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貞觀政要

《貞観政要》〈上貞觀政要表〉(藤原南家本,宮内庁書陵部蔵,巻子装・薄手雲母引斐紙,1277年)

臣兢言、臣愚比嘗見朝野士庶、有論及國家政敎者、咸云、若陛下之聖明、克遵太宗之故事、則不假遠求上古之術、必致太平之業。故知天下蒼生、所望於陛下者、誠亦厚矣。易曰、聖人感人心、而天下和平。今聖德所感、可謂深矣。

臣兢言す、臣愚比(このごろ)嘗みに朝野の士庶の國家の政敎に論及する者有るを見るに、咸な云ふ、若し陛下の聖明を以て、克く太宗の故事に遵はば、則ち遠く上古の術を求むるを假らずして、必す太平の業を致さんと。故に天下の蒼生の陛下に望む所の者は、誠に亦た厚きを知る。易に曰く、聖人は人心を感ぜしめて、而して天下和平なりと。今、聖德の感ぜしむる所は、深しと謂ふ可きなり。

いつもありがとうございます。《貞観政要》は君子の政治の古典とされて読み継がれてきました。呉兢(670-749)が太宗皇帝(598-649)と廷臣の問答を編纂して、中国史上、最も平和に繁栄した二十年余の「貞観の治」を実録して、中宗皇帝に初進本(709年頃)、玄宗皇帝に再進本(720年頃)が献上されました。

元の至順四年(1333年・鎌倉幕府が滅亡した年)の戈直本は欧陽脩や司馬光の評釈を伴い、明の成化元年(1465年)に刊行されました。唐代に日本に伝来して、菅原・大江・清原・藤原南家など博士家が研究して、平安時代に王朝貴族、鎌倉時代に北條執権、室町時代に足利学校、江戸時代に徳川幕府で読まれました。

「貞観の治」(安定した社会)により、唐代の書法は最高になり、完全無欠な楷書が整備され、欧陽詢(557-641)は魏徴(580-643)が四六駢儷体で撰した〈九成宮醴泉銘〉(632年)を書丹して、《群書治要》(631年)を編纂して、長孫無忌(594-659)や令狐徳棻(583-666)らと《隋書》など六朝の史書を編纂しました。

虞世南(558-638)は温雅な書風で品位が高く、漢字の最も美しい姿の一つとなりました〈孔子廟堂碑〉(629年)を書丹しました。《玉篇》(543年)を編纂した陳の顧野王(519-581)に師事して学識が豊かで隋代に《北堂書鈔》や唐代に《帝王略論》を編纂しました。欧陽詢は《芸文類聚》(624年)を編纂しました。

《貞観政要·仁賢》に「太宗嘗て称す、世南に五絶有り。一に曰く徳行。二に曰く忠直。三に曰く博学。四に曰く詞藻。五に曰く書翰。卒するに及び礼部尚書を贈り、諡して文懿と曰ふ。太宗、魏王泰に手勅して曰く、虞世南の我に於けるは猶ほ一体のごときなり。遺を拾ひ闕を補ひ、日として暫くも忘るること無し。実に当代の名臣、人倫の準的なり(太宗嘗稱、世南有五絶。一曰徳行。二曰忠直。三曰博學。四曰詞藻。五曰書翰。及卒贈礼部尚書、謚曰文懿。帝手詔魏王泰曰、虞世南於我猶一體也。拾遺補闕、無日暫忘、蓋當代名臣、人倫準的)」と見えます。

虞世南は忠孝の人で孔子の徳を讃える碑を書丹するに最適な人選でして、書風も温雅ながら、遒勁な筆法で特に戈法や横画に筆力があり骨格が端正であり、外面に力量が現れている欧陽詢の謹厳な書風に増して、強靱さが漲り、格調が高いとされました。太宗皇帝の三女の〈汝南公主墓誌〉(636年)の草稿が伝わります。

太宗皇帝は王羲之(303-361)の書蹟を各地から集め、褚遂良(596-658)が鑑定して、目録(《右軍書目》)や法帖(《十七帖》)を編纂しました。〈蘭亭叙〉(353年)を欧陽詢(定武本)・虞世南(張金界奴本)・褚遂良(黄絹本)らに臨書させ、馮承素(神龍半印本)・趙摸・韓道政・諸葛貞・湯普徹らに搨書させました。

また、房玄齢(578-648)を監修国史として《晋書》を編纂させ、太宗皇帝が自ら王羲之伝の賛を書きました。太宗皇帝が史官として事実を良くも悪くもありのままに記録する褚遂良を褒めたことが《貞観政要·杜讒佞》に記されます。褚遂良は皇帝を悼んで〈哀冊〉(649年)を書き、〈房玄齢碑〉(652年)も書きました。

太宗皇帝は自身も行書で〈晋祠銘〉(646年)や〈温泉銘〉(648年)を書き、後者は敦煌遺書で唐代の拓本が伝えられました。向勢の結構で転折が緩やかでゆったりと鷹揚であり、二過折ぎみの素朴な筆法ででっぷりと沈着してお、帝王の書らしい風格を感じさせます。太宗皇帝は《帝範》(648年)も編纂しました。

太宗皇帝は宮廷に文学館・弘文館・崇賢館を設け、博学者を集め、長孫無忌や令狐徳棻らに命じて、修史(史書編纂)を進めて、孔穎達(574-648)や蓋文達(578-644)らに命じて、四書五経の南北で分かれた解釈を《五経義訓》に纏めて、欧陽詢や虞世南など能書を集めて、貴族の子弟に美しい書法を教えました。

《貞観政要》に記録された言動や行動を通じて、太宗皇帝や廷臣たちの思考様式を分析できますが、官吏の資質となる身言書判(体躯が堂々、言語が明晰、楷書が端正、文章が立派)などは、彼らの価値基準や文化政策に大きく依存しており、特に書と文の技量が重視され、現代にも影響を与えていることが分かります。

太宗皇帝は玄武門の変(626年)で兄から帝位を簒奪したり、晩年の高句麗遠征や後継者問題の失策などもありましたが、魏徴の諫言を受け入れていれば、兄弟で帝位を争う事態に至らず、高句麗遠征もしないで済んだと、後に猛省したほどでして、廷臣の直言を受け入れて、民衆を思う政治に努めましたことは確かです。

《貞観政要》は具体的な言行や問答が記録され、内容も多岐にわたりますが、太宗皇帝の基本姿勢として、権力や地位の有無を議論に持ちこまず、正しいことは正しい、誤りであることは誤りとして、事実を事実として、廷臣と議論を重ね、提案された政策を吟味しながら実行する姿勢で貫かれていることが分かります。

太宗皇帝は自分の感情を政治の判断に持ち込まず、廷臣の諫言を聞き入れて安定した社会や政治をなして、役人の登用に人品や資質を重視して、隋朝末期の混乱の中で敵方の忠臣まで登用して重臣としました。民主主義の最大の欠陥ともされます多数意見の尊重ではなく、正しく時局を見極めた少数意見も尊重しました。

《貞観政要·公平》に「今、賢才を択ぶ所以の者は、蓋し百姓を安んずるを求むるが為なり。人を用ふるには但だ堪ふるや否やを問ふのみ。豈に新故を以て情を異にせんや(今所以擇賢才者、蓋為求安百姓也。用人但問堪否、豈以新故異情)」として、民衆の安寧のための人材の登用に私情を挟むべきではないとされます。

御前会議で多数意見に対して敢然と多数意見に対して正面から対立する筋が通る少数意見を述べた人をその勇気と能力を評価して取り立てた記事が多く見え、長いものに巻かれる安易な風潮を打破するには、社会の要所で事物を別の観点から深く考えられる人間を公平に重用することが近道であることが示されております。

皇帝や廷臣は質素な暮らしぶりで《貞観政要·貪鄙》に「温彦博、尚書右僕射と為り、家貧しくして正寝無し。薨ずるに及びて並室に殯す。太宗、聞きて嗟嘆し、遽に所司に命じて、為めに堂を造らしめ、厚く賻贈を加ふ(温彦博為尚書右僕射、家貧無正寝。及薨殯於並室。太宗聞而嗟嘆、遽命所司、為造堂、厚加賻贈)」と見えます。

欧陽詢は〈温彦博碑〉(637年)を端正な楷書で書きました。房謀杜断とされ、政策を立案した房玄齢と決断した杜如晦(585-630)が遂行して、どんなに小さなことでもある実行をしたら、民衆にどのような影響を与えるかを考察して遂行しました。また、主に魏徴や王珪(570-639)が諫言を上奏していたことが伝わります。

また、太宗皇帝は迷信などを排除して、合理的かつ現実的な判断力を持ちましたことが分かります。また、自身の行動を客観的・論理的に観察していたことが、《貞観政要·君道》に「君の明らかなる所以は、兼聴すればなり。其の暗き所以は、偏信すればなり(君之所以明者兼聴也。其所以暗者偏信也)」という文言から分かります。

《貞観政要·赦令》に「国家の法令は、ただ須く簡約なるべし(國家法令、惟須簡約)」と見え、唐代の律令(法律体系)の特に律(刑法)が優れ、戦国時代の法家から、商鞅変法の秦律などを経て、漢代に木簡に見える令(行政法)が拡充され、六朝に継承され、唐代に社会で起こるぼぼ全てに対応できるほど完全に整備されました。

「貞観の治」は《貞観政要·政体》に「商旅が野次し、復た盗賊無く、囹圄(獄舎)常に空しく、馬牛野に布き、外戸閉じず(商旅野次、無複盜賊、囹圄常空、馬牛布野、外戸不閉)」と見え、家に鍵をかけないほど治安がよく、旅の行く先で衣食住が保証されたことが、《旧唐書·太宗紀》や《資治通鑑·貞観四年條》にも引用されます。

《貞観政要》に現在は書家として知られる廷臣がよく登場して親しみが感じられます。能書には勇猛な将軍や剛直な文官が多く、歴史、政治、文学、書画などに通じておりました。《尚書》の時代から史官が聖人の徳政を後世に伝えるとされ、能書は高潔な人格を示すとされ、宋代には文人にその気風が受け継がれました。

《貞観政要·悔過》に「人と為りては大いに須く学問すべし。朕、往に群凶未だ定まらざるが為、東西に征討し、躬、戎事を親らし、書を読むに暇あらず。比来、四海は安靜にして、身、殿堂に處るも、自ら書巻を執る能わず、人をして読ましめて之を聴く。君臣・父子、政教・仁義の道、並びに書の内に在り(為人大須學問。朕往為群凶未定、東西征討、躬親戎事、不暇讀書。比來四海安靜、身處殿堂、不能自執書卷、使人讀而聽之。君臣父子政教・仁義之道、竝書在内)」と見えます。

《貞観政要》は事物を形成する道理を洞察する過程を示す普遍性があり、貞観初年に太宗皇帝や廷臣が、唐朝を武力で草創して、仁政で守成するという転換をなしまして、歴史を吟味して、廷臣と討論して、強大な国家を安定させて統治できた事実の重みが分かります。長文を失礼いたしました。ありがとうございました。

○ 原田種成:《貞觀政要定本》(東京:無窮會東洋文化研究所,1962年)
○ 原田種成:《貞觀政要の研究》(東京:吉川弘文館,1965年)
○ 原田種成:《貞觀政要語彙索引》(東京:汲古書院,1975年)
○ 原田種成:《貞觀政要(新釋漢文大系95-96)》(東京:明治書院,1979年)
○ 葉光大、袁華忠:《貞觀政要全譯》(貴陽:貴州人民出版社,1995年)
○ 布目潮渢:《「貞觀政要」の政治學》(東京:岩波書店,1997年)
○ 謝保成:《貞觀政要集校》(北京:中華書局,2003年)
○ 吳雲:《太宗全集校注》(天津:天津古籍出版社,2003年)

王羲之書,懷仁集:〈集字聖教序〉(672年)浙江中凱圖書藏本
「大唐三藏聖教序 太宗文皇帝製 弘福寺沙門懷仁集 晉右將軍王義之書」
唐·呉兢撰,元·戈直集《貞観政要》(1333年;明·景成化刊本,1465年)
《貞観政要》(古活字本,1600年)
王羲之:〈蘭亭叙〉(353年)[(伝)欧陽詢臨]定武本
王羲之:〈蘭亭叙〉(353年)[(伝)虞世南臨]天暦本
王羲之:〈蘭亭叙〉(353年)[(伝)褚遂良臨]黄絹本
王羲之:《十七帖》上野本(姜宸英蔵本)は丸みがあり、筆脈が自然ですが、三井本(貫名蔵本)は鋭さがあり、断筆が点折に見られます。
王羲之書,懐仁集:〈集字聖教序〉(672年)三井本(松烟本)
王羲之書,大雅集:〈興福寺断碑〉(721年)
太宗皇帝:〈温泉銘〉(648年)敦煌遺書(Pelliot chinois 4508)
太宗皇帝:〈晋祠銘〉(646年)
太宗皇帝:〈屏風帖〉(640年)戯鴻堂帖「(欠)西域、通使敦煌、獻/(欠)珠、可復求市、而得不、則對/曰、(對)若陛下化洽中國、/德流沙漠、則不求自至、求/而得之、不足為貴也」
題徐仲和臨閻立本畫 :〈唐太宗納諫圖〉271.0×126.8cm
北京故宮南薰殿舊藏 現藏台北故宮博物院
欧陽詢:〈九成宮醴泉銘〉(632年)李祺旧蔵本
欧陽詢:〈温彦博碑〉(637年)

欧陽詢:〈化度寺碑〉(631年)
敦煌遺書(Pelliot chinois 4510)
虞世南:〈孔子廟堂碑〉(629年)李宗澣旧蔵本
虞世南:〈汝南公主墓誌〉(636年)
褚遂良:〈文皇哀冊〉(649年)《戯鴻堂帖》
褚遂良:〈雁塔聖教序〉(653年)
王圻:《三才圖會》〈虞世南〉(1609年)
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孫承恩:《集古像賛》〈褚遂良〉(1536年)

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