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「倭」はどこから来たか、語源を考えましたら、禹=於=越=吳=沃=濊=汙=倭:委とつながり衝撃でした!Glorious Golden Seal

日本人どなたも耳にしたことがある輝かしき金印「漢委奴國王」の続編です。「漢」の語源と字源に引き続きまして、「倭」の語源と「倭人」の足跡をチャレンジャブルに考えてまいりました。特に「倭」の本来の表記は「委」であること、それは上古漢語で何を音写したかを考えましたら、禹=於=越=吳=沃=濊=汙=倭:委がつながりまして衝撃でした(更に禹=夏=華について続編をご期待くださいませ)。

また、最新の言語学、音韻学、金石学、文献学、歴史学、遺伝学、考古学などの知見を踏まえまして、総合的、俯瞰的、多角的な考察から、特に倭人の先祖たちの一派は、長江下流→山東半島→遼東半島→朝鮮半島→日本列島や琉球諸島と動いたことにもマッチしまして、はたまた、「倭奴」は二文字で一つの音を書いていた可能性が高いこと、金印の駱駝や馬紐が蛇紐に変えられた理由の謎解きなど面白い発想に至りました。お楽しみくださりましたら幸いです。

面白かったことなどのコメントを下さりましたら、また暖かい応援を下さりましたら、更にTwitterやFacebookなどSNSでご紹介を下さりましたら、今後の撮影の励みになります。皆さまと印の楽しみを少しでもシェアーできましたら幸いです。

※日本語の字幕を表示するスクリプトをご用意しました。
 専門用語や細かい訂正などは字幕でご確認下さいませ。

2021年12月10日

皆さま、こんにちは!

KF-Ars Sinicaが誕生をした、デビュー作、

金印シリーズが、ものすごい数の方に御覧を頂いておりまして、

とても、とても嬉しくなりまして、

前回にお久しぶりに新たに「漢」についての考察を出せましてね。

漢字/漢語のユニークさを探究するシリーズの「言語と文字のデュアリティ」のスキームを用いておりまして、

実は続いているというお話でしたけれども。

今回は前作の「漢」の姉妹編として、

「倭」「奴」について、

やはり、こちらもずっと温めてまいりましたので、

やってみたいと動画を作ってしまいました。

早速、こちらにございます。

先ず、「倭」から見てゆきたいと思いますがけれども。

《漢書·律曆志》の顔師古さんの古註、

もしくは《切韻》や《広韻》などに反切がありまして、

中古漢語の音が分かるんですよね。

ちなみに《史記·魯周公世家》索隱注「倭音人唯反,一作俀,音同。」の中にも、

「倭」がちょっと訛った形「俀」。

人偏に妥協の「妥」(「俀」)と書かれる字がありますけれども。

旁の部分「委」が、まあ、それは字形が訛りまして混同されたと考えられるんですよ。

上古漢語の音も、鄭張尚芳さんとBaxter-Sagartさんたちによる、

現在、望みうる最新の音韻学や言語学による再構がございますけれども、

いつものようにここからお話が始まるんですよ!

「倭」*qoːl, *[qoj]の声符は、「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔですけれども、

更にその声符は「禾」*ɡoːl, *[ɢ]ˤojであると考えられるわけですよ!

まあ、こちらの声符「禾」*ɡoːl, *[ɢ]ˤoj自体の語源は漢蔵祖語で「麥」*m-grwaと考えられますけれども。

実は前に上古漢語の異文や異読という、

同じ文章を比べると違う文字で書かれていることから音を当てていくという方法がありましたよね。

こちらに面白い例がございまして、

《後漢書·烏桓鮮卑列傳》で「倭人」「倭人國」と書かれているところが、

《魏書·烏桓鮮卑東夷傳》の中では「汙人」「汙國」と書かれているんですよ!

ですから、「倭」と「汙」は指している民族も同じではないかと考えられまして、

それで「汙/污」*qʷaː, qʷaːs, *qʷˤra、それは汚いという字ですけれども(苦笑)

そして、こちら「濊/薉/穢」*qʷads, *[qʷˤa t-s]も、汚らわしいという字ですけれども(苦笑)

朝鮮半島やその北や東にいた民族でして、

ものすごくひどい字が並んでいて(苦笑)

《漢書·地理志·燕地》でも、「朝鮮」「濊貉」「句驪」「蠻夷」と仲良く並んでいますけれども、

顔師古さんも、「濊」の字のバラエティについて書いておりますね。

まあ、禾偏「禾」がついたり「穢」

草冠「艸」が付いたり「薉」

特に高句麗の「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]、どうも、「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔ(「倭」*qoːl, *[qoj])と音が似ておりまして、

中古漢語や上古漢語の特集のときにしましたけれども、

一つの言葉を二つ以上の文字で書くという合声ではないかと思われるんですよ。

また、「沃沮」*qoːwɢ ʔsa, *[ʔ(r)ak] [tsa](「夭沮」*qrow ʔsa, *ʔaw [tsa])において、

特に「沃」*qoːwɢ, *[ʔ(r)ak]と「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔ(また、「夭」*qrow, *ʔawと「倭」*qoːl, *[qoj]が似てるんですよ!

しかも、「汙」*qʷaː, qʷaːs, *qʷˤraの声符は、「于」*ɢʷa, *ɢʷ(r)aですけれども、

「于」*ɢʷa, *ɢʷ(r)aですから、「於」*qa, *[ʔ]aの声符でもありまして、

ちなみにこれ楽器の「竽」*ɢʷa, *[ɢ]ʷ(r)a、もしくは、カラスの「烏」*qaː, *qˤa, ʔˤa > ʔuoを声符としておりまして、

語源は漢蔵祖語で「楽器」gliŋ、「烏」groyと考えられますけれども。

こちらに《魏書·東夷傳》「其[濊]耆老舊自謂與句麗同種」に「濊」と「句驪」は同種、同族だと、

土地の古老が話していると書かれておりまして、

最も古い「濊/薉/穢(わい)」に関する記録として、

禾偏の「穢」は《逸周書·王會解》「穢人前兒,前兒若彌猴,立行似小兒」に周公旦の時代(紀元前1000年頃)の事が書かれていまして、

《逸周書》は少なくとも、戦国時代の魏の墓から(《竹書紀年》などと共に)発見された《汲冢書》と言われますけれども。

竹簡に書かれた一つで清華簡の楚の書にも見出される篇がありますから、

戦国時代に遡りえますけれども。

「前兒」は小さな子のように歩くと書いてありまして、

これはどうも、ラッコかオットセイのような動物だと言われていまして、

それを献上したとあるわけですよ。

それでそちらには、《呂氏春秋·恃君覽》にある「非濱」が「夷穢之郷」、「穢人」たちの郷と書かれていまして、起源が書かれておりまして、

まあ、これは燕の東にある朝鮮半島の付け根の当たりと考えられるんですね(また、「非濱之東,夷穢之鄉」、「揚漢之南,百越之際」とありまして、「非濱」と「揚漢」、「夷穢」と「百越」が対比されて出てきます)。

今度はものすごく南の話ですけれども、

同じ声符を持つ「粤」*ɢʷad, *[ɢʷat]は、粤語と南の方の漢語を今でも言いますね。

この「粤」は、《爾雅·釋詁》「粤、于、爰,曰也」の中ではつながりがあると書かれておりまして、

そして、更にこの雨冠が付いた「雩/𩁹」*ɢʷla, *[ɢ]ʷ(r)aは、「雨ごい」という意味でありますけれども。

漢蔵祖語「雨」*r/s/g-waが語源ですけれども。

驚いたことに、こちらの「粤」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatは、

「越(𫑛、戉)」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatも同じ音ですね。

それでかつ、「濊/薉/穢」*qʷads, *[qʷˤa t-s]でして、[ɢ]と[q]ですけれども。

IPAの子音のチャートで[q]と[ɢ]は、無声・有声の関係でして、

調音の位置と方法は全く同じでして、

末尾は後の時代に入声の声調にいきますけれども。

*-tの子音までぴったりと一致しているんですよ!

特にこちら「雩」*ɢʷla, *[ɢ]ʷ(r)aは「雨」*ɢʷaʔ, *C.ɢʷ(r)aʔを声符に持ちまして、(また、「于」*ɢʷa, *ɢʷ(r)aも声符として振る舞いますから、二重の声符で音を書いている両声字でして、)

それで「越(𫑛、戉)」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatをみましたら、

字源は「石斧」を象っておりますから、

どうも語源は、オーストロネシア語族の*wasay、

オーストロアジア祖語「斧」*wac ~ waacから、漢蔵語族が借用したと考えられまして、

先ほどの「濊/薉/穢」の声符「歲」*sqʰʷads, *s-qʷʰat-sで使われますが、

斧の形で金偏がついた形「鐬」もありまして、

こちらで残されている文字を仮借しておりますけれども。

更に見てみますよ。

こちら《春秋·定公五年》「於越入呉」とありますけれども。

「於越」「越」「呉」は長江の下流域にありまして、

《公羊傳》の何休註に越人が自分たちを「於越」と呼んでいるということを書いてあって、

それでしかもですよ!

こちらの《史書·吳太伯世家》に呉の太伯が荊蠻に奔りまして、

「句吳」を自称したとありますけれども。

「呉」*ŋʷaː, *ŋʷˤaとも音が近くて、

声符が異なりまして、字形はかなり違いますけれども。

字源は甲骨金文で人が手を広げて、首を横に傾けた形「夨」に「口」が付きまして、

語源は漢蔵祖語「呼ぶ」ʔaːwか(g/k)awではないかと遡れまして、

「呼」*qʰaː, *qʰˤaと同根と考えられまして、

同じqの子音を持ちましすけれども。

更にチベット語ང་རོ, nga ro、

ビルマ語ငြာ, ngra /ɲà/でも、

両方ともngの子音とか、rが間に入っておりまして、

実際に甲骨金文でも、「人」に「口」を付けて叫んでいる形を象りますけれども、

呉の人たちが叫んでたからではなくて、

民族の名前の音写でして、

それで書かれたということでありますけれども。

《周禮·考工記》「呉粤之劍」に「呉粤(呉越)」と並んで出ておりまして、

剣が有名だということなんですね。

こちらで実物を見てみましょうということで行ってみましょう(董楚平:《吴越文化新探》杭州:浙江人民出版社,1988年、陳國強《百越民族史》北京:中国社会科学出版社,1988年、何光岳:《百越源流史》南昌:江西教育出版社,1989年、孟文鏞《越国史稿》北京:中國社會科學出版社,2010年)。

越王勾踐の劍と呉王夫差の矛は、

両方とも出土していくつか伝わっていまして、

これらは金の象嵌がされていて、

鳥虫篆で持ち主の名前が書かれているんですよ!

こうした当時の本物の金文は極めて貴重な一次資料でして、

実は「呉」や「越」の祖先たちは、

長江文明の担い手でして、

《說苑·善說》で伝えられた《越人歌》などから、

タイ=カダイ語族かオーストロアジア語族を話していた人たちと考えられておりまして、

Y染色体のハプログループO1bの遺伝子を持ちまして、

殷周の時期に長江下流域から、

西周の時期に南北に移動を開始して、

南に行きましたのはO1b1でして、

こちらの「越」「粵」で書かれまして、

今は中国南部や東南アジアやインド東部のオーストロアジア語族に多いらしいんです。

今年にポール・シドウェル(Paul Sidwell)さんとマタイアス・ジェニー(Mathias Jenny)さんが、オーストロアジア語族どのように移住したかを研究した本を出しましたけれども(Paul Sidwell; Mathias Jenny (2021). The Languages and Linguistics of Mainland Southeast Asia, Berlin: Mouton de Gruyter.)。

一方で北に行きましたのはO1b2でして、

先ほど見てまいりました「濊」「倭」で書かれたんじゃないかと!

今は朝鮮半島や日本列島に多い遺伝子らしくて、

日琉祖語を話していた弥生人の遺伝子ではないかと考えられているんですよね。

まあ、古代の濊語と倭語が同系かもしれないと、言語学的に解明が、最近進んできまして、

特に大陸倭語と言われたり、半島日本語族(Peninsular Japonic)と言われたりしますけれども。

朝鮮半島にも、日本語の古形で理解できる高句麗、百済、新羅、伽耶あたりの古語や古い地名などに名残りがありまして、

最近、ジョン・ホイットマン(John Whiitman)さん(Bjarke Frellesvig & John Whitman (2008). Proto-Japanese, Amsterdam: John Benjamins.)やアレキサンダー・ボビン(Alexander Vovin)さんが深く掘り下げておりますね(Alexander Vovin (2008). Korea-Japonica: A Re-evaluation of a Common Genetic Origin. Hawaii studies on Korea, Honolulu: University of Hawai'i Press.)。

まあ、注意が必要なのは、Olb自体が1と2に分かれましたのは、

かなり古い28000年ほど前ですけれども、

長江の下流域で近くに長く留まり暮らしていて、交流がかなりありまして、言語の影響を与えまして、

日琉語族を話していた倭人の祖先たちは、オーストロアジア語族やタイ=カダイ語族などの言語と接触していたようでして、

倭人が長江流域から、山東半島→遼東半島→朝鮮半島や対馬海峡を経由して、日本列島の九州にぐるりと移住したルート、

また、中国沿岸、 長江流域からストレートに日本列島や琉球諸島などへと航海したルートで大移動したということが想定できまして、

実は長江の下流の地域から、東海や黄海の中に入り組んだ湾みたいになっていまして、

山東半島、遼東半島、 朝鮮半島、日本列島、琉球諸島などは、

環太平洋のTPPと最近はやりでありますけれども、

まあ、それよりは少し小さくて、

まあ、環東海の沿岸部に古代に海や陸でネットワークがありましたようですよね。

特に朝鮮半島の北側では、アルタイ語族と接触を日琉祖語を話した人たちがしたんじゃないかと!

そちらからも、日本語の起源となる言語は影響を受けていまして、

マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)さんが、

先日、Natureに遺伝学と考古学と言語学で東アジアの人の移動を考える論文を発表しましたけれども(Martine Robbeets, et al (2021). Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages, Nature 599: 616-621.)。

倭人のルーツはやはり、言語学でも、日本語の上での痕跡などでも、

遺伝学でも、染色体の上での痕跡などでも、

考古学でも、 稲作や青銅などの技術などの伝搬などの知見から、

あとは風習や文化ですね。

まあ、時代が幾重にも重なりまして、複合的にいくつものルートで何度も押し寄せてきたと考えられまして、

その後もたくさん交流をしていた!

東アジアの言語は印欧言語のような割ときれいな系統ではなくて、

クレオール語のように色んな言葉がちゃんぽんでして、

日本語はアマルガム(合金)みたいだと言われますけれども。

まあ、古くからお互いに深く影響を与えあいながら発展してきましたから、

ネットワークがダイナミックに激しく絡み合いまして、

単線的な系統は描き出すことが難しいようなんですよね。

こちらに行ってみたいと思うんですけれども。

〈於越王大子不壽矛〉が、上海博物館にありまして、

「於戉(越)」と、こちら、鳥蟲篆で書かれていまして、

「於越」が越の国名と考えられるんですよね。

そして、こちらの〈攻敔王夫差劍〉は、ハーバード大学のフォッグ美術館(Fogg Art Museum)にありまして、

こちら「攻(句)敔(吳)」と書かれていまして、

それでこちらの〈工䱷王劍〉は、山東省の沂水縣博物館にありまして、

こちら「工(句)䱷(吳)」と書かれていますけれども。

こちらの「句吳」が、呉の国名と考えられんですよ。

こうして同時代の金文によりまして、

越や呉の人たちが、こう自称していたことが分かりまして、

先ほどの何休さんの《公羊伝》注や司馬遷さんの《史記》の記述とマッチしていまして、

すごい面白いということで戻ってみますよ。

即ち、「呉」*ŋʷaː, *ŋʷˤaは、こちらの「吾」*ŋaː, *ŋˤaや「敔」*ŋa, *[ŋ(r)aʔ]、

それと難しい字、この魚がついている字「䱷/𫊣」*ŋa, *ŋaでも書かれましたが、

音が似ているんですよね!「呉」*ŋʷaː, *ŋʷˤa、「吾」*ŋaː, *ŋˤa、「敔」*ŋa, *[ŋ(r)aʔ]、「䱷/𫊣」*ŋa, *ŋaということです。

それで「於越」が「越」の国名、

「句呉(攻吾)」は「呉」の国名でして、

金文で先ほど見ましたように「攻」*koːŋ, *kˤoŋ > kuoŋと「句」*kos, *ko-s > kɨoHが、異文として現れていて、関わりが証明されました。

また、「呉」の訓読みは「くれ」と日本語で言いますけれども、

「句」*kos, *ko-sなんですよ!

そこから出たんじゃないかと!

しかもですよ、《逸周書·王會解》が引いている《商書·伊尹朝獻》という古い篇と言われていますけれども「越漚」とありまして、

もしくは、《史記·趙世家》「甌越」と見えまして、

二つの漢字「漚」*qoːs, *[qˤ(r)o-s]=「甌」*qoː, *[qˤ(r)o]も同じと考えられまして、

また、「越」の訓読みは「こし」と言いますよね。

「越(こし)」kosiの語源「句」*kos, *ko-s、「漚」*qoːs, *[qˤ(r)o-s]ではないかとも考えられまして、

更に《莊子·逍遙遊》「諸越」とありまして、

そして、《漢書·高帝紀》に「百粤」とありますけれども。

「越」には色んな部族がおりまして、

「諸」や「百」というのも、

これは「諸」は「於」であるともされまして(《廣雅·釋言》「諸,於也」や《禮記·射義》注「諸,猶於也」)、

実は「越」は「こし」と読むということでしたけれども、

沢山、諸々の「こし」で「もろこし」と日本語で訓読みしますけど、

その言葉の語源かもしれないと!

もう、越にはたくさんいたということで、

そして、その「もろこし」がこの「から」の「唐」*ɡl'aːŋ, *r̥ˤaŋ, [N-]rˤaŋも同じじゃないかと!

私はこれらの語源を考えていきましたら、

驚いたことに長江の「江」*kroːŋ, *kˤroŋと思い当たったんですよ!

長江の別名、揚子江、まあ、下流の本当にもう海に注ぐよう部分をそういう呼びますけれども、

揚州というのもありますけれども。

「揚」*laŋ, *laŋは*k- prefixがない元の形ではないかという風に考えまして、

語源は、どうも、オーストロアジア祖語*ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋじゃないかと!

これでまあこれはベトナム祖語k-roːŋやクメール祖語gloṅで「川」を意味しまして、

そして、漢蔵語族にも古く入ったらしくて、

「水」laŋ、「谷」kl(y)u(ŋ/k)にも取り入れられて、

それで実際に上古漢語「谷」*kloːɡ, *C.qˤokや「澤」*rlaːɡ, *lˤrakには、

最後に*-k suffixが付いておりますよね。中古漢語で入声に行きますけれども。

ここでこの更に「洛/駱/雒/貉」*ɡ·raːɡ, *[r]ˤak > lɑk̚、

まあ、鄭張尚芳さんɡ·raːɡは、g- < *k- prefixがある形でいってますけれども。

Baxter-Sagartさんは[r]ˤakでオーストロアジア祖語「川」ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋではないのかと!

そして、ずっと、「句」*kos, *ko-sと「攻」*koːŋ, *kˤoŋ、 「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤa、「于」*ɢʷa, *ɢʷ(r)a、「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷat、「粵」*ɢʷad, *[ɢʷat]など、

これらを見ますと、r や ŋ とか、

kやtなどの表記の揺れがありましたけれども。

どうも、音写をした元の音が反映して現れているんじゃないかと思ったんです!

そして、《爾雅·釋言》「越,揚也。」と書いてあるんですよ!

おお!なるほどとつながってきちゃった!

それで《国語·吳語》には、越王句踐が呉の首都を攻めた話がありまして、

姑蘇というのは、江蘇省の蘇州ですけれども、

「姑」*kaː, *kˤa > kuoと音が近くて、

蘇州の「蘇」*sŋaː, *s-ŋˤa > suoのŋˤaの部分が、「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤa > ŋuoと同じくng [ŋ]の子音が見えて、

頭に*s- prefixが付いた形が見えておりますけれども。

浙江省温州の「溫」*quːn, *ʔˤun > ʔuənとそこを流れる「甌江」の「甌」*qoː, *[qˤ(r)o] > ʔəu、

こちらは、先ほど出てきましたけれども、

これも音が近いんですよね!

これを見比べてみましたら、「溫」*quːn, *ʔˤun > ʔuən、「甌」*qoː, *[qˤ(r)o] > ʔəu、こちらの[q]が、その後に声門閉鎖音[ʔ]にいっちゃうんですけれども。

でありますけれども、これは同じじゃないかと!

これは偶然ではなくて、同じ音が異なる字で書かれた結果と考えられるんですよね。

しかも、「溫」*quːn, *ʔˤun > ʔuənは、どうも、やはり、声門閉鎖音[ʔ]の方から見ましたら、

ミャオ=ヤオ祖語ʔu̯əmとか、ベトナム祖語ʔomとか、ワ祖語*rʔomとかを思わせるんですよ。これらも「水」です!

また、長江の更に上流の別の川で「溫水」と言えば、温かい水じゃないんですよ(笑) そう書きますけれども。

「烏江」の「烏」*qaː, *qˤa, ʔˤaですけれども。

これの音は近いわけですよ。

そして、[q]と[ʔ]があります。

Baxter-Sagartさんだと両方「烏」*qˤa, ʔˤaにしてますけれども、

やはり、水名、川の名前でよく出くわすんですね。

更に「荆」*keŋ, *[k]reŋ > kˠiæŋも音が近くて、

「荆」といえば、もう「楚」なんですよ!

それで《説文解字》に「荆」は「茨」と書いてありますけれども。

やはり、「荆」は茨という意味でして、

「楚」とも通じていまして、

語源はオーストロアジア祖語「棘」*ɟlaʔですけれども。

ちょっとこれは軟口蓋で手前に行くんですけれども。

それで先ほどの「蘇」も《方言·第三》「蘇、芥,草也。江淮南楚之間曰蘇」と書いてあるわけですよ!

江南もしくは淮南の楚の楚、もしくはその間では「草」を「蘇」というと!

やはり、「草」の可能性もあるんじゃないかということで見て来れています。

それで《戰國策·楚策》「邯鄲拔,楚取睢濊之間。」では、

楚は睢濊の間を取ると書いてあるんですよ!

今度はこちらの「睢濊」、また、「濊」まで出てきちゃってる!

何だということですけれども。

今度はこの楚宣王が前354年に河北の「邯鄲」、

「邯鄲之歩」という有名な故事がありますけれども。

そこの都市を攻めた話ですけれども、

楚が「睢濊」という場所を取った!

これは少し北の河南省商丘の当たりとされますけれども。

また、「濊」が出てきている!

それでこの「睢」*sqʰʷil, *[s.qʰʷˤij] > siuɪを見てましたら、

そして、睢水がありまして、川の名前!

そこでもう一つ、思い出しちゃった!

淮水が、《孟子·滕文公上》「江淮河漢」とありまして、

前に「漢」をやりました!これらは全て川の名前でして、

淮水の「淮」*ɡʷriːl, *[ɢ]ʷˤrij > ɦˠuɛiですよ!

これらもオーストロアジア語族の「川」から来てるんじゃないかと(《爾雅·釋水》「江、河、淮、濟為四瀆」、《史記·封禪書》「四瀆者,江、河、淮、濟也」、《說苑·辨物》「四瀆者,何謂也?江、河、淮、濟也。」)!

更に《史記·高祖本紀》に「盱臺」の都「彭城」と見えまして、

今でも「盱眙」という地名が江蘇省徐州にありまして、

「彭城」は江蘇省淮安です。

また、こちらはかなり北にあるんですけれども。

《方言》「燕代朝鮮洌水之間曰盱,或謂之揚」に燕代の朝鮮と洌水の間、

今の北京あたりにも、「盱」*qʰʷa, *[qʷˤa] > hɨoという川の名前がありまして、

また、「揚」ともいうことが書いてあるんですね。

まあ、オーストロアジア語族で「川」*ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋという一般名詞ですから、

まあ、そこからそれぞれの固有名詞になりまして、

別々の漢字が当てられたじゃないかと!音を書くためにと考えると自然ではないかと思いまして、

特に最後の3つの「睢」*sqʰʷil, *[s.qʰʷˤij]、「淮」*ɡʷriːl, *[ɢ]ʷˤrij、「盱」*qʰʷa, *[qʷˤa]は、

これらは先ほどの「濊」*qʷads, *[qʷˤa t-s]、「污」*qʷaː, *qʷˤra、「倭」*qoːl, *[qoj]とか、「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔとかと上古漢語でものすごくよく似ていますから、

「倭(委)」の語源でもある可能性があるんじゃないかと!

今われわれは「わ」と読みますけれども、

実は中古漢語ʔuɑから出ておりまして、

金印と同時代の漢代の上古漢語では、

「倭」*qoːl, *[qoj]や「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔでして、

まあ、q > ʔに移行しているかもしれませんけれども、

むしろ、人偏のない金印にある「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔの音がより近いんですよね!

今ここにあります「句」*kos, *ko-sとか、

「漚」*qoːs, *[qˤ(r)o-s]とか、

「甌」*qoː, *[qˤ(r)o]とかと、

全く一緒の子音でがありまして、

また、「攻」*koːŋ, *kˤoŋとか、

「江」*kroːŋ, *kˤroŋとか、

「洛/駱/雒/貉」*ɡ·raːɡ, *[r]ˤakと同じではないか!

最後はng [ŋ]はlʔ > jʔに対応して訛ったように考えられるんですよね。

更に、「閩」*mrɯn, *mrə[n]は、閩語と言ってまいりましたけれども。

先ほど「閩」とか「蠻夷」と出てきましたけれども、

これらも「閩」*mrɯn, *mrə[n]と「蠻」*mroːn, *mˤro[n]も、

百越の支族で越と同じ民族でして、

こちらの語源を考えましたら、

漢蔵祖語s-b/m-ruːlか、オーストロアジア祖語(b)ruunから、やはり、これも入ってるんじゃないかと!

これらの言語(ベトナム祖語*p-luːn、チベット語སྦྲུལ , sbrul、ビルマ語မြွေ, mrweなど)に行ったりしているわけですけれども、

いずれも、「蛇」という意味なんですよね!

まあ、「蠻」*mroːn, *mˤro[n]はビルマ語「ミャンマー」မြန်မာ mranmaの語源かともいわれたりするんですよ。

それで《逸周書·王會解》に「東越海蛤(はまぐり),歐人蟬蛇(せんだ)」とありまして、

うなぎみたいなものらしいんですよね。それらがありまして、

しかも、「於越」や「姑妹」は、

こちらの「姑妹」について、ちょっと興味持って調べたら、

《吳越春秋·句踐歸國外傳》「姑末」として出て来たり、

《春秋·定公十二年》や《國語·越語》「姑蔑」という地名が出てきていまして、

どうもこれらの上古漢語「姑妹」*kaː mɯːds, * kˤa C.mˤə[t]-s、「姑末」*kaː maːd, * kˤa mˤat、「姑蔑」*kaː meːd, * kˤa mˤetでして、

全部同じ音を書いているんじゃないかと、

(合声ではないかと考えまして、)どうも二つを合わせると「越/𫑛/戉」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatを書いている雰囲気がしまして、

まあ、これの地名は、どこかと探りましたら、

今の浙江省衢州なんですよ。

それでしかも、「衢」*ɡʷa, *[ɡ]ʷ(r)a > ɡɨoでして、何か同じような音ばかり出てきているんですよ!

声符が異なり、字形が異なりますけれども、

今でも同じ音を継いでいるかもしれません。

ちなみにさんずい「氵」の方「灈」*ɡʷa, *[ɡʷ(r)a] > ɡɨoの「灈水」も、今の河南省にありまして、川の名前なんですね。

しかも、「歐人」とは、まあ、これヨーロッパ人じゃないかと!これは冗談ですけれども。真に受けないで下さいね。

先ほどのこれら「歐」*qoː, *[qˤ(r)o] > ʔəu=「漚」*qoːs, *[qˤ(r)o-s] > ʔəuH=「甌」*qoː, *[qˤ(r)o] > ʔəuの声符「區」*kʰo, *[kʰ(r)o] > kʰɨoを見たら思い出しちゃうわけですよ!

先ほどの「漚」*qoːs, *[qˤ(r)o-s] > ʔəuH=「甌」*qoː, *[qˤ(r)o] > ʔəuは、浙江省温州の「溫」*quːn, *ʔˤun > ʔuənということでしたね。

それで越人はやはり蛇と関係があるそうなんですよ!

《説文》を見ましたら、

閩越の「閩」は、東南の「越」と書いてありまして、

「蛇種」と書いてあるんですよね。

南の方の越人たちですね。

それで語源はどうなのかと言いましたら、

やはり、「閩」*mrɯn, *mrə[n]を見ましたら、また、思い出しちゃった!

「文」*mɯn, *mə[n] > mɨunという字をしてまいりました!

これである可能性あるんですよ!

まあ、これからすれば、字源は「門」*mɯːn, *mˤə[r]で[r]は[n]に読み替えられまして声符ですけれども(上古漢語の動画を参照)、

まあ、一般には意符とされる「虫」*hŋruːl, *[r̥]ˤu[j]を見ましたら、やはり、それも声符ぽいふるまいをしている感じもする!

それでKF-Ars Sinicaのアイコンでもありますけれども。

文字の「文」という字は、

文身の象形ではないかと言われておりました!

先ほどにも、越人といえば文身!

ここもそうです!決まり文句のように三回も出てきてるんですよね!

文身をしていたから、民族の名となったか、

逆に閩越が、文身の「文」*mɯn, *mə[n] > mɨunの語源になりました可能性もあるんですよ!

そうすれば、究極では、「蛇」が語源となりまして、

しかも、オーストロアジア祖語「蛇」(b)ruunから、漢蔵祖語s-b/m-ruːlに入ったんじゃないかという話になってしてまして、

以前に文字の特集で「文」の語源について考えましたけれども、

別の説を今お話していることなんですよ!

金印も蛇紐とされてきましたのは、

やはり、越と倭は同族であるという認識がありまして(西漢の南越文王の金印「文帝行璽」や古滇国王の金印「滇王之印」も蛇紐)、

オーストロアジア祖語「蛇」(b)ruunから、ベトナム祖語p-luːnや漢蔵祖語*s-b/m-ruːlに入りまして、

上古漢語「龍」*b·roŋ, mroːŋ, *[mə]-roŋはSTEDTでは、漢蔵祖語m-bru(ŋ/k)とされますけれども、

オーストロアジア祖語「龍」-roŋ、ベトナム祖語-roːŋでして、ちょっと母音が長いだけでして、

先ほどの「川」とどうも似ているんですよ。

uとoが違うだけだ!

それで龍は川の神、やはり、水の神として崇められていたようでして、

どんどん、どんどん、伏線を回収していますけれども。

閩越はどうも、龍や蛇を神としてありがたがる風習のある民族でして、

龍蛇、龍神の信仰がありまして、

まあ、日本でも、弥生人の海人族や海神族などは、

越人たちの風習を引き継いでいたんじゃないかと!

これで更にびっくりしたったことは、

「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔ > ɦɨoXの形「𥜼」は金文で「蟲」を象りますけれども。

どうも、この子音の固まりは、もう見慣れている(笑)

「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤaや「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatなどと近いんですよね!

それで語源は、漢蔵祖語の「蟲」s-kryapでして、s- はね先ほども実はあったんですけれども、「蛇」*s-b/m-ruːlの方にも、

*s- は動物の接頭辞じゃないかということでよく言われていることです。

漢蔵祖語の語根*kryapでして、

特に「越」は最後の*-tは、中古漢語で入声に行きますけれどもありまして、

キランティ祖語*khrep、

ジンポー語krép 、

ロロ=ビルマ祖語*ʔ-gripᴸ、

ビルマ語ချိပ် hkyip、

カレン語*graᴮなども関係あるんじゃないかということなるんですよね!

そして、禹陵が越の故地である浙江省紹興の会稽、

王羲之が《蘭亭序》を書いた会稽山、

まあ、それは後の時代ですけれども。

また、越人が先祖としていることも伝えられていまして、

また、夏王朝を始めた禹には、治水に関する伝説が残されていて、

やはり、「川」に関係するんですよ!

また、「禹」の父「鯀」*kuːnʔ, [kˤun] > kuənXも、大きな魚という意味ですけれども。

上古漢語で何か似ている!この辺りのrが似ていまして、

これは大きな魚という意味ですけれども(更に「呉」は「魚」を声符としても書かれていまして、)

やはり、「鯀」kuːnʔ, [kˤun] > kuənXでやはりオーストロアジア祖語「川」ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋ に関係するのではないかと、

こうして、バラバラのピースが全て整うようにしてつながってきましたけれども、

どうも、「倭」*qoːl, *[qoj]、「濊」*qʷads, *[qʷˤat-s]、「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷat、「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤaは、

全て同系の民族を指していて、

しかも、語源は「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔではないかと考えられまして、

今まで入声をして、見てまいりましたけれども、

特に最後の子音-ʔが気になっていまして、

「濊」や「越」の最後の子音-tとありますよ!

そして、こちらの「委」の所にも*-ʔがあります!

そう考えてくると対応してまして、

そして、「禹」は「川」と関係がありまして、

また漢蔵祖語で「虫」とありますが、やはり、仮借の可能性がありまして、

音を書くためにこの字を使った(上古漢語「禹」は「虫」という意味としては、漢蔵祖語「虫」という意味の言葉は遡るとしたら、オーストロアジア祖語とは別の語源であるからです。でも、「蛇」を意識して、「禹」が声符として選ばれた可能性はあります。)

究極では、長江の「江」など、水名(川の名前)に多いオーストロアジア祖語「川」ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋ(ベトナム祖語k-roːŋ、クメール祖語*gloṅとか)、

これに*k- prefixが付いたり、接頭辞として、それらを音写した可能性があるんじゃないかと!

長江、揚子江はものすごく大きな川でして、

長江の流域か、それよりも南に住んでいる民族には、

長江の名前を語源として、民族の名前が生じてもおかしくはないですよ!

また、一般名詞の「川」かもしれませんけれども。

かなり色んな地名(水名)でもありましたから、

「倭人」が移住をしてからも、

先祖が住んでいた長江の「江」を民族の名前として、もちろん音として伝えられていてもおかしくないですよね。

ですから、こちらの最後の行にあります。

=で結ばれてます。

これらの文字をずっと検討してまいりましたけれども、禹[ɢ]ʷ(r)aʔ=於[ʔ]ˤa/于ɢʷ(r)a=越[ɢ]ʷat=吳ŋʷˤa=沃[ʔ(r)ak]=濊[qʷˤat-s]=汙qʷˤra=倭[qoj]/委q(r)ojʔは連なりとなっていまして、

語源としては「禹」や「川」ではないのか、やはり、有力ではないかと考えたんですよ!

そして、金印にありました「委奴(倭奴)」ですけれども、

「委(倭)」の中の「奴」という国の名前ではなくて、

金印に「委奴国(倭奴国)」とみえまして、

「委奴(倭奴)」で一つの名前ではないかと思ったんですね。

《後漢書·東夷傳》に「倭奴国」は「倭國之極南界」として、倭国のかなり南の所だと言ってるんですよね。

どうも倭国と倭奴国をかき分けているように読めるんですよね。

でも、《舊唐書·倭國傳》「倭國者,古倭奴國也」では、「倭国」の古い名前が「倭奴国」だともあるんですよね。どっちなんだと!

越も呉も正式には二文字の国名を有していましたよね。「於越」*qa ɢʷad, *[ʔ]a [ɢ]ʷatとか、「句吳」*kos ŋʷaː, *ko-s ŋʷˤaとか、

「於越」*qa ɢʷad, *[ʔ]a [ɢ]ʷatとありますけれども、

「甌貉」*qoː ɡ·raːɡ, *[qˤ(r)o] [r]ˤakという、もっと、もっと、南の方のもうベトナムに近い方の国の名前があるんですよ。

それらは「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔと関係するか、

もしくは「洛」*ɡ·raːɡ, *[r]ˤakなどを二文字で一文字を書いているんじゃないかと考えられたり、

この「句吳」*kos ŋʷaː, *ko-s ŋʷˤaは「江」*kroːŋ, *kˤroŋを書いてんじゃないかと!

二文字で一文字になりますけれども。

それで「越」は、どちらかと言ったら、民族名ということでしたけれども。

どうも「於越」とか、「句吳」とか、

それらは国名に特化したように考えられまして、

それらは究極には、先ほどお話しましたよう、「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔ > ɦɨoXとか、オーストロアジア語族の「川」*ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋに遡るということでしたけれども。

「濊貉」*qʷads ɡ·raːɡ, *[qʷˤa t-s] [r]ˤakについては、点で区切りませんでしたけれども。

これは、どうも、二つの民族「濊」と「貉」、

それらが後にくっついて、まとめられたと考えらますけれども。

この「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]は離せない!

「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]を読んでみると、そうすると何だか、

「倭」*qoːl, *[qoj] > ʔuɑ、「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔみたいな、そういう感じにつずまって、一文字でも書かれたんじゃないかと考えられまして、

そして、その上古漢語「委奴」*qrolʔ nˤa, *q(r)ojʔ nˤa、「倭奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naːは、

最後の[n]の子音を添えたいために次の字「奴」を添えたいためにかかれたのじゃないかということ、

そうすれば、「倭」と一字で書かれたり、

そして「倭奴」と二字で書かれたり、

表記の揺れを説明できるんじゃないかと、

今までに「螟子」*meːŋ ʔslɯʔ, *[mˤeŋ] tsəʔ→「蜜(𧖅)」*mliɡ, *mitというのをやりましたけれども。

また、「不律」*pɯ rud, *pə [r]ut→「筆(聿)」*prud, *p.[r]utとか、

あとは顧炎武さんが《音学五書》の中で言っていた「蒺藜」*zid riːl, *[dzit rˤij]→「茨」*zli, *[dzij]がありました。

二文字で一つの合声と言いましたけど、

その例ではないのかと!

どうも、動植物の名前や外来語の音写に多かったんですよ。

それで実は、《日本書紀私記·甲本》「古者謂之倭國。但倭意未詳。或曰,取稱我之音,漢人所名之字也。」に「倭」の語源は、 「私(わたし)」の「我(わ)」からであるということから、

「倭奴(わぬ)」で「わたし」ではないのかと、

日琉語族と日本語の古い形を前に考えたんですよ。

それで日琉祖語(Proto-Japanese-Ryūkyūan)*waで「わたくし」や「われ」の「わ」ですけれども。

まあ、「私(わたくし)」の語源は、「公私」と言い、「おほやけ(公/大宅)」という大きな家に対して、

「わたくし(我託し)」で「託し(託す)」-takushiである可能性がありますけれども。

全体と私の部分という意味でして、

「われ」wareは、waに現実相-re > 名詞化語尾-reですけれども。

やはり、「わぬ」wanuは所有格*-nu > 連体繋辞nuと考えられまして、

古日本語(Old Japanese)-nö、琉球祖語-nu、新羅語-nǝではないのかと!

ボビンさんは考えておりましたけれども(Alexander Vovin (2017). Origins of the Japanese Language, Oxford Research Encycloedia in Linguistics.)。

今でも、琉球語「我ん(わん wan)」と最後の母音uは落ちちゃってるけどありまして、

まあ、古い東国の言葉も《萬葉集》の東歌(3476番)に「われ」という意味で「わぬ」とありました(「和奴尓故布奈毛(我ぬに恋ふなも)」「和奴由賀乃敝波(我ぬ行がのへば)」)。

そして、日琉祖語(Proto-Japanese-Ryūkyūan)から、

日本列島祖語(Proto-Insular Japonic)と琉球祖語(Proto-Ryūkyūan)の分岐は、

古墳時代の4世紀以降ですから、

金印がもたらされた当時は同じ集団でしたから、

日琉祖語waか北方琉球祖語wanuが音写されて、

「倭」と「倭奴」の表記の揺れにも対応するんじゃないかなとも考えたんですけれども。

しかしながら、やはり、一つ大きな問題がありまして、

先ほど見てきましたよう、

やはり、この二字「委奴」は、中古漢語ʔuɑ nuoではなくて、

上古漢語「委奴」*qrolʔ nˤa, *q(r)ojʔ nˤa、「倭奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naːで読まれるべきなんですよ。

まあ、確かに秦漢の時代には、

過渡期にありまして、

こちらを見ましたら、最初のqが声門閉鎖音ʔに入っていてありますけれども、

じゃあ、ここを[ʔ]にして読み替えるとʔojでして、

こちらでしたら、「倭」*ʔoːl, *ʔoj > ʔonで「わ」waではないんです。

やはり、最初の子音が、上古漢語のqかʔで日琉祖語のwでないんです。

やはり、wじゃない!

もし、wだったなら、先ほどの唇音化[ʷ]が、やっぱり入ってるんですよ!

ですから、(オーストロネシア祖語「斧/鉞」wasay > オーストロアジア祖語wac ~ waac > )「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatのような別の字が充てられたでしょう。

ですから、定説通り、「委(倭)」の「奴」と読むか、

「委奴(倭奴)」と二文字で一つの固まりの言葉を音写した合声とする方が、

消去法で可能性が高いんじゃないかと!

まあ、但し、絶対に伊都国とは読めないんですよ!

何故かといったら、中古漢語「奴」nuoから、 呉音「ぬ(nu)」から来ていまして、

だけれども、漢音「ど(do)」となりましたでしょう!

これは唐代の長安方言、西北方言なんですよ!

中唐ですから、まあ、8世紀頃ですよね。

鼻音が鼻濁音を経て、 濁音になっちゃう非鼻音化(denazalization)が起きて、

n→ⁿd→dに行くわけですよ!

だから、 「奴」nuoが漢音「ど」doにいくわけですよ!

非鼻音化は、《古事記》には起きていなくて、 《日本書紀》にはあるんですよ!

ですから、書かれた時代の差が分かりますけれども。

とにかく、中唐(8世紀頃)に生じた音の変化は、

金印は後漢(1世紀)ですから!1世紀にはありえないため、

この二文字を「委奴」を「いと」とは、音韻学の知見から、絶対に読めないと!

これは断言いたします。

また、印文の構成からしましたら、

「漢の倭の奴の国王」と「の」が三つ入る構造は見られないですよね。

それで国名を分かたずにこちらにある、やはり、

「漢の倭奴国王」、もしくは、「漢の倭奴の国王」と読む方が自然じゃないと考えられるんですよね。

この合成説とは、二つで一つとは、

今までの音韻学の知見に拠りまして、

新説ではないかと思います。

金印の「委(倭)奴」に関して言っている人を聞いたことがないです。

しかも、これらの民族と関係して、語源まで特定に努めまして、

こちらも新説ではないかと思います。

あと、このつながり、この一つの「禹」[ɢ]ʷ(r)aʔ=「於」[ʔ]ˤa/于ɢʷ(r)a=「越」[ɢ]ʷat=「吳」ŋʷˤa=沃[ʔ(r)ak]=「濊」[qʷˤat-s]=「汙」qʷˤra=「倭」[qoj]/「委」q(r)ojʔであると思いましたよ!

本当にこの「奴」が当てられている。

やはり、思い出すわけですよ。

以前にいっぱい紐で異民族の印たちを見ましたけれども。

匈奴もあるわけですよ!

また、「委奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naːと「匈奴」*qʰoŋ nˤa, *[qʰ(r)oŋ] naːが、やはり、対になるよう、音写の文字が選ばれた可能性も考えられますね。

「匈奴」も古くからものすごく色んな字が充てられて書かれてきまして(王國維《鬼方昆夷獫狁考》)、

漢字そのものに意味があるわけではなくて、

ものすごく侮蔑した字が選ばれていますけれども、純粋な音写でして、

語源は古典モンゴル語 ᠬᠦᠮᠦᠨ, kümünで「人」ではないかと考えられるわけですよ。

そして、《史記·五帝本紀·索隱注》にありますよう、

やはり、文献上ものすごいバライティがありますよ!

これは時代によって違ういうことでして、

いや、それでしかもこの偏が違ったり、旁が違ったり、 めちゃめちゃな数がありますよということでありますけども(玁允、獫允,獫狁、玁狁,葷粥、薰粥、獯粥,獯鬻、薰鬻,薰育,昆夷,淳維,恭奴,犬戎などなど)。

この「烏桓(烏丸)」*ʔˤa ɦʷˤarに関しても、

アヴァール人(Avar)の祖先ではないかとされておりまして、

時代は下りますけれども、

ビザンツ帝国の資料(Άβαροι, Ábaroi)とか、古東スラヴ語(Обърѣ, Obŭrě)とか、 8世紀の東突厥の闕特勤碑文(Kültegin)に突厥文字で𐰯𐰺‎, Aparとして記録されていまして、

こちらも問題がありまして、

同じ名前でも違う民族を時代や地域により指しているのではないかということが言われておりますけれども。

とにかく語源は、テュルク祖語で「先祖」*appa, *abaに複数のマーカー*-aŕが付いて、「先祖たち」という意味ですけれども。

まあ、実は《後漢書·烏桓鮮卑列傳》では、山の名前「烏桓山」から付いたとも言ってるんですよね。

それでこちらの「鮮卑」*sen pe, *s[a]r peは、やはり、《後漢書·烏桓鮮卑列傳》「鮮卑者,亦東胡之支也,別依鮮卑山,故因號焉。」では、山の名前「鮮卑山」から付いたとされまして、

モンゴル祖語ser ~sirは「突き出た」という意味ですけれども、

「突き出た土地」というのは、やはり、「山」でして、

ser ~sir > *serbi > *širwiを漢人たちが、「鮮卑」*sen pe, *s[a]r peで音写をしたと考えられますね。

そして、「東胡」と記録されていて、

やはり、「烏桓」と習俗が似てると同族とされていまして、

後の時代に鮮卑族は、「北魏」を建てたり、

「隋」や「唐」の皇帝たちも、本来の血筋は鮮卑だったんじゃないのかと考えられていたりしまして、

それで唐の時代になるともう、こういう別の文字「室韋」ɕiɪt̚ ɦʉi < *širwiで音を書いて記録されておりまして、

今でもシベ族の祖先とも、

シベリアの語源ともされますけれども、

でも、シベ語はツングース語派でして、

後の時代に言語が入れ替わっちゃったか。

烏桓はモンゴル語派、鮮卑はテュルク語派など、烏桓と鮮卑は同族だとされているのに結構、言語がどうして異なっているのかと問題がありますけれども。

まあ、全体としては、アルタイ語族ですけれども、

やはり、民族の名前からしても、言語の特徴からしても、

鮮卑族はモンゴル系であると考えられているんですね(Andrew Shimunek (2018). Early Serbi-Mongolic-Tungusic lexical contact: Jurchen numerals from the 室韦 Shirwi (Shih-wei) in North China、Ákos Bertalan Apatóczky (2019). Philology of the Grasslands, Leiden: Brill.)。

そうした形で異民族の名前の音写について、色々と見てまいりましたけれども。

やはり、もちろん一文字でも、羌、氐、叟、胡、濊、倭なども多くありますけれども、

民族の名前は、やはり、二文字で音写されることが多いということは、

私の合声説を裏付けておりますけれども。

全部読んでおきましたら、

「委奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naː、「匈奴」*qʰoŋ nˤa, *[qʰ(r)oŋ] naː、「烏桓」ʔˤa ɦʷˤar、「鮮卑」sen pe, *s[a]r peで一つで民族の名前ということで、

「委奴」も二文字で一つじゃないのという考えでもできるんじゃないかと見てまいりました。

そして、「倭」について、文献を色々と見てみたいと、別紙でこんな資料をご用意いたしました。

こちらは先ず、《山海經·海内北經》「蓋國在鉅燕南,倭北。倭屬燕。」ですけれども、

朝鮮半島の付け根にあります、

蓋馬高原と考えられる蓋国は、

燕の南、また、倭の北にありまして、

倭は燕に属すると書いてあるんですね。

燕は今の北京あたり、

蓋は朝鮮半島の付け根ですから、

倭が朝鮮半島の南部にいたような感じに書いていますね。

そして、《論衡·》を見ましたら「越裳」

越人が白い雉、倭人が鬯草、

薬草を献上したことが書いてありまして、

越と倭が対照されているんですよね。

それで越裳とは、かなり南の方の越南に近い方でして、

先ほど「甌貉」*qoː ɡ·raːɡ, *[qˤ(r)o] [r]ˤakが出てきましたけれども、

かなり南ですよ!

周の時代に記録されている倭人たちは、

今の日本ではなく、長江の下流からもかなり南にいて、

朝鮮半島などにいた、北の倭人と同じかどうかは分かりません。

でも、アレキサンダー・ボビンさんは、

日琉祖語はタイ=カダイ語族やオーストロアジア語族が暮らしていた地域にいて、

中国の南の方(雲南あたり)が、倭人の原郷じゃないのとしておりまして、

当時(今から3000年ほど前の先祖たち)はそちらにいたかもしれません。

そして、《列女傳·明德馬后》「羌、胡、倭、越,未嘗請舊人僮使。」では、羌、胡、倭、越が並んでいまして、

これは、西、北、東、南に当てられたのでしょうけれども、

《水經注·大遼水》「應劭曰:今昌黎也。高平川水注之,水出西北平川,東流逕倭城北,蓋倭地人徙之」を見ましたら、

大遼水は渤海に注ぐ遼河ですよ!

漢代の應劭さんが言うには、今の昌黎、山東半島や遼東半島の間にある、河北省秦皇島という場所がありまして、

そこには「倭城」と書いてある!

そして、「倭地」と書いてありまして、倭人が住んでいたとあるんですね。

こちらも朝鮮半島の付け根の当たりですね。

そして、《漢書·地理志·燕地》「樂浪海中有倭人,分爲百餘國,以歳時來獻見云」では、

樂浪海の中には、倭人がいるとありますよね。

どうも、山東半島→遼東半島→朝鮮半島が面する樂浪海、黄海に倭人がいると書かれていますけれども。

魏の如淳さんが言うには、

顔に入れ墨をする人たち「委面」だから「委(倭)」という考えを述べていますけれども、

晉の臣瓉さん、まあ、これ姓は分からないですけれども。

「倭」は国名であって、その入れ墨をしているということではないということを書いているんですね。

しかも、故にこの「委」と人偏がない字で之を謂うと書いてあるわけですよ!

ですから、どうもですよ。

魏の如淳さんや晉の臣瓉さんたちが見た字は、

人偏のない形「委」でした可能性が高いと考えられるんですよ。

どうしてかと言ったら、 故に之を「委」ということを言っているのに、

ここに人偏が付いてない!わざわざ人偏を付けたのは国名だと言ってるんですよね!

こちらは人偏が付いていない「委」だから、こう「委面」と解釈しているということは、

(「倭」は)もともとは人面が付いてない形であった可能性があるということを裏書きしているじゃないかと!

民族や国の名前だから、意符「人」をつけて、「委(ねる)」と(いう動詞と)混同しないように後に書き加えられた可能性があるんですよ!

そして、現存最古のテキストは、

こちらの《漢書》に対して言えば、

北宋の景佑本ですから、まあ、それが出版されるときまでに何度もなども書き伝えられてゆき、

書き改められたと考えられますけれども、

註の方は文章上、やはり、変えようがなかったから、

内容上、そのまま「委」で残されたんじゃないかと!

ですから、むしろ、金印では「倭」を人偏がない形「委」で作られていることは、

逆に金印は本物である可能性が高いことになります。

同時代の金石文は後で変えることができませんから、

歴史書の書き伝えられた文字よりも確からしいですよ!

金石文で人偏が付いた「倭」は、

有名な〈高句麗好太王碑文〉は、414年で5世紀に初めて見られるわけですよね!

《三国史記》は、朝鮮半島の歴史書ですけれども、

新羅本紀に古い記事が紀元前後からありますけれども。

全て人偏の「倭」になっています。

《後漢書·東夷傳》も、「倭」について長く書かれていますけれども、

先ず、燕人の衛滿さんが朝鮮に行きまして、

それで国を建てたという話の中で「濊」「貊」「倭」「韓」が並んで出ていまして、

しかも、こちらでは、西の馬韓(朝鮮半島西部)の北は樂浪でして、

南は倭に接していると言うんですね。

ですから、当時の朝鮮半島に倭がいた可能性があるわけですよ!

そして、辰韓(朝鮮半島東部)は、北は「濊貊」と接していること、

そして、辰韓の南にある弁辰(朝鮮半島南部)は、

南の「倭」と接しているとありますから、

かなり、朝鮮半島の南に倭がいたという感じですね。

ここを見ると「辰韓」には鉄が出て、

それを「濊」「倭」「馬韓」が買うと並んで書いてあるわけですよね。

それで朝鮮半島にいた倭人かもしれません。

また、別のところでは、

倭は韓の東南の海の中にあるともあり、

こちらは日本列島の倭人かもしれません。

そして、「大倭王」と「大」が付いていますけれども、「邪馬臺國」*laː mraːʔ dɯː kʷɯːɡ, *ɢ(r)A mˤraʔ lˤə [C.q]ʷˤək > jia mˠaX dʌi kwək̚にいると書かれていまして、

まあ、「大和(やまと)」yamatə(「山(やま)」yama +「所(と)」*tə)と関係があるなどとされますけれども。

それを音写したんじゃないかと(*laː mraːʔ dɯː kʷɯːɡ, *ɢ(r)A mˤraʔ lˤə [C.q]ʷˤək > jia mˠaX dʌi kwək̚から、むしろ、上古漢語の漢代の音より、魏晋の音に近いようです)!

実はこの《後漢書·東夷傳》というのは、《三国志·魏書·東夷傳》をなぞりまして、

《三国志》は西晋の陳寿さんが書いたんですよ!

《後漢書·東夷傳》は、古いように見えあんがら、

実は宋の范曄さんが列伝の部分を編纂したんですよ!

実は三国志よりも後に編纂されてるんですよね!

だから、新旧の情報が同じ中に混じっている可能性があるんですよ!

こちらを見ましたら、建武中元二年、これは57年ですね!

倭奴国が来て、後漢の光武帝が印綬を与えたと話題の金印が出てきておりますけれども。

倭奴国はやはり、倭国の極く南の界ですから、

倭奴国=倭国ではないことが読み取れまして、

どうも、倭人は朝鮮半島と日本列島にまたがって存在していたようでして、

50年後に朝貢したのは、倭国と書いてあるんですよね(《後漢書·安帝紀》「[永初元年]冬十月,倭國遣使奉獻」)。

まあ、《北史·倭國傳》の方には、「倭奴国」とありますから、単なる誤記かもしれませんけれども。

前のページでみましたけれども、《後漢書·烏桓鮮卑列傳》「[光和元年冬]聞倭人善網捕,於是東擊倭人國。」は、光和元年(178年)の話でしたけれども。

鮮卑の檀石槐の話の中で倭人国を攻撃したと出てくるんですよ!

それはどうも間違いなく、鮮卑が攻撃たっていうんだから、

朝鮮半島の付け根にいた倭人の国じゃないかと!

ですから、《後漢書》の中には、 「大倭王」「倭奴國」「倭國」「倭人國」など時代や地域の違いで書き分けられているんじゃないかと!

そして、《三國史記·新羅本紀》や《魏書·齊王紀》の中には、

倭国のもしくは、倭女王の「ひみこ」が来たとありまますけれども。

やはり、「卑弥乎(ひみこ)」も「卑」に人偏が付いている「俾」と付いてない「卑」がありまして、

「乎」の所に「口」が付いている「呼」と付いていない「乎」など、

そうした音写をした表記「卑弥乎」「俾彌呼」に揺れがありますよね。

一般的には、「ひみこ」さんは、人偏を付けない方「卑弥呼」が定着していますよね。

そして、《魏書·東夷傳》(所謂《魏志·倭人伝》)は、《後漢書·東夷傳》をなぞっているということでしたけれども。

最初の部分を大体なぞってるんですよね!

《魏書·東夷傳》では、特に女王(卑弥呼)がいる「邪馬壹國」までの旅程が書かれてありますけれども。

沿岸を航海したとき、朝鮮半島東南部の「辰韓」→「對海」(対馬)→「一大」(壱岐)→九州の「末盧」(松浦)→「伊都」(怡土)→「奴国」に至るとありまして、

伊都国と奴国は別に書いてあるんですよ!

よく見ましたら、東南に百里だから、結構、離れています。

そして、その官(役人)の名前が、

「兕馬觚(島子)」simakoとか、「卑奴母離(鄙守)」pinamoriですから、

島を管理する人、僻地を守る人というような意味ですよね。

まあ、この奴国は《日本書紀》にある「儺県(なのあがた)」や「那津(なのつ)」とされることもありまして、

まあ、これは、筑前国那珂郡(今の福岡県福岡市)ですけれども、

これをよく見ましたら、結構、当時から、ニ万戸もあり、結構、大きいですよね。

そして、投馬国(とまこく)は五万戸、

邪馬台国は七万戸、結構大きい!

でも、奴国も結構大きいっていうことが分かります!

それまでのところは、一万戸もいってなかったっていうことでありますけれども。

もしそうだとすると、この「奴國」、「漢の倭の奴の国王」だとすれば、

「奴(な)」*naの語源を考えてみました!

日琉祖語*nu > 古日本語 nowでして、

野原の「野」noや私たちが使っている日本語の「沼」numaの「ぬ」nuと同じでして、

野原や田んぼを意味するんじゃないかと!

landみたいに「土地」という意味でして、

(英語)England、(フランス語)Angleterreみたいな、

まあ、冗談ですけれども。

倭人の土地(倭奴wa-nu)という意味で考えましたら、

Angle-terre、Eng-landはアングル人の土地ですからね!

まあ、以上から、どうも、倭人の足跡は古い時代には、

中国の南で長江の下流の地域から北上して、

山東半島や遼東半島、朝鮮半島と日本列島とぐるりと一周して点在しているんですね。

だから、先ほど申し上げたような、

環東シナ海、東海、東海経済圏みたいな、

そういう人的なネットワークがダイナミックだったじゃないかという事で楽しい感じになってまいりましたけれども。

今度はちょっと角度を変えて見るんです。

鬋髮(断髪)と頭を刈りこんでいる、文身(入れ墨)をしているという人たちの記録を集めてみましたけれども。

先ほどの《逸周書·王會解》は見ました。

《莊子·逍遙游》も見ました。

「越人」と出てきているんですよね。

また、《墨子‧公孟》にもあるんですよね。

「越王句踐」でしかも、名前も出てきています!

先ほどは剣を見ました!

やはり、これ「前」になっているけれども、これはもう音を書いてるから、全く同じですよ!

そして 《史記·東越列傳》に閩越王は、かなり、南でしかも東の方ですけれども。

越王句踐の子孫であると言っている!

しかもですよ、

《淮南子·原道訓》の中にも、高誘さんの註の中に

こちらに対して、また、ちょっと漢字が違うけれども、

まあ、これも「切る」という意味だから同じなんですね。

それで大事なのは、この鱗蟲を象ると書いてある!

その入れ墨をしているという、体に文様を刻む。絵を刻む。

それは、蛟龍、蛇とか、竜などの文様、

それはどうしてかと言ったら、水に入った時に龍が害さないからということを書いてあるんですよ!

《説苑·奉使》に関しても、そうですけれども。

同じ事が書いてあるんですね。

しかも、水神と書いてありまして、水の神様、龍を象った入れ墨をすると書いてありまして、

水の神様を避けるためであるということが書いてありますね!

それでしかもですよ!

《史記·呉太伯世家》には、呉の先祖の話が書いてありますけれども。

呉の太伯が、周の太王の子供である!

周の太王は古公亶父ですけれども、

その子の呉太伯さんが、

南の方に行き、荊蠻に行きまして、

文身断髪と(断髪文身と)逆になっていますけれども、同じことが書いてある。

そして、《漢書·地理志·粤地條》では、

粤(越)の起源は、夏王朝を開いた「禹」と同じだと、私は盛んに言っていましたけれども(ちなみに「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔ > ɦɨoX、「夏」*ɡraːʔ, *[ɢ]ˤraʔ > ɦˠaXも音の対応が取れます)。

その根拠になっているんですよ!

やはり、禹陵が浙江省紹興の会稽にありまして、

治水の伝説があるということでしたけれども、

ここを見ましたら、書いてあります!

それでしかも、文身、断髪でして、

そして、ここも、先ほどお話した蛟龍の害を避くると同じことなんですよねぇ!

すごい!

それで「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔは、「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatと関係が深いということでしたけれども。

音も一緒でしたね!

それでしかも、「於」*qaː, *[ʔ]ˤaも、そうでしたよね!

今、全部、繋がってきてるんですよ!

そして、《魏書·東夷傳》(所謂《魏志·倭人伝》)の所で見ましたら、

「倭」も顔や体に入れ墨をしていて、

それで越人の起源や習俗と同じ記事なんですよ!

ビックリしました!

越人と同じということをもう繰り返しのように引いた後に、

ここで倭人の話が出てくるんですよ!

ハマグリとかを採ってるとか、

水の中に潜って、それで同じことが書いてある!

なぜ、入れ墨をするのか、

越人の起源や習俗と同じ文章を引いて書かれた後に、

倭人のことを話していますから、

当時は倭人は越人と同じ出自や風習を持つと間違いなく認識されていたということが分かります。

しかも、《翰苑·蕃夷部》や《通典·邊防序》の中に引かれた《魏略》「倭人自謂太伯之後」はなくなっちゃった文章でして、その中で残されました!

倭人たちはみんな入れ墨をしている。

それで古い言い伝えによれば、それを聞いた所、

呉の太伯の末裔であると言っているということでして、

呉の祖である太伯の子孫であることを、倭人が自称しているというんですよ!

ですから、「倭」と「呉」も繋がりがありまして、

「倭」も「呉」や「越(粤)」や「蠻(閩)」や「荊(楚)」と同じく入れ墨をする風習やルーツが同じなんですよね。

これらの文献を見ていくと、

この文書の微妙な言い回しや書き方を見ましたら、

それまで全部ぴったんこでして、

ビックリしてましたということでして、

ここで面白いものがありますから、

こちらを見てみたいと思います。

先ほど一つ一つ論証をしてまいりました、

それぞれの民族の名前を書いた文字の上古漢語の音韻対応を一覧にして、

こうしてカラーでハイライトして、一目瞭然にしまして、

そして、IPAの子音のチャートで[q]と[ɢ]は無声・有声の関係で対応しましたり、

更に奥の声門閉鎖音「ʔ」まで行くことがあり、

少し前の軟口蓋鼻音ng [ŋ]に行きましたり、

唇音化[ʷ]とか、喉頭化[ˤ]とか、

[r]とか、[j]とか、[n]に行きやすいですけれども、

それらの色を変えました。

また、最後のこの声調の誕生で入声になる、もしくは上声になる子音-p, -t, -k, -ʔたちがありまして、

そこまでよく対応しているんですよね!

いや~本当にびっくりしちゃったんですよ!

そして、こちらに字形を一覧できるようにいたしましたけれども。

「禹」は、やはり、虫を象りまして、

漢蔵祖語の「虫」*s-kryapじゃないかということでして、

更にカレン祖語*graᴮに殆ど近いわけですよ!

それでそれがあるのかということですけれども、

やはり、仮借で音写に文字が使われたかもしれませんけれども。

「禹」に関しては、「於」に関してもそうでして、

「於」は烏を象りまして、

まあ、これらは仮借ですけれども。

「于」は楽器「芋」の形、

「雩」は「雨」は、天から雨が降る形、

それで「戉」は石斧の形、

「邑」が付いて繁化されていまして、複雑にされてまして、

まあ、これはそのまま今度は鳥虫篆で複雑にされてまして、

こちちは足がついてますよね。

まあ、今の「越」に「走」が付いてるから、

それで「吾」*ŋaː, *ŋˤa > ŋuoを見ましたら、

こちらは「吾」*ŋaː, *ŋˤa > ŋuoという字、

まあ、これは数字の「五」*ŋaːʔ, *C.ŋˤaʔ > ŋuoXの音を借りて、

しかも、ここに矛「戈」とか、撥「攴」とかが付けられて、

やはり、繁化されていますね。

これは手「又」がついています!

それで「魚」*ŋa, *[r.ŋ]a > ŋɨʌの音を借りたりしておりますけれども。

これを見ると「吾」*ŋaː, *ŋˤa > ŋuoでしたよね。

「魚」*ŋa, *[r.ŋ]a > ŋɨʌなんですよ !

それで上は「虍」*qʰaː, *qʰˤra > huoですよね。

楷書でもそうですけれども。

これは特にそう!

これの音は「虎」*qʰlaː, *qʰˤraʔ > huoXなんですよ!

実は䱷*ŋa, *ŋa > ŋɨʌは、ng [ŋ]でやはり仲間外れのように見えていましたけれども、

この上、実は「虍(虎)」さんが[q]の子音を持ちますよ!

本当に!「虍」*qʰaː, *qʰˤra > huo(「虎」*qʰlaː, *qʰˤraʔ > huoX)ですから、

これも声符なんじゃないかと!?

それでやはり、仲間じゃないかと!?

そして、今使われている書き方の「吳」は、人が頭を横にして、口が付いていますけれども。

人が叫んでいる姿ではないかとお話しましたけれども。

まあ、その人が頭を傾けた形「夨」*ʔsrɯɡ, *[ts]rək > t͡ʃɨk̚とよく言うんですよね。

「吳」の下の部分の部品ですけれども、

そして、「夭」、「夭折」とか、若くして死ぬというときに使う文字ですけれども、

こうして頭をもたげているっていう感じでして、

そして、手をこうしてシャキンと挙げているんですよね。

面白いですけれども。

それで区別はつきますけれども。

まあ、こちらがやはり「夭(よう)」ですよね。

でこちらは「呉」の部品で使われる「夨(しょく)」である可能性がありまして、

頭をもたげるって意味ですけれども、

劉釗さんの字書《新甲骨文編》には、

これも「夭(よう)」に入っちゃっているんですよ。

ですけれども、まあ、「夨(しょく)」の可能性があります。

とにかく、文字が似ているんです!

そして、「歲」に関しては石斧「戉」に似ていますよね!

これもやはり、刃物だということで、

それで「委」はもともと植物(麥)が実っている!

「禾」が曲がっているということを示すために囲い「𠃊」「匸」が付けてあったりして、

そういう文字だったんでありますけれども。

秦に近い頃に「女」が付きまして、

こんな形になってしまいました。

まあ、以上はみんな仮借でして、

民族の名前を音写して書いていますけれども。

やはり、「委」の字は、「委蛇(委虵)」という熟語があるよう、

蛇のようにクネクネ曲がるという意味で「委」が使われまして、

まあ、音を当てて書くにしても、

その声符を選ぶときに影響をしたかもしれません。

またまた、おもしろいものがありまして、

こちらは日本の九州で出た主題の東漢金印「漢委奴國王(かんのなのわのこくおう)」と読んでいいか分かりませんけれども(笑)

今は「漢委奴國王(かんのわぬのこくおう)」かもしれませんけれども、戻ってまいりましたけれども。

そして、朝鮮半島北部の平壌の楽浪で出ました「夭租薉君」の前漢の銀印と、

朝鮮半島南部の慶尚北道で出ました西晉の銅印「晉率善穢佰長」がありますけれども。

こちらに関して言うと、これは「夫租」と「夭」は似た字「夫」とやはり似ていて、それとも書き誤られますけれども。

印篆の形からしましたら、

先ほど申し上げましたようにシャキーンと手を少し上げていますよね!

こちらはユーモラスです!

それで「夫」は手を下げていますよ!だから、「夭」だろうと読めまして、

それでまあ、「氵」が付いた形「沃」も見られますけれども。

こちらの「濊」もそうですけれども。

こちらは草冠「薉」やこちらは禾偏「穢」が付いた形でありますけれども、

後の時代になるとやはり、

これも水「氵」が付いた形「濊」で書くんですよね。

「夭」も水で書く「沃」になる!

この「歳」も水で書く「濊」!

やはり、さんずい「氵」がついて「水」なんですよ!

そして、文献上でも、音韻上でも、

「委(倭)」に関して言いましたら、

この人偏がない形「委」だろうと思うという話でしたけれども。

「濊/薉/穢」*qʷads, *[qʷˤat-s] (もちろん「汙」*qʷaː, *qʷˤraや「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔ)と高句麗の「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]と「夭沮(沃沮)」*qoːwɢ ʔsa, *[ʔ(r)ak] [tsa]は同族とされていまして、

ちなみに北宋の邵思さんが編纂した《姓解》という名字について解説した本の中に應劭さんのかなり古い時代に書かれた《風俗通》(《風俗通義》)を引いていて、

それは失われちゃったけれども引用されていて、

「夫餘」は「呉」の「夫槩」さんが「楚」に逃れて称して、

しかも、百済王の姓と書かれています(《姓解》巻三「《風俗通》呉公子夫槩奔楚,子孫不去者,稱夫餘氏。又百済王,初姓夫餘。」)!

ですから、古くから呉越など長江の下流から黄海の沿岸は民族が行き来していたらしくて、

朝鮮半島と呉も関係があるんじゃないかっていう話もあるということが出ておりましたり、

《後漢書·東夷傳》や《三国志·魏書》でも、

こちらの銀印が出土した楽浪と倭が結び付けられて書かれておりましたね。

ですから、最初は漢王朝が、倭人たちの「倭」が、「濊」「句驪」「沃沮」が同族じゃないかと認識しまして、

金印の蛇紐は、最初はこれは駱駝というより、馬に見えますけれども、

駱駝か馬で紐を作りましたけれども、

これも《後漢書》《魏書》にもありましたけれども、

どうも、倭人の習俗は、南の人たちに近いと理解しまして、

急遽、こういう形で作っておいた馬紐か駱駝紐を蛇紐に作り替えなきゃいけないという話になっちゃって、

それでこの蛇に作り替えちゃったと!

頭が落とされちゃった!

ギロチンされちゃったというお話がありましたけれども。

そう考えられるんじゃないかと!

これは新しい説ではないかと!

駱駝もしくは馬紐から蛇紐へと変更された理由まで説明が付くんじゃないかということで盛り上がってまいりました!

こうして、先秦両漢、魏晋時期までのあらゆる関係する文字資料を収集して分析をして、

色んな可能性を検討いたしまして、

言語学、歴史学、遺伝学、考古学など、

総合的、俯瞰的、多角的な考察から、

最も合理性が高い解釈は、

先ず、「倭」は人偏がない形「委」と考えられまして、

われわれは「倭(委)」を「わ」と読んでいますけれども、

それは中古漢語ʔuɑから来た音でして、

上古漢語の「倭」*qoːl, *[qoj]や「委」*qrolʔ, *q(r)ojʔと読むべきでして、

倭人と濊人が近いんじゃないかと!

民族の名前だけでなくて、

濊語の記録が少ないですけれども。

言語からもうかがわれまして、

しかも、金印にありますよう、

本来は「委」でしたことは、

上古漢語で諧声系列の文字(同じ声符を持つ文字のグループ)でが入っている、入っていないというのはよく見られますけれども、

rが入っていることが、結構大事ではないかと思いました!

「沃」*qoːwɢ, *[ʔ(r)ak]を見ましたら、が入ってるんですよ!

こちらの「濊」*qʷads, *[qʷˤat-s]の方はもう(「倭」*qoːl, *[qoj]と同じく)ないんですけれども。

「沃」*qoːwɢ, *[ʔ(r)ak]に入っています!

ですから、「倭(委)」「濊(汙)」「沃(夭)」「呉(吾、䱷)」「戉(越、𫑛)」「于(於、烏)」などは、

当てられた声符は異なるため、字形は大きく異なりますけれども、

同じ言葉を書いているのではないかと!

それは「禹」で「川」に関係するかと考察を深めてまいりまして、

「句吳」*kos ŋʷaː, *ko-s ŋʷˤa、「於越」*qa ɢʷad, *[ʔ]a [ɢ]ʷat、「句驪」*kos reːl, *ko-s [rˤel]、「沃沮」*qoːwɢ ʔsa, *[ʔ(r)ak] [tsa]など、

国名や民族の名前には二字で一かたまりが多くて、

こちらの「委奴」*qrolʔ nˤa, *q(r)ojʔ nˤa、「倭奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naː > ʔuɑ nuoも、どうも、二文字で一かたまりで読むかもしれないという提案も致しました。

そして、《漢書·地理志》で「越人」は禹の子孫であると述べていたり、

《論衡·儒增》や《列女傳·明德馬后》で「越」と「倭」が対比して出て来たり、

習俗や出自が極めて似ていたり、

《後漢書·東夷傳》でも、「濊」と「倭」が一緒に出て来たり、

《魏略》で「倭人」が「呉」と関係すると語ったり、

《姓解》で「扶余」と「呉」も関係するんでじゃないかとか、

《魏書·濊伝》では、「濊」と「句驪」が同族と語る古老などの話が出てまいりましたなどなど。

それぞればらばらのピースをつないでゆきましたら、

東アジア全体でダイナミックな民族の移動がなされて、

ネットワークがあったんじゃないか!

長江文明を担いましたオーストロアジア語族を話していた人たちと、

もしくは、タイ=カダイ語族など、

オーストロネシア語族も関係あると思う
人もいますけれども、

倭人(弥生人)とは深い関係にありまして、

長江下流の地域に留まった人たちは「越」「吳」、

南に行きました人たちは「閩」「粤」と書かれて、

北に山東半島、遼東半島、朝鮮半島、日本列島に行きまして、

「濊」「倭」と書かれたではないか、

まあ、その語源は長江の「江」*kroːŋ, *kˤroŋでオーストロアジア祖語ruŋ ~ ruuŋ ~ ruəŋ > ベトナム祖語k-roːŋやクメール祖語*gloṅなどと関係があるんじゃないかとか、

「川」でして、漢蔵祖語*laŋ > *kl(y)u(ŋ/k)とも再構されておりますけれども関係して、

そもそも、オーストロアジア語派から、外来の言葉として借りたのではないかとも考えられます。

そして、水名、河川の名前に多かったですね。

私は長江(揚子江)を見たことがありますけれども。

ものすごい川幅で圧倒的ですから、

また、ものすごい長いですから、

その流域に住んでいた人たちをそう記録したり、

その流域に住んでいた人たちが自称してもおかしくないですね。

また、治水をした「禹」と「川」や「虫」や「蛇」などは深い関係がありまして、

「禹」*ɢʷaʔ, *[ɢ]ʷ(r)aʔは「越」*ɢʷad, *[ɢ]ʷatと似た音でして、

それと「於」*qa, *[ʔ]aや「吳」*ŋʷaː, *ŋʷˤaも近いですよ。

そして「倭」*qoːl, *[qoj]、「汙」*qʷaː, *qʷˤra、「濊」*qʷads, *[qʷˤat-s]など、そして「沃」*qoːwɢ, *[ʔ(r)ak]とも、繋がりがあるかもしれないと!

純粋に音韻学、音声学、言語学の音韻対応から思いついたとき、

私も本当に身震いするほど驚きましたよ!

予期もしてないわけですから!

更にですよ!そうした経緯から、金印は蛇紐で作られましたけれども、

最初は濊人と倭人が同じだとみなされた。

それで駱駝か馬紐で作られて、金印を用意しておりましたけれども、

おっとっとっとということで、

お!南なんじゃないのと蛇に作り替えたんじゃないかと、

おもしろい発想にも至りまして、

今までなぜ紐が作り替えられたのか気になっていたんですよ!

それで思わぬ所から見いだして、

それも驚いちゃったんですけれども。

そうして、最後に禹=於=越=吳=沃=濊=汙=倭などがつながりましたと思いますけれども。

これはすごいことでして、

河野六郎さん(《三国志に記された東アジアの言語および民族に関する基礎的研究》,東京:東洋文庫,1990-93年 )やアレキサンダー・ボビンさん(Alexander Vovin (2014-06-26~27). Out of Southern China?, XXVIIes Journées de Linguistique d'Asie Orientale)は、

言語学の方から考えている倭人、

倭祖語、日琉祖語を話していた先祖たちの移動とこれらの民族は合うんですよね。

その移動ルートに全てが収まっていまして、

日琉祖語が、オーストロアジア語族、タイ=カダイ語族、アルタイ語族、テュルク諸語、モンゴル諸語、ツングース諸語、古代朝鮮諸語と共通の特徴を有し合っていることとか、

半島日本諸語、大陸倭語、扶余諸語、濊貊語、高句麗語、百済語、伽耶語などなど、

また、朝鮮語族の新羅語との交流や地名や人名など、固有名詞や古語などの言語資料など、

あらゆる記録をきれいに説明できるんですよね(伊藤英人:〈朝鮮半島における言語接触と大陸倭語〉《日本言語学会大会予稿集》W-3-1,2021年11月21日、チャレンジャブルで素敵な研究です)。

もう、鳥肌が立つほど驚くべきことじゃないかと!

鳥肌が立ってまいりましたけれども。

今までどうして誰も気づかなかったかと言いましたら、

やはり、中古漢語から出た日本語の漢字音とか、

現代の中国語の音ではなくて、

「倭奴」*qoːl nˤa, *[qoj] naːや「委奴」*qrolʔ nˤa, *q(r)ojʔ naː、

上古漢語でそうした文献や金印に書いてある文字をどう読むかということ、

そして、文献で伝えられた文字の評価ですよね。

「倭」には後で人偏がついちゃったんじゃないか!?

本当は金石文といって、金印にある人偏がない方「委」は、元の形だったんじゃないかとか、

《漢書》の註のところで見にいったりとか、

そうした考察や特に近年に盛んな、東アジアの言語たちの比較再構などによって、

それぞれの祖語や上古漢語などが解明されてきたから、

こういうことができてきたんですよ!

もうそうことをして研究して下さった先人たちに感謝ということでして、

大切なことは、音韻学や言語学で考察をしてこそ、

上古漢語の時代の文言文、古文を正確に読めるんことなんですね。

特に外国の地名や民族の名前の音写などは固有名詞ですから、

当時の音で読む必要があるわけですよ!

また、金石学や校勘学の観点から、

歴史書より金石文の方がより当時の表記を反映することを強調して申し上げたいと思いますよ。

そういったわけでKF-Scholaのモットーである漢語と漢字、

言語と文字、もう本当に今ここに出ていますよね!

言語と文字のデュアリティのスキームによりまして、

もう、漢字の字面にとらわれなく、

当時の言語として、音として読んでゆくことができて、楽しくなってくるじゃないかと思います。

こうして、東アジア全体に捜索範囲を広げてまいりましたけれども。

オーストロアジア、オーストロネシア、タイ=カダイ語族、ミャオ=ヤオ語族、漢蔵語族、アルタイ語族などの研究は、

今ホットですから、 言語学、歴史学、遺伝学、考古学などの観点や知見から、

倭人たちの動向を大陸から、日本や琉球の島嶼へ渡りました過程を見ていきたいなと思いました!

本当にそして、もう、よく日本列島までたどり着いてくれたありがとう!

ということで本当に嬉しくなってまいりました!

といった形で大変盛り上がりましたけれども、

今回もできてまいりたいと思います!

ここまでお聴きくださりまして、ありがとうございました!

今後とも、KF-Schola、KF-Ars Sinica。 何とぞ宜しくお願い致します。

失礼をいたします。

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