日本人どなたも耳にしたことがある輝かしき金印「漢委奴國王」の続編です。「漢」「倭」の語源と字源、「倭人」について考えてまいりましたシリーズ。前回は「倭」の本来の表記は「委」であること、それは上古漢語で何を音写したかを考えまして、禹=於=越=吳=沃=濊=汙=倭:委がつながりまして衝撃でしたけれども、更に禹=夏=華について続編でウォーミングアップ(?)してから、国宝の金印は本物か偽物か、今回も色んな観点から盛り上がりました。
また、最新の言語学、音韻学、金石学、文献学、歴史学、遺伝学、考古学などの知見を踏まえまして、総合的、俯瞰的、多角的な考察から、特に倭人の先祖たちの一派は、長江下流→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→日本列島や琉球諸島と動いたことにもマッチしまして、はたまた、「倭奴」は二文字で一つの音を書いていた可能性が高いこと、金印の駱駝や馬紐が蛇紐に変えられた理由の謎解きなど面白い発想に至りました。お楽しみくださりましたら幸いです。
面白かったことなどのコメントを下さりましたら、また暖かい応援を下さりましたら、更にTwitterやFacebookなどSNSでご紹介を下さりましたら、今後の撮影の励みになります。皆さまと印の楽しみを少しでもシェアーできましたら幸いです。
2021年12月17日
皆さま、こんにちは。
KF-Ars Sinicaが誕生をした、
デビュー作、金印シリーズが三連続で続いておりますけれども、
前々回は「漢」、前回は「倭」でして、
「倭人」の子孫が「倭国」でワクワクしました(笑)ということでありましたけれども。
今まで「委」と人偏が付いた形「倭」もそうですけれども。
「わ」と中古漢語から出た音で読まれてきましたけれども、
先ず、上古漢語で読むんだと!
第一の関門を突破しまして、
次にそもそも「倭」は人偏がない「委」で書かれいたんじゃないかと!
第二の関門を突破しまして、
こちらにございます文字たちが、
言語学の音韻対応の知見や文献上の記載内容から、関係づけられてゆきまして、
前回の動画はパズルゲームのようにすべてがはまり込んでゆくとスリリングでしたけれども。
そして、「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔから「夏」*ɡraːʔ, *[ɢ]ˤraʔまできちゃったということになりまして、
ものすごく、興奮しておりまして、
上古漢語の音韻や言語学の理論も、
中国語だけではなくて、倭人のルーツの探索にも役に立つかなということが伝わりましたかと思います。
それでは今回は、前回のおさらいとウォーミングアップと言いたいところですけれども。
最初から激しくなりそうな予感が致しますけれども(笑)
前回はこちらにございます、カラフルの言葉を書いた文字、
漢語を書いた漢字は、
本来は同じ言葉を指していたのではないか。
そして、その語源がどうなのかという所から攻めてまいりまして、
「禹」=「於」=「越」=「吳」=「沃」=「濊」=「汙」=「倭」がつながりまして、
特に「倭」の本来の表記は「委」であることも確認しましたけれども。
どうもこの「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔ > ɦɨoX=「夏」*ɡraːʔ, *[ɢ]ˤraʔ > ɦˠaXも気になっておりまして、音が近いんですよ!
それで「禹」の虫、蛇みたいということでしたけれども。
「夏」の字源は太陽「日」の下に人が座っている「頁」の形でありまして、
やはり、四季の「夏」じゃないと、
太陽の下で照りつけていて熱いということが考えられますけれども。
夏王朝の「夏」の語源は、
別の言葉を仮借して書いていて、
チベット語རྒྱ rgya /*rɡʲa/と関係がありまして((施向東《漢語和藏語同源體系的比較研究》2000年)、
まあ、rとgが逆になり、音位転換(メタテシス)を起こしていますけれども。
どうも、これは、「偉大」という意味ではないかということでして、
私は漢蔵祖語*g(r/l)aːyに関係するかもしれないと特定いたしまして(#3574 PTB *g(r/l)aːy SCATTER / SOW / DISPERSED WIDELY / WIDE / STAR)、
それは「散らばる」「遠くに広がる」「幅が広い」という意味がありまして、
クキ=チン祖語kraayやカレン祖語lɛᴮと関係があると考えました。
ロロ=ビルマ祖語*ʔ-grəy¹では、夜空に散らばることから「星」にゆきましたけれども。
前に上古漢語の特集で「大」*daːds, *lˤat-s > dɑiH、
「泰/太」*tʰaːds, *l̥ˤa[t]-s > tʰɑiHをしまして、
また、「多」*ʔl'aːl, *[t.l]ˤaj > tɑは、
L-typeかT-typeでどっちつかずで微妙でして、
そして、語源はタイ=カダイ語族やリー語族かもしれないとお話をいたしましたけれども。
こちらを合わせて考えてみましたら、
どうも、漢蔵語族、特に上古漢語から、そちらへ逆に借用された可能性もありまして、
特に上古漢語「延」*lan, *la[n] > jiᴇnにlaの語根がありまして、
それで「延ばす(extend)」が、漢蔵祖語の意味とも合うんですよね。
そして、「禹」が開いたとされる「夏」の音がものすごく近いですよ!
唇音化[ʷ]と咽頭化[ˤ]されただけの違いでして、
そして、「於」*qaː, *[ʔ]ˤa > ʔuo/「于」*ɢʷa, *ɢʷ(r)a > ɦɨoなど、
他の文字の微妙な音の違いの揺れとも、
これらの文字(国際音声記号)をゆっくり見ていただければ、マッチしてるんですよね。
まあ、「夏」が「偉大」という、漢蔵語族の「広がる」とか、「大きい」という言葉から来ているかと言いましたら、
これも(夏王朝の「夏」の)正しい語源かどうか、仮借かもしれませんし、
判定は慎重にしなければなりませんけれども。
ちなみに「夏」の方は、クキ=チン祖語*khraalでして、最初のkがkh、最後のyがlですから、これは音が近い!
クキ=チン祖語でも、ものすごく似た発音の言葉と分かりまして、
それは漢蔵祖語のレベルでも、
私の漢蔵祖語*g(r/l)aːyの推定が、正しいことを裏書きしますけれども。
何故なら、同じ文字が「夏」という意味で使われた。また、「偉大」いう言葉に当てられているのは、
漢蔵祖語から、上古漢語や他の漢藏言語の方に分かれた後にも、
両者はそれぞれ似た発音を持ち続けたからです。
こうして、実は語源を当ててゆくときにあてずっぽうではなくて、
共通の祖語から分かれていきました!
それぞれの言語においての類似性も、ヒントとなるじゃないかということを申し上げておりますけれども。
またまた気づいてしまったんですけれども。
この「夏」という意味の言葉として使われた時は、
マティソフ教授は、STEDTで漢蔵祖語を再構していなくて結び付けていませんでしたけれども。
チベット語 「夏」དབྱར་ཁ dbyar kha /*dbʲar.kʰa/やカレン語da³¹ dzu³¹ kha̱⁵⁵ も関係があるんじゃないかと私はにらんでいるんですよ。
こうして、漢蔵語族の研究は開かれたばかりでして、
もう掘ればザクザクとお宝が出てきて、面白いことが沢山、掘り出されて、見つけられて、
探究の楽しさで頭脳が喜んでおりますけれども。
そして、こちら。
もう一つ、夏は黄河の流域にありましたとされますけれども。
禹や夏人の末裔と称する越人は、
長江の流域にいた人たちですから、
関係はあるのかと思うわけですよね。
前回に越人や倭人が夏人の末裔だという記録を見てまいりまして、
《漢書·地理志·粤地條》や《魏書·東夷傳》(所謂《魏志倭人伝》)にもありまして、
殆ど同じ文章を引き写していましたよね。
また、《吳越春秋·越王無余外傳》に「越之前君無余者,夏禹之末封也。禹父鯀者,帝顓頊之後」には、
越の王さまは、夏の禹の末裔とありまして、夏禹が出てくるんですよ!
そして、また、禹の父は鯀と出てきました。
そして、禹の六代後の夏の少康、
禹の祭祀が絶えてしまわないよう、
庶子を越に封じて、無余と号したとあるんですよ!
これは於越ができたと思いきや。
これは「封ずる」「誰を」「どこに」という、
前置詞「於いて」だろうと思われますけれども。
こちらの郭店楚簡《唐虞之道》とありますけれども。
まあ、実は虞世南の「虞」も気になっておりまして、
楚簡では、「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤa > ŋuoで上の虎「虍」がない形で書かれていまして、
舜に治水を命令した舜のことなんです。
禹のスーパーバイザーの舜(笑)を指している!
有虞氏の「虞」*ŋʷa, *[ŋ]ʷ(r)a > ŋɨoが、
(句呉の)「呉」を書くときに選ばれたときに影響したと思うんですけれども(前回に見ました既に戦国時代の金文でも「呉」が使われていました。)
まあ、呉は周の祖先の古公亶父の子の太伯が荊蛮に奔り、開いたとありましたよね。
実は越や呉を夏や周などに結び付けるのは、
系図仮冒、
仮冒する、呉や越の祖先の系譜を夏や周につなげちゃったんじゃないのという疑いもありまして、
まあ、史書に書いてあることをそのまま鵜呑みにはできませんけれども。
まあ、禹のことは鵜呑みにできないというジョークですけれども(笑)
呉越の人たちが、それを自称したということは事実でありまして、
何にも関係がないとは言いきれないのですよ。
祖先の系譜をつなぐには、それなりに関わりはあるんですよね。
そして、郭店楚簡《唐虞之道》に禹が治水をして、
この間に「唐」を見てまいりましたよね。水に関係するのではないかといっぱい出ておりますけれども。
やはり、禹が治水をして、益が治火をした!
水と火が対比されてありますけれども。
この益とは、禹の後を継いだんですけれども、禹の子の啓に取って代わられて、 そちらが夏王朝になったわけですけれども。
楚簡には、今とは異なる文字が使われていまして、
説文解字風に「治は幺に从い司の声」ということで、
こんな字で書かれています。
そして、「膉は月に従い益の声」ということで形声字ですけれども。
そして、「夏」に行きましたら、
《説文》に「中国の人」と書いてあります!
今まで強調してきましたこと、
意味が似た言葉(文字)は並んで出てきまして、
「華夏」という言葉がありますね。
中国を指している!
中華を指している!
KF-Ars Sinica、系譜でたどる中華文化をしておりますけれども、
中華の「華」は、
やはり「夏」で書かれていまして、
更には「禹」と関係がありまして、
これらも仮借をして、音を書いていると考えてまいりましたけれども。
まあ、そして、オーストロアジア祖語「川」ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋとベトナム祖語k-roːŋかと話してまいりましたけれども。
この「唐」*ɡl'aːŋ, *r̥ˤaŋ > dɑŋも関係してましたけれども。
お花(フラワー)の「華」としては、
「艸」が「化」の「花」*hʷraː, *qʷʰˤra > hˠuaは、 こちらの*N- prefixがないかたちですけれども。
小篆以降に生まれて、 中華の「華」と言葉を区別して、
お花に特化したと考えられます。
まあ、今でも中華の「華」は華道とか「お花」として使いますけれども。
語源は、やはり、オーストロアジア祖語pkaʔや漢蔵祖語baːrに行くだろうと考えられまして。
まあ、ボド=ガロ祖語*bar、
クキ=チン祖語*paar、
ナガ祖語*par、
カレン祖語*phɔᴬ、
ビルマ語ပန်း, pan:、
ジンポー語pan、
コニャック語puːŋ、
タニ祖語*punなどが関わりますけれども。
Baxter-Sagartは*N- prefixがありまして、
その機能が自動詞化や形容詞化と考えられまして、
qはオーストロアジア祖語のkに対応しますから、
漢蔵祖語からよりも、(オーストロアジア祖語から、)直に上古漢語に入りました可能性はありますよね。
「華」の声符は、おなじみの「于/亏」*ɢʷa, *ɢʷ(r)a > ɦɨoなんですよ!
楽器の「芋」*ɢʷa, *[ɢ]ʷ(r)a > ɦɨoから来たという字形ですね。
特にこちらの古文「𠌶」では、お花が垂れた姿「𠂹」の下に声符「亏」が添えられている感じでありますけれども。
まあ、「崋山」という、
更にこちらに「山」を頭に付けた「崋」*ɡʷraːs, *[ɢ]ʷˤra-s > ɦˠuaHも、
何だかやはり「夏」と近いことが気になっておりますけれども。
最後の声門閉鎖音-ʔが-s suffixになっただけですけれども。
そして、「夏」*ɡraːʔ, *[ɢ]ˤraʔや「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔですから、関係があるんじゃいかと近いということで気になっておりますけれども。
そして、先ほど「大」「太」とありましたよね!
まあ、私の名前にある字「泰」ですけれども。
「崋山」と言えば、「泰山」ですけれども。
まあ、隷書の《西嶽華山廟碑》、
篆書の《泰山刻石》がありますけれども。
この「泰」も、「大」も、語源を先ほど「延」と関係あるじゃないかということで特定して、
こちらに書いてありますけども。
もう一つ気になる事がありまして、
この「夏」に戻って見ましたら、
戦国文字、特に楚簡には「頁」に従わないで、 「日」に「虫」で書かれているんですよ!
「禹」と「夏」が音が近いですから、
間違えなく、禹が開いた夏ですから、
言葉や音の上でも関係があり、
字形に反映したと考えておりますよ!
この「禹」のこちらの部分の字形が似ています。
しかも、(楚簡では)「日」の下にこの形の「也」で書かれているのもありますからね。
とにかく「虫」です!
それで説文古文「𠍺」を見ますと、こういう形「𠍺」で楷書ぽくなっちゃって、こんな面白い形になってますけれども。
こっちの「禹」も、こんな形「𥜼」で、
まあ、更に郭店楚簡は「禹」に「土」が付いていますけれども。
やはり、古文字学においては、
伝世文献はもちろんのことですけれども、
今まで見てきた甲骨金文や特に楚簡帛書に書かれた文字が、
最近ざっくざく出土しておりまして、
それらを研究することによって、
秦漢より前の文字の使われ方は、
われわれの常識を覆すようなぶっ飛んでいたことが分かりまして、
当時の実例として、ものすごく貴重ですけれども。
私は書の方で楚簡の文字を長く臨書してまいりまして、
もう日常生活の一部になっていまして、
まあ、あの、小噺ですけれども、
親しい中国人の友達に楚文字で手紙を書いたことがあるんですよ(笑)
あと、金文や小篆でも書きましたけれども。
やはり、小篆はものすごいモダナイズされたニュースタイルな文字なんじゃないかと!
大体、2000年位らい前のニュースタイルな文字だと思いますよ!
もう、大体もう今と字形の構造(や文字の用法)も一緒なんですよ!
だから、書きたいことを勿論、漢語で漢字であれば、
殆ど苦なく楽に書くことができるんですよね。
でも、楚文字は違いまして、
私は出土した楚簡は、ほぼ全て目を通しておりまして、
文字を考釈する上で文字学と訓詁学と音韻学と言語学を兼ねて、探究しておりますけれども。
古文字学では異文という、
同じ文章が異なる文字で書かれた実例を手掛かりに釈読していくわけですけれども、
《老子》や《緇衣》など、現行の文字、今文で伝わっている書籍は、
特に当時と現行の文字を比較して釈読できるわけですから貴重でして、
《緇衣》は《禮記》でも伝わっていますから、
本当にありがたいんですよ!
そして、郭店楚簡と上博楚簡も伝わりますから、
三重で確認ができまして、
更に今回ご用意いたしましたのは、
《詩經》の《大雅·抑》という詩、
そして、《小雅·車攻》という詩を引用する部分ですから、
《詩経》とも対応がとれて、
四重で確認ができるわけですよ!
何かこれも、これも、これも、これもと通販番組みたいになってまいりましたけれども(笑)
私の頭の中にある楚簡や通仮、
通仮を通販と言いそうになっちゃいました(笑)
通仮の実例のストックの中から、
グーグルエンジンのようにして、
そういえば、《詩経》の《大雅》や《小雅》の「雅」を「夏」で書いていたなと思い出しまして、
こちらにご用意いたしました。
郭店楚簡は《大雅》は「日」に「虫」の「夏」で書いていて、
《小雅》は「日」に「頁」に「足」で書いていまして、
統一性がないんですよ!
しかも、前の所の第七簡においては、
《大雅》を画数が多い、こちらの字形「夏」で書かれていましたから、
《大雅》《小雅》で区別している訳ではないんです。
まあ、ここを書いていたとき、
早くおうちに帰りたいから略体で書いたかもしれませんけれども(笑)
まあ、冗談ですけれども。
でも、次の「員(云)」と書かれている、「云う」という意味の言葉ですが、
それも簡単な字を使いまして、
むしろ、「云」の方を我々は今でも使いますけれども。
こうですから。
でも、もともと、この「員」*ɢon, *ɢʷen > ɦˠiuᴇnで「云」*ɢun, *[ɢ]ʷə[r] > ɦɨunを書いてたわけですけれども。
音が近いからです。
やはり、だから、この辺を書いていた時には、早く書きたかったことは、本当に当たってるかもしれませんけれども。
《郭店楚簡》の註釈に湖南省文物考古研究所の張春龍さんが、慈利楚簡という別の楚簡がありまして、
古書と対校していた。今見ているように古い書と突き合わせた時に発見した!
こちらの字は「夏」だと!
それを裘鍚圭さんが書いていまして、
その発見の驚きと喜びを今ここで追体験してみましょうということで、
上博楚簡の方も見てみるんですけれども。
両方ともこちらは、同じ部分を「日」に「虫」の「夏」を書いていますよね。
そして、今はこの「雅」で書いてまして、
こちらにいつもの宋本の《禮記》、
今本の《緇衣》の該当する部分がありますけれども。
ここでは《大雅》と書かずに《詩》(《詩経》)とだけ書いていまして、
《小雅》は、今と同じ書き方ですよ。
私が思いましたのが、
そもそも雅楽(みやび)の「雅」は、
「夏」の王朝の宮廷の由緒正しい音楽を書くとき、
「夏」の方が主流だったんじゃないかと!戦国時代には!
それは「夏王朝」か「偉大」から派生したということで「みやび」からかということですけれども(また、「雅」*ŋraːʔ, *N-ɢˤraʔ > ŋˠaXと「樂」*ŋraːwɢ, *[ŋ]ˤrawk > ŋˠʌk̚の類似性から、「雅」と「樂」と同根の可能性がありますけれども。)。
そもそも、この「雅」は、もともと「烏」という意味ですよね。
《説文》に「楚の烏」と書かれていまして、仮借(通仮)したわけですけれども。
ここで思い出したわけですよ!
前のページのおいて、「於」が「烏」を仮借して使って書かれていました!
やはり、互いに音が近いんですね。
「夏」と「雅」の通仮は、
朱駿聲《說文通訓定聲》「雅,叚借又為夏。」とか、
王引之さんが《荀子·榮辱》「越人安越,楚人安楚,君子安雅」で逆に「雅讀為夏」(雅は夏である)ということで、
今とはこれ逆転してますけれども。
そうして、通仮してるとお互いに通じるから、
「雅」は「夏」と読むんだということで、
「夏,謂中國也」(それは中国)と述べておりまして、
清代の考証学者にも知られていましたけれども。
中原の言葉を「雅言」と音韻学で出てきましたけれども。
本来は「雅」は「夏」と通じておりまして、
「中国」「中原」、真ん中、中華の意味だった!
それで「華」とか、「雅」とか、
自分たちは、素晴らしい意味の文字を用いて音を書いておりますけれども(苦笑)
その後に「夏王朝」では「夏」、 「中華」では「華」、「みやび」では「雅」と、お互いに混同をしないよう後に書き分けがなされたことは確かでして、
割と中華の「華」は、
《漢書》の実例を見つけて後かもしれないじゃないかと(《春秋左傳·定公十年》「裔不謀夏,夷不亂華」に孔子の言葉として、「夏」と「華」が並列して伝えられます)!
ですから、まあ、「栄える」「花開く」など、
良い意味で好んで選ばれましたけれども、
やはり、ファーレンハイト(Daniel Gabriel Fahrenheit, 1686-1736)の「華氏」、
ワシントン「華盛頓(Huáshèngdùn)」みたいに音を書いた仮借じゃないかということですから、
「夏(なつ)」=「雅(からす)」=「華(はな)」という、 音が近くて通仮することは、別の角度からも、
先ほど見てまいりました「於」=「越」=「禹」=「夏」のつながりが確からしいとことを裏書きしているじゃないかと!
音が近いわけですから、
お互いみんな関係し合っちゃってる!
リンクで結ばれてきちゃったんですけれども。
また、気づいちゃったんですよ!
「雅」の中古漢語ŋˠaXでして、それで「呉」の中古漢語ŋuo、上古漢語*ŋʷaː, *ŋʷˤaですけれども、
近いng [ŋ]の子音を持つわけですよ。
鄭張尚芳さん*ŋʷaːは、そのままng [ŋ]ですけれども、
Baxter-Sagartさんたちŋʷˤaは、N- prefixと考えていますね!
そして、「雅」も、「華」も、*N- prefixがあるんですよね!
有声口蓋垂破裂音[ɢ]と無声バージョン[q]の対応も見られるんですよ!
ですから、「夏」=「雅」=「華」も、この*N- prefixまで、固いきずなで結ばれていうことでして、
そして、「夏」=「禹」も音韻対応がばっちり取れていましたから、
やはり、字形にも影響がありまして、
「日」の下に蛇「虫」で書かれていることも、説明が付くんじゃないかということで、
前回の動画をおさらいして、ウォーミングアップができんじゃないかと!
「禹」と「夏」がつながっちゃったということで見れてこれたと思います。
そこでこちらの本論に入りますけれども。
丁度一年前、既に「金印」シリーズから、
KF-Ars Sinica始まりまして、
一周年記念の特別動画として、
印章の真贋を鑑定する観点をまとめてみようと相成りまして、
KF-Ars SinicaやKF-Scholaのモットーは、
一次資料に基づいて、事実を探究する実事求是なんですよね。
ですから、金印そのもの、現物を精査して、真贋を鑑定することが大切でして、
科学的な考古学の発掘調査がされていないものに関して、
出土した状況が怪しいことは、
実は真贋の問題とは関係がないんですよね。
伝来してきた美術品や陶磁器などは、
本当に信頼できる伝世品の方が稀でして、
殆どは伝来してきた過程は不明ですから、
美術商や骨董商の取引の世界では、
現物で鑑定するしかないんですよね。
そして、金印も文化財として、例外ではないわけですよ。
ですから、我々は印章について、
文字学、印章学、篆刻学、金石学、冶金学、文献学などなど、
あらゆる角度から検討を試み尽くした上、
最も自然に全てがきれいに説明される結論を受け入れるしかないですよね。
それが学問であり、探究でありますから、
金印が真作か贋作かと最初から決めつけてかからずに、
事実をありのままに見てゆきましょうということになりました。
実は金印が、本物か、偽物かという問題は、真作か、贋作かという、もう、YesかNoか、0か1かという、
ものすごくシンプルな問題でして、 特に客観的論証や科学的調査とマッチする事案ですから、
今回、金印が、真作か、贋作かを判定するガイドライン、
更に一般化して、印章を鑑定するときの観点をまとめてみようじゃないかということですね。
それらの全てに対して、
きちんとした論拠を蓄積して、
真作か贋作かを立証できるんじゃないかと!
金印シリーズのまとめとして、価値がある動画となるんじゃないかと期待して、わくわくしてまいりましたけれども。
早速、こちらから見てまいりましょうということで、
先ず、一つ目は、印線の深さなんですよ!
今まで金印の真贋の鑑定で、封泥の存在を強調していう人は少なかったですけれども。
特に封泥の認識の有無は、
真贋の論争において決め手になるんじゃないかと考えておりまして、
古代中国では、戦国古鉨でも、秦漢印章でも、
まあ、こちらに出てきているのは漢印。
印泥を印面に付けて、
まあ、朱肉をハンコにつけて、
紙に捺すとことをされてなかったんですよ!
封泥(粘土)に押し付けて、封をするために、封緘をするために、印が使われたんですよ。
封緘をする粘土で封泥。
しかし、宋元明清あたりから、
篆刻の方面から印学が盛んになりまして、
印泥に印を捺すことから、
印章の存在意義は、封泥に捺して封をするということが忘れられていたんですよ!
なんてこった!ということで見てまいりたいと思いますけれども。
こちらに三つの金印、
「平阿侯印」、
「漢委奴國王」(漢の倭の国王ではなくて、漢の委奴の国王)、
そして「廣陵王璽」がございまして、
時代も近くて、様式も似ているんですよね。
特に線の際、角が太く切られていて、
肥痩の付け方、太い細いのバランス、
まあ、あとは対角線上の粗密を作るわけですよ!
これは上下でも!
それとここ「王」だけ非常に空いてる!
三つが非常に混んでる字であるとか、
そうした釣り合いがよく取れていて、
特に「平」の上のふくらみに真ん中が膨らんでる!
「委」もそうです!
そして、「陵」も、そうなんですよね!
そうした特徴も皆、非常によく似ております!
私は今までものすごい数の印面を観察してまいりましたけれども。
やはり、古代の印章は、
封泥や陶器の粘土に捺されるために作られておりまして、
線が深くて、谷になっているんですよ!
もうすごい!
それで封泥に捺されたときには、
粘土が印面の線の中にグニュンとめり込んで入ってきますから、
逆に封泥の上では、山の尾根のように浮かび上がりまして、
封泥の上で真ん中の線が、きれいにつながるように、印の線が作られているんだということなんです!
まあ、百聞は一見に如かずということで、こちらを見てまいりましょう!
今お話したことは、
西川寧さんが、
もう、70年近く前に金印を実見して、
「奴」の「又」の部分を詳しく調べて、
記録を残していてくれたんですよ。
本当にありがたいですよね!
こうして、真ん中の線が美しく連なりまして、
頭からお尻までつながっていますよ。
こちらに「底は丹念にさらってある」と書かれていますね。
そこで現物と対照して、
詳しく見てまいりましょうということで、
こちらの線の真ん中の底がつながってますよね!
特にこの腕の部分との繋がりも、
きちんとできているんですよね。
角もですねぐにゃんではなくて、
クッ、クッと直線的に曲がっていますけれども、
やはり、線の流れを全体で見ましたら、
金印の製作者は機械的に線を切っていなくて、
手を象形していることをきちんと理解しているんですよね。
線の流れが美しいということですけれども。
更にこちら、
特にはっきりとしている「漢委奴國王」と、もう一つ「廣陵王璽」の「王」の部分を拡大しましたけれども。
見事に美しく、縦も横も真ん中のつながりを意識して線が切られていますよね!
やはり、線の底を通るように浚ってあるんですよ!
それで線の端は楔形になっている、台形になっているんですよ!
こちらは、角打ちをして潰れていますけれども。
「廣陵王璽」の「王」の二本の左側の端を見ましたら、
線を切ったんですけれども、
まあ、線が細くて弱くみえたのか、
更にこちらで太く拡げられているんですよね!
もう一つ鑿の跡がゴツンと入っている!
やはり、二回、鑿を当てて、
線の端を拡げているんですよ!
「漢委奴國王」のこちらを見ましたら、
やはり、入ってるんですよ!
ここは入ってない!
ここは入っているように見える!
それでここは入ってない!
ということで、細かい観察ができておりますけれども。
どちらも、封泥に捺されることを意図して、線を切っていることが分かります。
特に封泥に捺されるときは、
この線の際も大事でしてね。
まぁ、この辺はちょっと広げていって、やはり、バンと入ってますよね。
これね!ちょっと膨らんでいる!
だけれども、この線の底こそが、命なんですよ!
やはり、印面に印泥を付けて、
紙に捺すときには、
溝の中の底の形は関係がありませんから、
シルエットみたいに白に塗りつぶされちゃうから、
白文と言いますけれども!
近代の印章の線の底は、
ギザギザになって、
鑿や印刀の跡がギダギダなんですよ!
とにかくそれで蛇行して、線の底がきれいに通っていないんですよ。
でも、最近は古印の研究が進んできましたから、
印石に刻すときでも、
こういうことを知っているごく最近の印人たちは、
もう、溝の底を丁寧に仕上げるから、
いい仕事をしているんですよ。
ですから、印章を見慣れた人なら、
印泥に捺された線を見ただけでも、
印面を見なくても、印影を見ただけでも、
線の底まで配慮をしてきれいに仕上げているかが分かるんですよ。
印泥で捺されると線の底は、印影に直接には関係がございませんけれども。
線質に関係してきて、
本当に美しく線がスキッと刻すことができるんですよね。
今お話していることは、
シンプルなことですけれども、
篆刻の極意ではないかと私は思っておりますよ。
やはり、篆刻に携わっている方がたなら、
漢印の線は強くて、線が通っていまして、
それは線の底が浚われて、
一本筋が通っているからであることを知っているんですよね。
しかしながら、実は大切なことがございまして、
「漢委奴國王」の金印が発見された江戸時代、清代中期には、
日本でも、中国でも、印章を封泥に捺すことすら知らなかったんですよ!
封泥が初めて記録されたのは、
孫慰祖さんが《中国古代封泥》という名著で、
こちら、呉榮光さんの《筠清館金石文字》という、
清代末期の道光22年(1842年)に出版された本の中で記載されていると書いておりまして、
こちらで原典に当たりましたら、
道光2年(1822年)ですから、
出版されたよりも、ちょうど20年前かな、
蜀人(四川省)が山で薬草を掘るときに見つけて、
金印が発見された1784年の40年近くも後に封泥が出土しました!
そして、出版は60年近くも後ですから。
しかも、当初は印章を鋳造する鋳型ではないかと、
封泥が使われた理由も、最初は正しく分からなかったんですよね!
それで本当に最近20世紀の始めに、
こちらの吳式芬さんと陳介祺さんと有名な文字学者、金石学者の《封泥考略》あたりで研究がされて、
著録されてゆきましたから、
封泥は本当にごく最近に知られたことが分かります。
まあ、こちらの「左司馬聞竘信鉨」と読めますけれども。
戦国時代の齊国の古鉨の封泥ですけれども。
封泥の仲間たちをこちらにご用意いたしました。
楽しい感じになってまいりました(笑)
先ず、齊鉨の封泥「民䣚信鉨」がありまして、
戦国時代は「鉨」と呼ばれていて、
秦印の封泥「安臺丞印」は、
田字格(田の枠)が見られまして、
これは秦印の特徴ですけれども、
それで「印」になった!
こちらは「鉨」だった!
齊鉨の封泥「民䣚信鉨」が、後の時代になると「信印」となるわけですけども。
「鉨」が「印」になりまして、
小篆に近い篆書なんですよね!
すごく美しい!
それで西漢(前漢)の真ん中あたりで枠がなくなりまして、
線が太くなりました!
「菑川王璽」は、今の山東省寿光という場所でして、
「王」「璽」とありますから、
身分がかなり高い方の封泥ですけれども。
そして、「漢委奴國王」の封泥は、
印を粘土に押し当てて作られましたけれども、
まあ、こちらが後漢ですけれども。
まあ、漢代の官印の封泥は、全く線質が同じですよね。
そして線がきちっと通ってるんですよ!
本当に文字が浮き上がって、読みやすいですよね!
特に「川」と「水」の線の始まりと終わりが本当に強いですよね。
こちら(線の端)が楔形(台形)に印面が切られていたからですけれども、本当に強い!
やはり、書でも、印でも、これは本当に大事なことでして、
線は際がきちんとしていましたら、
本当に線が強いんですよ。
全てにおいて、これはそうなっております。
そして、また、「王」の交差をするところなども、
両方とも中々お見事ですよね!
こちら!
やはり、こういうところまで間違いなく封泥を意識して、線が切られているということで、
今は、古印の愛好家が、中国にも、日本にも多いですけれども。
実は印泥で紙に捺された印影よりも、
最近は粘土にこうして捺されて現れた形によって、
印の良し悪しを判断するんですよ!
まあ、ちなみに封泥の面白さは、
もう一つ、まっすぐ印が押されないから、ちょっと歪んでいたりして、
この膨らみとか、歪みとかが面白かったりするんですけれども。
こちらは、加藤慈雨樓さんが、《慈雨樓新製封泥存》(京都:加藤慈雨樓,1970)ですけれども、
封泥を新しく作っちゃった!
普通、印譜と言えば、印泥で捺された印影を集めたわけですけれども。
封泥の形にするなんて、ものすごく面白い、素敵なアイディアじゃないかということでして、
でも、本来の印の機能や目的からすれば、こちらの方が正しいんですよ!
それで捺したときの味があります。それなかなか線みんな強いわけですよ!やはり、漢印はということで戻ってみますね。 こうしたことから、わたくしは金印の真贋の鑑定において、封泥こそが決め手になるんじゃないかと考えております。 何故なら、印面を封泥に押し付けて、こうした封泥の上で千を出すことを意図をして深く作られていますから、 もし、金印が偽物なら、贋作者は本来の印章の用途や封泥の存在をどう知り得たかという疑問に答えなければならないわけですよ。 金印が発見された当時(清代中期や江戸時代)の作例は、 封泥が知られていなくて、印泥で捺されることしか意図されていませんから、 どれも、これも、線がものすごく浅くて、線の底が通るように整わず、一本の線の底が整わないため、 深い所と浅い所が上下にも波打ちまして、左右にも線がよろよろして弱いんですよね! やはり、線質が全然違うわけですよ!それでは、印面を封泥に捺しつけても、 きれいに文字が浮き上がらないですよね。封泥に捺されたときは、 印面と谷の境目よりも線の底が大切ですから、
それでなかなか線がみんな強いわけですよ!
やはり、漢印はということで戻ってみますね。
こうしたことから、私は金印の真贋の鑑定において、
封泥こそが決め手になるんじゃないかと考えております。
何故なら、金印は印面を封泥に押し付けて、
こうした封泥の上で線を出すことを意図をして深く線が切られていますから、
もし、金印が偽物なら、
贋作者は本来の印章の用途や封泥の存在をどう知り得たかという疑問に答えなければならないわけですよ。
金印が発見された当時(清代中期や江戸時代)の作例は、
封泥が知られていなくて、印泥で捺されることしか意図されていませんから、
どれも、これも、線がものすごく浅くて、
一本の線の底が整わないため、
深い所と浅い所が上下にもぎだぎだに波打ちまして、
左右にも線がよろよろして弱いんですよね!
やはり、線質が全然違うわけですよ!
それでは、印面を封泥に捺しつけても、 きれいに文字が浮き上がらないですよね。
封泥に捺されたときは、
印面と谷の境目よりも、線の底が大切ですから、
このように浮き上がるために!
古代の印章は、太いもの細いもの、鋳造された鋳印、玉、金、銀、銅など、
ものすごい種類がありますけれども、
線の底はきれいに通っていまして、
魏晋になると質がガタ落ちしまして、
鋳印(鋳造されて作られた印)と鑿印(印面を鑿で切った印)と言いますけれども。
鑿印が増えてきて、
線も細くて弱くなりましてね。
鑿によって、急ごしらえした「急就章」と言うんですけれども。
印面に深さがない弱い線が多いですよね。
特に両漢(新莽も含みますけれども)、
当時の印は、官印も、私印も、きちんと作られていて、
黄金時代でしたから、
本当に素晴らしい優品が多いんですよ!
また、こちらに戻りましたら、
鋳造された後には、バリを取りましたり、
結局は微修正をしますけれども。
「廣陵王璽」と「平阿侯印」は、
線がかなり鑿で一気に切られていまして、
線彫りと言われますけれども、
「漢委奴國王」は、浚い彫りと言われますけれども、
深く鑿を丁寧に動かして、
線が深く、線の動きが滑らかに作られていまして、
一度、作製した駱駝もしくは馬紐の印紐の頭を落として、
蛇紐に加工し直すときに加熱されて、
印面を切り直して、修正を加えた可能性があります。
そのあたりはもっと科学的調査で調べていただきたいと思ってるんですけれども。
しかし、「廣陵王璽」も、
先ほど特に「王」を取り出して、
鑿でどう線を切るか、
仔細に検討しましたら、
一発では線が切られていなくて、
線を拡げていたり、
底をやはり丁寧に浚って、仕上げてゆくことによりまして、
字形や全体のバランスを考えて作られていたことが分かりました。
制作の発想にこれらは大きな違いがあるわけではなくて、
古代の印章は封泥に捺されることを意図して制作されたという事実こそ、
金印が真作である決定的な証拠になるんじゃないかと考えられます。
即ち、線彫りであろうが、浚い彫りであろうが、
別に両方とも、当時の工具で普通にできますから、
漢代に両方の作り方がありまして、
真贋の決め手にはならないんじゃないかということなんですね。
次に行ってみますよ。
二つ目は、印篆の作り方なんですよ!
先ほどは、漢印らしい自然な線の流れが生まれてくる秘密をいたしまして、
印学とか、篆刻学でしたけれども、
次は字形、篆法、篆書の作り方など、文字学の話なんですよね。
特に最近にものすごい数の印が出ておりまして、
わたくしもものすごい数の印に接してまいりまして、
特に「漢委奴國王」にある、文字と共通する部品のある印を集めてまいったんですよね。
先ず、 気になりますところは、
「漢」の水「氵」の左上の曲がり方ですけれども。
「水」の下部は、小篆でも真っすぐ流れてゆくように書きますけれども。
上部は川の流れや動きを出すため、
クルンと曲がっているんですよね。
西漢の玉印「淮陽王璽」、
封泥「河間王璽」、
金印「滇王之印」と「石洛侯印」は、
上部の三本とも、結構、激しく曲がっていますね!
後漢の初めの頃の金印「漢委奴國王」は、
確かに左側の下部だけが、クルンとカールしておりますけれども、
残りの二本は大分おとなしくなりました!
「海鹽右丞」は面白い読み方ですね。
こうこうと読むという西漢ですけれども、
少しだけ控えめに曲がっていましておとなしくて、
もしかしたら、私は東漢かもしれないと思いますけれども。
一般には西漢とされているんですよね。
でも、晩期であるはずです。
東漢(後漢)の銅印たちでは、「漢委奴國王」のようにですね。
「水」が後はもう真っすぐになっちゃったんですね!
これは隷書の影響で隷化と言いますけれども、
小篆の丸みが取れてゆきまして、
もともと曲線的だったものが、
どんどん、どんどん、直線になっちゃうんですよね。
これはすごい!
本当に真っ直ぐんこちらに行ってみたいと思うんですよね。
更に全て「漢」が入っている印を集めてまいりましたけれども。
やはり、西漢の銀印「廣漢大將軍章」では、
左右が少しクルンと曲がっているんですよね。
これ、「水」はなかなかユーモラス!
それで既に西漢の晩期には、
後漢の初期と似た傾向があったんじゃないかと分かりますけれども。
でも、東漢の銅印たちは、
全てもう真っすぐになっちゃっているんですよね。
特に「漢保塞烏桓率眾長」も「漢委奴國王」と線質がそっくりですよ!
これ、本当に!
最後のこちら「漢歸義氐佰長」だけは、
真ん中の線が省略されていて面白いですね!
「漢」の足「火」は、皆これはつながっていたり、離れていたり、
まあ、一本通っていたり、
離れている!
くっついている!「火」みたい!
離れている!
人の足みたい!
人の足みたい!
離れている!
人の足みたいということで全て違いますけれども。
一番近いものは、
まあ、この「漢盧水佰長」が「漢委奴國王」と一番似ているんじゃないかと、
足の作り方ですね。
思いました!
次の「委」や「奴」の「女」の形を見ていくんですけれども。
秦印から小篆に近い字形を引き継ぎまして、
漢印でも初期では、やはり、足がすらりと長くて、 緩やかにカーブしていましたけれども。
ああ、この中では、
こちらの「漢匈奴破虜長」はすらっとした感じで近いのかなと思うんですけれども。
緩やかにカーブしてましたけれども。
既に前漢でも、後漢でも、
「匈奴」の印が二つありますが、足が結構カクカクしている!
二つともそうであります!
これはもう既に前漢でも足がカクカクしております形も併存していましたから、
これでは、やはり、時代を判定する決め手とはならないですけれども。
でも、「匈奴」の印を持って参りましたのは、
やはり、こちら「漢匈奴惡適姑夕且渠」は金印「漢委奴國王」に足の動き方は近いですよ!
そして、こちら「漢匈奴破虜長」も、
小篆に近い形でなかなか面白いですよね。
そこでこの「奴」の形で手の方を見ましたら、
気が付いてしまったんですよ!
「奴」の「又」は、一画多く作られているんですよね!
こちらを見てみましょうということで、
特集をしてみましょう!
「奴」は甲骨金文のときから、
既に点があるんですよ!
ここにもある!
ここにもある!
こちらは戦国時代まで来ていますよね。
ある!
しかも、その「又」の中に入っている!
これも一角多い!
下の方に入っていって、
やはり、入っている。
何か入っている。
入っている。入っている。
古鉨ですね。
陶文ですね。
やはり、これら甲骨金文から、点がありまして、秦漢の篆隷まで、ずっと引き継がれまして(高奴禾石銅権や嶽為74正参)、
こちらの羅福頤さんの《漢印文字徴》を見てみましたら、
説文小篆ではないんですよ!
でも、漢印の上では、「奴」を「又」に作っているのがないんですよ!
逆になんかね普通の「又」とは違うんですよ!
一本多かったりしているんです。
どうも、やはり、説文小篆のような、普通の「又」では作られてないという事ですけれども。
まあ、清代中期の嘉慶年代の初期、
こちらにそれらの辞書を集めた《漢印文字彙編》がありますけれども。
これは桂馥さんという、考証学者、文字学者が出した、こちらに「繆韻」と書いてありますけれども、
《繆篆分韻》(1796年)という辞書でして、
漢印の字書がいくつか出版されましたけれども、
それよりも前に金印が出土していますから、
印篆の字書を参照できませんから、
だから、「奴」の「又」に点があるということは、
これは地味ではありますけれども。
金印が真作である一つの証拠となりえるんじゃないかということで戻ってみますよ。
次は「國」に行きますよ!
西漢の始めは、「戈」の斜めの線が大分曲線的だったんですよ!
ところが、隷化が進んで、
後漢の終わりになると、線が直線化されてゆきまして、
特にクックッと折れるように変わるんですよね。
この金印では何か間っぽい!
それで、また、前に字源を特集しましたけれども。
横の線は「戈」の刃の部分でしたよね。
後の部分はこれが柄であったり、(組み紐の)飾りでしたけれども。
横の画が右下がりに行ってたんですよね。
初期の頃は、
こちらに関しても、
金印は右下がりで曲線的だったものが、
ちょっと直線化していまして、だけれども、よく見ると右下がりになっている形ですから、
普通に横線の「一」との間なんですよね。
これはやはり隷書の影響ですけれども、
金印は斜めの線は前漢に近くて、
横の線は後漢に近いということは、
後漢の最初の頃の過渡期に作られたことが立証されるんですよ!
この「國」においても、
まあ、この点も、やはり少しずつ変わっていくんですけれども。
まあ、あとでまっすぐなっちゃうというのはありますけれども。
まあ、それもあとで、このクックッと曲がった形でもあるから、
まあ、それは決定的にはなりませんけれども。
特にこの「王」は時期によりまして、劇的に異なりまして、
小篆では「玉」とは別字でして、
「王」の真ん中の線は、やはり上側にあったわけですよ!
こちらを見ましたら、そうなってるんですよ!
全て前漢の印では、
ところが、どうも、前漢の終わりあたりで真ん中になってきまして、
それで「漢委奴國王」と「廣陵王璽」は、一年違いありましたけれども、
「漢委奴國王」と「廣陵王璽」はもう後漢の初期の頃では、
もう、ほぼ真ん中になってしまって、
まあ、よく見るとちょっと上っぽいところは、完全な真ん中じゃないんですよね。
でも、もう、「王」と「玉」の区別がつかなくなりましたから、
「玉」に点を打たれることによって、
区別されるようになりましたけれども。
やはり、横格の真ん中の画は、
ちょっと右方がちょっと下がってるんですよね。
面白い!これ結構ありました。
そうしたことなどなど、
こうした細かい篆法、
篆書の作り方は、
まあ、篆刻家の小林斗盦さんが指摘していましたり、
まあ、最近は孫慰祖さんが、編年と言いますけれども。
印のタイムラインを詳しく研究していますけれども。
漢印に見慣れた専門家は、こうして字形の細かい違いによって、
もう、印章を見た瞬間にこの辺りだろうなと大体の年代の見当が付くんですよね。
ということで篆書の作り方でも、時代差があるんだという面白くなってまいりましたけれども。
次、行ってみますよ。
三つめは、印文の選び方ですけれども。
今度は歴史学や文献学の話になってきますけれども。
特に《漢書》に人偏が付いた「倭奴國」とありますけれども、
金印は人偏がない「委奴國」で作られるんですよね。
これはどうしてなんだ!?
前回に「倭」に人偏がない形「委」であるということは、
歴史書の方が書き換えられた可能性が高くて、
音韻学や言語学の考察からも、
「委」はの接中辞infixが入っているんですよ、
本来の音はこっちだったんじゃないのかと!
漢代までは偏の有無は、意外と自由でして、
意符の付け方は任意でしたけれども、
音を書いている声符が大切でしたね。
前回の動画で「倭」は、人偏がない「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔこそが、
「倭」より古い書き方ではないか、
そして、こんなことも気づきました。
前々回は、先ず「漢」*hnaːns, *n̥ˤar-sは、意符「水」+声符「堇」*ɡrɯn, *[ɡ]rə[r]ですけれども。
更に分解できまして、
実はこの「火」に訛ってしまいましたけれども。
「山」*sreːn, *s-ŋrarも声符ではないかと指摘をしました。
「山」が下についているのは、
まあ、後に「土」や「火」に訛ってしまって、
金印では「火」、
それと先ほど足の形もありましたけれども。
甲骨金文の最初の字形は「山」でした。
そして、前回の「倭」の特集では、
人偏が付いていました「倭」*qoːl, *[qoj]は、そして意符「人」+聲符「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔですけれども。
更に分解できまして、実は上のこの「禾」*ɡoːl, *[ɢ]ˤojも声符ではないかとさらりとお話しましたけれども、
これは実は始めての指摘でして、
「禾」の語源まで、漢蔵祖語まで遡りましてお話しましたね。
ですから、前々回の「漢」と前回の「倭」の字形の発展のシナリオは全く同じでして、
先ず「山」とか、「禾」とか、聲符があり、
それに更に意符が一つ付いて、繁化されて、複雑になって、
更にまた「水」とか、「人」とか、意符が付いて、
それによって、二つの段階で構成されていたという話でして、
これ実は新たな発見なんですよ!
意外と漢字には、更に音により細かい部品が分析できることを強調して申し上げたいと思います。
そして、「倭」*qoːl, *[qoj]、もしくは金印の人偏がない「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔは、
「汙」*qʷaː, *qʷˤraや「濊」*qʷads, *[qʷˤat-s]、
高句麗の「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]とか、
まあ、これは「水」がないですが、今の歴史書の上では下も三水ですけれども。
「沃沮」*qoːwɢ ʔsa, *[ʔ(r)ak] [tsa]と音が近いとお話しましたけれども。
また、もちろん「夭」*qrowʔ, *[ʔ(r)awʔ] > ʔˠiᴇuXや「沃」*qoːwɢ, *[ʔ(r)ak]。
しかも、「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤaや「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷat、
先ほど、「夏」*ɡraːʔ, *[ɢ]ˤraʔや「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔなど、
オーストロアジア語族の「川」や「水」ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋ > ベトナム祖語k-roːŋ まで遡れるかもしれないということでしたけれども。
金印は、三宅米吉さんという方が、
明治時代に「委(倭)」の「奴(な)」と読むんだと定説になりましたけれども(三宅米吉:〈漢委奴國王印考〉(《史學雜誌》第3卷第37號,一八九二年)、
実は江戸時代の発見当時から、
亀井南溟さんが《金印辨》でも、
また、最近でも、水野祐さんが「倭奴」と「匈奴」を対照して、
「倭奴(わぬ)」で一つの名前という意見も根強くありまして、
まあ、前回に私は、音韻学上の知見から、
「倭奴」で合声であり、
二文字で一つの固まりの言葉を書き、
特に添えられた「奴」は、nの子音が欲しかったからとも考えられるとお話しましたけれども。
「呉」が「句吳」、「越」が「於越」とされ、
特に「越」というと「越人」など民族を指しますけれども。
「於越」などやはり、国名に特化して、「倭」というと「倭人」など民族を指しまして、
朝鮮半島にも、日本列島にも住んでいましたから、
「倭」に「奴」を加えて、
二文字の国名としたと考えられるんじゃないかと。
それは印文で印式と言いますよね。
印文の形、「漢の倭の奴の国王」と三段で読むというよりも、
「漢の倭奴の国王」という印文の方が、自然だということもありますよね。
そして、「倭」に「奴」を加えて、
二文字の国名にしたというのは、
もう一つ、日琉祖語*nuで野原、田んぼなど、土地という意味からという話もしましたけれども。
「任那」と朝鮮半島南部にありましたけれども。
「任那」の「な」も、ちょっと気になってまして、
古朝鮮語のやはり、「主」「王」nama + 「邑」「壌」naで「任那」ではないかとか指摘されていたりして、
気になっているんですけれども、
「倭奴」で倭人の土地、倭人の国ということも考えられますよ。
もう、一つの観点から行きましたら、
中国にも、秦代に設置された天津の漁陽郡雍奴縣とか、
前漢に設置された北京の漁陽郡狐奴縣など、
「奴」が付く古い地名が大陸にもあるんですよね。
まあ、《魏書·東夷伝》(《魏志倭人伝》)にも、
「狗奴」*koːʔ naː, *Cə.kˤroʔ nˤa > kəuX nuoとありまして、
そして、「雍奴」*qoŋ naː, *qoŋ nˤa > ʔɨoŋ nuo、
「狐奴」*ɡʷaː naː, *[ɡ]ʷˤa nˤa > ɦuo nuo、
「委奴」*qrolʔ naː, *q(r)ojʔ nˤaなどに全部音が近くて、
これらも気になっておりまして、
しかも、前回の話からすると、倭人が住んでいた土地の位置に一致しておりまして、
しかも、《水経注》「四面有水曰雍,澄而不流曰奴」とありまして、
四面に水で囲まれている「雍」、そして、水が澄んでいて流れていかない、それを「奴」と言うと書いていたりして、
「雍奴」をそういう解釈をしてあったりして、何か水と関係しているんだということであって、
まあ、いずれにしても、一つの塊で音を書いたって考えると良いじゃないかという事ですけれども。
特にこうした地名(toponym)とか、
水名(hydronym)は、古い言葉を残している可能性がありまして、
地名学や語源学は、民族の分布などを調べる時には、
ものすごく威力を発揮するじゃないかと、
大体、地名とか、水名というのは、
先住の人たちの言葉がそのまま残されているということで、
言語学上、もしくは歴史学上でも、すごい大事でして、
こうして、文字学、印章学、音韻学、言語学の知見から、
篆法や印文を検討してまいれまして、
特に金印が「委」と人偏がない形で「倭」を作ることは、
真作である根拠となりるんじゃないかというお話でありました。
そして、四つ目は、印紐の形ですけれども。
沢山ここで色んな面から置いておきましたけれども。
この金印シリーズの最初にですね。
金印の印紐は、駱駝から、蛇に変更されているというお話をいたしましたけれども。
先ほどの新製封泥で封泥を作っちゃった!
加藤慈雨楼さんが気づいたことなんですよね。
今までわたくしの中でも、
どうして紐式、紐の形が変えられたのか、
不思議で仕方がありませんでしたけれども、
前回の動画で漢代の楽浪郡で出ました、
今の平壌で発掘された「夫租薉君」など濊王の印は、
まあ、駱駝紐か、馬紐でもう少し時代が下りますね。それで作られておりまして、
日本列島の倭人は、朝鮮半島の濊人、これらは全て今は三水「氵」で書かれるのが、草冠「艸」とか、禾偏「禾」となっていますけれども。
濊人と倭人は、本来は同族だったじゃないかという所から、
やはり、金印をもらったときは、
本当に漢王朝と(日本列島の)倭人が最初に接触をしたんだろうと、
最初は漢王朝が、倭人を濊人と同じように捉えて、
駱駝紐で作られましたけれども。
倭人は南の民族と似ていることに気づいて、作り変えられたのではないかというお話をいたしましたけれども。
まあ、よく考えてみましたら、
南の民族ではない、北の匈奴や西の羌や叟などでも、
漢代でも、特に匈奴で駱駝紐を蛇紐に改造したという、
例がないわけではないんですよ。
漢代の印制では、文献の記録と実物の印章が一致しないことが多くて、
まあ、異民族の処遇は、意外と柔軟でした可能性もありますけれども。
でも、南の方の民族に与えられた、
先ほどありました蛇紐「滇王之印」など、
少ないとはいえ、逆に駱駝や馬の紐は、南では見たことがないですから、
私の指摘は依然として、今のところ有効だと思うんですけれども。
どちらにいたしましても、
金印の真贋の鑑定に話を戻りましたら、
そもそも、清代中期、江戸時代に漢印の印式、紐式について、
駱駝紐や蛇紐のデザインのものすごい細かな情報まで、どこから得たのかが問題なんですよ。
まあ、蛇紐が南の民族に与えられたことは、
《集古印譜》「蠻夷仟長印」に「爬紐」としてありまして、
南には蛇が多いから、蛇紐だと書いてありますけれども。
こちら、《集古印譜》とか、
《石鼓齋印鼎》とありますけれども。
当時の絵図はこれはかなり雑ですよ!
これ漫画みたいですよね!
《北斎漫画》みたいですよね。
実物の出土もないわけですから、
印紐の形状や表面の模様のディーテールまで、本当に絶対に知り得ないですよね。
現在は、こちら、現在は羅福頤さんの《古鉨印考畧》が端緒を開きまして、
文字や印紐などの細部から、
こうして、漢印の編年、時期により、区別をして並べるという研究がされておりまして、
グルーピングがされていますけれども。
そして、こちらの蛇紐にしてもありますね。
こちらは秦から前漢の田字格がありますよ!
こちらの蛇らしい形をしてありますけれども、
こちらは(蛇が)へばりついています。
この田字格は、ちなみに秦印の特徴だと言われますけれども、
まあ、前漢くらいまで使われていたんですよ。
先ほど「海鹽右丞」もでておりましたり、
「滇王之印」もあります。
先ほどこちらを見ました!
そして、後漢の官印と書いてありますね!
これも先ほど見ましたね。
という形で区別されて、整理されて、記述されておりますけれども。
金印をカラーで銅印たちをモノクロで鈕を見やすく、
編年をしてタイムラインを作ってみたんですけれども。
金印は、やはり、蛇の頭が後ろに向いているんですよね。
これ見たら、もう誰が見たって、どれが一番近いですかと言ったら、
これですよね! 蛇がちゃんと頭が後ろを向いているし、
ぴったりしていますよ!
本当に! 東漢銅印「蠻夷里長」に似ていますということでぴったんこ!
前漢は蛇がちょっとリアルすぎて、
それで今度は逆に魏晋も、もう西晋までいってますけれども。
蛇がとぐろ巻いていて、これはソフトクリームみたいでして、
しかもですよ! この前漢は、この蛇のうねりの間に穴というよりも、
蛇を溶接してくっつけたような形をしていまして、
上から見てこんな感じです。
この晉印はドリルで丸い穴が開けられたようでして、
後漢はやはり、 穴の開き方、紐孔といいますけれども。
紐の穴までぴったんこ!一致しております!
半円形です。
こちらは丸!
そして、また、魚子鏨と言いますけれども、ブツブツの文様で蛇の鱗が表現されておりますから、
特に上から見ると分かりやすい。
ここに多いです!まあ、ここもあります。
これは後漢の様式に完全に従っていますよね!分かりますよね!
しかもですよ、こちら、「漢委奴國王」と「廣陵王璽」で一年しか違わないということでしたけれども、
魚子鏨の文様まで、本当にびっくりしちゃうくらい同じわけですよ!
そして、蛇の鱗や龜の甲羅も、魚子鏨で表現されていますよね!
厳密に言えば、
前漢の「平阿侯印」は、後漢の「廣陵王璽」は、
同じ亀の紐なのに亀紐の様式が異なりまして、
前漢は甲羅が上に厚くて立ち上がっておりますよね。
後漢は甲羅が少し平らになっておりますよね。
まあ、石川日出志さんという方が、
今年の初めに亀紐の論文を出しまして(石川日出志:〈両漢代印亀鈕の型式学・試論〉《古代学研究所紀要》30: 3-21.)、
どうも、前漢はミズガメだと、後漢はリクガメだと、水から陸に上がっちゃったと書いてありまして、
ちなみに、こちらの「平阿侯印」は挙げられていませんでしたけれども。
これは前巻の様式に従うのではないかと!
ですから、そもそも、出土当時に金印「漢委奴國王」が偽作されたとしたら、
金印の紐に魚子鏨で蛇の鱗の文様まで付けるという、丁寧な仕事の細部まで、どうして知り得たのかということを説明する必要があるんじゃないかと!
そして、少なくとも、こういうものを偽造するには、
先ずは、漢印の駱駝紐か馬紐の細部まで熟知する必要がありまして、
また、加工された蛇紐の細部まで再現する必要がありまして、
大塚紀宜さんが印紐を調査しましたけれども(〈金印の詳細観察と中国古代印章との比較-特に駝鈕印について-〉《古代学研究紀要》第23号,明治大学古代学研究所135-143頁,2015年)、
また、孫慰祖さん(〈古印中所見的蛇〉《孫慰祖論印文稿》144-145頁,一九九九年)が、蛇紐の様式を徹底的に論じていまして、
本田浩二郎さんが、紐孔、紐に組みひも綬を通す穴、
まあ、漢代には「つまみ」が「紐/鈕」、
そして、「組み紐」が「綬」と書かれましたけれども、
紐(ひも)が通る穴を調べてくれていまして、
矛盾がないんですよ!
そういうことですから、先ず他の金印たちは、「漢委奴國王」が出土する前に出土していませんから、
後に出土した印が同じ様式であること自体が、金印が真作であることを保証しているんじゃないかということが考えられるんですね。
そして、五つ目は印体の寸法ですけれども。
秦漢の印章を「方寸之印」と言うんですけれども。
まあ、方寸というのは、漢籍では心臓とか、心という意味もありますけれども、
方寸というのは、その通りに一方の寸法でして、
まあ、秦印には半通印と言いまして、
縦半分の大きさがありますけれども。
後漢の漢官印は方寸(23mm)なんですね。
この一辺が!
最初に岡崎敬さんが金印を精密に測定して、
尺寸が規格に合うということで真作だと言いましたけれども。
その後の研究で江戸時代には、後漢の尺寸は知られていて、
(中村惕齋《律尺考験》や)狩谷棭斎《本朝度量権衡攷》等の学者が、建初尺(西暦81年製)という、
金印よりちょっと30年くらい後の尺寸を算出して23.5㎝ということは分かっておりましたから、
その大きさで作ることができまして、
それだけでは真偽を判定できませんけれども、
尺寸の条件はクリアしなければなりませんから、
本物であるという証拠の一つにはなり得るんですよ。
六つ目は材質ですけれども。
金印「漢委奴國王」は、後漢の金製品の含有率(品位)と一致する結果(金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、水銀など±0.5%)が、
もう、30年以上前に蛍光X線分析で出されていまして、
私が今、知られている金印を見てみましたら、50個弱ありまして、
魏晋を除きましたら、
秦漢でしたら、特に両漢と新莽で20個弱になりますけれども。
どれ一つも、金印が出土する(1784年)より前に出土していないんですよ。
仮に漢代の金印を入手できていたとしても、
科学的な定量分析はどうやって、
清代中期/江戸時代にできるのかと!?
そして、金の含有率をどう決めたんだという問題こそが、
最も科学的、客観的な観点でして、
真贋の鑑定に有無を言わさない根拠になるんじゃないかと考えておりまして、
「漢委奴國王」(金95.1%、銀4.5%、銅0.5%、水銀など±0.5%)は、
前漢の「滇王之印」や「平阿侯印」(金95.6%、銀2.3%、銅0.1%)とほぼ同じでして、
こちらの「広陵王璽」は調査されてるのかは調べたけれども、見つけられなかったけれども。
両漢の金印、もしくは金製品は、大体、金が95%以上を占めていて、高品位なんですよ!
ですから、これらはお互いに金の含有率は殆ど同じなんですよね!
以上から、印章の贋作をいかなる観点からも矛盾がなく実行するためには、
今まで述べて参りました、多岐にわたる全ての知見が必要でして、
私はこちらで六か条をまとめてみましたけれども。
少なくとも、六点の全てについて、矛盾がないため、
やはり、金印「漢委奴國王」は、
真作と判断せざるを得ないんじゃないかと!
逆に言えば、もし、贋作と主張するなら、
江戸時代(清代中期)に、これらの六点の全てについて知り得て、
それらに矛盾しないように贋作を遂行したことは、
どうしてか説明しなくてはならないです。
特に金印の真偽の鑑定において、
今まであまり重視されてきませんでしたけれども。
私が声を大にして言いたいことは、
清代中期や江戸時代に偽作されたとするなら、
漢印には金印、銀印、銅印を問わず、
琥珀などで作られたもの、後は玉で作られたものもありますけれども。
文字の面積が広いものも、狭いものも、多種多様ですけれども、
いずれも、線質が、清代中期や江戸時代の印章と著しく異なりまして、
それは封泥に捺された印章の本来の用途のためではないかと!
特に最後のこの組成、
品位の成分分析と同じく、
江戸時代(清代中期)には存在し得ない情報ですから、
封泥を使っていたこと、
これも決定的じゃないかと考えられます。
ですから、時間をかけて、細かいところまで見てまいりました!
印章を偽造するのは、色んな観点からみて、ものすごい知見が必要でして、
軽々しく、出土した状況が怪しいから偽物とは言えないことが分かると思います。
考古学的な詳細な出土状況の記録がない限り、
出土状況などがどうでしても、
甚兵衛さんが見つけようが、ジェイムズさんが見つけようが、誰が見つけようが、
金印の真偽の問題とは、全く別の問題なんですよ!
そして、大切なことは、先行研究に触れることなんですよね。
本編で言及してまいりました方に加えて、
こちらにございますような研究がされてまいりまして、
著作がございますから、
最後に皆さまに感謝(acknowledgement)ということで感謝しておりますけれども、
そして、こちらに戻ってみますよ!
こうして、金印「漢委奴國王」、
まあ、最後に大サービスで金印が作られた漢代の後期上古漢語(Later Han Chinese)のシュスラーさんによる再構でしたら、
「漢委奴國王」*hɑnC ʔyai nɑ kuək wɑŋになりますけれども。
Baxter-Sagartさんだとちょっと「國」の最初の子音が分からない*C.ですけれども、
まあ、それを無視して読んでみますね。
「漢委奴國王」*n̥ˤar-s qoj nˤa [C.q]ʷˤək ɢʷaŋという感じでして、
中古漢語でしたら、「漢委奴國王」hɑnH ʔuɑ nuo kwək̚ ɦʉɐŋという感じで読めまして、
「漢委奴國王(かんわぬこくおう)」と日本語では言いますね。呉音でけれども。
まあ、それは中古漢語「漢委奴國王」*n̥ˤar-s qoj nˤa [C.q]ʷˤək ɢʷaŋからきているわけですけれども。
それでちなみにここに書いてある。
この音はみんな人偏が付いている方で書いてましたけれども、
人偏が付いてない「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔでいけば、 こっちは infixが入りますから、
「倭」*qoːl, *qojではなくて、「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔになるわけなんですけれども。
もう、金印について、色んな角度から語ってこれまして、
漢とは、夏とは、呉とは、越とは、濊とは、倭などなどに至りまして、
金印から始まって、もうものすごい世界がブワーンと広がりまして、楽しい感じになってまいりましたと思うんですよ!
金印シリーズもこれで一つまとまりまして、
もう、年の瀬に思い残すこともなくなりましたけれども。
KF-Schola、KF-Ars Sinicaは、真実の探究をする「実事求是」をモットーとしておりますから、
こうした観点から、こうした鑑定ができるという、
印章を鑑定する、鑑賞するポイントをシェアーできたこと、
それこそが価値があることだと思いました。
また、金印に関して言えば、
印の表面の仕上げ方など、もう電子顕微鏡で観察するような、ものすごい細かい調査もしていただいたりできたら、
更に確実になるじゃないかと!
そうした色んな観点を思いつきながら、
たかが、23mm角の「方寸の印」にしても、
ものすごい奥深い、そして、ものすごい幅広い世界が見えてくるいうこと自体がおもしろいことでして、
これこそ、探究の面白さではないかと思いました。
そうして、色んな角度から検討を重ねました結果、
今のところは、 印紐、印体、印面のどこにも矛盾がみられません上、
特に封泥に用いた用途を知らなかった時代にどうして封泥に捺しておかしくない、
深い彫りの線を刻せたのか、作れたのかという事実こそが、
本物であるという、真作であるという、動かしがたい証拠となり得るじゃないかということでしたけれども、
今後とも議論をいつもオープンにして、
金印の真贋に限らず、
どんなことに関しても、先入観で決めつけずに、様々な角度から、様々な観点から、考察をして総合的に探究して楽しんで参りたいと思います。
もう、サイエンティフィックにワンダフルなリサーチをしますということですから、
KF-Schola、KF-Ars Sinica、今後とも何とぞよろしくお願い申し上げます。
ここまでご覧くださいましてありがとうございました。
皆さま、素敵な年の瀬をお過ごしくださいませ。
失礼を致します。