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ウラディミール・ド・パハマン(Vladimir de Pachmann)

2007年10月30日[2009年5月6日・7月24日・2011年1月15日・5月30日・6月6日・2014年4月10日改訂]

1848年7月28日にウクライナのオデッサでユダヤ人の家庭に兄弟13人の末子として生まれました。父はオデッサ大学の教授で音楽愛好家でチェロを弾き、和声学の著書もあり、ウィーンでベートーヴェンやウェーバーと交流しました。1854年にヴァイオリンで音楽に天分を示し、1858年からピアノの独学を始め、1866年にウィーン音楽院に留学して、ピアノをダッハ(Josef Dachs, 1825-1896)、対位法をブルックナー(Anton Bruckner, 1824-1896)に学び、大バッハの「平均律クラヴィーア曲集」から数曲を出題され、短期間で全曲を暗譜して全調に移調して弾き、音楽院長を仰天させ、ショパンの練習曲全曲を暗譜して、1867年に首席で卒業、1869年にロシアに帰国し各地で成功しましたが、リスト門下タウジヒ(Carl Tausig, 1841-1871)の演奏に震撼して、1870年からイタリアに隠遁して研鑽、1878年にライプツィヒやベルリンで演奏会を開きましたが隠遁して、1880年にウィーンやパリ、欧州全土とアメリカの主要都市で成功しました。1882年にウィーンで熱狂的な喝采を受け、年配の聴衆はショパン以来の絶妙な演奏と興奮して、辛辣なハンスリック(Eduard Hanslick, 1825-1904)に世界な最も偉大なピアニストとされました。1884年に弟子のオーケイ(Maggie Okey, 1865-1952)と結婚、1925年のアメリカ演奏旅行で引退、1928年にイタリア国籍を取得、1933年1月6日にローマで逝去しました。

パハマンは19世紀のサロン様式で繊細極まりない演奏をしました。特に奇癖が有名で椅子を一時間も調整して婦人から拝借したプログラムを椅子に置いて始めたり、自分の演奏に感激や幻滅の声をあげたり、演奏の前にルビーの原石をポケットから取り出して、私の演奏を聴いたら美しい宝石の輝きすら忘れてしまうと語りかけ、ホフマン(Josef Hofmann, 1876-1957)の演奏会で舞台に上がり音楽論を語り、ブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866-1924)の演奏会で「ブゾーニは最高のバッハ弾き、私は最高のショパン弾き」と叫び、ピッツバーグにおける最後の演奏会でワルツ変イ長調(1831年・Opus 34/1)を終え、悲嘆に暮れた声で「私がいなくなったら、誰がこんなに美しく弾けるか」と語りました。サラトガで牧場経営して「乳搾りは最高の練習」とピアニストに勧め、牛乳パックを発明して特許を取りました。

ウールコット(Alexander Woolcott, 1887-1943)は「パハマンはウインク、含み笑い、呻き、天への語りかけを多く伴い、音楽の志向を絶え間なく呟く。彼自身に、死者の魂に、周りの人に音楽がどのように作曲されたか、リストがどう弾いたか、自身がどう弾こうか、それがどんなに美しいかなどなど語る。呟きは少しの人にしかはっきり聞こえないが、奇行や機知により遠くの聴衆を笑わせた(De Pachmann, with many winks, chuckles, groans and appeals to heaven, keeps up a continuous, murmurous chatter about the music he is invoking. To himself, to the spirits of the dead, to any within range of his half-whispered monologue, he talks about that music, about how it came to be written, how Liszt played it, how he hopes to play it, how beautiful it is, and so on, and so on. It is chatter which only a few can hear distinctly and of which the eccentricity sets the remoter or more woolly witted auditors into a fit of the giggles.)」(1923年・Enchanted Aisles)と伝え、野村光一(1895-1988)は「ステージ上で気持ちを固くして演奏し、聴衆も集中して聴くのは真の音楽ではない。良い演奏は人の心に柔らかく溶け込んで自然に伝わるべきだ。小さい客間のような部屋でおしゃべりをして演奏するのが真髄である」(1975年・ピアノ回想記)というパハマンの音楽観に接して、「晩年のパッハマンが到達したピアノ演奏の悟道でした」と語りました。パハマンは「わたくしの生涯の秘訣は、終わることなき努力である。そのほかになんの秘訣もない」「自分の心の声の啓示するところに従い、自己を発展させてきた。自己の芸術と同じく自己を探求して、科学や文学を通じて人間を研究した」(1911年・Seeking Originality)と語りました。

彼の天真爛漫かつ自由奔放なピアニズムにウィットとユーモアが息づき、ショパンへの愛が溢れています。情緒に従いテンポを揺らして、自由な装飾で歌い上げ、好きなフレーズを繰り返し、真珠が転がるような優雅で繊細なビロード・タッチで軽妙なピアニッシモを発揮して、汲めども尽きない情感が溢れ出しました。譜面から詩情を汲み、内声に旋律を加え、全音階を半音階に代え、抒情性を高め、変幻自在に演奏しました。鍵盤を強打せず、レガートに精を込め、人差指を親指と同じ長さになるまで曲げてトリルして、手を実直ぐに指先のみ動かしてビロード・タッチをなして、聴衆に対話するように柔らかで愛らしい音を紡ぎました。

パハマンは録音に関心を持ち、1906年・1925年にWelte-Mignon、1923年・1924年にDuo-Artでピアノロールを制作、Duo-Artでフィルムも撮影しました。1832年に初代のミヒャエル・ウェルテ(Michael Welte, 1807-1880)が機械時計を制作、1883年にエミール・ウェルテ(Emil Welte, 1841-1923)が紙製ロールを空気圧で作動させる自動ピアノを発明、1904年にエドヴィン・ウェルテ(Edwin Welte, 1876-1958)が改良して、セントルイス万国博覧会で評判となり、1905年からウェルテ・ミニョン社(Welte-Mignon)で演奏者が署名したピアノロールが発売されました。自動ピアノは複雑な機構で再現装置も紙ロールも高価なため、デュオ・アート(Duo-Art)、アンピコ(Amplico)、デュカ(Duca)などの方式があり互換性がなく衰退しましたが、大家の演奏を聴くことができ貴重です。

初期蓄音機や機械式録音は音域が広くて鋭く立ち上がるピアノの録音に困難を極めましたが、機械式録音で1907年・1909年にGrammophon & Typewriter、1911年と1912年にVictor、1915年・1916年にColumbia、1923年・1924年にHis Master’s Voiceでレコードを制作しました。電気録音で1925年・1927年にHis Master’s Voiceでレコードを制作しました。

1925年6月26日にマズルカOpus 50/2の冒頭、ノクターンOpus 32/1の後半、12月15日にワルツOpus 64/1で口上「皆様のためショパンのワルツ変ニ長調を演奏します(I will play for you the D flat major waltz of Chopin.)初め書かれた通り、次は緩徐になり普通より少しゆっくり弾きます(At first I play like this written down, afterwards the slow movement, little slower than usual.)そしてパガニーニ風スタッカート、ショパン風レガートを弾きワルツを終えます(And afterwards, I think staccato à la Paganini and then I give it à la Chopin legato and finish the Waltz.)」、ワルツOpus 64/3の咳払いが録音され、1927年11月3日の最後の録音の練習曲Opus 10-5「黒鍵」で訛りが強い英語に仏語・伊語・独語を混じえて口上「左手は難しく完全に管弦楽的です。ショパンの典型で豊かな調べです(Left hand di difficulté is entirely orchestren. Chopin, it’s model nice, better more melodic, you know.)そして、最後はゴドフスキーの編曲です(And then the last part de Godowsky the author.)おっとっと(弾き直し)重たい鍵盤だ!おお、私には!(演奏)不可能だ、この音楽は!疲れた!(Oh, I ... Heavy piano ! Oh, per mi ! … Impossible ! Cette musique, fatiguée !)ゴドフスキー、タン!ゴドフスキーが作者です!(Godowsky, Dang!! Godowsky was the author !)」が録音され、第7小節を第3小節と同じく弾き、第8小節に進めず、「おっとっと(Oh ! I…)」と嘆き声を漏らし、終結部ではゴドフスキー(Leopold Godowsky, 1870-1938)が超絶技巧を散りばめて編曲したフレーズを採用して、「ゴドフスキーが作者です」と叫びました。マズルカOpus 67-1で最後の和音が左手のミスタッチで定まらず、即座に小さく弾き直して微笑ましく、マズルカOpus 63-3から次のOpus 67-1に即興でブゾーニがしたように繋ぎました。パハマンは小柄な足に合わせた特注のボールドウイン・ピアノを愛奏しました。

①舟歌(1846年・Opus 60)はヴェネツィアの船頭歌に乗せて人生の浮き沈みを表した晩年の作品で伸びやかなショパン・トリルが可愛らしく、⑦バラード第3番(1841年・Opus 47)はミツキェヴィッチの詩に触発されて優美で後半部分3:06が素晴らしく、⑧即興曲第1番(1837年・Opus 29)は中間部が軽やかで夢のようです。⑨ノクターン第2番(1831年・Opus 9/2)のフレージングが優美で⑪マズルカ第25番(1838年・Opus 33/4)は明快なリズムにより、旋律の変わり目が美しく、⑫即興曲第2番(1839年・Opus 36)は3:15からビロードに珠が転がる色彩豊かなタッチが最高です。⑬ノクターン第9番(1837年・Opus 32/1)では1:13と2:15の歌い回しが巧みに変わり、⑭前奏曲第15番「雨だれ」(1839年・Opus 28/15)は各部分が対比をなし、⑯ワルツ第6番「子犬」(1848年・Opus 64/1)は間の取り方が絶妙で1:12に「パガニーニ!」と叫びます。ペダルを踏んで音を濁らせ、強拍を際立たせ凝縮したフレーズで緊張を高めて、優雅に開放されます。⑰ノクターン第19番(1827年・Ops 72/1)で左手を不均一にして陰影を描き出して情感豊かな演奏です。⑳メンデルスゾーンの無言歌集「春の歌」(1844年・Opus 62/6)で温和に優美に描き、作曲者の素晴らしい詩や水彩画の風景を思わせます。㉑リストの愛の夢第3番(1845年・S. 298)で低音から高音へ粒揃いのタッチが美しく、甘美さに情熱がほとばしり、明朗に歌い上げられます。㉒ヘンゼルトの練習曲第2曲「ゴンドラ」(1841年・Opus 13/2)で薄絹が空を舞っているような柔らかさが感じられる至高な世界で芳香のような優美な空気が漂います。

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