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殷周秦漢の文字資料について凝縮いたしました。文字学は幅広く奥深いですね。漢字的獨特性系列 Unique Chinese Characters

漢字のユニークさを探究!新たなシリーズ始まりました!漢字の構造を字形、字義、字音から、漢語の系譜を起源からたどります!字幕もぜひご覧くださいませ!暖かいお言葉かけを下さりましたら、SNSでシェアー下さりましたら、今後の制作の励みになります。KF-Ars Sinica、KF-Scholaと併せて、何卒よろしくお願い申し上げます。

2021年5月21日

皆さま、こんにちは!

KF-Ars Sinicaの「漢字のユニークさを探求しましょう」というシリーズがずーっと続いておりまして、

かなり炸裂して、最近は長時間化しておりますけれども、

お付き合い下さりまして、ありがとうございます。

そういうことでマイクを買いました!

それで音がもう良くなったかも分かりませんから、

更に高音質でお楽しみ頂ければと思うんですけれども。

もう、最初は文字から始まってきまして、少し言語と文字のデュアリティー(双対性)という話に行き、

そこから大分、言語学の方まで片足を突っ込んできておりますが、

前回でかなり軌道修正をドカーンとやりまして、

筆を中心に話を進めましたが、

それは、実は、前回の最後の方で出ましたが、

文字学ということに行こうかなと思って、

それでかなり軌道修正を致しましたが、思ったんですよね!

KF-Ars Sinicaは、やはりできる限り、当時の人が考えたことを知りたいことから始まっておりますから、

だから、できる限り同時代の資料、

つまり、その時代に残された資料をものすごく沢山集めて、

それでそういった情報を元に考えたいという、

そういうことでやってるんですよね!

そうなると何が大事かというと、

何を基に考えるかということですね。

だから、その内容をこの時代は、こういうものでしたよと、

ただ、結論だけを述べるのはつまらないですから、最初から一貫しているのは、

その考える流れ、その全体を見たいとずーっと続いてきておりますが、

そうした中で、今回は、じゃあ先ずは考える最初の部分、

その資料の部分からいきたいと思いまして、

先ずは、じゃあ文字学を考えるには、どういう資料があるのか、

まあ、大体文字学は、殷周から秦漢まで、大体そのあたり、

まあ、文字ができてから、4000年くらい前から、それまでは2000年分くらいはありますが、

その中でちょっと見ていきたいなと思って、

それで「文」という字を出してまいりましたが、

もう一つ理由がありまして、

我々が知りうる限り、一番古い感じの先祖であろうかなと思えるのは、

まあ、一般的には、甲骨金文ですよね。

殷の終わり頃に生まれて、かなり残っております。

しかし、「陶文」と陶器に書かれたものは残っていて、

こちらの山西省襄汾縣陶寺遺址はかなり古い遺跡で4000年ほど前で史書の中に出てくる伝説の王さまの堯(姓祁,名放勛《文獻通考·卷二百五十·帝系考一》。甲骨金文では人の足「兀」の上に「垚」で「圥」)という人がいたとされている都(「陶唐」山西祁縣。「唐國」山西臨汾。「陶」山西襄汾縣)という人もいるぐらい、

伝世文献にある位置とこの遺跡が近いからですが、

そこに「文」と読めるだろうという朱書きで書いた壺があり、

おお!一番、まあ、これが漢字の元祖とあるとすれば、古い文字の見ることができる一つでして、ここから始まっていますが、

一般的には、こちらにあります甲骨文ですね。

それでかなり殷の終わりぐらい。

もうここからは結構、飛んでいますが、

もうこれは3500年ぐらい前だから、まあ、ここからも更に数百年も飛んでるんですけども、

まあ、その辺りから、結構、文字資料がありまして、

それは、甲骨で骨に刻まれたという形でありまして、

こちらはもう少し後(西周中期)の金文になりますが、

金属に鋳込まれた文字で、こちらもなかなか面白い!

結構な数の文字が残っておりまして、二つ出ているんですけども。

そういった時に今回見てゆこうとするのは、

どういう資料があるのか、パンパンパンパーンとダイジェストに、もう文字学で扱う資料全体を見ていけたらいいなと!

それでイメージですよね。どういう資料があって考えていけるか、全体をいきたいと思うんですよ!

それでもう一つあって、じゃあ、そういった資料がどのような文献にまとめられているのかも含めて見ていきたいと思うんですけども、

まあ、ちょっと入っちゃうと危ないんですけど、

この金文(追簋《殷周金文集成》4222)を取り上げた理由が面白くて、

この金文の中にある、その「前文人」というところ、我々が見ております「文」という文字のここにも甲骨にも「文」がありますし、

「文」ということですが、

基本的に中華文化においては、もう古代の中国にいた人たちは、

歴史をやがり文字で伝えるということですから、

その文字を使うことができた人たちは、ものすごいやはり尊敬され、

その文字に対する意識や愛着も深いということなんですね。

それはどうしてかというと、ここにも出てくる「前文人」とは、偶々、面白いことに《尚書·文侯之命》「追孝于前文人」という古い歴史書の中の《周書》の中の《文侯之命》がありますが、

この文侯とは、晋のでして、これも、実は伏線があり、前回でました周の王室から分かれた晋という国の文侯ですが(《史記·晉世家第九》)、

文章がもう本当に同じようなものが出てきてるんですよ!

同じように意味で同じようなテクストで出てくるということで、

非常に面白い!オーバーラッピングしてくる! 今まで、出土文献とを伝声文献のオーバーラッピングもやりましたけれども。

それでこの「前文人」とは、やはり、それは元々昔の賢人たちという意味を持っているんですよ!

それでこの中では、もっと具体的に《尚書·文侯之命》の中では書いてあり 、「文武」とは、文王、武王という、殷を倒して、周の王朝を開いた人たち「追孝する」とは、先祖を大事にすることで、

先祖をやはり祭祀することは歴史を伝えていくこととイコールでして、中華文明では、単なる昔の人はこうだったと言うではなく、祭祀していく権利とか、継承していく権力であり、

それは支配権のよりどころとしていたから、ものすごく大事だったと!

それを伝えるのが文字だということで、

こういった金文自体は、そういった意味でよく金文の最後に「其萬年,子子孫孫,永寶用」 もうずっと万年だから、もう一万年後でも伝えて、子孫がずーっとこれを青銅器を用いなさいと書いてある。

言ってみれば、金文ができた理由は、祭祀をしていく、元々こういう簋という器は、祭祀の時に使っていた、

例えば、穀物などを盛ったりする意味で作られたものなんですよ!

だから、そういった形で残ってことで面白いじゃないかという事です。

それと甲骨文に関しても、やはり祭祀に関係して、占いに関係していたり、

先祖を祀るために、そうした内容が刻まれていて、

まあ、少なくとも文字資料が残っている状況をみても、

明らかに先人たちの遺徳を伝えたいとか、

先人たちを祭祀することから来て、そういう資料が沢山残されていて、

伝世文献に関しても歴史書という形、またこうした金文や甲骨文もそうでして、

先ず(文字資料に対する)イメージができてくると思うんですよね。

それでここの下にありますこの形は、ここにもありますが、

これは甲骨文の生の拓本、本当の拓本、もしくは、こちらは、金文の文の本当の器で、その中にある写真は表面が文字は引っ込んだ形であり、

これに紙を張って、こういった拓を取ります。

これらの拓本やこうした文字の例は、どういう資料か、ちょっと見てまいりたいと思います。

こちらが甲骨文で、先ほどはここだけをちょっと切り取りましたが、「文」とあるんですよね!

一般的には、刻辞といい、ここに占いの内容を書いてありますが、

裏側のここが部分に「文」という文字が刻まれていて、

これが本当の拓でありまして、

こうした拓は、《甲骨文合集》という、中國社會科學院考古研究所(胡厚宣主編)が編纂してくれて、

もう今まで伝わってきた甲骨文を全部に番号をつけて整理してくれた感謝していまして、胡厚宣《甲骨文合集·釋文》も出しました(また、姚孝遂《殷墟甲骨刻辭摹釋總集》、曹錦炎、沈建華《甲骨文校釋總集》、陳年福《殷墟甲骨文摹釋全編》も甲骨文の釈読に優れています)!そして次にいきますね!

こちらの金文が、先ほどの左側にありました金文ですが、

こういった形でこれも考古研究所が《殷周金文集成》という形でやはり金文もまとめてくれた感謝いたしますと紹介していますが、

これが先に出していた拓でちゃんと番号をつけて、

全て通し番号ついています! そして釈文も付いて出ていまして、

私はこういった資料から取っており、

実はこの追簋と読み、その蓋ですが、

ものすごい数の同じ銘文がありまして見てみますよ!

こちらは、少し書風は違うんですけど、

こちらは、少し細身でして、

これで結構、文字が少し壊れてしまっていたり、錆がありまして、

もうこれ3000年近く前のものですから、もう土に埋まっていたわけですから、

結構(壊れているところもありますが、)でも文字が残ってるんですよね。

こういった形、これもまたそうなんですよ!同じ!

ここはかなり損傷が激しくて、

まあ、これは比較的綺麗に文字がピカッと見える良い状態で残ってますね。

ここはちょっと悪い状態ですよね。

次行ってみますよ。

こちらも見ると、なかなか、これも綺麗によく残ってますよね。

ところが、こちらですが、

ちょっと問題があり、私はこうしたものを見るとパンと分かりますが、

これは本当の金文ではないんですよ!

やはりよく書道で言うと、肉質で書かれたものを当時はコピー機はありませんから、石に一回転写して彫り、また拓本をとる形を取ったり、

もしくは木版であり、こういったものを複製しましたが、上手く行ってないと!やはり線の流れなどがおかしいんです!

要するに石や木に刻むとき、誰かが搨模、真似して書いて刻んだと思われ、筆意が異なっていって、まあでも、歴史的な資料としては、これは価値がある場合があり、

何故なら、ある程度の字形や文章の内容は伝えてくれてますから、

しかし、筆意や細い線の流れなどは、かなり壊されていまして、

私も、王羲之の法帖でも、そうですが、肉筆(王羲之の場合は双鉤填墨本)を見ないとダメだと!

やはり法帖の形で拓本では、かなり元の筆意は壊されてしまいます。

線の流れは変えられていると見ていけると思うんですよね。

ところが、まあ一つちょっと面白いことがあり、

こういった金文は1000年くらい前に、宋の時代にも結構出ていて、

その頃にもう今はその本物は伝えられていませんが、

こういった拓で残してくれてた呂大臨《考古圖》(王黼《宣和博古圖》、趙九成《續考古圖》、薛尚功《歷代鐘鼎彝器款識法帖》、王厚之《復齋鐘鼎款識》、王俅《嘯堂集古錄》)などの本の中にありますが、

その中には、もう今は本物の器がなく、そこでしか伝わっていない金文もあり、歴史的な資料としては、文章の内容が分かる意味では、金文のある程度の字形が分かる意味では価値があると付記しておきました。

そして、こちらなんですけども、

先ほども《殷周金文集成》で、それはどこに収蔵されているか、もう全部書いてくれてるんですよね。

それでこういった形で見ると非常に価値があり、

こういったデータを全部見ながら、これが金文を研究していく上での基礎文献となると見て参れたと思います。

そして、こちらでは、金文とは、金属で作られた器にあったりするものなんです。

それには結構色んな種類があって、

もうこの「壺」の形に関しても、これだけ数があり、

それで色んな用途があって、ものを煮るとか、ものを入れるとか、匙とか、そういった、色んな用途であって、それが金属で作られていて、

これだけ種類があって、まあ一番有名なものは、この「鬲」*ɡ·reːɡ, *k.rˤekという形とか、

あとは「爵」でしょう!爵位と言う言葉がある「爵」*ʔsewɢ, *[ts]ewkですね。

それと「尊」*ʔsuːn, *[ts]ˤu[n]という青銅器もなかなか有名ですし、

そしてここらにありますのが、これとこれですけれども、

「簋/𣪘/皀」*kʷrɯwʔ, *kʷruʔという、先ほど例で出した食べ物などを盛る形でして、

食編がありますが、「食」*ɦljɯɡ, *mə-ləkは基本的には、上の屋根の部分が、蓋の部分で下の部分が、これでこの器のカップの部分でして、

食編の「食」という字もここから来ているという事が分かりますが、

まあ青銅器で一番有名なものと言えば、この「鼎」ということで鼎ちゃんをちょっと見たいと思うんですよ。

鼎がどういうところから来て、

青銅器になったのかっていう、

青銅器を作ることは、結構大変な技術ですし、

それでやはり祭祀に使うような威信物ですよね。

もともと青銅器で作られているものは、かなりゴージャスであって、

もともとは、こういった土器の形で(鬲や鬹と似ている)三本足のポットですね。

それでこれはものを煮るために作られましたが、

こういった形で足が立っておりまして、

ここ全部元々、殷より前の時代の様々な龍山文化(前3000-2000年頃)とか、新石器時代の長江黄河文明でよく使われておりましたけれども、

殷王朝になる少し前の二里崗文化(前1600-1400年頃、殷の都城「亳」に比定、《國語·周語下》、《甲骨文合集》36567「在商貞… 步于亳」、また、二里頭文化、前2100-1500年頃、夏の都城「斟鄩」に比定《逸周書·度年》)で青銅器という形として作られるようになりました。

鄭州後期とは、これ殷王朝の遺跡ですが、殷(の盤庚)が遷都をして、滅んだ時が安陽という場所にある殷墟ですが(《古本竹書紀年》「盤庚旬自奄遷于北蒙,曰殷」)、そこに移る前にこういった形になり、

それでそこでも青銅器という形になり、それでこんな形になり、

更にこんな感じになって、少しずつ時代によってファッションが違いまして、大きさや形が変わってきていますが、

そうすると今度は鼎ちゃんの文字がどうか見たいですが、

こういう形でこういった本物と文字が似ていて、

それでしかもこの耳のところが、このように文字の中に入っていて、

おお!鼎だ!という文字はこんな感じになりまして、

甲骨文の中で、特に占いをする時の「貞人」と言う、「貞」、「貞める」読みますが、

もともとこの青銅器を象ったこういった文字でしたが、それが音が似ていて借り、仮借して、ここに書きましたが音が似ているんです!

「鼎」*kleːŋʔ, *tˤeŋʔは、漢蔵祖語*m/ʔ-dik/ŋから来ていて、占いをする「貞」*teŋ, *treŋと音が近いんです!

だから借りたということで文字の関係とこういった本物の土器なり、青銅器なり、非常に対応があるということで見ていけたと思います。

そして、今までは考古学的な資料として、

どのような器物か、本当に見てまいりましたが、このスライドからは、そこに刻まれた文字がどのような形でまとめられてるかを含めて、

それと色んな文字を考える上で、もう引用してきたから、ここで一つ、

参考文献(Bibliography)として、もうありがとうということ(acknowledgements)、

もう、文字学者の方々に感謝を込めて、

こういった畢秀潔《商代金文全編》、まあ殷のことですね。

それと董蓮池《新金文編》、こういった形でちゃんと楷書と小篆があり、

ここにその文字がきんと、金文の本当の拓を全部切り貼りしてくれて、

だから、本当の字形が分かるということで、

私はいつもこうした資料の中から、これを白黒を逆に反対させ、それを使いましたと、こうした資料でちゃんと「文」があると、

もうずーっと、もう文化、中華文化、文人、その「文」で来ていますから、こちらを見てみたいと思います。

劉釗《新甲骨文編》は、こうした形でまとめられて、先ほどの甲骨の通し番号と全てちゃんと対応してシステマティックに見られます!

だから、すごく研究するときにこうした文献の整備は重要なんですよ!

こうした資料が整備されているから、研究しやすいということですから、もう大感謝しております!

ところで、ここで湯餘惠《戰國文字編》とありますが、

先ほど一つ前のスライドでは、

董蓮池《新金文編》は殷の時代(殷墟に遷都した前1300年頃)から始まり、もうずっと戦国時代に秦が統一するまで(前221年)の結構長い期間なんですよ!

もう1000年まで長いスパンの金文を全部収録されていますが、

特に戦国時代は文字がものすごいとずーっと話してまいりましたが、

複雑だということで、こういった形で場所なり、どの国で使われていたかを含めて、

きちっと分類をしてくれている字書があります!

ということで、これもすごく使える字書ですが、

次はここで戦国時代にフォーカスして見たいと思います。

こんな感じなんですが、

基本的には戦国時代は、もう周王朝に成り立ちから考えると、

基本的には、もう中国のかなり広い部分を支配していたと思いきや、

結構、周王朝の構造は、周りに諸侯が沢山いて、

元々その王朝ができた最初から中央にいた王様の周りに沢山の諸侯がいる小さい国が沢山あり、

周の王が封じるような(冊命という)形でした王朝ですよ。

だから、その周りの諸侯で小さい国が沢山あっり、

それでずっと時代を経ていくと、どんどんその小さい国がくっつきあい、攻めたりして、そのどんどん国がまとまっていくわけですよ。

そうすると戦国時代なっていくと、戦国七雄(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)など強い国が出てくるわけです。

言ってみれば企業が、どんどん小さい企業を合併してゆき、大企業ができていき、

それで市場がある意味そのいくつかの企業によって分割されるような形で最終的には、

この齊(山東·臨淄)、燕(河北·薊)、楚(湖北·郢)、晉(山西·絳)、秦(陝西·咸陽)と言いますけれども(また、前403年に晉が趙・魏・韓へ分割されて「三晉」といい)、

それで最後のこの秦が始皇帝の時代に統一を果たした!結果的に言えばということですが、本当に全部の場所は地域性がありまして、

まあ、山東省や河北省は、北の方で基本的に言うと、湖北の楚は南の方ですよ。

それでこの晉が山西省で、もうかなり古い時代から、一番の堯の都があったのは山西省ですから、中華文化の真ん中ではありますが、

それでこの秦は、統一した始皇帝の秦は、かなり西の方ですよ!

だから、西の方からどんどん東の方に攻めて統一しましたが、

そういった形で地域性がありまして、

私はすごい興味があるのが、

書法と篆刻、書と印ですから、

結局、戦国時代には、かなり商業が発達して、商人が沢山出てきて、沢山の情報をやりとりする中で封緘をする沢山の印が作られ、

それで突如としてものすごい数の印が登場してきて、

其々の国で印、古鉨、当時は「鉨(鉩)」といいました。

この字「鉨、鉥、鉩、𡊒、𡊍、㺷、尓、朮、术、璽)」ですよ!

それでこの(齊系古鉨も、)燕系古鉨も、晉系古鉨も、(楚系古鉨も、秦系古鉨も、)大体、「印式」 スタイルが全然違うんですよ!

それであともう一つは文字が全然違いまして、

意外とよく使われる文字が、結構違う形をしている!

この「鉨、𡊒、㺷、尓」を見ても(从尓从金、从尓从土、从尓从玉とあり)分かりますが、

そうした形で古鉨、こうした古い印を文字学者は分類するんですよ!

どこで使われたものか、結構、こういった璽印は、どこで出てきたのが変わらないものが多いんですよ!

結構、収蔵家が持っていて、それを全部、使われている中の文字で分域といいますが、

どこの地域に値するのかを分けた。地域を分けた「分域」をしまして、

これでこういった形で今、結果として分かっているんですよね。

それで面白い、まあ、私はこれを持ってくる中で打ってる。こちらはペチャンコで形をしているし(釈文を訂正:孫剛《齊文字編》では「右遂文𡭴信鉨」とされ、「𡭴」は《説文解字》に「穆(㣎)」に通じるとあり、「幽」「微」や前に語りました「美」に通じます。)、

こっちは今度はかなりもっと圧縮されて面白い形を取ってるし、

それでこれは長足でなかなかハンサムという感じの「文」であるし、

こちらは手がタラーンとなっていて面白い!

皆「文」ですが、中々この印の中の表情があって、

それでこれはもう語りだすと、結局、篆刻の問題でもう長くなっちゃう。今日は止めますけど、もういつかやりたいですが、

この線の流れと自由の雰囲気があり、かなり面白いんですよ!秦系古鉨は面白いことに黃賓虹という有名な近代の画家が持ってた印ですが、

まあ、秦系文字は、戦国時代のものと統一後のものなのか、印はなかなか難しい!見分けがつきにくい!

どうしてかといったら、この秦が統一してしまいましたから、

この秦の印は統一された後も、漢までスタイルできて、しかも文字自身も結構、秦の文字で統一されたから、結構分かりにくいわけですよ。

ちゃんと連続性があるから、戦国時代から秦の統一後まで、ということあって、

まあ、これは統一後である可能性もありますが、

そういった形で印も面白いということで、

これと「陶文」、陶器に箆でサーッと書かれた文字!

これ結構スカーンと書かれて、「文」とありますが、こういう文字も残っていたりして、

これとこちらの陶器に、例えばこうした印みたいなものを押し付け、陶器を作った時に、スタンプみたいにパンパンパンと押して残されていますね。これはそう見える。

陶文の中には、こういった箆で書かれたようなものと、スタンプみたいに押されて付けられたものがあり、

これで特に陶文の面白さは、やはり、陶器は残りやすいから、箆で書いた文字が、殷墟で出る甲骨文よりも少し前ぐらいまで行く(河南省偃師県二里頭遺址出土や清江呉城遺址の刻画符号などが)、陶文では残っているから、結構古い時代からありました!

戦国時代に大量にあり(特に燕や斉が多く)、注目しておりましたり、石磬(曾侯乙墓出土)は、石でできた楽器で「文」があるでしょうと!

皆「文」「文」でちゃんときているんですよね。

これは石に彫られた文字で、一番有名なものは、やはり石刻としては、(大篆の)石鼓文でしょうと、それも石に彫られたもので石刻でした。

それでもう一つここにあるのが、竹簡(楚簡)ですよね!

これは筆で書かれた文字ですから、ものすごい貴重で、こちらでも「文王」を出てまして、こちらでも「文王」が出てるんですよ!

「文王」が出てきますね!

これ《孔子詩論》は、孔子が《詩経》に関して話して論じてる竹簡の中でも「文王」が出てくるんですよ!

それでこういった竹簡も結構、今までおなじみで出していきましたけれども、

こういった形であるんだということでして、

今度はこちらの下にここに書いてありますのは、

こうした古璽にあるものは、きちっとこうした印そのもの《古璽彙編》と、

それとそれに出てくるも字をまとめてくれた字書《古璽文編》としてあって、

また、陶文にも《古陶文彙編》にこうした形で文字だけをまとめてくれもの《古陶字錄》があって、

今度はこの竹簡《上博館藏戰國楚竹書》に関しても、こうして文字をまとめてくれたもの《上博藏戰國楚竹書字匯》がありますから、

こういったものをちょっと見てみたいと思います。

これが羅福頤という有名な印学の本当に有名な人がいますが、《古璽彙編》で、私が今引用してきた字はここにありますが、

こういった形で「印譜」と篆刻をやる人は、

もう印譜(印存、印集、印匯、印苑、印録、印衆)が大事で印が押された跡。

これ、当時はこういった形で使われていませんでしたが、

印泥を赤く付けて、印の表面を紙に捺しました。

そうして印影(印痕、印蛻、印摭、印攗、印麋、印賸)を得られて、

そういった形でまとめてくれてるものと、

そこに出てくる文字をきちっとこうやってまとめてくれるってことで、

こういったこと、彼は両方やった!

もうこれ《古璽彙編》を作ったら、自分でちゃんとその文字編、ここに出てくる文字を全部抜き出してちゃんと《古璽文編》にありますが、

まとめてくれて、これもすごいですよ!これも文字学の上で考えていくうえでとても重要な資料だということで見てまいりました。

そして、こちらに今出しましたのは、

陳介祺もすごい人で、この《十鐘山房印舉》はすごい印譜でして、

ものすごい数の印を、清の終わり頃に集めたんですよ!彼はそれで全部を捺した!

ものすごく捺しまくった!

まあ、基本的には、この一頁に一つずつ捺したんですよね。

それはもうものすごく貴重なもので(十部しかなく)、

中華民国になった頃にこういった九つの格(九宮格)を作って、

その中に入れて出しましたが、

また、ありましたよね!

ここにちゃんと出てますと!

それを先ほど羅福頤という人が古璽だけをきちっと本にまとめて、

その原譜には、こんなものも更にあるんですよ!

こちら、陳介祺が集めたりした印は、故宮博物院の方に行きまして、引き継がれで、亡くなった後にちゃんとあります!

ここにちゃんと収蔵されていて、

羅福頤がやはりまとめて、それでこういった形《故宮博物院藏古璽印選》で印がありまして、

これは壇紐(壇鈕)というんですよね。

この真っ平の上にもう一段ありますよね!

それでここに紐を付ける紐(鈕)がありまして、

紐を付けていたということで、

こういった形で印が残ってるという、

本当に器形と言いますが、印の形まで見れてこれたと思います!

そして、こちらが吳式芬という人と陳介祺がまとめた封泥ですが、

もともと印は、先ほど印泥をつけて、紙に捺したわけじゃないんですよね。

それはどうしたかといったら、

元々は何か竹簡などをまとめて結わえたもの、

もしくは検という道具があり、荷物があって、その上にぐるぐる巻きに縄をした後に、

最後にそれを封緘させるために封泥という、

粘土をおいて、そこの上に押して使われました!

当時は紙がありませんから、

こうした形で封泥が、最初出てきたとき、印の型とも言われましたが、

もう昔の人はこう封をしてたという知識がなかったから、それくらい分かりませんでしたが、でも、これは封緘をするために使われたため、

封泥、封をするための泥と名前をつけ、

それをまた拓本を取って、こういった形で著録という、

この本《封泥考略》の中で考釈していますね。

きちっとそういった本が残されていて、

その封泥自体は今、東京の国立博物館、日本に来ていますが!

この陳介祺が持っていたものが(東京国立博物館が)持ってまして、

これはすごいものですよ!

本当にということで本物と、それは著録をちゃんと合わせて紹介いたしました!

これが印が当時戦国時代から、秦漢三国時代ぐらいあたりまで、少し後ぐらいまで、

紙が主流になるまで使われた印の本当の形と見れました!

こちらが、私が先ほど申し上げたように、

戦国時代には、ものすごい強い国があって、

それはまあ大体、基本的に文字学上は(従来は齊、燕、楚、晉系文字をまとめて古文、秦系文字を籀文とされましたが)、何琳儀という人がいまして、戦国時代の文字を研究して、大体、齊系、燕系、楚系、晉系、秦系ということで五系統あるということで分類(分域)しましたが、

もうちょっと詳しく分ければ、例えばこの楚の中には、

有名な「呉越同舟」の呉とか、越とかが入るんですけども(また、三晉には中山国など)、

大体このように文字の形が訛り、

其々の国で簡略化されて使われて、例えば「馬」も頭だけになり、

それで鬣だけになり!

足がもう二本になり!

これだけなるとか、

今のは燕系でしたが、

今度こっちは齊系では、

足が強調されて、

それで頭がこんなになりまして、

楚系はある程度、燕系に近いですが、

でも、鬣が二本とか、

それで晉系ではかなり強烈で、もう足が1つになり、頭だけになり、

面白いことに小篆の基礎となった大篆ですが、

秦系文字は、結構、金文に近いんですよ!

面白いことにそんなに文字が訛ってなかった!

だから、すごくもう小篆になる直系の先祖たちの大篆と言いますが、

戦国時代の秦の文字は結構、金文に近いもので意外と古い形が残され、

更に(西周)金文から、前の(殷の)甲骨文の形も残されていますね。

結構だから割と我々使う漢字にそっくりですね!

これ本当にやはり秦で文字が統一をされたとき小篆になって、それが隷書になって、我々の楷書になっているわけですから、

おお!ということで見てこられまして、

「虎」に関しても、こんな形で今という同じように観察できて味わって下さいということで、次に行ってみましょう!

こちらは、先ほど見た陶文と言い、陶器に箆で書かれたもの、

これは型で捺されたようなものがあったということで、

高明、涂白奎《古陶字錄》も重要な文字の資料でしたけれども、

先ほど申し上げましたけど、

戦国時代にはものすごく商業が発達して、

貨幣経済がものすごく発達して、

貨幣がかなりあるんですよ!

ここにあります通り、吳良寶《先秦貨幣文字編》ということで、

こういった形で当時使われた貨幣の文字も、ちゃんと著録があって、

文字学における大切な資料ですけども、

少しその貨幣の世界にちょっと行ってみたいなと思って、

こんなものを用意してしまいました!行ってみましょう!

もう、大体ここにある物が、

先秦、秦が統一する前に戦国時代に使われてた貨幣ですけれども、

大体、貨幣は面白いことに、

金文の中でもよく王様が良い働きをした人に貝をご褒美に与えたと、

金文によく出てくるぐらい最高でしたが、

こういったタカラガイは、殷の時代には財物として重要でして、

大体、貨幣の「貨」にも、貝が入っていて、資産の「資」にも、(売買の「賣」や「買」、貯蔵の「貯」、貸借の「貸」、費用の「費」、貿易の「貿」など、) 経済に関係するものは「貝」が入ってまして、

それで王さまが「易う」ときにも、「貝」が付けられ、「賜う」という言葉になり(また贈呈の「贈」にも)、

そういった形でやはり大事だったということで、

それはやはり南の方から持ってきて、

中々北では手に入らないものだったから、

そういった希少性があるものが、貨幣とされたんですね!

まあ、当時は、最初の頃は、これはモノを買うような理由で使われたというより、

それだけの重要な貴重なものとして扱いを受け、

今でいう宝石に近くて、

実際ものを購買するための交換するものとしてはないですが、

やはり東周あたり、西周を過ぎて、更に後で戦国時代ぐらいに入ると、コーヒー豆みたいですよね。

こういった貝が模されて、銅になって(銅貝は殷墟でも出土しておりますが)、

それで更にそれが楚では、蟻鼻錢という、蟻の鼻みたいな形でして、

こういった形は文字が、やはりここにもう刻されていて、

ここにちゃんと書いてあるんですよね。

特にここは「各六銖」という「銖」という単位もかなり、これ後までずっと使われてますよ!

本当に江戸時代でも「朱」が貨幣の単位でありましたから(一朱銀など)。

こういった形で貨幣の単位が書いてあり、

それで楚には金貨があり、「郢爰」と言いますが、

「郢」という(楚の)首都です!ここは本当に湖北省(荊州)にある地名で作られた「爰」と言って金貨もあり(爰は楚では「恚」「哀」として使われ、「易」「換」と関わり、語源は取り引きから来た可能性があり、字源は物を受け渡す形です)!

これはインゴットみたいな形でこれは一つに切られてしまいましたが、

これがずっとつながった形でチョコレートみたいにパキパキ使われて、楚では金貨が使われたし、

まあ、大体それで北の方、齊の国では刀幣と言って、刀でこれも貨幣になった!

こうしてきちんと「齊去化」で「化」*hŋʷraːls, *qʷʰˤaj-sは声符と言いましたよね!

文字学上でこの下に意符「貝」がなくても、この部分が貨幣の「貨」*hŋʷaːls, *qʷʰˁaj-sの音を意味してる!

更に農具、これは鋤(鍬、耜、犂)でして、ここに木の柄を刺すんですよ!

そこまで模されていて、

これ貨幣の初期の頃は、本当に鋤(鍬、耜、犂)の形をしてる!

これ布幣(鏟幣)と言いますが、「布」とここに書いてありますね。

もっと専門的な言い方をすると、

もう、細かく分類するわけですよ。

「平肩」の「弧足」、おお!足が弧を描いてる。

それでここが首のところが空いてるとか、それで布幣ですよ!これ「平肩弧足空首布」が名前で付けられて、

ここに「文」とあるんですよね!「貨」とあって、まあこっちは意符が異なります(もしくは「貝」が「日」に省略されています)!

こっちが、先ほどこれ見たこれで同じように声符「化」ですが、

それでこれを見れば、ああ、これは王畿[洛陽]で鋳造されたものと分かり、

しかも、こういった《太平御覽·資產部》に引かれた《國語·周語下》「周景王二十一年,將鑄大錢」という書籍の中でも、

ちゃんと周の景王の何年(前五二四年)にこれは作られた云々と書いてあり、

こういったいつ頃作られたまで分かり面白いですけれども。

ちょっと文献資料からも考釈できる(《史記·平準書》、《漢書·食貨志》などの経済史料もおもしろいですね)!

そして、これは秦の時代に貨幣も統一されますが、

その時に採用された形!

これは元々はこういった「壁」という玉で作られていたり、

これは玻璃だからガラスですが装身具ですよ!これは本当にアクセサリが銅で模されて、貨幣になると!

それでここに書いてあるのも、古文字で書いてあって面白いですが、

ここ「重一兩十二一珠」「重一兩十四一珠」にちゃんと何て書いてあるかを書きました!

「兩」も「珠」も貨幣の単位ですね。

先ほど「銖」*djo, *[do]と意符が違い、「朱」*tjo, *toという声符を持っています!

「兩」も「朱」も江戸時代まで日本で使われましたね。実際ちょっと前まで、ここの時代から言えば、150年なんてちょっと前ですよ(笑)

結構、長い時代使われた!それでこちらも書いてありますが、重さはどのぐらい値するのかということが!

これも文字学の資料で重要でして、

最終的には、有名な「半兩銭」という、これが秦(と漢)の時代に使われていきますが、

面白いことに統一をする前の秦でも発行した貨幣があり、

結構大きく出していた!やはり「文」があるから持ってきましたが、

この「文信」と書いてあるんですよね!ここに書いてある!

この「圓錢」は有名な始皇帝を覇者にさせた呂不韋という有名な人がいますが(《呂氏春秋》を編纂させましたが、)

この人の傳の中に《史記·呂不韋傳》「莊襄王元年,以呂不韋爲丞相,封爲文信侯,食河南雒陽十萬戸。」とあり、

ああ、この人が発行したのかと、こういった貨幣がちゃんと文献史料とも対応している面白いじゃないかということで、

貨幣が元々どういったものから来たのか、

こういった貝から来たのか、

我々が使う漢字で財物に関係するのは、みんな「財」もそうで「貝」があるということ、

金貨もあるし、この環(璧)から来ていた。農具の鋤から来ていた。あとは刀からも来ていた面白いと!

そういったもので、最初は本当に物々交換から始まっていったんでしょうね!それで徐々に貨幣のような、ものと交換するときの一定の指標が生まれ、貨幣が誕生してきたことも含めて面白いと見てまいりました!

ちょっと趣向を変えるんですよね!

今度はこういうことですよ!

今言ったような資料を最初の人はどうして著録、こうした本の中で紹介してきたかでして、

この有名な劉鶚という人ですけど、

《鐵雲藏貨》で貨幣をこうして拓をとって、最初の古い貝の拓を取り、色々な意見、コメントを書いき、私はここに文字起こししましたけど、

例えば、銅で作った貝、これは俗に蟻鼻錢というと書いてありますね!

先ほど紹介した、ここにありますけど、「巽」*sqʰuːns, *[sunʔ-s]という字がここにありますよね(貨幣を意味する「錢」*zlen, *N-ts[a][n]、「泉」*sɡʷen, *s-N-ɢʷarに通じます。) それでここ「「各六銖」」は単位が書いてありますけれども、それであったり。

こちらは何という文字が書いてあるのか考釈して書かれていますが、

回文はこういう読み方をするよと、

こう、こう、こうじゃなくて、回るように読むと言いましたが、

実はこれ「乘奇貨金當爰金」間違ってるんですよね!

やはり、当時の文字学で貨幣を読むのは大変でして、

どうしてたかと言いますと、省略がものすごく激しいんですよ!

もう本当にだから金文や竹簡に書かれた文字と、

結構それより激しい省略!

それで直線的になっちゃう!貨幣をやっぱり鋳造するときにできるだけ、シンプルな形に文字をしてしまいますからということで、

ここに書いてあるよう、私はちゃんと読みました!

こう「梁充釿金當寽」だということで、やっぱりこれも単位であったりして、

こういったことで今ではこういった文字をきちっと、しかも回文じゃないんです!

これこう、こう、こう、こう「梁充釿金當寽」とちゃんと私は読めました(魏惠王三十一年(前339年)に遷都した都城「大梁」で鋳造された平首橋足布で「釿」「鋝」は金属の重量単位「斤」「寽」)! ということで、次に行ってみたいと思います。

こちらがまた布幣ですけど、

この《鐵雲藏貨》の中に私見つけました!

やはり「文」がありました!

出ていました!これを見ると「文貝」と書いてあり、ここにありますよね!面白いんですよ!

「文貝」は、結局、鋳造した場所ですよ!鋳造地名!

「文貝」は、は今でいう山東省博興県と書いてありますが、

それは伝世文献における《春秋左傳·莊公八年》「齊侯游於姑棼,遂田於貝丘。」の中にも、

ちゃんとこの地名「貝丘」が出てくるんですよ!

しかも、《史記·齊太公世家》「[十二年]冬十二月,襄公游姑棼,遂獵沛丘。」の中では、当時戦国時代には文字の使い方が違いまして、

同じ音、もしくは近い音で似ている音で「沛丘」と書いてあり、

それで《史記》に注釈を加えた晋代の杜預は「樂安,博昌縣南有地名貝丘」に博昌県の南に「貝丘」という地名があると註釈を加えてくれる!

ああ、これ「沛丘」とこれ「貝丘」は同じ地名だと!

ちなみにこの博昌省の「昌」が違っているのは、唐よりちょっと後の後唐にいた皇帝の名前を避けて変えちゃったが、同じ地名だと!

杜預さんがちゃんと地名を特定してくれています!

そして《史記·楚世家·頃襄王十八年》の中でも、さんずい(氵)が付いた貝の形「浿丘」でも出てくるということで、

やはり、文字の書き方が戦国時代を一定しておらず、司馬遷の《史記》も元の資料をある程度を大事にして、

彼は歴史書をまとめた時に同じ《史記》の中なのに、同じ地名と考えられるのに、

その元の資料が違ったから、異なる漢字で書かれていて、

少なくとも「貝」という地名を書き表すのに三通り「貝」「浿」「沛」も、色んな書かれ方があったということで、

戦国時代の文字がやはり相当色んな書き方したものが、

その後の歴史書でも引きずって残され、名残があると見てこれました。

こういった貨幣の考釈は面白いんです!

古銭は愛好する人もこうして調べて、

わたくしも古銭を愛してますから、

もうコインが大好きです!行きます!

そして、基本的にコインが大好きという話をしましたが、

こうした伝統的な言い方では「金石」と言うんですよね!

何故なら、金属とか、石に残された文字を研究したから、「金石学」と元々、文字学をそう言いましたが、

この劉鶚という人は、甲骨が発見されたときに、彼が初めて《鐵雲藏龜》で甲骨を発表しました!

それでこういった形で、結構彼はこの内容まで一生懸命読んでいるんです!

ところが、私はちゃんと調べました。

先ほど申し上げた《甲骨文合集》の中で、この番号に該当して、

結構ちゃんと読めてるんですよ!この「鼎」が「貞」になると、占いをした人の名前だと、「鼎」がここに出てますね!

これでちゃんと読めてるし!

それで次の字は、伝説上の王さまの名前(「少昊(皋、昊、暠、暤、皞、皓、皜、顥は古通)」「皋陶(皋繇、咎陶、咎繇)」、もしくは、雄たけびの声、《周禮·春官》「來瞽令皋舞」)として、彼は読みましたが、今「呉」と読まれたり(未だに定説をみませんが)、

「弗」「其」も読めていて、「以」はこれ人偏「似」が付いていますが、「以」と読めて、「王」「臣」も読めてる!

結構、清の終わりぐらいの文字学、当時は金石学と言いましたけど、水準が高くて、

金文の知識が、あれば甲骨文を読めていて、面白いことですよね!

本当に金文の知識があったから、甲骨文が読めた!

そしてこちらもちゃんと読めてんですよ!

「𢦔」の文字は災害の「災」と考えるということ、殆ど当たってますね!

これでこちらは、「上」という字は「二」と今では読まれています。

というのは、甲骨を区切る時に「一」「二」「三」「四」と(数字を)刻されたからですが、この「上」という字は甲骨金文でこうだから、これは△ということで、

この中では「二」という字だけれども、これは「上」でも文字としては正しいですが、読めてるんですよ!すごいですよ!

これは本当にということでして、

彼は金石の愛好家で陶文もちゃんと《鐵雲藏匋·附泥封》と、鐵雲は劉鶚の字ですよね。彼の名前!

それで彼が持ってた「匋(陶)」で陶文までこうした形で、

これは読んでいませんが、今の文字学の知識でいけば、

「陳」という文字(に「土」を伴い)とこれ「戟」は戈を意味をする文字で読めて、こちらも「𨒥(後)」と読めまして、

先ほど出てきました《古陶文彙編》は、この陶文をまとめてくれた拓本集があり、

そこに何番かちゃんと探し出して、ちゃんと書いてみました!

ということで、今ではちゃんときちんと文字が読める!

すごいことということで、

こういった甲骨文の研究を伝統が続いて、

こういった形で王國維という人とか、羅振玉とか、商承祚という、

この人たちが、甲骨文がでた時にこうじゃないかと、

もう近代的な文字学を始めた創始者たちですごいんですよ!

この「殷虛文字」とは、今で言う甲骨文のことですよ!

殷墟で出土した殷の時代の文字を考釈をしながら、字書を作っちゃったと、これすごいです!

結構今の水準からいっても、かなり当ててちゃんとしています!

科学的に文字を研究した!すごい!

やはり、ここでも「文」のところを持ってきまして、

こういう著録は、本当にちゃんとこういった全ての字形を網羅する形で全部考釈をしており、今回ものすごい駆け足で見てまいりました!

文字学で用いられる資料はどんなものがあるのか、もう1本の動画の中に圧縮してやってしまいたいと気持ちが湧きまして、

こういった資料を少し今こう出ているのが面白い!

次につながる予告を含めて、

伏線になっていますが、

ある方が、KF-Ars Sinicaの動画は小説みたいと言っておられましたが、

実は色んなことを紹介しているように見えて、

実は有機的に全てが結合するような形で(伏線がありまして)、

私の頭の中にある漢字を考えるときには、文字を考える時には、漢語を考えるときには、言語を考えるときには、どうなっているか、

有機的に結びつけて考えていき、それをできる限り整理した形でテンポよく紹介することを目標としていまして、

これが出てきたのは、実はこの《殷虛文字類編》という本は、

もう今までも使っていいんじゃないかという、後漢の許慎さんがまとめた《説文解字》のやっぱり文字の配列、

つまり、小篆で全部書いてありますよ!それに由来してるんですよ!

それでこういう人たちは、《説文解字》を元にして、そういった体系の中でこう言った甲骨文がどこにあたるのかを研究してまして(巻数も《説文解字》と対応して編集され)、

ちょっと今度こんなことを取り上げたいと思ったんですよ。

文字学がどういう先人たちが、どういう思考をして、現代に引き継がれてきたのか、

文字学の歴史を現物のこうした著録、書籍の形で残されたものを見ていきたいと、同時に我々が文字学をする時にどういう辞書なり、

考釈をした研究を見ていけるかも含めて、紹介する動画を作りたいと、

次回はちょっと期待させてしまっておりますけれども、取り上げてまいりたいと思います。

といった形で、今回はもうダイジェストで文字学上で扱う資料がどういうものなのか、

本当に芸が細かいようですけども、この「文」と言う字を中心に、

もう沢山資料がありすぎて、私、何を選んでいいか分かりませんから、

しょうがない!じゃあ「文」で来てるから、もう一番、実は漢字のユニークさを探究するシリーズをやろうといった初回からきてるんですが、

「文」「文」「文」「文」できているんです!

文化の「文」だし、文明の「文」だし、文人の「文」だし、文字の「文」ということでやってまいりましたということで、

こういった形で沢山の現物の資料、考古資料、文字資料、文献資料、

そういったことで考えてゆこうというコンセプトですから、

今後ともKF-Ars Sinicaの炸裂は止まりませんから、

どうか良いねボタン👍押して頂いたり、チャンネル登録して頂いたり、

今後とも応援と楽しんで頂けたらと思います。

今回も本当にありがとうございました。失礼致します。

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