Press "Enter" to skip to content

「漢」の字源を殷周の甲骨文や金文で徹底して探究いたしました。久しぶりの「漢委奴國王」シリーズです! Glorious Golden Seal

日本人どなたも耳にしたことがある輝かしき金印「漢委奴國王」の続編です。謹賀新年の特集でご無沙汰しておりましたが、今回から「漢委奴國王」の字源そのものを特集してまいりますのでどうぞお楽しみください。

面白かったことなどのコメントを下さりましたら、また暖かい応援を下さりましたら、更にTwitterやFacebookなどSNSでご紹介を下さりましたら、今後の撮影の励みになります。皆さまと印の楽しみを少しでもシェアーできましたら幸いです。

※日本語の字幕を表示するスクリプトをご用意しました。
 専門用語や細かい訂正などは字幕でご確認下さいませ。

2021年2月6日

皆さま、こんにちは!今回は「漢委奴國王」について、今まではずっと印の中でこの線がどうなっているとか、この形がどうかとか、その印の紐の形とか、そういった印の外形、もしくはその印面の内容を話してきましたけれども、

ここで一つ、一番大事なこと、今までずっと話してて伸ばしてきたことがありまして、それはこの漢字、この印面に使われている篆書といいますが、漢字の形、つまり我々が使ってる漢字の形も、そうなんですけども、

それがどこから来たのかをやっていこうと、何回も今まで印面を見ている中でも話し続けてきたので、もうこれ遂にやらなきゃいけない、遂にやりますということですね。

今回は「漢委奴國王」の印に使われている、この文字の形、全て一つ一つが元々どういうところから来て、こういう形になってきたのか、ひいて言えば、

我々の使っている漢字の形が、どういう状態から始まり、どういう状態になって伝わってきているか、そういう観点からお話したいと思います。その理由は一つ大事なことがありまして、

これ漢字とはすごく象形性が強く、それで一つ一つの文字自体の形に非常に意味がある文字でして、

こういった印や書、その芸術とは、その漢字の美しさ、漢字そのものの美しさをやはり最大限に活かして表現したい世界で23mmでしたけども、この一辺は、そんな小さい世界の中で起きてる漢字の小さい変化一つ一つがどうなっているのかを知ることによって、

鑑賞するときにも、その本当の意味が分かり、その文字自体の形というだけの線の綺麗さとか、線が流れているとか、線がここがうねっているとか、そういう意味以上に

ああ、なるほど!この線はこういう意味があると、本当に納得していただける会になると思いますので、これから文字自体の世界を見れるような工夫をしておりますので、どうぞよろしくお願い致します。

それでここに沢山の文字を用意してきましたが、全てこの右上にあります「漢」という文字に関係している資料を集めてまいりましたと。

ところでその一つの文字を理解をしていこうといったとき、漢字とは部品がくっつけ合わされて、一つの文字が作られておりますから、その一つ一つの部品に関しても、全て意味を考えていかなければならないということでして、

今回この「漢」という文字は、非常にやってみたら、ちょっとすごい数の資料がここに並んでおりますが、一つ一つこれ見ていけば、一個一個の意味が分かりますからやってまいりましょう。

先ず「漢」という文字が、どうしてこれ形ているのかという疑問点から話を始めましたね。先ほど印面で出ていた篆書の形から、今から我々が見えていこうとするのは、この文字の形がどうして、この文字の形をしているかを理解するため、何らかの方法でそこに切り込んでいかなければならないですよね。

そういった時に一つ漢字が、先ずどういう形でできているか、先ず見てみますと、漢字というのは真ん中にありますような字の形、沢山ここに横に並んでおりますのは、これは全て「漢委奴國王」の時代の金印に至る前の時代の、言ってみれば 「漢委奴國王」は後漢でした。

それでその前の秦の時代ですが、その秦の時代よりも、更に前の時代、戦国時代ですけど、平たく簡単に言ってしまえば、紀元後丁度直ぐの印を我々は見始めましたが、それよりずっと前の一番最初から、そこまでの文字の変わり方を用意してきたわけです。

そして、一番右側に上古、中古、官話、粤語、呉音、漢音とありますが、これは漢字のもう一つの重要な音、漢字が持っている音がどういう風に変化してきたかを意味しております。

そして、一番左が三つ目なんですが、こちらは漢字が持っている意味について、どういう文脈でこの漢字が使われたかを簡単に抜き出してきた。二つの例しか載っておりませんけれども、そういった形でこの表は構成されております。

今回は我々は文字の形がどうしてきたのかに入ってきますが、それには何かしらから始めなれなければならないですね。そういった時に「漢」という文字が、先ず漢より前の時代、漢朝よりも前、もしくは、秦の時代よりも、前の時代にあった「漢」という文字の形、それがここのたったのこの六例ぐらいしかなかったんですけれども、それを抜き出してきましたと。

そして今私は見ていこうと思いますが、ここにあります文字は、全てもう文字の形だけ抜き出してきましたけれども、じゃあ、この「漢」の形、このまた「漢」の形、これら一つ一つが実際どういう形で残ってたかを見ていきたいと思います。

それでは、実際に「漢」という文字が、どこで使われているか、ちょっと探してみましょうと。この「敬事天王鐘」は春秋の後期で今からもう2500年くらい前の相当古い勿論漢王朝ができるなんてより、もっと前の「漢」という文字がどういう形で使われてたかを物語ってくれる非常に大切な物証になってまいります。

それで、実際ここでどこにあるんだと、皆さんお気づきかどうかと、そこなんですよ。もう大きくしてしまいました。ここに実際、

「江」という字ですね。これは「紅」、ああ「紅」でありません。ごめんなさい。「氵」に「工」という字の「江」という字に「漢」という字がここにあります。

この二つとも同じ偏を持っている。これは両方とも「氵」、水が流れている形ですけれども、気持ちよく水流れてますけど、しかもこの「氵」二つが、こっち点がないんですけれども、

でも、とにかくこの水が流れるというのは、これは川の名前を意味していることが多いです。

というのは、元々この「江」とは、皆さんも「江」といったら、もう中国で「江」といったら長江ですよ。もうそれなんですよ。

これで「河」と「氵」に「可」は黄河です。もう間違いなく、川でといえば、それぐらいもう大きな川ですよね。

これは揚子江とも言いますが、それでこの「漢」という文字は、元々その長江に注ぐ漢水という、今一番有名な世界で一番有名な都市の武漢で丁度この漢水という川は、支流が大きな長江に合流する場所、だから武漢の「漢」はこの「漢」を持ってますけれども。

本当はこの「漢」という文字は、川の名前を意味していて、漢王朝とは、やはりその地名に由来して王朝名になった。

勿論この時代はまだ漢王朝が存在してませんから、これは純粋に川の名前として使われており、しかもこれを読んでみますと、江漢(こうかん)の之(これ)という字ですけれども、

陰陽と書いてあるので、この江と漢と陰と陽が丁度対句をなすように使われていると、この「之(の)」を介して、

丁度これとこれの対句をなすよう綺麗な文章になっており、それで私はすごくこうした青銅器に鋳込まれた文字を金文と言いますが、金文を見た時には、やはりここに書いてある文字資料としてすごく大切な面白いことでして、実際の今の我々の使う文字に直せば「江漢(こうかん)之(の)陰陽」と、ここにある赤でハイライトしてる形で使われていることが見て取れます。

次のページをめくりますと、直ぐに目に飛び込んでくるのは、これはもう少し後の戦国時代に当たりますが、この戈という、まあ言ってみれば、これは武器なんですけども、この武器の刃が付いて、ここに刃が付いてますけど、その中にまあ日本刀でもよく銘文が入ってますけど、鏨で刻むんですけれども。

ですから、そういった形で刻まれた文字の中に「漢」という字を探してみようと、もう、ここの横の所に私がこれ答えを書いてしまいましたが、これは「六年」と読むんですね。ここにありますね。「漢」が出てくるんですね。

しかしながら、先ほどみたいに今でいう「氵」に当たる「水」がない形で「漢」という字ができていると。

元々漢字とは、もうこの旁の部分だけがあって、これが水、要するに川の名前に関係するということで、この「氵」は「水」ですが、「水」というものが付けられていると言えます。。

それでこの文字とは、もう一つ大切なポイントがありまして、この鏨で、先ほどの金文というのは、非常にきちっと鋳込まれ、要するに鋳造して作られてるけど、非常にこれはラフですよね。

この文字がこりたの中が右上にピョンといったらと思ったら、今度はこっち側に入ったり、非常に即席でここの武器に刻まれているということで。

それでこの文字を見た時に大切なことは、この文字自身の形だけを抜き出してくるではなく、我々が何故こういった本当のところ、

本当のところとは、その文字の来源と言いますけど、元はどういう意味で使われていたか、どういう部分に刻まれていたのか。

それを見ているのかと言いますと、この文字の形を評価するという、つまり、これがどの程度信頼していいのか、

この文字の形ということを考えた時にはこの武器にもう即席でパパパパーンと刻まれた文字は、やはり鋳造してきちっと考えて作られている文字より、少し字形が崩れている可能性が高いともいえる。そういう考えもありますので、

今我々は実際にこの漢字を見ていく時には、本物のこの例を見ております。

そして、次にこれは面白いまた資料でして、これは今度は右側はその昔、戦国時代の時に要するに秦が中国を統一する前の文字でも、まあ秦あたりで使われた文字でしたが、今度はこちらは楚という文字が書いてあります。楚系彩版と書いてます。楚という国で使われた文字でして、この楚という国は南の方の国でして、

この形を見たときに面白いのは、竹を模していまして、竹の節があるんですが、金属で作ってあるんですよ。つまり、この金属の板は、元々当時要するに通行手形みたいな形で使われていまして、

この節(せつ)という風に書いてある。この文字は、通行手形のような形で使われた。当時は竹に文字をこういう風に書いていた。よくずっと言っていた竹簡、竹簡、竹簡、竹簡という話を一杯してましたけど。

竹簡とはこれを縦にバコンと割って、要するにここに罫線がありますね。この罫線とは一本一本にすれば竹簡になるわけでパカパカパカーンと縦に竹の繊維は一定のスパーンと割ればですね。

これ一本一本竹簡になりますが、その竹に全部書いた形で罫線がきちんと入れられていて、その中に文字が書いてあるんですけども。

この中でも「漢」という文字が使われていて、先ほど右側で見たこの文字は「氵」がないバージョンでした。

しかしながら、戦国時代とは、非常に一つ一つの国が独立していて、非常に各地方で独自に文字が沢山の形で訛りと言えば、訛り使われた時代でこの「漢」とは、こっちは「氵」がないようですが、今度はここに使われていて見てみますと、

ここですね。これの文字。こちらでは、これの文字、「水」が下にきてしまい、普通は偏は右に来るのに下にあり、かつ、この「漢」の右側がこっちに来て、更にここが「隹」がついてる形、要するに今でいう「灘」という字がありますよね。

「氵」に「堇」という字を書いて、更に「隹」を書くような形、(私は酒を飲みませんが、)酒のおいしい「灘」の文字を使って、これです。

この形でこの「漢」を表すのに、この「隹」がくっついてしまっていると、これは繁化と言いますが、「繁」は繁るという字ですけれども、「化」は化学の「化」ですけど、

文字を複雑にしちゃうと、更に新しいこの要素をくっつけてしまって、複雑にしてしまうような繁化というんですけど。

繁体字、簡体字と言いますが、「繁」は画数が増えてしまう、簡体字、「簡」は簡単の間でか数が減らされる。ですから、戦国時代に同じ「漢」という字を表すにも、これだけバラエティーがあっておりまして、こういった形。

あんまり戦国時代には「漢」という字が使われている例はなかったですが、今見てきましたと。

ところでじゃあ何でこの「灘」という字が「漢」と読めるのかを「灘」は「灘」だろうと、言われてしまえば、そうなんですけど、じゃあ、それを読める根拠として、一つ大事な持ってきたものが、最近この楚、中国の南で出たこの文字(資料)があり、この清華大学、中国の大学に寄贈された戦国時代この当時の、この今見ているこの文字と同じ時期の竹簡がありまして、その中でこの「灘」という字が「灘(漢)陽」という形で出てくるわけですね。

そうすると、この文字は、この「灘」という字、この要するに「隹」がないこの「漢」と地で使われていたと証明されると。他の文献資料と付き合わせて理解されると。

しかも、その部分に《史記》、司馬遷が書いた有名な歴史書、戦国時代の歴史が書いてある「楚世家」という、楚国の歴史を書いた部分に関して、「江漢」という字、先ほど見ました金文と同じ文句が出てくて、それでこの「江漢」の小国が皆恐れているという、要するにどうしてかといいましたら、

楚が強くなりすぎたから、 要するに楚という国がどんどんどんどん強くなり、領土が膨張していき、当時中国は戦国時代には小さい国がいっぱいありましたが、その国々が、もう楚が攻めてきて怖いぞと言ってる話が載っていて、この「漢」も楚の国に最後は飲み込まれちゃったんですね。

ですから、このもう一個話をちょっと戻りますと、この通行手形は、ここにどこを経由してと、もうすごい数の地名が、これ(郢)はその当時の楚の首都の名前ですけど、色んな地名が出てくると、その中で要するに先ほどから申し上げておりますように、

この「漢」という字は水の名前、水というのは、川の名前でその船が川を行くルートを書いている中で地名として出てきて、これ自体の資料もとても面白いんですが、今は「漢」という字を見ていこうと、この辺りでちょっと切り上げたいですが、そういった形で一つ一つの文字の形をきちんと認識をすることを今始めておりました。

また、この最初の表に戻ってきたんですけれども、今見た資料とは、この文字とこの文字とこの文字が実際の方に使われ、これを実際「漢」としてみても、これは別の字書の中では、「隹」が付いているような形が、別の文字として認識されてしまっていましたけれども、

当時の資料と突き合わせると、これも「漢」としてみてもいいといえると、この三つについてみたんです。

そこでこの四つやこのもう一個この似たような文字が、これについてちょっと話してみますと、こちらはまた別の当時、文字が残る史料は、結構少なくて、やはり腐ってしまうような、竹簡とか、木簡とか、有機物にあるものは消えてしまうんですけども、

これは陶器にちょうど箆で書かれた文字でその中にも「漢」と読める文字がありまして、

こちらは漢印の文字で我々の「漢委奴國王」と同じ時期の漢印の文字でこちらが古文と書いてありますが、これはもっと後の時代にこういう形の文字もあったという字書がいくつかありまして、そこ(宋·郭忠恕《汗簡》など)から持ってきた形でやはり先ほど見たような文字よりは、少し信頼性というのは落ちてしまうと考えて頂ければと思います。

それともう一つ「漢」という文字に似たような形でさんずい(氵)がありまして、ここに黄色という字が書いてある文字(潢)もあり、実際、「溜池」とか、「池」のような意味で使われていて、「漢」に似ていますが、やはり文脈の中では、その意味では使われないということで一応参考として載せておきました。

今は漢王朝や秦王朝より前の時代の戦国時代より以前の文字で「漢」という字がどう使われていたかを先ず見ていきました。

そうしましたら、これからはこの「漢」という文字に使われている部品について見ていこうと、先ずここをずっと「水」だ、「水」だと言ってまいりましたが、「漢」という文字の左側は、本当にこれ水が流れていて、甲骨文ですけれども、一番古い殷の時代で、もうこれ以上漢字では遡れないまで行きました。もう完全に「水」が流れている形で書いてることが見て取れると思うんですね。

それでしかも面白いことに、当時は文字の要するにこういう風に作りなさいという規格化がまだされておらず、別の言い方をすれば、この文字自体を見た時に「水」が流れているように見れば、「水」だもうOKという大らかな時代だったんですね。

それでそう見るとこれ「水」の点がいっぱいあったり、「水」が片方しかなかったり、「水」が真ん中の線が二本があったり、これは今の要するに我々が使っている文字は篆書の形に近いのはこれですが、こちらは点が左右にちょっと多いとか、でも、後の時代になってくると、これは西周初期ですから金文ですが、

そうするとここでは水はもう殆どこういう形になり、それで最終的には、ここにある文字の形、これが篆書体のこの形に固定化していき、

ここで一つ大切なことをお話していきたいんですけど、今まで我々がこういった文字の形を見ていく時には、ある程度ところで言えば、

一つの目安、基準となるのは、この我々が使っている楷書、この形ではなく、この篆書、この下にちょっと小さいんですけれども、

この形は秦の始皇帝の時代に整備された漢字、全て当時にあったものを整備した時の文字の字形を全部整理した形でして、今我々が使う文字の全てはここに遡りますが、

この形で考えていく、それで更に前の時代のものを実例として、この形を考えていきます。

今度はこの「漢」の左は見ました右側のこの部品を覚えて下さいね。もう大分ちょっと拡大してしまいましょう。

この文字のこの形がどこから来たのかを今度は見るわけですね。この形、これは偏がありませんでした。

これですね。それでそれを見ようとしたとき、私は実はこの「漢」という文字にはちょっと色々と厄介なことがありまして、

色んな字源を考える上では、一つの考えだけではなく、別の所が取られたんじゃないかな、という説がいくつかあって、

その中で代表的な考え方としては、この「漢」のこっち側のこの形の由来は、黄色という字とまや同じだった、もしくは謹賀新年の「謹」とか、勤労感謝の「勤」とか、

この「堇」の形から来てると、非常にやはり篆書になってくると、実はこれ見比べてみますと、これとこれはこっち側、この字はこっち側と同じ部品を持っていまして、

しかしながら、よくちょっと、私は今回こういうことを整理してみたら、この形は、このこっちではなくて、言ってみれば、この文字

今、最初の行にある春秋晩期の頃にこの形を取っていた文字はどういう形かと、今度は比較しようと思うんですね。そのために私が用意したこのテーブル、「黄」という字のテーブルを見てみますと、この表の中では、この形、春秋晩期、もうこれ最初から最後まで時系列に並びますが、同じ時期のもので比較していきますね。

そうすると、この形を持つものは、これもかなり近く、もしくはこれも形とこれの形はよく似て、もうこれとこれは同じと言っていいですね。

それを見ると、この文字の時系列にもつながる可能性もあると考えられるし、

これでこの形を見てみますと、この形だけを見ていくと、これとこれ同じ形を取って、これは大変な問題なんです。

どうしてかというと、実際漢字の文字は、別の文字として認識されているように見えるものでも、当時はぐちゃぐちゃになっちゃっていたということです。つまり、混同されちゃってたということで、

先ほど見たこっちに従えば、この形は近い形で見えるのは、こっちの系列に近いものがあります。しかしながら、このもう一つの武器の方ありました「氵」がない方で見てみますと、これに近いこの下の子のこれ、この部品も見えちゃっていると。

これは困った問題だということでしょうがないと、もうこの二つがあるならば、先ず二つとも見てみましょうと、そういう話になってきました。 それで先ずじゃあ「黄」のを今こっちを見ていきましょう。

そうするとここで今はリンクをさせてみて、今度は上からこっちは殷の時代の甲骨文字、ここは殷の時代や殷より少し後の時代の西周初期のもの、 つまり、甲骨文字から、ずーっと時間が進むほどにこっち(左)に行きますが、

今度は上から下がってきてきて、こういう風になんでこういう形になるかを見ていこうということですね。

そうすると、元々この「黄」は、人の形があり、ここの腰あたりのところに四角(□)が付いていて、こういう形は大体同じですが、しかしながら、先ほど「水」で同じ漢字として認識されるものは、かなりバラエティがあり、つまり違う形があり、同じように真ん中に「田」のようか、真ん中に一本入っている場合があり、

でも、大きく見ると、人間の手があり、頭があって足があり、それでその腰のあたりに何かしらがくっついてる形をしていますね。

観察してみますね。そういうことなんです。それでも、元々この形は何を意味してたのかも、今から見ていきたいんですけども、

じゃあ、先ずは最初はこの文字がどういう風に変わってきたのかを時代ごとにちょっと短くコメントを付けていきたいと思います。

そうすると最初はこういう形を持っていたのに、真ん中でこの系統が、しかもこれが田んぼの所がちょっと出て、U字とこういう風な形になっている。これこれはこっちに近いし、まあこれに近いし、かなりこの頭はこれに近いですよね。

それでこちらに行くと、ここの突き出てるものと、Uでここ突き出てないものもある。ああこちらの後もそうですけれども、

それと後とは下は大体人の形みたいな形でして、これ人の手足がこちらと同じ形が出てますから。これまでは西周中期ぐらい。

それでこれも、まあその系統でして、それでここを赤で補ったのは、これ本当は一本みたいに見え、こういう風に見えないから、ちょっとマウスアイコンで隠しましたが、こうだったんですが、よく見るとここにちょっと残ってたので拓本を取ったときに消えたことで、 まあほぼこれと形は同じだと。

これは足が三本になっちゃってるのもあると、これもこれもそうだということ。この辺りがそうですね。それでこの形は手がこの上と下で逆転して、これ上と下にも付いていて、

でも、文脈からすると、これは全て同じ「黄」という文字で、それかもしくは後でもう少し見ていきますが、この「黄」はまた別の意味で使われていまして、その系列で同じ系列の中で使われるということが見えますね。

それで初期の頃にあったものが、突然この辺でここ真ん中、「田」でないものも西周晩期でありますが、ここからここが大体周の時代、殷の次の時代のそこも数百年ありまして、その移り変わりがありましたが、

でも、大きく見るとあのそういった人の形の上に何が付いている。ここにくっついている。そういう形は基本的な継承されていると見て取れますが、最後の春秋から、西周から春秋になり、別の国々に漢字がどんどん伝わっていったとき、どんどんどんどん訛っていくんですね。形がちょっと変わっていってしまう。

それでそういったときには、この最後の下のこういったものが、この火みたいに分かれたり、最後が火みたいになり、それで最後はこれは楚簡という戦国時代のその国の文字ですが、これは手で書かれた文字ですが、こちらから、ここからここは金文、 金属に鋳込まれた文字ですけども、それでこういう形もなっているということですね。

かなり時代によっても、文字の変遷がずっと変わってきていると見て取れると思うんですね。それで先ず私が何故こうして全部の時代のものをずっと出してきたかというと、先ずはこの文字がどっちに対応するか、何に対応するかということ、その見たいがために見たんですよね。それで見てみますと、こっちを見てみますと、もう一つの方の説があるんじゃないかというを見てみますと、これで面白いことが、

これが今見た甲骨文字から始まり、ずっと戦国末期までずっと時系列に並んでるんですけれども、右から古い順にいっているんですけれども、そうするとこれは上の形が乗っていて、この口みたいな形が乗ってて、ここに人の形は大きく真ん中に見えるんですね。

その上にここに菱形みたいな形が付いていると、それが全て同じようにとっている。上は突き出ているものと突き出ていないものがあると、下は山か火かとあって、これも本当に字源というものを見ていくと困ったことに、この山という形と火という形も、もう甲骨文の時代にも相当混同しちゃってたみたいですね。

その証拠として少し見て頂きたいものがありまして、火という字の甲骨文がこれだけありまして、これ全部火と読めるもの、山と読めるものは、ここにあるんですけど、それでこれ甲骨文は、これですが、これを見たときに殆ど同じ形をしちゃっているんですよね。

そうして見ると、もうこれも困ったなというのが、これとこれちょっと同じところにやっておきますと、 この形は火という形に近いのは、これ火に近いみたいに見えるし、

こちらは山みたいに見えるし、これ火か山かとね判定が付きにくいと、じゃあ、私はこれをどう考えてるんだと聞かれたら、

今一つ考えているのは、もうここで判定できなければ、次の時代にいってしまうといっても、同じ殷を中国で商と言いますから、同じ時代の金文の方を見てみますと、甲骨文字と違い、金文は金属に鋳込まれた文字で間違いなく「山」の形してます。

そのことをちょっと一つ面白い資料がありまして、それでよく見ていくと、この「山」という字ですが、今度これは困っちゃったんですね。今度はこれは「土」みたいな形になっちゃって、それで「土」に似てるというのは、「土」という字を今度見てみますね。

こういう形をしていて、これを見てみますね。この形はこの形とか、殆どそっくりになっちゃう。

だから、「山」と「火」と「土」がもうぐちゃぐちゃになっちゃってるんですよ。

じゃあ、これをじゃあ本当に実際にどうだったのかを見るために一つ資料を見せしたいと思います。

先ほどこの「堇(𦰩)」という字の下が、「山」なのか、「火」なのか、はたまた「土」なのか、それを判断する資料として、この二つを持ってきましたが、これは殷の時代ですけれども、

ここに実際に出ており、これは地名「堇」が書いてあるんですけれども。

これ見ると一つ大事なこと、この次の次の字の所に「光」という字があり、「光」という字の頭は「火」なんです。

だから、松明、篝火を持った人みたいな意味から、「光る」とか、火に関係する言葉でして、「光」という字の一番上の点々点々で書いて、点点点と上にあり、下に足を書きますけれども、その上の部分は火ですが、この形は火なんです。

しかしながら、これ火と近い所にありますが、点々がないわけですね。

そうするとこれは火ではないと考えられ、もう一つこちらを見ますと、これは「啟」で少し日本で使っている今の字体(啓)と違いますが、口が下に来ていますけれども。

啟卣(《殷周金文集成》5410)を見ますと面白いことに今度は山という字と一緒にセットで使われ、そうすると山という字をこれを見ますと、同じ形で使われてると、もしこれが土であれば、それは直線的だし、ここは肥えてるのは良いとしても、直線的になっている。しかし、「山」はちょっとここはこうなってるんですよね。

このU字型になりまして、そうするとこれは明らかにU字型でさっき話したみたいな点々がないから「火」かつ「土」ではない、ということは、この場合は山として見える資料でありました。(近くの字「[火+憂]」の火に二つ点が打たれて下側は直線でありますため、「山」と「火」が書き分けられ多資料でもあります。)

そしてまたこの表に戻ってきましたが、今はこの下の部分を見て、少し関係する資料を見ていきましたけれども、そうするとやはりこれは「土」ではない、でもここは「土」になっちゃってる、それでここはちょっと微妙で分からん。足みたいな形で書いてある。

これはちょっと飛んじゃってるけれども「土」でしょうね。これはもう間違いなく「土」の形で書いてあり、どうしてかといいますと、この中ちょっと超えてて完全に真っ直ぐになってる。この形に近い形だから、これは「土」になっているから、もう本当にこれも「土」でしょうね。ここが肥えてるから、今は土はこう書きますが、この上の短い横画に当たるここがちょっと肥えている。これもこれ明らかに「土」ですね。もうこのここに書いてあるここが肥えているように書いてある。

だから、元々あった漢字がどんどん似たような漢字とくっついていく問題もあり、字源とは意外と探るのが難しいと分かったと思います。

それとここで「堇」という字を見ていくときに、また別の角度で見ますと、先ほどちょっとちらっという話をしてしまいましたけれども、

その「堇」という字が出てきたとき、その文字は今で言う「堇」という字と、この字と持っているものが違い、例えばこの横に出ているような飢饉の「饉」もこの部品を持ってるし、この謹賀新年の「謹」もここで部品も持ってるし、それで勤労感謝の「勤」もここで持ってるし、そうすると同じ形がやはり偏と旁のどっちかも組み合わさり方は当時は自由で右にあたり上にとか、 自動的に二つの部品が何かしらで結合していれば、一字として認識されたから良いにしても、ここでは「火」として、もう間違えない、これは火の粉が点々がある見えちゃって、

これは「土」になっちゃってる。それでこれも「土」ということで、これ西周の中期ぐらい、周の王朝の真ん中ぐらいで何かちょっと変わってきてる雰囲気が分かってくると思うんですよね。元々「山」と「土」のような。まあ「山」と「土」も何か考え似てる概念でしたり、それで「火」みたいなものもある。

しかし、その「火」にこれが伴われている場合は、これ飢餓とか要するに飢えという意味なんで、この漢字の意味は苦しいという意味があって、その苦しさを火に焙られてるような人みたいなイメージから発展して、こういう風に考えてる場合があったり、

この文字「艱」はやはりこれも苦しいという意味の文字になりますが、これも見ますと同じ部品があり、そうすると大体この場合は「火」になって、これは間違いなく「火」ですね。

しかし、甲骨文で最初に出てきた場合「囏」は、この部品がありますが、全然「火」とかはなく、太鼓「喜」の形に人形の形があるから、もう大体、晩期でこうなっちゃう。この間の資料がないから分からないけれども、まあ西周の中期ぐらいから字の形はちょっと怪しくなってきてることが見てとれると思います。

それでこちらも見ますと、もう晩期だから、もう後の時代になっていくと、どんどん字の形が、もうちょっとなんちゃってみたいな似たような字が非常に混用されてしまうから、やはり字源を探ることを考えた時には、この最初のもう少なくとも、西周初期ぐらいまでか、中国でいう商、殷の時代の甲骨文や金文で考えていこうとすることが大切という話でありました。

最後までご覧下さりましてありがとうございました!「漢」の字源を探る流れをお話してまいりました。 次回は「漢」を構成する「黃」や「堇」を探究する動画を公開いたしますのでお楽しみ下さいませ。

興味のおもむくままに書画・篆刻・文芸など中華文化につきまして、皆さまとこれからも沢山動画を共有してまいりたいと思います。KF-Ars Sinica(系譜でたどる中華文化)チャンネルを今後とも何とぞ宜しくお願い申し上げます。

Follow me!

PAGE TOP