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六書の「形声」「会意」や「亦声」、言語と文字の関係から見てまいりました!漢字的獨特性系列 Unique Chinese Characters

漢字のユニークさを探究!新たなシリーズ始まりました!漢字の構造を字形、字義、字音から、漢語の系譜を起源からたどります!字幕もぜひご覧くださいませ!暖かいお言葉かけを下さりましたら、SNSでシェアー下さりましたら、今後の制作の励みになります。KF-Ars Sinica、KF-Scholaと併せて、何卒よろしくお願い申し上げます。

2021年6月25日

(前回の続き)ということで、会意に行ってみたいと思うんですよ。

この会意字とは、結構これは意外と珍しいんですよ!

それでやはり先ず《説文解字》にある例からいきます。

この「武」*maʔ, *m(r)aʔ(< 漢藏*d-mak、チベット語དམག, dmag、ビルマ語မက်, makと関係)ですが、「信」には「?」が「本当か?」という意味で付けてありますね。

これは先ず「武」から見てみたいと思うんですけども、

これは問題ないです!

やはり、この一番はっきり残っているのが、

族徽、シンボルマークのような形で金文に鋳込まれた、

殷時代の金文に残ったものを、これはっきり分かる!

もう武器の形ですよね!

戈ですね!

「戈」に足「止」なんて、もう本当に残っている!

その通り!

それで甲骨文でも、結構残ってる!

足「止」も「戈」もという形だから、

《左傳·宣公十二年》にはよく書いてあるんですよね!

この「武」は「戈」を「止」めるから「武」とか、楚莊王が「於文,止戈為武」が言うんですけど、

むしろ、逆で足がついていて、

武器持ってるから、

これは武力を行使する形で、

この二つの部品を合わせることによって、

実際に軍事行動を起こすという意味で、

これは会意字ですね。

この武器の「戈」の部分の意味と脚「止」の部分の意味で合体させて、

一つの漢字を形成する形、

絵解きのような状態ですよね。

これは見ればなるほど、「武」と分かる。

かなり、ここでもう殷代の金分でも、

足「止」がもうかなり簡略化されて、

非常にまあこれは名残りはあるけれども、

甲骨文であります。これかなりも武器の部分「戈」が簡略化されてますね。

ですから、一番これが象形性が高いんじゃないかなということ、お互いの部品を持ってました!

ところが、この「信」は、これはすごい問題があって、

私一つ前の動画で、この「信」は疑義があると話しましたね。

会意字の例として、《説文解字》で上がってますけれども、

これは形声字じゃないかとお話しましたね。

どういう事かと今回、見てみたいと思うんですよ。

古い形に残っているもので、こういった形で西周中期と戦国中期(の金文)と、

これは戦国晩期の頃の楚簡の文字ですね。

大体こういう形していると、

本当にこれは会意字なのか、

はたまた形声字か確かめてみたいと!

こんなものを用意してまいりました。

「信」という字でありまして、

先ず、形声字かを判定するときには、

一番大事なことが、音を見ることなんですね。

この文字の音、この「信」という字は、*hljins, *s-ni[ŋ]-sですね。

次に文字の字形を全部網羅的に見てみるんですよね。

そうしますと、私は莊新興:《戰國鉨印分域編》の中で、戦国時代に鉨印で使われた古鉨と言いますけれども、

印章で使われた文字をリストアップしてくれているこの本に、

更にこういった資料(滕壬生:《楚系簡帛文字編》や湯志彪:《三晉文字編》)を加えた形で網羅的に見ていこうということで見てきたんですね。

そうするとこの「信」という字は、

「言」という部品に「人」がついた形なんですね。

これちょっと「弓」みたいになってるんですけど、だけれども、これを見ると、「人」か「身」ですよね。

それともしくは、これの場合は、「人」でここにちょっとある!

これは何だと!?と言ったら、「千」でして、

まあ「千」は元々「人」に一本棒加えた形なんですよね。

これで「千」という形にしてます!

こちらは「口」なのか、もしくは「心」か、微妙なところであるんですね。

意符ですけれども。

それでこちらは「言」、「言」でして、

これは「心」か?「口」か?これは「心」でしょうね。

これで「言」。

「千」「言」、「千」「言」

まあ、大体そうですね。

これも「千」に「心」

これで「千」に「言」で全部これはもう私は見ていったんですよ。

大体ここまででは、そうなんですけど、一番面白かったのが、

晉系文字では、「千」か、もしくは「身」なのかに「言」、

これははっきり「身」ですよ。

プヨーンとお腹が出た人の形で、それに「口」ですよね!

「口」が意符。

こっちは「言」に「身」という字。

それで「言」に「身」

「言」に「呂」という字が小さく入って「身」とか、

「言」に更に「口」みたいなのがあって「身」とか、

「身」に「心」とか、 「身」に「人」とか、それらが見えて、

それで一番親しみがあるのが、この秦系文字なんですね。

これは小篆の元になった字だから、

小篆と殆ど変わらない!

「人」があって、「言」ですよ!

でも、一つちょっと気づくことは、

ちょっと点点が入って、これ「仁」という字でして、「人」に「二」という字がありまして、

説文小篆に引き継がれたものが、

我々の漢字の直接のご先祖さまですね。

それで後のこの文字の字形は、戦国時代に使われたけど、秦の時に淘汰されてしまって、もう廃されちゃった文字ですね。

それで見ると《説文解字》の中には、ちょっと古文として、

古い時代に使われたこんな文字があるよということで、

梁という国で使われたものは、かなり古い時代に秦に滅ぼされたから、

まあ一応、秦系の中に入れておいたんですけれども、

「口」に「信」ですね。

この説文古文は秦系の文字ではない、

むしろ古文とは、六国金文と言って、こちら側の秦の方に行かなかった。

ちょっと系統が違う文字だということだから、

ここに入れるのは微妙でなんですけど、

ちょっと空いていたから書いたと断っておきますけれども。

更にこの「信」という字を集めてくれたこちら、

湯餘惠:《戰國文字編》の「信」の部分を見るわけですよ。

それで全部、今まで見てきたのと同じような感じですけど、

網羅的にリストアップしてくれてますので、

これを全部この結果をまとめたということで戻っていきたいと思うんですけども。

とにかく、こういった文字を分析をする時には、

その文字に関係するものは全部を集めるんですよ。

その結果どういう構造を持っているか、全部分析すると、こういうことが分かってきた。

この三行に書いてあること、

「信」*hljins, *s-ni[ŋ]-sに関係する声符と考えられるものは、

「仁」*njin, *niŋが、ここにありました。

それで「人」*njin, *ni[ŋ]は結構ありましたね。

実際これ人ですよね。

それで更に「身」が多くあったんですよね。

これが人のお腹がぷくんって出た形していて、

これは「身」*qʰjin, *n̥i[ŋ]ですね。

更にこの「千」*sn̥ʰiːn, *s.n̥ˤi[ŋ]ですから、

結局これら音が全部似ていて、

しかもこの「千」は「人」に一本棒を足しただけだと、

しかも、仮借されてるんですね!

それで本当にこれを見ますと、

これらが声符である可能性が高い!

一番、戦国文字の中でよく見られたのが、

結構多かったのが、この「千」や「身」でして、

むしろこの「人」は少なかったかもしれないという。

むしろ、秦系文字であるとか、もしくは(先ほどのページにありました)古い西周金文だったと、

意外と秦系文字は西周金文を結構、忠実に伝えていることがあり、

他の国の方が文字を色々自由に使えちゃった部分もあるんですね。

むしろ、戦国文字の他に廃された文字よりも、

秦系文字で小篆に行ったのは、意外と西周時代の文字に近くて、

自分たちが正当にそんなに字形を壊さないで引き継いできた自負もあったかもしれないですから、

そうみますと、全部、私は類型化して、パターンをまとめました!

そうすると声符のところを赤くしたんですよね。

「千」という声符に「言」か「心」という意符が付いているものがありまして、

全部確認できて、もしくは「人」という声符に「言」か「心」か「口」という意符もあった。

まあ、「口」は「言」を更に省略したとも考えられる。

もしくは、この「心」も微妙に「口」に似ているんですよね。

「口」の横が少し突き出ちゃうと「心」なんですよ。

すごく紛らわしいところがあるんですね。

これは「口」のところで横に突き抜けて、

これ「口」か「心」か微妙なところがありますよ。

ちょっとここだと曲がっているんですね。

やはり字形的な問題もありまして、

結構「口」と「心」も字形が近い!

また「仁」に「言」もあったとか、

「身」に「口」か「言」か「呂」という字も面白いこともありまして、それと「心」もありまして、

それと「心」と「身」と「呂」を全部付いているものもありまして、

こう見ますと意符は大体「心」か「言」という、

もしくは「口」が考えられて、

それで声符はこれだけでして、一番面白かったのは、

両方、声符になっちゃってる両声字もあった!

じゃあそれはどれかといったら、晉系のこの字「㑗」を見ると、「人」という字と「身」という字が両方が合わさっている。

両方、声符、声符で来ているタイプということですから、

そう見ますと、もう面白いことに、本当にはっきりしてきたんですよ!

この「信」という字は、形声字である可能性が高かったと見れてきてるんですけれども、

字形だけの分析でしたんですよね。

声符を判定するときは、音を使いましたけれども、

それで今度は語源を見に行ったんですよ!

この「信」という言葉、

もしくは「仁」という言葉、

「人」という言葉、

「身」という言葉、

これらの言葉の語源は何なのかを見ますと、

「人」*njin, *ni[ŋ]という言葉は面白いことに、「人」は「仁」*njin, *niŋと関係がある!

「信」に関していえば、

これは面白いことに、頭とお尻に*s-と*-sが付いて、真ん中の部分「niŋ」が語根(root)でして、

先ず、これを見たときに考えることは、

この語根に対して、どうして頭とお尻に*s-と*-sが付いているのか、

先ずお尻の方から見に行ってみると、

やはり、この*-sは「仁」とはもともと「心」を意味してた。

どうしてかというと、更に漢蔵祖語*s/k-niŋに行くと言葉があるんですよ!

「心」とか、「精神」という意味があるんですね。

それでこのチベット語སྙིང, snying、西夏語nieŋ、タンクル祖語*niŋ、彝語nɛ̱³³ mo³¹もそうなんですけど、

それでこれを見て、更に語源を遡ると、

漢蔵祖語*s-niでして、これはどういう意味かというと、「心」とか、もしくはもっと「心臓」とか、「胸」とか、「肋骨」なんですよね。

「胸部」のことを意味している。

かなりこれは具体的なんですね。

それで*s-niに対して、*-ŋがついてるのは、

やはり抽象化されてるんですね。

これはterminative suffix(完了を意味する接尾辞)じゃないかと、

これどういうことがといえば、

何かしらの(実現された)状態を意味していると、

それでそこからより抽象的な*s-niは「胸」とか、「胸部」という意味が、「心臓」から、*s-niŋに行った時には、少しより抽象化された「脳」とか、「心」とか、「心の状態」などの言葉になっている!

今していることは形態論(morphology)ですよね。

言葉の一つ一つをここに何をくっつけることによって、

どう意味の変化をするか見てるんですよね。

それで大体これは説明が付きまして、

それをみると、漢蔵祖語*s/k-niŋと上古漢語*hljnin, *s-niŋを見ると殆ど一緒ですよね!

漢藏*s/k-niŋ、これ*-sが最後に付いているのは、何だと言ったら、

これはやはり上古漢語における動詞化だと、

むしろここでは「心」という意味で名詞なんですよね。

「感情」とかそういう意味だから、「信じる」とは、より動詞的です。

やはり、本当に動きが、動作がある!

「信じる」は「心を動かしている」感じがするということで、

この*-s の意味は動詞化。

それで更にこの前の*s-は漢蔵祖語から受け継いでいる可能性がある!

もう既にここでは*s-niŋということで考えていけるじゃないかと!

どうしてこの「仁」とか、「人」を導けるかと言うと、

面白いことにこちらの方で見ますと、

「心」*slɯm, *səmという言葉も、「念」*nɯːms, *nˤim-s、「恁」*njɯm, njɯmʔ, *n[ə]mʔという言葉も、

これはやはり心に関係する言葉で「覚える」とか、「記憶する」とか、そういった類の言葉です。

これらの語源を更に遡ると、藏*s-nyamから来てて、

「考える」とか、「脳」とか、そうした意味なんですよね。

更にすごいことが、この*s(y)am-sという言葉は「息をする」とか、

もしくは、「肺」とか、「精神」とか、「声」とか、「心臓」とか、そういう意味なんですね。

だから、かなり「息をする」という言葉と「精神」という言葉は、かなり一致しているのが、すごい面白いのが、

これちょっと漢蔵語族と離れるんですけども、

印欧語族においてもよく、

ラテン語animaという言葉がありますね。

これはもともとラテン語の中においては、「息をする」とか、「風」とか、「心」という意味を持っているんですよ!

更にanimalは、もう英語でありますけど、

まあ、ラテン語だとanimalisですけれども、

これは「動物」という意味まで持っているんですね。

更に「動いている」、「生きている」という意味でして、

これは元々、印欧祖語*h₂enh₁-で「息をする」という意味なんですね。

更にトカラ語Bでañiyeは「息」でして、

サンスクリットでもअनिल, ánilaはどちらかというと、「息」から「風」に行ったり、

サンスクリットではअनिति, ánitiが「息をする」ですけれども、

更にアヴェスタ語でą̇̇nīiiaが「息をする」でして、

更にサンスクリットでआत्मन्, ātmánがありますけれども、これは「心」ですね。

もっと古い形でヴェーダ語とも言いますけれども、

リグ・ヴェーダ(やウパニシャッド)の中では、インドの哲学ですけれども、

アートマンआत्मन्, ātmánは「真我」とか、「心」とかまで行ってるんですよね。

更にトカラ祖語*āñcäme(Aはāñcäm、Bはāñme)は「心」(や「望み」)で、

更にギリシア語ではἦτορ, êtorが「心」、

アルメニア語でもանձն, anjnが「人」「心」という意味を持ってるんですよ!

それでケルト語派*anamanがありまして、

古アイルランド語ainimm, ainim, anaim, anaimm, animでも、「心」「息をする」「生きている」「動物」という意味を大体持っていまして、

ゲルマン語派でも、祖語*anadôから、古ノルド語だとandiが、やはり「息」や「心」はつながっていて、

英語のondeだと少し複雑で方言では「息をする」という意味がありますが、

どちらかというと、心の感情の方から、悪化した方に意味が変わりまして、「妬み」とか、「怒り」とか、「悪意」に行ってるんですけどね。

でも、あまり使わない言葉ではありますけど、

方言的には残ってる!

でも、方言はすごい大事でして、言語を見てゆくときには、

方言の中に元の本当の意味が残っていて、

メインストリームの方がどんどん意味が変わっていきましても、

方言はすごい大事なんですよ!

言語学的に見ていくときには、

意外と古い意味が残っていて、

今まとめて行くと大体、

印欧言語の中においても、

先ずは「息をする」→「風」に行ったのもあれば、

「息」→「心」に行き、

「感情」→「欲望」とかに行き、

もしくは「息」→「生きてる」→「動物」に行き、

大体その元々のコアな概念から、言葉が発生していく関係が、

今どうして印欧語をしていたかと言いますと、

これはすごい漢藏語においても、

今出てきたように「心」とやはり「息をする」は大体概念として一致してるんですね!

しかも、そこから「人」とか、「動物」など、「生きてもの」という意味もあったりして、

特にチベット語སེམས་ཅན, sems canの中では、「人」という意味なんですよね。

だから、「心」を持っているのが、「人」だから、漢語の中でも、同じくありまして、

完全にこれ同じ子音の配列なんですよ!

「人」*njin, *ni[ŋ]なんですよ。

「人」と「仁」、「人」は「心」ですね。

これ「心」と「人」と関係性は非常に高い!

しかも、驚いたことに、人間の共通発想か知らないけれども、

印欧語族においても、「人」と「心」と「生きている」とか、

更に「息をする」は、概念的に全部導かれていると!

すごい面白いことでかなり脱線しました!

すいません!

戻りますということで見ていきたいんですよね!

こちら「身」*qʰjin, *n̥i[ŋ]で音が近いですけども、

やはり語源が違いまして、どちらかというと、「孕」*lɯŋs, *l[i]ŋ-s、「任/妊」*njɯms, *n[ə]m-s)でして、

先ほど見ましたお腹が出っ張った形をしていて、点が中に付いていまして、付いてないものもありますけれども、お腹が出ている妊婦さんの姿みたいだということですから、

何か字形から言っても、語源からいっても、やはりそうなんですよ(「身」が妊婦さんの姿を象ったというのは新説です)!

この語源は「担っている」とか「持っている」という意味でして、漢蔵祖語 *b-s-nomから来ている可能性がある(また、カム・スイ語派*ȵam¹、クメール語nāṃと関係?)!

それでしかも、それを更に遡ると、まあ*nwamは、「押す」とか、「詰める」とか、そういう言葉でして、

どちらかと言えば、これらの子音もかなり近いんですよね!

二つは「持っている」と「押す(push)」とか、「担う(take hold)」ですから、「中に詰まるとか(put on)」とか、

それとあと「押す(push)」と「圧す(press)」は、これは「詰め込む」という動詞は、

やはり同源ではないかとマティソフ教授は考えましたが、

この二つは子音の配列と意味からして、ということでありますけれども、

これらはそういう別の語源ですが、

少なくとも「人」と「心」は、かなり近かった!

見れてこれて、それで戻ってみますね。

やはり、この声符として、「人」とか、「身」とか ありましたけれども、

この「千」に関しては、全く違う語源ですけど、

今回は絡んでもないから、それは書きませんでしたけれども、

これを見たときに、先ず起点に戻ってみますよ!

この「信」は《説文解字》の中では、

特に会意字の例として出てきまして、

「信」は「会意」だと(主張していました)!

これは「人」が「言」うから「信」ということ。

それで私は違う!これは明らかに声符を持っているから、形声字と言いましたね!

私はもう一つ言ったんですよ。

元々語源が同じだったもので、後で意符が加えられた形は勿論、

その象られたものが、(当てられた言葉の)内容と一致しているから、

会意的な意味も、やはり持っている可能性がある。

だから、会意形声になる。

形声字でありながら、会意的な意味を含んでいる。

そうすると、それは「亦声」と言いましたよね。

そういうことで見てみると、

これで「人」と「仁」と「身」は、

明らかに人は「心」を持ってるハートフルだから「人」だという所から来ている!

実際にチベット語でも同じような語源と言葉の派生をしていた!

もっと言うと、印欧語でもかなり近いところであった!

それでこの「身」と「信」もそうだと来ると、

これらから行けば、やはりこの人は声符ではあるけれども、

義符とも、意符と言いますけども、

やはり、そういった意味合いも含んでいる可能性あるんじゃないかと!

だから、「会意形声」とまで言っちゃうと言い過ぎかもしれないけれども、

形声字と見たい!私は中途半端が好きじゃない(笑)ですが、

形声字と見たいことはありましても、やはり会意的な部分も含んでいる可能性があるということで、

まあ、「亦声」としても良いかと見れてこれまして、

それで最終的な結論としては、

しかし、《説文解字》が言うように「信」を会意字の例として挙げるのはよくない!

やはり、「信」は形声字ということで、

今、私が見てまいりましたのは、

先ずは字源を徹底的に見て、字形の分析をした。

その後に今度は語源的な分析をして、

併せて考えることから、そういった結論に至ったということで戻ってみたいと思います。

かなり「信」で盛り上がってまいりましたが、

これは会意字(?)というより、やはり、形声字だろうということで、

でも、会意ぽい所もある。やはりこれは、語源的には、「人」と「信」は一緒だったと見えてこれたと思います。

まあ、こういった形で、文字学の方から、純粋に字形から行くのと、

もう一つ音韻学から、まあ更に言語の方ですよね!発音と意味ですから!

そういった方から攻めていき、

言語と文字の両方からバランスよく見ていくことによって、立体的に見えてこれたとても良い例だったと思います!

それと「信」という字を基に考えてみました!

今度はこの「林」さんに行きますが、

やはり、明らかに会意字で考えていいと思います!

私が持ってきた例ですけれども、

この「林」*ɡ·rɯm, *[r]əm (< 漢藏*ram)はやはり「木」と「木」を合わせて、「林」だと!

まあ、これ見てみれば、甲骨金文、両方ともそうですが、

「木」が二本で「林」さん。

それでもう一つを持ってくれば、「森」*srɯm, *s.rəm(< 漢藏*ram)さんだと、

問題はよくこの「休」という字を「木」に関連して持って参りましたけれども。

これがよく会意字と言うんですよ!

「人」が「木」に寄っかかっているから、「休」だみたいな。

これは一つ問題があって、

丁度横に「木」を持っていたのには理由がありまして、

形声字でも「木」を会意字でも「木」を持ってきたんですけれども。

「木」が沢山ありますけれども!

大体「木」は一本すっとすっきりと立ってるんですよね!

ところが、この「休」*qʰu, *qʰ(r)uをよく観察してみますと、

木が人に合わせて曲がっているんですよね!

人に合わせて少しこれグニュンと曲がってますよ!

本当に人の頭と手と寄っかかって、木がグニョンとしているんですよね!

皆そう!頭の部分がちょっと(曲がっています)!

だから、これ見ると純粋に「木」の部品と「人」の部品を合わせて会意だと言いにくい!

それで象形のとき、独体象形しか見ませんでしたが、

一つの形で象形したものしか見ませんでしたが、

もう一つ象形には、合体象形がありまして、

二つ以上の部品からなる象形字もあるんですよ!

だから、これを見ると「人」と「木」を合わせて、会意的に作っているというよりかは、

どっちかというと、これ全体で「人が木の所で休んでいる」形、

これなどは「よっこらしょ」という感じで休んでます!

こうして「木によっかかって休んでるさま」全体を描いたと考えられると思いました!

こういった実際、会意的によく言われるんですよね。

この「休」も会意の例として挙がってきますけれども、

よくこういった甲骨金文の一番古い形で見ると、

実はもう一つ小篆や楷書では、今はもう分かんないんですね!同じくなってしまう!

でもよく見ると古い形だと、字形には変化があると!

線の流れが大事だと「漢字のユニークさを探究するシリーズ」のもう一番最初のところでも言いましたよね!

漢字は線で象形をするから、線の伸びや曲がりとか流れが大事で、

これでもの描いてると!

だから、すごくこういった微妙な所を見ていくと、

甲骨金文で持ってきているのは、すごく意味がありまして、

こういった細かい観察ができるんですよ。

本当に一番古い形でそうすると、これはやはり全体で象形した形だと、

「人が休んでいる」という合体象形で理解する方が、いいんじゃないかということで見てまいりました!

そういった形できていますけど、

意外と会意字は少ないんですよね!

もう、本当に漢字の中でも、パーセントはかなり少ないんじゃないかなということで、

結構私、色々頑張って探すと、

例えば「鳴」*mreŋ, *m.reŋという字がありますね。「鳥」*tɯːwʔ, *tˤiwʔに「口」もやはり会意字示ですよね(甲骨文では鶏の象形でしたが「鳥」に変わりました)!

それと「好」*qʰuːʔ, *qʰˤuʔいう字がありますね!「女」*naʔ, *nraʔに「子」*ʔslɯʔ, *tsəʔと書く、女性と子どもが付いている部品で会意と考えられるんですね!

他に採用するの「采」*sʰɯːʔ, *s.r̥ˤəʔという字、今は手偏が付いて、更に「爪」が付いていますけれども、

本当は手偏がない形で初文「采」でありまして、明らかに手「爪」で「木」の所から、もぎ取るような形をしていますから、

やはり、木から「爪」で伸ばしてきて、手でピューンとものをつかんで収穫をするような形だから、

採用の「採」になりましたと考えるのがいいんじゃないかなと。

だから、純粋には二つの部品からなっているから、会意字とは言えにくくて、

この「休」もそうですけれども、

全体で合体象形として捉える方がいいじゃないかと!

今まで会意字とされてきた中には、「信」という字を含めても、そうでしたがかなり形声字に行く字が多い可能性があるということで、

本当の純粋な会意はかなーりーレアであって、

そこがらすごく一番大事な教訓を導き出せまして、

結構、漢字の字源を分析をしようとしたときには、

直ぐに文字のその形から見て、

そこからどんどん、どんどん、物語(ストーリー)を膨らませて、絵解き(ファンタジー)みたいに行ってしまいますが、

字源を語るときにどんどん、どんどん、その字形から想像力が膨らんでしまう事によって、

全然正しくない、こじつけのような説明になってしまって、

本当のことじゃない形に行ってしまいがちですが、

それはどちらかというと、会意的に説くんですね。

字形を見た時にこの部品とこの部品が付いてるから、

この部品はこういう意味でこの部品をくっつけたから、こういう意味だみたいなことを言うけれども、

殆ど漢字は形声字が多いこと!

それと会意字におけるかなりの大部分は合体象形に行く、可能性が高いということで、

本当に注意しなければならないのは、

音の方から分析をかけて、形声字を洗い出して、

それで実際こうした字型の分析から、合体象形で全体を描いている方で、

会意字から取り除かれる可能性が高いから、

音と形の方で厳密に分析していかないと字源は正確に理解できないかと、

本当に漢字の源流となる甲骨金文、

一番古い形でそのように分析していくのが、一番、本当の真理に近けるという、一つ大事な教訓が得られたと思います。

もう、一つ言えるのが、

この小篆とそれから隷書を通って、楷書化されていくわけですね。

隷変をして楷書に行くわけですけど、

この我々が使っている文字の字源に行くんですけども。

この我々が使っている漢字の文字だけで見ると、非常に難しい点が二つありました。

「休」という字がありましたけれども、

これも今こういう風になってるけれども、

実際にはちょっと曲がってるとか違った形!

この「木」と「木」や同じ「木」の形になっちゃうけど 違うとか、

そういった字形の問題もあり、もう一つは「信」ところにちょっと戻ってみたいと思うんですよね。

このように我々が使ってない、

もう声符と意符の関係で、これだけ戦国時代には別々の声符があって、

全然違った形で字が使われてきた。

ところが、この秦になった時に、

もうこれだけ、小篆だけになってしまった!

この形だけが採用されて、我々の漢字になってきてるから、

他の字から見れば、逆に言えばですね。

この「身」という字の方で使っていた「信」、

これはもう純粋な形声字ですよね。

語源的にも関係しないということで見てこれました。

まあ、この「仁」と「人」に関しては、この二つに関しては微妙でしたね。

会意形声ぽいと、

でも、「身」と「千」に関しては、全然関係ないですね!

意味と何故かと言いましたら、全然語源も違うし音が一緒だっただけだから、その音を借りてきただけでした!

だから、純粋に形声字と言えると思います!

ということで、「信」は何字ですかと、たずねられたときに、非常に難しいところは、

戦国時代の様々なバラエティーがあった。

その文字の字源を全部知ってしまえば、

知れば知るほど、それは単純じゃなかったと言えるんですね。

だから、こういった戦国時代やもっと古い文字をどんどん見ると、

意外と我々の使っている文字の字形に固定されたというのは、秦から後であって、

その前の時代の字形は、ものすごいバラエティが多かったから、

淘汰されてしまって、使われなくなってしまったものに関しても、含めて考えれば、

文字の使い方やその音とその意味を書きたかったわけですね。

その元々の意味なり、発音は全然違う表記の仕方でされてきた可能性があるから、

それを含めて考えると、非常に微妙でちょっと戻ってみたいですが、

そういった形で、この「信」に関しても、この「休」に関しても、

「会意」という中で見てまいりましたけど、

非常に色んな古文字、もう秦より前の文字を研究していく上で大事な教訓が得られたと思います。

ということで、今度は亦声を見ていきたいですが、

先ほど今、「信」で出てきましたけど、

よくこの会意と形声を兼ねた会意形声というものを亦声と言われておりますけれども、

その中でよく言われるのが、

この「青」から発展してゆきました「清い」とか、「晴れた」とか、「精」は細かいという意味ですが、「静か」とか、「氵」が付いたタイプ、長瀞の「瀞」など、

これらの字とは、元々この意味を引き継いでいいんじゃないかとよく言われる説なんですけど、

これも古い文字の形とできる限り初出で揃えて、

それと字源と語源からどうなのかを分析してみようということで、

こういったものを持ってまいりましたので見てみたいと思うんですよ。

先ず、そこで一つ、大事な発想の根源となるものがありましたね。

それを見てみたいと思うんですけども、

基本的に今まで意符として言ってた。

形声字における意符は、(大まかには)部首という形で《説文解字》の中ではまとめられてるんですよね。

それを話しましたけど、

ちょっとそれ見てみたいと思うんですけども、

これが小徐本でして、

部首の一覧がダッーとあるんですよね!

一つ一つのの意味を(徐鍇さんがコメントして)、ああだ、こうだ書いてあるんですよ!(こじつけに近いものが多いため紹介しませんでした。)

ここにもありますけど、「青」がありましたよね。

いっぱいこういった形でここにあるんです!

これが大徐本ですが、こちら結構まとまって、

小徐本であった徐鍇さんの説明を全部省いちゃって、

もう、反切しか書いてない!

お兄さんはもういらない!ということで、

注釈を全部削って、こういった部首一覧にしてるんですよね。

基本的には辞書は、この部首によって漢字を分類して配列をするんですね。

ところが、この部首が漢字のその構造とは関係なく、

その文字をどう分類するかに主眼があって、

辞書の中で配列するために作られた部分があるから、

かなり恣意的でして、ある程度は形声字であれば、意符の方を部首の方に結びつけて入れてる事が多いんですよね。

ところが辞書によっても、《康煕字典》の中では、また全然違うで部首を持ってきて配列していて、

漢字はいくつかの部品から成り立ってますから、

全然違う方の部品の方を部首とみなして入れてしまったりしてるから、

かなりこれは恣意的な分類であって、

この部首は結局、漢字の構造を理解するためには役に立たない。

どっちかといえば、辞書を編纂する時の都合で考えられたと、一つ言いたいことがあるんですよ!

それで戻ってみたいと思うんですけども、

そういった事に、最初に気付いた人たちがいて、

この「部首法」に対して、鋭く対立する「右文説」という発想ですよね。

一般的には形声字においては、意符が左に来て、声府が右に来ることが多かったけれども、

甲骨金文では違いましたよね。

全然、逆になって来てたり、上と下が逆だったりということもあって、

意符と声符が自由なおかれ方をしていましたけれども、

ある程度、小篆になるとその時に固定化されたのは、

意符は左側に来る。そして声府は右側にくる。

もしくは意符が下側に来て、声符が上側に来ることもあり、

それで初めて部首でない発想で文字を分析した人たちは調べたら、

西晉の楊泉さん《物理論》でして、《太平御覽· 人事部· 敘賢》で引かれて残った文章があって、その中では、

「堅」*kiːn, *kˤi[ŋ]、「緊」*kinʔ, *C.qi[n]ʔ、「賢」*ɡiːn, *[g]ˤi[n](< 漢蔵*g/m/b-raŋ強い、張るなど)という字、これらは皆、上の部分「臤」*kʰaːn, kʰriːn, ɡiːn, kʰinsが一緒ですよね。この部品を持ってますね!

それでそれらが大事で、むしろ部首の「土」とか、「糸」とか、「貝」より、そちらのほうが(意味につながり)大事じゃないかと、言い出したり、

更に宋の時代の沈括さんの《夢溪筆談· 藝文一》という有名な沢山の随筆がありまして、

エッセーの中にある一つのお話がありまして、

王子韶(聖美)さんという人が、字に関して学問をした中で気づいたことは、

(漢字の)意味とは、一般的には右の方にあると、

今の言い方をすれば、声符の方にあるじゃないかと、

それで昔の辞書は大体、左の部分、それは意符 、偏の方ですよね。

それで右点の部分は旁の方ですね。

だから、凡そ、字とは、左側の方に類があり、そのカテゴライズされた意符が付いていて、

右側に意味があるんじゃないかと考えた、

つまり、「木」の類というものは、

左側に「木」がついてる!

これで右側は、例えばこの「戔」*zlaːn, *[dz]ˤa[n] > d͡zɑnという字で見たら、

「水(氵)」がついて、「淺」*sʰlenʔ, *[tsʰ]e[n]ʔ > t͡sʰiᴇnXの場合は、浅いとか、

「水」が「戔」少ないから「淺」とか、

むしろ意味があるのは右側と言い出したたことです。

結構今から言えば、雑な議論ですけれども(「戔」と「淺」「錢」に関して、語源や意味を共有せず、純粋に音が似た仮借と考えるのが自然です。)

でも、すごい面白いことに、

元々、意符とか声符と言ってきた、意符には意味があるように感じてしまうけれども、

意符とは、基本的には、ここに書いてある通り、

カテゴライズされたもの、「木」のグループには木偏が付いているとか、「水」のグループは三水「氵」がついているとか、

左側にそうした部品が付いているということ、

ここを見てもそうですが、皆からこれは「青」から、こちらの下の方は左側にパン、パン、パン、パンと付いているんですよね。

「生」という字でもそうですね。

ここに付いている。こうした形で来てると。

むしろ、こちらの方が、意味があるんじゃないかと、

右の方にだから右文説なんですね。

ちなみに王子韶(聖美)さんという人が、

蘇軾(蘇東坡)という有名な書家でもあり、文人でもありましたけれども、

蘇東坡が王聖美さんと対話をして、

「波はどういうものか」と尋ねたら、「水の皮」だと彼が答えたら、

蘇東坡が直ぐにすかさず、皮肉りまして、

じゃあ、「滑」は「水」の「骨」かと(《鶴林玉露》「世傳東坡問荊公:何以謂之波。曰:水之皮。坡曰:然則滑者,水之骨也」)、その人の説をやじったというような面白おかしい逸話が伝えられていますけれども、

彼の説は雑な部分もあったけれども、

凡そ全て右はそうだみたいなところはありましたが、

だけれども、意外と半分は合っている部分があって、

やはり、文字の発展から言えば、

今の言い方をすれば、声符が元々ありまして、言葉を書き表したいとき、先ず(音が近い字を選んで)声符を持ってきた!

それで声符でどんどん当てていき、全然違う語源のものが沢山あり、

もしくは、一つの語源から派生した言葉が沢山あり過ぎたときに、

一つの声符で音だけ表していたら、もう非常に区別がつかなかった!

だから、意符を足すことによって、形声字を構成するとなりますが、

平たい言い方をすれば、まあ、偏(意符)に旁(声符)を足して作られていることですよね。

まあ、ちょっとこの言い方は、微妙なところがありますが、

まあ、分かりやすく言えば、

でも、こういう字の構造をとりますから、

文字の発展をしてますから、

だから、この説は半分は、やはりある程度、言い当てているんですよ。

それでもう一つ、今言ったことを甲骨金文で見ていこうとすると、

「生」という字に対して、

やはり、この「女」の部品をつけて、「姓」を作っているんですよね。

右と左のどっちにつけてもいいと、両方に意符が付いた場合もあり、

人偏「人」が付いている場合もあり、秦系の古い文字であっても、

右と左が逆になっている場合もありまして、

「犠」という字はこっちは、「牛」がついてますね。s

それで右と左に両方に付いていることもありますけれども。

それとか、「星」はこの近くがこの「生」の周りに更にいっぱい丸が付いてる「星」とか、マークがついているとか、

あとはこれになっちゃうと、これは「星」だけれども、なんか「星」のマークが付いているということ、

まあ、これは明らかにこの「晶」という字と「生」がちゃんと付いていて分かる!

これがくっついてる!

「青」については、面白いのが、

この上が「生」がやはり声符ですよ!

だけど、下の子の部分(意符)が、二通りの考え方ができるんですよね。

これはやはり「井」じゃないかと、

もしくは「丹」じゃないかと両方が考えられる。

更にここに飾符(羨符)で先ほど申し上げたように「口」がよく付くことが多くて、

ここで「清」などが、こういう形になったりとか、

あとは更にこの「争」という字もついて、

これもすごい複雑なのが、

この「争」もやはり音は近いんですよ!

先ほど見てきた「生」*sʰleːŋ, sreŋs, *sreŋ, sreŋ-s 、「爭」*ʔsreːŋ, *[ts]ˤreŋですから、全部近い!

そうすると、これは両声字ではないかと、「生」と「争」の方も、

この楷書で言えば、篆書で言えば、

ここの部分の「生」と、この「争」の部分は、両方とも声符ではないか!両声字ぽい振る舞いをする!

更に「水」が付いていう形「瀞」がありますね。

意符として、これは明らかに!ということでありますから、

思った以上にこれは複雑ですよ!

この「青」に関してもそうです。

「青」*sʰleːŋ, *[s.r̥]ˤeŋに対して、上の部分「生」*sʰleːŋ, sreŋs, *sreŋ, sreŋ-sと下の部分「井」*skeŋʔ, *C.tseŋʔが、両方とも音がすごく近いんですよね!本当にということはあります。

これも両声字ぽい!

字形的にも、そうですけども、

そして、今度は語源の方を見ていくと、本当に亦声かと!

一般的に言えば、今までの規則から言えば、

亦声とは元々、語源が一緒の言葉で漢語の中で言葉が分化してゆき、

それで漢字がそれに対応して、書き分けていったという流れを経ているものが多いんじゃないかと!

語源がもっと可能性があると!

それで書き分けられたことによって、

意符が加えられたことによって、

形声字になったけど、元々、声符は本当の元の意味を持っているということで、

ちょっとそこを見ていきたいと思いますが、

そうすると先ずどこから行こうとするというと「生」ですよね。

元々このね「生」まで行くにも結構、色々あって、

漢蔵祖語*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋは、「生(なま)」とか、「生む」とか、やはりそういう意味なんですよ!やはり、実際そういう意味を持っている!

しかも、不思議な事に「新鮮な」という意味があって、

そこから、でしょう!草などが「新鮮である」のが「青々」としてるという、「緑」という意味があるんですよね!

本当にだから大体元々の漢蔵語族の中でも、

他の言語でも、近い意味のallofamと言いますが、

これは単語家族といい、ある程度の意味のまとまりのあるグループがあって、

これは漢蔵語だけはなく、

先ほど出てきたように印欧語でもそうですけども、

ある語根から、もしくは元々の語源から、

どんどん分化する意味が広がっていきまして、

まあ、これは漢語の中では気づき始めたのが、カールグレン(Bernhard Karlgren)が、最初にそういったword familyに気づいて(Bernhard Karlgren (1933). Word Families in Chinese, Bulletin of the Museum of Far Eastern Antiquities 5: 9-120.)、

何となくこの似た部品を持つ漢字には似た意味を伴っているんじゃないかと、

まあ、右文説を現代に復権させたというか、

この晉代や宋代の人たちは、まだ中身は分からなかったから、

結構、議論が雑だと、今から見ればそういう風に感じてしまうところもあるけれども、

最初の気づきとしては面白かった!

それでそれをちょっと現代的に復権させてきたのが、

カールグレンがした上古漢語における言葉の中には、意味のまとまりがあるんじゃないかと、

更に漢藏語族において、マティソフ教授(James Alan Matisoff)は、やはり、allofamという言葉を使って、

(漢蔵語族の)単語には、ある程度のその核となる意味があって、そこから派生していった意味のまとまりがあるじゃないかを発想しました!

そういう発想でいくと、元々この*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋは、「體」*r̥ʰiːʔ, *r̥ˤijʔですが、漢蔵祖語*s-ri-t ⪤ s-rutに関係してて、「存在」という意味なんですね。

実際「ある」という意味を持っている!

それでしかも、この言葉から派生した中でも、

これらもそういう意味を持っていて、

だから、そこから、やはり、「具体的な」とかいう「體」もそうですが、ある程度、「存在がある」という意味を(漢語においても)持ってますね。

そこから、こういった「體」という意味に行っている可能性がある。

かなり、この子音の配列は近いわけですね!

だから、この二つは元々、同語源だった可能性がある!

ここから言えるのが、

この「產」*sŋreːnʔ, *s-ŋrarʔ から来ていて、

漢蔵祖語*sryalは実際に「産む」という意味があるんですよ!

それとか、「育てる」とか、そういう意味がある言葉ですよね!

本当にだからここから入った可能性があると、

でも、どうも、やはり全部、*s, r, yという、この似た子音の配列を持っている!

だから、もっと究極的に言えば、 (漢蔵祖語において)これらは同語源の可能性はありますね(印欧祖語においても、既に形態論的に様々な形態素が付いて、既に派生されていた事例は、枚挙にいとまがありません)。

まあ、もうその時点でも分かれてしまっていますが、

そして、この問題になっている「生」*sʰleːŋ, sreŋs, *sreŋ, sreŋ-sですけども、

明らかに漢蔵祖語*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋから来ていると言えます!

もう意味も一致してる!

それでそこから派生をしてゆき、やはり女性から生まれる「姓」、更に人偏が付いた「𠇷」もありましたけれども、人から生まれるということで、

それから「姓」*sleŋs, *seŋ-sは家族という意味とか、

「生まれつき」という意味のこの「性」*sleŋs, *seŋ-sもかなり近い音と意味ですから、

やはり、語源が近いかと!

「牲」*sreŋ, *[s.reŋ]はBaxter-Sagartはないけれども、(鄭張尚芳の再構や中古漢語の反切など)で似た字から推測したり、

更に漢蔵祖語の段階*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋでは、「青(green)」という意味があった。草が新鮮でフレッシュから来たと思われる!

そっちから発展した!

それは「青」*sʰleːŋ, *[s.r̥]ˤeŋでして、明らかにこれはここから来ている!

それと「蒼」*sʰaːŋ, sʰaːŋʔ, *[tsʰ]ˤaŋもそうですね!これはちょっと声符「倉」*sʰaːŋ, *[s.r̥]ˤaŋ, tsʰˤaŋが違いますが、同じ語源である可能性がありまして(しかも、意符「艸」を持ちますことも説明が付きます)、

これだけのまとまりは大体、語源が一緒だった可能性がある!

そうすると偏(意符)がついて、平たい言い方をすれば、

もっと、まともな言い方をすれば、

形声字を作った時に意符がついて、こういった形になっておりますけれども、

元のこの部分「生」には、(音だけではなく、)元の生まれるという意味が入っていた!

それで言葉としても一致してた。

この「青」に関しても、ということですから、

これは義符、意符のような形でも振る舞ってもいるということで見れてこれていますが、

ところが、よくこの「青」と「清」とか「晴」いう字は、同系列で考えられていますが、

どうも、これは違う語源ですよ!

これに関していうと、

それはどういうことだと言いましら、

この漢蔵祖語*(t)s(y)aŋですけど、

これは、クリーンとか、ピュアーとか、クリアという意味なんですよね!

「すっきりした」、「純粋だ」、「無垢だ」、「綺麗な」とか、そういう言葉なんですよね。

この言葉が、それから見ると「星」とか、「輝いている」など、

これから来ている可能性がある!

それで明らかにこの「清」*sʰleŋ, *tsʰeŋで漢蔵祖語*(t)s(y)aŋから来ていて、子音の配列からも、言葉の意味からも、ほぼ一致してますよ!これ本当に!

「晴」*zleŋ, *N-tsʰeŋもそうですよね!それでこれはさらに*N- prefixが付いている!

だから、「清」*sʰleŋ, *tsʰeŋという意味から、*N- prefixにより、「晴」*zleŋ, *N-tsʰeŋが派生したといえられる。

更にこの「靜」「靖」*zleŋʔ, *[N-tsʰeŋʔ]は、更に最後に声門閉鎖音(glottal stop)「ʔ」が付いてますね。

まあ、Baxter-Sagartは復元していませんでしたが、鄭張尚芳の方と(中古漢語の反切と)こちらの関係を見てもそうで、

私はこれと類推をして持ってきましたが、

最後に付いている形で明らかに派生されているといことは、

語源的に一緒で(同じ語根を持ちまして)、別の言い方をすれば、

更にこの言葉も「淨」「瀞」*zeŋs, *N-tseŋ-s, m-tseŋ-sもピュアという意味を持ってますよね。

これもそうですよ!

本当に同じ*m- prefixや*-s suffixが付いているということで、

ああ、「tsʰeŋ」の部分が同じ語根を持っていますということで、

この「精」*ʔsleŋ, *tseŋという字もそうですね!

ということで、明らかに語源は漢蔵祖語*(t)s(y)aŋである可能性に結びつく!

この中においては、やはり、ある程度、同じ子音と意味を持っておりますから、

本当に同じ語源から派生していった言葉と言えますが、

でも、ここでもう一つ気づくことがありまして、

この漢蔵祖語*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋと*(t)s(y)aŋは、全然違う言葉だった!これとこれに関して言うと、

それで「青」*sʰleːŋ, *[s.r̥]ˤeŋで、こっちについているということは、

これは明らかに「青」*sʰleːŋ, *[s.r̥]ˤeŋから、更に意符を付けて、「清」*sʰleŋ, *tsʰeŋ、「晴」*zleŋ, *N-tsʰeなどへと発展していったなら、

これは元々「青」の音を借りて、こっちへ行った!

だって、語源が違うから!

単に仮借をして、それで意符を付けたと言える!

まあ、でも、(漢蔵祖語*s-riŋ ⪤ s-r(y)aŋに由来すると考えられる)この中においては、確かに意符として振る舞うことを、先ほどみましたよね。

だから、亦声(会意形声)ともいえる!

でも、明らかにこちらは仮借であり、語源が異なることですから、

この漢蔵祖語まで遡って、語源を探求することによって、そこから見ていくと、

今まで見えてこなかった意味と言葉の発音の方が、きちんと結びついて言語としての方から見ることができて、

今まで亦声とされてきた中でも、

やはり、これは違う、ただの仮借だろうと言えたりとか、

やはり、こちらは意符としても振る舞いをしている可能性あるんじゃないかということで、

今ここでずーっと見てきたことで分析をして分かってきたことは、

まとめますと、どういうことかと見ますと、

文字の同じ部品を持ってるからと言って、

必ずしも同じ語源だったかは分からない。

それで同じ語源でなければ、これは明らかに仮借になってしまう。

それで同じ語源であった可能性がある場合は、

やはり、この声符の中には、言葉の意味を伴ってて、

それと元々象ったものが、やはり一致していれば、

意符ぽく振る舞う声符であるということ、

語源が一緒の中のグループの中であれば、

でも、語源が違えば、これは明らかにただ音だけの符号(声符)として借りて(仮借して)きたということ。

これは完全な形声ということで亦声ではないと判断できるということで、

まあ、一つ判断材料として、亦声は、やはりこの部品が、音だけではなく、意味も含んでるから、

意味の合成で会意とも考えられるということであるから、

「亦た声」だから、意味と亦た声も兼ねているという意味だから、

そういう意味で言うと、会意形声ですから、

この語源の判定をする事によって、

しかもそれがBaxter-Sagartにおいては、この*N- prefixをつけるとこういう意味だよ!

*s- prefixをつけるとこうなるよとか、

*-s suffixではこうだよとか、色々ありました!

接頭辞(prefix)と接尾辞(suffix)があり、

また、中に接中辞が入って、が抜けているのも(諧声系列に)ありましたね。

そういったことを含めて、形態論(morphology)から見ると、

言葉の成り立ちを分析してみる方と、

字形を分析して見る両方をきちっと合わせて、

両方の側面から見ることによって、

より立体的に見えてきてんじゃないかということで、

もう面白い字を分析していく中での方法論と気をつけなければならない事が見えてこれたと思って、

一つ最後にオマケみたいな感じですけど、

面白い話がありまして、先ほど部首法ということで、

それと鋭く対立するものが、この右文説でしたけれども、

この部首法はやはり辞書編纂するときに使う考え方であって、

基本的にそれが完全に字形の分析と一致して、

それが本当に漢字の成り立ちを語っているかどうかは、

殆どそうではないと!

ところが、今度はこの部首法を発展させてゆき、

今度は甲骨文が発見されてきたとき、

それを含めて、部首法を見直したという面白い研究がありますから、ちょっと見てみたいと思います。

この二つの書がありまして、

沈建華、曹錦炎《新編甲骨文字形總表》は、甲骨文の全部の字型、知られているものをリストアップして並べていこうじゃないかという研究があるんですね。

読んで字の如く、甲骨文の形を全部集めて表にした。

これは香港で出たものですよね。

それを見ますと、甲骨文、字形、總表ということで、

字形を分類して、新たにどれが要素になってるか、抽出したんですよね。

そういう研究がありまして、

そうすると大体、この我々が沢山使っている漢字、ものすごい数ありますね。

《説文解字》の中にも、一万近い字があった!

数千はある中でずーっと抽出をしていくと、

たった150ぐらいの数しかないんですよね!

部品は逆にいえば、裏返して言えば、

根本的な要素となる象形された形は150ぐらいしかない!

それに変形したり組み合わせたりすることによって、

大量の漢字が生まれているということ(組み合わせるとは、先に述べた会意としてではなく、合体象形や合体指事、会意字、形声字など、あらゆる由来を含んでいて、純粋に字形を字根に分解したという意味において)、

逆に言えば、この150ぐらいの形が分かれば、認識できれば、

漢字全体の部品を組み合わせるだけで、全部作れるということなんですね!

スゴイですよね!

しかも、季旭昇さんは、やはり《説文》の研究を深くされた方でして、

甲骨文の字根研究は、前々回あたりで紹介いたしましたけれども、 これは台湾の研究ですけれども、

やはり、彼も甲骨文をあらゆるものを持ってきて、

それを全部系統立てて、根本的な部品、語根に対して字根と言ったら、これはルートですよね。

一番構成する根幹となる部品を数え上げた!

全部、分類して、つまり、この2つの研究は、

大量の甲骨文を最小の要素に還元してゆき、

それによって並べて配列をして、

それで全部を系統的に見たいと!

もう《説文解字》の場合は、小篆であったけれども、

もっと前の時代の一番古い形で行こうという研究ですけれども、

そうするとやはり150ぐらいなんですよ!

これ本当に大体、根本の部品さえあれば、

全部の漢字はそれを変形したり、

組み合わせて作れるんだ!

ということで面白いんですよね!

特に右側のどうなのかということを見ていたいと思うんですけど、

こういった「大」について、

指示字のところで、一本加えたりとか、何か部品くっつけてみましたが、

この元々あった部品に何かしらの変化を加えることによって、

大量の文字が生まれているという、

これだけのバラエティーができてる!

すごいことだと!

今はもうこの字形が伝わってない楷書化できないものいっぱいあるんですよね!

甲骨文には結構多くありまして、

逆にしたのもあるでしょうと、

先ほど申し上げた「屰」という「大」を逆にしてあります!逆転させている!

だから「逆」とか、そして左側にありました。

季旭昇さんの方でいえば、

これだけ、先ず「人」という所があったら、「人部」ということで、

本当に甲骨文に対して部首を与えているという、

それでこれだけの次はサブグループを作りまして、

これで変形をさせて、並べているということで、

更にこの下には、もっともっと他に沢山の数がダアーツとありますけれども、

これでこういった形で、大体150ぐらいの所から、

更にサブグループでこれだけあって、

甲骨文が大体480個ぐらいの部品で全部見えてくれていると面白いと思っております!

それで部首というのは、

《説文解字》は小篆において考えました!

その後の時代では楷書を基に部品で分類して、

漢字は問題があるのは、この甲骨文でもそうですけども、

部品が2個以上ある場合、どちらを主として、部首に入れるかと言えば、

どちらかを選ばなきゃいけない恣意性がある!

二つ以上の部品が組み合わさっていれば、

どちらが主なんだと、どちらかを選ばなきゃならないと、

最終的には選べないんですよね。

本当に両方の部品が同じぐらい大事で、一つの字がが作られるから、

両方に何かしらの意味があるから、組み合わされたわけであって、

どちらが大事が言えないから、

非常に難しいところですよね!

どちらに入れるのか、

それは大体、部首法の一番の欠点であるんですよね。

だから、最終的な私の捉え方としては、

漢字とは一つのフォームがありますね。

一つの形を見て見た時に、どの部品とどの部品がくっついているか、

じゃあ、なぜくっついてるかを見れば、しょうがないと、

まあ、彼らの研究は大量の甲骨文をやはり並べなきゃならず、

やはり、《説文解字》の体系で並べるのは、ちょっと不十分だから、

もう甲骨文において合う、それにそぐうような、

その部首を考えて、それで配列をしてゆこうということだからしょうがないんですよね。

これはもう辞書を作ろうとしたときには、

一つの漢字は一か所にしか置けないから、

二つ以上の部品があったとしても、

二か所に置いたら、あちこちに散らばっちゃうから、

しょうがないということですが、

だけれども、今、私は考えている漢字のシステムとしては、

漢字の部品が意符と声符と役割分担はあるにせよ。

両方大事なわけですから、

それは両方とも欠かさないとしたら、

今はコンピューターがあるから、

そのある漢字を分解した時には、

どっちもリンクさせることができるから、

そういった一つのシステムの上で、

「言語と文字のデュアリティ」という話もありましたよね。

それも含めて考えていくと、

一つの漢字に関係する部品の共通要素の部品、

字形としてみたとき、それとあとは大量の音や同語源、

もしくは更に遡った漢蔵祖語は別の言語に借用された(とか、諧声系列や通仮関係)という、

音声や意味のデータなどをザーっと一緒に一括で管理する事はコンピューターでは出来るから、

元々あった情報バーッて置いてきたりすれば、

そこからリンクで結びつけることができる!

(文字や音声同士の)ネットワークができるので、

本のように必ず一箇所にどこかにおかなきゃいけないということはないから、

コンピューターを駆使すれば、漢字の体系は、一つのプログラム、一つのアーカイブ、一つのシステムの中で、合理的に組み合わせて整備できんじゃないかなと思っておりますということでして、

この漢字を理解してゆく時にも、

色んな発想があって、ものすごい話が広がりすぎて爆発しましたけれども、

ちょっと見てみたいと思うんですけれども、

今回は漢字を構成していく中で

最も大事だって言っても過言ではない、

指示と象形、そして形声と会意を、もう色んな方面から、

まあ、一番最初は《説文解字》の六書の説明が始まっていましたから、

その例となる字を出しながら、

更に本当にそれはそうなのかと考えたり、

更に面白い例を持ってきたりして、

色々考えてみて盛り上がれたと思います。

こういった形でKF-Ars Sinica(系譜でたどる中華文化)は現在は漢字のユニークさを探求しましょうという、

ものすごいもう我々が使います漢字について、

どんどん掘り下げて続けておりますから、

何とぞチャンネル登録して頂いて、

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いつも楽しんで下さいまして、

ありがとうございます。

今後とも何とぞよろしくお願いします。

失礼いたします。

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