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顔真卿

顔真卿(709-785):〈祭姪文稿〉28.2×75.5cm 台北故宮博物院 唐·乾元元年九月三日(758年)

維乾元元年歲次戊戌九月庚午朔三日壬申,〈從父〉第十三叔、銀青光祿[大]夫、使持節蒲州諸軍事、蒲州刺史、上輕車都尉、丹陽縣開國侯真卿,以清酌庶羞,祭于亡姪贈贊善大夫季明之靈曰:惟尔挺生,夙標幼德,宗廟瑚璉,階庭蘭玉。〈方憑積善〉。每慰人心,方期戩穀。何圖逆賊開釁,稱兵犯順。 尔父〈□制,改被脅又改〉竭誠,常山作郡。余時受 命,亦在平原。 仁兄愛我,〈恐〉俾尔傳言。尔既歸止,爰開土門。土門既開,凶威大蹙。〈賊臣擁眾不救〉賊臣〈擁〉不救,孤城圍逼。父〈擒〉陷子死,巢傾卵覆。 天不悔禍,誰為荼毒。念尔遘殘,百身何贖。嗚呼哀哉。吾承天澤,移牧〈河東近〉河關。〈尔之〉尔明比者,再陷常山。〈提〉攜尔首櫬,〈亦自常山〉及茲同還。撫念摧切,震悼心顏。方俟〈□□〉遠日,〈□〉卜尔幽宅。〈撫〉魂而有知,無嗟久客。嗚呼哀哉。尚饗。

皆さま、長らくごぶさたしておりました。お元気にお過ごしでしたでしょうか。私は漢籍と書法の名品に囲まれながら元気に過ごしておりました。今まで色々と漢籍と書蹟や篆刻の名品を集め、お役に立つか分かりませんが、顔真卿についてメモを書きました。

顔真卿は晩唐の中宗景龍3年(709年)に京兆府万年県に顏惟貞の子として出生して、德宗貞元元年八月三日(785年8月23日)に蔡州龍興寺で賊将の李希烈の配下に縊殺され、長い歴史で群を抜き剛直で屈指の忠臣として知られる痛快な人物です。《旧唐書》巻132や《新唐書》巻153に立伝され、《資治通鑑》巻217から登場します。顔真卿は忠勇義烈・忠肝義膽の代名詞であり、玄宗に背いた安禄山に対して義兵を挙げて賊軍を打ち、徳宗に背いた李希烈に慰諭の使として赴き、痛烈に道理に反することを批判して、兵で囲まれて刀を突きつけても屈しない顔真卿にかなり感心して礼遇して従うように説得しましたが、賊将に仕えることを断固拒否して溢殺されました。

王羲之の機知に富んだ《世説新語》の逸話と顔真卿の剛直で貫き通した《資治通鑑》の記事は好対照をなしています。顔真卿は反骨精神のかたまりで剛毅朴直で信念を曲げない性格で王羲之の多彩な筆意の書風(院体)を意図して排除して、正筆(直筆・中鋒)にこだわりぬき、真正面からぶつかるような書風(顔体)を形成しました。殷亮:《顔魯公行状》、留元剛:《顔魯公年譜》、黄本驥:《顔魯公文集》に文章、南宋拓《忠義堂帖》に尺牘などが収録されます。晩唐に国難が多発して軽薄才子が横行する時世に生まれ、忠肝義膽の精神を遺憾なく発揮した顔真卿は安禄山と李希烈と二度の大きな謀叛に接して大義のために死も恐れない気概が書格を醸成しました。

唐代は官吏登用に身言書判が重んぜられ、体躯が堂々、言語が明晰、楷書が端正、文章が立派であることが要求されました。書を通じて見た目(才能など)ではなく、深い意(人格など)を受け取られました。特に王羲之の風格が珍重されました。唐代までの人は筆力があり多くの字数の碑文を書丹しても、線が勁くて揺るぎないです。外山軍治:《顔真卿:剛直の生涯》〈書人顔真卿〉で「官僚生活を通じて、得意な時期にも、不遇な時期にも、すぐれた作品を残していることは、顔真卿が書道の研鑽をゆるがせにしなかった証拠である。このように書に没入することができたからこそ、毅然として困難な時世を乗り切れる勇猛心が得られたのかも知れない」とされます。

顔氏は春秋時代の孔子の高弟で「亜聖(聖人に亜ぐ)」と敬われた顔回の子孫とされ、北斉に亡命した顔之推は《顔氏家訓》を編纂して、曽祖父の顔勤礼の子の顕甫は篆籀草隷に長け、先祖に能書が多いですが、母方の外戚の殷氏も能書の家系で父を早く亡くした顔真卿は、叔父の顔元孫や兄の顔允南に教育を受けて文官となりました。顔真卿の曽祖父である殷令名の〈裴鏡民碑〉(貞観11年・637)は遒勁で筆力があり、子で顔真卿の祖母の弟である殷仲容の〈李神符碑〉(永徽2年・651)は隷意がある楷書です。元の呉寛は《文集》巻21〈呉寛評書〉で「顔魯公平日運筆清活円潤、能兼古人之長」として、顔真卿は先人の書の良い所を兼ねていると評しました。

顔真卿が影響を受けたであろう先人の書として、清の康有為は《書林藻鑑》巻8で〈郙閣頌〉(東漢建寧5年・172)、劉熙載は《藝概》、康有為は《広芸舟双楫》巻14で〈高植墓誌〉(北魏神亀3年・520)、穆子容:〈呂望碑〉(東魏武定8年・550)、陳柱尊は《楷書詹言》で〈馬鳴寺碑〉(北魏正光4年・523)を挙げました。また、包世臣は《歴下筆潭》で顔真卿が王子椿の〈徂徠山摩崖〉(北斉武平元年・570)、沙孟海は《論書叢稿》で〈泰山金剛経〉〈水牛山文殊般若経碑〉(北斉・無年月)、〈曹子建碑〉(隋開皇13年・593)に顔法が出自するとして、筆先が二つに分かれる波法の燕尾や線の中心がふくらみ円勢に構える筆法に影響が見られます。

黄本驥は《文集》巻21で〈龍蔵寺碑〉碑陰(隋開皇6年・586)など、黄宗義は《顔真卿書法研究》第6章で〈僧璨大士塔磚銘〉(隋開皇12年・592)や〈高昌任謙墓表〉(高昌延和11年・612)、翁方綱は《復初齋文集》巻21〈跋啓法寺碑〉で〈賀若誼碑〉(隋開皇16年・596)などを挙げ、右下に重心を置く結構が似ています。顔真卿の先祖にあたる〈顔謙婦劉氏墓誌〉(東晋永和元年・345)は陸機の〈平復帖〉、王珣の〈伯遠帖〉などの真蹟、王羲之の〈姨母帖〉、〈初月帖〉の双鉤填墨と筆法がそっくりで二過折ですが蔵鋒で深みのある線です。〈蔡氷墓誌〉、〈周叔宣母黄夫人墓誌〉(東晋無年月)も向勢で蔵鋒で中鋒でゆったりとした南朝の書風で通じます。

楷書は究極の書体であらゆる書体の長所を取り込みました。鄭道昭の〈鄭羲下碑〉(北魏永平4年・511)は包世臣が《藝舟雙楫》で「字獨真正、篆勢、分韻、草情畢具」と評され、陶弘景の〈瘞鶴銘〉(南梁天監13年・514)など摩崖は、篆書の遒勁さや円勢、隷書の暢達さや方勢、草書の雅趣や風韻があり、大らかさが感じられます。最初期の楷書、〈朱然木刺〉(赤烏12年・249)でも縦の線が太く、横の線が細く、蔵鋒で中鋒です。〈楼蘭残紙〉や〈李柏文稿〉(咸和3年・328)も沈着した直筆、蔵鋒、中鋒で書かれ、六朝から唐代の写経も筆力があります。初唐に到りましても虞世南の〈汝南公主墓誌〉(貞観10年・636)や陸柬之の〈文賦〉も蔵鋒ぎみの行書です。

先秦両漢には粗い簡牘、六朝時代に堅い麻紙が使われ、唐代以前まで簡牘の繊維に負けないよう、直筆で蔵鋒により筆力が遒勁でしたため、古人の書は見ごたえがあり、鍾繇や王羲之の古意や風格が珍重されます。宋代以降は宣紙が普及して滲みに頼るようになり、側筆かつ露鋒が多く、紙の奥まで墨が浸透せず、線が弱くなりました。葉昌熾は《語石》巻7〈褚顔書所自出一則〉で外祖殷氏から顔真卿が書訣(書法の極意)を受け継いだことを考察しました。劉熙載は《藝概〉で「褚河南為唐之廣大教化主、顏平原得其筋、徐季海之流得其肉」と褚遂良の筆線の影響があり、隷書の極致とされる〈礼器碑〉(東漢永寿2年・156)に遡るような勁い筆線があるとしました。

褚遂良の〈房玄齢碑〉(永徽3年・652)、〈雁塔聖教序〉(永徽4年・653)は、針金のように細くてしなやかな線に見えますが、実は入筆で婦格紙に食い込みながら、入筆で筆先の紡錘に貯めた力を送筆で開放して終筆で急に止まり、〈伊闕仏龕碑〉(貞観15年・641)や〈孟法師碑〉(貞観16年・642)でかなり筆力が窺われます。褚法から派生した薛稷の〈夏日雄石淙詩〉(久視元年・700)や〈信行禅師碑〉(神龍2年・706)も紙を切り裂くほどの勁い線で書かれております。顔法の肉が付いた太い線ではなく、褚法の線は骨が露わであり、線質や結構が極端に異なり真逆の書風に見えますが、筆法(執筆や用筆)の基礎は同じであることが面白くて奥深いです。

顔真卿は洛陽に滞在した張旭から《張長史十二意筆法記》の「後聞於褚河南曰:用筆當須如印泥畫沙。思所不悟。後於江島、遇見沙地平淨、令人意悅欲書。乃偶以利鋒畫其勁險之狀、明利媚好、乃悟用筆、如錐畫沙、使其藏鋒、畫乃沈著。當其用鋒、常欲使其透過紙背、此成功之極矣。真草用筆、悉如畫沙、則其道至矣」と聞きました。徐浩も張旭に学び、〈朱巨川告身〉(建中3年・760)、〈李峴墓誌〉(永泰3年・767)、〈不空和尚碑〉(建中2年・781)で遒勁な線が見られますが、于大成は《書史概述》中巻で「〈不空和尚碑〉筆画転折起訖、直已具顔真卿之変化、当是顔用浩法、而加以発揚光大」と述べました。両人は〈顔徐〉という高麗楽も作られました。

顔真卿は張旭の筆法を懐素に伝え、〈自敘帖〉(大暦12年・777)に「呉郡張旭長史、雖姿性顛逸、超絶古今、而模楷精法詳、特為真正。真卿早歳、常接遊居、屢蒙激昂、教以筆法」、〈藏真帖〉に「懷素字藏真、生於零陵、晚游中州。所恨不與張顛長史相識。近於洛下偶逢顏尚書真卿、自雲頗傳長史筆法、聞斯八法若有所得也」と見え、懐素は張旭に学んだ従弟の鄔彤にも学びました。最近に鄔彤による〈唐侯知什墓誌〉が発見されました。黄庭堅は《論書·論黔州時字》で「筆力同中有異、異中有同、張長史折釵股、顔太師屋漏痕、右軍錐画沙印々泥、懐素飛鳥出林驚蛇入草、索靖銀鈎蠍尾、是一筆」と先人の技法が感興に合わせ、一筆で自然と現れたと語りました。

姜夔:《続書譜》「用筆如折釵股、如屋漏痕、如錐畫沙、如壁坼。此皆後人之論、折釵股者、欲其曲折圓而有力。屋漏痕者、欲其無起止之跡。錐畫沙者、欲其匀而藏鋒。壁坼者、欲其無布置之巧。然皆不必若是」とされ、張旭の折釵股は、李陽冰の篆書の遒勁な竪牽(古釵股)でしたが、後に簪の股のよう切れのある転折と解釈されました。陸羽:《僧懷素傳》「懷素對曰:似古釵脚、為草書竪牽之極。顏公於是懷佯而笑、經數月不言其書。懷素又辭之去、顏公曰、師竪牽學古釵脚、何如屋漏痕懷素抱顏公脚唱賊」と見えます。顔真卿の屋漏痕は、蔵鋒で中鋒で水が壁を滴り落ちるような線です。宋の劉子翬:〈臨池歌〉に「又不見魯公得法屋漏雨、意象咄咄凌千古」と詠われます。

褚遂良の錐畫沙は、砂に錐で画くよう、紙背に透る鋭い筆力の線です。陸柬之の印印泥は、印章を封泥に捺すよう、筆鋒が紙に深く入り、趣きのある勁い線です。先の《張長史十二意筆法記》に見えます。懐素の飛鳥出林と驚蛇入草は、鳥が林から飛び立ち、蛇が驚いて草むらに逃げ込む、大らかさとすばやさを兼ねた天衣無縫な線です。陸羽の《懷素別傳》で「其痛快處如、飛鳥出林、驚蛇入草、一一自然」と見えます。索靖の銀鈎蠆尾は、銀の釘や蠍の尾など、鋭い筆勢と趯法による遒勁な書風です。南斉の王僧虔の《論書》で「索氏自謂其書、銀鉤蠆尾」と見えます。黄庭堅が同中有異、異中有同で一筆としたことは、直筆・正鋒の古法で総てが実現されることです。

唐代に篆書と楷書を堂々と書く立派な人物が出ました。韓愈や柳宗元らの古文復興運動は六朝時代の駢儷文を排して、先秦両漢の文章を規範としてました。李陽冰の篆書や顔真卿の楷書は尚古の精神を書法に持ち込み、筆線の勁さと結構の定まりにより、妍美や典雅(見た目の美しさ)より、陽剛や雄偉(芯の強さ)を推しました。李陽冰も張旭に学び、李斯の〈嶧山刻石〉(秦始皇帝28年・紀元前219年)や許慎の《説文解字》(建光元年・121)から玉筯篆をなして、〈李氏三墳記〉(大暦2年・767)や〈般若台題記〉(大暦7年・772)を篆書で書き、北宋の徐鉉や徐鍇らにも影響を与えました。〈顔氏家廟碑〉(建中元年・780)の題額を書きました。

豊坊:《書訣》で「古人作篆・分・真・行・草書、用筆無二、必以正鋒爲主」「古大家之書、必通篆籀、然後結構淳古、使轉勁逸、伯喈以下皆然。米元章稱謝安石〈中郎帖〉、顏魯公〈爭座〉書有篆籀氣象、乃其證也」とされ、篆書・隷書・楷書・行書・草書は用筆が同じで正鋒となして、大家の書は篆籀の気があり古雅で遒勁としました。孫承澤:《文集》巻21〈庚子銷夏記〉で「魯公學書於張長史、言長史楷法精詳、特爲真正、此見書中以楷爲重。魯公楷書帶漢人石經遺意、故祛盡虞・褚娟媚之習、此或長史口授法乎」と、顔真卿は張旭に楷書の真正な筆法を学び、蔡邕の〈熹平石経〉(東漢熹平4年・175)の意を帯び、褚遂良の娟媚な書風なども受け継いだとしました。

顔真卿の筆線は痛快で勁さを内に蔵した大らかさがあり、楷書を入筆は蔵鋒で送筆は中鋒で篆書や終筆は垂露や波磔など隷書の筆法で書きました。〈草篆帖〉で「真卿自南朝来、上祖多以草隷篆籀為当代所称、及至小子、斯道大喪。但曾見張旭長史、頗示少糟粕、自恨無分、遂不能佳耳。真卿」として、草隷篆籀に長けた先祖を誇りとしました。

顔師古の《顔氏字様》や顔元孫が《干禄字書》を著して、顔真卿も後者を大暦9年(774年)に碑にしましたが、篆書を楷書化するように書かれています。背勢から向勢を帯びて紡錘型で丸みがありふっくらした楷書を篆書へ先祖帰りさせたことが分かります。顔真卿の書蹟は篆籀の筆法により、筆力が強くて筆線が遒勁であることが分かります。朱長文は《続書断》巻上〈神品〉で「自秦行篆籀、漢行分隷、字有義理、法貴謹厳。魏晋而下、始減損筆画、以就字勢。惟公合篆籀之義理、得分隷之謹厳」として、〈衍極〉で「顔・柳篆七而分三、欧・褚分而八分篆二」、顔真卿と柳公権は篆書が七割、隷書(楷書)が三割、欧陽詢と褚遂良は隷書(楷書)が八割、篆書が二割と評しました。

筆法は線や手の動きを定めることから結構にも影響します。顔真卿の結構は扁平な八分が誕生する前の篆意のある秦隷の〈睡虎地秦簡〉(秦始皇帝30年・前217)、〈馬王堆帛書〉(西漢高后2年・前186年)、古隷の〈魯孝王刻石〉(西漢五鳳2年・前56)、八分の〈景君碑〉(東漢漢安3年・144)の結構などに似ていることが面白いです。顔真卿の楷書は横画を細くして明るさと広さを出して、縦画を太くして重厚と威厳を現しました。古風な筆法による八分の〈封龍山頌〉(東漢延熹7年・164)にも結構が似ています。王羲之や欧陽詢・虞世南・褚遂良などのように一本長い線を出すことなく、方眼に満ちるように収まり、中心の線が太く、雄大、剛毅、誠実さを現しています。

顔真卿の真蹟〈祭姪文稿〉(乾元元年・758)は中鋒に徹底して筆圧と筆速の変化させ、元の陳深は《文集》巻22〈停雲館帖跋〉で「此帖縦筆浩放、一瀉千里、時出遒勁、雑以流麗。或若篆籀、或若鐫刻、其妙解處、殆若天造豈非當時注思為文、而於字畫無意於工、而反極工耶」と評しました。〈争座位稿〉(広徳2年・764)にも認められます。(絹本の〈竹山連句〉(大歴9年・774)や黄麻紙本の〈自書告身帖〉(建中元年・780)は臨書や謄摹とされ、信頼できる真蹟ではありません。〈送劉太沖序〉(大歴7年・772)、〈与蔡明遠書〉(大歴7年・772)、〈劉中使帖〉、〈湖州帖〉、〈文殊帖〉、〈春田帖〉、〈裴将軍帖〉などの墨蹟本は後世の臨模ですため鑑別に注意が必要です。)

蘇軾の《東坡題跋》巻四〈書唐氏六家書後〉に「顔魯公書、雄秀独立、一変古法、如杜子美詩、格力天縦」、欧陽脩の《集古錄》で「斯人忠義出於天性、故其字畫剛勁獨立、不襲前跡、挺然奇偉、有似其為人」と、顔真卿は書法を革新したとしますが、自分の信念に従うように篆籀に先祖がえりして、独創をなしたことは温故知新の最たる例です。篆書と楷書は純粋な筆法や確実な結構の鍛錬になり、風韻や気品、風格や雅趣、大らかさや厳しさは書の根源である筆法や筆意から生じますから、包世臣は《藝舟雙楫》で「古人論真行書、率以不失篆分意為上」と篆隷の意を最上として、段玉裁は《述筆法》で「改如古人之捉筆、而後可言字」と古人の執筆法や用筆法として撥鐙法を記しました。

鄧散木の《篆刻学》下篇で「凡用撥鐙法者、其掌必覆、其腕必平、筋皆反紐、可以久書不倦。古人作書、皆用撥鐙法、故通篇筆力、後先如一」、撥鐙法では掌は下を向き、筆は平らになり、筋に力が入り、長く書いても疲れない。古人は撥鐙法により文章の初めから終りまで筆力が変わらずに書いたと指摘しました。先人の筆力の強さの秘密です。正しい古法(執筆法や用筆法)は直筆・中鋒・雙鉤・懸腕により、新しい書体が生まれても筆法は伝わり、殷周の甲骨・金文・戦国の籀書(大篆)・篆書(小篆)・隷書(秦隷・古隷・八分)・草書(草隷・章草・今草)・行書・楷書とあらゆる甲骨・金石・碑碣・法帖の線質や結構から、正しい用筆を自在に推定して、自然に臨書して書けます。

先秦両漢の信陽・包山・長沙・雲夢・江陵・敦煌・武威・居延で出土する古筆も現代の小筆と構造や機能が大きく変らず、直筆・側筆、順筆・逆筆、中鋒・側鋒、蔵鋒・露鋒、内擫・外拓、円勢・方勢、単鉤法・雙鉤法、撥鐙法・握管法、懸腕法・懸肘法・提腕法・枕腕法などの用筆の違いにより、筆線が異なり、差異が生じることが分かります。正鋒(直筆・中鋒)は、後漢の蔡邕や張芝、魏の鍾繇、西晋の陸機、東晋の王羲之、北魏の鄭道昭、南梁の陶弘景、隋の智永、初唐の歐陽詢、虞世南、褚遂良、薛稷、晩唐の徐浩、顔真卿まで能書に伝えられた正統な筆法でした。宋代からは古法が少しずつ守られなくなり、清代に鄧石如や包世臣などが、篆隷を研究して見つけて復興しました。

清代の篆刻の大家は古意があり、枯淡であることを大切にして、長年の風雪に耐えた味わいが重視されました。絶妙な分間布白の間架結構「計白当黒」で知られる鄧石如や先秦両漢から六朝唐代まで俯瞰して研究した包世臣から、呉譲之、楊沂孫、徐三庚、趙之謙、呉大澂、黄士陵などの大家に筆力と骨体と雅趣がある古法が受け継がれました。殷周の甲骨や金石、先秦両漢の簡帛・古鉨・碑歇・封泥、六朝の法帖・摩崖・墓誌・造像・写経・残紙などを収集して臨書するとき、筆線から筆法や筆意の変化、筆圧の軽重、筆勢の遅速や緩急、筆管の角度、筆線の疎密などを読み取り、篆書で鋒が真ん中を通り勁い線となる筆力を養い、筆管の角度や筆圧で多彩な線質を探究できます。

古典を臨書するとき、筆の倒し方、抑え方、捻り方を正しく読み取り、風格に適合する用筆を選択して、あらゆる線質を実現します。王羲之は正鋒(直筆・中鋒)を基本として、撥鐙法で内擫・外拓など細やかな指法により、筆管を少しだけ傾けることで側峰をなして、筆鋒で紙を裂くように勁く、格調が高く、清澄な線を生みました。沈尹默は《二王書法管窺》で「大凡筆致緊斂、是内擫所成。反是、必然是外拓。後人用内擫・外拓來區別二王書跡、很有道理。説大王是内擫、小王則是外拓。試觀大王之書、剛健中正、流美而靜。小王之書、剛用柔顯、華因實增」と大王(王羲之)の内擫と小王(王献之)の外拓で親子にも関わらず、大きく書風が異なることを示しました。

内擫は上向きの親指(擫)で筆管を左から押して、進行方向と逆に向こう側に少し傾け、中鋒で蔵鋒で紙面に食い込み深みのある勁い線を引くことで筆力が強くなり古雅な味わいが生まれます。外拓は内擫と真逆で進行方向と順に少し傾き、側筆や露鋒が出やすく刷毛で塗るような浅い線が生まれやすいですが筆力が弱くなりやすいます。包世臣は《藝舟雙楫·答熙載九問》で「篆書之圓勁滿足、以鋒直行於畫中也。分書之駿發滿足、以毫平鋪於紙上也。真書能斂墨入毫、使鋒不側者、篆意也。能以鋒攝墨、使毫不裹者、分意也。有漲墨而篆意湮、有側筆而分意漓。誠懸・景度以後遂滔滔不可止矣」と筆鋒の向き、中鋒と側鋒により、篆意や隷意を呉譲之に説明しました。

「実指虚掌」で掌は柔らかく指の先に力を集め、「五指疏布」で四方から均等に力を加え、「逆入平出」で逆勢で入筆して中鋒を実現させ、「雙鉤懸腕」で横画で筆鋒の向かう側に臂を張り、縦画で筆管が向こう側に傾け、筆線の曲折で筆管を指で環轉して、中鋒を持続させ、「峻落反収」で気力が充溢した遒勁な線をなすようにします。古法である撥鐙法を基本として、親指(擫)は必ず上を向き、人差指(圧)は親指と反対側から筆管を支え、中指(鉤)は自然に添え、薬指(貼)や小指(輔)の爪の上に筆が転がるようにして、中指と反対側から筆管を支えるようにして、特に親指と人差指を抑えたり捻るなどしても、筆管が安定して、筆鋒を活かすように工夫します。

逆勢で入筆すると筆先がぐわっとなり、送筆を始めると筆先がまとまり、筆線の後ろに回り、中鋒を実現できます。玉に書かれた〈侯馬盟書〉、竹に書かれた〈郭店楚簡〉、絹に書かれた〈子彈庫楚帛書〉、木に書かれた〈雲夢秦簡〉などの篆隷でも、入筆はぐわっと入り、中鋒で書かれます。〈泰山刻石〉は終筆も鋒を線に蔵されます。入筆が蔵鋒になり、筆が動きだす瞬間の摩擦に抗う力を鋒に与えて、中鋒で筆の鋒と面が密着して、紡錘型の筆毛の機能や弾力を自然に活かして、筆鋒の全ての面を自由に活かして、側筆の弱い線にならないよう防ぎます。懸腕直筆で手首が固定され、腕の力が指の先に集まり、筆線が沈着になり、強靭な点画が生まれ、風格が現れます。

宋の沈括の《夢渓筆談》巻17〈書画〉で「江南徐鉉善小篆、映日視之。畫之中心、有一縷濃墨、正當其中。至於屈折處、亦當中、無有偏側處。乃筆鋒直下不倒側、故鋒常在畫中、此用筆之法也」として、《説文解字》大徐本で名高い徐鉉は、筆線の中心に筆鋒を通したため、一縷の濃い線が連なり、屈折の所でも中心に通しました。鄧散木の《篆刻学》下篇で「前賢法書精到處、映日視之画中有濃墨一線、細於糸髪、首尾直貫。反視紙背、状如鍼画。非純用中鋒筆法、不能得此」として、古人の大家の書蹟は、紙を光に透かしたり、紙の裏を見たりすると、筆線の真ん中が髪の毛のような濃い墨の細い筋が貫かれており、中鋒の筆法で書かれた勁い線であるとしました。

常に中鋒が実現して、常に点が円の真ん中を通り、筆の鋒が紙に差し込まれ、墨が奥に入り込み、美しく勁い線が生まれます。筆線は筆鋒が通過した点が線をなして、筆鋒の周りの毛が接触した丸が連続して幅をなすからです。筆管は線の向きに平行して倒れ、特に竪牽を引く時に向こう側に倒れますが、直角に倒れる側鋒にはしません。線の強さは太さとは関係なく、墨が紙裏まで達しているか、紙を日光に透かせば、筆法の正しさや筆力の強さが明白になります。中鋒を常に実現するため、即ち筆鋒の方向を筆線の方向と合わせるため、筆を捻り、臂を右に張ります。篆書では曲がる所で筆を捻り、隷書では蔵鋒で入筆し直して画を改めた名残から、楷書にも転折があります。

王羲之は筆を軽く持ち指を動かして、筆管を少し傾け、筆鋒を自在に利かせ、長短・大小・斜正・疎密など変化を与え、多彩で機知に富みますが、顔真卿は直筆かつ正鋒で統一して、堂々と沈着した筆法で線の太さを筆の縦の圧を変え、紙の奥まで墨が到り線が深く、篆書らしい結構で方形に収め、懐を広く取り雄大で剛直さを感じさせます。横画では肘を右に張り、縦画では筆管が向こう側に少しずつ倒して、転折で筆を捩り、中鋒を実現して、波法で筆圧を少しずつ高め、一気に開放して角度を変え、筆鋒を引き抜き、燕尾を生みました。直筆・中鋒にも関わらず、筆法の活用、篆隷の筆意、字形の構成が異なるため、「一碑一面貌」と言われる多彩な楷書の世界を構成しています。

最初期の〈郭虚己墓誌〉(天宝8載・749)や〈多宝塔碑〉(天宝11載・752)は規範的ですが、〈鮮于氏離堆記〉(宝応元年・762)、〈臧懐恪碑〉(広徳元年・763)、〈郭氏家廟碑〉(広徳2年・764)、〈麻姑山仙壇記〉(大暦6年・771)、〈元結碑〉(大暦8年・773)、〈李玄靖碑〉(大歴12年・777)は雙鉤懸腕の中鋒によります。〈顔勤礼碑〉(大暦14年・779)は宋代に埋没して、近代に発掘されたため、碑面が新鮮で筆意が明瞭で分間布白が面白く、〈顔氏家廟碑〉(建中元年・780)は北宋の《宣和書譜》巻3に「荘重」と評され、明の趙崡:《石墨鐫華》巻3に「此書、結法與東方讃正同。勁節直氣。隠隠筆畫間」と称賛された筆力があり雄大で最高傑作に推されます。

〈東方朔画賛碑〉(天宝13載・754)は、楊貴妃の又従兄で権力を掌握した楊国忠が顔真卿を警戒して、平原郡太守の任地で東方朔を祀祠のために書きました。《資治通鑑》巻217によれば、安禄山は配下の殿中侍御史の平冽、監察御史の閻寬や李史魚らに探らせましたが、顔真卿は彼らを歓待して、盛大に舟遊びや宴会をして油断させました。《東方朔画賛》の碑陰には彼らの名前が現れ、王澍は《虚舟題跋》巻9で先賢を顕彰する碑を建て政局に興味がないそぶりをしたと考えました。顔真卿は安禄山の反乱の意をいち早く見抜いて、長雨を口実にして城壁を修理して、城濠をさらい、壮丁を集めて、兵粮を蓄積して、少しずつ守りを固めるなどして、密かに周到な計略をなしました。

顔真卿の見立て通り、安禄山が叛乱して、洛陽も陥落しましたが、顔真卿が守る平原は破れず、玄宗皇帝が「河北の二十四郡に一人の忠臣もいないのか」と嘆いたところに顔真卿から使者がきて歓喜しました。顔真卿は諸郡へ抗賊の檄文を配り、顔杲卿と一族は安禄山に捕われて洛陽で憤死して、〈祭姪文稿〉(乾元元年・758)が書かれました。《孫子·始計》に兵は詭道であり、敵を欺いてこそ勝てるとありますが、忠義で兵を挙げるにしても、周到な準備が欠かせないことが分かります。晩唐は大いに荒れて、《老子》18章の「國家昏亂、有忠臣」のようになり、顔真卿はその功績で憲部尚書(法務大臣)になりましたが、剛直な性格で地方に左遷されることが多くありました。

東方朔は智略とユーモアに長けていたとされ、顔真卿(琅琊郡臨沂県孝悌里)は王羲之(琅琊郡臨沂県南仁里)と本籍が同郷です。西晋の夏侯湛が書いた名文〈東方朔画賛〉は《文選》巻47にも収録され、王羲之も書き、〈楽毅論〉(永和4年・348)、〈黄庭經〉(永和12年・356)、〈孝女曹娥碑〉(升平2年・358)と共に小楷の名品です。北宋の蘇軾は《東坡題跋》卷4で「魯公平生寫碑、唯〈東方朔畫贊〉為清雄、字間櫛比而不失清遠。其後見逸少本、乃知魯公字字臨此本、雖大小相懸而氣韻良是」と評して、王羲之の書蹟と多少の違いがあるが、顔真卿がこれを享けて彼なりに書いたとしました。確かに転折の円やかさや筆線の漸肥・漸痩など、魏晋の小楷の特長も兼ねています。

臨書に先立ち宋拓などなるべく古い拓本を見つけます。漢籍で宋版が珍重されるよう、宋拓が大切にされることは、古い拓であればあるほど、碑版の状態が良く、毀れたり作られた字やが少ないからです。方若の《校碑随筆》に宋代には碑が毀れ、最も古い拓は十行目の篆書らしい「䝿」が楷書らしく「貴」に代えられていないと指摘しています。宋拓の影印に有正書局石印縮本と上海書画出版社影印本があり、藝苑真賞社珂㼈版印は翻刻本です。故宮博物院、北京図書館、三井文庫などに精拓があり、陳思:《寶刻叢編》、孫承澤:《庚子銷夏記》、顧炎武:《金石文字記》などの著録があります。南宋の留元剛が顔真卿の法帖を集刻した《忠義堂帖》(嘉定10年・1217)に碑陰だけ翻刻されます。

臨書した箇所は「夫其明濟開豁、包含弘大、凌礫卿相、嘲晒豪傑、籠罩靡前、跆籍貴勢。出不休顯、賤不憂戚。戲萬乘若寮友、視禱列如草芥。雄節邁倫、高氣蓋世。可謂拔乎其萃、遊方之外者也。談者又以、先生噓吸沖和、吐故納新、蟬蛻龍變、棄世登仙」の八十八字です。東方朔の気宇広大で天真爛漫な性格を対句を並べて讃えている部分です。「夫れ其の明濟開豁、包含弘大なるは、卿相を凌礫し、豪傑を嘲晒し、籠罩して前靡く、貴勢を跆籍す。出でては休顯ならず、賤なるも憂戚せず。萬乘に戲るること寮友の若く、禱列を視ること草芥の如し。雄節倫に邁ぎ、高氣世を蓋う。其の萃より拔けて、方の外に遊ぶ者なりと謂ふべし。談者又以へらく、先生は沖和を噓吸し、故を吐き新を納れ、蟬のごとく蛻ぎ、龍のごとく變わり、世を棄て登仙し」と読み下されます。

顔真卿の書が愛されたのは、忠義を尽くした義人であるからです。中華文明では仮に才能のある人間でも、人格が高邁でなければ、書画も顧みられず、人間性の重視という特徴があります。学問を重視して含蓄を重視して大量の典籍が生まれました。近代以前の世界の書籍を全てかき集めても、中国の古典の厚みに及ばないほど圧倒しています。外山軍治:《顔真卿:剛直の生涯》で「剛直といわれる人は、心にしっかりとした拠りどころをもっているので、自ら持することが高い。また自ら律することも厳である。顔真卿の場合、彼の剛直の精神の淵源とするところはその家学にある。先祖からうけついだ学問、教養、人生観、彼はこれに依拠して困難な時世に処したのである」と評しました。

顔真卿の豪快で沈着な書風は宋代の文人に愛され、黄庭堅は《山谷題跋》巻4〈題顔魯公麻姑壇記〉で「余嘗評題魯公書、体制百変、無不可人」、蘇軾は《東坡題跋》巻4〈題魯公帖〉で「吾觀顔公書、未嘗不想見其風采、非徒得其爲人而已、凛乎若見其誚盧杞、而叱希烈、何也」と評して、顔真卿の書蹟を観ると彼の風采が浮かばないことがない。書から盧杞をなじり、李希烈を叱りつける様まで見えてくると評しました。本物だけが後世に語り継がれて歴史として残され、軽薄な線質の書は跡形もなく消え去りましたことが分かります。顔真卿の書法を実現するには、長大な中華文明の歴史や古典に残された大量の実例を通して手かがりを探しながら、正しい事実を見つけられると結論されます。

故に殷から清までありとあらゆる書蹟や篆刻の名品をシンプルな筆法や刀法で自然に実現するため、思考や技術の伝承と蓄積の系譜を信頼できる資料に準拠して、科学的探究で事実や方法を認識して、実践的訓練で知見や技術を蓄積して、歴史から学んでおります。当たり前に用いている文字に興味を持ち、奥深い面白い世界が目の前に拓けてきます。顔真卿と時には探究する世界の一端をおひろめするのもよいと思われました。時間があるとき、引用される特に珍しい書蹟や書物をコメントに貼り付け、実物を見ながら分かりやすくしたいと思います。長文にお付き合い下さり、ありがとうございました。皆さまもお元気にお過ごし下さい。今後とも宜しくご交誼のほど、何卒お願い申し上げます。

• 劉昫、張昭遠、王伸:《舊唐書》卷132
• 歐陽脩、宋祁:《新唐書》卷153
• 司馬光:《資治通鑑》卷217
「初、平原太守顏眞卿知祿山且反、因霖雨、完城浚壕、料丁壯、實倉廩。祿山以其書生、易之。及祿山反、牒眞卿以平原、博平兵七千人防河津、眞卿遣平原司兵李平間道奏之。上始聞祿山反、河北郡縣皆風靡、歎曰、二十四郡、曾無一人義士邪。及平至、大喜曰、朕不識顏眞卿作何状、乃能如是。眞卿使親客密懷購賊牒詣諸郡、由是諸郡多應者。眞卿、杲卿之從弟也」

「顏眞卿召募勇士、旬日至萬餘人、諭以舉兵討安祿山、繼以涕泣、士皆感憤。祿山使其黨段子光齎李憕・盧奕・蔣清首徇河北諸郡、至平原、壬寅、眞卿執子光、腰斬以徇。取三人首、續以蒲身、棺斂葬之、祭哭受弔。祿山以海運使劉道玄攝景城太守、清池尉賈載・鹽山尉河内穆寧共斬道玄、得其甲仗五十餘船。攜道玄首謁長史李暐、暐收嚴莊宗族、悉誅之。是日、送道玄首至平原、眞卿召載・寧及清河尉張澹詣平原計事。饒陽太守盧全誠據城不受代。河間司法李奐殺祿山所署長史王懷忠。李隨遣游弈將訾嗣賢濟河、殺祿山所署博平太守馬冀。各有衆數千或萬人、共推眞卿爲盟主、軍事皆稟焉。祿山使張獻誠將上谷・博陵・常山・趙郡・文安五郡團結兵萬人圍饒陽。」

鄭振鐸『歴代古人像贊』「顔真卿」(明弘治11年刊刻・1498)

• 顔真卿:〈東方朔画賛碑〉(天宝13載・754)


• 顔真卿:〈顔氏家廟碑〉(建中元年・780)

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