「各」「格」について、長く連載してまいりましたが、日常会話のようでラフな感じで、言語と文字について、どんな考えでどんな使われ方をしてきたか、また、それが文学や思考にどのような影響を及ぼしてきたかなど、大きな視点から存分におしゃべりしました。実は「各」「格」について、個別の現象を論じることではなく、漢語や漢字の全体がどのような仕組みであるかを知りたいが故に、人間の言語と文字の関わり、ダイナミックなネットワークをユニークな視点から見てゆきたいというシリーズです。今後ともまた続いてまいりますので、何とぞよろしくお願い申し上げます。縱談語言學、音韻學、訓詁學、文字學,長達一個小時左右了!
2021年8月27日
(いつもありがとうございます。前回までの動画をご参照くださいませ。)
こういった形で今のように「酪」*ɡ·raːɡ, *[Cə.rˤak]という字は、酒偏「酉」を持っていたのは、何故なのか、馬乳酒じゃないかということ!
それで声符「各」*klaːɡ, *kˤakを持っていた。
意符と声符で乳に関係するものは、こうした部品「酉」が付いている。
そして、「蜜」*mliɡ, *mitも、今度は本当に意符「虫」の方が、(声符の)下の方に入り込んで、
上の方に声符「宓」*mriɡ, mliɡ, *[mrit]が乗っかっている状態という形で本当に表されていて、これは甘いものに関係する。
それで「虫」を持ってるのは、これは養蜂から、蜂から、蜂蜜からいきました!
もう一つ、今挙げた中国語の元素記号などは、
弗素「氟」は意符「气」+聲符「弗」、「硒」セレンは意符「石」+聲符「西」、「鉻」クロムは意符「金」+聲符「各」ですから、
非常に意味が限定的で一つの漢字でそんなに沢山の意味がある多義ではなく、
まあ、少し意味が広がりがあったとしても、 「醍醐」の「醐」とか、(チーズのような)「酥」とかぐらいで、皆、乳製品に関係しているという意味では、まあ、ある程度、意味的なまとまりはっきりしていましたが、
それは結構、外国から借りたものであったり、
非常に特化した特殊な中での話でしたから、
今、言いたかったことは、一対一の関係を持っていたんですよね。
それは、ある漢字だったら、もう示すものは、一つしか大体、意味はない一対一でしゃきっときちっと意味は決まっていて、そんなに複雑ではない!
もう「酪」と「蜜」に関しては、もう大体、意味的にも広さはない!
ところが、我々がずーっと見てきた「各」やこれを声符で持っている字とか、もしくは、木編が付いた「格」は、これはものすごい数がありまして、
戦国時代には、ものすごく仮借を繰り返して、同じ字の中にものすごい数の別の言葉の語源が流れ込んで積み重なっていった!
もう、ものすごい数が、一つの漢字に結び付いていた。
多対一だったんですね!
そして、また、同じ言葉から、同じ語源から派生して、形声字を作るときにも、
また、別の似た殆ど声符を与えられて、同じ言葉が別の字形、字源で表されたりして、
それが一体多になっていたこともありましたよね。
つまり、同じ語源である言葉に対して、(文字でその言葉を表記しようとしたとき、)全然違う部品に与えられてしまう、それが一対多。
それで沢山の異なる言葉が、一つの文字に入って行っちゃう多対一。
それは我々がずっと見てきた「言語と文字のデュアリティ」という意味で、
「多」というのは、言語の方が多くて、一つの文字「一」に行っちゃう。
もしくは、言語と文字の(関係を示している)双対性において、一対多は、一つの言葉に対して、沢山の声符を充てられて、
先ほど見た「蜜」「𧖅」*mliɡ, *mitという字もそうでしたよね。また、全然違う部品が充てられて、「宓」と「鼏」が声符として与えられて、違う字で「蜜」「𧖅」などと書いていました!
非常に難しい字「𧖅」でしたけれども、我々使っている「蜜」の方が簡単だから、こちらの方になりました(しかも、二字で音写「螟子」までされていました)。そういう現象ですよね。
だから、そういうこともたくさん起きて、後でどんどん整理されていき、どんどん使いやすい方に集約していきましたから、
こうした経緯から、めちゃくちゃ複雑だと(「倝」に従う「戟」、「各」に従う「㦴」、「丯」に従う「丯+戈」でいずれも意符「戈」もありました。)
更に戦国時代に通仮をして、戦国時代より後でも、難しい漢字は書きにくいから、別の似た音の漢字で使っちゃえということをしたんですよね。
それは戦国時代より前や後に限らず、結構ありまして、
それで、現代においては、もう中国語で例えば簡体字を作ろうとしたときには、
もう難しい旁があったりする場合は、もっと音が似ている簡単な部品でも書いちゃえという、
それは相当な数をやってます(例えば、司馬遷の「遷」は「千」に声符を変えて「迁」にしました。歴史的には「邑」に従う声符「𠨧」で書かれていたりもします。更には金文で「𠨧」は「舁」に従う声符「囟」で「西」の音を借りていて、楚簡で「角」の音を借りていました。)!
結構、日本人は真面目だから、崩すような使い方はせず、結構真面目だからしませんが(それはジョークで、実際は文字に対する認識の違いも関係しており、簡便を求めるか、伝統を求めるかによる意識の差によります。)
それともう一つは、日本人は音として見ていなくて、漢字を意味として見てますから、
やはり、字形がすごい大事で、その字形を見た瞬間に意味をイメージする。
だけど、中国人は違うんですよ!
その字を見た瞬間に音がパンと来るんですよ!
その読み方の音が、やはり音の方が大事でして、言語だからということで、少しお国柄というか、
それと言語状況において違うんですけれども、
とにかく戦国時代は通仮、もう違う部品でたくさん書きまくった。
もうそれは違う字を似た音だから使っちゃえということを繰り返した結果、
ものめちゃくちゃな絡み合いになって、多対多の様相を呈しているということでして、
そういうことを私はすごく見てまいりましたし、
そういう(言語と文字の関係に関して、言語を文字で表現するとき、どういうことが起きているか、)イメージができてきたと思うんですけれども、
少し最後は見たいと思うのが、《康煕字典》は、清代に編纂されまして、
我々が見てきたような、今まで一つ一つの文字に関する情報を、一つの字書に当たっていたら大変だと、全部集めてくれているんですよ。
それで古い順にある程度、配列した中で見ていきますと、
この「各」という字がここにありますが、
そして「格」もありますよね。
そのところを見れば、もういっぱい書いてあるんですよ!
先ずは《唐韻》という韻書がありまして、「古洛切」など反切で書いてありまして、《集韻》ではこうであるとか、あと先ずは韻書や音の事が書いてありまして、
韻書にはどういう反切で書いてあるかがありまして、実際は《説文解字》の反切を引いてきていますが、
次には四書五経はどんどん引用されてあったり、
あとは結構〈石鼓文〉があったりして、古い金石文も、結構その当時に知られたもので入れたりしてて面白いんですよね。
そういった形であるとか、この漢字に関係する字書に書いてある情報と、
それとかなり権威がある四書五経にどういう風に使われているのか用例と、
それとあとはもう一つは大事なのが、この一番、最初にある音について反切で全部書いてあります!
そうしてまとめた総合的な辞典ができて、網羅的に一つの字に関して見えるから、これすごい重宝するんですよね。
文言文と言いますけど、古文、日本人は漢文という古典の漢語を読むときには、《康煕字典》を見れば、引けば、ああこういう意味があるんだなと意味分からない字が出てきたときに、その字を引くとヒントが得られます!
その文章を解釈するためのということで網羅的に集められている字書は非常に有用でしてね!
私はこういうを見たとき、全然違う意味や言葉が、この「各」と「格」にいっぱい並べられて、ぶわっと書いてあります。
特に「各」と「格」がすごいですよね!こんなに多くの量でブワーと書いてあるんですよ!
一つ一つの意味は、全然違う!
私はこれを見たときに、これだけ全部違う、意味のものがあるということは、どうもやはり語源は違う可能性があるじゃないかということで、それを感じたと、すごいそういったヒントになりました!
だから、こういうものを私は見た時には、ただ調べ物をするための資料じゃなくて、何かを見ていくと色んな角度から考えるんですよね!
そうすると、また新しい事実を発見していく、ヒントになるんですよね。
それは今回ずっとやってまいりましたことは、
どうしてこんな細かい事を一つ一つしていきましたかと言いますと、
一つ一つのそういった資料を見たときに、どこにどういう反応するのか、ということをすごく見て、
そういった視点から見るのかと、なるべくいっぱいしゃべりたかったんですよ!
だから、長くなっちゃったということがございますけれども。
だから、漢字とは、やはりこれだけ網羅的に沢山の字に関する音、反切と意味や用例が集められていて、
知れば知るほど、ある漢字はこう、ある発音だけをしますとか、ある意味だけをしますとか、現在では固定されて使われているということは、
実はそうじゃなかった。
全然違った!
今お話したような戦国時代の文字の炸裂!概念の炸裂!もうビックバーンと呼びたい!叫びたい!
戦国時代にはめちゃくちゃだ!文字や概念も炸裂しちゃった!
概念も炸裂していた!
ビッグバンが起きまして、もう漢語と漢字の中において、もう整理されたとしても、その秦漢の間に伝世文献の中でも、かなり古い層、かなり名残りが残されているんですよね。
やはり色んな古い書かれ方や使われ方の証拠を出土文献を調べることで楚簡なんか、見てまいりましたよね。
そこで分かった!
そういうことに気づいた!
そういう資料があったことによって、そういう状況を、もうつぶさに観察できた!
それにやはり思い立った根拠やきっかけは、やはり漢字はあまりにも同音多義でして、
厳密に言えば、同じ音節でも、異なる意味があんまりも多すぎることですよ!
ここに書いてあるようにブワーっとあります!
あんまり意味が広すぎてありますから、どうしても(使われた字の本の意味)本義、元の意味から、転義する、転じる意味が転じる、転義してゆくという説明は、段玉裁が引伸といいました。引っ張りだす。元から言葉が意味が転じる。
それで説明するのは、絶対無理があると思ったんですよ。
それで私はこうしたことを考えたときに、どうしてじゃあこの状況を説明するのか!?
それはやはり上古漢語、もしくはそれより前の時点でも、どんどん、どんどん、母音が同化してしまったり、どんどん子音が脱落したりして、
発音が非常に同化して単一化されていくなどして、
もちろん、その後の時代にもですが、そして、戦国春秋時代に形声字が、ものすごく炸裂して、ビッグバンが起きたというのは、
あまりにも、同じ形(文字)に違う意味が多すぎて区別ができなかった!
だから、言ってみれば、音を表したかったら、ただ声符だけ書けば良かったのに、
あまりにも同じ字の中に増えてきちゃったから、形声字という形で(意符を)加えることにより、
「酪」の場合は、酪農に関係する場合は、この酒偏「酉」が付いていたとか(最初は馬乳酒からの関連で酒偏「酉」がついても、更に意符もアナロジカルに意味が酪農に関係する全体に拡張されたこともすごいです)、
それとか、あとはこれは「蜜」だったら、これは秘密の「密」とは違うから、それで「虫」を加えたとか、ということであったりとか、
元素記号を大体、気体の「气」とか、固体の「石」とか、金属の「金」とか、そうした部品が付いてれば、イメージできるんですよね!
それでその言葉は、音だけだと、ちょっと、ちょっと、広すぎる!
同じ音節の発音で示す意味が広すぎる!
もうちょっと手がかりをくれと!
それが意符になって、声符だけだったら、まずい!
そうした事情でなってきたんじゃないかと!
それと漢字には、もう一つ熟語が生じてきましたね。
沢山、日本語でも熟語があります。
とにかく、やはり二字熟語が多いですよね。
二つの漢字を並べた熟語は、今の中国語でもそうです。今の日本語でも、滅茶苦茶な数ありまして、朝鮮語とか、越南語にもかなり借用されました。
それは漢字文化圏において、熟語が二字で沢山ありまして、余りにも同じ音で違う、意味が多すぎて、
それは(聞いたときに)区別ができなかったからじゃないかと!
それらを雙声と畳韻と先ほどで言っていましたよね。
その前の部分が一緒、要するに(音節が発音されるとき)最初の部分が一緒、
反切で言えば、前の字と後の字、後ろの方は韻の方、言葉のある音節があったときには、前の部分が一緒で似ている、後の部分が一緒で似ていることを雙声と畳韻といいます!
日本語でもよく熟語でこれは雙声の熟語ですよ。畳韻の熟語と言います!
熟語の中には、あまりにも似た漢字、意味が似ている、もしくは声母が似ている、それは前の部分です。あとは韻母、それは後の部分が似て構成されていることが多いんですよね。
結構、それと前と後で二つの文字が対になってたりとか、 そうした意味的に似た熟語が多いんですね!
それはどうしてか考えると、雙声と畳韻による熟語は、声母と韻母が同じでゴロが良いですね!言いやすいですよね。
それであったり、また意味を特定して、明確に伝達できるという意味では、語呂が良い上、一石二鳥の効果を上げていて、
やはり昔の人たちは、(円滑なコミュニケーションを図る上で)自然にそういう方法を生んでいました。
それで漢語にはよく、詩では韻を踏んだ詩賦もすごく発達しましたよね。
それは《詩経》とか、《楚辞》からいって、そこから漢代に賦が生まれて、それから一番有名な唐代にはやはり詩ですよね。唐詩と言いますね!
我々が日本人が「漢詩」ときいたら、唐詩であったりしますね! 一番それがポピュラーですね!、
それでそうした詩韻を踏んでいるものが多いです!
それは言語や文字の考察から、やはり自然だと!
やはり、かなりの同じ音節、同じ発音、同じ頭の部分、声母と、後ろの部分、韻母を持ってる言葉が多ければ、
それらを並べてリズムがある方が美しいんですよね。しかも、聞いていてすごく楽しい!
そういうことで、言語と文字の洞察から、あらゆる言語で、あらゆる文字で起きていたことは、
全てがどこで何が起きて、それでどう歴史が進んで変遷した分かることによって、
そうした文化とか、言語を含めて、もうエレガントに説明できるんじゃないかという、ものすごい深い内容になってまいったと思うんですよ。
今、お話したことは、熟語の構造から、それは詩賦、韻文がすごく発達したのは、それはどうしてかということをですね。
言語と文字をよく分析してゆくと分かってきまして、
やはり、昔は漢字の音韻と意味の関係だけ、しかも音韻も、漢字の中身の実際の発音が分からなくて、
言語としての発音や語源も分からない状態だったんですね。
漢蔵語族とか、漢語の内部の歴史言語学や比較言語学が発達して、
そのブラックボックスの中身を除き見できるようになったんですよ!
今回その最新の言語学の結果でこういう音で復元されているものをいっぱい引用して見てこれたわけですね!
しかも、それも古い言葉を沢山の言葉をまとめて復元したのものと比較することによって、
これじゃないか、あれじゃないかと考えてきたわけですよ!
だから、それを見ていくと、許慎さんが作った《説文解字》、それに郭璞さんが注した《爾雅》、それとあとは劉熙さんが撰した《釋名》(、掦雄さんが撰した《方言》)を見ましたね。
彼らが、文字を説明するときは、大体、あと(鄭玄、服虔、応劭、如淳らの)古い注の中でもそうなんですけれども、直音と言うんですね。
古註では直音が多いんですよね。あと、読若といいまして、直音とは、直に音を示す。
この漢字はこの音だと(別の同じ音の感じを直に示すか)、もしくは読若は、「~の若く読め」と書いてあることです。
つまり、音を直接(に同じ音の字で)示してるんですよ!
声訓とも言うんですよね。音が通じることで注釈をしてることですから、
そうしたことは、今までは語呂合わせの解釈みたいなちょっと馬鹿にされていたところがあるんですけれども、
しかしながら、言語の方から見ると、当たり前だと!
元々、語源が一緒だったものが、違う部品で書き分けられてしまったり、
もしくはその違う部品の方に入っちゃって、もう全然、結び付かず、全然分からまかったけれども、
音から行けば、元々、同じこと言っているじゃないかと!
言語の方で読み解いていたんだと、そういうことが分かってきて、
元は同じ語源で近い発音などで(または今まで見てきたように形態素を付けて)派生してきた言葉だったものは、
文字が生まれてきた時に書き分けられてしまったものが、それらを全部、結びつけて記録をしてくれていることが分かったんですね。
今回の見てすごく感じてきて、それが当時(上古漢語の後期)の人たちは、漢字を言葉に出して読んでいて、それで言語として捉えていたんですよね。
だから、もう当時の音が分かんなくなっちゃって、その後に音がもう代わっていっちゃったりすることもあったりして、分からなくなりましたが、
そうした当時の人たちの考えとか、伝えたかったことが、
本当に手に取るように言語と文字を見て分かってきたと、
それはもっと言うと、ただこの文字はこうだよということを言いたかったのではなく、
こうした今までお話ししてきたことを全部一つ一つの観点、一つ一つを細かく喋っていたんですよね。
もうこういうときは、こう見る。こういうときだと、これだから、こうだああだとか、
まあ、大体は三つに集約されて、文字を見た時には、先ずは字形から行くか、次は字音から行くか、もしくは字義から行くかですよね。
その三つですよね。もう、字形、字音、字義ですよね。その三つで行ったんですよね。
色んな角度からするにしても、特に音はやはり難しかったんですね。昔はそんなに分からなかった!
それとあとは文字資料も、昔は全然出てなかった出土していなかったから分からなかった。
それでも制約があったけど、今はいっぱい使えて、かつ、その意味の方も、大量の文献を検索して、もうコンピューターを使ったりして、もう漢語と漢字、言語と文字を探究してゆくには、もうすごくいい環境がありまして、
私は本当にそうしたことをずっとお話してきた理由が、一つありまして、
目的は、古籍への理解が深まるんじゃないかと!
それで漢字への印象やイメージ、考えられてきた、こうだという固定観念がぶっ壊れちゃったというくらいすごいですよね。
本当に一つ一つ見てゆくことにより、そのことにより、やはり(古典漢語を字の並びではなく、実際に音として、)言語として感じてこれたのは、すごい大収穫でしたよね!
それをすることにより、古籍の中で(文字の羅列として)書いてあったことが、手に取れるように本当に生きた言語として感じられます!
今まではパズルみたいに繋ぎ合わせて、文字と文字の関係だけでボンボンやっていったものが、
音と形と意味で全部が繋がってきてるんですよ!
本当にだから、その今、お話してきたことをまとめていくと、
文字学の方でも、研究が進んでゆき、
音韻学の方でも、研究が進んでいき、
それで訓詁学の方でも、研究が進んでゆき、
それらの最高の結果をまとめちゃいたいというプログラム、そうしたスキームの中で見てこれたと思って、本当にすごい内容になってきて広がってきちゃったんですけど!
それはやはり秦漢で中国が統一されて、同じく文字も統一されて、淘汰されていったんですね!
(文字や言葉の)使い方などは、戦国時代がめちゃくちゃだったけれども、
それで古籍を漢代の古文学者が一生懸命理解してて、
その当時に使われていた現行の文字に改めて、要するに古文を今文で書いた。
それでそれを意味を解釈して隷定していったということで、
字形は隷変して、隷書なっちゃった。
それでまあそれは現代の楷書になって、つながってゆくわけですけれども、
殆ど隷書と楷書はもう字形的な構造は似てます!
それでその前の時代とは、もう本当に大きく変わりまして、
そこからやはり秦漢に、字音と字義と字形が、ものすごく整理が進んで、
そうした経緯で秦漢に文字が定められて、それ以前は、やはり古文字と言うんですね。
(書かれた文章は)古文というんですよね。
また、その漢字という言葉が、すごい的を得てるなと思ったのは、
やはり、秦と漢の時代にもう字型的にも、意味的にも、使い方としても、用法的にも、基礎が固まってるんですよ!
だから、漢字とはやはりすごく妥当な言い方ですよね!すごく合っていて、その時代にもう完全に固まりまして、
もう、我々が今、それを使い続けてるという、字形からしても、意味からしても、かなり整理されて、規範化されたところから来ています。
まあ、その後に話し続けられたことにより、音はかなり変わりましたけれども、
今回そうしたお話の内容において、最も大切なことは、
その言語と文字の双対性で見ていきましょうということですよね。
それは今までやはり同じ漢字の中である程度、言葉の意味が転じて、色んな意味は導き出されたという伝統的な説明は、
段玉裁も王念孫もしてましたけれども、結構辻褄合わせであることが多くて、 こじつけも結構多かったと!
その当時の人たちは一生懸命、そこで考えた!
それでそうした説明をしようという努力して下さって、かなり素晴らしい成果を上げているんですよ。
ところが一方でやはり、現代の先ほど申し上げたような、色んな観点から見ると、
それがもっと訂正されるべき部分があって、まあ、学問とは、そういうものであるわけですけれども、
更に戦国時代にもう全然違う声符で表現されていたり、
即ち、全然異なる字形で表現された文字が、全部同じ語源だったことも、衝撃的なことでしたね。
それはものすごい音韻と概念と文字は、複雑に絡み合っている上、 文字が仮借された時には、元々の字源があまりにも異なるにしても、
別にその時に話していた人たちは、字源なんて、別に関係ないわけなんですよ。
その音が近くてちゃんとそれにもう文字の形が与えられれば、当てられれば、良かったわけなんですよね。
それは言語を書けるから。即ち、やはり音韻にも、(発音にも、)かなり近似が進んで、まさか、これとこれは、音が違い過ぎるのに仮借している実例も結構、出土文献の中で戦国時代のものが今ぞくぞくざくざく出てますけれども、
そうした(戦国時代の)各国で仮借や通仮をして、同じ音が通っちゃうから、パンと借りちゃう、もしくは意味が通っちゃうから、パンと借りちゃう、
それと字形が混乱して訛って変わってしまうのもありましたよね。混同してしまった!
そうした三点において、全部、いろいろとリンクさせられて、一つ一つの文字が、もうくっついていましたよね。
それですごくそういうことも見えてこれて、出土文献では、もう衝撃な仮借が多く発見されていて、
こんなに音が違い過ぎていても通じ合うんだという衝撃もありまして、
結構、今まで常識を覆すことがありまして、
やはり、いよいよ先人たちの文字の自由な使い方、伸びやかさにもう感嘆しているということで、
そういうことから、やはり、鄭張尚芳とか、Baxter-Sagartとかの復元がある程度、漢字がかなり多くても、
一つに対して、まあ、(接頭辞や接尾辞を含めたり含めないなどして)四つくらいまで復原しているんですよね。
だけど、私が思うには、それはどんどん、どんどん、音韻的な近似が進んで、どんどん、どんどん、全然違う語源から来たもので微妙な異なりがあったものが、
同化してゆきましたが故に集約されていった可能性があると、
つまり、実際にはもっと多い数の微妙に異なる子音とか、微妙に異なる母音があった、
それは語源が違うけれども、それらがどん、どんどんどん、音が同化してゆき、集約されたことは、
一つの漢字に大体読みが、 一つしかなかったり、もしくはこれが大多数ですよね。
多くても四つくらいしかないのは、かなりこれ不自然でして、
もっと、いっぱいあったものが、音韻が規格化されて馴らされちゃったのではないかと!
我々は今、漢字で使われる文字で書いてあるものでしか、そこからでしか当時の発音を復元できないから、
その文字一つに関して、それでしか分からないけれども、
実際はもっと衝撃的な(違いが多くあっただろうと、)あと当時は方言もあったでしょうし、広い範囲に言語が分布していたから。
今もいっぱい方言ありますし、だから、そう言われてみれば、やはり、それは当たり前の事でして、
人間というのは、やはりどうしても、伝えたい、残したいという意識がやはり強くて、
もうなんとかして、記録したいという、知恵を絞って、文字が言語に一生懸命アダプトされていったんですよね。
だから、その今まで続いている結果という、その我々が使っている漢字の使い方じゃなくて、
逆に当時の人がどう考えたかを積み重ねて、
それで今後とも、言語とか、文字の問題を柔軟に考えてゆきたいと思ってまして、
そうしたことによって、やはり事実に迫りたいということから、
先人の頭の中を知りたいという欲求が、探求の源泉となって、
ずっとしてきたような衝撃な事実にたどり着いたというように見れてこれたんですよね。
それで元からやはり語源が異なるストリームがあったということは、
我々が日常で使う漢字が、多義であるということは、当たり前じゃないかと!
それはそうだということで、非常に説明が自然につきまして、
そして、文字の構成や運用に関しても、古典から現代まで、あらゆる漢字の使われ方の実例に触れたとしても、
より深く、より強く、より明らかに分かって、
自分で言語や文字を運用して、その意思を伝えるときにも、役に立つんじゃないかと!
言語とは、こういうものかと、文字とは、こういうものかと、深く理解をできれば、
我々がまた表現をしていくときにも、言語を使う達人になれるんじゃないかと思っているんですね。
やはり、言語とは、大体、概念の連結ですよね。
それはすごく感じてきてるんですよ。
それは、どうしてかといったら、ある概念を伝えたい時に、
人間の思考とは、大体色んな概念がいっぱいにつながってできていまして、
それを一つ一つ言語という形に音という形に当てて、相手に投げることによって、その全体でその人は考えてることは伝わるのですから、
ですから、やはり概念の連結は、 言語の本質であって、それが結局、音からゆき、文字に表現されてゆくようになり、
その中では、今までしてまいりました沢山の言語という概念の連結をどう表現するかというとき、
先ずはもうはっきり分かりやすい象形した形があって、
それでそこで今度は先ずは音(と形)が結び付けられて、
今度は音と結びつけられた形(字)があれば、その形が今度は、音と対応する別の字がどんどん、どんどん、与えられてゆけて、
それで爆発的に(一つの文字体系、またそれにつられて一つの言語体系が)発達していたということでありますから、
私の今回の発見と予想は、こう要約できるんですよ。
ある文字には、象形された元の形があって、そこから字形が生まれるわけですね。
それで本当にそれを指していた言葉との関わりが文字に与えられる。
そうすると次の段階に行くと、象形しにくい人間の言語の大部分を占める抽象概念ですが、
だから、抽象概念は、明らかな形に表現しにくいんですよ!
それなら、それに関しては、どう表現しようと言ったら、
音が同じだから、具体的な概念で表しやすかったもので、音が近かったものから、借りてきて使う仮借を激しくバーッとすると、書けることが増えます。
それをした結果、ある文字に結びつけられた概念が、ものすごく増殖して膨張してゆくんですよね。
それが先ほど話しました文字のビッグバーンが起きまして、
ものすごい幅広い内容を書くことができるようになったんですね。
それ故にある字は意符をつけて、ものすごい諧声系列のたくさんの字が生まれて、
それでものすごい数の字が生まれた一つ一つの中にも、ものすごい数の異なる言葉が注ぎ込まれて、結び付けられました!
それでもうすごいですよ!掛け算的ですよ!本当に増殖している!
そして、一つの言葉の中に更にものすごい数の接辞(接頭辞、接中辞、接尾辞)が、いっぱい出てきましたけれども、
そうして(ある語根から意味が大量に)分化をして、それらが各々の声符を用いて、別の字形に書きとめられたこともあるんですよね。
だから、そうすると、文字同士でも、音を借りただけでも、 ものすごい数の関係が生まれて、ひっちゃかめっちゃかに、もう絡み合っている。
その結果、漢字という体系、文字体系のシステム全体は、ものすごい少数の部品でものすごい大量の語彙を書き分けることができ、
我々が生活している、ありとあらゆる文字で書き分けられる概念が、ものすごい複雑な絡み合いをしている中で、内包されているという、それ全体のネットワークが漢字の体系じゃないかと!
だから、今回、それらを先人たちが一生懸命研究をして、グルーピングした典籍、字書がありました!
《説文解字》とか、《玉篇》とか、《方言》とか、《爾雅》とか、《廣雅》とか、《釋名》とか、《廣韻》とか、《康煕字典》などが、出てまいりましたけれども、
ものすごい数のそうした言葉の使い方を記録してくれたものを、厳密にそれらの文献を活用して、論証していくということをして来れましたね。
だから、 こうした予想も、あらゆるその漢語の語彙とか、その文字に関しても当てはまって、エレガントに矛盾なく説明できるということで、
この予想(conjecture)は間違えないじゃないかと確信を深めておりますということでして、
まあ、数学でもよくありますが、「中西予想(coniectura Nakanishiana / Nakanishi conjecture)」と名前が付くかもしれません(笑)
ということで、そうした現象が起きていた!
まあ、今のは冗談ですけれども、まあ、冗談じゃないかもしれないです!
本当にこれすごい予想ですよ! 本当にこれだけの言語状況と文字状況は、こうだったんじゃないかと言ってこられたのは凄かった!
ですから、もう私は思ったんです。
学問とは、直感じゃないかと!
インスピレーションだと!
その直感で得られたインスピレーションを理論的に説明をして、推論して、論証していく、
それで厳密にその理論の体系を構築して、それを人に伝えるということが、探求じゃないかなと思いまして、
それでそれは物理学では、よくあることでして、
ある小さなきっかけで何か、今度小さい些細なことから気づくんですよ。
これで大きなその裏側にある仕組みや世界を小さな穴からパーンと見つけて、そこに入っていけるということ、
例えば、もうこれは本当が伝説か分かりませんけど、ニュートンはリンゴが落ちてきたことにより、万有引力に気づいて発見してたどり着いちゃったみたいな、
そういったこととか、アインシュタインが思考実験して、それから一般相対性理論に拡張したとか、
そういった、それに匹敵するぐらいのやはり、思考の転換がありまして、
それを我々に迫ってくる発見でして、
今回はこの「各」と「格」という字に関して見てまいりましたけれども、
そうした一つのモデリングをして、一つのモデルのところを分析してゆき、
具体から抽象へのアナロジーということで、
まあよくアブダクションという推論方法ですけれども、
それでやってくるわけですよ!
だから、今回はこの「各」と「格」という字だけではなくて、
この中で見たことが、漢字全体で起きている事じゃないかと、
それ一つを代表例としてみたということですよね。
それは、あらゆる学問領域でも、やはり、それぞれ研究してきたことを統合していこうという、知的な炸裂から来て、
それは今回は漢字で言えば、もうずーっと、字形を研究してゆく文字学、
それで音をずっと研究してゆく音韻学、
それと意味をずっと研究してゆく訓詁学、
それらの伝統と歴史と最新の研究をもう全部、貪欲に見て、それを全部統合してゆこうという炸裂は、
やはり、物理学におけるディラックとか、ウィッテンに相当するじゃないかということで、
かなり盛り上がってきて、 やはり、漢字がある字形が仮借をされてきたことは、やはりよく知られた事実ですけれども、
それが既にある文字の内部においても、この「各」と「格」という字もすごかったですよね!衝撃的でした!
それが、ある文字と音が同じだという縁だけで、
それだけの連なりで、少なくとも1つの文字には、その部品を声符としている含んでいる文字、諧声系列がありますけれども、
言ってみれば、この「各」に関して言えば、いっぱい我々は色んな部品をつけて、意符をつけて、いっぱい生まれましたよね。
まあ、一つその一番、古い一つの例において、すごいその中には、沢山の用例があるものは、木偏が付いた「格」という字でありましたけれども、
それで見ましたら、本当に3000年前の上古漢語や1500年前の中古漢語を再構したもの基盤として、
少なくとも10本もの全く異なる漢蔵祖語の方から見たときに、
それは少数民族のあらゆる言語を集め尽くして再構される6000年ぐらい前に分かれたじゃないかという、漢蔵祖語まで遡る形で全然、異なる語源が提案されて、
それが母音と子音に対応する形で見られるということは、ものすごい衝撃だったんですよ!
これから、やはり、ライフワークになりそうですよね。
そういった観点から、皆で探求していきたいと思っておりまして、
私自身もやはり言語を通して、人間の歴史や社会、芸術とか、学術を知りたい、
それでその言語を深く知ることによって、我々も毎日、漢字を使ってますから、
それでもっと素敵な文章が書きたいという、皆さまとそれを共有してゆきたいということですから、
もう非常にシンプルではっきりした目的ですよ!
それでやってるんですよね。
ですから、言語と文字のデュアリティという観点から探究してゆき、
そして、漢字は字形と字義と字音のネットワークだからこそ、
漢字はやはりユニークじゃないかと!
それを更に掘り下げて調べていこうじゃないかと!
言語の用例や辞書のデーターベース(ThesaurusやCorpus)と言いますけれども、もう、言語学とか、文字学のデーターベースを作りたいと思って、
もうコンピューターが今あるから、沢山の情報を皆でまとめてやっていく、
もう一人の範囲をはるかに越えてきていますからということで、
文字学、音韻学、訓詁学、形態学とか、書誌学、考古学、言語学、人類学とか、もう幅広い観点から、論証をしてゆき、
私はこの問題をもうありったけの知性と情熱を注ぎ込みまして、幅広く、奥深く、粘り強く、考えていきたいと思っておりまして、
今後はものすごい人を巻き込んで、以上のそうした予想(conjecture)とか、発想をかなりユニークだったかもしれないということですけれども、
それを推し進めてゆける、一つの共同作業体を生まれていったら嬉しいと思ってるんですよ!
そのストリームが形成されてくるという、それはもうエキサイトじゃないかということで、
それでKF-Scholaをやっているんですよね。
そうすれば、我々の日本語の半分以上、いっているのかな!?それは漢語ですよね。
ものすごい数の言葉があるんですよ!
それは我々はもうやはり漢字文化圏に生きていて、
日本人にとってもそうだし、漢字文化圏全体に生きている人たち全体にも関係するから、
そうした今たくさんの語源が流れ込んでいるのではないかという、こうした発想を基に辞書なども、全て一から書き変わるというくらいの衝撃的な発見じゃないなと思うんですよね。
ですから、今まで印欧語族とか、比較言語学の研究は、古くから進んでいたから、
やはり、英語でも、フランス語でも、ラテン語でも、ギリシャ語でも 、ペルシア語でも、サンスクリットでも、かなり、その言葉には、語源が、結構、辞書にちゃんと書いてあるんですよ。
それはもう一生懸命もう皆、学者が喧々諤々やって固まってきたことです。
漢語はまだそれがないんですよね!
本当に新しいんです!ここは今ホットなんですよね!
もうここ40年くらいで本当に分かってきたことが多くて、
ですから、以上のような発想でスキームで推し進めてゆけば、辞書も書き変わるんじゃないかと思ってまして、
すごい面白い所と思ってもおります。
ですから、そもそも答えが分からないところから、考えて、一生懸命に考えて、答えを一生懸命に調べて見つけてゆき、
更に論証をしてゆき、小さな気づきから大きな発見へという、
これは、やはり、更にそれを説明して、共有したいということに関して、
大量の事例を根拠として論証していくことが必要だから、
これはまさに探求そのものであり、科学じゃないかと思います!
それがこのKF-Scholaにおいてやりたいことですよね。
もうまさに!
それで私は少しでも事実に近づきたい!
これはもう当時の人がどう考えて、どう思って、そうしたことが起きて、そうしたことが行われたかを知りたい!
その知性のダイナミズムではないかと感じていまして、時代とか場所が異なる人たちの共感をどのように、どんどん、どんどんしてゆきまして、
ああ、そうなんだ、その人たちはこういう発想なんだと!
ただ、その事実をデータとして見るのではなくて、
当時の人たちと同化してゆく、まあ、私はよく愛し合うといいますけれども、
それは、本当に一方的ではなくて、
当時の人たちと、そのままになっていく、
そうしたヒューマンのチャーミングな人間味のあるユニークな探究と思っております。
そうした形で、それにしても、今回のこの「各」はすさまじかった!
もう、100近い諧声系列の字があって、
それで「各」から生まれた形声字があって、
その一つのこの木偏が付いた「格」だけにしても、
もう10本以上の別の語源を見つけちゃって、
また、もっと見つけるかもしれない、今の状態というのは、もうどんどん、私は常に探求をしていって、
それでもっともっとより確かな事実に行きたいということで、
そうした私の予想(conjecture)は、もう既に数十の諧声系列の漢字たち、即ち、数百の漢字についても、
いずれもエレガントにシンプルに漢字が多義であることを説明できるため、
こうして違う語源が注がれていることを含めて考えていくと、
数多くの実例を検証して確信がより深まったんじゃないかなと思います。
もう本当に皆さんも、ですから、どうかこのような線で考えて見て下さいということでして、
皆さんと一緒に探究をしてゆきたいと、
本当にKF-Scholaらしくなってまいりましたと思います。
ですから、もう今後ともKF-Schola、
人間のユニークな系譜を探求していきたい!
何とぞどうぞよろしくお願いします。
もう、どうか応援をして頂けて、温かく見守っていただければと思います。
今回も本当にありがとうございました!