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遂に完結「金印シリーズ」!最終回もすさまじい熱量で「委」「奴」「國」「王」について語りました。Glorious Golden Seal

日本人どなたも耳にしたことがある輝かしき金印「漢委奴國王」、遂に完結しました!最終回もものすごい熱量で「委」「奴」「國」「王」について語り続け、また全体の振り返りをして、更に重大なお知らせがございます。

面白かったことなどのコメントを下さりましたら、また暖かい応援を下さりましたら、更にTwitterやFacebookなどSNSでご紹介を下さりましたら、今後の撮影の励みになります。皆さまと印の楽しみを少しでもシェアーできましたら幸いです。

【諧声系列表】
女 *naʔ, *nraʔ > ɳɨʌX
奴 *naː, *nˤa > nuo
如 *nja, njas, *na > ȵɨʌ, ȵɨʌH
汝 *njaʔ, *naʔ > ȵɨʌX

或 *ɡʷɯːɡ, *[ɢ]ʷˤək > ɦwək̚
有 *ɢʷɯʔ, *[ɢ]ʷəʔ > ɦɨuX
又 *ɢʷɯs, *[ɢ]ʷəʔ-s > ɦɨuH
域 *ɢʷrɯɡ, *[ɢ]ʷrək > ɦwɨk̚

士 *zrɯʔ, *[m-s-]rəʔ > d͡ʒɨX
在 *zlɯːʔ, zlɯːs, *[dz]ˤəʔ > d͡zʌiX, d͡zʌiH
仕 *zrɯʔ, *[m-s-]rəʔ > d͡ʒɨX
事 *zrɯs, *[m-s-]rəʔ-s > d͡ʒɨH

*鄭張尚芳擬音, * Baxter-Sagart

※日本語の字幕を表示するスクリプトをご用意しました。
 専門用語や細かい訂正などは字幕でご確認下さいませ。

2021年3月12日

皆さま、こんにちは!

今回も「漢委奴国王」シリーズ出ておりまして、ここに金印を出しました! というのは、もう、苦情が来ちゃったんですよ!

もう、私「漢」という字にはまりすぎまして、「漢」はなんだかんだ、これはなんだと、まあこちらは「水」ですけど、もうこちら側の方、どうなんだなんだと行きまして、

もう、前回はもうとんでもないところまで行っちゃった!

もう、中国の統治のシステムはどうなのかと行って、そういう方までぶっ飛びまして、封禅だとか、沢山この「漢」、もう本当はパパっとこの字源はこうなんだとやっていこうと思ったんですけれども、

もうしょうがないと!KF-Ars Sinicaだから、中華文化の系譜、これ自体をもう見てきたいということですね。

もうこれ寄り道じゃないんです!むしろ、文字の形でこれはこうだったんだよというような単純な知識みたいな話じゃなくて、

もっとその「漢」に対する愛着、愛し合えるかどうか、それを文字と本当に愛し合えたと思いますという形になってまいりましたけれども、

ここでお約束しておりました!もうこのお約束はもうかなり前ですよね。もう年越してしまう前でしたが、随分そこから経っておりますが、

このやっと一文字、初めの文字は、まあ大きいから、これは2倍ありますんで(笑)

時間は食い過ぎましたが、誰も何十倍にもなっちゃったけれども、後の四字をどういう字源かと見ていきたいと、どうぞお楽しみ下さい!

そして、こちらの表はもうお馴染みですが、漢字を見ていくときに、この一番右側の四行、音に関してのデータ、

まあ、漢字を考えていく時には、三つ、字音、それと字形、それと字義、意味と言いましたね。

先ずこの音ですが、上古音はかなり古い様々な漢字が生まれてきたと同じ時期に使われた音ですよね!

それでこの中古音は、隋とか、唐あたりの音ですよね!そして、この官話は、今の中国の北の方、それでこの粤語は、よく広東語と言いますけど、南の方の言葉です。

それとこの呉音、漢音が我々が漢字の音として言われる読み方です! まあ「呉」「漢」と書いてあり、少し誤解が生じやすいんですけども、

この呉音とは、微妙にこの中古でも古い方で、当時の1500年前の日本が中国と公式によく接触した時代のその中国の南の方の音ということ、

漢音とは、当時の長安、首都ですよね!西の方と言われている音です。

ということで、音のデータがここにございまして、真ん中には字形、字の形のデータがございまして、それもう少しずつ見ていく中でお話していきたいと思うんですよ。

そして、こちらの一番左側が使われ方、その文章の中で、この漢字がどう出てくるのか、つまり意味ですよね。

その文章の中でその漢字がどういう意味を持ってるか、字義といいます。

それをデータにしておりまして、まあ一つの漢字を考えていこうとしたとき、どれに偏ってもいけないんですよ!

全部この一つの漢字に関して、我々が今見ていこうとするのは「倭」ですよね。まあ印の上では、この人偏がない形「委」であるので、両方出してあるんですけれども。

これ「ゐ」と書いてありますが、これは「い」と読む。

この言葉自体は、委員とか、委ねると我々は読みますね。訓読みすれば。

それはどうしてかと言ったら、 《楚辞》は漢字ができて、結構後にそれでも春秋戦国時代ですから 、屈原が作った《遠游》ですけれども。

それでこれを見てみました時に問題となるところが、これ「枉」は曲げる意味で私のこれ両方とも対句で引用してきましたのは、

大体《楚辞》は韻文ですから、そういった場合には、対句で出てくるんですね!

これ「委」も曲げるという意味で《楚辞》に出てきていると。

それで《左傳》も春秋戦国時代ですが、襄公三十一年の所で上にこういう風に文脈を私が用意してきたのは、どうしてかと言いますと、

子皮さんが忠義の人だったから、それ故にという字ですね。

これは実際に委ねるという意味で政治を委ねる。

「焉」は語気助詞だから、 政治を委ねたという意味ですね。

何かしらのことをお願いする委託の「委」という意味で使われると言えるんですね!

だから、基本的にはそういう漢字ですが、

それで見ていくと、文字を今度見ていくと、

この文字は本当に問題があり、この「禾」に「女」という形で小篆はそう書いてありますけどね。

こういう字形は実はかなり後の戦国時代のところであって、

甲骨文の中では、禾偏の所に枠はちょっとちょこんと枠がここにも付いた形でございまして、

だから、稲などがプニャンと垂れていることから、曲がる意味で使われていたでしょうけども、

でも。一番古い中では戦国ぐらいにもうこの今の「女」と「禾」という形になりますが、

それで問題があいr、甲骨文にも確かに「女」があり、右に左どっちにもありましたけれども、それで禾偏がありますが、

これは「姀」という違う文字でして、実際そこの文脈の所もここ(《甲骨文合集》7076)に書いてあり、これはちょっと意味が違うと一応参考にまで出しましたが、これはちょっと字釈の中では関係がありません。

問題はここの部分で大体春秋戦国にも、中山王の金文中に出てくる文字は、実際に甲骨文とほぼ変わりないの形は、

ここからここまで500年は下りますから、かなり後になっても(引き継がれています。)

でも、突如としてこの戦国時代にこうした形が出て来て、まあこれは「禾」に「女」で柔らかいとか、たおやかとか、そういう意味で手弱女(たおやめ)という言い方をしますけど、

しなやかという意味で会意字ですが、撓むという意味を導かれて、

まあ「禾」自体はこういった本当に、これ、ここに根があり、それでこの上の部分のここが葉っぱですよね。

それでちょっと稲穂とか、稗(ひえ)とか、穀物が実り、ぷにゃんと垂れ、ここでちょっと肥えてますから、

それでしなるようなイメージだから、この禾自体にはしなるイメージが元々あるんですけど。だから、こういった甲骨文になりますが、そういった文字なんですよ。

それで問題がよく昔から言われているのが、何故じゃあ人偏が付いてない形で印に入れたのかと!?

人偏もちゃんと入れれば、良かったんじゃないかと、

私もこの問題を考えていたんですよね。《山海經·海内北經》は、やはりこの《楚辞》や《春秋》と同じぐらいの時代は、やはり春秋戦国の起源がある古籍(古い漢籍)ですけれども。

その中にこの燕という国があるんですね。今でも中国で相当北の方で、今の北京とか当たりにあった国ですね。

かなり、北の方の(燕の)南の方に倭があって、倭は燕に属してるんじゃないか(「燕南,倭北。倭屬燕」)と言うんですね。

倭は、じゃあどうして北京よりちょっと南というと、

今の朝鮮半島の付け根当たり、 何でそこに倭なんだ!?と思うんですけど、

そう書いてあるんですね!これはじゃあ我々の日本の倭は、意味が違うじゃないかと考えられていたりするんですね。

それでちょっと見ていくと《論衡·儒增》は、もう漢の時代の王充さんが、これもう前に出てまいりました謹賀新年のシリーズで《論衡》に我々の十二支(十二生肖)が出てくることでちょっとご紹介した覚えがあるんですけれども。

また別の篇(儒增)のところに、この周の時代には、もうすごい平和だったから、

越とは、今の上海、蘇州、杭州あたり、呉越と言いますが、中国の真ん中あたり、

当時から言えば結構、南の方、またその越の南の方の人が白い雉を献上して、倭人が鬯草という、お酒とかに香り付けをする草ですね。

これも青銅器で見ましたね。この「盉」という青銅器は、香り草と一緒に煮て、お酒に香りを付けたとお話しましたけれども、

その香り草 、鬯草を貢いだと書いてあり、(呉と倭が対句で書かれていることは、古くは倭が呉に近いところにいたという可能性を示唆します)。

これ見ると倭という国が、え!我々の日本は、しかもこれ今でいう北九州でこの金印が出たんですよね!

何で倭がこんなところにあるのかという時にですね!

最近色んな日本語自体の構造の研究も進んできて、

実は我々の日本語を使ってたもっと母集団のうちの一つ、日本語という結構色んな言語が混ざって、色んな所から語彙を借りたりして、文法も混じり合ってできた考えられてもいますが、

それで見た時に、倭が実は朝鮮半島に元々いた集団の人たちが使っていたんじゃないかと、「半島日本語族」とか言いますよね!

要するに今でいう朝鮮語の中、もしくは朝鮮半島にある古い地名の中には、倭人たちが元々朝鮮半島にいた時代の時に使ってた日本語のご先祖の言葉に混じったと、今学者が調べたりしているんですよ(Alexander Vovin 2014では、更に日琉語族Japonicは、中国南部でオーストリック大語族Austricなどの言語と接触して、山東半島→遼東半島まで北上して、朝鮮半島を経由して、九州に移住したルート、または、中国沿岸から日本に航海したルートが想定されています。)

もっと言語とは、やはり、その集団、その民族と、その使ってる人たちと共に移動しますから、

そう考えると、よくヨーロッパでいう、ゲルマンが大移動をしたら、新しい場所でもその言語も一緒に人と共に移植されることありましたが、

それと同じでかなり古代はその今の国境線では考えられない、言語集団の移動が激しくて(記紀神話に船で渡ってきた古い言い伝えが含まれているとも指摘されます)、

そういうことも色々考えられてきまして、そういった問題もあり、これは面白いですよね!

これは昔は《山海經》は、ちょっと怪しいと、この記述はちょっと変じゃないかと 、《論衡》の王充さんも、ちょっと変じゃないかという、これ伝説じゃないかとありますけれども、

意外とそういった意味で面白いんですよね!これもこれもちょっと語りすぎましたけど、

それで倭とは、そう見てたときに、こう出てくるけれども、

その人偏がない状態「委」は、この実はこれらの《山海經》や《論衡》とは、もう漢の時代とか、春秋戦国時代の原本とは、もちろんないわけですよね。

それで一番遡れるのは、宋版、宋ぐらいの時に大量に出版されて、色んな古い書を校訂していっぱいバーンと出したんですよ。

今、宋版というとも、のすごい高価なんですけれども、ものすごく稀覯で珍しくて、

しかも、我々が読んでいるこの極めて重要なこういった古籍の原本で、もうそれ以上には遡れない貴重なものだと、ものすごい価値が認められて、中国の国家図書館も血眼になって捜している、プライマリー・ソース(第一資料)ですけれども!

それくらいまでしか遡りえないけれども、もしかしたら、元々はこういった《後漢書·東夷伝》と我々もよくいいますが、

この金印の時にここのところ、この建武中元二年に「倭奴國」が朝貢してきたことを書いてありますよね!

それでこう言うこういう記事において、ここには人偏がある「倭」にこっち印には人偏がない「委」といいますが、

むしろ、こちらとこれはもう逆転で大逆転の発想ですよ!言われてみれば、当たり前のことですが、

この《後漢書》にしても、《論衡》にしても、《山海經》にしても、宋版までしか遡れないから、

もしかしたら、この人偏がない「委」が漢の時代に(今の「倭」として)使われてた可能性は否定できないんですよね。

つまり、こういうことがよくあるんですよ!

「印学」、印を研究していく中では、漢の時代の漢印、もしくは秦の時代の秦印、その印のある文面、その印が作られた時代に作られた印が、その文字の方(金石文)が、もう何回も何回も転写を重ねたりしてきた歴史書(典籍)より、

むしろそちらが同時代史料として、これはもうプライマリーソース(第一資料)、もう極めて重要な動かしようがない、同時代に作られたものですから、(本来の表記であったと、)

むしろ、そういう風に考えるべきですね。

この古籍のあまりにも、こういった歴史書の権威に頼りすぎるんではなくて、

むしろ、それらが伝承された過程も考察に値すると考えられますから、

その問題は、どちらが正しいかは、この今ある資料だけでは分からないけれども。

(「倭」より)むしろ印の方の印文の方の人偏がない姿(「委」)が、もしかしたら、当時使ってた普通の姿と言えるんですね(170年頃の安徽省亳州市出土の74号字磚「有倭人以時盟不」は、人偏を伴う「倭」とされますが、特に「禾」の縦線がないため、「佞」と別の読み方もされて疑義もございます)。

とは、これ上古音を見ると、この 「委」は*qrolʔ, *q(r)ojʔ, q(r)orʔ、それでこの「倭」は*qoːl, *[qoj]という音ですが、中古音まで行くと、確かに「委」ʔˠiuᴇX、「倭」ʔuɑは、「わ」は中古音に近いと!

もしかしたら、こっちの(上古)音が、金印を使った時代に使ってた音ということで、音韻学は、結構大事で我々はこの字「倭」を「わ」と読んでいまして、この字「委」を「ゐ(い)」と読んでいますが、

その後の時代の音で考えてはいけないんです。同時代の金印「漢委奴国王」が下賜された。漢王朝から頂いた時の音で考えるべきでして、「倭(わ)」と読むのは、本当は*qoːl, *[qoj]かも知れませんよ!本当に冗談抜きにということでして、とにかく我々が使ってる「倭」という音は、中古音のʔuɑに由来していると、

それでちなみに呉音でこれを「ゐ」と読むのは、かなり前の時代に委員会の「委」と音がやはり近かったわけでして、かなりここのところで似た音の諧声系列と言いますが、

「諧」は「諧(かな)う」、「声」は声(音)ですから、「声が諧う」(音を同じく)するような漢字、 形声文字で人偏が付いた「倭」は「委」の諧声系列に当たるんですけれども、

そういった形で「わ」と読む自体も、ちょっと待ってくれよ!と、音韻学から、ちょっと常識的すぎて、疑わないところかもしれないが、疑うべきところと、一つちょっと声を大にしていいたいですよね。

これはちょっと衝撃かも知れないですけれども、もう「わ」に慣れすぎてるから! まあ、今の中国語wōだから、広東語wo1も同じで見てこれたんですけれども、

一つ今まとめてみますと、我々が「わ」と読んでいる「倭」の読み方も疑うべきことで、音韻学できちんと同時代の中国語の音で考えるべきではないかと一つ言えたと思います。

それともう一つ大事なのが、次の字「奴」ですが、じゃあ先ず字源から見ていくと、まあこれは「女」がここにあるんですけど。

それで見てみますと、「女」が手「又」で捕まえられている形で大体みんな「又(手)」が付いて、もうおなじみの「又(手)」でキャプチャーされている形 !

これも皆そうですね。これも「又(手)」が面白い!漢印の文字ですが、これは陶文でして、こちらもそうでしたが、陶器に箆などでささっと書かれた文字でして、

それでこちら包山、郭店は、楚簡の文字でこちらが金文の文字ですが、殆ど同じ形をして、「又(手)」と「女」だと見てこれたと思います。

だから、「又(手)」で「女」が捕まえられて、キャプチャーされてるから「奴」とか、奴隷の「奴」だから、誰かに主人に仕える、そういった意味であり、

まあ、実際ここにもこの「奴」がここにあり、《周禮·司厲》では奴隷という意味で書いてありますが、 男性の場合は、罪などをして、そういった身分になったと書いてありますね。

だから、もっと意味が拡大され、全体的な奴隷という意味の漢字になりましたと言えるんですよ。

だから、これも会意字と思いますね。つまり。「女」の部品からだけ、「又(手)」の部品からは出てこなくて、「女」が「手」で捕えられた形で意味を成しているから会意字ですが、

実は会意形声字(亦声)といって、 この音を見ると「女」*naʔ, *nraʔ と発音してた。それでこっちの今は我々が「奴」*naː, *nˤaで音も近いです。

その後はちょっと違いますが、今の中国語でも「奴」nu2, nou4と「女」nü3, neoi5で近いですよね。だからそう言えるんですけど、

それともう一つここで面白い大事なことがありまして、この「委」と人偏が付いてないから、これは「奴(な)」と読むんじゃない、

これは「ど」と(現代の)我々は読みますから、「漢委奴国王」は「かんのいとこくおう」という説もあるんですよ。

ところがその説に私はずっと従いませんでした。何故なら、呉音「ぬ」とか、漢音「ど」でもなく、「漢(かん)の委(わ)の奴(な)の国王(こくおう)」と読んできましたね。

それは上古漢語で「奴」*naː, *nˤaと発音してたから、「な」と考えられる根拠があります。

だけれども、何でこの「ど」という音が出てきたのか!「ぬ」は理解できる。今の中国語だってnúだし、中古音もnuoだから、

だから、「ぬ」という音は出てくる! でも「ど」のdの音はどうしても出てこない!この中国語の音からして、何で何でこれは「ど」なんだと、私ね、努力しましたけど、努力の努(ど)もそうですけどね!「力」が付いてね(笑) だめなんですよ!どこから分からない!

この何でこれ「奴」は「ど」か!そして《萬葉集》とか、《古事記》とか、《日本書紀》では、萬葉仮名といって、 古い日本語で書いてる部分で大体「ぬ」という音で使われています。これをこの字は「ぬ」ですから、それは理解できる。中古音はnuoだから。

だけれども、《日本書紀》では、確かにこれ「奴」を「な」に使ってるんです。上古音*naː, *nˤaに近い形で使ってたと! 《古事記》と《日本書紀》では「の」でも使っている!

しかも、甲乙がありますね。昔の音は奈良時代より前の日本語には、母音には二つ書き分けられていることも、万葉仮名の分析でちゃんと分かっていまして、上代仮名とか言いますが、

それでその後にもう平安時代にぐちゃぐちゃになり、もう今の五つの母音「あいうえお」になりましたが、「の」には甲と乙のちゃんと区別があったと、

《古事記》と《日本書紀》で「の」の甲類で使われていて、これはnuoから来て、中古音から理解できます。

それで一つだけ《日本書紀》の歌謡、要するに倭歌の部分で「ど(do)」の甲類で使われています。我々が「ど」と読むこの漢音と同じでして、そこしか使われていない! それで「ど」というのは、どーしても、これは「ど」にかけた冗談なんですけど(笑)、分からない!

この何故「ど」という音が出てくるのか、中国語のどこからも出てもない(後で考えましたら、漢音は唐代の長安音で中唐(8世紀頃)に非鼻音化m→mb→b、n→nd→dが起き、梵語や蔵語の仏典の音写で確認されますが、それが日本にもたらされ漢音となりましたことを思い出しました。詳しくは羅常培《唐五代西北方音》1933年にあります。)

だから、少なくても言えるのは、「漢委奴国王」が中国から与えられた時には、この上古音から、少し時代が下るとしても中古音、この間ぐらいこの当たりですから「奴」は絶対これは「ど」とは読めないため、「委奴」は「いと」とは絶対に読めないことが、音韻学の知見から考えられると一つ申し上げておきたいですけれども、

だから、やはりこれは「な」と読むには、きちんと根拠があることを見てこれましたが、

ちなみにこの「女」で面白いのが、 これは元々女性が手を組んで膝をついて座ってる形でして、殷の時代の甲骨文や金文は、実際手を組んでこうですが、少しずつこの足が曲がった感じから、こうなって、少しもうちょっとS字ぐらいになり、更に一本の棒になってきまして、

それでもう西周の晩期になってくると、こんな感じになり、手を組んだところが、もうすぐ大きく強調されて、ちなみにここに二つ点、乳房を加えると、これは「母」という字です。

これで「母」と「女」は、今は相当今は大きく違うのは、それは篆書から隷書に行った時にそこで分化しましたが、

でもこの西周まではこうでして、更に侯馬盟書とは(春秋)戦国時代に書かれた文字です。

晉という国で使われた文字ですが、もう1本でもう書きやすいから、この方が筆でピュンと書いて、キュンと書いて、キュイーンと書けば、わざわざ曲げて書くよりも(楽に書けます。)

この字は結構「女」は出てきまして、《荘子》という本の中に「汝」でも、これ「女」は仮借して、「あなた」という意味で二人称で使われたから、結構この字はいっぱい出てきて、もしくは「如(ごと)く」という意味でも、「 口」をつければそうですから、

結局、私は「汝」と何でなったかというと、この「女」*na, *nraʔからやっぱり出るんです。上古音では「汝」*nja, *naʔでこの音が近いから、これを借りてきたと、もしくはBaxter-Sagartだと、もうこれと全く同じ*naʔで同じですが、それはちょっと学者により違いますが、音がかなり近かったから、こうだと「女」から借りてきたと、

それで「如」*nja, njas, *naですけども、音が似てるから「如」や「汝」という言葉を表すとき「女」はよく使われたと、それも一つ申し上げておきたいんですが、

この字型だけを見ると分からないです!つまり、その「汝」でこれ使われて場合も、本当に「女」として使われている場合も、「如」と(して使われている場合もあり、)

結構「如」という言葉でこの「女」がよく使われたから、もうどんどん簡単に簡略化されて、これになってきて、最後はこの頭と足のところが、これはちょっと頭ありますが、まだあるけど、これがここに来ちゃうんです。

我々が横の棒だと思っているものは、こう頭と足ですよ! 左側が頭、右が足でこれウィーンと九十度回転しちゃってるということで、

最後これはもう本当に秦に近い頃の漆器に書かれた文字は、もうほぼ我々の「女」字で、これ読めると思いますよ!

皆これはちょっと読めない。金文や甲骨文を知らなければ、こっちは読めない! でもこれは「女」と読めますね!殆どの人に見せたらね!こっちはちょっと厳しいけど!

こんな形でこの部分がこうなって、ちょっと傾いて、まだ頭がこっちにある。隷書で最後は水平になると見て来れたんですけれども、

それでまあどっちかといったら、この「女」の形は点点があれば、「母」という字に近いわけですね。我々が使っている「母」もこういう点点があれば「母」だと分かると思います。

といった形で見れてこれたと思いますが、本当にこの今回「委(倭)」と「奴」に関して、語れたと思います。音から言えば、

ちょっと(中古音に由来する)「わ」と読むのは、微妙なんじゃないかと考えていこうという話と字源を見れてこれたと思います。

そしてこの「な」、まあここでは「ど」とか、我々は読みますが、この言葉が先ほど、会意形声字かと申し上げましたけれども、

この「女」を捕まえるから、それで女性の方から男性にも広がったという考え方と、

もう一つ考え方が出来まして、「女」に「又」と書いてありますが、「又」の方がこの手の形の方が意味を加えて、

この実はこっちの「女」の部分は、これ「女」という意味じゃなくて、

今の中国でも「合」の下に「手」を書く「拿」、もしくは古い形では「奴」の下に「手」を形「拏」、もしくは、「如」の「又」が「口」になって「手」を書く形「挐」でも、

要するに逆にこの「又」が「手」だから、二つになりますが、後で加えて、それは持つという意味があり、今の中国語でも「拿(挐)」náですから、捕まえるとか、 持つという意味があり、そう(「女」は音を仮借しただけで)漢字が構成されるという考え方も取れると思います。

ここで一つ面白い資料がありまして、この「奴」に関してちょっと見てみたいですが、

実は先ほどは春秋戦国時代のこの辺りを出してお見せしましたが、実は甲骨文もこの字「奴」らしき字がありまして、ちょっと見てみますよ!ここなんですよね!

《甲骨文合集》八二五一番では、「王占(うらな)いて曰く、吉。奴」とこう出てくるから、これは人名「奴」なのかでちょっと微妙なところでありますけれども、

それで《甲骨文合集》22462番において、人が後ろで手を縛られた形で「十四」と書いてありまして、これは「奴」じゃないかということでね。二つ文字があって、しかも、この形に近いものは、西周初期の金文にも人名として出てくるんですよね。「女」に「又」という形でして、

それで西周中期の農卣(ゆう)には、ここに出てくるんですよね。「帑」これ見ますと絹の布みたいなものじゃないかと、それを上げたという形で書いてあるんですよ!

だから、これは微妙に「奴」ではないのかなということでして、

もう一つ面白いことに、先ほど見ました「母」は「毋(なか)れ」という意味で使われています。ちゃんと「女」に乳房が二個ついている!ここにもということでこれも見れたというのが面白いですけれども。

それで見てみますとね。春秋戦国時代あたり、面白いことに点がちょっと入ってるんですよね。これ「寸」みたいな形で、こちらもこちらもこうで、こちらもそうです。これは「寸」みたいな、「女」に「寸」ですよね。「又」ではなくて!

厳密に言えば、これもそうかも知れないです。これもそうですね!

それでかつこの包山、郭店、楚簡の中において「奴」という字は「如」でも使われ、それも面白いことでして、

まあ、この「女」*naʔ, *nraʔの部分は、「女」を捕まえるというより、声符といい、この字の音が大事だったということ、

それで「又」が付いてるのは、実際に捕まえるという意味で*naʔ, *nraʔというこの部分の音が、先ほどのように捕まえる意味(の言葉)ということ、

キャプチャーでして、やはり「女」というより、声符として、音として使われて、それでこちら(「又」「寸」など「手」)が意符として、意味として付けたとも、こちらの資料で見てまいれたと思います。

そして、遂に最後の二文字「國」「王」を見ていこうと思いますけれども。

それでいつもの通り、先ずこの字型からいきましょう!ということで行こうと思うんですけども!

この「國」とは、こういった字を使いますけど、実はかなり古い時代の金文では、この「或」という字でここに「土」をつけて、これ「域」で書きますが、そうした意味で領域の意味で使われていたわけですね。

これはこの部分の部品、これ何だと言いましたら、この戈(か、ほこ)という、この武器ですよね!

それがここにこの部品があり、この部品、それでこちらの中にちょっとある丸の周りに四本あるとは、これは大体、都市とか、そういう城壁とかの囲いですね。

周りにこういう風にあることは、もしくはここにはありませんが、何を意味しているかというと、

ある領域をこの武器で守ってるような形でして、そういった意味で武力を行使できる、もしくは防衛をできる範囲で言う意味でして、

この「域」が作られ、「邑」という人が座る形があり、それでここに「邑」がありましたが、そういった形の場合もありましたけれども、

まあ基本的には、こちらの字が更に領域をもうはっきりさせようと、国構え「囗」とよく我々が言いますが、

更にこの部品を中に入れて、こういう風に囲って、そうした囲い方がこちらが中が外れていたりとか、

まあ、異体字で楷書で「匡」は、国構えが閉じていない形もありますよね。

それでもしくは、ここしか無いのとか、半分だけの場合とか、 こっちが空いていたり、まあ完全に閉じているものもありますが、

そういった形でこの「或(域)」という字、もしくはそこから「國」*kʷɯːɡ, *[C.q]ʷˤəkですけれども、「域」はこれ「或(ある)いは」という言葉で使いますね。これ、この漢字!

まあ、あまり(漢字では書かず。)日本語で平仮名で書きますが、

漢字で書こうとすれば「或(ある)いは」!

今でも中国語では「もしくは」という意味で(「或者」「或許」など)「或」を使いますが、それで見てみますと。音が相当近かったと!

「國」*kʷɯːɡ, *[C.q]ʷˤəkのkをgに変えた「或」*ɡʷɯːɡ, *[ɢ]ʷˤəkで音は「有」*ɢʷɯʔ, *[ɢ]ʷəʔ、実際に日本語でも「あるいは」と言いますが、「有(る)」という意味でしたが、

「有無(あるなし)」の「有」と関係する言葉で語源からは、漢字を当てた時にまた別のものに当てられたから、

全然違う概念だと捉えられてしまいましたが、

語源的にはそういった関係性があり(金文で「有」*ɢʷɯʔ, *[ɢ]ʷəʔは「又」*ɢʷɯs, *[ɢ]ʷəʔ-sとも仮借されて音が近いです。)

これでちなみにこの「土」が付いた「域」という字は、このkを大文字のɢに変えてちょっと音が違うんですよね。

しかも、rがここに入って、もう*ɢʷrɯɡ, *[ɢ]ʷrəkで音が近いんですけれども。

漢字の諧声系列といい、同じ部品、この部品があるんだけど、「土」が付いたり、このまま使ったり、国構え「囗」が付いたり、少しずつ後で文字を書き分けた時に国構えを付けてゆき、この国という意味で使っているよと確定してたと言えるんですね!

そこでこの玉戈をちょっと見てみたいと思うんですよ!

それでこういった形ですが、本当にこれを見ますと、先ほどその刃の部分は、ここでここに柄がついてますよね!

それでここのところに房や糸が付いていた李、ここの部分に当たりますが、

更にそれを甲骨文などは骨に刻むから、簡略化されてこういう形、

もしくはこういう形でこの部分が先ほど見ました刃物の部分ですよね。

更にここになりますとこういった形で国の右側の部品でありましたよね!

それでこういった本物を見ますと、先ほどはこの部分しかなかったけれども、

ここは戈頭と「頭」という字で書いてあり、この部分が「秘」と言い、ここに「秘帽」、帽子がかぶさり、ここは鐏(そん)という、やはりここにキャップが付いてる。

こういう形でこういうもので、大体個々の部分は木とかでできているから腐っちゃって無くなっちゃうけど、

後の時代になると一本のこの部分じゃなくて 、L 字形になれば、木に嵌めたときに外れにくいと、より密着して、こういうL字型になって、

先ほどはもう古い状態だったから、この部分しかなかったけど、L字になって、それでここの所にやはり「戈」gēということで、あ!日本語ではこれ戈(か)と言いますが、中国語gēという発音だから、中国語と頭の中で混ざっちゃった!すみません!

それでこういった字ができていると、面白いことにこの部品とは、「武」にもあり、更に言うと、この部分に当たりますね。印の中で、この部品があり、足「止」で武器「戈」を持って行く、武力を行使する意味だから「武」ですよね。

これ武器ですから、更に漢印になると、こちらで秦印が、これは秦の時代、それで少し後の漢印になると、

この「戈」の部分が可愛く、人が走っているみたいに見えると!

頭で手があるみたいで足みたいでちょっと可愛らしくなっちゃった!

この下にこれ元々足の形「止」をしてまして、こうだったと言えると。

まあ《春秋》という書の中には、この「武」と、その戈(矛)を止めるから武といいますが、

とんでもない! 甲骨文から言えば、逆でこの足があるから、どんどん、どんどん、攻めてく、武器を持って歩いていくという意味だから、

むしろ積極的にこれ武力を行使する意味だったと言えますが、

春秋時代ぐらいには、漢字の字源が分かんなくなって俗説も生まれたことをちょっと小話として、お話しておきました。

そしてこの「国」という字が、じゃあ、どこで出てくるのか、実際に保卣《殷周金文集成》5415の金文で見てみたいと思うんですけども。

それでこの中でここにここに出てきたんですね。

東国と東の国として出てくるんですね。こうした地域や「國」がある領域として、きちんと使われていたことが見て取れると思うんですよ。

この何尊《殷周金文集成》6014はかなり西周初期の金文ですが、ここで面白いことに周の首都の名前「成周」が出てまして、

更にこの何尊はものすごい重要でして、初めて「中國」という言葉が出てきた!どこで出てきたのかと!?

私はパパンで見つけちゃうんですけどね!この形!ここにありますよね!

これが歴史上に初めて現れた「中國」ですが、国構え「囗」がない形「或」で出てきてると見て取れると思います。

しかも、この中で「珷」を見つけちゃいましたが、武王なんですね。

先ほどのこの戈があり、この武王が周の一番初めの王さまですよね。殷を滅ぼしたことが書いてあるんですよ!この武王が「克大邑商」

中国人は殷王朝のこと「商」と申し上げましたから、この中に武王がもう「大邑商」、殷を滅ぼしたと書いてあるすごい大事な金文です!

もうびっくりしちゃいまして、一つ前の金文では、ここにちょっと抜き出しておきますけど、

「殷東國」と「殷」という言葉がちゃんと書いてありますけれども、

今見た二つの金文には、重要なその周王朝の「周」と「中国」ともう一つ「殷」とあと「国」という言葉が全部出て来ているとすごい面白い金文だったと思うんですよ!

それで、私ちょっとに今気づいた 文王という周王朝を開きなさいと「受命」という話、前回に封禅の話で受命と話しましたよね!

天からあなたが天下を治めなさいと受命した話は、実際に書いてあるんですよ!ここにこれがそうです!

ここの所に書いてある話は、私一つちょっと書き間違えちゃったのが、申し訳ないですけれども、

文王とは、当時、文王と武王だけは、周王朝を開いた二人の重要な王さまは、「文」と「王」を合文「玟」でそれも前でてきましたよね!

二つの文字を一緒に書いてしまう、本当に特別な王さまだから、この武王「珷」と文王「玟」は、先ほどありました戈の形が一緒にあった!こっちは「文」と一緒になってますけども、

ここは文王でこちらは武王と「武」と書くべきが、この「文」になってしまいましたが、ここに書いてあることが、

天から天下を治めなさいと言われて、それ武王が殷を滅ぼしたことで成し遂げた!

周王朝をなしたとちゃんと書いてある、この金文はすごく大事でして、

しかも、中国がもうもうすごい大事にして、私はこの「中国」を治めている「余其宅𢆶(玆)中或(國)」とはっきり武王が述べ、それを天に告げたこと「則廷告于天」を書いてあるんですよ! これで民を支配していること「自之辥民」を報告したと!ものすごい金文でして、

これは「中国」が出てきて、もう武王の時代には、自分たちが治める場所は「中国」だと、真ん中の國という意識が見て取れたと思います!

そこでもう一つこの「王」という文字、じゃあ何だったかちょっと振り返って見ていきたいと思います。

そしてこちらで「王」は出てまいりましたけど、

この「王」も実はもう謹賀新年の特集の中で「王」は鉞だと出てきましたよね。

「戈」を説明した時に「王」も出てきましたが、

それでこれ見ますと、本当にこの形は鉞(斧)の形でもうさらりと話してきましたが、一つ面白いことがありまして、この「王」の一番上の棒を抜いた形が「士」もこの鉞の形をして関係する文字でして、

この「士」*zrɯʔ, *[m-s-]rəʔに関しては、また別の字形とは別の語源がありまして、

例えば「在」*zlɯːʔ, zlɯːs, *[dz]ˤəʔという字、これ前回ちょうど出てきましたね!

「在」、本当は災害の「災」と音が関係して出てきましたけれども、

今、我々は「在」*zlɯːʔ, zlɯːs, *[dz]ˤəʔと書くときは、「才」に「土」を書きますが、

この(長さが「士」と)逆ですが、この部品が入って関係していて、

人偏をつければ仕事の「仕」*zrɯʔ, *[m-s-]rəʔという字も「仕える」という意味があり、音がよく似ていて、しかも古い漢語では、接尾辞をつけて、意味を少し変えられて、

仕事という言葉を日本語で使いますが、中国では(「工作」を使い)「仕事」という言葉は使わないですが、

偶々この「事」*zrɯs, *[m-s-]rəʔ-sという字、仕事の「仕」と「事」は両方とも仕事という意味でまとめてしまいましたけれども。

仕えて何らかの業務を行うことです。

だから、そういう意味の言葉から来てるから、全然語源は違いますけれども。

だけど、どっちかといえば「仕」とは「在」「士」「事」という字と関係あることも見て取れたと思います。

ですから、この鉞を付けている形は、「新」という字を(謹賀新年の特集で)分析した時に見ましたけれども、

薪を作るとかに使われたから仕事に行った可能性もあると見れました。

それともう一つここにちょこんとある部品「或」という字は、実は西周初期までしか遡れないですが、甲骨文の中にも多分これは「或(國)」という字で使っていた形の文字がありまして、

それでこれは四角くなるのは、水偏にこの部分がちょっと微妙に分かんない、要するにこちらは「水」であるから、地名とは分かるんですね。

要するに、この「水」は川(の名前)の意味をして、ある領域を示してる可能性がありますが、特にこの甲骨文は断片的で楷書化しましたが、

ここは干支が書いてあり、「卜(うらな)う」、「貞」で前回出てまいりましたね。占いのした人の名前「古」ですね。貞人と言います。

それでその後に「在」でてきました。

これにこれを付けるから、この「在」があると、

こちらでは「才」*zlɯː, *[dz]ˤəという字に当たるんですよね。この部分ですけど、

こういった形で「在」はもう甲骨文の時代から、既にこの「在」という字は 「於」という意味で使われた虚詞でして、

虚詞とは文法的な意味を表す、英語atやinとか、どこという(前置詞)から、この後に地名が来ていまして、やはり間違いなく水の名前ですから、「國」という意味で使われる可能性もあるということですね。

そういうことはちょっと見れまして、

でも、不確定で微妙ですから、原文を持ってきて、こうした説明をする留めました。そういった形でちょっと今、甲骨文に行きましたが、

ちなみに「王」すごい大事でしたね!一番大事なことを言うのを忘れましたが、

この「王」が、もう実はこれもう謹賀新年の特集で「新」を見たとき、鉞が出ていて、これが王権の象徴だから「王」だということ、

「士」は鉞を使った仕事から行ったかなと言いましたけれども、

この「王」の方は、王権(特に統帥権や裁判権)の象徴として、この鉞があったから、

これは青銅ですが、この戈と同じく、鉞も玉で作られたこともあり、

まあ、それは本当に使えるものとしてじゃなくて、儀式とかで王権の象徴として、大事にされ、「王」という意味にもなりまして、(「父」も「斧」から来ており、家長を象徴したとも考えられます)。

そしてまたこの金文(保卣)にまた戻ってきましたが、

先ほどはこの「國」という字だけを見ていこうとパパーンときましたけど、

今度はこっちで「王」の方を見てゆきます。

それでこれ見ますと、この保卣《殷周金文集成》5415は重要な金文でこれ何を意味してだかというと、史書の中にも書いてありますが、

まあ具体的に言えば、司馬遷の《史記》などに書いてありますが、《殷周金文集成》とありますが、

殷から周に行くとき、実は殷王朝を滅ぼした周王朝は殷から見れば、自分たちが治めていたが、いきなり責め入られて、初期の頃に抵抗して「三監之乱」と言いますが、

周の王朝が古い殷の勢力を監視するために送った「三監」の「監」は「監視」の「監」たちが殷の古い勢力と結びついて抵抗してきたと、

その時に「周公東征」、周の王さまに関係する人が、殷は周から見て東にありましたから、

それで東に征伐したときの事も、金文にちゃんと書いてあり、「殷東国」東にあるその殷の領域や勢力を言っています。

「國」はどう解釈するか、単なる地域として解釈するか、人間がそこに住み、そこには一つのその勢力があるという意識がありますね。

単なる領域、ドメインという意味じゃなくて、それで実際にそういう意味で使われていると、

実は殷の勢力という意味とも、この「國(或)」は含意していること。

「保」が大事でこの人が平定したことを褒めたと書いてあり、

この青銅器を作って、この金文で記録を留めたと言えるんです。

「保」という人で大事なのが、「燕」という国が戦国時代にものすごい強くなり、「燕(つばめ)」という字を書きますが、(金文では「匽」で山東半島の地名「奄」に由来)、今の北京や河北省に位置しますが、

そこにありました戦国時代にものすごい強い勢力を持った、春秋時代は十二列国、戦国七雄の中にも入っていて由緒ある。

しかも、それが周の王室とも関係があった「保」という人(周文王の庶子である召公奭)が始めたということでして、

そういった重要な金文でして、もう殷から周にいったとき、色んな出来事をよく記録してくれて見れたと思います。

そして何尊《殷周金文集成》6014にまた戻ってまいりましたが、もうこれが私がもうすごい注目して大事だと思っているのは、

この文王(玟)が天から、あなたが天下を治めなさい「文王受命」という有名な話から始まり、それで文王は少しして亡くなりますが、その文王の子どもの武王(珷)が、もう本当に殷を克したこと、

先ほど殷という東國の殷と出てきて、こういう字を使って書いてましたが、本人たちは殷の人たちは自分たちを「大邑商」と呼んでまして、

それで大きな邑、要するに大きな都市の所にあった「商」と言っていましたから、そこを打ったという「克」ですから大事なことを記録して、

かつここで天に向かい自分は中国を治めてるんだと言ったと、

本当にもう周の武王の時点では、自分たちが治めるこここそが真ん中、世界の中心という意識を持ってたことが、本当に見て取れて、

これはもう「中国」という言葉の初出、最初に出てきた金文というだけではなく、もう周の王朝が何故できたか、その周の人たちはどう考えたかとよく記録していて、本当に貴重でありました!

もう、我々がやってまいりましたKF-Ars Sinica、中華文化、中華とか、中国はどういう意味か、その意識がはっきり金文にも鋳込まれていて、

今にも伝えられていて、周の最初の頃、もう今から三千年も前の話ですが、そこの時点でもういった意識があったこと、

本当に今回もどんどんどんどん盛り上がって最高潮まできて、もうそろそろ爆発しそうなところまで行きましたけれども、中華文化!

最後に戻ってみたいと思うんですよ。

何にかといいますと金印!

戻りましょう!

といった形でこの金印で私たちのKF-Ars Sinicaが始まりましたが、

それでやっとこの色んなことを見てまいりました!

最初はこの印、そのものの話から、これはどういう印なのか、鈕の話から入ってみたり、

これで印面の篆刻という、そういった芸術的な面から見て、この漢字がどうしてこういう美しい形になってるか見てみたりとか、

そこから始まっていき、いや、この漢字の美しさは元々、字源から来ていると、漢字という文字自体が相当このユニークだと、

その象形文字、象形性があり、そのことが漢字の運命を決めてたとか、そのユニークさは、そういったことを、そこから字源の方でも、「漢」で大盛り上がり!

そして今回はこの最後の四文字を、この四文字に関しては、すごく昔からよく何の形を象っているかは分かっていて、さらりといきましたけども、もう爆発しましたね!

「漢委奴国王」という一つの題から、もうあっちこっち行きまして、

最後、今回も、前回も、中華、中国という、 そういったものは、どういうことなのかとか、

そういった玉に関係していたとか、(漢民族は)非常に玉を愛した民族で黄帝の黄色、「堇」とは何だとか、色々やりましたけれども、

それで今回も全てできたと思います。

これでやっとこの「漢委奴国王」の金印シリーズは完結できましたが、

こうしていく中ですごい思ったことありまして、

もう、我々この色々な漢字を見ていく中で色んな概念がありましたから、

本当にもうそれらを折角なら、逆に今度は漢字そのものに注目をして、

この漢字のシステム、漢字のユニークさを取り上げたいという気持ちが高まってまいりました!

そして、その中で漢字は大きく分けて、三つの要素があったと何度もお話してました。

先ずは、字形、字の形と、字音、字の音、音韻に関係すること、字義、その字が持っている意味、

元々言語とは、まあ音には必ず意味を伴う、それが言語の本質ですね!

漢字ができる前から、もう中国にいた人たちは漢語、中国語の先祖となる言葉を話していましたから、

そういう時代からも、文字があろうがなかろうが、

音は必ずその言語の中でおいては、意味を伴うわけです。

人間が何かの意思を伝えようとしたとき、その先ず伝えたい意味の内容があり、それを音声にして相手に伝えますから、

今私もそうしていますが、それに後で文字がついてくる。後で字幕が付いてくるということで、見て頂きたいと思いますが、まあそれは半分冗談で宣伝ですけども(笑)

それでそうでして、漢字自体はその三点に絞って、どうなっているのか、これからやりたいということを、「漢委奴国王」から発展して、

更に今度はそもそも文化とは、「文」なんです!

そもそも文字ですよね。やはり本当に大事な概念です!

今度は文化の根本となる文字やりましょうということで是非とも、是非とも、ご期待下さい!

もうこれからが本領発揮です!宜しくお願いします!ということで、

もう本当に良かったです! もう「漢委奴国王」を完結できた!良かった!

もう、これで大役を果たしましたと思いきや! もっと大きいプロジェクトが始まっちゃうということで、

もうこれからKF-Ars Sinica、ものすごい炸裂します!

どうかチャンネル登録を宜しくお願い申し上げます。

それに加えて素晴らしいお話をやりますから、友人にもどんどん宣伝をして下さい!

ありがとうございました!

2021年3月30日

「奴」が呉音「ぬ nu」に対して、漢音「ど do」である問題が自己解決しました。上古音と中古音、呉音と漢音について話していたときには直ぐ思い当たりませんでしたが、比較言語学により、中古音を再構したカールグレンに対して、約百年前(1920年)にマスペロが突き付けた話を思い出しました。

日本の呉音は少し古い南の方の音、漢音は唐代の長安の音とお話してきましたが、 中唐(8世紀頃)の長安あたりの西北方音に鼻音が鼻濁音を経て濁音になる現象(非鼻音化、m→mb→b、n→nd→d)が起き、梵語や蔵語の仏典の音写において「娜」「泥」「努」「怒」をnであるはずがdに当てられます。
また、唐代の長安人は、昔に秦が陝西を本拠としていたことから、秦音と呼び、都の雅な言葉と認識していたそうでして、その他を昔に呉が江南を本拠としていたことから、呉音と呼んでいて、それが音博士や遣唐使によりもたらされて、日本の秦音→漢音、呉音という名称に引き継がれたようですね!

《日本書紀》に乙類の「廼(の no, ど do)」と甲類の「奴(ぬ nu, の no, ど do)」として使われる上代仮名もあり、その他に「娜(な na, だ da)」、「魔、磨、麼(ま ma, ば ba)」、「涅(で de, ね ne)」、「泥(ね ne, て te, で de, ぢ di)」などが用いられていたりします。
この非鼻音化は《古事記》には起きていないため、少なくとも《日本書紀》は、唐代の長安の音に触れた人により書かれたのに対して、《古事記》(の原資料である《帝紀》《旧辞》や古代豪族の系譜資料の人名音写など)は《日本書紀》より成立が古いことが分かりますね。

馬(中古 mˠaX)が殆どの漢語方言でmの音でも、閩南語(bhê2)や日本の漢音「ば ba」でしたり、奴(中古 nuo)は、日本の漢音「ど do」となるのは、この非鼻音化で「nuo→ndo→do」と説明できます。福建の閩南語音にもよく保持されていますが、奴(nou5)はnのままです。
また、現代漢語の小さな変種に至るまで総ざらいしましたが、粤語の中にある斗門話 ⁿdou、新會話 ⁿdæu、開平話、台山話、恩平話 ⁿdu、圍頭話 du, dɐu(声調はいずれも陽平)ではnとdの間(ⁿd)の音でした!唐代の長安音を伝えたかは定かではなく、別に起きたかもしれません。

「委奴」を「いと」と読めないと主張する文脈で出てきたことでして、後漢(1世紀)には、中唐(8世紀頃)に生じた音の変化はありえないため強い根拠になります!我が家にありました羅常培《唐五代西北方音》(歴史語言研究所単刊甲種之十二、1933年)を読んで思い出しました!

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