)に面した小さな村Villalbilla de Burgos(スペイン語「村」villa +「エンドウマメ(Vicia sativa)」albilla < 「白」alba + 接小辞-illa、もしくは「ソラマメ(Vicia ervilia)」 arveja < ラテン語ervum < 古典ギリシア語ὄροβοςが語源でゲルマン祖語「エンドウマメ」*arwītsと関連)を通り過ぎた。そこには巡礼宿がないため、次の村Tardajosに向かった。

高速道路のインターチェンジを越え、幹線道路(N-120)に戻り、川(Río Arlanzón)に架けられた橋 (Puente del Arzobispo)を渡った。村に入る所には石灰岩の立派な十字架が立っていた。巡礼者の泉(Fuente el peregrino)や広場の噴水(Fuente Principal de la Plaza Leandro Mayoral)があった。

また、13世紀に建てられたゴシック様式の立派な方形の塔を持つ教会(Parroquia Asunción de Nuestra Señora)の佇まいが気に入った。

巡礼宿があったが、午後2時で泊まるには早すぎるため、通行証(credential)にスタンプをもらい、 川(Río Úrbell)にかかる橋(Puente de San Lázaro)を渡り、隣町Rabé de las Calzadasに進んだ。

(Tardajosは、紀元前8世紀にケルト人トゥルモディギ族(Curgoni < Turmogi < Turmodigi < Μούρβογοι / Moúrbogoi < ケルト祖語「蟻」*morwis < 印欧祖語*morwi-が語源で古アイルランド語moirb、サンスクリットवम्र / vamráやアヴェスタ語maoiri < インド=イラン祖語*marwíšと関係)が住みつき、ローマ人がDeobrigula(ラテン語「神」deo < deus < 古ラテン語deivos < イタリック祖語*deiwos < 印欧祖語*deyw-ós < 「天」*dyew- + イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源)と称した。村に入る手前にローマ時代の遺跡(Villa romana)があった。1041年に修道院(monasterio de San Pedro de Cardeña)でOtero de Aggos、1068年にUter de Allios、1127年にOter de Alliis、1258年にOter de Ajos、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でAlterdaliaと記録され、スペイン語「丘」otero < ラテン語altarium < altus < イタリック祖語*altos < 印欧祖語*h₂eltós <「育つ」*h₂el- +‎ -o < イタリック祖語*ōō < 印欧祖語*-h₃onh₂- + 前置詞de + 人名Aggos < ラテン語Argos < ギリシア語「輝き」ἀργός / argós < 印欧祖語*h₂r̥ǵ-ró-s < 「白」*h₂erǵ-が語源でヒッタイト語𒄯𒆠𒅖 / ḫarkiš < アナトリア祖語*Hárǵisやサンスクリットअर्जुन / árjuna < インド=イラン祖語*Hárȷ́unasと関連。La Real Academia de la Historia (1852). Colección de fueros y cartas-pueblas de España: catálogo, Madrid: Imprenta de la Real Academia de la Historia.)

Rabé de las Calzadas(949年に記録され、ローマ人の「石畳」calzadas < ラテン語*calciāta < 大理石calx)、アラビア語「四分の一」رُبْع / rubʿ < 「四」أَرْبَعَة‎ / ʾarbaʿa < ر ب ع‎ / r-b-ʿ < セム祖語*ʔarbaʕ-が語源でアッカド語𒐉 / erbet、フェニキア語𐤀𐤓𐤁𐤏𐤕‎ / ʾrbʿt、ウガリット語𐎀𐎗𐎁𐎓𐎚 / ảrbʿt /ʾarbaʿatu/、ヘブライ語אַרְבָּעָה / ʾarbaʿá、アラム語𐡀𐡓𐡐𐡏‎ / ʾarpʿa、シリア語ܐܰܪܒ݁ܥܳܐ‎ / ʾarbʿā、ゲエズ語አርበዕቱ / ʾärbäʿtu、アムハラ語አራት / ʾärat。古スペイン語の重量単位arrouaと同じ語源。1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が救護院(Hospital del Emperador)に寄進した村)に近づくと、13世紀に建てられた教会の丸みを帯びた塔(Iglesia parroquial de Santa Marina)が見えてきて気に入った。村にある巡礼宿の主人が、巡礼者にそんなに近くから歩いてきて、どうしてここで止めるのかと詰問していた所に出くわして感じが良くない上、宿泊料25€が高すぎるために素通りした。巡礼者はそれぞれ無理をせずに歩いているため、わざわざどこから歩いてきたのかを聞かれたり、全然歩いてきてないねと言われるのはおかしいと感じた。村を出るときに農工具が置かれていて、羊の群れが裏手に飼われていた。16世紀に建てられた石造りの教会(Ermita Nuestra Señora del Monasterio)の前で一休みして、午後3時に村を出て、次へ進んだ。

羊が草を食んでいた牧場や麦畑の中を通る一本道(Cuesta de Matamulos)を歩いた。先の巡礼路が目の前に開けているとても見晴らしの良い丘(Alto Meseta)を少し上がり下がりした。先の先まで道がつながっている景色が美しく、緑の大地に一筋の道がうねりながら貫かれていて最高の眺めだった。

午後4時半に次の村Hornillos del Caminoに着くと、食料品店(Alimentación)が目に入ってきた(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFurnellos、1181年にFornellosと記録され、「タイルを焼く窯」を意味。古フランス語「供給する」furnir, fornirやカタルーニャ語fornir, fromir < フランク語*frumjan < ゲルマン祖語*frumjaną < *fram + *-janą < 印欧祖語「前置詞(前に)」*pro- + 「接尾辞(動詞化)」*-yétiが語源)。公営の巡礼宿(Albergue municipal)が一杯と聞いていたが、早速、訪れてみたら、既に一杯で泊まれなかった。

教会(Iglesia de San Román)でお祈りをしてから、村に入る所の食料品店に戻り、食べ物を手に入れた。サラミと飲み物を求めた。とても安く優しい店主でたくさん試食させてくれた。田舎の食料品店では、瓶や缶に入った飲み物などは高いため、また、保存が利くことから、都市のSupermercadoで買い溜めしておき、保存が利かないハムやチーズやパンなどのみを田舎で買うようにした。

村の中で巡礼宿の管理人に会い、泊まる場所に案内してくれた。公営で宿泊料は寄付で運営されていた。併設された体育館の中で折り畳み式のベットが用意されていた。設備としては、シャワーもあり、快適そうだったが、水が少ししか出なかったり、体育館は遮るものがなく、広い空間のために随分と寒い思いをした。持ってきたピザをキッチンで調理しようと思ったが、オーブンがなく、戸惑っていると、ドイツ人の巡礼者がフライパンに蓋を付けて、オリーブ油をひいて、さっと作ってくれた。オーブンで焼いたのと同じくきれいにできて感動した。お礼に一緒に食べるかと聞いたら、もう既にお食事が済んでお腹がいっぱいなのでお気持ちだけで感謝するよとにこにこしていた。

食後は日記を書いたり、フランス系カナダ人の巡礼者と面白い経験を英語やフランス語で語り合い、とても楽しい時間を過ごした。彼はとても日本に関心があり、ヨーロッパには沢山の人が、日本の文化に関心があり、コネクションが多く感じられた。話していると、外が暗くなり、就寝時間になったので、歯磨きをして、日記を完成させて、室内バスケットボール場に戻り、床に就いた。スペインに来て教会に寝たり、室内バスケットボール状に眠ったりと様々な場所で眠れて面白い体験ができた。

Burgosの街並み(Calle San Juan)

2008年4月28日(月)19日目(Hornillos del Camino-Hontanas-Castrojeriz-Itero de la Vega-Boadilla del Camino: En El Camino)

起伏が激しい田舎道をひたすら歩いた。Castrojerizのゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Manzano)は素晴らしく、中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Vallarna)を渡り、Burgos地方からPalencia地方に入った。Boadilla del CaminoでXavierやLiaと会い、また、巡礼宿の食堂で音楽や哲学を愛するドイツ人と色んなお話をして楽しかった。

今日は午前7時前に起きて支度をして、午前7時半には巡礼宿を出た。麦畑や向日葵畑が一面に広がる大地をひたすら歩いた。小高い丘を登り、少し尾根を歩いて、途中で一つ小さな巡礼宿(Albergue de San Sol)の看板を通り過ぎてから下ると、直に次の村Hontanasが目の前に姿を現してきて、村に入る前にアイルランドの聖人ブリギット(Brígida de Kildare, 451-525))の祠(Ermita de Santa Brígida)や12世紀に建てられた物見やぐらや13世紀に建てられたゴシック様式の巡礼宿(Mesón de los Franceses)の脇から、14世紀に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Senora de la Inmaculada Concepción)の塔が突き出た美しい村を坂の下に見下ろすことができ、箱庭のようなパノラマをとても楽しむことができた。(1210年に修道院(Monasterio de San Salvador de Oña)でFontanと記録され、昨日に訪れたforniellos > Hornillosと同じく、「泉」fontanas > Hontanasに訛った)。

村の中は人が住まなくなり、壁が崩れた家などが立ち並んでいて、過疎化が進んでいるように思えた。巡礼宿(Hostal Fuente Strella)で朝食にチョコレート牛乳(ColaCao)と小さなスペイン風オムレツ(Tortilla de Patatas)を食べて、腹ごしらえしてから、田舎道を歩いてゆくと、崩れかかった城壁があった。特に建物の角に当たる場所だけは、頑丈に組まれていて、風化に耐えて残っていた。

巡礼路は丘陵地帯を通り抜けており、車道に出て少し歩いてゆくと1136年に建てられた初期ゴシック様式の修道院跡(Ruinas del Convento de San Antón)が見えてきて驚いた。特にゴシック建築の特徴である強固な構造の大きな飛梁(Arc boutant)だけがぽつんと平原の中に残されていた。門の立派な彫刻などの装飾や薔薇窓の枠、巡礼者のために夜食を置いた棚などが、今でも残されていた。直ぐに視界が開けてきて、山の上にぽつんとお城(Castillo de Castrojeriz < Castrum Sigerici)が見えた。

次の町Castrojerizまで舗装された歩きやすい田舎の農道を歩き、1214年に建てられた美しいゴシック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Manzano)の門の横を通るとき、地元の人が父を私で一緒に写真を撮りますよと声をかけてくれた。町の中心に向かうとき通り(Avenida Colegiata)から高台にOdra川の畔の城(Castillo de Castrojeriz / Castrum Sigerici)が目の前にどんと見えた。(882-83年のCodex Conciliorum AlbeldensisでCastrum Sigericiと記録され、974年にカスティーリャの領主ガルシア・フェルナンデス(García Fernández, 938-995)が自治(Fuero de Castrojeriz)を認めた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastrasoreciaと記録された。)

町の入り口の通り(Calle Real de Oriente)に面した18世紀に建てられた教会(Iglesia de Santo Domingo)の門で可愛らしい聖母子像のレリーフを見た。小さな広場で水を汲んで休憩して、中央広場(Plaza Mayor)に面した食料品店(Bazar El Peregrino)で食料品を買い、昼食を食べた。アップルタルトはとても美味しかった。パイナップルジュースを飲んで出発した。14世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Juan)の星の形をした窓も美しくてとても印象的だった。

草原の中にポツンときれいな道標があった。中世に巡礼路を整備した時に乾いた川(Río Odra)に架けられた橋(Puente de Bárcena)を通り、山(Alto de Mostelares)を登った。山の全体は花崗岩で風化に耐えた白雲母(Muscovite)が沢山落ちていて、きらきらしていた。記念に一つを拾った。

田舎道を行き、目の前に青い麦畑の中を走る一筋の道を眺めながら山を下るとき、直に17世紀の井戸(Fuente del Piojo)や13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Ermita de San Nicolás)を過ぎ、11世紀にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109) が架けた中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Pisuerga)を渡った(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でpons Fiteriaeと記録され、ラテン語「工場」factorium < factor < 「作る」facio < 古ラテン語fhakiō < イタリック祖語*fakjō < 印欧祖語*dʰh₁k-yé-ti < 「置く」*dʰeh₁-が語源でオスク語𐌅𐌀𐌊𐌕𐌖𐌃 / factudやウンブリア語𐌚𐌀𐌊𐌖𐌌 / fakum、サンスクリットदधाति / dádhātiやアヴェスタ語dadaitī < *dʰádʰaHti、古典ギリシア語τίθημι / títhēmi < ヘレニック祖語*t(e/i)tʰēmiと関連)。

Burgos地方からPalencia地方に入った(ラテン語Pallantia < 古典ギリシア語Παλλαντία / Pallantía < ケルト祖語「平地」*ɸlārom < 印欧祖語「平ら」*pelh₂- + ケルト祖語「土地」*landā < 印欧祖語 *lendʰ- + ラテン語 接尾辞 -ia < イタリック祖語*-iā < 印欧祖語*-i-eh₂が語源)。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Itero del Castilloの橋(Puente de Itero)の下を流れるPisuerga川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: Pisorga, aqua scilicet quae decurrit ad pontem Fiteriae)」と書かれている。

Itero de la Vega(スペイン語「道標」hito < 古スペイン語fito < 民衆ラテン語*fictus < 古典ラテン語fixus <「結わえ付ける」figo < 古ラテン語fivo < イタリック祖語*feigʷō < 印欧祖語*dʰeygʷ-e-ti < 「貼る」*dʰeygʷ- + スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -kiが語源)の13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Ermita de la Virgen de la Piedad)の鐘楼を横目に見てから、平らな土地(Tierra de Campos)のひたすら直線の道を歩き、白いコスモス(Cosmos bipinnatus)が咲き乱れる丘(Otero Largo)を越えて、Boadilla del Caminoに着いた。

(950年にFuero de Melgar de Susoで記録され、ラテン語Boadicea, Boudicea, Boudicca < ケルト祖語「勝利の」*boudīkos <「勝利」*boudi < 印欧祖語「注ぐ」*ǵʰewd-か「打つ」*bʰewd-が語源。スペインに他にもBoadilla del MonteやBoadaなどのイベロ=ケルト語に由来する地名が残されている。)

町には公営の巡礼宿(Albergue municipal)があったが、休業中か人がいないため、もう一つの沢山の人がいる巡礼宿に泊まることにした。片言の日本語のできる人が案内してくれた。ベットに就いた後、シャワーを浴び、出てきて食料品店を探しに行こうとすると、Xavierがやって来て驚いた。

もう他の人から私がこの村にいるのを聞いていて知っていて、彼は驚いていないよと笑って言っていた。Liaも巡礼宿の外にいて、村の中で少し立ち話をしたり、次に彼らが泊まる所などを教わったり記念撮影をした。13世紀に建てられたゴシック様式の美しい塔を持つ教会(Iglesia de Santa María de la Asunción)の外で木を植えている人とXavierが話していて、スペイン人の男の人は、子供が生まれたとき、木を植えて、本を一冊買うのだと言っていた。教会の外の広場にはカスティーリャ王エンリケ4世(Enrique IV, 1425-1474)が村に与えた自治権(autonomía)を記念として建てられたゴシック様式の柱(Rollo jurisdiccional)がぽつんと立っていた。鳥籠のような奇怪な形をしていた。

日記を書いていると、食事の時間になり、食堂に行った。一昨日、Burgosで隣のベットにいたドイツ人LucasとEvaと一緒に食べた。隣に座ったドイツ人Peterは、音楽とフランス語に通じていて話が合った。バロック音楽における通奏低音の解釈、大好きな指揮者のことなどを話した。ドイツでは今でも教会で十分の一税を払わなくてはならないそうで中世の封建社会みたいだと冗談を聞いた。皆、日本に興味がある人が多くて驚いた。食事はスープにビーフとアイスクリームで美味しく、沢山話をして盛り上がった。ドイツ語は話せないが、ドイツ人は英語を流暢に話せるため盛り上がれた。ハイデガー(Martin Heidegger, 1889-1976)やカント(Immanuel Kant, 1724-1804)、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling, 1775-1854)などの哲学の話をした。彼の父はHeideggerに習っていたと話していて、とても驚いた。

食後は少しPeterとしばらく食堂に残り、お話を続けて、日記を就寝する前に書いていると、Kölnから来たLukasが日記を書いているのを日本語を上から下に書くのをとても不思議がっていた。LukasとEvaは二日前のAlbergueで隣のベットにいて、私がトランポリンをベットで楽しんでいたのを微笑ましく見ていたと話していた。Evaはポーランド系の名字Łukasiewicz(ウカシェヴィチ)で、ポーランド語特有の綴りで、ドイツでも皆がなかなか読めないだろうと言ってきたのを読めたのでとても驚いていた。有名な論理学者ヤン・ウカシェヴィチ(Jan Łukasiewicz, 1878-1956)やフランシェスク・ウカシェヴィチ(Franciszek Łukasiewicz, 1890-1950)がいたから読めたんだよと話すと更に驚いていた。

Peterはフランス系ドイツ人で8代前にドイツに来たと話していた。だから、彼はフランス語を先祖が話していた言葉として興味を持って学んだそうである。皆、ヨーロッパは地続きで昔から旅や商いで国を行き来していて、ドイツにはフランスやスラヴ語圏から、人が出入りしていて面白いと思った。

中世の橋(Puente de Itero)で大きな川(Río Vallarna)を渡り、Burgos地方からPalencia地方へ入る

2008年4月29日(火)20日目(Boadilla del Camino-Frómista-Población de Campos-Revenda de Campos-Villarmentero de Campos-Villalcázar de Sirga-Carrión de los Condes-Santa María de Benevívere-Calzadilla de la Cueza: Albergue Los Canarios)

朝早くにBoadilla del Caminoの先で野宿をしたXavierとLiaに会い、Frómistaで11世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de San Martín de Tours)を訪れて、近くのバー(Café Bar Garigolo)で一緒に朝食をとった。Xavierが描き溜めているスケッチブックを見せてくれて、ヨーロッパの名所を紹介してくれた。Villalcázar de Sirgaでゴシック様式の美しい教会(Iglesia de Santa María la Blanca)を訪れると、外の彫刻は立派で中に入るとステンドグラスから入る光が美しかった。Carrión de los Condesにも門の上のレリーフが美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago)があり大満足だった。Calzadilla de la Cuezaまで突風に吹き飛ばされそうになりながら一本道を進んだ。

今日は朝まだ暗い内に起きて、午前7時15分に出た。朝はとても冷え込み、手が縮こまっていた。村を出て少しするとPamplonaで会ったドイツ人やイタリア人Giuseppeと一緒になった。16世紀に開削された美しい運河(Canal de Castilla)と並行して走る道を進んだが、風が吹くととても寒かった。しばらく歩いてゆくと、滝のように落ちる美しい場所(Esclusa n° 16)があり、皆で写真を撮り合った。

そこで、父を待っていると、Xavierと一緒に歩いて来た。途中で野宿している人が動いているのを見たが、それが何とXavierだった。お話しながら歩いてゆき、小さな聖堂(Ermita del Oter)を通り過ぎ、直に町Frómistaに着いた。Liaとも落ちあい、1066年に建てられた外壁の石が真っ白な美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de San Martín de Tours)を訪れた。Xavierが柱の装飾を見てよと呼び指すと、アダムとイブ(Adán y Eva)、狐と烏(La zorra y el cuervo)などの物語がロマネスク美術らしい愛嬌のある顔や形で彫られていた。内部はバシリカ様式で完璧に残されていて美しい建築だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFrumestaと記録され、中高ドイツ語 beruomen < 「接頭辞(過去分詞)」be- < 古高ドイツ語bi- < ゲルマン祖語*bi- < 印欧祖語*h₁epi + 中高ドイツ語「名声」ruom < 古高ドイツ語ruom < ゲルマン祖語*hrōmiz < 印欧祖語 *kreH(u)-meh-t < 「叫ぶ」*kreH- + 中高ドイツ語「接尾辞(動詞化)」-en < 古高ドイツ語-en < ゲルマン祖語*-āną < 印欧祖語*-néh₂- ~ *-nh₂ + 中高ドイツ語「地域」stat < 古高ドイツ語stat < ゲルマン祖語*stadiz < 印欧祖語*stéh₂-ti-s ~ *sth₂-téy-s < 「立つ」*steh₂-が語源)

朝早くの時間のため、多くのお店は閉じていたが、町の中で唯一開いていたカフェ(Café Bar Garigolo)に入り、Xavierにチョコレートドリンクを御馳走になった。そこにはスロットマシーンや飲み物の自動販売機などが置かれており、地元の常連客が来るような生活感が溢れた場所だった。

Parisの美しい名所の話を聞かせてくれて、私がスペインで面白く感じているのは、美味しそうな食材が並んでいるSupermercadoであり、包装に色んな言葉が書かれていて、棚から取り出して見ると、スペイン語でこれは何というのかが面白くて興味が尽きないから、一日でも飽きないでいられそうであり、私が最も好きなスペイン語の言葉は、supermercadoとalimentaciónだから、新しい町に着くと直ぐに捜索をすると、Supermercadoがどれほど好きか、冗談を言うと、手を叩いて大笑いして、それは良かった!良かった!と言って、大笑いして大うけしていた。Xavierたちも、田舎では値段が高いから、町でSupermercadoを見つけると、必ず食料を補給してから進んでいると話していた。

街中のSupermercadoが開くまで、Xavierが絵を見せてくれた。スコットランド、フランス、スペイン各地で描かれた絵は美しく、写実的に描写されていた。XavierとLiaはイタリアのAssisiの美しい教会(Santa Maria Maggiore)の前で7年前に出会い、それから前にもSantiago de Compostelaへの巡礼を一緒にしたこと、Xavierの家族はスペインのValencia出身で本人もそこで生まれたが、小さい頃に両親の仕事の関係でフランスに移り住み、Parisの7区に住んでいることなどを話していた。

近くの通り(Avenida Carmen Montes)にあるSupermercadoに入ると全体として値段が少し高いため、最低限の食料品だけを購入した。Xavierはビスケット(Galletas integrales sin azucar)を買い、Liaと二人では食べきれないから、好きなだけあげるよと沢山分けてくれた。私に包装を見せて、全粒粉(integrales)、砂糖がない(sin azucar)ところが身体に良いからポイントだと力説していた。私はパンとソーセージとレモンタイザーを買った。大通り(Paseo Julio Senador / P-980)を歩いて町を出て、高速道路(A-62)を越えた。Xavierと東洋哲学や好きな哲学者の話をしながら歩いた。

1227年に建てられた美しい教会(Ermita De San Miguel)を過ぎて、小さな村Población de Campos(スペイン語「村」población < poblar < ラテン語「民」populatio < populus < 古ラテン語poplus < イタリック祖語「軍隊」*poplos < 都市名Populonia < エトルリア語𐌐𐌖𐌐𐌋𐌖𐌍𐌀 / Pupluna < 「神」𐌐𐌖𐌘𐌋𐌖𐌍𐌔 / Puphluns < 𐌚𐌖𐌚𐌋𐌖𐌍𐌔 / Fufluns、もしくは古ラテン語plēbēs < イタリック祖語*plēðwēs < 印欧祖語*pl̥h₁dʰwḗh₁s ~ *pl̥h₁dʰuh₁és < 「補う」*pleh₁- +‎ スペイン語-ción < ラテン語-tio < イタリック祖語*-tjō < 印欧祖語*-tisが語源)で12世紀に建てられたロマネスク様式の質素な教会(Ermita de Nuestra Señora del Socorro)を見た。村を出ると道が二つに分かれていた。

Villovieco(ラテン語「村」villa + Ovieco < obicumは、印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名*orb (ob-, ub-, op-, up-) + 「沿う」-cum < ラテン語cum < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語 *ḱómが語源。実際に近くに川(Río Ucieza)が流れる。SalamancaのRío Oviecoも同じ。Francisco Villar (2002). Los hidrónimos con *up- (op-) ‘agua, río’, en la toponimia prerromana hispana, Palaeohispanica 2: 277-291.)に行く山道ではなく、幹線道路(Calle Francesa / P-980)を歩いた。

次の町Revenga de Campos(スペイン語「戻る」revenga < revenir < ラテン語revenire <「再び」re- +「来る」venio < イタリック祖語*gʷenjō < 印欧祖語*gʷm̥-yéti <「脚」*gʷem-が語源)の12世紀に建てられて、16世紀にバロック様式に代えられた教会(Iglesia de San Lorenzo)の横にある巡礼者の像(Monumento al peregrino)の横で少し休憩をして、XavierとLiaと父と一緒にハムや野菜を挟んだパンを食べた。先にどこで泊まるかなどの作戦会議をして、正午前に出発した。

そこから、Xavierはスペイン人と話しながら歩いていたので、今度はLiaとお話をしながら幹線道路(Calle Francesa / P-980)を歩いた。現代美術、現代音楽、東洋文化などの話が盛り上がり、歩くのが遅くなったが、気にせず話した。日本の俳句のスケールの大きさに興味があり、中国の太極拳に興味があり、また、美術の展覧会に出かけたり、文化的生活をしている人で話が盛り上がった。西洋では足して芸術を作るが、東洋では、無駄を省いて作るなど、本質的な話でも通じ合えて嬉しかった。

途中で小さな村Villarmentero de Camposを通った(Frómistaにある教会が捧げられたトゥールの聖マルティヌス(Martinus Turonensis, 316-397)が大きなラバ(mulo)で通過した伝説からacémilaと呼ばれた。スペイン語「大きな家畜」armetro < ラテン語armentum < 印欧祖語「伴うもの」*h₂er-mn̥-teh₂、スペイン語「平原」campo < ラテン語campus < 印欧祖語*kh₂ém-po-s < 「曲がる」*kh₂emp-が語源。1072年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1041-1109)とエル・シッド(Rodrigo Díaz de Vivar, c.1045-1099)が仕えた兄サンチョ2世(Sancho II, 1036-1072)と近くで戦い(Batalla de Golpejera)、アルフォンソ6世が勝利して、カスティーリャ=レオンを相続した。)

次の村Villalcázar de Sirga(ラテン語「村」villa + アラビア語「要塞」القصر / al-qaṣr < 「切る」ق ص ر / q-ṣ-r < セム祖語*ḳas(a)r-が語源でアラビア語「短い」قَصِير‎ / qaṣīrに対応するヘブライ語「短い」קָצָר / katsár < 「切る」ק־צ־ר‎ / q-ṣ-rと関連)まで、Xavierと父が歩いた。

12世紀に建てられたゴシック様式のとても美しい教会(Iglesia de Santa María la Blanca)があり、前にあるHostal-Bar Las Cantigasの店主が、巡礼者のために鍵を開けて、特別に中を見せてくれた。Xavierが昨日に話してくれたよう、左側の列が傾いていて、外観も面白かった。

ファサードや門は立派な装飾を風化から守るように屋根が付けられていて保存状態が良好だった。内部は薔薇窓のステンドグラスから差し込んだ光に満たされ、言葉に言い表せないくらい美しかった。店側には三つの棺桶があり、その彩色は見事だった。一つはカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)の子(Felipe de Castilla, 1231-1274)のものだった。

Xavierがスペイン語で案内してくれる村人に聞いたところでは、ここにある棺はテンプル騎士団のもので、その彩色は当時のまま残っていて、スペインでここにしか現存していない貴重な遺産だと通訳をしてくれた。更に、主祭壇はとても美しく、イエスの十字架上の磔が主題だった。その他、十字架に向かうイエスの絵が順にあり、マリア様が棺を見ていたり、とても美しかった。

Barに戻り、教会の鍵を開けてくれたお礼にホットチョコレート(ColaCao)を注文した。XavierとLiaは、そこでしばらくゆっくりするため、別れを告げ、先を急いだ。巡礼者像の前で父と記念撮影をした。明後日にXavierたちに会うには、本日は更に進む必要があるからである。村を出るとき、Santiago de Compostelaまで463kmの道路標識があり、半分ほど歩いてきたんだねと父と話していた。

幹線道路(Calle Francesa / P-980)沿いに進み、丘(Cerro de San Cristóbal)を越え、小一時間歩くと6km先の次の大きな町Carrión de los Condes(791年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)から奪還したAlonso Carreñoの愛称Carrión < ラテン語「車」carrus < ゴール語*karros < ケルト祖語*karros < 印欧祖語*ḱr̥sós < 「走る」*ḱers-が語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCarrionusと記録)に着いた。

村の入り口に十字架があった。1231年に設立された修道院(Monasterio de Santa Clara)を見た。また、この村の広場にも巡礼者像があった。12世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santa María del Camino)の前には、カスティーリャ・イ・レオン州の旗が掲げられていた。

中央広場(Plaza Mayor)の時計台の前で一休みした。1160年に建てられた門の上のレリーフが美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago)を見た。商店街(Calle la Rúa, Calle Esteban Collantes)は賑わっていた。16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Andrés Apóstol)の丸いドームがきれいに見えてきた。小さい村なのに沢山の教会や修道院があり素敵だった。

(近くには巡礼路の南にSanta María de Benevívereの1169年に建てられた修道院跡(Abadía de Santa María de Benevívere)があるなど、昔から平原に人が住んでいたことを感じながら歩いた。)

16世紀に架けられた立派な橋(Puente Mayor)で川(Río Carrión)を渡り、1076年に建てられた修道院(Real Monasterio de San Zoilo)の横を進み、幹線道路(PP-2411)に沿う巡礼路を更に16km歩いた。途中で休む場所で一休みして、真っ平の地平線を見ながら、山も丘も一つもない平原の麦畑の中の一本道で先の先まで見通しのきいた直線の巡礼路をひたすら歩いた。何でも吹き飛ばしてしまうような強い風で遮るものも何もないため、容赦なく吹き付けてきたが、途中で二度だけ休んだだけで二時間半をぶっ通し歩き続けた。父と次の町で泊まることを伝えておき、一人でどんどん進んだ。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Carrión de los Condesを流れるCarrión川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Carriona, quce decurrit ad Carrionum)」と書かれている。)

Calzadilla de la Cueza(スペイン語「舗道」calzada < 民衆ラテン語calciata < 古典ラテン語「小石」calx < ギリシア語χάλιξ / khálixが語源。川やその谷の名前Cueza < 古スペイン語「喜ぶ」gozo < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源で「叫び」*ǵeh₂r-と関連)に着いた。村に入って直ぐの目立つところにある16世紀に建てられた古びた教会(Iglesia de San Martín de Tours)の前にある公営の巡礼宿(Albergue municipal)の前で座り、炭酸飲料を飲んで父を待った。父が到着して、巡礼宿に入ると感じ良い方がもてなして下さり、二階の部屋に通された。ブラジル人が多くてとても賑やかだった。彼らは私たちを見つけると直ぐに喜んで話しかけてきてくれて、チョコレートをくれて、ものすごい会話が弾んだ。ここまで長い道のりを歩いてきた人たちなのにエネルギーが有り余っていてパワフルな方たちだった。

それから併設されたBar Restauranteで食事を食べた。朝に会ったイタリア人Giuseppeが招いてくれて席に着いた。そして注文しようとしたら、鳥と兎と魚と何かがあった。Giuseppeが頼んだので同じにした。初めはミネストローネ(父)とパスタ(私)が来た。何かが来て、食べるとイカと分かった。巡礼者にとても良心的なレストランで居心地が良かった。 レストランでは、スペイン人Franciscoも加わり、フランス語、英語で話した。フランス語、スペイン語、イタリア語なら、何を言いたいのかが分かり、会話が弾んだ。ブラジル人たちは、ポルトガル語でとても盛り上がり、食事から帰って来てからも、げらげら笑ってとても陽気さを更に通り超してハイテンションだったが、彼らはものすごくフレンドリーで巡礼者は皆友達だと叫んでいた。 そして、食後はベットに戻り、日記を書いて寝た。

Villalcázar de Sirgaの教会(Iglesia de Santa María la Blanca)の入口上部にあるレリーフ

2008年4月30日(水)21日目(Calzadilla de la Cueza-Santa María de las Tiendas-Ledigos-Terradillos de los Templarios-Moratinos-San Nicolás del Real Camino-Sahagún-Bercianos del Real Camino: Albergue Parroquial. Casa Rectoral)

朝に起きるとポルトガル語が飛び交っていた、陽気なブラジル人とポルトガル人と盛り上がり出発した。幹線道路を歩いていると後ろから来た車がクラクションを鳴らして巡礼者を応援してくれていた。Sahagúnで家を出てから初めて、久しぶりに国際電話で母と話した。教会(Iglesia de San Lorenzo)の立派な煉瓦造りの塔が印象的だった。 立派な橋(Puente Canto)を渡り、Bercianos del Real CaminoでXavierと再会して、同じ巡礼宿に泊まり、旅行の色んなお話を聞いた。そこも寄付で運営されていた。Berlinから歩いてきたドイツ人Martinと出会って感銘を受けた。

今日は朝遅く起きたとき、ポルトガル語が飛び交っていた。朝から超ハイテンションなブラジル人たちと盛り上がり、巡礼宿の前で記念撮影をして、午前8時半に出発した。

ポルトガル人Joachimが、私とブラジル人Viniciusが、顔が日に焼けて似ていて兄弟みたいだねと冗談を言っていた。巡礼宿の主人(hospitaleiro)が出てきて、皆で写真を撮ってくれた。宿泊した巡礼宿は、ブラジル人が管理をしていたから、ポルトガル語話者が多かった。皆と握手して出発をした。

幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)をひらすら進み、二つ目の村Santa María de las Tiendas(スペイン語「店」tienda < ラテン語「拡げた」tentus < イタリック祖語*tendos < 印欧祖語*tén-tu-s ~ *tn̥-téw-s < *ten-が語源)の次のLedigos(スペイン語「喜び」leticio < ラテン語「喜び」laetitius <laetitia < laetus < イタリック祖語*laies < 印欧祖語*h₂ol-éye-ti < 「育つ」*h₂el-が語源)で父を待っていたら、Liaがイギリス人と一緒に歩いているのに出くわした。父が村に着いてから、開放的な雰囲気のバー(Bar El Palomar)に入り、チョコレート牛乳(chocolate con leche)を飲み、身体を温めて一息を着いた。ColaCaoとは違った味のココアだった。村を出てから幹線道路をひたすら進んだ。

Terradillos de los Templarios(スペイン語「領地」terrado < tierra < ラテン語「土地」terra < イタリック祖語*terzā < *ters-eh₂ < 「乾いた」*ters- + 接小辞-illo < -illus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós <*-lósが語源。1191年にアルフォンソ8世がテンプル騎士団に寄進)に入る所に巡礼者が休憩できるようにベンチが置かれていて一休みした。辺りの村には憩いの場があり、村人たちが集まりおしゃべりをよくしていた。14世紀に建てられた赤煉瓦造りの教会(Iglesia de San Pedro)を見た。白い砂岩ではなく赤い煉瓦を積み上げた建物が多くなった。幹線道路を離れて、草原の巡礼路を歩いた。

Moratinos(ラテン語「死者」moratus <「死む」morior < イタリック祖語*morjōr < 印欧祖語*mr̥-yé-tor < 「死ぬ」*mer- + 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源)の村に近づくと丘には横穴(bodegas)がいくつも掘られていて、葡萄酒を貯蔵ができるようにされていて面白かった。16世紀に建てられた赤煉瓦造りの教会(Iglesia Santo Tomás de Aquino)の塔も見えて美しい眺めだった。Sahagúnで買い物をしたかったので、Siesta前に着くため、父より先に出発して、幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)に沿う道を急ぎ足で進んだ。直ぐに次の村が見えてきた。

San Nicolás del Real Caminoを通り過ぎて、直にPalencia地方とLéon地方の境界を通った。幹線道路を歩いていると消防自動車がクラクションをポンポンポンと鳴らしてくれて走ってきたので振り返ると、三人の消防士が笑顔で手を振ってくれて、巡礼者を応援してくれた。スペインでは巡礼者をとても丁重に扱い、車道と並行して歩く道では、通り過ぎる車がよくクラクションを鳴らして振り返ると手を振ってくれたり、手を振り返すと更に鳴らして盛り上げて答えてくれることが多かった。

町に近づいて、インターチェンジ(A-231との交差)を過ぎてから、小川(Río Valderaduey)を渡る橋の袂から、草原の巡礼路に入り、16世紀の小さな橋の傍らに13世紀に建てられた赤煉瓦造りの小さな教会(Ermita de la Virgen del Puente)を見た。その前には巡礼者が休憩できるようにベンチが置かれていた。そこから平原の巡礼路(Calle Ronda de La Estación)を歩いた。幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)をくぐるトンネルを過ぎた。

直に鉄道が見えてきて、線路の上を通る道を通り、大きな町に入っていった。その手前にパン屋さん(Panificadora Santos Franco)があり、忙しそうにパンを沢山トラックに搬入していた。鉄道の高架を越えて町に入ると、16世紀に建てられた立派な煉瓦造りの教会(Iglesia de la Santísima Trinidad)の塔が見えた。大きな町で巡礼路沿いに食料品店(Alimentación Elías)を見つけた。田舎町のため少し高かったので、ウエハースとファンタオレンジなど必要最低限の食料や飲料だけ買い、中央広場(Plaza Mayor)のベンチで休んでいると、午後2時前に父が追いついてきた。大通り(Avenida la Constitución)に面した銀行(Banco Santander)でお金を下してきて、お金の心配もなくなった。

中央広場(Plaza Mayor)の町役場(Ayuntamiento de Sahagún)の前で長い時間休憩して、父が日本の自宅に携帯から電話をかけて、母と久しぶりに話をした。今はちょうどスペインのど真ん中にいて、巡礼もフランスから歩き始めてやっとSantiago de Compostelaとの中間地点の町にいて、その広場にいることを話すと、良くここまで来たね。午後2時過ぎに電話をかけたので、日本時間では午後9時過ぎでそろそろ寝ようとしていた時に電話を取ったと話していた。国際電話のために電話代が高いので直ぐに話を終えて、直ぐに父に代わったが、母がとにかく元気に順調に進んでいて安心したと話していた。父も久しぶりに母と話ができて、数週間ぶりのはずなのに一年も話していないみたいだね。まだ数週間しか経っていないのに旅に出てからそれだけ色んなことを体験して濃い時間を過ごしてきたんだねと。まだまだこれから沢山の日にちがあるからどうなっちゃうんだろうねと話した。

それから、町に残されている歴史的建造物を見て回った。町の教会は全て煉瓦造りで建てられており似た外観だが、特に1093年に建てられて、カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が葬られた修道院(Monasterio Real de San Benito)の塔(Torre del Reloj)や1180年に建てられた教会(Iglesia de San Tirso)の塔は立派で煉瓦の間は藁を泥で塗り固めて作られており、イスラム地域の家を作るときの構造であった。1666年に建てられた立派な門(Arco de San Benito)を潜り抜けた。碑文には「Basilicam istam regiamolle insignem Alphonsus i rex Catholicus a maluris dirutam primus instaurat aera 792. Alphonsus 3 rex magnus iterum destructam aediflcat. Alfonsus 6 rex mol nacachus magnificentissime ampliat. Dominicus 3 abbas perficit aera 1221」と書かれていた。

(Sahagúnは、304年11月27日にファクンドゥス(Sanctus Facundus)とプリミティウス(Sanctus Primitivus)が殉教した。652年に記録され、スペイン語San Facundoが語源である。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でsanctum Facundumと記録され、カール大帝が彼らを祀るバシリカを建てた(Item, visitanda sunt corpora beatorum martirum Facundi scilitet et Primitivi, quorum basilicam Karolus fecit)と書かれているが、実際は872年に創建された。カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の時代にCórdobaなどからモザラベが多く移り住んだため、ムデハル様式の赤煉瓦を積み上げて多くが建てられた。また、1109-17年の年代記(Crónicas anónimas de Sahagún)がある。1529年にメキシコ「新スペイン」(Virreinato de Nueva España)に宣教して、1568年に現地のナワトル語で百科事典(Historía universal de las cosas de la Nueva España)を作成したベルナルディーノ(Bernardino de Sahagún, 1499-1590)を輩出した。)

町から出るとき、川(Río Cea)に架けられた立派な橋(Puente Canto)を渡った。ローマ人が橋を架けて、次に1085年にアルフォンソ6世が架けて、現在の橋は16世紀に架けられた頑丈な石造りだった。父が橋の上を歩いているところを撮ってあげるよと袂の十字架の前で構えていてくれた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、SahagúnのCea川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Ceia, quae ad sanctum Facundum; Aisela, ad Maxillam)」と書かれている。)

次の町に向かうとき、自動車道(Carretera León)と幹線道路(Estrada Logroño-Vigo / N-120)に沿う巡礼路を歩いた。15世紀に建てられた小さな教会(Ermita de San Roque)の前で巡礼路が二手に分かれていた。昨日にXavierと会うことを約束していたBercianos del Real Caminoに行くために左手の旧道を選んだ(近くに似た地名Bercianos del Páramoがあり、スペイン語bercianoは人名。ケルト=イベリア人の集落Bergidom, Bergidumは9世紀頃にBerizumと記録。イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源でゲルマン祖語*burgzとも関係。)靴紐を結んでいたら、Pamplonaから来た、スペイン人の仲が良い夫婦MarcusとLuciaが声をかけてきて握手をしてくれた。彼らはとてもきれいな英語を話した。(巡礼宿で一緒になり食後に理由を尋ねると、Marcosは小さいときアメリカやドイツに住んでいたそうだ。)

羊の放牧に遭遇しながら、なだらかな田舎道を2時間ほど歩くと、街の入り口に12世紀に建てられた古い教会(Ermita de Nuestra Señora de Perales)がぽつんと平原の中にあり史跡とされていた。村に入ると何もないが、巡礼宿の看板に従い進むとすんなりと着いた。

巡礼宿の入り口でXavierが待っていましたと言わんばかりに喜んで出迎えてくれて再会した。チェックインを済ませて、二階のベットに通された。寄付のみで運営され、フランス人が主にボランティアをしていた。二週間で交代すると聞いた。古い農家を改造したとても風情のある良い巡礼宿だった。

周辺の整理後、シャワーを浴びてから、Xavierと一階の長椅子で話をした。フランスの地図を見せてくれて、お勧めスポットを教えてくれたり、彼が旅をして、気に入ったフリーズやレリーフを描いたノートをフランス語で話しながら示してくれて、旅行の体験を聞かせてくれて、とても興味深かった。

そうこうしていると、食事の時間になり、食器の手伝いをした。皆で食卓について食べた。隣のオーストリア人がとても無礼で困った。水を飲んでいると、要らないと強く断っても、酔っていたためか、私のコップにだぶだぶと葡萄酒を注いできて困った。スープは熱いが、美味しかった。それから食事を続けるが気が乗らず、外も雨がぽつぽつ降ってきて、洗濯物を取り込んだりと忙しかった。

食後、バスク人がスペインとフランスの国境地帯バスクの歌を上手に歌ってくれたりして楽しんだ。片付けでは、Xavierが洗剤でごしごしした食器を拭くのを手伝い、それから、皆で晩課をした。

寝る少し前にお話したBerlinから歩いて来たドイツ人Martinがとても流暢なフランス語を使うので驚いた。彼は音楽家でヴィオラ奏者をしているが、仕事を休み五か月かけて、フランスを数か月かけて縦断して、スペインに辿りついたと話していた。Xavierのようにいつか大旅行をしたくて、5年以上はかかりそうだが、中国の上海から、自転車でひたすらユーラシア大陸を横断して、スペインのSantiago de Compostelaまで巡礼をしたいと話した。Martinはフランス語がものすごく上手でもちろん英語もスペイン語も流暢に話すことができ、秘訣をたずねたら、言語学習はやる気さえあれば、何歳になってもできる。沢山の人と話したいという心さえあればできると話していた。

Sahagúnを出た所に架けられた立派な橋(Puente Canto)

2008年5月1日(木)22日目(Bercianos del Real Camino-El Burgo Ranero-Reliegos-Mansilla de las Mulas: Albergue Amigos del Peregrino)

足を痛めてしまい、少し歩くのが遅くなったが、無事に歩き終えることができた。Santiago de Compostelaまで大きい河が流れていて、その自然な水の流れに沿い、体が流れていくように歩くようになった。一切どこまで歩こうと決めることは考えず、自然に行ける所まで行くだけであり、馬のように最小限の筋肉を使い、脚が出るように歩くことが大事と思った。最小限の疲れで早く歩けた。

今日は午前6時半に起床して、午前6時45分に朝食を食べて、部屋でMartinとおしゃべりをして、玄関でXavierにこの先の道について教えてもらい、情報交換をしてから、巡礼宿を午前7時半に出た。とても美味しい糖衣の小さいパンがあり、沢山取って、バターを塗って食べた。チョコレートドリンクを2回お代わりした。村で道を進むと、Xavierを発見して、一緒に歩いた。日本の芸道について話をした。

すると、畑の向こうからLiaが歩いて来た。彼女は昨日見かけたきり、巡礼宿にはいなかったので心配していると、散歩道を行ってしまい、鉄道(Ferrocarril León-La Coruña)や高速道路(A-231)をよじ登って越えて、正しい巡礼路(Real Camino Francés)に戻ることができたようだった(Calzada del CotoやCalzadilla de los Hermanillosの右側の道に行ったようである)。Xavierが、巡礼中に友と一時ははぐれたとしても、我々が向かうべき場所(Santiago de Compostela)は同じであるから、途中で友と分かれても、必ず最後には一緒になるから心配することはない。我々は一人一人はそれぞれ異なるけれども、到達するべき場所は一緒であるのが巡礼だと力説していた。朝から尋常でない程、足が痛むので、ハンカチを入れるといいよと、Xavierが教えてくれて、休憩をとり、入れると収まった。

Liaに昨日のことやスペインのSupermercadoで見たことなどを話していると、隣の村(El Burgo Ranero)に着いた(1136年にBurgum Ranerium、1163年にBurgo Ranero、1163年にBrugo Reinero、1185年にBurgo Rranneroと記録され、ラテン語「町」burgus < フランク語*burg < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és < 「高い」*bʰerǵʰ- + 人名Ragenerius, Rainerius, Ranarius < ゲルマン祖語*Raginaharjaz(ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- + ゴート語「軍隊」harjis < ゲルマン祖語*harjaz < 印欧祖語*kóryos < 「軍」*ker-)が語源。古くからゴート族やヴァンダル族などゲルマン人たちがイベリア半島に住み着いたことが分かる地名である。Francisco Javier García Martínez (1993). Etimología e interpretación popular en los pueblos de León (II), Lletres asturianes: Boletín Oficial de l'Academia de la Llingua Asturiana 47: 125-133.)。16世紀に建てられた村の中心にある教会(Parroquia de San Pedro Apóstol)も家々と同じく赤煉瓦で作られていた。この地域には小さな池(Laguna Manzana)が多くあり、灌漑や牧畜などに使われていたが、水をあんまり湛えていない枯れた池や川も多かった。

辺り一面は真っ平な地形で殆ど地平線だけを望みながら巡礼路(Calle del Norte / LE-6615)を歩き進んだ。足が痛むのでペースを落として、父とXavierとLiaと別れて、十字架(Crucero de El Burgo Ranero)の前で少し休んだ。それから少しペースが上がってきて、少しするとLiaが一人でとぼとぼ歩いていて、挨拶をして先を急いだ。辺り一面が畑の中に道路が通されており、刈り取られた牧草がブロックで積み重ねられていた。また、しばらく歩いてゆくと空港(Aeródromo Villamarco)を過ぎ、Xavierが十字架(Crucero de Villamarco)の台座に座っていて、一緒に少し歩いていった。彼は巡礼をもう4度もしていて、今までの思い出や旅のおもしろさについて色んな事をお話してくれて、豊富な人生経験を持つことは大切であることを感じて、沢山の旅をすることが大切だというお話が印象に残った。鉄道の線路をくぐると、Reliegosの手前に休憩所(Área de descanso para peregrinos)があり、Xavierは木陰で少しお昼寝をするということで別れて、一人でMansilla de las Mulasまで歩いた。

Reliegos(古代ローマ時代の町Pallantiaにまで遡り、916年にレオン王国のオルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 873-924)が教会(Iglesia de Santa María de León)に寄進した村として、Relligosと記録された。ラテン語「残余」relinquo < イタリック祖語*wre-linkʷō < 印欧祖語「後ろ」*ure- + 「離れる」*linékʷti ~ *linkʷénti < *leykʷ-か「再結集」relego < イタリック祖語*legō < 印欧祖語*léǵ-e-ti < 「集める」*leǵ-が語源)の村に入ると直ぐの所に葡萄酒や食料を貯蔵する横穴(bodegas)があったが、村の中には住宅しかなかったため、そのまま巡礼路(Calle Real / LE-6615) をひたすら歩き続けた。足は痛かったが一本道で上り下りもないため進めた。

村に入る少し前に休憩所(Área de descanso para peregrinos)があり、ベンチとテーブルを見つけて、歩くと靴に踝が当たり、足が激しく痛むため、一時間半ほど、日記を書いたり、ぼーっとしていた。 日記を書いていると、何人かの巡礼者が目の前を通ってお話をした。

それから、一人で歩き出すと、反対側から歩いてくるフランス人と出会い、最初は相手の母国語が分からないため、スペイン語で話しかけたら、フランス語でSantiago de Compostelaから歩き始め、Saint-Jean-Pied-de-Portまで戻る途上だと話し始めた。行くのも楽しいが、帰るのも楽しそうだねと、冗談を言い合い、握手をして別れた。足を痛めて休みながら歩いている私が遅いため、父は私が通ったときに伝えて欲しいと色んな人にコメントを残していてくれていたため、歩いているときには、色んな人から声をかけられた。村に入る前に十字架(Crucero de Mansilla de las Mulas)があり、幹線道路(N-601)を上を陸橋を越えると目の前に村が一望できて到着したことが分かって安心した。

Mansilla de las Mulas (ローマ時代の町Mansella, Mansiellaを起源として、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でManxillaと記録。ラテン語「住居」mansio + 接尾辞 -ella、ラテン語「雌騾馬」mula <「雄騾馬」mulus < イタリック祖語*mukslos < 印欧祖語*mukslósが語源で古典ギリシア語μύκλος / múklosやスラヴ祖語*mъ̀skъと関連)の入口の広場(Avenida Picos de Europa)で父が待っていた。通り(Calle Puente)に面した巡礼宿にチェックインを済ませて、広場(Plaza Grano)に面したSupermercados Diaに直行した。今日はスペインの休日で午後5時半にやっと開いた。そこで昨日会ったPamplonaから北スペイン人のLuciaと一緒にスパゲッティとそのソースの素となるトマトを購入した。パンはただで持って行けるように置かれていて助かった。

帰りに広場(Plaza del Pozo)に面した1220年に建てられた教会(Iglesia de Santa María)などを見た。また、1181年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)が築いた城壁(Muralla)や城門(Puerta de Santiago, Puerta de San Agustín, Arco de la Concepción)などが残されていた。

スパゲッティを茹でて、トマトソースにパセリ、オリーブ油と塩を加えて、ソースを作り、サラダは後で食べた。その頃にXavierとLiaがやって来て、一緒にカマンベールチーズを切って食べた。彼らはここには泊まらず、少し先でまた野宿をするそうである。二日前に会ったスペイン人Franciscoは私達が食べている頃から、パエリアを作り始めた。カキやトマト・玉ねぎやコメを鍋に入れ、加熱しながらおしゃべりをしていた。スペインでは、早くても夕食が午後8時から始まるため、調理は午後6時半辺りからしていた。左靴のくるぶしに当たるので、石を入れて拡張させて、早く就寝した。

今日は靴に踝が当たり、足が痛むため、余り機嫌が良くなかったが、何とか無事に歩けて、順調に進めだ。巡礼宿のテーブルには、スペインの地図があり、Xavierがスペインの名所を沢山教えてくれた。(巡礼の後に旅をするときに大いに役に立った。)パンをオリーブオイルとパセリと塩と一緒に食べたり、ココナッツ入りのヨーグルトを食べて美味しかった。今日は大量に食べた。

Mansilla de las Mulasの広場(Plaza Arrabal)

2008年5月2日(金)23日目(Mansilla de las Mulas-Villamoros de Mansilla-Villarente-Arcahueja-Valdelafuente-Puente del Castro-León: Albergue Las Carbajalas en León)

大聖堂(Catedral de Santa María de Regla de León)では、結婚式が執り行われていた。オルガンが壮麗に響いていて、ステンドグラスが美しかった。Lisboaの家に呼んでくれたポルトガル人Joaquimと大聖堂の中で会い、Leónの街を一緒に散策した。楽しいお店(HiperGol)でパンを買って帰ってきた。

朝は遅めの午前7時半で昨日Supermercadoでもらったパンとオリーブオイルとパセリに塩を付けてチョコレートを食べた。チョコレートは気持ちが悪いほど不味くてよく読んだら、料理用と書いてあった。隣のベットのイタリア人も同じチョコレートを買ってしまい、不味そうに食べていた。カマンベールは美味しくて、気分が少し盛り上がった。午前8時半頃に出発して、車道に沿いながら歩いた。

町を出るとき、12世紀に架けられた立派な橋(Puente Medieval sobre el río Esla)で川(Río Esla)を渡った。橋の前には必ずと言っていいほど、石で作られた十字架が建てられていたが、スペインがまだイスラム教徒が多かった時代にキリスト教徒が住んでいる町と示した名残りかもしれないと感じられた。また、街をの方を振り返るとレオン王フェルナンド2世が築いた城壁(Muralla)が見えた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、MansillaのEsla川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Aisela, ad Maxillam)」と書かれている。)

一昨日と同じく幹線道路沿い(Avenida de Madrid / N-601)を歩いていると、巡礼者を大事にしてくれた。巡礼の道で後ろから車が来ると、巡礼者を驚かせないよう、絶対にクラクションを鳴らさずに来て、抜き去る時に手を振ってくれたり、クラクションを鳴らして元気づけてくれた。

今日は村というより、幹線道路沿いに町が点々と存在する道を歩いた。Villamoros de Mansilla(ラテン語「ムーア人」maurus < ギリシア語「褐色の」μαυρός / maurós < ヘレニック祖語*mergos < 印欧祖語*mergʷ-os < 「暗い」*(h₂)merHgʷ-と呼ばれたイスラム教徒が住んでいたか、聖マウルス(Maurus, 512-584)など人名が語源)を過ぎた。

Liaが休憩所(Área de Descanso para Peregrinos)で水を汲んでいてばったりと会い、幹線道路をお話ししながら歩いた。川(Río Porma)に架かる立派な中世の橋(Pasarela para peregrinos)を渡り、町Villarente(ラテン語「数える」rente< rens < reor < イタリック祖語*rēōr < 印欧祖語*h₂reh₁-yé-ti < 「考える」*h₂reh₁-が語源)に入り、Liaは銀行(La Caixa)を見つけ、お金を少し下ろした。巡礼中はお金を使うことが少ないため、防犯のため少額ずつ下ろしていると話していた。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、MansillaとLeónの間に架けられた大きな橋の下のPorma川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Porma ad quemdam ingentem pontem, qui est inter Maxillam et Legionem)」と書かれている。)

町を過ぎると幹線道路から少し逸れてゆき、巡礼路らしくなると高速道路(A-60)の下をくぐり、 大都市Leónに近づいていることを感じさせた。先に水汲み場(Lavadero público de Arcahueja)があり、スペイン人の友達MarcosとLuciaとFranciscoに会った。彼らと一緒に歩いて、Léonを目指した。

Arcahueja(古スペイン語「アーチ」arca < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s + 古スペイン語「堀」fuexa < ラテン語fossa terra < 「掘る」fodio < イタリック祖語*foðjō < 印欧祖語*bʰódʰh₂-ey ~ *bʰdʰh₂-énti < *bʰedʰh₂-が語源)やValdelafuente(スペイン語「谷」valle + 前置詞 de + 定冠詞 la +「泉」fuente < ラテン語fons < イタリック祖語*ðonts < 印欧祖語*dʰónh₂-ti-s ~ *dʰn̥h₂-téy-s < 「流れる」*dʰenh₂-が語源)を過ぎて、幹線道路(N-601)を抜けてから、高速道路(LE-30)の上の陸橋(Pasarela del Camino de Santiago)をゆき、小高い丘(Alto del Portillo)を過ぎた。スペイン銀行(Caja España)の看板があり、そこから先の大都市の市街地が見えてきた。

Puente del Castro(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉で「Leónの近くユダヤ人の城の下を流れるTorío川(Turio, quae decurrit ad Legionem sub Castrum judaeorum)」と記録。スペイン語「橋」puente +「城」castroが語源)の町に入り、18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de Puente Castro / Centro de Interpretación del León Judío y del Camino de Santiago)の鐘楼には鳥の巣が作られていた。通り(Calle Victoriano Martínez)で赤煉瓦の家を見たり、広場(Plaza Tomás Mallo)の十字架を過ぎた。広場で少し一休みをして水を飲んだ。

町の端や橋の袂に十字架の柱があるのを不思議に思いながら、川(Río Torío)を渡り、Léonに入ると大都市であったため、巡礼路も大きな幹線道路(Avenida del Alcalde Miguel Castaño)などを渡らなければならず、大変だった。Burgosの町へ入る大通りと同じく、道路の境界のフェンスに木の枝やパイプで沢山の十字架が作られていて、通過した巡礼者が結んでいったようだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Leónの近くPuente de Castroの下を流れるTorío川、Leónの近くTorío川と逆にAstorgaに向かい流れるBernesga川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Turio, quae decurrit ad Legionem sub Castrum judaeorum ; Bernesgua, quae juxta eamdem urbem ex alia parte, adversus scilicet Austurgam defluit)」と書かれている。)

Léonの街はごみが余り落ちておらずきれいだった。途中で巡礼路の標を見失い、同じように困っていたドイツ人と会い、地元の人に聞きながら、旧市街に向けて慎重に進んだ。大通り(Avenida del Alcalde Miguel Castaño, Avenida de Fernández Ladreda)を行き、大きな闘牛場(León Arena / Plaza de Toros)を過ぎて、旧市街は北にあるためにひたすら通り(Calle la Corredera)を進んでから、学校(Colegio Leonés)から老人ホーム(Residencia Hogar San José / Hermanitas de los Ancianos Desamparados)が面した通り(Calle Octavio Alvarez Carballo)に曲がった。

公園(Parque del Corte Inglés)をつきる通り(Calle las Fuentes)を歩いていたとき、父が果物屋(Frutería Alfonso Alegre)を見つけた。店頭に美味しそうな果物が並んでいて、オレンジ、リンゴ、アンズなどを買った。お店には大豆などの穀物も売られていて、日用品もあった。昔からあるような雰囲気の店構えで店主は愛想がとても良くて、地元の人がひっきりなしに買い物に来ていた。

それから、町の中心部でSupermercadoをたずねて教えてもらった大通り(Avenida del Alcalde Miguel Castaño)に面したMercadonaは大きくて便利だった。カートに1€玉を投入するとき困っていると、店の人が親切にしてくれた。イベリコ豚のチョリソ(Chorizo Ibérico de Bellota)や大きいカマンベールチーズ(Queso Camembert)など、日本では輸入のために高いが、安価で大量に買えた。

また、ピザ(Pizza Pepperoni)や野菜(Cogollos)、チョコレート(Tableta de Chocolate con Leche)、レモンティー(Té de Limón)、ハーブティー(Té de Cogollos)、グレープジュース(Sumo de Uva Don Simon Mosto Tinto)、パイナップルジュース(Piña colada)などを買った。

大体の物価の相場が分かり買いやすかった。巡礼宿になくて困っていた液体石鹸などの日用品を購入した。イベリコ豚のハムの切り売りがあり、ものすごく大きな肉の塊でも20€近くでとても驚いた。

Supermercadoの近くにまた正規の巡礼路(Calle Barahona)を発見した。14世紀に建てられた教会(Parroquia de Santa Ana)の脇を通っていた。教会を探していくと正規の巡礼路を見つけやすいことが分かった。Burgosと同じく大都市では路地が多すぎて道を失いやすいため、黄色い矢印を探しながら行かなくてはならず、特に分かれ道で注意を要するため、重要な建物を目印として進んでいった。

通り(Calle Barahona)を少し行くと旧市街に入る城壁(Puerta Moneda)があり、それを境に途端に街の雰囲気が変わった。また、通り(Calle Puerta Moneda)に面した11世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)の前に可愛いライオンの石像があり、少し行くと巡礼宿(Albergue)はこっちだよと方向を指さして親切に教えてくれる地元の人がいた。巡礼宿は巡礼路には面しておらず、奥まった場所にあるため、昔から迷う人が多いかもしれないと感じた。

まだ、午後2時過ぎであり、今日はLéonには泊まる予定がなかったが、通り(Calle Escurial)を進み、印を貰いにAlbergueに入ると、ベネディクト会の女子修道院により、寄付で運営されているため、滞在料を取っていなかったので、もう少し先まで歩く予定だったが、急遽ここに泊まることにした。もう既にベットは一つ、二つしか開いておらず、ぎりぎり入ることができて良かった。

先ほどSupermercadoで買ったイベリコ豚のチョリソとカマンベールチーズと果物を食べて、日記を書いてから、旧市街を見に行くことにした。Pamplona在住のスペイン人LuciaとMarcosも泊まっていて、食堂で食べている途中に親切に市内の地図をくれた。巡礼宿から出ると巡礼路で直ぐにLisboaの家に招いてくれたJoaquimに会った。午後4時に巡礼宿がある奥まった場所を教えてから街に出た。

巡礼宿がある通り(Calle Escurial)から教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)に出て、雰囲気のある小さな美しい通り(Calle Herreros)からフランシスコ会の修道院(Religiosas Concepcionistas Franciscanas)がある広場(Plaza de las Concepcionistas)から、先ほどの美しい教会の尖塔を見て、少し広い通り(Calle Fernández Cadórniga)を進み、広場(Plaza Don Gutiérrez)から通り(Calle Zapaterías)を進み、広場(Plaza San Martín)から通り(Calle Plegarias, Calle Platerias, Calle Paloma)を進み、大聖堂(Catedral de Santa María de Regla de León)がある広場(Plaza de Regla)に着いた。そこにはものすごい数の観光客が大聖堂を見上げていて混雑していた。少しでも路地に入ると人一人にも会わないことが多いのに、大聖堂の前に沢山人がいるのは、どこからこれだけの人が湧いてきたのか知りたいぐらい不思議に感じられた。

典型的なゴシック様式の大聖堂はそびえ建ち、特に正面の薔薇窓や正門の彫刻は印象的だった。1456年に作られた柱の碑文に「IHS. El reverendo in Cristo Padre eseñor don Pedro Cabeca de baca, por la gracia de Dios obispo de León, otorga a qualquier persona que aquí, delante la ymagen de Santa María la Blanca, estovyere en estado de gracia sábado a la vigilia, porcada vez, quarenta días de perdón. Ítem, otorga a cualquier persona, por cada vegada que diere elemosina para decir las dichas vigilias, quarenta días de perdón. Datum anno domini MCCCCLVI in XXVII diemarcii.」とあった。

大聖堂の中に入ると美しい絵画がはめ込まれた小さな祭壇があり、中央の祭壇も美しかった。丁度、四半時間ほどの間、大聖堂の中を見て回っていると、地元の人がどんどん集まってきた。何が始まるのかと思ったら、結婚式だった。ミサが始まり、オルガンの音楽と共に花婿と花嫁が入ってきた。三人の子供がいる花婿は五十代で花嫁は二十代で年の差に驚いた。オルガン演奏が始まったとき、ポルトガル人Joachimがやって来て、大盛り上がりした。教会の売店でLéon大聖堂の歴史の古い本のEdiciones Leonesasによるファクシミリ(Matías Laviña (1876). La catedral de León, Madrid: Eduardo de Medina.)と聖歌の楽譜と大聖堂のステンドグラスが印刷された美しいポストカードを求めた。

大聖堂からはにぎわう大通り(Calle Ancha)を散策してから、旧市街の小さな通り(Calle Mariano Domínguez Berrueta)を歩くのを楽しんだ。中央広場(Plaza Mayor)で旧庁舎(Antiguo Consistorio)の立派な建物を見た。それから、商店や飲食店が立ち並ぶ下町(Calle Plegarias, Plaza San Martín, Calle Zapaterías, Plaza Don Gutierre, Calle Cascaleria, Calle Conde Rebolledo)を歩いていたが、スーパーマーケットや食料品店などが見つけられなかった。商店街(Calle la Rúa)を歩いていたとき、小さな軽食・菓子やおもちゃを売る店(HiperGol)のウィンドウに美味しそうなアップルパイ(tarta de manzana)やチーズケーキ(pastel de queso)やサラミ入りパン(Napolitana de jamón y queso)などが並んでいるのが目に入ったので入り、スペイン語で注文すると喜ばれた。

巡礼宿戻って、先ほど買ったパンを食べて、夕食をとりながら、スコットランド人やブラジル人と話をした。それから、スペイン人やポルトガル人に様々なイベリア半島の名所を教えてもらった。ポルトガル人Joaquimは新聞記者だそうだ。テーブルで日記を書いていると、彼も何か書き物をしていた。何を書いているのかとたずねたら、今日あったことを忘れないうちに思い出しながら、新聞記事を書いているんだよと、答えが返ってきて意外だった。(彼とそれから仲良くなり、私たちをポルトガルのLisboa郊外の家に招いてくれて泊めてくれた。)あるフランス人とポルトガル人が盛り上がりすぎて、ホスピタレーロから抑えてと言われていたが、テンションは上がったままだった。

巡礼宿には、Pamplonaの巡礼宿やBoadilla del Caminoの運河でも会ったドイツ人Aloisもいて、再会を喜んだ。日記を少し書いてから就寝した。Léonに着いたのは午後2時少し前、お買い物などをして、巡礼宿には午後3時前には着いた。今日は一つ先まで行きたかったが、Léonの旧市街を満喫できて泊まって良かった。修道院が経営している巡礼宿で修道女が時どき出てきて、巡礼者たちと話していた。

Léonは紀元前1世紀にローマ軍団Legio VI Victrixが駐屯して、68年にLegio VII Gemina Felixが軍事基地castra legionisを建設して始まり、586年に西ゴート王リウヴィギルド(Liuvigild, 519-586)が支配をしてから、要塞として機能して、856年にアストゥリアス王オルドーニョ1世(Ordoño I de Asturias, 821-866)が植民して、レコンキスタの中心地となり、910年にガルシア1世(García I de León, c.870-914)に軍事機能を移転して、914年にオルドーニョ2世 (Ordoño II de León, 871-924)がレオン王国(Regnum Legionense, Reino de León)の首都として繁栄した。レオン王サンチョ1世 (Sancho I de León, 935-966)が即位した956年にバシリカ(Real Colegiata Basílica de San Isidoro)が建てられた。

11世紀に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora del Mercado)も古くから巡礼路を守るようにあった。レオン王国はアストゥリアス王国(Regnum Asturum, Reinu d'Asturies)や更に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)の精神を引き継いでレコンキスタを遂行した。1037年カスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)がレオン王国の継承して、カスティーリャ王国(Regnum Castellae, Reino de Castilla)に併合され、カスティーリャ=レオン王国が成立した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「王国の首都かつ文化の中心であり、あらゆる幸に満ちたLeónの町(Legio, urbs regalis et curialis, cunctisque felicitatibus plena)」と記録された。

大聖堂はローマ時代の浴場跡にイスラム勢力が建てた王宮から発展して、917年にオルドーニョ2世が、サン・エステバン・デ・ゴルマス(San Esteban de Gormaz)の戦い(Batalla de Castromoros)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン3世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān III, 889-961)に勝利した記念として王宮を捧げ、999年にアルフォンソ5世(Alfonso V de León, 994-1028)が戴冠式を行い、1073年にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1119)がロマネスク様式で建造、1205年にゴシック様式で建築を計画したが、1255年にアルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が、フランスのゴシック様式でブルゴス大聖堂やランス大聖堂に似た工事を開始、1289年に基礎、1302年に大概、15世紀中頃に全部が完成した。

Leónの大聖堂の内部

2008年5月3日(土)24日目(León-Trobajo de Camino-La Virgen del Camino-Valverde de la Virgen-San Miguel del Camino-Villadangos del Páramo-San Martín del Camino-Puente de Órbigo-Hospital de Órbigo: Albergue parroquial Karl Leisner)

高熱が出て、体調を崩したので、我慢しながら、Santiago de Compostelaに向かい歩き続けた。San Martín del Caminoでお魚屋さんのトラックと出会い、お店の人とおしゃべりをして一休みした。Hospital de Órbigoに美しい橋を渡り、巡礼宿に着くとXavierが巡礼宿の主人にここに日本人の父子が来ると伝えてくれていて温かく迎えられた。また、頭痛がしていたが、Londonに長く住んでいるスペイン人Joséがアスピリンをくれたり、足風呂を作ってくれたり、ポルトガル人Joaquimとブラジル人Viniciusが美味しい料理を作ってくれて、巡礼仲間の温かさに触れられて良い思い出となった。

今日は枕がなかったので、フリースを着込んで寝たが、全然眠れなかった。巡礼宿は大きくて多くの巡礼者がおり、他の巡礼者のいびきやくしゃみも止まらず、寝心地が悪かった。今日は朝起きると高熱があったが、絶対に寒い内に出て歩けば、外気で冷やされて、熱が下がると考えて出発した。

午前7時半過ぎに巡礼宿を出て、小さな通り(Calle Herreros, Calle la Rúa)をひたすら直進して、地方庁舎(Diputación Provincial de León)がある邸宅(Palacio De Los Guzmanes)やガウディ博物館(Museo Gaudí)がある邸宅(Casa Botines)の前で右に曲がり、大通り(Calle Ancha)に入り、大聖堂の前で今日ここで巡礼を終わるフランス人の巡礼者とお別れをした。

大聖堂の周りを散策して、11世紀にロマネスク様式で建てられて、歴代のレオン王が埋葬されたバシリカ(Real Colegiata Basílica de San Isidoro)を通った。今から1000年前(11世紀)に作られた贖罪の門(Puerta del Perdón)のアーチに「我が父の許に昇らん(Ascendo ad Patrem meum)」と書かれており、Mochetaには可愛らしいライオンのような装飾があり、ロマネスクのユーモアを感じた。

大通り(Calle Ramón y Cajal)で大きな噴水のあるロータリー(Plaza de Santo Domingo)に戻り、1096年に建てられた教会(Iglesia de San Marcelo)を見て、最も太い立派な道(Gran Vía de San Marcos)を歩き、更に大きなロータリーがある広場(Plaza de la Inmaculada)を過ぎて、1152年に巡礼者の救護院として建てられた修道院(Convento de San Marcos)の前の広場(Plaza de San Marcos)を通り、イタリア人のご年配の巡礼者と一緒に道を確認しながら進んだ。

町は続いていて、川(Río Bernesga)に架かる橋(Puente de San Marcos)を渡り、鉄道駅前の大通り(Avenida Quevedo, Avenida Del Párroco Pablo Díez)を通り、Léonの街に別れを告げて出ると直ぐに違う町(Trobajo del Camino)があった(Trobajuelo, Trebalio, Trepalio, Troballoとも記録。10世紀にユダヤ人Jacob Trepalioが住んだ村Villa Trebalioに由来。古スペイン語 trobar < 民衆ラテン語*tropo < 古典ラテン語tropus < 古典ギリシア語τρόπος / trópos < 「曲がる」τρέπω / trépō < ヘレニック祖語*trəpʰō < 印欧祖語*terbʰ-é-ti < 「回る」*ter-bʰ- < *ter-kʷ- < *terh₁- + 接小辞-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源でヒッタイト語「鋤き返す」𒋼𒊑𒅁𒍣 / terep-tsi < アナトリア祖語*teripp-、サンスクリット「動転する」त्रपते / trápate < インド=イラン祖語*trápatay、ラテン語「捻転する」torqueo < イタリック祖語*torkʷeōと関連)。

幹線道路から離れた巡礼路(Camino de la Cruz, Calle las Vacas)を歩いてゆき、空港(Aeropuerto de León)の滑走路が見えてきて、また、幹線道路(Avenida Astorga / N-120)に並行する巡礼路を歩いてゆくと町(La Virgen del Camino)には1957年に建てられた斬新なデザインの教会(Basílica de la Virgen del Camino)があり、大きなインターチェンジ(N-120とA-66)の隙間を潜り抜けた。

次の町(Valverde de la Virgen)の1987年に建てられた教会(Iglesia de Santa Engracia)が見えてきた。その前にあるベンチで父が後ろから追い付いて歩いてくるのを待ちながら日記を書いていた。昨日と同じく教会の塔楼には鳥の巣ができていた。今日は日差しが強いためか、熱中症気味になり、頭がかち割れるほどの痛みに耐えながら、幹線道路(N-120)に沿った細い巡礼路を進んだ。

次の町(San Miguel del Camino)に二十年以上、巡礼者を熱心に励まし続ける有名人(Agapito Trigal Lópezさん)の家の前の大通り(Avenida Ruta Jacobea)に面したベンチに巡礼者用にビスケットやピーナッツなどが置かれており、自由に取っていって下さいと書かれていた。(「PEREGRINO esto es para ti. Te lo da AGAPITO, el amigo de los peregrinos. Buen Camino. A 200m tienes agua potable.」)しかも、自身の名刺が置かれ、助けが必要なときは連絡を下さいと書かれていた。通行証(credential)に特製のスタンプを押してもらえるが、留守にされていて頂けなかった。

今日はずっと国道(Carretera de León-Astorga / N-120)に沿い、直線の巡礼路で変化が少なく、真っ平らな土地を歩き続けた。Villadangos del Páramo(Villa de Eneco, Enneco, de Angos, Ancosと記録され、バスク人名Eneko <「私の」ene <「私」ni < *ni + 接小辞 -ko < *-koが語源、もしくはラテン人名Ancus <「角」angulus < 印欧祖語*h₂éng-ul-os < 「節」*h₂eng-, *h₂enk-が語源でサンスクリット「爪先」अङ्गुरि / aṅgúri < インド=イラン祖語*Hanguri-、ゲルマン祖語「足首」*ankulaz、古典ギリシア語「曲線」ἀγκύλος / ankúlos < ヘレニック祖語*ankúlos、古スラヴ語「角度」ѫгълъ / ǫgŭlŭ < バルト=スラヴ祖語*ángulasと関連、スペイン語「荒地」páramo < ラテン語paramusが語源)を過ぎてから橋を渡り、道路から少し離れて森の中を進んだ。木々で日影ができて歩きやすかった。

また、木陰の下のベンチでくつろいでいたポルトガル人Joaquimやブラジル人Vinicius, Fátimaたちと再会して、彼らが一緒にお話しようと熱烈に歓迎してくれたので少し木陰で一休みをして、ものすごく話が盛り上がった。それから直ぐに田舎道から幹線道路に出た。San Martín del Caminoで魚屋さん(Pescadería Dani)のトラックがあり、お店の人とおしゃべりして記念撮影した。

Hospital de Órbigoの町に小道(Calle el Paso Honroso)を歩いて着いたとき、太陽が照り付け、また、道路から反射して蒸し暑く、何も遮るものがない中を歩いてきたため、脱水症状ぎみだったので、1434年(聖ヤコブの年)に架けられた橋(Puente del paso honroso)で川(Rió Órbigo)を渡り、街に入って直ぐの所にある食料品店(Supermercado Carpy)で炭酸飲料を買って飲んだ。

Órbigoは一週間前に通過したOrbanejaと同じく、印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名であり、ラテン語の接小辞-icusが付加された形を語源として、ヒダティコス(Hydatius, c. 400-469)がAd fluvium nomine Urbicumと記録した。456年に西ゴート王テオドリック2世 (Theodoric II, c. 426-466)とスエビ王レキアリウス(Rechiarius, c.415-456)が荒れ地(Campus Paramus)で戦い(Batalla del río Órbigo)、900年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)とアストゥリアス王国(Asturorum Regnum)のアルフォンソ3世(Alfonso III de Asturias, 848-910)が戦った。中世に聖ヨハネ騎士団(Orden de San Juan de Jerusalén)が救護院(hospital)を建設した。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でOrbegaと記録された。

1434年にLeónの騎士スエロ・デ・キニョネス(Suero de Quiñones, 1409-1456)が、カスティーリャ王フアン2世(Juan II, 1405-1454)に300本の槍を折るか、一か月の間に誰もこの橋を通さないと誓い、もし馬上槍試合を受けないなら、臆病者として手袋を外して、川の中を歩いて渡らなければならないとした。実際に試合を申し込んできたスペイン、フランス、イタリア、ドイツ、ポルトガルの騎士たち、166人全員の槍を折って勝ち、誰も橋を通さなかったことから、アルフォンソ・エンリケス(Alfonso Enríquez, 1354-1429)の娘(Doña Leonor de Tovar, 1380-1437)の金のブレスレット(Si a vous ne playst avoyr mesura, certes ie di que ie suy sans ventura)をSantiago de Compostelaの大聖堂の聖ヤコブ像に奉納したことから、橋の名前「名誉の路(paso honroso)」が付けられた。

巡礼宿(Albergue parroquial Karl Leisner)は、18世紀に建てられた美しい塔がある教会(Iglesia de San Juan Bautista)の近くにある場所(Calle Álvarez Vega)に泊まることを初めから決めてあり、約束通りに入るとXavierがいた。もう、ホスピタレーロに日本人の2人の親子が、絶対ここに泊まるからと事前に伝えていてくれて、私たちが到着すると直ぐに熱烈に歓待してくれた。

Xavierは私たちが、Léonに着いたことも、また人伝手に聞き知っていて、ここでまた一緒に会えると思っていたと話していて、再会をお互いに喜んだ。そこには、中庭もあり、外庭もあり、とても居心地が良い場所だった。Xavierは、昨日はLeónの街外れにあるLa Virgen del Caminoの空軍の基地(Campo de aviación)の近くに泊まったので安心だったと言っていた。自転車で巡礼するスペイン人たちと同じ部屋になり、楽しい会話をした後、巡礼宿と同じ通りに面した食料品店(Supermercado Carpy)でウエハース(Oblea)や美味しいビスケット(galletas)などを買った。

同じ部屋のLondonに住んでいるスペイン人Joséに熱がありそうだと伝えると、アスピリンをくれて、飲むと良くなるよと声をかけてくれて、彼の優しさや気づかいは巡礼者らしかった。来年は日本を旅をしたいと話していた。Joséは足風呂を作ってくれた。彼は友達の双子の兄弟と彼の甥とその彼女たちと自転車で巡礼していた。塩に酢をたっぷり入れて、水を加えて、足を入れた。冷たいと悴んでいると、彼は優しく台所でお湯を沸かして入れて温めてくれた。20分ほど、皆でチェコ人Liaやアイルランド人Rosaryと会話を楽しみながら、気持ちの良い足風呂に使っていた。Joseが、それは中世の昔から巡礼者が足をいたわるためによくしていたun antiguo remedio(古い治療法)だよと笑っていた。

フライパンでピザを焼こうとすると、ポルトガルとブラジルの友人JoaquimとFatimaとViniciusが食事を作ってくれて招かれて一緒に食べた。米とトマト煮の鳥、月桂樹まで入れていて、味も本格的で即席で作ったとは思えないほど美味しかった。(Viniciusはサンパウロでコックさんをしていることを聞いた。彼ら三人は食事係、洗濯係などの役割分担をして、チームとして機能していた。)

また、ピザを焼いて、一緒に食べた。食後Joaquimと沢山の話をして楽しんだ。彼は新聞記者で、今は新聞記事の投稿のために忙しいが、これはSantiago de Compostelaへの巡礼に関する本を書いている過程なんだと話していた。それに、彼は50カ国も毎年異なる国を訪れて、今度はチベットやネパールを訪れると話していた。彼は他の国にとても関心があり、その記事があると切り抜き、仕分けして情報を蓄えていると言っていた。日本にも強い興味があり、四国の巡礼の話をすると、それは是非やってみたい。近いうちにあなたの国を訪れることになるだろうと笑って話していた。(実際に彼は2012年に四国のお遍路さんをしに訪れた。)彼の話が面白いのは様々な経験をしているからだと思った。

それから、外に出て、XavierとLiaと話しながら日記を書いていると、スペイン人Joséたちが集ってきて、話が盛り上がった。Joséが英語を良く話すことができるのは、ロンドンに25年間住んでいるからだと話していた。スペイン人は話好きで午後10時を過ぎても続けていたが、少し眠くなって来たのでお暇をして、先に床についた。寝る直前にXavierとLiaが煎茶を出してくれて、思いがけず、久しぶりに日本の味に触れた。彼らは不思議なものを持っていて驚かされた。Joséたちの配慮のおかげで、とても快適なベットで、今日はとてもよく眠ることができた。彼等ともし巡礼者がお金を持っていなかったら、無料で止めて盛られると冗談を言っていて、それが巡礼者の精神だと笑って言っていた。

Leónの大聖堂の正面

2008年5月4日(日)25日目(Hospital de Órbigo-Villares de Órbigo-Santibáñez de Valdeiglesias-San Justo de la Vega-Astorga-Valdeviejas-Murias de Rechivaldo-Santa Catalina de Somoza-El Ganso-Rabanal del Camino: Albergue Municipal)

Rabanal del Caminoで山中のアルベルゲの主人が巡礼で留守にしていて、近くで牧場を営むスウェーデン人の親子が、温かい人たちで真に巡礼らしい時間を過ごした。更に都市での生活に疑問を抱き、自然に生きたいというドイツ人と対話をして、素敵な人たちに会うことができた。

今日は快く眠れたので、朝も良く起きれた。Joséたちの素晴らしい配慮により、午前7時まで静かにしてくれていた。皆で記念撮影をして、自転車で巡礼しているJoséたちをXavierと見送った。下痢ぎみだと伝えると、また様々な対処法を教えてくれた。下痢の時は余り食べず、水分を適度に飲んでいると良くなるよと教えてくれた。JoaquimとFatimaとViniciusたちを見送ってから、お腹が痛いので少しずつ歩き始めた。今日はAstorgaまで畑の中や用水路沿いをずっと進み、途中2、3の小さな村を過ぎた。

次の村(Villares de Órbigo)の広場(Calle el Arnal)で一休みした。また、登山道に近くなり、小さな村(Santibáñez de Valdeiglesias)の入り口で牛が草を食んでいるところに遭遇した(スペイン語「聖ヨハネ」Santibáñez < ラテン語Sanctus Johanes +「谷」valle + 前置詞 de +「教会」iglesia < ラテン語ecclesia < ギリシア語「会合」ἐκκλησία / ekklēsíā < 「外に」ἐκ / ek + 「呼ぶ」καλέω / kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyō < *kl̥h₁-éh₁yeti < *kelh₁-が語源)。それから、起伏が激しく、聖トリビオ(Toribio de Astorga, 402-476)が、履物の砂を払った言い伝えがある丘(Monte de la Colomba)を登り、頂(Majada de Ventura)を越えて尾根を下る所に大きな十字架(Crucero de Santo Toribio)があった。

丘を下がると平野が目の前に拓けてきて、町(San Justo de la Vega)が見えた。見晴らしがとてもよく、視界の中に町が収まり、美しい景色だった(5世紀に聖ユストゥス(Sanctus Justus)が住み、スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -ki < *-kiが語源)。町の中には彼に捧げられた16世紀に建てられた教会(Iglesia San Justo y Pastor)があった。町を出ると川(Río Tuerto)を渡り、そこからは平原に通る一本の道路に沿いながら歩いた。

Astorgaの直前には鉄道の線路と交わる踏切があり、町が丘の上に築かれているため、門(Puerta del Sol)をくぐると、特に起伏が激しくきつい坂道を上がり、町に入っていった。(878年にOsturga、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でurbs Osturgaと記録され、ラテン語Asturica, Astiria, Astirica, Asturiaはケルト人アストゥレス族(Astures < 古典ギリシア語Αστυρες / Astures)と同じくラテン語「神」Astarte < 古典ギリシア語Ἀστάρτη / Astártē < フェニキア語 𐤏𐤔𐤕𐤓𐤕 / ʿAštart < アッカド語 𒀭𒈹 / dIštar < セム祖語*ʕaṯtar-など神名が語源と考えられているが、ケルト=イベリア語「広い」*astura < ケルト祖語*sturas < 印欧祖語 *sth₂-ró-s < *steh₂-が語源で古高地ドイツ語stūri < ゲルマン祖語*stōrazやサンスクリットस्थूर / sthūra < インド=イラン祖語*stHrásと関連する後者の説が確からしい。Las Médulasの金鉱山があり、ローマ時代から開けていた。)

街の中は賑わっていた。先ず、17世紀に建てられた教会(Iglesia Perpetuo Socorro)が併設された13世紀に建てられた教会(Iglesia de San Francisco)や11世紀に建てられた教会(Iglesia de San Bartolomé)を見た。町の建物は少し赤みがかった石が積み上げられて作られており独特だった。

中央広場(Plaza Mayor)の市庁舎(Ayuntamiento de Astorga) の前でXavierと会った。彼はチョコレートドリンクを飲んでいる最中でホッとしていた。隣の広場(Plaza Santocildes)で町の防衛者の記念碑(Monumento a los defensores de la ciudad)を見てから、ガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)が設計した司教館(Palacio Episcopal de Astorga)の庭を訪れて、展望台から遠くを望んだ。

城壁(Muralla)を散策して会った巡礼者たちに招かれて、1471年に建てられた大聖堂(Catedral de Santa María)の前の巡礼宿(Albergue San Javier)で一休みした。そこでLiaとXavierと落ち合い一緒になり、緊密に連絡を取り合いながら、幹線道路(Carretera Santa Colomba / LE-142)を進んだ。

Valdeviejas(「谷」valle + 前置詞 de +「妻」vieja < ラテン語vetula <「古い」vetus +‎ -ulus < イタリック祖語*wetos < 印欧祖語「年」*wétosが語源)の15世紀に建てられた小さな聖堂(Ermita del Ecce Homo)の前で一休みをした。門の前には屋根が付き、日陰になっていて、ベンチが用意されていて、巡礼者が腰を下ろして、一休みできるようにされていた。

LiaとXavierと一緒に水を飲みながらおしゃべりをして休憩をした。そこから、また幹線道路(Carretera Santa Colomba / LE-142)に沿う巡礼路(Camino del Corral)を歩いていった。

次の村(Murias de Rechivaldo)で三日前の巡礼宿(Bercianos del Real Camino)で一緒だった歌が上手なバスク人やLiaとばったりと会った(ラテン語「塩水」muriaと人名Rechivaldo < ラテン語*Recibaldus < ゲルマン祖語「王」*rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵs +「輝く」*berhtaz < ケルト祖語*berxtos < 印欧祖語*bʰer(H)ǵ-tós < *bʰerHǵ-が語源)。

私たちがLeónで町の中を散策したり休みながら歩いていた間、彼らは先に進んでいたが、今日は沢山の道程を進んだため、また彼らに追いついた。彼らは私たちよりも2つ手前で泊まっていた。巡礼はお互いに進んだり進まなかったりして、会ったり分かれたりしながら、また、前に一緒に歩いていた人と思いがけないところで会うことができて、一期一会が奥深くて面白いものだと思った。

それから長い山道を進んだ。Santa Catalina de Somoza(ガリシア語Somoza < ラテン語「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó +「山」montia < mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men-が語源)で休憩をしてから、幹線道路(Calle Sol / LE-6304)に沿い荒涼とした大地を歩いていった。

El Ganso(スペイン語「雁」ganso < ゴート語gans < ゲルマン祖語 *gans < 印欧祖語 *ǵʰh₂énsが語源)の15世紀に建てられた立派な村の教会(Iglesia de Santiago)には、巡礼者姿のイエス像があり、鐘が二つ釣り下がる楼には鳥の巣があった。ローマ時代に遡る古い橋(Puente del Pañote)を渡った。幹線道路(LE-6304)に沿い荒涼とした大地を見ながらとにかく進んだ。

Rabanal del Caminoの近くの休憩所(Roble del Peregrino)でXavierが大きな木の上に登って休んでいるのが見えた。彼はその木はCarballo de Fonso Pedredoという名前でとても生命力があると教えてくれた。樹齢は数百年で大変なものだった。Xavierが見せてくれたAstorgaのスタンプはこの木の葉っぱが入っていてきれいだった。少し行くと18世紀に建てられた小さな聖堂(Ermita del Bendito Cristo de la Vera Cruz)があり、村が見えてきた。木の下で休んでいる間に父が抜いて先に行ってしまったようで、街の中で戸惑っていたが、Xavierが村の中で父に私と会ったことを説明してくれて理解していた。

村の入り口で7回鐘が鳴ったので、午後7時にRabanal del Camino(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「(Rabanal de Viejoと区別して)小とされるRabanal del Camino(Raphanellus qui Captivus cognominatus est)」と記録され、スペイン語「大根畑」rabanal <「大根」rábano < ラテン語 raphanus < ギリシア語ῥάφανος / rháphanos < 「蕪」ῥάφη / rháphē < ヘレニック祖語*rhápʰā < 印欧祖語*(s)rábʰ-eh₂ < *(s)rā́psが語源)に着いたことが分かった。

テンプル騎士団が駐在して巡礼路を守り、12世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)が残されていた。

スペインの村や町は必ず人が住んでいる範囲に教会の鐘が聞こえた。村や町に入る場所には必ず十字架があることと同じよう、中世の昔からずっとそのようなシステムで暮らしてきたようだった。

Xavierとは村に入ったところで、明日にPonferradaで会うことを約束して別れた。彼らは夜通し歩いて、峠を越えて下ったどこかで野宿をすると話していた。旅費の節約のため、巡礼宿にできるだけ泊まらないつもりだけれども、夜に山で寝るのが寒いからだという。一週間前には雪が降ったこと、また、 夜は寒くなるから歩き続けた方が体に良いと話していた。

殆ど脱水状態で疲れていたが、50メートルもしないうちに小さな食料品店(Tienda La Despensa)があり救われた。飲み物を買って飲んだ。少し食料品店で話していると、初めからいたアイスクリームを食べていた人が、巡礼宿(Albergue)の管理人(hospitaleira)をしていて、車で帰る途中で巡礼宿を案内してくれると言ってくれた。スぺゲッティのためのトマトソースとレモン味のヨーグルトを求めて出ようとすると、近くの巡礼宿のホスピタレーロが親子で歩いてやって来た。

私たちの所に止まりますかと優しく声をかけてくれた。スウェーデン人の管理人(hospitaleira)は、抜け道の狭い近道を教えてくれて過ぎると巡礼宿(Albergue)が二軒あった。どちらにするか迷っていると、今日朝出る前に見送ったポルトガル人とブラジル人たちと一緒になった。彼らはAstorgaのスタンプはとてもきれいだと教えてくれて、観光案内所に貰いに行ったが、少し前に閉じられていて、もらえなくて残念だったと話していた。朝からハイテンションで少し遠くにいても、話し声や歌が聞こえてきて、遠くからでも、彼らがどこにいるのか、直ぐに分かるほど、いつも元気に話していた。

この巡礼宿(Albergue)の本当の管理人(hospitaleiro)も、現在、巡礼をしていて、留守にしていて、友達として彼の留守を預かるように頼まれましたと話していた。管理人はもし午後8時頃に来てから、会えなかったかもしれないと言っていた。先程の母親と娘さんもいらして、私たちのはこちらですと教えてくれた。中を見てお気に召さないようでしたら、もう一つの方に行って下さって構いませんと、全く商売っ気がなく、また小綺麗な場所であり、何かの縁を感じて、 直ぐにそこに決めた。

巡礼宿(Albergue)の2階でパスタを茹でて、トマトソースを作って、お湯を沸かしスープを作って食べた。この広いAlbergueには、スペイン人カップル2人と私たち合わせて4人しかおらず、とても快適にクッキングできた。そして、食べ始める頃に、巡礼宿の外の庭で盛り上がっているのを見てみると、管理人の家族を含めて、7、8人が集まっていた。食事が終ると、彼らはビールを飲んだり、サッカーボールで楽しんでいた。宴もお開きになりかけた頃、外に出ると、管理人と2、3人がいた。

皆スペイン語で話していて、管理人の小学生の娘さんがノートを持ってきて、記帳して下さいとスペイン語で話しかけてきたので、スペイン語と英語で書いて、外に持っていくと喜んでくれて、皆で読んで楽しんでくれた。管理人はとても美しい英語を話したのが丁寧で優しさが滲み出た人だった。彼女たちは乗馬を楽しんでもらうため、馬を育てる牧場を村の近くで営んでいる人だった。

皆はスペイン語で話していて、管理人以外は英語が通じないと思っていたら、一番スペイン人らしい伝統的な服を着ている人が、一番英語をネイティブと同じほどに流暢に話すので驚いた。彼は犬を連れていて、とても賢そうに見えた。それはペットではなく、羊をまとめるための犬だった。彼の父がイギリス人で母がスウェーデン人だったため、スウェーデンで生まれたと話し出した。

彼は馬や羊や犬など動物と共に暮らしていて、文明から離れた生活をしている人だった。彼は巡礼を2度もSaint-Jean-Pied-de-Portからしたことがあり、最近は巡礼がよくレジャーのようにされることが悲しいと話していた。少しの興味で面白そうだから歩いてみようかと話の種にするために来ている人が多いため、マナーがない人も多くて困っていると話していた。そのような真面目な話を聞いて、何で巡礼するのかと聞かれて、自分と周りの人、更には人類の贖罪のためだと(それを聞いていたので大げさな)冗談で答えると、そのような人は初めて会ったねと大笑いしていた。私もレジャーのために巡礼はしているわけではないから、巡礼宿もここのように公営(municipal)で来ていて、ホテルのような何でも完備された宿に泊まれば、快適かもしれないが、巡礼までしに来て、人と接して関わり合うこともなく、ありがたみが感じられないと話したら、まさにその通りだと頷いて聞いてくれた。

彼と外で話していたが、日没が近くなり、冷えてきたので、二階に上がり話しを続けた。彼は身の上話を私にして、本当は商社マンだったから、国際経済の事にもよく通じていて、文明生活をしていたが、ある時、そうした生活に疑問を感じて、動物や作物を育て山で暮らすようになったそうだ。

巡礼者が工業製品のような野菜ばかり買い、山のプロが作った完全に有機農法の作物を買わないことに疑問を抱いていた。彼自身も巡礼は我々の日常の生活を見直すことの良いきっかけになると考えていると話していた。彼にはドイツ人の妻がいて、10歳の子供もいるが、彼のような自由奔放だが、きつい暮らしについて行けず、ドイツに娘を連れて帰ってしまったそうだ。

彼は教育を受けた人に見えたが、学校が嫌いで社会的な生活が必ずしも人間を幸せにするとは限らないと切実に感じていると話していた。娘が学校に行きたくないなら、それはそれで良いね。人間が生きてゆくことを学校では教えていないから、別に行かなくても、大きな問題ではない。自分が屠殺の仕方から、作物の育て方、夜道に迷った時の対処法など、厳しい山の生活方法を教えるから生きていけると言ったが、奥さんはお金や安全性にこだわり、意見が別れてしまったと話していた。

彼は巡礼路(camino)と同じで違った人生の道(camino)を行く時があれば、また一緒になる時もあるから、それは仕方がないことであり、それで構わないと話していて、とても自由な発想や精神の持ち主だった。先日にXavierが話していたことを思い出させた。全く同じことを聞いた。

彼の気質は明らかにゲルマン人らしく几帳面だった。名前もゲルマン系Erikだった(古ノルド語Eiríkr < ゴート語*aiwareiks < ゲルマン祖語「永遠」*aiwaz < 印欧祖語*h₂óyu ~ *h₂yéws < 「永遠」*h₂ey-、もしくは「唯一」*ainaz < 印欧祖語*óynos +「王」rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵs が語源)。彼は自ら見たもの、触れたものを大切にして生きていくことが大事だと話していた。話し方も理論や概念などの借り物ではなく、体験や事実に基づいたことが語られて説得力があった。

彼は、自由な発想の人が少なく、私に対して、自由にものを考える人だと感じられて、話を理解をしてもらえたと、とても喜んでいた。私も一般社会の固定観念に縛られず、事実を直視して、自由に物事を考えて、柔軟に生きていく必要があるという、自分と考えが近い人に会えてとても嬉しかったと伝えると、更に喜んでいた。今の世の中ではそうした生き方をする人は少ないと話していた。

彼は巡礼者に限らず、キリストが福音書に示したような生活を営んでいる人が少なくて、悲しいことだと言い、全ての宗教は一つの口から出ており、細かな解釈の違いだけだと考えていて、山に登るにも、色んな道があってよいが、最後には同じ頂にたどり着くものだと話していた。その点も(全ての文化や社会は、それぞれの歴史や経緯の上で、それぞれの解釈や方法が生まれてきただけであり、人類の基本としての発想はそれほど大きな相違があるわけではないとする)私と似た発想だった。

午後11時近くまで話し込んでいて、外に出ると星がきれいだった。そのとき、彼が夜に道に迷って外で寝ることになってしまったとき、星空はとてもきれいで電気がないから、ライターを何度も点火して、獣道を見つけて、野生の豚に会い、彼は馬に乗っていたため、馬と豚の間にある信頼関係により、人がいたとしても、動物たちは安心して、野生のキツネが飛びながら走り、イルカのようだった。獣道を見るとどれ程の獣が通ったかも分かるように慣れてきたと体験を話してくれた。彼は本当に商社マンだったと分からない程、自然に深く根を下ろし、悠々自適な生活をしていた。

彼は、また、タイや韓国、ヨーロッパ各国、アメリカなど、ビジネスマンの頃に出張で訪れたときの体験談も話してくれた。英語、フランス語、スペイン語、ドイツ語、スウェーデン語に通じていて、スペイン語で皆と話して、猟犬を調教していた。彼の犬はとても大人しく従順できれいだった。犬も馬も若いうちは雌を見つけると、一目散に行ってしまい大変だねと笑っていた。

しかし、動物によって調教の仕方に違いがあると話していた。そして、ラテン語を学んだことを知り、自分の枕にラテン語で何か書いてあるから、明日、巡礼路に面した自分の家に少し立ち寄って行って欲しい。彼は近所の女性たちに混ざって、近くの水汲み場で洗濯をしているから声をかけて欲しいと言い残して、馬に乗って犬を連れて、闇の中に入ってゆき、家に帰って行った。彼と別れてすぐに床につき、二人しかおらず、いびきにも悩まされることなく、静かにすぐに眠りにつけたが、腹痛が始まり、何度か起きた。でも、静かな村で夜を過ごすことができて満足した。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂所蔵《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》(1173年)

第5章〈素晴らしいヤコブの道を修復した人たちの名前について(De nominibus quorumdam qui beati Jacobi viam refecerunt)〉(Aimericus Picaudus > Aymeric Picaud de Parthenay-le-Vieux, Poitou, France)

Haec sunt nomina quorumdam viatorum, qui temporibus Didaci archiepiscopi Jacobitae, et Adefonsi imperatoris Hispaniae et Gallasciae, et Calixti papae, viam sancti Jacobi a Raphanello usque ad pontem Mineae, pio amore Dei et Apostoli, citra annum Dominicum mcxx, regnante Adefonso rege Aragoni et Ludovico pinguissimo rege Galliarum, refecerunt: Andreas, Rotgerius, Alvitus, Fortus, Arnaldus, Stephanus, Petrus qui pontem Mineae, a regina Urraca confractum, refecit. Istorum adiutorumque animee requiescant in pace.

これらの名前が、サンティアゴ大司教(Didacus Gelmirici > Diego Gelmírez, 1069-1140)、スペインとガリシアの皇帝Alfonso(VI, 1040-1109)、教皇Callixtus(II, 1068-1124)の時代に神と使徒への敬愛により、Rabanal del CaminoからPortomarínまでの聖ヤコブの道を修復した監督者たちである。それは西暦1120年以前、アラゴン王Alfonso(I, 1074-1134「武人王(el Batallador)」)、フランス王Louis(VI, 1081-1137)「肥満王(le Gros)」の時代であった。Andreas、Rogerius、Alvitus、Fortus、Arnaldus、Stephanus、またPetrusが、女王Urraca(I de León, 1081-1126)が破壊したMiño川にかかる橋を再建した。これらの人たちと人夫たちの魂が永遠の平和において休まれますよう。

Rabanal del Caminoの教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Asunción)

2008年5月5日(月)26日目(Rabanal del Camino-Foncebadón-Manjarín-El Acebo de San Miguel-Riego de Ambrós-Molinaseca-Campo-Ponferrada: Albergue parroquial San Nicolás de Flüe "El Carmen")

山を上り下りするとき、 ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色や白色、ハンニチバナ(Cistus ladanifer)の珍しい色彩のきれいな花が咲き乱れていた。El Acebo de San Miguelの黒い屋根が美しい村全体が上から箱庭のようにきれいに見えて良い眺めだった。Ponferradaで標高の高い所にある寄付で運営されている大きな巡礼宿に宿泊したが、皆のマナーが悪く、いびきもすごくて、まるで動物園で寝ているようだった。

今日は腹痛により、午前7時に起き、トイレに直行して下痢をして、半時間ほどして出て来ると、管理人(hospitarela)のTinaさんは、もう既に宿に来ていて、庭を掃除していた。とても働き者で驚いた。朝食をヨーグルトとスープで簡単に済ませて、トイレに入り、午前9時の少し前に支度を整えて出ようとすると、子供が小学校に行く前の様子だった。巡礼宿の前で管理人で朝の記念撮影をして、お別れをして出発するとき、スクールバスが子供を迎えに来て、お見送りをしてから出発した。

午前9時ちょうどに村を出て、今日はずっと上りで進んだ。Erikさんを村のあちらこちらを歩いて探したが、見つからなかったので、管理人のTinaさんに昨日の御礼と伝言をお願いして、先の村に歩いて行った。今日は一日中、昨日と同じく突発性の腹痛に悩まされたが、足はコンディションが良く、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色やハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色や白色の花が咲き乱れた割と起伏がある巡礼路を快適に歩けて、Foncebadónまで直ぐに着いた(ラテン語Fons Sabbatonis <「泉」fons +「安息日」sabbatum < ギリシア語σάββατον < ヘブライ語שַׁבָּת‎ shabát)。

巡礼宿(Albergue de peregrinos Monte Irago)で紅茶とレモン味のトニックを飲んだ。そこのシリアルはとても美味しかった。村の入口と出口には木製で簡素に作られた十字架があった。それから、山道を上がると峠(Puerta Irago)に大きな十字架(Cruz de Ferro)が、大量の石が集積した上に建っていた。それらは、皆が故郷から持ってきた石で、一人一人の巡礼者の願いが込められ、メッセージが書かれたり、自転車の歯車まで置かれていた。ローマ時代には旅人や商人の神(Mercurius)を祀る祠があり、神聖な場所とされていて、今では小さな聖堂(Ermita de Santiago)が建てられていた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でportus montis Iraciと記録された。

小さい村Manjarín(スペイン語「山」monte < ラテン語mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men- + 「兄弟」hermano < ラテン語germanus < 「子孫」germen < イタリック祖語*genmen < 印欧祖語*ǵénh₁-mn̥ < 「産む」*ǵenh₁-が語源)の入り口の建物の前の道端で黒い犬が寝そべっていた。段々と植物が少なくなり、地衣類が増えてきて、今までの平地から登山をしているような感覚になってきた。また、建物の屋根が赤い煉瓦から黒光りになってきた。

高地で空気がきれいだった。牛が放牧されていて、牧草を食んでいる風景を眺めながら、また、遠くに雪をかぶる山脈の連なり(Montes de León)を望みながら、巡礼路をひたすら歩いた。間もなく頂上(Punto Alto)に到達した。そこから、今日の目的地である大きな町Ponferradaが遠くに微かに見えた。直行では近そうだが、山道なのでかなりの距離がありそうだった。

ここから急な下りになり、次の黒い屋根が美しい村El Acebo de San Miguelの全体が上から箱庭のようにきれいに見えて良い眺めだった(スペイン語「ヒイラギ(Ilex aquifolium)」acebo < 古スペイン語azevo < 民衆ラテン語*acifulum < 古典ラテン語aquifolium <「針」acus < イタリック祖語*akus < 印欧祖語*h₂eḱus < 「尖った」*h₂eḱ- +「葉」folium < イタリック祖語*foliom < 印欧祖語*bʰolh₃-yom < 「蕾」*bʰleh₃-が語源)。村の巡礼宿(Meson El Acebo)の前に置かれていたベンチで一息をつくことにして、スペイン人の巡礼者とおしゃべりを楽しんで一服した。

山の中は霞がかっていたが、下り始めると晴れてきて、山の向こう側はとても晴れていた。Riego de Ambrósの街中はバルコニーが道に張り出したクリーム色のきれいな家が多かった(スペイン語「灌漑」riego < ラテン語riguus < rigo +‎ -uus < イタリック祖語 < 印欧祖語 *Hreyǵ-e-ti < 「真っ直ぐにする」*Hreyǵ-、スペイン語「ブタクサ(Ambrosia artemisiifolia)」ambrosías < ラテン語ambrosia < ギリシア語「不滅」ἀμβρόσιος / ambrósios < 「不死」ἄμβροτος / ámbrotos < ヘレニック祖語*ə́mrətos < 印欧祖語*n̥mr̥tós < 否定辞*n̥- +‎ 「死ぬ」*mr̥tósが語源)。

それから、黄色、白色、紫色の花が咲き乱れた巡礼路を歩いてゆくことができ、色とりどりでとても美しかった。また、牧場の脇で牧犬が寝ていたり、牧草を羊が食んでいるのを見ながら歩いた。岩石が露出していて、上りの道では石英がなかったが、下りは片理が発達した片麻岩だった。

父が珍しい五枚の花弁を持ち、真ん中が黄色で間に臙脂色の斑模様がある白い花を見つけた。道端にこんなにきれいな花が咲いているよと呼ばれて見てみると、珍しい色彩のハンニチバナ(Cistus ladanifer)の花がかわいらしく咲いていた。山道にはきれいなお花が咲き乱れていた。父がきれいな花が咲いている中を歩けて嬉しい。この辺りがとても気に入ったと話していた。

山を下るとMolinasecaの街が見えてきた。美しい街でPonferradaの人々の避暑地のようだった。美しい街は昔の面影を残していて、教会(町外れにある11世紀に建てられたErmita de Nuestra Señora de las Angustiasと町中にある17世紀に建てられたIglesia de San Nicolás de Bari)の二つの尖塔が川を挟んで見えてきて、美しい中世の橋がかかり、三圃式の畑が広がり、コントラストが実に美しかった。父がこの橋はきれいだから、渡っているところを遠くから写真を撮ってあげるよと言ってくれた。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSicca Molinaと記録され、ラテン語「乾いた」siccus < イタリック祖語*siskos < 印欧祖語*h₂sys-kós < *h₂sews-が語源でサンスクリットशुष्क / śúṣkaやアヴェスタ語huška < インド=イラン祖語*Hsúškas、古典ギリシア語ἰσχνός / iskhnós < ヘレニック祖語*sisksnós、古アイルランド語sesc < ケルト祖語*siskʷos、古英語sēarや古ノルド語sayra < ゲルマン祖語*sauzaz、古スラヴ語ⱄⱆⱈⱏ / suxŭやリトアニア語saũsas < バルト=スラヴ祖語*saušásと関連 + ラテン語「風車」molinus < 「挽く」molo < イタリック祖語*melō < 印欧祖語*melh₂-e-ti < *melh₂-が語源でサンスクリットमृणाति / mṛṇā́ti < インド=イラン祖語*mr̥náHti、古典ギリシア語μύλη / múlē < ヘレニック祖語*mólā、古アイルランド語meilid < ケルト祖語*meleti、古スラヴ語ⰿⰾⱑⱅⰻ / mlětiやリトアニア語málti < バルト=スラヴ祖語*mélˀteiと関連)

今でも中世の佇まいを残していた。特に町の中の家の建物や通りの様子も素晴らしく気に入り、泊まりたいと思ったが、まだ、午後4時であるため、また、足早に通過して、今日の目的地の町Ponferradaへと向かった。車道(Traversa Manuel Fraga)に舗装された歩道が続いていたために歩きやすくて、先へどんどん進めた。途中(Urbanización Patricia)で二つの道に分かれるが、新しい方の近道を取り、Campoには寄らず、また川(Río Boeza)に架けられた立派な橋(Puente Mascarón)は通らず、幹線道路(Carretera Molinaseca / LE-142)に沿う巡礼路を歩いてゆき、Ponferradaの街に入っていった。昨日見たような綿が木から落ちて来て、町中を漂っていて不思議だった。

(Ponferradaは、紀元前29-19年のカンタブリクムとアストゥリクムの戦い(Bellum Cantabricum et Asturicum)に勝利した古代ローマ初代皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus Augustus, 63-14 a.C.n.)が占領してローマ人が居住した。1082年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)とアストルガ司教(Osmundo de Astorga)がSil川に架けた「鉄の橋(pons ferrata)」が語源で1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPonsferratusと記録され、第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Oza渓谷のPonferradaを流れるSil川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Sil, quae ad Pontem ferratum in Valleviridi)」と書かれている。1180年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)がテンプル騎士団に寄進した。)

街の人に教えてもらい通り(Calle Doña Beatriz)に大きなSupermercado Mercadonaを見つけた。新しい道路は新市街を貫き、山並みの高台に高級住宅地が広がっていた。今日の最高度は1500メートルで泊まった町は1200メートルまで下った。町に入る手前で腹痛に再び襲われ、やっと原因が分かった。お腹に付けたポーチが圧迫して、当たりが悪かったようで外したら一時間後に解決した。

Supermercadoの店員さんは優しくて、カートを助けてくれたり、スペイン語で必要なものを伝えると広い店内でそれぞれの場所まで案内をしてくれて、一緒に探してくれた。そして、フランスパン(Barra de pan)、シリアル(Muesli con frutas)、苺入りのヨーグルト(Yogur de Fresa)、サーモンのマリネ(Salmón Marinade)、チーズ入りベーコン(Salchichas empanizadas rellenas de queso)、イチゴ(Freson)、青林檎(Manzana Granny Smith)、マカデミアナッツ(Avellana tostada)、スープの素(Sopa de verduras, Crema de champiñones)、ヨーグルト飲料(Yogur líquido bífidus cereales)、オレンジジュース(Zumo de mandarina)、ファンタオレンジ(Bebida isotónica de naranja)、コーラ(Cola Light)を買った。ファンタの林檎味(Manzana con gas)と緑茶味(Té con gas)があり、飲むと意外に美味しかった。また、腹痛に襲われて困り、店員さんに助けを求めると、直ぐにトイレに案内してくれた。調子が良くなり安心して店を出た。

町の中を少し歩いて、1681年に建てられた小さな教会(Capilla de Nuestra Señora del Carmen)に隣接した公営の巡礼宿を見つけた。この巡礼宿も寄付のみで運営されていて、雰囲気はとてもきれいだったが、受付を済ませ、部屋に案内してくれた管理人は、白昼から酒に酔っていて、重い荷物を持って疲れた巡礼者にお構いなしに、山を登るとここまで800mも下ってきて・・・と長話を始めたのでかなり辛かったけれども、親切そうな人で憎めない人だったので、まあ良いかとお話にお付き合いをした。シャワーを5日ぶりに浴びると少しは調子が良くなり、また町に出て、Supermercadoに行った。

今までも、田舎をずっと歩いてきて、都市につくとほっとして、先ほどと同じSupermercado Mercadonaでいつも大量に食料を買い物していた。Supermercadoが好きな理由は沢山の小品にスペイン語やフランス語で書いてあって読むことができるからである。粉スープ(Crema de champiñones, Crema de marisco, Sopa de cocido)を買い足して、ドリトス(Triángulos de maíz sabor Tex Mex Doritos)、サラダ(Ensalada romana)、コーラ(Cola Light)を買った。レジに進むと、大きいテディベアーを持った小さい子がいて、そのテディベアーはとても可愛かった。

巡礼宿に戻り日記を書いていると、先に下のベットを取っていたから、上に移って欲しいと言う人がいて、上のベットに仕方なく移った。それから、食堂で夕食をスープとサラダのみで済ませた。 皆、日によって食事をする時間が違うので、台所はいつも込み合っていた。

スペイン人は遅くて、イギリス人やフランス人は、日本人と同じ位の時間に食べることが多かった。この巡礼宿は100人以上収容でき、ほぼ一杯になっていたが、大きな所はなかなか細やかな人が少なく、心が温まる交流ができるチャンスがなく失望した。小さな20人程の巡礼宿がちょうど良いとつくづく思った。おまけに、今日の宿はマナーが悪い人が多く、食器を出しっぱなしだったり、隣にいたスペイン系アメリカ人たちも雑でひどかった。英語を聞くと、出身や階層がよく分かるが、彼らの英語は上品でなかった。しかし、良いこともあり、ドイツ人がスープの素をくれてとても助かった。

また、皆巡礼者はフレンドリーですごいことは、相手の国の言葉を直ぐに覚えようとたずね合うことである。フランス人は人の気持ちを尊重する人が多くてよく共に過ごした。アメリカ人の巡礼者が少ないのは、物質社会で巡礼などに熱い人が少ないからだと思われた。少数ながらアメリカ人とも合うことがあり、巡礼に来た人は皆、例外かもしれないと思った。 ヨーロッパやアメリカ人は後ろに人がいても、日本人のようには全く気がつかないことが多く、それは日本のように人の気配などをあまり感じにくいからと思った。とても気さくな韓国人の家族に会い、とても盛り上がって優しい人たちだった。今までかなりの距離を歩いてきて、日本人はもちろん中国人や韓国人など、アジア人と会うことがなく久しぶりだった。まだ、欧米で認知されて始めたばかりでアジアの国々では、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼があることすら、あまり知る人が少ないかもしれないと思った。

そして、食事が終わる頃、午後10時になり、布団の中で日記を書くと、隣のベッドにいたベルリンに住んでいるノルウェー人と沢山話した。そして消灯の時間になっても、すごすごとポケットライトを付け入ってくる人がいたり、携帯電話の光が明るくマナーが悪く、おまけにいびきの大合唱が、今までで一番ひどく、動物園で寝ているようだった。突発的に腹痛がひどくなり、20分ごとにトイレに行き、眠れなかった。トイレも隣の臭いが酷いと思ったら流さずに出ていかれていて、誰も手を洗わずにへ出ていたり、日本では考えられないほど、ヨーロッパの衛生状態はひどかった。

昨日はずっと登りと下りを繰り返したため、足に二つ小さな肉刺ができた。Xavierが4日前に登山靴など重装備な人より、街を歩くような軽い人の方が、肉刺や足の問題も起こらずに上手くいくと教えてくれたことを思い出した。昨日にXavierとPonfferadaでまた会おうと約束をしていて探したが見つけられず、別の宿か近くで野宿をしているかもしれず、また、この先でいずれの機会に会えると思った。

今日は巡礼を始めた頃にピレーネ越えをした時と同じくらい山道が多くて、幸いに晴れていたが、激しい道を歩いてきた。イラゴ峠(Puerta Irago)を越えてから、気候や建物の作りがガラリと変わり、フランスの田舎町のような風情のある街並みが多くなり、ガリシア地方に近づいてきた予感がした。

Foncebadónの先にある山(Monte Irago)の峠(Puerta Irago)の大きな十字架(Cruz de Ferro)

2008年5月6日(火)27日目(Ponferrada-Compostilla-Columbrianos-Fuentes Nuevas-Camponaraya-Cacabelos-Pieros-Villafranca del Bierzo-Pereje-Trabadelo: Albergue Crispeta)

Ponferradaから高台に上がり、Fuentes Nuevas辺りはとても美しいバラの花が咲き乱れた巡礼路を歩いて葡萄畑を通り、特に気に入った区間となった。Villafranca del Bierzoからは気候の街の雰囲気もガラリと変わり、Trabadeloは、フランスか伊豆の田舎町のような山間部の村で涼しくて快適だった。

今日は朝から腹痛に悩まされ、午前7時に起きてから、トイレに入りっぱなしで、午前9時近くに出発した。しかし、管理人は体調を心配して了承してくれて、安心して出発した。

17世紀に建てられた黒い石造りの立派な教会(Iglesia de San Andrés)の塔を望みながら、とても雰囲気のある街の通り(Calle Pregoneros)を抜けて進んだ。1178年に建てられたテンプル騎士団の城(Castillo "templario")など、雰囲気のある歴史的建造物が多くある街だった。

広場(Plaza Virgen de la Encina)から16世紀に建てられた時計台(Torre del Reloj)まで坂(Calle Gil y Carrasco)を上った。1573年に建てられた中央の聖マリア教会(Basílica de la Virgen de la Encina)はとても素朴で外観も内観も美しく、柏の木の聖母(Virgen de la Encina)が祀られていた。

それから、商店街(Calle Reloj)を歩いて、時計塔(Torre del Reloj)をくぐり、市庁舎(Ayuntamiento de Ponferrada)がある18-19世紀に建てられたと思われる色とりどりの美しい建物が並んでいた広場(Plaza del Ayuntamiento)に出た。そこから、大通り(Calle Gral Vives)に出て、橋(Puente Cubelos)を渡り、旧市街を抜けて、公園(Parque de la Concordia)や大通り(Avenida Gran Vía Reino de León)を歩いてゆくとロータリー(Rotonda de Las Pimenteras)を過ぎた。

丘を登る通り(Avenida Huertas del Sacramento, Avenida de la Libertad)を進み、博物館(Museo de la Energía)の近くの高台から、遠くの山々(Montes de León)や車のための立派な白い吊り橋(Puente del Centenario)を望みながら、通り(Avenida Cuarta)を歩いた。高台から美しい山や街並みを一望しながら歩くことができ、気分がどんどん上がってきた。

直ぐ隣の新しい市街地(Compostilla < ラテン語「整備された」compositella < composita + -ella < 「共に」con- < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語ḱóm + 「置く」pono < 古ラテン語pozno <イタリック祖語*pozinō < *po + *sinō < 印欧祖語「から」*h₂pó + 「産む」*tḱi-né-ti ~ *tḱi-n-énti < *tḱey- + 接小辞-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)に到り、日当たりの良い丘の上に最近にネオロマネスク様式で建てられた教会(Parroquia de Santa María de Compostilla)があった。前の広場(Plaza Poblado)は緑が多くて気持ちが良く、下痢気味な状態と腹痛を抑えるためにシリアルを食べて一休みした。

しばらく高級住宅地(Avenida 3ᵃ Transversal)を歩いてゆき、郊外(Calle Cabo de Finisterre)に出ると、巡礼路らしくなり、畑が見えてきて、気持ちの良い中を歩いて行けた。

次の町(Columbrianos)まで1km歩いて、18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Blas)が見えてきて、風光明媚なのどかな田園地帯で家が点々とあるようになった。街の中で道路(C-631とLE-711)を渡り、17世紀に建てられた教会(Ermita de San Blas ya San Roque)の脇から少し住宅地を進んだ。

(923年にColumbrianoと記録され、レオン語「高地」columbriar < ラテン語「頂部」columen < culmen < 印欧祖語「丘」*kelH-が語源でラテン語collis < 古典ギリシア語κολώνη / kolṓnē < 印欧祖語*kl̥H-ní-sは英語hill < 古英語 hyll < ゲルマン祖語*hullizと関連。地名に多い接尾辞「丘」-bra < -bris < ケルト祖語*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源でゲルマン祖語*burgzと関連。もしくは1043年にConinbrianosと記録、ポルトガルConinbriga(Coimbra)の移民が語源。)

幹線道路から外れると、直ぐに田舎の巡礼路になり、道が歩きやすくなった。特に道が込み入った町の中では、帆立貝の道標をものすごく目を凝らして探して、少しでも現れなかったら、直ぐに引き返すなどして、見失わないように探さなければならないので大変だった。地図も持っているけれども、縮尺が広すぎるため、小さな分かれ道でどちらに行けばいいかは、道標を頼りにするしかなかった。

それからはずっと一本道(Calle San Blas, Calle la Valiña)を進んだが、遠くに山を望み、平らな土地ながらも、畑の緑が美しくて、特にFuentes Nuevas(スペイン語「新しい泉」の複数形)に入る直前のお花畑の赤いお花が美しくて、時どき大きな家が現れてきて、こんな風光明媚な場所なら気持ちよく住めると感じながら歩いて行った。街に入る直前に巡礼者姿の聖ヤコブがあしらわれた十字架が建てられていた。そこで腹痛に襲われ、近くの草むらの茂みの中で下痢をした。

一本道の通り(Calle el Paraiso, Calle Real)を進み、道の真ん中に15世紀に建てられた教会(Ermita del Divino Cristo)があり美しかった。クリーム色の家に巡礼者姿の聖ヤコブがあしらわれた装飾があり、18世紀に建てられた小さな教会(Iglesia parroquial de La Asunción)を見た。風光明媚で今まで歩いてきた中で最も気に入った区間となった。大通り(LE-713)と一緒になり、次の町に入った。

Camponaraya(857年にIn latere montis Nauranci、992年にPer vadunm Stephany viam que ducit fonten ausalem usque ad vallem mayorem, et descendit viam que vadit Magace usque ad terminium de Narayolaと記録され、スペイン語「平原」campo < ラテン語campusとバスク語*narbと関係すると考えられるイベリア語の河川名(hidronimia)*nar-が語源)を通ると葡萄を作っている2、3の畑(Viñedos)を通った。葡萄の木は植えられたばかりでまだ背が低かった。

道端にオレンジのきれいなヒナゲシ(Papaver rhoeas)が咲いていた。高台の大地にただ巡礼路が通されており、頭の上に何も遮るものがなく、容赦なく陽が照り付けるため、巡礼者は昨日の山の上り下り、今日の炎天下でかなり滅入っていた。水分を取らないと脱水症状になりやすいからである。

それからいくつかの幹線道路(Calle Cimadevilla)に面した街を通った。平地だが山に囲まれていて盆地のようで、スペイン特有の激しい太陽と低い湿度の冷たい風が吹いてきた。

特にCacabelosはお気に入りの町となった。石造りの建物が整然と並んだ美しい街並みが美しく、10世紀に建てられた教会(Iglesia de San Roque)が巡礼路に面して建っていた。

街中の石造りの家の間を抜けて歩くと1108年にサンティアゴ・デ・コンポステーラの大司教(Diego Gelmírez / Didacus Gelmirici, c.1069–c.1140)により聖別されて、16世紀にロマネスク様式で建てられた優美な教会(Iglesia Parroquial de Santa María)があった。

町を通り過ぎて川(Río Cúa)を渡ると、直に1764年に建てられた立派な教会(Santuario de Quinta Angustia)が見えてきて、手前の広場(Plaza el Santuario)の建物(Lavado Y Engrase Las Angustias Sl)は小川の上に建てられていて涼しげだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Cacabelosを流れるCúa川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Cua quae ad Carcavellum)」と書かれている。)

そこから幹線道路(LE-713)に沿い、Pierosを過ぎて山道(Cerro de la Ventosa)をひたすら歩いた。辺りには葡萄畑(Viñedos)が広がり、醸造所(Bodegas)が多く、巡礼路には花が咲き乱れていた。

葡萄畑の中でBordeauxから歩いてきたフランス人に会い、フランス語で話すととても喜ばれた。ここ辺りの雰囲気はフランスの田舎町によく似ていて、家の近くに似ているでしょと言うと、彼もまた本当にフランスに戻ってきちゃったみたいだねと言って大笑いしていた。

(Cacabelosはケルト人アストゥリアス族(Astures < Αστυρες / Astures < ケルト=イベリア語「広い」*astura < ケルト祖語*sturas < 印欧祖語 *sth₂-ró-s < *steh₂-)が住んだBergida(イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源)があり、紀元前25-23年に近くの小高い丘に城跡(Castrum Bergidum / Castro de la Ventosa)が建てられ、572年にスエビ王ミロ(Mirus, c.530-583)、585年に西ゴート王レオウィギルド(Leovigild, 519-586)が支配して、714年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、737年にアストゥリアス王国が奪還して、791年にアストゥリアス王ベルムード1世(Bermudo I de Asturias, c.750-797)が後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)と戦い(Batalla del río Burbia)、857年に修道院(Monasterio de San Julián de Samos)の領地となり、990年にレオン王ベルムード2世 (Bermudo II de León, 953-999)が修道院(Monasterio de Santa María de Carracedo)に寄進して、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCarcavellusと記録され、ラテン語cacabulus <「鍋」caccabus < ギリシア語κάκκαβος / kákkabos + 接小辞-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源。Pierosは人名「ペトルス」Pedro, Pero < ラテン語Petrus < ギリシア語「石」πέτρα / pétrāが語源)。

そして、Villafranca del Bierzoに入る直前にがらりと雰囲気が変わり、スペインよりもフランスの山間にあるような町が谷間に広がっていた。川(Río Burbia)を中心に鰻の寝床のように街が広がり、湯河原のような雰囲気だった。街に入るとき、立派な城門(Castillo de Santa María de Autares)を見た。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Villafrancaの橋の下を流れるBurbia川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Burdua quae decurrit ad pontem Villaefrancae)」と書かれている。)

1186年に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de Santiago Apóstol)が巡礼路の脇に建てられており頑丈な石造りで圧巻だった。Santiago de Compostelaに病気などで到達できなかった巡礼者がこの教会の門をくぐれば、巡礼をしたと見なしてもよいとされた「赦しの門(Puerta del Perdón)」があった。立派な城壁(Castillo-Palacio de los Marqueses de Villafranca)を通り過ぎて、細い路地(Calle Salinas, Calle Puente Nuevo, Calle Campairo)を歩いた。

町中で中央広場(Plaza Mayor)の銀行(Banco Pastor)の前のテントの下のベンチに腰かけていたら、カフェ(Bar Genin)の人が注文を取りに来て驚いたが、カフェの店の中と気づいた。しかし、優しく声をかけてくれて、ここにしばらく座って休んでいって下さいねと言ってくれて、出発するときに「良い旅を!(¡Buen Camino!)」と笑顔でお見送りをしてくれた。

17世紀に建てられた石造りの立派な教会(Iglesia de San Nicolás El Real)や16世紀に建てられた教会(Colegiata de Santa María de Cluni)を過ぎて、山あいの街の雰囲気を楽しめた。気候も湯河原のように霧に包まれていて、先ほどの灼熱の大地とは打って変わり、涼しくて快適に過ごせた。スペインの街とは思えないほど、屋根も赤ではなく、濃青や黒で雰囲気があった。

(Villafranca del Bierzoは、スペイン語「村」villa +「フランク人」franca < ラテン語Francus < フランク語*Franko < ゲルマン祖語「槍」*frankô < 印欧祖語*preng-、イベロ=ケルト語「高地」Bierzo < Bierçi[d]u < Bergidom, Bergidumはイベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ- + イベロ=ケルト語「家」*dom < ケルト祖語*dāmos < 印欧祖語*dōm-o-s < 「住む」*dem-が語源でラテン語「家」domus < イタリック祖語*domos < 印欧祖語*dom-o-s < 「住む」*dem-と関連。1070年にフランスのClunyの修道士が修道院(Colegiata de Santa María de Cluniaco)を建て、フランク人の村villa francorumができ、1072年にアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が特権(fuero)を与えて、1120年にVico Francorumと記録された。1192年にレオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)の后(Teresa de Portugal, 1176-1250)が訪れた。1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillamfranca, scilicet in bucca Valhscarceris, Villafranca de bucca Valliscarcerisと記録された。)

街を出る時に渡った川(Río Burbia)に架かる橋(Puente Medieval de Villafranca)も美しかった。また、1541年に建てられた大きな修道院(Convento de la Purísima Concepción)があった。

橋を渡ってから、違った道に進んでしまいそうになったとき、工事現場の人がこっちだよと指さして教えてくれて助かった。そこからは、また、川(Río Valcarce)に沿った山道(Calle Espíritu Santo)をに入ったが、日本の箱根の山と同じような日差しと雰囲気が漂い、まだ、ここはLeón地方だが、前にTinaが、ガリシア地方に入ると神秘的で幻想的な雰囲気に変わるよと言っていたのを思い出した。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Valcarce渓谷を流れるValcarce川)」と書かれている。)

そうした道を歩いて行くと、高速道路(Autovia del Noroeste / A-6)の高架下に出て、幹線道路(N-VI)に沿う歩道を行き、小さな村Pereje(スペイン語 人名Pérez < ラテン語Petrus < ギリシア語「石」πέτρα / pétrāが語源)が一つあった。村に入口には墓場があり、十字架が見え、やはりスペインらしさが感じた。町の人も優しく、必ずすれ違うとあいさつしてくれた。道路の車線が逆であることを除けば、日本に似ていて、箱根の山の中を歩いている感じだった。そうした山間部に住んでいるスペイン人は、話しぶりなどが大人しくて、礼儀正しく感じられた。

それから、渓谷沿いの森の中の幹線道路に沿う巡礼路をひたすら歩いた。また、高速道路の下を数回くぐり、山道を歩いて行った。木陰ができていて、適度な湿度があり、快適で歩きやすかった。その次の村Trabadelo(Trabadillo < Tabladilloと記録され、スペイン語「床」taburado < ラテン語tabulatum < 「板」tabula < イタリック祖語*taðla < 印欧祖語*tal-dʰlom < 「平ら」*telh₂- + 接尾辞 -illo < ラテン語-illus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós <*-lósが語源)に泊まることにした。

伊豆の山の中の村のような入り口にある看板から、日本の森のような道を材木が置いてあるところを1.5メートルほど歩いてゆくと、建物が見えて来て、巡礼宿(Albergue Crispeta)があった。建物の前に三人のスペイン人が前に座っていて、スペイン語で話をするととても喜んでくれた。父が来ることや東京の近くに住んでいるなどを話していると、彼らはPamplonaから来ていると話していた。

他にも同じ町に巡礼宿があるか宿の前にいた人に尋ねると、公営(Albergue parroquial, Albergue municipal)がこの先にある教会(Parroquia de San Nicolás)の側や先に二つあるそうだが、父が歩いてくる間に村を少し見て回ると、ここがとても清潔だったから、ここに泊るよと宿の前にいた人に伝えると、目の前に住んでいる管理人(hospitaleiro)を呼んでくれた。価格も公営とそれほど違わなくて良心的だった。食事は近くの同じ人が経営している巡礼者のためのレストランで2€で食べれるそうで嬉しかった。部屋に通されるときれいでベットの数も少なくてとてもよく眠れそうだった。カナダ人は編み物をしていた。ドイツ人とカナダ人が英語で話していた。彼らに食料品店の場所をたずねて、外に出ようとしたら、突然、雨が降ってきたので少し話をしてから、村へ出かけた。

食料品店(Superalimentación Carmen)までは徒歩で1, 2分あり、川沿いに上がると直ぐに着いた。途中で陽気なおばあちゃんたちと話したり、川釣りをしている人と会って、何を釣っているのかを聞くと、釣った魚を見せてくれた。欲しいかというので、巡礼中で調理することも大変だからいいよと言うと、そうかと笑っていた。川(Río Valcarce)も、日本の山の中ような感じだった。

食料品店に着いてから、アクエリアスやレモンのトニックを買おうとするが、古いためか、缶の中が錆び付いているのを見つけ、賞味期限をみると去年の10月だったので止めて、賞味期限内のヨーグルトドリンクを買って飲んだ。店の人に薬屋を聞いたら、教会の隣にあるそうだが、行くのはやめた。

帰るときに川の向こうにレストラン(Nova Ruta)を見つけて、橋を渡り覗きに行った。近くの自販機でファンタを買うと、やはり缶の底が錆びていた。スペイン人は期限にルーズだと感じながら、宿に戻るとスペイン人たちがサッカーをしていた。そして一緒にやろるかと誘われたが、お腹の調子が勝れないから、しばらく横で見ているよと話した。食堂でスープを作っていると、ドイツ人の人から、ヨーグルトをありがたく頂き、食事をしていると、バナナをレモンと割ってくれた。下痢に利くという、レモンを絞り、水を加えて、バナナを食べながら飲み、それを繰り返したら、少し楽になった。

そして、シャワーを浴びた。その間に先ほどサッカーをしていたスペイン人たちが、管理人(hospitaleiro)に症状を伝えてくれていて、シャワーから出ると、管理人が薬をくれた。スペイン人に症状を説明するとき、今日は歩いていたら、急にお腹が痛くなって・・・と説明をしていたが、薬の包みにスペイン語(Anti-Diarrea)で書いてあり、英語(Anti-Diarrhea)と殆ど同じじゃないかと思い、明日、薬局を見つけたら、確保しておくことにした。洗濯機を使い、料金(4€)を払おうとシャワーの中の父に財布の場所を聞いて出すと3.50€しか小銭がなかったが、5€の札を出したら、小銭の3.50€だけでいいよと言ってくれた。薬までくれて、洗濯代を負けてくれて、二重でありがたかった。

その後、足の肉刺の手入れをしながら、スペイン人と話すと、折り紙と紙瑠璃を持っていたので、どうしてかと聞くと、Puente la Reinaでも、あなたに会ったことがあると言っていた。(巡礼者の中で欧米人は多いけれども、日本人は全く見かけなかったので、東洋人は非常に目立つことを感じた。)更に彼らはあと3日でSantiago de Compostelaに金曜日に着く予定で、土曜日に沢山そこで食べて飲み、日曜日に帰り、もうその日から働くそうだ。ものすごい強行スケジュールだと思い、巡礼をしてから、次の日から働くとはタフだなと思いながら聞いていた。消灯時間まで台所で日記を書いてから眠りに就いた。今日の宿は巡礼者によく配慮が行き届いていて、ゆっくりと休むことができた。

今まで巡礼宿(Albergue)は公営(municipal)に限り、ずっと泊まってきたが、個人のAlbergueに泊まってゆっくり過ごせて、更に値段もそんなに差はないので、個人運営の巡礼宿その良さを見直した。明日からは、39km・38km・39km・38km・16kmでサンチアゴに日曜日に着いて、大ミサに出席したいため、大変な旅程になりそうなため、6時半に起き、7時に出なければならない。今日は皆の優しさに触れた一日だった、久しぶりにとても温かいシャワーを浴びられてとても幸せだった。

Ponferradaの広場(Plaza Virgen de la Encina)にある聖マリア教会(Basílica de la Virgen de la Encina)

2008年5月7日(水)28日目(Trabadelo-La Portela de Valcarce-Ambasmestas-Vega de Valcarce-Ruitelán-San Julián-Ruitelán-Las Herrerías-La Faba-La Laguna de Castilla-O Cebreiro-Liñares-Hospital da Condesa-Padornelo-Fonfría-Biduedo-Fillobal-Pasantes-Ramil-Triacastela: Albergue del Refugio del Oribio)

ガリシア地方(Léon地方からLugo地方)に入り、気候が大きく変化した。Linaresの手前で突然の豪雨があり、雨宿りをしてから、ぬかるんだ道を進んだ。Hospital da Condesaの美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)を見た。Triacastelaの村に入る手前で牛の群れと巡礼路ですれ違った。村の中には美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago de Triacastela) があった。

今日は午前7時半に起き、昨日もらった下痢止めを飲んでから、午前8時半に出発した。9世紀に建てられた城(Castillo de Santa María de Auctares)を前方に小さく見ながら、渓谷沿いに幹線道路沿いに進んだ。牧場の中を巡礼路が通っていて、牧草を食んでいる牛と見つめ合いながら歩いた。

(715年にValcazarとイスラム勢力との戦闘記録があり、アラビア語「城」اَلْقَصْر‎ / al-qaṣrが語源、「Castrosarracín(サラセン人の砦)」と呼ばれる城は、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastrum Sarracenicumと記録された。狭い谷を形容したガリシア語「牢」cárcere < ラテン語carcer < イタリック祖語*karkros < 「縛る」*(s)kr̥-kr̥- < 「回る」*(s)ker-が語源ともされるが、古い記録からアラビア語起源説が正しい語源と考えられる。)

昨日から山の中を谷に添うように進む道が続いていた。森の中を歩いてゆき、近くに水(Río Valcarce)が流れているため、日陰に爽やかな風が吹いていて、避暑地のようでとても快適だった。

高速道路(Autovia del Noroeste / A-6)や幹線道路(N-VI)としばしば交わりながら、La Portela de Valcarce(ラテン語「戸」porta < イタリック祖語*portā < 印欧祖語*porteh₂ <「入る」*per- + 接小辞 -ellaが語源)で17世紀に石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de San Juan Bautista)やAmbasmestas(イベロ=ケルト語「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō ~ *h₂p-h₃nés < 「水」*h₂ep- + イベロ=ケルト語「混ざる」*mistos < ケルト祖語 *miskos < 印欧祖語 *miḱ-sḱ-ó/éh₂-s < 「混ぜる」*meyḱ- < 「変える」*mey-が語源でラテン語mixtus < イタリック祖語*mikstosや英語mixture < ゲルマン祖語*maiskazと関連)の1854年に建てられた細かい石積みで作られた教会(Iglesia de Nuestra Señora del Carmen)を過ぎてから、谷あいの村を通った。村を出ると直ぐに高速道路と交差する陸橋(Viaducto Via de Valcarce)の下を通り、美しい村が見えてきた。

Vega de Valcarce(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillausと記録されているが、スペイン語「牧草地」vega < 古スペイン語 vayca < バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -ki < *-kiが語源)は少し大きな村で道幅の広い商店街(Carretera Antigua / N-006A)があり、小さな食料品店や銀行を見つけた。薬局(Farmacia Lda. Ana María Zabala)で下痢止めの薬を買った。カプセル状で利きそうだった。それから、隣にある食料品店(Supermercado Carolina)に入ると山の中にも関わらず、安い値段で品揃えがあり、都市のMercadona並みの価格で買えた。17世紀に石を積み上げて建てられた教会(Iglesia de Santa María Magdalena)を通り過ぎてから村を後にした。

美しい渓谷沿いの道(Calle Carretera Nacional VI / N-006A)をゆっくりと上がった。水辺なので涼しく心地よかった。水を少し飲み過ぎて、川沿いの草むらで下痢をしたが、それからは順調だった。

Ruitelánで1194年に建てられた教会(Iglesia de San Juan)を通った。 (古代ローマ街道Via XIX / Itinerario de AntoninoのUttarisに比定。ガリシア語ruto < 古フランス語rote <ラテン語「舗道」via rupta < 「道」via < イタリック祖語*wijā < 印欧祖語 *wih₁-eh₂ < 「追う」*weyh₁- + ラテン語「壊す」rupto < イタリック祖語*rumpō < 印欧祖語*Hru-né-p-ti ~ *Hru-m-p-énti < *Hrewp- + 接小辞-iño < 古ガリシア語-ĩo < ラテン語 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源。聖フロイラン(San Froilán, 833-904)が隠棲して、16世紀に聖堂(Capilla de San Froilán)が作られた)。

Las Herrerías(12世紀にfragoas < 古スペイン語「工場」fragua < 民衆ラテン語*frauga < *frabica < 古典ラテン語fabrica <「鍛冶」faber < イタリック祖語*faβros < *θaβros < 印欧祖語*dʰh₂bʰ-ró-s < 「合せる」*dʰh₂ebʰ-と記録された。スペイン語「鍛冶場」ferrería, herrería <「鉄」fierro, hierro < 古スペイン語fierro < ラテン語ferrum < 古ラテン語*ferzom < フェニキア語𐤁𐤓𐤆𐤋 / barzel < アッカド語𒀭𒁇 / AN.BARparzillum < シュメール語𒀭𒁇𒋤 / an-bar-sug₄が語源)の美しい街並みや小川(Río das Lamas)のせせらぎを満喫した。遠くに18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Julián)を望み、美しい家々が目の前に見えて最高の眺めだった。

1178年にイギリス人巡礼者の救護院(Hospital de los Ingleses / In valle Carceris Hospitali quod dicitur Anglorum)が建てられた場所を過ぎた。今はもう平原や牧場で名残りはなかったが立て看板があった。ここから坂を上がり、山を登り始めた。登山道は白や黄や紫の花が咲いていて美しかった。

La Faba(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でVillaus、1198年にeccesiam Sancti Andree de Villa Oxiと記載、ガリシア語「低木」uz < ラテン語ulexが語源。現在の名称はガリシア語「豆」faba < 古ガリシア語fava < ラテン語 faba < イタリック祖語*fabā < 印欧祖語*bʰabʰ- < *bʰaḱ-が語源でゲルマン祖語*baunō、スラヴ祖語*bòbъ、古典ギリシア語φακός / phakós、アルバニア祖語*batsāと関連して、セム語族の古典シリア語ܦܘܗܘ‎ / pāhū < アッカド語𒄘𒌉 / GU₂.TURkakkûに由来)で16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Andrés)を通り過ぎてからは、ずっと急勾配の山道となった。

La Laguna de Castilla(スペイン語「湖」laguna < ラテン語lacuna)の村の入り口で馬が草を食んでいる風景を見た。また、民家の裏手で竪穴式住居を棟上げしたような面白い形をした藁葺きの倉庫(hórreo)を見た。村の真ん中に泉が湧き出していて洗濯場(Lavadeiro)があった。村を過ぎてからやや険しい道を進むと、直にLéon地方とLugo地方の境標(Punto de entrada a Galicia)を見つけた。

遂にガリシア地方に到達するとき、山間の気候ががらりと変わりとても驚いた。段々と雲が増えてきて、湿度が高くなってきたように感じられた。雰囲気が日本の伊豆の山中のような感じになり、桜に似たセイヨウミザクラ(Prunus avium)が白い花を咲かせていて美しかった。Liaが話していたように霧がかった神秘的な雰囲気を感じられるのがよく分かる感じがした。

リュックサックも持たず、観光バスから降りてきて、ハイキング気分で行く、ドイツ人観光客の団体が45人もいて、細い巡礼路が占拠されてしまい、歩く速度が異なるため、すれ違うのも厳しいほどの狭い山道を進んだためにとても疲れてしまった。追い抜いて行く時も一人一人から挨拶をされたりしなくてはならず、更に話しかけてきたり、写真を撮ってきたり、今まで長い距離をきて黙々と歩いてゆきたい巡礼者にとっては迷惑で疲れ切っているときにはたまったものではないと感じた。

Hospital da Condesaの美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)

O Cebrero(Santa María do Cebreiro、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でportus montis Cebruariiと記録され、ガリシア語「野生の馬」cebro < 古ガリシア語ezebro < 民衆ラテン語*eciferus < 古典ラテン語equiferus <「馬」equus < イタリック祖語*ekwos < 印欧祖語*h₁éḱwos +「野生」ferus < イタリック祖語*feros < 印欧祖語*ǵʰwér-os < *ǵʰwer-が語源)には、9世紀に遡り、1962年に建て直された美しい石造りの教会(Santuario de Santa María a Real)があり、中に入ると調和が取れて簡素の美があった。

昔に雪が降る中に老人がミサを司祭に頼むと、司祭はパンを食べ、葡萄酒を飲みたいだけだろうと考えて断ろうとしたら、パンと葡萄酒がキリストの血と体になった言い伝えがあり、聖杯を保管する1486年にカスティーリャ女王イザベラ(Isabella I, 1451-1504) が寄進した銀製の箱が置かれていた。

隣には1072年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)によって建てられた巡礼者の救護院(Hospedería de San Giraldo de Aurillac)があった。冬になると雪深くなり、霧が多く発生することから、巡礼者のために鐘を鳴らし続けていたそうである。

ガリシア地方に入ると、急に村の雰囲気が変わり驚いた。家の建て方も人の雰囲気も、今でもケルト人が多く住んでいるアイルランドやブルターニュとよく似ている感じがした。峠を越えると緩やかな下りになり、舗装されたきれいな山道(Monte Pozo de Area) でどんどん先に進むことができた。

Liñares(Santo Estevo de Liñares、1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でLinar de Regeと記録。 ガリシア語「アマが生えた土地」liñar <「アマ」liño < 古ガリシア語lỹo < ラテン語linum < イタリック祖語*līnom < 印欧祖語*līno-m +‎ 接尾辞 -ar < ラテン語-aris < イタリック祖語*-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源)に着く手前でとても黒い雲が来て、雨の予感をさせ、少しぽつぽつ来て、少し激しくなってきた頃、大きな納屋があり待避した。雨が収まると納屋を出て、村に入った。道路(LU-633)に面しており、高山にある拓けた村だった。8世紀に遡り、1963年に建て直された教会(Igrexa de Santo Estevo de Liñares)を通り過ぎた。

村を通り過ぎて直ぐに一面が黄色のお花畑を見つけた。それから、林の中の巡礼路を歩き、紫の花に覆われた美しい斜面を見た。見晴らしが良くて気分が最高だった。峠(Alto do San Roque)に差し掛かり、少し上り下りした(フランスのMontpellierで生まれた聖ロクス (Sanctus Rochus, 1295-1327)はローマに巡礼したとき、ペストの患者に十字を切ると治したという言い伝えがあり、今までも見てきたようにものすごい数の聖堂(Ermita de San Roque)が巡礼路に建てられた)。

Hospital da Condesa(San Xoán de Hospital、ガリシア語「伯爵夫人」condesa、アストゥリアス王ラミロ1世 (Ramiro I de Asturias, c. 790-850)の子とされる伯爵(Gatón del Bierzo, 813-878)の妻(Egilona Ramírez de Coimbra, 812-842)と比定)の16世紀に建てられた美しい石を積んだ教会(Igrexa de San Xoán de Hospital)を見た。山々の中にある村の教会は灰色の石を積み上げて作られており、殆ど変わらない外観をしていた。形が異なる石を巧みに組み合わせて建てられていた。

Padornelo(San Xoán de Padornelo、ガリシア語 padornelo < 民衆ラテン語*petronetoで「道標」padrón <「石」pedra < ラテン語petra < πέτρα / pétra + 接小辞-nelo < ラテン語-tus < イタリック祖語*-tos < 印欧祖語*-tósが語源)で17世紀に建てられた教会(Iglesia de San Xoán de Padornelo)を通り過ぎた。石積みのバロック様式で同じ建て方だった。嵐をもたらす黒い雲に遭遇して、雨合羽に着替えて、村から幹線道路(LU-633)に出て、霧が立ちこんでいる中へ車道に沿い進んだ。天候が急にころころと変わった。峠(Alto do Poio)を越えて、少しすると激しい雨は収まった。先のどこかでまた雷の音がゴロゴロとして聞こえてくるが、雲は頭上になく良く晴れていたため、雨合羽を取った。

Fonfría(San Xoán de Fonfría、ガリシア語「泉」fonte < ラテン語fons < イタリック祖語*ðonts < 印欧祖語*dʰónh₂-ti-s ~ *dʰn̥h₂-téy-s < 「流れる」*dʰenh₂-が語源 +「冷たい」fría < 民衆ラテン語fridus < 古典ラテン語frigidus < frigus + -idus < イタリック祖語 *frigos < *θrigos < 印欧祖語*sriHg-os < 「寒い」*sriHg-が語源で古典ギリシア語「寒い」ῥῖγος / rhîgosや接尾辞-τίς / -tísと関連)で16世紀に建てられた教会(Igrexa de San Xoán de Fonfría)を通り、幹線道路(LU-633)沿いにひたすら歩き、時どき道路から離れて、牛が草を食んでいる様子を見ながら牧場の脇を歩いた。巡礼路との境には石が積まれていて垣が作られていた。それから、道路から離れて、山道の巡礼路に入った。

Biduedo(San Pedro de Viduedo、ガリシア語「カバノキ(Betula pubescens)」bidueiro < bitulario < ラテン語betulla < ゴール語*betua < ケルト祖語*betuyā < 印欧祖語*gʷétw-ih₂ ~ *gʷtu-yéh₂ < 「樹脂」*gʷétu + ガリシア語「地名」接尾辞-eiro < ラテン語-arius < イタリック祖語*-ās-(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-s < *-yósが語源)で18世紀に建てられた小さな聖堂(Ermida de San Pedro de Biduedo)を通り過ぎた。巡礼者は大事にされていて、道路には巡礼者に注意するように車を運転する人に喚起する標識があった。通り過ぎたどの村にも必ず一つ、石を積み重ねた小さな教会があった。鐘が上に高く掲げられていて教会と分かるが、民家と全く同じ作り方をされていた。

それから山道(Chao do Monte)にあるいくつかの集落は、特に荒れていて、道が牛の糞まみれな上、湿度が高くて悪臭を放っていた。ガリシア地方は多雨で道がぐちゃぐちゃにぬかるんでとても歩きにくかった。Fillobal(Foyllebar < *Foya lobar < ラテン語「洞」fovea < イタリック祖語*foweā < 印欧祖語*bʰow-yé-eh₂ < 「穴」*bʰow- +「トリカブト(Aconitum lycoctonum)」luparia <「狼」lupus < イタリック祖語*lukʷos < 印欧祖語*wĺ̥kʷos + ラテン語-aris < イタリック祖語*-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源)で石組みの土台を持つ高床式の藁葺きの倉庫(hórreo)を見かけた。

また、Pasantes(Pasandus <「小道」pasante < 民衆ラテン語*passo < 古典ラテン語「通り」passum <「拡げる」pando < イタリック祖語*patnō < 印欧祖語*pth₂én-e-ti < 「飛ぶ」*peth₂-が語源で「拡げる」tendo < イタリック祖語*tendō < 印欧祖語*ténd-e-ti < 「拡げる」*tend-と関連して発展)で17世紀に建てられた小さな聖堂(Capilla de la Virgen de los Remedios en Pasantes)を見かけた。

村を出ると牧草地から帰る牛と遭遇してとても驚いた。巡礼路を牛が歩いてきて、牛とすれ違うというより、牛の間を歩いて行くとRamil(人名Ramirus < ゴート語*Ranamers < *Raginameraz < 「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- + 「名誉」mērs < ゲルマン祖語*mēraz < 印欧祖語*mḗh₁-ró-s < 「測る」*meh₁-が語源)に着いた。樹齢800年という栗の老木(Castaño Centenario)があり、風情のある古い石積みの家々が立ち並んでいた。

それから幹線道路(Avenida Castilla / LU-633)に出て、直にTriacastelaに着いた。(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でTriacastella、更に古くはTriancastelaenと記録。ガリシア語「三」tria < ラテン語tres < イタリック祖語*trēs < 印欧祖語*tréyes +「城」castelo < ラテン語castrumが語源。ケルト人が築いた城(Castro Celta)があり、ケルト祖語「三番」*triyanom < 印欧祖語*tréyes-nós < 「三」*tréyesが語源でゴール語trianisや古アイルランド語trïanと関連。)

街を少し歩いてゆき、ここで上がると巡礼宿を発見して入った。とても快適な部屋で良かった。日本に少女時代住んでいたアメリカ人Marciaと会って話をした。軍人の家に生まれて、佐世保・東京・神戸の基地に住んでいたと言っていた。とても深い関わりを日本ともつ人が多く驚いた。

部屋はとても美しく、窓の外には古い教会が見えていた。Marciaはベットに腰掛けて、黙々と写生をしていて、水彩画で描いた絵を見せてくれた。隣にSupermercado Tandy / Alimentación Castroがあり、飲料を買った。パン屋さん(Panadería Sánchez)を訪れて、店主がとても丁寧で焼き立てのパンを買えた。村の中には9世紀に遡り、18世紀に立て直された美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago de Triacastela)があり、特に塔の形が美しかった。巡礼宿の窓の外からも見えて楽しめた。

今日は峠をいくつも越えて歩いてきて、疲れているので、食事をして、シャワーを浴びてから、直ぐに寝た。今日はガリシア地方に入り、ケルト人が多く住む地域を歩き、人々の言葉も、家の雰囲気も、今まで歩いてきた土地とは、同じスペインの中でも、かなり異なることに気づいた。スペイン語よりも、ガリシア語はポルトガル語に似ていて、口ごもったような複雑な子音が多い言葉だった。

Fillobalの村を出て遭遇した牛の群れ

2008年5月8日(木)29日目(Triacastela-San Cristovo do Real-Renche-Lastres-Freituxe-San Martiño do Real-Samos-Foxos-Teiguín-Pascáis-Gorolfe-Reiriz-Sivil-Perros-Aguiada-San Mamede do Camiño-Carballal-San Pedro do Camiño-Vigo-Sarria-Vilei-Barbadelo-Rente-Mercado de Serra-Peruscallo-Cortiñas-Lavandeira-Brea-Morgade-Ferreiros-Mirallos-Pena-Couto-Rozas-Moimentos-Mercadoiro-Moutras-Parrocha-Vilachá-Portomarín: Albergue de peregrinos de la Xunta de Galicia de Portomarín)

Samosで立派な修道院(Mosteiro de San Xulián de Samos)を訪れた。途中の山道では緑が映えていて、田園風景がとても美しかった。急に雨がちな気候になり、更にぬかるんだ道を進んだ。Sarriaで美しい石造りの橋(Ponte da Áspera)を渡った。そこから、高床式穀倉(hórreo)を見かけるようになった。Ferreirosで巡礼宿は既に一杯で空きがないため、仕方なく先に進んだ。 日が暮れる頃、ブラジル人Felipeとアメリカ人Groriと偶然に出会い、お互いに励まし合いながら夜道を進むことができて、真夜中になったが無事にPortomarínにたどり着けた。予定よりも倍も歩き、長い一日となった。

今日はTriacastelaを午前7時半に出た。出かけるとき、アメリカ人Marciaが声をかけてくれて、連絡先を交換した。巡礼路は二手に分かれていて、左側の道路沿いに日本の南アルプスのような道を進んだ。岩(Desfiladero de Penapartida)が道路に露出していて、今にも崩れてきそうなほど迫力があった。水が所々の崖から湧き出していた。

(Triacastelaを出るときにSan Xilや1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でvilla sancti Michaelisと書かれていて、1158年と1195年のSAamos修道院の古文書(loco sancto isto de Sancti Michaelis et Sancti Andree, quorum reliquie ibidem sunt recondite in villa vocabulo Montan)にSan Miguel de Montánとして出てくるSanta María de Montánに至る右側の道を選んだつもりが、左側に進んでいて不思議に感じた。ガリシア語San Xil < フランス語 Saint Égide, Gilles < 聖アエギディウス(Sanctus Aegidius / Αἰγιδιός, c. 650-710)が語源で古典ギリシア語「若山羊」αἰγίδιον / aigídion < 「山羊」αἴξ / aíx < ヘレニック祖語*aíks < 印欧祖語*h₂éyǵ-s < *h₂eyǵ-が語源でサンスクリットअज / ajáや古ペルシア語aza < インド=イラン祖語*Haȷ́ás、リトアニア語ožỹsやラトビア語āzis < バルト=スラヴ祖語*āˀźis、古アルメニア語այծի / ayci < アルメニア祖語*ayci、アルバニア語dhi < アルバニア祖語*aidzijāと関連。Montánはラテン語montanus < 「山」mons < イタリック祖語*montis < 印欧祖語*món-tis ~ *mn̥-téy- < 「立つ」*men-が語源)

San Cristovo do Realで道路から逸れて、山中の巡礼路に入った。17世紀に建てられた小さな教会(Igrexa de San Cristovo do Real)の白い漆喰が美しかった。相変わらず村の中に風があまり吹き抜けることがなく、道路まで村からひどい牛糞の臭いが漂ってきた。

Renche(ラテン語 人名Raniscli < Ranisclus < ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- +「人質」*gīslazが語源)では18世紀に建てられた教会(Igrexa de Santiago de Renche)の前にお墓があり、辺りの村には墓地が必ずあった。

小川(Río Sarria)を渡ると直ぐに次の村Lastres(ゲルマン祖語「積み荷」*hlastuz <「積む」*hlaþanąが語源)に入り、しばらく山道を歩いた。Freituxe(ラテン語 人名Fructux <「喜び」fructus < fruor < イタリック祖語*frūgjōr < 印欧祖語*bʰruHg-ye-ti < 「享受する」*bʰruHg-が語源)の17世紀に建てられた教会(Igrexa da Virxe da Saúde de Freituxe)の白い漆喰が美しかった。

San Martiño do Realの村の入り口に高い石積みの塀があり、村に入ると12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de San Martiño do Real)の梁にはかわいらしい人物や動物の装飾が顔を出して出迎えてくれて、ロマネスク美術のおもしろさを感じた。教会の前にはお墓があった。この村に生まれた人はここで一生を終えて、ここで埋葬をされてゆくのかと思った。それから山道を歩いた。

大きな村(Samos)にたどり着くと、突然、665年に創建され、988年にレオン王ベルムード2世 (Bermudo II de León, 953-999)が増築して、16-18世紀にバロック様式で建てられた立派な修道院(Mosteiro de San Xulián e San Xulián e Santa Basilisa de Samos)が現れて驚いた(Samãos < ゴート語「一緒」samana < ゲルマン祖語*samanai < 「同じ」*sumaz < 印欧祖語*sm̥-h₁-o- < *sem-が語源。958年にvilla de Zurraccoと記録。Zorraquinus < バスク語「木」zur < *sulか「白」zuri < *suri + 接小辞 -cco < *-ko + ラテン語 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源)。

脇道(Calle Fontao)に面した食料品店(Autoservizo Manxarín)で飲み物を求め、修道院横の巡礼宿で通行証(credencial)に美しいスタンプを頂いた。観光バスが出入りして繁盛していた。

修道院は半分修理中で外装を衣替えしていた。また、9世紀に建てられた石造りの教会(Capela do Ciprés)も簡素ながら質素でとても美しかった。父がATM(Banco Pastor Telebanco)でお金を下すと手数料無料だった。街を出た所に巡礼路(camiño do peregrino)の看板が、ガリシア語で書かれていて、ポルトガル語(caminho do peregrino)に似ていながら、スペイン語のような表記に感じた。

小川(Río Sarria)沿いの平原を通る幹線道路(LU-633)を進んだ。Foxos(ガリシア語「穴」foxo < 古ガリシア語fogio < 民衆ラテン語*foveum < 古典ラテン語fovea < イタリック祖語*foweā< 印欧祖語*bʰow-yé-eh₂ < *bʰow-が語源)に着いたら、休憩所(Áreas de descanso)の前で美しい風景が見えてとても気に入り、せせらぎを見ながら、川辺の公園で一休みした。

Teiguín(ケルト祖語「家」*tegos- < 印欧祖語*teges-が語源)で18世紀に建てられた教会(Capela de Santo Domingo)を過ぎてから山道に入ると林の間に点々とある小さな村を4、5つ通過した。田園風景がとても美しかった。12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Parroquia de Santa Eulalia)を通り、Pascáis(Pascasiと記録され、聖パスカシウス(Paschasius Radbertus, 785–865)が語源)の18世紀に建てられた教会(Iglesia de Santalla de Pascáis)の前に大八車など農具が置かれていた。

そこからは森の中の獣道のような巡礼路を進んだ。水際(Río Sarriaの支流)に村が作られていて、Gorolfe(人名Gorulfus < ゲルマン祖語「準備した」*garwijaną < 「共に」*ga- < 印欧祖語*ḱóm +‎ 「用意する」*arwaz < 印欧祖語*h₂er-wó-s +「狼」*wulfaz < 印欧祖語*wĺ̥kʷos)の畑の中にある美しい18世紀に建てられた小さな聖堂(Capela de San Xumil)を通り、セイヨウミザクラ(Prunus avium)の白い花が咲き乱れていて、美しい田園風景を楽しむことができた。

Reiriz(人名Rairicus < ゴート語「指南」ragin < ゲルマン祖語*raginą < 印欧祖語*h₃roké-no-m < 「話す」*h₃rek- +「王」*rīks)の近くで小川(Río de Romelle)を何度も渡りながら、羊が放牧されている牧場を見た。道祖神のような小さな祠があり、絵になるような景色だった。

Sivil(Sevirと記録され、ラテン語 人名Severus < 「酷い」severus < イタリック祖語*seɣwēros < 印欧祖語*seǵʰ-wr̥ < 「保つ」*seǵʰ-が語源)には立派な石造りの家があり、Perros(スペイン語から借用されたガリシア語「犬」perro < ラテン語「伸ばす」porrigo、もしくは人名Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < πέτρα / pétraが語源)の近くには牛が放牧されている牧場があった。また、小さな聖堂(Capela da Ascensión de Perros) を通り過ぎると鬱蒼とした山道から視界が開けてきた。

Aguiada(ガリシア語「水」agua < ラテン語aqua + 接尾辞-ada < ラテン語 -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)で幹線道路(LU-P-5642)に出てからは、緩やかな下りで歩きやすい道で村々(San Mamede do Camiño-Carballal-San Pedro do Camiño-Vigo)を通り過ぎてからは、どんどん進んでゆくことができ、大きな町(Sarria)が目の前に見えてきて二時間弱でたどり着いた。

(San Mamedeは聖ママス(Mamas de Caesarea / Μάμας, 259-275)が語源。Carballalはガリシア語「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源。Vigoはラテン語「小村」vicus < イタリック祖語*weikos < 印欧祖語*weyḱ-ós < *weyḱ-が語源。)

川(Río Sarria)の橋(Puente Ribeira)を渡った所で一時間ほど、父を待つと現れた。途中で突然、雨が降ってきてとても寒かった。父は山中の道に入り組んだ場所(Gorolfe附近)で道を失ない、来た道を引き返して、道標を探してきたため、1時間ほどロスしたらしい。父と合流して、橋を渡り、階段(Rúa Arrabaldo, Rúa Escalinata Maior)を登り、12世紀に建てられた教会(Iglesia Santa Mariña de Sarria)を通り過ぎて、趣のある通り(Rúa Maior)を進み、坂を上がり、旧市街の中心部を抜けてゆき、高台(Letras de Sarria)に出て、13世紀に建てられた教会(Igrexa de San Salvador)を見た。

8世紀にSarriaと記録され、印欧祖語「流れ」*ser- + ラテン語の接尾辞-ia < 印欧祖語*-i-eh₂が語源。ケルト人セウリ族(Seurri)が住み、ローマ人がLucus Augustiを築いた(地域名Lugo < ラテン語「木立」lucus < 古ラテン語loucos < 印欧祖語「空き地」*lówkos <「輝き」*lewk-が語源)。785年に修道院(Monasterio de Santo Estevo de Calvor)が建てられた。レオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)はVillanueva de Sarriaで亡くなり、Santiago de Compostelaの大聖堂に葬られた。

12世紀にカスティーリャ人グティエレ・ロドリゲス(Gutierre Rodríguez de Castro)が建てた城(Fortaleza)の1467年に建てられた塔(Torre dos Batallóns)があった。町を見渡せる高台(Miradoiro do Cárcere)に十字架の柱があった。13世紀にロマネスク様式、15-16世紀にゴシック様式、18世紀にバロック様式で建てられた美しい修道院(Convento da Mercé)を見てから、通り(Avenida Mercede)をゆき、郊外に出て美しい清流(Río Pequeno)に18世紀に架けられた美しい石造りの橋(Ponte da Áspera)を渡った。そこからは田舎道の巡礼路をひたすら歩いた。

ReirizとSivilの間で放牧されていた羊たち

Sarriaの町を出るときには、既に午後4時を過ぎていて、当たり少し陽が傾き始めていたが、日曜日までにSantiago de Compostelaにたどり着きたいため、先に12kmのFerreirosまで進むことにした。4、5日前に会ったオーストリア人のカップルと一緒に線路に沿う道を通り、広い草原の中にポツンポツンと村が点在する中を馬や牛が放牧された牧場や農道や獣道のような巡礼路を進んだ。

Sarriaからは帆立貝の道標が、道端に沢山建てられており、聖地までのカウントダウンが始まった。Vilei(地名Vileirizと同じくラテン語「エリクの村」villa Eirici < 人名Eiricus < ゴート語*aiwareiks < ゲルマン祖語「永遠」*aiwaz < 印欧祖語*h₂óyu ~ *h₂yéws < 「永遠」*h₂ey-、もしくは「唯一」*ainaz < 印欧祖語*óynos +「王」rīks < ケルト祖語*rīxs < 印欧祖語*h₃rḗǵsが語源)を過ぎた。

近くのBarbadelo(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でBarbadellusと記録され、人名Barbaldus < ゲルマン祖語「大麦」*baraz < 印欧祖語*bʰar-es- < 「突き出た」*bʰers- +「統治」*waldaną < 「統治する」*wulþǭ < 印欧祖語*welh₁-t ~ *wl̥h₁-ént < *h₂welh₁-が語源)に入るとき、馬が牧草を食んでいた。村の入り口には石垣がきれいに作られていた。

11世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago)があった。泉が湧いていて、水を溜めた桶が置かれていて、洗濯場(Lavadeiro)として使われていた。そこからは車も通れるような舗装された歩きやすい一本道が進むと直ぐに次の村が見えてきた。

Rente(ガリシア語「返す」render < 民衆ラテン語*rendere < 古典ラテン語reddere < 「再び」re- < イタリック祖語*wre < 印欧祖語「回る」*wert-もしくは「後ろ」*ure- +「与える」do < イタリック祖語*didō < 印欧祖語*dé-deh₃-ti ~ *dé-dh₃-n̥ti < *deh₃-が語源)を過ぎた。

Mercado de Serra(ガリシア語「市場」mercado < ラテン語mercatus <「交易」mercor + 接尾辞 -tusが語源)の入り口で幹線道路(LU-P-5709)を横切り、1920年に作られた大きな石でできた泉(Fuente del Pelegrín)や粉挽小屋があった跡(Molino de Marzán:ラテン語「マルティウスの村」villa Martiani < 人名Martius < 「マルス神」Mars +‎ 接尾辞-ius < 古ラテン語Mavors + -ios < イタリック祖語*Māwortis +‎ *-jos < 印欧祖語*-yósが語源)を通り過ぎた。幹線道路(LU-633)をつきり、広々とした農道を歩いていき、高床式穀倉(hórreo) やラバを見た。

Peruscallo(ラテン語 人名Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < 「石」πέτρα / pétra + 接小辞 -ello < ラテン語-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)の村の中を歩いていたら、昨日と同じように放牧を終えた牛が、村の中を行進するように歩いてきてすれ違った。

Cortiñas(ガリシア語cortiña <「水飲み場」corte < ラテン語cortem < cors < cohors <「共に」co- < cum < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語 *ḱóm +「庭」hortus < *hortos < 印欧祖語*ǵʰortósが語源)やLavandeira(ガリシア語「洗濯する女性」lavandeira < 民衆ラテン語lavandarius < ラテン語「洗う」lavo < イタリック祖語*lawāō < 印欧祖語*(le-)lówh₃-ti < *lewh₃-が語源)を過ぎて、小川(Rego de Chelo)を渡った。

Brea(ガリシア語「突風」brea < 古ガリシア語briza < 民衆ラテン語「北風」*brevidia < ゲルマン祖語「壊れる」*brausijaną < 印欧祖語 *bʰrews-が語源)を通り過ぎたら、丘からの見晴らしが良く、牧場で牛が草を食んでいる様子が見えた。石垣が美しく作られており、巡礼路と牧場や農地が整然と分けられていた。Santiago de Compostelaまで、あと丁度100kmの道標(Mojón)を見つけて通過した。

Morgade(人名Maurecatus < ゲルマン祖語「黒い」*merkuz < 印欧祖語 *(h₂)mer(H)gʷ-os < *(h₂)mer(H)gʷ- +「戦い」*haþuz < 印欧祖語*kéh₃tusが語源)の村の中にある泉の前で一休みして、父が追い付いてくるのを待った。午後7時を過ぎて暗くなってきたが、辺りにの村には巡礼宿がないために先を急ぐことにした。村を出て直ぐの所に小さな聖堂(Capela de Santa Mariña)があった。100kmを切り、父といよいよここまで来たねと話しながら歩いた。

Ferreiros(ガリシア語「鍛冶場」ferreiro < ラテン語ferrarius < 「鉄」ferrum < 古ラテン語*ferzom < フェニキア語𐤁𐤓𐤆𐤋 / barzel < アッカド語𒀭𒁇 / AN.BARparzillum < シュメール語𒀭𒁇𒋤 / an-bar-sug₄が語源)に学校を改装した公営の巡礼宿(Albergue municipal)に泊まりたかったが、オーストリア人のカップルが、もう既に満杯で泊まれないと、巡礼宿の前で嘆いていた。

既に午後8時に近かったが、巡礼宿が一杯で泊まれないなら仕方がないから、更に10km先のPortomarínを2時間かけ目指した。1798年に建てられた村の教会(Igrexa de Santa María)を過ぎた所に見晴らしがよく遠くの山々の稜線が重なり美しい場所があった。

雨がどしゃ降りになり、建物(Bar Casa Cruceiro de Ferreiros)で雨宿りをした。そこにはPamplona出身のスペイン人の自転車で来た3人もいた。雨合羽を付けて出た。途中雷も鳴り出してきて、大変だったが、森の中の巡礼路は美しかった。辺りの村には道と住居の間に石を積んで垣が作られていた。石垣の間を抜けて、水が流れ込んだ川のような巡礼路を抜けると、次々と集落が見えてきた。

Mirallos(ガリシア語「鏡」mirallo < 民衆ラテン語*miraclum < 古典ラテン語miraculum < 「驚く」miror < mirus < イタリック祖語*smeiros < 印欧祖語「笑い」*(s)méy-ros < *(s)mey- + ガリシア語-allo < ラテン語-aculum < -culus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源)の村に入る手前で美しいロマネスク様式の教会(Iglesia de Santa María)が見えてきた。辺りが霧で霞んでいて、また、暗くなり始めてきて、村の灯りが見えてくると安心した。

Pena(ガリシア語「岩」peña < ラテン語「石」pinna < ゲルマン祖語*pinnaz < 印欧祖語*péth₂r̥ ~ pth₂én- < 「飛ぶ」*peth₂-とラテン語「石」pedra < ラテン語petra < πέτρα / pétraが語源)の辺りは道がよく、ものすごい速さで進めた。牧場の中を通る農道が巡礼路で小さな集落が点々としていた。

Couto(ガリシア語「禁制地」couto < ラテン語cautum < 「気を付ける」caveo < イタリック祖語*kawēō < 印欧祖語*(s)kewh₁-éh₁-(ye)-ti < 「観る」*(s)kewh₁-が語源)やRozas(ガリシア語「柴」roza < 「伐採する」rozar < 古ガリシア語roçar < 民衆ラテン語*ruptiare < ラテン語「壊れた」ruptus <「壊す」rumpo < イタリック祖語*rumpō < 印欧祖語*Hru-né-p-ti ~ *Hru-m-p-énti < *Hrewp-が語源)の附近には牧場があり、牛が草を食んでいた。家畜が水を飲む桶が置かれていた。また村の中には泉があり水が湧き出していた。その村を出てから山道に入った。

Moimentos(古ガリシア語「記念碑」mõimento < ラテン語 monumentum < 「気に留める」moneo < イタリック祖語*moneō < 印欧祖語*mon-éye-ti < 「考える」*men- + ラテン語-mentum < イタリック祖語*-menta < 印欧祖語*-mn̥-teh₂が語源)にはきれいな石畳の道があり、立派な家が立ち並んでいた。途中で石垣の間を歩いていたら車が通った。田舎の山道ですれ違いに車の窓を開けて、いきなり父に日本語で「お元気ですか?」と聞いてきたので驚いたと話していた。

しばらく舗装された農道を歩いていたが、木製の十字架があり、そこから未舗装の巡礼路を歩いて行き、一つの村Mercadoiro(ラテン語「商人」mercatorius <「商いをする」mercator < mercor < 「商品」merx < イタリック祖語*merks < 印欧祖語「外に出す」*merkʷ-でトカラ語A märk- < トカラ祖語*mərk-と関連、もしくは印欧祖語「分け与える」*merǵ- < 「分ける」*(s)mer-でヒッタイト語「割る」𒈥𒀝𒍣 / marktsi < ヒッタイト祖語*mergetiと関連 + 接尾辞-ius < イタリック祖語*-jos < 印欧祖語*-yósが語源)を通り過ぎた。

Moutras(ガリシア語「見せる」mostrar < ラテン語monstro < 「気づく」moneo < イタリック祖語*moneō < 印欧祖語*mon-éye-ti < 「考える」*men- +‎ 接尾辞-trum < イタリック祖語*-trom < 印欧祖語*-tromが語源)を過ぎてから、車が通れる広い道に出て、高い所から見晴らしがよい尾根を進み、風景を満喫しながら歩けた。次の村まで少し長く歩き、坂をどんどん下り、Parrochaを通り過ぎた。

(ガリシア語「小屋」parrocha < 「アヒル」parrulo < parroで印欧祖語 擬声語*pī-または「鳴く」*(s)peys-が語源、サンスクリット「鳥」पिप्पका / píppakā、「笛」पिच्छोरा / picchorā、古典ギリシア語「アカゲラ」πῑπώ / pīpṓ、「口笛を吹く」πιππίζω / pippízō、古英語「笛」pīpe < ゲルマン祖語「鳴く」*pīpaną < ラテン語「笛を吹く」pipo、古ウェールズ語「鶏」yar、中アイルランド語eréne < ケルト祖語「鶏」*yarā < *ɸiɸeros、リトアニア語「アヒル」pỹlė、「鳴らす」pyškė́ti、ラトビア語「アヒル」pīle、「きしむ」pĩkstêt、古スラヴ語「笛を吹く」пискати / piskati < バルト=スラヴ祖語「アヒル」*pīṣklę < 「鳴らす」*pīṣketi < 擬声語*pīṣk- < 印欧祖語*pī-sk-と関連)

それから林の中を歩いていたら間もなく前に二人の巡礼者を発見した。少しずつ距離が近づいてゆくと、New York出身のアメリカ人GroriとPorto Aregre出身のブラジル人Felipeの二人が流暢な英語を話しているのが聞こえてホッとした。話しかけると友達よとFelipeが大喜びして、Groriも大盛り上がりして、初対面なのにもう長く一緒に歩いてきたよう、直ぐに打ち解けてしまい、フレンドリーな二人ともお話し好きで盛り上がりながら、石垣に夕焼けが美しく照らされた巡礼路を進んだ。

FelipeとGroriとの出会いはとても劇的だった。夕暮れで巡礼路に取り残されている静寂感を取り払ってくれて、お互いに励ましながら進めた。途中でおしゃべりに明け暮れて、村の中に入るときに数回ほど道に迷いながらも、寂れた集落Vilacháを通るとき、奇妙な脚が長くて、大きな箱のような建物(hórreo)があり、何に使うのだろうねと話し合った(高床式穀倉でトウモロコシなどを貯蔵するため、ガリシア地方とつながりがあるポルトガル北部でもespigueiroとも呼ばれて使われている)。

(ガリシア語「村」vila < ラテン語villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「平ら」chá < 古ガリシア語chãa < ラテン語plana < イタリック祖語*plānos < 印欧祖語*pleh₂-no-s < *pleh₂-、もしくはラテン語villaticus < 「村」villa +‎ 接尾辞-aticus < -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源)

また、平坦な道から、急な下り坂になり、町に近づいていった。90kmの地点を通過して、見晴らしが良い場所があり、皆で記念撮影をした。直に日没を迎えて辺りが暗くなったが、もう山の中の難所は越え、ここからはもう一本道で迷う必要もなく、目の前に町明かりが見えていて安心して進めた。大きな街の風景は久しぶりに見るため、電気が美しく光り輝いていて、宝石箱のようだった。

街の手前の大きな湖が見えてきて、長い橋(Ponte Nova de Portomarín)がかかり、渡る頃に日没になり完全に暗くなった。Felipeが湖に石を投げ入れると、水面は穏やかなため、波紋がどこまでも広がっていった。石段(Escalinata)を登り、小さな聖堂(Capela das Neves)をくぐり、街に入った。中央通り(Calle General Franco)のアーケードが素敵でFelipeと大盛り上がりした。

Filipeがガリシア語に近いポルトガル語を使い、街の人に道やSupermercadoやAlbergue municipalの位置を聞いてくれた。12-13世紀に聖ヨハネ騎士団が建てた後期ロマネスク様式の薔薇窓が美しい教会(Igrexa de San Xoán)と広場(Praza Conde Fenosa)があった(教会はダム底に水没した村から移築された)。Supermercadoは、もう既に閉まっていた。宿に着いたのは、午後10時10分前だった。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPons Mineae(Miño川の橋)と記録され、近くに1181年にレオン王フェルナンド2世(Fernando II, 1137-1188)が建てた修道院(Monasterio de Santa María de Loio)があり、1212年に聖ヨハネ騎士団の領地となった。

ガリシア語「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per- + 「航海者」marín < ラテン語marinus < 「海」mare < イタリック祖語*mari < 印欧祖語*móri < *mer- + 接小辞 -inus < イタリック祖語*-īnos < 印欧祖語*-iHnosが語源。

Miño川はラテン語Minius、ギリシア語Μίνιος / Míniosと記載され、ラテン語「朱」minium < 「鉱石」mina < ケルト祖語*mēnis < 印欧祖語*mēy(H)nis < 「叩き切る」*(s)mēy(H)-が語源でSil川などが合流して、河口付近でスペインのガリシアとポルトガルの国境線となる川である。

《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「甘くて体に良く飲むに適した川として、Portomarínを流れるMiño川(Illa vero flumina, quae dulcia et sana habentur ad bibendum, his nominibus vulgariter nuncupantur: / Minea, quae defluit ad pontem Mineae)」と書かれている。)

Felipeはポルトガル語とガリシア語は良く似ているから、ガリシア人の気分になれると笑っていた。気づいたのは、Samosの街を出た所にある看板にガリシア語(camiño do peregrino)と書いてあり、ポルトガル語(caminho do peregrino)に対応して、スペイン語の前置詞deがガリシア語でdoに代わり、ポルトガル語のようだったと話すと、Felipeは何だか変な綴りのポルトガル語みたいだけれども、発音すると意味が分かるねと笑っていた。巡礼宿に着くとベットがなかった。

巡礼宿の管理人を探したが、もう夜遅すぎて見つからず、大広間(サロン)に寝具を敷いて寝た。着いた時は消灯10分前で、もう皆眠りに入る直前で大忙しだった。午後10時の消灯時間を過ぎたが、晩御飯を食べる必要があるため、静かにスープを作り、Groriがパンにチョリソとチーズを乗せた。

夕食は皆(FelipeとGloriと父)で話しながら盛り上がり、とても楽しかった。Felipeは陽気で気さくで沢山の冗談や逸話を私たちに残してくれた。二つの蝋燭の火だけで照らして食べた。寝る支度をして、リュックサックや靴も下に持ってきて、明日直ぐに出れるようにしてソファーの上で寝た。Groriと父はマットを見つけてきて、その上に寝ていた。Felipeは椅子をいくつか集めてきて繋げて眠った。

Peruscalloの村中を疾走する牛たち

2008年5月9日(金)30日目(Portomarín-Toxibó-Gonzar-Castromaior-Hospital da Cruz-Ventas de Narón-Previsa-Os Lameiros-Ligonde-Eirexe-Portos-Lestedo-Valos-Mamurria-Brea-Lamelas-Rosario-Palas de Rei-Carballal-San Xulián do Camiño-Pallota-Ponte Campaña-Casanova-Porto de Bois-Campanilla-Coto-Leboreiro-Furelos-Melide: Albergue de peregrinos de la Xunta de Galicia)

本日は霧がかった中、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色の花が咲き乱れていた巡礼路を歩いていくと徐々に晴れてきた。Leboreiroの先に中世の美しい橋(Calzada Empedrada)が雨上がりに映えていた。数日間は40km近く歩き続けたため、疲れが出て来たが、日曜日のミサに間に合うようにSantiago de Compostelaへ順調に進めた。

今日は、巡礼宿のラウンジで眠っていたので、午前5時に出る巡礼者たちに起こされて、午前6時に目が覚めた。夜は寒くて一度起きただけでよく眠れた。午前7時頃まで日の出を待ち、少し明るくなってきた頃に町を出た。GroriとFelipeは、まだ寝袋の中から見送ってくれた。

Portomarínの街へ来た道を少し引き返して、坂を下り町を出て小さな川(Rió da Barrela)に架かる橋を渡り、森の中の道を進んだ。車道(LU-633)に沿う平坦な道をしばらく歩いた。

Toxibó(1798年にTogebónと記録され、ガリシア語tocabamos < ラテン語(直説法能相未完了第一人称複数形)tangebamus <「触る」tangere < イタリック祖語*tangō < 印欧祖語*th₂-né-g-ti < *teh₂g-、もしくは西ゲルマン祖語*tukkōn < ゲルマン祖語「握る」tukkōną < 印欧祖語*dewk-kéh₂-ti < 「引く」*dewk-が語源)には立派な石造りの穀物倉庫(hórreo)があり、村の中の道には立派な石垣があり、その間を歩いてゆき、村を通り過ぎた。

それから幹線道路に沿いながら、巡礼路は時どき森の中の道を歩いた。途中のGonzar(ガリシア語「喜び」gozo +‎ 動詞を形成する接尾辞-ar < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源)の12世紀に建てられたロマネスク様式の立派な教会(Igrexa de Santa María de Gonzar)の前にある巡礼宿(Casa García)でホットチョコレートを飲んだ。寒い中を歩いてきて、父と二人で2€で一休みできて体を温められた。

それから、森と畑の中の道を進んだ。Castromaior(ガリシア語「城」castro +「大きな」maiorが語源。近くに紀元前4世紀から紀元後1世紀にかけて作られたケルト人のガラエキ族(Gallaeci)とローマ人が築いた城が存在)に80kmの道標があり、父とここまで来たねと話した。村には立派な高床式穀倉(hórreo)や12世紀に建てられたロマネスク様式の立派な教会(Igrexa de Santa María de Castromaior)があった。それから、舗装されたきれいな巡礼路を歩いた。霧がかった中、ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)の紫色、ハリエニシダ(Ulex europaeus)の黄色の花が咲き乱れていた。

Hospital da Cruz(ガリシア語「救護院」hospital +「十字架」cruzが語源)の少し先で大きな幹線道路(N-640)を渡った。そこからはハイキングコースのように歩きやすい舗装道路の山道を進んだ。Ventas de Narón(ガリシア語「鼻孔」venta < 古ガリシア語ventãa < 民衆ラテン語 *ventana < ラテン語「風」ventus < イタリック祖語*wentos < 印欧祖語*h₂wéh₁n̥ts < 「吹く」*h₂weh₁- + バスク語「川」*narb、もしくは印欧祖語「貫く」*ner-と関係すると考えられるイベリア語の河川名(hidronimia)*nar- + 接尾辞-ónが語源。Río Miñoの支流のRío Neira、León地方のNaraya, Narayola 、Asturias地方のNarcea, Naravalと同じ語源)の村の中では、高床式穀倉(hórreo)が巡礼路にせり出していた。13世紀に建てられたロマネスク様式の聖堂(Capela da Magdalena)を通り過ぎた。聖堂の脇には77kmの道標(Mojón)があり、徐々に近づいてきているのを実感した。

それから山々(Sierra de Ligonde)を眺めながら、丘を少し上り始めた。見晴らしの良い高台を歩いてゆき、それからゆるやかな坂を下りゆき、Previsa(ガリシア語「予知」prevista < prever < ラテン語praevideo <「前」prae- < イタリック祖語*prai- < 印欧祖語*préh₂ +「見る」video < イタリック祖語*widēō < 印欧祖語*wid-eh₁-(ye)-ti < *weyd-が語源)を通り過ぎた。

また、Lameiros(ガリシア語「沼地」lameir < ラテン語lama < イタリック祖語*lacma < 印欧祖語 *lókus +‎ 接尾辞-eiro < ラテン語-elus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源)を通り過ぎた所に十字架(Cruceiro de Lameiros)があった。

(Ventas de Narónの近くに1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSala Reginae > 「女王の部屋(Sala de la Reina)」と記録され、カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の妻イネス(Inés de Aquitania, 1059-1078)、コンスタンサ(Constanza de Borgoña, 1046-1093)、もしくはウラカ(Urraca, 1082-1126)に関係する。ゼベダイの子の大ヤコブ(Ἰάκωβος ὁ τοῦ Ζεβεδαίου > Iacobus Maior, filius Zebedaei, 3-44)ではなく、アルファイの子の小ヤコブ(Ἰάκωβος ὁ τοῦ Ἁλφαίου > Iacobus Minor, filius Alphaei, c.10 a.C.n.-62)の頭部をSantiago de Compostelaに聖遺物として、当時は失われた大ヤコブの頭部として奉納した。)

Ligonde(956年にLedegundiと記録があり、1494年にLegundiと記録され、人名Ledegundia< ゲルマン祖語「人」*liudiz < 印欧祖語*h₁lewdʰ-i-s < 「育つ」h₁lewdʰ- +「戦い」*gunþiz < 印欧祖語*gʷʰén-ti-s ~ *gʷʰn̥-téy-s < 「殺す」*gʷʰen-が語源)は立派な石造りの家々が立ち並んでいた。

巡礼中に亡くなった人を弔う古い十字架の柱(Cementerio de peregrinos)があり、苔むしていて、年代を感じさせた。辺りは丘陵地(Sierra de Ligonde)や牧草地が広がり、ブナや栗の木、赤松や白樺の林の中に巡礼路が通っていた。そこから何度かカーブをしながら急な坂をゆき丘を下った。全ての集落に高床式穀倉(hórreo)があり、村の中の様子や教会や家々の建築はよく似ていた。

Eirexe(ガリシア語「教会」igrexa < 古ガリシア語ygreja < ラテン語ecclesia < ギリシア語「会合」ἐκκλησία / ekklēsíā < 「外に」ἐκ / ek + 「呼ぶ」καλέω / kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyō < *kl̥h₁-éh₁yeti < *kelh₁-が語源)の近くで小川(Río Irixe)を渡り、村に入る所に十字架の柱があり、18世紀に建てられた教会(Igrexa de Santiago)の鐘楼を遠くに臨んだ。村の外れには洗濯場があった。幹線道路(LU-P-3301)と交差してから、風景を楽しみながら歩きやすい一本道をひたすら進んだ。

丘を下るとPortos(ガリシア語「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per-が語源)が見えてきた。廃屋があり寒村だった。川(Rego da Portos)を渡り村を出たら直ぐに次の村が見えてきた。

Lestedo(819年にLestetumと記録、ガリシア語「ハルガヤ(Anthoxanthum odoratum)」lesta < 「敏捷な」lesto < ゲルマン祖語「理解する」*lizaną < 印欧祖語*léys-ti-s ~ *lis-téy-s < 「辿る」*leys-が語源)の家々や石垣の石積みは緻密で16世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de Santiago)があり、教会の前には墓地が広がっていた。70kmの地点を通過した。(巡礼路から少し外れた1184年に聖ヤコブ騎士団が建てたロマネスク様式の修道院(Iglesia de Vilar de Donas)は訪れなかった。)

直ぐにValos(ガリシア語「谷」valo < ラテン語vallis < 「柵」vallus < 「壁」vallum < イタリック祖語wolwumen < 印欧祖語wolg-mn̥ < 「回す」*welH-が語源)やMamurria(ガリシア語「つぶやく」murmurio < 古典ラテン語murmur < 印欧祖語*mor-mur- < *mur-が語源。古典ギリシア語μορμύρω / mormúrō < ヘレニック祖語*mormúrō、サンスクリットमर्मर / marmara < インド=イラン祖語*marmara、リトアニア語mùrmėti < バルト=スラヴ祖語*mormutei、アルメニア語մռմռամ / mṙmṙam < アルメニア祖語*mr̥mr̥amと関係)の村を通り過ぎて、牧場の脇を進んだ。

Brea(ガリシア語「街道」vereda < ラテン語「厩舎」veredus < ゴール語*werēdos < ケルト祖語「馬」*uɸorēdosが語源)で幹線道路(N-547)に出てから、また並行する山道の巡礼路を歩いた。

Lamelas(ガリシア語「牧草地」lamela < 中世ラテン語lamella < 古典ラテン語「沼地」lama < イタリック祖語*lacma < 印欧祖語 *lókus + 接尾辞-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源)の先で幹線道路の脇を歩くようになり、Rosario(ガリシア語rosario < ラテン語rosarium <「薔薇」rosa < 古典ギリシア語ρόδεα /ródea < ῥόδον / rhódon < エオリア語ϝρόδον / wródon、ヘレニック祖語*wródon < 印欧祖語*wr̥dʰ-os < 「育つ」*Hwardʰ-が語源でサンスクリットवर्धति / várdhatiやアヴェスタ語varədaiti < インド=イラン祖語*Hwárdʰati、ラテン語「蕾」rubus < イタリック祖語*wruðos、アルバニア語「アイビー」hurdhe < アルバニア祖語*wurdāと関連、更に「バラ」はアヴェスタ語varəδa-、古アルメニア語վարդ / vardを派生、グルジア語ვარდი / vardi、エジプト語wrṱ、コプト語ⲟⲩⲣⲧ / ourt、アラム語𐡅𐡀𐡓𐡃𐡀‎ / warda、シリア語ܘܪܕܐ‎ / wardā、ヘブライ語וֶרֶד‎ / wéreḏ、アラビア語وَرْدَة /wardaに借用 + 接尾辞-ariumが語源)を通り過ぎた所で山道にまた入り、それから少し進むと大きな町(Palas de Rei)が見えてきて、住宅や商店などが増えてきた。

Castromaiorの高床式穀倉(hórreo)

道路沿いの多くの田舎町を通過して、Palas de Reiに午後1時半に着いた。

(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でPalatium Regisと記録され、「王の宮殿」が語源とされ、702年から西ゴート王ウィティザ(Wittiza, 687-710)の宮廷が所在したとされるが、実は11世紀にSan Tirso de Ulloaの教会だけが記録されており、13世紀にPalazと記録されたことから、「宮殿(palas)」ではなく「邸宅(pazo)」が正しい語源と考えられる。

当地の教会は西ゴート時代の7世紀後半に建てられた教会(Iglesia de San Pedro de la NaveやErmita de Santa María de Quintanilla de las Viñas)に似ており、特に変形の黒い石を積み重ねて作られ方などが多く見られ、ロマネスク様式やゴシック様式以前の素朴な建築を感じた。

ガリシアは、ケルト人の影響が多いと思いきや、ゲルマン語族に由来する名前や地名が多く見られ、古くからヴァンダル族(Vandali)、スエヴィ族(Suebi)、西ゴート族(Visigothi)など、ゲルマン人が移住して定着していたことを感じさせてくれる土地だった。(地名を調べると土地の歴史が分かりおもしろく、また、特にガリシア地方には、山間にものすごい数の村や集落が点在していた。)

町に入ると直ぐに12世紀に建てられた美しいロマネスク様式の教会(Igrexa de San Tirso)があり、中に入ると聖母像が沢山安置されていてとても美しかった。教会の人がスタンプを押してくれて、押してもらうときれいなデザインだった。とても感じのよい人で教会を訪れて良かったと思った。

町の中(Avenida Compostela / N-547)でSupermercadoを見つけて飲料を買った。近くの小さな商店(Supermercado Casa Benilde)もあったが、大きいお店(Supermercado Cemar)に入った。昼食を広場(Praza do Concello)で食べてから、午後2時半に町を出た。急ぎ足でやや下りの道を進んだ。

Carballal(ガリシア語carballeira < 「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós + 接尾辞-eira < -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)には、1225-28年に建てられた美しい石積みの教会(Igrexa de San Mamés)があった。途中で1回道を間違えてしまい、父と離れてしまったが、山の中の道で追いついた。美しい巡礼路だった。

San Xulián do Camiño(ラテン語「ユリアヌス」Sanctus Iulianus)の12世紀に建てられた教会(Igrexa de San Xiao do Camiño)や村の十字架も立派だった。直ぐにPallota(ガリシア語「藁葺きの小屋」pallota <「藁」palla < ラテン語「籾殻」palea < イタリック祖語*pelea < 印欧祖語*pél-eh₂ < 「覆う」*pel-が語源でサンスクリットपलाव / palā́va < インド=イラン祖語*palH ā́vasや古スラヴ語плѣва / plěvaや古プロシア語pelwo < *pelwasと関連) が見えてきて、Ponte Campaña(ガリシア語「橋」ponte +「田舎」campañaが語源)に入る手前で小川(Río Pambre)に架かる橋を渡り、Casanova(ガリシア語「家」casa +「新しい」novaが語源)で60kmの地点を通過した。

Porto de Bois(ガリシア語「港」porto +「牡牛」boi < 民衆ラテン語*boem < 古典ラテン語 bovem < 「牛」bos < イタリック祖語*gʷōs < 印欧祖語*gʷṓwsが語源でヒッタイト語𒆪𒉿𒌋 / kuwau-やルウィ語BOSwa/i-s(a) / wāwis < アナトリア祖語*gwóʔu-、ミケーネ語qo-oやギリシア語βοῦς / boûs < ヘレニック祖語*gʷous、サンスクリットगो / goや古ペルシア語𐎥𐎢 / gaua < インド=イラン祖語*gā́wš、古ブレトン語*bʉや古アイルランド語bó < ケルト祖語*bāus、古英語cūや古ノルド語kýr < ゲルマン祖語*kūz、古スラヴ語ⰳⱁⰲⱔⰴⱁ / govędoやラトビア語 govs < バルト=スラヴ祖語*gaw- ~ *gōw-、アルメニア語կով / kov < アルメニア祖語*gwov、アルバニア語ka < アルバニア祖語*kʷē、トカラ語B keᵤ < トカラ祖語*kew-と関係)など小さな村々の間に牛や羊の牧場を通り、Campanilla(ガリシア語「田舎」campaña + 接小辞-nillaが語源)で山道から舗装された道路(LU-P-4001)に出て歩きやすくなった。

Coto(ガリシア語「丘」coto < イベロ=ケルト語*cŏtto- < ケルト祖語「曲がった」*kassos < 印欧祖語*kés-s-os < 「擦る」*kes-が語源)でLugo地方からCoruña地方の境を過ぎた。高床式穀倉(hórreo)が見えた。森の中や並木がずっとあり、雨上がりにとても美しかった。

Leboreiro(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「兎の地」Campus Levurarius (Leporarius)と記録)の14世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de Santa María de Leboreiro)や十字架が立派だった。(ゴシック様式はフランスからスペインに広がったが、村では昔からの伝統で古い様式で教会が建て続けられた。)そこから美しい舗装道(calzada empedrada)を歩いてゆき、小川(Río Seco)に架かる中世の美しい橋(Puente de Magdalena)を渡った。途中でおやつ休憩をとり、父とサクランボを食べた。アメリカンチェリーと違い、甘くて美味しかった。

それからも、幹線道路(N-547)に並行する山道を歩いた。牧場の脇を歩いていると馬が巡礼路に顔を出していて可愛らしかった。少し森を歩いてゆき、Furelos(ガリシア語「貫く」furar < 民衆ラテン語*furare < ラテン語forare < foro < イタリック祖語*forāō < 印欧祖語*bʰorH-eh₂yé-ti < 「貫く」*bʰerH-が語源)の手前で1185年に架けられた美しく立派な橋(Ponte de San Xoán de Furelos)を渡った。可愛らしい帆立貝の飾りが付いた扉の家や12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Igrexa de San Xoán)があり、巡礼路を示す矢印が壁に書かれていた。

午後のガリシアは曇りがちで歩くには最高に良い条件と感じられたが、午後2時を過ぎると誰も街に歩いておらず不思議だった。皆は巡礼路を25kmほど歩くと巡礼宿に入ってしまった。少し経つとトイレに行きたくなり、近くの巡礼宿のサインがあり、巡礼路から少し逸れて行くとバー(Bar A Taberna)があった。そこにいた人が店主と思いたずねると場所を教えてくれて駆け込んだ。まだお腹の調子は良くなかったが、何と偶然にトイレがありたまげた。トイレから出ると店主がいて、トイレをお借りしましたと告げると、「良かった!良かった!(Moi ben ! Moi ben !)」と言って、歌を歌いながら、とても優しく接してくれて、流石ガリシア人と思い、商売気のなさに頭が下がる思いだった。

それから、一気に開けて平地の石垣の間を通る道を歩いていたら、馬が牧草を食んでいた。街に入る通り(Rúa Circunvalación Campo Feira)でジョギングしている地元の二人と会い、「近くだよ!頑張れ!(Está próxima! Animar!)」など励ましの言葉をかけてくれた。それから、石畳の道(Rua Camiño Vello de Santiago)を進み、Melideの街中へ入っていった。

Portomarínから25km歩いたPalas de Reiから、更に15km歩き、4、5の村々(10つの集落)を過ぎ、Melide(11世紀にMilierata、1189年に修道院(Monasterio de Sobrado dos Monxes)の古文書で「casa mea propria quam habemus in burgo que vocatur Melide」と記録。ラテン語「道標」miliario < 「千」milie < イタリック祖語*smīɣeslī < 印欧祖語*sm-ih₂-ǵʰésl-ih₂ < *sm̥-が語源)に着いた。

Melideは大きな町で散策すると、大通り(Rúa Cantón San Roque)に1325年に建てられた修道院(Convento franciscano de Sancti Spiritus)のファサードを転用して、1949年に建てられた立派な教会(Capela de San Roque)があった。大きなSupermercadoがいくつもあり、噴水(Fonte dos catro canos)がある大通り(Rua do Convento)や聖母子像がある広場(Plaza Constitución)を通った。

人通りも多く、街の人にたずねながら、巡礼宿がありそうな旧市街に入った。街の人たちは皆とても優しくて、Albergueはこっちだよと何人もの人が、こちらから道をきかなくても示してくれた。おかげさまで奥まった通り(Rúa San Antonio)に面した巡礼宿を難なく見つけられた。

巡礼宿の管理人も感じ良くて、直ぐに打ち解けてしまった。お金のおつりがないとき、色んな人に話しかけて助けてもらい、それだけで話が盛り上がり、スペインの人はとても人情があると思った。直ぐにSupermercadoに行くため、管理人(hospitaleiro)は、とても丁寧に地図を書いてくれた。

大通り(Ronda Coruña / AC-840)に面したSupermercado Garcíaはとても細長く、鰻の寝床のようで逆側にも出口があった。食料品は安くて、日本ではとても高価な羊乳のチーズ(Queso de Roncal)やゴーダ・チーズ(Queso Santa María)を切り売りされていて、チョリソ(Surtido del cura)の角切りや種無しオリーブ(Aceituna Bolsa)、ポテトチップス(Ruffles Patatas Fritas con Sabor a Jamón)やパン菓子(Panadería)、コーラ(Coca-Cola Zero)も購入した。

巡礼宿に戻り、インターネットコーナーで久しぶりにメールをチェックした。15分0.50€で使うことができ、手頃な価格だった。今までの巡礼宿ではコンピュータさえ置かれていなかった。父が夕食のスープを作ってくれていて、パンを浸して、チョリソ、オリーブ、チーズを食べた。食事のとき、ドイツ人Petraたちと話が盛り上がり、打ち解けて和やかになった。

日記を書いていたら、管理人がびっくりして、日本語で名前を書いてと言われて会話が盛り上がった。ヨーロッパでは、日本語の表記システムや日本の文化などが珍しく、皆が興味津々だから、日本人であるだけでスペイン語や英語で話が盛り上がり、日本人は巡礼者で少ないので特権だと思った。

本日もぬかるんだ山道を長く歩いてきて、今まで経験したことのない程の疲れが来たが、昨日と今日の日記を思い出せる限り書き、それ以外には何もせず、ベットに直行した。

今日は、沢山の優しい人々に会って感謝の連続だった。40km近く歩いた3日間は過ぎたが、明日は35km、明後日は15kmほど歩いて、Santiago de Compostelaに着く計画であるため、今日はとても気楽に夜を迎えられた。今日までは順調に進めていて、日曜日にまでは着けそうで安心した。

Leboreiroの先に架けられた美しい橋(Calzada Empedrada)

2008年5月10日(土)31日目(Melide-Carballal-Raído-Parabispo-Peroxa-Boente-Castañeda-Ribadiso-Arzúa-Barrosas-Pregontoño-Cortobe-QuintasCalzada-Outeiro-Boavista-Salceda-Cerceda-Empalme-Santa Irene-Rúa-Burgo-Pedrouzo-San Antón-Amenal-Cimadevila-San Paio: Casa Porta de Santiago)

今日は結局は深夜の午前0時少し前まで歩き続けた。父は足を少し痛めていたがかなり頑張り、夜も更けて寒くなり、凍え死にそうなとき、Santiago de Compostelaの手前の村(San Paio)でBarを偶然に見つけて、ガリシア風スープやパエリアを食べて温まることができ、明日に到着するお祝いをした。

今日は午前8時に巡礼宿を出発した。町を出るところには墓地があり、幹線道路(N-547)を横切り、50kmの地点を通過した。12世紀に建てられた美しい石造りの美しい教会(Iglexa de Santa María)があり、教会の前に立派な十字架があり、教会の中に高床式穀倉(hórreo)があった。

それから、洗濯場(Lavadeiro)を通り抜け、雑木林や住宅地を通る小道を進み、村々を通った。今日は父の足の調子が悪いためゆっくりと進んだ。MelideからArzúaまでは、あっという間であった。村に石造りの教会があり、高床式穀倉(hórreo)が立ち並んでいた。

Carballal(ガリシア語carballeira < 「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós + 接尾辞-eira < -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)から森の中をゆき、小川に飛び石のような橋(Ponte do río Catasol)が架けられていた。

Raído(ガリシア語「刈られた」raído <「刈る」rasar < ラテン語radere < rado < 印欧祖語*rh₁d-dʰ- < *reh₁d-が語源)の近くで幹線道路(N-547)に近づき、またしばらく林の中の道を歩いた。

Parabispo(ガリシア語 前置詞「のため」para < ラテン語per < イタリック祖語*per < 印欧祖語*per- + ad < イタリック祖語*ad < 印欧祖語*h₂éd + ガリシア語「司教」bispo < ラテン語episcopus < ギリシア語ἐπίσκοπος / epískopos <「その上で」ἐπι- / epi- < ヘレニック祖語*epí < 印欧祖語*h₁epi +‎「見る人」σκοπός / skopós < 「見る」σκέπτομαι / sképtomai < イタリック祖語*sképťomai < 印欧祖語*spéḱ-ye-ti < *speḱ-.が語源)を通り過ぎてから、小川(Rego de Valverde)を渡った。

Peroxa(ガリシア語「梨の木」pereira < 中世ラテン語petraria <「石」petra < ギリシア語πέτρα / pétrā + -aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)でも立派な高床式穀倉(hórreo)を見た。噴水がある広場から道路(N-547)に出て、直にBoente(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Jacobus de Boentoと記録され、人名Bonentius < ラテン語「良い」bonus < 古ラテン語duonus < duenos < イタリック祖語*dwenos < 印欧祖語*dew-nos < *dew- + -ntius < -ius < イタリック祖語*-jos < 印欧祖語*-yósが語源)の12世紀に建てられた美しい白い漆喰のロマネスク様式の教会(Igrexa de Santiago)から、また、きれいに石が敷き詰められた道がある村に入っていき、そこからまた雑木林の中を歩いた。

Castañeda(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でCastaniollaと記録され、ガリシア語「栗」castaño < 古ガリシア語castanno < ラテン語castaneus < ギリシア語καστάνεια / kastáneia < κάστανα / kástana < ドーリア方言κάστον / kástonが語源でサンスクリットकाष्ठ / kāṣṭha、古アルメニア語կասկ / kask、アルバニア語thanë < アルバニア祖語*tsàna、もしくは印欧祖語「灰色」*ḱas- + 「モミ」*dʰónuと関連)の少し前で牛が家の前で飼われていて遭遇した。

Pedriro(ガリシア語「石」pedra / 人名Petro < ラテン語petra / Petrus < 古典ギリシア語Πέτρος / Pétros < πέτρα / pétra + 接尾辞-iroが語源)からRío(ガリシア語「川」río < 古ガリシア語rio < 民衆ラテン語rius < 古典ラテン語rivus < 印欧祖語*h₃riH-wó-s < *h₃reyH-が語源)に向かうとき、見晴らしがとても良かった。村を出た小川(Rego Ribeiral)がある場所で一息をついた。

幹線道路(N-547)を越えてから、下り坂になり美しい風景を望みながら歩いた。聖地まで40kmになった。小川(Río Iso)を渡る前からまたきれいな石畳みの巡礼路になった。14世紀に架けられた立派な橋の袂には、15世紀に建てられた巡礼者の救護院(Hospital de San Antón de Ponte de Ribadiso)があり、その建物は今でも巡礼宿(Albergue de Ribadiso de Baixo)として使われていた。

Ribadiso(ガリシア語「崖」arriba < ラテン語「に」ad- +「岸」ripa < イタリック祖語*reipā < 印欧祖語「階段」*h₁réyp-eh₂ < 「破れ落ちる」*h₁reyp- + 前置詞 de + 河川名 Iso < バスク祖語「水」*izが語源。Carlos Benjamín Jordán Cólera (1998). De la raíz *IZ- "agua" en vasco, Fontes Linguae Vasconum 78: 267-280.)を通り抜けてから、幹線道路(N-547)沿いに歩いた。

Arzúa(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》で「新しい村」Vilanova、14-15世紀にArcerouze, dit Villeneufe; Arsetouse, dicte Villeneuve; Alserance, dit la Villeneuveと記録、ガリシア語「アーチ」arco < ラテン語arcus < 印欧祖語「弓」*h₂erkʷo-s + 「リブ」ramaxe < 古フランス語ranche < ラテン語ramex < ramus < イタリック祖語*wrād-mo- < 印欧祖語「根」*wréh₂dmos < *wréh₂ds)の大通り(Avenida de Lugo / N-547)にSupermercados Froizを見つけて買い物をした。今まで経験したことないほど安かった。レジで500€札を出す人がいて驚いた。

レディフィンガーのビスケット(Bizcochos La Bella Easo Bizcocho con huevo)やオレンジジュース(Zumo Zumosol naranja)、ポテトチップス(Patatas fritas Pringles cream & onion)やパン(Pan Froiz Baguette Integral)、苺味のヨーグルト飲料(Danonup Yoghurt bebible licuado con fresa plátano)やコーラ(Pepsi light sin cafeína)などを買った。

12世紀に建てられた立派な石造りの白漆喰が塗られた美しい教会(Igrexa de Santiago de Arzúa)を訪れると、気持ちよくスタンプをクレデンシャルに押してくれた。聖ヤコブと巡礼者の祈りの栞も付けてくれて、スペイン語版と英語版を頂いた。近くの14世紀に建てられた石積みの教会(Capilla de la Madalena)も素敵だった。調子が悪くなって来たため、父は先に歩いてもらい、街で一休みした。

街を出るとき、アーケード(Calle Carmen)を抜け、巡礼者のための水飲み場(Fuente del Peregrino)を通り、小川(Río Vello)を渡り、Barrosas(ガリシア語「泥るんだ」barroso <「泥」barro < 民衆ラテン語*barrum < ゴール語*barros < ケルト祖語*berros < 印欧祖語*bʰelH-os < 「白」*bʰelH- + 形容詞化-oso < -osusが語源でリトアニア語balàや古スラヴ語ⰱⰾⰰⱅⱁ / blato < バルト=スラヴ祖語*bálˀtasやアルバニア語baltë < アルバニア祖語*baltāと関連)を通り過ぎた。

先に歩いていった父を森の中に入ると直ぐに発見した。脚に少し痛みがきたが、平坦な雑木林を縫う巡礼路は、歩きやすくかなり距離を進んだ。鬱蒼として霧がかった森の中を歩き、いくつかの村Pregontoño(ガリシア語「宣言する」pregonar < ラテン語praeconor <「到来を告げる」praeco <「前に」prae- +「声」vox < イタリック祖語*wōks < 印欧祖語 *wṓkʷsが語源)やCortobe(ガリシア語「短い」corto < 古ガリシア語curto < ラテン語 curtus < イタリック祖語*kortos < 印欧祖語*(s)kr̥tós < 「切る」*(s)ker-+ イベロ=ケルト語 接尾辞「丘」-bre < -bris < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-sが語源)を過ぎて、小川(Rego do Ladrón)を渡った。

Quintas(ガリシア語「五つ目」quinto < ラテン語quintus < 古ラテン語quinctus < イタリック祖語*kʷenktos < 印欧祖語*pénkʷtos < 「五」*pénkʷe +‎ 接尾辞*-tósが語源)では、牧場で黒と白の斑模様の牛たちが草を食んでいた。 Calzada(ガリシア語「舗道」calzada < 古ガリシア語calçada < ラテン語*calciāta < 「小石」calx < ギリシア語χάλιξ / khálixが語源)を過ぎ、小川(Río Lengüello)を渡り、聖地まであと30kmになった。

Outeiro(ガリシア語「丘の頂」outeiro < 中世ラテン語autarium, auctarium < 古典ラテン語 altarium < 「高い」altus < イタリック祖語*altos < 印欧祖語*h₂el-tó-s < 「育つ」*h₂el-が語源)からCalle(ガリシア語「通り」calle < ラテン語callis < ギリシア語「運ぶ」κέλλω / kéllō < ヘレニック祖語*keľľō < 印欧祖語*kel-yeti < *kel-が語源) の村には入らず、巡礼路から少し外れて馬が牧草を食んでいる農道を歩いていった。村から歩いてゆくとおもしろい高床式穀倉(hórreo)の前に車輪が置かれていた。

18世紀に建てられた素敵な塔を持つ教会(Igrexa de San Breixo de Ferreiros)の前に公園(Campo de Festas de San Breixo de Ferreiros)があり、コンクリートの屋根付の建物に日陰を見つけて腰掛けて、午後3時半近くに遅めの昼食をとった。(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でFerrerasと記録され、ガリシア語「鍛冶場」ferreiroが語源)

見晴らしがよい所でフランス人たちも一休みしていて、最初は相手の母国語が初めは分からないため、英語で話しかけたが通じないため、フランス語で話しかけると喜ばれて長話をした。ビデオカメラで私や会話を取ってくれた。相手の国の言葉を使うととても喜ばれて良いことだと思った。

緑色のゴミ入れの中を開けて、写真を撮っている不思議なフランス人、また、巡礼が終わりを迎えて、「Santiago ! Santiago !」と興奮しているスペイン人など様々な人が通り過ぎた。フランス人は南部出身で都市をきくとBayonne出身で、北部のフランス語と発音が少し違うのに気付いた。北部は鼻音が多くてこもり、フランス語らしいが、南部方言はスペイン語に近く、さらさらな言葉だった。

昼食を終えてから、父が足をつり苦労した。今日の予定は7km先のSanta Ireneに切り替えて、明日は日曜日のミサに間に合うようにするには、朝早くに出て更に長く歩かなくてはならず大変と思った。

Boavista(ガリシア語「蛇」boa < ラテン語bonus < 古ラテン語duonus < duenos < イタリック祖語*dwenos < 印欧祖語*dew-nos < *dew- +「眺め」vista < 民衆ラテン語*visita < 古典ラテン語visa <「見る」video < イタリック祖語widēō < 印欧祖語wid-eh₁-(ye)-ti < *weyd-が語源)の村に入る前で直ぐに正規の巡礼路に戻り、Salceda(ガリシア語「柳林」salceda < 民衆ラテン語*salicatus < 古典ラテン語「柳」salix < イタリック祖語*saliks < 印欧祖語*sl̥H-ik-s < *sh₂lk- + 接尾辞-ado < -atus < イタリック祖語*-ātos < 印欧祖語*-eh₂-tos +‎ -icus < イタリック祖語*-kos < 印欧祖語*-ḱosが語源で古アイルランド語sailechやブレトン祖語*hėlɨg < ケルト祖語*salixsや古英語sealh, saliġや古ノルド語selja < ゲルマン祖語*salhôと関連)の近くで幹線道路(N-547)に出た。

少し山道を入るとここで命を落とした巡礼者を追悼する碑文があった。そこから幹線道路沿いの村々、Ras(ガリシア語「露頭」raso < ラテン語rasus < 「剃る」rado < イタリック祖語*razdō < 印欧祖語*rh₁d-dʰ-e-ti < 「削る」*reh₁d-が語源)やBrea(昨日に通過した村とは別で古くはVeredaと記載。ガリシア語「歩道」vereda < 民衆ラテン語*vereda <「小さい馬」 *veredus < ゴール語*werēdos < ケルト祖語「馬」*uɸorēdos < 「下に」*uɸo- < 印欧祖語*upo +‎ 「乗る」*rēdos < *rēdeti < 印欧祖語*h₃reyH-dʰh₁é-ti < *h₃reyH-が語源)の迷路のような小道を過ぎると下りになり、歩きやすい道が続いて、また幹線道路と並行する道に戻ってきた。

Cerceda(ガリシア語「調べる」cercedar < ラテン語circito < 「円」circus < 「指輪」κίρκος / kírkos < κρίκος / kríkos < ヘレニック祖語*ke-ker- < 印欧祖語*(s)ker-k- < 「曲がる」*(s)ker-が語源)やEmpalme(ガリシア語「繋がり」empalme <「繋げる」empalomar < 民衆ラテン語*inpalumba < 古典ラテン語「中に」in- +「鳩」palumbes < イタリック祖語*palwos < *palH-wos < 「灰色」*pelH-が語源でサンスクリット「灰色」पलित / palitá < インド=イラン祖語*palHtás、古スラヴ語ⱂⰾⰰⰲⱏ / plavŭやリトアニア語pal̃vas < バルト=スラヴ祖語*palwasと関連)の村を通り過ぎて森の中を歩いた。ガリシア地方では村の間に畑や牧場が広がっており、無数に小さな村があった。

Santa Ireneでは石造りの教会(Romería de San Pedro)の前に288年にRomaで殉教した聖イレーネ(Irene < ギリシア語「平和」εἰρήνη / eirḗnē < 「結ぶ」εἴρω / eírō < ヘレニック祖語*héřřō < 印欧祖語*sér-ye-ti < *ser-が語源)を祀る小さな祠(Ermida de Santa Irene)まで歩いてきて、父が少しずつ足が良くなってきて、もう少し進めそうということで、更に先を急ぐことにした。幹線道路沿いに巡礼者のための水飲み場(Fuente del peregrino)があった。林の中で聖地まであと20kmの道標を見つけた。明日には着けるから、日曜日のミサに間に合いそうだと、父と共に安心した。

Rúa(ガリシア語「通り」rúa < 古フランス語rue < ラテン語「皺」ruga < イタリック祖語*rougā < 印欧祖語*h₁roug-h₂- < 「轟」*h₁rewg-が語源)では、紋章が入った立派な石積みの家を見た。ここからは開けてきて、道が舗装されてよくなり、更にどんどん歩けた。大きな家が多く立ち並んでいた。

Burgo(ガリシア語「町」burgo < 中世ラテン語burgus < ゲルマン祖語*burgz < 印欧祖語「高い」*bʰerǵʰ-が語源)で幹線道路(N-547)に出てから、直ぐに脇の道に入った。

Pedrouzo(ガリシア語「岩場」pedroso < ラテン語petrosusか「霰」pedrazo <「石」pedra + -azoが語源、別名O Pinoはガリシア語「丘の石」pino < ラテン語pinna < ゲルマン祖語*pinnaz <「頂」*pint- < 印欧祖語「角」*bend-が語源)の外れを通り、San Antón(エジプトの砂漠で修道生活を始めて営んだ聖人Sanctus Antonius / Ἀντώνιος, 251-356が語源)の村の中を通り、Amenal(ガリシア語「愛する」amer < 古ガリシア語amar < ラテン語amare < amoが語源)まで山道を歩いた。古い橋が小川(Rego de Amenal)に架けられていた。幹線道路(N-547)をつきり、また林の中を歩いた。

Cimadevila(ガリシア語「頂」cima < ラテン語cyma < ギリシア語 「膨れ」κῦμα / kûma < ヘレニック祖語*kūmə < 印欧祖語*ḱéwh₁-mn̥ ~ *ḱuh₁-mén-s < *ḱewh₁- + 前置詞 de < イタリック祖語*dē < 印欧祖語*de + 「村」vila < ラテン語villa < イタリック祖語*weikslā < 印欧祖語「定住地」*weyḱ- + 「平ら」chá < 古ガリシア語chãa < ラテン語plana < イタリック祖語*plānos < 印欧祖語*pleh₂-no-s < *pleh₂- が語源)を過ぎて、森の中の道を抜けて、大通り(Via Servizo)に出た。

Amarelle(ラテン語「スミミザクラ」amarellum < 「苦い」amarus < イタリック祖語amāros < 印欧祖語「苦い」*h₂h₃m-ros < 「熱い」*h₂eh₃-が語源)に午後9時過ぎに到着して、帆立貝のマークに「SANTIAGO」と書かれた立派な石造りの道標(Hito entrada Concello de Santiago de Compostela)を通り過ぎて、もう少しで聖地に着くと思うと歩く気が湧いてきた。

今日は足に問題がありながらも、既に歩行距離が40kmを超えどんどん進み、夜の午後10時半になってしまったが、私は先に進み、父を空港(Aeropuerto de Lavacolla)の辺りで待っていた。日没も過ぎて寒くなってきて、霧雨に濡れて体温が奪われて凍えそうで、座っていると熱が奪われてしまうため、辺りを歩きながら待った。飛行機が目の前で離陸するのが見え、滑走路の誘導灯の光が美しかった。丁度、滑走路のお尻の部分に位置しており、飛行機が真上を飛んで離着陸して圧巻だった。

そこで1時間ほど待ち、午後11時頃に父が現れた。少し休憩してから、歩き始めて間もなく、深夜の午前0時頃にSan Paio(聖人名Sanctus Pelagius, c. 912–926でスペイン語San Pelayo、ポルトガル語São Pelágio > São Paio, Sampaioで古典ギリシア語Πελάγιος / Pelágios < 「海の人」πελάγιος / pelágios < 「海」πέλαγος / pélagos)でCafé-Bar(Casa Porta de Santiago)を見つけ入った。地元の人が、楽しそうにぺちゃくちゃと話していたり、カードで遊んでいる人々など、様々に盛り上がっていた。

皆こんな時間の巡礼者がいてびっくりしていた。レストランの人はとても親切だった。今の場所を聞いて、もう少し歩けば、Santiago de Compostelaだから頑張ろうと父と話した。テーブルに載りきれないほど、ガリシア風スープ(caldo gallego)とメインにバレンシア風パエリア(paella valenciana)、アイス・レモンティ(refrescos lata)や父はコーヒー(cafe con leche)を注文した。

ガリシア風スープはとてもシンプルだがコクがあり、とても美味しかった。それからパエリアが来た。スープが終わるのを見極めて作ってくれて、配慮のよく行き届いたレストランだった。

パエリアは鍋一つ出てきて、2人分と書いてあったが、日本だと4人分くらい盛り沢山だった。大きな海老と中位の海老や白身魚や蛤など、とても新鮮な魚介類ばかりだが、海が近いため、新鮮で生臭さは全くなかった。オリーヴオイルをふんだんに使い、ご飯に染み渡っていた。味も最高で、4人前位の量をあっという間に食べてしまった。パエリアを食べた後、レモンの香りがするお手拭きも添えられていた。父がSantiago de Compostelaに到着する前夜祭としてよい晩餐になったねと話していた。

食後ゆっくりしていると、午前1時近くになった。スペインのおじさんたちは、まだまだカード遊びを辞める気配がなく粘っていた。出る直前には、焼き肉を始めたりして、夜半にとても愉快な人たちと思った。店の人が通行証にスタンプを押してくれた。おつりが10セント多いので告げると、にこにこ笑って照れていた。お店の人は、こんなに遅いのに歩きだして大丈夫か、朝まで店が開いてるから、休んでいかないかと申し出てくれたが、明日の朝にSantiago de Compostelaについて、ミサに参加したいと話すと、今から歩いて行けば着くから心配ない。Buen Camino !と言って送り出してくれた。

そこから道路標識が当てにならず、5kmも多く歩かなくては、最後の巡礼宿があるLabacollaに着かないため、お店でしばらく体を温めてから、父と徹夜で歩き続けることにした。

CarballalとRaídoの間の森の中を通る巡礼路

2008年5月11日(日)32日目(San Paio-Labacolla-San Marcos-Monte do Gozo-Santiago de Compostela: Albergue Seminario Menor)

午前1時から最後の巡礼宿がある村Labacollaまで徹夜で歩いた。巡礼路が通る敷地を通ることができず、先に進むことができないため、巡礼宿が開くまで少しだけ仮眠をした。朝を迎えて、直ぐにSantiago de Compostelaに到着した。巡礼証明書をもらい正午のミサに参列した。日曜日のミサに間に合い感無量だった。大聖堂の前でXavierとLiaと再会して巡礼の成就を喜んだ。香炉が落ちてきそうなくらい、大きく振れていたので迫力があった。ドイツ人Ernstが聖書をドイツ語で朗読する当番になり、特別席に数人の友達を入れられることになり、直ぐに私と父に声をかけてくれて、彼のおかげでミサの一部始終を間近で見ることができ、大司教から直々に聖体拝領を受けられて感謝した。ミサの後に大聖堂から出た広場で母に無事に到着したことを電話で伝えるととても喜んだ。

午前1時過ぎにSan PaioのBarから歩き出した。12世紀に建てられて、1753年に建て替えられた村の教会(Capela de Santa Lucía)は立派な石積みで作られ、街頭に照らされていて佇まいが美しかった。

辺り一面が闇の中、坂を上りゆくと少し森の中を進むため不安だったが、ライトで照らしながら歩いてゆくと、徐々に目が順応してきて、肉眼でも道が見えるようになってきた。

幸いにSantiago de Compostelaは大都会で人家が多い所が集まり、道路もしっかりしているため、直に山道を歩かなくても済んだ。そこから、小道(Lugar Esquipa)を進んだ。

Labacolla(1173年の《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でLavamentulaと記録され、 ガリシア語「洗う」lavar < ラテン語lavo < イタリック祖語*lawāō < 印欧祖語*(le-)lówh₃-ti < *lewh₃- +「陰茎」mentula < 「心」mens < イタリック祖語*mentis < 印欧祖語*mén-tis < 「考える」*men-、もしくは「首」colo < ラテン語collum < イタリック祖語*kʷolsom < 印欧祖語*kʷolsom- < 「回す」*kʷel-から、聖地に入る前に小川(Río Lavacolla)のせせらぎで身体を清めたことが語源)の19世紀に建てられた聖堂(Igrexa de San Paio de Sabugueira)がライトアップされてきれいだった。

(《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》第6章〈聖ヤコブの道の良い悪い川(De fluminibus bonis et malis qui in itinere sancti Jacobi habentur)〉に「Santiago de Compostelaの町から2マイルの森の中をLabacollaと称する川が流れている。Santiago de Compostelaへ巡礼してきたフランス人は使徒に敬意を示して、自らの局部を洗うのみならず、服を脱いで体の汚れを落とすことを習慣とするからである。Monte do GozoとSantiago de Compostelaの町の間を流れるSarria川は清い水とみなされ、同じくSantiago de Compostelaの逆を西へと流れるSarelaも清らかであると言われている(fluvius quidam, qui distat ab urbe sancti Jacobi duobus milliariis in nemoroso loco: qui Lavamentula dicitur, idcirco quia in eo gens Gallica peregrina, ad sanctum Jacobum tendens, non solum mentulas suas verum etiam totius corporis sui sordes, Apostoli amore, lavare solet, vestimentis suis expoliata. Sar fluvius, qui inter montem Gaudii et urbem sancti Jacobi decurrit, sanus habetur; Sarela fluvius similiter, qui ex alia parte urbis versus occasum defluit sanus habetur.)」と書かれている。

そこから、深夜で街頭がない道は危険なため、山道には入らずにオレンジ色の街灯が点々とある幹線道路(N-634)に沿いながら歩いて進んだ。村を出た先の18世紀に建てられた小さな聖堂(Capela de San Roque)が遠くに見えた。Vilamaior(ガリシア語「村」vila +「大きな」maiorが語源)で左の道(Rúa de San Marcos Bando)に入り、また、ラジオ局(RTVE Galicia)の前で巡礼路に合流した。

深夜に犬の遠吠えが聞こえてきて、周辺の住民は迷惑とは思わないのかと考えながら歩いていると、真夜中の午前3時にラテン音楽が何軒かの家から大音量で聞こえてきたので笑ってしまった。San Marcos(福音書を書いた聖人名Sanctus Marcus, 5-68が語源)の1105年に建てられたロマネスク様式の聖堂(Capela de San Marcos)の先にある公園で一度だけ休憩をして進んだ。

午前4時半を過ぎていたため、門が閉じられており、巡礼宿の敷地をつきるように道が続いていたが、先に進めなかったため、午前6時過ぎまで聖堂の前で野宿して開門を待つことにした。荷を下ろして、ビニールシートを敷いて横になり仮眠をすることにした。

最後の数日は40km以上も歩き、また、最後は徹夜をして歩いてきたため、とても疲れていて、寝る前に叢の中で下痢をした。幸いにも、父がレストランで紙をもらっていてくれたから助かった。

直ぐに寝てしまい、再び起きたのは、午前6時半だった。目が覚めると門が空いていて、午前7時近くに出発して、巡礼宿で最後のスタンプを通行証(credencial)にもらい、Santiago de Compostelaに入る手前の歓喜の丘(Monte do Gozo)の頂から街を見ながら、一気に坂を下り、線路を渡り、街に入った。1924年に建てられた新ロマネスク様式の教会(Igrexa de San Lázaro)の前を通りひたすら進んだ。

父と遂に目指して歩いてきたところが見えてきたね。最後の何日間は強行スケジュールだったけれども、日曜日の午前中のミサに間に合うように頑張って歩いて来れて良かったと安心して話していた。

Monte do Gozo(ガリシア語「山」monte < 古ガリシア語mõte < ラテン語montem < mons + 前置詞do + 「喜び」gozo < 古スペイン語gozo < ラテン語gaudium < gaudeo < イタリック祖語*gāwidēō < 印欧祖語*geh₂wid-éh₁-(ye)-ti <「喜び」*geh₂w-が語源)では、丘の上から聖地が見えるため、中世フランス語Monxoi, Montjoieと記録され、巡礼者は喜んで叫んだり、聖歌「我らが神であるあなたを讃えん(Te deum laudamus)」を歌い、中世に巡礼仲間で初めにSantiago de Compostelaの大聖堂の尖塔を見た人が「王」と呼ばれて、スペインでRey、フランスでRoiという姓が生まれた。

新市街で道に迷い、父とはぐれてしまった。大通り(Adenida do Camiño Francés)から、通り(Rúa do Valiño, Rúa das Fontiñas, Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Praza de Cervantes, Rúa da Acibechería, Plaza de la Azabachería)を歩いてゆくとき、道が入り組んでいて、町の中では分かれ道が多すぎて大変だったが、道標の矢印と大聖堂をめがけて歩いた。

朝早くに着いたため、通りには人が少なくて歩きやすかった。旧市街らしき場所を探りながら、町の人に大聖堂の位置を10回以上もききながら、町の中心に近づいてゆくと、巡礼者に会い、ほっとして大聖堂に赴いた。大聖堂と思った建物(Igrexa de San Martiño Pinario)は違い、更に奥にあった。

午前8時少し前に着いて、父を一時間以上、大聖堂の前(Plaza de la Azabachería)で待ち、10日前や5日前に会ったイギリス人とFisterraについて話を聞いた。フランス人が近くに別の広場(Praza do Obradoiro)があり、父をそこで見かけたから、まだそこにいるかも知れないから行ってみるといいよと教えてくれて、直ぐに赴くと父がいた。父も私が先に行ったか、違う道を行っていたか分からず、探しても見当たらないのを不思議に思っていたようで、巡礼者に居場所を伝えて待っていてくれた。そして、イギリス人が巡礼者へのミサが、午前9時半からあると教えてくれて、大聖堂に急いだ。

Santiago de Compostelaの大聖堂
聖ヤコブの墓を発見したイリア・フラビア司教テオデミルス(Teodemirus)
(Archivo-Biblioteca de la Catedral de Santiago de Compostela, Tumbo A, 1v )

大聖堂に入るとミサが始まる気配がないので、ドイツ人に場所を聞いて、教会の反対側のドアから出て、巡礼事務所(Oficina de Acogida al Peregrino)に行った。何十人もの巡礼者がコンポステーラを受理していて、30分ほど、オーストラリア人とフランス人と話しながら順番を待った。その間にLiaと母に電話したが、携帯電話の電源が切られていて通じなかったので、また後ほどかけることにした。

巡礼証明書(Compostela)を発行してくれた女性は感じ良くて、流暢な英語を話した。どこから何日間かけて歩いてきましたかと質問をされ、4月17日にSaint-Jean-Pied-de-Portから、25日をかけて歩いてきましたと答えると、係の人は随分と早く歩いて来られましたねとにこりと笑った。

最後の数日は日曜日のミサに間に合うために40km以上、徹夜で歩いてきましたよと話したら、それは大変でしたね。無事に着いて良かったですねと言われた。

午前10時過ぎに無事に父と共に巡礼証明書が発行され、巡礼を完結することができた。巡礼事務所前の広場(Praza das Praterías)で記念撮影をした。

ミサは午前10時からのようで大聖堂に入ると丁度、香炉が上げられて、香を入れている最中だった。オルガンの音楽と共に香炉が少しずつ大きく振れてきて、大聖堂の高い天井に着きそうなほど、大きく振れると歓声が上がった。香は巡礼者のにおいを消すため、昔からの伝統を受け継いでいて、重厚感のある厳かな儀式だった。外れて香炉が落ちてきそうな位、大きく振れていたので迫力があった。

ヨーロッパの街では歴史と現代が溶け込んでいる情景に出くわすことがあり、実に面白かった。今日は大聖堂の前でロックコンサートがあり、ミスマッチはとても笑えた。ヨーロッパの広場では、このようなコンサートが良く行われ、歴史と現代が溶け込んで(?)いて、実に面白く感じた。

大聖堂から出てくると、偶然にXavierとLiaの姿を見つけた。彼らは正午のミサに間に合わせるよう計画通りにきちんと着いていた。正午まで近くのカフェで軽食を食べる前に大聖堂の中に入った。

Xavierが瞑想していて、Liaは席でお祈りに集中していたので、ミサに参列するために席を確保して座っていると、先ほどのフランス人がやってきた。間もなくBerlinから歩いてきたドイツ人Ernstが現れた。お互いに無事に到着した喜びで歓喜しながら、隣に座ってもらおうとするが、他の人に席を取られてしまった。仕方なく別の席を探し出して、父と座っていたら、Ernstが近づいてきて、ミサの最中に巡礼者の代表として、聖書を朗読するから、二人の友人を最前列の祭壇の前の特別席に招いて良いと言われたと話しかけてきて、父と私を招いてくれた。この光栄は何て表現をしたら良いか分からないくらい感謝をしますと言うと、あなた方はとても印象深い巡礼仲間だったから、大聖堂の中で見かけて探し出して、招待したいと思っていましたと話してくれて、ご恩情をとてもありがたく感じた。

最前列の特別席は柵で囲まれており、司教や助祭の方たちと同じ空間であったから、そこに行き座ると目立ちすぎて、皆の視線をひしひしと感じた。祭壇はキリスト教的なモチーフではなく、ローマ神話やギリシア神話のようなモチーフの装飾がなされていて圧倒された。ブドウの装飾やマリア様の御像もあった。すると、今日のミサにおける聖歌の紹介が修道女からあり、皆で修道女が歌うのに会衆が合わせて、繰り返して覚えた。聖歌(Gloria in excelsis deo、Alleluia. Omnes gentes、Antiphona. Ubi caritasなど)を歌った。間もなくミサが始まり、直にErnstが朗読をした。彼はドイツ人なのにフランス語や英語が達者であり、更にスペイン語も流暢でたまげた。特別席だったため、ミサの中で大司教から直々に聖体拝領を受け、私はカトリック教徒ではないのですがと伝えると、巡礼者のためのキリストの御体ですと言って、聖体拝領のパンを口の中に入れて頂けたのでとても驚いた。

目の前で聖職者がミサの儀式を執り行われていたため、細かい所までとても見やすく分かりやすかった。オルガンの音の美しさと迫力にも圧倒された。ミサの最後に香炉(botafumeiro)に司祭が香をつめて、火をつけているのが、目の前で繰り広げられていて、とても臨場感と迫力があった。香炉が揚げられてから、五人の修道士が力と息を合わせて、少しずつ揺さぶりながら、振れ幅を大きくして、丁度、香炉が真ん中の修道士たちがいる前を通る時にぴんと綱が張られて、綱を一斉に引いて、力を加えているのが見えた。振れ幅が最大になると、綱を引くのを止めて、自然に段々と小さくなるのを待ち、最後には一人の修道士が抱きつくように香炉を止めた。香炉は午前中ほどは振れなかったが(午前中に修道士たちが張り切り過ぎて疲れたからであろうか?)、香炉(botafumeiro)の儀式を間近で見れる体験をして、最後の五日間頑張って一日40km近くも歩いてきたことが報われた気がした。

ミサは説教と巡礼者の朗読を除いて、ラテン語で行われたため、理解することができた。ミサの最中、司教の説教の最中にとても睡魔に襲われたが、何とか乗り切った。献金袋が回ってきて入れた。司教の説教は、スペイン人らしく、熱気に充ち溢れていて、ものすごい早口だったために聞き取りにくくて困った。Ernstはとても気さくで心が広くて好奇心が強い人であった。彼は自ら朗読を申し出て、彼の積極性をとても尊敬した。また、そのおかげで貴重な体験ができたことに感謝した。

ミサの終了してから、XavierとLiaの姿が見えなくなり、辺りをしばらく探したが見当たらなかった。一緒に食事をしようとしていたのでとても残念だった。広場で休憩して、母に電話をかけた。Santiago de Compostelaについたことを報告して、最後の五日間は一日40kmも歩いてきたこと、昨日はミサに間に合うために徹夜で寝ずに歩いたこと、ミサに最高の席で出席できたことなどを報告すると興奮していた。巡礼証明書(compostela)をきれいに持ち帰るためにファイルを買おうと、広場(Praza do Obradoiro)の近くの土産物屋に入るが見つからなかった。今まで宿泊してきたいくつかの巡礼宿に張られていた巡礼路の全体が横にパノラマに見られる地図を探したが見つからなかった。

昨日徹夜の夜でとても疲れていて、巡礼宿を探そうと案内所(Turismo)で街中の地図ををもらい、Supermercadoの位置などを質問して、詳しくご説明を頂いた。目の前に石造りのアーケードにあり、雰囲気の良さそうなカフェ(Cafetería Bar A Capela)を見つけて入った。巡礼者や観光客でなく、地元のスペイン人が気兼ねなく出入りしていた老舗を選んだ。クリーム入りチョコレートドリンク(chocolate caliente a la taza)とハンバーガー(hamburguesa)を注文した。天然の素材から作られたものでとても体に良くて美味しかった。食事中も睡魔に襲われた。少しリラックスすると、カフェの中で眠ってしまっていた。徹夜に近い状態で歩いてきたのでしばらく休めてよかった。

それから巡礼宿を目指して、旧市街の大通り(Rúa do Vilar)を歩いて、大聖堂の近くに行くと、昨日ごみ箱の中の写真を撮っていた不思議なフランス人に会った。巡礼証明書(diplôme)をもらったかとたずねられて、もうもらったから大丈夫だよと伝えると、もらってなかったら、巡礼事務所まで一緒に行くよと言ってくれて、変わった人だと思っていたら、実はとてもフレンドリーで優しくしてくれていい人だった。Rotterdamから歩いてきたオランダ人Jean-Noelとも会った。オランダ人は英語を美しく話すことができて、言語がとても近いけれども、発音もとても美しくて、いつも驚かされた。

巡礼宿に向かう途中にSantiago de Compostela大学の構内でダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)展を催していたのを知った。展示パネルだけが見えて、日時を見ると少し前まで催されていたことが分かった。巡礼宿の入り口には、一般のスペイン人が沢山屯していて、どうしてかと思ったら、聖堂ではミサが執り行われていたり、巡礼宿の下の階が、今でも学校として使われていることが分かった。

巡礼宿は旧市街から外れた小高い丘の寂れた地区にあった。途中の通り(Rúa das Trompas)から公園(Parque de Belvís)に入る所でHospital de Órbigoの巡礼宿で足湯を作ってくれてお世話になったBurgos出身でLondonに住んでいる自転車で巡礼をしていたスペイン人Joséと再会を果たした。彼はもうFisterraまで行って帰ってきて、丘の上の巡礼宿に泊まっていた。

一緒に丘を登りきると巡礼宿に着いた。受付を済ませて部屋に入ると、全て一段ベットで荷物を入れる受付のトランクもあり、セキュリティーがしっかりしていた。神学校(Seminario Menor)だった建物が改装されており、清潔感とシンプルさと明るさがあり、部屋の中が広々としていて快適な上、町の中心部までとても近かった。チェックインにはパスポートや身分証明書の提示があり、防犯カメラも沢山設置されていて、セキュリティーが厳しくて安心した。ホスピタレーロはとても親切で、何でも助けられることがあれば力になりますから、ご遠慮なく仰って下さいと言った。ベットが用意されるのを待つ間、Joseとあれからあったことをお互いに話し合ってから、シャワーを浴びた。温度調節が不可能で、突然、熱い湯や冷たい水が出てきた。部屋でドイツ人と話し込んでから少し仮眠した。

午後5時半頃に起きて、軽食をとってから、午後8時過ぎから街の様子を見に出かけた。巡礼宿の管理人にMcDonald'sの位置やSupermercadoを詳しく教えてもらい、いくつかの通り(Rúa de Andújar, Avenida de Quiroga Palacios, Avenida de Lugo)を通り、ロータリーに出て、大きな通り(Rúa de Berlin)を直進して、ショッピングモール(Área Central Centro Comercial)に着いた。

新市街を主に通ってきたが、殆んどの商店は休日で閉まっていて、町は閑散としていた。McDonald'sでデラックスを注文し、飲み物のFantaとフライドポテトを注文すると、ものすごく大量に出てきて驚いた。ケチャップも手につかむほどくれたり、ハンバーガーのセットが10€少しでとても安かった。

スペインやフランスでは、ファンタ・レモンとオレンジしかないけれども、日本のように無果汁でなく、9パーセントほど、果汁が入っているので美味しく感じた。それは農業を守るために、法律で定められている政策によるらしいと、Triacastelaの巡礼宿でスペイン人が教えてくれたことを思い出した。

今まで歩いてきた分まで、今日はよく食べたので、食後に沢山歩いた。ロータリーまで大通り(Rúa de Berlin)を戻り、いくつかの通り(Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Rúa da Algalia de Arriba, Rúa de San Miguel dos Agros)を通り、教会(Igrexa de San Martiño Pinario)を過ぎて、広場(Praza de Immaculada)から大聖堂に出て、巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を訪れたが、日曜日は午前中のみの開館で午後は閉じていて、月曜日は休館日で一日中閉じているため、火曜日にFisterraへ向かう前にまた訪れることにした。

旧市街に入る門(Porta do Camiño)の近くで美味しそうなピザ屋さん(Pizzeria Margherita)を見つけた。狭い路地(Rúa de Xerusalén)を通り、広場(Plaza de Cervantes)に面しているという教えてもらった美味しいガリシア料理のレストラン(Casa Manolo)を探すが見つからなかった。古本屋さん(Librería Couceiro)があり、とても美しい装丁の古い本が並んでいた。

いくつかの通り(Rúa de San Bieito, Rúa de Santo Agostiño, Rúa das Ameas)を歩いて、教会(Igrexa de Santo Agostiño)や広場(Praza San Fiz Salovio, Plaza San Félix)を楽しみ、大通り(Rúa da Ensinanza)から坂道(Rúa das Trompas)を下り、また、公園(Parque de Belvís)の坂道を上がり、巡礼宿に戻った。途中でSaint-Jean-Pied-de-Portで最初に巡礼事務所で一緒に通行証を作成した南アフリカ人Winnyとばったり会い、巡礼を一緒に始めたオーストラリア人Amandaは、途中で足を痛めてしまい、巡礼宿でお手伝いをする仕事を得て、二週間ほど休憩してから歩き出したと聞いた。

巡礼宿の近くでLourdesと同じAve Mariaの鐘の時報が聞こえてきた。巡礼宿に戻り、日記を書き、直ぐに眠りについた。昨日は徹夜した上、連日40kmも歩き通したため、足の疲れが全身に回ってきて疲れていた上、久しぶりに寝心地が良いベットで寝ることができたので、直ぐによく眠れた。

Santiago de Compostelaは、914年にurbe Compostella、12世紀初の《イリヤ年代記(Cronicon Iriense)》で「埋葬された土地からコンポステーラと称される(Compositum telus, a quo dicitur Compostella)」と記録され、ラテン語 「聖ヤコブ」 Sanctus Iacobusと 「墓地」 compositum < 「整然とした」compositus < 「並べる」compono < 「共に」con- < 古ラテン語com < イタリック祖語*kom < 印欧祖語ḱóm + 「置く」pono < 古ラテン語pozno < イタリック祖語*pozinō < *po + *sinō < 印欧祖語「から」*h₂pó + 「産む」*tḱi-né-ti ~ *tḱi-n-énti < *tḱey- が語源とされたり、「星の土地」Campus Stellaeが語源とされるが、実は Ponferrada郊外のCompostillaと同じく、ガリシア語「整然とした」composta < ラテン語compositusに接小辞-ella < ラテン語-ellus < 古ラテン語-ellos < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-lósが語源である可能性が高い(Salustiano Portela Pazos (1957). Origen del topónimo compostela, Compostellanum 2(4): 681-704.)。

紀元44年に大ヤコブがエルサレムで殉教して弟子たちが船で遺体をガリシアまで運び、森(Liberum Donum)に埋葬したとされる。411年にガラエキアのスエビ王国(Regnum Suevorum)が支配して、561年にIria Flaviaの司教座が置かれ、585年に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)に編入された。711-39年に西ゴート王国の滅亡とともにアラビア人が侵入して、750年頃にアストゥリアス王国(Asturum Regnum)に編入され、 813年に聖ヤコブの墓が羊飼いにより発見され、818年にイリア・フラビア司教テオデミルス(Theodemirus, c. 780-847)がアストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, 760-842)に報告をして、聖ヤコブのために聖堂を立てた。

ローマ教皇レオ3世(Leo III)やカール大帝(Charlemagne, 748-814)に認定され、844年にアストゥリアス王ラミーロ1世(Ramiro I de Asturias, c.790-850)がクラビホの戦い(Batalla de Clavijo)で後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン2世(عبد الرحمن بن الحكم / ʿAbd ar-Raḥman ibn al-Ḥakam, 792-852)の軍勢に押されて士気を下げていたとき、白馬の騎士が現れて、戦に勝利したという伝説から、聖ヤコブへの信仰が高まった。

950年にフランスのLe Puy-en-Velayの大司教(Godescalc)が初めて巡礼をして、貴重な書籍(Paris, Bibliothèque Nationale de France, Latin 2855)を持ち帰った。997年にはアルマンソル(المنصور بن أبي عامر / Almanzor, 939-1002)の攻撃を受けたり、イベリア半島南部のイスラム勢力に脅かされながらも、《コンポステラの歴史書(Historia Compostelana)》によれば、1101年に大司教ディエゴ・ゲルミレス(Diego Gelmírez / Didacus Gelmirici, 1069-1149)が一大巡礼地として整備した。

現在の大聖堂は、1075年にカスティーリャのアルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)の治世にトゥールーズの聖セルナン修道院(Saint Sernin)をモデルとして建造が始まり、1122年に完成して、 1211年にレオン王アルフォンソ9世(Alfonso IX, 1171-1230)が奉献した。主祭壇の下には地下墓地(Catacumba)があり、829年に建てられた最初の教会の構造が残されていた。

1173年のサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂にある《カリクストゥス写本(Codex Calixtinus)》第5巻《巡礼案内記(Liber peregrinationis ad Compostellam)》でSanctus Jacobusと記録され、また、「最も素晴らしいあらゆる喜びに満ちた使徒の町Compostela。ここには栄えある聖ヤコブのご聖体が安置されており、スペインの他のいかなる都市よりも幸多く気高い(COMPOSTELLA apostolica, urbs excellentissima, cunctis deliciis plenissima, corporale talentum beati Jacobi habens in custodia; unde felicior et excelsior cunctis Hispaniae urbibus est approbata.)」と形容された。

CAPITULUM hujus Almae Apostolicae et Metropolitanae Ecclesiae Compostellanae sigilli Altaris Beati Jacobi Apostoli custos, ut omnibus Fidelibus et Peregrinis ex toto terrarum Orbe, devotionis affectu vel voti causa, ad limina Apostoli Nostri Hispaniarum Patroni ac Titularis SANCTI JACOBI convenientibus, authenticas visitationis litteras expediat, omnibus et singulis praesentes inspecturis, notum facit: Dnum (Dnam) (prénom) (nom) hoc sacratissimum Templum pietatis causa devote visitasse. In quorum fidem praesentes litteras, sigillo ejusdem Sanctae Ecclesiae munitas, ei confero. Datum Compostellae die 11 mensis Maii anno Dni 2008. Secretarius Capitularis pro Peregrinis

「証明書、聖なる使徒かつ諸都市の大聖堂、使徒ヤコブの祭壇の印章の管理者は、全ての誠意なる者、かつ、世界の至る地から、献身の行為の結果として、我らがスペインの守護聖人である聖ヤコブの墓へ巡礼してきた人たちに対して、この証明書を読むことになる全ての人に対して、(巡礼者の氏名)が、崇高なる聖堂を敬虔な理由に基づいて恭しく訪れたことを証明する。故にこの聖なる教会が所有する印章により認証されたこの証明書をこの者へ授与する。西暦2008年5月11日」

2008年5月12日(月)33日目(Santiago de Compostela: Albergue Seminario Menor)

街の中を散策して、美味しいパン屋さんを見つけたり、聖ヤコブの廟に詣でたり、夜には巡礼仲間たちと記念撮影をしてお別れ会を楽しんだ。長い巡礼路では色んな人と会って別れてを繰り返して、お互いに気づかいながら、無事に聖地までたどり着けた喜びを分かち合うことができた。

今日はとても疲れていたので、午前8時半まで眠っていた。午前9時頃に支度を整え、父がEstellaで夕食でご一緒したアメリカ人Richardと偶然に再会して住所交換をした。

それから、Santiago de Compostelaの街に出かけた。見晴らしが良い展望台(Miradoiro de Belvís)を通り抜けて、街を眺めながら、市場(Mercado de Abastos)に降りてゆく途中に小学校(Centro Concertado de Ensino Compañía de María)があり、通学の時間で大混雑して大渋滞していた。

市場を少し過ぎてから、スロープ(Rúa de Tras San Fiz de Solovio)を登りゆき、二つの広場(Praza San Félix, Plaza de Entrepraciñas)の更に奥にある広場(Praza da Fonte Seca)から路地(Rúa da Caldeirería)を左に少し入った所に小さなパン屋さん(Pastelería Tentación)を見つけ、美味しそうなパイ、また、サラミを挟んだパンなど選り取り見取りにあり、買って歩きながら食べた。

目立たない所にある小さなお店だが、スペイン人がひっきりなしに出入りしていたので、確かに味も良い上にとても安かった。特にミルフィーユ状のお菓子は、 クリームが沢山入れられていて甘すぎず、今まで食べた中でも信じられないほど美味しかった。父も思い出に残る味だと大絶賛していた。近くの広場(Praza de Mazarelos)で美味しいパンを食べてから、旧市街に入って散策をした。

大聖堂に至る道を失い、教会(Capela das Ánimas)まで行き過ぎたとき、近くの広場(Praza de Cervantes)に食料品店(Cepeda)があり、イチゴ味のヨーグルト飲み物を買った。小さな食料品店でとても安くて驚いた。1888年に創業しており、街に根差したお店だった。旅ではその場所に根差したお見せに入ると、ただ物を買うだけではなく、街の雰囲気も味わえて面白いと感じた。

それから、広場(Plaza de la Azabachería)から、1740年に作られた北門(Fachada de la Azabacheria)から大聖堂に入り、静かな内部を見た。観光客も余りおらず、とても静かだった。祭壇に聖ヤコブ像があり、祭壇の下に入ることができる入り口を発見して、中には一人修道士がいて、聖ヤコブの墓を見張っていた。聖ヤコブ像にはヨハネの黙示録にあるよう、12個の宝石が付いていたが、1つだけ失われていた。昨日のミサの最中に聖ヤコブ像の後ろに人がいて、何かと気になっていたのが、この通路だった。地下には、聖ヤコブの銀製の棺があり、少し離れた所から見られた。(祭壇下の地下墳墓こそが、聖ヤコブの亡骸を納めた極めて重要かつ現在の建物より古い時代の教会の遺構を伝えているそうである。)そこで、ゴミ箱の中を撮影していたフランス人とまた会った。

1103-17年に作られた南門(Fachada de las Platerías)から大聖堂を出ていくと、広場(Praza das Praterias)で昨日のミサで特別席に招待してくれたドイツ人Ernstとばったり会った。彼も同じ巡礼宿(Seminario minor)に泊まっていて、快適に過ごせていると話していた。

(南門にはΑとΩが彫られており、ギリシア文字の最初と最後の文字から、普通は始まりと終わりを意味しているが、こちらでは、逆にΩからΑと書かれており、新たな人生の生まれ変わりを意味する。)

それから、今は大学図書館(Biblioteca Universitaria / Universidade de Santiago de Compostela)として使われている1522-44年に建てられた司教館(Pazo de Fonseca)を訪れて、旧市街の中心通り(Rúa do Franco)を散策して、新市街の方向に歩き、商業地に入った。大通り(Rúa da Senra)はとても賑やかで人通りも多かった。Burger Kingの前で昨日のミサで綺麗な歌声で先唱していた修道女と会い、挨拶をすると、少し会話をした。彼女はきれいなフランス語を話した。旧市街に戻る途中、ピザ屋さんがあり、スペイン人がひっきりなしに出て来るので、夕食か昼食に食べることにした。

また、少し道を行くとSupermercadoの袋を持った人が沢山歩いてきて、大通り(Rúa de Montero Ríos)を少し行くとCarrefour Expressを見つけて入った。ここも面白くて、入り口の所でさっとパンや飲み物が簡単に買えて、奥がSupermercadoになっていた。

パン菓子の詰め合わせ(Carrefour Surtido de pasteles a granel)、カマンベールチーズ(Queso Camembert)、アイスクリーム(Mini sándwich sabor nata)、ドリトス(Nachos sabor queso)、ピーナッツ(Cacahuate Colombia)、コーラ味のゼリー(Gelatina Cola)、ポテトチップス(Carrefour Patatas fritas con sabor a queso)、アイスサンド(Carrefour Sándwich de duo nata)、コーラ(Cola Light Gold)、トマト(Tomate bola)、イチゴ(Fresón tarrina)、チェリー(Cereza tarrina)や巡礼証明書を入れるクリアファイル(Carrefour Clasificador plástico A-4)を買った。

Supermercadoの前のベンチを発見して食べていると、沢山の人が通りがかり、皆、街の中でアイスクリームを味わう私を不思議そうに見ていた。コーラ味のゼリー、アイスクリームがビスケットに挟まれていて、半分チョコレートでコーティングされているアイスサンドに驚いていた。

それから大通り(Rúa da República de El Salvador, Rúa do Hórreo, Plaza de Galicia)などを散策してから、旧市街の周りを全てみたいと思い、くまなく歩き回って、門(Porta da Mámoa)から旧市街の通り(Rúa das Orfas, Rúa da Caldeirería)を行き様子を伺い、アストゥリアス王アルフォンソ2世 (Alfonso II de Asturias, 760-842)の石像がある広場(Praza de Entrepraciñas)で父と別れた。父は足が疲れていたため、部屋でゆっくり休みたいと巡礼宿に戻った。

大聖堂の前に居るとFelipeとGloriが丁度入ってきて、今ここに着いたばかりだ!とかなり興奮していた。皆で巡礼の成功をとても喜び合った。午後7時に皆で中央広場に巡礼仲間が集まることを教えてもらい、集まりに行くことを約束して、彼らと別れた。大聖堂をまた訪れて、全ての祭壇や、装飾彫刻やステンドグラスやオルガンなどをくまなく見てから外に出た。やはり、ロマネスク様式の彫刻で最高傑作とされる栄光の門(Pórtico da Gloria)の聖ヤコブ像は表情が豊かで石に彫られているとは思えないほどだった。巡礼者はこの門の柱をさすり続けたため、手の跡が残るほどに窪んでいた。

Pórtico de la Gloria de la Catedral de Santiago de Compostela [1168-88]

Siestaの時間帯になり、お土産屋さんを含めて、全て閉まっていた。500年前ほどに作られた地図や現代の地図を探し求めた。地図をどこで売っているのかをたずねると、お土産屋さんは商売っ気がなくて、優しく本屋の場所まで書いてくれた。 大聖堂近くの小広場(Rúa de San Francisco) でその本屋(Libreria Medica)を見つけ、500年前の地図のファクシミリ求めた。

Siestaが終わり、本屋さんが開いたので、通り(Rúa do Vilar)で現代の地図を本屋(Libraría San Pablo)で求めた。帆立貝のキーホルダーを同じ通りのお土産屋さん(Benvido)で買い求めてから、一旦、巡礼宿(Albergue)に戻った。父も大分くつろいですっきりしたと話していた。15分ほどして、午後5時半になり、午後7時に間に合うように町の中心へ急ぎ、昨日に見つけたピザ屋(Pizzería Margherita)でマルゲリータピザと飲み物、ニンニク入りパンのセットを注文して食べた。

ピザもニンニク入りパンも美味しかったので、三種のチーズピザを追加注文すると嬉しそうに焼いて作ってくれた。食べていたら、午後7時10分前になり急いで出た。ピザ屋さんの店員さんの友達が入って来て、お客さんたちに構わず話し込んでいたとき、ドイツ人客が入ってきたが、店員さんが素っ気なく対応していたため、怒って出て行ってしまった。お国柄の違いを感じた。しかし、私たちにはとても感じよく、注文してから、直ぐに焼いてくれて、熱々の美味しいピザを食べることができた。

博物館(Fundación Eugenio Granell)の近くの通り(Praza do Toural)に面したSupermercado Froizでシャンプ(Shampú)と飲み物の缶(Refresco de manzana KAS Lata)を買い、直ぐに急いで通り(Rúa do Vilar)を歩いて、大聖堂の前の広場(Praza do Obradoiro)に行くと段々と集まり始め、少し経った頃、皆で集合写真を撮った。巡礼者は皆、たった今、到着したばかりで大興奮していた。

アメリカの看護婦さんJoanieと会い、父と私といろいろとお話したら、あなたはかなりユニークだから、日本ではなく、アメリカに来たらいいと言っていた。ずっと一緒だったアイルランド人Rosaryと再会した。また、FelipeとGloriが私を見つけて、良く来たねと彼らはものすごく興奮していた。

それから、大聖堂の前の広場(Praza do Obradoiro)で皆で記念撮影をして、色んな人と話した後、皆で広場(Praza de Fonseca)に面したガリシア料理を出してくれるカフェ(Casa Barbantes)の屋外テーブルに座り、飲み物や酒を注文して話し込んだ。Felipeはずる賢くて、1€でスーパでワインを買って隠し持ち、店員さんがいなくなると、秘かににやにやとしながらコップに注いで飲んでいた。

Felipeはどんどん酔っていき、色んな人にBuen camino!と挨拶をして、返事がもらえないと巡礼者なのにあいさつしない人に巡礼者の心がないねと叫んでいた(通りがかりの人からしたら、酔った人に絡まれたと思われていただけかもしれない)。Felipeは独りで巡礼を始めたのに途中で仲間を見つけてこうして気心の知れた皆で一緒に食べられることは、本当に素晴らしいことだと言っていた。

巡礼路では人とのコミュニケーションを大事にしてきて、沢山の友達ができていた。最後の数日間殆んど人と交わらず、40キロ近く歩き続け、どんどんハイペースで歩いてきたため、Santiago de Compostelaに着いた時は、殆んどが知らない人だったが、少し遅れてどんどん巡礼仲間が到着した。

FelipeとGloriaとRosaryとPortomarinで遅れた私たちに枕をわざわざ持ってきてくれたIsabellaだけが知っている人だった。皆で話しこんで、ハンガリー人の巡礼者と沢山の話ができた。バルトーク(Béla Bartók, 1881-1945)やコダーイ(Zoltán Kodály, 1882-1967)など、ハンガリーの音楽家の話をすると、とても喜んでいた。Felipeは他の巡礼者が通ると、相変わらず興奮して、ワイン瓶を片手に一緒に飲もうと誘っていた。そうして、5、6人で食べ始めた仲間がどんどん増えて数倍になり、片方のバーに巡礼者は入り切れず、外の2つの店にまたがり、皆で料理を注文して色んな料理を味わえた。

午後8時頃になって、お話会兼お別れ会はお開きになり、Felipeと一緒に巡礼宿の方に向かった。皆、巡礼を終えて、ご褒美として、巡礼宿に泊まらず、ホステルに止まり、一晩に30€も払っていた。皆、巡礼宿に帰るのかと思いきや、また、二次会が始まるそうで、隣の広場(Plaza Franco)に面したレストラン兼バーみたいな場所で食べ始めたので、FelipeとGloriaとRosaryに最後の別れをした。Felipeが「あなたの心が好きだから、絶対にそれを失わないでね」と別れ際に強く抱きしめて私に言った。

そして、夜の美しい街を楽しみながら、巡礼宿に戻ると、午後10時半を回っていたので直ぐに寝た。巡礼宿の前の扉は閉まっていて、カメラの方を向くと電子錠がガチャッと開く、最新式のセキュリティー・システムだった。事務所には管理人がいて開けてくれた。しかし、Londonに長く住んでいるスペイン人Joséがタオルを干していたが、無くなってしまい、失望していたので治安が良いとは言い切れなかった。ホスピタレーロも荷物の盗難には気を付けて下さいと言っていたが、もしかしたら、干していたタオルはホテルの人が片付けてしまっただけかもしれないとも思った。

Santiago de Compostelaの街並みを巡礼宿(Albergue Seminario Menor)の前から臨む

2008年5月13日(火)34日目(Santiago de Compostela-Sarela de AbaixoBarcia-Carballal-Villestro-Ventosa-Lombao-Aguapesada-Carballo-Reino-Burgueiros-Pontemaceira-Barca-Chancela-Negreira: Albergue de peregrinos de Negreira)

Santiago de Compostelaで巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を見学して、大聖堂を訪れてから、街を離れてFisterraに向かい始めた。川沿い(Rió Sarela) の近くに教会(Igrexa do Carme de Abaixo)があり美しい場所で休憩をした。道を間違えて、見晴らしの良い、小高い丘(Mirador de Santiago)に上がろ、町を一望できて楽しんだ。それから、巡礼路に戻ることができたが、父の足がむくんできてしまい、父はSantiago de Compostelaに引き返して、Fisterraまでバスで来ることにした。私は山道を歩き続けて、Pontemaceiraの美しい町を通り、Negreiraに泊まった。

今日は午前8時に起き、午前9時少し過ぎに巡礼宿(Albergue)を出た。市場(Mercado de Abastos)の周辺を歩いて、昨日のパン屋さんを探して、路地を入ったが、小さすぎて見つけられなかった。

午後10時になる2分前、 巡礼博物館(Museo das Peregrinacións e de Santiago)を訪れると、係の人がとても感じ良く、しかも、入場料を取られず無料で入館できた。上質のパンフレットを頂いて、展示室に入ると、直ぐに世界の巡礼路のパネルがあり、中に熊野神社や四国のお遍路、富士山など日本の巡礼路もあった。熊野古道の巡礼路の写真が、インドの巡礼路の隣にあった。500年前の巡礼路の手引書や様々な聖像が手が触れられるように展示されていて、至近距離で見ることができた。

昔の巡礼者の携帯物の展示もあった。金を延べ棒にしたり、リング状にしたり、携帯金を隠して、盗賊などから、安全を図られていて、巡礼の旅がどれほど大変であったかが分かった。大聖堂の変遷が事細かに年代を追って示されていて、最初期の5世紀の聖堂の花崗岩の断片まであり、起源が古いことにとても驚いた。通行証(credential)や巡礼証明書(compostella)や携帯可能な巡礼者用の聖書などがあった。階段を上がり、大聖堂で実際に使われていた聖具が沢山展示されていた。その中の1つの装飾が極めて美しく高度なものだった。薔薇を銀で作っていて、花びらがとても繊細でどう見ても、素晴らしい職人技だった。その奥は、聖ヤコブや巡礼者の像が何十体も並んでいて圧巻だった。

その更に奥には、素晴らしい絵画が何点かあり、手前に目立たないが、貴重な品々があった。木製で小さい祭壇が開き、至る所に骨があり、ラベルを見ると、聖ルチア(Santa Lucia, 283-304)など、聖人たちの骨が収められていた。驚くべきことに、こうした貴重な展示物でさえ、囲いなく触りたければ、触れるようになっていた(もちろん手を触れなかった)。しかも、ケースには防犯のため、絶対に近づいたままで居ないで下さいと書いてあった。博物館では巡礼者に優しく、無料で拝観できるだけでなく、荷物を預かっていてくれるのでゆっくりと見れた。預けた荷物を出してもらい、博物館の受付でFátimaのパンフレットをもらい外に出ると午後11時になっていた。

大聖堂に付属した教会(Parroquia de Nosa Señora a Antiga da Corticela)が開いていたので中に入った。中央の祭壇は美しく、大事に花々に彩どられていた。側面には聖人の棺を似せて作られていて、聖人が熱心に信仰されてきたことを物語っていた。

大聖堂へ歩いてゆき、町を離れる前、最後に中に入った。主祭壇を横目に見ながら、裏側の広場(Praza das Praterías)に出て、巡礼事務所(Oficina de Acogida al Peregrino)がある通り(Rúa do Vilar)を歩いた。父に広場の階段で待っていてもらい、昨日聖ヤコブの貝のキーホルダーを買ったお店 (Benvido) で三つ追加で求めた。また、煙を振りまく香炉のミニチュアも求めた。

父の所へ戻ると私のことを聞いてきたハンガリー人の若い巡礼者がいたと話していたが、誰か特定できなかった。(昨日に夕食でお話をしたハンガリー人と思われる。)

今日もよく知っている人が少なかったが、一、二人知っている人が新たに着いた。そこでまた記念撮影をした。大聖堂の中央広場(Praza do Obradoiro)から出た所でTelebancoでお金を下ろした。中央広場で巡礼仲間が撮ってあげるよと声をかけてくれて、父と記念撮影をしてから街を出た。

Santiago de Compostelaから、Fisterraに向かい、道(Rúa de San Francesco)に面した修道院(Convento de San Francesco)を通り、途中で歩行者も車もひっ切りなしに通っているにもかかわらず、線が引かれておらず、何度も車と歩行者がぶつかりそうになるところに遭遇した。事故が起こらないのが不思議なほど危険な場所だった。

始めは北の方向に行ってしまったが、西に進路を修正して進むと、 町を少し出た所に大通り(Costa de Santa Isabel)に面した見晴らしの良い公園(Parque do Monte Pío)が高台にあり、美しい大聖堂を中心としたSantiago de Compostela市街の全貌が一望できて美しかった。

そこで昨日Supermercadoで買ったパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel) にいれたチョコレートバー(Barra de chocolate)、アップルパイ(Tarta de manzana)、大好物のミルフィーユ(milhojas)などを食べて一休みした。特にミルフィーユが美味しかった。粉砂糖が降られていて、中はパイ生地でカスタードクリームが入れられ、味のバランスが良く取れていた。

町を出ていくとちょうどパトカーが通ったので道をたずねると、仕事の途中なのにとても丁寧に教えてくれた。丘から通り(Rúa do Monte Pío)を少し下り、幹線道路(Rúa do Carme de Abaixo)に出て、教会(Igrexa do Carme de Abaixo)近くの小川(Rió Sarela)に美しい橋が架けられていて渡ろうとすると、先に行った二人のスペイン人が直ぐ戻って来て、詳しく説明してくれた。英語をきれいに話す人だった。Finisterraへの道の位置とPontemaceiraが限りなく美しいから見逃さないでねと教えてくれた。特にガリシア人はとても繊細で気遣いがあり、カスティーリャ人は少し大雑把だが、エネルギーに満ちておしゃべりなど、スペインでも山脈を隔てると人の気質が大きく違い、驚きを感じた。

川沿い(Rió Sarela) の教会(Igrexa do Carme de Abaixo)がある美しい風景の場所で休憩をした。広場に面した家の人が顔を窓から出していて会釈すると喜んでいた。道に迷っていたそうなのを見取ってくれ、近くに住んでいる人を連れて来てくれて、Fisterraらへの道を教えてくれた。小川に沿う小道を歩いて行くと、小さな路地(Rúa Rueiro de Figueiriñas)に入り、そこに4人のスペイン人がいた。一人は英語が流暢でPamplona近郊出身で日本語で自分の名前を書いて欲しいと手帳を差し出した。

彼らは石を運ぶ仕事があるから、通りの仕事場に戻っていった。溜まった石を運んでいる間に休んでいて、とても賑やかに仕事を楽しんでいた。仕事をやっている所を通りかかり、石を一つずつ父と手伝うと、皆がとても喜んで盛り上がった。彼らは歌を歌いながら楽しく仕事をして、日本人も見習わうべき、スペイン人との微笑ましい時間だった。皆、地元の人は優しく、「良い旅を!(¡Buen viaje!)」と言ってくれた(Santiago de CompostelaからFisterraやMuxíaはextensiónだからである。)

それから、川沿い(Rió Sarela)に美しく花が咲いた道を爽やかな風を切りながら歩いていたとき、古い家の一部の破片が落ちていて、魚や人の顔のような不思議な絵(Petroglifos)が刻まれていた。(印欧祖語「流れ」*ser- + ガリシア語 接小辞-ela < ラテン語-elus < -ulus < イタリック祖語*-elos < 印欧祖語*-elós < *-lósが語源。)この地区は鄙びていて、廃墟の家もいくつかあるが、美しい場所だった。

道を少し失いながら、地元の人が助けてくれて、赤い矢印に沿いながら道(Camiño Regueiro)を進んだが、違う道(Rua Sarela de Abaixo)を登ってしまい、山の中に入り、キャンプ場のような所(Sendero Pedroso)を通り、急な坂道(Estrada do Pedroso)を登りきると、山の頂上の電波塔(Redes de Telecomunicación Galegas)がある展望台(Vigilancia de incendios)まで来た。

そこからの眺めはとても美しく、Santiago de Compostelaの街だけではなく、今まで通ってきた道や最寄りの村々まで全て見えてとても感動して、しばらく景色を眺めまた。巡礼路には紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)やルピナス(Lupinus angustifolius)、黄色のセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の花が咲き乱れていた。

それから、少し歩いて小屋(Casa de las tejas verdes)まで下り、車にいる人に道を聞くと親切な人が出てきて、丁寧に地図を見取りながら教えてくれた。巡礼路が通っている村(Carballal)を目指していくと、道路(DP-7803)に出たとき、一台の車が通り、道に迷っていると感づいてくれて止まってくれた。一生懸命、英語の片言で話しかけてくれたが、スペイン語で良いですよと言うと地図をみながら丁寧に教えてくれた。森をショートカットして、来た道に戻ると先ほど通ったような道(Rua Sarela de Abaixo)に出た。教えて頂いた通りに歩いて行くと、無事に巡礼路に戻れた。

父の足がむくんで張ってきたため、午後5時半にCarballal(ガリシア語carballo <ラテン語「樫」carba < 「曲がる」curvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós +‎ ガリシア語 接小辞 -llo < ラテン語-lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lós)に入る前の山道で別れた。父は巡礼路をSantiago de Compostelaへ逆に歩いて戻り、私はMuxía経由でFisterraに歩き、3日後に父がバスで行き、Fisterraで落ち合うことにした。山道を少し歩いていたら、父が私の通行証(credential)を渡し忘れて引き返してきた。それから、一人で山道をひたすら歩き、途中にとても急な坂を登り、Negreiraを目指した。

Villestro(ガリシア語「村」vila + 「敷石」estro < estrar < ラテン語estrado < 「床」stratum < 印欧祖語「広げる」*sterh₃-が語源)で川(Rió Roxos)を渡り、幹線道路(AC-453)沿いに歩いた。

Ventosa(ガリシア語「風が多い」ventoso < ラテン語ventosusが語源)を進み、Lombao(ガリシア語lombán <「丘」lombo < ラテン語lumbus < イタリック祖語*lonðwos < 印欧祖語*londʰ-wos < 「土地」*lendʰ-+‎ 接尾辞-án < ラテン語-anus < -nus < イタリック祖語*-no < 印欧祖語*-nósが語源)の手前で小川(Rego Luceiro)を渡った。

午後7時半にAguapesada(ガリシア語「水」agua < 古ガリシア語auga < ラテン語aqua < イタリック祖語*akʷā < 印欧祖語*h₂ekʷeh₂ < 「早い」*h₁eḱ- +「重い」pesada < 「測る」pesar < ラテン語penso < イタリック祖語*pendō < 印欧祖語*(s)pénd-e-ti < 「引く」*(s)pend-が語源)で小川(Rego Dos Pasos)に架けられた古い橋を渡った。赤い屋根の石造りの家が立ち並ぶ青い草原が美しかった。

雑木林の中の巡礼路(Aldea Castiñeiro de Lobo)を歩いていたら泉(Mar De Ovellas)で巡礼者が一休みしているのを見つけた。ドイツ人の父親と息子と娘の三人で、息子さんが16歳、娘さんが18歳の丁度同じ年頃で流暢に英語を話した。父親がイタリアの国旗が付いたセーターを着ていたが、Hamburg出身のドイツ人だった。Santiago de Compostelaの空港から歩いてきて、一日目だそうで不思議に思い、巡礼路を歩こうとした訳をたずねたら、カナダ人の友達が家に遊びに来て、彼にヨーロッパの歴史的で美しい所を連れて行くために一週間の学校休みの合間に来ていた。ドイツ人からするとスペインは同じユーロ圏で飛行機に乗れば数時間で飛んで来れて国内旅行のようだと話していた。

Carballo(ガリシア語「樫」carballo <ラテン語「曲がった」carvus < イタリック祖語*korwos < 印欧祖語*(s)kr̥-wós < 「切る」*(s)ker-+‎ 接小辞 -allo < ラテン語-allus < -lus < イタリック祖語*-los < 印欧祖語*-lósが語源)の村の中に立派な十字架が建てられていた。辺りはまるで日本の里山の田園風景のようだった。Reino(ガリシア語「王国」reino < ラテン語regnum < 「王」rex < イタリック祖語*rēks < 印欧祖語*h₃rḗǵs < 「正しい」*h₃reǵ-が語源でサンスクリットराजन् / rā́jan < インド=イラン祖語*Hrā́ȷ́āや古アイルランド語「王国」ríge < ケルト祖語*rīgyomと関係)まで舗装道がとても歩きやすかった。牧場で牛が草を食んでいた。高床式穀倉(hórreo)を不思議に思ったらしくてきかれた。

Burgueiros(ガリシア語「干し草」burgueiro <「丘」burgo < 民衆ラテン語burgus < ゲルマン祖語*burgz <「高い」*bʰerǵʰ- + 接小辞-eiroが語源)からは少し山道に入り、直にPontemaceira(ガリシア語「橋」ponte +「林檎の木」maceira 古ガリシア語maçẽeyra <「林檎」maçãa < 民衆ラテン語*mala < ドリア方言μᾶλον / mâlon < 印欧祖語*(s)m̥h₂l-Hō < *(s)h₂émlo- < カルトヴェリ祖語「ナシ」*msxal- +‎ -eira < ラテン語-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源でヒッタイト語𒊭𒈠𒇻 / šamalu-と関連)に着いた。先ほどSantiago de Compostelaでお勧めされた美しい村で大きな川(Rió Tambre)に美しい中世の橋がかかり、釣り人が何人かいて風情があり花を添えていた。また、街並みも美しく石積みされた赤い屋根の家々が立ち並んでいて見事だった。立派な紋章が付いている家や石造りの十字架があり、昔に貴人などの落人がいたような風情のある村だった。

それから、道路(AC-447)や平坦な田舎道や起伏ある雑木林の中の道を行き、いくつかの村を通り、Negreiraに着いた。Barca(ガリシア語「筏」barca < ラテン語*barica < baris < 古典ギリシア語βᾶρις / bâris < コプト語ⲃⲁⲁⲣⲉ / baare < 中エジプト語br < 古エジプト語bꜣjrが語源)に葡萄畑の横に美しい家があり、Chancela(ガリシア語「印章」chancela < ラテン語cancellus < 「桝を引く」cancer < イタリック祖語*karkros < 印欧祖語*(s)kr̥-kr̥- < 「切る」*(s)ker-が語源)で幹線道路(Avenida Santiago / AC-447)に出る手前に美しい高床式穀倉(hórreo)があった。

Negreira(ガリシア語「奴隷」negreiro <「黒」negro + -eiroが語源)の街中に直ぐに入り、ピザ屋さんや薬屋さんなど、沢山の商店があり、大きな町だった。街の入口の中央のロータリーには牧人の石像(Estatua á Vaca)があった。大きなSupermercado Gadisを見つけたが、残念ながら10分前の午後9時に閉まったばかりだった。坂(Carreira de San Mauro / DP-5601)を下り、18世紀に建てられた教会(Capela de San Mauro)の前に立派な建物(Pazo do Cotón)があり、その下をぐぐり、 旧市街を抜けて、公営の巡礼宿の看板を辿り、街外れに食料品屋さんを見つけたが、そちらも閉まっていてがっかりした。街を抜けて橋を渡ると通り(Calle Patrocinio)に巡礼宿があった。

管理人が直ぐに応対してくれて、もうベットが無いそうだが、今は寒くないから外で寝ても寒くないので大丈夫ですよと案内してくれた。5、6人が外で寝るので、外で寝ることにした。アイルランド人Rosaryと再会して盛り上がった。父が足を痛めたから、数日Santiago de Compostelaで休み、Fisterraまでバスで来て、そこで落ちあい、Muxíaに行くつもりとお話した。Rpsaryも外で寝た。

それから、スペイン人やフランス人Michelと話をした。二人とも日本に住んでいたことがあり、スペイン人は経済の研究に東京、フランス人は京都に住んでいたので、日本話を片言ながら話すことができた。驚いたことにドイツ人の娘さんが、フランス語をとても流暢に話して、スペイン人がドイツ語と英語を話したり、皆は三カ国語は当たり前に話せることが多いと感じた。ファンタが0.75€で悪くないと思い、ホスピタレーロに両替してもらい買って飲んだ。

巡礼宿は寄付で運営され、お金を取らなかった。少しばかりではあるが、感謝の気持ちで寄付をして、ドイツ人とお話をして、外に出て寝袋の中で寝た。ドイツ人が寝る前に明日はOlveiroaで泊まれるけれども、小さいので直ぐに一杯になるから、争奪戦になるよと教えてくれた。ドイツ人も、フランスには昼休みがあるが、スペインにはSiestaで眠りタイムまであり、笑ってしまうねと話していた。

Pontemaceiraの美しい中世の橋

2008年5月14日(水)35日目(Negreira-Zas-Rapote-Piaxe-Portocamiño-Vilaserio-Quintela-Pedrouzo-Maroñas-Santa Mariña-Bon Xesús-Gueima-Vilar de Castro-Lago-Abeleiroa-Corzón-Ponteolveiroa-Olveiroa: Albergue de peregrinos)

雨が激しく全身がびしょ濡れになりながら、早朝から午後の少し過ぎまで、霧がかりぬかるんだ巡礼路を歩き続け、立派な高床式穀倉(hórreo)や石製の十字架を見て、Olveiroaの村にたどり着いた。

今日は外がとても臭かった上、ドアの前で人が通るたびに煩くて眠れなかった。おまけに犬が遠くで吠えていたり、車が通ったりして騒音も酷く、眠りが妨げられたため、午前5時に目が覚めてしまい、もう歩き始めて良いかと思い、午前5時半にドイツ人の巡礼者と一緒に町を出ることにした。

町の出口で少し道に迷ったが、二人で相談しながら、直に正しい道(DP-5603)を得て解決した。特にFisterraまでの道のりは標識も少なくて道に迷いやすいから注意深く歩いてゆこうと思った。

明るくなるまで森の中の道(Calle Negreiroa)を進み、Zas(1207年にJohannes Petri de Sazと記録、Saz, Sas, Saaz, Saasとも書き、ガリシア語「村」Sa, Saa < ラテン語「居住地」solum < イタリック祖語*solom、もしくはゴート語「家」*sala < ゲルマン祖語*salą < 印欧祖語「居住地」*selomが語源で古教会スラヴ語「村」ⱄⰵⰾⱁ / seloやリトアニア語「村」salà < バルト=スラヴ祖語*seloと関連)の手前で幹線道路(DP-5603)に戻った。村に高床式穀倉(hórreo) があり、巡礼路沿いにぽつんと質素な小さな美しい聖堂(Capela de San Mamede de Zas)が経っていた。それからしばらく幹線道路から離れて、草原や林の中の巡礼路を歩いた。

Rapote(ガリシア語「刈る」rapar < ゴート語*hrapōn < ゲルマン祖語「壊す」*hrapōną < 印欧祖語「触れる」*(s)kreb-が語源)の村に入る前に立派な洗濯場(Lavadeiro)があった。村の中で高床式穀倉(hórreo)を見た。村を通るとき、電気が付いている家があり、朝起きのスペイン人が多いのに驚かされた(もしくは、夜なべかもしれない)。また、しばらく野原の中の道を歩いた。

明るくなってきて、Piaxe(人名Pelagius < ギリシア語Πελάγιος /Pélagios <「海」πέλαγος / pélagosが語源)には1854年に建てられた新ロマネスク様式の立派な教会(Iglexa de San Mamede da Pena)があった。一緒に歩いてきたドイツ人はBar(Albergue Cafetería Alto da Pena)に寄り、一息をつくそうなのでここで別れて、私は先を急いだ。

Portocamiño(ガリシア語 「港」porto < ラテン語portus < イタリック祖語*portus < 印欧祖語*pér-tus < 「横切る」*per- +「道」camiño < 古ガリシア語camỹo, caminno < 民衆ラテン語camminus < ゴール語「ステップ」*kamman < ケルト祖語*kanxsman < 「ステップする」*kengeti < 印欧祖語*(s)kéng-e-ti < 「跳ねる」*(s)keng- + 接尾辞*-man < 印欧祖語*-mn̥が語源で古アイルランド語cingid < ケルト祖語*kengeti、サンスクリットखञ्जति / kháñjati < インド=イラン祖語*k⁽ʰ⁾ánȷ́ati、古典ギリシア語σκάζω / skázo < ヘレニック祖語*skəďďō、古英語hincian < ゲルマン祖語*hinkanąと関連)に入る前に幹線道路(DP-5603)に出た。村に中にも教会(Parroquia de San Mamede da Pena)があった。

Vilaserio(ガリシア語「村」vila +「荘厳な」serio < ラテン語serius < 印欧祖語*swer-yo-s < 「思い」*swer-が語源)を過ぎてから、幹線道路から分かれて田舎道に入り、小川(Rego de Forxán)を渡った。Quintela(ラテン語「五番目」quintanella < quintanaが語源)やPedrouzo(ガリシア語「石」pedra < ラテン語petra < 古典ギリシア語πέτρα / pétra + 接尾辞-azo < 古ガリシア語-aço < ラテン語-aceus < -ax < イタリック祖語*-āks < 印欧祖語*-eh₂-k-s +‎ -eus < イタリック祖語*-eos < 印欧祖語*-e-yósが語源)などを通り過ぎてひたすら美しい景色を楽しみながらのどかな巡礼路を歩いた。

Maroñas(ラテン語 人名Maroneus < 地名Maronea < ギリシア語Μαρώνεια / Marṓneia < 神名Μάρων / Márōn < エトルリア語𐌌𐌀𐌓𐌖 / maru < イタリック祖語「海」*mari < 印欧祖語*móriが語源)で立派な二棟の高床式穀倉(hórreo)、Santa Mariña(聖人名Sancta Marina, 120-139が語源)の12世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de Santa Mariña)や十字架(Cruceiro de Santa Mariña)を過ぎた。

今日はぬかるんだ田舎道を歩き、雨が激し過ぎて、快適で楽しい巡礼路ではなかったが、ひたすら歩いて進んだ。そこからは幹線道路(AC-400)に沿う歩きやすい巡礼路を進んだ。そして、また農道に入り、小川(Rego de Foxas)を渡り、しばらくなだらかな平原の中の一本道を歩いた。

Bon Xesús(ガリシア語「良い」bon < 古ガリシア語bõo < ラテン語bonus + 人名「イエス」Xesús < 古ガリシア語Ihesus < ラテン語Iesus < ギリシア語Ἰησοῦς / Iēsoûs < Ἰησοῦ / Iēsoû +‎ -ος - -os < アラム語  יֵשׁוּע‎ / Yēšū́ʿ < ヘブライ語יֵשׁוּעַ‎ / yəhôšuaʿ < 「神」יְהֹוָה YAVH < 「在る」ה-י-ה h-y-h < セム祖語*haway- + 「救う」הוֹשִׁיעַ / hōšī́a < アッカド語𒁹𒀀𒌑𒋛𒀪 / ausi'i < セム祖語*hušəy-が語源)の近くのGueima(人名Guillerme < ラテン語Gulielmus < ゲルマン祖語*Wiljahelmaz <「望み」*wiljô < 「望む」*wiljaną < 印欧祖語*wélh₁-ye-ti < *welh₁- +「甲冑」*helmaz < 印欧祖語*ḱel-mos < 「かぶる」*ḱel-が語源)の屋根付きバス停のベンチで初めて休憩をとった。Santiago de Compostelaで買った硬いチーズをSan PaioのBarでもらったパンにはさんで食べて、朝食を済ませた。

それから小さな村、Vilar de Castro(ガリシア語「集落」vilar < ラテン語villaris < villa + ガリシア語 前置詞do < 「より」de + 定冠詞 o < ラテン語「それ」illum +「城」castro < ラテン語castellum < castrum < イタリック祖語*kastrom < 印欧祖語*ḱs-trom < 「切る」*ḱes-が語源)から丘(Monte Aro)を上ると見晴らしがとても良かった。近くに大きな湖(Embalse de Fervenza)があった。

Lago(ガリシア語「湖」lago < ラテン語lacus < イタリック祖語*lakus < 印欧祖語*lókusが語源)やAbeleiroa(ガリシア語「ハシバミ」abeleira < 古ガリシア語avelãeira < avelãa < ラテン語nux abellana < 地名Abella < オスク語*Abella < 印欧祖語「林檎」*h₂ébōlが語源)を通り過ぎた。

それから美しい紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)やルピナス(Lupinus angustifolius)、黄色のセイヨウツゲ(Buxus sempervirens)やハリエニシダ(Ulex europaeus)の花が咲き乱れ、岩がごつごつ露出したカルスト地形のような場所を通る巡礼路だった。

Corzón(ガリシア語「心」corazón < 古ガリシア語coraçon < 民衆ラテン語*coratio < ラテン語cor < イタリック祖語*kord < 印欧祖語*ḱérd + ラテン語-tio < イタリック祖語*-tjō < 印欧祖語*-tisが語源)で18世紀に建てられた立派な教会(Igrexa de San Cristobal)の墓地を通り過ぎた。ロッカーのような建物が建てられており、遺骨などが横穴式で置かれて葬られていた。それからも農道をひたすら歩いて、小川(Rio de Mazaricos)を渡ると直に村が見えてきた。

Ponteolveiroa(ガリシア語「橋」ponte +「オリーブ畑」olveira < ラテン語olivaria <「オリーブ」oliva < エトルリア語*𐌄𐌋𐌄𐌉𐌅𐌀 / *eleiva < 𐌄𐌋𐌄𐌉𐌅𐌀𐌍𐌀 / eleivana < 古典ギリシア語ἐλαία / elaíā < ミケーネ語e-ra-wa < ヘレニック祖語*elaíwā < 印欧祖語*h₁loywomが語源で古スラヴ語「油」лои / loiや古アルメニア語「油」իւղ / iwłと関連 + 接尾辞-aria < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósが語源)から幹線道路(DP-3404)を行き、湖(Ponte Olveiroa)が見えてきたが、激しい雨の中、霧の中に霞むように見えただけだった。途中、雨が一旦止み、美しい虹が現れた。

霧がかった巡礼路を少し歩いていくと、速足のフランス人Jacquesが自分の後で転げて、ものすごい音がして倒れて驚いた。大丈夫かと声をかけたら、問題ないよとステッキを上げて答えたので安心した。道がぬかるみ、気を付けないと石が苔むしてつるつるして、直ぐに足を滑らせる悪路を歩いた。速足のJacquesにずっと付いて行き、森の中を通り、橋を渡ると急に開けてきて、Olveiroaに着いた。

午後1時に着いたが、今日は雨が断続的に降り、路面も濡れて水溜りが多い悪路のため、また、巡礼宿がこの先には目的地のFisterraまでしかなく、ここから更に先に歩くと逆に時間が遅くなってしまうため、早く切り上げた。巡礼宿は午後3時半まで閉まっていた。仕方ないので話し合い、巡礼宿の前にあるBar O Peregrinoで休むことにした。きれいに清掃されていて、居心地が良かった。

チョコレートドリンク(Colacao)を注文した。巡礼者用のメニュー(Prato combinado)があることを知り、目玉焼きとベーコンとハムにポテトフライのセットを注文した。フランス人Jacquesも同じものを注文して、フランス語で会話を楽しんだ。Bordeaux出身Léognan在住のフランス人で訛りのないきれいなフランス語を話した。すると、注文したメニューが来た。目玉焼きは半熟で美味しく、ベーコンもハムもポテトも沢山盛られていて量に驚いた。パンも付いて、意外に安くて、美味しかった(巡礼者用のメニューは9€が多い)。お腹一杯になり、温かいカフェの中で日記を書いていた。

店員さんはガリシア人らしく、優しく気が利いて、地図が濡れてしまっていたのを見かねて、コーピーメーカーの上に置いて乾かしてくれて、とても助かった。しばらくすると、オーストラリア人2人が来て、英語の会話になった。日曜のミサの話から、ラテン語をよく学んできた話となり、ラテン語や古典ギリシア語や古英語の研究の話をすると、彼らも言語学が興味があり、とても喜んでいた。オックスフォード英語辞典の話で盛り上がり、午後3時を過ぎたので、巡礼宿に向かうが、道が分からず、Barに戻り、フランス人Jacquesに道をたずねると、一緒に行こうと言ってくれた。巡礼宿の前で30分ほど待つと、管理人が現れた。皆、Albergueが開くのを心待ちにしていたので、拍手が上がった。

そして、チェックインして、ベットの争奪戦になった。皆が我さきにとベットを取るため、先に来た人が、先に選べず、急いだ甲斐も無く、とても残念だった。しかも、良いベットをとった人は、少ない毛布も独り占めして顰蹙を買っていた。皆の自己中心的な気持ちが疲れたときに現れることを感じた。そして、脚の浸水から逃れるため、スリッパに履き替えて、少し周りの支度を済ました後、靴下を洗い、手を乾かす機械で乾かした。キッチンに行き、スープを作り、飲みながら、日記を書いた。

ドイツ人の食事とご一緒して、ご馳走してくれたり、お茶やチョコレートをもらい、話が弾んだ。ドイツで流行っている日本の小説家について話していた。名前だけ聞いたことがあったが、私はむしろ現代小説より、古典文学や哲学などに興味があると話すと興味があるそうで話が盛り上がった。

カント(Immanuel Kant, 1724-1804)やヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770-1831)、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788- 1860)やハイデッガー(Martin Heidegger, 1889- 1976)などを読んでいたと言うと、ドイツでは今はもう誰も読んでいないよと驚いていた。

食事に誘ってくれて、とても良い時間を過ごせた。 食事をしていると、パン屋さんの車が村に売りに来て、パンを買うことができた。一袋10€くらいで割高だが、こんな山中でパンを買えるとは期待していなかったので嬉しかった。また、野菜スープとは、別のクリームポタージュを作り、ゆっくりと飲みながら、日記を書き終えた。

午後6時半位に昨日の巡礼宿で話した日本に四年も暮らしていたフランス人Michelがやって来た。今日は激しい雨にとても苦しんだが、午後7時頃から晴れ間が見え、全てを乾かすのに丁度良い陽気となった。近くのBarでアルコールで火を起こしてくれて、皆で周りを囲んで温まった。そうしたほっとするひと時で会話がとても弾んだ。欧米人は日本人のように人のことをあまり考えず、暖房器具の上に自分が乾かしたいものを放って置かれていて見苦しかったが、巡礼宿は清潔で安心して眠りについた。

今日は食堂で一人だったため、人と話しが盛り上がることなく、ゆっくりと日記を書くことができた。この巡礼宿では、食堂と受付とドミトリーが離れていて、静かに時間を過ごすことができ、とても良かった。もし、受付から食堂の中が見えると、多くの人が挨拶をしてきて、今日あったことを思い出しながら書いてゆく作業が妨げられてしまうからである。今日は疲れたので良く眠れた。

Olveiroaの手前の山道で紫色のギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)や黄色のハリエニシダ(Ulex europaeus)が咲いていた

2008年5月15日(木)36日目(Olveiroa-Logoso-Camiños Chans-Cée-Corcubión-San Roque-Amarela-EstordeSardiñeiro-Escaselas Fisterra: Albergue de peregrinos de FisterraFin da Ruta Xacobea)

Santiago de Compostelaを出てから数日間はずっと霧がかった山道だったが、CéeやCorcubiónで山道が急に開けてきて、美しい海岸を見えてきて、一気に気分が上がった。山道は美しい花が咲き乱れており、雨上がりで映えて見えた。無事にFisterraに到着した。帆立貝のマークが付いた0.00kmのマイルストンを発見した。岬の灯台から一面の大西洋を望んだ。港での夕暮れは、とても美しかった。

今朝は少し長く、午前7時半まで寝ていた。午前8時少し過ぎに上のベットに寝るケベック人と少し情報交換をしてから出発した。巡礼宿では、皆の使用態度が酷くて、居心地が良くないため、あまりよく眠ることができなかった。最初は紫色や黄色の花が咲き乱れた山道をゆき、Logoso(ガリシア語「場所」logo < 古典ラテン語locus < 古ラテン語stlocus < イタリック祖語*stlokos < 印欧祖語*stel-が語源)の手前で小川(Rió de Hopital)に架かる橋(Puente Vao de Ripas)を渡った。

それから巡礼路は主に幹線道路(DP-3404)に沿い、雨の中を歩く途中、Hospital(ガリシア語「救護院」hospital, espital, spital < 後期ラテン語hospitale < ラテン語hospitalis < イタリック祖語*hostipotjālis < *hostipotis < *xostipotis < 印欧祖語*gʰóstipotis < *gʰóstis < 「食べる」*gʰes- +‎ 接尾辞*-tis + 「主人」*pótis + *-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源でバルトスラヴ祖語「主人」*gástipatis < スラヴ祖語*gostьpodь < *gȍspodь < 古スラヴ語ⰳⱁⱄⱂⱁⰴⱐ / gospodĭと関連)の先のBar O Casteliñoで朝食を取ろうとしているとき、昨日、朝から一緒に歩いたドイツ人と会った。

彼が言うには、巡礼宿には、Santiago de Compostelaで巡礼を終えたという気持ちが強いためか、Fisterraまでの道のりについて、遠足感覚(extensión)でしているためか、自分の足で歩かず、タクシーを利用して、ずるをして着いた巡礼者だらけであったから、使用態度も悪かったそうである。到着した順番も守らず、良いベットを独り占めしたり、更に布団を取り合ったり、洗濯物の乾燥のために人のことを考えず、暖房器具の上の洗濯物を平気で干せるような人たちは、当たり前にずるをするんだと彼は怒っていた。そうしたずるをする人たちが損をするのは、彼らの人生そのものだと、彼が強い口調で話していた。巡礼路においても、この有様で非常に困ったものだと感じた。

朝食はBarには立ち寄らず、道端の石に腰掛けて、カマンベールチーズ一切れを食べて終えた。それから少し行くとMuxíaとFisterraの分かれ道(Bifurcacion Finisterre - Muxia)にさし当り、右側(DP-3404)のMuxíaではなく、左側(DP-2302)のFisterra方面を目指した。

CorcubiónとCéeの美しい海岸を見たかったため、計画を変更して、先にFisterraに行き、Muxíaに後でバスで行き、Santiagoに帰ろうと考えた。(元は私が先にMuxíaも歩きで行き、そこからFisterraにまた歩いて、そこで父がSantiago de Compostelaからバスで来て落ちあい、またバスで戻るという考えであったが、実際に歩いて見ると悪路でFisterraまで余計に一日かかったため、三日でMuxíaへ行き、更にFisterraまで進むのは、時間的に難しいと途中で判明した上、)父ともFisterraからMuxíaに行けて、そこで一緒に巡礼を終えることができるため、父も喜ぶことになり良い考えと思った。

山道に入り、黄色い花が咲き乱れる巡礼路は美しかった。晴れのち曇りになり、時折太陽も姿を出してきた。年輩のフランス人の巡礼者に会い、その方たちは歌いながら歩いていて、巡礼路をとても楽しんでいた。いつもフランス人とちょうど馬が合う感じがした。思慮がありながら、物事の細かい所にこだわらないマイルドな大らかさが好きになるポイントであった。

山を歩いていくと立派な十字架(Cruceiro de Marco do Couto)とその先に15世紀に建てられた美しい小さな聖堂(Capela da Nosa Señora das Neves)があり、戸は閉まっていて中を窺えなかったが、自然と調和して、風情があった。教会の前には泉(Fonte Santa das Neves de Buxantes)があった。

途中とても美しい緑色の瑪瑙のような石が(Pedras Loiras)があった。それからしばらく山道(Brañas de Fonte Romeu)を歩くと、また谷あいに開けた場所に15世紀に建てられた教会(Ermita de San Pedro Mártir)がぽつんとあり、苔むした立派な十字架の石柱が建てられていた。昔には村が近くにあったかもしれないと感じた。教会の前に屋根付きの休憩場所があり一息をついた。また少し歩いていくと、目の前に海が姿を現してきた。遂に海岸線にたどり着いたと興奮してAldea os Camiños Chans)は終わり、幹線道路(Rúa Campo do Sacramento / AC-550)と出会った。

小さな村Camiños Chans(ガリシア語「道」camiño < 古ガリシア語camỹo, caminno < 民衆ラテン語camminus < ゴール語「ステップ」*kamman < ケルト祖語*kanxsman < 「ステップする」*kengeti < 印欧祖語*(s)kéng-e-ti < 「跳ねる」*(s)keng- + 接尾辞*-man < 印欧祖語*-mn̥ + ガリシア語「床」chan < 古ガリシア語chão < ラテン語「平地」planus < イタリック祖語*plānos < *pleh₂-no-s < 「平ら」*pleh₂-が語源)を一つ通り過ぎたとき、道を間違えそうになったが、直ぐに地元の人が、こっちだよと教えてくれてとても助かった。また、お年寄りが家の窓から外を覗いて、海を眺めていて、挨拶をすると道を教えてくれて助かった。スペイン人の田舎の人は皆、優しくて大らかに感じられた。

Cée(ラテン語「埠頭」caium < ゴール語「囲い」cagiíum < ケルト祖語*kagyom < 印欧祖語*kagʰyómが語源でアイルランド語「埠頭」céやウェールズ語「垣根」cae、ガリシア語「埠頭」caesやフランス語「埠頭」quayと関連。もしくは、イベロ=ケルト人の神名Diis Ceceaigis, Laribus Ceceaecis < Gegeiqis, Gegeiquisが語源。プトレマイオスが《地理誌(Γεωγραφικά > Geographica)》で書いたPortus ArtabrorumはCéeの港、Promontorium NeriumはFisterraの岬に比定)の町に出た。

港を眺めながら大通り(Avenida Fernando Blanco / AC-550)をひたすら進み、広場(Praza do Olvido, Praza da Constitución)など市街地の中心部に行った。町の人は皆優しく、挨拶をすれば返事が返ってきて、Supermercadoの場所をきけば教会(Igrexa de Santa María da Xunqueira)の近くの広場(Plaza do Mercado)にあるよと丁寧に教えてくれた。

Supermercados Gadisについて、炭酸飲料(Fanta Naranja)、清涼飲料(Aquarius Version 3)、ヨーグルト(Yogurt de Fresa)、Dulcesolのパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel)、アップルパイ(Tarta de manzana)、クリームパン(Triángulo de crema)、チョコレートバー(Barra de chocolate)、大好物のミルフィーユ(milhojas)を量り売りで安く手に入った。箱入の大好物の砂糖をまぶしたレディーフィンガーと呼ばれる棒状のビスケット(Bizcocho galletas Fontaneda)とホワイトチョコレート(chocolate blanco)も買った。近くにCarrefourを見つけて、そちらなら品ぞろえが更に豊富で良かったかもしれないと思った。

大通り(Avenida Fisterra / AC-445)でパトカーに道をたずねると、一生懸命、英語を話そうとしてくれたが、スペイン語で大丈夫ですよと言うと、ものすごく熱を込めて道を教えてくれた。それから、少し歩いて行くと美しい海岸線(Paseo Marítimo)が見えてきて、大通り(Rúa Santa Isabel / AC-445)をドイツ人やオーストリア人の巡礼者たちと会い一緒に歩いた。

Corcubión(ガリシア語「円い」cerco, circo < ラテン語circus < 「指輪」κίρκος / kírkos < κρίκος / kríkos < ヘレニック祖語*ke-ker- < 印欧祖語*(s)ker-k- < 「曲がる」*(s)ker- + イベロ=ケルト語「入り江」-bión, -beón < 「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語*h₂ép-h₃ō ~ *h₂p-h₃nés < 「水」*h₂ep-が語源)もとても美しい街で、特に中央の少し登った所に13世紀に建てられた教会(Igrexa de San Marcos de Corcubión)の塔があり美しかった。教会の前の通り(Rúa Mercedes)で帆立貝のデザインの面白いマンホールを見つけた。しかし、 小さな漁師町で商店が少なくて不便である上、巡礼宿も発見できず、この町に泊まるのは諦めて、皆でFisterraに向かった。

広場(Rúa Campo do Rollo)から狭い道(Rúa Fontiñas)を通り、急な上り坂を少し上がると、平らな山道(Camiño Curro)に入り、Céeで買ったAquarius Versión 3を飲んだ。甘過ぎて口に合わなかった。スペインでは、何にでも砂糖が入れられていて、飲み物がだるいほど甘くてつらかった。

山道を行くと車のナンバープレートがFisterraになっていた。ずっとそこから下りになり、幹線道路(AC-445)を歩いた。San Roque(聖ロクス (Sanctus Rochus, 1295-1327)が語源)、Amarela(ガリシア語「黄色」amarelo < 民衆ラテン語amarellus < 古典ラテン語「苦い」amarus < イタリック祖語amāros < 印欧祖語「苦い」*h₂h₃m-ros < 「熱い」*h₂eh₃-が語源)を通り過ぎて、Estorde(ガリシア語「ぼんやりする」estordir < 民衆ラテン語*exturdire < 古典ラテン語「完全に」ex- < 「外」ex < イタリック祖語*eks < 印欧祖語*h₁eǵʰs + 「眩んだ」turdus < イタリック祖語*torzdos < 印欧祖語*trósdosが語源)に近づくと海岸線が一気に見えてきた。

Sardiñeiro(ガリシア語「サンマ」sardiña < 古ガリシア語sardĩa < ラテン語sardina < 古典ギリシア語「サルジニアの」Σαρδώ / Sardṓ < ヘレニック祖語*Sărdōs < 印欧祖語「敵として振るまう人」*sr̥h₃-dʰeh₁-nom < 「敵」*serh₃- + 「行う」*dʰeh₁-が語源で古代エジプト語「海の民」𓈙𓄿𓂋𓂧𓄿𓈖𓄿 / šꜣrdꜣnꜣ, 𓈙𓄿𓂋𓂧𓄿𓇌𓄿 / šꜣrdynꜣ < フェニキア語 𐤔𐤓𐤃𐤍 / šrdn /šardan/ < ウガリット語𐎌𐎗𐎄𐎐𐎐𐎎 / šrdnn(m), 𐎚𐎗𐎚𐎐𐎎 / trtn(m) < アッカド語𒊺𒅕𒋫𒀭𒉡 / še-er-ta-an-nu /šertanu/ < シュメール語「庭」𒊬 / sar + 「全て」𒆕 / du₃と関連)など、いくつかの村々を通過して、小道(Rúa Fisterra)に入り、幹線道路(AC-445)を横切り、海岸線(Praia de Talón)に沿った道をとった。

Fisterraまで約2kmのEscaselas(ガリシア語「珍しい」escaso < 古ガリシア語escasso < 民衆ラテン語*excarsus < 古典ラテン語excerptus < 「選ぶ」excerpo < 「完全に」ex- + 「摘む」carpere < イタリック祖語*karpō < 印欧祖語*kerp-eh₁-(ye)-ti < *kerp- < 「切る」*(s)ker-が語源)で海岸線(Playa de Langosteira)とFisterraの町や岬(Faro de Finisterre)が美しく見える場所があり、暫しの休憩をとった。大好物の棒状のビスケット(Bizcocho galletas Fontaneda)の箱が広告の品で安くて美味しく、美しい風景の中で食べられて幸せだった。少し港の中で日記を書いた。潮風が気持ちよく、日記を書くのも捗った。食事をしてから、靴下と靴の中に入れるハンカチを洗って、山道での汚れを落とした。

30分ほど休憩してから、また海岸沿いの道に行き、沢山の散歩をするスペイン人とすれ違いながら、Fisterra(ラテン語「最果ての地」Finisterra < ガリシア語「終わり」fin < ラテン語finis < イタリック祖語*fignis < *θignis < 印欧祖語*dʰeygʷ-n-ís < 「立てる」*dʰeygʷ-、もしくはイタリック祖語*fidnis < 印欧祖語*bʰeyd-n-ís「分かれる」*bʰeyd- +「地」terraが語源)の街に入り、通り(Rúa Cruz de Baixar, Rúa Santa Catalina, Rúa Real)を歩いて、港(Porto de Fisterra)の近くに着くと、直ぐに目立つ所に巡礼宿を見つけた。その前には巡礼者がたむろしていた。

昨日Barで一緒に食べたフランス人Jacquesと話をして、午後5時まで待った。私は二着だった。すると、十人ほどの巡礼者が続々とやってきた。皆と話をしたり、靴を脱ぎ中の靴箆を出して、靴下も乾かした。山の中の天気と全く違い、よく晴れていて、とても乾燥していて、直ぐに乾いた。十人でも多いと思ったが、近くのカフェまで足を延ばすと、そこにも何十人もの巡礼者が寛いでいて驚いた。

歩き始めた最初の頃に一緒に食事をしたイタリア人GiuseppeとAlbergueの前でまた会えて、抱き合った。少しすると巡礼宿の管理人が現れて入っていいよと言われた。今日の巡礼者たちは節度があり、あなたが一着、ニ着と並び、順番に受付が始まった。二着なので、直ぐに順番がきた。日本からと知ると、東京から歩いて来ましたかと、冗談を言われたので、残念ながら、海の上は歩けませんのでと切り返すと、皆がどっと笑って盛り上がった。ここまで来る日本人は少ないらしく大歓迎された。

巡礼宿に着いて、少し休憩してから、直ぐに岬へ散歩をした。港(Paseo Ribeira)を抜けて、住宅地(Rúa Virxe das Areas)に入り、12世紀に建てられた教会(Igrexa de Santa María das Areas)を通り、一本道の車道(Rúa Cabo Fisterra / AC-445)を20分、3, 4km歩いていくと岬に着いた。 そこには昨日の巡礼宿で一緒だったスペイン人のサイクリストが横になっていた。

岬の先端に行き、灯台に入り、展示を見た。そこから出ると、帆立貝のマークが付いた0.00kmのマイルストーン(Mojón Km 0 Camino de Santiago)や十字架(Cruceiro faro de Fisterra)を発見して、通りすがりのフランス人を見つけて、フランス語で写真を頼むととても喜んで沢山良い写真を撮ってくれた。しばらくすると、Málaga出身のスペイン人Pepeら巡礼者が現れてマイルストーンの前で記念撮影をした。少し手前の十字架前で写真をスペイン人サイクリストに撮ってもらった。

巡礼宿がある町中まで一本道を戻り、美しい教会(Igrexa de Santa María das Areas)と15世紀に建てられた十字架(Cruceiro de Santa María)の前を通ると音楽が聞こえてきたので近づくと地元の子供たちがバグパイプ(gaita < ゴート語「山羊」gaits < ゲルマン祖語 *gaits < イタリック祖語*haidos < *χaidos < セム祖語*gady- < ナフ祖語*gaazaᶰが語源)を演奏していた。

町の中へ戻り、港の道(Rúa Alfredo Saralegui)に面したSupermercados Froizでスパゲッティー(espaguetes)とコーラ(Cola)とチョリソ(Chourizo)とパン(Pan)を求めた。

途中、港での夕暮れはとても美しかった。海全体が赤く染まり、今までずっと陸を歩いてきて、やはり海が好きなことを感じた。近く(Praia da Ribeira)で子供たちが遊んでいて、皆、東洋人にびっくりして、スペイン語で話しかけられて、地元の子供たちと沢山お話をした。

通り(Rúa Real)に面した巡礼宿に戻り、プリングスを買いに隣のSupermercado Eroskiに行った。サワークリーム味のプリングスは無かったが、美味しそうなアーモンドとチョコレートでコーティングされたアイスクリーム(Bombón herado almendrado)を求めて、巡礼宿で到着を記念して食べた。もう一つのスーパーマーケットは巡礼宿の斜め前にあり、買い物がとても便利だった。

巡礼宿で皆がキッチンを使う前に、スープとスパゲッティをさっと作った。スペイン人が助けてくれて、直ぐに出来上がった。パスタとスープは多すぎて、全て食べられなかったが、皆と分け合いながら味わって食べた。最後に疲れていて、パンを落としてしまい、捨てる羽目になり残念だった。

日記を書きながら、バスの時間をチェックしていると、日本に4年も住んでいた一昨日からいつも一緒のフランス人Michelがいた。フランス語で色んなお話をして、住所交換をした。また、近いうちに日本に来ること、彼の娘さんは18歳でAvignonの大学で薬学を専攻していることなどを話していた。彼は殆んど旅に出て、家に殆どいないようで、とても不思議な人だった。

明日、父と会う時間とバス停の場所を確認した。Muxíaへバスで行くにはCéeへ一回出て、一回乗り換える必要があった。午前0時になり床についた。今日の巡礼宿はとても清潔で快適でよく眠れた。

Tenda Peregrina / Fin do Camiño, Rúa Santa Catalina, Fisterra

2008年5月16日(金)37日目(Fisterra-Escaselas-Hermedesuxo-Rial-Buxán-Suarriba-Castrexe-Lires: Restaurante As Eiras)

父と午後に再会して、岬の灯台をまた訪れた。Fisterraで豪華に巡礼を終える人が多いが、Muxíaの穏やかで美しい海岸で巡礼を終えるのが良いと思った。最後の最後にXavierとLiaとFisterraで偶然会い、一緒に聖ヤコブの貝殻を探すこともでき、本当に良かった。彼らも運命的な再開だと喜んでいた。Muxíaに向かう道で美しい海岸(Mexadoira Fervenza)で一休みした。Liresの街に着いたとき、日暮れになり、Barでガリシア料理を食べてから、前の広場の寒さがしのげそうな軒の下で野宿した。

今日は朝、午前8時半頃起きて、靴下を乾かしてから、フランス人たちとお話をした。アイルランド人Rosarieなど、午前8時半のバスで発つ人たちと別れて、午前9時のバスは少なかったので、午前10時までフランス人Jacquesたちと、それからもMelideの巡礼宿の食堂でおしゃべりしたドイツ人Petraと談笑して、父をAlbergueの隣のバス停で待つ間、フランス語とイタリア語とスペイン語で読書した。

バス停でフランス人Lagiereと話していると、Hostel Nicolaの宣伝しに来た男の人が、子犬と一緒に来ておしゃべりをした。彼はガリシア語で話しかけてきて、私はスペイン語で話をして、お互いに何を話しているか理解できて、会話が成立した。彼は生粋のガリシア人で子犬が小さな頃、子犬をバックに入れて、一緒に巡礼をした思い出話を聞かせてくれた。杖を持って来て、元の杖は巡礼で擦り切れたと言って見せてくれた。自分の杖を見せると一緒だねと巡礼の思い出話を沢山聞かせてくれた。

町を少し見回っていると、広場(Plaza Santa Catalina)のバス停の近くでBerlinから来たドイツ人Annikと会った。彼女とはBurgosから何十回も道で会ったことが思い出された。そして、バスが時刻表にあるよう、午前9時と午前10時にバスが来なくて、父と会えないため、どうしてかたずねると、それはSantiago de Compostelaを発つ時間だから、3時間を足した時間に来ると教えてもらい安心した。

近くのCafé Bar La Fronteraで一杯ご馳走してあげるから、そこでゆっくりお話しようとチョコレートドリンク(Colacao)一杯をごちそうしてくれた。感謝をすると、今日が本当に巡礼の最後で人のために何か良いことを一つできて良かった。本当にありがとうと逆に感謝をされてしまい恐縮した。それに、父が足に問題があり、Fisterraまで歩いてこれなかったことを告げると、脚の腫れ止め薬をくれた。彼女も足に同じ問題を抱えていて、巡礼の途中で薬局に立ち寄り買ったと話していた。

別れを告げて、間もなく正午になりバスが来た。父が乗ってきて、無事に再会して、近くの通り(Rúa Alfredo Saralegui)にあるSupermercado Froizでアイスクリーム(Frigo magnum almandras)を買った。レジは多く買い求める人たちで混雑していたが、皆は笑いながら行きなさいと目配せしてくれて、列の最初に通してくれて、快く譲ってくれて、優しくして頂いた。海岸や港を眺めながらアイスクリームを楽しみ、Fisterraの岬を目指して父と歩いた。30分ほど歩いて、岬に辿り付いた。

港には朝市が立ち並んでいて賑やかだった。岬まで車道と並んで歩いてゆかなければならず、とても危険だが、皆、巡礼者に優しくて、遠い車線を走ってよけてくれた。岬には人が沢山いて賑わっていた。灯台は午前中は閉まっていた。岬の先まで行き、先端の海岸線が見える所まで行った。

岬の先で休憩して大西洋を眺めながら果物を食べた。昨日が生まれて初めて大西洋を見た。こんな美しい海岸線で、しかも巡礼中に見れるのはとても幸せに感じられた。岬を後にする前に十字架の前で写真を撮った。スペイン人が杖を貸せだ、写真を何度も撮れだ、降りるとき手を貸せだ、図々しく重い荷物を背負う人に無関心で驚くほど飽きれた。フランス人Michelがいきなり現れて追っ払ってくれた。彼と記念撮影して、岬を後にした。昔の巡礼路はここまで来ていて、ヨーロッパ人にも関わらず、生まれて初めての大西洋を見たが、私もそのようで会って驚くべきことではないと話していた。

町の中に戻り、Supermercado Froizで食糧や飲料、 Dulcesolのパン菓子の詰め合わせ(Dulcesol surtido de pasteles a granel) 、ウエハース(Galletas coral boer con chocolate)、量り売りのバナナ(Banana)、リンゴジュース(Zumo Zumosol Manzana)、レモンティ(Nestea té negro con limón sin azúcar)、アイスクリーム(Helado de chocolate con leche y almendras Magnum Frigo)を買い求めて、町を抜けていくと、海岸近くでXavierとLiaが一緒に歩いているのを発見した。彼らの姿が一目で直ぐに分かり、声をかけると、彼らもとてもびっくりして再会を大喜びした。

Santiago de Compostelaの大聖堂の中でXavierとLiaに少しだけ会えたが、それから見失ってしまっていたので、巡礼の終わりに思わず再会できて本当に嬉しかった。巡礼路を歩いてくる途中で沢山の巡礼者と会っては別れてきたが、彼らとはいつも大切な要所で会っていたので不思議な縁を感じた。父もXavierとLiaには巡礼路で会っては別れて、不思議な縁を感じると話していた。

近くの美しい長い海岸(Praia da Langosteira)の前の美しい十字架(Cruz de Baixar)の前で記念撮影をして、通り(Rúa Cruz de Baixar)を下り、XavierとLiaと父と海岸線を歩いた。Xavierと一緒に美しい形の貝を探した。少し遠くに行き、面白い場所を見つけ、砂浜が半島のようになり、そこに川が流れていたので、川の流れを変えようと、砂で出来た半島を崩して、運河を掘削する遊びをしていた。すると、始めは少しの流れだがある所まで行くと、急に大きな流れになり削られてゆき、最終的に自分が作った流れに川が流れてくれた。帰るとXavierとLiaは私が戻らないため心配していて、Santiago de Compostelaに帰るバスの時間があるから、父に別れを告げてとうに立ってしまっていた。

彼らもFisterraで巡礼宿や見どころを見たようだった。Xavierは地図と沢山のMuxíaからFisterraへの道の情報を教えてくれた。彼らは始めにMuxíaに行き、Fisterraに戻ってきた所に会うことができたから、色んな道について詳しく教えてもらえた。Muxíaから帰るより、Fisterraからのほうがバスの便が良いから、先に訪れたと話していた。海岸で砂を落として、Fisterraを海岸沿いに歩いて後にした。

海岸では、一つとても美しい薄っすらと紅の色をした貝を見つけて、大事に膝ポケットにしまい持ち帰ることにした。(中世の巡礼者たちは、実際に聖ヤコブに詣でた証として、大西洋に面したFisterraでしか拾うことができない貝殻を拾い、それを故郷まで持ち帰ったそうである。だから、Santiago de Compostela巡礼の象徴となり、巡礼路には至る所に帆立貝(concha)の道標があった。)

Fisterraの海岸沿いに大通り(Rúa Anchoa)を歩いてゆくと、小さな食料品店(Supermercado Laura)があり、パンと飲料を購入した。XavierがFisterraからMuxíaに行くとき、Liresまで何も泉や町が無いから、食料を調達してから出ると良いことを教えてくれたので少し多めに買った。パンは数種類しかない中から選んで買ったが、少し歩いて行くとパン屋さん(Panadería Escaselas)があった。

Xavierに教えてもらった通りにガソリンスタンドを探したが、右に入る道が見つからず、辺りをさまよっていると、運よく左に入る道があり、帆立貝のマークを見つけて、巡礼路を歩けて安心した。

途中美しい海岸の風景に見とれて立ち尽くしていると、道に迷ったと見えたらしく、通りすがりの車の人がわざわざ車を止めて、道はこっちだよと教えてくれて、何て優しい人だと思った。

私たちはEscaselasの海岸から、住宅地や草原の中を貫いている平坦な一本道を進んだ。(Xavierが教えてくれた道は、大通り(Avenida de Galicia)の道路(AC-445)に面したGasolinera Aspiradorから、Aldea San Martiño de Abaixoを通り、近くの村San Martiño de Duioに進む道だった。)

Hermedesuxo(ガリシア語「隔てられた」ermo < 古ガリシア語hermo < ラテン語eremus < ギリシア語「隔てられた」ἐρῆμος / erêmos < 「静かな」ἤρεμος / ḗremos < ヘレニック祖語*herémos < 印欧祖語*h₁reh₁-mó-s < 「隔てる」*h₁reh₁- + 前置詞de +「下側」suso < ラテン語sursus < 「下に」sub- < イタリック祖語*supo < 印欧祖語*upó + ラテン語「向き」vorsum, versum < verto < イタリック祖語*wertō < 印欧祖語*wért-ti ~ *wr̥t-énti < 「回る」*wert-が語源)に入る所には、帆立貝の道標(mojón)にFisterra-Muxíaと書かれており、双方向の巡礼者に配慮して、貝は下を向いていた。村には素敵な十字架があり、また、高床式倉庫(hórreo)がたくさん立ち並んでいて圧巻だった。

もう午後7時近くになっていた。その村の先から、森や林の中へ巡礼路が続いていた。丘を少し上がり、下るときにはRial(ラテン語「小川」rivalis < rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語*h₃riH-wó-s < 「流れ」*h₃reyH- < 「注ぐ」*h₃er-が語源)の村から美しい景色が見えてきた。

直ぐにBuxán(ガリシア語「ツゲ」buxo < ラテン語buxus < ギリシア語πύξος / púxos < ヘレニック祖語*púksos < 印欧祖語*bʰowgʰ-k-so-s < 「曲がる」*bʰewgʰ-が語源)に入り、数棟もの立派な高床式穀倉(hórreo)を見た。Suarriba(ガリシア語「下」so < ラテン語sub +「丘」arriba < ラテン語「おいて」ad+「崖」ripamが語源)の手前で視界が急に開けて大西洋が見えてきて興奮した。もう既に午後8時だったが、まだ太陽は高くて明るく、やわらかい日差しに照らされた海岸が美しかった。

Castrexe(人名Vistregis < ゴート語*Wistregis < ゲルマン祖語「西」*westrą < 印欧祖語「晩」*we-k(ʷ)sp-e-ro-s < 「夜」*kʷsép-でヒッタイト語𒅖𒉺𒀭𒍝 / ispanza < 印欧祖語*kʷsp-ént-s、サンスクリット「夜」क्षप् / kṣáp、古ペルシア語𐎧𐏁𐎱 / xšapa、古典ラテン語vesper、古典ギリシア語ἕσπερος / hésperos、古スラヴ語ⰲⰵⱍⰵⱃⱏ / večerŭ、古アルメニア語գիշեր / gišerと関連 +「人質」*gīslaz < ケルト祖語*gēstlos < 印欧祖語*gʰeydʰ-lo-s < 「待つ」*gʰeydʰ-が語源)を過ぎた森の中で道を失った。

Canosa(ガリシア語「灰色」canosus < 「鉛」cana < ラテン語canna < 古典ギリシア語κάννα / kánnā < アッカド語𒄀 / qanû < シュメール語𒄀𒈾 / gi.naが語源)を通る巡礼路ではなく、海岸線(Praia do Rostro)を行く道に入ってしまい、Xavierがくれた地図で正しい道と平行に進んでいることを確認しながら歩いた。XavierたちはMuxíaからFisterraへ向かう途中で一晩、美しい海岸で寝たと話していたことを思い出して、正にここの海岸(Mexadoira Fervenza)と納得した。

巡礼路から外れて、帆立貝の道標はないが、黄色や紫色の花が咲き乱れた獣道から、美しい海岸の波打ち際が見えて、景色が素晴らしく、嬉しい寄り道をできた。夕暮れになったが雲があり、太陽が水平線に沈むのはきれいには見えなかった。美しい風景を見つけて、父がFisterraから歩き続けてきたから、ここで一休みしてゆこうと言うのでSupermercadoで量り売りで買ったDulcesolのミルフィーユ(milhojas)を食べて楽しみながら、しばし一服をして、目の前の美しい海岸と景色を楽しんだ。

それから少し進むと、車道(Parroquia Lires)に入り、海岸でテントを張っている人がいた。こんな所でキャンプをできるなんて楽しそうと思いながら、川(Ría de Lires)の河口をぐるりと回るように少し歩いて、Lires(ラテン語「畝」lira < イタリック祖語*loizā、もしくはゴート語「跡」laists < ゲルマン祖語*laistaz < 印欧祖語「溝」*lóys-eh₂ < 「沿う」*leys-で両者は印欧祖語のレベルで同じ語源)の町の入口の17世紀に建てられた教会(Igrexa de Santo Estevo)辺りで日没の時間(午後10時)を迎えて、とても運が良かった。巡礼者が来ると犬が吠え、巡礼者を歓迎しているのか、驚かしているか分からなかった。しかし、この家の人とあいさつすると、犬がピタッと鳴きやんだので賢い番犬だった。町の中でBarを見つけ、Xavierが教えてくれた通り、左のBar(Restaurante As Eiras)に入った。この町でも、Barの位置をきくと、とても親切に教えてくれて、ガリシア人の優しさに感謝した。

Barにはスペイン人が沢山いて、皆テレビを見たり話し込んだり、お酒が入ってくると、皆ビリヤードやカードなど、取りとめもなく盛り上がっていた。トイレに入り、顔を洗ったら、さっぱりとした。スープ(Sopa caldo)とPrato combinado(Huevos, Patatas, Chorizo)とジャガイモのオムレツ(Tortilla de patatas)やパン(Pan)を注文した。スープはものすごい量で地元のガリシア風でとても美味しかった。旨味成分(アミノ酸)の種類が似てるのか、日本のみそ汁のだしの味がして、ジャガイモと菜っ葉とベーコンが入り美味しかった。Prato combinadoは、一昨日のBarと同じで、ジャガイモのトルティーヤは大きく、卵で溶いたジャガイモを閉じてあるオムレツがとても美味しかった。チョリソは濃厚な味で一緒に食べると口に合い、水が飲みたかったが、節約のため、注文しなかった。

Barやレストランでは、必ずパンや水がチャージされることをSantiagoの直前のBarで知ったので、水は頼まず、パンもほどほどに食べた。Barでスペイン人の皆さんが盛り上がっている中、食事を終えてからは日記を書き終えてから、外に出ていくと、Barの前にちょうど雨をしのげるひさしがある建物が公園のような広場に見つけた。今日はLiresの町中の夜の寒さをしのげそうな所で野宿することにした。床はコンクリートで固いが、寝袋をひくと寝心地が良くなった。

Fisterraの美しい海岸(Praia da Langosteira)

2008年5月17日(土)38日目 (Lires-Vaosilveiro-Frixe-Guisamonde-Morquintián-Xurarantes-Muxía-Santiago de Compostela: Albergue Acuario)

Vaosilveiroの手前に小川に水没した石を渡った。Muxíaの小さな美しい教会(Ermita de Nuestra Señora de la Barca)の前の巡礼を終えて、のんびりとした中、大西洋を眺めながら、イベリコ豚のハムのサンドイッチを食べた。帰りはSantiago de Compostelaまでバスで戻り一泊した。

Barの前の広場の屋根つきの建物で野宿したため、寒くなくとても気持ちよく寝れた。布団が無くて、硬い地面の上に寝ていたため、起きた時体の至る所が痛んだが、朝食に大好物のミルフィーユを食べて、オレンジジュースを飲んだら、調子が少しずつ良くなり、午前8時前にMuxíaへ歩き出した。

昨日半分まで歩いてきたため、大分楽で山道を2km程歩き、舗装道路を進んだ。巡礼者には反対側から3人に会っただけだった。15分もしない内にVaosilveiro(ガリシア語「砦」vao < ラテン語vadum < イタリック祖語*waðom < 印欧祖語*uh₂dʰ-om < 「行く」*weh₂dʰ- + 人名Silverius < ラテン語「森林」silvestris < silva < イタリック祖語*selwa < 印欧祖語*selw-eh₂ < 「木材」*swel- + 接尾辞-stris < -tris < -trix < イタリック祖語*-trīks < 印欧祖語*-trih₂-k-s < *-tḗr + *-ih₂が語源で古典ギリシア語「木材」ῡ̔́λη / hū́lē、ゲルマン祖語「木梁」*sūliz、リトアニア語「屋根」šelmuõ、ラトビア語「木桶」sileと関連)の手前に川(Río Castro)の中に水没している道があり、川の中に飛び石があり、靴を脱ぎ、ズボンの袖を太ももまで上げ、水没した石を渡った。最後の三つは流されていて、川の中を行かなくてはならなかった。Xavier達は太もも以上まで来て、川渡りが大変だったと言っていたが、幸い水の量も少なく、袖をまくり上げるだけで済んだ。川を渡ると直ぐに村に入り、沢山の立派な高床式穀倉(hórreo)があった。

Muxíaまで更に4km山道があり、Frixe(ガリシア語「炒める」frixir < ラテン語frigo < 古典ギリシア語φρύγω / phrúgō < 印欧祖語*bʰerǵ ~ *bʰreǵが語源)を通り、舗装されていない水たまりや泥が多い道を進み、Guisamonde(西ゴート語の人名*Witimundus < ゲルマン祖語「良い」*wesuz < 印欧祖語*h₁wésus +「守る」*mundō < 印欧祖語「招く」*mh₂-nt-éh₂ < *meh₂-が語源。 Castilla-La Mancha地方のQuismondo < Quizamondo, Queiximonde, Guizamondeとも記録されたことから類推)の村の入口で巡礼路に可愛い白い羊がお出ましして出迎えてくれた。村の中には牧場があり、牛が草を食んでいた。のどかな村を通り過ぎて気分が良かった。

そこからは舗装された道で歩きやすくなり、田園風景がとても美しかった。泉の前に十字架(Fonte do Cruceiro)があった。Morquintián(ガリシア語「大きな」mor < 古ガリシア語moor, maor < ラテン語maior +「五つ目」quinto < ラテン語quintus < 古ラテン語quinctus < イタリック祖語*kʷenktos < 印欧祖語*pénkʷtos < 「五」*pénkʷe +‎ 接尾辞*-tósが語源)に18世紀に建てられた頑丈な石造りの教会(Igrexa de Santa María)がひっそりと佇んでいて、その手前に泉があり、水が湧き出していた。

それからも美しい田舎道が続き、黄色(ガリシア語「エニシダ(Cytisus scoparius)」xesta < 古ガリシア語gẽesta < ラテン語genesta < イタリック祖語*genestā < 印欧祖語*gʷₑnestāが語源)や紫色(ガリシア語「ギョリュウモドキ(Calluna vulgaris)」queiroa < 古ガリシア語*cariola < ラテン語calluna < ギリシア語「掃く」καλλύνω / kallū́nō <「美しい」καλός / kalós < 印欧祖語*kal-wo-s < 「良い」*kal-が語源で サンスクリット「美しい」कल्य / kalyaやアルバニア語「見てくれが良い」kolmë < アルバニア祖語*kālimaと関連)の花が咲き乱れていた。

そこから少し車道を歩き、山道をしばらく進んだ。Xurarantes(ガリシア語「誓う」xurar < 古ガリシア語jurar < ラテン語iurare < iuro < 古ラテン語ioveso < イタリック祖語*jowezāō < 印欧祖語*h₂yew-es-eh₂-ye- < 「正しい」*h₂yew- + ガリシア語「列」antes < ラテン語antes < 「前」ante < イタリック祖語*anti < 印欧祖語*h₂énti < *h₂ent-が語源)は高台の村で美しい展望を楽しめた。

美しい紫の花(ガリシア語「ルピナス(Lupinus angustifolius)」altramuz < アラビア語التَرْمُوس / al-tarmūs < アッカド語𒋻𒄷 / tarmuš < シュメール語𒋻𒄷 / TAR.MUŠ8が語源)が咲いた小道を通り、幹線道路(Avenida Doctor Toba / DP-5201)に出る手前で曲がると美しい海岸(Praia de Lourido)が少しづつ姿を現してきた。砂浜と分かりとても嬉しく、そこには人も殆んどおらず、美しい風景を楽しめた。全く自然が手つかずのまま残されていて、海の家なども全くなく、自然のままの海岸だった。

岩が多い海岸(Coido das Margaridas)沿いの道を行き、入江(Cala de Arliña)やサッカー場(Campo Arliña)が見えて、更に進むと、Muxíaの町が見えてきた。皆出会った人たちが、丁寧に挨拶をすると、必ず返事をくれた。町に入るとき、建物の前に馬が放し飼いされていた。

街並みが美しく、西伊豆の港町のような雰囲気だった。海岸線や道路もFisterraからMuxíaまで、建物を除くと、日本の伊豆のような感じでよく似ていた(しかも、ガリシアのOurenseには温泉もあるそうである)。海岸線が見え、波が岩がごつごつした岸に打ちつけて、白く泡立つのを見ながら、足取りも山の中と比べて軽やかになり、道路も歩きやすくて良いこともあり、最後はとても早く進めた。

街の入り口に岩が多い海岸(Praia do Coido)があり、その前のマイルストーン(mojón)で記念撮影をして、路地(Rúa Atalaia)を進み、高床式倉庫(hórreo)ともお別れになると思われて記念撮影をした。街の中から港までは少し距離があり、その先に家が点々とする道(Rúa Virxe da Barca)を進み、灼熱の太陽の中、岬を目指した。海風を避けるために畑には石垣が作られていた。

岬(Cabo de Muxía)でスペイン人のJabiとカナリア島出身のSusiとドイツ人のClaudiaと会った。岬の教会(Ermita de Nuestra Señora de la Barca)の中を格子越しに覗いて、教会の丁度前で石(Pedra dos Cadrís)に腰かけ、イベリコ豚の生ハムとパンをサラダと共にサンドイッチにして贅沢に頂いた。イベリコ豚の生ハム(Jamón ibérico)は、Santiago de Compostelaで父がFisterraに向かうバスに乗る前に市場(Mercado de Abastos)のお肉屋さん(Charcutería y Jamonería Lolita Cardelle)で買い、真空パックにしてもらい、冷やして運んできたため、新鮮なままでとても美味しかった。

大西洋の大海原の前でフランスとの国境から始まった長い巡礼の旅を終えることができて感謝をした。太陽もぽかぽかと温かく照っていて、恵まれた巡礼の締めをのんびりと過ごすことができた。岬の先でスペイン人とスペイン語でおしゃべりをした。岬の一番先端の石(Pedra dos Namorados)の上で沢山会話をして風景も楽しんだ。Susiが教えてくれた8回周りをくぐると腰が、3回周りをくぐると足が良くなるという言い伝えがある岩(Pedra dos Cadrís)の下を3回くぐった。キリスト教が伝わる前から、ケルト人が太陽信仰をしていた聖地で特に大きな岩(Pedra de Abalar)が大切にされてきた。スペイン人と岩の形を面白い動物に見立てて、冗談を言い合い笑って過ごした。

Muxíaで巡礼を終えることができて良かった。聖ヤコブがCaesar Augusta(現Zaragosa)に来て、現在の「柱の聖母」大聖堂(Catedral-Basílica de Nuestra Señora del Pilar)がある場所で異国での宣教に難儀していたとき、聖母が現れて、聖堂を建てるようにと勇気づけたという有名な伝承がある。

古いGalicia地方に伝わる伝承では、当時はEmerita Augusta(現Mérida)から、Lusitania(現Portugal)、Conimbriga(現Coimbra)、Bracara Augusta(現Braga)を経て、Gallaecia(現Galicia)に来たが、宣教が上手くいかず、心が折れそうなとき、再び聖母が現れたと伝えられている。

特に航海の難所「死の岬」(costa da morte)とされていたMuxíaの岬と伝えられている。今でも岩場が多くて、少し前(2002年)にタンカーが座礁して、オイルが流れ出た事件(Desastre del Prestige)があり、岩が黒くなっていると教えてくれた。

イベリア半島で布教に失敗した聖ヤコブはパレスチナへ戻り、44年(Pseudo-Abdias, Historia Certaminis Apostoliciでは42年)に斬首をされて殉教をしたとき、弟子たちが遺骸をGalicia地方Iria Flaviaの港町Padrón(聖ヤコブが初めて説教をしたSantiaguiño do Monte)にたどり着き、そこから少し内陸に入った現在のSantiago de Compostelaで丁重に埋葬したとされる。

少し岬の教会(Santuario da Virxe da Barca)に立ち寄り、その前でおしゃべりしてから、バスに2時間半ほど乗り、Santiago de Compostelaに帰るため、皆で一緒に町の中へ戻った。

中学生位の男の子がごみ出しをしていて、Supermercadoの位置をたずねると、ちょっと待ってねと言って、ゴミを捨ててから、家に戻ってきて、Supermercado FroizやSupermercado Eroskiの前まで案内をして連れて行ってくれたが、休日で両方とも閉まっていて、少し困っていると通り(Rúa Enfesto)に面した巡礼宿まで、また案内をして連れて行ってくれて優しさに感謝した。そこも全然開く気配がないため、午後2時半のバスでSusiとJabiたちと一緒に帰ることにした。

Muxíaのバス停(Estacion de Autobús)の前の通り(Rúa Mariña)のカフェ(Café Bar Don Quijote)でお茶をして、皆でコーラを飲んだ。田舎の港町なので、少し割高だが仕方がなかった。帽子売りの人やバグパイプ(gaita)などの楽器を持った楽団などがカフェに出入りして、皆に歓迎されていた頃、午後2時半になりバスがやってきた。Santiago de Compostelaまで、10€以上と思ったが、5€で戻れた。スペイン人が利用する民間のバスで乗り換えもなく、直通で戻れてとても助かった。

Muxíaは小さな海辺の町で岬の美しい風景は素晴らしかったが、滞在するには少し不便だったので、早く出てきて良かったと思った。バスは巡礼路に沿った車道を進み、Negreiraあたりから、5日前に歩いて通った覚えのある町の名前や風景に出くわして懐かしく感じた。道や町の一つ一つに思い出が詰まっていて、色々と美しかった風景や雨の中を歩くのが大変だったことを思い出した。

Negreiraは思ったよりも、大きな街で多くの市民が乗ってきた。そこから各所のバス停に停まり、人が乗降して混みあってきた。バスの運転はスペイン人らしく大まかでお客さんと話しながらしていた。とても疲れていて、少しうとうとしていたら、直ぐにSantiago de Compostelaに着いた。

バスターミナル(Parada de bus das Cancelas Centro Comercial)は大通り(Avenida do Camiño Francés)にあり、旧市街から外れにある広場(Praza de Sofía)に面した巡礼宿(Albergue Aquario)の近くに着いた。そこから巡礼宿まで10分ほど歩いたが、デンマーク人がかなりチェックをしまくるため、通りの名前をいちいちチェックしなくてもと思い、それでも巡礼宿は通りに面した所に看板がないため、近くに行っても見当たらず、地元の人も知らないらしく、変な道を教えられたりして、近くをぐるぐるさまよっていたら、やっと見つけられた。巡礼路には沿っているが、少し隠れた場所にあった。管理人さんはきれいな英語を話す、感じのいい人だった。

荷物を置いて、直ぐに近くのショッピングモール(Centro Comercial As Cancelas)にあるMcDonald’sでビックマックとサラダとチキンナゲットを食べた。スペインの物価は日本と殆んど変わらず、€が強くなったせいか、少し高めに感じられた。McDonald’sで腹一杯食べた後、Hypermercardoに行くが、今日は閉まっていると工事現場の人が言っていたので、旧市街まで歩いていくことにした。

以前にSantiago de Compostelaに着いた時に通った道通り(Rúa do Valiño, Rúa das Fontiñas, Rúa dos Concheiros, Rúa de San Pedro, Rúa das Casas Reais, Praza de Cervantes, Rúa da Acibechería, Plaza de la Azabachería)を歩いて、旧市街に入っていった。休日でカフェやレストラン、パン屋さんと少々の食料品店以外、全てが閉まっていたが、通りは人通りが多く賑わっていた。

本屋さん(Librería Couceiro)に入ると、二階には古い本が沢山あり、ファクシミリも沢山売られていた。最上階(三階)には、本を修理する場所があり、綴じ直している本が沢山置かれていた。

そして、父はこの間に町を離れる時に見つけられなかったパン屋(Pastelaría Tentación)を市場(Mercado de Abastos de Santiago de Compostela)や大学(Universidade de Santiago de Compostela)の近くで探したが、いくら探しても見つけることができず、Santiago de Compostelaを離れる前にまた食べたいと思い、明日の朝にまた探してみようと話していた。それほど美味しくて記憶に残った地元のパン屋だった。前に寄った 広場(Praza de Cervantes)に面した小さな食料品店(Cepeda)は開いていて、またヨーグルト飲料(Yogures Líquidos Danone)を買って飲んだ。

大聖堂の前まで行くと、驚いたことにLombardia出身のイタリア人StefanoとVermont出身のアメリカ人Saraが一緒にいて、偶然に再会して喜び合った。Santiago de Compostelaまでずっと一緒に歩いてきて、昨日に着いたばかりだそうだ。午後8時半に大聖堂の正面広場(Praza do Obradoiro)に行けば、沢山の巡礼者に会えると聞いたので行ってみると、沢山の顔なじみが沢山いた。

そこにはSan Juan de Ortegaの修道院の前で会ったRotterdamから歩いてきたオランダ人Jean-Noel、Grañonで一緒だったVerona出身のイタリア人DavideとLisa夫妻、Lleida出身のスペイン人ZuarとMiriam夫妻もいて、皆でとても盛り上がった。少し話した後、皆はカフェに一緒に行くが、明日Portoに発つための時間を調べに行く途中だったのを思い出して、父と駅(Estación de Tren)に向かった。

新市街も相変わらず、皆閉まっていて、人通りが多いだけであった。駅に着いて、駅員さんに列車の時間を教えてもらい、逆に旧市街まで戻り、皆を探してみたが、どの通りのCafé Barを探しても見つからず残念に思い、巡礼宿に戻った。巡礼路を逆戻りして、長い道のりを戻ってきたが、食後の腹一杯のときに散歩すると健康に良いと感じた。食料品店(Cepeda)でコーラを買って飲みながら戻った。

巡礼宿に午後10時過ぎに着いたが、まだ皆さんが起きていて、電気が付いていた。管理人からカナリア諸島からの巡礼者Susiから別れの挨拶を言付けされていますと聞いて、また、Villafranca Montes de Ocaで一緒に夕食を食べたハンガリー人Kristofともばったりと会い、再会を喜び合い、興奮して楽しかった。我々は特に最後はかなり早いペースで歩いてきたが、フランスから歩き始めた最初の頃に顔なじみだった人たちは、 一週間ほど、 FisterraやMuxíaまでexcursiónしてきた間に丁度Santiago de Compostelaに着き始めたようだった。我々は最初は普通のペースで始めたが、途中から調子が出てきて、最後の五日間は連日のように一日40km以上歩いたため、通常の1.5~2倍ほどのかなりのハイペースで巡礼を完遂したことを実感した。シャワーを浴びて、午後11時にベットに入った。

Vaosilveiroの近くの川(Río Castro)に水没した巡礼路

2008年5月18日(日)39日目(Santiago de Compostela-Vigo: Hostal Buenos Aires)

Santiago de Compostelaの街を後にして、列車でVigoに向かった。巡礼で1000キロを25日も歩いて、すごいエネルギーと気力がついた。Vigoの小高い丘から港を一望した。13世紀にMartim CodaxのCantiga de amigoでOndas do mar de Vigoと詠われている景色に感銘を受けた。コンパクトな田舎町でのんびりと過ごすことができた。久しぶりに宿に泊まり、ゆったりと夜を過ごすことができた。

今日は朝父が先に早く起き、シャワーを浴び、午前5時半に起き、日記の続きを書いたり、荷物の整理をして、郵送する服や物品を整理した。 朝ばったりと巡礼宿で南アフリカ人Winnyと会い、巡礼の最初と最後に会えて嬉しかったとお互いに喜びあった。Winnyとは、先週にもSantiago de Compostelaで会ったが、私たちと同じくFisterraに行って戻ってきたと話していた。

午前8時半頃、朝のSantiago de Compostelaの町に出て、例のパン屋(Pastelaría Tentación)を旧市街の中で探すが、全く見当が付かなかった。午前9時半のミサの合図の鐘が鳴り響いていた。結局、見つからず、昨日父が買った市場のパン屋でミルフィーユとリーフパイを買った。巡礼宿に戻って、ミルフィーユを食べたが、吐き気がするほど甘くて後悔した。ミサの時間は終わり、大聖堂の前の広場で父が隣に荷物を置いて座っていると言うので、そこに荷物を置いて、巡礼事務所の前で知っている人を探した。しかし、Negreiraを朝早く一緒に出た、オーストリア人2人だけと会っただけだった。

今日のミサはドイツから大司教が来て、スペイン語とドイツ語で行われると教えてくれた。大聖堂に入りミサに参列した。皆2時間前から、貴賓たちのために予約されていて、座れなかったので、祭壇の横から立っていた。ミサの途中で日本の観光客がぺちゃくちゃおしゃべりをして、スペイン人たちが嫌な顔をしていたので、日本語で注意すると驚いて立ち去って行った。ミサの最中、蜂が教会の中に入ってきたのを何度か見て驚いた。ミサはスペイン語とドイツ語の二か国語だった。

振り香炉(botafumeiro)は今まで見た中で一番高く上がり美しかった。大聖堂の中に巡礼者を待ってはいるが、殆んどいなかった。今日のミサは先週と少し異なっていて、更に巡礼者が少なかった。先週はミサの初めに巡礼者の出身の町の紹介があったが、今週に着いた巡礼者の数とどこから歩いてきたのか紹介があった。今週のミサはドイツからの大司教が出席して、人数も多くて盛大だった。

ミサが終わった後、父と町を出ると、大規模なデモ行進があり、ガリシアの独立を大勢の人が叫んでいた。警察も出動して、少し物々しい雰囲気だった。(同じスペインにありながら、カスティーリャ語と異なるガリシア語を話しており、カタルーニャ語を話しているカタルーニャ人と同じく、スペインとは異なるアイデンティティを持つことを感じた。むしろ、ガリシア語はポルトガル語に近く、1128年にギマランイス(Guimarães)近郊のサン・マメデ(São Mamede)でポルトゥカーレ軍とガリシア軍が戦い、そこからガリシアとポルトガルが分かれた。1139年にポルトガル王を称したアフォンソ1世(Afonso I, 1109- 1185)がレコンキスタを推進して、ポルトガルがガリシアから南へと広がってゆく中でポルトゥカーレ伯やコインブラ伯がイスラム勢力を駆逐して、南へ領土を拡げた。)

大聖堂に最後に別れを告げてから、旧市街の通り(Rúa do Vilar)を進み、新市街に入り、通り(Rúa do Hórreo)に面した小さなパン屋(Panadería Pastelería El Hórreo)でアップルパイ(Tarta de mazá)とミートパイ(Empanada de carne)とクロワッサン(Croissant)などを買い、駅まで食べながら行った。駅(Estación de tren)で切符を購入して、列車を待っていると、雨が信じられないほど強く降って来て、その前に駅に着いて安堵した。

(海から少し内陸に入った盆地にあるため、天候がい非常に不安定で晴れていたと思ったら、いきなり雨が降ってきたりして、からりと晴れることはなく、どんよりとして雲が多い町であった。)

列車を待つ間に日記を書いた。列車は定刻通りに着いた。清潔できれいな車両で安心して落ち着いて日記が書けた。ディーゼルエンジンの音が眠りを誘い、同じ車両の人は、皆寝てしまった。

Santiago de Compostelaの町を出て、Vigoに旅立つことができて良かった。途中の駅Pontevedraでは、大型の丸太が組んであった(ラテン語「橋」pontis < pons < イタリック祖語*ponts < 印欧祖語 *pónt-oh₁-s < 「通り」*pent- + ラテン語「古い」vetris < vetus < イタリック祖語*wetos < 印欧祖語「年」*wétosが語源。実際にローマ時代の橋が残された町である)。列車に乗り遅れた人がいて、動き出した列車は、また止まり、その人たちを乗せてあげていた。スペイン人の融通の良さに実感した。また、 列車にSantiagoからVigoまで200kmほど乗ったが、たったの8€でまたまた安さに驚いた。

そして、Vigoの町に入る手前、とても美しい海岸の港と工業地帯が見えてきた。海があり、奥まった所にもう一つ港があり、そこには美しい塔が建っていた。

(ラテン語「小村」vicus < イタリック祖語*weikos < 印欧祖語*weyḱ-ós < *weyḱ-が語源。13世紀の隠者Martin Codaxによる「友の歌(cantigas d'amigo)」には、愛しい人を待ちわびた女性が、ビーゴの海の波に語りかける「ビーゴ海の浪よ、私の友を見ましたか。神よ、彼は来るでしょうか(Ondas do mar de Vigo, se vistes meu amigo? E ai Deus!, se verra cedo?)」や教会に妹と行くことを歌う「愛しき妹よ、私と詣りましょう。ヴィーゴの教会へ。そこの海は荒立ち、波を一緒に見ましょう(Mia irmana fremosa, treides comigo a la igreja de Vigo u é o mar salido e miraremos las ondas.)などが、ヴィンデルの羊皮紙(Pergaminho Vindel)で伝わる。当時の教会はIglesia de San Salvador de Corujo(1142年)、Iglesia de Santiago de Bembrive(1185年)、Iglesia de Santa Cristina de Lavadores(1201年)、Iglesia de Santa María de Castrelos(1216年)などが残されている。)

駅に着くとガリシア語(galego)とカスティーリャ語(castellano)の二ヶ国語で書かれており、お互いの文化を大事にしているのを実感した。FisterraでSupermercado Eroskiでアイスクリームを買った時、そこには四ヶ国語(euskera, català, galego, castellano)で書かれていて驚いた。スペインには少なくとも、それぞれの地域に多くの言語や方言や変種があり、更にアラゴン語(aragonés)やレオン語(leonés)、バレンシア語(valencià)やなどは方言とも、別の言語ともされており、多くの言語が共生していることを感じた。歴史的にはモサラベ語(mozárabe)やアストゥリアス語(asturianu)などがあり、ラテン語から分岐したロマンス語(lenguas romances)も色とりどりである。

駅で明日Porto行きの列車の時刻などをきいた。距離はとても近いのにポルトガルとスペイン間の電車は、一日に二本しかなく、朝と夕の7時40分だけでとても不便だった。

Vigoには外国人や観光客が全くおらず、コンパクトで居心地がよい港町だった。Santiago de Compostelaの町中と似ているが、少し多くのゴミが落ちているくらいだった。ピザ屋(
Restaurante La Tagliatella)があり、Santiago de Compostelaで食べたときのことを思い出した。

スペインの土日はとても厄介で、駅から出ると、全ての商店が閉められていて困らされた。Santiago de Compostelaとは違い、皆午前中だけで、午後は営業しておらず、町は閑散としていた。僅かに開いているカフェがあり、多くの人が入っていた。

スペイン人がSiestaでおしゃべりしたり、寝そべったり、食べるのでその時間も働けば、世界一の経済大国になるであろうが、ほどよく休むことができ、人生を無理をしないで生きてゆくような環境で住みたいと思った。しかし、食べ物の選択肢が日本ほどなく、少し飽きてしまうかもしれない。

町の中には「O」で始まる看板が多かった。(ガリシア語の男性単数の定冠詞o, loでポルトガル語やアラゴン語o、カスティーリャ語el、イタリア語il, lo、古フランス語li, leに相当。古典ラテン語ille < 古ラテン語 ille < イタリック祖語*olle < 印欧祖語*h₂ol-no- ~ h₂l̥-no- < 「他」*h₂el-が語源)。

SupermercadoはMercadonaとCarrefourを除いたBajos, Eroski, Diaなどがあったが、全て閉まっていた。宿を探しながら、町を港の方に出ると大通り(Rúa do Areal)があり、近くの通り(Rúa de Rosalía de Castro)に一つだけ24時間開いているコンビニ(OpenCor)があり、スペイン人が多く入っていた。皆も日曜日に閉まっていて、困っていることが見て取れた。外見は本屋さんだったり、電気屋さん雑貨屋に見えたが、中に入ると沢山の食料品が並ベられていた。

午後5時過ぎにパン(Agujas de Atún)、チーズケーキ(Plancha para pastel)、リーフパイ(Super Palmeritas de hojaldre con azúcar)、ファンタレモン(Refresco de Limón)、オレンジジュース(Zumo de naranja)、タイガーナッツ(Cyperus Esculentus)のValència風味の飲み物(Horchata de chufa)を購入して、外に出て、前の石に腰かけて飲んだが、不思議な味がして、口には合わなかった。スペインではファンタレモンとオレンジのゼロカロリーがあった。

大通り(Rúa de Rosalía de Castro)に面した宿(Hostal Buenos Aires)を見つけて入ると、二階に受付があり、Schindlerの古い昇降機で手で開ける面白いタイプに乗った。扉に取っ手が付いていてそれで扉を鳴らすと、親切そうな婦人が出てきた。今日一日泊まることを告げると、直ぐに部屋を用意してくれた。スペイン語で話をする一生懸命聞いてくれた。部屋で少し寛いでから、町に出てみた。

大通り(Avenida de García Barbón)の店は、全て閉じていて、閑散としているが車は多く、賑わっていた。皆どこへ行くのかと思う程だった。19世紀に建てられた美しい教会(Igrexa de Santiago de Vigo)があり、その辺りに町が発展していた。

大通り(Rúa da República Arxentina)を行き、大きな噴水(Fonte da Paellera)があるロータリーを通り、港に出ようと商業地や住宅地の通り(Rúa do Areal, Avenida de García Barbón)を進むが、工業地帯(貨物ターミナル)に出てしまったので引き返して、丘の上から街を見てみたいと思い、いくつかの通り(Rúa de Sanjurjo Badía, Rúa de Pedro Alvarado, Rúa dos Irmáns Misioneiros dos Enfermos Pobres)を歩いて北上してゆき、港が一望できる通り(Rúa do Doutor Corbal)に面した高台の住宅地から湾内の風景(Enseada de Teis)を楽しんだ。丘を登りゆき、かなりの高さまで来たため、赤い家々の屋根と青い海や白い桟橋や吊り橋が美しく見えて大満足だった。

13世紀にMartim CodaxのCantiga de amigoで詠われている景色そのものでのどかな光景だった。そこは入り江の中の出た場所で雰囲気が良く、高級住宅地だった。帰りも同じ道を通り、 少しばかりの商店が開いていて、通り(Rúa de Sanjurjo Badía, Rúa de Pedro Alvarado)のロータリーに面したお菓子屋さん(Confitería Pastelería Charcutería La Camelia)でハム(xamón)とホワイトチョコレート(chocolate branco)のアーモンド(améndoa)の量り売りを買った。ホワイトチョコレートの量り売りは100g 4€で少し割高だが、ハムはとても安かった。ハムを300g、チョコレートを100g買い求めて味わった。雑貨屋や一部のブティックだけが開いているのを見つけた。

少し戻るとパン屋さん(Panadería Porto Panaderos)が開いていたので、パンを求めて食べた。 通り(Rúa do Areal)の街路樹にマンダリンと椿が交互に植わっていて、大通り(Avenida de García Barbón)を進むと街路樹のマンダリンの木にはミカンがたわわに成っていて驚き、誰か収穫して食べるのかと思った。19世紀に建てられた美しい教会(Igrexa de Santiago de Vigo)まで戻った。

そして、ホステル前のコンビニ(OpenCor)で長い明日の朝食のフランスパン(Baguette)とカマンベールチーズ(Queso Camembert)とヨーグルト飲料(Yogures Líquidos Danone)を求め、ホステルに帰り、パンにSantiago de Compostelaの市場(Mercado de Abastos)のお肉屋さん(Charcutería Jamonería Hernández)で父が買ったハムを挟んで食べた。湾内は外が大型で工業地帯、内が旅客、一番奥が遠航用の港になっていた。ハムは油と肉の配分がちょうど良くて、とても美味しかった。

今日はホステルに戻る頃から激しい雨が降り、天気についていると思った。テレビを見て、スペイン語のニュースを沢山聞いて、一カ月ぶりのお風呂に浸かり寛げて、寝際にスペイン語とフランス語の本を読んで寝た。ホステルはスペイン人が普段寝ているような部屋でとても落ち着いていて、小綺麗な良い部屋だった。35€で二人泊まれて、窓からはにぎやかな通りがあり、前のコンビニ(OpenCor)に人が入っていくのが見えた。夜の2時近くになっても、ひっきりなしに入っていきとても驚いた。その先には物乞いがいて、5人に1人がお金を入れているのが見え、街には優しい人が多いと思った。

大通り(Avenida García Barbón)の街路樹になるミカン

2008年5月19日(月)40日目(Vigo-Viana do Castelo-Porto: Duas Naçôes)

ポルトガルに入り、Portoの駅(Estação de Porto São Bento)や教会(Igreja de Santo António dos Congregados)は美しい青タイル(Azulejo)で彩どられていた。駅前で偶然Santiago de Compostelaの巡礼事務局で後ろに並んでいたオーストラリア人に会った。街中を観光して、 エッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832-1923)が設計した鉄橋(Ponte Luís I) からの眺めは素晴らしく、赤い屋根が印象的だった。ロマネスク様式の大聖堂(Sé do Porto)の前には、不思議な捻じれた柱が建てられていた。ポルトガルとスペインの主要な歴史的都市を全て見て回ることにした。

今日は朝、午前6時半に起き、午前7時40分の電車に間に合うよう、午前7時に宿を出た。宿(Hostal Buenos Aires)の方はとても優しく、朝早くに起こしてしまったが、笑顔でお見送りしてくれて、今日は電車でポルトガルのPortoに向かうことを告げると旅を楽しんで下さいと送り出して下さった。しかも、部屋を出るまで出迎えてくれて、ガリシア人らしい細やかな優しさに感謝した。

ヨーロッパの都市は、朝歩くと人通りが少なく、美しい街並みを楽しめた。警察官も多く、町に立っていて、とても治安が良かった。町の近道を通り歩いて、午前7時10分に駅に着いた。昨日の雨は激しく、路面が凄い水だらけになっていた。スペイン語で要件を告げると、駅員さんはとても丁寧にポルトガルに入るまでのルートを説明してくれた。スペイン側の料金を5.1€を先ずここで払い、ポルトガルに入ると、車内でまた払うということだった。列車は14のホームから出ることを丁寧に教えてくれ、駅のプラットホームにはローカルな列車が待機していて、乗り込むととても居心地が良かった。

朝食のパンとリーフパイを食べて、日記を書いていると、直に発車した。父がポルトガルに入るためにデジタルカメラの時間を一時間ずらした。今日は一時間得をした気がした。昨日と同じ線路を少し戻り、美しい湾が見え朝の雰囲気は美しく格別だった。列車はどんどん山中に入り、田舎を抜けていった。山中はやはり激しい雨で向こう側は青空なのに霧が立ちこめていて、雨が激しく降るという、日本ではありえない天気の中を走っていった。この地方の葡萄畑は、日本とは異なり、高い所に実が成るようになっていた。それは、機械化されておらず、人が手で摘んでいるからだと思った。

列車の中でスペイン語の本を読んでいた。これからは巡礼宿も無く、巡礼で一日長く歩くことも無いため、ゆっくりと日記を書いたり、語学を学ぶ時間が取れると感じた。Vinçaoの鉄橋(Ponte Internacional Tui-Valença)で大河(Río Miño)を渡るとポルトガルに入った。すると、天気も村の様子も、町の様子も一気に変わり、町並みは青いタイル張りの家で彩どられて美しくなった。

車掌さんから「こんにちは(Bom dia)」と話しかけられ、始めはガリシア語かと思ったが、会話をすると少しスペイン語と違う発音で極めつけは「ありがとう(Obrigado)」と言われ、ポルトガルに入ったことを知り、スペインの切符は使えないため、初めて入国に気付いた(スペインではRenfe、ポルトガルではComboiosの管轄でCeltaという、国際の相互乗り入れシステムがある。Vigo-Redondela-O Porriño-Tuy-Valença-Vila Nova de Cerveira-Caminha-Âncora-Praia-Viana do Castelo-Barroselas-Barcelos-Nine-Famalicão-Trofa-Ermesinde-Porto-Campanhãをつないでいる)。

ポルトガルに入り、始めの駅Valença(ラテン語Valentia < 「強い」valens < valeo < イタリック祖語*walēō < 印欧祖語*h₂wl̥h₁-eh₁-(ye)-ti < 「治める」*h₂welh₁-が語源)で一気に乗客が乗り込んできた。それは丁度、通勤の時間でViana do Casteloで一斉に降りた。駅の雰囲気も変わり、青色のタイル壁画が映えていて美しかった。美しい街並みを通過して、途中下車できず少しもったいなく感じた。

(1253年にアフォンソ3世(Afonso III, 1210-1279)が作った町で城の中にいた美しい少女に恋をした対岸に住む青年が「Vi a Ana do castelo!(アナを城の中に見たぞ!)」と叫んだことから、町の名前になったという逸話が伝わるが、スペインの巡礼路で通ったViana、オーストリアの首都Wien, Viena、フランスの都市Vienneなど、ローマ人が各地に建築した都市Viennaは、ラテン語Vindobona < *Vedunia < ケルト祖語「森」*widus < 印欧祖語*h₁widʰ(h₁)-u-s < 「分かれる」*h₁weydʰh₁-が語源である。)

皆、中年から年配の人が多く、Joaquimが、ポルトガル人は若い人が皆、外に出稼ぎに出てしまうと話していたことを思い出した。車掌さんは駅に着くたびに回って来て、一回払った客と新しく乗ってきた客を全て見分けていて、かなりの客がいるのに鮮やかにさばいてゆく、手際の良さと記憶の確かさに感心した。駅名も全てポルトガル語に変わり、EstaciónはEstaçãoとなり、ポルトガルに入った実感をした。更に村々や町の中はきれいでごみが一つも散らからず、落書きも全く見当たらなかった。

天気は雲一つない快晴で、ガリシアとの差には驚くほどだった。少し森の中を通り、小雨が振っていたが、直ぐに快晴になり、美しい天気だった。

ポルトガル人同士の会話を聞くと、言葉に抑揚があり、周波数が似ているせいか、ドイツ語やフランス語に似た響きがあった。ポルトガル語はフランス語から沢山の語を借用したので、フランス語と共通する単語が多く、発音も全くスペイン語と異なり、ポルトガルに入国したことを実感した。

時差を考えて、午前10時にPorto郊外のCampanhã駅(Estación de Porto-Campanhã)に着いた。プラットホームにはごみやガム一つなく、町並みは美しかった。駅前の美しいタイル張りの教会を探すが見当たらず、どうしたかと考えたら、Porto旧市街のSão Bento駅(Estación de Porto-São Bento)に着いたため、普通列車に乗り換えて一つ先の川沿いの駅に行かなければならなかった。

São Bento駅に着くと1900年前半に建てられた駅舎は雰囲気があり、入り口の美しい青色のタイル壁画が圧巻だった。下にはポルトの歴史パネルがあり、少し佇んでタイル壁画も楽しんだ。

旧市街に出ていくと、駅前の1703年に建てられた美しいタイルの教会(Igreja de Santo António dos Congregados)の前の大通り(Rua de Sá da Bandeira)でいきなり、¡Buen camino!と後ろから、二人が声をかけてきて、驚いて振り向くと、Santiago de Compostelaで巡礼証明書を発行されるのを一緒に話しながら待っていたオーストラリア人LiaとBronwynと偶然に再会して驚いた。しかも、彼女たちはPortoをよく研究していて、Liaの友達が本をコピーして製本して送ってくれたと話していた。

川沿いに向かっていたそうだが、わざわざ引き返して、10分程歩いた所にある素晴らしい宿に連れて行ってくれた。広場(Praça da Liberdade)から、坂を上がる通り(Rua da Fábrica)を歩いてゆくと広場(Praça de Guilherme Gomes Fernandes)に面した雰囲気の良い宿(Duas Naçôes)に着いた。

ドアは奥まった所にあり、雰囲気はとても良く、呼び鈴を押して、受付の人を一回呼んで開ける方式でセキュリティーも徹底していた。必ず全ての人は受付を通るため、怪しい人や泥棒も入りにくい。驚いたことに受付には日本人がいた。ポルトガル語がネイティブで日本語が少し変なため、ポルトガルで生まれて教育を受けたか、ポルトガル人と結婚して、Portoに長く住んでいるのかと思った。

美しい道路や廊下を通り、階段を上がった4階に部屋があり、小さいが小ざっぱりしていて快適だった。トイレとシャワーは共用だが、巡礼宿のプライバシーが無い、とてもひどい宿ばかりを沢山経験してきた我々にとっては、何のことも無かった。宿を出ようとすると、一人旅でヨーロッパを周遊する日本人がいて少し話をした。自分で電車を手配してしっかりした日本人だと思った。

直ぐに街に出て、郵便局を探した。始め違う方向に行ってしまい迷ったが、黄色と青色の矢印があり、ポルトガルからSantiago de Compostelaへ向かう巡礼者が通る道と直ぐに分かった。

宿の位置に戻り、再度、街を歩いた。Portoは坂道が多く、上下が激しい街で、歩き回るのに足腰を使い大変だった。市電が町中を通っていて、町の人たちは皆バスと同じ感覚で利用していた。

広場(Praça de Carlos Alberto)から1756-68年に建てられた美しい青タイルの教会(Igreja de Nossa Senhora Carmo)を見たた。カフェの値段表を見たら、スペインと物価が殆んど同じで、ポルトガルの物価も日本並みであった。通り(Rua de Sampaio Bruno)に面した郵便局(Correios)に着いて、順番待ちの札を取るのを忘れ、少し待ち時間を無駄にしてしまったが、並んで順番が来て、郵便局員の人は美しい英語を話して、とても優しく国際郵便の発送方法を提案してくれた。

Lourdesよりも高く、始めは4kg位送る予定だが2kg以内とした。箱をもう一つ入れると、重さが少し出てしまい、少し出していると丁度2.000gと表示されて、郵便局員も歓声を上げて喜んでくれた。郵便局には本が売られていたり、雑貨や宝くじまで買うことができ、日本と雰囲気が違っていた。

町の人にSupermercadoの場所を教えてもらい、通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)の中にSupermercado Froizを見つけて、ニンニク味のパン(Pão torrado de alho castello)や菓子パン(Croissant brioche, Folhado queijo e bacon)、シリアル(Cereais Nestlé)、ビスケット(Biscoito de clara de ovo)やポテトチップス(Lay's al Punto de Sal Matutano)、ハム(Mortadela siciliana con aceitunas)やチーズ(Queijo Gran Capitán)、林檎(Maçã Starking)やマンゴ(Manga)、リンゴジュース(Sumo Zumosol de maçã)やオレンジジュース(Sumo Don Simón de laranja)、レモンティ(Nestea Chá de limão)やヨーグルト飲料(Bifidus Clesa líquido com sumo limão)、コカコーラ(Coca Cola Zero)やパイナップル味のファンタ(Fanta Ananás Lata)など、食料品を買い込んだ。スペインと殆んど物価は変わらなかったので驚いた。ポルトガルには、パイナップル味のファンタがあった。

そして、大通り(Avenida dos Aliados)の歴史的建物(Câmara Municipal)の前で昼食をとる間、犬が来て、周りをうろちょろと歩き回っていた。そこは丘の上にあり、非常に大きな通りを見下ろすように建てられており、見晴らしがとても良かった。

宿に戻るとき、市役所(Câmara Municipal)の裏手に観光案内所を見つけて地図をもらった。小冊子もくれて感じが良く、流暢に英語を話す人がいた。(ポルトガルの若い人は給料が多いヨーロッパ諸国に出稼ぎに行くために英語やフランス語を話せる人が多いことを感じた。)ヨーロッパの各都市には、どんなに小さな町にでも、必ず観光案内所があった。様々な通り(Rua de Ramalho Ortigão, Rua do Almada, Rua de Ceuta, Rua de José Falcão)を歩いて、街の雰囲気を楽しみながら、宿に戻った。路地には商店が立ち並んでいて楽しかった。それから、市電が走る坂を上がってゆき、宿に着いた。

ポルトガルの町は午後2時前でも活気づいていて、Siestaが無いので旅行者にはとても助かった。Hostelで少し休憩して、先ほどのSupermercadoで買ったおやつを食べて、午後3時頃にまた街に出た。ポルトガルでは、パン屋さん(padaria)はパンしか売らず、ミルフィーユやパイはカフェテリアのような店で食べられたり、お菓子屋さん(pastelaria)で売られていた。

ホステル近くには本屋さん(livraria)が数十軒もありとても驚いた。(特に通り(Rua da Fábrica)に面した書店(Livraria Bertrand)は繁盛していて、通り(Rua das Carmelitas)に面した書店(Livraria Lello)はアールヌーヴォ様式の木製の階段など内装が有名でとても繁盛していた。)

町には、カフェが沢山あったが、立て看板を見たら一杯がとても高そうだったので入らなかった。路面電車(22号線)を眺めてから、ポルト大学(Universidad de Oporto)の横の坂(Rua do Dr. Ferreira da Silva)を下り、1732-63年に建てられた素敵な塔(Torre dos Clérigos)などを見た。

旧市街との境界線を通る大通り(Campo dos Mártires da Pátria)を行き、旧市街の下町の路地(Rua das Virtudes, Rua das Taipas, Rua de Belomonte)を下がっていった。旧市街は世界遺産に指定されていて、高台(Largo São João Novo)からの眺めは美しかった。崖のような急斜面の階段(Escada do Caminho Novo)を下り、川辺(Rio Douro)の道(Rua Nova da Alfândega)に出ると釣り人が沢山いて、船が沢山行き来して、港(Porto)という感じがした。対岸の町並みは美しかった。

1383-1410年に建てられたゴシック様式の教会(Igreja de São Francisco)の前を通り、坂(Rua do Infante D. Henrique, Rua de São João)を上り、トンネルの前で細い路地(Rua de São João)を進み、広場(Praça Ribeira)でエッフェル(Alexandre Gustave Eiffel, 1832-1923)が設計した鉄橋(Ponte Luís I)を見上げて、通り(Rua de São João, Rua de Mouzinho da Silveira)をまた上がり、小さな広場(Largo São Domingos)を過ぎて、駅前の広場(Praça de Almeida Garrett)に面した1703年に建てられた青タイルが美しい教会(Igreja de Santo António dos Congregados)まで来た。

それから、大通り(Avenida Dom Afonso Henriques, Avenida Vimara Peres)を歩いて、大聖堂(Sé do Porto)の裏や城壁(Muralha Fernandina da Sé)を通り、鉄橋(Ponte Luís I)に行った。橋は太くて市電も走っていて、赤い屋根の港町が一望できて壮観だった。鉄橋でボランティアのガイドを名乗る人がいたが怪しそうで避けた。対岸の高台からの旧市街の眺めは美しかったが、垂れ幕があって、見えないところがあり少し残念だった。Portoは山が多いため、多くのトンネルが貫かれていた。対岸には1538年に建てられた修道院(Mosteiro da Serra do Pilar)を下から見上げた。

橋を渡って戻るとき、市電が通り、時々すれ違った。大通り(Avenida Vimara Peres)に中国料理店(Restaurante Chinês)をまた見つけ、ヨーロッパ中に中国人が住み着き、独自のネットワークを気づいていることに驚いた。1110年に建て始められた美しい双塔を持つロマネスク様式の大聖堂(Sé do Porto)の中はとても広々としていて、主祭壇の前は特に美しかった。

大聖堂の前(Terreiro Sé)には面白い捻じれた柱(Pelourinho do Porto)が立てられていて、変わったモニュメントだった。ポルトガルの紋章が刻まれた花崗岩でできていた。大聖堂の前には黄色と青色の矢印があり、Santiago de Compostelaにこちらからもつながっているのかと想像でき、ポルトガルの巡礼路(Caminho Português)を見つけられた。巡礼宿(Albergue)は見当たらなかった。

大通り(Avenida Dom Afonso Henriques)を通り、駅前(Estação de São Bento)の教会(Igreja de Santo António dos Congregados)がある旧市街を戻り、父は駅前の果物屋(Fruta na Cidade)で買い物をして、私は ショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)のSupermercado Froiz に戻り、アイスクリームを探した。しかし、選択肢が少なく高かったので手ぶらで帰った。

特に通り(Rua da Fábrica)に本屋が多く、初版本だけを扱う本屋や歴史ある古本屋(Livraria Sousa & Almeidaなど)が多くあって面白かった。様々な通りを歩いてみようと思い、遠回りをして、立地条件も周辺環境の良い場所に位置していた宿に戻った。宿は丘の中腹に位置しており、周囲の環境がとても良かった。もう少し坂を上がった所には、もう少し治安が悪そうで雑多だが、駅には近かった。

宿でテレビを見てポルトガル語を聞きながら寛ぎ、大量に買い込んだ食料を食べていると、オーストラリア人のLiaが入って来て、食事に誘い出してくれた。彼女たちは5日もPortoに泊まり、美味しい食べ物がある店にも通じていた。近くの広場(Praça D. Filipa de Lencastre)に面したトルコ料理店(Restaurante Divan)が近くにあり、とても安く美味しそうな食べ物が並んでいた。シシカバブの二人用にスライスとサラダ、ポテトフライのコンビナードを頼んだ。様々な巡礼の話をしたりした。

Ponferradaの巡礼宿(Albergue)が国際動物園(international zoo)のようでいびきが煩かったり、フランス人の巡礼者とスペイン人の管理人が母国語で喧嘩していたり、陽気なイタリア人から、私のおしゃべりが面白いと言ってくれて、色んな国の人が色んな言葉で話しかけて来てくれたり、父が色んな荷物を調えるのに慣れていて、有能な秘書みたいだと言われたり、巡礼の途中で真ん中あたりのカスティーリャの乾いた大地を歩いて、Grañonで教会の中で寝たことなどを話した。

LiaはまだCamino de Santiagoを巡礼をしているような気分でいて、まだ夢の中に浸っていると言っていた。ミサの振り香炉(botafumeiro)を見たときの感想やVigoやPortoで帆立貝のマークを見つけて、巡礼路を通って少し巡礼をしたんだよというような冗談をたくさん言い合って大いに盛り上がった。LiaとBronwynは、明日空港に下見に行き、オーストラリアに帰るための予約手続きをして、情報を集めてから、London経由で日本で乗り継いで国に帰る準備をすると話していた。

宿に午後10時少し前に戻り、前で記念撮影をした。部屋に戻り、テレビを見たり、フランス語、スペイン語、イタリア語で読書して、夜を迎えて、眠りに着いた。ポルトガルは1時間時差があり、少し得をした日だった。Santiago de CompostelaやGreenwichと同じ経度であるにもかかわらず、スペインとポルトガルで標準時間の地点が異なるため、時差があったが、感覚としては、全く変わりなかった。

Portoはローマ都市「ガッラエキの港(Portus Cale)」があり、リスボン(Olissipona)やブラガ(Bracara Augusta)と交易をする中継港とされた。588年に司教座が置かれ、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūns)が征服、868年にヴィマラ・ペレス(Vímara Peres)がポルトガル伯(Condado de Portucale)を称してレコンキスタを始め、12世紀にポルトゥカーレ伯アンリ・ド・ブルゴーニュ(Henri de Bourgogne / Henrique de Borgonha, 1066-1112)が奪還した。

ポルトガルの特にCaleの語源にもケルトに関連する説の他にいくつかの説がある。

①ラテン語「ガッラエキ族」Cale < Gallaeci, Callaeciが定説である。ポルトガルPortugal < Portucale, Portugallia < Portus Cale < Portus Gallaeci, Callaeciが語源であり、ガリシア地方Galicia < Gallicia < Gallaecia < Gallaeci, Callaeciの語源でもあるケルト系の部族でケルトの語源と共に後述。

②ラテン語「熱い」calidus < 「温める」caleo < イタリック祖語*kalēō < 印欧祖語*ḱelh₁-eh₁-(ye)-ti < *ḱelh₁- < *ḱlēw- < *gʷʰer-が語源でサンスクリット「秋」शरद् / śarádや古ペルシア語「年」𐎰𐎼𐎭 / θrda < インド=イラン祖語*ćarHáts、古英語「温かい」hlēow, hlēowe, hlīwe, hlīewe, hlȳweや古ノルド語「温い」hlær, hlýr < ゲルマン祖語*hliwjaz, *hlēwaz, *hliwjaz, *hlēwijaz、リトアニア語「温かい」šiltasやラトビア語「温かい」sìlts < バルト=スラヴ祖語*šiltasに関連。

③古典ギリシア語 「美しい」καλός / kalós < 印欧祖語*kal-wo-s < 「良い」*kal-が語源でサンスクリット「美しい」कल्य / kalyaやアルバニア語「見てくれが良い」kolmë < アルバニア祖語*kālimaと関連。

④古典ギリシア語「神名」Γαῖα / Gaîa < 「大地」γαῖα / gaîa < アッティカ方言γῆ / gê、ドリア方言γᾶ / gâ < δᾶ / dâ(「神名」Δημήτηρ / Dēmḗtēr, Ποσειδῶν / Poseidôn)、アルカディア方言ζᾶς / zâs、ミケーネ方言ga(「母なる地」ma-ga) < da(「地震」e-ne-si-da-o-ne)が語源(Robert S. P. Beekes (2009). Etymological Dictionary of Greek, Leiden: E. J. Brill:pp. 269–270.)でPortoと近くにあるGaia(Vila Nova de Gaia)の二つの町の名を合わせて、Portogalの名が興ったともされる。

更に印欧祖語「地」*dʰéǵʰōm < *dʰeǵʰ-が語源でヒッタイト語「地」𒋼𒂊𒃷 / tēkanやルウィ語「地」𒋾𒄿𒀀𒄠𒈪𒅖 / tiyammiš < アナトリア祖語*déǵm̥、サンスクリット「地」क्षम् / kṣám < インド=イラン祖語*ȷ́ʰžʰáHsや古典ギリシア語「地」χθών / khthṓn < ヘレニック祖語*kʰtʰṓn、古ケルト語「所」*dú < ケルト祖語*gdūや古スラヴ語ⰸⰵⰿⰾⱑ / zemlě < バルト=スラヴ祖語*źémē、アルバニア祖語*dzōやトカラ祖語*tken、ラテン語「人」humus < イタリック祖語*homosや古アイルランド語「人」duine < ケルト祖語*gdonyosに関連するとも考えられる。

⑤古アイルランド語「港」calad < ラテン語「入り江」calatum < 「呼ぶ」calo < イタリック祖語*kalō < 印欧祖語*kl̥h₁-eh₂-(ye)-ti < *kelh₁-が語源で古典ギリシア語「呼ぶ」καλέω /kaléō < ヘレニック祖語*kəlḗyōと関連、もしくはラテン語「緩める」chalo < 古典ギリシア語χαλάω / khaláō < ヘレニック祖語*kʰəlā́ō < 印欧祖語*khal-eh₂-ye-ti < *khal-が語源でサンスクリット「緩める」खल्लते / khallateと関連。ラテン語「入り江」calatumからロマンス諸語のイタリア語(シチリア語)とオック語(カタルーニャ語)「入り江」calaやオイル語(フランス語)「入り江」caleが派生。古アイルランド語は地域が隔たり、ロマンス諸語の派生は時間が遅いことから、イベリア半島の地名として適切ではない。

⑥フランス語Gaule < ラテン語Volcae < 古典ギリシア語Βλάχοι, Vláhi < Οὐόλκαι / Ouólkai < 古フランク語Walha, Walah, Walh < 西ゲルマン祖語「見知らぬ人」*walh < ゲルマン祖語*walhaz < ケルト祖語「鷹」*wolkos < 「悪い」*ulkos < 印欧祖語*h₁elḱ-os < 「悪い」*h₁elḱ-か「狼」*wĺ̥kʷos、もしくはケルト祖語「野人」*wēdelos < 「野生」*wēdus < 印欧祖語*h₁weydʰh₁-u-s < *h₁weydʰh₁- < 「離れた」*dwi- +‎ 「場所」*dʰeh₁-が語源で地名Walloon, Walen, Wales, Cornwall, Galway, Gaelと関連するゴール(Volcae)はケルト(Celtae)とは別の語源である。イベリア半島の地名として適切ではない。

ケルトは欧州各地に分布しており、地名や人名として残されている。古代の著作者、ミレトスのヘカタイオス(Ἑκαταῖος ὁ Μιλήσιος > Hecataeus Milesius, c.-550–c.-476)やヘロドトス(Ἡρόδοτος > Herodotus, c.-484–c.-425)、ストラボン(Στράβων > Strabo, c.-63–c.-24)、プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος > Claudius Ptolemaeus, c.83–c.168)らが、古典ギリシア語Κελτοί / Keltoí, Κέλται / Kéltai, Κελτικοί / Keltikoí, Καλλαϊκοί / Kallaïkoí, Γαλάτης / Galátēs, Γαλάται / Galátai, Γαλατία / Galatía, Γαλάτεια / Galateiaと記録、カエサル(Gaius Julius Caesar, -100–-44)やプリニウス(Gaius Plinius Secundus, c.24–79)らが、ラテン語Celtae, Celtici, Callus, Gallus, Gallia, Galatiaと記録した。

①古典ギリシア語「乳」γάλα / gála < 印欧祖語*ǵlákt-s < 「絞る」*gl̥kt-が語源でヒッタイト語𒂵𒆷𒀝𒋻 / galaktar < 「落ち着かせる」𒂵𒌨 / galak-やラテン語lac < 古ラテン語lacte、古アルメニア語կաթն / katʿn < アルメニア祖語*gl̥kt-mやアルバニア語dhallë < アルバニア祖語*dzalāと関連だが古代ギリシア著述家の説であり、ケルト語で分析されていないため適当ではない。

②ケルト祖語「力がある」*galnati < 印欧祖語*gl̥-né-H-ti ~ *gl̥-n-H-énti < 「できる」*gelH-が語源で古アイルランド語galやウェールズ語gallu、また、古スラヴ語「できる」голѣмыи / golěmyiやリトアニア語「できる」galėti < バルト=スラヴ語祖語*galḗˀteiと関連。

③ケルト祖語「高められた」*keltos < 印欧祖語*kelH-tós < 「登る」*kelH-が語源でブレトン祖語「柱」*koloβ̃nや古アイルランド語「柱」colba < ケルト祖語*koloben、ラテン語「柱」columen < イタリック祖語*kolamenやラテン語「抜きんでた」celsus < *celo < イタリック祖語*kelnōやリトアニア語「上げる」kéltiやラトビア語「上げる」cel̂t < バルト=スラヴ祖語*kelˀtéiと関連。

④ケルト祖語 「木」 *kallī < 印欧祖語「丘」*kl̥H-ní-s < 「登る」*kelH- + ケルト祖語*-ākos < 印欧祖語*-eh₂-ḱosが語源で古ノルド語「島」holmr < ゲルマン祖語「丘」*hulmazやリトアニア語kálnas < バルト=スラヴ祖語*kalˀnás、古典ギリシア語「丘」κολώνη / kolṓnē < ヘレニック祖語*kolōnā́やラテン語「丘」collis < イタリック祖語*kolnisと関連。

接尾辞は古典ギリシア語-κός / -kós < ヘレニック祖語*-kosやラテン語-cus < イタリック祖語*-kos、サンスクリット-कस / -kasaや古ペルシア語-𐎡𐎣 / -ikah < インド=イラン祖語*-kas、リトアニア語-ingasや古スラヴ語-ъкъ / -ŭkŭ < バルト=スラヴ祖語*-kas、ゴート語 -𐌲𐍃 / -gs < ゲルマン祖語*-gazやアルバニア語-kë < アルバニア祖語*-kāと関連。

⑤ケルト祖語「掘る」*kladeti < 印欧祖語*kl̥h₂d-é-ti < 「打つ」*kelh₂-が語源で古典ギリシア語「打つ」κλάω / kláō < ヘレニック祖語 *klā́ō < 印欧祖語*kl̥h₂-eh₂-ye-tiや古典ギリシア語「低木」κλάδος / kládos < ヘレニック祖語*klə́dos < 印欧祖語*kl̥h₂-d-osやリトアニア語「打つ」káltiやラトビア語「打つ」kal̃t < バルト=スラヴ祖語*kálˀteiと関連。

⑥ケルト祖語「隠れる」*keleti < 印欧祖語*ḱél-e-ti < 「覆う」*ḱel-が語源でブレトン祖語*kelɨdや古アイルランド語ceilid、また、ゲルマン祖語「覆う」*helanąと関連。

Portoの街並みを鉄橋(Ponte Luís I)から臨む

2008年5月20日(火)41日目(Porto-Braga-Porto: Duas Naçôes)

Bragaまで電車で旅をした。歴史的な都市で大聖堂や博物館を見学した。52年から歴代の司教の名が刻まれていて驚いたと同時にローマ時代からの歴史がある町であることを感じた。Portoに戻る車内で地元の人と大盛り上がりして、Portoの見所をたくさん教えてもらった。オーストラリア人LiaとBrowynと地元の人が出入りしていたレストランで別れの夕食をした。

今日は午前7時少し前に起きて、身の回りの支度をして、午前8時半頃に街に出た。午前9時頃に駅で電車の時刻を確認した。掲示の行先を見誤り、発着の時間を取り違えたが、Braga行きの電車は1時間に1本出ていたので、次の午前9時45分に乗ることにして少し町に出た。

昨日にも行った通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したショッピングセンター(Galeria Trindade Domus)のSupermercado Froizに行くが、スペインとは異なり、午前10時から営業のため、飲料を求められなかった。父は中央広場(Praça da Liberdade)のベンチで待っていた。

直ぐ列車が来る時間になり、駅構内でトイレを済ませて乗り込んだ。郊外に行く電車(Comboios Urbanos)なので、長距離電車では無く、気楽に乗っていけた。明日行く予定のAveiroへも、1時間に1本は出ていて、Porto(Oporto)の郊外のような感覚で鉄道で気軽に行けて嬉しかった。

電車の中では日記を書いたり、風景を楽しんだり、朝食を食べたり、本を読んだり、人が少ないので快適に過ごせてよかった。Bragaまで2.15€と安く移動できるのも嬉しかった。

電車では車掌さんが駅ごとに回って来て、社内で払うシステムが面白かった。ポルトガルは人が少なくてのんびりとしているからこそ、システム化せずにマニュアルでできることを感じた。畑の中にプラットホームがある駅も驚きだった。駅の周りに何もなかった。

電車はBraga駅に着いたが、駅前にはロータリーやバス停以外は何もなかった。バス停で地図を見て、旧市街を目指して通り(Rua Andrade Corvo)を歩くと、バスに乗るまでもなく、公園(Campo das Hortas)を過ぎて、十分ほどで入り口の門(Arco da Porta Nova)と城壁(Paços do Concelho de Braga)が見えてきた。商店街になっている大通り(Rua Dom Diogo de Sousa)を渡り、中央のまるで砦のような外観の1071-89年に建てられた大聖堂(Sé de Braga)に出た。

大聖堂には博物館(Tesouro-Museu da Sé de Braga)があり、沢山の柱の一部の石材が置かれ、聖人の骨を納めた家具が置かれていた。また、面白いポジティブ・オルガン(Órgão positivo D. Luís de Sousa)などが展示されていた。朝の祈りの最中で小規模なミサが行われていた。前に大きな広場があり、大量の廃材があり、ラテン語が刻まれていたが、風化が激しくて読むのは大変だった。

教会(Igreja da Misericórdia de Braga)の中は貴重な祭壇があり、金箔がふんだんに使われていた。もう少しこじんまりしていても良いとも思ったが、ステンドグラスや祭壇の周辺は美しかった。

教会隣の博物館には美しいパネルがあり、52年の聖ペドロ・デ・ラテス(Pedro de Rates)以来の教会の管理者の名が刻まれていて、歴代の司教の名がびっしりと書かれていた。1970年まで続いて書かれており、ローマ時代からBragaは栄えていたことを物語っていた。

それから、先に進み城の塔(Torre de Menagem)を見て、大通り(Avenida Central)を歩き、噴水(Chafariz do Castelo)がある広場(Praça da República)に出た。駅からここまでは一本道で分かりやすかった。ポルトガルでは家はきれいな青タイルで装飾され、道は小さな白い石が敷き詰められてきれいな街並みだった。大通り(Avenida da Liberdade)に面した目立つところに観光案内所(Posto de Turismo de Braga)を見つけて、地図をもらい、Supermercadoの位置をきいた。

ショッピングモール(BragaShopping)の中にSupermercado Pingo Doce Braga IIがあり、食料を少し買って、椅子で食べた。ホワイトチョコレート(Tablete de Chocolate Branco)、 クリームパン(Bola de Berlim con creme)、リーフパイ(Palmeiras de hojaldre com açúcar)、バナナ(Banana)、ピーナッツを砂糖でまぶしたお菓子(Crocante de Amendoins com açúcar)、コーラ(Cola Light)、マンゴジュース(Nectaríssimo de Manga Clássico Compal)などを買った。

昼休みになり、大学生が大量に押し寄せてきた。皆お昼にものすごい量を食べていて驚いた。周りにはピザ屋さん、お惣菜屋さん、パスタ屋さんと沢山の飲食店があった。近くの新聞を読んでいるだけの人がいて、混みあってきたのでショッピングモールを出て、街の中を少し歩いた。

公園(Jardim da Senhora A Branca)の先に16世紀に建てられたバロック様式の美しい教会(Alminhas de Nossa Senhora do Carmo)があった。近くの広場(Largo Senhora A Branca)にあるパン屋さん(Hotel Cântaro Doce / Residencial Dora)に入り、小さなピザ(Pizza)やミートパイ(Pastel de carne)を求めた。ポルトガル人の大学生で賑わっていて良さそうだったので入った。

1629年に建てられた教会(Santuário do Bom Jesus do Monte)に向かおうとしたが、地図の場所にたどり着けず、大学(Universidade do Minho)の構内に入り、住宅地を通るが何もなかった。

バス停を見つけて、路線図を確認すると、その教会は地図の外にあり、その方向にあるため書かれているだけと分かった。おまけに観光案内所で02系統のバスで行くと教えてくれたことを思い出した。街中から少し遠いため、行くのは諦めて、旧市街の中心部に戻って、近くの広場(Praça da República)から、旧市街の美しい街並みを楽しんだ。それぞれの建物はとても美しかった。

大通り(Largo do Barão de São Martinho)から通り(Rua de São Marcos)に入ると広場に噴水(Fonte Seiscentista do Largo Carlos Amarante)が見えてきて、18世紀に建てられた教会(Igreja de São Marcos)の隣には薬局(Farmácia da Misericórdia de Braga)があり、教会の中は明るくとても美しかった。スペインのように金きら金ではなく、フランスのように青を基調とした美しい空間が広がり、ステンドグラスは技が素敵だった。そこから小道(Rua de São Lázaro)を行くと青いタイルが印象的なライオ家邸(Palácio do Raio)は病院として使われていて美しかった。

広場(Largo Carlos Amarante)から通り(Rua de Santa Cruz)を歩いて、教会(Igreja de Santa Cruz, Igreja de São João do Souto / Capela e Casa dos Coimbras)の色んな様式の歴史的建築物を楽しみながら、美しい石畳の広場(Largo de São João do Souto)や通り(Rua Dom Afonso Henriques, Rua do Farto)から、小さな広場(Rossio da Sé)を歩いて、中央の大聖堂(Sé de Braga)に辿り着いた。

大聖堂の壁にはポルトガルの紋章と聖母子のレリーフがあり、目立たないところでも小さな遊び心が感じられた。大聖堂の前には巡礼者用の矢印があり、入り口の泉には、聖ヤコブの帆立貝の標がある盤があった。内部はとても美しく、中央の祭壇は質素で小さかった。特に左側の側面が美しくポルトガルらしい青いタオルの壁画の中には、美しいマリア様が幼きイエスを抱いて安置されていた。祈りをゆっくり捧げている人が沢山いた。側面には、イエズスの十二使徒と重そうな初期の聖人像があった。ステンドグラスは新しく作られていたが、優しい光が差し込んでとても美しかった。

大聖堂から出て、細い路地(Rua da Misericórdia)を過ぎると広場(Praça do Município)に出た。噴水(Fuente del Pelícano)があり市民の憩いの場となっていた。私立大学(Universidade do Minho)や公立図書館(Biblioteca Pública de Braga)として使われる旧大司教宮殿(Antigo Paço Arquiepiscopal)や市民会館(Paços do Concelho de Braga)など、他の古典的建築物を見た。

町の入り口の門(Arco da Porta Nova)に向かった。アイスクリームが食べたくなり、Supermercadoに行こうと通り(Avenida São Miguel O Anjo, Rua do Matadouro)を歩いたが、ローマ時代の道路や家の跡がある他は何もなかった。観光案内所でここにはローマ時代の都市(Bracara Augusta)に関する遺跡(Ruínas Romanas das Carvalheiras)があると教えて頂いたのを思い出した。今日は日差しが強くて、街の中を歩き通して疲れてきて、行きたい場所と異なる所に歩いてしまったが、思いがけず、ローマ時代の都市遺跡を見れて、都市の成り立ちを感じることができて面白かった。

まだ、電車まで時間があるため、来た道を戻り、旧市街に入り、大聖堂の横を通り、大広場(Praça da República)に出て、ショッピングモール(BragaShopping)の中にあるSupermercado Pingo Doce Braga IIへ行った。このスーパーマーケットはとても安く、ポルトガルでは物価が安いと感じた。

そして、Santiago de Compostelaで食べたようなアーモンドコーティングのアイスクリーム(Mini sándwich sabor nata)やレディフィンガーのビスケット(Biscoitos Palitos de Champanhe Savoiardi)を購入して、広場(Praça da República)で食べた。

大聖堂の方向へ歩いて、 旧市街の中心部にある商店街(Rua Dom Diogo de Sousa)で古いポストカードを探すが見つけられなかった。途中で美しい柱(Chafariz do Castelo)が建っていて、その装飾がとても気に入った。一本道を歩いて駅に戻り、午後4時の5分前に電車に乗った。

電車には沢山の人が乗っていて、おじさんの隣に座った。スペイン語で話しかけると、それから話がとても盛り上がった。彼が電車を降りた後、大聖堂の横の16世紀に建てられた教会(Igreja da Misericórdia de Braga)でもらったポルトガル語のミサの内容紹介を読んでいると、隣のベンチのおじさんに隣に来てと誘われて、沢山会話して楽しんだ。Porto近郊に住んでいて見どころやお勧めをたずねたら、私が持っていた地図に印を沢山つけて紹介してくれた。(1383年にポルトガル王フェルナンド1世(Fernando I, 1345-1383)が建てた)聖フランシスコ教会(Igreja de São Francisco)を特にお勧めしていた。昨日、川の近くまで下ってゆき、美しい教会を見たが、そこではないかと思った。

前に座っていたおじさんは、私が日記を書き始めると、上から下に書いているので、覗き込むようにして不思議そうに見ていた。日本語の書く方向だよと言うと、そこからおしゃべりが始まった。すると、車内でPorto近くで皆が降りるまで、私を中心にとても盛り上がった。斜め隣に日本人がいて、その後に話しかけてきた。電車の中で大盛り上がりしていましたから、降りるときにお声をかけようとしていましたと言われた。彼らはPortoとAveiroの港町に泊まり、この近くを見て回っていると言っていた。Portoには観光で来る人は多いけれども、Bragaに行くのは相当の物好きですねと言われた。

PortoのSão Bento駅で下車して、父がフリースのセーターを忘れたので、近くの広場(Praça D. Filipa de Lencastre)に面したトルコ料理店(Restaurante Divan)に行くと、外でメニューを見ている間にこちらから言わなくても、私たちに直ぐに気付き、お店の人がにこりと笑い、セーターを持って来てくれた。ポルトガルの人々の親切でとても感謝だった。そして、感謝にケバブのサンドを注文した。

父は銀行Telebancoでお金を下ろすため、先に宿(Duas Naçôes)に戻った。宿に持ち帰り食べると、今まで食べたサンドの中で指折りのほっぺたが落ちるほどの美味しさでボリュームもあり食べごたえがあった。沢山の野菜が挟まれていて、ヨーグルトとチリソースで健康に良さそうだった。

宿に戻ると昨日の日本人とまた会い、これからどこに行くか、どこを見てきたかなどを少し話し合った。南スペインやポルトガルのLisboaから北上して、Santiago de Compostelaに行き、北スペイン、南フランス、イタリアを周遊して、フランスのParisから日本に帰るそうでお互いに長旅になりそうだと話していた。北スペインやフランスの良い所をお話すると熱心にメモをしていた。ヨーロッパに来てから、父以外の日本人とは久しく会わなかったので不思議な感覚がした。

部屋に戻り、少し軽食やお菓子を食べてから、イベリア半島の地図と飲み物を求めて、また街に出た。もう午後7時15分前で急いで近くの通り(Rua da Fábrica)にある書店(Livraria Bertrand)でイベリア半島の道路地図の全図を7.30€で求めた。どの本屋も同じ地図があり、同じ値段だった。

本屋さんでレジに並んでいたとき、先に行って下さいと譲るとmuito obrigadoと言われた。道をたずねたとき、スペイン語izquierdaをポルトガル語esquerdaと発音して、ポルトガル語はスペイン語の方言の(ガリシア語に近い)ように聞こえた。(バスク語「左利き」ezkerra <「手」*eśku +「曲がった」*okerが語源でポルトガル語「左手」sestra < 古ガリシア語sẽestra < ラテン語 sinistra < 「左」sinister < *senisterosと混同された。更なる語源は不詳だが、「右」dexter < イタリック祖語*deksteros < 印欧祖語*deḱs-tero-s < *deḱs-に影響されて、イタリック祖語レベルで *-teros < 印欧祖語*-tero-sが付いた可能性があり、固有の印欧祖語「右」*(h₁)sewyósが語源かもしれない。)

それから、通り(Rua dos Heróis e dos Mártires de Angola)に面したSupermercado Froizで飲み物(Schweppes limão spirit, Chá Don Simon de limão, Sumo compal clássico néctar de manga)を求め、宿に戻るとインターネットを受付前でしていたオーストラリア人Liaに今日の夕食はどこかへ行こうと誘われた。テレビを見て、ポルトガル語を聞いて寛いでいたとき、オーストラリア人Liaの部屋に父が訪ねていくと、少ししたら行きましょうということになった。LiaとBronwynは今日もPorto市内を歩いていたら、川沿いに美味しくて安い店を見つけたそうで丘を下り、川沿いに降りていった。

先ず坂(Rua do Dr. Ferreira da Silva, Rua de São Bento da Vitória)を下りゆき、川沿いの料理店を探したが見つからず、少し大通りを歩き、街を見渡せる広場(Miradouro da Vitória)や16世紀に建てられた教会(Igreja Paroquial de Nossa Senhora da Vitória)がある少し入った通り(Rua de São Bento da Vitória)に面した修道院(Mosteiro de São Bento da Vitória)の横にある小さなカフェ兼レストラン(O Lanchinho da Vitória)でPrato combinadoの魚とサラダとご飯を食べた。4€で沢山のご飯にサラダ、オリーブソテー風フライの魚が出てきてたらふく食べることができて大満足だった。

入口前を歩いていた地元の人にここは美味しいかとたずねると、そうだと大きく頷いたので看板は書きなぐったように大文字で書かれていて少しジャンキーだったが、逆に商売っ気がなく、家族経営で質素な感じがして、美味しい料理を出しそうと勘で感じて入って正解だった。地元の人が出入りしている地域に愛されるお店が見つかり良い所を探し当てた。

食後に沢山の会話をしながら、宿に戻った。今日は主に英語の語源とロマンス語について話をした。Liaは、ポルトガル語は、ドイツ語やスラヴ語などに発音が似ている気がすると話していたが、確かにロシア語やチェコ語などにも発音が似ている感じがした。また、フランス語のように鼻母音が多く感じた。曖昧な音が多くて通りの名前もとても発音するのが難しく感じた。

Liaは今日骨董品店のようなガラクタ屋で古いポットや古い新聞などを、息子さんにお土産に買ったと話していた。その前を通ったが、なんでも屋という感じがして、おもちゃから、マネキンなどでゴミだめ近い状態で玉石混交な感じがしてお宝探しのようだった。

オーストラリアからヨーロッパに来るには、香港経由で時間がかかり大変だと嘆いていた。日本の成田空港などを経由しないとヨーロッパまで直接は飛んでいないと聞き、日本からヨーロッパも遠いが、それ以上に大変な旅に感じた。Santiago de Compostelaからバスに乗って来て高くついてしまい、更に川沿いのレストランで昼食がものすごく高く払わされたことに怒っていた。

宿の近くで別れの挨拶をして、トルコ料理店に行き、明日電車の中でケバブのサンドを求めた。宿に戻ってから、シャワーを浴び、テレビでニュースを見て、ポルトガル語を聞いた。大分ポルトガル語に慣れてきて、何を話しているくらいは分かるようになってきた。

Bragaには古代ローマ都市(Bracara Augusta)があり、ケルト系のブラカリ人Callaeci Bracariが定住した村落を基礎として、紀元前16年(初代皇帝アウグストゥスの治世下)に建設された(紀元前41年のローマの道標が出土)。3世紀にディオクレティアヌス(Gaius Aurelius Valerius Diocletianus, 244-311)がHispania Gallaeciaの首都とした。410年にスエビ王国(Regnum Suevorum)の首都になり、584年に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)に編入された。

45-60年の初代ブラガ司教(Archidioecesis Bracarensis)には聖ヤコブの弟子である聖ペトルス・デ・ラテス(Pedro de Rates)が着任した。1世紀に聖アウディトゥス(Auditus)が住み、4世紀に著作家のパウルス・オロシウス(Paulus Orosius)が生まれた。6世紀に聖マルティン(Martinus Bracarensis)が、スエビ族をアリウス派からカトリックへ改宗した。

561-63, 572, 675年にブラガ会議が行われ、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が征服して、司教座が廃止されたが、1040年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)が奪還して、1071年に司教座が再び置かれ、1089年にクリュニー修道院を模したフランス風ロマネスク様式の大聖堂が献堂された。1093-1147年には宮廷が置かれていた。

ケルト族Bracari, Bracaraはケルト祖語「ズボン」*brāca < ゲルマン祖語*brōks < *brāks < 印欧祖語「股」*bʰrāg- < 「分かれた」*bʰreg-が語源で古英語「ズボン」brēċと関連。ラテン語「脚」suffrago < sub- +‎ frango < イタリック祖語*frangō < 印欧祖語*bʰr̥-ne-g- ~ *bʰr̥-n-g-と語源が同じである。

Bragaの広場(Praça do Município)から臨む教会(Igreja de São Marcos)

2008年5月21日(水)42日目(Porto-Aveiro: Pensão Residencial Estrela)

Aveiroは駅舎も街中も青タイルで溢れていて白黒の敷石があり、清潔感があり爽やかでコンパクトな街を自転車で回れて、海岸もあり避暑地のようで気に入った。宿も清潔で快適に過ごせた。

今日は午前7時半に起き、午前9時頃に宿を出て駅に向かった。朝は交通量が少なく、美しい駅前と長いタイル張りの教会を楽しんだ。商店や書店が立ち並んだ小道(Rua da Fábrica)を行き、中央広場(Praça da Liberdade)に出て、直ぐ駅に着いたが、Aveiro行きの1時間に1本の電車は出たばかりで50分も待つことになった。駅構内のベンチで電車を待つ間、昨日に買っておいたケバブを食べた。

ベンチの前は写真機で日本人らしき人が戸惑っていて、助けに行こうと腰を上げたら、直ぐにポルトガル人が助けてあげていたのでお任せした。ポルトガルで日本人に助けられるより、現地の人に助けられた方が思い出になると思ったからである。とても微笑ましい光景だった。ポルトガル人とスペイン人は人懐こくて思いやりがあり、街中で困っている旅行者がいると、必ず助けてあげていた。

午前9時45分の電車に乗りAveiroへ発った。初めCampanhã駅に行き、Effel設計の鉄橋を見ながら、引き返していくとき、川沿いに巡礼路が見えて、帆立貝のマークを付けた巡礼者が歩いていた。途中、海に近づいた時(Aguda-Granja-Espinho-Vouga)、海岸線が美しく見えた。山側は雲だらけで、海側は雲一つなく、対照的な光景で驚いた。更に太陽が射して眩しかった。電車の中でロマンス諸語を学んだ。少しずつ学ぶスピードが上がり、読書をする速度が速くなり、効率が良くなった。

鉄道に1時間ほど乗るとに着いた。駅(Estação de Aveiro)のエスカレータを上がると、美しいタイル張りの駅舎があり、観光客のバスがあり沢山の人がいた。駅舎の壁に青タイルで漁民や塩田、婦人などの人物や建物や風物が描かれていて、美しかった。観光客はバスの文字から、フランス人だと分かったので、フランス語で話しかけると嬉しがって興奮していた。Santiago de Compostelaからの巡礼者で25日かけ、フランスから歩いてきたことを知ると、更に興奮してSantiago de Compostelaの大聖堂前で撮った写真を見せてくれた。Santiago de Compostelaから、Aveiroに着いたばかりだったそうで、巡礼者を見て興奮して、貝殻がリュックに着いていて、ビデオで会話の一部始終を撮っていた。

フランス人としばし盛り上がり別れてから、観光案内書を探しに中央広場までの大通り(Avenida Dr. Lourenço Peixinho)を直進した。ヨーロッパの都市には、必ず観光案内所(Turismo)があり、地図で観光案内書までの道のりを確認して行くことが、新しい町に着いて始めにすることと感じた。

通りを行くとDiaの系列のSupermercado Minipreçoを見つけて入った。チョコレートパフェは、予想を良く裏切ってくれて、甘くなかったので良かった。今日は無性にココナッツが食べたくなり、ココナッツマカロン(Petit Fours Coco)やココナッツの乾燥(Coco ralado)を沢山買った。

ポルトガルに入ってから、長いフランスパンが店頭から消えて、ポルトガル人は余り食べないらしいことが分かった。変わりに丸いパン(Pao carcaça regional)を買った。また、丸いチーズ(Queijo Amanteigado de Ovelha Pastor)やフルーツ入りヨーグルト(Iogurte de frutas)、バナナ(Banana)やオレンジ(Mandarina)を買った。スペインではおなじみのDulcesolの美味しいミルフィーユ(Milhojas)や砂糖をまぶしたケーキ(Miguelitos)が手に入らず、少し残念だったが、レディーフィンガー(Palitos de Champanhe)と呼ばれる大好物のビスケット(Bizcochos)は安く手に入った。また、ココナッツのマカロン(Coco Ralado)やホワイトチョコレート(Chocolate branco)も買った。

安く食料品が売られており、流石にポルトガルは物価が安いと感じた。肉売り場でハムのスライスをもらうが、普通は職人技のようにとても薄く切ってくれるので、逆に少し厚めに切ってもらい、チョコレートのパフェ(Chocolate liégeois)やヨーグルト(Yogurt stracciatella)、マンゴージュース(Sumo Pessego/Manga)やマンゴー風味のアイスティ(Ice Tea Manga)なども買った。

それから、大通りを少し歩いたロータリーの先に運河(Canal do Cojo)に面した広場を見つけて食べた。目の前には町の中心の運河に面したショッピングセンター(Forum Aveiro)があり、McDonald'sなどのレストランやアウトレットショップが並んでいて賑わっていた。平日にもかかわらず、ポルトガル人も、スペイン人と同じく、人前で激しくキスをしている人が多く見られた。

市営の無料貸し自転車(Bicicleta de Utilização Gratuita de Aveiro / BUGA)があった。市内を観光する人たちが、車に乗らなくても、自分で好きな所まで行けて、エコロジーで良い考えと思った。

食後に大通りを進み、中央広場(Obelisco da Liberdade)に出た。観光案内所(Turismo Centro de Portugal)で職員の長電話を待ち、地図をもらった。歴史的な地区にあるお勧めの宿の位置を教えてもらい、全てスペイン語でやり取りをしたら、親切で丁寧に答えてくれて助かった。

観光案内所を出てから小さな通りに入ると、直ぐにいくつかの宿が立ち並んでいる趣きのある通り(Rua José Estevão)に面した宿(Pensão Residencial Estrela)を見つけた。一階に呼び鈴があり、二階に受付があるとポルトガル語で書いてあり、上がると宿の人が出てきていた。値段を聞くと2人で25€で泊まれた。3階の部屋はとても美しく、驚いたのは広かったベットを一つは2人分あり、広々として天井も高く開放感があった。隣は工事中というより、改装中で奥にお風呂とトイレがあった。

宿で1時間少し休憩した後、町に出て運河(Cais do Côjo)や広場(Praça do Mercado)を散策した。運河には小舟(ゴンドラ)が動いていて活気があって気に入った。自転車乗り場(Loja Buga)で無料貸し自転車(Bicicleta de Utilização Gratuita de Aveiro / BUGA)を借りた。

ポルトガルではHostelでも、自転車乗り場でも、パスポートを預けて身分を保障するシステムになっている。初めは誤って、内陸の方へ行ったが、直ぐに戻り、海岸に出たくて、海に向かって走った。Aveiroは運河が発達しており、町の中心のロータリからの運河への眺めは美しかった。

橋(Ponte dos Namorados)を渡った後、運河沿い(Rua Homem de Cristo)に行き、釣りをしている人とスペイン語で少しお話して楽しんだ。道(Rua do Dr. Bernardino Machado)が行き止まりになっていて、左側に港口が右側に運河があり、橋を掛けている途中だった。公園(Jardim do Rossio)には、ヨーロッパ各地の観光バスが何台か止まり、観光客が市内を見物しているのによく出くわした。

市内に戻り、雰囲気などのある通り(Rua de João Afonso de Aveiro, Largo da Praça do Peixe, Rua dos Marnotos)を抜け、広場(Praça 14 de Julho, Largo da Apresentação)から、1606年に建てられた美しい青タイル張りの教会(Igreja de Nossa Senhora da Apresentação)を見た。内側もタイル張りで美しく、祭壇も金きらで無く、慎ましやかで美しい巡礼服が展示されていた。

街の路地(Rua Dom Jorge de Lencastre, Rua Manuel Firmino, Rua do Gravito, Rua de Alberto Soares Machado)を進み、1613年に建てられた小さな教会(Igreja do Convento do Carmo)に入ると、全面が白で美しい外装で中は涼しかった。入り口には聖ヤコブを思わせる帆立貝の聖水盤があり、隣には十字架上の生々しいキリスト像があり、横に聖人の像が配されていた。

それから、大通り(Rua Dr. Alberto Souto, Avenida Dr. Lourenço Peixinho)を行き、ロータリー(Praça Gen. Humberto Delgado)の道側に出て、宿に近い所に出たため、父は宿に戻り、トイレに行き、部屋から先ほど買ったお菓子を持ってきてくれた。

ロータリー前の記念碑(Obelisco da Liberdade)がある広場(Praça General Humberto Delgado)で沢山の観光客が通り過ぎてゆくのを眺めながらおやつを食べた。

運河を越えた小さな広場(Praça da República)にも、1585年に建てられた青タイルが美しい教会(Igreja da Misericórdia)があり、前に自転車を停めて中に入るとグレゴリオ聖歌が流れていて、美しい空間だった。隣には1792年建立の美しい建物や市庁舎(Câmara Municipal de Aveiro)があった。

近くの大広場(Praça Marquês de Pombal)には市庁舎(Domus Iustitiae)や郵便局(Central Correios Aveiro)や美しいタイル張りの壁の家(Casa de Santa Zita)が集まり、18世紀に建てられた教会(Igreja de São João Evangelista)は小さかったが、入り口に人がいて、声をかけるとにこやかに応じて下さり、祭壇も飾り気がなく質素でつつましやかで美しかった。

自転車で1464年にドメニコ会の修道院として建てられた大聖堂(Sé Catedral de Aveiro / Igreja de Nossa Senhora da Misericórdia)とその前の博物館(Museu de Aveiro / Antigo Mosteiro de Jesus)まで行った。大聖堂は修繕中で入れなかったが、博物館は午後5時半まで入場できた。

二人の職員の人に声をかけると、中の美しい教会(Convento de Jesus)を開けて見せてくれた。ポルトガルの王女も訪れたことを説明してくれた。教会は小さいが美しく、青色のタイルと金色の祭壇やオルガンの対象が美しかった。天井画もあり、良い空間だった。

隣には聖アウグスティヌスの像と、侯爵の石棺があり、その中にはポルトガル王アフォンソ5世(Afonso V,  1432 -1481)の娘(Joana Princesa, 1542-1490)の棺があり、美しい装飾が施された美術品だった。4つの大石棺の一人には天使が支えていて、色をふんだんに用いた石棺があり、最上部にはポルトガルの旗にもある紋章があった。再び教会の中の碑文を読むと、右側には14世紀後半に作られたことが、ラテン語で書かれており、左側に短いポルトガル語で書かれていた。

博物館の職員とスペイン語で話をした。青いタイルが美しいという話になり、どこで作っているのかをたずねると、Aveiro近郊には青色タイル工場があり、今でも盛んに作られていると言っていた。

出口で記帳をしながら、職員の人とスペイン語で話をした。彼女たちはポルトガル語を話していたが、言語が近いため、お互いに言いたいことが分かり合えて喜んでいた。記帳にはラテン語で感想を書いた。美しい栞とパンフレットを手渡してくれたとても感じが良く親切な職員とお別れした。

大聖堂の前に止めていた自転車に乗り、町中に戻った。自転車はスタンドが無いため、駐輪をするときに困った上、ブレーキが無くて、急に止まれず、更に困ったが、無料なので文句を言えない。

自転車を乗り場に着いて戻してから、近くのSupermercado Minipreço - Aveiro III(Avenida Doutor Lourenço Peixinho 134)で少し食料を仕入れた。先程のSupermercado Minipreço - Aveiro I(Avenida Doutor Lourenço Peixinho 242)と同じ会社で規模がもう少し大きかった。

ポルトガルのSupermercadoでは、袋を3¢で買うことになるため、必ず自分で持って行った。ここでは手に入らないものがあり、手に入るものもあった。規模が少し大きいため、殆んど必要なものが揃ったが、レディーフィンガーのビスケット(Bizcochos / Palitos de Champanhe)は無かった。

パン(Pão Carcaça, Pão Bijou)、ホワイトチョコレート(cocolate branco)、アーモンドとチョコレートでコーティングされて中に苺とバニラが入っているアイスクリーム(Gelado Bombom nougat de morango)、オレンジ(Laranja)、トマト(Tomate rama)、ピーマン(Pimentão vermelho)、トウモロコシ(Milho Doce)、バター(Manteiga Magra)、ハム(Presunto serrano)やシャンプー(Pleno revitalizante)を買った。

ブラジル風味のブドウのファンタが、ポルトガルで限定販売と書かれていたが、日本では葡萄味が売られていて珍しいものではなかった。アイスクリームが溶けないうちに近くの石に腰かけて食べた。

また、先ほど訪れた少し遠くにあるSupermercado Minipreço - Aveiro Iに足を伸ばして、レディーフィンガー(Bizcochos / Palitos de Champanhe)と牛乳(Leite)を買って、宿に戻った。

宿で少し食料を食べながら、テレビを付けて、ポルトガル語でニュースを聞いた。ココナッツのマカロンを食べながら、巡礼の初めにSaint-Jean-Pied-de-Portで求め、スペインとフランス国境のPyrénéesの山頂でPaulと一緒に食べたことを思い出した。あれからものすごく色んな事が起きて体験を重ねてきたため、巡礼の初めの頃が昔のように懐かしく感じるようになっていた。

午後10時あたりまでゆっくりしたり、ロマンス諸語を学んだり、日記を書いたりした。シャワーを浴びて出て来ると、テレビで英語のアメリカの映画が流れていて、ポルトガル語字幕と照らし合わせながら見た。コマーシャルも面白いが、番組の構成や発想が全然違い、ポルトガル人に限らず、ヨーロッパ人は文字を見るより、耳から得ていることが分かった。ポルトガルでは番組の数が少なくて三つしかなかった。同じ番組が違うチャンネルにも流れていた。事件や事故があると死体まで映っていて驚いた。宣伝も必ず文字が言葉で読み上げられて、耳を通じて情報を受ける人が多いと分かった。

Aveiroは街全体が美しい青のタイルで飾られていて、上品で凛とした美しい街並みに爽やかな風が吹き抜けていて、お気に入りの町の一つとなった。特に青タイルは美しく様々な模様があった。タイル職人が一つ一つ手作業で通りのタイルを作り上げていくには、時間と労力がかかると思った。また、舗道には小石が敷き詰められていて、街中には運河が流れていて、清潔で快適な街に感じた。旧市街の大きさもコンパクトで半日で美しい歴史的な建物を全て見て回ることができて大満足だった。

Aveiroはラテン語「鳥の狩り場」aviarium < 「鳥」avis < イタリック祖語*awis < 印欧祖語*h₂éwis +‎ 「場所」-arium < -arius < イタリック祖語*-ās(i)jos < 印欧祖語*-eh₂so-yósから来ていると言われることが多いが、中世にはAlavariusとも記録され、ラテン語Averiusから、ケルト語「河口」*adberos < 「向かう」*ad- < 印欧祖語*h₂éd +‎ 「流れ」*beros < 「運ぶ」*bereti < 印欧祖語*bʰér-e-ti < *bʰer- +‎ 接尾辞 *-os < 印欧祖語*-osと分析されて正しい語源が得られる。ウェールズの地名Aberystwythと同じようにイベロ=ケルト語でポルトガルの地名Aveiroが生まれた。

Aveiroの駅舎(Estação)の青タイル(azulejo)

2008年5月22日(木)43日目(Aveiro-Coimbra: Residencial Moderna)

Coimbra市内で雨が時どき振りながらも、お菓子屋さんでおやつを食べたり、教会(Igreja de São Tiago)の近くの宿に泊まり、砦のような旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)や大学など旧市街の名所を観光した。街中の建物は非常に堅牢で歩道も道路も白黒の石で敷き詰められていて美しかった。

今日は朝ゆっくりと広々とした宿の部屋でフランス語、イタリア語、スペイン語でテレビを見てから、午前9時半に宿を出るとき、宿の人が出迎えてくれた。Aveiroの町の大通り(Avenida Dr. Lourenço Peixinho)をひたすら歩き、駅に向かった。長距離電車でCoimbraまで5€で行けた。

駅の美しいタイルを見ていると雨が降ってきた。街を出るとき、雨が降ってきた。Santiago de Compostela, Vigo, Porto, Aveiroと4回も街を見ているときは晴れていたが、街を出るとき雨が続いた。父が本当に天気にはついているね。ガリシア地方やポルトガルは雨が多いねと話していた。

新市街の駅(Coimbra-B)を通り越して、旧市街近くの駅(Coimbra-A)に着いた。途中には、鶏、犬、羊まで飼われていた教会を見つけて驚いた。駅で電車の時間を確認した。観光案内所が閉じていたので、駅から旧市街まで大通り(Avenida Emídio Navarro)を歩き、地図を確認して、広場(Largo da Portagem)から旧市街に入り、商店街(Rua Ferreira Borges)を行った。

今日は全ての商店が一斉に閉まっていて、ポルトガルの祝日であることを知った。美味しそうなお菓子を売るパン屋さん(Pastelaria Toledo)を見つけた。すると雨が激しくなったため、ショーウィンドウに美味しそうなお菓子が並んでいたお菓子屋さん(Pastelaria Briosa)に入った。英語を話している観光客が多かった。英語の方言から察するとオーストラリア人らしかった。

混雑していて、少し待ってから、パイらしきお菓子と苺タルトとお茶を注文した。パイは60¢、タルトも1.2€でとても安かった。パイ(Folhado misto)には、不思議な味がするペースト状の果物が入っていた。苺タルト(Mini tarte de frutos vermelhos)はとても美味しかった。

店の人は美しい英語を話していたので、不自由なく注文できた。食べ終わり、トイレに行くとドアが中にいる人に当たってしまい、スペイン語でお詫びしたが、英語で返事が来て、オーストラリア人でしょうかとたずねると喜んで、上で話をしようと言われた。上に戻ると隣の席の人だった。

成田空港からFrankfurtやLondon経由でLisboaに来たそうで、日本人に親近感があり、嬉しそうに話していたが、バスの時間が来て別れた。出際に「あなたは見事な英語を話すから(You speak marvelous English)、オーストラリアで全く問題ないから来てね(You have no difficulty communicating, so you are welcome in Australia!)」と言われた。会計を済ませ、外に出ると、雨はぴたりと止んでいた。パン屋さんの前でショーケースに飾られたお菓子たちの写真を撮ろうとすると、先のオーストラリア人が「反射に注意してね(Beware of reflection! )」と、大笑いしながら声をかけてきた。

近くにある観光案内所(Turismo Centro de Portugal)は休日のため、午後2時半まで開かないため、20分ほど大きな広場(Largo da Portagem)の立派な銀行(Agencia do Banco de Portugal)の前のベンチで本を読んでいると直に開いたので町の地図と泊まれる場所とお勧めの場所をたずねた。

観光案内所の人は英語とフランス語とスペイン語を流暢に話して、母語のポルトガル語も話すことができて素晴らしかった。地図を頂いて、旧市街に入り、1206年に建てられた入り口に不思議な柱を持つロマネスク様式の教会(Igreja de São Tiago)の前で左手の階段(Escadas de São Tiago)を通り、宿(Residencial)を探した。地図には沢山の宿(Residencial)が密集して記載されていた。

広場(Praça do Comércio)を歩いていると、町には黒人が多く住んでいることに驚いた。ヨーロッパの大都市には、特にイギリスやフランスなどでも、旧植民地などから旧宗主国に逆に入り、沢山の黒人が住んでいるが、Coimbraはもしかしたら、旧植民地のブラジルから来た人たちかもしれない。

宿(Residencial Moderna)は通り(Rua Adelino Veiga)が入り組んでいて、見つけるのに難儀したが、環境も立地が良かった。雑居ビルの二階に受付があり、上がると感じの良いおじさんがいた。値段を聞くと30€で2人で泊まるそうである。スペイン語で全てのやり取りをしたら理解してもらえた。相手も英語では無く、ポルトガル語に近いスペイン語を話したので喜んでくれて、それからいろいろと話をした。直ぐに日本人と言い当てられて驚いた。Coimbraには日本人が多く来ていて、以前にここに泊まったかも知れないと思った。彼は私たちが巡礼者であると分かり、Santiago de Compostelaまで行きましたかと聞いてきた。フランスから25日かけて歩いたと話すと感激していた。

案内してもらうと、ベットが大きく、通りに面した良い部屋だった。テレビのコントローラーのボタンを押しても利かないため、フロントに行き、伝えたら、部屋まで来て、少し強く押すんだよとデモンストレーションをして優しく教えてくれた。荷物を少し整理してから、午後4時過ぎに街に出た。

近くの広場(Praça do Comércio)の二つの教会(Igreja de São Tiago)や1756年(モーツァルトが生まれた年)に建てられた教会(Igreja de São Bartolomeu)は外装は美しかったが中に入れなかった。教会には黄色い矢印が付けられていて、Santiago de Compostelaの巡礼路を見つけた。

大通り(Rua Ferreira Borges)に出て、また、先ほどの観光案内所でNazaréまでの行き方をきいた。鉄道よりバスが良いそうで、発車時間まで細かく印刷して手渡してくれた。Supermercadoの位置もきけた。前の人は全ての宿の値段をきいていて、係員の人が優しく、全てに電話をかけて、確認していたので待たされてしまい、自分の番が来るまで時間がかかった。出際に日本人が入ってきた。

城壁の中の旧市街に入ると、小さな門(Porta e Torre de Almedina)があり、町に入る人や軍隊から街を守るために通行を制限していた。趣きある道(Rua Quebra Costas)のきつい階段で丘を登った。途中にカフェやインターネット喫茶があり、町の雰囲気とは好対照をなしていて面白かった。

直ぐに中心の1162年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が建て始めたロマネスク様式のまるで要塞のように堅牢な旧大聖堂(Sé Velha de Coimbra)にたどり着いた。大きな貝が聖水盤になっていた。床には墓標などの碑文(Lápide de D. Jorge de Almeida)があるが、古い石は人が歩いて磨り減っていたり、その上に椅子が置かれていて判読不能だったが、祭壇は立派で美しかった。

旧大聖堂には1218年にゴシック様式で作られた中庭を望む回廊があり、入場料1€だが、見る価値がありそうで入った。学生は75¢で伝えると25¢還ってきた。中は涼しく本を読むのに丁度良さそうだった。周りには格子があり、十字架や小さな祭壇があり、出ようとしたとき、イタリア人のガイドさんから、写真を撮って下さいとお願いされ、イタリア語で話すとものすごく興奮して喜んでいた。

二つ目の部屋には、1902年に刻された最後のポルトガル王妃(Amelia d'Orléans, 1865-1951)の名前が出てきて、コインブラ大学の教授(António Augusto Gonçalves, 1848-1932)が修復したことを記録するラテン語の美しい碑文があり、不思議な書体で書かれていた。

外に出ると旧大聖堂は、黄色い大理石で作られており、イスラム建築の影響からか、砂漠の中の砦のような外観だった。内装は完璧なカトリック教会で対照が面白かった。側面の門も美しかった。

旧大聖堂前の広場(Largo da Sé Velha)から路地(Rua Borges Carneiro)を少し歩いて、国立城壁博物館前(Museu Nacional Machado de Castro)の広場(Largo Dr. José Rodrigues)に出た。まるでイスラム建築のような馬蹄形のアーチがある城壁を見た。奥には1064年に建てられたロマネスク様式の教会(Igreja de São João de Almedina)が見えて好対照をなしていた。

そこから階段(Largo da Sé Nova)を上ると1598年にイエズス会学校として建てられた新大聖堂(Sé Nova)前の広場(Largo Feira dos Estudantes)に着き、多くの人や修道女や司祭が集まり、行列ができていた。今日は休日で大聖堂から人が出てきて、行列が始まり、何かのお祭りのようだった。

近くの広場(Largo Marquês de Pombal)にある科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)を訪れたが、午後5時半になり、あと30分しかなく、また明日に来ることにした。

大学の近くから植物園(Jardim Botânico)を見ると、沢山の木が植えられ、様々な種の花が咲いていた。近くにはフランスのParisの地区(Cartier Latin)と同じく、中世に学者街でラテン語で議論がされた通り(Via Latina)があった。周辺の通り(Rua Estudos, Rua Larga)を行き、大学の正門(Porta Férrea)から中を覗くと美しい時計塔(Torre da Universidade)見えて、歴史を感じさせていた。

階段を降りて、路地(Rua do Norte)を行き、坂をどんどん下り、旧大聖堂に出て、来た道を戻り、門(Porta e Torre de Almedina)をくぐり、旧市街の商店街(Rua Visconde da Luz)に出た。

今度は北に行くことにして、広場(Praça 8 de Maio)に面した1131年に建てられた修道院(Mosteiro de Santa Cruz)の前を通り、修道院に修道女が入るとき、晩課の祈りの雰囲気が見えて美しかった。

銀行(Caixa Geral de Depósitos)の前から商店が立ち並んだ大通り(Rua Sofia)を北に少し歩いてゆき、1543年に建てられた教会(Igreja da Graça)を外観だけを見た。

午後7時近くになり、近くの大きなSupermercado Pingo Doceで食料品、シリアル(Cereais My Time Maçã e Canela)、パン(Bicas/Brasileiro)、ハム(Fiambre Extra Fumado)、チョリソ(Chourição)、イチゴ(morango)、マンゴー(manga)、トマト(tomate)、ミックスサラダ(Salada mista)、チーズバーガーのセット(Hambúrgueres de queijo)、コーンを炒って塩にまぶしたお菓子(Milho Frito com Sal)、レディーフィンガー(Bizcochos / Savoiardi Palitos Champagne)、アーモンドのチョコレートがコーティングされたアイスクリーム(Gelados Stick de Manteiga de Amendoim)やチョコレートパフェ(Sobremesas chocolate liégeois)、ミックスジュース(Nectaríssimo Light de Tropical)、リンゴジュース(Nectaríssimo Light de Maçã)、アイスティ(Iced Tea Lata)など飲み物を買った。ポルトガルのSupermercadoでは、魚の腐った臭いが漂っていることが多く、また、長いフランスパンはなく、短いパンとガリシア地方にもある丸っこいパンが良く売られていた。良い味のチョリソはパックより、量り売りの方が安く、いつもこのように買った。

Supermercadoで買い物をした後、宿でアイスクリームを食べた。冷蔵の温度が高く、少し柔らかくなってしまい残念だった。夕食を自分たちで作って食べていると、再び激しい雨が降り、早く戻ってきてよかったと思った。宿の係の人とスペイン語とポルトガル語で話をして楽しんだ。エアコンもあり、テレビは英語、スペイン語、フランス語もあり、様々な言葉を楽しめた。

食後にフランス語や英語のテレビを見て、ロマンス語を学び、日記を書いてから、長風呂に入り、寛ぐことができて、午後11時頃に寝た。長旅をするときは、多くは安い宿に泊まるが、時どき良い宿に泊まり、お風呂に入ったりして寛ぐことができるようにするのも、一つの良い工夫だと思った。

Coimbraの大聖堂に作られた中庭を望む回廊

2008年5月23日(金)44日目(Coimbra: Residencial Moderna)

Coimbraの町を橋(Ponte de Santa Clara)を渡った対岸から臨んだ。お菓子屋さんにいたとき、雨や雷が鳴り、停電も経験した。科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)で実験の展示を見たり、都市博物館(Museu Municipal de Coimbra)から町を一望することができた。

今日は明日も泊まるのでチェックアウトをする必要がなく、午前10時頃まで宿にいてゆっくりと過ごした。朝食を宿で食べてから、街に出た。川(Rio Mondego)に架けられた橋(Ponte de Santa Clara)の向こうの通り(Rua Feitoria dos Linhos)に面した小さな郵便局で航空便で荷物を2kg以内で送るため、スペイン語でやりとりをした。雨合羽を取り出して、荷物を作り、家に送った。

近くの1283年に建てられた修道院(Mosteiro de Santa Clara a Velha)は修復工事中だったが、美しい薔薇窓をみることができた。広場(Praça da Canção)は広々としていて、丘の上に幾重もの建物が重なって建てられているのがよく分かった。橋向こうに戻ると、街の眺めが美しく、観光案内所にあった昔の町の様子と同じようだった。大体古い街並みを描いた図は、川の向こうや丘の上から描かれており、少し遠くから街を一望するのも、ヨーロッパの中世都市を楽しむ面白い視点であると感じた。

午前11時頃に昨日にも入った大通り(Rua Ferreira Borges)の広場(Largo da Portagem)に面したお菓子屋さん(Pastelaria Briosa Coimbra)で苺のタルトと紅茶を飲んで一服していたら、二度も停電に遭遇した。それから、中心街(Rua Ferreira Borges)を歩き、広場(Praça do Comércio)を歩いて、教会(Igreja de São Bartolomeu)を見て、外に出ようとすると激しい雨が降り、宿に避難した。

少し寛いでから、科学博物館(Museu da Ciência da Universidade de Coimbra)に行った。コインブラ大学(Universidade de Coimbra)の構内にあり、博物館の中には、近代的で絶滅危惧種の剥製、リンネ(Carl von Linné, 1707-1778)の本の初版や貴重な本などの数々があった。東側には17世紀に使われた科学実験器具が沢山展示され、水の合成の実験に使われたラヴォアジェ(Antoine-Laurent de Lavoisier, 1743-1794)の実験器具、ボルタ(Alessandro Volta, 1745-1827)の電錐などがあった。奥には物理学の実験が展示され分かりやすくなっていた。ガイスラー管やスペクトル管が美しかった。

近くの宗教画の美術館(Museu Nacional Machado de Castro)と都市博物館(Museu Municipal de Coimbra)は、午後2時から開くことから、大通りを散歩してから、博物館の前で座って待っていた。午後2時に再び美術館の呼び鈴を鳴らしても、返答がなかったのであきらめ、博物館に行った。入りこんだ所で見つけるのが大変で入るとき、ノックすると優しい人が出てきた。今週は博物館週間のため、入館料は無料で都市の概略を丁寧に説明してくれた。上の階に上がると、Coimbraの旧市街が一望できて美しかった。雨が激しくなり、少し雨宿りをしてから外に出て宿に戻った。

平日で宿近くの商店街(Rua da Louça, Rua da Gala, Rua do Paço do Conde, Rua Adelino da Veiga)が賑わっていた。帰りがけに路地でコインや切手の店を見つけた。ポルトガルの大都市にコイン商やアンティークショップ(Numismática e Antiguidades)が必ずあり、趣味を持つ人が多いと感じられた。

午後2時過ぎに宿に戻ると部屋をきれいにしていてくれた。宿で少しゆっくりしていると、父が昨日にも訪れたSupermercado Pingo Doceから戻ってきた。少しヨーグルトやレディフィンガーやシリアルを食べてゆっくりした。少しずつ外が暗くなってきて、街に出ることにした。

出掛けに突然ドアをノックされて、誰かと思ったら、支配人が部屋のベットを計らせて下さいと来て驚いた。宿の主人に話を聞いたら、近々、全体を改装工事をしてリニューアルすると興奮してお話されていた。直ぐにメジャーでベットの長さを計り終えると部屋を出ていった。

広場(Praça do Comércio)から出て、細くて狭い路地(Rua Eduardo Coelho)には、美しい青タイルがあり、沢山の商店が並んでいて活気があり、人通りも多く、またSantiago de Compostelaの巡礼路の黄色の矢印があった。Fátimaへの道も青色の矢印でしっかりと示されていた。路地の中にアンティークショップを見つけて入るが、ガラクタが多くあり、ポストカードも一枚2.50€と高かった。

通り(Largo do Poço, Rua da Louça)を行き、教会(Igreja de Santa Cruz)が面した広場(Lago da Praça)に出た。大通り(Rua Visconte da Luz)を歩き、階段(Escadas de São Tiago)を降りて、広場(Praça do Comércio)に戻り、先ほど歩いてきた通り(Rua Eduardo Coelho)に戻り、ピザ屋さんとアンティークショップの隣の路地(Largo da Freiria)に入り、小さな店で夕食を取ることにした。

スープは塩気が足りない薄味で二つ目の皿はレンジで冷凍食品を解凍で4.5€もして残念だった。17€と見込んでいたが、更に税金がかかり19€だった。Puente la Reinaで冷凍イカリングが出されたレストランを思い出して、父と不味い方が印象に残っているねと笑っていた。ポルトガルやスペインで地元のBarもレンジで作ることから、安くて量も多く味も安定しているMcDonald’sと変わらないと思った。

帰りに洋服屋さんが多い通り(Rua das Padeiras)を一直線にゆき、駅近くの通り(Rua António Granjo)に面したSupermercado Minipreçoでファンタグレープ(Fanta uva)やトロピカルジュース(Sumo tropical)とレディーフィンガー(Bizcochos / Savoiardi Palitos Champagne)だけを買い、通り(Avenida Fernão de Magalhães, Rua Adelino da Veiga)をゆき、宿に戻った。部屋でフランス語のテレビを見て、ゆっくりと日記を書いたり、語学をして、お風呂に1時間程入り、午後11時半に寝た。

Coimbraは、古代ローマ都市Aeminium(ラテン語「模倣」aemulus < イタリック祖語*aimelos < *aimos < 印欧祖語*h₂éym-o-s < *h₂eym-が語源)の近くにConimbrigaがあり、ケルト系のConii人が住んでいた。(ギリシア語Κυνήσιοι / Kynísioiやラテン語cuneusと記録され、イベロ=ケルト語 「犬」複数対格*kwon < ケルト祖語*kū < 印欧祖語*ḱwṓ + イベロ=ケルト語「町」*brignā < ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源。「犬」について、ヒッタイト語𒆪𒉿𒀸 / kuwašやルウィ語CANISzú-wa/in(i)- / zuwani < アナトリア祖語*k̂won、サンスクリットश्वन् / śvánやアヴェスタ語spā < インド=イラン祖語*ćwā́、リトアニア語šuõと古プロシア語 sunnis < バルト=スラヴ祖語*śwṓ、古英語hundや古ノルド語hundr < ゲルマン祖語*hundaz、古典ギリシア語κύων / kúōn < ヘレニック祖語 *kúōn、古典ラテン語canis < イタリック祖語*kʷan- < *kō、古アルメニア語շուն / šun < アルメニア祖語*ḱwon、トカラ語A/B ku < トカラ祖語*kuと関連)

紀元前139年にローマ人が入植、ラテン語でColimbriaと記録され、468年にスエビ族(Suevi)が支配して、563年に司教座が置かれ、西ゴート王ウィティザ(Wittiza, 687-710)がコインブラ伯領(Condado de Coimbraga)を置き、714年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のイブン・ヌサイル(بن نصير, c.640-716)が攻略、アラビア語(قُلُمْرِيَة / qulumriya)と記録された。

1064年にカスティーリャ王フェルナンド1世(Fernando I, 1017-1065)が奪還、1139年にポルトガル王国の首都になり、1288年にコインブラ大学(Universitas Conimbrigensis)が設立、1290年に中世大学(Studium generale > Estudo Geral)に認定、1385年にLisboaに遷都されるまで首都だった 。

Coimbraの街並みを橋(Ponte de Santa Clara)を渡った対岸から臨む

2008年5月24日(土)45日目(Coimbra-Nazaré: Rua Ocidental)

Nazaréの丘の上の展望台(Miradouro do Suberco)から街並みと海岸線を臨んだ。小さな教会(Capela de Nossa Senhora da Nazaré)があり、青タイル(Azulejo)がとても綺麗だった。博物館(Museu Etnográfico e Arqueológico Dr. Joaquim Manso)で歴史や漁民の暮らしを見れて楽しかった。地引網を海岸で引いているのを見た。

今日は午前8時半に起き、身の回りの支度を整え、午前9時に宿を出た。宿の支配人は優しく見送ってくれた。大通り(Av. Fernão de Magalhães)を歩いてゆき、バスターミナル(Terminal Rodoviário de Coimbra)の近くになると激しい雨が降り、Coimbraでも出掛けに雨が降ってきた。

奥から入り、切符売り場になかなか着かず、入り口で親切な方が案内してくれた。バスの行き先は書かれておらず、一つ一つ確認して時間がかかったが、何とか見つけて、乗車と共にバスが出発した。バスに乗っていると前の耳が悪い老人が手話を使い話していて、話好きで陽気な方だと思った。

途中でFigueiras, Leiria, Batalha, Alcobaçaなどに止まった。Alcobaçaから20分でNazaréに着いた。(4世紀にイスラエルのナザレ(Nazaré < נָצְרַת / Nāṣəraṯ)から、スペインのメリダ(Mérida < Augusta Emerita)の修道院に来たマリア像が、711年に西ゴート王ロデリック(Ruderic)によりもたらされた。また、1182年9月14日にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)の忠臣の騎士(Don Fuas Roupinho / Fernão Gonçalves Churrichão / Farroupim, c.1130-1184)が霧の中で鹿の狩りをしていたとき、 断崖絶壁まで馬で走り落ちそうになり、小さな祠の聖母像にお祈りをしたら、急に馬の足が止まり、命拾いをした伝説があり、崖の上に聖母像の小さな聖堂と大きな教会が建てられた。)

街の大通り(Avenida Vieira Guimarães)にある小さな停留所でバスを降りると直ぐに宿の勧誘が始まり、始めは25€で少し高いと感じて、去ろうとすると20€になり、最後は15€と言われた。観光案内所で町の全体を把握して、宿を選びたいので向かい、観光案内所をたずねると親切に教えてくれて、勧誘は止まった。観光案内所で地図をもらい、宿の相場とスーパの位置を教えてもらい、宿探しをした。美しい海岸を歩いていると探すまでもなく、部屋をお探しですかと、民族衣装を着た婦人がやって来て、15€で交渉すると良いと言われて、部屋に案内してもらった。宿は少し狭い路地(Rua Ocidental)を入った住宅地の中にあり、絶対に見つけられない所にあった。

中に入ると、台所があり、リビングに寝室があってベットは3つあった。値段の交渉通りの15€と思ったら、見ての通り設備が良いから、25€と言い張りだしたため、最初の話と違うと言うと20€になり、先ほど15€で泊めてくれるという人がいたから、そこへ行きますと言うと15€で良いと交渉がまとまった。ホテルと違い民宿で値段も交渉次第でいくらでもなることを感じた。Coimbraの宿で30€と聞いたと思ったら、後で実は40€だったため、取り交わした際にお金を支払ってしまう方が賢明だと思いそうした(Coimbraの老舗の宿であり、評価も高い場所であったため、騙すような商売はしていないと思われたため、特にポルトガル語はとても聞き取りにくく、聞き違いである可能性が高かった)。

宿が決まってから、直ぐに荷を置いて、正午頃に海岸線(Praia da Vila Nazaré)に出かけた。美しい砂間が広がり、最高の眺めだった。16世紀に建てられた青いタイルがとても美しい小さな教会(Paróquia da Pederneira / Capela de Santo António)を見つけた。Nazaréの町は白を基調とした壁や石を敷き詰めた道に青い海やタイルが映えていて素晴らしいコントラストをなしていた。

崖の下にあるリフト(Ascensor da Nazaré)に乗り、崖の上の町を目指した。リフトの係員は、普通のお客さんと同じ格好で分からなかったが、こっちだよと手招きをして乗り場を教えてくれた。

リフトに乗り上がると展望台(Miradouro do Suberco)があり、目の前には美しい海岸と街並みが広がっていた。裏手にある広場(Largo de Nossa Senhora da Nazaré)に教会(Santuário de Nossa Senhora da Nazaré)があり、教会の中は美しく簡素で気に入った。結婚式が開かれていて、教会の中から新郎、新婦が出てきて、教会の鐘が鳴り響いていた。

博物館(Museu Etnográfico e Arqueológico Dr. Joaquim Manso)が閉まる時間になり、午後2時半にまた空くため、岬の先端(Promontório da Nazaré)の灯台(Farol da Nazaré)に行くことにした。小さな聖堂(Ermida da Memória)が広場(Estrada do Farol)にあり、中に入ると美しいタイルに外も中も縁どられていて、十字架上のイエス像があり、シンプルな聖堂が気に入った。

下に降りて行くと美しい聖母子像と海岸が見える小屋があった。岬に向けて一本道(Estrada do Farol)を歩くと要塞(Fortress São Miguel Arcanjo)が少し下った所にあり、北側にもう一つの砂浜(Praia do Norte)が見えた。そこには家一つなく、美しい浜が広がっていた。

要塞の近くに来ると雨が強く降ってきた、急いで要塞の扉の跡の下に隠れて、雨宿りをして、雨が止んできた頃、町に向けて、急ぎ足で戻った。先ほどの小さな教会まで5分程歩いた。聖堂(Ermida da Memória)の中で雨宿りを民族衣装を着た婦人として、雨が弱まってきたので外に出た。

博物館前の広場(Largo de Nossa Sra. da Nazaré)で休憩して、開館時間の午後2時半まで待った。博物館が開くと中に入った。2€で入館できて、先史時代から中世、5世紀の教会の一部、中世の聖母子像などが展示され、奥には美しい模様の民族衣装が展示されていた。

布は手が込んでいて美しく織られていた。展示室で見終わりかと思ったら、美しい中庭があり、そこにはNazaréで昔に使われていた小さな漁船が展示されていた。奥にも、古い船の設計図、航海法の書籍や海図など、様々な資料や錨や地引網、蛸壷や網を治す道具などが展示されていた。博物館の小さな売店で美しいナザレの1909年に撮られたセピア色の写真のポストカードを求めた。

展望台(Miradouro de São Brás)の脇の階段(Ladeira do Sítio)を海岸と街並みを楽しみながら下り、通り(Rua Doutor José Laborinho Marques da Silveira)を歩いて、海岸線に近い街中に降りた。

少し大きな通り(Travessa do Elevador)に面した小さな食料品店(Minimercado Carlos Manuel Baptista)で飲み物とおやつを求めて、港の前の広場で食べた。辺りには多くのレストランがあるが、高くて驚いた。ナザレは観光地になり、漁民独特の質素な生活も消されてしまいそうだった。

宿に戻る前に観光案内所(Posto de Turismo de Nazaré)に立ち寄り、明日のAlcobaçaへのバスを教えてもらった。午後5時から地引の実演があることを教えてもらい、宿にお買い物した荷を置いてから、見物しに海岸に向かい、地引網が始まるまで、砂浜を散策して海を眺めた。

午後5時15分頃に中央の商店が立ち並んだ通り(Rua Sub-Vila)に面したSupermercado Minipreçoで冷凍ピザやチーズなどを少し買い物をしていると地引が始まった。網が引かれて沢山の魚がかかっているのを期待したが、2、3匹しか小魚がかかっていなくて少し残念だった。

また、Supermercado Minipreçoで夕食のパンを買い、民宿に戻った。今日は調理器具があり助かった。スープとハンバーガを焼くことができて、パンに挟んで食べた。それから、テレビを見たり、日記を書いていると、午後10時半になり、今日は早く床に入ることにした。

Nazaréの街並みと海岸線を展望台(Miradouro do Suberco)から臨む

2008年5月25日(日)46日目(Nazaré-Batalha-Alcobaça-Nazaré: Rua Ocidental)

Batalhaの修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)は、天井が高くてステンドグラスが美しく、聖堂の中が美しい光で満たされていた。Alcobaçaの修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)では、オーストラリア人と石棺の碑文に書かれたラテン語を読んで楽しんだ。彼は古英語も学んでおり、教養のある方だった。住宅地の中にぽつんとある廃城に上がると、街が一望できて美しかったが、柵がなくまっさかさまに落ちてしまうくらいだった。喫茶店でオーストラリア人と一緒に会話を楽しんだ。Nazaréでバスから降りて、海岸に夕日が沈むのが見えたときに美しくて感動した。

今日は午前10時15分発のバスでBatalhaに向かうため、午前9時少し前に起き、軽く朝食を食べて、午前9時半に宿を出た。宿の近くの通り(Avenida Vieira Guimarães)にバス停(Estação Rodoviária)があり、バスを待つ間に明日や明後日のためにÓbidosやFátima行きのバスの発着時間を確認した。バスは定刻通りに来てすんなりと乗れて、Alcobaçaに少し止まりBatalhaに向かった。

始めは、AlcobaçaからBatalhaと見ようと思っていたが、遠い所から先に見て近くに帰るため、Batalhaまで乗ることにした。 (ケルト系イベリア人Turduli < Τουρδοῦλοι / Tourdouloi < 語根Turd-, Turt-が居住した土地でケルト祖語「乾いた」*tartus < 印欧祖語*térs-tu-s ~ *tr̥s-téw-s < *ters-が語源で古アイルランド語「乾燥した」turadやゴール語「乾燥した」*tarto、また、古英語þurst, þyrstやゴート語𐌸𐌰𐌿𐍂𐍃𐍄𐌴𐌹 / þaurstei < ゲルマン祖語*þurstuzと関連すると考えられる。

また、近くには古代ローマの都市Collippo(古典ギリシア語「丘」κολώνη / kolṓnē < ヘレニック祖語*kolōnā́ < 印欧祖語*kolH-ōn-eh₂ < 「上げる」*kelH- もしくは「繋ぐ」κολλῶ / kollô < ヘレニック祖語*kolaō < 印欧祖語*kolh₂-e-ti < *kolh₂- < 「叩く」*kelh₂- + 「馬」ἵππος / híppos < ヘレニック祖語*íkkʷos < 印欧祖語*h₁éḱwosが語源)が存在した。

1385年8月14日にポルトガル王ジョアン1世(João I, 1357-1433)がカスティーリャ王フアン1世(Juan I, 1358-1390)にアルジュバロータの戦い(Batalha de Aljubarrota)に勝ち、ポルトガル内戦を終結させた記念に修道院が建てられてから発展した。)

Batalhaで目の前に大きな修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)が見えてきた。同時にバスターミナルの前には大きなSupermercado Intermarché Batalhaがあり、飲み物とアイスクリームをさっと買い、量り売りのクッキーを買った。観光案内所(Posto de Turismo Batalha)を修道院の近くに発見して、地図をもらい、帰りのバスの時刻を教えてもらった。

観光案内所(Turismo)で美しいポストカードが売られていて、いろいろと見せてもらったが、隣町のLeiriaにある大聖堂の古い写真ばかりだったため、訪れる場所では無かったのでセットを買うのを止めた。直ぐに雨がザーザーと降りだして、観光案内所の人も驚いていた。

雨が止んだ頃に出て、先の広場(Largo do Mosteiro da Batalha)でクッキーを頬張りながら、一服してゆっくりとした。修道院を修復する現場の横で作業が見えて面白かった。直ぐに突然雨が降ってきそうで広場の木陰に避難した。そこで少し待ち、ビスケットを食べてから、直ぐ近くに教会(Capela do Fundador)の入り口があり入ろうとしたが、日曜ミサの直後で人が溢れ出てきたため、修復現場を見て回った。広場(Praça de Mouzinho de Albuquerque)で床石の敷詰めや石工を実演していた。

特に修道院のステンドグラスが美しく、祭壇は質素で今まで見た教会の中で最も磨かれた美しさがあり、今までポルトガルで見た教会建築で最も気に入った。幼児洗礼が終わった後で、沢山の親と小さな子供が祭壇の前で記念撮影をしていた。祭壇の前の最前列の席に座り、教会の中を見た。

祭壇の直ぐ下は美しくて、十字架上のイエス像とステンドグラスは最高に美しかった。入り口は十字の側面で修道院の中は長かった。直ぐに美しい中世風の服装したマリア様の像と美しいステンドグラスがあり、教会の一番奥にポルトガル王ジョアン1世(João I, 1357-1433)の墓(Túmulo do Rei João I)があり、石棺にはゴシック体でラテン語の碑文があり、ポルトガル王家の紋章があった。

大聖堂の外観がとても美しく黒ずんでいて、歴史を感じさせてくれるが、内装はとても美しく、去年建てられたように新しい雰囲気だった。ステンドグラスから漏れた光が満たされていた。ゴシック建築の長所である切り立ったような高い天井が印象深く、柱が垂直に伸びていて、また、内部空間が長方形に作られているため、天井がものすごく高く見えて、広々と感じられる工夫がなされていた。

大聖堂前の広場(Largo do Mosteiro da Batalha)には立派な銅像(Estátua Equestre do Condestável Don Nuno Álvares Pereira)があり、近くの1514-32年に建てられた小さな教会(Igreja Matriz da Exaltação a Santa Cruz)の前にFátimaまで17kmとあり、遂にここまで近づいて来たかと思った。それからまた大聖堂を訪れて、石職人の工房を見た。美しい中世写本のファクシミリがあった。

修道院を一周して、バスの時刻までゆっくりとして、午後2時少し前にバス停に着いた。オーストラリア人とスペイン人がいて、小さなバス停だが、国際色が豊かだった。バスの中ではオーストラリア人Adrianとかなり話が盛り上がった。彼は言語や文化に強い興味がある方だった。

ポルトガルで英語を話す人に会ったらしく、とても喜んで話をしていたら、時間が経つのが速かった。「ポルトガル語とスペイン語はとても良く似ていますね(Portuguese and Spanish are quite similar.)」と言われたとき、「ちょっとだけですが、かなり異なりますよ(Slightly, but it’s totallydifferent.)」と返したところから、相手も乗って来て、両言語の違いについて話が弾んだ。

Batalhaの修道院(Mosteiro de Santa Maria da Vitória)の内部

直ぐにAlcobaçaに着き、バスが経つ時間を確めて、直ぐにトイレに行くため、Adrianと街の中でまた会おうと別れた。街に出て旧市街に行こうとしたとき、タクシー運転手にスペイン語で道をたずねると、親切に教えてくれて、ものすごく盛り上がった。教えられた通りに行くと、雰囲気ある旧市街に行く橋(Rua Dr. José Nascimento e Sousa)があり、川(Rio Alcobaça)が流れていて、町の名前は、Baça川にかかるAlcoでAlcobaçaと案内板にあった。

(しかし、実際はAlcobaçaはAlcoa谷に流れるBaça川の色を形容してポルトガル語「輝かない」baço < ラテン語「赤茶色」badius < イタリック祖語*badyos < 印欧祖語*badyo-s < 「褐色」*badyo-が語源で古アイルランド語buide, boide < ケルト祖語*bodyosと関連するか、民衆ラテン語「赤茶」*hepatium < 古典ギリシア語ἡπάτιον / hēpátion < ἧπαρ / hêpar < ヘレニック祖語*yêkʷər < 印欧祖語*yókʷr̥ < *Hyékʷ-が語源である。ポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が1147年にSantarémを奪回した記念に1153年にシトー会修道院をAlcobaçaに建てた。)

修道院の前に教えられた通り、郵便局(Estação dos Correios de Alcobaça)があり、午後3時まで閉まっていたため、先に1252年にゴシック様式で建てられた修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)に入った。質素で空間があり美しく、Batalhaの修道院が私の好みに近いが、こちらもまた別の良さがあった。ゴシック建築として、立派な薔薇窓があり、標準的に感じられた。前方には美しい石棺が右側に置かれ、透かし彫りは手が込んでいて美しかった。1989年に作られた二つの鐘が右側に置かれていて、土台のプラスチックが、鐘の重さで壊れていた。古棺桶の透かし彫りには、福音書の物語、善きサマリア人、キリストの十字架への磔、最後の晩餐や最後の審判などが彫られていた。

ポルトガル王ペドロ1世(Pedro I, 1320-1367)と王妃イネス・デ・カストロ(Inês de Castro, 1325-1355)の石棺(Túmulos)の前でAdrianと会い、碑文を読みながら、フランス語で話した。Adrianは、自分はカトリック教徒だが、オーストラリアでも、最近は物質的なものばかりがもてはやされて、精神的なものは信じない人が増えて残念に感じていると話していた。

また、ヨーロッパの石刻と同じくらい、日本の木工は素晴らしいと言っていた。ヨーロッパでは芸術を固定して伝えようとするが、日本では変化やうつろいを楽しむことを話した。彼は、石棺の首が取れて、少し壊れているのは、破壊行為(vandalism)によるかもしれず、悲しいことだと話していた。

ペドロ1世が王位に就く前、王妃イネスは、カスティーリャ王国とポルトガル王国の微妙な関係の犠牲となり、貴族の謀略により、冤罪で処刑されたが、ペドロ1世が王位についたとき、丁重に葬られて、夫婦が向かい合わせに葬られているという説明がポルトガル語でなされていた。

石棺の横には美しい聖母子像があり、右側にはポルトガル語でNossa Senhora do Castelo(スペイン語Nuestra Señora del Castilloに相当)と書かれていて、即スペイン語とラテン語と英語とフランス語に翻訳して言い換えをすると驚いていた。ラテン語を個人的興味でやっていると話したら驚いて喜び、彼も40年前に習ったが、もう殆ど忘れてしまったと言っていた。

近くに一つ教会(Capela de Nossa Senhora do Desterro)があり、沢山の石棺が置かれていて、ラテン語の碑文があったので、一つ一つ二人で確認しながら、英語やフランス語に訳した。30分ほど碑文を楽しんだ後、碑文に興味を示す観光客は少ないねと冗談を言い合った。碑文に興味を感じて訳していくのは物好きだねと言っていた。周りのポルトガル人も驚いて、とても不思議そうに見ていた。

古英語に興味があり、Beowulfの話をすると、彼は最初の有名な文章を暗誦していて、昔に大学で英語の歴史を学んでいたことが懐かしいと回想していて、教養のある方と思った。修道院を出る頃には、すっかり友達になってしまい、修道院前の広場でメールアドレスや住所交換や記念撮影をした。

ラテン語と古典ギリシア語とヘブライ語とサンスクリット語と漢文を理解するとは文化的であり、ジェントルマンだ。西洋でラテン語を読み書きが出来るのは教養人(literatus)だと言われた。東洋では漢文が文化の基礎であり、西洋ではギリシア語やラテン語が文化の基礎であると実感した。古典言語は手堅いため、地域も時代も越え、長く広く使われ、文化の伝承に寄与してきたことを深く感じた。

修道院の前で父やAdrianと妻とその妹と記念撮影をしてから、彼と別れて通り(Rua Araújo Guimarães)に面した観光案内所(Posto de Turismo)に行き、地図をもらい、住宅地を通り、1148年に建てられた城跡(Castelo de Alcobaça)に歩いていくことにした。

修道院の前で写真を撮るとき、美しい城跡が見えていて、その場所だった。住宅地の中に突然お城が現れて、登るとお花が美しく咲き、城跡は何も飾りなく残されていて美しかった。城跡からはAlcobaçaの町が一望できて美しかったが、足場が小さくて、崖が切り立っていて、下を見たら落ちたら真っ逆さまで危険だった。観光客がよく来そうな場所ではなかったが、柵がなくて驚いた。

町中に戻り、1520年に建てられた小さな教会(Igreja da Misericórdia Alcobaça)を見て、大通り(Rua 16 de Outubro)を戻り、いくつかの屋敷を見た。趣のある通りが多くて、街並みが気に入った。それから川の畔の屋敷(Palacete Rino)の前でAdrianに再び会い、地図をプレゼントして、午後5時15分に通り(Rua Alexandre Herculano)に面した喫茶店でお茶しようと待ち合わせをした。

小川に出てAlcobaçaの名前の由来になったアーチを間近に見ることができた。川沿いの通り(Rua Dr. José Nascimento e Sousa)に面した1648年に建てられた美しい教会(Igreja de Nossa Senhora da Conceição)の近くを歩いてから、また、橋を渡り修道院の方に戻り、彼らは午後5時40分に出るため、喫茶店(Café Bar Portugal) で急いで半時間弱お茶をした。

ポルトガルの古地図があり、お互いにラテン語を読みながら、楽しんで話に花が咲いた。彼らは注文で戸惑っていたので、スペイン語でミルク入りの紅茶(Te con leche)とミルク入りのコーヒー(Café con leche)と頼むとポルトガル人にきちんと意志が伝わり嬉しかった。(ポルトガルでお茶(chá)というが、広東語「茶(caa4 /t͡sʰɑː²¹/)」から取り入れられた。シャボン(sabão)やカルタ(carta)やカステラ(pao de Castelra)は、ポルトガル語から日本語に取り入れられた。)

教会の石棺にラテン語「妻(uxor)」と書かれていたのを見つけたとき、英語でも「愛妻家(uxorious)」という言葉あるねと盛り上がった話などをしていた。アドレス交換のときメールアドレスをラテン語(mea inscriptio electronica)で書いたら、絶対に忘れないよと笑っていた。

皆、ローマ帝国の領土に住んでいた人たちは、ローマ帝国が滅亡してからも、ラテン語を話し続けて、ポルトガル語やスペイン語に変化したことに感激して、スペイン語が分からないとき、ラテン語を考えてみたら、二千年の時を超えた子孫たちと通じ合えることが分かったんだと冗談を言うと大いに笑って感動していた。(街の通りで人に路をたずねたとき、ポルトガル語で「行き続けて(sempre andar)」と言われたけれども、ラテン語(semper ambulare)と殆ど同じに聞こえた。)

バスの時間が来たので、彼らは早く御暇して、5€も置いて行ってくれた。店員さんとスペイン語で話して、ポルトガル語で返答が来て会話を楽しんだ。最後に10.10€から10¢負けてくれた。

カフェを出てから、バスターミナル近くに戻ると美しい邸宅(Câmara Municipal de Alcobaça)やその前にテニスコート(Clube de Ténis de Alcobaça)があった。小さい子供から中学生くらいの子供たちが、テニスをしていて、上手い人が何人かいた。公園(Jardim dos Paços do Concelho)を散策した。

バス停近くで市場(Mercado Municipal de Alcobaça)も見つけた。殆どのお店が閉まっていたが、普段色々な物を売っていそうな雰囲気だった。近くで道に迷うと優しく声をかけてくれて、バスを待っていることを言うと番号などを教えてくれた。近くを散策して、食べもの屋さんを探した。市庁舎(Edifícios públicos de Alcobaça)があり、裁判所(Domus Iustitiæ)と書かれていた。

父とAlcobaçaで食べていこうと話して、広場(Praça João de Deus Ramos)の中央のロータリーに面したカフェ(Esplanada do Artur)があり、チーズバーガー(Hamburguer com Queijo)、ポテトフライ(batatas fritas)、飲み物のセットを注文して、夜は日曜日で飲食できる場がないため、Nazarénに戻っても、レストランやお店が閉まっているから、腹いっぱいにたらふく食べた。

バスに20分も乗ると、Nazaréに着いた。誤ってLeiria行に乗りそうになると声をかけて助けてくれた。Nazaréに着き、バス停から宿までたったの2分歩くだけで着いた。その間にある細い路地(Rua Doutor José Maria Carvalho Júnior)に入る所にパン屋さん(Pão Quente Volta D'Mar)があり、二つずつ菓子パンを求めて、宿で食べていると、宿のご婦人がノックしてくれて、今晩の宿泊費用をお支払いした。ご婦人は優しくお湯を沸かし方を教えてくれた。それから、また、海岸に出るとき、パン屋さんで追加で2つのパンを買った。スープを2袋持っているのを思い出したからである。

夕日を見る太陽が沈むとき海岸が美しかった。Supermercadoを探してバス停近くの商店街をふらりと歩いた。コンビニエンスストアを見つけ、Nazaréの商店街を散策した。鰻の寝床のような細い通りが海岸に向かい真っ直ぐに伸びていて、独特の雰囲気を生み出していた。通り(Rua Gil Vicente)の雰囲気を楽しんでから宿に戻り、スープを作り、パンをつけて食べてゆっくりと寛いだ。

テレビを見ながら日記を書いた。歌番組でポルトガル語の字幕に書かれている意味が分かった。喫茶店でAdrianと話していた通り、皆はラテン語は死語だと考えているが、実はポルトガル人、スペイン人、フランス人、イタリア人、ルーマニア人も、ラテン語を使うのを止めておらず、(冗談で)私たちのような物好きな人やカトリック教会でも今でも使っていると盛り上がったことを思い出した。ラテン語を学ぶとポルトガル語も知らなくても分かる強みを実感した。午後11時に床に入った。

Alcobaçaの修道院(Mosteiro de Santa Maria de Alcobaça)の外観

2008年5月26日(月)47日目(Nazaré-Caldas da Rainha-Óbidos-Nazaré: Rua Ocidental)

Óbidosは城壁の中に町があり、家がひしめき合う用に建てられていて、城壁が完存して珍しく、箱庭のような中世都市で楽しかった。Nazaréで民宿のマリアさんにメダイをプレゼントすると心から喜んで旦那さんを呼んできた。日の入りが息をのむほど美しく、大西洋を染めていた。

昨日の夜は雨が激しかった。午前8時少し前に起き、午前8時半のバスでCaldas da Rainhaで乗り換えて、Óbidosに向かった。車窓からバロック様式の教会や葡萄畑の丘や美しい城壁が見えた。

(イベロ=ケルト語Eburobricio > ラテン語Eburobrittiumは、713年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、アラビア語でأوبِيدُوس / Ubidusと記録され、1148年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が奪還。ケルト祖語「イチイ」*eburos < 印欧祖語*h₁ebʰros + ケルト祖語「砦」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-やラテン語「植民地」oppidum < イタリック祖語*oppedom < 古典ギリシア語「土地」ἐπίπεδος / epípedos <「上に」ἐπι- / epi- < ヘレニック祖語*epí < 印欧祖語*h₁epi +‎ 「地面」πέδον / pédon < ヘレニック祖語*pedóm < 印欧祖語*ped-om < 「歩く」*ped-が語源でヒッタイト語「土地」𒁉𒂊𒁕𒀭 / pēdan < アナトリア祖語*pedómやサンスクリット「歩み」पद / padá < インド=イラン祖語*padámと関連)

バス停(Auto-táxis Central Obidense)の直ぐ上には、11世紀に建てられた城門(Porta da Vila)があり、18世紀に作られた美しい青タイル(azulejo)が圧巻だった。中央通り(Rua Direita)には、マリア様の像が小さいガラスウィンドウの中にいて、イエスのヨルダン川での洗礼のタイルの絵があり美しかった。マリア様の目はぱっちりとし過ぎていて、インパクトが絶大だった。

13世紀に建てられた聖ペテロ教会(Igreja de São Pedro)やその前に建てられた1331年に建てられた小ぶりの聖マルティン聖堂(Capela de São Martinho)を訪れた。

町の中心部にある博物館(Museu Municipal de Óbidos)が開いたばかりで入った。ニ階には宗教画や彫像があり、一階には地元の画家や中世時代の建物の柱の一部や洗礼盤があり、宝物館があった。また、14-15世紀のラテン語の碑文(Estas Casas S(am) de Sam PedroやHesta Casa he de Sa(n)ta M(ari)a)も展示されていた。アンシャルとゴシック体の中間のような独特な書体で面白かった。

それから、1148年に建てられた聖マリア教会(Igreja de Santa Maria)を訪れた。特に最後の教会は、青タイルの壁と質素な祭壇が調和していて美しくて気に入った。

それから、中央通り(Rua Direita)を一番奥まで進み、11世紀に建てられた城壁(Castelo de Óbidos)に向かった。昨日のAlcobaçaの城跡とは違い、城壁は手入れが良くされていて美しかった。

城の前の1186年に建てられた聖ヤコブ教会(Igreja Paroquial de São Tiago)の前にある学校(Escola de Hotelaria e Turismo do Oeste)に入ってしまったが、 看板にEscola da São Tiago e Turismoと書かれていて、 観光案内所と紛らわしかった。それから、城門を通り広場に出ると城の全体が見えた。城壁(Castelo de Óbidos)に上ると眺めは美しく、一面葡萄畑や村々を下には単線と駅が見えた。

城壁には中世の市場(Mercado Medieval de Óbidos)を復元している最中で工事をしていた。中世の雰囲気が大きなべニア板に描かれていて、古の街の市の雰囲気を出していた。城壁の周りの道(Estrada da Cerca)を歩くことができて楽しいが、柵が付いておらず、落ちたら死んでしまいそうなほど高く切り立ち、崖から落ちたら自己責任という感じで驚いた。

それから、小道(Rua do Colonel Pacheco, Rua de São Teotónio)を歩いて戻ってきた。レオノール・デ・ヴィゼウ(Leonor de Viseu, 1458-1525)が建てたと伝えられる教会(Igreja da Misericórdia)の隣には白い壁の扉の上部に青い陶器の聖母子像があり、更に上には紋章があり興味深かった。

街(Calçada de Misericórdia, Rua do Padre nuno Tavares)を歩いて、中央の門(Porta do Vale ou Senhora da Graça)から街を出た通り(Rua Porta do Vale)の家のドアの上に《マタイの福音書》のラテン語碑文があり、「あなたがたを受けいれる人は、私を受けいれる。水一杯でも飲ませてくれる人は、決してその報いからもれることはない(40 Qui recipit vos, me recipit: 42 Et quicumque dederit uni ex minimis istis potum aquae, non perdet mercedem. Math(aeus) Cap(ut) X)」で書かれていた。

それから、城壁の外の道(Rua Porta do Vale, Rua Dom João D'Ornelas)を下り、広場(Traverso Ordem da Terceira)に面した1300年に建てられた白壁の美しい塔を持つ教会(Igreja de Nossa Senhora de Monserrate)を訪れた。その手前の広場(Largo do Chafariz Novo)で工事現場の人とお話したり、教会の前の庭の手入れをする庭師4人と話をした。

庭師の方は私がスペイン語を話せるのを知り、それからものすごくお話が盛り上がった。教会まで降りていく通りは、白壁の家々があり、花が咲き乱れている上、手入れされていて美しかった。

広場(Largo do Chafariz Novo)に面した中程の門から、城壁で囲まれた街に戻り、中央通り(Rua do Padre nuno Tavares)を通り、入口の城門(Porta da Vila)に戻り、観光案内所(Posto de Turismo)で帰りのバスの時刻を聞いて確かめた。イギリス人が英語版の地図がなくて困ったと嘆いていた。

近くの通り(Rua da Porta da Vila)にある乾物屋さん(Loja de frutos secos aGuardada)を父が見つけて、乾果物のミックス、カシュナッツ(Castanha de caju)や杏子(Damasco)、メレンゲのお菓子(Molotof do caseiro)を求めて、近くの門(Porta da Vila)の前の広場の長椅子でお昼に食べた。

それから1309年に建てられた教会(Igreja de São João Baptista)の隣にある博物館(Museu Paroquial de Óbidos)で聖人の人の骨が入った製品箱や中世の素晴らしい美術品を見た。また、15世紀に作られた水道橋(Aqueduto)を見て、町の外のムーア人との戦いを記念して造られた十字架を見た。

町の外を周る道(Rua Dom João de Ornelas, Rua da Biquinha)を歩いて、先ほどおしゃべりをした工事現場の広場(Largo do Chafariz Novo)を下り、幹線道路(N114)を少し歩いて、郊外の1730年に建てられたバロック様式の教会(Santuário do Senhor Jesus da Pedra)を見た。

バスで来たときに見えた建物で長く歩いてきて、教会の中には入れなかったのは残念だが、歩いていくとき、Óbidosの外観を全て見ることができて、美しさを町全体の堪能できて満足だった。

それから、町の周りの城壁をぐるりと回り、鉄道駅まで上るとき、道端(Estrada da Estação)に青いスカーレット(Anagallis arvensis f. azurea)がきれいに咲いていた。城壁の直ぐ下の14世紀に建てられたゴシック様式のカルメル会教会(Capela de Nossa Senhora do Carmo ou do Mucharro)を訪れた。ローマ時代にジュピター神殿があった場所と頷けるほど、小高い丘の上にあり、美しい風景であった。教会には入れなかったが、その前に石柱が柵無しで置かれていて、十分に修復されていないが、逆に教会のそのままの姿が残されていて、観光地化されておらず、遺跡として興味深かった。

小道(Estrada da Cerca)を歩いて、街の中に再び戻り、中央通り(Rua Direita)を戻り、手前の広場(Estacionamento Óbidos)の日陰で1時間半位バスの時刻まで待った。広場には電話ボックスがあり、何も変哲もないが、皆写真を撮っていて4、5人見た。ヨーロッパ人は面白いものに興味を示すと思った。今日は遠足で来るポルトガル人の小学生が多く賑やかだった。 バス停で待っていると手を振って来てくれたので、振りかえすと喜んでいた。 遠足で来ていた小学生たちは、私たちが鎌倉に遠足で行くように感じた。また、観光案内所で冗談を言い合ったイギリス人が時刻を確認していた。

日本人のツアー客が2組いたが、1時間半だけ滞在できるそうで短い時間で好きな所を回れず辛そうに感じた。私たちは観光案内所で地図をもらい、歴史的建造物でマークして、全て歩いて訪れて存分に楽しめた。街の広場などは上は白、下は青に縁どられていて、街並みのコントラストが美しかった。

バス停で座っていると、地元の婦人が横にきて、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、スウェーデン語、ガリシア語まで話せると言っていた。Óbidosで生まれ育ち、城壁の裏手にずっと住んでいると話していた。一緒にバスに乗り、隣町のCaldas da Rainhaで降りそうになったとき、その方や運転手さんがそのまま乗り続けてと優しく教えてくれた。

坂を上がり下がりしたり、街の周りを歩いたため、バスの中ではよく寝て、起きるとNazaré海岸の前だった。Nazaréで降り、通り(Rua Sub-Vila)に面したSupermercado Minipreçoでピザやポテトや飲み物、パン屋さん(Pão Quente Volta D'Mar)でパンを6つ買い、宿に戻った。

宿のベットでしばらく休んでから、ハンバーグを食べたいと思い、歩いて、先ほどのSupermercado Minipreçoにハンバーグを買いに行き、宿に戻り、ピザとハンバーグを焼いて食べた。

すると、宿主の婦人がノックして入ってきて、今日もまた一泊することを告げ、宿泊料金を払って出ていかれようとするとき、メダイをプレゼントすると大喜びして、メダイにキスをして、私たちを抱きしめてくれた。明日Fátimaに朝早く出ることを告げ、朝の午前6時にあなたがたを起こしたくありませんと、スぺイン語で言うと分かりました。鍵はここに置いておいていいですよと言われた。

宿の前で記念撮影をするとまた大喜びして、隣の家の人が出てきて、撮影した写真を嬉しそうに見せていた。ご主人にもとメダイを渡したとき、心から喜んで「どうもありがとう!(Muito obrigado!)」と言われた。ポルトガルでは、お金の冷たさより、人情の温かさが勝る素晴らしい国と思った。婦人は抱きしめてくれたとき、「良い旅を!(Boa viagem!)」と言われた。

婦人の名はマリアで自分の守護聖人の聖母マリアのメダイにとても感激してくれた。そもそも、Nazaréの地名の由来も聖母マリアに関係する伝説があり、信仰が熱いことを感じた。素晴らしい漁村だから、観光地化されてしまうことなく、そうした素朴な美しさを失わないでほしいと思った。

今度Nazaréに来るときに電話を下さいと言われ、住所と連絡先を書いてくれた。日本に帰ったら、直ぐに手紙を書いて、写真をお送りするとお伝えしたら、とても喜んでいた。

Nazaréに着き、ハンバーグを買うときは、雨が降っていたが、ポテトを揚げて食べ終わる頃に雨が止み、午後8時半頃に日の入りの時間に近づいた。宿から歩いて細い路地を抜けて、海岸に出る所に行った。雲の合間から太陽が鋭く強く輝き、大西洋の水平線とNazaréの岬と浜が、何とも言えない美しさのため、急いで宿で休んでいた父を呼びに行った。遂に水平線上の厚い雲の下に入りゆき、それを見届けた。父が日の入りがとてもきれいだね。Nazaréに三日いて、これで見納めだねと話していた。

食事の続きを食べてから、日記をテレビを見ながら書いた。明日の朝に鍵と共に置いていくメモをMuito obrigado por sua amabilidad! Ponemos a chave aqui, porque hoje vamos rapidamente para Fátima. Quando chegamos Tóquio, Japão, vamos escrever uma lettra com a photo. A Dios! 27 de majo de 2008 na Nazaré.とポルトガル語で書いた。明日は午前7時10分のバスでNazaréを出て、念願のFátimaに行くからである。遂に明日にたどり着くと思うと感慨深かった。今日は早く床に入った。

Óbidosの城壁の上から街並みを臨む

2008年5月27日(火)48日目(Nazaré-Fátima: Casa das Irmãs Dominicanas)

Fátimaで聖母が出現した樫の木(Azinheira Grande Centenaria)や天使が出現した場所(Loca do Cabeço)、Luciaの生家(Casa da Lúcia)やMarto家(Casa de Francisco e Jacinta Marto)、宗教美術の博物館(Consolata Museu de Arte Sacra e Etnologia)や博物館(Museu Interativo - O Milagre de Fátima)を訪れた。Casa das Irmãs Dominicanasで修道女と沢山お話をした。

今日は朝早く午前6時半に起き、午前7時10分のバスに間に合うように出た。昨日の夜も朝方も雨が降っていたが、今朝には既に止んでいた。宿に鍵を置いて出て、海岸を一目見て、バス停に着いた。

乗り場でどのバスに乗ればよいか分からず困ると、必ず助けてくれる人がいて、今日も婦人が助けてくれた。バスの中で昨晩に父がケチャップを付けて、パンに挟んで作っておいたハムと野菜を食べた。車窓から、昨日に訪れたAlcobaçaのテニスコートやBatalhaの修道院をまた見れて良かった。

二時間ほどバスに揺られて、午前9時15分にFátimaに着いた。今日は曇り晴れたり雨が降ったり中途半端な天気だった。 ヨハネ・パウロ二世通り(Rua João Paulo II)があり、雨が降りそうな中、大聖堂の塔と鐘の位置から、東側に着いたと考えて、陽の向きを頼りに大聖堂に近づいてゆくとあっさりと道に迷わずに着いた。写真ではなく、自分の目で見た聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)は調和が取れていて美しかった。午前9時15分で人も広場に殆んどおらずゆっくりと見れた。

大聖堂に入るとミサが行われていて、美しい歌声が聞こえてきて、アーチの門のマリア様を三人の牧童のモザイクは美しかった。大聖堂は思ったより小さく、明るい色彩で統一されていて、質素で美しかった。大聖堂の入り口には、大きな液晶テレビがあり、ミサの時間を知らせていた。

大聖堂の周りを一周して、側面のイエスの受難のモザイクを見て、マリア様が出現した場所にある聖堂に急いだ。雨が激しく降って来て、急いで近づくと聖歌(Ave Maria)が聞こえてきて入ると、ミサの始まりで出席した。全て英語で行われていたので、アメリカ人の団体と代表者の英語で分かった。教会に入る前に十字を切るとき、目の近くで小さく切り、顔全体の大きさで切り、普通の大きさで十字を切る、三段階で十字を切る人が多いことに気づいた。初めて見たので驚いた。

新聖堂(Basílica da Santíssima Trindade)から旧聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)へ膝をついて進む信徒や修道女がいた。ミサが終わると午前10時過ぎになり、近くの案内所(Turismo de Fátima)に入った。係りの人は優しく丁寧に質問に答えてくれて、ポルトガル語版の地図も下さいと言うと、それぞれの言語がセットでお祈りの栞とFranciscoやJacintaの栞まで頂いた。

激しい雨が降り続いていたので、中の椅子に座り、机の上にある聖母の出現に関する分厚い資料に目を通した。あらゆる資料が集められていて調査されていて興味深かった。

Santiago de Compostelaへの巡礼者と思われたらしく、巡礼宿を案内所で教えてくれたが、ここまで歩いてきたわけではなく、歩いてきた巡礼者に泊る場所であるため、係員さんは巡礼をしてきたのですから大丈夫ですよとお話されていたが遠慮して、修道院(Irmãs Dominicanas de Santa Catarina de Sena)が運営するホテル(Casa das Irmãs Dominicanas)に泊まることに決めた。

大聖堂前の広々とした場所(Santuário de Fátima)には、マリア様が現れた樫の木(Azinheira Grande Centenaria)があった(Azinheira grande, sob esta árvore oraram os pastorinhos enquanto esperavam nossa senhora. A azinheira situava se no local onde hoje se encontra a pequena coluna no alpendre da capelinha)。ここに聖母が出現したかと、現地でしか得られない感嘆をした。

聖母が出現した場所に小さな祈りの場所や教会(Capelinha das Aparições)があり、祭壇が設けられていた。ガラス張りで明るい雰囲気の場所だった。早朝に多くの修道女が跪いて祈りを捧げていた。

案内所の人が紹介してくれた宿(Casa das Irmãs Dominicanas)に通り(Praceta de Santo António)を歩いて行った。修道会が経営して質素かと思ったら、巡礼宿ではなくホテル並みの設備があり、一泊55€かかるが、部屋は信じられないほど美しく、お風呂場も広くて清潔感があり、寛ぐことのできる高級ホテルのようにきれいな部屋でエアコンもあり、大きな窓も二つあり明るく、文句なしで今まで泊まってきた中で最高の部屋だった。食事も付きでゆっくりと寛いで旅の疲れを取ることができた。

父は広々とした部屋で休みたいとのことで私だけ街に出て、宿の隣の宗教美術の博物館(Consolata Museu de Arte Sacra e Etnologia)を訪れた。沢山の幼子イエスズと母子像、十字架上のイエズスやミサの式次第の本、楽譜が再現されていたり、展示品は多岐にわたり、自分の気に入った幼子イエズスなども見つけた。あらゆる時代の品が一堂に展示され、様式の違いなどを比較でき、興味深かった。

奥の部屋ではキリスト教の広まり方やミッションについて説明されていて、更に他の様々な宗教との関わり、キリスト教の受容のされ方が説明されていた。中世から近世にかけての古地図が多くあり、見ていて飽きなかった。アジアやアフリカの原住民の道具や宗教が展示されていて、中国の祭壇など国際色も豊かだった。Franciscoの父親の写真と共に彼の父が使っていた帽子や三人の牧童(Francisco, Lucia, Jacinta)のロザリオや臍の緒を収めた箱など、三人に縁の深い品々も展示されていた。

地下には小さな祭壇と特別展があり、幼子イエズスや十字架から降ろされるイエズスの巨大な再現をしたガラスケースなど、十字架の磔に関する美術品を納めてあった。前には修復作業室があり、道具が放置されていた。上には十字架への道のステンドグラスがあり、一つ一つに物語が詰まっていた。

宿に戻り、聖堂(Basilica)の横の通り(Rua Jacinta Marto)にある博物館(Museu das Aparições de Fátima 1917)を訪れた。近くには沢山のレストランやカフェやお土産物屋で埋め尽くされていて繁盛していた。特にお土産物屋さんには、同じ人形が無駄に多くあり、町で一つ大きな店を経営して、チャリティーに使えばいいのにと思った。博物館の係の人に話しかけると、ドアを開けてくれて、ディズニーランドのアトラクションのよう、当時の情景や風景を忠実に再現されていた。

細かい説明や会話を気が済むまで聞くことができて、Fátimaの歴史を知ることができた。Lourdesで見た博物館と似ていた。一人も来ないので、貸し切り状態でゆっくりと回ることができて感謝した。昔と今の街並みは変わってしまっていたが、出現当時の街並みが忠実に再現されていて楽しかった。

近くにもう一つの博物館(Museu de Cera de Fátima)を見つけたが、同じような感じで訪れなかった。帰りに書店(Livraria do Santuário de Fátima)に立ち寄り、ロザリオの祈りの栞を買った。案内所でTomar行きのバスの時間をたずねたが情報がなく、バス停で時間を確認して宿に戻った。

昨日買った乾物の杏や果物を食べて、ゆっくりしてから、父と十字架への道や三人の牧童の生家の方に行ってみることにした。宿を出る時、修道女María de los Ángelesさんが話しかけてくれた。スペイン人でMadridで生まれて、父はGalicia地方の人でSantiago de Compostela巡礼の話をしたら、今イタリア人の友達が歩いているとお聞きした。聖母が出現したParisの不思議なメダイ教会やLourdesの洞窟、Santiago de CompostelaやFisterraで聖ヤコブの帆立て貝を拾った話をしたりした。

十字架への道に行くと話したら、一つ一つの前で唱えるお祈りが、全て載っている栞を下さった。町はずれにある三人が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)に行くといいよとお勧めされた。車で来たのかと思われていて、足で歩き、バスで来たと後で知ると驚かれた。アメリカのBostonに長くいたこともあるそうできれいな英語を話していた。静かな雰囲気だがお話好きで優しい方だった。

出掛けにパスポートと宿のチェックイン表を外まで出てきて手渡して下さった。Parisの教会でも、Pyrénéesの山中でも、修道女が親しく話しかけてくれたことを思い出した。

十字架の道(Via Sacra / Caminho dos Pastorinhos)まで通り(Rua Francisco Marto)を5分程ほど歩いた。宿の立地条件が良くて贅沢だった。十字架の道は長く続いていてよく整備されていて、オリーブ畑の中にポルトガルらしい石畳が敷かれ歩きやすかった。Lourdesの道よりも平坦だった。

Lourdesでは立体的なオブジェでキリストの受難を示していたが、Fátimaは小さな聖堂の中にレリーフが置かれ、白一色で統一されていて美しかった。12のレリーフはLourdesよりも詳しく、キリストの受難を描いていた。14しか祈りが栞には無かったがレリーフは15あり、最後に小聖堂(Capela de Santo Estevão)で祈りを捧げられるようになっていた。質素でステンドグラスが美しかった。

少し歩いて戻ると、1917年5月13日にマリア様が始めに出現された場所(Valinhos)があった。美しいマリア様の像が小聖堂の中にあった。LourdesやFátimaの樫のように周りが整備され過ぎず、自然のまま、当時のままで美しかった。それから少し歩くと、1916年に聖母の出現の前に天使が3人の前に現れた場所(Loca do Cabeço)があった。自然のまま林が残されていて美しかったが、天使が現れた場所に簡易トイレがあり、雰囲気が失われていてがっかりしたり、遠足で来た中学生が大声を出して、道一杯に広がって歩いてきたりして、落ち着いて見られなかったが、素晴らしい道のりだった。

小道(Rua dos Valinhos)を少し歩いて、近くにあるLuciaの生家(Casa da Lúcia)やMarto家(Casa de Francisco e Jacinta Marto)を見に行った。19世紀後半に建てられた当時の家が残り興味深かった。観光客が沢山いて少し見づらかったが、少し待つと皆がバスに戻り、人がいなくなったのでゆっくりと見れた。農村だった当時の雰囲気がよく残されていて、素敵で質素な家だった。Luciaの家の裏には天使が現れた井戸があり、水を飲めるようになっていた。静かで穏やかな場所で天使が現れたいと思ったのも頷ける気がした。マルト家ではおじさんが家の中に座り、英語で詳しく説明してくれた。

大通り(Avenida dos Pastorinhos, Rua Francisco Marto)を通り、町中に戻り、父と宿の前で別れて、大きなホテル(Domus Pacis)の前にある書店(Paulus Livraria de Fátima)で本を見てから、大聖堂の周りをぐるりと回り、もう一つの書店(Livraria do Santuário de Fátima)をまた訪れて、ゆっくり本を見て、宿に戻った。書店の前に巡礼宿(Albergue Peregrinos a Pé)を見つけた。

宿で少しゆっくりして、夕食を食べに出かけた。バス発着所(Terminal Rodoviário de Fátima)の近くにCoimbraやAlcobaçaと同じくSegafredo Zanettiのお茶を出している地元の人が行きそうなカフェ(Pastelaria Santo Agostinho)があり、ピザ(Pizza)とタルト(Tarte de maçã)を食べて休憩した。

街中にあるレストランは観光客を相手に商売していてかなり高い価格設定だったので入らなかった。バス発着所でバスの時間を確認して、その手前のSupermercado Pingo Doceでお菓子のポテトチップス(Batatas Fritas Originais Lay's)や飲み物(Néctar de Frutos Vermelhos Vital, Néctar de Manga Laranja Kiwi Vital Equilíbrio Compal)を買い、ホテルに戻った。

修道女のMaría de los Ángelesさんと今日あったことをお話したりして、会話を楽しんでから、部屋に戻った。サンドウィッチを作って食べて、広々とした部屋で食後はゆっくりとして、お風呂にゆっくりと浸かった。お風呂もとても広くて足をゆっくりと伸ばすことができ、よく寛げた。その後、フランス語のテレビを見ながら、日記を書き、午前0時を少し過ぎた頃に床に入った。

Fátimaの聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário de Fátima)

2008年5月28日(水)49日目(Fátima-Tomar-Fátima: Casa das Irmãs Dominicanas)

Tomarのテンプル騎士団により建てられた城のような修道院(Convento de Cristo) は外見はごつごつしていたが、内部は色んな部屋や美しく、テンプル騎士団がいた旧跡を観光した。街の全てが見渡せる丘の上に築かれていた。夕方はFátimaで蝋燭行列や多言語のミサに参列した。

今日は午前6時半に起きて、午前8時にホテルの食堂で朝食を食べた。パンと紅茶とコーヒーもお代わり自由で朝食のサービスが素晴らしかった。部屋から出て、階段を降りると修道女のMaría de los Ángelesさんに会い、Tomarに今日は行くつもりとお伝えすると見どころをお話してくれた。

食後、部屋に戻り、急いで午前9時15分のTomar行きのバスに乗ろうとするが、午後0時半と言われて、どうしてかと考えたら、Fátima東駅を発車する時刻と途中の町(Lagoa do Furadouro)を通過する時刻を勘違いしていたようだった。流石に20分で32km先のTomarに着くとは早すぎると思った。バスが出るまでの午前中、大聖堂や広場に戻り、街の至る所を見て回ろうと思った。

大聖堂はミサの最中で礼拝の聖堂(Basílica de Nossa Senhora do Rosário)に入り祈りを捧げている12人ほどの人たちがいたにもかかわらず、物音一つ立たずに、静寂が完璧に保たれていた。マリア様が現れた樫(Azinheira Grande Centenaria)の前に座り、日記を書いた。

途中、十時の鐘が鳴り、目の前だったので耳に響いた。Lourdesの時報と同じく聖歌が流れていた。大聖堂(Basílica da Santíssima Trindade)でお祈りをした。聖堂の上部に「ロザリオのマリア様、私たちの為に祈り給え(Regina Sacratissimi Rosarii Fatimae ora pro nobis)」と書かれていた。

大聖堂の屋根伝いに悲しみの聖母の聖堂(Capela de Nossa Senhora das Dores)に行った。Parisのメダイ教会と同じく、地球の上に乗った聖母が描かれていて、メダイと同じマリア様だった。美しい太陽の奇跡のステンドグラスが印象的で美しい聖堂だった。終盤のマリア様の出現とマリア様との対話、写真をとられている三人、最後に太陽の奇跡で終わり、一番美しい部分を見れた。太陽の奇跡の後、皆マリア様の出現を信じて、祈りに入る場面のステンドグラスが美しかった。

バス停でTomar行きのバスに乗った。Fátimaを出て直ぐに修道女のMaría de los Ángelesさんが紹介してくれた三人の牧童が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)が見えた。Tomarまでは山がちで途中に大きな都市(Ourém)に止まり、Fátima東駅から50分かかり、それから35分ほど乗り、Tomarに着いた。バス停は旧市街にあり便利だった。観光案内所(Posto de Turismo de Tomar)は午後1時半頃には開いておらず、先に1118年に建てられた修道院(Convento de Cristo)を訪れた。巡礼路のような急な山道(Avenida Dr. Vieira Guimarães)を登り、5、10分すると壮大なお城が見えてきた。

テンプル騎士団(Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici)の十字架が至る所にあり、歴史を感じさせた。(紀元前5世紀にケルト系Turduli族が住み、紀元1世紀に古代ローマ都市Selliumが築かれて起源となり、652年に西ゴート王国、716年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、1147年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が征服、1159年にテンプル騎士団の総長(Gualdim Pais, 1118-1195)に与えられて城が築かれ始めた。アラビア語「果樹」ثَمُرَة / ṯamara、複数形ثُمُر‎ / ṯumar < 「日々」تَمْر / tamr < ث م ر‎ / ṯ-m-r < セム祖語*təmar-が語源でアラム語𐡕𐡌𐡓𐡀 / tamrā, tamrē, təmārā、ヘブライ語תָּמָר‎ / tāmār、古代南アラビア語𐩩𐩣𐩧 / tmr、ゲエズ語ተምር / tämrと関連。12世紀に川(Rio Nabão)に架けられた橋(Portus de Thomar)と記録)

修道院に列車の形をした観光用のバスが止まった場所から入っていくと外庭があり、美しい青タイルがふんだんに用いられていたベンチがあった。観光客は数える程しかおらず、過ごしやすかった。入口にいくつか碑文を発見した。ラテン語やポルトガル語で記されていた。美しい入口の門があり、旧約聖書と新約聖書が一緒になり、沢山の聖人たちがマリア様と幼子イエスの像の周りに建っていた。

細い路地を通りチケットを購入して入ると、美しい中庭(Claustro da Lavagem, Claustro do Cemitério, Claustro de D. João III)があり、様々な時代に建てられた聖堂(Capela dos Portocarreiros, Capella do Cruzeiro)、部屋(Sacristia Nova)、教会(Charola do Convento de Cristo)、寝室(Dormitório grande)、台所(Cozinha)、食堂(Refeitório)、応接間(Alojamento para visitantes)、文書室(Arquivo)、図書室(Biblioteca)、噴水(Fonte)などは圧巻だった。

特に円堂(Charola)は美しく、中央にはテンプル騎士団の十字架が真ん中から見えるように設計されていた。周りの雰囲気もよく、エルサレムの神殿を模した塔の様式がポルトガルの教会の塔によく見られる壷型のイスラム建築のデザインで興味深かった。フランス人の団体と遭遇してしまい、おしゃべりが煩いため、ゆっくりと落ち着いて見れるようになるまで待っていた。

寝室に至る大廊下(Corredor do Cruzeiro)は圧巻で一つ一つの部屋は小さいが、質素でつつましい生活をテンプル騎士団や修道士たちがしていたことが伺われた。屋上にも螺旋階段で登ることができて、高台に建つ修道院の最も高い所から眺めがとても美しかった。修道院は要塞のようにゴツゴツしていて、砦のような作りだった。実際に1190年にムワヒッド朝のヤアクーブ・アル=マンスール(يعقوب المنصور‎ / Ya'qūb al-Mansūr, 1160- 1199)の攻撃にも見事に耐え抜いた。

修道院の全ての場所を見終わり出ようとしたら、フランス人の団体と一緒になり、遊歩道を下っていった。ラテン語で書かれた面白い碑文を見つけた。何とか石段が残っているような道で降りるのが大変だが、15世紀に建てられた美しい教会(Igreja de São João Baptista)の尖塔が見えてきた。

一本道(Avenida Dr. Vieira Guimarães)を下り、町に出るとき、美しい小さな通り(Calçada de São Tiago)を見つけて行くと、大きな広場(Praça da república)と重厚な町役場(Câmara Municipal de Tomar)が現れた。特に広場の白と黒のチェスのようなチェック模様の石畳は美しかった。沢山の観光客と共に地元の人が寛いでいて賑わっていた。広場からは丘の上にお城が顔を出して見えていた。

賑やかな大通り(Rua Serpa Pinto)を通って、川沿いの通り(Praceta de Olivença)に出るとき、観光案内所(Turismo de Lisboa e Vale do Tejo)も発見した。美しい建物の中にあり、歴史感あふれた空間だった。係の方は優しく説明をして下さり、地図や美しい写真のパンフレットを頂いた。

旧橋(Ponte Velha)で川を渡り、16世紀に建てられた修道院(Convento Santa Iria)を訪れた。その教会(Capela de Santa Iria)は他の建物と似ていて見つけにくかったが、人々の生活の中に溶け込んでいることを思わせた。床に石畳が敷かれていて、消えかけた碑文があった。ポルトガルの教会の中では消えかけた碑文をよく見るが、石材を再利用しているからであると分かった。南に通り(Santa Iria)を歩いてゆくとアーチをくぐり、大きなロータリーが見えてきた。

先にある12世紀に建てられた大きな薔薇窓を持つ美しいゴシック様式の教会 (Igreja de Santa Maria dos Olivais)に行くとき、市場(Mercado Municipal)の前で行き止まりとなり、止む無く別の新しい橋(Avenida Norton de Matos)を通って、旧市街に戻った。石畳にはテンプル騎士団の十字架の文様が多くて圧巻だった。川沿いの通り(Rua João Carlos Everard)を行き、細い通り(Rua Dr. Joaquim Jacinto)を入り、15世紀に建てられたユダヤ人のシナゴーグ(Sinagoga de Tomar)に至った。

Tomarでは、どんな細い通りからでも山の上の城(Castelo de Almourol)がよく見え、逆に城から町の全てが見渡せることに気づいた。シナゴーグのドアの上には美しいダビデの星の花がかけられていて、中に入ると美しい英語を話す人がいらした。キリストの教会とは違い、質素で祈りと集会を出来れば十分であるようにされていた。15世紀に建てられたシナゴーグは、普通の家と同じで全く飾り気がなかった。当時キリスト教とユダヤ教が仲良く暮らしていたのを思い起こさせた。中には美しい墓碑やユダヤ教の説明板や古い資料が並べられ、異教徒の共生の歴史が感じられて興味深かった。

静かにゆっくりと見ていたが、途中に沢山のフランス人の団体が大勢でやって来たため、隣の資料館(Museu Luso-Hebraico Abraão Zacuto)に行った。小さくて一つの部屋しか無くて見つけるのが大変だった。中のおじさんにスペイン語で話しかけると喜んで会話して、写真のパネルを十枚ほど見た。

美しい道(Rua Infantaria 15)を通り、中央広場(Praça da República)の教会(Igreja de São João Baptista)まで再び戻り、それから、細い道(Rua da Silva Magalhães)を散策していくと、ルネサンス調の美しい家(Casa Manuel Guimarães)に辿りついた。今は資料館として使われている建物は、昔の面影をよく残していて美しかった。それから、通り(Rua Gil Avô)を歩いて、川沿いに出て、美しい水車を眺めた。川の中洲が公園(Jardim e Parque de Merendas)とされていて、水車(Roda Hidráulica do Mouchão)は川の水の流れを使い、自ら水を汲み上げていた。

バスの時間まで5分ほど、ゆったりと公園(Jardim e Parque De Merendas)の中で過ごして、近くにあるバス停から、Fátima行きのバスに乗った。Tomarから通学の中高生が沢山乗って、バスの中は賑やかだった。Ourémでも沢山の通学の生徒が乗り降りしていた。

日中はずっと晴れていたが、その数分前から、雨が降り出してきて、天気に恵まれていた。Fátimaの近くにある三人の牧童が洗礼を受けた教会(Igreja Matriz de Fátima)でバスを途中で降り、立ち寄ろうと思ったが、雨が降ってきて、明日の朝に訪れることにした。

Fátimaに午後6時45分頃に着いた。バス停の前にあるSupermercado Pingo Doceで夕食として、シリアル(Cereais Nestlé Cookie Crisp)、パン(Pão de Mistura Trigo e Centeio)、チーズ(Queijo Mozzarella)、マヨネーズ(Mayonaise)、ハム(Paio do Lombo)、ツナ缶(Patê de atum)、イワシ缶(Patê de sardinha)、キウイ(Kíwi)、オレンジ(Laranga)、モモ(Nectarina)、トマト(Tomate)、豆乳(Bebida de Soja)、飲むヨーグルト(Iogurte Líquido)などを求めた。

雲行きがあやしくなり、雨がぽつぽつ降り始め、急ぎ足で大聖堂を通り、宿に戻った。FátimaはSantiago de Compostelaと同じような気候で大西洋から東に少し入った盆地にあるため、天気が不安定で晴れていたと思ったら、いきなり雨が降ってきたりして、天気雨が多い町だった。

宿に着いて、受付で修道女のMaría de los Ángelesさんに今日バスでTomarに行き、昨日紹介してくれた教会を車窓から見たことを話すと、「それは良かったね!」と、自分の事のように喜んでいた。明日はFátimaの町の中を見て回ることを告げると、沢山の見どころをいろいろと教えて頂いた。

部屋に戻って、ハムサンドを作って食べた。シリアルも買ったのでお腹一杯になり、フランス語のテレビを見ながら食べた。午後9時15分を過ぎになると外の通りから、蝋燭行列に参加する人たちの声が聞こえてきて、中央広場(Santuário de Fátima)に行くことにした。午後9時25分に出て、大聖堂に着いたと同時にミサが始まり、雨が激しくなってきて、皆で小さな聖堂に肩を寄せ合い参列した。

ミサはラテン語、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、英語、ドイツ語の七ヶ国語で執り行われ、ロザリオの祈りをして、聖歌(Gloria et filio, Ave Maria, Salve Regina)を歌い、開始の直前に着いて、後の方に立っていたため、聖堂の端で屋根が切れていて、雨が吹き込んできてずぶ濡れになってしまったが、ミサでマリア様の出現した場所にて、皆の心が一つになりお祈りをした。

蝋燭行列の時間になると激しい雨となり、傘を持っている人だけ外に出て、大聖堂の前をぐるりと一周した。蛍光灯の十字架は、現代的に感じられた。それぞれの国の言葉でミサを行うために沢山の神父がいて、一人一人それぞれの国の言語で祈りを捧げていたため、通常の何倍もの長さだった。蝋燭行列はLourdesに比べつつましやかに行われた。激しい雨の中であったが良い晩のひと時を過ごせた。

午後10時半に宿に戻る頃に一番、雨が激しくずぶぬれになり、傘を持たない人は小さな聖堂(Capelinha das Aparições)の屋根の下に留まっていた。宿に戻ってきて、直ぐにシャワーやお風呂に浸かり、午前0時半に床に入った。父は朝風呂に入ることにして、直ぐに寝ることにした。

Tomarの修道院(Convento de Cristo)の外観

2008年5月29日(木)50日目(Fátima-Santarém-Lisboa: Casa de amigo)

Fátimaで修道女María de los Ángelesさん と別れ際に数時間ほど沢山お話した。Lisboaの中央広場(Praça do Comércio)でJoaquimと再会して、彼の家に招いてくれた。電車賃から食料まで全て払ってくれて、温かいおもてなしだった。 長い赤い鉄橋(Ponte 25 de Abril) を渡るとき、街の全体が見えて圧巻だった。彼の家の近くには大きなショッピングモールがあり規模に圧倒された。Santiago de Compostela巡礼路の新聞の連載が始まり、私たちのことを書いてくれた。

今日は午前8時少し前に起きて、午前8時15分頃にホテルの食堂で朝食を食べた。食堂のレオナルド(Leonardo da Vinci, 1452-1519)作「最後の晩餐(L'Ultima Cena)」を模した青タイルの壁画が素晴らしかった。朝食はパンとバターとマーマレード、チーズクリーム、ジャムなど、昨日と同じく沢山お代わりが自由で腹一杯になった。部屋を空けるのは、正午で良いと受付の方が教えてくれたので、教会に正午過ぎに歩いて訪れることにした。着いたら直ぐに出られるように身支度をしておいた。

宿の前でばったりと修道女María de los Ángelesさんに会い、徒歩で昨日教えて頂いた教会(Igreja Matriz de Fátima)に行くことを伝えると喜んで、「神の御加護がありますように」と言われた。教会まではロータリーから20分かかった。車道を歩いてゆき、途中雨にも降られながら、直ぐに着いた。

教会の前には美しいマリア様とFranciscoとJachintaの像があった。小さな教会で入って直ぐの場所に三人が洗礼を受けた洗礼盤があり、前方には美しいマリア像や聖アントニウス像があった。祭壇から右側には古い聖母子像があり、左側には美しい聖家族の像があり、中に敷かれていたレースは十字架が編み出されていて、天井には平和の鳩や聖心があるイエス像があり、美しい教会だった。

教会の中には洗礼盤の周りに聖母が三人の牧童の前に出現した様子を描いたステンドグラスや三人の洗礼記録の写しが展示されていた。誰も訪れる人がおらず、私たちも教えていただかなければ、見過ごしてしまう場所であるが、教会には歴史がきちんと展示されて説明されていた。教会の前に建てられた十字架の横に展示された三人がマリア様出現の直後に撮られた写真を見てから、宿に戻った。

受付で修道女María de los Ángelesさんと歩いて訪れたことを話していると、日本人観光客が昼食を食べるために宿の中にぞろぞろと入って来て驚いた。宿のロビーには、聖なる場所の土や砂、小石の標本が展示されていて、1916年に天使が出現した井戸(Casa de Lucía)、二回目に天使が現れた場所(Valinhos)、1917年5月13日に初めて聖母が現れた所(Cova da Iria)、樫の土や樫の葉など、どの場所で採られたどの標本なのか、ポルトガル語の説明を読んで説明をして差し上げると喜ばれた。また、77日ほどフランスとイベリア半島を旅することなどをお話すると驚かれた。

部屋に戻り、荷物をとり、入り口で修道女と出発まで話していた。Fátimaは、キリスト教徒ではないあなたにとりましても親しみやすかったですかとたずねられたり、修道生活の話などをお聞きした。部屋に戻る前に日本人の添乗員さんに頼み、修道女と私と父の三人で写真を撮り、修道女に日本に帰ったら、スペイン語で手紙を書く約束をすると喜んで、父に息子さんにお渡し下さいと住所と名前のカードを渡してくれた。出掛け際に宿の前まで見送って下さり気持ちよくFátimaを後にできた。

バス停に至る前に大聖堂に広間に行き、マリア様の出現場所に向かい、お祈りをしてから、バス停に向かった。バス停で切符を買い、5分もすると、一台のバスが現れて、2分すると、また違うバスが現れた。どちらもLisboa行きでExpressと書いてあるが、後のほうに乗ると良いと教えてもらい乗った。殆ど同時刻に出るバスが2本もあり、それだけ、首都LisboaとFátimaの交通量が多いと考えられた。

Fátimaの聖母が出現した樫の木(Azinheira Grande Centenaria)

バスは長距離用でこの3、4日乗ったバスよりもきれいで新しく乗り心地は最高だった。Fátimaを出るとSantarémまで下りぱなしで、Fátimaが小高い場所にあることが良く分かった。Lisboaまでたったの1時間半で行けて、午後0時45分に乗り、午後2時45分に着いた。バスの中で日記を書き、風景を楽しんだ。川幅(Rio Tejo)がどんどん広くなり、Lisboaに段々と近付いてゆくのが分かった。

先ずは郊外の空港(Aeroporto Humberto Delgado)に止まり、バスターミナルに着いた。到着したターミナルが、Lisboaのどこに位置するか見当がつかないが、先ずJoaquimに電話すると直ぐに出てハイテンションだった。待ち合わせ時間は分かったが、Lisboaの土地勘が一切ないため、場所が分からなかったので、近くにいた女性にお願いして、携帯で話してもらい指示を仰いだ。ポルトガル人は初対面の人にも優しく、困っていたら声をかけて来てくれて、引き受けて助けてくれた。Joaquimからの指示を紙に書き留めてくれて、待ち合わせ場所の広場にどこにあるか教えて頂けた。

案内所の人にスペイン語でたずねたら、バスよりもメトロが良いと教えてくれて、教わった通りに行くと、バスターミナルに近い地下鉄駅(Jardim Zoológico)は鉄道駅(Sete Rios)と乗り入れをしているために同じだが、地下鉄駅と郊外線の鉄道駅もすんなりと判別することができ、青路線にTerreiro do Paço駅まで乗り、近くの博物館(Casa do Bicos)がある広場(Largo José Saramago)と混同しそうながら、慎重に周りを歩いてゆくと無事に中央広場(Praça do Comércio)にたどり着けた。

通り(Rua da Alfândega)に16世紀に建てられたマヌエル様式の立派な門がある教会(Igreja de Nossa Senhora da Conceição Velha)があり、中に入ると右側直ぐに十字架上のイエス像があり、心に鈍い痛みがじんわりと響くほど生々しかった。前には大聖堂の修復作業の説明や大聖堂の構造があり興味深かった。また、路面電車が人も車も多い中、狭い通りを走っていて、活気にあふれていた。

中央広場(Praça do Comércio)に着くと観光客が大勢いて写真を撮っていた。また、ビジネスマンらしき人が港の様子を携帯で写真を撮っていた。広場の中には、物乞いや変な人など怪しそうな人が多く屯していたのでなるべく離れて、港に近い所に座って、Joaquimが来るまで待つことにした。周辺は発掘作業を行い、歴史ある街であると感じさせた。直ぐ近くが港で潮風が気持ち良かった。

待ち合わせ時間の午後5時半までまで2時間近くあるため、青タイル博物館(Museu Nacional do Azulejo)の看板を見つけ歩いて訪れることにした。地図で確認すると往復5キロありため、1時間半はかかりそうだが、早歩きで行くことにした。父と広場に近い先ほど降りた駅前(Terreiro do Paço)で別れてから、途中に駅(Santa Apolónia)や軍事博物館(Museu Militar)を横目に見ながら、大通り(Avenida Infante Dom Henrique)を歩いて行くと、線路がどんどん増えてきて、大きな鉄道基地(Parque de Material Circulante de Santa Apolónia)があった。また、歩道(Rua Teixeira Lopes)はどんどん高くなり、鉄道の上の橋(Avenida Mouzinho de Albuquerque)を渡った。

車通りが多いが、運転手は急いでいても、歩行者が横断歩道にいると遠くからでも、必ず止まってくれて嬉しかった。誰もがきちんと守るため、厳しく法律で定められているのかもしれないと思った。坂をどんどん登ってゆくが、何もない空き地ばかりが目立ち、博物館は見つからなかった。修道院(Convento Santos-o-Novo)を見つけたが、博物館ではなさそうで入らず、坂を下って戻った。

鉄道をまたぐ橋(Avenida Mouzinho de Albuquerque)でSantiago de Compostelaに向かう巡礼路を見つけた。黄色い矢印で示されていて分かりやすかった。橋の上からこの辺りに博物館がありそうと見当をつけてから、急いで引き返した。広場で父と合流して、左側の観光案内所に行き地図をもらい、一つしかもらわなかったので、父が近くの案内書で地図をもらってくる間、地図に行きたい場所をマークしていると、突然、後ろから「まだ巡礼中か?」と声をかけられて、振り返るとJoaquimが笑って立っていた。ひょうきんさが懐かしかった。流石、彼らしく父が地図をもらいに行っているから、もう直ぐ戻ってくるというと、昨日、既に観光案内所で二人分の地図をもらって来てくれていた。

荷物を持ち、観光案内所まで行き、父とJoaquimが再会した。横に有名なレストラン(Restaurante Chefe Cordeiro)があり、Caminoで会ったViniciusが、来月ここにきて修業をすると言っていた。

直ぐに彼の家に案内してくれて、近くの駅(Baixa-Chiado)で地下鉄(metrô)に乗った。彼のオフィスは観光案内所がある広場の二階にあり、いつもこうして通勤していると話していた。広場からかなり坂を上がって歩いた。駅の前は商店が立ち並んでいて賑やかな通り(Rua da Vitória)があり、コイン商(Numismática Vitória)を見つけた。Joaquimもコインを集めるのが好きと話してくれた。

地下鉄駅でJardín zoológico駅まで乗る切符二人分をJoachimが買ってくれた。エスカレータの乗り方が、日本とは違い、右に乗って左を急ぐ人に空けていた。地下鉄の切符は来た時に発行された乗車券を再利用して書き換えていた。Joaquimが、地下鉄はかなり治安が悪いから気を付けてと教えてくれた。しかし、設備はきれいであり、切符もセンサーでタッチする方式で、最新技術が使われていた。

Jardín zoológico駅に着いて、地下鉄を降りた所で先ほど中央広場(Praça do Comércio)の行き方を教えてくれた係の人にJoaquimが一日乗り放題の券は35€でどのように買うかを聞いてくれた。

Sete Rios駅から最寄りのFogueteiro駅まで、特急列車の乗車券も買ってくれた。鉄道のシステムも面白く、改札口は無く、ホールに券を通す機械が設置され、券を通して乗るだけで直ぐに鉄道が来た。

二階建ての車両の二階に席を見つけて座った。6時は通勤ラッシュ前で少し込み始めて来た。FogueteiroはSete Riosから7、8駅あり、10分少しで着いた。途中Lisboaを出るとき、長い赤い鉄橋(Ponte 25 de Abril)をかなりの時間をかけて渡るとき、町を望めて美しかった。

San FranciscoのGolden Gateと同じ構造の橋だそうだ。Joaquimは3、4分渡り切るのにかかる橋の上でBelémなど、車窓の外を指さしながら、Lisboaの名所を説明してくれた。アコーディオンを犬を肩に乗せて弾いている人がいた。Parisの地下鉄でジャズ楽団が乗って来て、演奏していたのを思い出した。

Fogueteiro駅を出ると閑静な住宅街が広がり、駅前には緑が多く美しいカラフルな家が二軒目に入ってきた。横に巨大なショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)があり、Joaquimはコンピュータ店にパソコンを預けていて様子を見るため入った。巨大なフードコートが入り口付近にあり、McDonald's、Pizza Hutなど大型チェーン店やポルトガル特有のお店が沢山あり繁盛していた。

エスカレーターで下がり、Hypermercado Continenteの近くに行くと直ぐに彼の隣人と会い、Joaquimは楽しそうに沢山の話をしていた。温厚そうな人で話し好きな優しい人だった。Supermercadoから出てくる人はカートンに一杯、満タンになる程食料品を買うことができ、スケールが違うと思った。ショッピングモールにアトリエまであり、絵を売っている人がいたり、驚きの連続だった。子供のおもちゃ売り場があり、テディーベアーの写真を撮っていると、赤ちゃんができて、子供のおもちゃを買うため、写真を撮っていると思われるのかもしれないねと、Joaquimらしい冗談を言って笑っていた。

コンピュータ店は、Hypermercadoの直ぐ隣にあり、Joaquimを待つとき、Supermercadoをはるかに超える大きさに息を飲んだ。コンピュータショップはチョイスが少なく、日本よりも価格が高めで購入が大変そうだった。Joaquimはお金を下ろして、雑誌屋(Papelería)でNational Geographicを買い、家に連れて行ってくれた。彼の家はモールの裏出口から5分かからない所で便利だった。少し通りから入ったアパートにあり、近くには公園やHypermercadoもあり、どんなものでも手に入り、公園でも寛げて快適な街だと言っていた。彼の家は一階で外に電子鍵、中に鍵があり二重だった。

家に入ると地中海風のオレンジの色彩で風鈴のようなものや、旅した国から持ち帰った民芸品、マカオから中国の磁器まであった。天使や宇宙人のコレクションや置物、本、CD/DVD、世界各国にまつわる品々が置かれていて、博物館のようで夢に溢れていた。鉱物学の本もあり、小物を集めるのが趣味だと話していた。テディーベアーや外国の写真があり、彼が50カ国以上も訪れていて羨ましかった。

巡礼仲間のViniciusは、巡礼でできた友達のMilanoにある家、スイス人の友達の家に泊まり、Lisboaに来て、先ほど私たちが再開した広場に面した有名なレストランで修業をするため、一ヶ月後に家に泊まると興奮気味に言っていた。彼はRio de Janeiroでオーナーと話をして、無償でLisboaで修業をさせてもらえることになったと聞いた。Fátimaは夫と離婚すると言って出てきたけれども、酒びたりだった夫が巡礼中に素晴らしい人になったと娘から電話で聞いて、巡礼で危機を回避したと言っていて、色んな理由で巡礼をしている人がいたことを知った。とにかく皆さんが良い方に向かい良かった。

それから、ポルトガルの伝統の演歌(Fado)を聴かせてくれた。アンダルシア音楽と似ていて、ポルトガル語の歌詞が乗っているが、イスラム時代の名残りが根底に残されている感じがした。外国人もはまる人ははまり、日本人でも歌詞を理解するだけのため、ポルトガル語を始めた人も沢山いて、Joaquimもそういう人を何人も知っていると言っていた。歌が上手な友達のCDも聞かせてくれた。

彼は記者で顔が広く、友達の詩人から詩を献呈されたり、色んなもので家があふれていた。彼は若い頃、水兵さんでセーラー服を着た若い頃の写真や彼の兄弟がいた。彼は結婚していないが、彼の兄はしていて、甥っ子の写真もあった。トイレはアヒルさんのカバーが付けられていて、夢がある空間にしていると話していた。彼はテディベアーやライオンまで持っていた。Joaquimはオレンジが大好きで、洗面所・トイレ・シャワー室・お風呂場も、全てオレンジ色に統一されていた。帆立て貝の石鹸入れがあり、Santiago de Compostelaへの道標だねと言うと、前からあったんだと笑っていた。

食事に行く前、Joaquimは屋根裏部屋にある倉庫に案内してくれて、秘密基地のような狭い部屋には、大量の世界に関する雑誌の切り抜きなどがあり、日本の封筒には日本関する雑誌の切り抜きやパンフレットが入れられていた。明日訪れると良い名所や美しい場所を丁寧に教えてくれて、地図に書き込んでくれた。ポルトガルの所からSintraやAlcácerに関するパンフレットや地図をくれた。彼は建築物のミニチュアのコレクションを沢山持っていて、明日行く建物はこれだよと教えてくれた。

夕食に前にベットを用意してくれた。私のベットは普通に置かれていたが、父のベットは普通のソファーのような所からクッションを取り出して引き出すだけで立派なベットに早変わりして驚いた。彼の家にはよく友人が泊りに来るため、沢山の隠しベットがあるんだと冗談を言っていた。

午後8時頃に近くのショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)でお勧めの店に連れて行ってくれた。二つのお店の内、どちらがいいかときかれて、バイキングスタイルのレストラン(Alentejo)に入った。皿当たりの値段で清算すると思ったが、後で測ってグラム当たりの価格を支払うことが分かった。私と父は野菜や果物、肉を炙る機械から出してもらい、ラムとハムと豚肉と牛肉をスライスしてもらった。日本には無い食べ物や買い方が多くて驚きの連続で楽しかった。

バナナのフリッターを父が取り、安かったので一人一個ずつ食べた。ポテトフライに砂糖でまぶしたような生まれて初めて食べる味だった。スモールの苺味の飲み物を注文した。Joaquimが会計をしようとしたら、皿を合わせて、さっと払ってくれて、ごちそうしてくれた。感謝をして楽しく話をした。

Joaquimは友達が集まり大事な人には寿司を振るまうほど、高級で美味しい食べ物だから、日本は何でも高くてお金持ちの国ではないかと言うので、逆にポルトガルを旅していて、物価が高くて驚いたことを色んな例を挙げながら話したら、特に日本の物価がポルトガルより安いことを知って、日本のイメージが変わり、本気で日本に住みたくなったと冗談を言っていた。日本に関する情報を欲しがり、一、二年の内に日本の大使館に私は新聞記者で日本の宣伝をするからと連絡をして協力してもらい、四国遍路をしたり、日本の各都市を回りたいと話していた(彼は実際に四年後に日本の四国遍路をして本を書いた)。ポルトガルではフードコートで食べ終わると置いていき、係の人が片付けていた。

夕食後はHypermercado Continenteに直行して、何点か必要なものを買った。多くの店があり、自転車、またその整備用品、鍋など金属製品、掃除用品も、食料品も信じられないほどの種類と数のおもしろい商品が並んでいて、夢のような空間だった。二種類の自社ブランドの製品があり、ヨーグルト飲料、ポテトチップス、クッキー、ゼリー、飲み物、豆乳、果物などが安く手に入った。

Joaquimは「Hypermercadoの会員カードを持っているから、ゼリーが半額になるよ!おめでとう!」と叫んで買ってくれた。また、袋が多くもらえて助かった。それから、ショッピングモールの中を歩き回り、彼の家に着いたのは、午後11時近くで飲むヨーグルトの苺味を一本飲んで寝る準備をした。

彼はHypermercadoの袋をすぐ使えるよう、ケースの中にしっかり畳んでしまい効率的だった。Joaquimは、陽気でテンションが高いけれども、実は色んなところで細かい配慮をして下さり、また、本当はとても繊細な人だと感じた。父はシャワーを浴び、私はその間に既に眠ってしまった。

就寝中、彼の同居者である猫のJeremiaが部屋の中に来て、ベットの上でニャーニャー鳴くので起こされたりして眠つけなかったが、Joaquimがとても親切にして下さり、感謝の一日だった。

Lisboa郊外のFogueteiroにあるショッピングセンター(Hypermercado Continente)

2008年5月30日(金)51日目(Lisboa: Casa de amigo)

Lisboaの中心地の広場(Praça do Município)にある捩じれた柱の記念碑(Pelourinho de Lisboa)の前でJoaquimと別れた。城(Castelo de São Jorge)から市内を一望できて最高の眺めだった。市電に乗り、Baixa地区、Estrela地区、Belém地区など旧市街の主要な見どころを回り、修道院(Mosteiro dos Jerónimos)や考古学博物館(Museu Nacional de Arqueologia)を訪れた。有名な菓子屋(Pastéis de Belém)でクリームタルト(Pastel de nata)を食べて、ベレンの塔(Torre de Belém) を訪れた。Joaquimが夕食をご馳走してくれて話が盛り上がった。明日は仕事で遠出してしまい家に帰らないことから、私たちを信頼して家の鍵を貸してくれた。

今日は午前7時少し過ぎに起きて、Joaquimと一緒に朝食を取った。彼は私たちより早く起きて、朝食を全て用意してくれて、家に迎え入れた友を持て成すのは、当たり前だと温かく持て成してくれた。

彼と沢山の話をしながら食べた。パンにバターと彼特製のオレンジのマーマレードを付けて食べたら美味しかった。Segafredo Zanettiのコーヒーカップを沢山持っていて、この喫茶店をCoimbraで見つけて、AlcobaçaやFátimaでも入った言うと1セットずつ2種類をくれた。コーヒーを店で買うともらえるから、気にしないでと言っていた(Segafredo Zanettiは、カフェ(Café)やバール(Bar)、パン屋さん(Padaria)、お菓子屋さん(Confeitaria)などに喫茶のチェーン展開していて、それぞれの独特のパンや菓子などを出しながら、紅茶やコーヒーなどのアメニティを卸していた)。

巡礼仲間のブラジルで料理人をしているViniciusはバターが大好物で塗りたくり、バターのケース1個を1日に食べ切る話とか、また、ヨーロッパはどこへ行っても、文化は殆ど均質で似ているけれども、Joaquimは旅行が好きで特にアジアは、それぞれの特徴があり、おもしろいと話していた。

また、ポルトガルは税金だけ払わせて、若者が才能を発揮できないから、ヨーロッパの他国やアメリカに行ってしまう社会事情などを話していたが、私は仕事をもらえて幸運だったんだけどねとにやりと笑って付け加えているところが、シリアスになりすぎる日本人とは異なり、ユーモアのセンスがあり、政治などの議論でも、本質は突いても、深刻にならずに皮肉にしてお話するコツを感じた。

Lisboaの中心部まで、彼の通勤と一緒に行くことにして、午前8時に家を出た。今日も中心まで向かう電車の切符をJoaquimが買ってくれた。Fogueteiro駅の朝は通勤の人々で込み合っていた。駅のタイルには、スマイルの模様があり、コンクリートで作られたホームを明るくする遊び心を感じた。昨日と同じように行くが、Jardín zoológico駅で一日乗り放題券を購入するのを手伝ってくれた。

Baixa-Chiado駅に着いてから少し歩いて、市庁舎(Paços do Concelho de Lisboa) に連れて行ってくれた。横に元教会(Igreja de São Julião)があり、今は駐車場(Parque Saba)になっていた(2016年には貨幣博物館(Museu do Dinheiro)が開館した)。市庁舎の前の広場(Praça do Município)には、Portoの大聖堂前でも見覚えのある捩じれた柱の記念碑(Pelourinho de Lisboa)があり、彼とその前で記念撮影をして、城(Castelo de São Jorge)に至るまでの全ての道を親切に教えてくれた。彼は近くの仕事場に向かい、教わった通り、市電のレールに沿い、坂を上がっていった。

政府機関(Ministério da Justiça)や最高裁判所(Supremo Tribunal de Justiça)などが立ち並ぶ官庁街や商店街(Rua do Comércio, Rua Augusta, Rua da Conceição)を過ぎて、市電が鉄のレールで登れることが不思議なほど急な坂(Largo Santo António da Sé)を上り、1783年に建てられた美しい小さな教会(Igreja de Santa Maria Madalena)でお祈りしてから、1755年に建てられた別の教会(Igreja de Santo António de Lisboa)を通り過ぎて、大聖堂(Sé de Lisboa)に至ると、観光客が多かった。

不思議なことに大きな教会が立ち並んでいて、急激に人口が増えるなどして、もしくは教区などの役割分担があるか、1755年の大地震から復興をしてゆく上で段階的に建てられたかもしれないと考えた。大聖堂前の小さな公園(Jardim Augusto Rosa)でポテトチップスを休憩に食べた。1147年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が再征服された年から建設が開始された大聖堂は、ゴシック様式で中は厳かだった。振り香炉(botafumeiro)のような容器がぶら下がっていた。

大聖堂の正面は入場料をとるために入らずに出てから、坂(Rua Augusto Rosa, Largo Santa Luzia)をまた少し上がり、1755年に建てられた教会(Igreja de Santa Luzia)の白壁や青タイルの壁画を眺めながら、美しい展望台(Miradouro das Portas do Sol)に至った。途中とても年数が経った木が、歩道のど真ん中にあり、面白い風景を作り出していた。展望台からの眺めは素晴らしかった。

展望台の前の屋根は無ければ風景を遮ることがないから更に良かったが、工事中のためで仕方がなかった。展望台はお土産屋さんや楽器を演奏している人が多く、Lisboaの町とその対岸が美しく見えて、赤い屋根が白い建物とコントラストをなして映えていた。まだ、午前10時で人も少なく見れた。

そこから、小道(Tvaversa de Santa Luzia)を行き、広場(Largo do Contador Mor)へ少し登ると小道(Traversa do Funil, Rua do Chão da Feira)があり、フランス人の観光客をかき分けていくと、城壁(Castelo de São Jorge)が見えてきて、1846年に作られた城門(Arco do Castelo)があった。

城壁の一部が邪魔なのにきちんと券売所の建物内に保存されていて不思議だった。チケットを購入して入場した。城の中からの町の眺めは美しく、高台に位置しているため、Lisboaの街並みがパノラマのように一望できた。小学生が遠足をしていて、元気一杯すぎて騒がしかった。沢山の大砲が置かれていて、要塞としての役割を思い起こさせた。城の上のやぐらに登ると更に美しい風景が広がり最高だった。Lisboaのどこから敵が侵入してきても、見つけられるようになっていた。

城門を出て、目の前のバス停(Castelo)でバスに乗り、次は坂道を下り、Baixa地区(ポルトガル語「下町」)に至った。Lisboaは七つの港の町といわれるほど坂が多くて、全体が大きすぎるため、歩きでは見るのが大変な都市だった。Baixaは低い土地を意味している通り、よく開けていて、下町のような地区で賑わっていた。Joaquimの仕事場はそこにあり、良い場所に通勤をしていると思った。この地区はとりわけ美しく整備されていて、縦横に通りが碁盤のように作られていた。建物も18世紀以降が主であり、1755年の大地震以降にきちんとした都市計画を基に町が作られたことが感じられた。

騎馬像(Estátua Equestre de Dom João I)がある広場(Praça da Figueira)から国立劇場(Teatro Nacional D. Maria II)の前にある広場(Praça de D. Pedro IV)に行くと、直ぐにMcDonald’s Rossioを見つけ入った。スペシャルバーガーのセットを注文しファンタとポテトがサイドで来た。ポルトガルでは、日本の二倍近くして、税金が12%と高くて、高価なのに繁盛していた。

ニ階のきれいな席で食べてから、一回のトイレの入り口から地下に入った。McDonald’sのお客専用と書いてあった。Lisboaはトイレが少なく有料で高い税金をとるなら、そういう所にお金を使って欲しいと思った。スペインでは、ケチャップをもらうとどっさりくれたが、2つしかもらえなかった。

食後広場でゆっくりとして、近くにある考古学博物館(Convento do Carmo)を訪れた。父は庭(Chafariz do Carmo)で待っていた。急な坂道(Calçada do Carmo)を登ると美しい庭があり、その前に1423年に建てられたゴシック様式の古い修道院の建物があり博物館だった。

1755年のリスボン大地震で門だけを残して殆ど壊れてしまい、1864年に遺構を修復してポルトガル考古学協会初代会長(Joaquim Possidónio Narciso da Silva, 1806-1896)が設立した由緒ある考古博物館で楽しみだったが、館内整理日で入場できず、前の庭の紫色の花を愛でれただけ良かった。

博物館に至る道(Travessa do Carmo)には、市電の線路があり、急勾配でどうして重い車体が上がってゆけるか不思議で仕方がなく、特に雨の日などは、線路が滑って大変そうだった。この地区は路地が入り組んでいて、Fadoを聴けるカフェが多く、音楽が漏れ聞こえてきて楽しめた。

同じ道を下り、広場(Praça de D. Pedro IV)に出るとき、近くの通り(Calçada do Carmo)に面した大きなHypermercado Pingo Doceを発見して父と入り、飲み物にリンゴジュース(Sumo Natural de Maçã)や軽食にレディーフィンガーのビスケット(Biscoitos Palitos de Champanhe La Reine Savoiardi)やアップルタルト(Bolo de Maçã)を買った。

広場(Praça de D. Pedro IV)から出る所で警官がアメリカで開発された立ったまま進める乗り物(バランススクーター)で颯爽と街を巡回している様子に出くわした。Fátimaの街中でも、警官が乗ってすいすいと動いているのをよく見かけて、ポルトガルの警察は流行の先端を行っていると感じた。

バスを乗り継いでEstrela地区に向かった。通過した広場(Praça dos Restauradores)で美しいオベリスク上の石碑を見つけ、後で戻ってくることにした。広場(Praça Marquês de Pombal)にバスで大通り(Avenida da Liberdade)を行き、立派な銅像と公園(Parque Eduardo VII)を楽しみ、Estrela地区に向かった。バスを待っているとき、銀行(Bankinter Marquês de Pombal)の窓枠に腰かけながら、絶対他のポルトガル人もそうすると思っていたら、本当にそうで笑ってしまった。

Estrelaは美しく、特に1779-90年に建てられた白亜の大聖堂(Basílica da Estrela)は壮観だった。内側もとても荘厳な雰囲気だった。前の庭園(Jardim Guerra Junqueiro)は静かで良い雰囲気だった。

市電が走る商店街(Calçada da Estrela)を少し歩いて坂を下ると、国会議事堂(Palácio de São Bento / Assembleia da República)のギリシア建築が圧巻だった。門の前に二人の長い銃剣を持った守衛の兵隊が2人いて、時どき行進して動くのが面白かった。美しい紫色の花が咲いた街路樹が植わっている通り(Avenida Dom Carlos)を海辺まで歩き、Santos駅に至るとき、大通り(Avenida 24 de Julho)の手前にある18-19世紀の歴史的建物の中にMcDonald’sがあり、ミスマッチに驚いた。

駅員さんによると鉄道は一日券が使えないため、市電(Elétricos)の18号線でBelém地区(ポルトガル語でBethlehem < ヘブライ語「パンの家」בֵּית לֶחֶם‎ / bēṯ léḥem < 「家」בֵּית‎ / bet < セム祖語*bayt- +‎ 「パン」לֶחֶם‎ / lékhem < セム祖語「食べ物」*laḥm-が語源でアッカド語𒂍 / bītumやウガリット語𐎁𐎚 / bêtu、アラビア語بَيْت‎ / baytやゲエズ語ቤት / bet、アフロ=アジア祖語*laḥam-やウガリット語𐎍𐎈𐎎 / laḥmu、アラビア語لَحْم / laḥmやゲエズ語ላህም / lahmと関連)まで移動した。市電の車内は明るく広くて清潔だった。観光客が多くて、地方の人は少なかった。

途中の駅(Alcántara、アラビア語「橋」القنطرة‎ al-qánṭaraが語源)で15号線に乗り換えたとき、交差点(Rua Prior do CratoとRua Vieira da Silva)に青いタイル(azujelo)の古めかしい美しい建物が美しかった。大きな橋(Ponte 25 de Abril)の袂から風景を見降ろすことができたが、川(Rio Tejo)から少し離れた所を川と並行して市電が走るため、橋の全体は見えなかった。橋の近くには、市電の車庫(Estação Sto. Amaro)があり、沢山の車両を見た。

修道院(Mosteiro dos Jerónimos)の前で降りた。ポルトガルが世界一繁栄していた大航海時代の頃、1501年から1601年まで100年間、金をつぎ込んだだけあり立派な建物だった。マヌエル様式の南門(Portal sul)の彫刻は立派だった。前には沢山の水兵さんが警備に当たっていた。インドで亡くなったヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, c.1460-1524)の石棺が安置された教会は真ん中にあり、父は中庭(Claustro)でゆっくりしている間、私は考古学博物館(Museu Nacional de Arqueologia)を訪れた。入場券を買うとき、大人で買ってから、25歳以下(jubileu)は半額と書かれていて、直ぐに言い直したが、もう発券したので無理です。今度から気をつけて下さい言われ、倍払わされて頭に来た。普通なら再発券をしてくれるが、ポルトガルでは公的機関でも不親切である。その係員にはいくら言っても通じないから、出る時に他の係員に苦情を申し出るとすんなりと返金してくれた。

警備は厳しく入館時のボディーチェックと二人の警備員と沢山の防犯カメラで厳重に監視されていた。博物館は5つ資料室があり、展示されている資料は素晴らしく、ポルトガル周辺で発掘された、先史時代、イベリア人、フェニキア人、印欧語族の民族がきた頃、ケルト、ギリシア、ローマ、スエビ、西ゴート、イスラム時代、中世と沢山の碑文があり面白かった。ラテン語の碑文が多く、歴史が読めて面白かった。沢山の省略が行われていた墓石は解読するのが少し難しかった。

スエビ王国や西ゴート王国に属していた頃、初期キリスト教徒たちの墓があり、535年○月○日に○で葬ったと書かれていて、年代と日付まで特定できるものもあった。古代末期の1500年も前の石棺や墓石まで残されていて興味深かった。黄金や宝石の展示室では、ローマ時代の宝飾品を間近で見れて楽しかった。エジプトの部屋も興味深く、先史時代、新王国時代、プトレマイオス朝、コプトまであらゆる時代の宝飾品、文献資料があった。コプト語のパピルスも興味深く、ミイラの棺も沢山あり、また、舟を象った3500年前の彫刻も素晴らしく、初期ケルトの金の宝飾品の展示で黄金尽くしだった。

博物館を正門から出て、教会前の売店の前で父と会い、教会(Igreja de Santa Maria de Belém)の中に入った。沢山の観光客がフラッシュをたきまくり、ガイドが大声で説明して落ち着かず、祈りの雰囲気ではなかった。聖堂自体も豪華絢爛過ぎて、神様はこんな豪華な聖堂を喜ぶのかと思った。側面にある部屋に入ると、沢山の絵画が掛けられていて、側面に美しい中世の服装をした聖母像があった。教会の中だけ、時が止まっているようにマリア様だけが佇んでいて、Santiago de Compostelaの巡礼宿(Seminario minor)の近くにあった教会(Igrexa de Nosa Señora do Portal)を思いだした。

教会を出て、庭園(Jardim da Praça do Império)をつきり、川岸の方に歩いて、Belém名物の発見のモニュメント(Padrão dos Descobrimentos)を見物した。川沿いにあり近くにヨットを停泊するマリーナ(Doca de Belém)があり、橋(Ponte 25 de Abril)の眺めは美しかった。モニュメントは圧巻で写実的だった。前には世界地図(Rosa dos Ventos)があり、日本は1541年に発見と示され、パラオ発見よりも16年も後だった。日本からみると発見というより、ポルトガル船の難破であり、日本人による西洋人(遭難者)の発見に過ぎないと思い、立場が違うと捉え方が真逆となることを実感した。

庭園(Jardim da Praça do Império)でゆっくりとしてから、トイレに行きたくなりながら、Joaquimお勧めの1837年創業のお菓子屋さん(Pastéis de Belém)をすんなりと見つけた。観光客が写真を見せ前でぱちぱち撮っていて、青タイル張りの雰囲気のある建物だった。1€のクリームタルト(Pastel de nata)を注文して、紅茶を入れてもらった。クリームタルトは外はカリカリして香ばしく、中はクリーミーで触感が良く、シナモンと砂糖を振りかけて食べていると美味しかった。本来は修道女たちが作っていたそうである。お店は繁盛し過ぎていて、空きテーブルが無く、店員さんと一緒に店内を一周して、やっと一人で四人のテーブルに座っている人に相席を頼んで席を見つけた。

店内は広く、アンティークのレジスターやレシピなどが展示されていた。タルトを味わった後、父がトイレに行くが、カフェの中でさえ、50¢の切符を買って入るトイレしかなかった。本通り(Rua de Belém)を歩いて、1726年に建てられた大統領公邸(Palacio de Belém)の前まで歩くと、長いサーベルを持った警備員が2人立っていて、厳重な警備だった。新しい車両の市電に乗り、塔(Torre de Belém)まで行った。Largo Princesaから一つ乗り過ごしてしまい、Pedrouçosで人通りが少なく、茂みがある場所で用を足した。ポルトガルではトイレだけは、街中に整備されておらず不便で困った。

1514-19年に建てられた塔(Torre de Belém)の周辺は美しく整備されていた。白亜の塔の美しさを期待していたが、電球らしき変なカラフルなブイのような飾りが付けられていて、せっかくの素敵な建物の風景がぶち壊しで苦笑した。午後6時までに塔の下に来ないと入れないため、もう午後7時近かったため、入場できなかったが、周辺の雰囲気は美しく十分だった。市電でBaixa地区まで戻った。新型の車両で乗り心地が良かった。目の前に座っていた若い女性は、ただ乗りをしていたらしく、車掌さんに気づいて逃げるように降りようとしたが、呼び止められて、お金を払わされていた。

市電の駅(Largo Princesa)に戻る前にBelém地区の発掘の案内を読んだら、西暦30年頃の都市機構が存在したことが書いてあり驚いた。確かに初期の都市は川岸に近い場所に港湾ができて発達したと思った。Baixa地区に着き、広場(Praça da Figueira)から、二つ先の広場(Praça dos Restauradores)まで歩いた。1886年に建てられた美しい駅舎(Estação Ferroviária do Rossio)や1842-46年に建てられた国立劇場(Teatro Nacional D.Maria II)を通って、美しい広場(Praça Dom Pedro IV)に戻った。

Joaquimに電話すると一緒に夕食を食べたいと話していたので、彼の家に直ぐに帰った。Sete-Rios駅でセーラ服を着た水兵さんが階段を走って上がっていくのを見た。Joaquimも13年前もポルトガル海軍の記者をしていて水兵と一緒に映された写真があったことを思い出した。記者も旅行にも書いたり、従軍記者もして、冗談ばかり言い、陽気に笑うだけだから、そうには見えないが、実は色んな経験をしてきた人だと感じていた。一度乗り換えして、午後8時45分頃にFogueteiroに着いた。

彼の家に着くと白のボタンを呼び出して良いか分からなかったのでドアをノックしたら、明るい声と共に「友よ!」と大歓迎で迎えてくれて、今日の旅を話した。彼の巡礼の連載が今日の新聞から始まったと大興奮しながら見せてくれて、「不届者によるフランスの道の巡礼記(Eu, Português Impuro no Caminho Francês de Santiago)」という見出しで「不純(Impuro)」という言葉が冗談が込められたキーワードで題名が面白くて皆が読んでくれるか、パスされるかが決まるんだと解説していた。

彼のコンピューターは無事に直ったと喜んでいた。デジタルカメラを接続をして、1時間半かけて、500枚の写真を思い出を語り合い楽しんだ。彼も美しい傑作写真を撮っていて、巡礼を楽しんでいた。

夕食と昨日と同じショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)のフードコートに食べに行き、ブラジル料理(Ò Kilo)の店で食べた。Joaquimは賢くて、自宅から自前のビールを持ち込んでいた。今日も彼の入念なお持て成しに恐縮した。彼自身はお金を節約して、ビールを自分で持って行き、私たちには飲み物とデザートまで、メインディッシュと共に払ってくれた。

日本料理のような繊細さは無くてアバウトでごった煮のように詰め込まれて盛り付けられているが、ブラジル料理の味はよかった。父が鳥を食べられないことを知ると、他のお肉に変えてくれた。

昨日買ったクッキー(Continente Bolachas Maria sem Glúten)は味が良くて、Joaquimの推薦は間違えがなかったと言うと、僕は友に嘘をつかないよと笑い合っていた。ショッピングセンターを出たときは、もう午後11時半を過ぎていたが、それでも赤ちゃんも一年経っていない子供たちが多くいて、日本では考えられない光景だった。親も同じく遅く寝るため、ポルトガル人は割と余り背が高くならないかと思ったほど驚いた。インターネットコーナーは15分1€と高いが繁盛していた。

家に帰り、明日仕事で80キロ先の小さな港町に泊まるので、明日は昼間に出てしまい、もう夜には家に帰ることがなく話せないから、今晩中に鍵を渡しておくよと鍵を貸してくれた。

私たちを信じてくれて、万全なお持て成しにも感動した。彼の家の鍵は頑丈で4回転して、やっと施錠が完了するようにできていて、外にも電子が気があり、何重にもバリアされていた。説明通りに何回か練習して、やっと開閉できるようになった。鍵がなければ入れないし、鍵があっても入れないねと冗談を言うと、ポルトガルはそこまでしないと泥棒が来るからねと大笑いしていた。午前2時位まで今日あったことや見てきたことを絞り出すように思い出しながら、日記を一生懸命書いてから寝た。

Lisboaの街並みを城(Castelo de São Jorge)から臨む

2008年5月31日(土)52日目(Lisboa: Casa de amigo)

Lisboaの広場(Campo de Santa Clara)で開かれていた泥棒市(Feira da Ladra)でポルトガルで出版されたラテン語の美しい古い本を見つけた。古い本の複製が沢山売られていた。美術館(Museu Nacional do Azulejo)では、青タイルを見れて楽しかった。天正遣欧使節が宿泊した教会(Igreja de São Roque)、高台(Campo de Ourique)まで市電に乗り、Lisboa市内の色んな地区を体験できた。

今日は昨日の就寝が遅いため、午前8時半に起きた。Joaquimはすでに外出していたが、思いやりがあり、今日も私たちよりも早く起きて、食事のパンとバターをお手製のオレンジのジャム、マグカップにティーバックも父のコーヒーの粉、ナイフ、スプーン、コンロの上に鍋に水とミルクも火を付けるだけにしてくれており、繊細な心遣いに感動した。彼の猫もテーブルの上ですやすや寝ていた。猫は起き上がるとストレッチしてから、高い所に飛んでいった。朝食のゼリーを食べてから支度をして、午前9時半に出た。デポジットのカードを忘れてしまい取りに戻った。駅に向かうと少し怪しい何かの宣伝か勧誘の人が話しかけて来たので、ポルトガル語が分かりませんと言いさらりと抜けた。

Sete-Rios駅に午前11時近くに着き、Jardín Zoológico駅で一日乗り放題の切符を求めようとすると、券売機が故障しているらしく、窓口には一人しか係員がおらず、何十分も待たされたが、皆が辛抱強く待ち、誰も文句を言う人がおらず、ポルトガルの皆さんの忍耐力に感服した。

今日は鉄道で上の階ではなく、初めて下の階の席に座った。ポルトガルの電車は美しい内装で二段からなり、上下で異なる眺めを楽しむことができた。Sete-Rios駅の前の Campolide駅のホームから、今日は出来なかったが、明日は途中下車して、美しい水道橋をホームから見たいと思った。

駅(Estação Santa Apolónia)から泥棒市(Feira da Ladra)に2、3分ほど歩いた。人に道をたずねると英語で丁寧に教えてくれたが、その後、何か食べ物を下さいと言われて、申し訳ないが、今は持ってないと伝えた。ヨーロッパでも普通は通りの人に道を聞いて、食べ物やチップを要求する人はいないので驚いた。時どき通りには、突然大声で叫んだり、不可解な行動で驚かせる人もいたりした。

1682年に建てられた美しい教会(Igreja de Santa Engrácia)は、今hパンテオン(Panteão Nacional)として使われていて、大きなドームが見えてきた。前の広場(Campo de Santa Clara)には、沢山の人が出ていて、泥棒市(Feira da Ladra)が直ぐに分かった。

既に多くの人が出ていて、すれ違うのも大変なほど活況だった。普通の家にあるガラクタから、日用品、大工道具、コンピュータ、骨董品、コイン、DVD、CD、ビデオなど、何でも売られていて、衣類屋、アフリカの民芸品、靴屋さんとあらゆる種類が並んでいた。メダイを見つけて聞いたが、アルミ製なのに1つ1€、他の所でFátimaのマリア様の小さなガラス製の像が2€と高い値で売られていた。

古本専門店があり、古書を片っ端からチェックして、英語の詩の本やラテン語の歴史書があったが、1786年出版のポルトガル語の聖人伝を選んだ。始めの言い値は10€だったが、値段交渉をして5€で手に入れた。別れ際に教えて頂きたいことがありますと言われ、中国の陶器を見せられて、漢字で書かれた銘文の意味を伝えると喜んでいた。市場には、Joaquimが昨日朝にくれたSegafredo Zanettiのコーヒーカップも何脚か売られていた。青空市に正午に着いたが、2時間もいて、午後2時近くになってしまった。警察官の人が違法コピーのDVDを購入していて苦笑してしまった。

賑わう市場で貴重な経験ができた。父は木陰に座って待っていた。登録をして出店をするシステムであるにもかかわらず、父は免許なしに取引をしていて取り締まられるのを見たと言っていた。

教会(Igreja de Santa Engrácia / Panteão Nacional)を一目見てから、坂を登り、美しい門(Arco Grande de Cima)から両側高い壁に囲まれた険しい道を上がり、1582年に建てられた教会(Igreja de São Vicente de Fora)を通り、宮殿(Palácio de São Vicente)の前(Voz Operário)で市電(Elétricos de Lisboa)に乗り、途中の広場(Largo do Chiado)で降りた。

通り(Rua Garrett)に面した1147年に建てられ1784年に立て直された教会(Basílica de Nossa Senhora dos Mártires)を進み、通り(Calçada do Sacramento)を歩いて、考古学博物館(Museu Arqueológico do Carmo)を先に訪れようと思ったら、本日まで四日間、館内整理期間だった。

そこから、大通り(Rua Nova do Almada, Rua de São Nicolau, Rua do Crucifixo, Rua Áurea)を歩いて広場(Praça do Comércio)に向かった。美術館(Museu Nacional do Azulejo)は近くにあるようだが、バスが直接行かないため、中央に出ることにした。

先ず広場(Praça de D. Pedro IV)までバスに乗り、更に広場(Praça do Chile)までバスに乗った。途中に見えた1579年に建てられた美しい教会(Igreja de Nossa Senhora dos Anjos)に後で訪れることにした。午後3時でおやつの時間になったので、広場(Praça do Chile)のバス停の直ぐそばにパン屋さんが2軒(もう一軒はPastelaria Estrela de Paris)あり、(1866年に創業した老舗(274 Rua do Comércio)の支店(129 Rua Morais Soares)として営業していた)パン屋さん(Folar de Chaves)でベーコンやサラダの肉がふんだんに入ったパンを量り売りしてもらい食べた。

博物館の近くまで行くバスを探したが、地図がいい加減なため、バス停も分からず、通りの方向を教えられて、大通り(Rua Morais Soares, Avenida Afonso III)を通るバスに乗り、近くまで来れたが、住宅地しか無くてかなりてこずり、何人かの人にたずねたが、適当にこっちじゃないかなと答えたりするため、教えてくれるのはありがたいが、知らないなら、知らないと言ってくれれば良いことが多いことを感じた。相手の話しぶりで途中から信用できそうか見分けられるようになった。最後に警察の車が通りかかり、道をたずねると、更に先を左に曲がると丁寧に教えてくれて、30分ほど住宅地の中をうろうろして、やっと美術館(Museu Nacional do Azulejo)にたどり着けた。

美術館は元は邸宅だった美しい建物だった。入場券を買うとき、前のアメリカ人が英語で話しかけると、係員がものすごく感じ悪く接していて、パンフレットを投げ渡していて嫌な予感がしたが、次に私がスペイン語で話しかけるとものすごく感じ良く接してくれて、笑顔で丁重に手を添えてポルトガル語と英語のパンフレットを一部ずつくれた。やはり、ポルトガル語とスペイン語は同じロマンス語でラテン語から派生した兄弟のような言語であるからよく似ていて、お互いに通じることを感じた。

美術館の中は二階まで中庭もあり、美しい青タイルの教会も美しかった。現代の最高の技術でも、日本・中国・朝鮮の技術には敵わず、何だか物足りない感じがして、細部へのこだわりなど、繊細さが欠けているため、遠くから見るときれいでも、近づくと雑だったけれども、聖家族が表現されていたセットは美しかった。中庭の展示に官庁や幾何学の文様、舞踏のレッスンの様子など面白い題材があった。博物館は建物が素晴らしく、タイルが最も自然で美しかった。青タイルはある部分だけを切り取るのではなく、建物の中にあるからこそ、遠くから美しく見えて、意味があることを実感した。

博物館を出てから、前庭で少し休憩して、目の前のバス停(Igreja Madre Deus)から広場(Praça do Chile)に戻り、乗り換えて、先ほど訪れたかった教会(Igreja de Nossa Senhora dos Anjos)に行くと、外観が美しく、通りの雰囲気と合っていた。近くの市電の停留所(Rua Maria Andrade)で20分待たされた。満載の電車が通り、乗りたいので手を振ると私がただ手を振ったのだと思ったらしく、運転手は手を振ってくれて去ってしまった。もしくは、満員で乗せられなかったかもしれない。

近くの大きな停留所(Rua Maria)まで歩いて戻り、そこから市電に乗り、広場(Largo do Chiado)に着いた。終点で降りて、16世紀に建てられた教会(Igreja de Nossa Senhora da Encarnação)から少し坂を上り、通り(Rua da Misericórdia)を行き、突き当りの1553年に建てられたバロック様式の教会(Igreja de São Roque)を訪れた。450年前に天正遣欧使節が宿泊した教会で歴史的だが概観は美しかった。イエスズ会の本拠地であったが、1755年の大地震直後、1758年にポルトガル王ジョゼ1世(José I, 1714-1777)の暗殺未遂事件が起こり、ポンバル侯爵(Sebastião José de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marquês de Pombal, 1699-1782)がイエズス会を国外追放にした。

近くには古本屋さんが多く、広場(Praça Luís de Camões)まで下り、市電の線路に沿い、隣のBica駅まで歩き、広場(Largo Calhariz)でケーブルカーを探すが見つからず、市電でCampo de Ouriqueまで行った。今日は市電の始発から終点まで乗ったに等しいほどの多くの場所を網羅した。

始めのAlfama地区(アラビア語「風呂」الْحَمِيم / al-ḥamīm < ح م م‎ / ḥ-m-m < セム祖語*ḥamm-が語源でアッカド語「熱を加える」𒅎𒂍𒄠 / emēmu、ウガリット語「熱」𐎈𐎎𐎎 / ḥmm、ヘブライ語「陽」חַמָּה / khamá < ח־מ־ם‎ / ḥ-m-m、アラム語「熱」𐡇𐡌𐡕𐡀‎ / ḥemmətā < 𐡇 𐡌 𐡌 / ḥ-m-m、シリア語「熱」ܚܸܡܬܵܐ / ḥimtā < ܚ-ܡ-ܡ‎ / ḥ-m-mと関連) は、1755年の大地震で被害が少なかったため、区画整理されずに古い町並みが残されていた。入り組んだ狭い通りを行き、レストランの中で地元の人たちが、朝食を食べているのを見たり、サンマを焼いている人が通りにいたり、市電が来ると皆壁に張り付いたり、車が停車されていて、狭い道をふさいでしまい、何度も立ち往生したりした。

市電の線路は道路に交差するように極めて密に敷かれていて、同じ時に同じ所に来て正面衝突しないのが不思議なくらいだった。昨日に来た城(Castelo de São Jorge)の前を通り、展望台(Miradouro de Santa Luzia)を通り、下町の坂を下り、大聖堂(Sé de Lisboa)を通り、Baixa地区からは通りも広く整然となり、国家の中枢をなす重要な建物が増えて、人が多く出て賑わっていた。

坂をまた登り、高い土地を意味するBairro Alto地区には、1757年に建てられた教会(Igreja de Santa Catarina)など、美しい教会が多く、坂を下るとEstrela地区のバシリカ(Basílica da Estrela)や国会議事堂(Assembleia da República)など、大きな建物が林立する官庁街があり、19世紀位の建物が多く見えてきて、墓地(Cemitério dos Prazeres)の前の広場(Praça São João Bosco)で終点に至った。

それぞれ地区には、それぞれの特色があり、市電に乗っているだけで、街並みが大きく変わり楽しかった。市電が発車すると、後ろにただ乗りする3人の少年が、ドアに張り付き、帰りの距離をお金を払わずに移動していた。25番の電車に乗りたくて待っていたが、28番ばかりが来るため、おかしいと思い、時刻表を見ると、土曜日には全くなかった。

79番のバスに乗ると、Campo de OuriqueからEstellaまで多くの路線が共通していた。Ratoで分かれて大通りに出て、美しい広場が多い場所(Avenida, Restauradores, Rossio)を通り、広場(Praça do Comercio)に戻り、夕方のLisboaの賑わいを楽しめた。

隣の広場(Praça da Figueira)に少し歩いて、美しい家々を見てから、地下鉄でSete-Rios駅に戻った。土曜日の夕方は電車が少なく、30分近く待たされた。電車の下の席に乗り、午後9時を過ぎて、夕日に照らされた橋の上からLisboaの全景が見えた。

午後10時前にFogueteiroに着いてから、直ぐに近くのショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)に入り、今日はパスタ屋さん(Tostamix e Pastamix)でカルボナーラを注文して食べた。注文すると原材料を目の前で調合してパスタを茹でて、フライパンで具を炒めてソースを作ってくれて、冷凍食品を解凍するだけではないので温かくて美味しかった。ポルトガルでは後でお好みの調味料を加えるため、薄味に提供されていて、塩やオリーブオイルをかけて味わえた。

明日は日曜日のため、午前しかSupermercadoが営業しないため、牛乳(Leite)、アイスティ(Chá gelado)、ジュース(Sumo Néctarina, Sumo Morango)、レモン風味の炭酸水(Água com Gás Limão)、マンゴー風味の炭酸水(Água com Gás Manga)、パッションフルーツ風味の炭酸水(Refrigerante com Gás Maracujá)など、飲料を多めに求め、シリアル(Cereais quadrados de Mel)、パン(Carcaça portuguesa)、ポテトチップス(Batatas Fritas)、プリン(Pudim francês)、マンゴ(Manga)、モモ(Nectarina)を買った。文房具コーナーに期待通り、沢山の種類のペンがあり、書きやすそうなドイツ製(Marcador Triplus Fineliner Preto)を求めた。ポルトガルでは文房具が輸入のためか割高で選択肢が少なくて選ぶのが大変だが、一つ良いペンを見つけた。

Hypermercado Continenteは、大きな展示場のようだった。今までのどこよりも大きくて品揃えが豊富だった。逆に日本とは異なり、生後直後から、一か月、二カ月、三カ月、六カ月、離乳期と全ての期間の赤ちゃん用ミルクが多種多様あり驚いた。プライオリティーのレジや25個以下のレジがしっかりあり、ものすごい量を買う人がいて、大きなショッピングカートを商品で一杯に満たしていた。

店員さんもスペイン語が通じる上、早口のポルトガル語で返事が来たけれども理解できるようになってきた。カードを持っていますかと聞かれて、父のクレジットカードが使えた。売り場を疲れて歩いているとき、コーラと他の炭酸飲料どちらを好むのか、アンケートをきかれて、面倒なのでポルトガル語は分かりませんと答えた。確かにポルトガル語はガリシア語やスペイン語と文法がよく似ているが、音韻が少し複雑でFátimaでは12時と2時を聞き違えたり、スペイン語の12はdoce /ˈdoθe/、2はdos /ˈdos/だが、ポルトガルでは12はdoze /ˈdo.z(ɨ)/で、2はdois /ˈdojʃ/で混乱しやすかった。

Fogueteiroは昔花火師が住んでいたかもしれない(ポルトガル語「火」fogo + -ete + -eiroと分析され、民衆ラテン語「火」focus < 古典ラテン語「松明」fax < イタリック祖語*faks < 印欧祖語 *ǵʰweh₂k-s < 「輝く」*ǵʰweh₂k- < *bʰeh₂-が語源でギリシア語「輝く」φαίνω / phaínō < ヘレニック祖語*pʰáňňōやサンスクリットभाति / bhā́ti < インド=イラン祖語*bʰáHti、リトアニア語「蝋燭」žvakė < バルト=スラヴ祖語*zvaks、古アルメニア語「炎」բոց / bocʿ < アルメニア祖語*bʰoskと関連)。今は黒人が多く住んでいて、駅やSupermercadoでも多く見かけた。

Joaquimの家に戻り、急いでシャワーを浴び、午前2時頃まで日記を書いて寝た。Joaquimの仕事が、今晩、午後11時のニュースでテレビに映るそうだが、その時間に家に帰れず見逃してしまい残念だった。Joaquimはアヒルも好きでトイレのカバーまでアヒルで笑ってしまった。夢に溢れた家にしたいとのことでテディベアーも沢山あった。家の猫が主人がおらず、寂しそうに寄ってきた。彼が帰るといつもJeremiaと言って可愛がるため、今日は主人がいなくて、何か変だと感じたらしい。

Lisboaの市電(Elétricos de Lisboa)

2008年6月1日(日)53日目(Lisboa-Monte Abraão -Sintra-Cabo da Roca-Cascais-Belém-Lisboa: Casa de amigo)

Sintraで国立宮殿(Palácio Nacional de Sintra)や宮殿(Quinta da Regaleira)、ムーア人の城(Castelo dos Mouros)を見学した。ユーラシア大陸の最西端であるロカ岬(Cabo da Roca) で大西洋を一望した。美しいCascais海岸に沿い、Lisboaに戻ってきて、Joaquimと巡礼のお話を沢山した。

今日は午前8時に起き、昨日に買った朝食を食べて、午前9時半に家を出て、最寄駅に行った。午前9時50分の電車に乗れず、30分ほど駅のホームでポテトチップスを食べて、ゆっくりと日記の続きを書いて待った。途中でローマ水道橋をCampolide駅で見ようとしたが、日曜日なので電車が少なく、明日の朝の通勤時間にすることにした。切符はLisboaまで買い、Sete-Rios駅でまた買い直した。Lisboa近郊を走る私鉄(Fertagus)と国鉄(Caminhos de Ferro Portugueses)は異なる鉄道事業者によるが、同じホームに発着して便利だった。券売所の人は優しく教えて下さり、Monte Abraão駅で乗り換えると教えてくれた。30分待つ間に日記を書いた。路線には黒人の人が多く住んでいて驚いた。

電車を乗り継いでSintraに到着すると、駅の中にある観光案内所が、観光客で溢れかえっていた。地図とバスの時間を教えてもらい、4€で町を一周するバスの利用を勧められた。駅前で観光用バスに乗り、のどかな谷間を進み、1489年に建てられた国立宮殿(Palácio Nacional de Sintra)がある広場(Largo Rainha Dona Amélia)を少し過ぎた所にたどり着いた。ムーア人の城(Castelo dos Mouros)や教会や狭い路地の眺めは美しく絵になるほどだった。観光客が多すぎて居心地は良くはなかった。

国立宮殿の発券所で今日は無料で入れると言われて、美しい建物の中を無料で見学できて嬉しかった。沢山の間があり、王冠を被る白鳥が描かれた間(Sala dos Cisnes)、青タイルが美しい間(Sala dos Brasões)、金の部屋(Câmara do Ouro)、中庭(Pátio Central)があり、アフォンソ6世(Afonso VI, 1643-1683)が亡くなった部屋(Quarto-Prisão de D. Afonso VI)、明るい教会(Capela Palatina)、中国の間(Sala Chinesa ou do Pagode)、アラブの間(Sala Moura ou Árabe)など多様だった。台所(Cozinha)の中は白色で煙を出す煙突が垂直に立ち、中から青い雲が動いていた。

広場(Praça da República)を出て、前の1755年に建てられた教会(Igreja de São Martinho)を見て、時計塔(Torre do Relógio de Queluz)の前を通り、雰囲気のある小道(Rua Consiglieri Pedroso)を散策して、一本道(Avenida Almeida Garrett)で滝(Cascata de Pisões)を見た。

1697年に建てられた宮殿(Quinta da Regaleira)とその庭を見学した。町から少し外れた林にあり、木が茂る中に建てられていて環境が良かった。入口の前で父と別れて、私だけ宮殿と庭園を訪れた。

宮殿は広々と美しく、大理石像が立ち並び、泉が湧き出ていて、小さな教会(Capela da Quinta da Regaleira)もあり、洞窟(Gruta do Labirinto)もお城もミニチュアで作られていて、夢のような世界だった。宮殿にパネル展示があり、庭園の整備計画や王様縁の品が展示されていて面白かった。

水を溜めて、池が作られ、泉が湧き出し、飛び石が設けられ、涼しくて気持ちのよい所だった。庭園は完全に整備されていた。庭の直ぐ横にイスラム建築(Quinta do Relógio)が残されていた。

町に通り(Rua Consiglieri Pedroso, Rua da Ferraria, Rua Padarias)を歩いて戻るとき、美しい小さな展望台(Miradouro da Ferraria)があり、そこからの眺めは格別だった。

バス停まで下り、国立宮殿(Palácio Nacional de Sintra)の前で父と会い、ムーア人の泉(Fonte Mourisca)を見て、バスに乗り、ムーア人の城(Castelo dos Mouros)へ行った。エレベーターの入場料が5€も取られるため、入場せずにバスを待って乗った。バスは満席で城から下る道は急なため、ジェットコースターのようだった。1836年に建てられた宮殿(Palácio Nacional da Pena)の前に止まったが、あまり見るべき所がないため、また、同じバスに直ぐに乗り、早々とSintra駅に戻った。

駅の周りの石畳は広々として、雰囲気の良い建物(Casa das Queijadasなど)が多かった。時間に余裕があったため、美しいクリーム色の建物(Pelourinho de Sintra)があるロータリー(Largo Dr. Virgílio Horta)まで、大通り(Avenida Dr. Miguel Bombarda)を歩いて戻ってきた。

ロカ岬(Cabo da Roca)行きのバスが出るまで、40分ほど日記を書いて待ち、しばらくするとバスに乗り込んだ。山を登る間は疲れていて寝てしまったが、ハイライトの大西洋が見え始めた頃に起きて、効率よく休息して時間を使えた。岬で観光案内所(Posto de Turismo)の前に着いた。記念に証明書を5€で発行してもらった。FisterraやMuxiaと同じく、大西洋が目の前一面に広がり、昔の人が地球が平らで、地から水が流れ出していると考えたことも分かる気がした。

岬の最先端に石碑が建てられていて、カモンイス(Luís Vaz de Camões, 1524-1580)のOs Lusiadas第3詩20節の有名な一節「ここに地終わり海始まる(Onde a terra acaba e o mar começa)」と書かれていた。少し岬を散歩してから、灯台(Farol do Cabo da Roca)が見える断崖絶壁の絶景を満喫してから、午後7時のCascais行きのバスに間に合うよう、観光案内所の前で待っていた。

バスは午後6時57分に来て、海岸線に沿う道路(N-247)をひた走り、とても眺めが良くて、特にCascaisに入る手前の海岸線は美しく、景色を楽しむだけで満足だった。街に近づくとテニスやビリヤード、ボーリングの宣伝の看板があり、海岸線はかなりリゾート化されていた。Nazaré海岸の方が、リゾート地化も進んでおらず、昔の雰囲気が残されていて懐かしく感じた。街並みは美しく整備され、バス停は鉄道駅の近くにあり、もう海岸に出るには遅いから、電車でLisboaに戻ることにした。

電車は海岸線に沿い、Tejo川の河口に到り、途中Caxias近くで、小さな美しい海岸(Praia de Caxias)を見つけた。周辺には高級住宅地が広がっていた。鉄道は市内のAlcántara-Mar駅に着いて、鉄道橋を通り、Alcántara-Terra駅に行くが、ホームが閉鎖されていて、廃線のようで寂れた駅であったため、仕方なく、大通り(Avenida de Cauta)を歩いて、電車に乗れるCampolide駅をとにかく目指した。

途中でバス停(Quinta do Cabrinha)があり、バスでCampolide駅に着いた。1713年に建てられた水道橋(Aqueduto das Águas Livres)が聳え立っていた。立派な水道橋が車窓から見えていて、今まで途中下車したいと思っていた駅だったので大興奮だった。電車が来るまで30分ほど、日記を書いて待った。午後8時50分の電車に乗り、電車の中で夕暮れを迎えて、Fogueteiroに着き、彼の家に着くと、Joaquimが「友よ!何時になっちゃったの!待っていたよ!」と叫んでいた。廃線の駅に着いてしまい、そこから脱出することが、大変だったことを話すと、理由が分かり安心して大笑いしていた。

昨日と今日のことを話したり、Setúbalへ仕事に行ってきた時の写真を見せてくれた。美しいビーチが解禁された報道をしていたそうで、救命士の仕事ぶりや美しい片理が発達した岩石と自然の風景、昨日のリハーサルと今日の報道向けのオリエンテーションやその後のパーティの様子など、仕事の写真や最近の写真も見せてくれたりして、また、巡礼路で起きたことのお話で盛り上がった。

彼は記者兼カメラマンをしているが、自分の所に来た何事でも、自分の好きな仕事しかとかとらず、また、自分から仕事を提案できるため、自分の仕事がとても好きだと言っていた。好きな仕事をするに越したことはないねと話していた。すると、Joaquimは仕事とは楽しむものだよ。そのおかげで世界を旅をできたし、巡礼をして沢山の友達とも会えて満足しているよと大盛り上がりしていた。

Joaquimは家に帰るとガスの栓が元から閉められていたから驚いたと言っていた。彼の家は隣人が助けてくれるから、ガス漏れをして死ぬ配はないよと笑っていた。

午後11時近くになり、急いでショッピングセンターに駆け込んで、夕食を探した。缶飲料を持って行き、閉店間際にPizza Hutのビサと飲料のセットを買ってくれて助かった。焼き上がるのを待っている間にシャッターが閉まり始めて、閉店間際に滑り込めて安心した。

今日、魚介類を午後4時頃に食べてお腹一杯だから、もう食べられないと自分は食べないのに、私たちの飲食代を全て支払ってくれた。缶飲料とデザートをプレゼントして一緒に食べた。上司が払ってくれて、普段は食べない高級な魚介類を食べてこれたらしくてご満悦だった。

Joaquimと巡礼宿の話で盛り上がった。Fátimaは酒びたりの夫と上手くしたいため巡礼をしたり、前妻が不倫をして離婚をして、それを忘れたいため、巡礼路の途中で鉄の十字架の中に金の結婚指輪を置いた人がいたり、Joaquimのように巡礼体験を記事にする人、友人関係に問題が生じて、独りぼっちになった人、元気をもらおうと巡礼をしたり様々だった。私たちとよく関わりがあった人たちは、そこまで強烈な人がいなかったので驚いた。Joaquimはマリア像が立っていた泉の中にコインが入っているのを見つけ、全部で3.75€見つけて、Fatimaとアイスクリームを買って食べた話もしていた。巡礼には色々な人がいたことが分かりおもしろかった。家に戻り、Joaquimと少し話をしてから就寝した。

Lisboaは古ガリシア語Lixbõa < アラビア語لِشْبُونَة‎ / lišbūna < الأشبونة / al-ʾIšbūnah < ラテン語Ulixbuna < Ulixbona < Olisipona < Olisiponem < 古典ギリシア語Ὀλισσιπόνα / Olissipóna < Ὀλισσιπών / Olissipṓn < フェニキア語「安全な港」𐤏𐤋𐤉𐤑 𐤏𐤁𐤀 / ʿaliṣ-ʿuboʾが語源とされる。

しかし、タルテッソス(Tartessus < Τάρτησσος / Tartēssós)の地名、ファーロ(Ossonoba)、ウエルバ(Onoba, Onuba)、コルドバ(Corduba)、サラゴサ(Salduba)は、接尾辞-oba, -uba < イベロ=ケルト語「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語「水」*h₂ep-が語源である。テージョ川(Tagus < Τάγος / Tágos)の古名(Lisso < Λίσσο / Lísso)はケルト祖語「野菜」*lussus < 「植物」*lubā < 印欧祖語「葉」*lewbʰ-eh₂ < 「剥く」*(h₃)lewbʰ-が語源で古アイルランド語「植物」lusや中ウェールズ語「植物」llys、ゴート語「葉」laufsや古英語「葉」lēaf < ゲルマン祖語*laubąやラテン語「本」liberやパエリグニ語「本」lifar < イタリック祖語*luβrosと関連、もしくはケルト祖語「基地」*bonus < 印欧祖語*bʰuH-nós < 「在る」*bʰuH-が語源で古アイルランド語bunや中ウェールズ語bonや古プロシア語「家」buttanやリトアニア語「家」bùtas < バルト=スラヴ祖語*butasと関連する。

ポンポニウス・メラ(Pomponius Mela)はUlyssippo、プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 23-79)はOlisippoと記録した。ソリヌス(Gaius Julius Solinus)の《世界の驚嘆(De mirabilibus mundi)》XXIII, 2「Ibi oppidum Olisipone Ulixi conditum: ibi Tagus flumen」でオデュッセウス(ラテン語Ulysses < Ulixes < 古典ギリシア語Οὐλίξης / Oulíxēs < Ὀδυσσεύς / Odusseús)に結び付けるが誤りである。

紀元前12世紀にフェニキア人が建設、紀元前202年にポエニ戦争でローマ人が支配、紀元前138年にルシタニア(Lusitania)のローマ植民都市(oppidum)、 紀元前31-27年に自治都市(municipium)となった。356年に司教座が置かれ、407年にアラン族(Alani)、419年に西ゴート族(Visigothi)、469年にスエビ族(Suevi)が支配、585年に西ゴート王国(Regnum Visigothorum)に編入された。

711年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、844年にバイキングが来襲、851年にアストゥリアス王オルドーニョ1世(Ordoño I de Asturias, 821-866)が侵攻、966年にまたバイキングが来襲、1093年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が侵攻した。

1031年にバダホス王国(طائفة بطليوس‎ / ṭāʾifah Baṭalyaws)が支配、1108年にノルウェー王シグル1世(Sigurd I Magnusson, 1089-1130)の十字軍が攻略したが、1111年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)に奪還された。1147年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が攻略(De expugnatione Lyxbonensi)して大聖堂 (Santa Maria Maior)を建設、1189年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)が攻撃したが、1255年にポルトガルの首都とされ、1290年にポルトガル王ディニス1世(Dinis I, 1261-1325)がリスボン大学(Universitas Olisiponensis)を設置した。

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ユーラシア大陸の最西端のロカ岬(Cabo da Roca)から大西洋を臨む

2008年6月2日(月)54日目(Lisboa-Évora: Casa Palma)

Évoraの町並みは美しく、町の中心に美しくローマ時代の神殿跡(Templo de Diana)があった。インパクトが絶大な人骨で作られた礼拝堂(Capela dos Ossos)を訪れた。教会(Igreja de São Francisco)や大聖堂(Sé Catedral de Évora)、特にローマ神殿も夜にライトアップされ美しかった。宿から少し先にある旧市街の中央広場(Praça do Giraldo)では、夜に古本市が開かれていた。

今日は午前7時少し過ぎに起き、午前7時半頃からJoaquimと食べた。彼は昨日の魚介類の食当りで夜中に2回もトイレに行き、朝は食べられないが、私たちより早く起きて、私たちの朝食を用意してくれた。午前9時に近くなり、バスの時間もあるため、少し急ごうと頼まれて、早々と食事を済ませた。

いつもは鉄道ではなく、バスでフェリー乗り場に行き、川をフェリーで渡り通勤しているが、2日間は私たちがいたため、運賃を持ってくれた上、自分まで高い鉄道の運賃を払ってくれて一緒にいてくれたことを初めて知り、とても恐縮した。彼は来年には日本を旅したいから、また日本で会おうと家の前でお別れして、Fogueteiro駅に向かった。Joaquimはバス停まで走って去り、時間が近く急いでいたようだった。Lisboaに滞在した4日間、本当にお世話になり、心から感謝をした。

駅では券売機が故障して、窓口が長蛇の列ができていたが、通勤時間だが誰も文句を言わず感心した。Sete-Rios駅で長蛇の列の最後に並んだが、窓口が下だと言われて、下に向かうと、駅員さんが、今日は2本しか鉄道が出ていないため、バスで行くと良いと、親切にバスターミナルも教えてくれた。

鉄道で行こうと思っていたら、バスを勧められたりして、行き当たりばったりだが、何でも計画通りに事を運ぼうとする日本人と神経が大きく異なるが、自分の旅も行き当たりばったりだから、その時に思いついた場所に一つずつ駒を進めてゆくように旅をしてきたのによく似ていて、これはこれでまた面白いと思った。先に計画を固める旅は、自分には合わない上、旅先では思いもよらないことが起きたり、思いもよらない耳寄りな情報に接したりして、未知との遭遇を楽しみたいと感じた。

午前9時15分にバス停に着いて、午前9時半出発のバスに乗れた。今まで来た道を戻るように南に高速道路(EIXO Norte-Sul, Avenida do Sul)を走り、昨日、水道橋を見たCampolide駅の東側を通り、大きな橋(Ponte 25 de Abril)を通り、再び川の向こうにLisboaの町を望みながら、最後のお別れをして、Fogueteiroの町並みと大きいショッピングセンター(RioSul Centro Comercial do Seixal)、Joaquimのアパートや駅前のカラフルなアパートも見ることができた。ポルトガルでは、何でも通りや広場の名前になり、日付、職業、数字、抽象名詞、普通名詞まで通りの名前にあり、長たらしいと感じた。

単調な景色の中を1時間ほど走り、午前11時にÉvoraに着いた。車内でお菓子が売られたり、運転手と乗務員の二人になり、シートが指定されていたり、今までと少し違うバスの旅だった。

Évoraにはユースホステル(pousada da juventude)があるそうだが、旧市街で見つからなかった。周辺に学校があるらしく、昼休みで近くの公園には人で溢れていた。通りで歩いて迷い、通りを歩いている人に話しかけると、始めは驚かれるが、直ぐに打ち解けて、安心して笑顔になり、親切に教えてくれた。逆に歩いていると通りの反対側から地元の人が、旧市街の場所を指して教えてくれた。

大通り(Avenida de São Sebastião)を少し歩いていくと旧市街に着いたことが分かった。白壁の家が立ち並んだきれいな石畳の通り(Rua de Serpa Pinto)を直進して、中央に1557年に建てられた白い教会(Igreja Paroquial de Santo Antão)がある賑やかな広場(Praça do Giraldo)があった。

観光案内所(Posto de Turismo)で地図をもらい、Supermercadoの位置を教えて頂いた。ユースホステル(pousada da juventude)は8年前に廃業してしまい、代わりに他の安い宿(Residência)を教えて頂いた。広場から1、2分ほど歩いた所にあり、交通の便が良かった。

小さな通り(Rua de Bernardo de Matos) を下り、宿(Casa Palma)に着いた。入り口のドアをガチャとノックすると電子鍵が開いて、二階に登ると優しいおばさんに部屋を見せてもらった。部屋は小ざっぱりして、トイレ、シャワー室もあり、30€で泊まることにした。

スペイン語で話しかけると喜んで会話をしてくれた。正午を時少し過ぎでも、部屋に通してもらえた。ポルトガルやスペインは、特に個人の宿においては、チェックイン時間は早くても構わず、荷物を置くことができて融通がよく利くので助かった。直ぐに町中を見て回った。

宿の裏の広場(Praça 1º de Maio)に面した1550年に建てられた教会(Igreja de São Francisco)は、午後1時少し過ぎても、まだ扉が閉まっていた。Joaquimが盛んに勧めた人骨で作られた礼拝堂(Capela dos Ossos)には後に来るとして、庭園(Jardim Público)を訪れた。19世紀に造園された美しい公園でゆっくりした。ヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama, c.1460-1524)の銅像があった。

雰囲気のある商店街(Rua da República)を歩いてゆき、広場(Largo da Graça)を歩いた。1511年に建てられた(Convento da Graça)に至ると、不思議なことに教会の前には軍人たちが屯していた。教会の中は聖家族のミニチュアモデルや世界各地やポルトガル各地の作品が展示されていた。中にはクリスタルにレーザーで彫った作品、貝の中に貝で作った作品、ボトルシップのような作品などが置かれていて、ペルーの人が作った幼きイエス像がお尻を出しているのには噴き出してしまった。

教会を出て、アーチが二つある美しい短く狭い通り(Traversa do Manuelinho)を通っていると、賢そうな婦人の軍人が、Nazaréの軍人と同じ迷彩服を着ていた。美しい通り(Largo d'Alvaro Velho)を歩いて、1499年に建てられた内側の青タイルが美しい教会(Igreja da Misericórdia)を訪れた。

広場(Largo da Misericórdia)からの大聖堂(Sé de Évora)の姿は美しかった。小さな通り(Rua da Misericórdia, Rua do Conde da Serra da Tourega)を通って、エヴォラ大学(Universidade de Évora)に至った。大学の前には1577年に建てられた教会(Seminário Maior de Évora)と広場(Jardim dos Colegiais)があり、門から中を覗くと美しいAzulejoのタイルの中庭が見えた。

そして、広場(Largo de São Miguel)に戻り、大聖堂に向かうとき、細い通り(Rua da Freiria de Cima)から、大聖堂の尖塔と藤棚とオレンジの木が美しく見えた。中庭にはレモンとオレンジがなっていた。大聖堂の裏側の広場(Largo Dr. Mário Chicò)でアーチをくぐり、隣の広場(Largo do Conde de Vila Flor)にローマ時代(紀元後2世紀)の美しい神殿(Templo de Diana)があった。

先には崖があり、展望台(Miradouro do Jardim Diana)から、旧新市街の町並みを眺めることができて美しかった。ドイツ人観光客が、広場(Largo do Conde de Vila Flor)の中央にぞろぞろ入ってきたため、大聖堂(Sé Catedral de Évora)の正面に回り、午後2時に入場できた。

(1184年に建てられた初期ゴシック様式の大聖堂はリスボン大聖堂、塔はスペインのサラマンカ旧大聖堂を模範とした。声楽伝習所(Colégio dos Moços do Coro)が設置され、エヴォラ楽派の至高の多声音楽の名作が生まれた。マヌエル・メンデス(Manuel Mendes, c. 1547-1605)、ドゥアルテ・ローボ(Duarte Lôbo, c.1565- 1646)、マヌエル・カルドーソ(Manuel Cardoso, 1566-1650)、フィリペ・デ・マガリャンエス(Filipe de Magalhães, c. 1571–1652)の作品が最高である。)

大聖堂には入場料1€を取られたが、立派な高い天井の内部空間が印象的で独特の雰囲気の祭壇と側面があった。また、1308年に刻された古い碑文(Mário Jorge Barroca (2000). Epigrafia medieval Portuguesa 513)があり、「Hoc : ALTARIA : VI(r)GiNIS : GLoriOSE : MaT(r)iS : DomiNI : SANCTE : Ma(r)IE : SanCtI : BARToLoMeI : APostoLI : SANCTI : IoHannIS : BaBtisTE : SanCtI : LAUREnCII : MartiRIS : SanCtI : IULIANI : MartiRIS : SanCtI : BOnIFACII : MartiRIS : SanCtOrum : VInCEnCII : SAVINE : et XPETIS : MARTIrum : SanCtE : LUCIE : MartiRIS : Sancta : AUCTORITATE : OmnIUM : DomiNI : CONSACRATA : PER : SERVITUTEm : MANUS : FERNAnDI : LICET : In DomINI : TUnC : EPiscopI : ELBOREnSIS : Era : Mª : CCCª : XLª : VIª : et : SANCTI : MANCII :」と書かれていた。洗礼盤は厳重に鉄格子の中で守られていた。

大通り(Avenida 5 de Outubro)を回り、小道(Rua de São Tiago)の1550年に建てられた小さな教会(Igreja de São Tiago)の横を過ぎ、1610年に建てられた美しいクリームと白壁の教会(Convento do Salvador do Mundo)の広場(Praça do Sertório)に至ると水道橋に民家や商店があり驚いた。水道橋に沿って通り(Rua do Salvador)を歩いてゆくと1537年にポルトガル王ジョアン3世(João III, 1502-1557)が建てた水道橋(Aqueduto da Água de Prata)があり、そこまで美しく続いていた。

通り(Rua do Cano)があるが、人がしゃがむとやっと通り抜けられるほどの高さだった所もあり、そこから少し行くと、車も人も十分通れるようになり広場があった。広場の中側は白く塗られて、水道橋はお化粧をしているが、外側は原形を留めていて、家に人が住んでいて面白かった。

来た道を少し戻り、小道(Rua João de Deus)を歩いて、中央の広場(Praça do Giraldo)に到った。中央には白いテントが建てられていたが、正体が分からなかった。それから隣の広場(Praça 1º de Maio)にある教会(Igreja de São Francisco)に入ると側面に聖人の絵や像があり驚いた。

賑わう通り(Rua da República)のアーケード(Arcadas)にカフェ(Cafetaria Bijou)を見つけて入り、40分ほど一服した。Lisboaのパン屋さん(Folar de Chaves)で食べたタルトとクリームが挟まり、上にカラメルがあるケーキ(Bolo São Marcos)、ミートパイ(Bôla Alentejana)やクリームタルト(Pastel de nata)を注文すると美味しくて、甘さが控えめで歩いてきた疲れがとれた。

それからJoaquim大推薦の人骨で出来た聖堂(Capela dos Ossos)に行った。入口に美しい聖母子像があり、回廊の雰囲気は良かった。更に全ての部屋には美しい青タイルがあり、イエズス様の十字架への磔の門があり、「ここにある骨たちは、あなたのもの(骨がここに来ること)を望んでいます(Nós ossos que aqui estamos, pelos vossos esperamos.)」と書かれ、小さな祭壇も美しかった。

入場券を買い、人骨の礼拝堂の中に入ると、昔の聖霊降臨祭(Pentecostes)のグレゴリオ聖歌ミサのネウマ譜が展示されていて、最も奥に人骨の聖堂(納骨堂)があった。日本人のツアー客とばったりと会い、日本語で説明を聞いた。人骨の聖堂(Capela dos Ossos)は、ヨーロッパでは意外と珍しくなく、イタリアのシチリア(Catacombe dei Cappuccini)、フランスのパリ(Catacombes de Paris)、ポルトガルのファーロ(Igreja do Carmo)、ボヘミア(Kostnice Sedlec)にもあるそうだ。

フランス語の説明版には、村の墓所を掘り返して人骨を集めて、16世紀に建てられたフランシスコ会の瞑想を行う場所と書かれていた。前面には全身の骨格、アーチには小さな骸骨が吊り下げられていて、一つは幼い子供の骸骨だった。更にラテン語の碑文「死を想え(Memento mori)」があった。

納骨堂を出てから、中央の広場(Praça do Giraldo)に戻り、Residenceのある通り(Rua de Bernardo de Matos)から、通り(Rua do Raimundo)を歩いて、郊外の大きなSupermercadoに行った。街中には小さな商店があったが、規模が小さすぎて欲しいものが見つからなかった。

城壁(Porta do Raimundo)を出て、ロータリを行き、大通り(Avenida Túlio Espanca)を進み、更に行くともう一つのロータリーがあり、バスターミナル(Estaçao Rede Expresso Evora)をつきり、大通り(Avenida de São Sebastião)に出ると、高校(Escola Secundária André de Gouveia)から、放課後の時間になり、沢山の生徒たちが出てきた。通り(Rua do Liceu, Avenida dos Salesianos)を歩いていくと、近くにCentro Comercialがあり、Hypermercado Modelo Continenteがあった。

明日は午前8時25分のバスに乗るため、奇しくもバスターミナルの事前の下見となった。旧市街から20、30分かかった。店には何でも売られていて、入口に自転車が置かれていて、100€していたり、安くは45€もあった。外にはガスコンロが30€ほどで売られていた。

フランスパン(Pão cacetinho)、ミートパイ(Bôla Alentejana)、リーフパイ(Palmier)、クリームタルト(Pastel de nata)、カラメルケーキ(Bolo São Marcos)、ポテトチップス(Batata Frita Lisa Sabor Camponesas)、マヨネーズ(Maionese)、モツァレラチーズ(Mozarela)、生ハム(Presunto)、トマト(Tomate)、パイナップル(Abacaxi)、オレンジジュース(Sumo de laranja)、パパイアジュース(Sumo de Papaia Ceres)、パッションフルーツ味のファンタ(Fanta Maracujá)、オレンジ味のファンタ(Fanta Laranja)、アイスティ(Chá gelado)、今日のおやつにカフェ(Cafetaria Bijou)で注文した二つのケーキとタルトをパックしたものを六倍の大きさで買えた。Lay'sのカンパーニュ味のポテトチップスが美味しいことが分かり、今日も買った。

レジに並んでいたら、前に二百本を超える瓶のビールを買っている人がいて、カフェの経営者かパーティをする人だと思った。手に食料品を一杯のとき、通りがかりの人が、扉を開けてくれて、親切にしてくれた。同じ道を30分かけて、来た道を戻り、宿まで戻ってきた。

宿に帰って来て、直ぐにお風呂に入ろうとするが、ガスの点火装置が作動せず、婦人に言うとマッチで点火してくれ、直ぐに消えてしまい、再び呼んでスペイン語で事情を話すと、それは大変だと確認してくれて、ガスコンロのガスが無くなり交換をしてもらい、シャワーを浴びることができた。

マヨネーズ、トマト、チーズ、生ハムをパンに挟んでサンドウイッチにして、今日街中のカフェ(Cafetaria Bijou)で買ったカラメルのケーキを食べて寛いだ。夜になり、洗濯をして、町を見ると、雨がさっと降った後のような感じで、日中は晴れていて、気持ちの良い天気でついてると思った。

通りに向かって、服を絞ったような跡があり、通りに少し水がたれていたが、ポルトガル人は誰も気にする人はいなかった。通りに洗濯物を干しても、平気なのはヨーロッパ共通だと思われた。

日没後、午後10時近くに再び町に出た。支配人の家族は食事をして、楽しんでおしゃべりをしていた。夜の街はライトアップされていて美しかった。始めに中央広場(Praça do Giraldo)に出て、教会(Igreja de São Francisco)に向かう通り(Rua da República)のアーケード(Arcadas)のアーチの中も、教会の塔も美しくライトアップされていて、教会に近づくと美しい聖歌(Alleluia)が聞こえてきて、晩課をしていた。銀行(Caixa Geral de Depositos)の近くから見えていた。

それから、市営庭園(Jardim Público de Évora)にある美しくライトアップされた宮殿(Palácio de Dom Manuel I)を見てから、中央広場(Praça do Giraldo)に戻り、ローマ時代の神殿跡(Templo de Diana)に行った。大聖堂に至る道(Rua Cinco de Outubro)には人通りが少なく、ポルトガルではスペインのように夜中に騒いでいる人は少なくて、夜道を歩いていて殆んど声は聞えなかった。

大聖堂も周辺がライトアップされ美しく、神殿も白色の光でライトアップされていて暗闇の中に浮かび上がり美しかった。ローマ神殿を様々な角度で見てから宿に戻るとき、中央広場(Praça do Giraldo)で昼間、不思議だったテントに本屋さん、古本屋さん、花屋さんなどの商店が開いていた。

夜に広場で市場が開かれるとは予想外だった。昼間に見た謎のテントの正体が分かった。古本屋さん(Livraria Oliveira)で少し本屋さんでポストカードを見ていると、古いカテキズムの本が置かれていた。小さい本なのに値段を見ると200€していたり、大きい本なのに3€しかしなかったり、沢山の古本が棚に並べられていて、値段も様々だった。フランス語など、ポルトガル語以外の本は安かった。1943年に刊行されたフランス語のPyrénéesのガイドブックがあったが買わなかった。

午後11時前に宿に戻り、昨日買った古本をきれいにした。日記の続きを書いてから、午後1時少し過ぎに寝た。明日は遂にポルトガルを出る日で最後の夜になるねと父が話していた。

Évora(アラビア語يَابُرَة / Yābura < ラテン語Ebora < ケルト祖語「イチイ」*eburos < 印欧祖語*h₁ebʰrosが語源でイングランドのYork < 古ノルド語 Jórvík < 古英語 Eoforwīċ < ラテン語 Eborācum < ケルト語*eburākom < *eburos +‎ *-ākomと関連)は、ケルト人ルシタニ族(Lusitani < テージョ川(Tagus < Τάγος / Tágos)の 古名(Lisso < Λίσσο / Lísso)と同じく、ケルト祖語「野菜」*lussus < 「植物」*lubā < 印欧祖語「葉」*lewbʰ-eh₂ < 「剥く」*(h₃)lewbʰ-が語源で古アイルランド語「植物」lusや中ウェールズ語「植物」llysと関連)が建設した。

紀元前57年にローマに支配され、紀元前57年にカエサル(Gaius Iulius Caesar, 100-44 a.C.n.)は「肥沃なるジュリア」Liberalitas Julia、77年に大プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 23-79)は《博物誌(Naturalis Historia)》でEbora Cerealisと記録した。4世紀に司教座が置かれ、584年に西ゴート王レオヴィギルド(Liuvigild, 519-586)が攻略、715年にイブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が征服、ウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、詩人イブン=アブドゥン(عبد المجيد بن عبدون اليابري / 'Abd al-Majīd ibn 'Abdun al-Yaburi, c. 1050-1135)を輩出、1094年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)、1150年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)が支配、1165年は恐れ知らずのジェラルド(Geraldo Sem Pavor)が奪還して、1166年にポルトガル王アフォンソ1世(Afonso I, 1109-1185)が統治して、1280年に大聖堂が建設された。

Évoraの大聖堂の外観

2008年6月3日(火)55日目(Évora-Faro-Vila Real de Santo António-Ayamonte-Gibraleón -Huelva-Sevilla: Albergue Inturjoven Sevilla)

Faroで大西洋とお別れした。沢山のバカンス客が海岸で楽しんでいた。スペインとの国境にある町(Vila Real de Santo António)まで電車で向かい、船で国境を越え、対岸の町(Ayamonte)に入ったとき、スペイン語が通じる安心感と豊かな生活の違いを強く感じた。Huelvaで一泊する予定だったが、Sevillaまでそのままバスに乗ることにした。一緒に国境も超えたオーストリア人Marioも、私たちの決定に従い、数日間一緒だった。Sevillaでタクシー代も出してくれて旅仲間ができて喜んでくれた。

今日は午前7時過ぎに起き、身支度して宿を発ち、旧市街の道を通り、城壁を出てバスターミナルに行った。切符を買ってしばらくするとバスにすんなり乗れた。田舎の風景の中をひた走り、向日葵畑、オリーブ畑、アーモンド畑を走り、海が見えてきたら、リゾート地が1つあり、屋根は黄土色でコテージのような白色の建物が美しかった。浜辺にずっと走り、リゾートが沢山見え、看板には…CLUBと書かれていた。バスは途中2回、トイレ休憩をして、それから30分走り、午後1時半にFaroに着いた。

バスターミナル(Terminal Rodoviário)から大通り(Avenida da República)を歩いてゆき、直ぐに鉄道駅を見つけた。Sevilla直通便の都市間バスがあるが、フランスからスペインに徒歩で入ったよう、ポルトガルからスペインにも、徒歩で4キロメートルの橋を歩いて入ろうとした。

FaroからVila Real de Santo António行きの午後2時27分発の電車の切符を買い、駅近くの海岸に出た。鉄道沿いに小さな通り(Rua da Comunidade Lusíada)を歩き、線路を渡り、通り(Estrada do Passeio Ribeirinho)を歩いて、直ぐに桟橋(Pier de Faro)に出られた。Fisterra、Muxía、Aveiro、Nazaré、Lisboa、Cabo de rocaで見た大西洋(実際には干潟)とお別れして、町中に戻った。

Supermercadoは駅周辺には無さそうで捜索を諦めて、駅に戻った。列車は既にホームに停車していたので乗りこみ、日記を書いて、発車を待った。列車のホーム側の面が激しく落書きされていて驚いた。窓まで落書きされていて、窓の外を見られないほどひどかった。発車すると在来線の古いディーゼル車両は、キーキー言いながら浜辺を走り、地元の人が足代わりに利用するような路線だった。

駅を出て直ぐに本当に海から直ぐの所を走り、見るからに汚い水の干潟の横を走ると、住宅地(Tavira)も見えてきて、森の中を通る河口(Ribeira do Almagem)を見た。電車の中でうとうとして起きると、スペインとの国境に面したポルトガル側の町(Vila Real de Santo António)の駅に着いた。

駅構内を出るとオーストリア人Marioと会い、町の中で別れた。駅前のロータリーでカフェ(Restaurante Cantinho dos Petiscos)にいる人に道をたずねて、通り(Rua Dr. José de Campos Coroa, Rua Eça de Queiroz)を直進した。賑やかな商店街(Rua Dr. Teófilo Braga)を通り抜けて、中央広場(Praça do Marquês de Pombal)で休んでいると軍人が多くて、国境が近いと感じられた。

ポルトガル最後の教会(Igreja de Nossa Senhora da Encarnação)に入ってお祈りしてから、歩いて川(Rio Guadiana)に向かうと、橋(Puente Internacional del Guadiana)はとても遠くに見えた。大通り(Avenida da República)に面したホテル(Hotel Guadiana)の前を進むと、近くに船着き場があり、対岸にスペインのAyamonteの町が見えていて、ポルトガルを抜けて、スペインに入る実感をした。橋はかなり遠くに見えたので、歩いて渡るのは諦めて、船で国境の川を渡ることにした。

船が出るまで5分かからず、急いで券を買い乗船した。前にスペイン人の自転車で旅をしている人が並んでいて、乗船券を買うのに少し手間取っていたようで時間に間に合うか焦ったが、無事に乗れた。船には、先ほど駅で会ったMarioも乗ってきて、色んな話で盛り上がりながら、国境を越えた。

船に45分ほど乗ると船着き場(Puerto de Ayamonte)に着いた。川を渡る間、対岸のAyamonteが見えていて、白一色の街並みが美しかった。ポルトガル側とは町の色も全く異なっていた。オーストリア人のMarioは、スペインの北側のRibadesellaに親が住んでいて、Sevillaから旅をすると話していた。

船着き場の前の建物(Azulejo La Raya)の前で固い握手をして別れて、スペインに入った感動を分かち合い、Ayamonteの町を歩いた。ボート(Transporte Fluvial del Guadiana)の桟橋(Puerto de Ayamonte)から少し行き、美しい聖母像(Azulejo de un cuadro de Sorolla)があるカラフルなタイルが南国風で美しい広場(Plaza de la Laguna)で少しゆっくりしていたら、地元の多くのスペイン人と遭遇して話しかけられた。ポルトガル語の難しい発音には参ったから、皆がスペイン語を話していて安心した。(今さっきまでポルトガルにいたと信じられないくらいだった。)

スペインに入った瞬間から、巡礼の貝殻を付けていたため、皆が近寄って来て、握手を求めてきた。皆は巡礼者に出会ったと喜んでいて、スペイン国内ではSantiago de Compostelaへの巡礼が良く知られていることを感じた。ポルトガルでは町の人から一度も巡礼者だと言われたことがなかった。

細い路地(Calle Huelva)を進み、広場(Plaza del Rosario)に面した美しい建物(Casa Grande) にある観光案内所で地図やバスの時刻表をもらった。スペイン語で話しかけたら、スペイン語で返事が返ってきて安心した。午後5時にバスが発つと思い、急いでその道を進んだが、バスが来なかった。

バス停留所(Estación de Autobuses)でまたMarioと会い、広場にいた人にスペイン語で何時ですかと聞くと、午後6時ですと言われて、ポルトガルから出て、1時間時差があることに初めて気が付いた。まだ、バスまで一時間あり、観光案内所で教えてもらったSupermercadoに行った。

大通り(Avenida de Andalucía, Avenida Ramón y Cajal)を歩いていたら、美しい庭園(Jardin al Poeta Jimenez Barberi)や街路樹があり、街中に花が咲き乱れていて、スペインの町は華やいで新鮮に映った。歩道や車道の石畳も段差が無くなり歩きやすかった。アンダルシア地方はアラブ風で情緒がある街並みで落書きが全くなくてきれいだった。明るくて美しい街の雰囲気を感じながら町を歩いて、川(Estero de la Rivera)を渡り、公園(Parque Municipal Prudencio Navarro)を過ぎると大通り(Avenida Ramón y Cajal)の住宅地の中に教えられた通りにSupermercado Eroskiに着いた。

スペイン入国記念にFisterraと同じEroskiの美味しいアーモンドアイス(Bonbon Eroski)を買い、桃と葡萄のジュース(Zumo de Melocotón y Uva)、オレンジのジュース(Zumo de naranja)、牛乳入りジュース(Zumo con leche mediterráneo)、アルコールがない赤ワイン(Tinto de verano)、フランスパン(Barra grande)、ハム(Jamón de pechuga de pavo)、トマト(Tomate de ensalada)、桃(Melocotón rojo)を求めた。スペインの方がポルトガルより、物価が安くて、豊富な種類の食べ物があり、スペインの方が暮らしが豊かであると感じた。国境を越えただけで大きな違いがあった。

Eroskiの近くには、Super Sol, El Jamón, Mercadonaなどがあった。大通り(Avenida Cayetano Feu)のバスの停車場は閉じていたため、近くの広場でアイスクリームを食べて寛いだ。

バス停に戻ると乗車時刻になり、Marioも現れて、一緒に乗り込んだ。本日は長い距離を移動してきたので、うとうとしながら、Sevillaに発った。発車して間もなく、バスがポルトガルのように大きく揺れることはなく、道路や公園や社会インフラがよく整備されているのにも気付いた。

バスもポルトガルよりも新しくきれいでガソリンスタンドで価格を見ると、ポルトガルで1.40€していた1リットルのガソリンが、スペインでは1.10€だった。食べ物もガソリンも8、9割の価格で税金も安く、ポルトガルより明らかに暮らしやすそうだった。街にはポルトガルよりも車が溢れていた。

美しい街(Lepe)が見えてきて、MercadonaやDia等の大きなSupermercadoが立ち並び、スペインは暮らしぶりが良く、公園(Parque Canino de Lepe)が整備されて美しかった。街(Cartaya)の中心のロータリー(Rotonda Andalucía)には花がきれいに植えられていてきれいだった。

次の町(Gibraleón)が見えてくると湿地帯(Área Recreativa de Gibraleón Odiel)を通った。街の中には沢山の車が走り、何度か駐車された車が邪魔になり、バスが立ち往生していた。街中の1782年に建てられた教会(Parroquia de Santiago Apóstol)の概観はカラフルで美しく映えていた。

街を出て少し郊外に行くと大規模な向日葵畑、オレンジ畑、アーモンド畑が辺り一面にあり美しかった。電柱には鳥が上に巣を作り、電線がないが、電柱だけ残してあり、鳥に優しいと思った。

Huelvaの街に入るとバスターミナル(Estación de Autobuses)があり、飛行場のように広く、バスがターンして入った。円形にバスが止まり、真ん中には中庭(patio)があった。ポルトガルではバス発着場も老朽化して廃工場のように暗かったが、スペインでは小さな町でも明るくてきれいだった。

Marioが「最初はHuelvaで降りる」と話していたが、私たちがSevillaまで行くと決めたら、彼も「同行したい。Sevillaで同じYouth Hostelへ一緒に行こう」と言われた。ポルトガルでは高速道路は有料だったが、スペインでは無料で道路も良く、幹線道路から外れた細い道路もきちんと舗装されていた。

Huelvaを出る午後9時頃、夕日が街の幹線道路(Avenida del Decano del Fútbol Español)沿いに流れる川の桟橋(Muelle de la Compañía de Río Tinto)を美しく染めていた。

バスはSevillaへ走り続け、夕日が沈むのをバスが走る方向(東)とは逆(西)に見た。Huelvaから1時間半でSevillaに着いた頃には、辺りは暗くなっていた。街の夜景は最高だった。

スペインの町の通りには建物が整然と立ち並んでいて、ゴミ一つ落ちておらず、計画的に作られた都市に感じた。土が赤茶けていて、アルミニウムや鉄の酸化物や水酸化物が混ざったようだった。

スペイン人は電車やバスの中でも、人のことお構えなしに携帯電話で大きな声で話していて、バスターミナルでも、皆一斉に携帯電話で話していて、ポルトガル人より話も好きなのは一目瞭然だった。

特にHuelvaから乗ってきた客は大声で話すため、車内がスペイン語で溢れかえり、語学には良い環境に感じて、何を話しているか分かった。スペイン人は遺伝のためか、しゃべり過ぎたせいか、声が嗄れている人が多く、特に女性がしゃがれた声が多く、普通の言語では女性が話す言葉の発音は、男性に比して美しいが、スペイン語の場合は男性が話している言葉の発音の方が美しく感じた。

Sevillaのバス停留所(Estación de Autobuses Plaza de Armas)に着いて、Marioと一緒に降りた。大通り(Calle Torneo)の向かい側には美しいムデハル様式を模したようなショッピングモールの建物(Centro Comercial Plaza de Armas)がライトアップされていて美しかった。外には話に明け暮れるスペイン人が多くたむろしていた。その一人に道をたずねて、街の中心まで何kmあるかをたずねたら、4kmもあるらしいので、徒歩は諦めて、Marioと相談してタクシーに相乗りすることにした。

バス停留所の前には、タクシー乗り場があり、ドライバーが三人いたので話しかけると、Santiago de Compostelaまで1000km以上も歩いてきたんだから、4kmくらいなら歩けるよと冗談を言われ、商売っ気が無く良い人たちだった。彼らは話が盛り上がっていて働きたくないのかもしれないと思った。

その中の一人にYouth Hostelがある通り(Calle Isaac Peral)の名前を出すとすんなりと乗せてくれた。運転手さんは始めは緊張していたようだが、スペイン語でおしゃべりをしていたら、川沿いの大通りをひた走りながら、闘牛場(Plaza de toros de la Real Maestranza de Caballería de Sevilla)や州政府庁舎(Palacio de San Telmo)など、町中の建物の説明をしてくれて、彼もSantiago de Compostelaに巡礼をしたとき、友達が沢山できた話など聞かせてくれて、話がとても弾んだ。

ユースホステル(Albergue Inturjoven Sevilla)の前に着いて、Marioが全てタクシー代を払ってくれた。旅を始めたばかりで心細いとき、私たちが現れてついてゆくだけで安心してSevillaまでたどり着けたから、そのお礼だと話してくれた。チェックインを済ませて、Marioと三人部屋になり、広々とした居心地のよい部屋に泊まることができた。沢山の部屋数とベットがあった。部屋の中は全て小綺麗で快適に過ごせそうだった。地元の人が音楽に合わせてフラメンコを踊っていてパーティで盛り上がっていた。午前1時近くまで盛り上がり、若い人たちが戻り、やはりスペイン人らしいと思った。

今日はポルトガルからスペインに入り(ÉvoraからバスでFaroに行き、国境の町まで鉄道に乗り、また客船で国境を越え、AyamonteからSevillaまでバスで移動して)、ものすごい距離を鉄道、フェリー、バスなどを駆使して移動してきて、長旅で疲れていたので快適なお部屋で直ぐに寝付けた。

Faroは干潟(Ria Formosa)にある天然の良港で紀元前8世紀にフェニキア人が植民、紀元前3世紀にローマ人が支配、イベロ=ケルト語Osunbaからラテン語Ossonobaと記録された。Lisboaと同じく、接尾辞-oba, -uba < イベロ=ケルト語「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語「水」*h₂ep-に加えて、ケルト祖語「ヘラジカ」*uxsos < 「牡牛」*uxsū < 印欧祖語*úks-ō < *uksḗn < *h₂ug-s-ḗn < 「強くなる」*h₂weg-s-が語源で古ブレトン語ohenや古アイルランド語ossと関連すると考えられる。

306年に司教座が置かれ、552年にビザンツ帝国、571年に西ゴート王レオウィギルド(Leovigild, 519-586)が支配して、713年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、アラビア語でأخشونبة / ʼUḫšūnubaḧと記録され、首領の名前ハールーン(هَارُون / hārūn < ヘブライ語אַהֲרֹן / 'aharón < エジプト語「戦士」ꜥḥꜣ + 「ライオン」rw < アフロ=アジア祖語*rVw-)が語源でSanta Maria do Ocidenteとも記録された。

1249年にポルトガル王アフォンソ3世(Afonso III, 1210-1279)が奪還して、Santa Maria de Farãoと記録された。1251年に西ゴート王国時代のバシリカやイスラム支配時代のモスクの跡地に大聖堂(Sé de Faro / Igreja de Santa Maria)が建てられた。

Huelvaはタルテッソス人(Tartessus < Τάρτησσος / Tartēssós)が居住、アナトリア半島CiliciaのタルソスΤαρσός / Tarsós < ヒッタイト語𒋫𒅈𒊭 / Taršaは、アッカド語(𒋫𒅈𒅆𒅆 / taršiši)、フェニキア語(𐤕𐤓𐤔𐤔‎ / tršš)、ヘブライ語(תַּרְשִׁישׁ‎ / taršîš)、ギリシア語(Θαρσείς / Tharseís)と記録され、旧約聖書の《エゼキエル書》第27章に金属の交易が出てきて精錬(𒊏𒀾𒋗 / rašāšu)を意味、もしくはケルト系イベリア人(Turduli < Τουρδοῦλοι / Tourdouloi < 語根Turd-, Turt-)に関係して、ケルト祖語「乾いた」*tartus < 印欧祖語*térs-tu-s ~ *tr̥s-téw-s < *ters-が語源とも考えられる。

Huelva < アラビア語وَلْبَة / walba < ラテン語Onoba, Onuba < ギリシア語Ὄνοβα / Ónobaには、偽アリストテレスの《異聞集(Περὶ θαυμασίων ἀκουσμάτων / De Mirabilibus Auscultationibus)》27.135にイベリア半島の地名が水名によるとして、ピレネー山脈からBaetis川(現Guadalquivir川)が流れていると書かれているが、ファーロ(Ossonoba)、ウエルバ(Onoba, Onuba)、コルドバ(Corduba)、サラゴサ(Salduba)など、河川名を意味する接尾辞-oba, -uba < イベロ=ケルト語「川」*abonā < ケルト祖語*abū < 印欧祖語「水」*h₂ep-に加えて、ケルト祖語「一」*oinos < 印欧祖語*óynosが語源で古ブレトン語unや古アイルランド語óen, oínに関連すると考えられる。

ケルト人トゥルデタニ族(Turdetani)が居住、紀元前9世紀にフェニキア人が入植、紀元前146年にポエニ戦争で勝利したローマの属州(Hispania Baetica)の港町(Onoba Aestuaria)として栄え、Luxia川(現Odiel川)の河口でAnas川の河口から、Augusta Emerita(現Mérida)に向かう要衝となった。

466年に西ゴート王国のNieblaに司教座が置かれ、712年にイブン=ヌサイル(موسى بن نصير‎ / Mūsá bin Nuṣayr, c. 640-716)が征服して、1012年にウエルバ=サルテス王国(طائفة ولبة وشلطيش / Ṭāʾifa walba washaṭīsh)や1091年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)が支配した。

《諸道と諸国の書(كتاب المسالك و الممالك / Kitāb al-Masālik wa al-Mamālik)》を編纂したアル=バクリ(أبو عبيد البكري هو أبو عبيد عبد الله بن عبد العزيز بن محمد بن أيوب بن عمرو البكري / Abū ʿUbayd ʿAbd Allāh ibn ʿAbd al-ʿAzīz ibn Muḥammad ibn Ayyūb ibn ʿAmr al-Bakrī, 1014-1094)を輩出した。

1262年にカスティーリャ王アルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が攻略した。1605年に大聖堂(Santa Iglesia Catedral de Nuestra Señora de la Merced)が建てられた(Barry W. Cunliffe, John T. Koch (2010). Caltic from the West, Oxford: Oxbow Books)。

AyamonteからSevillaに向かう途中に停車したGibraleónの教会(Parroquia Santiago Apóstol)

2008年6月4日(水)56日目(Sevilla: Albergue Inturjoven Sevilla)

バスに一度だけ乗るだけで市内を全て歩き通して、市民の目線で町を見ることができ、町の人とお話することもできた。大聖堂などの名所は観光客がごった返しているが、町の雰囲気やモスクを改築した教会や博物館からレコンキスタをゆっくりと感じられた。セビリア大聖堂(Santa Iglesia Catedral Metropolitana de Sevilla)のヒラルダの塔(La Giralda)やムデハル様式の教会(Iglesia de Santa Catalina, Iglesia de San Marcos, Iglesia de Santa Marina, Iglesia de Omnium Sanctorum)が印象的だった。また、修道院(Monasterio de Santa María de las Cuevas)のタイル装飾も色彩が鮮やかで見事だった。噴水がある広場(Plaza de España)には虹がかかっていて美しかった。大聖堂と共に8年前に来たことを思い出した。考古学博物館(Museo Arqueológico de Sevilla)も訪れた。

今日は午前8時にMarioと一緒に朝食にチョコレートのドーナッツとパンとオレンジジュースを食べた。気づかずに予約席に座ってしまい移動をお願いされたが、広々とした食堂で快適に朝食を食べれた。食後に少し部屋に戻り、Marioとホステルの前でお別れした。宿を出て右に進むとバス停があり、34系統のバスに乗った。優しそうな男の人にスペイン語でたずねると、バスの方向や着く場所を事細かく丁寧に教えてくれた。南の人は北の人よりも気さくで話しかけやすく応対も丁寧に感じた。

バスに乗り乗り放題のチケット5€が見つからないため、目の前の停留所(Sor Gregoria Santa Teresa)でバスに乗るとき1.20€を払い、4、5分で庭園(Jardin de Cristina)に着いた。観光案内所(Oficina de Turismo)を通り(Avenida Paseo de Cristina)で探したが見つからず、周りにMcDonald'sを発見して、帰りに夕食を食べようと決めた。

壮麗な邸宅(Palacio de San Telmo)が面した通り(Calle Palos de la Frontera)を進み、近くの広場(Plaza de Don Juan de Austria)まで歩いた。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)のドン・ジョヴァンニ(Don Giovanni・KV 527・1787年)を記念した名前だった。

モーツァルトのオペラ《フィガロの結婚(Le nozze di Figaro・KV 492・1786年)》の原本《セビリアの理髪師(Le barbier de Séville)》もこの町が舞台であることから名付けられたと思った。

市電が走る大通り(Calle San Fernando)を歩いて、1505年に設置されたセビリア大学(Universidad de Sevilla)の講堂前や噴水(Fuente de Sevilla)がある旧市街への入口(Puerta Jerez)に至った。

馬車が並んで市電が走る大通り(Avenida de la Constitución)を歩いて進むと、1572年にスペイン王フェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)により建てられた商品取引所(Casa de Contratación)を起源とする古文書館(Archivo de Indias)の先に素晴らしい大聖堂の勇姿が見えてきた。

1172年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)のアブー・ヤアクーブ・ユースフ1世(أبو يعقوب يوسف‎ / Abū Ya‘qūb Yūsuf, 1135-1184)が建てたモスクから始まり、1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)がキリスト教会に改宗した由緒ある建造物であった。

8年前に訪れたセビリア大聖堂(Santa Iglesia Catedral Metropolitana de Sevilla)で入場料を取られなかったため、朝早くに大聖堂の中に入ることにした。 母と一緒に登ったヒラルダの塔(La Giralda)に近い出口の場所などを思い出した。昼には大聖堂は混むため、朝のうちに訪れられて良かった。

門の彫刻は見事で中は広くて、人が殆んどおらず、側面の小聖堂で朝のお祈りの最中で美しかった。午前11時から塔に登れるそうで、少し外の周りの建物を見ようと外に出た。大聖堂前の東側の広場(Plaza del Triunfo)からの城壁(Puerta del León)や王宮(Alcázar)の中庭(Patio del León)の眺めが美しかった。また、西側の門(Arco del Postigo del Aceite)にはマリア様のタイルがあった。

近くの14世紀に建てられた邸宅(Casa de la Provincia)にある観光案内所(Oficina de Turismo)で都市中心のため丁寧に教えてくれた。近くに大きな修道院が多く集まり、馬車が多く走っていた。大聖堂の前の柵に入ろうとしたら、頭の正面に馬の金具が来て、大きな音がして、脳震盪のように頭に響いて気持ち悪かった。観光案内所で地図をもらい、明日のバスの時間を確認した。

王宮(Alcázar)でイスラム書道の展覧会があり、午前10時から会館で興味があったが、入場料が割高なため入るのを止めた。地図に面白いスポットをマークして回る順番を記入した。午前11時前に大聖堂の前に行くと、全てのドアをロックしており、観光客のゲートの方から入れて、入場料を取るようにされていた。観光客が並びフラメンコや市内観光バスの宣伝を配られたり、人混みができて居心地が悪いため、塔に登るのは止めて、町中をスペイン人と同じ目線で歩いて見てゆくことにした。

大聖堂前の広場(Plaza Virgen de los Reyes)から通り(Calle Mateos Gago)に面した1391年に建てられた教会(Iglesia de Santa Cruz)に入り、祭壇前に美しい聖母像やオルガンを発見した。16世紀に建てられた古い家(Casa de Salinas)や城壁(Restos de la Muralla de la Judería)を通った。

細い路地(Calle San José)を北に歩き、1472年に建てられた修道院(Convento de Madre de Dios)の門の上に立派な紋章の彫刻を見つけた。1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が創建して、1758年に建て直された教会(Iglesia de San Nicolás de Bari)の門の上に聖母子像と左右にタイル壁画を発見した。小道(Calle Mármoles)を行くと近くの住宅地にひっそりとローマ時代の神殿を支えた柱が三本立つ遺跡(Templo Romano de la Calle Mármoles)が住宅に囲まれてひっそりとあった。そこから細い路地(Calle Aire, Calle Madre de Dios, Calle Levies)を歩いた。

19世紀に建てられた修道院(Convento de la Visitación de Santa María de Salesas)が面した広場(Plaza de las Mercedarias)にある市営の自転車置き場ではお金を入れて自転車を借りることができるシステムがおもしろくて見ていると、婦人に一緒に乗るか誘われ、足で歩くからいいけれど、ありがとうとスペイン語で答えると楽しんでいってねと陽気すぎる人だった。修道女と会釈をした。

次にどこに行こうかと迷っていると、広場にいる人がここに行くといいよと教えてくれて、歩いてゆく方向を指さして小道(Calle Vidrio)を教えてくれた。14世紀に建てられたゴシック=ムデハル様式の教会(Iglesia de San Esteban)に行き、東へ少し戻るときに正午の時報を聞いた。

15世紀に建てられた美しい家(Casa de Pilatos)の前から、細い路地(Calle Caballerizas)に入り、1794年に建てられた教会(Iglesia de San Ildefonso)から、1679年に建てられたバロック様式の教会(Iglesia colegial del Divino Salvador)の間の地区(Calle Boteros, Calle Odreros, Plaza de la Alfalfa, Calle Guardamino, Calle Alcaicería de la Loza, Plaza Jesús de la Pasión)は、風情ある商業街として賑わい、レストランやバーが立ち並んでいて、地元のスペイン人も観光客も多かった。

ギターやアコーディオンを弾いている人が沢山いて、宝くじを通りのど真ん中で売っていた。良さそうなカフェを見つけたが入らず、大通り(Cuesta del Rosario)に面したSupermercados MASでアイスティー(Té al limón Nestea)、レモン風味のミネラルウォーター(Agua mineral con limón)、ポテトチップス(Lay's Patatas Fritas Sabor Campesinas)を買い、広場(Praza del Salvador)と逆側の広場(Plaza de Jesús de la Pasión)の日陰で食べた。辺りにはムデハル様式の建物があり、大聖堂の周辺とは異なり、ムデハル様式の建物(Edificio Pedro Roldánなど)が多くてアラブらしさがあり、古くから市(سُوق‎ / sūq)が開けれていて賑わっていた由緒ある場所に感じた。

広場(Plaza del Salvador)から路地(Calle Sagasta)を東に進んだ近くの1699年に建てられた教会(Capilla de San José)も異国情緒があった。広場に戻り、路地(Calle Cuna)を北に進んだ邸宅(Palacio de la condesa de Lebrija)は1時間に1回しか入場できず、10分後に入れるがチケット代6€がかかるため入口から中を覗いた。中庭や雰囲気はアラブ風で美しかったが入らないことにした。

邸宅(Palacio del Marqués de la Montilla)から大通り(Calle Laraña)を進み、1579年に建てられた教会(Iglesia de la Anunciación)に入ると美しい祭壇画があった。1379年に建てられた美しい塔(Estátua de Santa Ángela de la Cruz)を持つ教会(Parroquia de San Pedro Apostol)を通った。

それから通り( Calle Almte. Apodaca )を進み、1356年にムデハル様式で建てられた教会(Iglesia de Santa Catalina)に出るとモスクの塔(ミナレット)が付き、馬蹄形のアーチ(Arco de herradura)があり、実にイスラム建築らしさが強く、後付けの塔のレンガの色が少しだけ違い、特にこの教会は原形のモスクの建築を留めていて楽しめた。薔薇窓が実に個性的な形をしていた。

(実はムデハル様式でイスラム勢力が去った後に建てられた教会であり、逆にイスラム建築の技術が伝えられて、教会建築に応用されたことは面白い文化交流である。1356年に建てられたということは、大地震に見舞われた年であり、地震で失われた元に建てられていたイスラム統治時代の建物を再復興した可能性が高い)。イスラム建築の影響が濃厚で異国情緒がある町並みが印象的だった。

Sevillaの美しい塔を持つ教会(Iglesia de San Pedro)

大通り(Calle Gerona)を北に歩いて、1665-1728年に建てられた修道院(Convento del Espíritu Santo)を見てから、更に路地(Calle Espíritu Santo)を北上して通り(Calle Siete Dolores de Nuestra Señora)の14世紀に建てられたムデハル様式の教会(Iglesia de San Marcos)へ向かった。

それから16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Julián)に行こうと通り(Calle Santa Paula)を進んだが、1473年に建てられた修道院(Convento de Santa Paula)の前でどうしてか逆の方向に進んでしまい、広場(Plaza San Román)に着いてしまい、1356年に建てられたムデハル様式の教会(Iglesia de San Román)の前に座っていた人に今いる所を聞くと道を優しく答えてくれて嬉しかった。

教会は美しくモスクを改造したような建物でここまで来てよかったと思った(1356年の大地震から復興したときに建てられた教会であり、モスクが教会堂に転用されていた)。それから教えて頂いた通りに小道(Pasaje Mallol)を歩いて、教会(Iglesia de San Julián)に至った。

通り(Calle Duque Cornejo)を下ると、1699-1730年に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Luis de los Franceses)と1262年に建てられたゴシック=ムデハル様式の教会(Iglesia de Santa Marina)があり、幅広い通り(Calle San Luis)を北に進んだ。

13世紀に建てられた美しい塔を持つ教会(Parroquia de San Gil Abad)があり、壁に聖母のタイルがあったが、背景がイスラム模様だった。目の前には馬蹄形のアーチがあった。隣に1941-49年に建てられたイスラム的で美しい装飾がある教会(Basílica de la Macarena)があり、堂々たる黄色に塗られた城門(Puerta de la Macarena)が見えた(古典ギリシア語Μακαρία / Makaríāかラテン語Macariusの人名に由来する古い門でアラビア語資料にもبَاب اَلْمَاكْرين / bāb al-makrinと記録された)。

大通り(Calle Resolana)を渡り、アンダルシア州政府庁舎(Parlamento de Andalucía)の前の庭園(Parque del Parlamento)を楽しみ、足を休めて、城門に戻り、南に下る通り(Calle Feria)を歩いて、キリスト教徒が征服した翌年の1249年に建てられたゴシック=ムデハル様式の教会(Iglesia de Omnium Sanctorum)に至った。ゴシック様式の薔薇窓の幾何学模様が美しく、また、その下には小さくイスラム模様の窓が開けられていて、両者が融合した不思議な建物だった。ゴシック様式の門(Portada de piedra adelantada)の上にはムデハル様式の小さな門があった。

隣に市場(Mercado de Feria)があり、肉や野菜果物をふんだんに売っていた。アラブの市のような雰囲気で教会になる前にモスクや市が開かれていた名残りのように感じられた。

石畳が美しい商店街(Calle Peris Mencheta)を進むと近くに突然広々とした通り(Alameda de Hércules)が現れてきた。イオニア式とコリント式が合体した面白いデザインの1574年に建てられた柱を見つけ、上にヘラクレスとカエサルの像と鳥の装飾があり興味深かった。

1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が建てた修道院(Monasterio de San Clemente)へ路地(Calle Tomillo, Calle Estrellita Castro, Calle Reposo)を進んだ。

住宅地の路地で人もまばらに通り、父がおじいさんとすれ違いによけようとしたら、側溝に躓いてしまい座っているときれいな英語で大丈夫ですか、地図で道を失っていませんかと話しかけてくれた。

地図を手に持っているとスペイン語で相手から声をかけてくれて助けてくれて、暑いのでお気を付け下さいと言われてありがたかった。今日は雲一つない快晴で気温も32度まで上がり、今年初めて30度を超してきて、午後は特に暑かった。細い路地の日陰を歩いて進んだ。

1289年にカスティーリャ王サンチョ4世(Sancho IV, 1258-1295)により創建された修道院(Convento de Santa Clara)の正面は、普通の住宅の並び(Calle de Santa Clara)にあり、先ほど広場で優しく声をかけてくれた方と少しスペイン語でお話をして過ぎていった。

14世紀に建てられた教会(Iglesia de San Lorenzo)のムデハル様式の美しい塔を通り(Calle Santa Clara)から見てから、1405年に建てられた聖堂(Basílica de Jesús del Gran Poder)の2ブロック前で犬を連れたお年寄りの人がいて、通りを先に通って下さいとスペイン語で伝えたら、私がスペイン語を話すことをとても喜び、観光客の方ですかときかれて、先月にSantiago de Compostelaまで歩きました巡礼をしてきました旅行者ですと答えると話が盛り上がった。

私は小袋に本と日記、左手にアイスティのベットボトルを持ち、近くに住んでいる人に見えたらしく、スペイン語も話せてとても喜んでいた。彼もSantiago de Compostelaに16歳の時に行ったことがあり、フランス語も、イタリア語も流暢に話すことができ、大学で神学を学んだと話していた。

ラテン語を独学したと言うと驚いていた。日本人だと直ぐ分かりましたよと言っていた。様々な世間話をスペイン語でして、スペイン人はお昼寝(Siesta)の時間にこんな話をして毎日を楽しんでいるのかと体験した。途中からフランス語で話していると、東洋人とスペイン人の地元のおじさんが話して盛り上がるのを不思議に見えたらしく、地元の高校生たちもスペイン語で話しに加わり盛り上がった。教会の前でお年寄りと別れて、広場にいた地元の高校生たちがバイバイと手を振ってくれた。

そこから、大通り(Calle Jesús del Gran Poder, Calle Alfonso XII)をどんどん南と西に進み、美術館(Museo Bellas Artes)前の公園でゆっくりしてから、南駅(Plaza de Armas)をちらりと見て、父は駅で休憩して、橋(Pasarela de la Cartuja)で川(Río Guadalquivir)を渡り、中州(Isla de la Cartuja)にある1400年に建てられた修道院(Monasterio de Santa María de las Cuevas)に至った。

橋の上からイスラム建築が多い旧市街の眺めは美しかった。三本の煙突が見えて、博物館(Centro Andaluz de Arte Contemporáneo)が横にあり、入口でパンフレットを優しくもらって中に入り、修道院に至るまでの道中に美しいタイルで埋め尽くされた見事な壁を見つけた。一面が様々な色のタイルでアラブ風だった。修道院の門もイスラム建築らしいがキリスト教の建物で調和がよくとれていた。

再び橋を渡って戻り、昨日に到着したバスターミナルの前にあるショッピングモール(Centro Comercial Plaza de Armas)に改装された旧駅を訪れた。ムデハル様式の屋根が面白くて、ステンドグラスも美しかったが、McDonald’sや商店やカフェが並び不思議な光景だった。

広場(Plaza la Legión)から少し先に行き、1691-1709年に建てられた教会(Iglesia de Santa María Magdalena)を見た。壁の日時計が午後4時半にもかかわらず、午後2時半を指していた。広場(Plaza Godínez)からいくつかの通り(Calle San Pablo, Calle Reyes Católicos)を進んだ。

橋(Puente de Isabel II)で対岸に渡った。1926年に建てられた面白いタイルの塔を持つ教会(Capilla Virgen del Carmen)に魅かれて近づいてみた。それから、一直線の大通り(Calle San Jacinto)に面したいくつかの教会(Hermandad de la Estrella, Parroquia de San Jacinto, Iglesia de Santa Ana, Capilla de los Marineros)を巡り、陶器を扱っている店がこの地区に多く賑わっていた。

途中で東洋人がこんな場所に一人で歩いているのが珍しいらしく、握手を求められたり、話しかけられて、立ち止まりながら話し込んだ。橋を再び渡って戻った。

橋の袂には美しい桟橋(Muelle de la sal)があり風景に色を添えていた。小道(Paseo Alcalde Marqués del Contadero)に至り、川沿いの公園(Jardines de Rafael Montesinos)を歩き、1220年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)により建てられた金の塔(بُرْج الذَّهَب / burj al-ḏahab > Torre del Oro)を目指した。同じく13世紀に建てられた姉妹編の銀の塔(بُرْج الْفِضَّةُ / burj al-fiḍḍatu > Torre de la Plata)も近くの通り(Calle Postigo del Carbón)にあり、金閣寺と銀閣寺のようだった。

川の畔(Paseo del Río Guadalquivir)には、スペイン人たちが寝転がって、日光浴をしていて幸せそうだった。病院(Hospital de la Caridad)前の美しい公園(Parco Calle Núñez de Balboa)の庭園(Jardines de la Caridad)は美しく整備されていて、自転車専用道路沿いに博物館(Museo Naval Torre del Oro)があり、対岸が見えて美しかった。朝に見つけた庭園(Jardines de Cristina)に面したMcDonald’sに入り、ビックマックセットを注文したら、大きなLサイズしかなく、500mlのファンタが付き、腹が減っていた私たちには良かった。5.80€で腹一杯食べることができて経済的だった。

Sevillaの街の至る所を歩き通して、最後に大通り(Paseo de las Delicias)沿いの美しい噴水がある広場(Plaza de España)を楽しんだ。8年前にも母とここに来たことを思い出した。

ギターに合わせた踊りで盛り上がる地元の人やポストカード売りが多くいた。池の水は抜かれていて、水があると更に美しかったのにと残念だった。庁舎(Cuartel General Fuerza Terrestre del Ejército de Tierra)の前の中庭の噴水は美しくて虹が見えた。

Sevillaの午後は日差しが強いため、日陰を伝いながら、街中を歩いてきた。しかし、乾燥して湿っぽさがないため、汗も直ぐに乾くようなからりとした良い陽気でとても過ごしやすかった。

1893年に建てられたユニークな建物(Costurero de la Reina)は閉まっていたが、公園(Parque de María Luisa)や大通り(Avenida de Magallanes)沿いに歩いてゆくと、セビリア民俗博物館(Museo de Artes y Costumbres Populares de Sevilla)のムデハル様式の建築が見えてきて美しかった。

前庭を挟んでバロック風の考古学博物館(Museo Arqueológico de Sevilla)があり、学生は無料で入れた。イベリア半島南で発掘された先史時代から、アラブの遺物ま展示されていて、最もローマ時代の碑文が大量にあり楽しかった。銅板に彫り込まれた記録文書は欠損なく保存されていて、美しい書体のラテン語を読むことができ、2000年前の人々の言葉を直接理解できたことは感動的だった。

アラブ時代の建築の断片やアラブ時代やアラブ以前に支配したローマ時代の香水の香りを楽しめるような展示も面白かった。ローマ時代が優しく甘かった。また、アラブ時代が香りがきつかった。

墓碑銘や初期キリスト教徒たちの碑文と絵画も見ごたえがあった。コインが沢山展示されていたが、それぞれの状態は良くなかった。ローマ時代の道具や宗教美術も素晴らしいものもあった。

宿に戻ろうとしたが、目立たないところにあるため、大通り(Avenida de la Palmera)から入る細い路地(Calle Issac Peral)が見つからずに迷子になり、探しあぐねたら近くにあり、こんなに近くまで来ていたのかと灯台下暗しで笑ってしまった。父も同じように宿が見つからず迷ったそうだ。

今日は四方八方歩いて疲れたので、シャワーを早々と浴びて、日記を書いたり、明日以後の計画を立てていたとき、Marioが帰って来て、今日の体験を話し合い楽しく過ごした。夜に街中の広場(Plaza del Salvador)の近くのカフェで若い人たちと飲み会うために出かけるそうだが、神経が繊細で気づかいがあり、あなた方を起こさないように静かに帰るから安心して下さいと話していた。

隣の部屋を訪ねてきたスイス人と話をしていたら途端にMarioが部屋から飛び出して、嬉しそうにドイツ語で話し始めた。Marioが部屋を後にしてから、歯を磨いて日記を書き、床に着いた。

今日は広場(Plaza de Don Juan de Austria)までバスに乗るだけで1.20€しか使わず、博物館も教会にも入場料を取られず、経済的な旅ができた。ポルトガルでは公営の博物館なども入場料が高かったが、スペインでは学生は無料でとても良い条件に感じられた。

Sevillaの街の細かい路地まで全て歩き通したので住んでいる人と同じ目線で町を見ることができて、自分たちでオリジナルな旅ができて大満足だった。訪ねた場所は大聖堂と川沿い以外、殆んど観光客と会うことなく、地元の人とも立ち話をしたり交流ができて楽しかった。

旅をすると様々な経験を一斉にでき、本に書かれたものを取り上げるのと比較にならないほど、実物に触れて感じ取ることができた。西洋においては、ラテン語、ギリシア語、サンスクリットをできるのは、日本人が漢文や古文を読み書きできるのと同じようなことであり、身元が分からない初対面の人でも、それだけで打ち解けて信頼感を持たれて、一目を置かれるのを実感した。ラテン語を理解できれば、スペイン語、ポルトガル語、フランス語、イタリア語などにも入りやすく有意義である。

スペイン(Hispania)は、紀元前9世紀にタルテッソス人(Tartessos)、 紀元前216年にカルタゴ人が支配して、フェニキア語「北の地」 ‎‎‎‎𐤑𐤐𐤍‎‎ ‎𐤀𐤉‎‎‎‎‎‎ / ‘i ṣapunから、古代ローマ時代にHispalisとなった。

(古くはローマ時代から古典ギリシア語「岩狸」ὕραξ / húraxと説明され、ヘブライ語אִי שָׁפָן / í shafán < フェニキア語 ‎‎‎‎𐤔𐤐𐤍‎‎ ‎𐤀𐤉 / ‘iy šapan、もしくは、アフリカ側のطَنْجَة / Tangerと同じく、ギリシア神話のヘラクレス(Ἡρακλῆς / Hēraklês > Heracles)が建てた都市ともされたが正しい語源ではない)。

アンダルシア(Andalucía)は、409-29年に支配したヴァンダル人*Wandalitia < 民衆ラテン語*Vandalicia < ゲルマン祖語「さすらい人」*wandilaz < 印欧祖語「吹く」*wendʰ-eh₂が語源である。

ゴート語*landahlauts < 「土地」land < ゲルマン祖語*landą < 印欧祖語*londʰ-om < *lendʰ- + 「移住」hlauts < ゲルマン祖語*hlautaz < 印欧祖語*klewH-d-sが語源とも、ロドリゴ・ヒメネス(Rodrigo Jiménez de Rada, c. 1170-1247)の《ヒスパニア史(De rebus Hispaniae)》(1243年)やイブン=ハルドゥーン(بن خلدون / ibn Khaldūn, 1332-1406)の《歴史(كتاب العبر / kitāb al-ʿibar)》(1377年)に記されている。 アラビア語 الْأَنْدَلُس / al-ʾandalusと記録された。

711年にターリク(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が侵攻、ウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、756年にアブド=アッラフマーン1世(عبد الرحمن الأول / Abd al-Rahman I, 731-788)の後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)、1031年から小国(طائفة‎ / ṭā'ifa)が乱立、1232年にナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)が残存勢力として残されていたが、1492年にGranadaが陥落してキリスト教徒はイスラム教徒をイベリア半島から駆逐した。

セビリア(Sevilla)は、アラビア語إِشْبِيلِيَة / ʾišbīliya < ラテン語Hispalis < フェニキア語「平地」𐤔𐤐𐤋𐤄‎ / sep̄elaが語源である。紀元前206年に大スキピオ(Publius Cornelius Scipio Africanus Major, -236--183)が属州(Hispania Baetica)の都市(Italica)を建設、トラヤヌス帝(Marcus Ulpius Nerva Trajanus Augustus, 53-117)やハドリアヌス帝(Publius Aelius Trajanus Hadrianus, 76-138)らを輩出した。5世紀頃にヴァンダル人(Vandali)や西ゴート人(Visigothi)が支配して、491年に大聖堂が建築され、600年に聖イシドルス(Isidorus Hispalensis, c. 560-636)が司教となり、《語源学(Etymologiae)》や《ゴート・ヴァンダル・スエヴィ族の王国史(Historia de regibus Gothorum, Vandalorum et Suevorum)》、《大年表(Chronica Majora)》などの書物を執筆した。

713年にムーサ・イブン=ヌサイル(موسى بن نصير‎ / Mūsā ibn Nuṣayr, c. 640-716)が支配して、829年にモスクが建築され、844年にヴァイキングの来襲を受け、1023年にセビリア王国(طَائِفَة إِشْبِيلِيَة / Ṭāʾifa ʾišbīliya)が成立、1163年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)が支配して、1198年に大聖堂に転用されたモスクのミナレット(La Giralda)が建設された。1248年にカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)に征服された。

歴史学者イブン=クティヤ(القوطية‎ ابن / Ibn al-Qūṭiyya, c.920-977)、科学者イブン=バッジャ(بن باجة / ibn Bajjah > Avempace, c. 1085-1138)、詩人イブン=アマル(بن عمّار / ibn ʿAmmār, 1031–1086)、哲学者アル=トゥティリ(التطيلي الأعمى / Al-Aʿmā al-Tuṭīlī, c.1050-1126)、天文学者 アブー・アル=サルト(أبو الصلت / Abū al-Ṣalt, 1068-1134) 、医者イブン=ズフル(بن زهر / ibn Zuhr > Avenzoar, 1094–1162)、天文学者イブン=カンマード(الحماد ابن / Ibn al‐Kammād, c.1130-1195)、詩人アル=ルンディ(أبو البقاء الرندي / Abū al-Baqāʼ al-Rundī, 1204-1285)など、イスラム時代に知識人を多数輩出した。また、近代には音楽家モラーレス(Cristóbal de Morales, c.1500-1553)や画家ベラスケス(Diego Velázquez, 1599-1660)を輩出した。

2008年6月5日(木)57日目(Sevilla-Jerez del Frontera-Puerto de Santa María-Cádiz-Tarifa-Algeciras-Tanger / طَنْجَة / Ṭanja: Hôtel Hollanda / فُنْدُق هُولَنْدَا / funduq hūlandā)

スペイン最南端のCádizやTarifaの町を通り、Algecirasに近づくとアフリカ大陸が海の向こうに見えてモロッコに渡ろうと決めた。Tangerの港で下船するとガイドさんを見つけ、普通には入れない迷宮のような路地を縫うように進み、旧市街を案内してくれて、美しい門やミナレットを持つモスク、ファティマの手がある扉の家を見たり、路地裏の生活を感じた。博物館(Musée de la Kasbah / مَتْحَف الْقَصَبَة / Matḥaf al-qaṣba)の近くにアラビア語の碑文があり読むことができ、モスク前で読書していたムスリムが喜んで語りかけてくれて会話をした。古い城壁 (بَاب الْبَحْر / bāb al-baḥr) の門を抜けると大西洋と地中海が美しく一望できて記念撮影をした。美しい色彩の幾何学模様のタイルが散りばめられた泉(بَاب الْعَسَّة / bāb al-ʿassa)があった。沢山の種類の絨毯を見たり、モロッコ料理を楽しめた。

今日は午前7時半に起きて、Marioと部屋でお別れをして感謝を述べてから、直ぐに出られるように玄関前で荷物を預けて、 午前8時に朝食を取り、午前8時20分にホステルを出て、バスで広場(Plaza de Don Juan de Austria)に出て、バス停まで歩き、午前9時15分前に着いた。午前9時半のバスまで少し時間の余裕があり、スペイン語の本を読んだり、スペイン人のおしゃべりを聞いていた。

バスは荒涼とした砂漠地帯を進み、空には雲一つない中を進んだ。Cádiz地方はアラビア人が好みそうな乾燥した気候で部屋の外は、全て赤茶けた土地で一面に向日葵畑が広がっていて、青い空とよい対照をなしていて美しかった。また、小高い丘には沢山の風力発電の風車が設置されていた。

Cádizはアラビア語قادس‎ / Qādis < ラテン語Gades, Gadis, Gaditana < 古典ギリシア語 アッティカ方言Γάδειρα / Gā́deira、イオニア方言Γήδειρα / Gḗdeira < フェニキア語「城壁」‬𐤂𐤃𐤓‎ / gādērが語源である。トロイア戦争の80年後、紀元前1104年にフェニキア人が植民(Strabo, Geographica 3.5.5)、紀元前206年に大スキピオ(Publius Cornelius Scipio Africanus Major, 236-183 a.C.n.)が占領、522年にビザンツ帝国、620年に西ゴート王国が支配、711年にターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が征服、844年にバイキングの攻撃を受け、1031年にアルコス王国(طائفة أركش Ṭāʾifa arkṣ‎)、1069年にセビリア王国(طَائِفَة إِشْبِيلِيَة / Ṭāʾifa ʾišbīliya)、1217年にフリジアの十字軍の攻撃を受け、1262年にアルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が征服した。

アンダルシアでは、道路がアスファルトであると高温になり溶けてしまうため、コンクリートで舗装されていた。途中スペイン(イベリア半島)の最南端の町Tarifaに入る前に雲が多くなり、空全体が覆われてきた。2時間半ほど乗ると海峡(Estrecho de Gibraltar)を望むTarifaに着いた。曇りのためにアフリカ半島は良く見えなかったが美しい海岸が見えた。Sevillaからの8割の乗客がTarifaで降りた。

紀元前2世紀にローマ人が近隣(Baelo Claudia)に居住、77年に大プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 23-79)が記録した植民都市(oppidum)のMellariaが現在のTarifaに当たる。

Gaius Plinius Secundus, Naturalis Historia iii. 7 CXX. Ex his digna memoratu aut Latio sermone dicto facilia, a flumine Ana litore oceani oppidum Ossonoba, Aestuaria cognominatum, inter confluentes Luxiam et Urium, Hareni montes, Baetis fluvius, litus Curense inflexo sinu, cuius ex adverso Gadis inter insulas dicenda, promunturium Iunonis, portus Baesippo, oppidum Baelo, Mellaria, fretum ex Atlantico mari, Carteia, Tartesos a Graecis dicta, mons Calpe.

710年にイブン・ズィヤード (طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)配下のベルベル人イブン・マーリク (طريف بن مالك‎ / Ṭārif ibn Mārik) が征服して、都市の名称になり、アラビア語「素晴らしい」طَرِيف / ṭarīf < 「輝き」ط ر ف‎ / ṭ-r-fが語源である。960年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブど・アッラフマーン3世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān III, 889-961)が城(Castillo de Guzmán el Bueno)を築き、1031年にアルヘシラス王国(طَائِفَة الْجَزِيرَة / Ṭāʾifa al-jazīra)、1057年にセビリア王国(طَائِفَة إِشْبِيلِيَة / Ṭāʾifa ʾišbīliya)、1231年にグラナダ王国(إِمَارَة غَرْنَاطَة‎ / Imārat Ġarnāṭah)が支配、1292年にカスティーリャ王サンチョ4世(Sancho IV, 1258-1295)が攻略、1296年にグスマン(Alonso Pérez de Guzmán, 1256–1309)が防衛した。

Tarifaの町を出たバスは、更に30分ほど山道を走ると、雲が消えてきて、美しい港街Algecirasに着いた。アフリカが海の向こうにうっすらと見えて感激して渡ってみたくなった。

バスターミナル(Estación de Autobuses San Bernardo)には、モロッコのTanger行きのチケット売り場があり、アフリカに渡る乗船券を求めてから街に出た。迷いながら歩くと船着き場や観光案内所があり、午後1時半のフェリーに乗るために、急いで地図をもらい乗り場(Puerto Bahía de Algeciras)に着いた。広場に座る人やフェリー乗り場のドアの近くに人がいて助けてくれた。出航の5分前に着いたが乗り場は閉じられ、その船に乗ることができないため、町中に戻り、次の船に乗ることにした。

観光案内所でSupermercado SuperSolの位置を確かめて、急ぎ足で向かい、午後2時の10分前について、Siesta前の閉店間際に滑り込みセーフで買い物ができた。明日の分まで食料と飲料、パン(Bollo de mantequilla, Barra de pan)、ポテトフライ(Patatas a la vinagreta)、ポテトチップス(Patatas fritas Bar-B-Q)、チーズ(Queso semicurado lonchas)、ハム(Jamón curado loncha el pozo)、ウエハース(Barquillos de nata)、アップルタルト(Dulcesol Tarta de manzana)、チョコレート菓子(Dulcesol Cuadraditos)、ケーキ(Dulce de Batata con Vainilla)、葡萄ジュース(Zumo de uva)、オレンジジュース(Zumo de mandarina Simon Life)、ヨーグルト飲料(Yoglup Yogur líquido de fresa)、コーラ(Coca-Cola light al limón)、レモン味のファンタ(Fanta Limón)を買った。外に出るとイスラム教徒らしい頭にかぶり物(بُرْقُع / burquʿ)をする人に会い、モロッコに近いことを感じた。また、アラビア語の看板もちらほらあり、モロッコから渡ってくる人も多そうだった。

フェリー乗り場の前で休憩をとり、Algecirasの町中を歩いた。市場に出て坂を上がり、1690年に建てられた脆そうな砂岩の教会(Capilla de Nuestra Señora de Europa)を訪れた。美しい広場(Plaza Alta)に着くと1723年に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de La Palma)があり、大きな先塔から作られて建てられたと思った。広場の大きな椰子の木の下の陰にあるベンチで休んだ。

商店街(Calle Alfonso XI)を歩いてゆき、美しい町役場(Ayuntamiento de Algeciras)を訪れるなど、市街地の建物を見た。アンダルシア風の公園(Parque María Cristina)には噴水があり、中央に美しい聖母像が立てられていた。父が公園で休んでいる間、町の最も北にあるローマ都市(Iulia Traducta)の遺跡(Hornos romanos de El Rinconcillo)を一人で見に行こうとしたが、途中であまりにも遠いため引き返して、公園の前にある発掘中の考古学遺跡、11-14世紀にアラブ人が建てた城跡の考古公園(Parque Arqueológico de las Murallas Meriníes)を訪れた。4、5か所に石畳が少し残るだけだったが、キリスト教徒の攻撃に必死に抵抗したイスラム教徒たちの姿が偲ばれた。

公園(Parque María Cristina)に戻ってきて楽しんでから、フェリー乗り場(Punto de Embarque Algeciras-Tánger Med)に向かった。特にSevillaより、Algecirasには黒髪の人が多く、殆んど金髪の人を見かけず、顔がどことなく東洋人らしかった。少ししか距離を移動していないのに不思議である。

Algecirasは紀元前4世紀にフェニキア人が近郊(Carteia)に居住、ローマ人が白い港(Portus Albus)と共に植民都市(Iulia Traducta)を建設して始まり、429年にヴァンダル族(Vandali)、454年に西ゴート族(Visigoti)、557年にビザンツ帝国、622年に西ゴート王国に支配された。

713年にターリク・イブン・ズィヤード (طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)がイベリア半島に上陸したとき、アラビア語「緑の島(الْجَزِيرَة الْخَضْرَاء / al-jazīra al-ḵaḍrā)」と叫んだことに由来する。859年にヴァイキング(Hastein)が侵攻、1013年にアルヘシラス王国(طَائِفَة الْجَزِيرَة / Ṭāʾifa al-jazīra)が独立して、1274年にナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)に編入され、1344年にカスティーリャ王アルフォンソ11世(Alfonso XI, 1311-1350)が征服、1369年にグラナダ王ムハンマド5世(أبو عبد الله محمد الخامس / Muhammad V, 1339-1391)が奪還して、1379年に破壊して放棄された。

今度はすんなり船着き場(Nautas Baleària)に着き、30分ほど待つと窓口が開いて、出国審査が始まり、先ほどの出発5分前には入場できない理由が分かった。出国審査だけでも5分かかり、ユーロ圏のスペインから出国をする手続きで難しいことが分かった。乗船の合図が来て、船に乗り込むと、モロッコ人に交じり、フランス人と英語を話す人がいた。船内は混み合うかと思い、最後に船に乗ったけれども、乗り心地は最高で快適だった。船が来るまで係員にパスポートと一緒に提出するモロッコへの入国書類をもらい、船の中で記入をした。モロッコ人が並んだ列にお構えなしで割り込んできたりしてごたごたしていたけれども、無事に船上でモロッコへの入国手続きを済ませられた。

Tangerまで右はヨーロッパ、左はアフリカがよく見える美しいジブラルタル海峡(Estrecho de Gibraltar / مَضِيق جَبَل طَارِق‎ / Maḍīq Jabal Ṭāriq)を通り、大地に挟まれた海にボートが浮かんでいるような感覚だった。遠目にヨーロッパ大陸のスペインとアフリカ大陸のモロッコの風景は、殆んど変わらなかった。船で水しぶきが上がり、照りつける太陽で美しい虹が美しかった。

船内で南アフリカ人John & Libbyと英語で会話をして、Tangerの港に着いたら、一緒に宿探しをしようと話し合った。モロッコからアフリカを縦断して、南アフリカの自分の家へ帰ると聞いた。フェリーに一時間ほど乗り、Tangerの港に近づくと美しいモスクのような建物が見えて興味が湧いてきた。

午後7時半に船が港(Port de Tanger Ville / مِينَاء طَنْجَة الْمُتَوَسِّط / mīnāʾ ṭanja al-mutawassiṭ)に着いて、桟橋を降りてくると、荷物の運び屋が大勢いて、熱気にあふれていた。

船外へタラップを降りると、モロッコ人のタクシー運転手やガイドが沢山いて、一人の若い人が英語で声をかけてきた。宿を紹介したり、街の色んな見どころを案内してくれるそうだから、価格を交渉するとガイド料は20€でいいですよと言われた。既に午後6時で観光案内所も開いておらず、町中も分からないこと、またフレンドリーで誠実な感じの方で信頼できると思ったので頼むことにした。

タクシーには6人乗ることができ、私はガイドのMousine(مُحَسِّن / muḥassin)さんの隣に一緒に乗った。古いヴィンテージカーのような車体だった。アラビア語を独学していたこと、フランス語で話すと、彼も流暢に話せて喜んでくれた。偉大な旅行家イブン=バットゥータ(بن بطوطة / Ibn Baṭūṭah, 1304-1369)の話をすると、Tanger出身でメッカに巡礼して、東方に旅行した偉大なる人だと話していた。彼の墓(ضَرِيح اِبْن بَطُوطَة / Ḍarīḥ Ibn Baṭūṭah)が直ぐ近くにあると教えてくれた。

(1325-54年までアフリカの西端からアジアの東端までユーラシア大陸を横断する旅行をして、旅行記《諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار / Tuḥfat an-Nuẓẓār fī Gharāʾib al-Amṣār wa ʿAjāʾib al-Asfār)》を書いた。)

モロッコでは、今でもメッカ(مَكَّة / Makka)に巡礼したハッジ(حَاجّ / ḥājj)でなければ、学校の先生になれないなど色んなことを話してくれた。彼は大学の学生で空いた時間にガイドをして、アルバイトのように稼いでいると話していた。イブン=スィーナ(ابن سینا / ibn Sīnā > Avicenna, 980-1037)やイブン=ルシュド(بن رشد / Ibn Rušd > Averroes, 1126-1198)などイスラム哲学に関心があると話すとガイドさんは驚いて話が盛り上がった。新市街に住むのは家賃が高くて大変だとか、フランス人地区、イギリス人地区、オランダ人地区などの特色をタクシーの中で案内してくれた。どの通りにも人が多く賑わっていて、ヨーロッパ風の建物が並んでいるが、アラブ人、ベルベル人、コーカソイド系、モンゴロイド系と色んな人種が沢山いた。女性はスカーフを顔にかぶる人が多かったが、何もかぶらずに西洋と同じ格好の人が少しいたり、オープンだが、黒色のスカーフで全身を覆う人もいた。

直ぐに小高い丘にある宿(Hôtel Hollanda / فُنْدُق هُولَنْدَا / funduq hūlandā)に着くと2人30€で泊まれて、広々とした快適な部屋で絨毯が素晴らしく、ベットはダブルより大きくて快適だった。ガイドさんは宿の前庭で待っていてくれた。部屋に荷物を置いてから、直ぐに街へと出た。

(アラビア語「宿」فُنْدُق / funduqは古典ギリシア語πανδοκεῖον / pandokeîon < 「皆」παν- / pan- < πᾶς / pâs < ヘレニック祖語*pas < 印欧祖語*ph₂-ent- + δοκ- / dok- < ヘレニック祖語*dok- < 印欧祖語「取る」*deḱ- + -εῖον / -eîon < -εῖος / -eîos < ヘレニック祖語*-ei-wós < 印欧祖語*-iH-wósが語源でマグリブ方言のアラビア語でイブン=バットゥッタも用いた。アラビア語ではخَان / ḵān < ペルシア語خان‎ / xân < パフラヴィ語「泊まる」xānag < アヴェスタ語vaŋh < 古ペルシア語*vahanam < イラン祖語*wāhana < インド=イラン祖語*Hwas- < 印欧祖語*h₂wes-が語源である。アラビア語の固有語「泊まる」نُزُل / nuzul < ن ز ل / n-z-lやمَضْيَفَة / maḍyafa < 「もてなす」ض ي ف‎ / ḍ-y-fである。)

オランダ人地区(Rue de Hollande / شَارِع هُولَنْدَا / šāriʿ hūlandā)を出て、イギリス人地区(Rue d'Angleterre / شَارِع إِنْجِلْتِرَا / šāriʿ ʾingiltirā)の坂を上がり下った。イギリス人地区に教会(St. Andrew's Church / كَنِيسَة الْقِدِّيس أَنْدْرُو / kanīsa al-qiddīs ʾandrū)、フランス人地区に教会(Église de la Medina / كَنِيسَة اَلْحَبْل بَلَا دَنَس / kanīsa al-ḥabl balā danas)などがあり、100年ほど前に建てられて、今でも大切にされていると聞いた。大市場(Grand Socco / القَصْر الكَبِير بِطَنْجَة / al-qaṣr al-kabīr bitanja)があり、そこでは履き物が売られていて、ガイドさんによるとベルベル人の伝統的なサンダル(بَابُوش‎ / bābūš < ぺルシア語پاپوش‎ / pâpuš <「足」پا‎ / pâ < 古ペルシア語𐎱𐎠𐎭 / pād(a) < インド=イラン祖語*pā́ts, < 印欧祖語*pṓd-o-s < *pṓds +「覆い」پوش‎ / puš <「覆う」پوشیدن‎ / pušidan)だそうである。

独立記念広場(Place du 9 Avril 1947 / شَارِع ٩ أَبْرِيل ١٩٤٧ / šāriʿ 9 ʾabrīl 1947)の美しい塔(مِئْذَنَة / miʾḏana)がある1917年に建てられたモスク(Mosquée Sidi Bouabid / مَسْجِد سَيِّدِي بو عُبَيْد / masjid sayyidī bū ʿubayd)から公園(Jardins de la Mendoubia / حَدِيقَة اَلْمَنْدُوبِيَّة / ḥadīqa al-mandūbiyya)の建物(Tribunal de Commerce / الْمَحْكَمَة‎ التِّجَارِيَّةُ‎ / al-maḥkama at-tijāriyyatu)の前から坂を下り、賑やかな商店街(Rue d'Italie / شَارِع إِيطَالِيَا / šāriʿ ʾīṭāliyā)を歩いた。ベルベル人、アラブ人、白人など様々な人種がいて、国際的な雰囲気だった。ガイドさんは煙草を買った。

商店街(Rue de la Kasbah / الْقَصَبَة‎ / al-qaṣaba)を北に歩いて、旧市街の迷路のような狭い路地に入り、ベルベル人が多く住んでいる地区(Medina / الْمَدِينَة / al-madīna)を進んだ。イブン=バットゥータの墓(ضَرِيح اِبْن بَطُوطَة / Ḍarīḥ Ibn Baṭūṭah)が奥まった所にあると聞いた。また、路地(Rue Ghazal / زَنَقَة غَزَال / zanaqa ḡazāl)に1865年に作られたイブン=クジャの墓(Marabout Sidi Ahmed Boukodja / ضَرِيح سَيِّدِي أَحْمَد بو قَجَة‎ / Ḍarīḥ sayyidī ʾaḥmad bū qaja)があり白と緑の色彩が美しかった 。

通り(Rue Cheikh Ahmed Ben Ajiba / زَنَقَة الشَّيْخ أَحْمَد بْن عَجِيبَة / zanaqa aš-šayḵ ʾaḥmad bn ʿajība) の近くに婦人専門のモスクがあった。常に人が出入りがあるから安全だそうで、礼拝は朝の午前4時から夜の午後10時まで5回あり、早朝にしてからまた寝ると話していた。

家の扉にムハンマド(محمد / Muḥammad, c.570-632)の娘の名が付いたファーティマ(فاطمة الزهراء‎ / Fāṭima al-Zuhrā', 614-632)の手(アラビア語「五」خَمْسَة / ḵamsa < セム祖語*ḫamš-が語源でアッカド語𒐊 / ḫamšat、ウガリット語𐎃𐎎𐎌𐎚 / ḫamšatu、フェニキア語𐤇𐤌𐤔𐤕‎ / ḥmšt、ヘブライ語חֲמִשָּׁה‎ / ḥămiššâ、アラム語𐡇𐡌𐡔‎ / ḥāmēš、南アラビア語ẖms¹t / ẖamsat、ゲエズ語ኀምስቱ / ḫämsətu、アムハラ語አምስት / ʾämsətと関連)があり、幸運を呼び込むお守りであると説明してくれた。

それから、白塗りの壁に囲まれた美しい路地を行くと、ムデハル様式の美しい建築があり、家のアーチがCórdobaのメスキータ(Mezquita / مَسْجِد / masjid)やGranadaのアルハンブラ(Alhambra / الْحَمْرَاء / al-ḥamrāʾ)と一緒だと言うと、誇らしげにイスラムの文化は一緒だから、そうだと大きく頷き、昔はスペインにイスラム教徒が住んでいたが、アンダルシアから追い出されて、モロッコに押し込まれちゃったと笑っていた。だから、今でもアンダルシアの音楽を伝承されているそうである。

アラウィー朝(سلالة العلويين الفيلاليين / Sulālat al-ʿAlawiyyīn al-Fīlālīyn)のスルターンであるムーレイ・イスマーイール(مولاي إسماعيل بن الشريف ابن النصر / Mūlāy Ismā‘īl ibn al-Šarīf ibn al-Naṣr‎, c.1645-1727)が建てたTangerで現存最古のモスク(Mosquée de la Kasbah / جَامِع الْقَصَبَة / jāmiʿ al-qaṣaba)を見つけた。1684年に建てられたと書かれていた。スペインやポルトガルのタイル(azulejo)の起源となったタイル(اَلزُّلَيْج‎ / az-zulayj)の幾何学的模様が特に美しい塔(مَنَارَة / manāra)があった。

モスクの中に入りたかったが、礼拝の時間だけ開くそうで、扉を開けていると絨毯や金品が盗まれるから、礼拝の時間以外は閉じていて、その地区はとても貧しくて炊事場がある家も1割しかなく、政府が水道を引いたと聞いた。白塗りの壁に黒いドアが映えて趣きのある通りを歩いた。

1737年に建てられた邸宅に1920年に開館した博物館(Musée de la Kasbah / مَتْحَف الْقَصَبَة / Matḥaf al-qaṣba)の近くにはアラビア語の碑文があり、アラビア語の碑文があり、「アッラーの御名に於いて(بِسْمِ ٱللّٰهِ‎ / bi-smi llāhi)」から読み始めると、モスク前で読書していたムスリムが喜んで「アッラーのご加護がありますように(يُسَلِّمُكَ اَللَّهُ / allāhu yusallimuka)」と語りかけてくれて会話を少しした。

海を臨める見晴らしの良い場所(Place de la Kasbah / سَاحَة الْقَصَبَة / Sāḥa al-qaṣba)に大きな邸宅が並んでいて、アメリカ人が住んでいた家(Detroit Palace)があった。近くにある古い城壁の門(Bab Al Bahr / بَاب الْبَحْر / bāb al-baḥr)を抜けると大西洋と地中海が美しく一望できる場所があり、しばらく海を眺めながら記念撮影をした。1661年にイギリス人が築いた城(York Castle / قَلْعَة يُوَرّك / qalʿa yurk)が見えた。海岸や埠頭は美しく、最高の景色で興奮した。父が眺めが美しくてとても気に入った。

対岸にはスペインがよく見え、Tarifa岬の近くは曇りでうっすらしか見えなかったが、Gibraltar海峡がはっきりと見えた。ガイドさんは一度もスペインを訪れたことがなく、今はビザを発給されないが、いつか行きたい、スペインはいつも海の向こうに眺められる近くて遠い国だと話していた。

美しい色彩の幾何学模様のタイルが散りばめられた泉の近くにある城門(Bab El Assa / بَاب الْعَسَّة / bāb al-ʿassa)を通り、坂(Rue Doukkala / زَنَقَة دُكَّالة / zanaqa dukkala)を下るとカフェ(Café Baba / مَقْهًى بَابَا / maqhan bābā)に美しい看板があり、ガイドさんにイスラム書道(الخَطّ الْعَرَبِيّ / al-ḵaṭṭ al-ʿarabiyy)のクフィー体(كُوفِيّ‎ / kūfiyy‎)だと言うと驚いて、私のアラブ世界への関心を尊敬する。ナスヒー体(نَسْخ / nasḵ‎)でアラビア文字を読み書きできる人を始めて案内したと言われた。

近くのスフィー廟(Zaouia Kadiriya / الزَّاوِيَة الْقَادِرِيَّة‎ / az-zāwiya al-qādiriyya)の緑黄臙脂の門が美しかった。旧市街の中心部に入ると、細く狭い路地で糸を紡いでいる人たちが多く、織物をしていた。絨毯や手工芸品を作るとき、男性がモスクやその他の下書きから絵柄を得て、女性が奥まった家の中でせっせと作ったり縫い分業していて、モロッコの3割は軽工業で重要な産業だと聞いた。ガイドさんは大学で経済学を専攻していて、街を歩いてガイドをする途中でモロッコの経済の話をしてくれた。

それから、19世紀の外交官(محمد ابن العربي الطريس / Muḥammad ibn al-ʿArabiyy al-Ṭorres, c.1820-1908)に由来する少し込み入った狭い路地(Rue Hadj Mohamed Torres / زَنَقَة الْحَاجّ مُحَمَّد طُرِّيس / zanaqa al-ḥājj muḥammad ṭorriys)を進み、商店街(Rue Almohades / زَنَقَة الْمُوَحِّد / zanaqa al-muwaḥḥid)に面した商店(Boutique Majid / مَتْجَر مَجِيد / matjar majīd)に案内された。入口には沢山の骨董品が所狭しと並べられ、骨董品屋らしいが銀細工工房でもあり、二階に通されて屋上に出た。

入り口にはメノラー(מְנֹרָה / mənôrāh)が書かれた板を見つけ、これはユダヤ教のシンボルだと言うと、ガイドさんは、コーラン(الْقُرْآن / al-qurʾān)にも書かれているよう、全てはイブラーヒーム(إِبْرَاهِيم / ʾibrāhīm < ܐܲܒܪܵܗܵܡ‎ / ʾaḇrāhām < אַבְרָהָם‎ / ʾaḇrāhām)から出て、モーセ(مُوسَى / mūsā < ܡܘܼܫܹܐ‎ / mūšē < מֹשֶׁה‎ / mōšê)や、イーサー(عِيسَى / ʿīsā < ܝܶܫܽܘܥ / ʾīšōʿ < יֵשׁוּעַ‎ / yēšū́aʿ)も、ムスリム(مُسْلِم / muslim)が尊敬するべき預言者(الْأَنْبِيَاء / al-ʾanbiyāʾ)であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教も全て大事で人間は全て一つであり、お互いに争ってはならない。Tangerでは、イスラム世界と同じく、様々な宗教や人種が共存して、近い所で接しながら生きてきたと話していた。

屋上からは、美しい眺めが見られて、1817年に建てられた最も大きなモスク(مَسْجِد طَنْجَة الْكَبِير / masjid ṭanja al-kabīr)の尖塔が、特に美しかった。港も美しく見えて、街並みを一望できた。下の階でお茶を振るまってくれて、ミントに砂糖入り紅茶が注がれて、爽やかでとても良い味だった。それから、下の階に通されると、絨毯屋のようでものすごい数の絨毯が置かれた応接間があった。

モロッコの各地方で織られた絨毯(سِجَّاد‎ / sijjād)を一つ一つ広げて、一つ一つ説明をしながら、沢山見せてくれた。北のベルベル人(أَمَازِيغ / ʾamāzīḡ)や中央のアトラス山脈(جِـبَـال الْأَطْـلَـس‎ / jibāl al-ʾaṭlas)の人々、南のサハラ砂漠(‮‬الصَحْرَاءُ‮ ‬الكُبْرَى / al-ṣaḥrāʾu l-kubrā)の民族やベドウィン(بَدَوِيّ / badawiyy)の絨毯などが揃えられていて、一つとして同じ柄の絨毯はなく、全てインスピレーションにより、それぞれの民族によって作り方も異なり、緑はオリーブ(زَيْتُون / zaytūn)、黒は輝安鉱(حَجَر الْكُحْل‎ / ḥajar al-kuḥl)、赤は砂漠のサボテンに寄生するコチニール(قِرْمِز / qirmiz)、黄はサフラン(زَعْفَرَان / zaʿfarān)、藍はインディゴ(نِيل / nīl)などの染料によると説明をして下さった。

美しい赤を基調とした絨毯があり、絹糸(حَرِير / ḥarīr)と羊毛(صَوِفَ / ṣawifa)が半分ずつ織り込まれていて模様も美しく、素晴らしい逸品で一平方メートル当たり、一千万個の針で縫われていて木目細かかった。それらを見せられるとサハラの絨毯は民芸のようでかなり荒く織られていた。

急にどれが欲しいですかとたずねられて、元から絨毯を買うつもりでTangerに来たわけではないから、色々と教えて頂いたことには感謝をしますが、これからも旅が続いて、絨毯は大きすぎて持ち歩けないから、素晴らしい絨毯ではあることはよく分かったが、折角ここまで丁寧に見せて頂いて、申し訳ないが買うことができないと断ると、国際郵便で家に送れるから心配するなと、世界中へ発送したときの沢山の荷札が付いたノートを見せられ、店主のおじさん商売に長けていると思った。

一階でも小物を売ろうとするが、興味を示さずにいると、コミッションがもらえないためか、ガイドさんは少しがっかりした顔をしていたが、旅の途中でかさ張る物は買えないため仕方がなかった。

旧市街のバザール(بازار‎ / bāzār < ペルシア語「市場」بازار / bâzâr < パフラヴィ語𐭥𐭠𐭰𐭠𐭫‎ / wāzār < 古ペルシア語𐎺𐏃𐎠𐎨𐎼𐎴 / vahā-čarana < イラン祖語*wahā-čā̆rana- < 印欧祖語「売買」*wes- +「交代」*kʷel-)はメディナ(الْمَدِينَة / al-Madīnah) と呼ばれていた。(622年のムハンマド(مُحَمَّد /  Muḥammad, c. 570-632)のヒジュラ(هِجْرَة‎ / hijra)をした都市でアラビア語مَدِينَة / madīnaは、一般名詞でアラム語מְדִינְתָּא‎ / məḏīntāやシリア語ܡܕ݂ܝܼܢ݇ܬܿܵܐ‎ / məḏīttāから借用され、ヘブライ語「州」מְדִינָה /m'dináや「法」דִּין / din語根(ד־י־ן‎ / d-y-n)、アラビア語 دِين‎ / dīn、アラム語דִּינָא‎ / dīnā、アムハラ語 ዳኘ / dañä、ウガリット語 𐎄𐎊𐎐 / dynと関連して、セム祖語 「治める」*dVn-から行政区域の意味でシュメール語𒁲 / didからアッカド語𒁲𒉡 / di-nuが借用され、古代メソポタミアにまで遡れる。)

それから、また少し路地(Rue Mustafa Doukkali / زَنَقَة مُصْطَفَى الدُكَّالي / zanaqa muṣṭafā dukkaly, Rue Seqaya Jdida / زَنَقَة سِقَاية جَدِيدَة / zanaqa siqaya jadida)を進み、午後10時近くにレストラン(Restaurant Kasbah / الْقَصَبَة‎ مَطْعَم‎ / maṭʿam al-qaṣaba)へ案内され、前菜に赤いスープ(الحريرة‎ / al-ḥarīra)が出た。トマトを基調として、そこに細かく砕かれたパスタが入れられていて、塩味は薄くて体に良さそうなスープだった。次は鶏肉が入れられた美味しいミートパイ(بسطيلة / basṭīla)で上に粉砂糖やシナモンが降りかけられていて、塩気と砂糖の甘みが合わさり、味に深みをもたらしていた。パイはぱりっと揚がり、食感も良くて美味しかった。最後のスープ仕立ての鶏肉の煮込み(طجين / ṭajīn)が出た。味が凝っていて美味しかった。鶏肉が苦手な父は穀物(كُسْكُس‎ / kuskus)に羊肉のシシカバブ(شيش كباب / šayyaš kabāb)が載せられた皿を美味しがって食べていた。

コーラの瓶も、アラビア語(كُوكَا كُولَا / kōkā kōlā)で片側はフランス語(Coca Cola)で書かれていた。自分の名前をテーブルクロスにアラビア文字で書くと店員さんが読んでくれて、握手を求められて、John & Libbyがとても驚いていた。レストランを後にするとき、ガイドさんが絶対にテーブルにチップを置いてはならず、直にウェイターに手渡すのが、イスラム圏でのマナーと教えてくれた。

ウェーターは感じが良くて、お客さんに呼ばれていない暇なときには、少年と一緒に双六のようなゲーム(لعبة ألواح / laʿba ʾalwāḥ)を楽しんていた。一人12€でコースを食べることができた。モロッコの貨幣単位はدينار / dīnār(古代ローマの銀貨Denariusがアラム語דֵּינָרָא‎ / dēnārāかギリシア語δηνάριον / dēnárionを経て、アラビア語に入り、スペイン語「お金」deneroの語源)だがEuroも通用していた。

レストランを出ると辺りは暗く、街中は雰囲気があり、夜景も美しかったが、人が多く出ていて、治安が悪そうでスリが多そうで注意を払いながら、狭い路地を歩いて、5、6 分で宿に戻ってこれた。

宿の前でガイドさん(Moushine)の住所を聞き、手紙を書くこと、Tangerにまた来ることを約束して、感謝をして、お別れをして、部屋に戻った。港でたまたま声をかけてきて出会ったが、街の隅々まで連れて行ってくれて、終始丁寧に説明をしてくれて、また、絨毯屋さんや骨董屋さん、レストランやホテルまで紹介してくれて、良い働きをしてくれたと思ったので多めにお礼をした。彼が帰るときに手を振ると、彼もこちらを何度も何度も振り向いて、遠くに歩いてゆくまで手を振り返した。

ガイドさんは、善良な人でガイド料はあなた方が決めて下さいと言った。食事代も一緒に出してあげて、ガイドさんにohn & Libbyさんたちと合わせて、ガイドさんに感謝の気持ちを手渡した。

宿の部屋に戻り、父がシャワーを浴びていると、水が裸電球にかかり、ポンと音がして割れて驚きだったが、Tangerはスペインに近く、モロッコはフランスの植民地であったことから、ヨーロッパと同じようだが、街の様子は、特に旧市街がアラブの情緒に溢れていて感銘深かった。

また、礼拝の時間になるとモスクから大音量で声が出て礼拝が始まり、イスラム世界であることを強く感じる瞬間だった。Tangerはベルベル人、フェニキア人、ギリシア人、ローマ人、ゴート人、アラブ人など、あらゆる民族が共存して生きてきた都市であることを街中でも感じられた。

異文化の共生や交流は人類の文化史の中で最も面白い現象であると肌でひしひしと感じた。モロッコの現地時間で午前0時半に眠りにつき、直ぐに疲れていたので寝てしまった。

Tangerはベルベル人の神ⵜⵉⵏⵊⴰ / Tinjis(フェニキア語𐤕𐤍𐤂‎ / tng)が語源で古典ギリシア語Τίγισις / Tígisis、ラテン語Tingis、古代ベルベル語ⵜⵉⵏⴳⵉ / Tingi、現代ベルベル語ⵟⴰⵏⵊⴰ / Tanja、アラビア語طَنْجَة‎ / ṭanjaやフランス語Tangerと称された。ギリシア神話のヘラクレス(Heraclus < Ἡρακλῆς / Hēraklês)の息子(Sophaxus < Σόφακος / Sóphakos)が建てたという伝説がある。紀元前5世紀頃にフェニキア人が植民、紀元前81年にローマ軍人のクィントゥス・セルトリウス(Quintus Sertorius, 126- 73 a.C.n.)が攻略して、属州(Colonia Julia)のMauretania Tingitanaの州都とされた。

298年に聖カシウス(Cassius)が殉教して、425年にヴァンダル人(Vandali)が侵入、534年に東ローマ帝国(Πολιτεία τῶν Ῥωμαίων / polīteíā tôn Rhōmaîōn)、618年に西ゴート人(Visigothi)が支配して、702年にはウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)、927年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)、1077年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)、1147年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)、1244年にマリーン朝(الْمَرِينِيُّون‎ / al-marīniyyūn)、1274年にアブー・ユースフ・ヤアクーブ(أَبُو يُوسُف يَعقُوب بن عَبد الحَقّ‎ / Abū yūsuf ya‘qūb bin ‘abd al-ḥaqq, 1212-1286)が支配した。

1325年に中世の旅行家イブン・バットゥータ(بن بطوطة / Ibn Baṭūṭah, 1304-1369)が故郷を発ち、1326年にカイロからメッカに巡礼、アラビア半島、バグダート、イラン、シリア、アナトリア、黒海、キプチャク汗国、中央アジア、インド、スマトラ、ジャワ、中国の泉州、広州、杭州、大都を訪問、ユーラシア大陸を縦断して、1349年に故郷に帰ると直ぐにアンダルシアとサハラ以南への探検に出発、1354年にマリーン朝の都フェス(فَاس / fās)で君主の命で旅行記《諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار / Tuḥfat an-Nuẓẓār fī Gharāʾib al-Amṣār wa ʿAjāʾib al-Asfār)》を口述筆記した。

Tanger طنجةの博物館(Musée de la Kasbah / مَتْحَف الْقَصَبَة / Matḥaf al-qaṣba)の近くの路地
イブン・バットゥータ(بن بطوطة / Ibn Baṭūṭah, 1304-1369) :《諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار / Tuḥfat an-Nuẓẓār fī Gharāʾib al-Amṣār wa ʿAjāʾib al-Asfār)》後半部分のイブン・ジュザイイ(بن جزي / ibn Juzayy, 1321-1357)自筆原稿 (F-Pnm Arabe 2291・1356年)

2008年6月6日(金)58日目(Tanger / طَنْجَة / Ṭanja-Algeciras-Ronda: Pensión Aguilar)

宿から港に向かう途中に杖をついて歩いている私を不思議に思う人が杖を何のために使うのかを話しかけてきた。フェリーでAlgecirasに戻り、直ぐに列車で古城が見えて美しい景色だった。Rondaに着くと旧市街を観光した。渓谷は美しい景色でアラブ風の建物が多く、考古博物館(Museo Arqueológico Municipal)の宮殿(Palacio de Mondragón)には美しい庭があり、教会(Iglesia del Espíritu Santo)の近くでモザラベ様式の城壁(Castillo del Laurel / Ruinas de la Alcazaba)、14世紀に建てられたモスクの尖塔(Alminar de San Sebastián)を見た。悲しみの聖母の祭壇(Templete de la Virgen de los Dolores)があり、巡礼中にXavierがスケッチブックで見せてくれた不思議な柱を見つけて思い出した。絶壁からの風景は美しく、深い渓谷に古い橋がかかっていて美しかった。モスクの建物が残され、美しい場所が町の中心に多数あり、Ibn Baṭūṭahの従兄弟が法官をしていた。

今日は午前6時半に起き、午前7時前に宿を出て、午前9時の船でスペインに戻るため、午前8時に港に着くよう、旧市街を歩いて向かった。街の人に礼拝を呼びかけるアザーン(أَذَان / ʾaḏān)で目が覚めた。毎分に一回あり、朝早くに1回、街にいるとき、町を出るとき、2回ともよく聞こえた。

細く曲がりくねった坂(Rue de Hollande / شَارِع هُولَنْدَا / šāriʿ hūlandā)を上がり、モスク(Mosquée Sidi Bouabid / مَسْجِد سَيِّدِي بو عُبَيْد / masjid sayyidī bū ʿubayd)の塔を見て、商店街(Rue Amérique du Sud / شَارِع أَمْرِيكَا الْجَنُوبِيَّة / šāriʿ ʾamrīkā al-janūbiyya)の職業訓練所(Centre d'éducation et formation de ville / مَرْكَز التَّرْبِيَة وَ اَلتَّكْوِين الْمَدِينَة / markaz at-tarbiya wa at-takwīn al-madīna)を通った。

城壁(اَلْقَصْر‎ / al-qaṣr)の横の通り(Rue du Portugal / شَارِع الْبُرْتُغَال / šāriʿ al-burtuḡāl)を下ると港(مِينَاء / mīnāʾ)が見えてきた。歴史ある城門(Bar Dar D'bagh / بَاب دَار الدَّبَّاغ / bāb dār ad-dabbāḡ)をくぐり、公園(Terrasse Borj al-Hajoui / حَدِيقَة‎ بُرْج الحَجِّي / ḥadīqa burj al-ḥajjī)を歩いて、海岸線に沿う通行量が多い大通り(Avenue Mohammed VI / شَارِع مُحَمَّد السَّادِس‎ / šāriʿ muḥammad as-sādis)を歩き、港の前の広場(Borj Dar Baroud / بُرْج دَارّ الْبَارُود‎ / burj dārr al-bārūd)に出た。

アラブ人達は杖をついた巡礼者を見たことがなく、今日町を巡礼用の杖をついて歩いていると、不思議な目で見ていた人が挨拶をしてくれて、メッカへの巡礼者かとも思われたのかもしれない(笑)

昨日もタクシー運転手から杖を何に使うか聞かれ、ムスリムがメッカに巡礼するよう、キリスト教にも巡礼路があり、イーサーの十二使徒(تَلَامِيذ الْمَسِيح / al-masīḥ talāmīḏ)のゼベタイの子大ヤコブ(‏يَعْقُوب بِن زَبَدِي‎ / yaʿqūb bin zabadī)の墓(Santiago de Compostela)に巡礼をしてきたと答えた。

港の入り口の門(Port de Tanger Ville / مِينَاء طَنْجَة الْمُتَوَسِّط / mīnāʾ ṭanja al-mutawassiṭ)で写真を撮ろうとしたら、モロッコでは港での撮影は禁止だった。港の警備はとても厳しくて、軍人が銃剣を持ち、立ち並んでいて、ものものしい雰囲気で警戒感が強い感じがした。

しかし、港に入ると、係の人が声をかけてくれて、道路沿いに歩き、奥まった乗り場に着いた。建物の中も警備が厳しく、職員に出国カードをもらい記入して、出国の手続きをして、ターミナルに入ったが、切符を発券していない事に気付いて、父だけ入国審査を戻り、外のエージェントに行った。

まだ午前8時で空いておらず、ターミナルの中で待ち、午前9時少し前に発券してもらい、搭乗の時間にターミナルの中に入り、船の前で接岸して乗り込むまで、フランス人とお話をしながら待った。フランス人は日本への関心が高くて、禅や日本の書道を高く評価していた。

彼らは地中海沿岸を6週間旅してきて、ドキュメンタリー番組をフランス人とイタリア人が共同したグループで作るそうで、フランス語で話が盛り上がった。帆立貝がリュックについていて、杖を持っていたため、Santiago de Compostelaへの巡礼者だと直ぐ分かり、フランス人とスペイン人は自分の国に巡礼路(Camino francés)があるため、皆知っていて、声をかけてくれたり、握手を求められた。

乗船してしばらく経つと船は右側通行でアフリカ大陸を右側にずっと見ながら、ジブラルタル海峡(Estrecho de Gibraltar / مَضِيق جَبَل طَارِق‎ / Maḍīq Jabal Ṭāriq)を進んだ。

船内では、フランス人とイタリア人と話して楽しい時間を過ごした。アメリカ人の家族連れの人もいて、国際的な雰囲気だった。モロッコ人はヨーロッパへのビザの発行が大変だそうで少なかった。船の中は無税のため、免税品店が開くと、香水の芳香が漂ってきた。

スペインがはっきりと見え始めると、直ぐに港へ進路を変えた。ドキュメンタリー番組の人々は、沢山の撮影機材を担いでいて、大変そうだった。お茶の間で寛いで見ている番組でも、制作者は骨の折れる仕事の連続であると感じた。乗船するとき、ポーターのアルバイトが、大きな荷物を一杯運び込んでいて、荷物専用と旅客専用のタラップが分かれていないため、ごった返して混乱を招いていた。

スペインの港に入港して接岸には少し時間がかかったが、船の外に滞りなく出られた。モロッコの出国には手間取ったが、ヨーロッパ(EU圏)へは日本人はすんなりと入れた。ヨーロッパには、最大三カ月しか滞在できないが、一番モロッコに入り、三カ月過ごして、三カ月またヨーロッパに入れば、ビザを取らなくても、ヨーロッパにずっといられると思った。

再びAlgecirasの町の中に戻ってきた。アメリカ人の団体についてゆき、駅で午後3時15分の列車の乗車する手続きをした。切符を購入して町中に出た。歴史的な建築物は既に昨日に訪れたため、昨日にも訪れた近くの通り(Calle José Santacana)に面したSupermercado SuperSolで列車の中で食べるヨーグルト(Yogur Fresa Platano)、ヨーグルト飲料(Yoglup Yogurt de fresa)、ミックスフルーツジュース(Zumo de melocotón, uva y manzana)、レモン果汁入ミネラルウォーター(Agua mineral Font Vella Sensación con zumo de limón)を仕入れて、広場(Plaza Juan de Lima)にある1768年に建てられた教会(Capilla de la Caridad)を通り、駅に戻り、始めはRonda行きを求めたが、Sevilla行きに変えてもらい、午後5時15分の特急列車が発車する直前にまたRonda行きに変えてもらった。

普通は7€、特急は17€して、10€ずつ一人づつ高くなるけれども、普通電車は30分早く発車して、30分遅く到着するため、合計1時間短縮されて、Algecirasでもゆっくりできて、Rondaでも長く見ることができるため、スペインの国鉄(Renfe)の特急(Turista)に少し乗るのも一興に感じた。

Andalsiaの平野は牛が放牧されていて、絵画のような景色の中をひた走った。雲一つなく、美しい風景が目の前に広がっていた。畑が辺り一面に広がり、50分走ると急に山がちになり、雲も増えてきてから、谷間を縫うように列車は進み、美しい谷が左右に出現したり、複雑な尾根線や谷線を列車は走り抜けて、始めは土が干し煉瓦のように乾燥していたが、途中から赤茶けた水を少し含むようになり、Rondaに近づくと、小さな平地を過ぎてから、山がちになった。駅のホームに人が溢れていた。

旧市街まで人にききながら、距離を縮めてゆき、賑わう大通り(Calle Setenil, Calle María Cabrera)や広場(Plaza del Ahorro)を少し進むと、1663年に建てられた教会(Iglesia de Santa Cecilia y Nuestro padre Jesús)からも、通り(Calle María Cabrera)や広場(Plaza Carmen Abela)を歩いていった。

商店街(Calle las Tiendas, Calle Virgen de los Remedios)を歩いて、1706年に建てられた教会(Parroquia de Nuestra Señora del Socorro)を過ぎて、路地(Calle Pedro Romero)を突き当たりまで歩くと円形の建物があり、1779-85年に建てられたスペイン最古の闘牛場(Plaza de Toros de la Real Maestranza de Caballería de Ronda)だった。商店街で老若男女が行き来していて、午後4時少し前にもかかわらず、昼寝時間(Siesta)が終わったためか、商店は多く開いていた。

闘牛場の前の広場(Plaza Teniente Alce)に観光案内所(Oficina Municipal de Turismo de Ronda)があり、明日の電車を調べた。スペイン語を理解することが伝わり、町の歴史や見どころを余すところなく熱心に説明してくれた。最も安い宿を教えてもらい、一つ一つ番号を振ってくれて、地図の上に価格を記入してくれて、街でPensiónを難なく発見して、近くにある4つのPensiónから1つ決めた。

(スペインではHotel > Hostel > Pensiónの順に等級が下がるが、民泊のようなPensiónは価格が安く泊まることができ、旅をしているとき、逆に個室で誰とも合わないよりも、共同の食堂や寝室などで人と会うことにより、お話ができたりして、情報交換ができて面白くて理にもかなうことを感じた。)

イギリス人やドイツ人が多く利用していた雰囲気の良いペンション(Pensión Aguilar)に入り、一晩二人分がveinte(20€)と言うので安過ぎて驚いてしまい、一人分ですかと聞き返したら、2人分と分かり、直ぐそこに決めた。部屋に水道があり、バスタオルも手拭きタオルも清潔でゴミ箱もきれいだった。ベットも良く整えられていて美しかった。お花屋さん(Floristería El Paraíso)の前の通り(Calle Naranja)に面した宿で部屋も廊下も掃除が行き届いていて快適に過ごすことができた。

部屋に荷物を置いて街に出た。最初に1585年に建てられた教会(Iglesia de la Merced)を訪れると、美しい八角形の塔があり、何となく煉瓦造りで異国情緒が溢れていたが、昨日モスクを見たため、逆に教会が新鮮に感じられた。中には美しいマリア様の像が多くて、東方正教会の遺風が感じられるお気に入りが二つあった。公園(Alameda del Tajo)を通り、崖の上の展望台から景色を楽しんだ。目の前には断崖絶壁があり、ものすごい深い谷があり、眼前には、長い間難攻不落な街であるのが頷けるほど、自然の要塞が広がっていた。特に父が珍しく自分からここで写真を撮ってねというほど、その景色がとても気に入った。断崖絶壁の上から遠くの山々を眺めながら、そこでしばらく休んだ。

それから闘牛場に行くが、入場料を6€も取られるため入場せず、もう一つの展望台(Mirador de Aves)や崖の上の橋の前の通り(Calle Armiñán)から崖の眺めを楽しみながら、新橋(Puente Nuevo)を通り進んだ。渓谷の景色は言葉で言い表せないほど素晴らしすぎた。

橋を渡ると歴史を感じさせる建物が多くて楽しい旧市街に入り、16世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Paz)を通り、13世紀のナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)治世下で建てられた古い家(Casa del Gigante)は入場料があるため、外から見るだけにした。

それから、新橋が美しく見える展望台(Mirador Puente Nuevo de Ronda)へ崖の小道(Via Ferrata El Tajo de Ronda)を降りていった。中国の山水画のよう岩肌に川が滝のように流れている断崖絶壁に町が作られているのが分かり圧巻だった。また、展望台の近くにはイスラム建築の馬蹄形のアーチの遺構があり、在りし日を偲ぶことができ、風景と歴史の両方を満喫できた。しばらく、吹き付ける風のさわやかさを楽しみながら、それからまた崖を登って旧市街に戻った。

ロンダ王国(طَائِفَة رُنْدَة / ṭāʾifa runda)の時代の建物で14世紀のマリーン朝(الْمَرِينِيُّون‎ / al-marīniyyūn)治世下でアブー・アルハサン・アリー(أبو الحسن علي بن عثمان‎ / Abū l-Ḥasan ʿAlī ibn ʿUṯmān, 1297-1351)の子アブド・アル=マリク(عبد الملك / ʿAbd al-Malik)が住んでいた宮殿(Palacio de Mondragón)は、考古博物館(Museo Arqueológico Municipal)も兼ねていて、入場料は1.5€だったので、私だけ入場した。父は博物館の前の広場でゆっくりとしていた。

スペインは南部に行けばいくほど、レコンキスタが遅い時期に進んだため、イスラム時代の建物が良い状態で残されていて面白く、割と本場のモロッコより、アンダルシアの方が、土地が広くて裕福であった可能性があり、質の高い古い建築が、イベリア半島の方に史跡として残されていた。

宮殿の建築は美しく、中庭、庭園は昨日モロッコで見た建築そのもので、時間を超えて伝えられたのが良く分かった。特に中庭が美しく、水が流れて蓮の花が咲いていて、眺めも良かった。

券売係の人は感じよく楽しそうに働いていて良い人たちだった。博物館はアンダルシア地方の歴史が、先史時代からアラブ統治時代まで展示されていて興味深かった。本物の発掘された遺跡も中にあり、宮殿にイスラム教徒が住んでいた頃の再現、古代のドルメンの再現や本物の発掘物まで展示されていて、旧石器時代の人々の家のレプリカに入れたり、工夫や意匠が巡らされていた。

イベリア半島の鉱物資源と鉱山の採掘方法がよく示されていて素晴らしかった。アラブ人の墓石もあり、「アッラーの御名に於いて(بِسْمِ ٱللّٰهِ‎ / Basmala)」から始まり、昨日にTangerで見た碑文を思い出させた。展示を回る順番が逆だったようで、新しい時代から、古い時代へと遡っていたことに後に気づいたが、皆とは違った見方ができ、今からどんどん昔へとタイムスリップできて面白かった。ローマ時代のコインは少なかったが、中世イスラム時代の展示が充実していて満足だった。考古博物館は都市や城市の歴史を定点で見れて興味深いため、入館して地域の歴史を知ることは有意義だった。

それから大きな広場(Plaza Duquesa de Parcent)に至ると13世紀に建てられたモスクの名残りである美しいミナレットを持つ教会(Iglesia de Santa María la Mayor)があり、町で一番大きな教会で貫録があった。16世紀に建てられた修道院(Convento de Clarisas de Santa Isabel de los Ángeles)や20世紀に建てられた品のあるクリーム色の美しい聖堂(Santuario de María Auxiliadora)を見た。1485年に建てられた教会(Iglesia del Espíritu Santo)の近くでモザラベ様式の城壁(Castillo del Laurel / Ruinas de la Alcazaba)を見た。特に後面から下から見上げた教会は美しく重厚感があった 。

それから美しい城門(Puerta de Almocábar)がある広場(Plaza Abul Beka)があり、そこから北に通り(Calle Armiñán)を戻り、元は14世紀に建てられたモスクの尖塔だったが、キリスト教会(Iglesia de San Sebastián)の鐘楼が置かれた塔(Alminar de San Sebastián)を見た。

雰囲気のある白亜の住宅が立ち並び、石畳が美しい通り(Calle Marqués de Salvatierra)を下ってゆき、美しい門(Puerta de Carlos V)を通り、旧橋(Puente Viejo)を渡ると眺めが美しく絵になるようだった。新橋(Puente Nuevo)とは違った中世イスラム建築が多い地区の佇まいを遺していた。Rondaの旧市街が正に渓谷の合間を縫うように作られていることが分かった。

16世紀に建てられた三つの鐘があるユニークな門を持つ教会(Iglesia de Nuestro Padre Jesús)と前にある、八つの泉(Fuente de los Ocho Caños)を通り、大通り(Calle Santa Cecilia)の坂を上がりゆき、悲しみの聖母の祭壇(Templete de la Virgen de los Dolores)に着くと、前を通る人は皆、必ず十字架を切って歩いてゆくため、何か訳があるのかもしれないと思った。交通量の多い通りをぽつんと佇んでいて建っていて、更に驚いたのが巡礼中にXavierが見せてくれた絵に書かれていた捕縛された鳥と人の柱が目に入り、実物を見ることができて興奮した。(1734年にこの祭壇が作られて、隣の広場で処刑をされる人が待ち、最後に祈りを捧げた場所だからだそうであり、それで皆が通り過ぎる時に十字を切り、柱に縛られたり、首がくくられた人が象られた彫刻がある訳が分かった。)

前の通り(Calle Virgen de los Dolores)を進み、商店街(Calle Juan José de Puya)を一直線に歩いてゆき、近くの通り(Calle Cruz Verde)にあるSupermercado Sparでリンゴジュース(Zumo de manzana)、パイナップルジュース(Zumo de piña)、トニックウォーター(Tonica)、レモン風味のミネラルウォーター(Font Vella Sensación Limón)、ハーブティ(Té de hierbas)、オレンジゼリー(Gelatina con zumo de naranja)、アイスクリーム(Bombones helados de choco y almendra)、パン(Panadería)、ハム(Charcutería)、レタス(Cogollos de lechuga)、果物(Frutería)、乾燥果物(Cocktail de frutas secos)、マスタード(Mostada)、マヨネーズ(Mayonesa)、シャンプー(Champú de Hierbas)などを買い物をして、宿に戻り、シャワーを浴びた。

Rondaは小さな町だが、家々の漆喰や石壁は美しく、また、城壁や橋梁などの石組もすばらしく、崖の上に作られており、絶景を心から楽しむことができた。街の通りは整然としており、掃除が行き届いていて、また、イスラム教徒が最後まで住んでいたこともあり歴史が感じられて素晴らしかった。

今日の宿はしっかり熱いお湯が出て、設備も良く、快適に過ごせた。安宿という感じがしないのにユースホステル並みの低価格で泊まることができて嬉しかった。ライトアップされた橋を見に行こうと思うが、夜も遅くなり、今日はモロッコからスペインに戻ってきて、客船や鉄道で長い距離を移動してきたため、疲れていたため、日記を書いてから、直ぐに寝た。今日は朝、アフリカにいたなんて思いもよらない充実した一日だった。イベリア半島からアフリカ大陸は近くて遠い所だと思った。

Rondaはアラビア語اَلْرُنْدة / al-Runda < ラテン語Arunda <バスク語「谷」aran < *ɦaran + ケルト祖語「谷」*dolā < 印欧祖語*dʰól(h₂)-os < *dʰal-と地形の特徴を形容した。ブレトン祖語*dolや古ウェールズ語dol、また、イングランドのArundel < 古英語「苦薄荷」hārhūne < 「灰色」hār < ゲルマン祖語*hairaz < 印欧祖語*(s)ḱeh₃i-ro-s < 「暗い」*(s)ḱeh₃- + 「谷」dæl < ゲルマン祖語*daląと関連。

紀元前6世紀にケルト人トゥルデタニ族(Turdetani)が居住、フェニキア人が近郊のAcinippoに入植、古代ギリシャ人が移住して、 ローマ将軍大スキピオがカルタゴ遠征のため建設して属州となり、5世紀にスエビ族(Suevi)のレチラ(Rechila, c.389-448)が征服、東ローマ帝国が奪還、ゴート族(Visigoth)のレオウィギルド(Leovigild, 516-586)が西ゴート王国に統合されあた。

713年にベルベル人イブン・ケサディ(زيد بن كسادي / Zayd ibn Kesadī)が征服、後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)が支配して、世界初飛行を試みた天才科学者・工学者・発明家・外科医イブン=フィルナース(عباس بن فرناس / ʿAbbās ibn Firnās, 809-887)を輩出、1039年にロンダ王国(طَائِفَة رُنْدَة / ṭāʾifa runda)、1065年にセビリア王国(طَائِفَة إِشْبِيلِيَة / Ṭāʾifa ʾišbīliya)のアッバド2世(المعتضد بالله أبو عمرو عبَّاد‎ / ʿAbbad II al-Muʿtadid, c.1000-1069)が統治、1485年にアラゴン王フェルナンド2世(Fernando II, 1452-1516)が攻略した。

Rondaの新橋(Puente Nuevo de Ronda)

2008年6月7日(土)59日目(Ronda-Granada: Albergue Inturjoven Granada)

Rondaから鉄道に乗り、途中でトラブルがあったが、バスで無事にGranadaに着いた。Alhambraの丘にある要塞(Alcazaba < قَصَبَة / al-qaṣbah)や美しい庭園(Jardines del Generalife < جَنَّة الْعَرِيف / Jannat al-‘Arīf)を見学して、裏側の城門を伝い、Albaicín地区に到るとイスラム建築が残されていて異国情緒に溢れていた。展望台(Mirador de San Nicolás)や小道(Carril de la Lona)から眺めが最高だった。

今日は午前8時に起き、午前8時半に宿を出て、駅(Estación de tren)まで広場(Plaza Concepción García Redondo)から大通り(Avenida Andalucía)を10分ほど歩き、午前8時57分の電車に乗り、Granadaに発った。ホームに大きなポイント切替機があった。電車は定刻に着き、無事に乗れた。

スペインの列車は日本のようにアナウンスはなく、発車時刻になると、何も前触れなしにすっとホームを出た。途中で沢山の乗客が降り、電車の中は貸し切り状態で途中までお年寄りが乗っているだけだった。途中の風景は見たことがないほど美しく奇峰が連なり、辺りには虹がかかり、Andalsiaの激しい日差しに照らされて、緑が映えて最高に美しかった。牛や馬が放牧されていてのんびりしていた。

途中小さな干潟(Lagunas de Campillos)があり、お年寄りの人が、「見て!沢山のフラミンゴがいるよ!(¡Mira, hay muchos framingos!)」と教えてくれて、太陽に水面が照らされて、沢山のフラミンゴが悠然と立っていた。MalagaやCórdoba方面の列車と分れる前の駅(Bobadilla)でお年寄りは一人降りてから、車両に一人も乗っておらず、電車は貸し切り状態であった。

少しすると田舎駅(Archidona)で一時間ほど立ち往生した。今が起きたのかと、30分を超えたくらいから、車両の中を歩いて様子を見てきたが、原因は分からなかった。一時間ほど経ち、車掌さんが来て、次の駅でトラブルがあり、復旧の見込みがないため、もう少し待って下さいと言っていた。

スペイン人は長く待たされても、誰も文句を言わず、のんびりしていた。10分するとGranada駅行きのバスを手配しましたので、電車から降りて、バスに乗って下さいと言われた。降りて15分するとバスが来た。バスに乗ってから、オリーブ畑の中を通り、高速道路(A-92)まで来たのは知っていたが、後は寝てしまい、1時間ほど気付かないうちにGranadaの町の中に入り、駅に着いた。

鉄道駅からユースホステルまで歩いた。地図が荒すぎて細かい道が書かれていないため、遠回りしながらも、やっとたどり着いた。受付して荷物を部屋に置いて、直ぐに町中に出た。

バス(Camino de Ronda)で大聖堂(Catedral de Granada)の前まで行き、大聖堂やアラブ商人が住んでいた地区(Albaicín)に入り、美しいアラビアの黄金の透かしがあり、商店街(Calle Alcaiceria, Calle Ermita)にはお土産屋さんが立ち並んでいた。

アラビア文字の美しい透かしや鍾乳石状装飾(مُقَرْنَص‎ / muqarnaṣ)がある1336年以前に建てられた建物(Corral del Carbón < 「新しい宿」الْفَنَادِق الجَدِيدَة‎ / al-fanādiq al-jadīda)の脇から路地を出て、大通りを北側に歩いてゆき、1537年に建てられたムデハル様式の教会(Iglesia de San Gil y Santa Ana)の前にある観光案内所(Centro Municipal de Recepción Turística)を訪れた。午後3時のSiesta休憩前に滑り込みセーフで地図をもらえて、名所やSupermercadoの位置などを教えて頂けた。

それから川沿い(Río Darro)の通り(Carrera del Darro)を歩いてゆき、橋(Puente Cabrera)、アラビア風の風呂(El Bañuelo)、ドミニコ会の修道院(Convento de Santa Catalina de Zafra)や1559年に建てられた教会(Iglesia de San Pedro y San Pablo)を見て、前の博物館(Museo Arqueológico y Etnológico de Granada)に入ると、ユーロ圏以外の入館者は普通料金を払わなくてはならなかった。

ローマ時代のコインの銘文が、アラブの家の中央に展示され興味深かった。先史時代から全ての時代のイベリア半島にAndalsiaの歴史が展示されていた。更にフェニキア人のセクションが面白く、銘文が石に沢山書かれていて、セム語だからヘブライ語とアラビア語やアルファベットの歴史の知識により読むことができた。二階にローマ人からアラブ人の時代までの展示がされていて、中庭にローマ時代の柱の頭部が展示されていて、これだけ一遍に展示されていると見ごたえがあり、比較対象ができて面白かった。そこからのアルハンブラ宮殿の塔の眺めがとても良かった。

美しい橋がかかる川沿いに下り、途中で橋(Puente Cabrea)を渡り、路地(Calle Almanzora Baja, Plaveta de la Miga)に入り宮殿(Alhambra)を目指した。坂(Cuesta de Gomérez)を上がると城門(Puerta de las Granadas)をくぐり、一つの門(Puerta de Bibarrambla)はイスラム建築の特徴がよく出ており、大通り(Paseo del Generalife)を進むと大きな門(Acequia Real de la Alhambra)があった。そこから小道(Calle Real de la Alhambra)を奥に進んだ。

1495年に建てられた砂岩による石積みの建物(Convento de San Francisco)があり、直ぐ近くの17世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María de la Encarnación)には祭壇がなく工事中だったが外観は美しかった。また、美しいイスラム建築の門(Puelta del Vino)が気に入った。

宮殿(Alhambra de Granada)や庭園(Patio de los Arrayanes)の入場券が必要なため、券売所の場所をたずねると、更に先にあるそうで一番に近い所で買って戻り、入場しようとしたが、この券は前の13世紀に作られた庭園(Jardines del Generalife)しか入場できないのを知りがっかりしたけれども、Alhambraの奥にある城(Alcazaba)に入れて、塔(Torre del Cubo, Torre de la Vela)からGranadaの街並みを眺めたり、山脈(Sierra Nevada)を遠くに望めたりして美しかった。山の頂には少し雪がかぶっていて、Lourdesの城の塔から見たピレーネ山脈や街並みを思い出した。

入口の券売所まで戻り、宮殿に入れない理由をきくと、人気すぎて売り切れてしまい、明日の朝6時頃から券売所の前に並んで買わなくてはならないそうだ。宮殿の境内でも観光客で一杯で人に揉まれて疲れた。観光地は疲れるので、誰もいないような所が寛げるとつくづく思った。

ムハンマド2世( أبو عبد الله محمد بن محمد‎ / Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn Muḥammad, 1235-1302)が作った美しい庭園(Jardines del Generalife < جَنَّة الْعَرِيف / Jannat al-‘Arīf)はイスラム建築がよく保存されていたが、キリスト教徒が後に手を加えて作り変えられた教会があった。小規模な離宮(Palacio del Generalife)だが、庭は美しく手入れされ、噴水や庭木が色とりどりで素晴らしかった。塔(Torre de Ismail)には素晴らしい文様の透かし彫りがあり、そこからの眺めも最高だった。

Alhambraに通り(Calle Real de la Alhambra)歩いて戻るとお土産物屋さんが多く立ち並んだ一部と庭園の最後に門(Puerta de la Justicia)を潜り抜けた。オリジナルなイスラム建築は意外と少なかった。

券売所を出て、1013年にズィール朝(ٱلْزِيرِيون / al-Zīrīyūn)が支配してから発展したAlbaicín地区(ٱلْبَيّازِينْ / al-bayyāzīn < 「悲しみ」الْبَائِسَيْن / al-bāʾisayn < 「悲しむ」بَائِس / bāʾis < ب ء س‎ / b-ʾ-sが語源)を訪れた。城壁を伝い、塔(Torre de las Infantas, Torre de la Cautiva, Torre del Cadí, Torre de los Picos)を見上げながら進み、先ほど庭園(Jardines del Generalife)で入った塔(Torre de Ismail)の下を通ると眺めが最高だった。丘の上は人が多いが、少し外れると観光客と会うことなく、木々に囲まれた涼しく美しい道をゆっくり歩けて、城壁沿いに坂(Cuesta del Rey Chico)をどんどん下りゆくとき、山の上に水が多く湧き出して流れていて美しかった。坂を下り切ると川(Río Darro)にかかる小さい橋(Puente del Aljibillo)を渡ってAlbaicín地区に戻れた。

1530年に建てられた宮殿(Palacio de los Córdova)には、大量の皿とテーブルセットが用意されていて圧巻だった。今は公文書館(Archivo Historico Municipal de Granada)として使われていた。

急な坂(Cuesta del Chapiz)を13世紀に大モスク(Mezquita Mayor del Albaicín)として建てられた1499年に聖別された教会(Iglesia Parroquial de Nuestro Salvador)まで上がると街全体が古くに遡る地区で雰囲気が良かった。教会の前で日本人がガイドブックを持ちながら歩いていた。

城壁の一部の門を通り、展望台(Mirador de San Nicolás)に上がる坂の広場(Placeta de la Charca)では、ギターでタレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)のアルハンブラの思い出(Recuerdos de la Alhambra)を弾いている人がいて本場で演奏が聴けた!展望台は高台にあり、登りきると、 人が多くいて、話し込んでいた。宮殿を望みながら、夕日を待ちわびる人で溢れていた。危険な場所に柵がなくて、落ちたら死んでしまうような崖にもかかわらず、自己責任という形で解放されていた。1525に建てられた教会(Iglesia de San Nicolás)は晩課の最中で聖歌が聞こえてきた。

美しい公園(Placeta Cristo Azucenas)に面した1501年に建てられた修道院(Monasterio de Santa Isabel la Real)や高台(Mirador de los enamorados)を通り、小道(Carril de la Lona)には街並みが美しい場所があり感動した。11世紀に建てられた門(Puerta Monaita)から切り返して、細い路地(Caretta de Abarqueros)に入り、11世紀にズィール朝(ٱلْزِيرِيون / al-Zīrīyūn)が建てた美しい門(Puerta de Elvira < アラビア語「輝安鉱の門」بَاب الْكُحْل / bāb al-kuḥl) にたどり着いた。

街の大動脈の大通り(Avenida de la Constitución, Calle Gran Vía de Colón)の交差点(Bandera de España)に行くと、Camino de Santiagoの美しい貝のマークがあった。交差点には沢山の人がいて、商店街(Calle San Juan de Dios)を行くと、今日は土曜日で1737-59年に建てられた聖堂(Basílica de San Juan de Dios)で結婚式が終わった所だったことが分かった。教会の入り口には花びらが巻かれていて、清掃員があまりの多さに困っていた。聖堂の中に入ると豪華絢爛過ぎて静かにお祈りをできるような静謐な雰囲気ではなかったが、スペインのバロック様式らしい壮麗な祭壇があった。

1504年にルネサンス様式で建てられた修道院(Real Monasterio de San Jerónimo)の前を通ると修道女が多く歩いていて、近くの小さな通り(Calle San Jerónimo)にイオニア式柱だが垂直に伸びずに螺旋を巻いている面白い柱(Colegio Notarial de Andalucía)を発見した。ポルトガルでは、そうした柱のモニュメントが建てられていたが、初めて建物に使われているのを見た。

公証役場(Colegio Notarial de Andalucía)があり、広場(Plaza de la Universidad)に面した1799年に建てられた教会(Parroquia-Colegiata de los Santos Mártires Justo y Pastor)でも結婚式をしていた。それから、一つの大きな広場(Plaza de la Trinidad)を通り、中心街の雰囲気を楽しんだ。

18世紀に建てられた宮殿(Palacio de los Condes de la Jarosa)を見てから、16世紀に建てられた教会(Parroquia de Santa María Magdalena)の近くに大きなロータリー(Puerta Real)があり、カフェが立ち並び、街路樹が生い茂る中、美しい街並み(Carrera de la Virgen)をゆっくりと進み、1545年に建てられた聖堂(Basílica de Nuestra Señora de las Angustias)を通った。それから北に戻り、大きな広場(Plaza del Campillo, Plaza de Manana Pineda)を散策した。

1501年に建てられた教会(Iglesia de San Matías)がある通り(Calle Coches de San Matias)に入り、広場(Plaza de los Campos)で警察署(Comisaría de Policía Nacional de Distrito Centro)の美しい塔、最後に1512年に建てられた教会(Iglesia de Santo Domingo)を見た。

広場(Plaza de Isabel la Católica)まで通り(Calle Pavaneras)を戻り、大聖堂の前(Calle Gran Vía de Colón)からバスに乗り、バス停から宿に戻る前、大通り(Camino de Ronda)に面したSupermercado Mercadonaを発見して、明日は日曜日のため、閉店してしまうと思い、レモンティ(Té limón)、トニックウォーター(Bebida isotónica)、オレンジジュース(Naranja sin gas, Zumo de naranja)など飲物やウエハース(Barquillo nata, Barquillo coco)などお菓子を少々求めた。午後9時にバス停に着き、午後9時15分まで開いていて助かった。

宿に着くと沢山のスペイン人の遠足の子供たちで賑やかだった。午後9時半ぎりぎりに滑り込み、夕食をビュッフェ形式で食べている間にシャッターが閉じてきた。Alhambraについて受付の人に聞くと、今まで朝に券売所まで行った色んな人たちの話を聞かせてくれて、午前6時頃にタクシーで皆が出ていくそうだから、タクシーでお金を使うより、早く起きて徒歩で行ったほうが経済的と教えてくれた。

朝午前5時に起きて、徒歩で行くことにした。受付の人は本当に歩くのですかと驚いていたが、Santiago de Compostelaまで1000km歩きましたから大丈夫ですと言うと大きく頷いて笑って、地図に最短ルートを丁寧に記入してくれた。明日は午前5時に起きて歩くため、直ぐに眠りについた。

今日は電車のトラブルに遭いながらも、Granadaの町中をくまなく歩き回ることができ大満足だった。1283年に建てられた宮殿(Cuarto Real de Santo Domingo)やファリャ(Manuel de Falla, 1876-1946)の旧宅(Casa-Museo de Manuel de Falla)も面白そうだったが訪れなった。

Granadaは、紀元前8世紀にイベリア人が定住、貨幣や碑文でIlturir, ildurir, ilbirir, Iliberriと記録され、Ebro川(ラテン語Hiberus, Iliberrus < 古典ギリシア語Ἕβρος / Hébros)と同じく、バスク語「町」iri < *huri + 「新しい」berri < *ber̄iが語源である。

コーカサス地方のイベリア王国(Hiberia < Ἰβηρία / Ibēríā < Ἴβηρ / Íbēr)があり、トラキア語「広い」*ebru < 印欧祖語*h₁wér-u-s ~ *h₁ur-éw-s < *h₁wer-が語源で古典ギリシア語「広い」εὐρύς / eurús < ヘレニック祖語*eurúsやサンスクリット「広い」उरु / uruやアヴェスタ語vouru < インド=イラン祖語*Hurúšと関連する。

もしくはイベリア半島に多い地名(Illunum, Ilipa, Ilurcis, Iliturgi, Ilurbida, Ilarcuris)と同じく、接頭辞il- + 「谷」ibar < *ibar̄、「川」ibai < *ɦibaiが語源である。

接頭辞il-はイリュリア(Illyria < Ἰλλυρίς / Illyrís)にも見られ、イリュリア語「住む」*is-lo < 印欧祖語*h₂wes-los < *h₂wes-が語源でアルバニア語「住む」yll < アルバニア祖語*us-lo、ヒッタイト語𒄷𒅖𒍣 / ḫuišzi < アナトリア祖語*husénti、サンスクリットवसति / vásatiやアヴェスタ語vaŋhaiti < インド=イラン祖語*Hwásatiやゴート語𐍅𐌹𐍃𐌰𐌽 / wisanや古英語wesan < ゲルマン祖語*wesanąと関連。

バルカン半島のイリュリア(Illyria < Ἰλλυρίς / Illyrís)はイリュリア語*Hullur-urio < 「水神」*hud-lo < 印欧祖語*udrós < 「水」*wed-でアルバニア語「神」hyll < アルバニア祖語「蛇」*hĭwĭd-lʉh < *hud-lósと関連ともされるが、子音や意味の対応から可能性は低く、上記の語源が正しいと考えられる。

紀元前237年にカルタゴのハンニバル(Hamilcar Barca < 𐤇𐤌𐤋𐤒𐤓𐤕𐤟𐤁𐤓𐤒 / Ḥomilqart Baraq, c. 275-228 a.C.n.)が占領、紀元前193年にルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス(Lucius Aemilius Paullus Macedonicus, 229-160 a.C.n.)がローマ人の要塞都市(Illiberis, Florentinum Iliberritanarum)を建設、64年に司教座が置かれ、 5世紀に西ゴート王国が支配、レカレド1世(Reccared, 559-601)やウィティザ(Wittiza, 687-710)の金貨(tremissis)が鋳造された。

713年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)の指揮官イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が占領、756年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)アミール領(إِمَارَة قُرْطُبَة‎ / Imārat Qurṭuba)の都市(إلِيبِيرَا / ʿilibira)になり、1013年にズィール朝(ٱلْزِيرِيون / al-Zīrīyūn)がユダヤ人が住んでいた「異民族の丘(إِقْلِيم غَرْنَاطَة / Iqlīm Ġarnāṭa)」に移動して、グラナダ王国(إِمَارَة غَرْنَاطَة‎ / Imārat Ġarnāṭah)を建国した。

1090年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)、1166年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)に征服され、1212年にキリスト教諸国連合軍がナバス・デ・トロサの戦い(Batalla de Las Navas de Tolosa / معركة العقاب / maʿraka al-ʿuqāb)で圧勝して、イスラム勢力が後退した。

1238年にムハンマド1世(محمد بن يوسف بن نصر / Muḥammad ibn Yūsuf ibn Naṣr, 1194-1273)がグラナダ王国(إِمَارَة غَرْنَاطَة‎ / Imārat Ġarnāṭah)を建国して、1238年にナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)が成立、1246年にカスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)と条約を締結した。

1492年にカスティーリャ=アラゴン王国に降伏して、ボアブディル(أبو عبد الله محمد الثاني عشر‎ / Abū ʿAbdi-llāh Muḥammad ath-thānī ʿashar, c. 1460 -1533)が宮殿を去り、アラゴン王フェルディナンド2世(Ferdinand II, 1452-1516)とカスティーリャ女王イザベル(Isabella I, 1451-1504)が支配して、1526-61年に大聖堂が建てられた。

哲学者イブン・トファイル(أبو بكر محمد بن عبدالملك بن محمد بن طفيل القيسي الأندلسي / Abū Bakr Muḥammad ibnʿAbd al-Malik ibn Muḥammad ibn Ṭufaīl al-Qaīsī al-Andalusī > Abubacer, 1105-1185)は《ヤクザーンの子ハイイ(حي بن يقظان / Ḥayy bin Yaqẓān )を執筆して、天文学者アル・ビトゥルジー(أبو إسحاق نور الدين البطروجي الإشبيلي / Abū Isḥāq Nūr ad-Dīn al-Biṭrūǧī al-Išbīlī > Alpetragius, c.1150-1204)を指導した。イブン・バットゥータ(بن بطوطة / Ibn Baṭūṭah, 1304-1369)の旅行記《諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物(تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار / Tuḥfat an-Nuẓẓār fī Gharāʾib al-Amṣār wa ʿAjāʾib al-Asfār)》を校訂した文学者・歴史学者イブン・ジュザイイ( محمد بن محمد بن أحمد بن عبد الله بن يحيى بن يوسف بن عبد الرحمن بن جزي الكلبي الغرناطي / Muḥammad ibn Muḥammad ibn Aḥmad ibn ʿAbd Allāh ibn Yaḥya ibn Yūsuf ibn ʿAbd ar-Raḥmān ibn Juzayy al-Kalbī al-Garnāṭī, 1321-1357)、歴史学者アル・ハティーブ(محمد بن عبد الله بن سعيد بن عبد الله بن سعيد بن علي بن أحمدالسّلماني / Lisān al-Dīn ibn al-Khaṭīb Muḥammad ibnʿ Abd Allāh ibn Saʿīd ibn ʿAlī ibn Aḥmad al-Salmānī, 1313-1375)、詩人イブン・ゼムラク(أبو عبد الله محمد بن يوسف بن محمد بن أحمد الصريحي / Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn Yūsuf ibn Muḥammad ibn Aḥmad al-Surayḥī, ابن زمرك‎ / Ibn Zamrak, 1333-1393)、代数学を数式化した数学者・地理学者アル・カラサーディー(أبو الحسن علي القلصادي / Abū al-Ḥasan ibn ʿAlī al-Qalaṣādī, 1412-1486)を輩出した。

Granadaの展望台(Mirador de San Nicolás)から宮殿(Alhambra)と山脈(Sierra Nevada)を臨む

2008年6月8日(日)60日目(Granada-Málaga: Albergue Inturjoven Málaga)

午前5時に起き、Alhambraの宮殿に入るチケットを買い、坂を下る途中で転倒して、両手に怪我をして血だらけになりながら、ホステルに戻り父を呼び、タクシーで急いでもらい、入場時間の1分前に中に入れた。イスラム建築の最高傑作で言うまでもなく美しかった。特に奥の部屋(Mirador de Daraxa o de Lindaraja)の繊細な装飾が最高だった。Málagaの街は美しい色彩の建物が多く、立派な大聖堂やPicassoの生家を見学したり、アラブの砦Alcazabaから地中海を臨み、岬や海岸を散策した。

今日は午前5時に起き、昨日に予め支度をしておいたため、直ぐにAlhambraの入場券を求めて向かった。Youth Hostelを出るとき、受付の人が優しくて朝食のビスケットを持たせてくれた。細かい心づかいに感謝して、Alhambraに歩いて向かった。完璧に暗かったが通りの明かりと地図を頼りに最短距離を進んだ。至る所にスペイン人の若い人たちが酒に酔い、わいわいがやがや盛り上がっていた。

途中で物理学者アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)の名前が付いた広場(Plaza Albert Einstein)を見つけ、大聖堂に向かう通り(Calle Tablas)を歩いた。大聖堂周辺も最短の道を行き、とにかく広場(Plaza Isabel La Católica)に出て、Alhambraに上がる道(Cuesta de Gomérez)を探すと意外と簡単に見つかった。流石に宮殿まで登る道は、誰も歩いておらず、いくつかの宿やホステルの中にちらほらと人の動きを見かけるほどだった。近くに泊まっている人は良いなと思った。

最後の門(Puerta de las Granadas)をくぐり一本道(Cuesta Empedrada)を進むと坂道(Calle Real de la Alhambra)になり、昨日一度歩いていて良かった。地図を見なくても、券売所に着いて、薄暗く電灯が灯された丘に上がる道には、古い城壁の遺構が不気味にあり、鳥が鳴く外にはしんとして何も聞こえず、征服されたアラブ人たちの亡霊が出そうな雰囲気の森(Bosque de la Alhambra)だった。

券売所近くに一人だけ、先客を発見した。法律の勉強をするため、スペインのSan Sebastiánに3年近く住んでいるコロンビア人女性で同じスペイン語だから暮らしやすいですねと言うと、そんなことないです。時どき祖国が恋しくなりますと話していた。最初はスペイン語で話をしていたが、韓国人やオランダ人で現れてから、英語で話していた。1番目の人は5時、2番目の私は5時半、3人目の人は午前5時40分に着いたが、まだまだ日の出にはならなかった。コロンビア人は宿の受付で日曜日に入場券を手に入れたいなら、午前5時にタクシーで行きなさいと言われて、朝早くに頑張って来たが、来てみたら誰もいなかったから、そんなこと無かったんだと拍子抜けしてしまい苦笑していた。

券売所が開くのを待つ間に日記を書いていると、皆が日本語の表記システムに驚いて、話題になっていた。私たちが普通にしていることでも、所が変われば、最大な興味を示されて面白いと思った。ギリシア人のカップルやドイツ人などが続いてやってきて、日の出の午前7時頃になると人が増えてきた。新しい人が来ると、どこから来たんだ、どういう旅をしてきたのかと大いに盛り上がり、色んな面白いお話が聞けて、待ち時間もおもしろく過ごせた。朝早くに宮殿に入りたいから出てくる人たちは、物好きで旅慣れた人たちが多かったから、皆の色んな体験談を聞いていて面白かった。

券売所が開く直前になるとどこに並ぶのかで問題が発生して、二つに分かれて並んでいたが、最終には来た順番を尊重して、皆が入っていた所は出口だったようで、もう一つの入り口に並び直した。券売所のシャッターが全て閉まっていたから、正しい場所がどこにあるか分からなかったため、最初に来たコロンビア人女性がいた周りに集まるように並んだが、正しい場所は少し離れた所にあった。

午前8時頃に券売所が開き、2番目で窓口でチケットを求めて、急な坂(Cuesta Empedrada)を駈け下り町に出た。途中で靴ひもが他の足に絡まり転んだため、両手の掌の中を大きくすり傷ができてしまい、手も服も血だらけになったが構っている暇がなく、父がいる宿に走り続けて向かった。

一番早い組の入場券が買えたため、午前8時半から午前9時の間に入場しなければならないため、30分で宿に戻り、父を呼び、再び出た。普通は間に合わなそうでも諦めず、急いで町まで出て、バスも直ぐに来て、ユースホステルの近くには、午前8時25分に着いた。父を急いで呼ぶが、まだ支度ができておらず、急いで服を着てもらい、大通りまで出て、タクシーを呼び、Alhambraまで急いだ。

タクシーの運転手にスペイン語で事情を話して、できるだけ、早く近道を通って欲しいと伝えたら、分かりました!任せてくれと距離的には少し遠回りの道だが、そちらは市内の渋滞を避けられるから、結果的に早く行けると話してくれた。タクシーも良く走り、町を迂回して、少し郊外に出て、山を登っていき、5分ほどですんなりとAlhambraに着いた。直ぐに宮殿の入り口まで走り、昨日確認しておいた入場口に着いたのは、午前9時の1分前で係員の人も駆け込んできた私たちに驚いていた。

長い列に並ぼうと係員に入場券を見せたら、予約のために直ぐに入れてもらい、並ばずに済んで2人目の係員の人にぎりぎり間に合いましたから大丈夫ですよ。落ち着いて下さいねと言われた。大変なアクシデントと幸運と偶然と奇跡により、定刻通り1分前に入れてほっとした。

先ずはナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)グラナダ王国(إِمَارَة غَرْنَاطَة‎ / Imārat Ġarnāṭah)のイスマーイール1世(أبو الوليد إسماعيل بن فرج‎ / ʾAbū al-Walīd Ismāʿīl ibn Faraj, 1279-1325)が建てた最も古い行政や司法の宮殿(Sala del Mexuar)に入り、雑に作られたスペイン王室(Plus ultra)の紋章が、美しく繊細に作られたイスラムの文様を削り取って埋め込んであるなど、完全に改造された部屋もあった。

美しい彫刻に埋め尽くされた部屋(Oratorio del Mexuar)があり、中庭(Cuarto Dorado)の真ん中には噴水があり美しかった。今は木の天井で全体として暗いが、天井のステンドグラスから光が差し込んだそうだった。柱にも鍾乳石状の装飾があった。 破壊された跡が目立ち、キリスト教徒がレコンキスタの後に作り替えた跡が生々しく残されていた。

次代のユースフ1世(أبو الحجاج يوسف بن إسماعيل‎ / ʾAbū al-Ḥajjāj Yūsuf ibn Ismāʿīl, 1318-1354)が建てた宮殿(Palacio de Comares)の中には、アラブの透かし彫りや壁面タイル、何もかも全てが美しく、北側の黄金の間の窓から眺めるGranadaの町(Albaicín)は美しく、大使の間(Salón de Embajadores)は外交使節と謁見をした場所で玉座が置かれていた場所があった。

美しさで有名な中庭(Patio de los Arrayanes)に出るとアンドレス・セゴビア(Andrés Segovia, 1893-1987)がギターでタレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)のアルハンブラの思い出(Recuerdos de la Alhambra)を弾いていた見覚えのある場所があり嬉しかった。天人花(Rhodomyrtus tomentosa)が植えられていて、岩燕(Delichon urbica)が飛んでいた。

柱のアーチや塔(Torre de Comares)が水面に映り美しかった。アラブ人は水が流れる中庭や遊び場を大事にして、その空間が建物にゆとりと美しさを与え、空間が広く見え、均整が取れていた。

ムハンマド5世(محمد الخامس الغني بالله بن يوسف / Muḥammad al-ḫāmis al-Ġanī bi-llāh ibn Yūsuf, 1338-1391)により作られた中庭(Patio de los Leones)に出ると柱の状態が素晴らしく、華麗な透かし彫りの装飾が施された多数の補助の柱があり、中央のライオン像の噴水(Fuente de los Leones)は修復中でカバーが被せられていて見ることができず残念だったが、建物の美しさは変わりなかった。

隣の部屋(Sala de los Mocárabes)にも美しい装飾があり、完璧な状態で保存された主な所など、8年前に母と来たことを思い出した。生命の樹(El árbol de la vida)やクフィー体(الكوفي / al-kufī)やタウキー体(التوقيع‎ / al-tawqī‘)による繊細な透かし彫りの前で立ち止まり、昔の思い出が蘇ってきた。

(アラビア語「神を越えるものはない(وَ لاَ غـَـلِـبٌ إلاَ اللـَّه / wa lā gāliba illā-llāh)」と書かれた複雑な彫刻があった。1195年にアラルコスの戦い(Batalla de Alarcos / مَعْرَكَة اَلْأَرْض / maʿraka al-ʔarḍ)でカスティーリャ王アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)を破ったムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)のヤアクーブ・アル=マンソル(أبو يوسف يعقوب بن يوسف بن عبد المؤمن المنصور‎ / Abū Yūsuf Yaʿqūb ibn Yūsuf ibn Abd al-Muʾmin al-Manṣūr, c.1160-1199)のモットーである。)

قلو خير الإسلام فيما يريده لما الخيار إلا أن تشعرو
望む者に対して、イスラムの善を言え

先ほど券売所でお話をしたギリシア人のカップルと会い、握手を求められたが、直ぐに手を引っ込めた。血だらけの手を見せて、入場券を買ってから、宿に戻るとき、帰り道の坂でこけてしまい、血が出ているから握手をすると血が付いてしまいますと話すと傷口を見て大変だ大丈夫かと驚いていた。

アベンセラヘスの間(Sala de los Abencerrajes)にある星型の天井や二姉妹の間(Sala de las Dos Hermanas)の蜂の巣型の天井など、部屋に入る隣には必ず、壁に床を逆さにした形に透かし彫り(10世紀中頃にイラン北西部や北アフリカ中央部で発展した建築や装飾の様式でペルシア語مقرنس / moqarnas < アラビア語 مُقَرْنَص‎ / muqarnaṣ < 「装飾する」قَرْنِيص / qarnīṣの過去分詞、ギリシア語κορωνίς / korōnís < ヘレニック祖語*kornós < 印欧祖語*(s)ker-ew-nós < 「切る」*(s)ker-が語源)でびっしりと埋められてあり、長方形の窓が出て、そこから部屋の中に光が差していた。

また、二姉妹は王が女性と過ごした私的な空間として造営された宮殿で大きな大理石の板が二枚あることから名付けられたそうである。特にAlhambraの広い宮殿の中でも、奥の部屋(Mirador de Lindaraja)は、窓から光が差し込んで繊細な彫刻の陰影が美しく浮かび上がる幽玄な空間で最高だった。先ほどに会ったギリシア人のカップルが声をかけてきてくれて、(明り取りの窓の外から光が入り、逆光のために顔が暗くなってしまったが、)父と記念撮影をしてもらった。

それから、ワシントン・アービング(Washington Irving, 1783-1859)が、1829年に《アルハンブラ物語(The Tales of Alhambra)》を書いた部屋や貴婦人の塔(Torre de las Damas)などが北東側にあり、1526年に建てられた宮殿(Palacio de Carlos V)や庭園(Jardin de Lindaraja)があったが、繊細なアルハンブラ宮殿に対して、外観からごつすぎて釣り合いが取れていなくて笑ってしまった。

ムハンマド3世(أبو عبد الله محمد بن محمد / ʾAbū ʿAbdallāh Muḥammad Ibn Muḥammad, 1253-1314)治世下に作られた庭園(Jardin de Lindaraja)を見て、近くの塔(Torre de los Picos)は、町を守るための守備塔として使われていて、殆んど内装のイスラム建築の装飾は破壊されていたが、当時の面影が少しだけ残されていて、軍事的施設にも、美術的要素を取り入れたアラブ人たちを尊敬した。

美しい庭(Jardines de Partal)には、池やその奥に展望台があるが、その内装も殆んど破壊されていて無残だった。ユースフ3世(أبو الحجاج يوسف الثالث الناصر بن يوسف الثاني / Abū l-Ḥajjāj Yūsuf aṯ-ṯāliṯ an-Nāṣir ibn Yūsuf aṯ-ṯānī, 1376-1417)が建てた宮殿の建物の骨組みはしっかりと残されていて美しかった。宮殿(Palacio de la Alhambra)と周辺を見ることができ、満足して後にして、大聖堂前(Santa Iglesia Catedral Metropolitana de la Encarnación de Granada)まで歩き、バスに乗り、宿に戻った。

急いでチェックアウトして、父の分もピクニックセットをもらい、外に出ると午前11時だった。受付の人は感じがよく、部屋もきれいで食事も美味しく快適で過ごしやすかった。感謝を伝えると良い旅を続けて下さいと、温かく接して下さった。通常は午前10時チェックアウトをしなければならず、出るときにピクニックセットをもらえるが、Alhambraに早く入場する組になったため、特別に取り計らってくれた。バスターミナルに急いで向かい、正午のMálaga行きのバスに5分前にぎりぎり乗れた。

昨日午前0時過ぎに寝て、今日5時起きなので疲れていて寝てしまい、Málagaの町中を走っているときに起きた。バスはAlgeciras行きで降り損ねると大変なことになるので間一髪だった。バスターミナル(Estación de Autobuses de Málaga)から歩いて、14番のバス停を探すが見当たらず、観光案内所(Oficina de Turismo)も日曜で閉じられていたため仕方なく、タクシーで広場(Plaza Pío XII)に面したユースホステルに向かい、チェックインをした。部屋に行くと美しく快適な中庭があり、明るく開放的な雰囲気で過ごしやすかった。直ぐにバス停に向かい、受付でもらった地図で巡る順を考えた。14番以外のバス停で待つが、30分に1本しか日曜には無いため、15分待つと14番が来た。

大通り(Avenida de Andalucía)を進み、橋(Puente de Tetuán)を渡り、見えてきた広場(Alameda Principal)で降りて、大通り(Calle Atarazanas)を渡り、中央市場(Mercado Central de Atarazanas)に行くが、周辺の枠組みしか残されておらず、建物の周辺は工事用の物で覆われていてがっかりした。1879年に作られた建物も外観だけ残されていて、内側を再び立て直して、建物の中身を取り換えていた。北に歩いてゆき、1554年に建てられた素敵な外壁の模様があるバロック様式の教会(Iglesia de San Juan Bautista)を通り、1910年に建てられたネオ=ゴシック様式の教会(Iglesia del Sagrado Corazón)は、大聖堂(Catedral de la Encarnación)と見間違えるように立派だった。

1487年にゴシック=ムデハル様式で建てられた教会(Iglesia de los Santos Mártires)を通り、広場(Plaza de la Constitución)に至ると美しい商店街(Calle Marqués de Larios)があった。1528年から建てられた大聖堂(Catedral de la Encarnación)は、1762年に建てられたサーモンピンクとクリーム色の素敵な配色で上に風除けの垂れ幕が下がり、スペイン王室の紋章がある門があり、スペイン国旗のようカラフルで南国風の司教宮殿(Palacio Episcopal / Centro Cultural Fundación Unicaja de Málaga)と共に広場(Plaza del Obispo)に面していた。大聖堂は時計と鐘が付けられた塔が聳え立ち壮観だった。また、門の装飾がそれぞれ異なり、色遣いが独特だった。

それから大通り(Calle Santa María, Calle Cister)を行き、大学(Universidad de Málaga)附属の1788年に建てられた邸宅(Palacio de la Aduana)の博物館(Museo de Málaga)を通り、海岸沿いの港が一望できる公園に行ったが、港はセメントで固められていて美しくなかった。大きな貨物船が停泊していて、工業地帯のような雰囲気だった。灯台(La Farola de Málaga)が見えた。

通り(Calle Alcazabilla)に戻り、11世紀のハムディド朝(بَنُو حَمُود‎ / Banū Ḥammūd)治世下に建てられた砦(Alcazaba < アラビア語「要塞」قَصَبَة / al-qaṣbaが語源)に入った。タイファ時代の宮殿(Palacio taifal y nazarí)も、その守護用の建物の隣にあり、入り口にローマ時代の碑文が置かれていて、ローマ時代の劇場跡と思っていたが、直ぐに建物がイスラム建築であることが分かった。

ローマ時代の遺跡を再利用する形でイスラム建築が複合していた。ラテン語で書かれた碑文が転がっていて歴史を感じさせた。そこから、少し坂を登ると小高い丘に出た。

今日は日曜で無料で入場でき、沢山のスペイン人とフランス人とすれ違った。宮殿の周辺の守衛用の塔(Torre del Homenaje)から町並みが一望でき、砦を中心として町ができた理由が良く分かった。初めて地中海を一望できて感動的だった。朝訪れたGranadaの宮殿(Alhambra)に似た様式により、記憶が生々しい内に訪れて良かった。一つ一つの装飾は美しくて引けを取らなかった。

中庭(Patio de la Alberca)や庭園(Plaza de Armas)は、Granadaの宮殿(Alhambra)の方が贅沢で美しく、入口には必ず長方形の窓とアラブ式の模様があった。建物の中にアラブの陶器が展示されていたが、中国・朝鮮・日本の陶磁器に比べるとちゃちな印象は否めなかった。彫刻に関しては、芸術的な透かし彫りがあるにもかかわらず、陶芸がかなりちゃちなのは不思議だが、良質な陶土が手に入らないからかもしれず、素焼きに釉薬をかけただけの陶器が多くて、東洋のような青磁はなかった。宮殿を出てから、閉鎖されていたローマの劇場(Teatro romano)を柵の外から見た。

大きなカフェが立ち並んで賑わいのある広場(Plaza de la Judería)に出て、聖ヤコブに関係する教会(Parroquia Santiago Apóstol)で久しぶりに帆立貝の紋章を見つけた。

それから、近くの広場(Plaza de la Merced)の一角にあるパブロ・ピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)の生家(Museo Casa Natal Picasso)を訪れた。財団が保存していて、無料で見学できた。一階にはPicassoが描いた絵画があり、Parisの美術館よりも、保守的な作風が多かった。

最小限の線で絵を構成した素晴らしい作品と落書きのような作品もあった。二階には、家族写真、生誕、幼少、老年と全ての年代の写真があり、生まれた部屋は良い部屋だった。四歳児が書いたようなお馬さんが書かれていたり、ハートや顔が優しくて気に入った作品もあった。ピカソはどうしてこんなに幼児性と保守性が相反するような作品を残しているのか不思議に感じた。

城壁(Alcazaba)の裏手の大通り(Plaza Jesus el Rico)を歩いてゆき、城の展望台(Mirador de Gibralfaro)に上がると景色が開けて、街全体が見渡せた。昔の人が日常物資をよくも山頂まで運んだと感心するほど急な坂だった。闘牛場(Plaza de toros de La Malagueta)、市役所(Ayuntamiento de Málaga)、庭(Jardines de Pedro Luis Alonso)、港(Puerto de Màlaga)が箱庭のように見えた。

歩道を登りつめると、砦(Castillo de Gibralfaro)の広場に上がる所に受付があり、日曜日の午後は無料で入場できた。係の人に尋ねると真顔で2€ですと言われたので無料と書いてあるよと返したら、冗談ですよと大笑いした。受付の人はフランス語を流暢に話した。

城の上(Mirador de Gibralfaro)からの眺めを楽しんでから、遊歩道を下っていると、6人のすれ違いの人たちから、上からの眺めはどうかときかれて、町が一望できて、最高だから行くべきだと答えた。城を下り行くと駐車場に出た。皆車が傷だらけでまともな車が少なく、スペイン人は雑で傷がついても凹んでも気にせず、細い通りを進んだり、駐車も日本人よりも無茶をしてそうだと思った。

大通り(Paseo Reding)を歩いてゆき、闘牛場(Plaza de toros de La Malagueta)や宮殿(Palacio de Miramar)を通って、港(Puerto de Màlaga)の近くを少し行き海岸(Playa la Malagueta)を見た。

地元の観光客がいたが、砂は泥だらけで美しい白浜では無かった。皆スペイン人らしく、周辺の町から休日に出てきたような感じだった。水着を付けない全裸の人が沢山歩いていて驚いた。砂浜は長く続いていて人が多く出ていた。大通り(Paseo Marítimo Ciudad de Melilla)はリゾート化されていて、ホテルやコンドミニアムのような高いビルが林立していた。

海岸線を少し行くと岬に出て、灯台(La Farola de Málaga)に至った。海岸に面した普通の町並みだが軍隊(Residencia Militar Reyes Católicos)がいた。港の通り(Paseo del Muelle Uno)からの町の様子は美しかった。中型船が沢山停泊していたり動いていて活気があった。

14番のバスに乗り、ユースホステルの前に着いた。殆ど端から端まで1€のバスは乗りがいがあった。町の様子が地区によって、大きく変化して面白かった。部屋に戻り、午後7時半の夕食に間に合うようにシャワーを浴びた。食事はビュッフェ形式でサラダも選んで好きなものも好きなだけ食べられて健康的だった。フランス人の集団が大勢いて、子供会をしていた。食後、今日は早起きしてGranadaでAlhambraまで走り、Málagaの町中を歩き通したため疲れていて、直ぐに寝ついた。

Málagaは紀元前770年頃にフェニキア人が植民して、フェニキア語「塩」𐤌𐤋𐤊𐤀 / mlkʾ < セム祖語*milḥ-が語源でウガリット語𐎎𐎍𐎈𐎚 / milḥatu、ヘブライ語מֶלַח‎ / mélakh、アラム語𐡌𐡋𐡇𐡀‎ / milḥā、アラビア語مِلْح‎ / milḥと関連する。紀元前550年頃にカルタゴ王マゴン(𐤌𐤂‬𐤍 / mgn)が支配、ギリシア語Μαλάκη / Malákēと呼ばれた。(紀元前630年頃にヘロドトスやストラボンはタルテッソス王アルガントニオス(Ἀργανθώνιος / Arganthṓnios)と盟約して、フォカイアのギリシア人が植民したことから、ギリシア語「スズキ」μαίνη / maínē < が語源とされたが正しくない。)紀元前205年にローマ帝国に編入され、ラテン語Malacaと記録され、81-84年に法律(Lex Flavia Malacitana)が制定され、都市(Municipium Malacitanum)ができた。290年頃にパトリキウス(Patricius)が司教となった。

511年に西ゴート人、552年に東ローマ帝国ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 482-565)、571年に西ゴート王レオウィギルド(Leovigild, 519-586)、615年にシセブット(Sisebut, c. 565-621)が支配して、711年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が侵攻して、アラビア語(مَالَقَة‎ / Mālaqa)と呼ばれた。

756年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド=アッラフマーン1世(عبد الرحمن الأول 'Abd al-Rahmān I, 731-788)、1026年にマラガ王国(طَائِفَة مَالَقَة‎ / ṭāʾifa mālaqa)、1239年にナスル朝(بَنُو نَصْر‎ / banū Naṣr)グラナダ王国(إِمَارَة غَرْنَاطَة‎ / Imārat Ġarnāṭah)のムハンマド1世 ( محمد بن يوسف بن نصر / Muḥammad ibn Yūsuf ibn Naṣr, 1194-1273) が支配、1279年にジェノバと貿易協定を結び、1487年に アラゴン王フェルディナンド2世(Ferdinand II, 1452-1516)とカスティーリャ女王イザベル(Isabella I, 1451-1504)に征服した。

哲学者イブン・ガビーロール(أبو أيوب سليمان بن يحيى بن جبيرول / Abū ’Ayyūb Sulaymān bin Yaḥyá bin Jabīrūl / Avicebron, 1021-1058)や植物学者イブン・バイタール(ضياء الدين أبو محمد عبدالله بن أحمد بن البيطار المالقي Ḍiyāʾ / Al-Dīn Abū Muḥammad ʿAbdllāh Ibn Aḥmad al-Mālaqī, 1188-1248)を輩出した。

Granadaの宮殿(Alhambra)の中庭(Patio de Arrayanes)と塔(Torre de Comares)

2008年6月9日(月)61日目(Málaga-Córdoba: Albergue Inturjoven Córdoba)

Córdobaで8年ぶりにMezquita-Catedralを訪れたり、バシリカ(Basílica de Santa Catalina) やモスクに転用された美しい尖塔(torre-alminar)を伴う、街の歴史を物語る修道院(Convento de Santa Clara) 、ローマ神殿(Templo Romano)、1244年に建てられた教会(Iglesia de San Lorenzo)の美しいゴシック建築、川(Rió Guadalquivir)の畔にある水車小屋(Sotos de la Albolafia)、浴場(Baños califales)や王宮(Alcázar andalusí) など、イスラム建築を楽しみながら旧市街を歩いた。

今日は午前6時に起き、午前6時40分に宿を出て、暗い中を駅(Estación de Málaga María Zambrano)まで歩き通した。駅のショッピングセンター(Vialia Centro Comercial)にある店は全て閉まっていたが、午前7時5分前に券売所が開いて、急いで並ぶと待たされずに買えた。名刺に書かれていた駅員さんの名前もCórdobaであることに気づいて、行き先と同じですねと言うと笑い出して盛り上がった。

急いでプラットホームに行くと荷物検査があり、特急は警備が厳しいと思った。警備員さんがSantiago de Compostelaに行ったんだと優しく声をかけてくれた。列車に乗り、Córdobaに発った。

列車の両側で番号は飛び飛びで席を探すのが大変だったが、慣れたスペイン人が助けてくれて、見つかるとなぜか一緒に喜んでくれた。定刻になると、何の放送もなく、いきなり動き出して驚いた。

アンダルシアの美しい向日葵畑や田園地帯を通り、美しい日の出を車内で見て、食堂車も完備されていて、美しく快適な車内だった。Córdobaに近づいたとき、岩山に760年に建てられたい美しい古城(Castillo de Almodóvar del Río)が聳え立つ絵になるような情景を楽しめた。

線路の北側に936年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド=アッラフマーン3世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān III, 889-961)が造営、孫のヒシャーム2世(ابو الولید ھشام المؤيد بالله / Abū'l-Walīd Hishām al-Muʾayyad bi-ʾllāh, 965-1013)の時代に放棄された宮殿跡(Medina Azahara < الْمَدِينَة اَلزَّهْرَاء‎ / al-madīna az-zahrāʾ)が見えた。

Córdoba駅に到着してから、町中の観光案内所で地図をもらい、ユースホステルを目指した。広場(Paseo de la Victoria)で1世紀に建てられたローマ時代の霊廟跡(Mausoleo Romano)を過ぎてから、1340年にカスティーリャ王アルフォンソ11世(Alfonso XI, 1311-1350)が建てた立派な彫刻の門がある教会(Real Colegiata de San Hipólito)を見ながら路地(Calle José Zorrilla)を進んだ。

フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が建てたゴシック=ムデハル様式の教会(Iglesia de San Nicolás de la Villa)の前の庁舎(Delegación del Gobierno de la Junta de Andalucía)がある広場(Plaza de San Nicolás)の日陰でゆっくりと休憩をして、これからどこを訪ねるかを考えた。

それから、9世紀のモスクのミナレットがボロボロになりながらもかろうじて残されている教会(Alminar de San Juan de los Caballeros)に至った。古い石材に新しい石材がはめ込まれていてパッチワークみたいだった。Granadaの宮殿(Alhambra)やCórdobaの大聖堂(Mezquita)のよう有名ではないが、モスクを転用した教会や塔が広場にひっそりと佇んでいるのを見るのが気に入った。

旧市街の区域に入り、古いモスクの場所に1236年に建てられた修道院跡 (Convento de la Trinidad) に1705年に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Juan y Todos los Santos)が面した広場(Plaza de la Trinidad)から細い路地(Calle Sánchez de Feria)を進み、14世紀に建てられた古い門(Puerta de Almodóvar)を通り、細い路地(Calle Judíos)を歩いて、アンダルシアの家(La Casa Andalusí)を通り、1315年に建てられたシナゴーグ(Sinagoga de Córdoba)の前を通るが、日曜日で閉まっていた。辺りには昔からユダヤ人たちが住んでいた地域で雰囲気があった。

美しいアラブ風庭園(Patio Andaluz)やマイモニデス(רבי משה בן מיימון‎ / Mōšéh ben Mayimōn > Maimonides, 1135-1204)の生誕の記念碑を過ぎて、広場(Plaza Maimonides)から細い路地(Calle Tomás Conde)を更に進み、1399年に建てられたムデハル様式の教会(Capilla de San Bartolomé)付近でユースホステル(Albergue Inturjoven Córdoba)を探した。直ぐに広場(Plaza de Judá Levi)の奥まった所に見つかり、受付の雰囲気は雑然としているが、部屋はしっかりしていて、エアコンも利いて快適に過ごせた。ドアに落書きらしいペイントがあった。荷物を置いてから、直ぐに街に出た。

旧市街に近く何よりもメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)に近くて便利な立地だった。近くにある12世紀に建てられたイスラム建築の邸宅(La Casa Andalusí)とその中庭(Patios)を楽しんだ。特に地下室が広く通りの下まで伸びていて、倉庫や食料貯蔵庫や井戸もあり深かった。部屋もアラブ風に統一されていて、モザイクの部屋(Sala del Mosaico)も美しかった。カリフ時代のコイン(Colección de monedas)や古いコーラン写本(Museo del Papel)の美しさに魅かれた。

街のシンボルであるメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)に直行すると、直ぐ隣の通り(Calle Cardenal Herrero)にBurger Kingが立っていて、不釣り合いさに笑ってしまった。庭園(Patio de los Naranjos)から見た塔は美しかったが、イスラム建築のオリジナルではなく、レコンキスタ後のキリスト教徒による建物だった。メスキータ大聖堂の中に入ると8年前に訪れたときのことを思い出した。

最初の784-85年に建てられた第1期に建造された部分で煉瓦と白い漆喰の互い違いのアーチは美しく、礎石の様々な材質に気づき、古材を再利用した感じがした。聖母像がある小祭壇が上手く調和していて圧巻だった。中央の十字架上の祭壇は美しく、イスラム教とキリスト教の要素が調和していた。

西ゴート王国時代の584年に建てられた聖堂(Basílica de San Vicente Mártir)の発掘品やモザイクが展示され興味深かった。833-48年に建てられた第2期の美しく完全に残された装飾があり、司教館の中に沢山の聖像や聖遺物が圧巻でアラブ風の出口があり美しかった。アラビア文字の透かしがあった。

961年に建てられた第3期と987-88年の第4期の部分では、アーチが白と赤交互に塗られていて、明らかな手抜きであると分かった。側面の大聖堂を見て、一番端のトイレに行き、大聖堂を後にした。

西方で最大の都市のモスクであっただけ、内部はとても広くて、周囲には沢山の門があり、沢山の人を収容して礼拝できるように設計されていて圧巻だった。大聖堂に真ん中が改造されていた。

それから、11世紀に建てられたアラブの風呂(Baños árabes de Santa María)がある細くて美しい路地(Calleja de las Flores)のお土産屋さんから、大聖堂の尖塔が家の間から見える美しいスポットがあり、沢山の観光客がいた。フランス人とフランス語で話すと喜ばれて沢山おしゃべりをした。8年前に母と来て同じところから大聖堂の尖塔を眺めたことを思い出した。

17世紀に建てられたバロック様式の邸宅(Palacio de los Fernández de Mesa)を通り、修道院(Monasterio de la Encarnación)が面した細い路地(Calle Rey Heredia)を進んだ。

6世紀のゴート時代に建てられたバシリカ(Basílica de Santa Catalina) が、976年にモスクに転用された後に建てられた美しい尖塔(torre-alminar)を持つ1265年に建てられた修道院(Convento de Santa Clara)に出た。今は使われておらず、修復もされておらず荒れ放題だった。

そこから、また、雰囲気のある細い路地(Calle Horno del Cristo)を進んだ。広場(Plaza de Jerónimo Páez)に面した美しい門を持つ考古学博物館(Museo Arqueológico)は、月曜日で休館していた。Córdobaの町中はいたる所で工事をしていて、修復ラッシュでお忙しそうだった。博物館前の広場(Plaza de Jerónimo Páez)も工事のために行き止まりにされていた。

ユダヤ人街やアラブ人が築いたモスク周辺を出て、通り(Calle Marqués del Villar)を北に歩いた。17世紀に建てられたバロック様式の修道院(Convento del Corpus Christi)の門(Portada de Santa Ana de Lucena)には、ポルトガルのPortoで見たようなねじれた柱や面白い彫刻があった。

17世紀に建てられた司祭(Luis de Góngora y Argote, 1561-1627)の邸宅(Casa Góngora - Sala Galatea)の近くには、美しいアーチ(Arco del Portillo)がかけられた小さな通り(Calle Portillo)があったが通れなかった。19世紀に建てられた古い家(Posada del Potro)や18世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Francisco y San Eulogio)を通った。門の脇にはポルトガルと同じく青タイルの泉があり、スペインに入ってから見かけることがなかったので久しぶりに見た。

レコンキスタ直後に作られた地区だが古い建物が多かった。ここから通り(Calle Huerto San Pedro el Real, Calle Fernando Colón)を北に少し進むと1-2世紀に建てられたローマの神殿跡(Templo Romano)に辿りついた。ポルトガルのÉvolaと同じように柱だけ残されていて、壁が隣の建物の一部として使われていた。街の真ん中の広場にポツンとローマ時代の神殿があり驚いた。

1708年に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Pablo)に出て、立派なねじれた柱を持つ門を入ると古い中庭があり、右側に聖母像があった。この地区は17-18世紀の建物が多かった。近くの通り(Calle Carbonell y Morand)には、1725年に建てられた美しい像がある門を持つシトー会の修道院(Monasterio Cisterciense de la Inmaculada Concepción)があった。

広場(Plaza del Cardenal Toledo)から通り(Calle del Obispo Fitero, Calle Conde de Torres Cabrera)を行き、広場(Plaza de Capuchinas)に面した1725年に建てられた修道院(Convento de San Rafael / Convento de las Hermanas de la Cruz)を通り、広場(Plaza de los Bañuelos)から通り(Calle Diego de León)を歩くと1547年に建てられた学校(Instituto Luis de Góngora)があった。

それから、また北に進み、13世紀に建てられて1759年に内装を新たにした美しい薔薇窓を持つムデハル=ゴシック様式の教会(Parroquia de San Miguel Arcángel)を通った。ゴシック様式の大きな門にムデハル様式の小さな門が付いていて、キリスト教会とイスラムモスクが融合していた。

また、北に一本道(Calle del Obispo Fitero)を歩いてゆき、1578年に建てられた家(Casa del Bailío)の前に出た。今は図書館(Biblioteca Viva de Al-Andalus)として使われていた。正門にイスラム文様を取り入れた不思議な渦巻きがデザインされた建物が見えて楽しかった。

十字架がある広場(Plaza de Capuchinos)に面した18世紀に建てられた病院(Fundación Hospital San Jacinto y Nuestra Santa de los Dolores)や1629年に建てられた修道院の教会(Iglesia Conventual del Santo Ángel)から、北に通り(Calle Conde de Torres Cabrera)を歩いた。

広場(Plaza de Colón)の隣にSupermercado Diaがあり、完全に18世紀の建物の中に溶け込んでいた。パン菓子(Napolitana de jamón y queso)やパイ菓子(Empanada de atún con masa de hojaldre)、林檎風味のミネラルウォーター(Font Vella Sensación Manzana)や炭酸入りのミネラルウォーター(Gaseosa)など飲み物を買い、Dulcesolの粉砂糖を振りかけたケーキ(Miguelitos)があり、始めてスペインに入ってから見つけたのが嬉しくて沢山(400g)買った。

前の広場(Plaza de Colón)のベンチで食べていると、犬と散歩する紳士が、「美味しく召し上がれ(¡Buen apetito!)」と声をかけてくれて、「良いお散歩を(¡Buen paseo!)」と返すと喜んでくれた。犬の糞の始末をしっかりする人で、スペイン語の話しぶりから上流の人だと思った。

美しい庭園(Jardines de la Merced)を抜けて、16世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia Parroquial de Nuestra Señora de la Merced)に出た。近くにある学校(Colegio Público Torre Malmuerta)の高校生で溢れ、公園の幼稚園(C.D.P. Ferroviario)では送り迎えの父兄で一杯だった。

1752年に建てられた邸宅(Palacio de la Merced)の前には、市議会(Diputación Provincial de Córdoba)もあった。また、北東に進んでゆくと1404年に建てられた塔(Torre de la Malmuerta)はロータリにポツンと聳え立ち、門を潜り出ると小さなマリア像が鎮座していた。

それから、大通り(Avenida de las Ollerías)を東に進み、通り(Calle Mayor de Santa Marina)を南に進み、13世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de Santa Marina de Aguas Santas)の前の広場(Plaza del Conde de Priego)で一息をついてから、向かいの1491年に建てられた修道院(Convento de Santa Isabel de los Ángeles)を過ぎ、広場(Plaza de don Gome)に面した16世紀に建てられた立派な門(Portada monumental de Juan de Ochoa)を持つ邸宅(Palacio de Viana)を通り、近くに地図には無いが、美しい城壁の一部があり、通り(Calle Rejas de Don Gome)を進んだ。

1328年に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Agustín)を通り、1548年に建てられた二つの塔が立ち並んだバロック様式の教会(Iglesia del Juramento de San Rafael)に着いた。この地区は古い建物が点在して、レコンキスタ直後に建てられたゴシック様式の教会が多く、特に1244年に建てられた教会(Iglesia de San Lorenzo)は、今まで見てきた中でも特に美しい薔薇模様の飾り窓を持つゴシック様式の教会だが工事中で入れず、先に建てられたモスクの一部が残されていた。

大通り(Calle María Auxiliadora)を歩いて近くの17世紀の教会(Iglesia de Nuestra Señora de Gracia / Iglesia del Rescatado)に着き、広場(Plaza Cristo de Garcia)でゆっくりして城壁を見た。城壁は一部しか残っておらず、市立学校(Colegio Público Condesa de las Quemadas)の一部になっていた。

大通り(Avenida de Barcelona, Avenida de Libia)を歩いた。16世紀の教会(Iglesia de Nuestra Señora del Carmen)がサレジオ学校(Colegio Salesianos)の一部になっていた。

それから、通り(Calle Ronda de Andújar)を行き、1236年に建てられた美しいゴシック=ムデハル様式の教会(Iglesia de la Magdalena)、通り(Calle Muñices)に面した1795年に建てられた邸宅(Palacio de los Muñices)を通り、1246年に建てられ、1555年に建て替えられた美しい教会(Iglesia de San Andrés)、先ほど見落とした1560年に建てられた三段重ねの立派な門を持つ邸宅(Palacio de los Villalones)などを見て回り、通り(Calle San Pablo)を歩いて南に進んだ。

先ほどにも訪れた教会(Iglesia de San Pablo)を通り、ローマの神殿跡(Templo Romano)に戻り、広場(Plaza de la Corredera)に出た。Veneziaのサン・マルコ広場(Piazza San Marco)やPamplonaのカスティロ広場(Plaza del Castillo)のように一面建物に囲まれていて、色遣いが黄や赤で地中海風の色彩で綾どられた17世紀に建てられた邸宅(Casa de Doña Jacinta)があった。

また、15世紀に建てられた小さな聖堂(Ermita del Socorro)や1607年に建てられた学校(Colegio Nuestra Señora de la Piedad)があった。通り(Calle Sánchez Peña)にある市場(Mercado de la Corredera Plaza de las Cañas)を通り、18世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Francisco y San Eulogio)に至った。16-17世紀の建物が多い地区で歴史的建造物の宝庫だった。

13世紀に建てられた教会(Basílica Menor de San Pedro)に向かい、通り(Calle Agustín Moreno)の15世紀に建てられた修道院(Convento de Santa Cruz)を通り、13世紀に建てられた教会(Iglesia de Santiago Apóstol)に出た。ゴシック式の彫刻が美しかったが、通りが狭くて外からは見えなかった。

Santiago de Compostelaへの巡礼路の印があり、18世紀に建てられた邸宅(Palacio del Marqués de Benamejí)はSantiago de Compostelaへの巡礼路へのガイドが住んでいた家であった。14世紀に建てられたムデハル様式の透かし彫りがある中庭が美しい家(Casa de las Campanas)を見てから、教会跡(Antigua iglesia y asilo de Madre de Dios)に至ると、外観はきれいだが、修復を必要としていた。

1476年に建てられた教会(Iglesia de la Virgen de la Fuensanta)を探すが、新興住宅で迷い、見つけられず、戻ってきた。 教会跡のはす向かいにある交差点(Avenida Nuestra Señora de la Fuensanta, Calle Campo Madre de Dios)に面した広場には、小さな姉妹が二人いて、犬と遊んでいた。泉の水で足や手を洗っていたが、きれいかは分からない。泉の中にコインを見つけ、横にあるキオスクでアイスを買って食べていた。時どき犬が泉の石段に登り、水の中に落ちそうになりながら乗っていた。

1575年に建てられた小さな聖堂(Ermita de los Santos Mártires)は美しかった。(特にバシリカ(Basílica)と名付けられた教会は、古代の4世紀頃に建てられた古い聖堂であり、西ゴート王国にまで遡るそうで由緒がある。先ほど見た教会(Basílica menor de San Pedro)が、元のバシリカ(Basílica de Los Tres Santos)であり、また、別のバシリカ(Basílica de San ZoiloとBasílica de Santos Mártires(San Acisclo)の三つが西ゴート時代に建てられたことが記録されている。)

内側は公園(Parque Ruth y José)でSupermercado Eroskiが大きく見えて、歴史的建物との対照が面白かった。川沿い(Rió Guadalquivir)に大通り(Carretera Madrid-Cadiz)を歩いた。

1237年に建てられた水車小屋(Museo Molino de Martos)は閉じていて入れなかったが、18世紀に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San Francisco y San Eulogio)の周辺の広場(Plaza del Potro)の噴水(Fuente del Potro)を見てから、6世紀のバシリカや10世紀のモスクを基礎として、1236年に建てられた修道院(Convento de Santa Clara)に至った。特に古い時代から中心として機能してきたことが街並みから感じられた。そこから小道(Calle Martínez Rucker)を歩いた。

メスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)の東側にあたる10世紀に建てられたイスラム建築(El pabellón de abluciones oriental de la Mezquita Aljama)周辺の通り(Calle Magistral González Francés)には沢山のホステルやレストランがあり賑やかで馬車が走っていた。

大通り(Calle Corregidor Luis de la Cerda)を歩き、凱旋門(Triunfo de San Rafael de la Puerta del Puente)を過ぎて、ローマ橋(Puente Romano)を渡り終えると美しい聖ラファエル像(Estatua de San Rafael Arcángel)に蝋燭が添えられていて、屋根がないので雨がほとんど降らなそうだった。

橋からの旧市街の眺めは美しかった。1369年に建てられた塔(Torre de La Calahorra)を過ぎて、川向うの水車小屋(Molino de San Antonio)に入ると、現代美術の展示会が催されていた。4軒の水車小屋があったが、美しく残っているのはここだけだった。水車小屋(Sotos)を見て、巡礼仲間で最もよくお話をして親しんだXavierの姓Sotosは英語ならMillerに当たることを思い出した。

水車小屋(Sotos de la Albolafia)を見てから橋を渡り、メスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)に戻った。朝には気付かなかったが、イスラム建築の城門が四方八方に保存されていて美しかった。特に一つの門(Puerta de San Ildefonso)が美しくて気に入った。

1328年に建てられたキリスト教王たちの王宮(Alcázar de los Reyes Cristianos)や10世紀の後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のハカム2世(الحكم الثاني‎ Al-Hakam II, 915-976)により建てられた風呂場(Baños califales)がある広場(Plaza Campo Santo de los Mártires)を見てから、784年にアブド・アッラフマーン1世(عبد الرحمن الأول 'Abd al-Rahmān I, 731-788)が建てた王宮(Alcázar andalusí)を見ながら進んだ。

それから庭園沿いに歩き、最南端の城壁までたどり着いた。1590年に建てられた教会(Parroquia de Nuestra Señora de la Paz / Iglesia de San Basilio)を見て、また、路地(Calle Puerta Sevilla)から15世紀に建てられた塔(Torre de Guadalcabrillas)を見て、午後8時少し前に宿に戻った。

シャワーを浴びると、夕食の時間になった。ビュッフェ形式で好きなものを食べれるが、スペイン人の老人団体が盛り上がり過ぎて騒がしかった。更に他のスペイン人の小学生で込み合いで静かに食べることができずに参った。旅慣れているように見えたフランス人五人組は、食べたい量だけ取り、効率よく食べていた。今日は足が筋肉痛で階段も登れないくらい大変だったが、町の全てを見れて良かった。Mezquita-Catedralの周りには、多くのホステルがあり、南側にも多く住宅地になっていた。

Guadalquivirはアラビア語「大きな川床」اَلْوَادِي الْكَبِيرْ / al-wādi al-kabīrが語源である。タルテッソス人はCertis < ケルト祖語「曲がる」*kʷaleti < 印欧祖語*kʷél-e-ti < *kʷel-と呼んだ。ギリシア人は古典ギリシア語Ῥέρκης / Rérkēsと呼び、古典ギリシア語「流れる」ῥέω / rhéō < ヘレニック祖語*hréyyō < 印欧祖語*sréw-ye-ti < *srew-が語源、ローマ人はラテン語Baetis < 古典ギリシア語Βαῖτις / Baîtisと呼び、バスク語「川」ibai < *ɦibai + 接尾辞 -ki < *-kiが語源と考えられる。

Córdobaは紀元前8世紀にタルテッソス人が作り、北アフリカのヌミディア王ユバ1世(𐤉𐤅𐤁𐤏𐤉‎ / ywbʿy > Juba I, 85-45 a.C.n.)に由来して、フェニキア語𐤒𐤓𐤕𐤉𐤅𐤁𐤏𐤉‎ / qrtywbʿy < 「都市」𐤒𐤀𐤓𐤕‎ / qʾrt(セム祖語*ḳVry-at- < 「会う」*ḳryが語源でアッカド語𒆠𒅕𒄷 / kerḫu、ウガリット語𐎖𐎗𐎚 / qaritu、ヘブライ語קֶרֶת / qeret、アラム語𐡒𐡓𐡕𐡀 / qartā、シリア語ܩܪܝܬܐ / qərīṯā、アラビア語قَرْيَة / qaryaと関連) +「ユバ」 𐤉𐤅𐤁𐤏𐤉‎ / ywbʿy(ラテン語Iuba < 「認定する」iubeo < 古ラテン語ioubeo < イタリック祖語*jouðejō < 印欧祖語*Hyowdʰ-éye-ti < 「突き進む」*Hyewdʰ- < 「正しい」*h₂yew-が語源でサンスクリットयोधयति / yodháyati < インド=イラン祖語*Hyawdʰáyatiやリトアニア語judėti < バルト=スラヴ祖語*jaudīˀteiと関連)か「良い」𐤈𐤅𐤁𐤄 / ṭwbh(セム祖語*ṭāb-が語源でアッカド語𒄭 / ṭābum、ウガリット語𐎉𐎁 / ṭābu、ヘブライ語טוֹב •/ tov、アラム語𐡈𐡁𐡀‎ / ṭābā、シリア語ܛܳܒܴ݁ܐ‎ / ṭābā、アラビア語طَيِّب‎ / ṭayyibと関連)が語源で古典ギリシア語Κορδύβη / Kordúbēと記録された。紀元前206年に古代ローマの属州(Hispania Ulterior Baetica)の首都(Corduba)になり、セネカ(Lucius Annaeus Seneca, 4 a.C.n.-65)やルカヌス(Marcus Annaeus Lucanus, 39-65)を輩出した。

294年にオシウス(Hosius, 256-349)が司教になり、554年に東ローマ帝国の属州(Provincia Spaniae)となり、571年に西ゴート王国レオヴィギルド(Liuvigild, 519-586)、711年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配、アラビア語(قُرْطُبَة / Qurṭuba)となり、719年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)の首都となった。

756年にアミール領(إمارة قرطبة‎ / Imārat Qurṭubah)となり、アブド・アッラフマーン1世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān I, 731-788)が統治して、810年にバグダットから音楽家ジルヤーブ(زرياب / Ziryāb, 789-857)が来た。929年にコルドバ・カリフ国(خِلَافَة قُرْطُبَة‎ / Khilāfa Qurṭuba)となり、アブド=アッラフマーン3世(عبد الرحمن الأول / 'Abd al-Rahmān III, 889-961)が統治して、936年にザフラー宮殿(الْمَدِينَة اَلزَّهْرَاء‎ / al-madīna az-zahrāʾ)が建てられて、世界最大の都市となった。

1031年にコルドバ王国(طائفة قرطبة‎ / Ṭāʾifa Qurṭubah)となり、1091年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)となり、1236年に カスティーリャ王フェルナンド3世(Fernando III, 1201-1252)が 征服して、997年にはアルマンソル(المنصور بن أبي عامر > Almanzor, 939-1002) が略奪したSantiago de Compostelaの鐘が、Toledoに戻されて、大モスクは大聖堂に転用された。

外科医・医学者アル=カースィム(أبو القاسم خلف بن عباس الزهراوي Abū l-Qāsim Ḫalaf ibn ʿAbbās az-Zahrāwī / Abulcasis, 936-1013)はCórdobaで生まれ、《解剖の書(كتاب التصريف لمن عجز عن التأليف Kitāb al-tasrif li-man ʿayiza ʿan al-ta'lif)》を執筆して、医療器具を数多く発明した。

言語学者ハイユージュ(أبو زكريا يحيى بن داؤد حيوج / Abū Sakarīya Yahya ibn Dāwūd Ḥayyūdsch, c.945-1012)は、モロッコFezで生まれ、Córdobaでアラビア語文法を規範として、ヘブライ語文法を確立、三子音の語根に母音を加えて言葉を派生するセム語のシステムを記述した。

外科医・薬学者イブン・ジュルジュル(سليمان بن حسان ابن جلجل‎ Abū Dāwūd Sulaymān ibn Ḥassān Ibn Juljul, 944-994)は《医者と才人の系譜(طبقات الأطباء والحكماء Ṭabaqāt al-aṭibbā' wa'l-ḥukamā' )を執筆して、イスラム世界で二番目の医学史となった。

Córdobaは哲学者・外科医イブン・アル=カッターニー(ابو عبد الله محمد ابن حسن المعروف بابن الكتانى / Abī ‘Abd Allāh Muḥammad ibn Ḥasan Ibn al-Kattānī, 951–1029)、天文学者イブン・アル=サッファー(أبو القاسم أحمد بن عبد الله بن عمر الغافقي ابن الصَّفَّار / Abū al‐Qāsim Aḥmad ibn ʿAbd Allāh ibn ʿUmar al‐Ghāfiqī ibn al‐Ṣaffār, c.960-1035)、歴史学者イブン・アル=ファラディ(أبو الوليد عبد الله بن محمد بن يوسف بن الفرضي / Abū al-Walid ‘Abd Allāh ibn Muḥammad ibn Yūsuf al-Faraḍī, 962-1012)、文学者イブン・ハズム(أبو محمد علي بن احمد بن سعيد بن حزم / Abū Muḥammad ʿAlī ibn Aḥmad ibn Saʿīd ibn Ḥazm, 994-1064)、ムハンマド3世(محمد بن عبد الرحمن المستكفي / Muḥammad ibn ʿAbd ar-Raḥmān al-Mustakfī, c.960-1025)の娘ワッラーダ(ولادة بنت المستكفي / Wallāda bint al-Mustakfī, 994-1091)、詩人イブン・ザイドゥーン(أبو الوليد أحمد بن زيدوني المخزومي / Abū al-Walīd Aḥmad Ibn Zaydūni al-Makhzūmī, 1003-1071)、詩人イブン・クズマーン(أبو بكر محمد بن عيسى بن عبدالملك بن عيسى بن قزمان الزهري‎ / Abū Bakr Muḥammad ibn ῾Īsā ibn ῾Abd al-Malik ibn ῾Īsā ibn Quzmān al-Zuhrī, 1087-1160)、歴史学者イブン・バシュクワール(خلف بن عبد الملك بن مسعود بن موسى بن بشكوال بن يوسف, أبو القاسم / Ḫalaf ibn 'Abd al- Malik ibn Mas'ūd ibn Mūsā ibn Baškuwāl, Abū'l-Qāsim, 1101-1183)、哲学者イブン・ルシュド(أبو الوليد محمد ابن احمد ابن رشد‎ / Abū l-Walīd Muḥammad Ibn ʾAḥmad Ibn Rušd > Averroes, 1126-1198)、法学者アル=クルトゥビー(أبو عبد الله محمد بن أحمد بن أبي بكر بن فرح الأنصاري الخزرجي الأندلوسي القرطبي / Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn Aḥmad ibn Abī Bakr ibn Farḥ al-Anṣārī al-Ḫazraǧī al-Andalusī al-Qurṭubī, 1214-1272)などを輩出した。

Córdobaのメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)の内部

2008年6月10日(火)62日目(Córdoba-Ciudad Real-Almagro-Ciuda Real-Madrid-Toledo: Albergue Castillo de San Servando)

朝にメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)の周辺を散策して、宿を出たときにドイツ人夫妻の巡礼者とお話をした。Almagroで最古の劇場を見学して、Hospital de San Juanなど美しい中庭を見た。街はこざっぱりとして石畳が美しかった。Toledoで古城を改装した由緒ある建物(Albergue Castillo de San Servando)に宿泊した。古いイスラム建築(Mezquita de las Tornerías)などを少しだけ見た。

今日は午前7時半に起き、朝食前にメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)の周辺を散策して、宮殿(Palacio de Congresos y Exposiciones de Córdoba)や美しい門(Puerta de la Concepción Antigua, Puerta del Perdón)を見つけた。観光客も少なくてゆっくりと楽しめた。

宿に戻ると、前で父がドイツ人ClausさんとUrsulaさん夫妻と話していて、これからSantiago de Compostelaに歩いていくそうだった。一緒に朝食を取ると、直ぐに小学生たちがやってきて賑やかになり、フランス人たちは好きなだけ取り、昼食のために食べ物を持ち出してルール違反をしていた。

部屋に戻り、直ぐに発ち、前庭でドイツ人巡礼者と記念撮影をした。ドイツ人らしく、私が差し出した紙に私たちが会った日時と場所(Córdobaにて2008年6月10日8時57分)と律儀に書き込み、ダニや蚊に食われたり、Alhambraで転んで怪我をした傷を見せたら、天然のアルコールにお花を浸して抽出した薬剤を塗ってくれて、これは飲めるほど、身体によいものだというので、口の中に垂らしてもらうと良い香りがした。スペインに来て始めて巡礼者を見たそうで、奥さんがとても興奮していた。

ドイツ人夫妻とお別れしてから、城壁の外に出て、昨日歩いてきた道を遡り、駅(Estación de Córdoba)に着いた。午前10時50分頃に電車があり、乗り継ぎもよく、バス停の入り口で宿で見かけた二人組のフランス人がいた。無事にAlmagroの切符を買うことができたため、乗り換え時間が少なかったけれども安心だった。ホームで列車を待ちながら、日記を書き、走行中は風景を楽しんだ。

列車は2、3分遅れてきた。特急(Alta Velocidad Española)はサービスが良く、飛行機のように飴やイアホンを配られ、直ぐにCiudad Realに少し遅れて着いた。駅(Estación de Ciudad Real)の中にある観光案内所で地図をもらい、急いでAlmagro行きに乗り換え、9分遅れで駅を出て、少し走り3分遅れでAlmagroに着いた (アラビア語「赤い土」الْمَغْرَة‎ / al-maḡraか「西域」الْمَغْرِ / al-maḡribが語源) 。

確かに一駅しかないが、バスのように長い車両が、機関車に牽引されてキーキーとけたたましい音を立てるため、初めは古い車両で頼りなく感じたが、それからかなり飛ばしてくれた。小さな駅を降りて、街の中へ真っ直ぐ伸びる並木道(Paseo de la Estación)を歩いてゆき、16世紀にバイエルンのAugusburgから水銀鉱山の開発のために来たフッガー家(Fugger)により建てられた煉瓦と黒色の石が斑模様をなしている質素で美しい教会(Iglesia de San Blas)が建っていた。

広場を目指して通り(Calle Emilio Piñuela)を進むと、1625年に建てられたレンガ色の優美な塔を持つ教会(Parroquia de San Bartolomé)や国立演劇博物館(Museo Nacional del Teatro)がある通り(Calle Gran Maestre)を進み、美しい中庭がある広場(Plaza Mayor)に出た。

広場の端には騎馬像(Escultura Ecuestre de Diego de Almagro)があり、美しい建物に囲まれていた。直ぐに観光案内所(Oficina de Turismo)を見つけて地図をもらうことができ、町を歩き通して史跡巡りをしてみると、小さな町で宿もなく、街全体を2時間で見れた。

18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Agustín)を見て、通り(Calle San Agustín, Calle Pradillo de San Blas)を通り、教会(Iglesia de San Blas)に戻った。通りを見ると美しい建物が1574年に設立した大学(Universidad Popular de Almagro / Convento-Universidad de Nuestra Señora del Rosario)の方向に見えたので歩いていった。小さい橋(Ronda Santo Domingo)を渡ると美しい中世の建物が聳え立っていた。中には改装中で入れなかったが美しくて、街の紋章が門の上に見えた。

大通り(Calle de San Bartolomé, Calle Gran Maestre)を一直線に歩いて、中央広場(Plaza Mayor)に戻り、1584年に建てられたスペイン最古かつ現存する唯一の劇場(Corral de Comedias)を見た。内側は思ったより広くて、地階・一階・二階まであり、観客も少なかった。地階には井戸があり、食事や飲み物を飲みながら、劇を見れるようになり、音声ガイドを貸りて見学できた。

通り(Calle Capitán Parras, Calle Bernardas)を歩いて、広場(Plaza de Santo Domingo)に至ると美しい庭が手入れされている最中で素晴らしかった。広場に面した1699年に建てられた古い家(Palacio de los Condes de Valdeparaíso)に入ると、白塗りの壁に青い縁取りの色彩が豊かで素晴らしく眺めていたら、中から人が出てきてて招いてくれて、中庭も見れた。見せてくれて、どうもありがとうございますと伝えると、とても感じ良く接して下さり、小さな町は気持ちいい人ばかりだった。

16世紀に建てられた煉瓦と黒色の石が斑模様をなしている修道院(Convento de Santa Catalina / Parador de Turismo)にも美しい庭があり手入れされていて、中には入れないが覗くことができた。近くの道(Calle de San Francisco)は通りの幅が広くて、ポルトガルからスペインに入ってからは、しばらく見ることが少なくなった小石を敷き詰めた石畳があり、美しい街並みだった。

公園(Parque de la Florida)から、路地(Calle Pablo Molina, Calle Carrascos, Calle Diego de Almagro)を行き、1597年に建てられた修道院(Convento de la Encarnación)、1546年に建てられた教会(Iglesia de Madre de Dios)を通り、1519年に建てられた家(Almacén de los Fúcares / Casa-Palacio de Juan Jédler)の大学(Universidad Popular de Almagro)の教会の一部として使われている建物の中庭に入り、白い列柱と煉瓦の壁のコントラストはこざっぱりとしてシンプルな美を感じた。ドイツから来た人たちのきちんとした性格が表れていて影響を受けているかもしれないと感じた。

大通りを渡り、ロータリーの先にある1524年に建てられた修道院(Convento de la Asunción de Calatrava)の美しい建築は、今は病院(Hospital de San Juan de Dios)として使われていた。前の噴水や植え込みにはきれいなピンク色の薔薇が咲いていて、ロータリーの雰囲気自体が美しく、町で一番美しい場所だった。近くの幹線道路(CM-412)に面したバス停(Estación de Autobuses)で確認をとるとToledoに直行しないため、バスではなく鉄道で行くことにした。

駅に通り(Calle Corredera de Calatrava)を歩いていくとき、闘牛場(Plaza de Toros de Almagro)があり、中には入れなかったが、小さなコロッセオがあり、赤と白のコントラストが美しかった。

町ですれ違う皆さんや話し込んでいる地元の人が挨拶をしてくれて、通りも広々としてゴミが一つも落ちておらず、陽ざしが温かくて風光明媚な上、白壁と煉瓦が映えていて気に入った。

闘牛場から駅まで通り(Calle Corredera de Calatrava, Calle Estación Férrea)を1、2分歩いた。小さな駅で電車も少ないため、Madrid行きの午後2時59分の列車を待つ間、また、バス停の先にあるSupermercado Mercadonaに行こうとしたが、時間がないために止めた。

列車は先程よりも長く、定刻通りに乗り込み、来た時よりも広々とした車内だった。砂漠のような乾燥した大地に広がるオリーブ畑の中を走り抜けて、Madridの駅(Estación de Atocha)に着くと大都会らしく、ホームに人が溢れかえり、治安が悪そうで居心地が悪かったが、ホームから出て、長距離鉄道(Renfe)の窓口で整理券をもらい、Toledo行きの切符を購入して、直ぐに荷物にX線を通したセキュリティーがなされている管理区域の中で落ち着く場所で座り寛いだ。

列車はMadridを午後6時50分に発車して、午後7時40分にToledoに到着した。電車の中では疲れていて眠りこみ、目を覚ますともう到着していた。ムデハル様式で建築された美しい駅を出て、旧市街方向に道(Paseo de la Rosa)を歩いてゆくと、川(Río Tago)の向こうに美しい街並みが見えてきて、大聖堂を中央に町が広がり、橋(Puente de Alcántara)を渡らず、きつい坂(Subita al Castillo)を登ると、1024年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が修道院として建てた古城を改装したユースホステル(Albergue Castillo de San Servando)が見えてきた。敷地に入ると城内に受付があり、二泊することをお伝えして、部屋に向かった。外観が古くても、部屋の中は快適に過ごせるように美しく改装されていて、美しい二人部屋で特にトイレもきれいで清潔だった。

直ぐに夕食を食べに古城から坂(Cuesta de San Servando)を下り、町中に出て、橋(Puente de Alcántara)を渡り、勾配がきつい坂を上がると1484年に創立した修道院の16世紀に建てられた教会(Convento de la Concepción Francisca)や1614年に建てられた立派なバロック様式の門がある美術館(Museo de Santa Cruz)が面した広場(Plaza Santiago de Caballeros)があった。

イスラム建築が豊かな町並みを抜けてゆき、門(Arco de la Sangre)をくぐり、黒光りする石畳が美しい広場(Plaza Zocodover)に着いた。広場に面した古い建物の中にMcDonald’sがあり、町を少し散策してから、帰りに入ることにした。通り(Calle del Comercio)を進むと、11世紀に建てられたモスク跡(Mezquita de las Tornerías)を見た。ヨーロッパ風の街並みに突然イスラム建築が現れて、新鮮な味わいがあり、入場は無料で出来るそうなので、明日に来て入ることにした。

広場(Plaza Cuatro Calles)から通り(Calle Chapinería)を抜けるとゴシック様式の大聖堂(Santa Iglesia Catedral Primada)の大きな薔薇窓を発見した。中央広場(Plaza mayor)を通り、先ほどの広場(Plaza Magdalena, Plaza Zocodover)に戻り、McDonald’sで食べた。ビックマックセットは、日本より少々割高だが、ガラスのマグカップとサッカーボールをくれた。旅の途中でもらい困ったが持ち帰り、ホステルで使った。食べた後、同じ道を通り、橋の前の門(Puerta de Alcántara)から宿泊する古城を眺めて、川(Río Tago)に沿って歩き、対岸から町を眺めようとしたが、もう暗くなり始めていたために止めて、ユースホステルまで直行して戻った。今日も鉄道を乗り継いだり、 街中を歩き回り、とても疲れていたため、シャワーを浴びずに床に入り、午後11時頃に眠りについた。

Córdobaのメスキータ大聖堂(Mezquita-Catedral)の美しい門(Puerta de San Ildefonso)

Toledoは、ケルト人カルペタニ族(Carpetani)が住み、フランスの地名Toulonと同じく、ケルト祖語「丘」*tol < 「穴」*tullos < 印欧祖語*tuk-slo-s < 「押す」*(s)tewk- < *(s)tew-が語源で古ブレトン語tullや古アイルランド語toll、古典ギリシア語「握る」τυκίζω / tukízō < ヘレニック祖語*tukíďďōと関連する。193年に古代ローマ都市(civitas stipendaria)のToletumとなり、リウィウス(Livius, c.59-17 a.C.n.)が「小さな都市だが、強固な土地(urbs parva, sed loco munita )」と記録した。

400年に第1回公会議、527年に第2回公会議に続いて、西ゴート王国の公会議が開かれ、546年に西ゴート王テウディス(Theudis, 470-548)が支配して、560年に西ゴート王アタナヒルド(Athanagild, 517-567)が首都として、587年にレカレド1世(Reccared I, 559-601)がアリウス派からカトリックに改宗して頻繁に会議が行われ、657年にイルデフォンス(Ildefonsus, 607-667)が司教となった。

711年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のイブン=ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が征服、アラビア語(طُلَيْطِلَة / Ṭulayṭila)と記録された。754年にモサラベ年代記(Continuatio Hispana)、881年にヴィギラヌス写本(Codex Vigilanus)が編纂され、999年にモスク(Cristo de la Luz)が着工して、1031年にトレド王国(طَائِفَة طُلَيْطِلَة / ṭāʾifa Ṭulayṭula)が独立した。

1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が征服、1086年にサグラハスの戦いでムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)のユースフ・イブン・ターシュフィーン(يوسف بن تاشفين ناصر الدين بن تالاكاكين الصنهاجي / Yūsuf ibn Tāshfīn Naṣr al-Dīn ibn Tālākakīn al-Ṣanhājī, 1061-1106)に敗北したが、Toledoの都市は防衛された。1180年にシナゴーグ(Santa María la Blanca)が着工して、12世紀にカスティーリャ王アルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が学問を振興して、トレド翻訳学派として、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共同して、アラビア語からラテン語に大量の哲学・神学・科学・法学などの文献が翻訳された。1227年に大聖堂が着工して、1484年に印刷所が開業した。1561年にフェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)が、Madridに宮廷を移した。

Toledoで生まれた薬学者・医学者イブン・アル=ワーフィット(إبن وافد اللخمي, أبو المطرّف عبد الرحمن إبن محمد‎ / Abū ’l-Abū al-Muṭarrif ʿAbd al-Rahmân Ibn Muḥammad ibn Wāfid al-Laẖmi / Abenguefith, 997-1074)は《薬学書(كِتَاب الْأَدْوِيَة‎ المُفرَدَة‎ / Kitāb al-adwiya al-mufrada > De medicamentis simplicibus)》をアラビア語で執筆した。1069年にToledo近郊で生まれた天文学者アル=ザルカーリー(أبو إسحاق إبراهيم بن يحيى النقاش الزرقالي / Abū Isḥāq Ibrāhīm ibn Yaḥyā an-Naqqāš az-Zarqālī‎ > Arzachel, 1028-1087)らにより、トレド天文表(زِيج اَلْطُلَيْطِلَي / Zīj al-Ṭulayṭalī > Tabulae Toledanae)が作成、ラテン語に翻訳、1270年頃にアルフォンソ天文表(Tabulae Alphonsinae)に改定された。

1125年にレイモン・ド・サウヴェタ(Raymond de Sauvetât)が司教になり、トレド翻訳学派(Escuela de Traductores de Toledo)を組織した。アラビア語に堪能なイスラム教徒のマドラサ教師やユダヤ人学者、ラテン語に堪能なモザラベ教徒やクリュニー会修道士が、アラビア語で書かれた文章を読み上げ、カスティーリャ語で文章の意味を議論をして、ラテン語で書記をして翻訳した。

イブン・ダーウード(إبراهيم بن داود / Ibrāhīm ibn Dāwūd > Avendauth, c.1110-1180)とドミニクス・グンディサリヌス(Dominicus Gundissalinus, c.1115-c.1190)はイブン=スィーナー(ابن سين / ibn Sīna > Avicenna, 930-1037)の《治癒の書(كِتَاب الشِّفَاء‎ / Kitāb aš-šifāʾ > Sufficientia)》 を翻訳した。

イングランドのアルフレッド(Alfredus Anglicus, c.1180-1220)、バースのアデラード(Adelardus Bathensis, c.1080-1152)、クレモナのゲラルド(Gerardus Cremonensis, 1114-1187)、トレドのマルコス(Marcus Toletanus, c.1160-1210)、スコットランドのマイケル(Michael Scotus, c.1175-1232)、ブルージュのルドルフ(Radulfus Brugensis)、トレドのマルコ(Marcus Toletensis)、イングランドのアルフレッド(Alfredus Anglicus)、トレドのジョン(Johannes Toletensis)、ドイツのヘルマン(Hermannus Alemannus)など、優秀な翻訳者たちがToledoに集結した。

クレモナのゲラルド(Gerardus Cremonensis, 1114-1187)は、アリストテレス(Ἀριστοτέλης > أَرِسْطُو / ʾarisṭū > Aristoteles, 384-322 a.C.n.)の《分析論後書(Ἀναλυτικὰ Ὕστερα > التَّحْلِيلَات الثَّانِيَة / at-taḥālīl aṯ-ṯāniya > Analytica Posteriora)》、《自然学(Φυσικὴ ἀκρόασις > السَّمَاعُ الطَّبِيعِي as-samāʿu > Physica)》、《生成消滅論(Περὶ γενέσεως καὶ φθορᾶς > ‏الْكَوْن وَاَلْفَسَاد‎ / al-kawn wal-fasād > De Generatione et Corruptione)》、《気象論(Μετεωρολογικά > الْآثَار الْعُلْوِيَّة‎ / al-ʾāṯār al-ʿulwiyya > Meteorologica)》、《天体論(Περὶ οὐρανοῦ > عَنْ السَّمَاوَات / ʿan as-samāwāt > De Caelo)》、ニコマコス倫理学(Ἠθικὰ Νικομάχεια > الْأَخْلَاق اَلْنِيقُومَاخِية / al-ʾaḵlāq al-nīqumaḵīya > Ethica Nikomacheia)、ユークリッド(Εὐκλείδης > إِقْلِيدِس / ʾiqlīdis > Euclidus)の《原論(Στοιχεῖον > الْأُصُول‎ / al-ʾuṣūl > Elementa)》、アルキメデス(Ἀρχιμήδης > أَرْخِمِيدَس‎ / ʾarḵimīdas > Archimedes, 287-212 a.C.n.)の《円周の測定(Κύκλου μέτρησις > قِيَاسَات دَائِرَة / qiyāsāt dāʾira > De la mesure du cercle)》、プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος > كْلَوْدِيوْس بَطْلِيمُوس / klaudīus baṭulīmūs > Claudius Ptolemaeus)の《アルマゲスト(Μαθηματικὴ Σύνταξις > اَلْمَجِسْطِي‎ / al-majisṭī > Syntaxis Mathematica, Almagestum)》、アル=フワーリズミー(أبو جعفر محمد بن موسى الخوارزمی / Abū Ǧaʿfar Muḥammad bin Mūsā al-Ḫwārizmī > Algorismus, c. 780-c. 850)の《約分と消約の計算の書(ٱلْكِتَاب ٱلْمُخْتَصَر فِي حِسَاب ٱلْجَبْر وَٱلْمُقَابَلَة‎ / al-Kitāb al-Mukhtaṣar fī Ḥisāb al-Jabr wal-Muqābala > Liber Algebræ et Almucabola)》、アル=キンディー(أبو يوسف يعقوب بن إسحاق الصبّاح الكندي‎ / Abu Yūsuf Yaʻqūb ibn ʼIsḥāq aṣ-Ṣabbāḥ al-Kindī > Alkindus, 801-873)の《光学の書(كِتَاب الْمَنَاظِر‎ / Kitāb al-Manāẓir > De aspectibus)》と《医学の効用(رِسَالَة فِي قَدَر مَنْفَعَة صَنَعَة اَلطِّبّ‎ / Risāla fī qadar manfaʿa ṣanaʿa al-ṭibb >De Gradibus medicinarum compositaru[m])》、 バヌー・ムーサー(أبو جعفر محمد بن موسى بن شاكر / Abū Jaʿfar Muḥammad ibn Mūsā ibn Shākir > Filii Moysi filii Sekir, 803-873)の《平面と立体の計測(كِتَاب مَعْرِفَة مَسَّاحَة الْأَشْكَال‎‎ / Kitāb maʿrifa missāḥa al-aškāl > Liber trium fratrum de geometria)》 、アル=ファルガニ(بو العبّاس أحمد بن محمد بن كثير الفرغاني / Abū al-ʿAbbās Aḥmad ibn Muḥammad ibn Kathīr al-Farghānī > Alfraganus, c.805-c.870)の《天体の運動(كِتَاب فِي جَوَامِع عِلْم النُجُومَ / Kitāb fī Jawāmiʿ ʿIlm al-Nujūm >Elementa Astronomiae)》、フナイン・イブン=イスハーク(أبو زيد حنين بن إسحاق العبادي‎ / ’Abū Zayd Ḥunayn ibn ’Isḥāq al-‘Ibādī > Johannitius, 808-893)の《ガレノスの技法への手引き(كِتَاب المِدْحَلَ فِي اَلطِّبّ / Kitāb al-mudḥal fī aṭ-ṭibb > Isagoge Ioannitii ad Tegni Galieni)》、アル=ラーズィー(أبو بکر محمد بن زکریا الرازی / Abū Bakr Muḥammad bin Zakaryā ar-Rāzī > Rhazes, 854-925)の《医学の書(كِتَاب اَلْحَاوِي فِي اَلطِّبّ / Kitāb al-Ḥāwī fī al-ṭibb > Liber ad Almansorem)》、アル=ファーラービー(أبو نصر محمد الفارابي / Abū Naṣr Muḥammad al-Fārābī > Alpharabius, 872-951)の《科学百科(كِتَاب إِحْصَاء الْعُلُوم / Kitāb ʾIḥṣāʾ al-ʿulūm > De scientiis)》、アル=カースィム(أبو القاسم خلف بن عباس الزهراوي / Abū l-Qāsim Ḫalaf ibn ʿAbbās az-Zahrāwī > Abulcasis, 936-1013)の《解剖の書(كِتَاب اَلتَّصْرِيفُ لِمَنْ عَجَزَ عَنْ التَّأْلِيف‎ / Kitāb al-tasrif li-man ʿayiza ʿan al-ta'lif > Chirurgia)》 、アル=ハイサム(أبو علي، الحسن بن الحسن بن الهيثم / Abū ʿAlī al-Ḥasan ibn al-Ḥasan ibn al-Haytham > Alhazen, 965-1040)の《光学の書(كِتَاب الْمَنَاظِر‎ / Kitāb al-Manāẓir > Opticae thesaurus)》、イブン=スィーナ(أبو علي الحسين بن عبد الله بن الحسن بن علي بن سينا البلخي البخاري / Abū ʿAlī al-Ḥusayn bin ʿAbdullāh ibn al-Ḥasan bin ʿAlī bin Sīnā al-Balkhi al-Bukhari > Avicenna, 980-1037)の《医学典範(كِتَاب اَلْقَانُونُ فِي اَلطِّبّ‎ / al-Qānūn fī al-Ṭibb > Liber Canonis)》、 イブン=アル=ワーフィット(إبن وافد اللخمي, أبو المطرّف عبد الرحمن إبن محمد‎ / Abū ’l-Abū al-Muṭarrif ʿAbd al-Rahmân Ibn Muḥammad ibn Wāfid al-Laẖmi > Abenguefith, 997-1074) の 《薬学書(كِتَاب الْأَدْوِيَة‎ المُفرَدَة‎ / Kitāb al-adwiya al-mufrada > De medicamentis simplicibus)》 、ジャービル・イブン=アフラフ(أبو محمد جابر بن أفلح‎ / Abū Muḥammad Jābir ibn Aflaḥ > Geber, c.1100-c.1160)の《アルマゲストの補正(إِصْلَاح اَلْمَجِسْطِي‎ / Iṣlāḥ al-Majisṭi > Elementa astronomica)》など、古代ギリシア、中世アラビアの最重要な87種類もの哲学、科学、数学、医学文献をアラビア語からラテン語に翻訳した。

كتاب الخوارزمي
أشكال و تصنيف الشيخ الأجل أبي عبدالله
محمد بن موسى الخوارزمي رضي الله عنه و أثابه و رحمه
فيه لاستر ذنوبه و خطاياه العبد الفقير
الى الله الغني به ,خطاب بن محمد بن علي بن حسين بن علي بن محمد بن علي بن أحمد محمد بن ابراهيم بن أحمد بن المغيرة بن عمران بن عاصم بن الوليد بن عتبة بن ربيعة بن عبدشمس بن عبد مناف
نفعه الله بالعلم والعمل الصالحين وحسبنا الله و نعم الوكيل صلى الله عليه و أله و سلم

Liber Maumeti filli Moysi Alchoarismi de algebra et almuchabala incipit: His post laudem dei et ipsius exaltationem inquit: Postquam illud quod ad computationem est necessarium consideravi, repperi totum illud numerum fore, omnemque numerum ab uno compositum esse inveni. Unus itaque inter omnem consistit numerum. Et inveni omne uod ex numeris verbis exprimitur esse quod unus usque ad decem pertransit. Decem quoque ab uno progreditur, qui postea duplicatus et triplicatus et cetera quemadmodum fit de uno. Fiunt ex eo viginti et triginta et ceteri usque quo compleatur centum. Deinde duplicatur centum et triplicatur quemadmodum ex decem, et fiunt ex eo ducenta et trecenta, et sic usque ad mille. Post hoc similiter reiteratur mille apud unumquemque articulum usque ad id quod comprehendi potest de numeris ultime. / Deinde repperi numeros qui sunt necessarii in computatione algebre et almuchabele secundum tres modos fore, qui sunt: radicum et census et numeri simplicis non relati ad radicem neque ad censum. Radix vero que est unum eorum est quicquid in semultiplicatur ab uno, et quod est super ipsum ex numeris, ex quod est preter eum ex fractionibus. Census autem est quicquid aggregatur ex radice in se multiplicata. Sed numerus simplex est quicquid ex numeris verbis exprimitur absque proportione eius ad radicem et ad censum.

Barnabas Hughes (1986). Gerard of Cremona's Translation of al-Khwarizmi's Al-Jabr: A cricital edition. Medieval Studies 48: 211-263.

Oxford, Bodleian Library MS. Huntington 214
Paris, Bibliothèque nationale de France, Latin 9335, 110v

2008年6月11日(水)63日目(Toledo: Albergue Castillo de San Servando)

朝早くに川沿い(Río Tajo)を歩いて、Toledoの街をゆっくりと一望してから、東側から北側に向かい、南西に向かい、都市の大半を歩き通した。シナゴーグ(Sinagoga del Tránsito)の博物館(Museo Sefardí)、ムデハル様式の建物(Convento de la Madre de Dios)、美しい路地(Calle Santo Domingo el Real, Calle Santa Clara)、モスク跡(Mezquita del Cristo de la Luz)、美しい門(Puerta del Sol)、大聖堂(Catedral de Santa María de Toledo)、王宮(Alcázar)など、四角い石が緻密に積み重ねられた堅牢な建物が印象的だった。夕方にダマスコ工芸(Damasquinado)の金細工を探し求めて街を歩いて地元の職人さんの小さなお店に入ると繊細な工芸を買えた。Toledoはイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒が共存した異文化の交流の観点から興味深くて美しい街だった。

午前8時少し前に起きて、朝食を食堂で地元の人と一緒に食べた。宿泊している建物とは異なる建物に移動して食べた。古城の昔の修復時の写真が大きく展示されていて美しかった。城の窓の外には、Toledoの町の一部が見えて美しかった。荷物をまとめてToledoの旧市街を一周するため、城(Castillo de San Servando)から下り、橋(Puente de Alcántara)を渡らず、 川(Río Tajo) に沿いながら、道(Ronda de Toledo)をずっと歩いてゆくと、展望台(Mirador Alcántara)を過ぎてゆき、美しい街並みが目の前に広がってきて、泊まっていた城が小さくなっていった。

周辺の地元の人も散歩をしていて、毎日こんな絶景を見れるのは羨ましく感じた。橋(Puente de La Degollada)で川(Arroyo de la Degollada)を渡り、丘を登りゆき、一本道(Carretera de Alto)をしばらく行くと、1674年に建てられた町を一望できる小さな教会(Ermita de la Virgen del Valle)が見えた。中には聖母子像が中央にあり、Toledoの町をずっと見ていた。教会でお祈りをして、外の絶景を見て、周りを歩いていたら隣のレストラン(Restaurante La Ermitaña)の主人が声をかけてくれて、聖母子像の写真が印刷された祈りの日程表をくれた。優しい人でお礼を言うと嬉しがってくれた。

展望台(Mirador del Valle de Toledo, Mirador de Los Cigarrales)があり、観光バスがひっきりなしに着いて賑わい、ホステルの食堂に架けられていた中世の絵と全く同じ場所から、Toledoの街全体や宿泊する城も見えた。濁った川(Río Tajo)ははるかに低い所を流れていた。展望台でゆっくりしてから、一本道(Ronda de Toledo / Carretera Circunvalación)を行き、反対側の橋(Puente de San Martín)を渡り、町に入った。橋は工事中で全体を見られなかったが、石造りで頑丈そうだった。

橋の門をくぐると美しい庭を持つ広い坂道(Bajada San Martín)を上がり、広場(Plaza del Cambrón)に出て、門(Puerta del Cambrón) をくぐり、公園(Plaza del Cambrón)をつきり、小道(Paseo de la Basílica)を行き、小さな聖堂(Ermita del Cristo de la Vega)に行った。前には大きなイエス像(Monumento al Corazón de Jesús)があった。辺りからの見晴らしはとても良かった。

それから街に戻り、広場(Plaza de San Juan de los)に面した1476年に建てられた修道院(Monasterio de San Juan de los Reyes)があり、入場料を払い、中に入ると、美しい回廊が一階にあり、キリスト教の修道院にもかかわらず、イスラム建築に見られる装飾に溢れていて、二階には美しい木で作られた天井があり、寄木細工は素晴らしく、回廊はムデハル様式で美しかった。

通り(Calle de los Reyes Católicos)を進み、1180年に建てられたシナゴーグ(Sinagoga de Santa María La Blanca)に行った。途中の美術学校(Escuela de Arte Toledo)の壁面に美しい彩色をされた紋章があった。シナゴーグは入館料が高い割には、修復が激しくされていて、古くに遡る部分が少なく、しかも、キリスト教会に変えられていて、中には面影が残されておらず、少しがっかりした。

次に訪れた通りの先にある1357年に建てられたシナゴーグ(Sinagoga del Tránsito)は美しく、歴史がしっかりと刻まれていて、博物館(Museo Sefardí)の一階には、ユダヤ文化の展示があり、宝物が展示されていて、二階に会堂やスペインの歴史が残されていて、ヘブライ文字で旧約聖書の一節が書かれていた。シナゴーグに入る前のセキュリティーは厳しく、手荷物のX線検査をした。13世紀の学者が編纂した16世紀に印刷されたヘブライ語の辞書(David Kimḥi (1547). Thesaurus linguae sanctae, sive Dictionarium hebreum (ספר השרשים), Venetia: Marco Antonio Guistianni.)があり感動した。

隣にあるエル・グレコ(El Greco, 1541-1614)の美術館(Museo del Greco)に行くが、工事中で閉まっていてがっかりした。近くの通り(Calle San Juan de Dios)には、金細工師が多くて、作業場を外から見ることができ、美しいダマスコ工芸(Damasquinado)の作品が展示されていて、また通りの窓には紅色の花が飾られていて、特に美しい通りだった。11世紀に建てられたモスクに由来する教会(Iglesia de Santo Tomé)の前には、美しい赤煉瓦とタイルを重ねたイスラム建築の家があり、特に古い当時の貴重なミナレットを転用したムデハル様式の鐘楼塔が素晴らしかった。

賑やかな通り(Calle de Santo Tomé)を下り、1041年以前にモスクとして建てられて、1159年に改宗された教会(Iglesia de El Salvador)に至った。特に2世紀のローマ時代の遺跡の上にあり、7世紀のゴート王国時代の古い柱が保存されていて、9世紀のウマイヤ朝や11世紀のトレド王国時代のモスクのために古い建築資材を使い回したおかげで紙背文書と同じく貴重な美術が残されていて面白かった。

路地(Calle Trinidad)を進み、1628年に建てられた美しい石積みの教会(Iglesia San Marcos)、バロック様式の公文書館(Archivo Municipal)などの官庁が立ち並んでいる街を通り、財務局(Delegación Provincial de la Consejería de Hacienda y Administraciones Públicas)の美しい門が通りに突き出すようにあり、古文書館(Archivo Histórico Provincial)では、普段は観光客が入れない中庭に招き入れてくれて、スペインらしい建物と中庭を見ることができて満足した。

建物をつなぐ廊下の下(Arco de Palacio)をくぐり、広場(Plaza Ayuntamiento)から見た1226-1493年に建てられた大聖堂(Catedral)の尖塔は美しく、市庁舎(Ayuntamiento)も美しく聳えていて、500年前と殆んど変わらない雰囲気だった。趣のある通り(Calle Santa Isabel)を下ると、14世紀にムデハル様式で建てられた修道院(Convento de Santa Isabel de los Reyes)に至った。小さい建物だったが、塔や門の装飾が美しかった。帰りも同じ道(Calle Santa Isabel)を戻り、美しく大聖堂の橋が見える所があり、写真を撮るスポットであることを通りがかりの地元の人が詳しく教えてくれた。

広場(Plaza Consistorio)から広場(Plaza Ayuntamiento)に出た所からの大聖堂の眺めも最高だった。路地(Cuesta Ciudad)を行き、建物が迫っていてものすごい細い小道(Callejón de Jesús y María)で12世紀に建てられた美しいムデハル様式の建物(Convento de la Madre de Dios)の脇を進み、もう一つの高い塀に囲まれた細い路地(Calle San Román)に面した1629年に建てられた教会(Iglesia de los Jesuitas / Parroquia San Ildefons)を通り、Toledo会議が行われた古代ローマの建物や7世紀の西ゴート王国時代の教会を基礎として、13世紀に建てられた教会(Iglesia de San Román / Museo De Los Concilios Visigodos)に出た。ムデハル様式の塔が美しくて、異なる建築様式が幾重にも重なり、文化が重層的に成り立つことを間近に感じた。広場(Plaza San Roman)には緑があり、赤茶けた建物とコントラストをなしており、美しい街並みでとても気に入った。

通り(Calle Esteban Illán)に面した目立たない所にある14世紀に建てられた美しい家(Casa de Mesa)を通り、広場(Plaza de Padilla)に出た。6世紀のゴート王国時代の建物を基礎として、1159年に建てられたシトー会修道院(Monasterio de Santo Domingo el Antiguo)の美しい建築が見えた。そこから趣きのある路地(Calle Garcilaso de la Vega)を行き、1551年にバロック様式で建てられた大学(Real Colegio de Doncellas Nobles / Residencia Universitaria Nuestra Señora de los Remedios)の脇を通り、更に通り(Cuesta Santa Leocadia)を進み、広場(Plaza Santa Teresa de Jesús)で16世紀に建てられた修道院(Convento de las Carmelitas de San José)を見て、通り(Cuesta Carmelitas Descalzas)を進み、朝に来た1576年に建てられた美しい門(Puerta del Cambrón)に出た。

美しい街並み(Plaza de San Juan de los Reyes)や朝に来た修道院(Monasterio de San Juan de los Reyes)を眺めてから、階段(Callejón San Martín)を歩いて、広場(Plaza Santa Teresa de Jesús)に面した1572年に建てられた修道院(Convento de las Carmelitas Descalzas de San José)の前を通り、通り(Calle Real)を進んだ。この辺りには邸宅が多く 、観光客は少なく、1789年に建てられた病院(Hospital Nuncio Nuevo / Consejería de Hacienda)を通り、美しい正面玄関の坂(Calle Santa Leocadia)を上がり、修道院(Monasterio de Santo Domingo el Antiguo)を見た。

Alfonso X el sabio, Libro de los juegos (Real Biblioteca del Monasterio de El Escorial T.I.6, 64r)
Toledoでチェスを楽しむイスラム教徒とキリスト教徒

それから、来た道を戻り、広場(Plaza Santo Domingo Antiguo)に面した13世紀にムデハル様式で建てられた教会(Iglesia de Santa Leocadia)を見て、広場(Plaza de la Merced)に面した1835年に建てられた県評議会(Diputación Provincial)を通り、広場(Plaza Buzones)に行くと古い建物群がある地区に入り、Toledoらしい高い石造りの高い塀(Gerencia Regional del Catastro de Castilla la Mancha)に囲まれた美しい細い道(Calle Buzones, Calle Santo Domingo Real)に出た。1364年に建てられた修道院(Monasterio de Santo Domingo el Real)では、教会内が鉄格子沿いに見れた。

また、広場(Plaza Santo Domingo Real, Plaza de Carmelitas Descalzos)に面した1891年に建てられた修道院(Convento de los Padres Carmelitas Descalzos)を見た。14世紀に建てられた修道院(Convento de Santa Clara)と1935年に建てられた修道院(Monasterio Comendadoras de Santiago)の間の通り(Calle Santa Clara)は、最もToledoらしい美しい通りだった。観光客も通りを一つ入ると少なくて、地元の人がたまに通る位で快適に街並みを楽しむことができた。

1125年に建てられた教会(Iglesia de San Vicente)の前を見てから、通り(Cuesta de Carmelitas Descalzos)の坂の上から、999年に建てられたモスク跡(Mezquita del Cristo de la Luz < مَسْجِد بَاب اَلْمَرْدُوم / masjid bāb al-mardum)が見えてきた。完全に現存していて、イスラム建築の美しさを堪能できた。イスラム勢力からキリスト教徒が奪還した頃、イベリア半島南部ではイスラム勢力が強かったため、しばらくの間、共存を図ったからかもしれないように感じた。昔からイスラム教とキリスト教とユダヤ教とが上手く共存して暮らしていたため、レコンキスタの最中にも大きく破壊されずに保存された建築が多くあった。建物も柱などには、西ゴート時代に遡るまで古い資材が使われており、柱が一つずつ違ったのが面白かった。中に入ると建物の外に中庭があり、北側の眺めは最高だった。

1541年に建てられた病院(Hospital de Tavera / Archivo Histórico de la Nobleza)や広場(Plaza de la Virgen de la Estrella)や城門(Puerta de Bisagra)が良く見え、アラブらしい街並みであり、中庭の大部分は発掘作業が行われていて、元はモスクが更に大きかったのが分かり、とても興味深かった。

通り(Calle Cristo de la Luz)の小さな門(Puerta de Valmardón / بَاب اَلْمَرْدُوم / bāb al-mardum)を通って下ると、門(Puerta del Sol)に出た。城壁の一部が突き出ていて、スペインやポルトガルで見てきたアラブの砦そのものの形をした門で14世紀にムデハル様式で作られており、今まで最も気に入った門の一つとなった。通り(Calle Real del Arrabal)のカーブを進み、13世紀に建てられた素敵なミナレットを持つムデハル様式の教会(Iglesia de Santiago del Arrabal)が見えてきて、大通りに面した広場(Plaza de la Virgen de la Estrella)に出た。中央には現代美術のオブジェが置かれていて、新旧が一体同然となっていた。寄付を求める人がいて、サインを求められたり、財布を見せてきたりした訳の分からない人に声をかけられたりして、詐欺か掏摸か分からなかったので相手にしなかった。

1085年に作られた門(Puerta Nueva de Bisagra)を抜けると大きなロータリーがあり、通り(Calle del Cardenal Tavera)に出た。1541-1603年に建てられた病院(Hospital de Tavera)の石造りのがっしりとした建物は、病院以外にも公文書館(Archivo Histórico de la Nobleza)など様々な用途に使われていた。エル・グレコ(El Greco, 1541-1614)の絵画のコレクションがあるなど興味深かったが入らず、通り(Calle Marqués de Mendigorría)を更に進み、闘牛場(Plaza de Toros)に出た。今まで見た二つの闘牛場と構造は殆ど同じで小規模だった。今日で一番北に出て、後は来た道を戻った。

小道(Paseo de Merchán o de la Vega)には、市場が広がり、商店が軒を連ねていた。通り(Calle Real del Arrabal)を過ぎて、10世紀に建てられた門(Puerta de Alfonso VI / Puerta Antigua de Bisagra)をくぐり、教会(Iglesia de Santiago del Arrabal)、モスク跡(Mezquita del Cristo de la Luz)から、通り(Calle Cristo de la Luz, Calle Alfileritos)を歩いて、13世紀に建てられた教会(Parroquia de San Nicolás de Bari y la Magdalena)や広場(Plaza Ropería)を通り、昨日にも訪れたモスク跡(Mezquita de las Tornerías)にたどり着いたが閉鎖していた。

市場(Plaza Mayor)から、小道(Cuesta Pascuales)に出て、坂道を戻り、階段を上り、広場(Plaza Seco)から通り(Calle de la Soledad)に出た。3世紀にローマ時代の宮殿として建てられ、568年に西ゴート王レオヴィギルド(Liuvigild, 519-586)、836年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド・アッラフマーン2世(عبد الرحمن بن الحكم / ʿAbd ar-Raḥman ibn al-Ḥakam, 792-852)、932年にアブド・アッラフマーン3世(عبد الرحمن الداخل / ʿAbd al-Raḥmān al-Dākhil, 889-961)、カスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)やアルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)が宮廷を建てた場所に1535年にスペイン王カルロス1世/神聖ローマ皇帝カール5世(Carlos I, 1500-1558)が建てた重厚な石造りの宮殿(Real alcázar de Toledo)が聳え立っていて美しかった。東側の小道(Cuesta de Carlos V)を進み、坂を下りながら美しい18世紀以降の建物も堪能した。観光バスが5、6台ひっきりなし来て、観光地であると認識した。

1589年に整備された広場(Plaza de Zocodover < سُوق الدَّوَابُّ / sūq ad-dawābb)に出て、16世紀に建てられた病院を改装した博物館(Hospital de Santa Cruz / Museo De Santa Cruz)や1484年に建てられた修道院(Convento de la Concepción Francisca)の前の広場(Plaza Santiago de Caballeros)で休み、宿に戻ろうとすると午後4時近くだったので門(Puente de Alcántara < الْقَنْطَرَة / al-qanṭara)の前で父と別れ、ダマスコ工芸(Damasquinado)のキーホルダーを探しに町の中心に向かった。

広場(Plaza de Zocodover)から、繁華街(Calle del Comercio)や広場(Plaza Cuatro Calles)を通り、いくつかの通りや広場(Calle San Ginés, Calle de Alfonso X 'El Sabio', Calle de Alfonso XII, Calle de Santo Tomé, Plaza San Antonio, Calle del Ángel)を進み、ダマスコ工芸(Damasquinado)の専門店や金細工師の店を訪ねて探した。シナゴーグ群(Sinagoga de Santa María La Blanca, Sinagoga del Tránsito)や修道院(Monasterio de San Juan de los Reyes)の近くに沢山の金細工師の工房があるのに気づいて辺りを探すが、ペンダントやブローチばかりが多くて、キーホルダーがなかった。

官庁街(Calle Real)を通り、モスク跡(Mezquita del Cristo de la Luz)の門(Puerta de Valmardón / بَاب اَلْمَرْدُوم / bāb al-mardum)をくぐり、北側の門(Puerta Nueva de Bisagra)に面したロータリーまで行くが見つからず、通り(Calle Núñez de Arce, Calle Sillería)を進み、広場(Plaza de Zocodover)に出た。同じ道(Calle Comercio, Calle San Ginés, Calle de Alfonso X 'El Sabio', Calle de Alfonso XII, Calle de Santo Tomé, Plaza San Antonio, Calle del Ángel)を通り、広場(Plaza del Conde)に面した金細工師の工房が多い地区(Calle San Juan de Dios)を思い出して、そこに当たってみた。

途中に通り(Calle de Alfonso XII, Calle Aljibillo, Calle Rojas)の三叉路を過ぎたところに一つ金細工店(Artesanía Espinosa del Arco)があり、良いキーホルダーを見つけていたので、いくつかの候補を考えて、工房の前を通り探していたら、小さなお店(Artesanía Ramos Suárez)の中に職人さんがいて、キーホルダーがあるかをたずねたら、あるよと店の中に招いてくれた。金細工の台があり、金の糸も置かれていた。作業の途中で道具が全て出ていて工房だった。16€から半値に負けてもらい、美しいキーホルダーを手に入れた。同じ通りを歩いて、広場(Plaza de Zocodover)に出て、宿に戻った。父に職人さんから直接、金細工を買うことができたと話したら、それは良かったねと話していた。

宿で夕食までシャワーを浴び、午後8時ちょうどになり、夕食に行くと、ドイツ人の巡礼者と会った。Hamburgから自転車で来て、スペインの南の巡礼路を通り、Santiago de Compostelaに至るそうだ。去年フランスの道を歩いたそうで、そこは人が多いため、その道を選んだと話していた。スペイン人の小学生の集団が騒がしかったが、先生は全く注意せず、フォークにパンを刺したり、激しく食べ残しをしていて、誰も食べ物を大事にしないので驚いた。ドイツ人の彼もヨーロッパ人は教育がなっていない人が多いから、日本人から見ると驚くでしょうと言っていた。先生が話に夢中になって、生徒が何をしても気にせず、小学生たちは廊下でどたどたしたり、階段の手すりに乗り跳ねていた。

食後、お城(Castillo de San Servando)の周辺を散歩をすると、夜が更けてきて、美しい街並みが、夜景に変わりゆき美しかった。城もライトアップされ、ムデハル様式の門が美しかった。入口に先ほどの小学生がワイワイいて、どこかに行くようだった。部屋に戻ると歩き通してきて疲れていたので、記憶が鮮明なうちに日記を書いてから、明日の日程を確認して、午前0時近くに寝てしまった。

Toledoの教会(Ermita de la Virgen del Valle)の近くから見た街並み

2008年6月12日(木)64日目(Toledo-Madrid-Segovia: Pensión Aragón)

Madridで交通機関を一切使わずに中心を歩き通して、プラド美術館(Museo del Prado)や考古博物館(Museo Arqueológico Nacional)を見学したり、宮殿(Palacio de Velázquez)や中央広場(Plaza Mayor)を通り、大聖堂(Catedral)や宮殿(Palacio)の壮大な建物を見た。8年前に母と訪れた広場(Plaza de España)やスカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1756)が亡くなった通り(Calle de Leganitos)などを歩き、沢山の人が来るところを人がいない時間帯に行くことができた。中世に遡る古い建物はないが、18世紀から現代まで首都らしく立派で重要な建物を見ることができた。Segoviaにバスで向かい、夕方に付いたので、直ぐに中央広場(Plaza Mayor)前の宿に落ち着いた。

今日は午前6時半に起き、直ぐに鉄道駅まで歩き、午前7時半のAVEでMadridに戻るため、歩いていくとホステルから、10分ほどで発車15分前に着き、電車に乗る前に手荷物のX線検査をするとき、警備員さんがSantiago de Compostelaに行ったのですねと声をかけてくれた。駅員さんはよく声をかけてくれることが多く感じた。30分ほどでMadridの駅(Estación de Atocha)に着いた。

駅舎の中にある植物園を楽しんでから、観光案内所を駅の中に見つけて、交通手段やMadridの見どころなど、質問に丁寧に答えてくれて、質問していないのに見どころを熱弁して下さり、沢山の地図やバスや周辺の街のガイドを持たせてくれた。地図を元に王立植物園(Real Jardín Botánico)や広場(Plaza de Murillo)の脇を歩いて、プラド美術館(Museo del Prado)に向かった。

開館5分前に着き、直ぐにヴェラスケス(Monumento a Velázquez)の像がある門から入場できた。人は少なくクロークに荷物を預けて快適だった。スペインは警備が厳しく、手荷物をX線検査に通して、入館すると直ぐにルネッサンスの絵画があり、フラ・アンジェリコ(Fra' Angelico, 1390-1455)の《受胎告知(La Anunciación)》(1422-26年)、ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch, c.1450-1516)の《東方三博士の礼拝(Tríptico de La Adoración de los Magos)》(1494年)、アルブレヒト・デューラー(Albrecht Dürer, 1471-1528)の《アダムとイブ(Adán y Eva)》(1507年)、ラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《聖家族(Sagrada Familia del Cordero)》(1507年)など有名な絵画たちがあった。日本人が多く団体の人に付いて説明を聞いた。

次はローマやギリシア時代の大理石製の彫刻が多数あり、マルクス・アウレリウス帝(Marcus Aurelius Antoninus, 121-180)の彫像もあった。二階にベラスケス(Diego Velázquez, 1599-1660)やエル・グレコ(El Greco, 1541-1614)の時代が多くあり、特に中央のベラスケスの展示室は人気でテレビの取材までしていた。中学生が絵の前で一人ずつ調べてきたことを発表していた。美術館で本物の芸術作品の前で生まれた背景や作者の気持ちなどを語る課外授業をしていて発表を聞いた。幼稚園生まで先生に引率されて来ていて、小さい頃から芸術に触れられる環境は素晴らしいと思った。二階で犬を連れてきた人が、職員と話し合っていて、ペットに見える犬をどうして連れてこれたか、不明だったが、美術館の中に犬を連れてくることは、盲導犬を別としてあり得ないので新鮮に感じた。

ベラスケスの絵は400年前に描かれたとは思えないほど、新鮮で印象派の画家が描いたようで、有名な王家と共に彼自身が出て来る絵《女官たち(Las Meninas)》(1656年)は特別で普通には見られない構図と大きさのキャンバスに描かれていた。後に神聖ローマ皇帝レオポルト1世(Leopold I, 1640-1705)の皇后となるマルガリータ・テレサ(Margarita Teresa, 1651-1673)が描かれていて、国王フェリペ4世(Felipe IV, 1605-1665)と王妃マリアナ・デ・アウストリア (Mariana de Austria, 1634-1696)は鏡の中に小さく出ていた。ベラスケスの顔は国王夫妻より10倍ほどの大きさで書かれていた。また、《ブレダの開城(La rendición de Breda)》(1635年)などの名作も展示されていた。

ゴヤ(Francisco de Goya, 1746-1828)の展示室は混み合いすぎて満員電車のようだったため、また8年前に来た時に見たので入らず、一階に降りて三階まで行くと人が少なくて、ゆっくりと鑑賞できた。バロック美術が主で様々な技法があり楽しかった。どの絵にも模写する人がいて、完成間近や未完成もあり、原画でベラスケスや国王フェリペ4世は、ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)の初期と同じようなひげを生やしていたり、ダリはベラスケスに習って髭を生やし始めたこと、彼はインタビューで「私(ベラスケス)は下手くそだが、バロック時代の巨匠だ」と勝手に宣言していたことを思い出した。模写をしている人たちは、原画よりも明るく描いていており、色を重ねて暗くするため、もしくは描かれた当時の状態をイメージして書いていたかもしれないと思った。

エレベーターで地階に行くと、美しい水晶の杯やラピスラズリをくり抜いた杯、水晶の水差しなどが展示されていて、とても美しかった。一階に戻り、新館はチケットが異なるため、そこには入らず、美術館を出て裏手にある公園(Jardín del Parterre)に向かった。1503年に建てられた教会(Iglesia de san Jerónimo el Real)を通り、美しく手入れされた公園(Parque de El Retiro)に入った。

公園(Parque de El Ritiro)にある池のほとりの宮殿(Palacio de Cristal)やアラブ風の建築の宮殿(Palacio de Velázquez)は美しく、テレビ取材をしていた。噴水(Fuente de la Alcachofa)など、公園の風景を堪能してから、町に戻り、通り(Calle de Felipe IV)を歩いて、広場(Plaza de Cánovas del Castillo)に出ると大きなホテル(Palace Hotel)があり、国立博物館(Museo Nacional Thyssen-Bornemisza)の前を通り、イオニア式の列柱が立ち並ぶ国会(Congreso de los Diputados)を見た。

小道(Calle de Fernanflor)やスペイン銀行(Banco de España)脇の通り(Calle del Marqués de Cubas)を進むと、宮殿(Palacio de Cibeles)が見えてきて、通り(Calle de Alcalá, Paseo de Recoletos)に出て、父は通りの真ん中にある緑が多い場所にあるベンチで休んでいる間、宮殿(Palacio de Biblioteca y Museos Nacionales)の考古学博物館(Museo Arqueológico Nacional)と国立図書館(Biblioteca Nacional de España)を訪れて見学した。両方とも国営のため無料で入館でき、沢山の古い書籍や製本印刷の工程をビデオなどで見ることができて有意義だった。

《エジプトの死者の書(Das Todtenbuch der Ägypter (nach dem hieroglyphischen Papyrus in Turin)》(1842年)と《多言語聖書(Biblia políglota complutense)》(1520年)の二冊が興味深く、ヴェントリス(Michael Ventris, 1922-1956)が線文字Bを解読した書籍も展示されていた。売店にはファクシミリーが売られていて、《カスティーリャ語の起源(Bernardo Aldrete (1606). Del origen y principio de la lengua castellana o romance que oi se usa en España, Roma: Carlo Wllietto.)》や《書法の起源の論考(Luis de Olod (1768). Tratado del origen, y arte de escribir bien, Barcelona: Carlos Sapera.)》が興味深かった。博物館にも小学生が多くいて課外授業をしていた。

通り(Calle de Alcalá)に戻り、1745年に建てられたバロック様式の教会(Iglesia de San José)を通り、Metropolisの文字が大きくあった1907年に建てられたメトロポリス・ビル(Edificio Metrópolis)から通り(Gran Vía)を望んだとき、母とホテルからタクシーに乗り、当時は治安が悪かったため、注意をしながら、Loeweの本店(Gran Vía 8)に革手袋を買いに訪れたことを思い出した。

旧銀行(Antiguo Banco Bilbao Vizcaya Argentaria)の建物には騎馬像(Escultura "Las Cuadrigas")が付いていた。1752年に設立された王立芸術院(Real Academia de Bellas Artes de San Fernando)を通り、都市の中心部にあるカルロス3世騎馬像(Estatua Ecuestre de Carlos III)がある広場(Puerta del Sol)は美しく活気づいていた。入る所に可愛らしい熊の銅像(El Oso y el Madroño)があった。

Madridは首都らしく、交通量が多く、ネクタイをしたビジネスマンが多く、Parisや東京を思い出した。門(Puerta del Sol)から大通り(Calle Mayor)を行き、大広場(Plaza Mayor de Madrid)に降りていく通り(Calle de Felipe III)を見つけた。美しい広場にカフェが多く、人が休んだりおしゃべりを楽しんでいた。通り(Calle de Ciudad Rodrigo)を歩き、中央通り(Calle Mayor)に戻った。

Madridの大広場(Plaza Mayor)

近くにコイン商(Numismática)があり、ヨーロッパには、古本屋やコイン商が多く、趣味の幅が広そうだった。また、本屋(Librería)が多く並んでいて、Madridの古地図や300年ほど前の書籍を扱っていた。1631年に建てられた赤と白の美しい市庁舎(Casa de La Villa)を過ぎた所でSantiago de Compostelaに行くのかと、声をかけてきた気さくなスペイン人がいて、写真機で通りを撮っていると、撮ってあげるよと気さくに撮ってくれて、優しく接してくれた。彼も何十年も前に巡礼したことがあり、Santiago de Compostelaの大聖堂は美しかったことなどを話してくれて盛り上がった。

近くのお菓子屋さん(Horno La Santiaguesa)でパン菓子や小さなケーキを買い、通りを少し歩いてゆき、1671世紀に建てられた教会(Iglesia Catedral de las Fuerzas Armadas / Iglesia del Sacramento)を通り、1993年に完成した大聖堂(Catedral de Santa María la Real de la Almudena)の近くの緑や城壁(Muralla Árabe)がある公園(Parque Luigi Boccherini)の芝生に座って食べた。素晴らしい室内楽を書いた音楽家ボッケリーニ(Luigi Boccherini, 1743-1805)を思い出した。

721年にイスラム教徒の軍隊が来たとき、村人が信仰していた聖母像を蝋燭と共に城壁(Almudena < اَلْمُدَيِّنَة‎ / al-mudayyina)の中に隠した。1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が征服して、隠された聖母の話を聞き、坂道(Cuesta de la Vega)で城壁が崩れた窪みに聖母を発見したとき、聖母に捧げた蝋燭の炎が燃えたままだったという伝説が残されている。

朝食も昼食もとらず、午後3時近くになり、初めて食べてから、1993年に完成したネオ・ロマネスク様式のアルムデナ大聖堂(Catedral Santa María la Real de La Almudena)を見学した。王宮の色合いと同じく青みがかった石が使われており、品の良い仕上がりで気に入った。Madridはスペインの首都であり、王宮がありながら、Toledoの大聖堂の管轄であったため、最近まで大聖堂が作られなかった。交差点(Calle de Bailén, Calle Mayor)から眺めると円形の塔が美しく見えた。

そこから大通り(Calle de Bailén)を通り、王宮側ある大聖堂の門は立派で王宮も広々とした中に堂々と立っていた。大聖堂も王宮も比較的新しい建物だった。王宮(Palacio Real de Madrid)の前の広場(Plaza de la Armería)には、観光客が沢山いて、思い思いに写真を撮っていた。広場(Plaza de Oriente)は美しく手入れされていて、繊細で赤やピンクの薔薇が咲いていて美しかった。

上院議会(Senado)の脇から潜る地下道(Calle de Bailén)を歩き、広場(Plaza de España)に出た。昔に母と訪れた覚えがあり、掏摸が多く危険だと言われたのを思い出したが、今では治安が改善して、物売りも掏摸も怪しい人も少なく、至る所に警察の車が止まっていて見張りをしていた。セルバンテスの記念碑(Monumento Cervantes)や噴水(Fuente del Nacimiento del Agua)を見た。

父が広場で寛いでいるとき、音楽家スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1756)が亡くなった通り(Calle de Leganitos)に歩いて行ったが、今は商店街になっていて、昔の面影は全くなかった。

地下道に戻り、階段を上がり、美しい庭園(Jardines de Sabatini)に出た。工事中で直ぐに道(Cuesta de San Vicente)を下ると大きな美しい庭園(Jardines del Campo del Moro)を見つけた。

王宮の庭園と分かり、上から入ろうとしたが、門番の人が下から入る道を教えてくれた。坂(Paseo de la Florida)を下ると直ぐに大きな門(Puerta de San Vicente)の前にPríncipe Pío駅を見つけて、コンビニエンスストア(Open Cor)で飲み物(Yoghurt liquido, Zumo de naranja)を求めて、王宮前の庭園(Campo del Moro)に入り、十字に道(Calle de la Mate)がある庭園を散歩した。美しい孔雀が放し飼いにされていて、王宮が目の前にあり、王様も窓から覗くのかなと思いながら散策した。

バス停(Glorieta de San Vicente)で5番のバスに乗ろうとしたが、目の前で行ってしまい、30分待ち、駅に戻り地下のバス停(Intercambiador de Príncipe Pío)に行き、午後5時半のバスのチケットを求めて休んでいたら、モーツァルト通り(Calle de Mozart)の出口の看板を見つけた。Sevillaでも、Madridでも、スペインに縁が薄いMozartの名を見つけて、ここでも愛されているのかと驚いた。

バスに定刻通りに乗ることができ、平地が少し山の中にある地形を通り、Segoviaの近くで一つ峠を越えて、一時間のバスの旅を終えて、町の中心に着いた。(ケルト人カルペタニ族(Carpetani)が住み、イベロ=ケルト語Segouia < Sekobirikez < ケルト祖語「強力」*segos < 印欧祖語*séǵʰos < *seǵʰ- +「城壁」*brixs < 印欧祖語*bʰérǵʰ-s ~ *bʰr̥ǵʰ-és <「高い」*bʰerǵʰ-が語源でラテン語Segobriga、古典ギリシア語Σεγουβία / Segoubía、アラビア語شِقُوبِيَّة‎ / Šiqūbiyyaと記録された。)

バス停(Estación de Autobuses)は旧市街の近くにあり、バス停近くの観光案内所(Oficina de Turismo)が、閉まっていて困ったが、旧市街に入ると大通り(Avenida del Acueducto / Avenida Fernández Ladreda)が続いているため、1111年に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Millán)や12世紀に建てられたゴシック様式の教会(Iglesia de San Clemente)を通り、大きな広場(Plaza del Azoguejo)に出て、観光案内所を探しながら歩くと色んな地方の特産品を扱う露店が賑わっていた。水道橋が目の前にあり、ジャズのサックスを吹く人がサックスを吹かずに歌っていた。

観光案内所(Oficina de Turismo)を無事に見つけて、午後7時半の閉じられる一分前に滑り込み、地図や宿の案内などを頂くことができた。通り(Calle Cervantes)を歩き、中通り(Calle Juan Bravo)は人通りが多く賑わっていて、美しい歴史的建築があり、特に15世紀に建てられたごつごつした装飾がある邸宅(Casa de los Picos)は面白かった。617個の突起は防衛を現しているそうである。近くにある同じく15世紀に建てられた邸宅(Palacio del Conde de Alpuente)にも、フランボワイヤン様式の不思議な装飾が、家の表面に施されていて不思議だった。

美しい通り(Calle Isabel la Católica)を見つけて、Hostelを探して、広場(Plaza Mayor)近くの通り(Calle Escuderos)にあるPensión Ferriに当たってみたが、廃業してしまい建物は廃墟でぼこぼこになっていて、スペインでは建物が使わなくなると落書きも激しくされていた。

一等地の広場(Plaza Mayor)に面した美しい建物に小さな宿(Pensión Aragón)があり、階段が見つかりにくいが、二階上がるとドアにイエス像の金具が取り付けられていた。老朽化が進み部屋は少し傾いていたが、広く快適に過ごせた。1人12€にシャワー代1.5€で経済的だった。宿の人は感じ良く、スペイン語で話すと熱心に聞いてくれた。Santiago de Compostelaへの巡礼者であると分かり、普通の観光客は3€取られるが、巡礼者は無料で大聖堂(Catedral de Segovia)に入れると教えてくれた。

宿に荷物を置いて、一息をついてから、街に出て来た道を戻り、1474年に建てられた教会(Iglesia de San Miguel)を広場(Plaza Mayor)から望み、通り(Calle de la Infanta Isabel, Calle Juan Bravo, Calle Cervantes)を歩いてゆき、1117年に建てられた美しい尖塔を持つゴシック様式の教会(Iglesia de San Martín)、15世紀に建てられた家(Casa palacio del Conde Alpuente)や1883年に建てられた家(Casa de los Picos)、町が一望できる場所(Mirador de la Canaleja)など、街並みを楽しんだ。それから中心街(Bajada del Carmen, Avenida Acueducto)を歩いて行った。

午後9時少し前に通り(Calle Gobernador Fernández Jiménez)の近くのSupermercado Diaに着くと、店内には殆ど商品が無いのに人は多くいて驚いた。ハムもソーセージも種類がなく、飲み物は少しだけ置かれているだけだが、お菓子類も少ないながら、食べたいものを選び、レジでは袋が売られていたが、清算のときに一枚分を一応チャージはするが、いくらでも持っていけという感じでスペイン人らしい気質を感じた。パン(Barra de Pan Chapata)、チーズ(Queso de Cabra Lonchas)、マヨネーズ(Mayonaise)、シリアル(Cereal Special K Energía sabor chocolate, Cereal Special K Cosecha Roja)、ポテトチップス(Patatas Fritas Selecta sabor a Jamón Ibérico)、ジュース(Zumo de piña y uva, Zumo de nectarina)、豆乳(Bebida de Zumo de Melocotón y Soja)、シャンプ(Champú suave)など、買い物を済ませてから、Supermercado Diaの中には、個人の八百屋さんやパン屋さんを見つけて、トマト(Tomate)を二つ買い、来た通りを戻り、宿に直行した。

午後9時までにシャワーを浴びるのに間に合い、父が浴びる間、広場(Plaza Major)を散歩すると、沢山の人だかりが、カフェに見ていると楽しかった。段々と夕日が沈み、広場も美しくなり、夕日に染まった広場は美しく、特に目の前の1474年に建てられた教会(Iglesia de San Miguel)の石組みの塔が美しく見えた。夜が更けると優しい黄色の街灯が点されて美しさを増してきた。

午後10時頃からSupermercadoで買ってきた食材でサンドウィッチを作り、窓から外を見たら、英語を話す人が真下のカフェにいた。スペイン語とはリズムが全然違い、直ぐに分かりやすかった。

スペイン語は日本語に母音や子音は似ているけれども、大きく異なる所は機関銃のようにアクセントがフラットで次から次へと言葉を繰り出してゆくように話される言葉であることを感じた。

スペインは緯度が高いために暗くなるのは遅いが、夜も更けてきて、今日は街中を沢山歩いたため、父はとても疲れていて、午後10時半に寝てしまった。午前0半頃まで日記を書いてから、床に入った。

夜になるとスペイン人が大きな声で歌い出して、広場に面した一等地で煩かったが、今日はToledoからMadridに移動して、更にSegoviaの街中も歩き通したため、疲れていて直ぐに寝ついた。

Madridはケルト人カルペタニ族(Carpetani < Καρπητανοί / Karpētanoí < ケルト祖語「戦車」*karbantos < 「荷車」*korbos < 印欧祖語*(s)kerbʰ-os < 「向く」*(s)kerbʰ-でラテン語corbis < イタリック祖語*korbos、フリジア語korfや古ザクセン語*korf < ゲルマン祖語*krebô、リトアニア語kar̃basやラトビア語kar̂ba < バルト=スラヴ祖語*korbasと関連)が住み、古代ローマに植民都市(Miaccum)ができた。(イベロ=ケルト語Magerit < ケルト祖語「平原」*magos < 印欧祖語*méǵh₂-os ~ méǵh₂-es < 「大きい」*méǵh₂s + ケルト祖語「砦」*ɸritus < 印欧祖語*pértus ~ *pr̥téw- < 「交わる」*per-が語源。Miaccumはケルト祖語「平原」*magosによると考えられる。)

456年に西ゴート族が支配、721年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が征服、9世紀に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のムハンマド1世(محمد بن عبد الرحمن Muḥammad ibn ʿAbd ar-Raḥman, 823-886)が要塞宮殿(Real Alcázar)を建設、932年にManzanares川をアラビア語でاَلْمَجْرِيط / Al-Majrīṭと呼んだことから、アラビア語「流れ」مَجْرًى‎ / majran < 「走る」جَرَى‎ / jarā < ج ر ي‎ / j-r-yが語源とも考えられている。

1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)に征服され、1329年にフェルナンド4世(Fernando IV, 1285-1312)に助言をする議会が設置された。1339年にカスティーリャ王国とアラゴン王国が連合する歴史的な条約が締結された。1500年に印刷所が開業して、1561年にスペイン王フェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)がMadridに宮廷を移して首都とされた。

1601年はフェリペ3世(Felipe III, 1578-1621)が宮廷をValladolidに移したが、1606年に再び首都となり、1619年に中央広場(Plaza Mayor)、1636年に王宮(Royal Alcazar)ができた。大聖堂は16世紀に計画されたが、1993年にアルムデナ大聖堂(Santa María la Real de La Almudena)が完成した。

科学者アル・マジリーティー(أبو القاسم مسلمة بن أحمد المجريطي / Maslama b. Aḥmad al-Maǧrīṭī > Methilem, c. 950-1007)を輩出した。 Córdobaに長く住み、プトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος > كْلَوْدِيوْس بَطْلِيمُوس / klaudīus baṭulīmūs > Claudius Ptolemaeus)の《アルマゲスト(Μαθηματικὴ Σύνταξις > اَلْمَجِسْطِي‎ / al-majisṭī > Syntaxis Mathematica, Almagestum)》のアラビア語に校訂したり、アル=フワーリズミー(أبو جعفر محمد بن موسى الخوارزمی / Abū Ǧaʿfar Muḥammad bin Mūsā al-Ḫwārizmī > Algorismus, c. 780-c. 850)の《天文表(زِيج اَلْسِنْدْهِنْد اَلْكَبِير‎ / Zīj al-Sindhind al-kabīr)》を研究したり、三角測量を発展させ、酸化水銀の顔料を発見した。娘のファティマ(فاطمة المجريطية / Fāṭima al-Maǧrīṭī)もアラビア語、ヘブライ語、ギリシア語、ラテン語、カスティーリャ語に通じ、アストラーベ(ٱلأَسْطُرلاب / al-Asṭurlāb < 古典ギリシア語ἀστρολάβος / astrolábos)を改良した。

Segoviaの水道橋(Acueducto)

2008年6月13日(金)65日目(Segovia-Ávila: Pensión La Extremeña)

Segoviaの城(Alcázar)を至る方向から見た。ディズニーランドの城のモデルになり、山と川に恵まれ美しかった。特にいくつかの通り(Paseo de Santo Domingo de Guzmán, Carretera Arévalo-Erillas)からの眺めが最高で感嘆した。小川・城・森林・道が中世に迷い込んだように美しかった。博物館(Museo Casa del Sol)の屋上から町を一望できて素晴らしかった。広場(Plaza de la Artillería)から、ローマの水道橋を見上げた。町の大通りにスペイン各地からの物産が集まり賑わっていた。Ávilaでバスに乗った人に地図をもらい助けられた。教会(Iglesia-convento de Santa Teresa)の聖テレサの博物館に入った。窯跡(Hornos postmedievales)の付近は、特にÁvilaらしい街並みで灰色や黒色い石材の建物が重厚感があり、通り(Avenida de Madrid)から完存する美しい城壁を楽しむことができた。町はずれにある名所(Cuatro Postes)から、美しい夕日と城壁に囲まれた街の全体を眺めた。

今日は午前7時に起き、昨日作っておいたサンドウィッチを食べ、午前8時頃からぼちぼち街に出かけた。中央広場(Plaza Mayor)から大聖堂(Catedral de Segovia)の横を過ぎ、通り(Calle Marqués del Arco)を行き、 広場(Plaza la Merced)に面した1574年に建てられた修道院(Convento de San José)に至ると前に現代的な十字架(San Juan de la Cruz)があり、建物とミスマッチに驚いた。Toledoでもそうだったが、スペインやポルトガルでは古い街並みに現代アートが対照をなしていた。

1367年に建てられた素朴な塔を持つ教会(Iglesia de San Andrés)を通り、趣のある通り(Calle Daioz)を進み、広場(Plaza de la Reina Victoria Eugenia)で美しい門を入り、美しい城(Alcázar de Segovia)に来た。1088年にイスラム教徒から奪還した直ぐ後の1122年に記録があり、当時は木の城だったが、1258年にカスティーリャ王アルフォンソ10世(Alfonso X, 1221-1284)、1474年にイザベラ女王(Isabella I, 1451-1504)が増築して、1587年にスペイン王フェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)が現在の形にした。古代ローマ時代に遡る歴史があり、また、ディズニーのシンデレラ城のモデルともされただけあり優美な姿だった。建築資材をよく山の上まで持ってきたと驚いた。

前には軍事文書館(Archivo General Militar)に附属した化学の実験室があった。通り(Calle Pozo de la Nieve)を進み、庭園(Jardín de Los Poetas)の抜け道(Cuesta de la Zorra)から美しい街並みが下に見えて向かうことにした。小道(Paseo Santo Domingo de Guzmán)の橋の上から城も美しく見上げることができて、最高のロケーションを楽しんだ。河(Río Eresma)が流れていて、城(Alcázar de Segovia)が頂にあり、12世紀に建てられたロマネスク様式の小さな教会(Iglesia de San Marcos)があり、家々の屋根の色も背景に溶け込んでいて、風景の美しさに極まりがなかった。

カルメル会の修道院(Convento de San Juan de la Cruz)に出ると、緑があり、橋があり、美しい道をジョギングを楽しんでいる人が多かった。歩道(Carretera Arévalo-Erillas / CL-607)を進むと13世紀に建てられた聖堂(Santuario de Nuestra Señora de la Fuencisla)があり、中には鉄格子のなかにマリア様とイエス様がいて、祈りの雰囲気は素晴らしかった。近くに門(Puerta de Arévalo / Arco de la Fuencisla)が聳えていた。歩道(Carretera Arévalo-Erillas / CL-607)を更に川沿いに戻り、公園(Alameda de la Fuencisla)の前(Pradera de San Marcos)に美しく城が見える最高の場所があった。芝生もよく手入れされ、小川、城、森林、道の全てが作用して、美しさが最高潮に達してきた。

少し坂を登り、1208年にテンプル騎士団により建てられたロマネスク様式の美しい聖堂(Iglesia de la Vera Cruz)の前にある十字架に腰かけて、絶妙な角度から城を眺めたときの美しさは最高だった。写真を撮ろうとしていると飛行機がきて、飛行機雲ができたが時間が経つと消え、却って写真に深みと奥行きを与えた。一時間ほどそこでゆっくりしてから、草ぼうぼうで幅が狭い茨道(Calle Marqués de Villena)を通り、1447-1503年に建てられた修道院(Monasterio de Santa María del Parral)の建物を楽しみ、通り(Calle Parral, Calle la Moneda)を歩き、橋(Puente Casa de la Moneda)を渡り、造幣局跡(Museo Real Casa de Moneda)に行くが工事中で入館できず残念だった。

やむなく、城門(Puerta de Santiago)に至る付近の階段を下り、城門沿いに通り(Calle la Puerta de Santiago)を行き、坂(Calle Doctor Velesco)を上り、広場(Plaza de San Esteban)に至った。12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Esteban)と17世紀の司教館跡(El Palacio de Segovia)、広場(Plaza Capchinos)に面した12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Quirce / Real Academia de Historia y Arte de San Quirce)や今は宿として使われている16世紀にたてられたカプチン会修道院跡(Convento Capuchinos)を見た。

また、隣の広場(Plaza de la Trindad)に面した12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de la Santísima Trinidad)や1515年に建てられた修道院(Convento de Santo Domingo el Real)の11世紀のヘラクレスの塔(Torre de Hércules)、広場(Plaza de San Nicolás)に面した12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Nicolás)を巡り、通り(Paseo Obispo, Calle Doctor Velasco)を歩き、1580年に建てられた雰囲気のある門(Puerta de San Cebrián)をくぐった。

1218年にグスマンの聖ドミニコ(Domingo de Guzmán, 1170-1221)が建てた修道院(Convento de Santa Cruz la Real)に至り、また、城壁の周りの小道(Paseo Santo Domingo de Guzmán)を行き、門(Postigo de San Juan de los Caballeros)をくぐり、広場(Plazuela de Colmenares)の公園(Jardín de Los Zuloaga)に着くと中高校生がいて賑やかだった。11世紀に建てられた教会(Iglesia de San Juan de los Caballeros)を見て、小道(Calle los Zuloagas)を歩いた。

16世紀に建てられた邸宅(Palacio de la Floresta de Trifontane)と17世紀に建てられた邸宅(Palacio de Uceda-Peralta / Diputación Provincial de Segovia)から、通り(Calle San Agustín, Calle San Facundo)を歩いて、広場(Plaza los Huertos)の塔(Torreón de los Arias Dávila)に着いた。

午後11時半でチェックアウトの時間になり、中央広場(Plaza Mayor)に戻り宿の人に3€払い、荷物を施錠した倉庫に置かせてもらった。バスが出るまでの1時間半、城壁の南側の小高い地区を見るため、大聖堂の横(Calle de San Frutos)から通り(Calle Martínez Campos)を進み、立派な城門(Puerta de San Andrés)の前にある見晴らしの良い展望台からお城を眺めた。

住宅が立ち並んだ通り(Calle del Socorro)を行くと1842年に建てられた司教館の博物館(Museo Casa del Sol)で1.6€で、先史時代から、ローマ時代、西ゴート時代、イスラム時代、レコンキスタ、ルネサンス、バロック、近代まで、全てのセゴビアの歴史が展示されていて興味深い博物館を30分ほど見た。三階に展望台があり、係りの人に聞くと、鍵で開けますから待って下さいと優しく接して下さり、屋上の鍵を開けてくれた。城の眺めは美しく、城の全ての方向からの眺められた。近現代の展示室に古写真や絵画が展示されていて、100年前の町の様子が全く今と変わっておらず驚いた。

広場(Plaza Rastrillo)まで戻ってきて、急いで通り(Calle la Judería Vieja)を行き、中庭が美しい家(Centro Didáctico de la Judería)、14世紀に建てられた修道院(Convento del Corpus Christi)と邸宅(Casa Palacio de Andrés Laguna)を訪れた。シナゴーグ(Antigua Sinagoga Mayor)は、14世紀に修道院の教会(Iglesia del Corpus Christi)に転用されていたが、驚いたことにToledoの1180年に建てられたシナゴーグ(Santa María la Blanca)と同じ柱の唐草文様の装飾だった。

通り(Calle Juan Bravo)から広場(Plaza Medina del Campo)の賑わいを見たり、15世紀に建てられた素敵なゴシック様式の塔(Torreón de Lozoya)など歴史的建物を見て、渡り廊下が多くある通り (Calle del Obispo Gandásegui)を通るとき、城壁にアーチがあり美しく、アメリカ人の観光客の団体が水道橋(Acueducto de Segovia)の下にいた。広場(Plaza Avendaño)から歩いて行けて、水道橋の間近から堪能できる素晴らしい見渡しの良い展望台(Mirador del Acueducto) があった。

辺りには観光客は少なく快適でゆっくりとした時間が流れていた。教会の鐘はAve Mariaの旋律だが、調律が外れて、上手く作動しない鐘もありご愛嬌だった。水道橋の上にマリア様と幼きイエス像があり、面白い組み合わせだった。ローマの水道橋に沿い進んでゆくと様々な姿が見えた。

それから、13世紀に建てられた石造りでロマネスク様式の教会(Iglesia de San Sebastián) 、広場(Plaza del Conde de Cheste)に面した15世紀に建てられた黄土色の壁を持つ邸宅(Palacio de Quintanar)、19世紀に建てられたメロンの表面のような文様の家(Casa de los Marqueses de Lozoya)を見て、坂(Calle San Juan)を水道橋を眺めながら下り、広場(Plaza Artillería)に着くと横切る古代ローマの水道橋のアーチが大きく見えて、広場(Plaza Azoguejo)に面する観光案内所(Oficina de Turismo Segovia)近くの高い所を通る水道橋の眺めは圧巻だった。

そこから、坂(Calle Fernán García)を登り、広場(Plaza de Día Sanz)で18世紀に建てられた家(Casa del Agua)を探したが見つからず、水道橋沿いに通り(Calle Almira, Calle los Cañuelos)を歩いて、16世紀に建てられた素朴な修道院(Monasterio de la Humilde Encarnación / Monasterio de Santa Rita)まで行き、そこから急いで中央広場(Plaza Mayor)に面する宿まで引き返した。

預けた荷物を取りに家族経営の宿に戻ると、面識のないおばあさんが出てきて、私たちのことを知らず、荷物を預けたのを述べて取りに来ましたと話しても、そっけない態度でドアを閉めてしまったが、家族の人が直ぐに慌てて出てくれて、丁重に失礼を謝られた。荷物を無事に背負って発つことができた。バスの時間が近いので急いでいることを知らせると荷物を直ぐに出して協力してくれた。

途中で教会(Iglesia de San Martín)の前(Plaza Medina del Campo)で日本人を見つけた。最後にもう一度中央通り(Calle Cervantes)の展望台(Mirador de la Canaleja)から街を一望した。

急いで広場(Plaza Azoguejo)に戻り、一直線に大通り(Avenida del Acueducto / Avenida Fernández Ladreda)を歩いた。市が開かれていて、スペイン各地や周辺の国の物産が売られていて賑わっていた。10分ほどでバス停(Estación de Autobuses)に着き、午後2時15分前にÁvila行の切符を買い、無事にバスに乗り込むと、先ほどのアメリカ人の観光客の賑やかな団体と遭遇した。

Segoviaの公園(Alameda de la Fuencisla)から見上げた美しい城(Alcázar)

バスで風景を楽しみ、1時間でÁvilaに着いた。新市街が広くて驚いた。バスターミナル(Estación de Autobuses)に着き、観光案内所もなく歩き方が分からず、近くのバス停(Puente de la Estación)に行き、バスで旧市街に近づいてゆくことにした。バス路線図に旧市街らしき場所があり、そこを通るバスに乗った。バス停は工事中で入れなかったが、路線図を見せてくれて、旧市街の位置を質問すると、工事をしている人は、他の町から来たり、外国人の日雇いの人のため知らないそうだった。

旧市街に向かいそうなバスに乗ると隣に通路を挟んで婦人が座っていて、途中ベビーカーが下りるとき、一緒に助けてあげてから打ち解け、スペイン語で会話をしていた。旧市街に行きたいことを話すと、このバスは行かないから、私が降りる所で一緒に降りましょうと言われて、降りると近くに広場があり、ここで待っていて下さいねと言われて、家に戻って直ぐに地図を持って来てくれた。

親切に旧市街の所まで一緒に歩いてくれて、この先まで通り(Calle Nuestra Señora de Sonsoles, Calle Cuesta de Gracia)を歩いて行くと、広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)に着くと丁寧に教えてくれた。彼女は広場(Plaza San Benito)に住んでいて、家に帰っていった。優しい人に会えて、この町の第一印象は良く、教えて頂いた通りに通り(Calle Nuestra Señora de Sonsoles, Calle Cuesta de Gracia)を歩いて、大テレサに縁がある1508年に建てられた修道院(Convento de Nuestra Señora de Gracia)、16世紀に建てられた修道院(Convento de la Concepción)、12世紀に建てられた教会(Iglesia de Santa María La Antigua)に至り、広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)に出た。

12世紀に建てられた立派な薔薇窓があるゴシック様式の教会(Iglesia de San Pedro Apóstol)が、広場の真ん中に位置して眺めは素晴らしく、午後4時になっていたが、Burger Kingで朝と昼(ブランチ)と夕食の一部を食べた。城壁(Puerta del Alcázar)に入り、1091年に建てられた立派なゴシック様式の大聖堂(Catedral de Ávila)や14世紀に建てられた邸宅(Palacio Valderrábanos)に至った。重厚感ある建物は全て赤色でなく、ガリシア地方のような玄武岩のような灰色の石材が使われていた。大聖堂の塔は左だけが作られていて、右はないため左右が対称ではなかった。

城壁や町の至る所が工事で建物を楽しめない場所があり残念だが、16世紀に建てられた邸宅(Palacio de Los Velada)、郵便局(Oficina de Correos)、1191年に建てられたロマネスク様式の司教館(Palacio del Episcopio / Ayuntamiento de Ávila)、1591年に建てられた家(Casa de las Carnicerías)を通り、城壁(Muralla)に出て、宿(Hotel Restaurante Puerta del Alcázar)に至ると、一つ星から二つ星にランクアップしていて良さそうに感じたが、決めるのを待ち、他の通り(Calle Marqués de Canales y Chozas)に面した宿(Hostal Don Diego)に至るが、もう満杯で泊まれなかった。

16世紀に建てられた邸宅(Palacio de Benavites)、修道院(Convento Noviciado Religiosas Misioneras Santo Domingo Mosén Rubí)、教会(Capilla de Mosén Rubí)、邸宅(Palacio de Bracamonte, Palacio de los Águila)、工事中の1531年に建てられた邸宅(Palacio de los Verdugo)を通り、城門(Puerta de San Vicente)を出て、1175年に建てられたロマネスク様式の教会(Basílica de San Vicente)を横目に観光案内所(Centro de Recepción de Visitantes)に到った。

宿(Hostel)の一覧表をもらい大通り(Avenida de Madrid)に面した最も安い宿(Pensión La Extremeña)に泊まることにした。案内所には大きなパネル展示があり、市街地の旧跡が一覧でき、パネルから地図に書き込み、博物館(Museo de Santa Teresa de Jesús)の位置を確認して、歩いて3分ほどの宿に向かった。16世紀に建てられた教会(Ermita del Humilladero)の前を通り、宿に着くと居酒屋(Bar)の二階部分が宿(Hostel)で1人12€で泊まれて、ベットはしっかりしていて、部屋も広く、立地も良く、主人も感じが良く、落ち付けたが、老朽化が進んでいて、トイレが壊れていたり、スイッチが古く、天井にカビが生えていた。部屋で少し休憩してから、街に出た。

城壁を一望できる素晴らしい景色を味わえて、観光客が少ないためにゆったりとした来た道(Calle Humilladero)を戻り、広場(Plaza de San Vicente)から、城壁の中に入り、通り(Calle Tostado)を歩いて、大聖堂前の広場(Plaza de Catedral)に出た。先ほども見た邸宅(Palacio de Los Velada)、郵便局(Oficina de Correos)、司教館(Palacio del Episcopio / Ayuntamiento de Ávila)、家(Casa de las Carnicerías)、邸宅(Palacio Valderrábanos)を横目に広場(Plaza José Tome)を過ぎて、17世紀に建てられた教会(Ermita de Nuestra Señora de las Nieves)から、広場(Plaza Teniente Arévalo)の美しい建物群を見て、通り(Calle Cardenal Placita y Deniel)を進み、広場(Plazuela de Pedro Dávila)からは、17世紀に建てられた教会(Iglesia San Ignacio de Loyola)の塔が美しく見えた。16世紀に建てられた立派な門を持つ邸宅(Palacio de los Dávila)も素晴らしかった。

広場(Plaza del Rastro)からは1595年に建てられた邸宅(Palacio de los Superunda)の横から素敵な城門(Muralla de Ávila)が見え、広場(Plaza Corral de las Campanas)に面した15世紀の石造りの塔(Torreón de los Guzmanes)も立派だった。15世紀に建てられた邸宅(Palacio de los Almarza)を通り、広場(Plaza de la Santa)に至った。黒い石が使われているため、シックな街並みだった。

16世紀に建てられた邸宅(Palacio de Don Blasco Núñez Vela)の前に17世紀に建てられた教会(Iglesia-convento de Santa Teresa)が聳え立ち、神聖な場所で中は美しい質素な教会で美しく、正面に向かって右側に神聖な教会があり、ステンドグラスと共に大テレサ(Teresa de Cepeda y Ahumada, 1515-1582)の物語が描かれていて、美しい部屋には祈りの雰囲気があり、教会の中にはお祈りをしている人がいた。ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世(Ioannes Paulus II, 1920-2005)が、1980年代に訪れた記念の銘文があり、前には庭に幼少時代の大テレサの像が立てられていた。

父は広場(Plaza de la Santa)のベンチで休んでいて、隣の博物館(Museo de Santa Teresa de Jesús)を訪れると、大テレサの自伝の自筆原稿や初版本、大テレサが創設したカルメル会修道院での部屋の様子が教会の地下室の中にあり、大テレサに由来する大量の書物や資料、カードや切手などに至るまで細かな資料が展示され、ヨハネ・パウロ2世の署名に使ったペンまで展示されていた。絵画や石版画があり、大テレサのみに起きた神秘体験や奇蹟について詳細に説明されていた。

また、城門(Puerta de Santa Teresa)を出て直ぐに神秘主義博物館(Centro de Interpretación del Misticismo)があり、現代美術館のようで現代の思想家、指導者、ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein, 1889-1951)、エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)などの言葉やイメージを現代美術で伝えていた。イスラム教のスーフィズムなどの展示もあり、キリスト教の神秘との違いに驚き、珍しい展示で楽しめた。どうしたらそのようなアイディアが出て来るかというようなユニークな展示がおもしろくて、自然や東洋思想が題材にされている展示が多かった。博物館を出る時に挨拶をすると警備員さんが、感想などを聞かせて欲しいと話しかけてきて、しばらくおしゃべりをして盛り上がった。博物館の前には城壁が続いていて、石畳の道と調和が取れていて美しかった。

城壁の内側に戻り、16世紀に建てられた病院(Portada antiguo Hospital de Santa Escolástica)の門跡、1086年に建てられた古いシナゴーグ跡(Antigua Sinagoga que fiso Don Simuel)、18世紀に建てられた邸宅(Palacio de Polentinos)を通り、趣のある石畳の通り(Calle Vallespín)を進み、美しい広場(Plaza San Esteban)に面した12世紀に建てられた教会(Iglesia de San Esteban)に至った。

北側の城壁を目指して、街並みを楽しみながら進むと城壁に登れる所があったが、入場料が1人6€以上もするために止めて、城壁の外側から、西から北にぐるりと町を囲むように歩いた。

15世紀に建てられた陶器の窯(Museo Hornos Postmedievales)の近くの通り(Calle Marqués de Santo Domingo, Traversa del Puente)は、特に雰囲気がとてもよく気に入り、西端の城門(Puerta de la Adaja)から外に出て、北側に向かい城壁(Muralla de Ávila)の辺りを歩いた。大通り(Avenida de Madrid)を渡り、美しい完存する城壁を楽しんだ。手入れが行き届いていて、もしかしたら、守護聖人の大テレサがこの城壁を守っているかもしれないと感じられるほどきれいに残されていた。

13世紀に建てられたロマネスク様式の素敵な聖堂(Ermita de San Segund)や学校(Centro de Exposiciones y Congresos)に加えて、1210年に建てられた教会(Iglesia de Nuestra Señora de la Cabeza)、13世紀に建てられた美しい塔がある教会(Iglesia de San Martín)、1535年に建てられた修道院(Convento de la Encarnación)も遠くに臨むことができた。

城壁の外側の大通り(Carretera Ronda Vieja)から、城門(Arco del Mariscal)を入った広場(Plaza Fuente el Sol)の直ぐ所に十字架(Cruz medieval)があり、15世紀に建てられた邸宅(Hospedería de Bracamonte)や教会(Capilla de Mosén Rubí)を進み、修道院(Convento Noviciado Religiosas Misioneras Santo Domingo Mosén Rubí)に修道女が入っていくのが見えた。

通り(Calle de López Núñez)を歩いて、邸宅(Palacio de los Verdugo)を過ぎて、城門を出て、広場(Plaza de San Vicente)に来て、観光案内所(Centro de Recepción de Visitantes)でSupermercadoを教えてもらい、1分の所にある通り(Calle Ajates)のSupermercado Hernandoで飲料を多めに買い、ヨーグルトと桃やサクランボなど果物を求めた。

スーパーの果物売り場に気前の良い青年がいて、スペイン語で話をすると喜んでいた。日本にない果物を見つけたが名前は分からなかった。桃(Melocotón)を計ってもらい、サクランボ(Cereza)を買うか迷うと味見させてくれて、見た目の赤が薄くても、味わうと甘かったので買うことにした。

台所がないため、水を入れて振り、果物を洗うためにビニールをもらうと、気持ち良くいくらでもくれて最高だった。帰りに通り(Calle Ajates)を進み、12世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Iglesia de San Andrés)を訪れた。教会の前で多くの子供が遊んでいて賑わっていた。

教会を横目にいくつか通り(Calle Independencia, Calle Solís)を通ると、大通り(Avenida de Madrid)に出てぴったりと宿に着いて、食糧を運び入れた。部屋で強い日差しの中を歩いてきて抜けた水分を補い、ヨーグルトを少し食べて一息ついてから、旧市街の東側の地区に出た。

教会(Ermita del Humilladero)、家(Casa de las Carnicerías)、広場(Plaza de Nalvillos)を通り、1150年に建てられたロマネスク様式に美しい教会(Iglesia de Santo Tomé el Viejo)が面した広場(Plazuela de Italia)に至ると、露店の軒が立ち並び、人が多く出ていて賑わっていた。

1557年に建てられた邸宅(Palacio de Los Serrano)を通り、通り(Calle Estrada)から、広場(Plaza da Santa Teresa)に入ると大テレサ像(Monumento a Santa Teresa de Jesús)を見つけた。地元の人が多く、教会(Iglesia de San Pedro Apóstol)の前で思い思いにサッカーやおしゃべりをしていた。

通り(Calle Comandante Albarrán, Calle Don Ferreol Hernández)を歩いて、広場(Plaza de Italia)に面した16世紀に建てられた旧修道院入口(Fachada del antiguo convento de Santa Catalina)、通り(Calle Lesquinas)に面した16世紀に建てられた邸宅(Palacio de Los Lezquinas)や1563年に建てられた邸宅(Palacio de los Guillamas)を通り過ぎると1609年に建てられた修道院(Monasterio de San Jerónimo de Jesús)の遺構がぽつんとあり、美しい柱を持つ門が、床に倒されて花壇にされていた。それから、1562年に建てられた修道院(Convento de Carmelitas Descalzas de San José)や町に着いたときに来た庭園(Jardín del Recreo)の先の公園(Parque San Antonio)を見た。

大通り(Avenida de Portugal)に面したバス停に9時10分の1番系統バスが丁度来て、2、3分乗ると大通り(Avenida de Madrid)に面した宿の近くを過ぎ、庭園(Jardín de San Vicente)の前で左に曲がり、南に通り(Calle de San Segundo)を進み、大聖堂前を通り、西に通り(Paseo Rastro)を進み、博物館(Centro de Interpretación del Misticismo)を過ぎてから、通り(Calle Atrio de San Isidro)から南に進んだ。そのとき、反対方向に進んだので慌てて降りてしまったが、運転手に尋ねると南側をぐるりと一周するそうで乗っていることにした。突然ボタンを押して降りたが、扉が閉まったとき、また、外から乗せてと合図すると、扉を開けてくれて、ぎりぎり乗り続けることができた。

1566年に建てられた四つの柱(Los Cuatro Postes)で大テレサに縁がある十字架を見たり、夕日に照らされた街を見たいと思い、バスで城壁の西側まで行くことにした。12世紀に建てられたロマネスク様式の教会(Iglesia de San Nicolás)、1532年に建てられた病院(Hospital de Dios Padre)、16世紀に建てられた後期ゴシック様式の美しい塔を持つ教会(Iglesia de Santiago)も車窓から見ることができて、全ての角度から城壁を眺められたり、街の至る所の史跡も見ることができて大満足だった。

西端の城門(Puerta de la Adaja)に着き、橋(Puente del Adaja)を渡り、急いで四つの柱(Humilladero de los cuatro postes)に至った。夕日に川や街が照らし出されて、草花が彩を添えていて、今まで旅をしてきた中でも指折りの美しい風景だった。十字架に腰かけて、周辺の美しい花々や風景と夕日を30分ほど楽しんだ。地元の人たちも数人が夕日を楽しんでいた。周りが暗くなり始めた頃、雲の上が半分だけ紅色に染まり、町の方向はもう暗くなり始めてきてから、いくつかの通り(Calle Cuatro Postes, Bajada la Losa)を歩いて、水車小屋(Molino de la Losa)に至った。

小川(Río Adaja)の中洲にレストラン(Restaurante el Molino de la Losa)があり、最高の景色の中で食事でき、素晴らしそうに感じた。小川のせせらぎに小橋を渡して入れるようになっていた。

橋を渡り、大通り(Avenida de Madrid)に戻ると、昼間とは違い、城壁がライトに照らし出されて街並みが美しかった。美しい城壁を進むと、段宿が近づき、意外と小さな町だと思った。

宿の下のBarに人が多く、思い思いにおしゃべりしていた中を通り抜けて、部屋に戻った。大通りに面していて、夜遅くまで1時でもおしゃべりも車の音も止まらず、騒音に起こされながらも寝れた。

ÁvilaはSegoviaと同じくヘラクレス(Heraclus < Ἡρακλῆς / Hēraklês)が建てたとされるが、紀元前6世紀にケルト人ウェトン族(Vettones < 古典ギリシア語Οὐέττωνες / Ouéttones < ケルト祖語「沼地」*wēt(t)ā < 印欧祖語*wéyh₁-teh₂ < 「枯れる」*weyh₁-、もしくはケルト齟齬「祈り」*gʷeddis < 印欧祖語*gʷʰédʰ-ti-s ~ *gʷʰdʰ-téy-s < *gʷʰedʰ-が語源)が居住した(Strabo, Geographica III. 14. 16)。

ポルトガルのÓbidosと同じく、アラビア語اَبِلة / Ābila < ラテン語Abula < 古典ギリシア語Ὀβίλα / Obíla < イベロ=ケルト語Obilaは印欧祖語*h₂ep-に遡る古い川に関する地名*orb (ob-, ub-, op-, up-) + 接尾辞*-ālos < 印欧祖語*-eh₂ + *-lósが語源で近くに川(Río Adaja)が流れることに由来すると考えられる。

使徒ペトロ(Πέτρος / Pétros > Petrus, 1-67)の弟子(Secundus)が布教して司教を置いたとされるが、Abulaはイベリア半島南部のAbla、ObilaがÁvilaに比定される。イベリア半島(Bastetania)にローマの植民都市 Abula, Abla, Abila, Abelaが生まれた(Strabo, Geographica II. 6. 60)。

476年に西ゴート王国に支配され、714年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)に攻略され、1085年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)が征服、1090年に娘婿ラモン・デ・ボルゴーニャ(Raimundo de Borgoña, 1070-1107)が城壁を建設して、1107年に大聖堂が建築された。

1367年に第一次カスティーリャ継承戦争 (Primera Guerra Civil Castellana)でイングランドの攻撃を受けた。1562年にアビラの聖テレサ(Teresa de Cepeda y Ahumada, 1515-1582)が修道院を建てて、十字架のヨハネ(Juan de Yepes Álvarez, 1542-1591)と共にカルメル会の改革をした。

音楽家トマス・ルイス・デ・ビクトリア(Tomás Luis de Victoria, 1548-1611)はÁvilaの近くに生まれ、静謐さと激烈さを兼ねた多声音楽を多く生み出した。

Ávilaの城門(Puerta de la Adaja)を出て、大通り(Avenida de Madrid)から城壁(Muralla)を臨む

2008年6月14日(土)66日目(Ávila-El Escolial-Madrid-Alcalá de Henares: Hostal Jacinto)

修道院(Monasterio de El Escorial)は立派な石造りで壮観だった。図書館が素晴らしかった。スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1757)やボッケリーニ(Luigi Boccherini, 1743-1805)が勤めた場所があり、彼らの音楽を思い出したり、王宮の雰囲気を思い出した。周辺の街を散策してから鉄道でAlcalá de Henaresに向かい、セルバンテスの生家(Museo Casa Natal de Cervantes)が面している大通り(Calle Mayor)のアーケードはにぎやかで生活感があり、また、広場の美しさも堪能できた。

今日は午前7時半に起き、午前9時15分の電車に間に合うよう支度を整えて出発した。宿の主人は優しく出迎えてくれて、気持ちよい旅立ちだった。宿泊した場所は設備は古かったが、温かい主人で快適に過ごすことができた。一階にBarがあり、主人は楽しそうに愛想よくお客さんとお話をしていた。

駅に少し速足で向かい、宿の前から一直線(Avenida de Madrid)に歩いて、15分ほどで着き、良い場所に泊まったと思った。列車は始発で切符を求めて乗車すると、定刻通りに発ち、駅を出た途端に視界が開けてきて、素晴らしい畑の中を通り、山岳地帯に入り、土砂が流れたら通行できなくなるほど、切り立った崖の上を走り、一時間ほど、美しい絶景の中を走り、1563-84年にフェリペ2世(Felipe II, 1527-1598)が建てた大きな修道院(Monasterio de El Escorial)が見えてきて、目的の場所が一目瞭然だった。町中まで地図がないが、大きく聳え立つ修道院を目指して歩いた。帰りの電車の時間を確認していたら、あやしい日本語で話しかけられてきたので、足早に通り過ぎた。

駅から小道(Paseo de la Estación)を上がると三つ庭園(Parque y jardines de la Casita del Príncipe, Parque Deportivo, Jardín de Los Frailes)があり、近道から少し外れながらも、最初の庭園の管理人が言う通りに1kmほど歩くと修道院が見えてきた。美しく手入れされた庭園が広がり、バラ園や並木道憩いの場があり、落ちついた場所だった。庭園の門を出て、修道院まで坂(Carretera de la Estación)を上がると劇場(Teatro Auditorio San Lorenzo de El Escorial)が面した美しい広場(Plaza Virgen de Glacia, Parque de la Boleraa)に出た。特に修道院の近く(Avanida de Juan de Borbón y Battenberg)から間近に全体が美しく見えた。Madridでもらった地図を頼りにして、直ぐに観光案内所(Oficina de Turismo / Casa de Cultura de San Lorenzo del Escorial)を見つけ、詳しい町の地図をもらい寛いだ。

詳しい案内板に歴史や王宮の音楽について書かれていた。宮廷音楽家ドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1757)の肖像画があり、スペインの王家に彼が勤めていたことは知ってはいたが、実際にこの修道院で作曲したり演奏したり、ソレール神父(Padre Antonio Soler, 1729-1783)に教授していて感無量だった。ボッケリーニ(Luigi Boccherini, 1743-1805)も滞在した。

朝で人も少なかったので快適だった。X線検査を受けると直ぐにロッカーの鍵をもらい、荷物を預けて、チケットを求めて、王宮に入ると荷物室があり、カートと大きなトランクに預けることができ、身軽になり、王宮の中に入ると、直ぐに大きなタペストリーがあり、織り込むのにどれ位かかったのかと思わせるほど立派だった。王宮の建築に関する資料がずらりと並べられていて、修道院の設計図が精密に引かれていて美しかった。建築に用いられたクレーンの模型など、大量の資料があった。

階段を上がると、絵画の展示室(Museo de Pinturas)に至った。大量のコレクションがあり、奥に宗教画があり、Madridのプラド美術館(Museo del Prado)にもあるマリヌス・ファン・レイメルスワーレ(Marinus Claeszoon van Reymerswaele, c.1490-1546)の《両替商とその妻(El cambista y su mujer)》(プラド美術館版は1539年、エル・エスコリアル修道院版は1541年)があった。スペインはフランドルを支配していた時代があるため、フランドルの画家による作品が多かった。

エル・グレコの《イエスの御名の礼拝(Adoración del nombre de Jesús)》(1577-79年)やベラスケスの《ヨセフの衣を受けるヤコブ(La túnica de José)》(1630年)などスペインの作品も多く見られた。タペストリーにも初期の庭園の姿、プラド美術館で見た絵と同じ図柄が織り込まれていた。

絵画の部屋を見ているとAlhambraの券売所の前で朝並んでいた時に一つ後ろにいてよく話した3人と偶然に再会してお互いに驚いて、おしゃべりをした。食器や王宮の家系図の小さな展示を見てから、庭園(Jardines de los Frailes)を望める美しい道路に出た。板硝子が沢山あり、近くで見て見ると、表面がうねっていたり、気泡が結構入っていて、均一に作る技術が発達する古いものと分かった。

スペイン王フェリペ2世が亡くなった部屋(Palacio de Felipe II)と隣の小部屋には、読書や書斎があり、直筆の手紙が展示されていた。当時から家具の位置も変わらず、部屋には雰囲気があった。隣に小型の手回しオルガンがあり、音域は4オクターブ半しかなかった。

次に大きい部屋に出て、沢山の地図が展示されてあり、西欧人に知られて間もない日本もアメリカもきちんと記載されていて、今でも使われている地名も記入されていた。地図は何十枚も百枚近くあり、一つ一つ見ても飽きないくらい美しかった。

部屋から覗いた小さな秘書室(Secretaría)にラファエロ(Raffaello Santi, 1483-1520)の《聖母子像(San Familia / La Virgen de la pierna larga)》の古い複製があり、もう一つ大きな絵画だらけの聖具室(Sacristía)を通り、ティツィアーノ(Tiziano Vecellio, c. 1490-1576)の《キリストの磔(Cristo crucificado)》(1555年)やミヒール・コクシー(Michiel Coxcie, 1499-1592)の《聖家族像(La Virgen, el Niño Jesús y Santa Ana)》(1552年)などを見た。石造りの廊下に溝が開けられていて、中をのぞくと排水溝があり、トイレと分かった。

修道院(Convento)に入ると途端に豪華ではなく質素になり、暗めの色の石が積まれていて素朴で美しかった。地下墓(Panteón)に入ると、歴代のスペイン王の墓石があり、1つ1つにはラテン語で人生の模様が書かれていて、ブルボン王朝(Casa de Borbón)らしく、白百合の紋章(Flor de Lis)と十字架とスペイン王室の紋章(Escudo de España)を組み合わせた美しいデザインだった。フェリペ2世の墓に王の全身が彫られていて美しかった。上がると広い応接間があり、エル・グレコ(El Greco, 1541-1614)、ティツィアーノ(Tiziano Vecellio、1488-1576)、ベラスケス(Diego Velázquez, 1599-1660)の絵が一堂に展示された貴重な部屋に出るが、豪華絢爛で額に落ち着かなかった。

部屋を出て、石造りの長い廊下の上には、絵の具で聖書の物語が直に大きく描かれ圧巻だったが、細かい部分は意外と雑に描かれていた。国王の家系図などの展示を見てから、階段を上ると大きな中庭(Patio)に出て、バシリカ(Basílica de El Escorial)に入ると信じられないほど、広々とした空間があり、一切の装飾が無くなり、コンクリートのような灰色の石が積み上げられていて荘厳だった。

祭壇(Altar)も質素で美しく、高い所にあり、大学の講堂のようで、隣の入り口から図書室(Real Biblioteca del Monasterio)に入ると壁一面に家具があり、広く長い廊下の中央にも家具があり、書物がギッシリと収められていて、フェリペ2世の幼少時代の絵画もあり、奥の部屋には絵画が沢山あり圧巻だったが、絵画の内容には趣味はあまり持てなかった。

1582年に作られた渾天儀(Esfera armilar de la Escurialense)が展示されていた。聖母マリアのカンティガ集(Cantigas de Santa María)の写本(E-E MS T.I.1やB.I.2・1280年頃)やデュファイ(Guillaume Du Fay, 1397–1474)、バンショワ(Gilles Binchois, c. 1400-1460)、オケゲム(Jean Ockeghem, c. 1410-1497)、ビュノワ(Antoine Busnoys, c. 1430-1492)のブルゴーニュ宮廷シャンソンが書かれた写本(E-E MS IV.a.24・1460-74年)など、ギリシア語、ラテン語、ヘブライ語、アラビア語、ペルシア語、トルコ語、アルメニア語、ドイツ語、カスティーリャ語、カタルーニャ語、ポルトガル語、ガリシア語、フランス語、イタリア語、中国語、日本語などの本が所蔵されていた。

特にモロッコ・フェズ(فَاس / fās)のサアド朝(اَلْسَعَدِيْون‎‎ / al-saʿadiyun)最後の君主アブド・エル・マレク(زيدان أبو معالي / Zidan Abu Maʿali, c.1570-1627)の蔵書(الْخِزَانَة الْزَيدَانِية / al-ḵizāna az-zaydaniya)などアラビア語の貴重な図書も収蔵されていた。ミゲル・カシリ(Miguel Casiri, 1710–1791)が1760-70年に詳細な目録(Bibliotheca Arabico-Hispana Escurialensis)を作成したことから、フランスの学者ドレンブール(Hartwig Derenbourg, 1844-1908)の1884-1903年の目録(Les manuscrits arabes de l’Escurial)などに引き継がれて、西欧でアラビア文献が研究され始めた。

18世紀にローマのバチカン図書館の司書アッセマニ(Giuseppe Simone Assemani < Iosephus Simonius Assemanus < يوسف بن سمعان السمعاني / Yusuf ibn Siman as-Simani, 1687-1768)が中近東地域の書籍整理をした(Giuseppe Simone Assemani (1719-28). Bibliotheca Orientalis Clementino-Vaticana in qua manuscriptos codices Syriacos, Arabicos, Persicos, Turcicos, Hebraicos, Samaritanos, Armenicos, Aethiopicos, Graecos, Aegyptiacos, Ibericos, et Malabaricos, jussu et munificentia Clementis XI Pontificis Maximi ex Oriente conquisitos, comparatos, et Bibliotecae Vaticanae addictos Recensuit, digessit, et genuina scripta a spuriis secrevit, addita singulorum auctorum vita, Joseph Simonius Assemanus, Syrus Maronita, Roma: Typis Sacrae Congregationis de Propaganda Fide.)

王宮を出ると午後1時になり、荷物を預けたまま、王宮前の広場(Avenida de Juán de Borbón y Battenberg)から石畳の坂(Calle Grimaldi)を登り、広場(Plaza Jacinto Benavente)に出て、左折して通り(Calle Floridablanca)を歩いて、広場(Plaza de la Constitución)に至り、町の様子も見ることができた。ギルド(gremios)の建物(Casa de Oficios)や大学(Real Centro Universitario Escorial)の教授の1583-85年に建てられた住居(Casa de los Doctores Catedráticos del Colegio)を通り、通り(Calle Floridablanca)の突き当りにある1562-84年に建てられた家(Cada denominada de Jacometrezzo)まで歩き、1772-74年に建てられた病院(Centro de Salud San Carlos)から1797年に建てられた市場(Mercado San Lorenzo)を通り、雰囲気ある通り(Calle del Rey)や高台の広場(Plaza de la Constitución)から王宮を見てから下り、直ぐに王宮の正面玄関に戻り、預けていた荷物を取り、電車の時刻まで35分しかないため、急いで来た道を戻り、庭園を通り、駅に向かった。

石畳や家の壁は黒い岩が使われていて、街の中は整然としていて、16世紀中ごろから修道院兼王宮から発展した美しい街だった。帰りは道を上から見渡せて難なく、15分ほどで駅に着き、午後2時15分の電車まで余裕だった。Guadalajara行きの電車に乗ると、Madridの駅(Estación de Atocha)を通り、直接Alcalá de Henaresまで行けた。El Escorialから山道の中を通り、Madridに近づくと高層ビルが林立していて、田舎から一気に披けてきたが、大都会の郊外は、何もなかった。Alcalá de Henaresの周辺には、沢山の古墳のような小さな丘が多くあり、駅の入り口も似たような形で面白かった。

修道院(Monasterio de El Escorial)を坂(Avanida de Juan de Borbón y Battenberg)から臨む

午後4時少し過ぎに着き、駅を出るとMcDonald’sの看板があり、広場(Plaza de Cervantes)まで車で5分と聞いて、いくつかの通り(Paseo de la Estación)を歩いていった。新市街に砦のような外観のムデハル様式(estilo mudéjar)の建物が見えて、セルバンテス協会(Instituto Cervantes)とあり、邸宅(Palacete Laredo)に併設された博物館(Museo Cisneriano)だった。

その先に面白い記念碑(Monumento al Quijote)が目立つロータリーを曲がると1454年に建てられた大きな教会(Parroquia Santa María la Mayor)を横目にして、広場(Plaza Canto de San Pedro)から商店街(Calle Libreros)を進むと美しい広場(Plaza de Cervantes)が見えてきた。2階部分が通りにせり出していて、アーチの下を通行人が歩くことができて、雨や日差しが強い時に便利そうだった。

観光案内所は午後5時まで閉じていて、45分ほど広場に面したトルコのケバブの店でラムの肉を挟んだポテトサラダにソースをかけてもらい、お腹一杯食べた。少し口を付けただけで、口に合わなかったためか、殆んど残して居た人もいたが美味しかった。食べ終わる頃に丁度、観光案内所(Oficina Municipal de Turismo)が開く時間になり、街の地図と宿の位置の地図をもらった。

セルバンテス(Miguel de Cervantes, 1547-1616)が生まれた博物館(Museo Casa Natal de Cervantes)は、午後6時に休館で最終入場が5時半のため、急いで広場(Plaza Cervantes)に出て、大通り(Calle Mayor)を走り、ぎりぎり駆け込んだ。無料で入場でき、美しく整備された快適な中庭や周りの部屋を楽しめた。二階のCervantesが生まれた部屋は雰囲気が素晴らしく再現され、一階部分はダイニングキッチンで中庭に井戸があり良い雰囲気だった。当時の暮らしぶりが伺えて満足だった。

それから、来た道を戻り、小道(Paseo de la Estación)に戻り、宿(Hostal Jacinto)を探すが、看板があるのに全く入り口が見つからず、前のBarの客や隣のBarの人にきいても、スウェーデン対スペインのサッカー観戦に夢中な人が多かったが、Bar(Cafetería El Paseo)の人にきいたら、お手伝いの子供がカウンターから出て、案内してくれてビルのインターホンを教えてくれた。無事に宿を見つけられて、優しい主人が受付をしてくれて部屋に入り寛いだ。三重の鍵があり警備も良かった。

直ぐに近くの通り(Calle Manuel Azaña)にあるSupermercado Carrefourで飲み物、オレンジジュース(Zumo de naranja)、ミックスジュース(Zumo multivitamínico, Batido de melocotón, manzana y limón)、ヨーグルト飲料(Yogur líquido sin azúcar)、レモンティー(Té de Limón)、果物(Paraguayo, Kiwi, Limón)、明日のお菓子(Nacho Burrito de Carne com Queijo, Palmeritas de hojaldre con azúcar)を買い、宿に戻り、荷物を置いてから、直ぐに街中に出た。レジ係の店員さんがお客さんが来ないと、マニュキアを塗り、時間をつぶしていて、スペインらしいと思った。

また来た道を戻り、広場(Plaza de Cervantes)にある礼拝堂(Ermita del Oidor)を訪れた。Cervantesの世界と題された小さなコーナーがあり、日本語を含む各国語訳や伝記や解説本が展示されていた。家系図や洗礼盤の修復過程や街の歴史を記した古い本などの資料があった。

それから、生家の隣の病院跡(Antiguo Hospital de Nuestra Señora de la Misericordia / Fundación Antezana)も無料で中庭を見学でき、二階に町の人が集まりおしゃべりを楽しんでいた。前の通りには勾配があり、アーケードの中を通る道(Calle la Imagen)を戻り、16世紀に建てられたカルメル会修道院(Carmelitas Descalzas de la Purísima Concepción)の門には、昨日見た聖テレサに縁がある修道会で彼女の事績が銘文(D(eo)O(ptimo) M(aximo) D(octor) D(ominus) Alvarus de Carvaxal reg(ius) eleemosin(arius) hui(us) operis praefectus et auspicator an(no) 1607)にあり彫像もあった。

通り(Calle de Santiago)を歩き、セルバンテス劇場(Teatro Salón Cervantes)と1616年に建てられた修道院(Convento de San Juan de la Penitencia)を過ぎてから、通り(Calle Libreros)に面した1505年設立の王立学校(Colegio Menor de San Felipe y Santiago o del Rey)にCervantesやスペイン語(カスティーリャ語)に関する研究書が一堂に展示されていた。また、併設された大学構内(Universidad de Alcalá de Henares)にもラテン語の碑文を見つけた。

通り(Calle Nebrija)を進み、16世紀に建てられた修道院(Convento de las Clarisas de San Diego)を通り、広場(Plaza de San Diego)に面した1499年設立の大学‘(Colegio Mayor de San Ildefonso)に至った。近くには、結婚式用に使われたビンテージカーが停まっていて、皆が興味津々に見入っていて、教会では結婚式をしていたため、前の広場には人が多くいて通り抜けるのが大変だった。

1572年に建てられた大学(Colegio de San Pedro y San Pablo)と修道院(Convento de las Clarisas de San Diego)の間(Calle San Pedro y San Pablo)を通り抜けて、通り(Calle Colegios)を進んだ。1599年に建てられた修道院(Convento del Corpus Christi)、1511年に建てられた学校(Colegio de los Mercedarios Calzados / Parador de Alcalá de Henares)、1660年に建てられた修道院学校(Colegio-Convento de San Basilio)などが立ち並んでいた大学街だった。

特に16-17世紀にものすごい数の修道院学校が建てられていて、それもカルメル会が多く、Ávilaの大テレサの活動が影響していると感じた。通り(Calle Santa Úrsula)に面した1574年に建てられた修道院(Convento de Santa Úrsula)を見てから、1529年に建てられた修道院学校(Colegio-Convento de Santo Tomás)の前から路地(Calle de la Trinidad)を行き、1839年に建てられた学校(Convento de Trinitarios Descalzos)を通り、更に路地(Calle Santa Clara)に面した1481年に建てられた修道院(Convento de Nuestra Señora de la Esperanza)まで行った。

13世紀に建てられた病院跡(Antiguo Hospital de Santa María la Rica)を通り、304年にローマ都市(Complutum)で殉教した町の守護聖人の学生兄弟(Iustus, 297-304 et Pastor, 295-304)に404年に捧げられた聖堂を起源として、1054年にイスラム教徒により破壊され、1122年に再建され、1446年に着工した大聖堂(Catedral Magistral de los Santos Justo y Pastor de Alcalá de Henares)に出た。 8世紀に兄弟の墓が発見されて、Huescaに聖遺物が移送されたが、1568年に里帰りして大聖堂に収められたことから、学者たちが信仰する聖人となり、修道院や大学が数多く建てられた。

前の広場(Plaza de los Santos Niños)に人が多く出ていて賑わっていた。小道(Calle San Juan)に面した15世紀に建てられた家(Casa de la Entrevista)を通り、広場(Plaza Palacio)から1694年に建てられた礼拝堂(Oratorio de San Felipe Neri)を見て、1209年にロドリゴ・ヒメネス(Rodrigo Jiménez de Rada, c. 1170-1247)が建てた大司教館の建物(Palacio arzobispal)は立派で新しく感じた。

城壁沿いに1788年に建てられた簡素で美しい白色の門(Puerta de Madrid)や赤色の門(Puerta de la Torre)まで通り(Calle Cardenal Sandoval y Rojas)を歩き、現代美術の彫像を見てから、1613年に建てられた修道院(Convento de las Bernardas)、1698年に建てられたドメニコ会修道院(Convento de Dominicos de la Madre de Dios / Museo Arqueológico Regional de la Comunidad de Madrid)が面した雰囲気のある広場(Plaza de las Bernardas)に戻った。修道院の煉瓦のセメントは石灰を解いただけで触るとボロボロ落ちてきて、一回でも地震が来たら崩れて大変なことになるだろうと思った。

いくつかの広場(Plaza Palacio, Plaza del Padre Lecanda)やいくつかの通り(Calle Esteban Azaña, Calle Nueva)を過ぎると、中央広場(Calle Mayor)には、昼寝時間(Siesta)があけて多くの人が出ていて、カフェも殆ど満席で市民がおしゃべりしたり、通りで子供と遊んだりした。大道芸人がいて、人だかりがあるが面白くなさそうで少しだけ見た。Cervantesは一等地に生まれたことを知った。

中央広場(Calle Mayor)を進み、同じ道を戻り、宿に帰ると午後9時少し過ぎで一息ついてから、お風呂に入り、テレビを見たり、午後11時半頃で果物を食べたり、ゼリーを食べてゆっくりと寛いだが、桃より少し硬くて扁平な桃(paraguayo)は甘さも酸味も少なく控えめで余り口には合わないが、Ávilaで見つけて食べてみたかった。テレビでは素人が一週間プロの人にダンスを習い、練習して発表する番組をしていて、スペインらしく陽気だった。午前0時半までゆっくりして忙しい一日を終えた。

Alcalá de Henaresは、イベリア人(Carpetani)が居住して、貨幣にイベリア文字でIkesankom Komboutoと記録された。王(Tehuero)が丘(Cerro del Viso)を本拠としたことが大プリニウス(Gaius Plinius Secundus, 23-79)の《博物誌(Naturalis historia)》やプトレマイオス(Κλαύδιος Πτολεμαῖος > Claudius Ptolemaeus, 83-168)の《地理学(Γεωγραφικὴ Ὑφήγησις > Geographia)》で伝えられている(Luis Amela (2014). La ceca de Ikesankom Konbouto, Hécate 1: 1-9.)。

紀元前1世紀のローマの植民都市(oppidum)のComplutum(古典ギリシア語Κόμπλομτον / Kómplomton < イベロ=ケルト語Kombouto < ケルト祖語「谷」*kumbā < 印欧祖語*kumbʰéh₂ < *keu-で特にラテン語「平原」campus < イタリック祖語「谷」*kampos < 印欧祖語*kh₂emp-o-s < 「曲がる」*kh₂em-、サンスクリットकुम्भ / kumbháやアヴェスタ語xumba < インド=イラン祖語*kumbʰás、古典ギリシア語κύμβη / kúmbē < ヘレニック祖語*kumbas、古英語cumb, comb < ゲルマン祖語*kumbaz < 印欧祖語「甕」*kʰumbʰasと関連)を起源とする。

ローマ帝国時代には、304年に殉教した兄弟(Iustus et Pastor)から、「奉るに相応しい土地(Campus Laudabilis)」や「聖ユストゥスの砦(Alcalá de Sant Yuste)」とも呼ばれた。

6世紀半ばに西ゴート王国が支配して、711年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が攻略、キリスト勢力の北からの攻撃に備えて、Henares川(古スペイン語「秣」henar < ラテン語faenum < イタリック祖語*fēnom < 印欧祖語*dʰeh₁(y)-no-m < 「吸う」*dʰeh₁(y)-が語源)の南に都市を移動して、アラビア語「川の砦(القَلْعَة نَهْر  / al-qalʿa nahar)」と名付けた。

後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のハカム2世(الحكم بن عبد الرحمن al-Ḥakam ibn ʿAbd ar-Raḥmān, 915-976)が築いた砦(Castillo de Alcalá la Vieja)が残された。レオン王国(Reino de León)との境界で軍事では重要な土地であった。

1118年にToledoの大司教ベルナルド・デ・セディラック(Bernardo de Sédirac, c.1060-1128)が奪還した。1235年にロドリーゴ・ヒメネス(Rodrigo Jiménez de Rada, c. 1170-1247)が法律(Fuero Viejo)を発布、1293年に大学(Complutensis Universitas > Universidad de Alcalá)が設置、1308年にFernando IV de Castillaと Jaime II de Aragónが条約(Tratado de Alcalá de Henares)を締結した。

大聖堂(Catedral Magistral de los Santos Justo y Pastor de Alcalá de Henares)

2008年6月15日(日)67日目(Alcalá de Henares-Madrid-Pinto-Aranjuez-Trancón-Huete-Cuenca: La Casita del Parque)

Aranjuezで美しい宮殿を見学して庭園を散策した。町の中に川の水が引きこまれていて、宮殿と庭園が良い雰囲気をなしていた。乾燥した大地に水があり、オアシスのようだった。Cuencaで断崖絶壁の宙吊りの家(Casas Colgadas)を見て、展望台(Mirador Barrio del Castillo)に面した教会(Iglesia El Carmen de la Asunción)から夕陽に染まる旧市街の様子を楽しみ、修道院から聖歌が聞こえてきた。

今日は昨日寝れなかった分まで良く眠れて良い朝を迎えた。午前7時半に起き、身支度をして、午前8時半には宿を出た。駅まで一直線(Paseo de la Estación)で左の道(Calle Pedro Lainez)に曲がり、10分ほどで着いて、切符を求めた。Madridの駅(Estación de Atocha)行きの電車を駅員さんに聞くと優しく教えてくれて、急がなくても大丈夫と言ってくれた。始発の電車に乗り込み、お菓子を食べて発車まで待つと、鉄道警察の人が警備に来て、スペインの鉄道の警備の厳しさに驚いた。いつも警察官にSantiago de Compostelaの巡礼で声をかけてもらえるが、今回もおつかれさまと言われた。

鉄道は時間通り、午前9時4分に出発して、隣の駅(La Garena)にある古城(Ciudad Romana de Complutum)などの風景を楽しんだ。Madridに近くなると、途端に都会らしくなり、町が開けてきて面白く感じた。Madridの駅(Estación de Atocha)で電車を乗り換えるためにホームに降りるとき、自転車を抱えて、エスカレーターを登る人がいて感心した。

乗り換えは楽にでき、始発の電車も来て、乗って待っていたら、風変わりで陽気なおじさんがステッキを振り回して、話しかけたり歌いながら、車内を歩き回り、皆を笑わせていた。Madridの都会を抜けてから荒涼とした土地が続いたが、Aranjuezの近くでいきなり緑が現れて、30分ほどで着いた。

地図を見ながら、旧市街まで大通り(Carretera de Toledo)を歩くと、王宮(Palacio Real de Aranjuez)と庭園(Jardín del Parterre)が見えてきた。広場(Plaza de la Mariblanca)に面した観光案内所(Oficina de Turismo)で地図をもらい、通りや見どころなどの説明を受けて、宮殿に何時まで入場でき、荷物を取り出せるのかなどを確認した。宮殿に入る所に1860年に建てられた邸宅(Palacio Silvela)は、個人宅で見れないが、スペイン人が歴史について、英語で一生懸命説明してくれた。

王宮に直行して、券売所で求めて入る前に手荷物検査があり、資料室や土産屋を通り、荷物室ではロッカーに入らず困るが、大きなトランクを見つけて、荷物を預けて身軽になり、直ぐに中庭に出た。ドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti, 1685-1757)が春の時期に過ごしたり、彼が仕えたポルトガルの王女でスペイン女王になったマリア・バルバラ(María Magdalena de Bragança, 1711-1758)が亡くなった王宮(Palacio Real)は1501年に建てられた立派な建物で楽しめた。

宮殿の中には大きなタペストリーがあり、昨日の宮殿より部屋の中が明るく快適だった。隣にはピアノが置かれた美しい部屋(Sala de Música de la Reina)があった。調度品が全て高級感があり最高だった。王の寝室(Dormitorio del Rey)や后の寝室(Dormitorio de la Reina)を見て、番人の部屋(Sala de guardias del Rey)や王の書斎(Despacho del Rey)を見つけ、宮殿らしさを感じた。

階段を下ると王宮の日用品を展示する博物館があり、先ず陶器のコレクションに目を見張り、王が用いた服や肖像画や古写真、アルフォンソ13世(Alfonso XIII, 1886-1941)が用いた小さい頃の歩行器具があり、王様たちの署名(Jo el Roy /Jo la Reina)には、名前が書かれていなかった。

アラブの部屋(Salón árabe)や中国の部屋(Sala China)もあり、宮殿の中には諸国の文物が置かれていたが、18-19世紀の西欧人の発想は実際の姿とかけ離れていて、東方趣味や中国趣味が満開だった。現国王と后が用いた大礼服やドレスが終わりに展示されていた。宮殿用に荷物を預けて、警備員にたずねたら辺りを見てきても良いそうなので、荷物はそのまま預かってもらい外へ出た。

宮殿の部屋と同じく、王の庭(Jardín del Rey)と女王の庭(Jardín de la Reina)が左右対称にあり、前庭(Jardín del Parterre)に噴水や川(Río Tajo)から引いた小川があり、美しかった。

宮殿の前の庭園にかかる橋を渡り、中洲の庭園(Cascada de las Castañuelas)を散策してから、通り(Calle de la Reina)に面した1751年に建てられて有名なNapoli生まれのカストラートでスカルラッティの同僚ファリネッリ(Farinelli / Carlo Broschi,1705-1782)が住んだ邸宅(Palacio de Osuna)から、いくつかの通り(Calle del Capitán Angosto Gómez Castrillón, Calle del Capitán Angosto Gómez)を南に進み、15世紀に建てられた邸宅(Palacio de Medinaceli)、17世紀に建てられた家(Casa del Gobernador)、1773年に建てられた病院(Hospital de San Carlos)を見た。

1765年に建てられた修道院(Convento de San Pascual)には多くの人がいたが、ミサの最中で入れなかった。大通り(Avenida Plaza de Toros)の闘牛場(Plaza de Toros)に出てから、通り(Calle de Almíbar)を北に戻り、18世紀に建てられた家々(Corralas)、広場(Plaza de la Constitución)に面した市庁舎(Ayuntamiento)や市場(Mercado de Abastos)など、街の中を見て回った。

王の礼拝堂に戻るとき、素敵なお菓子屋さん(Pastelería Parras)が繁盛していて、クリーム入りのパンとカスタード・クリーム入りのパンを買った。大通り(Carrera de Andalucía)を進み、1752年に建てられた教会(Iglesia de San Antonio de Padua)、広場(Plaza de la Mariblanca)を抜けると見えてきた1771年に建てられた家(Casa de Infantes)にある観光案内所もSiesta休みで不便だが、バスの時間が迫り、庭園(Jardin de Isabel II)を歩いて、王宮の庭園(Jardín del Parterre)に戻り、パン菓子を食べる場所を見つけて、橋を渡り中洲(Cascada de las Castañuelas)へ行った。人通りも少なく、日陰で快適に過ごせた。街を発つまで2時間半ほどあり、美しい庭園でのんびりと過ごした。

マリア・バルバラは、ポルトガルのLisbonで生まれて、スペインに嫁いできたため、故郷にも流れていたTajo川に面したAranjuezがお気に入りの宮殿となった。Aranjuezはバスク語「サンザシ」arantza < 古スペイン語arándano < ラテン語rodandarum < 古典ギリシア語 ῥοδόδενδρον / rhodódendron < 「バラ」ῥόδον / rhódon < エオリア語ϝρόδον / wródon、ヘレニック祖語*wródon < 印欧祖語*wr̥dʰ-os < 「育つ」*Hwardʰ- + 「木」δένδρον / déndron < ヘレニック祖語*dérdrom < 印欧祖語*der-drew-om < *dóru、もしくは「谷」aran < *ɦaran + 「寒い」otz < *hocが語源である。

ラテン語「ジュピター神殿(Ara Iovis)」、アラビア語「クルミの土地(اَلْأَرْض جَوْز / al-ʾarḍ jawz)などの説があるが、古いバスク語の説が妥当である。7世紀にAraus, Aranz, Aranzuel, Aranzuegue, Almuzundica、15世紀にAranjuezと記録された。1108年にカスティーリャ王アルフォンソ6世(Alfonso VI, 1040-1109)はムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)との戦い(Batalla de Uclés)に敗れたが、1178年にイスラム勢力から奪取して、サンティアゴ騎士団(Orden de Santiago)の領地となり、1493年にカトリック両王室の土地となり、1561年にフェリペ2世が宮殿を建築した。

Aranjuezの広場(Plaza de la Mariblanca)から王宮(Palacio Real de Aranjuez)を臨む

1939年にホアキン・ロドリーゴ(Joaquín Rodrigo, 1901-1999)がアランフェス協奏曲(Concierto de Aranjuez)を着想したと伝えられる宮殿前から街を眺めたら、王宮に面した庭園の中で暢気に釣りを楽しんでいる人がいた。ゆっくりしていると発車まで1時間半になり、通り(Calle de las Infantas)を歩いて、バス停(Infantas-Estacion de Autobuses)に行くが、Cuenca行きのバスが、午前10時台に1日に1本しかないことを知り、急いで王宮で荷物を取り出して、鉄道で移動することにして、駅まで歩いていった。観光案内所(Oficina de Turismo)で行き方を教えてもらい、駅に直行するとまだ1時間15分もあり、美しい駅舎の中でゆっくり待ち、日記を書いた。通りを歩いてゆく、色んな人を観察した。スペイン人はゲーム機に夢中の人が少なく、若い人でも分厚い活字の本を読んでいた。

皆、Madridの駅(Estación de Atocha)行きの電車に駆け込み、乗り遅れていたりしていた。午後4時33分に駅のアナウンスがあり、4番線に列車に乗った。電車が少なく車内は混み合い、3時間近く田舎の畑の中を走ると、コンクリートを流しただけのホーム(Castillejo del Romeral)があり、車でお父さんが迎えていたローカルな駅(Cuevas de Velasco)もあった。

大都市が見えてきて、目的地と直ぐに分かった。Cuencaに午後7時近くに着いたため、駅構内に案内所を期待したがなく、町へ歩くと駅前の通り(Calle Mariano Catalina)に観光案内所(Oficina de turismo)があり、地図と泊まる所も閉まるぎりぎりに駆け込んで教えてもらえて助かった。

町の中心の公園(Parque de San Julián)の南側にある通り(Calle San Esteban, Calle Alonso Chirino)が交わる角に安く泊まれる宿があり、直ぐに入ると宿の方が温かく迎えてくれて、部屋をすんなり見つけられた。建物は古いが、部屋は広くて、清潔なベットも3つあり、シャワーもトイレもテレビもお風呂もあり、24€で父と2人泊まれるのは破格だった。受付を済ませて、早速、旧市街に出た。

宿からいくつかの通り(Calle Garcilaso de la Vega, Calle las Torres, Calle Puerta de Valencia)を行き、通り(Casa de Las Rejas)に面した1512年に建てられた修道院(Monasterio de la Concepción Franciscana)や16世紀に建てられた門(Puerta de Valencia)辺りまで歩いてゆき、Huécar川を渡る辺りから、古い町の雰囲気が出てきた。川沿いの小道(Paseo del Huécar)を進んだ。

美しい町並みでカラフルな家々が立ち並んでいた。ごつごつした岩が道に張り出していて、断崖絶壁に都市が形成され、奇岩が多くて圧巻で見たこと無い風景で町全体が美しかった。

12世紀の小道(Bajada San Martín)を過ぎて、小道(Calle Canónigos)を行くと13世紀に断崖絶壁に建てられたお目当ての家(Casas del Rey)が真上に見えてきて、真下から見上げた。急な上り坂になり、16世紀に建てられた旧修道院(Antiguo Convento de San Pablo)も望める良い眺めでカーブを行き、断崖絶壁を登りつめると吊り橋(Puente de San Pablo)があり、川(Río Huécar)を直ぐ下に見下ろせて、中吊の家々(Las Casas Colgadas)や大聖堂(Catedral de Santa María y San Julián)の塔が見えて感動的だった。橋で盛り上がるスペイン人に写真を頼まれて撮ってあげると喜ばれた。向こう岸の通り(Subida a San Pablo)の中ほどまで歩いてゆくと美しい旧市街の町並みが美しかった。

また、橋を戻り、中吊の家の前で午後8時を丁度迎えて、Ave Mariaの鐘の音が聴こえてきた。それから、大聖堂(Catedral de Santa María y San Julián)の裏からも中吊りの家を見て、広場(Plaza Ciudad de Ronda)、1250年に建てられた司教館(Palacio Episcopal)から通り(Traversa Clavel)を進み、階段(Calle Severo Catalina)を上り、大広場(Plaza Mayor)に出た。

崖のすぐ横に大聖堂があり美しく、カフェで休む人が多くいて寛いでいた。18世紀に建てられたサーモンピンクの壁を持つバロック様式の修道院(Convento de San Pedro de las Justinianas)があり、合間から色とりどりの建物が並んだ美しい通り(Calle Alfonso VIII)が見えた。

近くの通り(Calle San Pedro)に面した13世紀に建てられた聖堂跡(Iglesia de San Pantaleón)の遺構は保存されていて、休憩できる中庭のような小さな公園になっており、文学者フェデリコ・ムエラス(Federico Muelas, 1909-1974)の銅像があった。隣の16世紀に建てられた修道院(Convento de las Celadoras)は、今はホテル(Hotel Convento del Giraldo)に改装されてていた。

東側の抜け道(Calle Colegio San José)を行き、小道(Ronda Julián Romero)から眺めがとても良くて、断崖絶壁から絶景が見えて、家が道路に張り出した家がアーチの上にあった。家の中には入らなかったが、もしこんな家に住んでいたら、いつ床が落ちて崖の下に真っ逆さまに落ちるのか心配なほど激しい場所にあった。街が狭い所に作られたため、崖の向こうに張り出したようだった。

更に進むと特に古い街らしく、12世紀にカスティーリャ王アルフォンソ8世により建てられた教会(Iglesia de San Pedro)の塔は素晴らしかった。17世紀に建てられたカルメル会修道院(Convento de las Carmelitas Descalzas)に出た。今は美術館(Fundación Antonio Pérez)として使われていた。

通り(Calle Trabuco)を古文書館(Archivo Histórico Provincial)の裏手の東側から進み、13世紀に建てられた城(Ruinas del Castillo de Cuenca)を出ると、向こう側に人が見えたので、そこまで更に北に歩いていくことにした。皆がいた展望台(Mirador Barrio del Castillo)に着くと眺めが美しく、皆は近くのレストランから、皿やビール瓶を持ちより、夕食を食べながら、夕日を待ち、おしゃべりや景色を楽しんでいた。遠くに来て、絶景を見ることができた喜びを感じながら、太陽が沈む前に下の岩場の道を歩くと岩の裂け目から下が何百メートルも見えて、余りにも絶壁に凍りつくようだった。落ちたらお終いだと思いながら、城門(Muralla y Arco de Bezudo)の中を通り、旧市街の中に入った。

広場(Arco Plaza del Trabuco)から、通り(Calle del Trabuco, Calle de San Petro)を進み、1554年に建てられた修道院(Portada del colegio de los Jesuitas)のバロック様式の立派な門を見たり、1561年に建てられた修道院(Convento de las Angélicas)、15世紀に建てられた教会(Iglesia de San Nicolás de Bari)、広場(Plaza de San Nicolas)の美しい街並みを見た。アーケードを通り抜けると、大通りに出て、また、修道院(Convento de las Celadoras)に戻ると美しい聖母子がいた。

13世紀に石とモルタルで建てられた素朴な教会(Iglesia San Miguel)から、大広場(Plaza Mayor)に戻り、市役所(Ayuntamiento)前の城門を出て、16世紀に建てられた修道院(Convento de la Merced)や18世紀に建てられた学校(Hospederia Seminario Conciliar de San Julian)が面する広場(Plaza la Merced)のたまり場に出た。街の中には多くの教会や学校が立ち並んでいた。

そこから細い路地(Calle Santa María)を歩くと美しい聖歌の歌声が聞こえてきた。また、広場(Plaza Mangana)の16世紀に建てられた美しい塔(Torre de Mangana)が見えてきた。広場(Plaza Carmen)からの町並みは美しかった。広場は途中で通行できなかったので戻り、通り(Calle Alfonso VIII)を進み、夕日に染まった16世紀に建てられたベージュ色の石壁の教会(Iglesia de Santa Cruz)、16世紀に建てられた青色の壁の家(Casa del Corregidor)、17世紀に建てられたサーモンピンクの壁の邸宅(Casa de los Clemente de Aróstegui)を見て、トンネル(Túnel de Alfonso VIII)を通った。

美しい夕日に染まった街を眺めながら階段(Calle Caballeros)を下りゆき、15世紀に建てられた教会(Iglesia de San Gil)の塔(Torre de San Gil)とその庭は工事中のために通り過ぎ、18世紀に建てられた教会(Iglesia de San Felipe Neri)を見てから、16世紀に建てられた教会(Iglesia de San Andrés)のはす向かいの美しい庭園(Jardicillo de El Salvador)に来た。

広場(Plaza Santo Domingo)に面した1536年に建てられた教会(Iglesia de Santo Domingo)の塔(Torre de Santo Domingo)から、通り(Calle González Francés, Calle la Esperanza)を歩いて、また美しい広場(Plaza Salvador)に面した1524年に建てられた美しい塔を持つゴシック様式の教会(Parroquia de El Salvador)に至り、1452年に建てられた聖堂(Oratorio de la Esperanza)に出た。

通り(Calle Pósito)の橋(Puente Calle Pósito)から旧市街を出て、川沿いの通り(Calle de los Tintes)を行き、門(Puerta de Valencia)の前を通り、通り(Calle de las Torres)を進み、新市街に入ると、公園(Parque de San Julián)に面した宿の前を通り過ぎたとき、良い所に泊まったと思いながら、大通り(Calle Alonso Chirino)に出て、いくつかの通り(Calle Carretería, Calle Cervantes, Calle Fermín Caballero)を歩き、美味しそうなお店やレストランを探した。

新市街に中国人の経営する食料品店(Alimentación de China)が2つあり、田舎町まで住みついていて驚いた。駅の近くまで歩きまわり、ビュッフェ形式の中華料理店(Restaurante Chino Fermin / 九龙餐厅)を見つけ、価格もリーズナブルでしかも種類が豊富で入ることにした。沢山食べることができ、エビも唐揚げも、ビーフン、チャーハン、千切りの肉とピーマンを調理した棒棒鶏、梨や杏子を角切りになったものが薄味のソースに和えられていて美味しかった。サラダも具材が沢山あり、幅広い選択ができた。アイスクリームもNesleがあったが、特に自家製のプリンが美味しく沢山食べた。味付けが薄く、日本人に合い、プリンも甘さが抑えられていて、素材の味が引き立ち、美味しかった。スイカを沢山食べて、水分と栄養をとった。定員さんも感じよくて、とても気持ち良かった。

午後11時に出たが、食べる赤ちゃんを連れたスペイン人が食べに来て、日本では信じられい光景だった。地元のスペイン人たちが、ひっきりなしに来て、皆から愛されていると思った。宿に3分ほど歩いて戻り、スペイン語を少し聞こうとクイズ番組を見て、お風呂で入ると午前0時半になり床に入った。

Cuencaは、ケルト人ロベタニ族(Lobetani < Lobetum < 古典ギリシア語Λωβητανοί / Lōbētanoí < Λώβητον / Lṓbēton < 「非道」λώβη / lṓbē < ヘレニック祖語*hľōbā́ < 印欧祖語*sloHgʷ-eh₂ < 「握る」*(s)leh₂gʷ-が語源)が定住した。

ラテン語「盆地」conca < 「盥」concha < 古典ギリシア語「ムール貝」κόγχη / kónkhē < 「二枚貝」κόγχος / kónkhos < 「蝸牛」κόχλος / kókhlosが語源でサンスクリットशङ्ख / śaṅkháと関連して、アッカド語「虫」𒅆𒄖𒇲 / IGI.GU.LA₂ / qūqānu、アラム語𐡒𐡅𐡒𐡍𐡀‎ / qūqānā、シリア語ܩܘܪܩܥܐܢ / ‎qūrqān 、アラビア語قَوْقَن‎ / qawqan < セム祖語*quqan-から借用と考えられる。

714年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が征服、784年にアラビア語(قُوَنْكَة / Qwanka)と記録された(William Smith (1854). Dictionary of Greek and Roman Geography, London: Walton and Maberly; Francisco Burillo Mozota (1998). Los Celtíberos, etnias y estados, Barcelona: Crítica, Grijalbo Mondadori.)。

1086年にサラカの戦い(Batalla de Sagrajas < مَعْرَكَة الزَّلَاقَة / maʾraka az-zalāqa)にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)にカスティーリャが敗れて、セビリア王国(طَائِفَة إِشْبِيلِيَة / Ṭāʾifa ʾišbīliya)に支配されたが、1093年に攻略、1108年にセビリア王国が奪還して、1144年に独立した。

1147年にイブン・マルダニーシュ(أبو عبد الله محمد بن سعد بن محمد بن أحمد بن مردنيش الجذامي‎ / Abū ʿAbd Allāh Muḥammad ibn Saʿd ibn Muḥammad ibn ’Aḥmad ibn Mardanīš al-Ŷuḏāmī, 1125-1172)のムルシア王国(طائفة مرسية / ṭāʾifa mursiya)に支配された。

1177年にアラゴン王サンチョ1世(Sancho I, 1042-1094)が攻略して、1196-1257年にカスティーリャ王アルフォンソ8世(Alfonso VIII, 1155-1214)がゴシック様式の大聖堂を建てた。

Cuencaの通り(Calle Canónigos)の真下から見上げた家(Casas del Rey)

2008年6月16日(月)68日目(Cuenca-València: Center València Youth Hostel)

Valènciaではカタルーニャ語の方言であるバレンシア語(València / Valenciano)とスペイン語といわれるカスティーリャ語(Castillano)の二カ国語で看板が書かれていて、駅舎にはオレンジの装飾があった。晴天の中、清潔な街並みを楽しんだ。大聖堂(Catedral de Santa María / Seu)の前はとても賑やかな広場(Plaça de la Mare de Déu) があり、街のシンボルの塔(Torre del Micalet)が見えたり、北側の門(Porta dels Serrans)や西側の門(Puerta de Quart)は城のように立派だった。シュールリアリスティックな市場(Mercat de Colón)やローマ時代の貴重な柱が辺りに転がる考古学公園(Jardín Arqueológico / Parc de l'Hospital)なども楽しめた。絹の取引所(La Llotja de la Seda) や1886年に建てられたバシリカ(Basílica del Sagrat Cor de Jesús / Església de la Companyia) の近くの通りには、カラフルな美しい家が立ち並んでいて、南国風で素敵な街並みだった。

今日は午前6時半に起き、午前7時35分の列車に乗るため、主人が感じ良く迎えてくれ気分が良くて、駅まで5分ほど歩き、駅員さんも感じよく、早く着いた2, 3人をホームに通して、乗車券にスタンプを押していた。電車を待つ間にトイレに行くが、鍵がかけられていて、駅員さんにお願いして開けてもらった。列車は始発で直ぐに乗れた。長閑な田園地帯を通り、美しい橋からの眺めが最高だった。

車掌さんはフレンドリーで聖ヤコブの帆立貝から直ぐにSantiago de Compoestelaの巡礼者だと分かり、Valènciaの人の気質や性格について、色んな話をしてくれて、私たちが今話しているスペイン語(カスティーリャ語 / Castillano)とは、バレンシア語(València / Valenciano)は少し違うけれども、お互いに通じ合わないほどではないから大丈夫だよと話しかけてくれた。(巡礼中に両親がValència出身のフランス人Xavierが、Valènciaの言葉について熱く語り教えてくれたことを思い出した。)

地図や路線図を見ながら、駅から旧市街に行き方を教えてくれて、駅に着いた時の切符も記念にくれた親切な人だった。午前10時半前にValènciaの駅(Estació del Nord)に着き、駅構内で写真を撮っていると、先ほどの車掌さんが歩いて近づき、都市の中心への行き方をまた丁寧に教えてくれた。

カタルーニャ語(Català / Catalán)の方言であるバレンシア語(València / Valenciano)と一般にスペイン語とされるカスティーリャ語(Castillano)の二カ国語で表示されていた。地下鉄駅が地上にあり、周りの人に市の中心の行き方をたずねると案内してくれた。València人は親切な人が多く感じた。地下鉄に乗る時も降りる時も周りの人たちが教えてくれて助けてくれた。

駅の南側に出ると大都市に来た感じがした。駅構内を歩くとステンドグラスや柱にも、壁にも、オレンジをあしらわれた可愛らしい装飾があり、本場でバレンシアオレンジが見られて印象的だった。

駅でPeníscolaへの時刻表と駅構内の案内所で地図とユースホステルの位置をスペイン語でたずねたら、美しいスペイン語を話しますねとお世辞を言われたので、Santiago de Compostelaへの巡礼路で二カ月かけて習いましたと、真顔で冗談を言うと、それはすごいと驚かれたので、冗談ですよ。ラテン語を長く学んできましたから、スペイン語は分かりやすいですよと言うと、大笑いしていた。

駅近くの通り(Carrer de Sant Vicent Màrtir)に大型のSupermercat Mercadonaを見つけて、大好物のビスケット(Surtido dulces / Biscoitos Palitos de Champanhe Savoiardi)、フランスパン(Pan de barra rústica)、シリアル(Cereal granola Crunchy Fresa)、ウエハース(Barquillos de nata)、ハム(Jamón de pata negra)、サラミ(Salami Finocchiona)、ヨーグルト(Yogur con cereal y miel)、ヨーグルト飲料(Yogures líquidos)、白葡萄ジュース(Bebida Refrescante "Mosto" Blanco Uva)、マンゴジュース(Néctar de mango)、シナモン入牛乳(Leche con canela)、ルイボスティ(Té Rooibos)、レモンティ(Té limón)などを買い込み、ユースホステルに直行した。

近くの通り(Carrer de Pelayo)には、中国人が多く住み、通りに中国のお店やレストランが5、6件もあり、中華街のようだった。人や車の通りが多い大通り(Avenida del Marqués de Sotelo, Plaça de l'Ajuntament, Carrer de Sant Vicent Màrtir)を北に向かい、広場(Plaça de la Reina)に1262年にゴシック様式で建てられた大聖堂(Catedral de Santa María / Seu)が美しく凛々しく建ち、特に1381年に建てられた八角形をした塔(Torre del Micalet)が美しくて気に入り、横を通るときに見上げた。

近くの広場(Plaça de la Verge)には、カフェが多くて賑わっていた。通り(Carrer de Navellos)にユースホステル(Youth Hostel)と英語で書かれた看板があり、小さな路地(Carrer de Samaniego)を行くと突き当りに程なく宿を見つけた。町のどこでもきれいな英語が多く話されていて聞こえた。

宿の部屋は清潔で新しくて、インターネットも無料で過ごしやすく、部屋で少し荷物を置いて、ベットで少し休んでから、下の階の食堂でパンやハムを食べて、飲み物を大量に飲んで昼食をとった。

午後2時前に町に出て、通り(Carrer de Navellos)から北に行き、広場(Plaça de Sant Llorenç)、1485年に建てられた邸宅(Palau de Benicarló)を見て、大通り(Carrer del Comte de Trénor)に出て、1517年に川(Riu Túria)に架けられた橋(Pont de Fusta)の前に画家(Salvador Tuset Tuset, 1883-1951)の胸像があり、鳥が頭に留まっていた。近くには聖母子の像があり美しかった。

橋を渡り、1445年に建てられた修道院(Reial Monestir de la Santíssima Trinitat)や1900年に建てられた赤いレンガの美しい家(Casa Museu Concha Piquer)まで足を延ばした。郷土史に関する博物館が多くあり、古くから文化が開けていて、カタルーニャ人の地域愛が感じられた。

また、川を渡り、街に戻り、通り(Carrer del Conde de Trénor)を歩いて、1392年に建てられたお城をミニチュアのようにした外観の北門(Porta dels Serrans)に至ると、バレンシア自治州(Comunitat Valenciana)の旗が高々と掲げられて風でなびいていて美しかった。

それから、1435年に建てられた家(Museu del Corpus / Casa museu de les Roques)の前から、下町らしい通り(Carrer de Roteros)を歩いてゆき、15世紀に建てられた修道院(Convento del Carmen)と1280年に建てられた教会(Parroquia de la Santísima Cruz)を見た。

それから、通り(Carrer Museu)を行き、広場(Plaça de Pere Borrego i Galindo)から美しい色の家が立ち並ぶ通り(Carrer dels Horts)を見て、北に向かう通り(Carrer Salvador Giner)を歩いてゆき、 外の大通り(Carrer de la Blanqueria)に出て、十字架(Cruz Roja)を見てから、1880年に建てられた黄土色の壁が美しい家(Casa Museo Benlliure)に至った。

新しい広い道路(Passeig de la Petxina)を通り、現代芸術院(Institut Valencià d'Art Modern)や博物館(Museu de Prehistòria de València / Museu Valencià d'Etnologia)に至り、通り(Carrer de la Corona)に少し入り、1863年に建てられた教会(Església de la Milagrosa / Antiguo Asilo del Marqués de Campo)を見て、大通り(Carrer de Guillem de Castro)に戻り、変わった姿の銅像(Estàtua València a Cervantes)を見て、1441年に作られた西塔(Puerta de Quart)に至った。

先ほどは、北側の門(Porta dels Serrans)だったが、こちらは、半世紀ほど後に建てられた西側の門(Puerta de Quart)だった。1605年に建てられた教会(Església i Convent de Santa Úrsula)が面した広場(Plaça de Santa Úrsula)から、黄色やサーモンピンク色で彩どられたカラフルな建物が並んだ商店街(Carrer de Quart)を歩いていたら、詩人ラファエル・フェレール・イ・ビニェ(Rafael Ferrer i Bigné, 1836-1892)がここで生まれて亡くなりましたという銘板があった。

広場(Plaça del Tossal)からは1311年に建てられた教会(Església de Sant Joan del Mercat)が美しく見えた。通り(Carrer de la Boatella)を抜けて、広場(Plaça de la Ciutat de Bruges)の近くでは、看板にバレンシア語(València / Valenciano)と地図にカスティーリャ語(Castillano)が書かれていた。

通り(Carrer del Peu de la Creu)や広場(Plaça de Joan de Vila-rasa)の美しい庭園を見て、広場(Plaça del Mercat)に面した1482年に建てられた絹の取引所(La Llotja de la Seda)の美しい姿を見た。城のような飾りが立派な石造りでValènciaが地中海貿易で栄えた町であることが感じられた。

奥に路地(Carrer de los Cordellats)を進むと1886年に建てられたバシリカ(Basílica del Sagrat Cor de Jesús / Església de la Companyia)があった。近くには空色やクリーム色のカラフルな美しい家が立ち並んでいて雰囲気があり、大都市の中でも特に気に入った一角となった。

北側の門(Porta dels Serrans)
西側の門(Puerta de Quart)

紀元前138年にローマ人が建てた神殿が、西ゴート時代にキリスト教の聖堂やモスクとされたり、また教会に戻された由緒のある(15世紀に建てられた)美しい教会(Església-Museu de Sant Nicolau de Bari i Sant Pere Màrtir)まで通り(Carrer de les Danses, Carrer del Sagrari de la Companyia, Carrer dels Burguerins, Carrer dels Cadirers, Carrer d'En Roca)や広場(Plaça de Sant Nicolau)を進んだ。

近くには11世紀に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)が建てた砦(Muralla árabe)や塔(Torre islàmica)があり、古くから栄えていた地区に感じられた。

広場(Plaça del Correu Vell)から通り(Carrer Alvarez)、また広場(Plaça del Comte de Bunyol)から、通り(Carrer de Landerer)を進み、1440年に建てられた絵が描かれた門(Portal de la Valldigna)を見てからくぐらず、通り(Carrer del Portal de Valldigna, Carrer de la Concòrdia, Carrer dels Borges, Carrer dels Cavallers)を進み、大きな広場(Plaça de Manises)に出た。

1840年に建てられたクリーム色の美しい邸宅(Palau de la Batlia)、16世紀に建てられた侯爵邸(Palau del Marqués de la Scala)、1421年に建てられた美しい外観の将軍邸(Palau de la Generalitat Valenciana)が面した広場(Plaça de Manises)を見た。昔からバレンシアの名士たちが住んでいた地区であり、15世紀辺りから商業を中心として、町が発展してきたことが垣間見れた。

大聖堂前の広場(Plaça de la Mare de Déu)に戻り、大聖堂の周りの道(Carrer del Micalet, Carrer dels Brodadors, Carrer de la Barchilla)を歩いて、紀元前138年にローマ人が作った広場(Plaça de l'Almoina)の1652-66年に建てられた美しい教会(Basílica de la Mare de Déu dels Desemparats)などを見て、広場(Plaça Poeta Llorente)に至ると銅像(Monumento a José Ribera)があった。

隣の広場(Plaça del Temple)からずっと環状線(Carrer del Pintor López)を歩いた。幹線道路沿いにある広場(Plaça de Tetuan)の前の1239年に建てられた修道院(Convent de Sant Doménec)やビセンテ・フェレール(Vicente Ferrer, 1350-1419)が生まれた家(Casa Natalícia de Sant Vicent Ferrer)を通って、1852年に植えられたという大木(Ficus centenarios de la Glorieta)がある庭園(Jardins de la Glorieta)をつきり、広場(Plaça de la Porta de la Mar)に出た。

通り(Carrer del Comte de Salvatierra)を進み、1914年に作られた市場(Mercat de Colón)に出た。シュールレアリッスティックな建物でダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)のFigueresの博物館を思い出させた。近くにはガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)が設計したBarcelonaの教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)に似た1906-16年に建てられた教会(Basílica de San Vicente Ferrer)があり、アール・ヌーヴォのような面白い建築が多くて、市場にはショッピングセンターがあり、美しい滝が人工島に作られ中は美しかった。日本料理店があり、鮨も見かけたが、価格が高かった。

新市街の商店街(Carrer de Cirilo Amorós, Carrer de Félix Pizcueta)を歩き、闘牛場(Plaça de Bous)や美しい駅(València Nord)が面した大通り(Carrer de Xàtiva)を歩いて、13世紀に建てられた初期ゴシック様式の教会(Església de Sant Agustí)に至った。教会前の広場に缶で作った灰皿や自転車の模型などを売る人がいて芸術的な域まで達していたが、誰も買わず寂しそうに座っていた。

更に通り(Carrer de Guillem de Castro)を行き、考古学公園(Jardins de l'Antic Hospital / Jardín Arqueológico)には、ローマ時代の柱が転がっていて、ベンチやテーブルとして使われていた。遺跡が野ざらしにされていて、神殿の列柱がそのままテーブルに使うとは、大胆な発想で驚いた。ローマ帝国の勢力の凄さに圧倒されながら、イオニア式柱に腰かけて寛ぎ、沢山の鳩を眺めていた。

近くの駅舎(València Nord)を見てから、先ほどにも訪れた通り(Carrer de Sant Vicent Màrtir)に面したSupermercat Mercadonaでレンジで作れるパルメザンチーズのパスタ(Tallarines a la parmesana)、カルボナーラのパスタ(Espaguetis a la carbonara)、 クロワッサン(Croissants) 、焙煎したナッツ(Avellanas tostadas)、スモモ(Nectarina)などを買って、宿に戻ることにした。

駅前からユースホステルへ歩いた道(Avenida del Marqués de Sotelo)を通り、通信宮殿(Palau de les Comunicacions de València)を通り、近代的と古典的が折衷された市庁舎(Ayuntamiento)や郵便局(Correos)の裏に小さな通り(Carrer del Pintor Sorolla)の間に銀行(Edificio Banco de València)のド派手な建物を見つけ、通り(Carrer de Don Juan de Austria)を進んだ。

通り(Carrer del Poeta Querol)を通り、1601-15年に建てられた教会(Església de Sant Joan de la Creu)の門に久しぶりにねじれた柱を見つけた。広場(Plaça del Col·legi del Patriarca)に行くと大学(Universidad Literaria)の前に16世紀に建てられた教会(Església del Patriarca)や14世紀に建てられた邸宅(Palau dels Boïl d'Arenós)の門が美しく、キリストの体とラテン語の美しい四行を取り入れた詩が書かれていた。教会にボールをぶつけてサッカーの練習をしている子供たちがいた。

それから、1243年に建てられた教会(Església de Sant Joan de l'Hospital)が目に入ってきた。特に美しいロマネスク様式とゴシック様式を混合した市内でも、特に古い教会だった。広場(Plaça de Sant Vicent Ferrer)に面した1727年に建てられた教会(Església de Sant Tomàs i Sant Felip Neri)は美しく、特に噴水にある女神像(Relieve de San Vicente Ferrer)と教会のドームが素敵だった。

通り(Carrer del Mar)や広場(Plaça de la Reina)を進み、1245年に建てられたゴシック様式の薔薇窓が素敵な教会(Església de Santa Caterina)の美しい塔(Torre del Santa Caterina)が見えた。広場(Plaça Redona)の近くに服や布を売る店が沢山あり賑わっていた。

広場(Plaça de Lope de Vega, Plaça de la Mare de Déu de la Pau)から通り(Carrer de la Tapineria, Carrer dels Brodadors)を通り、大聖堂(La Seu de València)の横に出て、塔(Torre del Micalet)を眺め、広場(Plaça de la Mare de Déu)や商店街(Carrer de Navellos)を通り、宿に戻った。

午後6時半頃に宿に着いてから、レンジでパスタを温めて食べて部屋に戻った。クレジットカードのサインが電子式のパッドで驚き、新式で日本でも普及していないほどハイテクだった。宿の中は英語を話せる人が多くて、英語の案内だらけでスペインにいるのを忘れてしまうほどだった。

部屋に戻りシャワーを浴びていると、2日だけスペインに滞在するオランダ人のルームメイトJanが戻り、彼とオランダと日本の歴史や言葉や風習や交流について、観光スポットなどや家族について沢山のお話をした。彼もダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)が好きだそうで、FigueresやCadaquésやPort Lligatを訪れたことがあり、また、オランダやベルギーで見たことなどを沢山お話してくれた。

特に太陽の光の強さが地中海に面した南では北と異なり、大きく気候が違い、印象深いと話していた。彼は科学者だから天候や気象に興味があるそうである。Valènciaの旧市街の中央の広場(Plaça de la Mare de Déu)にあるモニュメント(Font del Túria)は美しく行くとよいとお勧めしていた。

彼がシャワーを浴びる間、午後10時前から日記を書き、午後11時に書き終え、床に入る準備をして、昨日は午前0時過ぎに寝て、今日は午前6時半に起きたため、今日は良く眠ろうと早く床に入った。

今日の公園が続いていた前に町を囲うように川(Riu Túria < ラテン語でTuria, Tyrius < 古典ギリシア語 Τύρία / Túria, Τύρος / Túros < ケルト祖語「深い」*dubros < 印欧祖語*dʰubʰ-ró-s < *dʰewbʰ-が語源でブレトン祖語*duβrや古アイルランド語dobur、古スラヴ語「谷」ⰴⱏⰱⱃⱐ / dŭbrĭやラトビア語「水たまり」dubra < バルト=スラヴ祖語*dubrás、古典ギリシア語「深さ」βυθός / buthós < ヘレニック祖語*butʰós、ラテン語「底」fundus < イタリック祖語*fundosと関係)が流れていて、水源はGuadalaviar(アラビア語「白い川」وَادِي أبيض / wādīʾabyaḍが語源)である。

町を取り囲んでいる川が自然の防壁となり、川岸は土地が広いため、敵が攻めてきたとき、直ぐに気づくことができ、町を自然に防衛するように作られたことが分かった。

イベリア人エデタ族(Edetani < 古典ギリシア語Ἠδητανοί / Ēdētanoí)が居住する土地(Edeta, Edetania)が地誌(Ptolemaius, Geographia 2.6.62)や貨幣(eteYildir, eTesilir)にも見える。ケルト祖語「羽」*ɸettiyā < 「飛ぶ」*ɸeteti < 印欧祖語*péth₂-e-ti < *peth₂-が語源と考えられる。

古アイルランド語ette < ケルト祖語「羽」*ɸettiyā < 「飛ぶ」*ɸeteti、サンスクリットपतति / pátatiやアヴェスタ語pataiti < インド=イラン祖語*pátati、ヒッタイト語𒁁𒋻 / páttar < アナトリア祖語*péttar、古典ギリシア語πτερόν / pterón < ヘレニック祖語*pterō、ラテン語penna < イタリック祖語*petnā、アルバニア語pjetë < アルバニア祖語*peta、古英語feþerや古ノルド語fjǫðr < ゲルマン祖語*feþrō、リトアニア語spar̃nasや古スラヴ語перо / pero < バルト=スラヴ祖語*parnasと関係する。

紀元前138年にローマ植民都市Valentia Edetanorum(ラテン語「強さ」valentia < 「強い」valens < 「強くする」valeo < イタリック祖語*walēō < 印欧祖語*h₂wl̥h₁-eh₁-(ye)-ti < 「権力」*h₂welh₁-)を建設、紀元前75年にセルトリウス(Quintus Sertorius, 122-72 a.C.n.)の反乱の鎮圧でポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, 106-48 a.C.n.)に破壊された。属州(Hispania Tarraconensis)の大都市に復興したと1世紀の地理学者(Pomponius Mela)の《地誌(De situ orbis)》第3巻に記された。

古代末期の3世紀頃に衰退したが、4世紀にキリスト教が伝来して、5世紀にゲルマン系のスエビ族(Suevi)やヴァンダル族(Vandali)、イラン系のアラン族(Alani)が到達、554年に東ローマ帝国、625年に西ゴート王国が支配して、聖堂(Basílica de San Vicente Mártir)が建てられた。

714年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ Ṭāriq ibn Ziyād)が攻略して、アラビア語(بَلِنْسِيَة / balinsiya)で記録された。

755年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)のアブド=アッラフマーン1世(عبد الرحمن الأول Abd al-Rahman I, 731-788)が破壊したが、「砂の町(مَدِينَة الْرَاب / madīna al-turāb)」と呼ばれ、自治都市として発展した。

10世紀に地中海で交易が盛んになり、城壁や浴場、モスクや製紙工場が建てられた。1002年に宰相アルマンソル(المنصور بن أبي عامر / Almanzor, 939-1002)が死去して、1010年にバランシヤ王国 (طَائِفَة بَلَنْسِيَة / ṭāʾifa balansiya‎)が独立、1094年にカスティーリャ人貴族のエル・シッド(Rodrigo Díaz de Vivar, c.1045-1099)が支配、1102年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)が奪還、1171年にムワッヒド朝(الْمُوَحِّدُون ‎/ al-Muwaḥḥidun)が支配した。

1238年にアラゴン王ハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)が奪還、 アラゴン連合王国としてバレンシア王国(Regne de València < Regnum Valentiae)を建設、1261年に法律(Furs de València)を施行、1262年に大聖堂を建設、1363年にカスティーリャ王国が侵攻、1473年にドイツのRavensburgにある貿易会社が印刷工場を設立、1492年にSantiago de Compostelaへの巡礼中にナバラ地方Vianaで亡くなったイタリア人チェザーレ・ ボルジア(Cesare Borgia, 1475-1507)がバレンシア大司教に就任、1499年に中世大学(Studium generale)のバレンシア大学(Universitat de València)が設置された。

医学者イブン・アル=ダハビー(ابو محمد عبدالله بن محمد الأزدي, ﺍﺑﻦ ﺍﻟﺫﻫﺒﻲ‎ / Abū Muḥammad ʿAbd Allāh ibn Muḥammad al-Azdī, Ibn al-Dhahabī, c.950-1033)がオマーンから移住、医学事典(كتاب الماء / Kitāb al-Māʾ)を編纂した。アンダルス詩人イブン・アル=ザッククァーク(علي إبن عطيّة إبن الزقّاق / ʻAlī ibn ʻAṭīyah Ibn al-Zaqqāq, c.1100-1134)や旅行家イブン・ジュバイル(أبو الحسن محمد بن أحمد بن جبير الكناني / Abū l-Ḥasan Muḥammad ibn Aḥmad ibn Jubair al-Kinānī, 1145-1217)を輩出した。

詩人イブン・アミラ(أبو المطرف أحمد بن عبد الله بن محمد بن الحسين ابن عميرة المخزومي‎ / Abū l-Muṭarrif Aḥmad ibn ʿAbd Allāh ibn Muḥammad ibn al-Ḥusayn ibn Aḥmad ibn ʿAmīra al-Maẖzūmī, 1186-1260)やイブン・アル=アッバル(أبو عبد الله محمد بن عبد الله بن أبي بكر بن عبد الله بن عبد الرحمن القضاعي البلنسي / Abū Abd Allāh Muḥammad ibn 'Abdullah ibn Abū Bakr al-Qudā'ī al-Balansī, 1199-1260)はキリスト教徒が侵攻したことにより亡命を余儀なくされて、故郷を去る嘆きを詩として書いた。

Valènciaの詩人たちは、南フランスから北スペインのトルバドゥールが用いたオック語を用いたが、ペイレ・マルク(Pere March, 1336-1413)とアウジアス・マルク(Ausiàs March, 1397-1459)はカタルーニャ語の方言として、バレンシア語(valencià)を始めて文学で用いた。1490年にジュアノット・マルトゥレイ(Joanot Martorell) は《騎士道小説(Tirant lo Blanch)》を書いた。ジョルディ・デ・サン・ジョルディ(Jordi de Sant Jordi, c.1400-1424)、ジョアン・ロイス・デ・コレッラ(Joan Roís de Corella, 1435-1497)、ジョアン・フェランディス・デレディア(Joan Ferrandis d'Herèdia, c.1485-1549)、アンドレス・レイ・デ・アルティエダ(Andrés Rey de Artieda, 1549-1613)、ホセ・リオス(José Ríos y Tortajada, 1700-1777)、タレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)らを輩出した。

Valènciaのバシリカ(Basílica del Sagrat Cor de Jesús / Església de la Companyia)とカラフルな家

2008年6月17日(火)69日目(València-Benicarló/Peñiscola-Taragona: Hostal Forum)

Benicarló駅で降りて、Peníscolaまでバスに乗り、灯台(Faro de Peñiscola)や法王の居城(Castillo del Papa Luna)から、地中海を見渡せて、最高の眺望だった。Taragonaでは、15世紀に建てられた 邸宅(Casa Castellarnau Museum)や17世紀に建てられた邸宅(Casa Canals) を見学して、ローマ時代の遺跡(Passeig Arqueològic)から美しい街た海を望めて、ローマ時代の広場跡(Forum)や考古博物館(Museu Nacional Arqueològic de Tarragona)やローマ遺跡(Circ romà)を楽しめた。

今日は午前8時に起き、朝食をオランダ人Janと話しながらとり、お昼の分まで沢山食べておき、午前9時半頃にYouth Hostelを出て、大聖堂前から大通り(Plaça de la Mare de Déu, Plaça de la Reina, Plaça de l'Ajuntament)を駅まで半時間歩いて、午前10時過ぎに駅に着いたが、電車が遅れていたため、午前10時発を発券してもらい、15分待つと乗る車両がやって来た。鉄道はオレンジ畑に囲まれた田舎を1時間半ほどひた走り、車内はエアコンで快適だが満員でぎゅぎゅう詰めだった。

Benicarló駅と切符に書かれていて、Peñiscolaでないため、駅員さんにたずねたら、駅からバスに乗り、隣町に行くことを丁寧に教えてくれた。列車はだだっ広い中にポツンとある駅に着いた。

バレンシア語(València)でEstaciónと看板があるが、最後のnが消されて、上にアクセントが書かれて、Estacióとされたカタルーニャ語(Catalunya)の落書きがあった。

(カスティーリャ語(Castillano)やガリシア語(Galego)ではEstaciónとなり、ラテン語「駅」statio < 「立つ」sto < イタリック祖語*staēō < 印欧祖語*sth₂-éh₁-ye-ti < *steh₂-が語源でヒッタイト語𒅖𒋫 / ištaやリュキア語stta- < アナトリア祖語*sta-、サンスクリットतिष्ठति / tíṣṭhatiやアヴェスタ語hištaiti < インド=イラン祖語*HístaHti、古典ギリシア語ἵστημι / hístēmi < ヘレニック祖語*hístāmi,、ゴート語𐍃𐍄𐌰𐌽𐌳𐌰𐌽 / standanや古英語standan < ゲルマン祖語*standaną、リトアニア語stótiや古スラヴ語ⱄⱅⰰⱅⰻ / stati < バルト=スラヴ祖語*stā́ˀtei、古ブレトン語toや古アイルランド語tá < ケルト祖語*tāyeti、アルメニア語ստանամ / stanam < アルメニア祖語*sten-、アルバニア語shtaj < アルバニア祖語*stan-、トカラ語A ṣtäm-やトカラ語B stäm- < トカラ祖語*stäm-と関連)。

タクシー運転手によると2km先にバス停があるそうで車道(Carr Sant Mateu)を歩いてゆき、困っていたら、また後ろから戻ってきて、詳しく教えてくれた。カタルーニャ人は親切で丁寧でおおらかな方が多かった。バス停を見つけたが、待つ人が逆の方だと教えてくれたとき、バス停の前に1台バスが通り過ぎてゆき、それに乗れなくて残念だったが、気を取り直して少し待つと10分でバスが来た。

Benicarlóの町中の教会や広場を通り、通り(Vía Po Polígono / CV-140)を海岸線に沿い走っていった。美しい海岸線があるが、リゾート化されておらず、大型Supermercat MercadonaやSparなどがあり、普通の住宅地だった。バスはPeñiscolaに向けて走ると、リゾートらしくなり、海岸線の前には大きなビルが林立して、砂浜がどの海岸よりも細かくてきれいで、地中海の海岸線と水平線近くの色が異なり、コントラストが美しく、海岸でゆったりしている人が、風景の中に溶け込んでいた。

バスは海岸線を走り続け、岬に美しい城が見えてきた。降りる所が分からないため、バスの運転手に聞くと海岸線をお城の直ぐまで行くと教えてくれて、地元の皆さんがここで降りちゃだめ、一緒に降りましょうと教えてくれた。バス停は城の直ぐ下にあり、直ぐ前の観光案内所で地図をもらった。

Peñíscolaは、イベリア人イレルカウォン族(Ilercavoni < Ἰλερκάονες / Ilerkáones)が居住した土地(Ilercavonia)と呼ばれた(Livius, Ab Urbe Condita, 23.28.10)。*Iltirda, Iltirta > Ilerda, Iltrida > Lleida, Léridaと同じく、*Iltirka, Ilerca < 接頭辞il- + バスク語「高い」tir + 接尾辞-ka < -ossaが語源。

接頭辞il-はイリュリア(Illyria < Ἰλλυρίς / Illyrís)にも見られ、イリュリア語「住む」*is-lo < 印欧祖語*h₂wes-los < *h₂wes-が語源、また、接尾辞-ossa < 古典ギリシア語イオニア/アルカディア方言-σσ- / -ss-やアッティカ/ボイオティア方言-ττ- / -tt- < 印欧祖語*-tj-/-kjが語源でクノッソス(Cnossus < Κνωσός / Knōsós < Κνωσσός / Knōssós)やパルナッソス(Parnassus < Παρνασσός / Parnassós)にも見られる(Leonard Robert Palmer (1961). Mycenaeans and Minoans: Aegean prehistory in the light of the Linear B tablets, London: Faber and Faber; Ronald Arthur Crossland (1962). The Supposed Anatolian Origin of the Place-Name Formants in -ss- and -tt-, Atti e Memorie del VII Congresso internazionale di scienze onomastiche: 375-376.)。もしくは

紀元前7世紀にフェニキア人と交易、ギリシャ人も定住して、古典ギリシア語「半島」Χερσόνησος / Khersónēsosと記録され、ローマ人も定住して、ラテン語「半島(Paene insula > peninsula)と記録され、718年にアラブ人が占領して、アラビア語(بَنِيسْكُولا / Banīskūla)で記録された。1233年にアラゴン王ハイメ1世(Jaime I, 1208-1276)が奪還して、1420年に王家が所有した。

大きな通り(Avinguda de la Mar)を城壁沿いに登り、通り(Avinguda del Doctor Don Marcelino Roca)を進み、城門(Porta de Sant Pere / Porta del Papa Lluna)の前で地中海風の曲をアコーディオンと共にタンバリンで演奏していた。太陽が燦燦と輝いていて、目の前には海が一面に広がり、典型的な地中海沿岸の町だった。土産物屋さんが立ち並んでいる道(Calle Prolongación Atarazanas)を通り過ぎてゆき、通り(Calle Príncipe)を城壁沿いに海岸線を登ると展望台(Fortí de Bonet)に至った。本当に美しく180度水平線だった。登っていく最中にレストラン(Restaurante Vista al Mar)があり、Santiago de Compostelaの巡礼者だ!と店員さんが握手をしてくれた。更に進んでいくと海洋博物館(Museu de la Mar)があり、その裏手からの眺めは最高だった。

1899年に建てられた灯台(Far de Peníscola)に小道(Calle Sol, Calle Farones)を登り、貝殻の家(La Casa de las Petxines)や美しい海岸線の景色を堪能して、1294-1307年にテンプル騎士団により建てられて、1417年に廃位された対立教皇ベネディクトゥス13世(Benedicto XIII, 1328-1423)が移り住んだ居城(Castell del Papa Luna / Castell de Peníscola)に至り、階段を上り城の中に入った。

大きな門の奥で歴史のビデオ上映がされていた。中庭から階段を上り、上の物見櫓に登ると目の前には美しい風景が広がり、目も眩むような素晴らしさだった。城の中には画廊があり、周辺の風景を描いた絵が多く展示されて売られてもいた。全ての方向が見えて、美しさは言葉を絶するほど、息をのむほど美しかった。教皇の書斎の部屋を見て、ゴシック様式の部屋にいくつか展望台があり、一番高い所からテンプル騎士団の展示があり、教皇選挙の部屋(Magatzem, sala del Conclave)へと階段を下り、歴史に関する展示を見てから、併設された1708年に古いロマネスク様式で白い石を積み上げて横に建て増された聖堂(Mare de Déu de l'Ermitana)を訪れてから、城を後にした。

広場(Plaça Armas)から、港町らしい雰囲気のある通り(Calle San Roque, Calle Don Ismael Gonzalez, Calle la Paz)を進み、13世紀にゴシック様式で建てられた教会(Església de Santa Maria / Parròquia Mare de Déu del Socors)の塔を見てから、町役場(Ajuntament)の前の城門(Portal Fosc)を見たり、周り(Calle Escuela)の城壁を散策して、港の中の風景を楽しみ、ポストカードを求めに城門(Portal de Santa Maria)に行くが、昼寝時間(Siesta)でお店が殆ど閉じていた。

広場(Plaça de Bous, Plaça Llonja Vella)から海岸(Platja del Migjorn)沿いの通り(Avinguda d'Akra Leuke)を歩いて、広場(Plaça Constitució)のバス停(Parada d'Autobusos de Peníscola)に戻るとBenicarló駅の近くに向かう丁度バスが来ていて乗り込んだ。バスは来た道を戻っていった。

Peñiscolaの城(Castell del Papa Luna)から地中海を臨む

隣のBenicarló駅に戻り、バス停(Parada d’Autobús Municipal Casal)から駅まで大通り(Avinguda de Sant Francesc, Passeig d'En José Febrer i Soriano, Avinguda de Felipe Klein)を20分近く歩いて、午後3時15分に着き、切符を求めた。列車が来るまで、日記を書いて、田舎の駅でゆっくりと過ごした。

途中、空き缶を潰したり、蹴ったりする子供が来て、激しい音が迷惑だったが、誰も注意せず、駅員さんが様子を見に来るまで続いた。隣のカフェに両親がいるにもかかわらず、誰も意識せず、駅員さんがおばさんに説明しても、話を聞かないようだった。発車10分前に人が殺到して、並んでいる人がいるにもかかわらず、平気で割り込む人もいた。列車は午後4時25分に着き、5分停車して出発して、右は海、左は畑や山の美しい地形を見ながら、一つ前の町(Cambrils)に入る前に原子力発電所(Central nuclear de Vandellòs II)を通り、Tarragonaまで1時間ほど揺られた。

Tarragona駅の広場(Plaça de la Pedrera)から旧市街(Carrer d’Orosi, Carrer Pau del Protectorat)に向かい、階段を上り、通り(Carrer Méndez Núñez)を歩き、広い大通り(Rambla Vella)に出た。

直ぐに観光案内所(Oficina Municipal de Turismo)を見つけて地図をもらい、商店街(Carrer de l’Assalt)を歩いてゆき、1897年に建てられた赤い煉瓦の教会(Església dels Pares Carmelites)を通り、広場(Plaça de la Font)に面した一等地にある宿(Hostal Forum)に宿泊した。1、2階はレストランでホステルは3階にあった。直ぐに受付を済ませて、部屋に入れてもらえた。

廊下も部屋も狭くて、ドアの建てつけが悪く、鍵を入れると抜きにくいけれども、2人で34€で街の中央に位置していて、どこに行くにも便利な場所に破格で泊まることができて満足した。

部屋で少しのんびりしてから、町に出た。広場(Plaça de la Font)から、市庁舎(Ajuntament de Tarragona)の裏の通り(Carrer Rera Sant Domènec, Carrer d'en Salinas)を通り、1914年に建てられた家(Casa Ximenis)の前の坂(Baixada del Roser)を上がり、ローマ時代の都市遺跡(Maqueta de la ciutat romana de Tarraco)や12世紀に建てられた家(Casa de les Beates del convent de Sant Domènec)がある広場(Plaça del Pallol)に出て、博物館(Casa Castellarnau Museum)を訪れた。

ローマ時代(1-2世紀)の建物(La volta romana del Pallol)の上にロマネスク様式やゴシック様式で建てられていて、遺跡の上に歴史が積み重なっている感じがした。ワイン蔵や美しい中庭が素晴らしかった。応接間には臙脂色のカーテンと立派なシャンデリアがあった。二階の広間は質素で隣の家で気に入った。古いピアノが置かれ、今でも室内楽などの演奏会をできる良い雰囲気のお部屋だった。

一階には美しいローマ時代の碑文がいくつか展示されていた。博物館で4.25€で市内の博物館を回れる券を買い、市内の面白そうな場所を歩いて巡ることにした。資料館(Alta Tárraco Romana)でローマ時代の植民都市(Colonia Iulia Urbs Triumphalis Tarraco)の模型などを見た。

それから、城門(Portal del Roser)を出て、また、門をくぐり、ローマ時代の遺跡を歩ける散歩道(Passeig Arqueològic)に入ると美しく丘を緩やかに沿う長い道程を歩いて行けた。道にはたくさんの碑文や石柱が転がっていて、ローマ時代には沢山の建物が建てられていたことを偲ばせた。

石(Làpida de Mossèn Miquel Melendres)にカエサル(Gaius Iulius Caesar, 100-44 a.C.n.)の像(ITALIA RESPUBLICA / SIGNUM HOC / IMP. AUGUSTI CAESARIS / NOBILI TARRACONENSIUM CIVITATI / DONO DEDIT / QUO LAUDEM INCLYTI PRINCIPIS / ET MEMORIAS ROMANI NOMINIS / UTRIQUI COMMUNES / GRATAE CIVIUM VOLUNTATI / CONSIGNARENT / RAPHAELE GUARIGLIA / APUD HISPANICAM RESPUBLICAM / ITALIAE REGIS ORATORE / A. MCMXXXIV)や狼(lupus)とRomulus et Remusの像があり、また、ラテン語の墓碑(Epitafio de Simplicius : D(is) M(anibus) / L(ucio) Tadio / Simpli/ci leg(ato) Aug(usti) / pr(ovinciae) H(ispaniae) c(iterioris) c(larissimo) v(iro) / Tadia Ho/norata f(ilia) : CIL II, 4166 = RIT 147)があり、ローマ時代の都市らしさを実感した。

城(Muralles Romanes de Tarragona)は高台にあり、街や海の眺めは、特に美しかった。途中にローマ時代の劇場を模して建てられた劇場(Auditori Municipal del Camp de Mart)の背後に一面の水平線が見えたりした。途中にある馬小屋(Centre d'Interpretació de les Fortificacions de Tarragona)を見て、反対側の門から、通り(Passeig de Torroja)の広場(Plaça de la Rumba Catalana)に出た。

12世紀に作られた門(Portal del Carro)がある18世紀に建てられた教会(Capella de Sant Magí)まで通り(Carrer de l'Escorxador)を進み、12世紀に建てられたゴシック様式の教会(Església de Sant Llorenç)や聖堂(Capella de Santa Tecla la Vella)を見て、広場(Plaça de l'Antic Escorxador)のレストランで夕食を楽しんでいる人を見ながら、いくつか通り(Carrer del Llorer, Carrer dels Descalços)を進み、1737年に作られた城門(Portal de Sant Antoni)の前の広場(Plaça de Sant Antoni)から少し入った通り(Carrer d'En Granada)に面した17世紀に建てられた邸宅(Casa Canals)を訪れた。

受付の人は感じがよくて、スペイン語、カタルーニャ語、英語のパンフレットをくれた。ローマ時代の遺跡が、家の基礎部分にあり、階段を昇ると美しい広場、小さい礼拝堂が見えて、ユダヤ教のメノラー(מְנֹרָה / mənôrāh)があり、広場の美しいカーペットを歩くことができた。側面にある部屋に出ると、ピアノが置かれた部屋、隣には主人の部屋、奥に書斎があり、広間を挟んだ通りにも、ピアノの部屋があり、奥さんの寝室とキッチン、更にビリヤードで遊ぶ部屋があった。18世紀のモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)が暮らしていた家のような当時のままの内装だった。

広間から外側の建物(Fundació Forvm)を上がると眺めが美しく海岸線が全て見えた。見晴らしの良い場所に建てられた素敵な邸宅で現代美術の展示や集会所もあった。下りると古い家に入り、更に下りると出口だった。小道(Carrer de la Mare de Déu de la Mercè)を行き、広場(Plaça de l'Oli, Plaça de les Peixateries Velles)や小道(Carrer Nou del Patriarca)を散策して、大聖堂前の広場に出た。

ローマ皇帝ティベリウス(Tiberius Julius Caesar, 42-37 a.C.n.)の治世下に建てられた神殿が、西ゴート王国時代に建てられたバシリカ、イスラム時代に建てられたモスクが重なる場所に1154年に建てられた大聖堂(Catedral Basílica de Tarragona Metropolitana i Primada)は、基層部分には新しく見えたが、石の表面を掃除して修復されたせいか、もしくは作り足されたからか、ゴシック様式の透かしなど上部はとても新しく見えた。大聖堂は入場料なく入れて、現在は工事中で美しい薔薇窓のステンドグラスや祭壇に幕がかけられていて少しがっかりしたが、美しく荘厳な中を歩き回った。

大聖堂前の階段を下ると広場(Plaça de Santiago Rossinyol)の右手にゴシック様式のアーチがあり、二階が張り出して、雨よけや日影となるアーケードがある商店街(Carrer de la Merceria)に至った。そこには、73年に古代ローマ皇帝ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus, 9-79)の時代に作られた広場(Plaça del Fòrum)があった。ローマ時代のForumが修復され、真ん中に残されていて感動した。広場(Plaça dels Àngels)のユダヤ人の家(Barri jueu / Ca la Garsa)のアーチをくぐり、通り(Carrer de Santa Anna)から広場(Plaça del Rei)に出た。13世紀に建てられた美しい壁面の教会(Església de Natzaret)とローマ時代の城(Torre del Pretori)が仲良く並んで素敵な場所だった。

それから、1834年に作られた考古博物館(Museo de Antigüedades de Tarragona)を前身とする1943年に開館した国立考古学博物館(Museu Nacional Arqueològic de Tarragona)を訪れた。

先ほど買った市内の名所に入場できる券は使えないが、今日は入場料が無料で嬉しくて、ローマの鏡文字でAMORと書かれていて、ローマの英雄たちの恋に関する特別展示を見て、上の常設展示を見た。大量の碑文、陶器、道具、玩具、宝石、貨幣、彫像、絵画、壁画、建物の一部などの展示があり、特にモザイクと絵画の保存状態が良く、美しくて見ごたえがあった。特に孔雀のフレスコ画(Pintura al fresc amb la representació d'un paó al fresc・MNAT 45096-2)が気に入った。

地下にローマ時代の本物の道路が保存されていて、貴重な貨幣や銘文の山だった。良くもこれだけ岩を切り出して作ったと思えるほどの量の数々だった。急いで隣の競技場(Circ romà)の一階から順に見てゆき、三階にはローマ時代のフリーズ彫刻があり、昇降機で屋上まで係りの人が一緒に上がってくれた。閉館の8分前に入ったが、係員がスペイン語で丁寧に説明してくれて、昇降機はスケルトンでローマ時代の道路の様子がよく見れた。屋上からの眺めが美しく、海岸も素晴らしかったが、特に山の方に雲があり、その間から漏れてくる夕日の光は、中世の宗教画にあるような美しさで心に染み入るように感動した。螺旋階段を下り、西ゴート王国時代の棺や刻文を見て、受付に戻り、地下に入ると、長くだだっ広い道路が完存していて、道路の側面には沢山の小部屋があった。階段を上り、ローマ時代の物見櫓(Torre del Pretori < Praetorium)や円形劇場(Circ Romà < Circus)もよく見えた。

出口で係の方に御礼を言い、直ぐに大通り(Rambla Vella)に出た。13世紀に建てられた塔(Torre de les Monges)を見た。陽が沈む20分前になり、急いで通り(Carrer de Sant Francesc)を直進した通り(Carrer de la Unió)のSupermercat Sumaに駆け込んで買い物をした。午後9時の10分前で電気が少しずつ消されていき、最後はレジだけ明るくて、店員さんが早く家に帰りたいのが、ひしひしと伝わって、スペインらしかった。炭酸レモン(Refresco Gourmet Llimona)や炭酸オレンジ(Refresco Gourmet Taronja)、オレンジジュース(Suc de taronja)、パイナップルジュース(Suc de Piña)、レモン味のゼリー(Gelatina de llimona) やポテトチップス(Patates fritas Lay's) 、桃(Préssec vermell)、ハム(Xarcuter)、野菜(Verdura)の詰め合わせなどを買った。

Pintura al fresc amb la representació d'un paó al fresc
(Museu Nacional Arqueològic de Tarragona • MNAT 45096-2)

宿に戻り、ポテトチップスや少しパンとハムをつまんでから、直ぐに大聖堂の前を散歩した。坂道(Baixada de la Misericòrdia, Carrer Major)を大聖堂前まで一直線に進んだ。商店街(Carrer de la Merceria)のアーケードから広場(Plaça de Santiago Rossinyol)の階段を上ると正面が見えた。

12世紀に建てられた中世の建物(Palau de la Cambreria)の門を抜け、通り(Carrer de les Escrivanies Velles)に至ると16世紀に建てられた家(Casa del Degà)に美しいラテン語(CIL II 4358 = CIL II2 14-3, 1526 = RIT 557)とヘブライ語(José M. Millás Vallcrosa (1945). Lápidas hebraicas de Tarragona, Boletín Arqueológico de Tarragona. 1945 (1-2): 92-97. )の碑文を2つずつ見つけた。

D(is) M(anibus) / Domit(iae) Gemelli/nae Caecilius / Priscianus / coniugi / optime de se / meritae、CIL II 4299 = CIL II2 14-3, 1254 = RIT 419 : D(is) M(anibus) / M(arcus) Herennius Mascel/lio sevirum Tarracon(ensium) / feci me vivo memoriam / simul abobus mihi / et Herenniae Faonice/ni bene merenti liber/tae et uxori simplicis/simae / b(ene) m(erenti) f(ecit)

זה קבר של ר חיים ב ר' ישאק: נפטר בניסן שנת ס ישיעמ Esta es la sepultura de R. Hayyim (11) ben R. Ishaq; que murió en el mes de Nisán del año 5060 [=21 de marzo a 20 de abril de 1300]; זה קבר של ר חנניה ב ר' שמעון ארלבי: נפטר בירח אייר שנת ה עפים סב ישיעמ Esta es la sepultura de R. Hananya ben R. Sime'ón Arlebí; murió en el mes de Iyyar del año 5062 [=29 abril - 28 mayo 1302]

また、細い路地(Carrer del Vidre)を進むと、広場(Plaça de Sant Joan)の近くにも、古いローマ時代の城壁跡が露出していた。城壁伝いに路地(Carrer de la Guitarra)を進み、別の広場(Plaça de Palau)に戻り、19世紀に中世のゴシック様式で建てられた美しい長家(Casa dels Canonges)、13世紀にロマネスク様式で建てられた教会(Capella de Sant Pau)や大学の校舎("El Seminari" Centre Tarraconense)が立ち並んでいて、中世から時間が止まったような旧市街の街並みを楽しめた。

いくつかの通り(Carrer de Sant Pau, Carrer de les Coques)を行くとき、大聖堂がきれいに見えるスポットの広場(Plaça de L' Ensenyanca)から通り(Carrer de les Coques)が続いていて、その前には1171年にロマネスク=ゴシック様式で建てられた立派な病院(Hospital Vell de Santa Tecla)があり、大聖堂の前から通り(Carrer del Pare Iglesias)を下った。

美しいゴシックのアーケード(Carrer de la Merceria)がライトアップされた美しい広場(Plaça de Santiago Rossinyol)に戻り、大通り(Carrer Major)から街灯に照らし出された古い街並みをよく残した通り(Carrer dels Cavallers)を進み、広場(Plaça del Pallol)に至り、城門(Portal del Roser)から外に出て、大通り(Via de l'Imperi Romà, Rambla Vella, Carrer de Sant Agustí)を通り、広場(Plaça de Mossèn Cinto Verdaguer)まで足を延ばしてから宿に戻った。

素敵な大聖堂を中心とした旧市街の夜景を見ることができて大満足だった。宿は街の中心の便利な場所にあり、直ぐに帰れた。部屋に戻り、食料と飲料を取り、シャワーを浴びた。大きな500gあるゼリーが涼しくて美味しかった。午前0時半まで起きて、日記を書くなどして、忙しかった今日を終えた。

Tarragonaは紀元前2157年にノア(נֹחַ / Nōaḥ)の子のヤペテ(יֶפֶת / yépheth)の子のトゥバル(תֻבָל / túval)の子が築いたとされるほど古い港町(טרֶחֹו / Tréhō)であり、アナトリア語族ルウィ語を話したタバリ王国(𒋫𒁄 / tabal)は紀元前713年に滅亡したが、ギリシア語(Τιβαρηνοί / Tibarēnoí)やラテン語(Tibareni, Thobeles)で記録されたコーカサスのイベリア人と関連すると考えられる。

また、エラトステネス(Ερατοσθένης / Eratosthénēs > Eratosthenes, 275-194 a.C.n.)やストラボン(Στράβων / Strábōn > Strabo, 64 a.C.n.-24)は、楔形文字でアッカド語(𒋻𒄣𒌑 / Tar-qu-ú)でも、旧約聖書でヘブライ語(תִּרְהָקָה ‎/ Tirehāqā)でも、マネトーン(Μανέθων / Manethōn)の《エジプト史(Αἰγυπτιακά / Aigyptiaká > Aegyptiaca)》で古典ギリシア語(Ταρακος / Tarakos)でも記録されている古代エジプト第12王朝のファラオTaharqa(𓈀𓉔𓂋𓈎 / t-h-r-ḳ; 𓇿𓉔𓃭𓈎 / tꜣ-h-rw-k、在位 690-694 a.C.n.)が築いた港湾都市(ναύσταθμον / naústathmon; ἀλίμενος / alímenos)ともした。

イタリア半島の民族Tarquinii < 都市Tarquinia, Tarracina < ギリシア語Ταρρακίνα / Tarrhakínā < エトルリア語𐌕𐌀𐌓𐌖𐌗𐌍𐌀 / taruxna < 人名 「覚える者」tarchon < 動詞「感じる」tarchiが語源で印欧祖語「感じる」*tark(h)-から借用されたともされるが、アナトリア諸語の神名、特にルウィ語Tarḫunz < ヒッタイト語Tarḫunna < 「征服する」𒋻𒄴𒍣 / tar-uḫ-zi < アナトリア祖語*térHʷti ~ *tr̥Hʷánti < 印欧祖語*terh₂-u-ti < 「乗り越える」*terh₂-が語源でサンスクリット「克己する」तूर्वति / tū́rvatiやアヴェスタ語「克己する」tauruuaiiāmā < インド=イラン祖語*tŕ̥Hwati、ラテン語「越える」transやウンブリア語「超える」𐌕𐌓𐌀𐌚 / traf < イタリック祖語*trānts、古ブレトン語「横切る」trosや古アイルランド語「横切る」trá < ケルト祖語*trānsと関連するとも考えられ、古い伝説と一致する。

イベリア人ケセタニ族(Cessetani < 古典ギリシア語Κοσητανοί / Kosētanoí < ケルト祖語「見る」*kʷiseti < 印欧祖語*kʷís-e-ti ~ *kʷís-o-nti < *kʷeys-で古アイルランド語ad·cíやゴール語appisetuと関連)やフェニキア人が居住して、貨幣にKeSE、紀元前218年の貨幣にTaRAKoNと記録された。

ポリュビオス(Πολύβιος, Polybius; c. 200-118 a.C.n.)の《歴史(Ἰστορίαι / Historíai > Historia)》では古典ギリシア語(Κίσσα / Kíssa)で記録された。紀元前209年にローマ人がカルタゴに勝利して、属州(Hispania Tarraconensis)の州都(Colonia Iulia Urbs Triumphalis Tarraco)として栄え、リウィウス(Titus Livius, -59-17)はラテン語(Cissis, oppidum parvum, portus Tarraconis)で記録した。

259年にフルクトゥオスス(Fructuosus)やアウグリウス(Augurius)が殉教した。5世紀にゲルマン系のスエビ族(Suevi)やヴァンダル族(Vandali)、イラン系のアラン族(Alani)が移住、475年に西ゴート王エウリック(Euric, c. 440-484)が支配、516年に公会議が開催され、535年にセルギウス(Sergius)が司教となり、714年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)のターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد‎ / Ṭāriq ibn Ziyād)が攻略して、719年に破壊された。

929年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)、1013年にサラゴサ王国(طائفة سرقسطة Ṭāʾifat Saraqusṭa)、1110年にムラービト朝(الْمُرَاْبِطُون‎‎ / al-Murābiṭūn)が支配して、1117年にバルセロナ伯(Comte de Barcelona)ラモン・バランゲー3世(Ramon Berenguer III, 1082-1131)が奪還、1118年にオレガリウス(Olegarius Bonestruga, 1060-1137)が大司教になり、1154年に大聖堂の建築が始まり、1164年にカタルーニャ君主国(Principat de Catalunya)が支配して、1516年にスペイン帝国(Imperium Hispanicum)に編入された。

Tarragonaの小道(Carrer Nou del Patriarca)から大聖堂(Catedral Basílica de Tarragona Metropolitana i Primada)を臨む

2008年6月18日(水)70日目(Tarragona-Barcelona-Girona: Alberg Cerverí de Girona - Xanascat)

Tarragonaで朝に古代ローマの行政区域(Fòrum Romà)の遺跡を見て、展望台(Balcó del Mediterrani)から地中海を眺めた。Gironaで広場(Plaça dels Apòstols)にある道の下に美しい聖母子像を見つけたり、大聖堂の宝物殿(Museu Tresor de la Catedral)で10世紀のパピルス、12世紀の聖母子像(La Mare de Déu de fusta)、天地創造のタペストリー(Tapís de la Creació)などが見られて満足した。橋(Pont de Sant Agustí)から臨んだ町の眺めは最高だった。

今日は午前7時半に起きて支度をしてから、午前8時半頃に町に出た。広場(Plaça de la Font)から、通り(Carrer de Sant Agustí)を歩いて、大通り(Rambla Nova)を海を背にして進み、いくつかの通り(Carrer de Canyelles, Carrer de Soler)を歩き、広場(Plaça de Corsini)に面した賑わう市場(Mercat Setmanal a Tarragona)を過ぎ、歩道橋を行くと紀元前2世紀に作られた古代ローマ広場(Fòrum Romà / Fòrum colonial de Tarraco)の遺跡が見えてきて、直ぐに見つけることができた。

開館する午前9時の2分前に着いて、前のベンチで待っていたら、係りの人がやって来て、直ぐに迎え入れてくれた。見てる間にスタンプを押してあげるよと押してくれていた。美しいコリント式柱が何本か現存して、市場跡がくっきりと見られて、中庭の跡など、様々な施設が遺されていた。

来た道を戻り、大通り(Rambla Nova)を海まで歩いて行くと、突き当りの記念碑(Monument a Roger de Llúria)の前に美しい展望台(Balcó del Mediterrani)があり、美しい海岸が一望でき、最高の景色だった。地中海から強風がまともに吹きつけてきて、海辺にいることを実感した。

階段を下り、2世紀に建てられたローマ時代の劇場(Amfiteatre de Tarragona)に向かうと遺跡は美しく殆んど残されていて、今でも使える状態だった。イタリアの半島から、スペインの海岸に来て、これだけの壮大な建築物を建てることができたローマ帝国の国力の大きさを感じた。

259年に殉教したフルクトゥス(Fructuosus)、アウグリウス(Augurius)、エウロギウス(Eulogius)を記念して、5世紀にゴート王国時代に建てられたバシリカ(Església romànica de Santa Maria del Miracle)が真ん中に建てられていたが、現在は基礎部分しか現存していなかった。

管理人さんがいて、明日ここで記念式典が行われるから用意をしているんですと足場と照明を見せてくれて話していた。客席の一段がとても高くて、上り下りが大変なほどで、割と小柄のローマ人にはきついと思った。石の城と海の青の対比が美しくて、雰囲気を堪能してから、宿に直行した。

来た道を戻ると、犬と散歩をしている人がいて、犬も階段を器用に登っていた。宿から荷物を持ち出ると、主人は感じ良く接してくれて、カタルーニャ人(catalan)はのんびり朗らかに感じた。

駅までいくつかの通り(Carrer del Portalet, Carrer de Sant Agustí, Carrer Adrià)を直進して、通り(Carrer Pons d'Icart)から、小道(Via William J. Bryant)をくねくねと下り、美しい海岸線を港と目的地の駅を確認しながら下り、通り(Passeig d'Espanya)を行くと駅(Estació de tren)に着いた。

午前10時25分の電車まで15分ほど時間に余裕があったが、券売機が壊れていて、窓口には人だかりができ、電車に乗れるか心配になったが、窓口が二つ開いて、事務処理が速く進み、何とか切符を買えて、ホームに行けた。駅員さんは電車に乗れるのか、焦っているお客さんが多いのに他人事のように気にしないため、隣の係員とおしゃべりしながら、小銭の封を開けたりのんびりしていて、腹が立って文句を言っているお客さんがいた。幸いにも電車が10分ほど遅れていたお陰で余裕で乗れた。

Barcelonaへの通勤電車はものすごく混んでいて、席は一つも空いておらず、通路に立ったいたので、両側の車窓を眺めることができた。アメリカ人の旅行者や地元の人も多かった。美しいコバルトブルーの海岸線に沿いながら走り、海水浴客が多い海岸、遠くに大きな船が見えてきたり、美しい風景を存分に楽しめた。海岸線はリゾート地化されておらず、自然な感じが残されていて良かった。

隣の町(Altafulla)のローマ時代の遺跡(Vil·la romana dels Munts)を窓の外に見たり、列車は時々海岸線ぎりぎりを通り、見渡す限りの青い海がパノラマのように車窓一面に広がり、混み合った車内で立ち続けるのはつらかったけれども、美しい風景を見ることができて幸せだった。

午前11時45分頃に駅(Estacion Barcelona-Sants)に着き、駅員さんがGironaに行く電車を丁寧に教えてくれて、同じホームで午後0時15分のFigueres行きを30分強待った。地元の人がものすごく優しく、親切に教えてくれて、電車が来る度にこれは違うから、まだ待っていてねとか、その都度教えてくれて、Figueres行きが来たから、これに乗るのだよと声をかけてくれた。

Barcelonaはやはり都会で大きな駅のために構内が複雑だが、ホームが同じで助かった。電車は時間通りに来て、自由席だが人も少なく、空席が多くてゆっくりと寛げた。一時間近く、山の中を走り、多くの駅を通過して、Gironaに着いた。ホームを降りて駅舎に入るとモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の交響曲 第38番《プラハ》(KV 504・1787年)が流れていた。

観光案内所を探すときに人にたずねたら、窓口(Servei al client)で地図をもらっていくといいよと教えてくれて、地図をもらい方向が分からないと親切に教えてくれたり、カタルーニャ(Catalunya)では困っていると、いつも向こうから、誰かが話しかけて来てくれて、親切に助けてくれた。

駅前の通り(Carrer Barcelona)を北に進むと旧市街に入り、広場(Plaça del Marquès de Camps)から通り(Carrer Nou)に出て、川(Riu Onyar)に架かる橋(Pont de Pedra)から見た大聖堂や旧市街は美しくて、直ぐに川岸に観光案内所(Oficina de Turisme)を見つけた。

スペイン語で質問するとあなたのスペイン語は完璧ですねとお世辞を言われたので、二か月間、歩き続けてSantiago de Compostelaの巡礼をしてきたら話せるようになりましたというと驚かれて、ラテン語を七年も学んできましたからと種明かししたら、なるほど、そうでしたかと大いに納得された。

ダリの美術館について質問をするとFigueres, Cadaqués, Port Lligatの情報をふんだんにくれて、博物館(Expo Dalí Cadaqués)に行く際には、予約が必要なことなど細かいことまで丁寧に教えてくれた。 カタルーニャ人(Catalan)は本当に親切で神経が細かい方々なので助けられた。

直ぐ近くの宿(Alberg Cerverí de Girona - Xanascat)まで歩いた。まだ、午後2時半だったが、午後4時に受付が始まると聞き、父だけ宿の玄関に荷物を置かせてもらい身軽になり、私は荷物を持ち、町に出た。Gironaの町は黒い石がきれいでゴミ一つ落ちておらず清潔で快適だった。

宿の前の通り(Carrer dels Ciutadans)を進み、立派な石造りの市庁舎(La Fontana d'Or)を過ぎて、広場(Plaça de l'Oli)や通り(Carrer Bonaventura Carreras I Peralta, Carrer de la Força)まで一本道を行くと雰囲気の良い通路(Carrer de Sant Llorenç)を見つけ、アーチ状の建物の隙間を通り、ユダヤ人が多く住んでいた地区(Antic Carrer Hernandez)に入った。

いくつかの通り(Carrer de Lluis Batlle i Prats, Carrer de la Claveria)を歩いて、広場(Plaça dels Apòstols)にある道の袂(Carrer de Manuel Cúndaro)の美しい聖母子像があった。1038年にロマネスク様式で建てられた大聖堂(Catedral de Santa Maria de Girona)の飛梁(Arc-boutant)を見ながら進み、大聖堂の博物館(Museu d'Art)に入り、宝物殿(Museu Tresor de la Catedral)を訪れた。

大聖堂の中は美しい沢山の小部屋があり、ステンドグラスは美しく、大聖堂にしては珍しく、祭壇は質素で趣味が良くて、宝物殿の前に中庭を見た。古くから開けた都市であり、ロマネスク様式で建てられているが、ゴシック建築に特有の跳梁もあった。美しく質素で黒色の石で構成されて重厚であり、展示室には、最近の大司教の服の展示や美しいミトラがあった。先には多くのタペストリーや古い布の切れ端が展示されていて、10世紀まで遡るものがあり、断片ながらきれいな模様に感動した。

宝物殿(Museu Tresor de la Catedral)に入り宝石で飾られた美しい十字架や10世紀のパピルスに書かれたラテン語文書やタペストリーなどがあった。12世紀の聖母子像(La Mare de Déu de fusta)はロマネスク様式で清楚な顔立ちだった。奥の奥の暗い部屋にお目当ての天地創造のタペストリー(Tapís de la Creació)がほぼ完全な状態で保存されていた。1000年前の布がこれほど美しく残っているのは奇跡に感じられた。大聖堂の中では音声ガイドが無料で配られ、説明をゆっくりと聞けた。売店でDalíの本まで売られていて、天地創造のタペストリーの大型ポストカードを求めた。

広場(Plaça de la Catedral)を下ると、フズリナの化石を大量に含んだ石材を用いた建物があった。今日のTarragonaと同じく沢山の化石が見えて、別の意味でも歴史の町と感じさせてくれた。

Gironaの宝物殿(Museu Tresor de la Catedral)に所蔵される天地創造のタペストリー(Tapís de la Creació)

Gironaに建てられた最初の聖堂で717年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-dawla al-ʾUmawīyyūn)が支配して、イスラム教のモスクに変えられたが、785年にフランク王国(Regnum Francorum)のカール大帝が奪還して、キリスト教の聖堂に戻されて、908年に聖別されたという、最も古い由緒を持つ、12世紀に建てられたバシリカ(Basílica de Sant Feliu)を訪れることにした。通り(Carrer de la Força)の門(Portal de Sobreportes)をくぐり、広場(Pujada de Sant Feliu)にたどり着いた。

それから、川沿いの通り(Carrer de les Ballesteries)を歩き、川(Riu Onyar)に架けられた橋(Pont d'en Gómez)を渡り、広場(Plaça de la Independència)から、街に着いたときに渡った橋(Pont de Sant Agustí)を眺めた。更に南に進み、旧市街の全体が見ることができて眺めが美しい橋(Pont de Sant Agustí)には、日本人の観光客が多く、写真をお願いされて、お取りして差し上げたら、お返しに父と一緒に写真を撮ってくれた。橋の上から川の底を見れるほど、きれいなせせらぎだった。

対岸の商店街(Carrer de Santa Clara)を進んだ。別の橋(Pont de les Peixateries Velles)は、太い鉄鎖で封をされていた風情がない鉄骨の橋で美しくなかったため、先ほどの橋(Pont de Sant Agustí)に戻り、風景を楽しみながら川を渡り、通り(Carrer de l'Argenteria)に至り、地図を持ちながら、確認していると、大聖堂はこっちだよと声をかけてくれた人がいた。

スペイン語も英語も通じず、国籍をたずねたら、イスラエル人だった。カタルーニャには、昔からユダヤ人が多く暮らしていたなど、イベリア半島におけるユダヤ人の歴史について話したら、Bethlehemのキーホルダーをくれて、一直線に通り(Rambla de la Llibertat)を歩きながら話をした。

イスラエル人וֶרֶד / Véredさんにヘブライ語を学んだことがあると話したら、親近感が湧いたそうで立ち止まって話しこんだ。父は彼の奥さんמִרְיָם‎ / Miryamさんと話していた。Santiago de Compostelaの巡礼者と分かると写真を撮らせてとお願いされて撮ってもらい、送ってもらうために住所交換をした。

ヘブライ文字で名前を書くと喜び、ヘブライ語の文章をすらすらと読むことができたため、奥さんに日本人がヘブライ語を読んでいると興奮して、すっかり打ち解けてしまった。奥さんは大学教授で歴史を教えているため、英語をよく話せて、旦那さんにヘブライ語で通訳していた。別れを告げると午後4時近くになり良い時間になったので、ユースホステルに戻り、チェックインをした。部屋は広々として、二階には中庭もあり、快適に過ごせて休めそうだった。

荷物を部屋に置いてから、直ぐに町中に出て、目貫通り(Carrer dels Ciutadans)を進み、先ほど気になっていた13世紀に建てられた市庁舎(La Fontana d'Or)を訪れたり、お気に入りの通り(Pujada de Sant Domènec)の1631年に建てられた家(Casa Agullana)のアーチ(Arc rebaixat)を見た。建築者とその弟子の名前も書かれていて、建物と共に建てた人たちの名前がずっと残されていて感激した。 11世紀に建てられて、16世紀に建て替えられた教会(Església de Sant Martí Sacosta)や16世紀に建てられた邸宅(Palau de Caramany)など、この通りの近くは歴史的建造物の宝庫だった。

広場(Plaça de Sant Domènec)に出て、1253年にゴシック様式で建てられた可愛らしい薔薇窓を持つドメニコ会の修道院(Convent de Sant Domènec)の隣に11世紀に建てられて、16世紀に立て直された美しいバロック様式の教会(Església de Sant Martí Sacosta)や1446年に創設された大学(Universidad Pública de Girona Centralita)があり、閑静な佇まいで観光客も少なく快適だった。

そこから坂(Carrer dels Alemanys)を登り、17世紀に作られた庭園(Jardins dels Alemanys)に至った。随分と込み入った作りで雑然としていた。門(Portal de Sant Cristòfol)をくぐり、階段の上に登るとオランダ人の二人組と会った。一緒に城壁を行くと、彼らは古い街並みに興奮していた。

そこから下りゆき、考古遊歩道(Passeig Arqueològic / Passeig de la Reina Joana)を歩いた。城壁(Muralles de Girona)の一部は、古代ローマ時代の2世紀に建てられた基礎に遡り、特に古かった。ローランの歌(La Chanson de Roland)でも詠われるほど古い都市だが、 大聖堂の正面は新しく作り直されていた。 直ぐに少し階段を戻り、大聖堂の裏庭(Jardins de La Francesa)に出た。

それから、通り(Carrer del Bisbe Josep Cartañà)のアーチをくぐり、広場(Plaça dels Apòstols)に出た。段(Carreró de la Torre del Socors)を下り、広場(Plaça de la Cathedral)から、城門(Portal de Sobreportes)を出て、18世紀に建てられた教会(Església de Sant Lluc)が面した通り(Carrer del Rei Ferran el Catòlic)を歩いて、307年に殉教した聖人(Narcissus)の名を持つ建物(Majordoma de Sant Narcís) を見たりしてから、広場(Plaça dels Jurats)に面した1194 年にアラゴン王アルフォンソ2世(Alfons II, 1157-1196)が使用した記録がある風呂(Banys Àrabs)に1.80€を払い入館した。

八本の柱に支えられた水浴場(Apodyterium, Frigidarium)は、庭園や湯を通す管が風呂の部屋(Tepidarium, Caldarium)にあり、ローマ(balineum < ギリシア語βαλανεῖον / balaneîon)、アラブ(بَانْيو‎ / bānyu)、ユダヤ(מִקְוֶה / miqweh)の風呂の様式を加味してロマネスク様式で作られていた。

小道を少し登り、広場(Plaça dels Jurats)から階段(Carrer del Rei Ferren el Catolic)で枯れ川を下ると下の石の裏には碑文が沢山あり、石材が再利用されていることが分かった。1117年に建てられた修道院(Monestir de Sant Pere de Galligants)の美しく古い広場(Plaça dels Jurats)から、通り(Carrer de Santa Llúcia)を歩いていると美しい石造りの十字架(Cruz de Sant Pere de Galligants)があり、1039年に建てられた美しい石積みの小さな教会(Capella de Sant Nicolau)に出た。教会の前の広場には観光客が少なく、小さいカフェが4つほどに地元の人がいて生活感が漂っていた。

通り(Carrer del Riu Galligants, Carrer del Bellaire)を進むと、1534 年に作られた広場(Plaça de Sant Pere)に出た。閑静な住宅地になっていた。12世紀に建てられた教会(Església de Santa Llúcia Sacosta)を見てから、通り(Carrer de la Rosa, Carrer de Santa Llúcia)を戻るが、地図では小道が省略されていて見つからず、近くの城壁(Muralla de Girona)を登り、上から眺めてみることにした。思った通り、上からの眺めは素晴らしく、8世紀に遡る12世紀にロマネスク様式で建てられた小さな美しい塔を持つ聖堂(Església de Santa Llúcia Sacosta)も箱庭のように見えた。

広場(Plaça de Sant Pere)まで戻り、道(Carrer de la Barca)を歩いて、広場(Plaça de Sant Feliu)まで行くと、12世紀に建てられたゴシック様式の奇妙な形の柱(Cul de la lleona)があり、ライオンのような不思議な動物(La Lleona)が柱にしがみつくようにして上部に彫られていた。

川沿いの商店街(Carrer dels Calderers, Carrer de les Ballesteries)を南にずっと進み、広場(Quatre rius / Quatre cantons)で父と別れてから、来た道を少し戻り、通り(Carrer Bonaventura Carreras i Peralta, Carrer de la Força)を行き、博物館(Museu d'Història dels Jueus)を訪れた。

Toledoのシナゴーグでも、優しくしてもらえたことに思い出した。大量の書物や古文書・石碑・墓碑などを交えて、カタルーニャ地方のユダヤ人の動向が示されていて興味深かった。ユダヤ人街とキリスト教徒側のユダヤ人の動向に関する最古の資料が展示され、ユダヤ人がキリスト教徒に改宗させられた後にも言及されていた。中庭にはダビデの星とメノラー(מְנֹרָה / mənôrāh)が展示されていた。

狭い道路のアーチの入口から、隣の書店(Tienda de Sefarad)に入るとユダヤ教に関する大昔の資料やファクシミリーが沢山あり興味深かった。それから、来た道(Carrer de la Força, Carrer Bonaventura Carreras i Peralta, Carrer dels Ciutadans)を一直線に戻り、宿に帰った。

宿の受付で例のダリ博物館(Expo Dalí Cadaqués)の予約の相談をしたら、親切に対応して下さり、少し待って下さいねと言われて、いきなり電話をかけてくれて、金曜日の午前11時に予約を取ってくれた。予約は一分で終わり、受付の人と話が盛り上がり、更に5、6分は話していた。日本人なら事務的な話をして電話を切るが、カタルーニャ人は電話が壊れるほど良く話すので驚いた。

広場(Plaça del Vi)を通り、橋(Pont de Pedra)を渡り、対岸の通り(Carrer de la Sèquia)にある小さなSupermercat Caprabo (Eroski)でヨーグルト(Yogur Danonup)、ヨーグルト飲料(Batut de maduixa de nata Danonup)、レモンティ(Te amb sabor a llimona)、ピーチティ(Te amb sabor a préssec)、ミネラルウォーター(San Benedetto Agua mineral)など、明日のために食べ物や飲み物を買い物をした。部屋に戻るとニュージーランド人のルームメートがいて、アメリカやメキシコと旅をして、ポルトガルやスペインと来て、3日後にフランスに行くと聞き、西洋人は外国に一人旅をよくするが、日本人はパック旅行で外国へ行くことが多く、自分で計画を練る人は少ないと思った。

旅の経験は暗記勉強とは比べ物にならないほど価値があるが、西洋人の若い人は豊かな人間性を育むチャンスを自分で作り出していることから、教育内容の問題など、細かい話ではなく、こうした実体験の豊かさや数において、その後の人生や発想などに大きな違いが生まれてくることを感じた。

彼と少し話をしてから、シャワーを浴びて、午後8時に食堂で夕食を食べた。食堂の人たちはとても感じが良くて、親切で地中海気質を感じた。Castilla, València, Catalunyaとイベリア半島を縦断するように旅をしてきて、内陸部よりも沿海部の人が、心に余裕があるためか、せかせかしていなくて、温かくなるのが分かった。皆ストレスもなく、毎日を楽しく生きていて素晴らしいと思った。

夕食をお代わりをしていたとき、3, 4人が電子レンジでポップコーンを作っていたので食べたくなった。ルームメイトのニュージランド人はオーブンを見つけて、ピザを焼いてマヨネーズに野菜を付けて食べていた。オーブンが隠れた所にあり良く見つけたなと感心した。食堂の人は優しくて、夕食をとらない人にも、お皿やフォークスプーンを貸してあげていた。

Gironaはフランスの国境にも近いためか、フランス人の旅行者を多く見かけた。また、ValènciaからCatalunyaに入ってからは、アメリカ人を見かけることが増えた。

部屋に戻り、日記を書いていると午後10時半になり、今日は終わりにして、明日の朝は午前6時半に起き、午前7時に朝食を取り、午前8時には出かける予定のため、早く寝てゆっくりと休むことにした。

Gironaはイベリア人アウセタニ族(Ausetani < Αὐθητανοί / Authētanoí < 古典ギリシア語「主人」αὐθέντης / authéntēs < 「自ら」αὐτο- / auto- < ヘレニック祖語*hautis < 印欧祖語*h₂ew-to- < 「再び」h₂ew- +‎ *ἕντης / *héntēs < ヘレニック祖語*héntās < 印欧祖語 *senh₂-teh₂ <「継ぐ」*senh₂-が語源でヒッタイト語「探す」𒊭𒈾𒄴𒍣 / sanahzi < アナトリア祖語*senahdi、サンスクリット「得る」सनोति / sanóti < インド=イラン祖語*sanáwtiと関連)が居住、紀元前2世紀頃の貨幣にVicに比定される地名(Ausesken)が記録された。Gerundaは古典ギリシア語「長老」γέροντα / géronta < 「高齢」γέρων / gérōn < ヘレニック祖語*géronts < 印欧祖語*ǵérh₂-ont-s < 「老いる」*ǵerh₂-が語源でサンスクリットजरत् / járat < インド=イラン祖語*ȷ́árHantsや古アルメニア語ծերուն / cerun < アルメニア祖語*keronと関連して、「主人(Ausetani)」と「長老(Gerunda)」の語源は意味が通じる。

地中海に面した港湾都市(Ampurias < 古典ギリシア語「市場」ἐμπόριον / empórion < ἐν- / en- +‎ πόρος / póros +‎ -ιον / -ion < 「突き通す」πείρω / peírō < ヘレニック祖語*péřřō < 印欧祖語*pér-ye-ti < 「前に」*per-が語源でラテン語「運ぶ」portoやウンブリア語「運ぶ」portatu < イタリック祖語*portāō、サンスクリット「運ぶ」पिपर्ति / piparti < インド=イラン祖語*pípartiやアルバニア語「運ぶ」prura < アルバニア祖語*p(e)rē-(n-)と関連)として、ギリシア人に古くから知られていた。

紀元前77年にグナエウス・ポンペイウス(Gnaeus Pompeius Magnus, 106-48 a.C.n.)はアウグスタ街道(Via Augusta)沿いに植民都市(Gerunda)を建設、476年に西ゴート王国が支配、6世紀に司教が任命された。715年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-dawla al-ʾUmawīyyūn)が征服、785年にカロリング朝フランク王国(Regnum Francorum)のカール大帝が奪還、793年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)が攻略、878年にバルセロナ伯(Wifredo el Velloso / Guifré el Pilós, c. 830-897)が奪還、935年などに後ウマイヤ朝が断続的に支配、1015年にバルセロナ伯ラモン・ボレイ(Ramón Borrell, 972-1017)が奪還、1351年にバルセロナ伯ペドロ4世(Pedro IV, 1319-1387)が子のフアン1世(Juan I, 1350-1396)をジローナ公 (Príncep o Princesa de Girona) に即位させ、アラゴン=カタルーニャの君主にして、1414年にアラゴン王フェルナンド1世(Fernando I, 1380- 1416)が子のアルフォンソ5世(Alfonso V, 1396-1458)をジローナ公に叙した。

Gironaの修道院(Monestir de Sant Pere de Galligants)

2008年6月19日(木)71日目(Girona-Flaça/Púbol-Figueres: Hostal La Barretina)

Flaçà駅から歩いて、Púbolの城(Castell Gala Dalí)を訪れた。晩年に妻Galaと暮らした住まいには、シュールレアリスティックで象さんがいたり、Galaの肖像が描かれていて、ドアの上から見下ろしたりしていた。DalíがNatureの表紙のアインシュタインの舌に時計を落書きしていたり、有名な溶ける時計の原案のようだった。駅に戻る途中にある村(La Pera)を訪れた。中世から時が止まったように昔ながらの生活をしていて、素晴らしい雰囲気だった。Figueresで卵のオブジェがシュールレアリスティックな劇場美術館(Teatre-Museu Dalí)やダリがデザインした宝石館(Dalí·Joies)を見学した。

今日は午前6時半に起き、直ぐに出られるように身支度をしてから、午前7時に朝食を取った。朝からカタルーニャ人は新聞を読んで盛り上がっていたり楽しみながら穏やかに食べていた。朝食はジャガイモ、サラミ、ハム、モモ、パイナップル、オレンジなどの種類があり、パンの他に卵焼きはとても典型的な朝食だった。お昼には食べれないかもしれないため多めに食べた。

午前8時少し前に宿を発つため、ニュージーランド人のルームメイトは午前6時半に起きたときも、午前8時近くに食事から帰ってきたときもぐっすりと寝ていて、起こさないように身支度をするのが大変だった。朝食後に少しお腹が痛くなったが、歩いていく内に解消した。

駅まで要領を得ていたので、広場(Plaça del Vi)から橋(Pont de Pedra)を渡り、大通り(Avinguda de Sant Francesc, Gran Via de Jaume I, Carrer Barcelona)を通り、15分で着き、切符を買い、午前8時半の電車を待つが、掲示板に行き先が書かれておらず、駅員さんに聞くと親切に教えてくれた。

電車は無事5分遅れて到着した。多くの人が降りてきたが、黒人が多いことに驚いた。電車で15分ほど山間の険しい地形と林の中を通り抜け、Flaçà駅について、列車を降りたら、駅前には何もなくて、地図もないため、町の人に道を人にたずねながら、幹線道路(Carrer Comerç / C-66)を歩いて行った。

久しぶりに何もない中を道路を長く歩いたため巡礼をしていた時のことを思い出した。車が皆スピードを出して飛ばしていて、歩道がなくて一歩間違えると轢かれそうだった。トラックが通ると大きな風が巻き起こり、一面が畑や草むらの田舎を歩いているせいか、牛糞や牧草の臭いがして、また、何もさえぎるものがなく、雲一つない快晴でカーッと頭に日差しが照りつけてきて大量の汗をかいた。

Dalí y Gala城(Castell de Púbol)の看板を見つけて、正しい方向に歩けていることを知り安心した。教会の尖塔が見えたが、目的地の村(Púbol)ではなく、途中の小さな村(La Pera)にある16世紀に建てられた後期ゴシック=ルネサンス様式の教会(Església de Sant Isidor de la Pera)だった。村に入るところに十字架があった。尖塔を目印に脇の道(Avinguda del Marquès d'Alpens / GIV-6425)に入り、村を歩いていくと案内板があり、観光バスが一台通り、同じ所を目指しているようだった。

村を過ぎてからも、一本道(Avinguda de Sant Francesc d’Assis / GIV-6426)を歩いてゆくと、直に次の町が見えてきて、直にPúbolに着いた。教会(Església de Sant Pere de Púbol)が見えたが、城(Castillo Gala Dalí de Púbol)らしき建物はなく、近づくと美しい街が目の前に現れてきて、近くには少しだけ土産物屋が連なり、先に着いた観光客たちが買い物をしていた。

開館時間である午前10時の2分前ぴったりに到着して、直ぐに城に入ると美しい中庭があり、階段を下ると、ダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)とガラ(Gala Dalí, 1894-1982)の墓があり、薄暗い中にキリンがいて、三匹の象さんがいた。思ったより小ざっぱりとしていて感じが良かった。

二階には広間があり、シュールレアリスティックでGalaが見下ろしているドアを入ると寝室があり、隣のお風呂の部屋に自分の直ぐ近くに暖房があり、冬でも暖かくて居心地がよさそうに思った。蛇口はメビウスの輪のような凝ったデザインで気に入った。反対側のダイニングにDalíが掲載された雑誌の展示があり、科学論文誌(Nature)の表紙やアインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)の舌に時計の落書きしたりやりたい放題だが、有名な絵の構図が着想された瞬間を感じた。

入り口にある有名なGalaが見降ろすように描かれたドアで記念撮影をした。お風呂には大きな鏡が前後にあり、自分が映るような面白い写真が撮れた。鏡の配置もダリが絵画の構図をイメージして考えただろうと感じた。ピアノが置かれた部屋には、レコード再生機があり、旧ソビエト連邦製のΜелодия盤が何枚か置かれていた。ダリの妻Galaがロシア出身だからと思った。

それから、中庭の雰囲気を楽しんだ。Dalíらしい象さんの彫刻があり、アメリカ製の状態の良いヴィンテージカーがあった。上がるとテラスがあり、Dalíのデザインでユニークで美しく、庭園の奥に泉があり、Dalíがここを散策していたことを考えると面白かった。防塁は戦闘用に城が築かれたことを物語り、Figueresの劇場の写真の上に卵が落書きされていて、今のDalí美術館の構想のように思えた。

Púbolの村は1017年にPubol、1027年にPubal、1096年にPubalo、1118年にPubelと記録され、古カタルーニャ語「人々」poble < ラテン語 populus < 古ラテン語poplus < イタリック祖語「軍隊」*poplos < 都市名Populonia < エトルリア語𐌐𐌖𐌐𐌋𐌖𐌍𐌀 / Pupluna < 「神」𐌐𐌖𐌘𐌋𐌖𐌍𐌔 / Puphluns < 𐌚𐌖𐌚𐌋𐌖𐌍𐌔 / Fuflunsが語源である。城は1065年に記録され、1420年に建てられた城のそばには、Gironaで見た修道院(Convent de Sant Domènec)と同じかわいらしい薔薇窓がある1327-41年に建てられたゴシック様式の教会(Església de Sant Pere de Púbol)があり、中世の良い雰囲気をよく残していた。

1962年にDalíが購入して、1982年にスペイン国王から、ダリ・デ・プボル侯爵(Marquesado de Dalí de Púbol)の爵位を本当に与えられてしまったそうで笑ってしまった。同じ年に妻が亡くなり、1984年に妻が無くなったダリが失意のうちにFigueresに移るまで、余生の大半をこの城で過ごした。

城の目の前にあるクロークの人にバスの時間をたずねると親切に答えてくれたが、発車まで時間がたっぷりとあったため、再び歩いてFlaçaに戻ることにした。近くの村(La Pera)に立ち寄り、中世に建てられた家々に今でも昔ながらの生活をしていて、中世にタイムスリップしたような雰囲気で観光客がなく、また、家の扉が開いていて、平和でのどかな村の雰囲気を味わいながら歩いていると、巡礼をしていた時に通過した村々を思い出した(民衆ラテン語「梨」pira < 古典ラテン語pirum < 古典ギリシア語ἄπιον / ápion < アラム語𐡐𐡀𐡓𐡀‎ / peraが語源だが地中海の先住語である可能性がある)。

村を出る時にFlaçà駅の方向をたずねたら、フランス(França)と聞き間違えたらしく、フランスの国境が近いことを実感した。(921年にFlociano、1017年にFlassanoと記録され、古カタルーニャ語 人名Flac < ラテン語Flaccus < 「垂れ耳(弛んだ)」flaccus < イタリック祖語「弱い」*flakos < 印欧祖語「白っぽい」*bʰl̥-h₁-kos < 「輝く」*bʰel- + 古カタルーニャ語-iano < ラテン語-ianus < イタリック祖語*-nos < 印欧祖語*-nósが語源で古スラヴ語「白」ⰱⱑⰾⱏ / bělŭやラトビア語「顔色が悪い」bāls < バルト=スラヴ祖語*blosと関連)駅の近くにはSantiago de Compostelaへの巡礼路のマークがスプレーで書かれていた。無事に駅に戻り、切符を買い、エアコンが効いた快適な待合室で午後1時10分の電車を待ち、5分遅れで乗車した。20分ほど山の中を走ると開けてきて、Figueresの町に着いた。

(Figueresは882年にVilla Ficerias、962年にFigariasと記録され、ラテン語「無花果」ficulnea < ficus < フェニキア語𐤐𐤀𐤂‎ / pʾg < セム祖語*pagg- + 接尾辞-aris < イタリック祖語*-alis < 印欧祖語*-li-s < 「育つ」*h₂el-が語源でヘブライ語פַּגָּה‎ / paggâ、シリア語ܦܓܐ / pagga、アラビア語فِجّ‎ / fijjと関連)。

電車には多くの外国人の旅行者が乗っていて、英語もどこからも聞こえてきた。Figueresでは多くの旅行者やバカンス客が降りた。駅前で地図を確認して歩いた。駅にはヨーロッパ各地への列車、Paris, Genève, Marseille行の時刻表があり、カタルーニャの田舎町と思いきや、ものすごい国際性があり、Figueresの底力に驚いた。ヨーロッパ中から休暇に訪れる客が多いかもしれないと感じた。

Figueresの街に出て、二つの大きな広場(Cedre del jardí de l'estació de Figueres, Plaça del Gra, Carrer dels Fossos)を通り、人に道をききながら、街の中心に進み、広場(Plaça de l'Escorxador)に観光案内所(Oficina de Turisme)を見つけて、明日のCadaquésやPort Lligat行きバスの時刻表をもらった。

明日Cadaquésに向かうバスは、初めは午前10時発で次は午後0時5分しかなく、午前11時の予約にどちらも間に合わないため、相談すると親切に電話して予約を変更してくれた。Ripoll行きのバスも、午後3時半しかなくて意外と少なくて不便だった。親切に地図やお勧めのHostelも紹介してくれた。

いくつかの大通り(Carrer Monturiol, La Rambla)を歩いてゆき、近くの通り(Carrer Lasauca)に面した宿(Hostal La Barretina)にチェックインした。一階が雰囲気の良いBarになっていて、地元のお客さんも多く、店員さんもとても感じよくて、居心地が良かった。直ぐにSantiago de Compostelaの巡礼者だと分かり、受付で盛り上がった。部屋は少し狭いが清潔で快適に過ごせそうだった。

直ぐに広場(La Rambla)から大通り(Pujada del Castell)に面した美術館(Teatre-Museu Dalí)を訪れた。午後5時半で閉まると思われたため、急いで坂を上がって行くと、期待通りDalíがデザインした卵を持つ屋根が地平線から太陽が昇るように見えてきて、大聖堂との対照が面白く、美術館の入り口は観光客で込み合っていた。フランス人やギリシア人が多く、ドイツ人もいて、国際色豊かだった。

入館すると直ぐに回廊があり、Dalíの作品がもちろん多く、美術作品や釘を打っただけの作品、多種多様の石版版画などが展示されていて、中央は車の上に不思議なオブジェがあり、地下にDalíの墓があった(Galaの墓は先ほどのPúbolの城にあった)。その前には彼がデザインした宝石や石版画が多く展示されていた。1989年に会議が行われた広場があり、何の変哲もない写真が人の顔に見えたり、彼の若い頃の作品や沢山のペン画があり、彼のサインが時代によって全て異なっていて面白かった。

上の階に人体の裏に書かれた「原子核神秘主義(Nuclear Mysticism)」の(と彼が主張する)作品、十字架のデザインや鳥の剥製のデザインまであった。上にはDalí以外の作品もあるが、Dalíのシュールレアリスティックな石版画も多く、鏡を使ったGalaの脚にDalíが移っていくように見えたり、足がGalaらしく見えて面白かった。通常は自画像を除いて、描かれた対象には、描いた対象は入り込まないが、彼の作品には、名や顔が至る所に出てきて、強烈な自己顕示が感じられた。

極めつけはホログラムもあり、プラド美術館で見たDiego Velázquezの絵やDalí自身と彼の友達が組み合わさり、Velázquezの絵の前にDalíが現れり工夫がされていたりして面白かった。Dalíは伝統的な画家というよりも、今でいうデザイナーのようなお仕事が好きだったように感じられた。

その前にあるシュールレアリスティックな小物やダリに関する本やオブジェも見て、午後5時半まで時間がないため、宝石館(Dalí·Joies)を足早に訪れると、アメリカの富豪(Cummins Catherwood)が出資してNew Yorkで制作された創造的な宝石が沢山あった。特に孔雀石と水晶の上に宝石がデザインされていて奇妙な宝石が、卵のデッサンと共に展示されていたりして興味深かった。

彼は動く宝石が好きなようで、大きな黄水晶の扉が開く仕掛け、極めつけの傑作は、「王の心臓(Royal Heart)」で金と深紅のハート形の縁の中にルビーが多く散りばめられた心臓がドクンドクンと動いていた。先ほどの城の庭で見た象さんもエメラルドできていて楽しかった。

博物館の隣にある9世紀にロマネスク様式で建てられた土台に14世紀にゴシック様式で建てられた教会(Església de Sant Pere)に入った。美しいステンドグラスが印象的で大バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685-1750)やブクステフーデ(Dieterich Buxtehude, 1637-1707)のオルガン曲が流れていた。概観は見るからにゴシック様式であるが、中は広く落ち着いた祈りの雰囲気だった。

近くに商店街(Carrer de Sant Pere, Carrer Maria Àngels Vayreda)があり、ダリの生家(Casa natal de Salvador Dalí)の案内板があり探したが見つからず、広場(Plaça de l'Església)を通り、大通り(La Rambla)に出て、先ほどお世話になった観光案内所に再び訪れて、地図に印を付けてもらったら、先の通り(Carrer Monturiol)にあり、注意深く探して、小さい案内板「ダリの生家(Casa natal d'en Salvador Dalí)」を見つけた。1898年に建築家(Josep Azemar i Pont, 1862-1914)が建てた生家(Casa de Puig)は個人の家で中に入れないが、外観は当時と何も変わっておらず、近くには16世紀に建てられた歴史的な家(Casa Vila Moner)など古い町並みがそっくり保存されていて感動した。

隣の広場(Plaça de la Palmera)に面したダリ一家が住んだ家(Casa Mas Roger)も個人宅で入れないが、下は銀行(Caixa Laietiana)で小さい頃に住んでいたことを納得した。広場は良い雰囲気の家で父は公証人で恵まれていた。いくつかの通り(Carrer Caamaño, La Rambla)を通り、一直線に宿がある通り(Carrer Lasauca)を進み、ロータリーの前の広場(Plaça del Sol)に面したSupermercat Bonpreuでお買い物をして、Liquats i Yosoyという(スペイン語「私は(Yo soy)」と英語の大豆(soy)、スペイン語では大豆(soja)を掛けた)ジョークが利いた名前の豆乳を見つけた。

パン(Barra de pan)、ポテトチップス(Lay's Patates fregides sabor Campesinas)、イベリコ豚の生ハム(Pernil serrano)、モツァレラ(Mozzarella Lactics Santa Eugenia)、ブルーチーズ(Formatge blau suau BAVARIA BLU "Bergader")、緑トマト(Tomaquet verd)、ドライフルーツ(Assortit de fruits secs)、オレンジ(Alanja) 、チェリー(Cireres) 、ミネラルウォーター(Aigua mineral natural en ampolla)、レモンティ(Refresc te amb llimona en ampolla)などを買った。

チーズはカスティーリャ語でquesoだが、カタルーニャ語でformatgeで、フランス語fromageに似ていると思った(民衆ラテン語「型に入れられたチーズ」*caseus formaticusから来ていて、カスティーリャ語quesoは前の部分「チーズ」caseus、フランス語fromageは後の部分「型」*fōrmaticusに由来して、古フランス語fromageからカタルーニャ語formatgeとイタリア語formaggioに借用された)。

Saint-Jean-Pied-de-Portのようなフランスとの間にPyrénéesの高い山々が無いため、また、地中海でも強い繋がりがあったため、古くからカタルーニャとプロヴァンスは文化的な交流があったことが感じられた。(トルバドゥール(Troubadour)のオック語抒情詩の伝統なども共有した。)Supermercatの店員は接客態度が悪くて、一日の終わりで多分もうお疲れという感じだった。日本では疲れていても、お客さんに対してサービスをするように耐えて頑張るが、スペイン人らしい愛嬌だと思った。

宿の部屋に戻り、快適にシャワーを浴びて、テレビでカスティーリャ語を聞いていると、ニュースで病院内で被告人が証言する所まで映されていて、現場の生々しさをそのまま伝える報道の仕方に感じた。エアコンの効いた快適な部屋でゆっくりして、午前0時半に床に入り、ダリ愛好家(Dalínian)な日(笑)を終えた。明日のPortlligatにあるDalíの家とCadaquésの町と海岸を楽しみにして寝た。

Figueresの劇場美術館(Teatre-Museu Dalí)

2008年6月20日(金)72日目(Figueres-Roses-Cadaqués/Portlligat-Roses-Figueres: Hostal La Barretina)

Figueresの美味しいお菓子屋さんで朝食をとり、Cadaquésにバスで向かった。途中でバスが故障しかけて心配したが無事に到着した。Dalíの絵に出てくる風景が広がり、Portlligatまで丘を越えて歩いてゆくと美しい港にたどり着いた。Cadaquésに戻り、パエリアを食べた。美しい海岸で陽を浴び、静かな時間を過ごした。Figueresでお城(Castell de Sant Ferran)から街を一望できて美しかった。

今日は午前8時に起きてゆっくりと朝の目覚めから立ち上がり、午前11時のバスでゆとりを持ち、午前9時半頃にぼちぼち宿を出て、昨日に訪れたDalíの生家(Casa Natal de Salvador Dalí)や家(Casa Mas Roger)を通り、広場(Plaça de la Palmera)で卵の装飾を見つけて、Dalí美術館の卵のデザインの原点を感じた。彼が卵から生まれるのも、何か理由があると思ったが、分かったような気がした。

通り(Carrer Concepció)を通って、広場(Plaça del Gra)の市場(Mercat setmanal de fruites i verdures)の建物の前を通った。通り(Carrer Méndez Núñez)からを少し入った通り(Carrer Sant Llàtzer)や広場(Plaça de l'Estaci)の角に美味しそうで地元の人で繁盛しているパン屋(La Botiga Del Pa)があり、長いカスタードクリーム入りのパイ生地の上にアーモンドの角切りや粉砂糖をまぶした菓子(Canya crema)を食べた。甘さが控えめで香ばしくて美味しかった。父はチョコレートリーフパイ(Palmera de xocolata)を食べて、ミルク入りコーヒー(Cafe amb llet)を飲み、私はカモミールティー(Camamilla)を飲んだ。店の人も感じが良く、エアコンも利いた快適な店内だった。

朝食を食べながら地元の人が多く集まり、おしゃべりをしていて、楽しい雰囲気だった。出際に片づけると喜んでくれて優しく接して下さった。お客さんが片付けをお手伝いして、お菓子屋さんが愛されていると感じた。お菓子屋さんを出るとき、お客さんたちが「良い一日を!(Bon día!)」と言ってくれてフレンドリーだった。カタルーニャ人たちは地中海に面した温暖な気候で穏やかに暮らしていて、人生に余裕があり、心が温かくて親しみやすい人が多いように感じた。

近くの通り(Carrer de Joan Reglà)に面したバス停(Estación d'Autobuses Figueres)に20分前に着き、Cadaqués行きの切符を求め、Toulouse, Pamplona, Léon行きのバスがあり、小さい街にもかかわらず、鉄道駅もバス停も国際的で驚いた。モナコ、フランス、ドイツ、スイス、チェコ、ハンガリー、イタリア、ギリシアなど、ヨーロッパ各地のかなり遠くの国にまで行くバスが発着していた。

時間通りバスに乗ると、地元の中学生が来て、カタルーニャ語で盛り上がっていた。ポルトガル語のような言葉は、明らかにスペイン語とは違った響きだった。バスは街の近くは平地だが、山の中に入り、小さな峠を越えた途端に美しい海岸が見えてきた。Rosesという海水浴場の近くの停留所で中学生たちは降り、海水浴に行こうとしていたと分かった。山の中に再び入り、美しい海岸から離れた。

途中でバスの調子がおかしくなり、案の定、オリーブ畑が広がる山を登り、峠を越えた所で運転手はバスを道路の真ん中に止めて降りて、エンジンの状態を確認して、携帯電話で連絡していた。博物館の予約があるため、正常に進めることを祈りつつ待っていたら、無事にバスが動き出した。

峠を下ると美しい海が見えてきて、直ぐにCadaquésの町が見えてきた。20分遅れで無事に到着した。停車場(Estació d'Autobusos Cadaqués)から、海岸を目指して5分ほど、商店街(Avinguda Caritat Serinyana)を歩いて進んでゆくと直ぐに海岸(Platja Gran)に着いた。

Dalíの絵に描かれている海岸線など、馴染みの風景が実際に目の前に広がり興奮した。海岸線にDalíの絵が描かれた場所を説明するパネルがあった。歩いていくと様々な角度から海岸を眺められた。

Cadaquésは1030年にCadaquesと記録があり、カタルーニャ語「ビャクシン」càdec < 古カタルーニャ語*cade < ラテン語catanum < 「鋭い」acutus < イタリック祖語*katos < 印欧祖語*ḱh₃-tós < *ḱeh₃- < *h₂eḱ-が語源で「針」acus < イタリック祖語*akus < 印欧祖語*h₂eḱ-us < 「鋭い」*h₂eḱ-、サンスクリットअश्रि / áśri < インド=イラン祖語*Háćriš、古典ギリシア語ἀκίς / akís < ヘレニック祖語*akís、古ブレトン語occrouや古アイルランド語ochair < *okris、古スラヴ語ⱁⱄⱅⱃⱏ / ostrŭやリトアニア語aštrùs < バルト=スラヴ祖語*aśrásと関連すると考えられる。

もしくはカタルーニャ語「岩の岬」Cap de Quiers < 「岬」cap < 民衆ラテン語「頭」capus < 古典ラテン語caput < イタリック祖語*kaput < 印欧祖語*káput + 「岩石」quier < ケルト祖語*karrikā < *kar- < 印欧祖語「硬い」*kh₂er-が語源で古英語*rocc < 中世ラテン語rocca < ブレトン語roc'h < ブレトン祖語*karreg、古アイルランド語carracや古ウェールズ語carregと関連、「硬い」を意味するサンスクリットखर / khára、ペルシア語خار‎ / xâr、古典ギリシア語κέρχνος / kérkhnos、古アルメニア語քար / kʿarと関連して、バスク語「岩石」harri < *(h)aRiから、印欧言語が先住言語から借用したと考えられる。

海岸沿いの目抜き通り(Riba Nemesi Llorens, Riba d'Es Poal)を歩いた。白亜の家々や17世紀に建てられた教会(Església de Santa Maria de Cadaqués)を臨むことができて美しい街並みだった。更に海岸線の一本道を進み、灯台(Piló d'amarre)の前の岩場まで来ると街全体が見えて美しかった。

海水浴場(Platja Ses Oliveres)に面した海の家のようなカフェ(La Sal Es Xiringuito Ses Oliveres)の人に聞くと、Portlligatへの行き方を親切に教えてくれて、Cadaquésへ2つ道(Avinguda Victor Rahola, Pujada des Pianc)を戻り、Portlligatへ向かう山の中に入りゆく道があると教えてもらえた。

その通り、港(Platja des Poal)の前に山の中に入りゆく道にレストランの軒を見つけて、急な坂道(Carrer de la Miranda)を上がりゆき、1787年に建てられた白亜の漆喰の壁が美しい聖堂(Ermita de Sant Baldiri)を越えてからも、道(Avinguda Paratge S'Alqueria)が続いていて、Dalíの家の案内板があり、オリーブ畑の小道を下ると、突如Dalíの家の二つの顔の彫像が見え始め、背後に美しい小さな港があり、無事に着いた。(Portlligat < 「港」port + 「結ばれた」lligat < 「結ぶ」lligar < 古カタルーニャ語ligar < ラテン語ligare < ligo < イタリック祖語*ligō < 印欧祖語*lig-eh₂-ye-ti < *leyǵ-が語源)

港の中の海は穏やかで美しく、海は穏やかで美しく、大きなスタジアムの中で皆がフラッシュを焚いて、撮影しているように水面での反射がきらきらして、一秒一秒違った雰囲気を醸し出していて美しかった。Dalíの家の前でフランス人が多く待っていた。午後1時少し過ぎに予約番号を伝えると直ぐに午後1時20分の入場券を発券してもらえて、港の周りを少し散策した。

湾の周りを歩いていくと、Dalíが卵から生まれる映像を撮った場所、また、Dalíは狂人であると宣言をした場所など、映像や絵画に出てくる美しい風景が広がっていて興奮した。港は自然に堤防ができていて、四方を岩に囲われ、入口が狭く良好だった。PortlligatはCadaquésの海岸とは違い、観光地化されておらず、Dalíの家と一つ宿があるだけで、Cadaquésの裏の隠れ家という雰囲気で感動的だった。

美しい湾内を眺めていたら、直ぐに入場の時間が来た。不思議な熊と梟のオブジェの出迎えがあり、奥に書斎と屋外の遊び場があり、窓が閉じていて、美しい湾を見れる趣向で上に卵が見えた。

直ぐの部屋に口唇型のソファーがあり、グループで入れて係りの人が案内してくれた。コースの上から外れたり、少しでも手を伸ばすと、センサーが作動する仕組みだった。アトリエとモデルルームと画材置き場があり、モデルルームに不思議なオブジェが多くて彼らしかった。

画材置き場はDalíが生きていた時のままに保存されていた。アトリエは思ったよりも小さく、座っていても、大きな絵を書けるよう、ジャッキが設置され工夫されていた。2つの未完成の絵が置かれていた。絵を描いているときに寛げる小さなスペースがあり、窓から港が眺めることができた。

アトリエにも大きな窓があり、美しい港を見渡せた。テーブルの上にはTiffany製の蝸牛の置物があり、横には大きな鏡が設置され、上にある彼の寝室から朝の日の出が見えるように設計されていて、上のDalíとGalaの寝室とDalí専用のトイレの前にGala専用と来客用のトイレが二つあった。

フランス語と英語の二ヶ国語で同じ説明をしてくれてよく理解できた。Galaの寝室を通るとDalíとGalaの写真が壁一面に張られた部屋があった。貴重なショットが多くて見ていて飽きなかった。Galaが気に入ったものを張り付けたと説明された。ドーム状の部屋もあり、中央に入ると響き渡るような工夫がなされ、人の口の所に焦点が合うようになり、声を発すると全体に響き渡った。Galaの声が家の中に響き渡るように設計されていて、Galaのかかあ天下ぶりが分かると説明してくれた。円状にソファーがあり、テディーベアー座っていて、家であと4日後に再会することを楽しみに思い出した。

庭に出ると美しい白一色のDalíらしいオブジェがあり、ティーカップや卵が配置されていた。オリーブ畑の中に出ると不思議な卵のオブジェがあり、進むと地面からは変哲もないが、上から眺めると人間の体に見えるオブジェがあり、肋骨がボートで作られていて、関節もブロックで形づくられていた。

庭からの港の眺めが最高でオリーブ畑の中に映えていた。下の階に降りて、家の中に戻ると、夏に熱い間に快適に過ごせるよう、白一色の漆喰壁の中に屋外ダイニングがあり、またそこにも不思議な鳥のオブジェがあった。プールを通り、カタルーニャの国旗のデザインのソファーがあり、周りには白鳥がいっぱい展示されていて、Dalíは白鳥と犀と熊と梟が好きなことが分かった。

スロープを降りてゆくといきなり電話ボックスが現れたり、バーベキューのコーナーがあり、オリーブ畑の間の道に出た。午後2時半なのでゆっくりと海岸を歩いて、受付で午後5時にCadaquésからFigueresに向かうバスが出ると教えてもらえたのでPortlligatとCadaquésでゆっくりと散策をした。

Dalíの絵に出てくる周辺の海岸(Cala de Portlligat)もくまなく歩き、Dalíがここに暮らしていたとき、どんなことを考えながら歩いたのか思いを巡らした。近くの広場でゆっくりしていたら、海鳥が歩いて来て平和な漁師町だった。一時間ほどのんびりして、一本道(Carrer de la Miranda)を歩いてCadaquésに戻った。海岸の手前にDalíの顔のオブジェが見える他は一面のオリーブ畑で美しかった。

Cadaquésの海岸にある道(Carrer Hort d'en Sanés)の手前にレストラン(Restaurant IX)があり、スペイン人家族がパエリアを美味しそうに食べていて、港の目の前で食べることにした。20€でムール貝のパエリアとパンとデリカと飲み物が、コースに全て含まれていて、ムール貝は味が良かった。貝殻に藤壺が付いていて、今さっきに目の前の海岸で取れたそうである。新鮮で臭みがなく美味しかった。今まであまり塩分をとっていなかったため、塩味に対して敏感になっていた。

美味しいスープを飲み干すと、ウェイターさんが食事の進み具合を確認してくれていて、メインのパエリアが出てきた。海老や貝や蟹がふんだんにあり、味付けも良く美味しかった。オリーブオイルで香りが付けられていて、一段と美味しくなった。パエリアも口に合い、お腹が減っていて、直ぐに食べてしまった。ウェイターの人が嬉しそうだった。私たちが全て食べたのをウェイターが見てとり、デザートにカタルーニャ風のクリームが出た。甘さ控えめのクリームの上に粗目の砂糖を振りかけて上からガスバーナで炙り、香ばしさを出していて、美味しく少しづつ楽しみながら完食した。

ウェイターはカタルーニャ人気質で感じがよく、にこやかにパエリアを持ってきてくれて、父と一緒に写真を撮ってくれた。港の眺めを楽しんだり、犬を追いかけて、近所の人と話す人がいて、風光明媚なのんびりとした町で穏やかに過ごせた。レストランの傘の日陰の下でゆっくりできた。

食後、海岸の波止場(Riba des Poal)を歩き、バス停に戻るとき、後ろからPortlligatの博物館で一緒だったフランス人が歩いて来て、写真を撮り合った。Parisの近郊の町から旅行をしているそうでフランス語を話ができたことで喜んでくれて、会話がかなり盛り上がった。ユーモアがある人たちで港の近くにいたから、日に焼けてこんなに黒くなっちゃったとはにかみながら叫んでいた。

バスの時間が近くなり、急ぎ足で向かった。海沿いの大通り(Avinguda Caritat Serinyana)に面した写真屋兼本屋さん(Llibreria Rahola)でCadaquésとPortlligatの風景を写した1900年代の古いポストカードがあり求めた。古いPortlligatの写真には、ダリ家の別荘も写し出されていたが、当時は卵はなく、現在の入り口も写されていた。バス停の近くの広場(Jardines Plaça Salvador Dalí)に両手を挙げた自由の女神像があり笑ってしまった。バスの発車5分前に着き、切符を買い、直ぐに乗り込んだ。

Cadaquésから乗る人は少なく、バスは山を登り、町を離れていき、今日も日差しが強い中を長い距離を歩いたため、疲れて果てて、直ぐに寝てしまい、目を覚ますとRosesの青い海岸の前の停留所にいて、朝一緒にだった中学生たちが満足そうな顔でバスに乗ってきた。バスの中は一気に賑やかになり、途中いくつかの停留所に止まり、Figueresに午後6時半頃に30分遅れで着いた。

歩いて広場(Plaça del Gra)に面したSupermetcat Caprabo (Eroski)で買い物をして、先ほどレストランでパエリアを腹いっぱい食べたのでお腹はいっぱいだったため、少々の炭酸無しの水(Aigua mineral natural sin gas)、炭酸入りミネラルウォーター(Aigua mineral natural amb gas)、オレンジの炭酸飲料(Isotònic Taronja)、飲むヨーグルト(Yogur líquido tropical Danup)、明日のお菓子(Magdalena valenciana)やヨーグルト(Yogur Danonup)だけを求めて宿に戻った。

宿に荷物を置いて、城(Castell de Sant Ferran)へ歩いた。通り(Carrer Lasauca)に面した宿から幹線道路(N-IIa / Avinguda de Salvador Dalí i Domènech)をずっと進み、美術館(Teatre-Museu Dalí)が見えてきた当たりから、城に至る道(Pujada del Castell)を登るとテニスコート(Estadi Municipal Albert Gurt)があり、Figueres市民がテニスを楽しんでいるのを左手に見ながら、更に進むと美術館が後ろに見下ろせて、前には立派な城(Castell de Sant Ferran)が見えてきた。築城は1753年と比較的新しくて、大部分がそのまま残されていた。立派な入り口の門の係の人にたずねたら、今日は金曜日で閉館だから、また明日来てねと言われた。城の周りをぐるりと一周する遊歩道を散策した。

美しいFigueresの町並みを一望することができ、遠くに海岸も別の方向に山も見えてきたり、もう山の向こうが直ぐフランスと思い、ここが戦略上、重要な場所であることが分かった。歩いていくと、太陽が雲の切れ目から出たりして、目のように見えたり、太陽の光が雲間から漏れ出て美しかった。

Tarragonaでも同じ日の入りの景色を楽しめたことを思い出した。1時間ほど散策して、沢山の地元の人と会い、犬と散歩している人、ジョギングする人、家族で行く人、友達と話しながら楽しんでいる人など、人それぞれだった。城を下ると美術館が近くなり、直進して美術館前の交差点に出た。

美術館と近くの教会(Església de Sant Pere)が調和して、Dalíがここに美術館を建てた理想像が見えてきた。赤い外壁に付いた水の分子模型のようなクロワッサンかシュークリームのような装飾に近づくと一つ一つの形が違っていて、細かい部分までのこだわりにも、Dalíらしさを感じながら、美術館の外のオブジェを楽しみながら、路地(Carrer Maria Àngels Vayreda)から教会に出て、狭い路地(Carrer de Sant Pere)の間から美術館を見て、商店街として賑わう大通り(La Rambla)に戻った。

宿の人に部屋に戻る前に明日は朝が早いことを告げたら、ベットの隣のテーブルに鍵を置いておいていいよと教えてくれた。宿の部屋に戻ると、部屋はきれいにしていてくれた上、帰ってきたときのため、エアコンまで付けておいてくれていて、優しい配慮にとても感動した。シャワーを浴びてから、日記を書き、明日は午前6時半起きのため、午後11時に床に着いた。

PortlligatのDalíの別荘と小さな港

2008年6月21日(土)73日目(Figueres-Barcelona -Ripoll-Vic-Barcelona: Alberg Mare de Déu de Montserrat)

Barcelonaで高台の宿に荷物を置いて、部屋を予約してから、また、鉄道で近郊の町を二つ訪れた。Ripollでガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)が設計した教会(Sant Miquel de la Roqueta)や広場(Plaça Cívica)に面した美味しいカフェでひと時を過ごしたり、修道院(Monestir de Santa Maria)の美しいロマネスク様式の門と教会を見学した。Vicの司教博物館(Museu Episcopal)で美しい美術を沢山見ることができて満足した。ローマ神殿跡(Temple romà)もきれいに整備されていた。

今日は午前6時半に起きて身支度をして、ベットの横の小さなテーブルに鍵を置いてから、午前6時半にFigueresの朝を楽しみながら、広場(La Rambla)に面した喫茶店(La Botiga del Pa)で朝食を食べてから、ダリの生家(Casa natal de Salvador Dalí)と家(Casa Mas Roger)を通りすがりに見て、昨日のバス乗り場にほど近い鉄道駅に向かった。朝の町は道路の消毒する臭いが立ち込めていて、ゴミ回収者の人がせっせと清掃していたり、道路は水で洗い流されていた。昨日のパン屋さんは、朝早すぎてまだ空いておらず、美味しいパンが食べたかったので残念だった。

特急(Catalunya Express)が発車する15分前に着き、次は昨日に来たFraçaに止まるだけでBarcelonaに到着した。山がちになったり、大聖堂と教会の広場が見えてきたり、美しい風景が変わりゆき面白かった。車内で昨日にSupermercatで買った朝食を食べて、日記を書きながら、2時間ほどで150km近く乗り、無事に駅(Estación de Barcelona-Sants)に到着した。地下鉄の構内でジャズを演奏している人がいた。5号線と3号線に乗り換えて、小高い丘にある駅(Vallcarca)に20分ほど乗ると着いた。Parisの地下鉄よりは車内がきれいで車体も新しいが、Lisboaの地下鉄よりは汚かった。

駅からユースホステルまでの通りが込み入っていて方向が不明なため、いくつかの通り(Carrer de l'Argentera, Carrer de la Farigola, Carrer de Móra d'Ebre)で道を失い、地元の人に聞くと犬と散歩しているのに止まってくれて、親切に教えてくれた。優しい人がBarcelonaの大都会にもいて嬉しかった。通り(Carrer del Santuari)から大通り(Passeig de la Mare de Déu del Coll)を行けばよいそうで、大きくは間違っていなかった。新しい場所では地図もないので、ある程度の方角に色んな道を歩いてゆくしかなく、土地勘がある地元の人に質問をして、目的地へアプローチしていった。

無事にユースホステル(Alberg Mare de Déu de Montserrat)にたどり着き、門を入り長い坂を上がると大きな邸宅にあり、ムデハル様式でアルハンブラ宮殿に似ていたが、細部の装飾は結構雑だった。正門は美しいムデハル様式の漆喰の装飾があったが、アラビア語で「アラーの他に神は無し(لا إله إلا الله / lā ʾilāha ʾillā-llāh)」と繰り返されているだけだった。Granadaの宮殿(La Alhambra)で見た装飾が立派過ぎて、そう見えてしまったかもしれないが、ユースホステル は一昔前の邸宅を改装されていて、今まで宿泊してきた中でもToledoの城を改装した宿と同じくらい立派で素敵な建物であった。

親切な受付の方が、一人分しかベットが開いていなかったので、取りあえず一つは確保しておき、キャンセル待ちにしてもらった。予約が200ベット以上あり、経験上、当日でも必ず一つくらいはキャンセルになるから安心して下さいと話していた。美しい英語で私が責任を持ちまして、私たちを第一に考えて、絶対に部屋を開けますからご安心下さいと話してくれて、親切に接して下さり、ここに宿泊して良かったと思った。荷物を置いて町に出ていった。荷物室で久しぶりに日本人と会った。

地下鉄のVallcarca駅まで歩いてゆきそうな旅行者に付いて行けて近道を知った。いくつか先の駅( Plaça de Catalunya)まで乗り、10分歩く回り、戸惑いながら探し出して、Renfeの駅(Estació Rodalies)をようやく見つけた。地下鉄に連結していないので不便だった。時刻表をもらい、午前11時10分にRipoll行の電車が発車するまで10分あるため、急いでTeleBancoでお金を下して、切符を買い、ホームに進んだ。車内に大型犬や小型犬を5匹も連れてくる人がいたり、自転車を3台も電車の中に運び入れる人もいて、幅の広い改札さえ通れたら、色んなものと一緒に乗って良いそうで驚いた。

Vicまで列車は山々を遠目に眺めながら、田舎の平坦な畑の中を走った。車内で紙切れを渡している人がいて、父親が死んでしまい、遺された子供が2人いて、お金を恵んで下さいと書いてあった。結構多くの人がお金を渡していて、音がちゃりんちゃりんしていたが、こうして電車の中で物乞いをして、果たして生活が成り立つのかと訝しく思った。Vicを過ぎると起伏が激しくなり、1時間ほど、山や谷川を望む尾根を通り抜けて、Ripollに着いた。山がちになり、渓谷を走り抜け、Pyrénéesらしくなってきた。巡礼を始めた頃にBayonneからSaint-Jean-Pied-de-Portまで鉄道に乗ったときを思い出した。

駅前の通り(Carrer del Progrés)を旧市街を目指しながら歩いた。皆が出て歩いてゆく方に進み、通り(Carrer de l'Estació, Carrer Macià Bonaplata / N-260a)を歩き、橋(Pont de Macià Bonaplata)で川(Riu Ter)を渡り、広場(Plaça Gran, Plaça Nova, Plaça de la Llibertat)まで歩いた。

旧市街の街並みを楽しみながら、通り(Carrer de les Vinyes)や広場(Plaça d’En Dama)を歩いて、中央広場(Plaça de l'Ajuntament)にある観光案内所(Oficina de Turisme de Ripoll)に午後2時前に着いて、昼寝時間(siesta)の前に地図をもらえた。589年の西ゴート時代の修道院を基礎として、888年にバルセロナ伯ギフレー1世(Guifré el Pilós, 840-897)により創建され、1032年に建てられたお目当ての修道院(Monestir de Santa Maria)が聳え立っていて、ガラス張りの部屋の中を覗くと期待通り、美しい門の装飾があり、風化されないように厳重に保護されていた。午後3時まで閉じられるため、修道院の辺りを一周して、町の散策を始めて、地図に記されている歴史的名所巡りをした。

先ずは880年に創建された教会(Església de Sant Pere)を見て、広場(Plaça de l'Abat Oliba)から修道院前を通り、通り(Carrer del Bisbe Morgades)に面した1868年に建てられた家(Casa Montadas)の横から、橋(Pont d'Olot)を渡り、小道(Raval de l'Hospital)を行くと不思議な建物が現れた。1912年にガウディ(Antoni Gaudí, 1852-1926)が設計した教会(Capella Modernista de Sant Miquel de la Roqueta)で一般的にガウディ建築は、石がごつごつと無骨に出ていて、ごてごてしている感じがして、ロマネスク様式など、簡素で機能美がある建物が好きな私には無駄な装飾に感じられてしまい、実はあまり好みではないが、西ゴート王国時代の教会をリバイバルしたような質素な作りでしつこくなかった。小道が分かれる真ん中に建てられて目立っていたが観光客がいなかった。

住宅地(Carrer de la Indústria, Carretera d'Olot / N-260a, Carrer del Progrés / C-26)を歩くと、20世紀前半に建てられたガウディのスタイルが流行していたことを感じさせる家(Casa Bonada, Casa Xiqués)が見えた。左手に川(Riu Ter)を見ながら通り(Carrer de l'Escorxador)を歩くと市庁舎(Centre Cívic i Cultural Eudald Graells-Punt Òmnia)の中を通り、更に川沿いの真っ直ぐ伸びた通り(Passeig del Mestre Gich)を歩いて、山と川の美しい風景の中を進み、駅から来た時に通った橋(Pont de Macià Bonaplata)で川(Riu Ter)を渡り、通り(Passeig de Ragull)を歩いてゆき、小川(El Freser)を渡り、城壁の一部とそのアーチの中を列車が通っていて踏切が見えた。

小川に沿う通り(Raval de Barcelona)を歩いてゆくと向こう岸に城壁の上に家が建っていた。中世に建造された古くて美しい橋(Pont del Raval)の手前からの町の眺めは美しく、近くにSantiago de Compostelaへの巡礼路を見つけた。また、小川(El Freser)を渡り、1695年に建てられた家(Casal de Taurinyà)の前を通り、新広場(Plaça Nova)から大広場(Plaça Gran)に出ると1908年に建築家(Josep Maria Pericas, 1881-1966)が建てた素敵な家(Casa Alòs)があり、葡萄の装飾があった。

隣の広場(Plaça Sant Eudald)から、小さな商店が立ち並ぶ通り(Carrer de Sant Pere)を進んだ。古くから町の中心で人通りも多く賑わっていたが、観光客は少なくて快適に散策できた。広場(Plaça de l'Ajuntament)を抜けて、大通り(Carrer de Berenguer el Vell, Carretera de Ribes)を行った。

1918年に建てられた建築(Can Codina)を見てから広場(Plaça de l'Ajuntament)に戻り、美味しそうなカフェ付きのパン屋さん(Pastisseria Costa)で午後5時の修道院の開館まで一時間弱お休みした。ココナッツが降りかけられたアップルタルトとピスタチオのソースが上に乗っている美味しいタルトを食べた。電子レンジで温めると美味しいと聞いてお願いした。チョコレートミルク(Xocolata amb llet)を注文したら、濃いチョコレートムースがホットミルクに添えられていて、見た目は甘そうだが、実は甘さが控えめで美味しかった。ポルトガルのSupermercadoで食べたムースをビターにして、冷やして食べるお菓子を加熱した感じだった。モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の手紙にあるチョコレート飲料はこのようだと思った。フランスが近くて、ケーキも美味しかった。 山を越えればフランスであるため、古くから交流も多く、フランスとの共通点を多く見出した。素敵な店内で美味しく食べて、一息つくことができてから、午後5時の5分前に外に出た。

修道院が窓の外に見える良い場所で30秒で行けた。途中でキャンピングカーで来ていて、駐車場が街中で見つからずに困っていたスペイン人を助けていると、修道院に係りの人が来て、入場の時間になった。学生証を持っていないが割引で入れてもらえた。1140-75年にロマネスク様式で作られた最高傑作の門(Pòrtic romànic de Santa Maria)は繊細な彫刻が美しく、モーセが岩を杖で打つと水が出た話、ソロモンの夢など旧約聖書の物語やキリストの使徒たちが殉教する様子、中世の人の日常や十二の月に対する中世における労働の日常などが彫刻されていた。また、修道院の写本室でも制作されたリエバーナのベアトゥス(Beatus de Liébana, c.730-0798)による《ヨハネの黙示録注解(Beato de Cirueña)》の写本とも関係が認められると説明された。細部の装飾まで30分ほどじっくりと見入ってから、門をくぐり聖堂の中に入ると黒い石が積み上げられた質素で美しい空間で一番気に入った。

今まで見つけた教会とは明らかに様式が異なっていて、ロマネスク様式で直ぐにモザイク画があり、祭壇の前まで歩いていくと、美しい石造りの静謐な空間があり、質素な祭壇だった。右にはラモン・バランゲー3世(Ramon Berenguer III, 1082-1131)の古い棺があり、彼が死の前の年にテンプル騎士団に入ったことが書かれていた。ラモン・バランゲー4世(Ramon Berenguer IV, 1113-1162)の墓には、1893年に刻まれたラテン語の碑文(In hoc almo Coenobio Sanctae Mariae Rivipollensis septem abhinc saeculis in pace quievit corpus incorruptum Raimundi Berengarii IV Comitis Barchinonensis et Principis Arragonensis, cognomento Sancti cui omnis conventus Ordinis Sacrosancti Sepulcri Hierosolymitani necnon sanctissimi Hospitalis, venerandaeque militiae Templi regnum Arragoniae ipsis ab Alphonso I in suo testamento dimissum concessere XVI kalendas Octobr. ann. MCXL. Quod quidem corpus a Gallis invasoribus ann. MDCCXCIV profanatum, postea ann. MDCCCXXXV fuit infando incendio sacrilege consumptum. Anno vero MDCCCXCIII Basilica féliciter instaurata munificentia ac sedulitate Illustrissimi viri D. D. Josephi Morgades et Gili Episcopi Vicensis Equites Sancti Sepulcri ex Coetu Barchinonensi tanti Principis suique confratris memores hoc monumentum posuere.)が刻まれていて読んだら、1835年に第一次カルリスタ戦争(Primera guerra carlista)の革命主義者により、修道院が略奪を受けて破壊されたことが書かれていた。(その際に修道院の多くの建物が放火され、それに加えて、残念なことに1000年以上の歴史のある図書館の貴重な蔵書も灰塵に帰した。)

写本室(Scriptorium)に925年にスニェー1世(Sunyer I, c.890-950)と后(Riquilda de Tolosa, 905-955)の蔵書が寄贈され、アルヌルフ(Arnulf, c.920-970)の時代には、アラビア語の数学や天文学の書籍が翻訳され、ローマ教皇シルウェステル2世(Silvester II, 950-1003)はアット(Atto Vicensis, c.920-971)に師事して、ギリシア、ローマ、イスラムの学問に精通した。979年に69巻、1008年に121巻、1046年にオリバ(Abbot Oliba, 971-1046)が亡くなった時には246巻まで増えた。アルノルド(Arnold Scholasticus)が学問を振興して、アラビア語の学術書をラテン語に翻訳して、12世紀のトレド翻訳学派に先行した。1299年に《バルセロナ伯とアラゴン王の事績(Gesta comitum Barcinonensium et regum Aragoniae)》など重要な書物が書かれた。また、フランス国立図書館写本(Bíblia de Rodes / Lat 6)やバチカン図書館写本(Bíblia de Ripoll / Lat 5729)の聖書も制作された。

(Ripollは10世紀にラテン語Rivipollensisとして記録され、 カタルーニャ語「強い流れ」riu poll < ラテン語rivus pollens < polleo < 「主に」potis + 「強い」valeo < イタリック祖語*poti-walēō < 印欧祖語*pótis + *h₂wl̥h₁-eh₁-(ye)-ti < *h₂welh₁-が語源で「流れ」rivus < イタリック祖語*rīwos < 印欧祖語*h₃riH-wó-s < 「動く」*h₃reyH-が語源でサンスクリット「流れさせる」रिणाति / riṇā́ti < インド=イラン祖語*HrináHtiや古典ギリシア語「注ぐ」ὀρίνω / orī́nō < ヘレニック祖語*or ī́nōと関連。)

入口付近の洗礼盤(Pica Baptismal)が窓のステンドグラスから差し込んでくる柔らかい光に照らされていて、両側の回廊の柱とステンドグラスも美しかった。聖堂を出て、左側から入ると美しい柱に囲まれた中庭には、建築当時の柱の一部や破風の装飾やロマネスク様式が沢山あり、じっくり見るとチャーミングかつユニークで味わいがあった。回廊(Claustre)を歩いて回り、三階部分にも上がり、美しい庭と列柱を堪能した。589年に西ゴート王国時代に教会堂が創建され、878年にギフレー1世(Guifré el Pilós, c.840-897)が修道院を創始して、888年にベネディクト会の修道院(Monestir de Santa Maria)を建設して、特に重要な学問の拠点として発展して、バルセロナ伯の墓所とされた。

Ripollでの修道院(Monestir de Santa Maria)のロマネスク様式の門(Pòrtic romànic)

それから、午後4時半近くの電車でVicに向かうため、修道院を午後4時に出て、来た道を通り、駅に着いた。列車を40分ほどBarcelona方面に乗り、Vicに戻った。美しい山と谷と小川に囲まれた地形をゆったり1時間ほど走ると着いた。駅の前は新しい建物が立ち並んでいて、広場(Plaça de l'Estació)から、地図を見て、観光案内所がなかったが、明らかな中世都市の放射状構造の場所を目指して、大通り(Carrer de Jacint Verdaguer)を行くと思った通り、大広場(Plaça Major)に出た。周りは建物で囲まれていてだだっ広く、Siesta中で人も少なく、カフェで皆ゆっくりしていた。

広場から入って直ぐの所に観光案内所(Oficina de Turisme)を見つけて地図をもらい、司教博物館(Museu Episcopal)は、午後7時まで開いていることから、先ずは地図に示された旧市街の歴史的散策ルートを巡ることにした。市庁舎(Ajuntament de Vic)のアーチの下の通り(Carrer de la Ciutat)を歩いて、17世紀のバロック様式で建てられた家(Casa Cortada)の前から、左手に狭い路地(Carrer de Sant Miquel dels Sants)を入ると聖人(Sant Miquel dels Sants, 1591-1625)の生家があり、小道(Carrer de Sant Just)に曲がり歩いてゆくと左手に16世紀に建てられた門のアーチや紋章が印象的な教会(Església de Sant Just / Càritas Diocesana de Vic)を通り過ぎた。

広場(Plaça de Pompeu Fabra)を左に曲がり、小道(Carrer de la Riera)を進み、通り(Carrer del Pont)に向かうと16世紀に建てられた家(Casa Galadies)があり、広場(Plaça Gaudí. La Vella)から通り(Carrer de la Ramada)を抜けて、大通り(Rambla de Sant Domènec)に出るとき、18世紀に建てられた聖十字架病院の大きな教会(Església de l'Hospital)が正面に見えた。

カーブを進むと16世紀に建てられた帆立貝の紋章が印象的なバロック様式の修道院(Convent de Sant Domènec / Escola d'Art de Vic)の前に噴水がある公園(Parc Jaume Balmes)に出た。バロック様式で現代に建てられた教会(Temple Sepulcre de Sant Antoni Maria Claret)の横には、通り(Carrer de Sant Antoni Maria Claret)に面した20世紀初頭に建てられたアールヌーヴォの素敵な(Casa Ricart)に附設されたゴシック様式の美しい聖堂(Capella de Sant Antoni de Pàdua)があった。

路地(Carrer de Sant Antoni Maria Claret)に入ってゆき、通り(Carrer de la Ramada)を右に曲がり、516年に創建され、717年にウマイヤ朝(الخلافة الأموية / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)により破壊され、886年にギフレー1世(Guifré el Pilós, c.840-897)が再建、1038年にオリバ(Abbot Oliba, 971-1046)がロマネスク様式で建てた塔が印象的な大聖堂(Catedral de Sant Pere Apòstol)前の広場(Plaça de la Catedral)に出たら、18世紀に建てられたの古い家(Casa Bayés)の隣に20世紀初頭に建てられた現代的な赤壁の家(Casa Anita Colomer)が見えて、外観は全然違うが調和が取れていて美しかった。新しく建築をするときには、古い街並みを考えて、設計されていることを感じた。

大聖堂の前を通り、赤い壁が印象的な司教宮殿(Palau Episcopal de Vic / Dioecesis Vicensis)を見て、通り(Carrer de Santa Maria)に入らず、隣の広場(Plaça del Bisbe Oliba)に出て、司教博物館(Museu Episcopal)を訪れた。午後7時の閉館まで1時間ほどゆっくりと見学することができて安心した。近代的な建物の中にあり、係員は学生であると告げると信じてくれて割引で入れた。

地階には古代エジプトや古代イベリアの美術品が展示されていて見応えがあり、古風な文字で刻まれたラテン語の碑文(117-138年・Altar Lloc d'execució desconegut “D(eo) Sei/tund/o ara(m) / uoti/uam | [C]am/pan/us et / Max/im(us)”・MEV 3218)とイベリア文字で刻まれたイベリア語の貴重な碑文(紀元前3-1世紀・Estela amb inscripció “SORIKE [ riu Sorreig]”・MEV 13625)が隣にあった。

入って直ぐの所には司教が集めた宗教画と遺品が展示されていて、古代エジプトのスカラベの彫刻、パピルス(第21-22王朝・《死者の書(Llibre dels Morts)・MEV 3239》)、ミイラや木簡まで展示されていて、歴代の司教のコレクションだそうで色んな地域の歴史が感じられて感心した(Víctor Sabaté Vidal (2017). Para un análisis de los compuestos onomásticos en plomos ibéricos: algunos ejemplos de su problemática, "Temas y tendencias actuales de investigación": 159-176.)。

隣の部屋に大量の柱の装飾やボルトや破風があり、美しい装飾で気に入ったものをいくつか見つけた。モザラベ様式の影響を強く受けていたり、ロマネスク様式の大聖堂の上部から飛び出している竜や天使や人形の装飾もあり、地階には大量のロマネスク芸術があり、聖人やイエズス様の象がおもちゃのような感じで可愛らしかった。美しいマリア様と幼きイエス様の聖母子像(12世紀・Marededéu de Santa Maria de Matamala・MEV 1404)を見つけられたり、一本彫のイエス像(12世紀・Crist pantocràtor de Sant Salvador de la Vedella・MEV 1602)や選び抜かれた美術品が多かった。

細部を見るとぐらぐらしたり、余り良い作りでは無くて、細かい仕上げがなされていなくて、昔から西洋では日本ほど工芸の細部にはあまりこだわりがなくて大雑把な感じがした。教会からそっくり持ってきたような祭壇や扉まで展示されていて驚いた。上の階にはバロック美術を二つの時代に分けて展示されていた。部屋には窓があり、外の様子を窺うことができて、近くに美しい受胎告知をする大天使ガブリエル像(14世紀・Anunciació・MEV 10668, 10669)を一つ見つけて気に入った。

隣にはタペストリーの部屋もあり、セバスティアヌス(Sebastianus; 256-288)の頭蓋骨や聖遺物が入ったケースが並べられていて、またアポロニア(Apollonia, c.220-249)の歯まで展示されていた。Santiago de Compostelaの巡礼博物館でも、セバスティアヌス(Sebastianus; 256-288)の腕の骨の一部を見て、同じ人のものが分けられていた(果たして本物だろうかと思った)。

タペストリーは最古でローマ時代まで遡るものから近代に至るまで展示されていて、また、イスラム世界から仕入れた生地もあり、18世紀まで展示されていて、特に15、16世紀頃の保存状態が良く、先日にGironaで見た《天地創造のタペストリー》を思い出した。ガラス製品や陶器を見てから、上の階の大きな宗教用品やアラブ人から奪った宝石箱、大聖堂用の燭台など、様々な小物があった。

蝋燭が大量にぶら下がった廊下は圧巻だった。ローマ時代から中世までのコインや印象の展示もあり、カタルーニャ・スペイン全土・アラブから集められた品々が展示されていて印象的だった。1時間では見きれず、Vicの町をこの博物館だけを目当てにBarcelonaから訪れる人がいるのも理解できた。

上の階からすんなり出て、階段を下がると、午後7時になり出口も半開きになっていた。私たちが出ると待ってましたというように職員の人も帰った。スペイン人はSupermercatでも博物館でも、時間になるとさっさと帰ってしまう。扉が半開きにされ、早く帰りたいと意思表示しているようで可笑しかった。大聖堂前の広場(Plaça de la Catedral)に戻り、小道(Carrer de Santa Maria)を行き、公園(Parc Jaume Balmes)に戻り、川(Riu Mèder)沿いの道(Rambla del Bisbat)を歩いた。

川向こうは新しい街で手前は雰囲気のある街並みで気持ちが良く、11世紀に架けられたロマネスク様式の橋(Pont de Queralt)の美しいアーチが見えた。広場(Plaça Santa Elisabet)から、小道(Carrer de l'Albergueria)を歩いて、1760年に建てられたバロック様式の教会(Església dels Dolors)の前の通り(Carre dels Dolors)、細い路地(Carrer del Cloquer)を通り、司教博物館(Museu Episcopal)の裏手に戻った。小さな階段の途中が膨れていて、広場(Plaça de Malla, Plaça Mont-rodon)のカフェのパラソルの間を通り、隣の広場(Plaça de la Pietat)に出た。

1-2世紀に植民都市(Ausa)に建てられたローマ神殿跡(Temple romà)が、1800年代に再建され、建物としてしっかりと機能していて、歴史に関する展示があり、ビデオを映していた。沢山の資料を見て神殿を後にした。職員の人が気を利かせて、お願いしなくても、話しかけてきてくれて、父と二人で写真を撮ってくれた。私たちの足もとばかりで写真としてはよくなかったが親切にして頂いた。

細い路地(Carrer Mare de Déu dels Àngels)から、大通り(Rambla dels Montcada)に出ると門(El Portalet)があり、アラゴン王ペドロ3世(Pedro III, 1239-1285)の城壁(Muralla de Pere III el Cerimoniós)が見えて、左手に切り立つ石積みの壁を見ながら進み、右手に1638年に建てられた修道院(Convent de Santa Teresa)が見えてきて、大通り(Rambla del Passeig)に出た。

通りの向こうに美しい18世紀に建てられた素敵な列柱があるバルコニーを持つ家(Casa Vilarrubia)が見えて、町の大動脈が集まる広場(Plaça de Santa Teresa)の真ん中で地図を見ながら辺りを眺めて立ち止まっていると、道に迷っていると思われたらしく、街の人が声をかけて助けてくれた。

通り(Carrer de Dues Soles)に入り、広場(Plaça de Don Miquel de Clariana)に出ると目の前に美しい壁画があり、19世紀に建てられた青い壁が美しい家(Casa Masferrer)が木陰から見えた。17世紀に建てられた石積みの家(Casa Clariana)を見てから、通り(Carrer de Cardona)を行くと、小さいながら賑わっていた広場(Plaça del Paradís)に出て、広場(Plaça del Canonge Collell)を覗いてから引き返して、通り(Carrer de Sant Sadurní)に入ると、直ぐに美しい本を売る古本屋さん(Costa Llibreter)があったので、Siesta後でショーウィンドウから沢山の古本を覗いて楽しんだ。

辺りは歴史的建築のオンバレードで教会(Església de Sant Sadurní / La Pietat de Vic)の遺構があり、別の17世紀に建てられたバロック様式の教会(Església de la Pietat)、広場(Plaça de Malla)に面した1886年に建てられた修道院(Convent de les Sagramentàries)があった。

通り(Carrer Sant Miquel Arcàngel, Carrer dels Corretgers)を行き、15世紀に建てられた家(Casa del Veguer Sala i Saçala)の先に1713年に建てられた修道院(Congregació de l'Oratorio de Sant Felip de Neri)や広場(Plaça de Sant Felip)があり、市庁舎(Edifici de la Llotja / Ajuntament de Vic)の美しいアーチの前を過ぎて、広場(Plaça del Pes)から大広場(Plaça Major)に戻ってきた。町に着いた時よりもSiesta後で人が多く賑わい、夕日に照らし出された広場は美しかった。

大通り(Carrer de Jacint Verdaguer)を通り、駅(Estació de tren)に着くと10分前に午後7時40分の電車が発車していて、Barcelonaに戻る前に何か食べる場所を探すが、大広場(Plaça Major)までSupermercatも飲食店もなく、駅で1時間待ち、午後8時50分の電車に乗り、車内で日記を書いた。

Barcelonaに着いたのは、午後10時10分だった。広場(Plaça de Catalunya)は夜に人通りも多く、広場の周辺の道に沢山の黒人が腰かけて話し込んでいた。大通り(Calle de Pelai)に入る広場(La Rambla)に面したMc’Donaldsで夕食を食べた。二階、一階、地階とも混みあっていた。食べている人の足元をモップで掃除する従業員が来たり、日本では考えられないことが起こり笑ってしまった。

地下鉄に乗り、Vallcarca駅に戻り、黄色の街頭に照らされた住宅地の比較的安全な道を通り、ユースホステルに着いた。午後11時まであと15分だが、新しい担当者にしっかりと連絡されていて、キャンセルが出て、部屋があり安心して、責任を以て対応してくれていた係りの人に感謝をした。

朝食とベットがあって良かったですねと優しく声をかけてくれた。泊まる所を得て、安心して直ぐに寝室(dormitori)へ行った。二階の便利な本館に泊まれて良かった。

ルームメイトのブラジル人Elnerと意気投合して、ブラジルの国旗をプレゼントしてくれて、メールアドレスと電話番号をその上に書いてくれた。ブラジル人は何故か国旗を持っていて、旗を振って歩くのが好きなようで陽気な人が多かった。Lisboaに住んでいると聞き、訪れた時の写真を見せたら、その中の一つの建物を指さして、正にここに住んでいるんだと、写真の中を指して興奮していた。

Santiago de Compostelaに巡礼してきて、ポルトガルの新聞に出たことを話したら、またまた興奮してビデオに撮っていた。彼と少しおしゃべりをしてから、直に床に入った。今日の部屋はベットの数が多いが、今日は疲れていた上、午後11時近くに戻り、直ぐに寝てしまった。

Vicのローマ神殿跡(Temple romà de Vic)

2008年6月22日(日)74日目(Barcelona: Alberg Mare de Déu de Montserrat)

朝早くにガウディ建築の代表作である聖家族贖罪教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)を訪れて、屋上から美しい街並みを見た。直ぐ近くにトウモロコシの尖塔、苺や葡萄の形をした飾りもあり、面白い空間だった。都市をバスや徒歩で巡り、ガウディやカダファルクの建築を多く見たり、大聖堂の周辺の中世の街並みを散策した。丘(Montjuïc)の古城からも街を一望して気持ち良かった。夕暮れ時に砂浜の海岸越しに見ることができて、砂の上にできた長い影が美しく映えていた。

今日は午前7時半に起きて、午前8時の朝食に始めた。昨晩は午前2時頃に寝屋に煌々と電気を付けた人がいて、眠りが中断されたにも関わらず、すみませんとも言わず図々しくて、みんなも起こされてしまい、睡眠が邪魔されてかなり怒っていた。下の階に向かうと大きな団体と鉢合わせになり、朝食の列に10分も並び、トーストを焼く機械が上手く作動しないため寛ぐことができず、早々と朝食を終えて、直ぐに宿を出た。Youth Hostelでも、Albergueでも、大規模になると共用の食堂や寝室などにおいて、必ず顰蹙を買うような行動をする人が出て来るため、中規模の宿に泊まることが良いと感じた。

朝早くにガウディ建築で最も有名な聖家族贖罪教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)を観光客で一杯になる前に早い時間に訪れることにした。宿から近くの地下鉄の駅に歩いて、急いで乗り、中心の駅(Diagonal)で乗り換えて、工事中のため10分ほど多く迂回して、隣々駅(Sagrada Família)で降りて外に出ると目の前に二本の塔(Torre de la Mare de Déu)が聳え立っていた。

午前9時に着いて直ぐに入れた。入り口は現代的なキリストの磔と聖母像が彫られていた。中に入ると工事が現在進行中で足台が築かれていて面白かった。ステンドグラスが美しく光を放ち、柱も卵型の装飾があり、Dalíとのつながりを感じながら、リフトで屋上に登ることにした。1人2€の入場料を昇降中に徴収され、リフトが付いて外に出ると、視界が開けて美しかった。直ぐ近くにトウモロコシの尖塔、苺や葡萄の形をした飾りもあり面白かった。全てタイルで装飾されていて、落雷や風化などで剥がれ落ちないのが不思議だった。上からの眺めを楽しみ、階段で降りようとしたが、余りにも無謀な挑戦と思い、昇降機で降りた。既に長蛇の列ができていて、朝早くに来れて良かった。

電車で隣の駅(Verdague)まで乗り、1905年にカダファルク(Josep Puig i Cadafalch, 1867-1956)が建てた家(Casa de les Punxes)まで大通り(Avinguda Diagonal)を歩いて堪能した。臙脂色の塔が街の雰囲気と合い映えていた。(彼はカタルーニャ学術研究所(Institut d'Estudis Catalans)の所長を務め、《カタルーニャのロマネスク建築(L'arquitectura romànica a Catalunya)》を著したため、伝統的な建築様式に精通しており、機能美と様式美に優れた素晴らしい建築を残した。)

それから、大通り(Avinguda Diagonal)やオベリスクのような形の柱が建てられたロータリー(Plaça Cinc d'Oros)を通り、大通り(Passeig de Gràcia)に面したガウディ作品の家(Casa Milà)や1902年にドメネク・イ・ムンタネー (Lluís Domènech i Montaner, 1850-1923)が建てた花の文様が柱に付けられた個性的な建物(Casa Lleó Morera)などの外観を楽しんだ。

世界的にはガウディが聖家族贖罪教会のために有名だが、当時のカタルーニャには面白い建築家が多くおり、アールヌーヴォが一世を風靡していて、文化的に栄えていたことを実感した。

現代的な建物が大通り(Passeig de Gràcia)に立ち並び、ガウディ作品は異色だったが、入場に9~15€も取られるので止めた。人気があり高い入場料でも、多くの観光客が入場していた。

都市の大動脈で車の通りが激しい大通りに面した中央の駅(Diagonal)で地下鉄を海に近い駅(Drassanes)まで乗り、記念塔(Mirador de Colom)の下に行った。周りのライオン像が気に入った。展望台は入場料があるため昇らず、足場から海を望んだ。海辺に地元の人や観光客も出ていた。

歩行者天国のような通り(Rambla de Santa Mònica)を北に歩いた。最も賑わう中心街で周りには大道芸人や似顔絵屋さんなどが多く、大道芸などの見世物をする人が多く出ていて盛り上がっていた。

蠟人形博物館(Museu de Cera)の門の前にギリシア神殿風の水飲み場があり、皆もの珍しげに水を出して飲んだりして写真を撮っていた。四方を建物に囲まれた中で落ち着い居た所でコイン商の露店が並んでいて、コイン市が日曜日で開かれていて、熱心に見入る愛好家が多かった。状態の良いギリシアやローマ時代のコインはなく、1700年代のスペインやフランスのコインは日本より高かった。

それから、通り(Carrer de Colom)に入り、広場(Plaça Reial)に出た。中心には面白い形の噴水(Font de les Tres Gràcies)があった。北側の出口(Passage Madoz)から通り(Carrer de Ferran)を行き、大聖堂に向かうと、旧市街らしくなり、レストランが多く、賑わっていた。

1394年に建てられたゴシック様式の教会(Església de Sant Jaume)の外は小さそうに見えるが中に入ると美しくて奥に広かった。直ぐ右のマリア様像はギリシア神殿のミニチュアの中に鎮座いていて、題字に祈りの言葉(Gratia plena. Ora pro nobis)が書かれていて、祈りの雰囲気があった。マリア様の小聖堂前にザビエル(Francisco de Xavier, 1506-1552)の像がある小聖堂があった。

通りを進むと広場(Plaça de Sant Jaume)に市庁舎(Ajuntament de Barcelona)や宮殿(Palau de la Generalitat de Catalunya)があり、近くに公文書館(Arxiu Històric de la Ciutat de Barcelona / Casa de l'Ardiaca)もあり、カタルーニャの政治の中心地であり、中世から続いている町らしい佇まいがある歴史的建造物の宝庫だった。細い路地(Carrer del Bisbe)には美しいアーチ(El Pont del Bisbe)がかかっていた。階段(Carrer de Santa Llúcia)を少し上がり、大聖堂(Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)の前の広場(Placita de la Seu)に出た。門が開いていて、無料で中を見学できた。

大聖堂の中庭から一巡するとLourdesのマリア像やLisieuxの聖テレサ像(Thérèse de Lisieux, 1873-1897)があった(フランス人でÁvilaの聖テレサ(Teresa de Cepeda y Ahumada, 1515-1582)と同じカルメル会に入り、修道名をアビラの聖テレサにあやかり、リジューのテレーズと名付けられた)。

小さな聖ルチア(Santa Lucia, 283-304)の聖堂(Capella de Santa Llúcia)は美しく、中庭には聖ゲオルギウス(Γεώργιος / Geórgios > Georgius, c.260-302)の泉があり、飲める水が湧き出していた。

泉(La Font de Sant Jordi)の中央には、有名な龍退治のレリーフ(Sant Jordi i el drac)があり、殉教を意味する棕櫚(Trachycarpus fortunei)が植えられて何石のような雰囲気の中庭には、13匹のカモが飼われていた。13歳で13の拷問をされて殉教した聖エウラリア(Eulàlia de Barcelona, 290-303)が斬首されたとき、鳩が飛び出したという逸話が伝えられているからである。

(メリダの聖エウラリア(Eulalia de Mérida, 292-304)と殉教の時期や状況、口からは戸を吐き出したという話などが極めて似ているため、同一の人物が別に伝えられたとも考えられており、遺骸はスペイン各地に伝えられ、13歳で13の拷問を受けたなどの逸話は後で潤色された可能性がある)。

大聖堂の中庭や内部はミサの最中で入れなかった。涼しい小さな路地(Carrer dels Comtes, Carrer de la Pietat, Carrer del Bisbe)に入り、周辺を散策するとヴァイオリン弾きやティンバレン弾きが多く演奏していて、通りがかりの人たちが立ち聴きをして楽しんでいて良い雰囲気だった。

バイオリンとチェロのデュオでクライスラー(Fritz Kreisler, 1875-1962)、サラサーテ(Pablo de Sarasate, 1844-1908)、パガニーニ(Niccolò Paganini, 1782-1840)のカプリッチョ(24 Capricci, Opus 1・1820年)を弾いていた。ギターでタレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)のアルハンブラの思い出(Recuerdos de la Alhambra)を弾いた人が国立公文書館(Arxiu de la Corona d'Aragó)の裏手の広場(Plaça de Sant Iu)にいた。

通り(Carrer de Sant Sever)を歩いて、小道(Baixada de Santa Eulàlia)を進んでゆくと、聖像が祀られた祠があった。通り(Carrer dels Banys Nous, Carrer de l’Ave Maria)を歩いて、広場(Plaça de Sant Josep Oriol)に面した1319年に建てられた聖堂(Basílica de Santa Maria del Pi)を見たり、通り(Carrer de la Palla)を歩き、ローマ時代の砦の道や水道橋の一部(Muralla Romana)を見て、大聖堂前の広場(Placita de la Seu)に出た。楽団の演奏で市民が民族衣装を着て踊っていた。

Barcelonaの聖家族贖罪教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)

大聖堂前の大通り(Avenida de la Catedral)から進み、昼ご飯を食べる店を探しながら、通り(Avinguda de Francesc Cambó)を歩くと、市場(Mercat de Santa Caterina)の近くで、美味しそうなビュッフェ形式の店があり、8.5€で一人好きなだけ食べれるので入った。

名前(Restaurant Fresc Co)の通り、新鮮な野菜が沢山あり、飲み物を含め、おかわりし放題だった(カタルーニャ語「新鮮」fresc < 古オック語fresc < 中世ラテン語friscus < フランク語*frisk < ゲルマン祖語*friskaz < 印欧祖語*preyskosで英語fresch < 中英語fressh < 古英語fersc、更にはリトアニア語prė́skasや古スラヴ語ⱂⱃⱑⱄⱀⱏ /prěsnŭ < スラヴ祖語*prḗˀskasと同じ語源)。

トマトをベースや果物だけをすり潰したスープも冷えて美味しそうだった。サラダにかけるオリーブオイルも多くの種類があり、バルサミコ酢もあり、トッピングもクルトン、乾燥コーン、胡桃と多くて、ピザも柔らかいパスタもあり、デザートやソフトクリームまであり、お腹一杯食べられた。

定員さんも感じが良く、直ぐに皿を変えてくれて気持ち良くて、午後1時半から1時間以上ゆっくりとした。大量に水や飲み物を飲み、ソフトクリームでクールダウンした。一服してゆったりとしていると、定員さんがスペイン語でフレンドリーに話しかけてきたが、父はスペイン語は話せないので、店員さんは英語も流暢に話していて驚いた。しかも、言葉遣いがとても丁寧でSirを使って話していた。

現在地(23 Avenida de Francesc Cambó)を聞いてから、街に出た。生活感がある細い路地(Carrer d'En Giralt el Pellicer, Placeta d'En Marcús, Carrer de Montcada)を進み、美術館(Museu Picasso / Palau Meca)を通り、広場(Plaça de Montcada)に至ると1329年に建てられたゴシック様式の聖堂(Basílica de Santa Maria del Mar)の塔が美しく見えた。周りの雰囲気がすこぶる良くて、大聖堂の尖塔が美しく見える広場(Plaça de Jacint Reventós)でカフェで寛いでいる人が多かった。

ギターのコンサートのパンフレットを配っている人がいて一部もらうと、タレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)のアルハンブラの思い出(Recuerdos de la Alhambra)、モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756-1791)の《魔笛(Die Zauberflöte)》(KV 620・1791年)やホルン協奏曲など有名曲が並んでいた。モーツァルトの演奏会を聴きたかったが、日にちは7月5日で帰国後だった。

美しい街並みの通り(Carrer de l'Argenteria)を歩いて、広場(Plaça de Santa Maria)に行くと聖堂(Basílica de Santa Maria del Mar)の天井とファサード列柱が美しかった。通り(Carrer de Jaume I)を行き、また1394年に建てられたゴシック様式の教会(Església de Sant Jaume)を訪れた。

近くの地下鉄駅(Jaume I)から凱旋門駅(Arc de Triomf)まで乗った。違う方に出てしまい戸惑ったが、外に出て直ぐに凱旋門(Arc de Triomf)を見つけた。Parisの白い大理石の凱旋門とは異なり、赤い煉瓦色で太陽が照り付けて暑苦しい感じがした。Sevillaのスペイン広場と同じような雰囲気だった。

大通り(Passeig de Lluís Companys)を通り、公園(Parc de la Ciutadella)を散策した。第一次世界大戦の戦没者を追悼した大きな像(Monument als Voluntaris Catalans)や1717年に建てられたユニークなドームを持つ小さな教会(Parròquia castrense del Parc de la Ciutadella)があり、奥には立派な庭園(Plaça de Joan Fiveller)に面したカタルーニャ議事堂(Parlament de Catalunya)や図書館(Biblioteca del Parlament de Catalunya)があった。中心の池でカヌーを漕いだり、草むらの上に寝そべり本を読んだり、Barcelona市民が温かい日差しの下、思い思いの楽しみ方をしていた。

庭園で少し休憩をしてから、動物園(Parc Zoològic)の前のロータリーで馬に乗った将軍の銅像(Estàtua eqüestre del general Prim)を見た。動物園はベビーカー連れの人で賑わっていた。公園を後にしてきた道を戻り、凱旋門駅(Arc de Triomf)から、また地下鉄に乗り、中央駅(Plaça de Espanya)で外に出ると、大きなロータリーがあり、中央に立派な噴水があるモニュメントがあった。

大通り(Avenida de la Reina María Cristina)の入り口にオベリスクのような塔(Torres Venecianes)があり、ギリシアの神殿建築とミックスした宮殿(Palau Nacional)にある美術館(Museu Nacional d'Art de Catalunya)に向かうとき、広場(Plaça de Josep Puig i Cadafalch)には立派な噴水(Font Màgica de Montjuïc)があり、更に奥の広場(Plaça de les Cascades)の水が流れた階段を歩いていたら、反対側から人が多く歩いて来て、近くで試合があり、国際色豊かで色んな旗を持っていた。

人だかりを避けながら、宮殿(Palau d’Alphons XIII y Victoria Eugenia)の手前の展望台(Mirador del Museu Nacional d'Art de Catalunya)から、通り(Passeig de Jean Forestier, Carrer de la Guàrdia Urbana)を歩いて、民族学博物館(Museo Etnológico de Barcelona)が面した庭園(Jardins de l'Umbracle)から坂道(Passeig de Santa Madrona)を登り、考古博物館(Museu d'Arqueologia de Catalunya)に至った。日曜日は午後2時前に閉館してしまい、明日の月曜日も閉館日で訪問できないのが残念だった。博物館裏のギリシア劇場庭園(Jardins del Teatre Grec)を散策した。

近くにある別の劇場(Teatre Lliure)の前の広場(Plaça de Margarida Xirgu)からバスに乗り、1640年に築かれた丘の上の城(Castell de Montjuïc)を目指した(カタルーニャ語「ユダヤ人の丘」Mont Jueu < ラテン語Mons Judaicus < ヘブライ語יְהוּדָה / y'hudá < 「敬う」יָדָה / yadá < セム祖語「手」*yad-でアッカド語「腕」𒀉 / idum、ウガリット語𐎊𐎄 / yadu、フェニキア語𐤉𐤃‎ / yd、アラム語𐡉𐡃𐡀 / yəḏā、アラビア語يَد‎ / yad、古南アラビア語𐩺𐩵‎ / yd、アムハラ語እጅ / ʾəǧǧ、ゲエズ語እድ / ʾədと関連、もしくはカタルーニャ語「ユピテルの丘」Mont de Júpiter < ラテン語Mons Iovibus < Iovis < 古ラテン語Diovis < イタリック祖語*djous < 印欧祖語「天空」*dyḗwsが語源でオスク語𐌃𐌉𐌞𐌅𐌄𐌝 / diúveí、ウンブリア語𐌉𐌖𐌅𐌄 / iuveと同源でヒッタイト語𒅆𒄿𒌑𒍑 / siusやリュディア語lewś < アナトリア祖語*diēus、サンスクリットद्यु / dyúやアヴェスタ語dyaoš < インド=イラン祖語*dyā́wš、ミケーネ語diwosや古典ギリシア語Ζεύς / Zeús < ヘレニック祖語*Dzéus、古スラヴ語дивъ / divŭやリトアニア語Dievas < バルト=スラヴ祖語*Diewas、アルメニア語տիւ / tiw < 古アルメニア語*tiw-、アルバニア語Zojz < アルバニア祖語*dzwâptと関係する。11-14世紀のヘブライ語が書かれたユダヤ人の墓石が発見されていることから、前者が正しい語源である可能性が高いと考えられる)。

バス停の近くには、癇癪玉を鳴らしまくる少女たちがたむろしていて、激しすぎる音に驚いた。バスに乗るが、丘の中腹にある、通り(Avinguda Miramar)に面した美術館(Fundació Joan Miró)近くのロープウェイ乗り場(Funicular de Montjuïc)までしか行かず、眺めを美しかったが、更に高い所に行きたくて、ロープウェイに乗ろうとしたが、15€もするため、観光バス5€を見つけて、乗り換えると頂上まで行けた。かなりの距離を走り、古城(Castell de Montjuïc)に着いた。

城に上がる道にある軍事博物館(Fossat de Santa Eulàlia)でスペイン・ブルボン王朝(Casa de Borbón)のコイン展が開催されていた。城の囲いの中の展望台に上ると景色が良かった。始めは海側に出て、重工業地帯や海沿いにタンカーの発着場や石油コンビナートが軒を連ねているのを見た。港の中にパープル色のプールがあり、海とコンクリートの垣根が一つ隔てられいた。

市内を見渡せる裏側に回ると城が築かれた理由がよく分かった。古城に行くと美しい風景が見られるが、ここも例外ではなく、町の全てが見えた。ガウディが設計した聖家族贖罪教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)やグエル公園(Parc Güell)の向かい側の山には、昨晩に宿の窓の外に見えた1426年に建てられた修道院(Monestir de Sant Maties)を望めた。

見晴らしが良い所で美しい風景を堪能していたら、写真を撮っているスペイン人がいて、足場が不安定な所で大股を広げたりして、崖から落ちる危険を冒しながら、面白い写真を撮影していた。

軍事博物館(Fossat de Santa Eulàlia)に入ると砦の最上部に出て見晴らしがよいが、3€取られるので止めて周りを一周した。城の周りには古い大砲(Canó del Castell de Montjuïc)が置かれていて、20世紀に造られたのも中にはあり、最近まで軍事的に機能していたのが分かった。城の上からは眺めが美しいと思いながら、通用門を通って外に出た。門は頑丈に作られているが、中が丸見えで面白かった。出口の少し前に展示室があり、歴史的背景が説明されていた。名前通りユダヤ人の砦が築かれたそうでヘブライ語で書かれた碑文を見た。キリスト教徒が城を増築して、今に至るとのことだった。

城の前のロープウェイ乗り場(Telefèric de Montjuïc)から通り(Carrer del Castell)を徒歩で下り、城の前で待っていたバスが遠回りをしてゆくため、ロープウェイ乗り場に着いたときに一緒になり、徒歩でも時間は変わらず、お金もかからず、美しい風景を楽しみながら下ることができて満足した。

しかし、頭上に何も遮るものがないため、容赦なく陽が照りつけて、脱水症状になりそうだった。ロープウェイ乗り場(Parc de Montjuïc)の隣にあるケーブルカー乗り場(Estació del Funicular)から乗って丘を下り、地下鉄駅(Paral·lel)まで下り、地下鉄駅(Urquinaona)まで乗り、近くのコンビニエンスストア(Open Cor)で炭酸飲料(Fanta de Laranja)を買って飲んだら少し復活した。

また、地下鉄で海岸に近い駅(Barceloneta)に向かい、バスに乗り、ケーブルカー乗り場(Torre Sant Sebastià / Telefèric del Port)の近くの海岸(Platja de Sant Sebastià)に着いた。

海岸には人が多くいて、夕暮れに近い太陽が照り付けるようではなく優しい光をもたらして、長い影ができて美しかった。海面に日が当り、反射しているのを見つめながら、しばらくのんびりとした。

広場(Plaça del Mar)の前の通り(Passeig de Joan de Borbó)でバスに乗り、公園(Parc de la Ciutadella)、博物館(Museu de la Xocolata)、凱旋門(Arc de Triomf)を過ぎて、通り(Ronda de Sant Pere)に面した独特な形をした記念碑(Monument a Rafael Casanova)の前を過ぎてから、北に進路を変えて、大通り(Passeig de Sant Joan)を進み、大通り(Avinguda Diagonal)に至ると西に行き出したので急いで降りて歩き、中心地の地下鉄駅(Diagonal)で乗り、隣駅(Fontana)に着いた。

日没も近く暗くなり始めたので、通り(Carrer Gran de Gràcia)を北に少し歩いてゆき、通り(Carrer de les Carolines)に面したガウディ設計の1888年に建てられた家(Casa Vicens)に着いた午後9時半頃に暗くなり、街灯がちょうどぱっと灯された。街灯に照らし出された美しいガウディ建築の姿も見ごたえがあり、夕暮れどきに堪能できて、街を巡り歩いてきた締めとなり良かった。

近くのバス停まで、通り(Avinguda de la Riera de Cassoles)を北に歩いてゆくと駅(Lesseps)の近くでバス停を見つけたら、直ぐにバスが来た。バスに乗っていると面白いことに通り(Avinguda de la República Argentina)にある停車場(Escipió)の目の前に商店(Supermercat Caprabo)があり、バスの運転手がお客さんが乗る間に炭酸飲料(Fanta de Laranja)を店員さんに買ってもらっていて、店員さんも慣れていて、直ぐに渡していて、毎日のようにそのような街の営みがあるのかと感じた。

そこから10分ほどバスに揺られて、丘を登り、陸橋(Viaducte de Vallcarca)を渡り、広場(Plaça Mons)を通り、大通り(Passeig de la Mare de Déu del Coll)を進み、ぴたりと宿の前に止まった。

直ぐに帰れて、午後10時に着いた。シャワーを浴びてゆっくりとしていると、誰かがベットの位置を変えてしまい狂っていて、スペイン人とアメリカ人が言葉が通じ合えずに騒ぎになっていた。昨日にもおしゃべりしたブラジル人Elnerとスペイン語で話を楽しんだ。ポルトガル語話者で似た言葉ではあるが、スペイン語を流暢に話せる訳を聞くと、隣の国ボリビアでスペイン語を学んだそうだ。

午後11時近くに消灯した。イタリア人とスペイン人が話をしていたが、二人とも思慮のある人で直ぐに静かにしてくれた。ブラジル人のサッカーを見に下の階で見てきて、寝る直前に帰り、スペインが勝ったそうで楽しそうにしていた。町の至る所から、「スペイン万歳(¡Viva España!)」の歓声が聴こえてきて、爆竹や花火の音がしていて、外が騒がしくなり、始めの一時間は寝付けなかったが、疲れていたため直に寝ることができた。途中何人か人が帰って来て起こされたが、それから寝付けた。

Cataloniaはイベロ=ケルト語Catalauni < ケルト祖語*Katuwalos < 「戦さ」*katus < 印欧祖語*kéh₃-tu-s ~ *kh₃-téw-s < 「戦う」*keh₃-(古ブレトン語kad、古アイルランド語cath、原アイルランド語cattu、ゴール語cattosなどと同根でヒッタイト語𒃰𒁺 / kattu- < アナトリア祖語*katu-、サンスクリットशत्रु / śátru < インド=イラン祖語*ćátruš、古典ギリシア語κότος / kótos < ヘレニック祖語*kótus、古英語heaþuや古ノルド語hǫðr < ゲルマン祖語*haþuz、古スラヴ語котора / kotora < スラヴ祖語*kotoraと関連) + ケルト祖語「首領」‎ *walos < 印欧祖語*h₂wl̥h₁-o-s < 「治める」*h₂welh₁-(古英語wealdanやゴート語𐍅𐌰𐌻𐌳𐌰𐌽 / waldan < ゲルマン祖語*waldaną、古スラヴ語власти / vlastiやリトアニア語veldėti < バルト=スラヴ祖語*walˀdā́ˀteiと関連)が語源とされ、ゴール語Katouualos、古ウェールズ語Catgual、古アイルランド語Cathalの名前とも対応する。

もしくはCathalaunia < Gothalaniaは、ゴート人(Gotha)はゴート語𐌲𐌿𐍄𐌰 / guta < ゲルマン祖語*gutô < 「神」*gudą < 印欧祖語*ǵʰu-tós < 「注ぐ」*ǵʰew-が語源でギート人の古英語Gēatや古ノルド語Gautr < ゲルマン祖語*gautazやジュート人の古英語Ēotasや古ノルド語Jótar < ゲルマン祖語*eutazとも対応して、サンスクリットहुत / hutá < インド=イラン祖語*ȷ́ʰutásや古典ギリシア語χυτός / khutós < ヘレニック祖語*kʰutósと関連する。土地(Lania)はゴート語𐌻𐌰𐌽𐌳 / land < ゲルマン祖語*landą < 印欧祖語*londʰ-om < *lendʰ-が語源で古アイルランド語land, lannやケルト祖語*landāや古スラヴ語「荒地」лѧдина / lędinaや古プロシア語「谷」lindan < バルト=スラヴ祖語*landąと関連する。

Barcelonaはイベリア人ライエタニ族(Laietani < Lacetani < Laiesken < Laie < 印欧祖語「注ぐ」*lēiが語源でラテン語「アマ」linum < イタリック祖語*līnom、ラトビア語「多い」liels < バルト=スラヴ祖語*leilas、アルバニア語「滝」lëvar < アルバニア祖語*lā(i)werja、「小雨」lesjan < アルバニア祖語*lē(i)tjaと関連)が居住した(ラテン語Barkino < 古典ギリシア語 Βαρκινών / Barkinṓn < Barkeno)。

ギリシア人も植民都市(Καλλίπολις / Kallípolis < 「美しい」καλός / kalós < 印欧祖語*kal-wo-s < 「良い」*kal- + 「町」πόλις / pólis < ヘレニック祖語*ptólis < 印欧祖語*tpólH-i-s < 「城塞」*tpelH-が語源でサンスクリットपूर् / pū́r < インド=イラン祖語*pŕ̥Hやリトアニア語pilìs < バルト=スラヴ祖語*pilisと関連)を築いた。紀元前218年にハンニバル(𐤇𐤍𐤁𐤏𐤋𐤟𐤁𐤓𐤒 / Ḥannibaʿl Baraq > Hannibal Barca, -247--181)の父ハミルカル(𐤇𐤌𐤋𐤒𐤓𐤕 𐤁𐤓𐤒 / Ḥomilqart Baraq > Hamilcar Barca, -275--228) が築いたともされる。フェニキア語「栄光」𐤁𐤓𐤒 / barqa < セム祖語「輝き」*baraḳ-が語源でアッカド語𒉏𒄈 / birqum、ウガリット語𐎁𐎗𐎖 / brq、ヘブライ語בָּרָק / bārāq、アラム語𐡁𐡓𐡒𐡀 / barqā、シリア語ܒܪܩܐ / barqā、アラビア語بَرْق / barqに関連して、フェニキア人名はラテン語Barcasと書かれた。

紀元前133年にローマ人が植民都市(Barcino, Barcelo, Barceno)を築き、 紀元前15年に都城(castrum)と広場(forum)を移して、303年にエウラリア(Eulalia, c.290-303)、304年にククファス(Cucuphas, 269-304)が殉教した。347年に司教(Praetextatus)が就任、414年に西ゴート王アタウルフ(Ataulf, c.370-415)が支配して、後期ラテン語(Barchinona)で記録された。

713年にウマイヤ朝(ٱلْخِلَافَة ٱلْأُمَوِيَّة‎ / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn)が攻略、717年に宰相アル=タクァフィ(الحر بن عبد الرحمن الثقفي‎ / Al-Ḥurr ibn ʿAbd al-Raḥmān al-Thaqafi)が支配して、アラビア語(بَرْشَلُونة / baršalūna)で記録された。

801年にフランク王カール大帝(Charlemagne, 748-814)が遠征して、ルートヴィヒ1世(Ludwig I, 778-840)はスペイン辺境領(Marca Hispanica)を設置して、897年にギフレー1世(Guifré el Pilós, c.840-897)がバルセロナ伯領(Comitatus Barcinonensis / Comtat de Barcelona)として独立して、906年に公会議が開催され、947年にカタルーニャ君主国(Principat de Catalunya)が成立した。

986年に後ウマイヤ朝(الخلافة الأموية في الأندلس / ad-Dawla al-ʾUmawīyyūn fī al-ʾAndalus)の宰相アルマンソル(المنصور بن أبي عامر / Almanzor, 939-1002)が侵攻した。1058年に大聖堂がロマネスク様式で建築され、1137年にアラゴン王ラミロ2世(Remiro II, 1086-1157)の娘ペトロニラ(Peironela d'Aragón, 1136-1173)とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世(Ramon Berenguer IV, 1113-1162)が結婚して、アラゴン連合王国(Corona d'Aragón / Corona d'Aragó)をなした。

1258年に海上領事館(Consolat de mar)が設立され、1298年にアラゴン王ハイメ2世(Jaime II, 1267-1327)がゴシック様式で大聖堂を建築した。1359年にカスティーリャ=ポルトガル連合軍と戦い(Batalla naval de Barcelona)、カタルーニャ=アラゴン連合軍が勝利した。

1430年に大学(Universitas Barcinonensis > Universitat de Barcelona)が設置された。1469年にアラゴン王フェルナンド2世(Fernando II, 1452-1516)とカスティーリャ王イサベル1世(Isabel I, 1451-1504)が結婚して、カスティーリャ=アラゴン連合王国をなして、スペイン帝国(Reino de España)の母体となった。1473年に印刷所が設置されて、カタルーニャ文化の中心として栄えた。

中世からイスラム文化と接触して、サヴァソルダ(Savasorda, 1070-1136)やプラト(Plato Tiburtinus, c.1100-1150)など哲学者が活躍して、近代にはフランス文化と接触して、フェルナンド・ソル(Fernando Sor , 1778-1839)、アルベニス(Isaac Albéniz, 1860-1909)、グラナドス(Enrique Granados, 1867-1916)、マラッツ(Joaquim Malats, 1872-1912)、リョベート(Miguel Llobet, 1878-1938)、スペルヴィア(Conchita Supervía, 1895-1936)など音楽家を輩出した。

2008年6月23日(月)75日目(Barcelona-Colònia Güell-Barcelona: Alberg Mare de Déu de Montserrat)

郊外のColònia GüellでCripta de la Colònia Güellなど面白い建物を沢山見た。中世の城や家とGaudiの作品が調和して面白い街並みだった。昨日と同じレストランで昼食を食べて快適に過ごして、大聖堂周辺を散策して、公文書館やローマ時代の遺構を訪れ、港(Port Olímpic)で地中海に別れを告げた。

今日は午前7時半に起き、昨日の経験から食事を早めに取るため、午前8時からブラジル人Elnerとアメリカ人Gregorと食べた。Elnerは早く出て先に行き、出際にあなたのスペイン語は美しいとほめてくれた。英語以外の言語で話せたのが嬉しかったらしく、最高の友達だと言って興奮していた。彼は朝早くの電車でLisboaに戻るそうだ。それからGregorと沢山の話を英語とフランス語の二か国語でした。髭を伸ばしていて、20代中盤だと思ったが10代後半だったので、思った以上に年が若くて驚いた。

日本と欧米の習慣の違いなど様々なことで盛り上がり、午前9時半頃まで食堂で話しこんでしまい、他は誰もいなくなった。氏名から分かるようにドイツ系アメリカ人でBerlinで生まれ、アメリカに8歳の時に移り住み、ドイツ語とフランス語と英語を自由に話せた。大学はアメリカよりも、ドイツに行きたいと話していた。彼の両親も祖母たちも物理学者の家系だが、彼は歴史学に興味があり、その方面の話をした。帰り際にメールアドレスの交換をして、ホステルの玄関で記念撮影をして別れた。今日の電車でBerlinに戻ると話していたので、長旅になりそうだから気を付けてと握手をして別れた。

午前10時少し前に宿を出て、今日は最寄り駅(Vallcarca)から、中心の駅(Plaça d'Espanya)まで出た。ホームではアメリカ人と日本人を多く見かけた。Barcelonaではアメリカ人や日本人にどこかしこで会い、国によって旅行のされ方の違いがあり、都市によって、スペイン人、フランス人、イタリア人、ドイツ人、アメリカ人、イギリス人など違いがあると思った。これだけ沢山のスペインとポルトガルの都市を歩いてきたことを実感した。鉄道駅(Espanya)で郊外鉄道に乗り、郊外の駅(Colònia Güell)まで行った。5分ほど都市から出ると、直ぐに田舎の風景となり、20分ほどで小さな町に着いた。駅前は何もなく、看板が一つあるだけで、それに従って、坂(Camí Torre Salvana)を上がると、小さなお城が見えてきて、ロータリーがあり、小さな十字架(Creu de la Missió)があった。

そこから通り(Carrer Reixach)を少し進むと、ガウディ建築らしいごつごつした形の教会があり、券売所で4€でチケットを購入して、ガウディの展示を見て、地下聖堂(Cripta de la Colònia Güell)まで戻ると、外観も曲線を多用した新鮮な構造で面白かった。蜘蛛が這っているような姿だった。グエル公園(Parc Güell)と同じような洞窟らしき構造を持ち、空間に広さを与え、内装も縄の模様を絡み合わせて、空間を作り上げていた。祭壇もLourdesのMassapierの洞窟のような中に聖母を中心とした聖家族が美しく配置されていた。ステンドグラスから優しく日差しが入っていた。ガウディは箱モノという感覚では考えておらず、空間を空間として、立体的に内部空間を作り上げ、外部空間と周辺の調和を計算して設計されていて、構造計算に終始していないのが分かったが少しごてごてしていた。

教会の周りを見れたり、教会の屋上にも上がれた。公園の中に教会が佇んでいて、森の中を歩いて、家(Casa Parroquial / Santa Coloma de Cervelló)を見てから、通り(Carrer Bosc d'en Joaquim Folguera)をつきるとロータリーから通り(Camí Torre Salvana)を進み、川に沿って道があるように地図にはあるが、実際には別々の道だった。駅前まで来た道を戻り、通り(Avinguda Ferran Alsina)に面した家(Recinte Industrial)の端を通り、16世紀に建てられた古い塔(Can Soler de la Torre)がある教会(Capella de la Mare de Déu dels Dolors)の横を通った。

枯れ草だらけの広場(Plaça de la Masia)を通り、通り(Camí de Can Ros)に入るとき、卵型の先端に煉瓦色の貯水塔(Torre de les Aigües / Dipòsit Aigua)が見えた。色は異なるけれども、FigueresやPortlligatにあったダリ(Salvador Dalí, 1904-1989)の卵型構造の建物を思い出した。

通り(Carrer Monturiol, Carrer Malvehy)に面して二つの面白い家(Ca l'Espinal, Casa del Metge)が並んでいて、学校(Escola de la Colònia Güell)と主人の家(Casa del Mestre de la Colònia Güell)は工事中で垂れ幕がかかっていたが、100年近く経った今でも実際に学校として機能していた。

通り(Carrer Barrau)を歩き、広場(Plaza Joan Güell)に面した図書館(Ateneu Unió)と劇場(Teatro Fontova)や出資者グエル(Eusebi Güell i Bacigalupi, 1846-1918)の像(Monument a Eusebi Güell)を見てから、通り(Carrer Aranyó)を歩いて、素敵な図書館(Biblioteca Joaquim Folguera / Centre Sant Lluís)を通り、通り(Carrer Claudi Güell)に入る所にある古い修道院跡(Antic Convent de les Monges)で秘書の家(Casa del Secretari)の面白いバルコニー建築を見て、工場の人と少し会話をして、広場(Plaça Josep Anselm Clavé)でロマネスク様式の教会を模したような砂岩の家(Ca l'Ordal)の周りをぐるりと歩いて、素材を生かした煉瓦造りの建物も楽しんだ。

通り(Carrer Claudi Güell)のチケットセンターの建物(Cellers i Magatzems de la Cooperativa)に行き、通り(Carrer Mossèn Frederic Martí)を歩いて、立派な建物(Cooperativa de Consum)を通り、地下聖堂(Cripta de la Colònia Güell)に戻り、来た道を通り、駅に戻った。

先に見えたお城は、992年にラモン・ボレル(Ramón Borrell, 972-1017)に売りに出した記録があり、1224年にカタルーニャの動乱で破壊されたが、1297年にハイメ2世(Jaime II, 1267-1327)が購入して、1390年にBarcelonaに売却されたお城(Castillo Torre Salvana)で由緒ある建物だった。

駅は着いた時と同じく、殆んど人がいなくて閑散としていた。急行電車が通過して、各駅電車が直ぐに来た。Barcelonaの中心の駅(Estació de tren - Espanya)に15分で戻れた。赤い線から緑の線に乗り換え、駅(Estació de metro - Plaça de Catalunya)で赤い線に乗り、来た駅(Plaça d'Espanya)に戻り、また駅(Estació de metro - Plaça de Catalunya)に戻り、地下鉄を楽しんでから、広場(Plaça de Catalunya)に出た。美しいアングルを見つけて、街を楽しみながら歩いた。

大通り(Carrer de Fontanella)から、広場(Plaça d'Urquinaona)に出て、大通り(Ronda de Sant Pere)を進み、1888年に建てられたバルセロナ包囲戦(1714年)のカタルーニャ総司令官(Rafael Casanova i Comes, c. 1660-1743)の記念碑(Monument a Rafael Casanova)を見た。近くの通り(Ronda de Sant Pere)には中国人の商店が立ち並んでいて、漢字の看板がいくつも見えた。

通り(Carrer de Méndez Núñez, Carrer de Trafalgar)を進み、小道(Carrer de Lluís el Piadós)に面した945年に創建され、1143年にロマネスク様式で建てられた歴史ある修道院(Sant Pere de les Puel·les)を通り、広場(Plaça de Sant Pere)から生活感のある商店街(Carrer de Sant Pere Més Alt, Carrer d'En Mònec, Carrer de Sant Pere Més Baix, Carrer del General Álvarez de Castro)を歩き、大通り(Avinguda de Francesc Cambó)に出て、市場(Mercat de Santa Caterina)に面した昨日にも来たレストラン (Restaurant Fresc Co)に入ると、昨日も食べておしゃべりしたことを覚えてくれていて、店員さんが飲み物をお代わりをすると親切にしてくれてウィンクしてくれた。

昨日にも親切にして下さった店員さんとスペイン語で楽しくおしゃべりをしながら食べれて面白かった。2時間ほどレストランでゆっくりして、今日はパスタをチーズのソースと食べたら美味しかった。店員さんは働き者で、至る所をせっせと掃除していて、店内はどこも清潔に保たれていた。

食後に広場(Plaça d'Antoni Maura)で立派な銀行(Caixa Catalunya)の建物を通り過ぎて、大聖堂(Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)の周辺を散策した。裏手の小さな広場(Plaça de Sant lu)には、沢山の芸術家がいて、ヴァイオリニストの演奏を聞いたりして楽しんだ。昨日と同じ顔触れだった。大聖堂周りの路地(Carrer de la Pietat, Carer del Bisbe)を歩いてゆき、公文書館(Arxiu Històric de la Ciutat de Barcelona / Casa de l'Ardiaca) にムンタネー(Lluís Domènech i Montaner, 1850-1923)が1902年にデザインした可愛らしい亀と燕のレリーフがあった。

展示室には、中世の1400年代のレコンキスタの記録やロマネスク書体の美しい公文書の展示があった。大聖堂近くの広場(Plaça Nova)のローマ時代の城壁(Muralla Romana de Barcelona)の一部に美しい聖マリア様の社が作られていて、València駅と同じような屋根が付いていた。

大聖堂に午後5時になり、無料で入場できるようになり入場した。美しく繊細な中心部に聖歌隊用の椅子があり、オルガンも立派だった。地下納骨堂には聖エウラリア(Sancta Eulalia Barcinonensis > Santa Eulàlia, c.290-303)の棺が置かれていた。祭壇が質素で周りにある小聖堂も美しいが、観光客が多すぎて騒がしくて大声で話していたために祈りの雰囲気ではなかった。中庭を歩いてから外に出て、大聖堂周辺やローマ時代の遺構の異なる歴史の積み重なりを楽しんだ。

大聖堂前から大通り(Via Laietana, Carrer de Jaume I, Carrer de Ferran)を一直線に歩いて、昨日とは逆に広場(Plaça Reial)に北側の小道(Passatge Madoz)から入り、南側の小道(Carrer Nou de Zurbano)から出て、通り(Carrer dels Escudellers)から、大通り(La Rampra)に出た。

通り(Carrer de Santa Mònica)でバスに乗り、海沿いの大きなロータリー(Plaça de les Drassanes)を過ぎてから、大通り(Avinguda del Paral·lel)を過ぎて、中心の大きなロータリー(Plaça d'Espanya)から、更に大通り(Carrer de Tarragona)を北上して、市街の風景を楽しんだ。

Barcelonaが地区により、街並みに大きな違いがあり驚かされた。駅(Barcelona-Sants)の近くの一等地にある広場(Plaça dels Països Catalans)に本格的な日本食の料理店や食料品店もあり、日本人が多い地区に感じた。病院(Hospital Universitari Dexeus)の近くでいきなり爆竹の音がして驚いた。

また、海を見たくなり、港までバスに乗ると、昨日行ったケーブルカー乗り場(Torre Sant Sebastià / Telefèric del Port)の近くの海岸(Platja de Sant Sebastià)より、東側のオリンピック港(Port Olímpic)まで行き、海岸(Platja del Somorrostro)や沢山のボートやヨットが見えた。

地中海の海に最後のお別れを告げて、反対方向のバスで広場(Plaça d'Espanya)まで戻った。48系のバスで大通り(Gran Via de les Corts Catalanes, Passeig de Gràcia)を通り、車窓からガウディ設計の家(Casa Batlló, Casa Milà)を見て、昨日乗った駅近く(Lesseps)を通り、昨日と同じルートで宿の前に午後9時頃に着き、ゆっくりシャワーを浴び、カナダ人Leoと話をしながら、荷物をまとめた。午後11時頃に彼は明日の朝早くの列車で南フランスに発つから、早く寝ると言っていた。

今日は夜に早く満足して寝られると思いきや、また、突然花火が鳴り響き、街の至る所から、打ち上げられていた。花火の質が悪いらしく、上空で上手く開かず、日本製ではありえないことに感じた。スペイン最後の夜空を彩どってくれたが、途中から花火が上がるたびに街中から歓喜の声が上がるのが聞こえてきて、窓の外から聞こえる音が煩すぎて少し迷惑になってきた。花火は何度も上がり、午前0時頃から更に激しくなったが、その辺りから眠りに入ったため、それから先は覚えていなかった。

Barcelonaの大聖堂のオルガン

2008年6月24日(火)76日目(Barcelona-Paris-Tokyo)

朝荷物を完全に整えてから、ユースホステル近くのグエル公園(Parc Güell)を散策した。波打ったベンチの広場、イグアナのモニュメントなど、母と8年前に訪れた場所が懐かしく、前と同じ地点で写真記念撮影をした。飛行機からBarcelonaの街や美しい地中海を見たり、Parisの空港で見たヨーロッパ最後の太陽が日没するとき、美しく長い影を照らし出していて、今日で長旅が終わることを実感して、しみじみとした気持ちになった。滑走路の誘導灯が漆黒の中に浮かび上がり、芸術的でヨーロッパを発つ感慨を照らしてるようだった。長旅をすると何もかも日常が新鮮に目に移ることを実感した。

今日は午前7時に起きて、最終的に荷物を詰めてから、午前8時の朝食に間に合うよう、出口に近い場所にあるコインロッカーに荷物を預けて鍵をかけた。朝食は美味しいジュースが切れていて残念だった。昨日、大聖堂前のBarでパエリアを食べようとしたけれども、スペインのどこの街でも同じく出されているPaelladorの冷凍食品を解凍して12€で売られていて、同じパエリアがユースホステルでも9€で出されていたため食べなかったことを思い出した。

朝食後、長旅の最終日をゆったりグエル公園(Parc Güell)の散策して旅の終わりの時間を過ごした。宿から直線距離は近いため、丘の直ぐ下に見えるのだが、広場(Plaça de Flandes)から、通り(Passeig de la Mare de Déu del Coll, Baixada de Sant Marià, Carrer de Pau Ferran)をジグザグに進まなければならず、途中で看板を見失い困りながら、犬の散歩をしている若い人に道をたずねたら、今から行くので一緒に行こうとお話を楽しみながら坂を上ると展望台(Mirador de Joan Sales)に出て、Barcelonaの都市全体を丘の上から海の岸まで全て見渡せて良い思い出になった。階段を下りてゆくとガウディ設計らしい小さな家(Casa Trias)があり、グエル公園(Parc Güell)に来た実感がした。

丘を少し下ると有名な波打ったベンチの劇場(Teatre grec)が見えてきて、8年前に来た記憶が蘇り、ベンチに座ると英語で話しかけてきたベルギー人がいて、写真を撮ってあげるとお返しにお撮りしますと、父と一緒に波のようにうねったカラフルなベンチに座ると記念撮影をしてもらえた。

裏側から丘を下りながら入ってきたが、本来は正面から丘を上がるとたどり着く門番の家(Casa del Guarda)の塔や直ぐ下には、イグアナ(El Drac)のモニュメントが階段(Escalinata monumental)にあり、8年前に写真を撮ったのを思い出して、朝早くだったので人がおらず、ゆったりと8年前と同じアングルで撮り、近くの二つの建物の外観を楽しんみながらゆっくりとのんびりとした。

広場に至る歩道の間、劇場(Teatre grec)の真下の柱が並んでいる所(Pòrtic de la Bugadera)から見上げると、タコ壷のモザイクがあり、ガウディが自然を愛して積極的に取り入れたことが分かった。

そこから、少し上がった所に褐色の岩で作られたアーチ状の回廊の中を通り、8年前に撮影をした入口の階段でまた記念撮影をした。人の形をした柱もあり、髑髏の形に見える柱もあり、見方により様々でDalíの絵画を思い出した。回廊の前にはギターを弾く人がおり、タレガ(Francisco Tárrega, 1852-1909)やフェルナンド・ソル(Fernando Sor, 1778-1839)の作品を演奏していた。

一つ上の回廊では、先ほどのベルギー人と会い、彼もフランス語、オランダ語、英語、ドイツ語など、五カ国語を話すことができ、英語もかなり流暢だった。周りの道を散策して、様々な角度から、グエル公園(Parc Güell)を楽しんだ。園内には学校(Escola Baldiri Reixac)の建物があり、今でも現役で使われていた。観光客が少しずつ増えてきて、日本人の団体もちらほら見え始めて、物売りの露店も増えた。腹話術をする人が、途中で猫や鳥の鳴き声を出していた。周りには面白い独特の家(Casa del Guarda)など、歴史的建造物が並んでいて、有名ではない所も含めて面白かった。

園内をくまなく散策して、何回も様々な場所を見てから、グエル公園(Parc Güell)に別れを告げ、展望台の裏口から戻ると、28系統のバスの停留所を見つけた。来た道を戻り、宿に帰れた。

宿の前庭のベンチで寝ている人がいて、一緒にベンチで寝たり、日記を書いたり、出発の時間まで荷物を枕にして、ゆっくりと寛いだ。ベンチで少しお昼寝をしてから、午後1時半近くに空港に向かい、従業員さんと別れの挨拶をした。地下鉄の最寄り駅から乗り換え駅(Barcelona-Sants)まで行くと、巡礼用の杖と背中の帆立て貝を不思議そうに見ていた人がいた。切符を券売機で求め、ホームの場所をきいて、階段を降りて電車を待った。沢山の旅行者がいて、特にアメリカ人が多かった。

午後2時25分に電車に乗り、15分ほど乾燥して砂埃が経つ中を走り抜けて、Barcelonaも少し中心から走ると、直ぐ何もない土地が続き、未だ開発中で工事中の場所が街の至る所にあるように感じた。空港行きの電車は、国際的な雰囲気で何か国語でも車内放送があった。

空港(Aeroport Josep Tarradellas Barcelona-El Prat)に着いて、ターミナルに向かい、Air Franceのフロントで発券しようとしたら、機械が使えないために係員に助けてもらうと、午後6時半の飛行機のため、午後4時からしかチェックインできないことが分かった。

空港にはセキュリティ上の理由からか、ベンチもないため、ターミナルの手すりのパイプの上に座って、日記を書いて、発券の手続きができるようになるまで待った。

手続ができる時間に受付に行くと、係員はSantiago de Compostelaの巡礼路を知っていて、杖を手に持つと預かってくれて、この杖には思い出が詰まっていますねと言ってくれた。荷物も預けて手提げ一つで身軽になり、エスカレータで上の階のコントロールに向かい、手荷物の検査を済ませた。

搭乗機を待つ部屋はかなり警備が厳しくて、金属製品をどんなに小さくても箱の中に出さなければならず、少しでも持っていると鳴ってしまうため、前の人が1€のコインまで出していた。Parisの教会でもらったメダイを手品のよう一つずつ出していくと係の人がにこりと笑い、笑顔が増えていった。

前の人が通るとズボンのバンドの金属でも鳴って、再チェックされていた。搭乗ゲートの中には電話コーナーがあり、電話をするふりをして写真を撮っていると、辺りに座っていたフランス人が大笑いでして、近づいてきて話しかけてきて、写真を撮ってくれて、少し会話を楽しんだ。

飛行機の搭乗時間を待つ間、明日、帰宅したら天ぷらとそばを用意して欲しいと父に頼み、母にメールでリクエストした。ヨーロッパでは、一回だけCuencaで夕食に中華料理店で食べただけだったので、日本の麵類が恋しくなった。41番ゲートだが、飛行機が遅れていて、搭乗口が46番に変わり、搭乗の時間に近づくとFrankfurt行きに変わり、また、正しい搭乗口を探すと直ぐ下の階に変わっていた。飛行機の到着が30分遅れたせいで、空港のロビーから離れてバスで行く所になり、フランス人とスペイン人がどんどん集まってきて、二つの異なる言葉が耳に入ってきた。自転車のスポークのような構造を持つ、Barcelonaの管制塔には、日本の箱モノと異なり、デザイン性や遊び心を感じた。

Barcelonaのグエル公園(Parc Güell)の劇場(Teatre grec)

Lourdes行きの飛行機よりも、一回り大きい飛行機で登場出来る人数は少なかった。スペインからフランスとはいえ、EU圏内での移動で距離からしても、国内旅行のようにも感じられた。Parisに向かう飛行機のため、機内アナウンスはフランス語でなされるが、英語やスペイン語も、フランス語のなまりがかなり強くて聴きにくかった。飛行機は人数確認を手動でして、直ぐに飛び立つとき、イベリア半島とお別れをした。巡礼を始めてから、長く滞在していたため、色んな思い出が蘇ってきた。

海に向けて、南東に飛び発ち、左側の席でBarcelonaの市街の中心を良く見ることができた。再び北東に向け進むため、市街地の上を通り、大聖堂(Catedral de la Santa Creu i Santa Eulàlia)や聖家族贖罪教会(Temple Expiatori de la Sagrada Família)の建設現場のクレーンもはるか下に箱庭のように小さく見えて、地中海に反射した光が、目に入りきらきらして美しかった。

飛行機は高度を上げ、雲の中に入り、Barcelonaとお別れをすると、雲に迫るような山々が見えだして、Pyrénées山脈を通ると、雲の下にあるであろう、RipollやGironaを思いながら飛んだ。しばらくして、飲み物サービスがあり、丁寧なフランス語で飲み物やお菓子を頼むとにこりとして、ナプキンのお菓子の下に更にひいてくれ、手を添えて丁重な尊敬語で話しかけられ、何なりとお申し付け下さいと言って下さった。最初は日本人や東洋人らしき人には、英語で話しかけてきてくれるが、スペイン語やフランス語を話すと喜んでくれて、それからは全てフランス語で話しかけられた。

飛行機は直ぐに段々と高度を落としてゆき、Paris郊外の畑が見えて、20分もしないうちに空港(Aeroport de París-Charles de Gaulle)に着陸した。飛行機から滑走路にタラップを降りるとバスが待っていた。機内には金を払っているから、サービスを受けて当然だろという態度で乗務員さんがサービスする前に勝手にカートンに手を伸ばして、我先にと飲み物に手を出したり、乗務員さんが他の人にサービスしているとき、順番を待てずに片言の英語で要求したり、乗務員さんが手渡しをするとひったくるように取り、お礼の一つも言わないマナー違反の見本のような数人の乗客がいて、フランス人の乗務員さんは、特に頭にきていそうなのが分かったが、仕事上ひきつった笑顔で優しく話していた。Parisの空港に到着してから態度の悪い人たちから離れるようにして、バスに乗り込んだ。

空港に着いてトランジットのゲートを出ると、EUからの出国審査があった。今度は国際線扱いになるため、手荷物検査はかなり厳重にされて、靴までX線や金属探知機にかけられたり、航空券を何度もチェックされたり、再度、手荷物の金属探知をされたりしたが、何も持っていないため、直ぐにパスしてコントロールされた区域の中に入ると、免税品コーナーの大きい商店街があり、店の中には殆んどアジア系の人しかおらず、同一性権威にすがる悪癖を目の当たりにして苦笑しながら、通り過ぎて、ファンがよく利いた快適な席で日記を書きながら、午後11時半の搭乗時間まで待った。

Parisの空港を発つ前にXavierに近づいたと思い、電話しようと思ったが、もう夜遅くなので止めた。彼はSeine川河畔の三方を川に囲まれた7区に住んで居ると聞いたことを思い出した。しばらくすると、ヨーロッパ、最後の日の入りを雲の切れ目から、雲の中に入るように見ることができた。

日没直前の太陽はゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)の絵の中のよう、大きく優しい橙色で美しかった。日没は午後9時40分丁度で、直後に黒い雲が来て、激しい雨が降り出し、ガラス張りの建物のため、上が滝のように降り、激しい天気の変わり方に驚いた。段々と空も暗くなり、夜が深まった。

日本人がゲートの周辺に集まり始めて、日本語が聞こえてきた。三か月近く、父と話す以外に日本語から離れていたため、新鮮な言語に聞こえた。直ぐ下の階では、午後11時近くに工事を続けていて、グラインダーでものすごい音を出しながら壁を削る人がいて驚いた。私たちが乗ることになる飛行機への搭乗が始まり、後ろの方の席に座り、荷物を積み込む場所の上で積んでいる様子が見えた。

国際線で人数が多いため、飛行機の中で過ごすのは窮屈なため、最後の方に搭乗した。出発までに確認などに時間がかかりながらも、飛行機が滑走路に入ると待たされることなく、離陸まではとても早かった。先程よりも機体が大きく重いため、長距離を滑走して、飛行機は滑走路を離れた。滑走路の誘導灯が漆黒の中に浮かび上がり芸術的であり、思い出が詰まったヨーロッパを発つときの感慨を照らしてるようだった。窓の外の町明かりを味わえるのは、夜の離陸の楽しみと毎回のように感じた。

Parisの街に張り巡らされた道が美しくライトアップされて、車が通りを走る姿が見えて、特にヨーロッパではロータリから通りが伸びていて、クリスマスの時期のイルミネーションみたいで街全体が美しく見えた。直に機内食サービスがあり、客室乗務員とフランス語でやり取りして頼むと、隣のフランス人がフランス語を話せることが分かって嬉しくなったようで話しかけてきて盛り上がった。

機内食が配られ始めて、日本食の匂いが立ち込めてきて、三か月間、日本食を何も食べていなかったため待ち遠しく、直ぐに平らげてしまった。窓の外を見てみたらStockholmも上空を飛んでいて、美しい街灯に照らし出されて、一つの場所を中心に広がる大聖堂(Storkyrkan)の位置を感じながら楽しんだ。進行方向が少しずつ明るくなり、太陽を追いかけて、飛んでいることを感じた。段々と明るくなり、乗務員さんから日差しが強くなりましたので窓を閉めて頂けますと嬉しいですと言われた。

機内を歩いてゆき、飲み物をもらい、最後尾で日記を最後まで書いていた。乗務員さんとフランス語で会話を楽しんでいたとき、トイレと逆側のドアから上に登り、寝床に通じる秘密のドアがあり、客席の上に搭乗員専用の寝室があることを知った。フランス人の乗務員さんがちょっとだけ見せてあげるよとハッチを開けて中をのぞかせてくれた。いくつかの寝床があり、乗務員さんが寝ていた。

窓側の席のため、出るたびに隣に座るフランス人に断る必要があり、余りに激しく出入りするのも悪いため、最後尾で飲み物を飲んで乗務員さんとおしゃべりをしながら過ごした。途中で午前2時頃から2時間ほど席で寝た。また、飛行機の中で今までの旅で体験してきた思い出を新鮮な内に思い出せるだけ書き出しておこうと旅の要約をした(それらはそれぞれ日誌の最初の段落に配置した)。

飛行機の後ろでカップ麺をもらえたが、日本の工場ではなく、ヨーロッパの工場で製造されたもののようでエビが小さくて、具も少なくて、スープの味が薄くて、美味しくなかった。ヨーロッパでは、日本食に出会うことなく、中華のレストランは多く見かけたが、日本の蕎麦屋、ラーメン屋、回転寿司はほぼなくて、Málaga, Madrid, Barcelona, Lisboaなど大都会で少し見かけただけだった。ヨーロッパでは、食べ物の品質が悪い上、不味い食事が多すぎたから、日本の蕎麦屋・素麺・饂飩・寿司・牛丼・ラーメン・カレーなどをチェーン展開すれば当たるだろうと感じていた。

成田空港に近づくと厚い雲に閉ざされていて、雲の合間に入るとき、慎重な操縦をして、雲の中に入る瞬間、太陽が白くなり、月のように見えて美しかった。すると、眼下には整然とした水田や街並みやゴルフ場などが見えた。直ぐに着陸態勢に入り、着陸するとAir Franceなのに直ぐに何故かジョン・レノンの曲がかかり拍子抜けして苦笑した。空港に着いて、飛行機を降りると直ぐの通路に名前が書かれたプラカードを持った職員に呼びとめられて、何かと思ったら、一つ荷物が届かず、Barcelonaの空港で飛行機に乗せるのを忘れられてしまい、明日の朝と届くとのことだった。それは巡礼の杖だった。もう巡礼は終わりましたので持って帰らずに済みますから助かりましたと冗談を言うと、そう仰っていただければ、こちらも助かりますと返されたので、日本人らしい対応に感じた。

三か月も外国人とだけ接していると、日本人の何もかもが新鮮に映り、日本人のサービスが気持ち悪いくらい良すぎるように感じた。空港の荷物が流れて出てくる場所でも、Air Franceのホワイトボードに名前が書かれたプレートが大きい荷物ケースに取り付けられて流れてきて笑ってしまった。関係者の伝達は早くて、係りの人が対応してくれて良かった。スペインなら、自分から荷物を持たなければ、手配してくれないため、日本はきめの細やかな素晴らしいサービスをして頂けると思った。

父と私の二つのリュックが出てきて、杖だけは忘れられてしまい、明日の朝に着くのを待つことにした。成田に到着するとお決まりの入国審査や税関検査をフリーパスのようにすらすらと通過して、バスを手配して、午後7時15分に成田を発ち、高速道路はとても空いていて、レインボーブリッジや東京タワーが見えてきて、渋谷辺りではDalíの顔のような看板がビルの屋上にあった。バスは直ぐに近くの駅に着き、電車に乗り、駅の構内で日本に無事に帰ってきた安心感と、なんとなく長く旅をしたスペインやフランスを離れる寂しさが入り混じる複雑な心境になり、長旅が終わる実感が湧いてきた。

巡礼路で会った仲間たちは、観光を済ませてから、巡礼をする人が多かったため、巡礼が終わると達成感が出て疲れ果て、直ぐに母国に帰る人が多かったから、同じ頃に歩いた人の中でも、私たちが一番家に帰るのが遅い組だろうねと父と話していた。母が天麩羅蕎麦を用意してくれているそうで楽しみにしながら、家に午後9時半に無事に着いた。家に戻ると母が無事に帰ってこれて良かったと喜んで優しく迎えてくれて、二ヵ月半、70日以上、巡礼中に数回の電話をしただけで直に話していなかったので新鮮に感じた。長旅をすると日常が非日常に感じられて、日常の何もかもが新鮮に目に映り、旅行をすることは、日常を離れた所から、客観的に見直すことになると強く実感した。

Barcelonaの展望台(Mirador de Joan Sales)から市街や地中海を臨む

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• Josep Fontana; Ramón Villares (2007-16). Historia de España, Barcelona: Editorial Crítica.
• Ibn ʿAbdūn al-Ishbīlī; Fāṭima al-Idrīsī; Muṣṭafā aṣ-Ṣamadī (2009). Risālah fī al-qaḍāʼ wa-al-ḥisbah رسالة في القضاء والحسبة, Bayrūt: Dār Ibn Ḥazm lil-Ṭibāʻah wa-al-Nashr wa-al-Tawzīʻ دار ابن حزم للطباعة والنشر والتوزيع.
• ʿAbd Allāh ibn Muḥammad Ibn al-Faraḍī; Rawḥīyah ʻAbd al-Raḥmān Suwayfī (2011). Tārīkh ʻulamā' al-Andalus تاريخ علماء الاندلس, Bayrūt: Dār al-kutub al-ʻilmīyah دار الكتب العلمية.
• Kenneth Baxter Wolf (2011). Conquerors and chroniclers of early medieval Spain, Liverpool: Liverpool University Press.
• David James (2012). A History of Early al-Andalus: The Akhbār majmūʿa. A Study of the Unique Arabic Manuscript in the Bibliothèque Nationale de France, Paris, with a Translation, Notes and Comments, New York: Routledge.
• Luis Silgo Gauche (2013). Estudio de Toponimia Ibérica. la Toponimia de Las Fuentes Clásicas, Monedas E Inscripciones. Editorial Visión Libros.

オド・ド・クリュニー(Odo de Cluny, Cluniacensis, 878-942)に帰せられる《音楽提要(Musica enchiriadis)》の平行オルガヌム〈天の王、海の主(Rex caeli, Domine maris)〉(895年・V-CVbav MS Pal. lat. 1342, 118rD-Msb Clm 14372, 7r

ヨハンネス・コット(Johannes Cotto, Johannes Afflighemensis, 1053-1121)に帰せられる《オルガヌム作法(Ad organum faciendum)》の自由オルガヌム〈アレルヤ、[正しき者は]シュロ[のように伸びる](Alleluia. Justus ut palma)〉(1100年頃・I-Ma MS M.17. Sup., 48v)
Hans Heinrich Eggebrecht; Frieder Zaminer (1970). Ad organum faciendum, Mainz: Schott.

アキテーヌ様式(サンマルシャル楽派)のメリスマ・オルガヌム〈喜ぼう、祝おう(Jubilemus, exsultemus)〉(1125年頃・F-Pnm Latin 1139, 41r

F-Pnm Latin 1139, 41r

アルベルトゥス(Albertus Stampensis, 1116-1177)の三声コンドゥクトゥス《喜ぼう、カトリック教徒よ(Congaudeant catholici)》(1137年・E-SC s.s. (Codex Calixtinus), 214r)

E-SC s.s. [Codex Calixtinus], 214r

《オルガヌム技法(Ars organi)》(1170年頃・V-CVbav MS Ottob. lat. 3025・Der vatikanische Organum-Traktat)の序文(Incipit)
Organum est cantus subsequens precedentem, quia cantor debet precedere organizator uero sequi, et cantor debet primitus finire. Quia nihil ualet organum per se nisi aliquis cantus sit cum organo.

二声オルガヌム〈ペトロよ、私を愛しているか(Petre, amas me)〉(1170年頃・V-CVbav MS Ottob. lat. 3025, 50r-50v、F-Pnm Latin 12584, 306rI-Fl MS Pluteus 29.1, 74v-75r

F-Pnm Latin 12584, 306r
I-Fl MS Pluteus 29.1, 74r-75v

レオニヌス(Leoninus, c.1150-1201)の二声オルガヌム〈地上のすべての国々は(Viderunt omnes)〉(1180年頃・D-W Cod. Guelf. 628 Helmst., 21r-21vI-Fl MS Pluteus 29.1, 99r-99v

I-Fl MS Pluteus 29.1, 99r

ペロティヌス(Perotinus, c.1160-c.1225)の三声オルガヌム〈アレルヤ、栄光なる御誕生(Alleluia. Nativitas gloriosae)〉(1200年頃・D-W Cod. Guelf. 1099 Helmst., 16r-17v、F-MO H 196, 9r-12v)

D-W Cod. Guelf. 1099 Helmst., 16r-16v
F-MO H 196, 9r-9v

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