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王羲之の小楷《楽毅論》《黄庭経》《東方朔画賛》《曹娥誄辞巻》の書法や特に拓本の違いなど熱く語りました!Chinese Calligraphy

王羲之の小楷《楽毅論》《黄庭経》《東方朔画賛》《曹娥誄辞巻》の書法や特に拓本の違いなど熱く語りました!

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2021年3月18日

皆さま、こんにちは!

王羲之のシリーズ、また出ました!

今回は王羲之が書いたと伝えられてている、小楷をちょっと見てみたいなと思って、

もうこういった拓本や紙本が出ておりますけれども、見て参りたいと思うんですよね。

ところで王羲之が書いたと言われている小楷は、

今のところは四つ伝えられているんですけれども、

《楽毅論》とここにありますけど、それと《黄庭経》、また《東方朔画賛》がありますが、またこれはちょっと怪しいんじゃないかと言われていて、かなり後の時代になって王羲之が書いたと言われ、仮託された《曹娥誄辞巻》があるんですけど、まあ後でちょっと見てみたいと思いますけれども。

今回の主眼はまあ小楷がどういう風に書いてあるのかなと見ていきたいこと、

それと結構この小楷に関しては、拓本で伝わっているんですよね。

ですからそれらがどうなのかなと見てまいりたいと思うんですけど、

先ず基本的に王羲之が書いたと間違いないというのが、

例えば孫過庭の《書譜》と唐の時代にありますけど、その中に《楽毅論》とか、《画賛》と、《東方朔画賛》、それと《黄庭経》が色々議論されていたりするんですけど、(「寫樂毅則情多怫鬱;書畫讚則意涉瓌奇;黃庭經則怡懌虛無;太師箴又從橫爭折」)

まあその楽毅はもう戦国時代の燕の王さま(昭王)に仕えた将軍で斉を結構叩いて、いいところまで行ったんだけれども、

また次の王さまと折が合わなかったりして、趙に亡命したという、また燕に戻ってきたりするんですけど、

それで東方朔は前漢の武帝の頃だったかなの人なんですけど、両方とも非常に機知に富んだ人だということで王羲之は好きだったんじゃないかなと思うんですよね。

まあこれを書いたんだと言われてるんですけどもね。

これ先ず見ていきたいのが、この《楽毅論》も、宋の拓本など、それで《黄庭経》は唐の人の臨書じゃないかなっていうものが、(台北)故宮博物院に伝わってまして、

かなり綺麗に書いてあるんですけど、やっぱり時代的に見れば、非常に線が洗練されているというか、

このようにここで入れる。それで次に行くような非常にリズムがはっきりしているというか、

それとかなり古い時代の物は小楷でいっぱい字が並んでいると少し行が揺れていたりとか、

これとかもしくは少しある字だけはちょっと角度が違うとか、そういうのあるんだけど、

かなりこれは綺麗に書かれていますよね。

だから結構後の書法も入っているし、結構洗練されているから、そうじゃないかなと言われてるんですけどね。 そういった形で残っておりますということなんですけど、

問題は一番で王羲之の小楷の中では、やっぱり《楽毅論》が、昔から一番いいんじゃないかと言われてるんですね。

ここに出した拓本は「越州石氏本」と言いまして、 結局まあ欧陽修が《集古録》(巻四)という有名な色んなこと(金石)について論じている中で北宋の高紳が湖北(秣陵)で(刻本残石を)見つけて、その刻本、《楽毅論》がもう当時は石にきちっと刻み込まれて拓本を取って、皆が習ってたと伝わっているんですけども、

それを見つけたんじゃないかという話がありましてね。

南宋の石邦哲が越州という場所で刻して、(「越州石氏本」と言うんですけど、)それで博古堂帖という法帖を作って、その中にあった部分の特に小楷の部分だけが残っていたりして、全部でその法帖には何巻もありますが、一部しか伝わらず、

かつこの本は結構断裂がしていて、最後の方が「海」という字の後が欠けちゃってるから、「「海字本」と呼ばれたり、《晋唐小楷集》と言われたり、その中に十一種の例えば、王羲之以外は、鍾繇とか、子供の王献之とか、

もう唐の時代の虞世南とか、褚遂良などの楷書も入っているということでして、すごい昔から珍重されてるんですよね。

それでこの本は東京国立博物館の所蔵ですけど、これをもう一つ同じ石から拓本を取ったんじゃないかという、いくつか持ってる場所がありまして、

例えば台北故宮博物院とか、上海図書館が持っているんじゃないかとか、アメリカの安思遠という人が、個人で持っているとか、そういう色々な本があるんですよね。

ここは東京国立博物館を出してきましたが、こんなものを見てみたいと思うんですよ。

次のこのページにおいて、《楽毅論》も、色んな拓本が残っているんです。しかも一個の博古堂帖の小楷書の部分の「越州石氏本」が、これがまたいっぱい色んな所にあったりして、

それでまた良し悪しがあって、それでかつそれが明の停雲館帖本に入ってたり、重刻といいますが、前会ったものが、また拓本にまた拓本を作るためにまた複製しちゃうという、複製に複製を重ねているんですけど、

これとかここにあるのが、元祐秘閣本が、もうみんな私は宋の時代の拓本を持って参ったんですよ!

というのが、どんどん後の時代になれば、複製に複製を重ねているから、

できる限り古いものまで遡る方がいいと!まあ古籍においても、古典も宋版と言いまして、もしくは宋本と言いまして、

宋の時代に出版されたもので議論するんですけれども、

大体やっぱり宋ぐらいまでしか色んなものが遡れない!

それより前のものはたまたま残ったとか、非常に運が良かったと、それで宋から後は結構文化を復興してゆこうという気運になって、そこで色んな法帖なり、古籍が刊行され、出版されたということで残っているんですけど、

それも何本かありまして、この元祐秘閣本も、また問題があって、この本は北宋なんですけれども、 薛紹彭が(元祐二年1087年に河東で)作ったんじゃないかなといわゆるもの(北宋建中靖国秘閣続帖)なんですけど、

南宋にもまた似たような名前のもの(南宋淳煕秘閣続帖)があって、それとは違うということで、

更にこれは明の時代に餘清斎帖にまた重刻されたりして、まあ複雑になってきちゃって、もう大変なんですけれどもね。

系譜をやっぱり整理していきまして、そうして出来る限り遡れるものとして、

次の寶晉齋帖は北宋の米芾が(崇寧三年1104年に無為軍知州で)刻したとされ、また彼が亡くなった後に散逸して、戦争で無くなったりして、

そういうことで南宋の曹之格が(咸淳四年1268年)に重刻したということで、またそれも複雑ですが、

そういった由来があったりして、それでかつこちら星鳳樓帖本もやっぱり北宋の曹彦約が(紹聖三年1096年に南康で)作って、

その息子の南宋の曹士冕が(淳祐年間1241-52年に嘉熙で)増訂したしたという由来がありましてね。(この丑集には《楽毅論》《黄庭経》《東方朔画賛》《曹娥誄辞巻》全てが収録されます。)

まぁ大体そうすると北宋に作られて、南宋あたりで重刻というような由来になっているんですよ!

これでこういった形で由来が分かっていますが、

今回見ていこうとするのは、じゃあ結局こういうものを学ぼうとした時には、どれが一番いいのかというポイントがありまして、

それをちょっと私三つ(の宋拓が)ありますから、比較して見てみたいなと思うんですけどね。

まぁちょっと最初の三行はなかったりとか、ここは結構壊れているので、ここから見てみますとね。

全然違うんですよね!筆意が違う!「夫」という字の縦も全然違うんですよね!

こっちすごい太い、これは少し最初は太くて、少しずつ細くなってく、

こっちは最後のグニーンとなってるんですよ!

これとか特にこういう波法の部分がすごい違うんですよね。

ここは豊かにふっくらして、こっちは長くてなんか、この最後の角度が変わる部分がちょっと何か良いちょっとバランスが崩れてる感じですね。

これは逆にどっしりしていていいですね!

これはちょっと曲げてるし、こっちも左右 のバランスがちょっと変な感じする。

次の例えば「古」もこの横の線がすごく特徴があり、これテンと当てて、ちゃんと入って、起筆が入ってますよね。

それで真ん中を通って、最後に止めてますよね。

これもそうなんですよね!

起筆がピューと入ったら、次に行ってから、最後のほうが太く強くなってるんですよね。

かつまあこの字はちょっと見にくいことで薄れているので、まあ見えるところでいきますよね。

「之」の最後のところ、この波磔、もしくは波法は、そのまま入ってきて角度を変えてピンと抜けてますよね。

これはヒーと来て、一旦止まってますよね。ここで丸いですよね。こっちはちょっと角ばって、止まってピンと行ってるんですね。

こっちはヒューンと抜けて圧を加えて、ピッと角度を変えて、上側にちょっと出てますね。

どっちかと一荒、これとこれは似てますけどね。

これすごくやっぱり自然なんですよね。

これでまあ「意」もちょっとこのあたりが飛んでますけれども、

「宜」を見ますと、これ三つ、これすごくテンと入ってから、そこから圧が加わっているような形に見えます。

これはしっかり入って、真ん中は送筆もしっかりして、最後の終筆もテンとおいてますね。

これもう少し圧を加えてからゆっくり太くなる。

でもこっちは総じて言えるのは曲げる底は曲げているとか、あとはこの線の強弱も結構、強烈なんですね。

こっちはすごく自然に感じる。筆の機能に無駄がないような気がしますね。

筆法が自然!それでこの「大」も下に入ってこっちってますね。

これそのまま横に入ったままピンと行ってますよね。これすごい重苦しい感じがしますが、逆にこっちは!

それでこれがやっぱり一番自然で普通に書いた時には自然に見えますよね。

それであったりとか、この「者」もすごく横線が自然ですね。ヒューと入ったら、もう直ぐに中鋒になっヒーと最後ここで止まっていますよね。

ここはもうバシンと当たったら、こっちウーンとここは戻って、当たったら、ここがピーンとなって、ものすごくリズミカルに感じられますね。

それで「先」の足のも、こういうところが曲がった線、そういったものは、特に強く出るんですけど、

これ見ますと、スーと入って、これは自然ですよね。

強さをキープしたまま、最初から最後まで意外と線を保つ、最後を太くしていますよね。

これは一回ここで弱めて、最後を太くしているんですよね。

どっちかと言ったら、当時の人は、こんな入れた、弱い、強いよりも、

最初から線はそのままの強さをキープしたまま、中鋒でいきましたからね。

ずっーと書いてあるから、まあやっぱり晉の時代の筆法に一番近いといえば、まあ何回も何回も転写してるから、全てにおいてですけれども、かなり厳しいんですけども、元に近いといえば、このやっぱり これかなと思っていたり、

これ全然違うんですよね。この波法、こっちのここまで来たら、最後グーと太くしておもむろに抜けてるんですよね。

これはピーときたら、最後に止まったようにウーと太くして抜けている。

これなんかギューと相当右まで行っちゃってますよね。

最後ちょっとここでツンと抜けてる感じで、

一番これがやっぱり安定感がある感じありますよね。

これちょっと下が弱い、上に対して、下が弱い!

これ長すぎるという、こっちが!

それでこの「必」の点の感じもすごくいいんですよね!本当にゆったりとしている感じがします。

これちょっと点が空いちゃってる、ここんところは、これはちょっと逆に動きすぎ、走りすぎか、結構見ると違う!

これはこう当ててシュシュと抜けていますよね。

これはギュッと当てた感じでピンと抜けてますね!

1回ちょっと変わる瞬間に少し速度が変わっている。

これなんかは、こっち、これもさっきも「之」の波法もそうでしたけれども、

この長いからぺっちゃんこになっちゃう!

かなりここだけが出ちゃうから!一本出ただけでも、そうとう扁平になっちゃう!

これはすごく自然だったり、これは下へ行って、上に行ってますよね。

ここもまあある程度そうなってますけど、ここはそんなに大きく違いはないですけれども、

そういった形で見ていきますと、例えばこの「常」を見てみますと、ここをおもむろに書いて、こう行ってるでしょ!

ここはある程度、変わるところが、一回、点折はいつもこの曲がるところなんかは、一回弱まってから、そこで鋒の先をちゃんと整うわけですから、

それで次に行くって言いましたね。

それが上手く守られて書いてありますね。ここはすごくきれい!

これはそんなに違わないと思う。

これちょっと丸っこい何をしますとかね。それで結局「也」のここもそうですけど、これはギューと行って、《蘭亭序》にすごい似てますよね。

これはギューと行って、おもむろにピッと最後のところで抜ける!

これはピーと行っていますけれども、こっち側抜けて、

少しこう行ってから、こっち側にいくとか、少し違うんです。この最後の線の方向、

これすごいピンと行ってますね。

これが一番穏やかで古意と言いますか、豊かな感じ、古い晉の人の気風に近いかと言いましたら、やっぱりこれでしょう。

すごくやっぱりどっしりしていたりとかしてましたり、それでこれに関しては、ここでグンと立ててこっち来てますよね。

これはそのままスーと行って、そのまま抜けた感じがしますよね。

ここはやっぱりグッと言ったのは中を締めたいからですよね。

あんまりダラダラ長くすると中が開いちゃったり、ここが空いちゃったりして、字が変に大きくなっちゃう。

この字をギュッとやっぱりちょっと締めたかったんですね。だからこういった形で抜ける方法、方向もちょっと変えているとか、

これはテンと入って、シューと行って、テンと止めてる。

これはトンと入って、ピーと行って、テンと行って、止まって少しちょっと違いますよね!

この大体こうやって、この「者」もさっきところでも見ましたから、本当にこの「者」が何回か出てきますからね。

もう大体同じようにグッと入ってますよね!入りが少し宛ててから筆圧が変わってる感じでおりますけれども、

この「其」もそうですよね。これは少し欠けてますけど。

という感じで、全体から言えば、楷書というのは基本的には同じ人がいた、最初から最後まで同じように草書や行草といった書体と違って、

元々楷書は隷書から来てて、そのきちっとした規範で同じ調子でちゃんと書かなかったらおかしいわけですから、

ある字から変になっちゃったから、調子が違ってるからおかしいなって気になっちゃいますから。

楷書の場合はその最後の出る方向とか微妙に変えているけれども、やはり統一性があるとちょっと入りと出るところとかですが、

全体から言えば、今みたいにこれが一番やっぱり晉の書法に近いのかなぁと、

これがすごく唐の人とか、非常にもう少し後のしっかりもう入る、送筆する、止まるという形で書かれていて、

これがすごく動いているというか、もうなんか筆遣いがちょっと癖があると申し上げましたから、ちょっとうるさい感じがするような感じなんですけども、

まあこの《楽毅論》に光明皇后と日本にも奈良時代のまあそれはまあ唐の時代に当たるでしょうけれど、

その時に光明皇后が臨書したものが残ってますけど、

それはどっちかと言えば、これに似てるんですけど、すごく激しいけれども、

やっぱりこの秘閣本は一番、真を伝えるじゃないなということで、元々まあ全部特色があるんですよね!

だから別にこれは晉の人の書法だと考えないで、

楷書のお手本としては非常に良いものでして、これは名品ですけれども、

そういった形で細かい筆意などを見まして、それで書が面白く見れて、それで良し悪しを感じてこれて、お話しできたんじゃないかなと思います!

これ羅の細かい所から、その本当に線の最後の抜け方が本当にもうどこまでも続いてるような線がすごく伸びる!

伸びやかさや安定感がすごくドシッとした感じ!そういった調和が面白かったんじゃないかなと感じ入っておりました!

そしてこちらには先ほど申し上げた《東方朔画賛》がありますけれども、

これも唐の時代に臨書されたものが台北の故宮に残っていまして!

それでこれを見ると面白いことにあんまりこの法帖は知られてないんですよ!

え!《東方朔画賛》に墨蹟本があるのとびっくりですけれども、拓本しかないと思っていますから!

台北故宮博物院が作った《故宮寶笈》の法書、つまり書法に関係する部分にこういったものが収録されてるんですよ!実はあんまり知られてないんじゃないかな!もう声を大にして言いたいですけど!

なかなかかこれも筆意なんかはいいんですけど、面白い!

一つ一つ見ていきますと、すごい線がなかなか伸びやかで味があるんですよね。

この楷書も後の法帖がいっぱい《東方朔画賛》にも結構残ってるんですけども。

これなかなかいいんじゃないかなと、学ぶところが結構あったりして面白いんだなと思われ、

もう一つ面白いものがあるのでちょっと見てみたいと思うんですね。

こちらの《曹娥誄辞巻》はすごい親孝行の女性、曹娥について書いてありますが、

昔からよくこれも小楷で王羲之が書いたと言われていて、

まあ結構それは法帖でこれは王羲之になってしまったんですけども、

その前までは晉の時代の人が書いたということで伝わってきたんですけど。

これも唐とか宋ぐらいに臨書されたと、これは絹本、絹に書かれていますが、そういったものがあったりして、なかなかこれも面白いんですけどね!

まあこれは織物だから、ちょっと曲がってるのは、これは布自体がちょっと歪んでいるのしょうけれども、

一つ一つ見ていくとなかなかこれも面白いんですよ!

今回はまあこんなものもあるよというご紹介をして、

特にこの《楽毅論》の色んな拓本がありますという話をメインとしましたけれども、

今度隷書からどう変遷してきたのか、その楷書の成立をちょっと見てみたいなと思って少し、今考えでありますので、どうかお楽しみにしていただければと思います!

今回は特に《楽毅論》、王羲之の小楷の中で一番もう素敵じゃないか、素晴らしいんじゃないかと、(古くから)言われるものですから、ちょっと拓本を見ていけて面白かったと思います。

これからも宜しくお願い致します。ありがとうございました。

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