Press "Enter" to skip to content

干支はどこから?そもそも何からと物事の起源や発想の原形を探究いたしました。謹賀新年 2021 辛丑 The Chinese Calendar

辛丑の起源や発想の原形を探究いたします。来週に漢数字の字源や十進法の仕組につきまして、再来週に二進法の仕組につきまして、急遽公開することになりました。是非ともご期待ください!

皆さま、明けましておめでとうございます。昨年末にデヴューいたしましてから、温かいお言葉かけなど応援下さりまして、ありがとうございます。本年に感謝の気持ちを込めまして、三賀日の特集を無事に投稿できました。お楽しみくださりましたら幸いです。素敵な一年となりますようにお祈り申し上げます。本年も何とぞよろしくお願い申し上げます。

※日本語の字幕を表示するスクリプトをご用意しました。
 専門用語や細かい訂正などは字幕でご確認下さいませ。

2021年1月8日

皆さま、三賀日に沢山ビデオを出しまして、大変お騒がせしましたけれども、まだ正月の気分と言いますか、 まだ続いてるといいますか、

そのうちに、もう出しちゃおうということになりまして、これもう出しますと!

もう一つ約束が皆さんとありまして、何だったかと言いますと、

この辛丑については、もう文字についてなど、六十進法、この干支のシステムですね。カレンダーのシステム、

それはもうお話してきましたけども、そもそもこの干支(かんし、えと)ろ、まあ二つの言い方ありますけれども、

その起源が何だったのか。元々何から発想されて、こういうものが生まれてきたのか、

もしくは、干支(かんし、えと)という言葉自体、これ何の意味なのかとか、まあそれも両方はセットですが、これをやろうと急遽なりましてね。

もう、まだちょっと干支について話してなかった足りなかったいうことで見ていきたいと思います。

この辛丑、先ほど見ましたけれども、この文字が、もうちょっといろいろ見ていたら、もう2200年前ほどの里耶秦簡には、こうしてちゃんと「三十三年四月辛丑」とあるんですよね。

これは日付として書いてあるし、それでまあこの木の板に文字が書いてあると、これは秦の時代の実際の肉筆ですけれども、それを綺麗にしてきたんですけども。これで面白いことに同じところで、

「遷陵」は、遷陵縣洞庭郡という湖南省の地名ですけれども、里耶鎮、今の地名と昔の地名ですけど、秦の時代の

これで郵便で届けてくれと書いてあって、それでこれは地名ですよね。

そういう荷札まで出てきちゃって、もうこれはもう語りだしちゃうと、あんまり長くやっちゃダメですけどね。サービスしちゃいますとね。

その当時のこれは篆書と隷書の間でこうした水がまだこんな感じになってますね。

それで同じ時期の秦印、秦の時代の印では、この三水の水が、上は水みたいですが、下は点になっている。

我々が使ってる点点点、三水(氵)になっているのと同じであったり、これは突っ込みどころは沢山あるんですけども、

まあ、辛丑が使われていたということで、これはこの辺にしておきたいんですけども。

それでこの次にいきますと、これは《春秋穀梁伝》、紀元前の要するに戦国時代より前の春秋時代と言いますけれども、

もう紀元前660年頃、やはり日付でも辛丑があるんだということで沢山もう辛丑サービスということで出しちゃいますけどね。

これはものすごく貴重で敦煌の写経、敦煌で洞窟の中からもういっぱい出ちゃったと、

それでこれは663年だから、もう今から1400年も前のもう肉筆が出ちゃってるということで、

その中にもまあ《春秋経》自体は、もっともっと古い紀元前の、ここからここまではもう結局、まあ1200年もありますけれども、

ずっとその間はどう伝わってきたのかは、木簡や紙になる前ですが、まあこれも突っ込みどころがあるんですけども、辛丑もありますけれども。

これは今のところは、もうイントロダクションということで、これから実際にじゃあ「十干十二支」見ていきたいと思います。

それでは、ここを見てまいりますと、出てまいりましたと、我々のなじみの「十干十二支」と。

これは《黄帝内經·素問·本病論》にありますが、実はこの「十干十二支」という言葉は《史記·律書》では、

これは司馬遷の《史記》で漢の時代のもの、もう少し前ところではですね。「十母」、まあ同じぐらいですけれども、「十母十二子」と言ってましたし、

それと先ほど見ました《春秋経》の姉妹編で紀元前600年と。

そのぐらいの戦国時代より前の《春秋経》の時代(の《國語·楚語下》で)は、十日とは、まあ「十日十二辰」と言ってたんですよね。

それでしかも、これは漢の時代であるけれども、少し前の色んな知識をまとめた《淮南子·天文訓》には、

「月は左行十二辰に従う」と、それで《黃帝内經·靈樞經·衛氣行》は「日には十二辰」(十二の時刻、「辰の刻」など)があると。

今度は、十日、十二辰に二つありまして、これを分けて考えていきたいと思うんですよ。

ちなみにこの「十干十二支」とありますけど、この「干」という字は、これは「幹」という字を意味しているんじゃないかと。

それで「十二支」の方、「支」という字は、皆さま、木を加えて頂ければ、左に「枝」ということだから、これは今でも旧字体と新字体の関係で中国では、繁体字、簡体字と言うんですけれども、

簡単になった簡体字の方では、「幹(干)」と「枝(支)」となりましたり、「母」と「子」で考えていたりしていたんですけども、

実はこのもっともっと古い戦国時代まで遡り得るもので「十日十二辰」ということ、

この「辰(しん、たつ)」という字が、どういうものだったのかをちょっと見てみたいと思うんですよね。

それでこの「辰(しん、たつ)」という字は、もともと、結論から言ってしまうと石で出来た農具、犁(すき)。

それでこの「辱(耨)」という字、恥(はじ)という字も、こういう形で、これは耕作するという耕すの「耕」と、こっち側が一緒ですよね。

それで農業の「農」、もっと難しい形ではこういう漢字(䢉)で、この農業の「農」と関係があるんだと。

全部この部品が入ってますから、ということで見てまいりますと、

ここまで分解して、今書いてありますけれども、石と手で取る形、これ丮(執)るという字でして、執筆というと筆を執ると、取ると物をつかむ、まあ、これはつかんでる形(丮)をしているんですけれども、これはね。

そういう意味でもありますが、これで昔の学者は、「蜃」という字は、実は蛤蚌(ハマグリ)、蛤(ハマグリ)なんです。これ。

「蜃」の「辰」はこれは「虫」に従いますが、「虫」とはちっこい動いてるようなものを表現しましたが、

それでしかも《淮南子·氾論》の中にこのハマグリの貝殻で要するに耕したから、この耨(犂)の事は、この文字なんじゃないかなという考え方もありましたが、

最近ここでちょっと面白いことがありまして、もう最近も色んなところで中国で色んなものが出ておるんですけども。

発掘された中にこれは本当にそうか、微妙な所であって、色んな学者が一定しないとこもあるけれども。

山西省の(陶寺)遺跡は、夏王朝の中国の殷王朝よりも前の時代のもう歴史書に書いてあるけど、全然実在性が分からないという、

あの堯(や舜から禅譲された禹)など、伝説的な王様が始めた夏王朝の遺跡とか言う人もいるところから、

こういう農具(石犂)が出てきたんですよ。そこに彫られたものをアップしてみると、こういう形をして、これは文字なんじゃないかということで考えていったんです。

そうすると、この形を見たときに、この農具に石器に刻まれたこの形。

これ、文字学者がこういうのを見ちゃうと、これ何て文字なんだと、もう頭の中に辞書が入っているということで色んなこと、もう見てみますと、

やはりこの「辰」という字の金文や甲骨文を挙げてまいりましたが、これにやはり近いんじゃないかということ、特にこれなんかですよね。

近いということでしかもこの三日月みたいな甲地ですよね。ここにもこれはあるんじゃないかと。

これは「石」という字の甲骨文字こういう形、こういう形、こういう形(石磬という石犂に関係して楽器に用いた形という説もあります)。

それでこれは「口」が付いてるのは器物という意味で品川の「品」とか、

まあ、器の器物の「器」という字も、(コップのような器を象った)「口」「口」「口」「口」と。これ(口)はそういった物という意味で加えられたと、

でも、こっち側のこれなんだと、これはやはり、言ってればこういう農具、これ今ここにある形のこの石でできた、これを意味すると考えられたりして、

じゃあ、こっち側は何だと伸びているビヨーンと伸びている手に柄を付けて、この石でできた刃とも考えられたりして、

「辰」とは、石製農具の犂とか鍬などを象っているんじゃないかと考えられると、

これはこの間(一つ前の動画で)いっぱい見ました釿(ちょうな)みたいな柄がついていて、これは、ううん、そう言われてはそう見えるなぁという感じですね。

しかも、「農」という字で農業で鍬とか、犂とかを使うわけですよね。

これ見ますと、ここにここの部品とこの上にここの部分と、それでこれは、木(林)とか草(艸)とか、林みたいでこれ木ですよね。

それでこれは手がついているし、ここに、おお、こことこの柄の所に手まで付いていて、この間もこれ手だと見ましたよね。

前のビデオを観ていただければ、宣伝になってしまいますけど。

それでもう一個行きますと、上に一本棒があるっていうのも、(字画が)増やされてますけどね。

まあ、これも地面で突き刺すんじゃないかと、地面を意味すると考えられるしということで。

これ全体的に言えば、林がある、ああ地面を開墾すると、開拓者みたいな感じで農業やっていたのかということでですね。

ああ、この「辰」という字は、まあ、もちろん下にも、今でも楷書でもありますが、毎日は使わないけれどもよく使う「農」の部品がこうでして、更に甲骨文字を見てみますと、 ここにも出てまして、やはり道具なんです。これは犂で林とか地面を耕すということ、やはりそのような文脈で使われていることを考えていきますと、

「暦」は農業と関係あると、今でも旧暦、新暦と言いますけども、中国、台湾、香港でも、漢字圏では、旧暦を農暦といいまして、新暦に対して農暦という言葉をよく使うんです。

やはり暦は農業と関係していると分かってきまして、

そして、今お話してきたように、こうした字源が分からないようなものも、こういった現物の色んな考古学的に発掘された遺物によって、色々解明されていくということで面白くて、これは考証学と言いますが、

物事を考証する時には、考証学者たちは「実事求是」も漢の時代の学者(河間献王劉徳)のモットーですごい大切な言葉で、私も大事にしてるんですよね。

まあ、KF-Ars Sinicaもこういうモットーですけれども、

「実事求是」、本物の物を見ながら、色んな問題について分析をして考えると、

文献資料と文献学に関係ある。伝世資料と言いますが、世の中で伝わっている資料と土から出てきた出土した資料と考古学の範疇ですが、

全部、複合的に考えましょうということで二重論拠法(論証法はいい間違えで論拠法です)といいまして、伝世資料と文字で書かれた今までずっと知られていた歴史書など、

それと出土してきた甲骨、金文とか、簡牘とか、帛書とか、書かれた文字資料が出てきたということ、それを合わせて考えましょうと、だから二重なんですね。二重で論証するということで。

それと三重もありまして、これは古文字資料ということで、こういった出てきたものと一緒に含めて考えていけたと思いました。

ところで、先ほど二重論拠法、三重論拠法とありましたが、特に三重論拠法の方で出土した文字資料ということ、その中から分かってくる面白いこととして、一つ私もすごく興味を持っていることがありまして、

例えば《詩経》とか、《春秋》とか、先ほどから出ています古い歴史書の中には、日食が書いてあったり、

例えば、また甲骨文の中には超新星がドカーンと星がパカーンと来たということが、明るくなっちゃって、もうビックリしちゃったんだと、

これを甲骨文に刻んで残っていたりしていたり、しかも「火」と書いてあり、心宿二という星座で今のこうした形(天蝎座α)でその近くに出たと、そこまで丁寧に書いて下さいますと、

超新星爆発、ものすごく珍しい現象で、う何千年とか、もう本当に珍しいんですから、

月食は結構これは結構よくありますね。でも、やはり日月頻食とか、結構珍しい、もう太陽も、月も食して小さくなっちゃうことですね。

そういったことも起きて、それでしかも今でも日食月食ですけど、もう甲骨文の中では、もう食べるという字を使っていて、

見てみましょう、食器の形をしてるんですけど、

こういった形で日食と月食を書いていたと、この「戠(熾)」という字は、これは音が近いから(音を)借りた(仮借した)んでしょうね。

ということで、こういった天文記事から、天文学者も一生懸命計算しますと日付が分かってきちゃうと、これもすごい歴史を考えていく上で重要なタイムラインを提供してくれて、面白い話題でありました。

実はこの日付ちょっと小さく書いてあるのは、色んな天文学者が計算した結果にどっちを取るのかで色々と諸説あったりして、これが一番有力かなとちょっと小さく控えめに書いておきました。

そして、先ほど十干とこれは十日と、十の日でしたが、この十干をちょっと見てみますと、

我々は一か月をよく一月の中を三分割して、上旬、中旬、下旬と言いますよね。

これは実は殷の時代には十日をセットにして、「旬」とこれは巡るという意味ですけれども。

一つの単位、日付の単位として、巡ってたんですよ。

それでそれに対して、甲骨文の時代から、甲乙丙丁という言葉、

「辛」は我々がこれを今使っていますね。

ちなみに我々「辛(かのと)」と言ってました「かのと」は、

実はこれ戦国時代ぐらい、殷よりももっと後に「五行説」がありまして、

五行説が五個あるもので十のために陰と陽で二倍と5×2で10になりまして、

五行説の中では。「木(き)」、「火(ひ)」、「土(つち)」、「金(かねのか)」、それで「水(みず)」だから、兄弟に陰陽を充てて、「かのえ」と「かのと」など、「えと」ですよね。

兄が「え」で弟は「と」で考え、それで「辛(かのと)」は、金(かね)の「か」の弟(と)ですよね。

だから、今は「辛(かのと)」のその語源、中国人はこれを「木(もく)」とか「火(か)」と音読みしましたが、日本語の訓読みは、五行と兄弟で陰陽で当て「十干」にして、鄒衍さんなど、戦国時代に陰陽五行説は大流行しまして、それで後付けの説明をされました。

でも、「えと」とか何で「辛(かのと)」かは、これで説明がついたと思うんですよね。

ですから、この齊の鄒衍さんは五德終始說とこれは戦国時代の大体中盤、紀元前の三世紀か、2300年ぐらい前と、まあこれは結構、最近できた説だということになってましてね、

もうもっと前の方を見ていきたいと思うんですよね。

そうすると、この横にある《世本輯補·帝繫》という本には、帝がこれ帝が繫がる、要するに殷の王様の家系を示した部分があり、

もっともっと前の戦国より前の春秋より前の西周(周)より前の殷の我々が甲骨文字で知られる歴史よりも、もっと前、

殷は、何回か遷都してまして、一番最後の京(殷墟)の甲骨文しかなかなか出てこないんですけども。

その一番最初のところ、殷の一番最初ところで商(土地の名前)は殷を封ずると書かれており、そこの系譜を見ると、

殷の王様のもうずっと前の先祖、ご先祖様達の名前は、甲、丁とか、全部こういった形で「十干」で使われる文字が使われていまして、

皆それで最後の乙、天乙は成湯(湯王)でもう殷の王朝の始祖ですね。一番有名な儒家が尊敬する湯王です。古い先祖を祀った甲骨文に刻まれてるんですよ。「甲」とあるし、「甲」のこの形でありますし、

大体こういった殷の末期の金文、青銅器上に鋳込まれた文字には、

こういった全部やはり、この十干で使われる文字が使われ、これ全部先祖の名前でありまして、

それでこういった形で、商の王の系譜、商というのは殷ですから、まあ私どっちかというと、中国に合わせて、この殷ではなく、日本でいうと商と言いますが、

というのは、先ほど見ましたように甲骨文においても、殷の人は自分たちを商(大邑商)と呼んでましたから、

これでこうした甲骨文の資料とか、《史記》を書くときに(司馬遷が)使ったこういった資料(《大戴禮記·帝繫》や《世本輯補·帝繫》)に基づいて系譜が知られていましたが、甲骨文の上でも系譜が書いてあると、何で書いてあるかといいますと、もっと前の先祖を祀る順番を甲骨文の上に刻んでありまして、

そうするとこの十がセットになって、この甲乙丙丁と全部、十干で使う文字がありますよね。

ここに全部出てきて、しかも「大」と一緒に横のところに(合文で)書いてあろ。

これは去年でしたが、庚(かのえ)でして、今年は辛(かのと)。

それで十示と「示」は十人の先祖という意味ですから、祖先のことですから。

これ見ますと、十日ずっと祖先を祭り続けたと、それが三周して、しかもこれで3つ出てきているということで、

こういった日付を表すため、先祖の名前から、日付を表すということになった。それで十干が生まれたんじゃないかと、

十日(じゅうじつ)と書いてありましたけれども、十日(とおか)って言いますよね。他の読み方では、ちょっとサービスで董作賓さんという研究者が甲骨文字を一生懸命読んだら、

《史記》などの系譜と、おお、ちゃんと一致してるんだと、それをやはりちょっと修正しなきゃいけないところもあり、それをきちっとまとめてくれた表がありまして出しておきました。

十干、十日、このことは見てまいりましたね。殷の中で祭祀してた、先祖を祀ってた順番でそれが日にち、先祖の名前が日にちになったということで言いましたけれども。

今度は十二支の方を見てみましょうと用意してまいりました。

これで我々がよく知ってる「子丑寅」(十二支)が並んでますけれども、これは動物で例えると生肖は前に出てきましたね。

前回は生の文章を出しましたけど。今度はここに書いてある内容だけ、動物の順番を並べておきましたと。

そうしてみたら、面白いことが分かりまして、睡虎地秦簡と孔家坡漢簡、秦の時代の簡牘も木簡、竹簡、漢の時代の木簡と竹簡は似ていて、同系統だと言えるんですね。

それでもう一つ放馬灘(秦簡)と王充の《論衡》と、これは我々使ってる「子丑寅」(十二支)ですけども。

それは見ますと似てるんです。非常にここだけはちょっと違うと、

でも、これは雞(とり)が二回出てきて、まあ書き間違いの可能性がある。

ですから、こういった簡牘に書いてある内容を完全に信用しちゃいけないと、人間が書くものだから、書き間違えもあり、雞(とり)が二個出てくるのはおかしくて、 まあこれ蛇に当たると「辰」の所ですね。「龍」は虫とこれは大体似てる。あと赤で書いた以外は一致していて、

(十二支の生肖には)二系統がありまして、これ面白いことにこの二つは時代が違いますが、時代が違うと言っても、秦が短かくて、まあ直ぐに漢になりますが、

睡虎地と孔家坡は湖南省(湖北省の言い間違え)で近いんです。それで放馬灘とこれは甘粛省でしたよね。この間に見ましたが、これ結構西の方ですが、

それで見てみますと、これは同系統だと言えますが、まあ殆ど秦の時代には、ここちょっと違うけれども固まってたということで、

じゃあ、そもそもこのこれらの動物は、今、我々は「子丑寅卯辰巳」と天下り式に覚えていますけど、暗記してますけど。

もともとこれどこから来たのかと思ってしまいまして、いくつかの方法で私は少し考えてみました。

この「丑」という字と「牛」、我々の牛さん。これ(丑)も「うし」と読みますが、この二つが、じゃあもう紀元前の漢字、殷とか、周とか、戦国、春秋ありますが、

秦とか漢ぐらいまで、紀元前の漢語、中国にいた人たちの先祖たちが、どういう言葉をしゃべっていたのかと、今の中国語の祖先を鄭張尚芳とか、潘悟雲さんとか、

アメリカの白一平(William Baxter)さん、とフランスの沙加爾(Laurent Sagart)など、学者たちが、二人ともコンビで中国人のコンビと米仏で仲良く研究しまして、(上古)音を再構して、ここに二つの結果を見ますと、

十干十二支の十二支の「丑」*[n̥]ruʔ, *n̥ʰuʔという発音になっている。

それが牛さん。動物の丑さんの方でこれ(ŋ)は言って見ればng みたいな鼻音ですから、

*ŋʷɯ, *[ŋ]ʷəという音で(丑と牛の上古音が)似ているじゃないかと思ったんですよね。

それでここで疊韻とは熟語を漢字で作る時もそうですけども、

中国語の音には、頭の部分(声母)とお尻の部分(韻母)がありまして、その前の方(声母)が一緒なのか、後の方(韻母)が一緒で韻を踏んで畳むとか重なると言うことですけども、

そういったような、この音をみると最後の尻の部分が似ているのかなとか、

中古音になりますと、もうɨuで一緒だと後ろ(韻母)が前はʈʰとŋという音と違いますが、後ろが一緒で声訓と、要するに声が音が通じてるから、こうなったと考えてみたんですね。

でも、そうすると、今度は「子丑寅卯辰巳」とですね。全部、十二支全部について、この考えがみんな当てはまるのか?と、

今ここに書いてありませんが、全然駄目だったんですね。

もう今年は丑年だから、たまたまラッキーで大変幸運に説明できてハッピーと言いたいところだけども。

ああ、駄目だったということで、また違う考え方もありまして、

この南亜語系(オーストロアジア語族)、要するに三日目の動画でお話しましたけれども。

あの時は「辛」で出てまいりましたけれども、南の方で越語支、越(粤)も出てきまし。この場合は越はすごい範囲が広くて、こちらは今、ベトナムを越南と言いますが、

ベトナム語の祖先はこういう*c-luːという音でして、ああ、モン=クメール、クメール人は、ベトナムのちょっと内陸に入ったカンボジアですが、南の方の言葉(*krpiʔ)から漢語が借りて、牛という意味と考える人もいるし、

でも、これも上手くいかないんですよ。十二支全部にうん困ったなと思って。

それで今度はこれ最高にもう調べているうちに面白くなっちゃったから、ちょっと紹介しますとね。

最近の研究では、こういった上古音、紀元前の漢字、もしくは漢語の音が分かってきたら、

このインド=ヨーロッパ語族、英語、ラテン語、ギリシャ語、イラン語、ペルシア語、後はトカラ語という、中国の西域にあった言葉とか、あとはインドにありましたサンスクリット、全部あっちのもう西側の方ので勢力があろ、その言葉で家畜を*gʷṓwsといい、これはもう英語のcow(、ギリシア語βοῦς 、ラテン語 bos、サンスクリットगो gó、ペルシア語 گاو‎ gāv、トカラ語A ko、トカラ語B keuなど)の起源ですが、

これに遡りまして、この言葉(印欧祖語*gʷṓws)から借りたかと、昔の中国やチベットの(漢蔵祖語 *ngwjəɣ)ですね。

そう言ってみれば東の人たちが接触をして借りたという牛という言葉ですね。

最近はもうもっと古い時代にもっと大きな関り合い、人間のもうユーラシア大陸が、人間が行き来して、我々が思った以上に古代人たちは、沢山仲良くやってだということですね。

印欧語族と英語の起源もそう、一番この人たち(印欧語族から分岐したゲルマン語)が、もう西へ西へ行ったのが、まあイングランドとかですから、

それで一番東側は、トカラ人、トカラ語と言って、中国の西域の方まで来ている。

それでサンスクリット語はインドまで来ていて、このせめぎ合いの中で非常に色んな言葉を昔の人たち借りたんじゃないかという研究も色々と進んでいて面白いですが、今ホットですけれども。

それでそういった方からいきますと、こうやって語源を調べると面白くて、

印欧祖語*gʷṓwsから漢藏祖語*ngwjəɣが来ているんじゃないかとか、そういう研究もありまして面白かったですけれども。

でも、これでも、上手くいかないと参ったなと思ったのですけれども、

やはり、結構、昔の人がユーラシア全体で関わっていて、

この十二支の動物、もう一個、私考えまして、これは十二支が別に動物じゃなくても良かったわけですが、植物や花の名前だって良かったし、別に全然関係ないものだって良かったですが、

動物で例えていて、あまりにもここに書いてあるエジプト(Ægyptus)、これラテン語で書きましたが、

二日目でお話しましたバビロニアから、やはり六十進数が来ているんじゃないかとか、話しましたけど、

このエジプトの十二支もやはり、バビロニアともすごい近くて関係しているんですけども。

そういったものを見ると、猫、しかもヒエログリフまで私全部ご丁寧に書いておきました。

本当に猫(𓃠)、それでちなみにコプト語というエジプトには言葉がありますが、

シャンポリオン(Jean-François Champollion, 1790-1832)という天才的な言語学者が、ヒエログリフを解読したとき、古代エジプトの言葉をずっとしゃべり続けた子孫、コプト教会で今いっぱいイスラム教徒がいる中でキリスト教徒でエジプトで頑張っている勢力がありますが、

その人たちがしゃべり伝えてくれた古代エジプトの言葉、アラビア語もはねつけ、ギリシア語もヘレニズムの時代に来て、今度はローマも来たけれども、ずっとしゃべり続けてくれた。

このコプト人たちの言葉から、これを見ますと、この猫は mjwだから、多分ミャオ、猫の鳴き声から来ていますが、そのように全部書いて置きましたが、

それで見ますと猫はこう解釈できるんじゃないかと、猫は鼠を食うから猫と鼠。

ちなみに上古漢語、紀元前の古い中国語でも「貓」*mreːw, mrew, *C.mˤrawで旁の部分「苗」*mrew, *m(r)awという音ですし、

そうすると、これもやはり、鳴き声ミャオから来てる可能性があり、猫の鳴き声、オノマトペ(ギリシア語 ὀνοματοποιία)、擬声語から来たとも考えられ、まあそれはもう話しずれすぎましたけれども、

でも、古い文献を見ますと《莊子·秋水》では猫が猫だという風に注釈がありますが、野猫で鼠をとらえるから、まあ猫は鼠と入れ替えるのも、まあ悪くないかなということ。

それとあと犬(𓃡)、蛇(𓆙)もいましたり、これ(蜣螂 𓆣)はスカラベ(フンコロガシ虫)でエジプトでいますが、虫と読み替えられるかな。

それでこれ(𓃘)は驢馬さんか、これは馬偏でもあり、驢馬と馬にも読み替えられ、それで獅子(𓃬)、ライオンは、虎に読み替えられ、それで山羊さん(𓃶)は羊と読み替えられるかな。それと牡牛(𓃒)は牛!

それでまあ鷹(𓅃)も困っちゃったから、まあそうすると全部この中で当たるものを見ると、まあ兎と、鷹は兎を捉えるから、まあそれとか、また猿(𓃸)はいますね。それと鷺(𓅝)はまあ鳥、鰐(𓆋)は、ナイル川にはいっぱいは鰐がいましたが龍として、

まあいくつか読み替えをしますが、結構、当たってると、要するにこの十二支と内容的にはちょっと読み替えとしては、猫が鼠を食うからとか、鷹が兎はあれかもしれないけれども。

まあ、この豕(豚)はどうもエジプトの中では結びつかないですが、結構説明がついたということで。

やはり、何かしらの関わりはあった可能性が考えられると、かなりこれ当たってると。

そもそももしくはこういった動物でこの十二支を例えると、これ元々星座とか、月の12という概念、今まで考えてまいりましたけれども。

そういった抽象的な概念に対して、動物を当てるというアイディアそのもの、植物だっていいじゃないか、木の名前だっていいじゃないか、

何で動物なのかと言われたら、やはり相当共通性がありまして、こういったもっとユーラシア大陸の全体を見ながら、昔の人たちが関わりあったことを考えてもいいんじゃないかと出してまいりました。

それで面白いことにこちらバビロニアにあった石にも、こういう動物さんたちがあり、サソリも、亀も現れてきてるし、

こちらは真ん中にはエジプトの十二支、こちらには、ローマとか、ギリシアとか、ローマに伝わった十二支、結構それも共通性がありますが、

それらを刻んだ(紀元前後の)大理石が出ていたり、(紀元前1300年頃の)石版が出ていたり、こういったことで資料もあったりして、

そう見てみますと六十という概念も、十二支という概念に関しても、かなり西方由来、西から来たと検討してもいいと出してまいりました。

これで、干支(えと)、十干十二支と干支(かんし)、この事について、もう全体が上手くまとまる形でお話しでききまして、一つ思い出しましたが、この干支(えと)という言葉。

これは先ほど見ました十干の中のその五行に陰陽の中の陰と陽をかけました兄弟を兄を「え」で弟を「と」と分けて考えましたが、その「えと」、兄弟から全体に意味が敷衍されて広がり、全体「十干十二支」自体を指すようになり、よくまあ「十二支」とも言いますね。

そうすると大体この十二だけじゃなくて、十干十二支という、逆に「十干十二支」と全部、正式名称でいう人は少ないと思いますが、「干支(かんし)」とも、中国人は天干、地支と天と地に分けて、十干の部分を天、十二支を地で「天干地支」とも言いますが、

まあどっちにしても、この幹(干)と枝(支)とか、母と子とか、日と辰とか、まあ「辰」も明示して言いませんでしたけれども、

農暦と関係して、これが十二月とか月、「月が左行十二辰に従う」と言っていましたから、これを読み上げましたけれども。

これは日、月ということでそういった対応関係、対照関係、日と月、母と子、枝と幹とか、天と地で考えられましたが、この二つの概念も上手くそれぞれ考えられてこれたと思います。

という感じで一つ一つの概念について、丁寧に関係する資料やアイディアを見てまいれたと思うんですね。

今回もまあ一個一個の要素に分析して考えていこうということで、例えば分析analyseという言葉が(英語に)ありますが、これはもうギリシア語でἀνάλυσιςと言いまして、ἀνά-(完全に)、λύσις(分ける)という意味で成り立ち、分析とは全部(根本要素に)分けると言うことで。

まあ、漢字も分析は全部分けるという意味ですけど、「分」も「析」も、あとは(解析の)解も析も分けるということで、もう一個一個分けて考えられていけたと思います。

今回お正月から始まり、元日、二日、三日、三賀日、プラスアルファで本日も御覧下さりまして、本当にありがとうございました。

もう今回、今年からもうちょっと暴れすぎたかもしれませんが、

本当にこんな感じで、まあ普段の自然体な感じでやってまいりたいと思います。今年も皆さまもお茶を片手に肩の力が抜きながら、でも頭だけ働かして、楽しんでいただければ、知的な好奇心を大切に生きてまいりたいと思います。

皆さま今回もありがとうございました。このチャンネル、そうしたちょっと面白いこと、今後とも行って参りたいと思いますので、

チャンネル登録を下さりますと、少しずつ仲間が増えてきたような感じで、今年もどんどん更に暴れられると思います。

暴れるとは、更に知的好奇心が炸裂しますから、どうぞよろしくお願い致します。どうもありがとうございました。

Follow me!

PAGE TOP