日本人どなたも耳にしたことがある輝かしき金印「漢委奴國王」の続編です。前回は、ものすごく細かく印面を見てまいりましたが、今回は印紐につきまして特集を組みました。金印「漢委奴國王」の仲間たちが集結しましたのでどうぞお楽しみください。
次回は「漢委奴國王」それぞれの字源(漢字が何を象りましたか)についてお話をしてまいります。面白かったことなどのコメントを下さりましたら、また暖かい応援を下さりましたら、今後の撮影の励みになります。皆さまと印の楽しみを少しでもシェアーできましたら幸いです。
※日本語の字幕を表示するスクリプトをご用意しました。
専門用語や細かい訂正などは字幕でご確認下さいませ。
2020年12月29日
この間やはり紐について、もっとしゃべりたかったと、ちょっと二匹だけだと、少し寂しいかなと思ったんですよね。
それで私自身もその古印、古い印を沢山見たり、鑑賞したり、鑑定するには、どうしたらいいかを学んでいたり、自分の興味でしていて、色んなその金、銀、銅、 玉でできた印を沢山いいもの見たいなと見ておりましたら、
結構、頭の中で思いついた限りでも、色んななかなか珍品を沢山見つけてきてですね。
それをちょっとその中で面白い!これは何故面白いかというと、漢王朝もしくは新は王莽という人が、前漢の最後はちょっと政情的に不安定になったときに出てきて、一旦この新というのが少しだけあって、ちょっと復古主義的だというところがあった王朝を立てて、
これからそれがそんなに長く続かないで後漢、中国では東漢になっちゃうんですけども。
日本では、前漢、新、後漢、前と後で区別して、中国は西と東で、その時代と大体これは両漢、要するに前漢と後漢、両方の漢あたりのものと、
これは少し時代が下って、三国より後の西晉という時代になってしまいますが、こう見たときにこれらは何らかの基準により、私が選んできたと、
それはどういう基準かと言いますと、 これ赤になっているから、すごく分かりやすいですが、匈奴、烏桓、賨、氐、倭ですよね。日本。
それで滇王とか蠻夷とこれ全部、 中国の要するに中華という、真ん中の中原という、真ん中の原と書きますけれども、
中国の中枢から見て回りにいた少数民族なり、異民族が、ちょうどこの新くらいの時代か、 もしくは大体それより前は、周、中国の歴史を一つ考えると、
最初は殷とか、その前の夏王朝もありましたが、それはすごく実は広いように見られていますけれど、実は黄河とか、長江とか、文明が発達した、最初に発達した地域からどんどん膨張していくんですよね。
どんどん領土が広がっていくと、周王朝ぐらいなると、諸侯と言って、周りの人たちをどんどん仲間に入れていくのですけれど、
そういった仲間に入れていったときに、冊命(冊封)といい、その周りの人に諸侯として封ずる、「封」という字ですから、土地をプレゼントしますというか、そこに支配権を委ねて、そこを支配してもらい、それで全体をまとめていく発想にいきまして、
それがずっと拡大されていくと、秦の時代になった時、全体が統一されて、というのも、本当にもう今から言えば、 今の中国の三分の二や半分ぐらいの領土だった。
そこから、更に膨らんでどんどん膨張していくと、今度、秦と漢ぐらいになると、 もう周りの民族との接触がもっと激しくなってくると、
その周りの民族と戦争ばかりしていると、領土の丁度国土のところが脅かされてしまい、だから困ったなぁというとき、まあ、ある程度仲間になってもらって、
そうすれば、本当に一緒に上手くやっていけるだろうといっても、かなりでも屈辱的な講約で、戦争しない代わりにものすごい金品を払うとか、真ん中の王朝から外に金銀とか財物を差し出して、
その相手のその相手は家臣として一応遇するわけで、この亀の紐は、漢民族の中でも、この諸侯王とかに許された、かなり等級の高い、亀の紐とか、金で作られていること自体は、
結構これは以外と思った以上に、要するにこの間は中華思想だと、北狄、南蛮、東夷、西戎だというような話をしてましたけども、
意外とかなりいい待遇をしていると、結構いい待遇していることも、この印からも分かりますし、それでこっちは銅印ですけども、最初は同じ烏桓とは、この間もう何でこんな間違をしちゃったかなという、烏桓が西域の方だと、西域が頭にあって、
それは実はもう一つ話があり、前漢くらいの時代の時、まあ漢王朝くらいの時代の時にも、西の方にも「烏孫」と、この「烏」は同じ烏でカラスといういみですが、烏孫という「孫」と書くんですけれども、そういう今に言うキルギスとか、タジキスタンとか結構西のほうなんですよ。
そこにあと月氏とか、別の国があるんですけれども、もう本当にインドに近い方にいた民族と私の頭の中で混ざっちゃったのかと、
それで丁度この時代というのはどんどん膨張して言ったという話をしましたが、シルクロードはもうローマぐらいまで続くまで交易路もどんどん発達してきて、ちょうど外交関係がすごく面白いんですね。
それは印にも漢王朝との外交関係がちゃんと刻まれていて、歴史が入ってると面白い見方もでき、この印を集めてきたんですよ。
そこで見たときに、私もシルクロードやはり興味があり、張騫(「ちょうけん」の言い間違え)がこの時期に西の方まで行き、色んな国を見てきて、商人は思った以上に中継取引をしていて、
要するに本人たちが全部完全なルートを移動していかないけれども、中国から絹などがずっと西の方にずっと行きまして、中国の文物が結構ちゃんと交流があり、西からも色んなものが入ってきた時代になってきましたので、
間のその民族はやはりすごく大事にしなければいけないと、こういった印で、これを見ていくと、丁度面白いのが、最初の新の要塞を守るって意味ですよね。本当に保つという守るとか、要塞の塞で烏桓でしょう。
それで西犁邑は場所ですね。邑は村だから、それで率衆侯は《後漢書·烏桓傳》の中にも、烏桓、率衆王、無何という人の名前が出ていますから、やはり印とその文献とも対応しているということ、
それで次は漢になると銅でできていますが、そうすると今度紐が、今度駱駝の駝紐になって、駱駝と!
この間はこれ(首を)切って、これの形にしたって話をしましたが、今度は匈奴も出てくるし。匈奴は大体、そうそう、それで今お話しなければなりませんでしが、烏桓は大体今でいうと北京からちょっと北西ぐらいにある、内蒙古地区に当たるんですけれども、
それで匈奴とは、大体今のモンゴルで、烏桓とは文献上に書いてあるから、ちょっと難しいけれども、ツングース系の民族ではといった推測もされていたり、(モンゴル系という説もあります)。
それでもう一つ大事なのが、ここにこれはちょっと伝世品なので書いていませんが、この出た場所が全部書いてくれていて、雲南省や湖南省は当時の中国の真ん中から言えば、結構周りのところですよね。
この民族の名前が書いてあり、そこでお墓で発見され発掘されたことは、これはここにこの民族がいた証拠や証明になると。
印はものすごく大事で、大体お墓が発見されると被葬者、誰か葬られているのかを知るには、印が出てくると誰々さんと分かる例がすごく最近は色んな考古的な発掘で、印はそうした考古学的な意味でも物証として、文字資料として貴重だということで、
これでこの賨は、大体今で言うと重慶は四川ですよね。だから真ん中から言えば、四川は南西か、南からちょっと西にいた民族であろうと分かり、これはいわゆるミャオ族、そういう少数民族が当たるとか、色々な推測がされていたりして、
それとこちらの「氐」は、故宮博物院所蔵で考古学的にどこで出たかは書いてなくて、伝世品で考古学的発掘ではないですが、羊の紐を持ってますね。羊さんですね!これめぇ~って感じで顔かわいいです!これでこのめぇ~という感じの民族は、これこそ西の方にいた今ではチベット族とかに近い、氐は遊牧民族的にいたような民族と推測されていて、
それでこういったことも分かり、それでこれが我らが「漢委奴國王」ですね。これはお話しました「滇王之印」ですが、滇王も蛇紐で、蛇さんですよ!これはすごく。こっちはなんかとってこれを取って付けたように作って、これ蛇さんで作ってあると。それでとぐろ巻いてグニュってきてこっち見て、なかなかこれもユーモラスですけれども、
これは結構随意に作ってあって、ポッとこっちをちょっと太くなって、 何かふわんふわんって感じの線質で作ってあるし。
これはちょっと前の要するに前漢ぐらいじゃないかなと、史書との関係で滇王が封ぜられた関係で雲南省で南のほう、雲南省は、今でもかなり少数民族が沢山の地域で昆明はそうですが、そういうところで出ているし、
これは、もうちょっと時代に下がるけれども、「蠻夷」という、この南蛮と東夷、私が話してた蠻と夷が「蠻夷侯印」も出ていると、これは本当にとぐろを巻いた蛇さんが、コブラみたいな、蛇使いの蛇みたいにこれは面白い、これも蛇紐ですが、蛇紐でも色々な形がありまして面白いということで、
これは紐という観点も面白くて、それで私が本当にこの紐に興味を持ったのも、こういった外交的な関係で文献資料とも対応関係と興味の話が今このスライドの中で一つできたと思います。
質問していいですか。はい、どうぞ。
この動物を模した紐とは、どういう目的があって刻られたんでしょうか。芸術品として、先ほどその中華思想として、周辺の諸侯に対して、こういう金品を渡すという時に、やはり相手の国の動物を模したものをまあ送ることで喜んでもらう、喜んで部下になってもらおうという意図があって、敢えてそのそちらの国でいる動物を模したと考えられるでしょうか。
そうですね。紐のことに関して言うと、意外とこの紐がいきなり発達してきたのは、一つ面白いことがあって、
古鉨といって、秦が中国を統一して、始皇帝が統一して、それより前は、結構意外とそっけない紐は、みんなそっけない紐ばかりだったんですね。別に動物とかもそんなにないし。
古鉨という時代、要するに秦より前の先秦という、戦国時代ぐらいの印の中の私印は、ものすごい数があり、その中にも、結構面白い紐もいくつもありますが、
これまで色とりどりに出てきたのは、やはりこの先ほどお話した朝貢関係が発達して、色んな民族と接触するようになり、この亀さんとか、
まあ亀というと、大体もう殷の時代から、亀の甲羅で占いをしていたし、すごい大事にしてたんですけど、
やはりこの駱駝さんとか、あとは羊さんとか、蛇さんとかは、これは色んな民族の相手の民族と接触していき、その範囲が広がるが故に色んな動物も知られるようになりまして、
だから、その時代から、いきなりパーンとこう発達してきているということは、一つ言えて、
この朝貢した。今の質問に完全に真正面から答えるには、この出てきた考古資料からしからしか読み取れないから難しいけれども、
この冊封関係で漢王朝なり、その後に引き継いた三国は漢王朝を引き継いだというプライドを持って統治した人たち。
日本も魏に、《魏書·東夷傳·倭人條》にも、日本のことを書いてありますが、「親魏倭王」とか、それもやhあり紐がついていたと考えてられていたりで、
やはりこうした冊封関係の中でこういう紐が発達してきたことは、先ず間違いなく言えると、私は思います。
それ相手の土地、要するに冊封関係に入ることは、相手は家臣になるという形ですね。皇帝が真ん中の皇帝が一番上で、その周辺の王様として封じて、相手のその地域の特色性を紐に反映することは間違いなく言えると、私は思ってますね。
そして今、丁度すごいいい質問があって良かったですけども。紐に関して、歴史書にも出てくるのが、 結構これみんな《後漢書·輿服志》、《漢書·百官公卿表上》、《東觀漢記·百官表》、《漢舊儀·補遺二卷》、《後漢書·東夷傳》、《翰苑·蕃夷部》で東夷傳ですけれども、《後漢書」の「東夷傳」と《翰苑》の「蕃夷部」で見ると皇帝は玉の璽を使いなさい。 虎の紐ですよ。虎がやっぱり皇帝だと、それで、
ああこれ、私大変な新字体(簡体字)から旧字体(繁体字)に改めるのに間違えた!「皇后」 の「后」という字は「後」という字じゃない。これ「皇后」の「后」ですね。これ誤字です。
今中国では、簡体字では、この「后」字は、午後の「後」、 「皇后」の「后」字を午後の「後」字で使うので、これは「皇后」です。失礼しました。
皇后は金の璽を使いなさい、虎の紐を使いなさい、諸侯は黄金の璽を使いなさい、とこれ全部、これ駱駝紐でしょ。皇太子、列侯、宰相ですよね。これは太尉、これは武官、それで三公というのは、これはやはり国の大臣、あとは将軍は、黄金印で亀紐と、大体将軍ぐらい、このぐらいのかなりこれ、
だから、先ほど見た異民族に与えたといえ、その亀の紐で黄金印とは、相当な格なんですよ!それでその下になってくると、銀印で亀の紐でしょ。亀紐とか。
それでこれが何石、日本でも江戸時代でも、 何石、石は単位でありましたね。相手のどの位の人を養う力があるのかの意味だから、これも中国からきた制度で。
その下などは銅印、鼻の紐で鼻紐はもう本当にそっけないつまみみたいな形であるとか、それでこれも、今度は何で私が前のスライドのところで「漢委奴國王」が金印で紫綬と分かるかというと、二つ言えて、
ここに金印紫綬ははもう宰相という、これと同じくらいの格ですね。秦官とは、秦の時代に置かれた官職。
それで金印、相当「漢委奴國王」は位が高いなとおおって気づいて、しかもここに《翰苑》も貴重な文献で菅原道真を祀った大宰府天満宮に世界でそこだけしか、もう中国でもなくなり、 日本で残された中に貴重な文献資料(類書)の中にも、
「中元之際」の「中元」はこれに対応する。その「紫綬」とちゃんと書いてあるから分かるとはっきり、こういう文献資料上でも分かる。
でも、ただ一つ私が補足して言わなければならないのは、本当に史書に書いてあることを疑う人たちは、本当は疑わなきゃいけないんですよね。出てきたから、例えばあの金印が、この建武中元二年とは、紀元後少し後の時、先ほど西暦で書いてありましたけれども。
それでそのぐらいの時にもらった印と、本当にそれ同じものなのか、疑う人もいるけれども、まあ、かなり金印をもらうのは、相当な話であり、それがじゃあもしそうじゃないということで、別にもらってたということですから、ここに上げた方が書いてあるわけですから。
だから、そういった疑う人たちは、これと対応しないという考え方もありますね。本当に慎重な慎重に歴史を見る場合はですね。
ですけれども、文献資料には、こう書いてあるということで、これと「廣陵王璽」ですね。廣陵王は、さっき見た諸侯王ですから、この間にお話しましたように、劉荊という人でしたよね。
その人は諸侯王に、それで金の璽、これも相当の位の高いわけです。それでそれはやはり漢王室に繋がるからなんですけれども。それで綟綬ですね。
だから、私は「廣陵王璽」は綟綬だと書きました。まあある程度こういう文献資料も見ながら、
あんまりこれをやると、(皆さんが)飽きちゃうかもしれませんが、こういった全部勿論漢文で全部書いてありますけど、 古文とか、中国では文言文と言いますけれども、これは日本では、漢文と言いますけど。
それで全て文献資料に書いてありますから、この印のこと、先ほどの金印がどうだと議論できるということで。
こういった証拠に基づいて、文献的な証拠とか、考古的な物証とか、お話をしていきたいなとお話を今させていただきました。
どうも、今回は少し印から、ちょっと印そのものを見るところからは出て行き、印自体がどういう歴史的な価値を持つのか、文献資料との関係性があるのか、異民族との外交関係があったのかということですね。
ちょっとお話、こういった面からも、面白いということで、一つ試してお話してみたいなと思いまして、動画を作っておりました。
それでYouTubeには、コメント欄があったり、チャンネル登録をしていただいたりですから、私も常に印を見た時にも、色んな文献を読んだりして、少しずつ興味を広げていきたいことで、
自分の興味が赴くままにやっておりまして、皆さまも色んな面から見た時にこういう面もあるよとか、そういった話なども面白いかなとと思いますので、同じ興味を共有しながらできたら良いですね。
今後とも応援して下さると嬉しいです。どうも今回もここまでご清聴くださいまして、本当に感謝しております。ありがとうございました。