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六書の「仮借」のまとめと漢字のシステムを探究するアイディアの源泉です。漢字的獨特性系列 Unique Chinese Characters

漢字のユニークさを探究!新たなシリーズ始まりました!漢字の構造を字形、字義、字音から、漢語の系譜を起源からたどります!字幕もぜひご覧くださいませ!暖かいお言葉かけを下さりましたら、SNSでシェアー下さりましたら、今後の制作の励みになります。KF-Ars Sinica、KF-Scholaと併せて、何卒よろしくお願い申し上げます。

2021年10月8日

皆さま、こんにちは!

KF-Ars Sinica(系譜でたどる中華文化)で漢字のユニークさを探究しようというシリーズが続いておりまして、

《説文解字》の序文にあります六書のうち、

初めの四つが、文字の構成として、前回はもう最も難題と言われる転注!

これは何を意味しているのかと考えていきましたけれども。

転注を実際の文字を言語に対して、どのように用いてきたかということで考えてみました。

その結果、転注について、多分これ以上は考えようがないんじゃないかという結論に達していまして、

これで解決してもいいんじゃないかという確証を得られたじゃないかなと!

それで今回もかなり、これから激しくなると思いますので、

まぁ前回の動画をご覧くださいと宣伝だけしておきますけれども。

ここでちょっと私の発想の大前提として、

先ず、漢字の表記体系が誕生して発展してきた過程。

そういった事実を洗いざらい確認しまして、

その結果、転注が何を意味しているのかを解釈したということが肝心だったんですよ。

それは六書を説明する文章に捉われなく、事実を見たということなんです。

それで思ったんですよ!

西洋でも歴史学に対して、考古学が生まれてきましたし。

清代でも今までの訓詁学に対して、考証学が生まれてきました。

それはどういうことかと言いましたら。

書物に書かれた文章を理解するとき、

その中だけで閉じていてはだめだと、

事実を見なければ、本物に触れなければ、意味がないんじゃないかと!そういうことあったわけですよ!

全てにおいて、やはり、事実に勝るものはないわけです。

やはり、事実を見た人が、聞いた人が、後世に伝えたいということで、文章を書いて、書物として伝えられてきたわけですから。

だから、それをきちんとものと記録と合わせてみたいということになるわけなんですよ。

そして、もう一つ私の発想の新しさ、ユニークさとして、

漢字の表記体系をただある概念とある概念を対応付けたということではなく、

全体を見て、そこで起きている現象を抽出して、

少ない原理から全ての現象を説明したいと!

たったの三つの規則で、文字と文字の間の関係性が構築されているじゃないかということ。

それが複雑に見える体系の根底の構造じゃないかとお話したんですよね!

それは、字形、字音、字義の類似性という条件において、ある文字と別の文字が関連付けられて、

お互い意味を共有し合って、元はなかった意味が注ぎ込まれて積み重なることではないのかと!

それが転注ではないかと考えたことですよ!

その結果として、漢字が実際に使われてきた現象を気持ちよく説明できて、

今までの学説はまあ合っている部分もあるけれども、

その一つの断面を言い当てたんじゃないかということが分かったんです。

それで一つ、どうして、そういう発想になったのかということをちょっとお話したくなっちゃったんですよね。

私はもうどかんと物理学に興味を持ってまして、

物理学の発展でもそうですけれども、

ニュートンの古典力学(Isaac Newton (1687). Philosophiæ Naturalis Principia Mathematica, London: Joseph Streater.)がありまして、

それをラグランジュの解析力学(Joseph-Louis Lagrange (1788-89). Mécanique analytique, Paris: Veuve Desaint.)に書き換えて、

まあオイラー=ラグランジュ方程式という形で表現されたんですけれども(Leonhard Euler (1736) Mechanica sive Motus scientia analytice exposita, Petropoli: Ex typographia Academiae Scientiarum.)。

更にアインシュタインが、相対性原理を導入して、空間がこういうものだと絶対空間という発想を打破して、

新たに相対性理論を提唱しましたけれども(Albert Einstein (1905). Zur Elektrodynamik bewegter Körper, Annalen der Physik 17: 891-921.)。

実はその新しい理論の極限における近似が古典力学だった(また、量子力学をプランク定数をなくして近似した理論が古典力学となります。故に相対性理論も量子力学も、古典力学の後継であり、その拡張や一般化であると考えられます)!

即ち、特殊な状態である部分を古い理論は表していたことが分かりました(新しい理論は古い理論の一般化であるということです)。

ですから、ニュートンの理論が間違ってたわけではなくて、

実際に今でもその理論で工学とか、日常でしたら、とても重宝されて運用されています!

それどころか、 解析力学は、先ほどラグランジさんのラグランジアン(Lagrangian)!

これはもう最先端の現代物理学でも、素粒子の標準理論、弦模型の超対称性理論、メンブレーンを記述するときでも、

非可換ゲージ理論と言いますけれども、ヤン=ミルズ場(Yang Chen-Ning & Robert Mills (1954). Conservation of Isotopic Spin and Isotopic Gauge Invariance, Physical Review. 96 (1): 191-195.)!

そこまで拡張されても、 そこでも使えるわけなんですよ!

そういったシステムによって、自然にある力の統一をしたいっていう方につながってなっていく、

そうした原動力になってるわけなんですよ。

同じシステムで昔に発送されたものが、形を少し変えながら、解釈を変えながら、

もう生き長らえていることなんですよ!すごいことですよね。

新しい発想にも適用できちゃうことですから!

それを専門的に言えば、基本相互作用の統一場理論と言いますけれども(Gunnar Nordström (1914). On the possibility of unifying the gravitational and electromagnetic fields, Physikalische Zeitschrift 15: 504-506.、Hermann Weyl (1918). Gravitation und Elektrizität, Sitzungsberichte Akademie der Wissenschaften Berlin: 465-480)。

それを構成するとき、基本的に今の自然にある色んな現象は四つの力でまとめられるんじゃないかという所まで来ていますね。

一つは強い力、ゲルマン=ツヴァイグのグルーオンによるクォークの閉じ込め(Murray Gell-Mann (1964). A Schematic Model of Baryons and Mesons, Physics Letters. 8 (3): 214–215.、George Zweig (1964). An SU(3) Model for Strong Interaction Symmetry and its Breaking, CERN Geneva TH-401/402.)。

量子色力学(Quantum chromodynamics, QCD)
(Kenneth Wilson (1974). Confinement of quarks, Physical Review D. 10 (8): 2445-2459.など)。

それに電磁相互作用と言いますけれども、マクスウェル理論(James Cleark Maxwell (1865). On a dynamical theory of the electromagnetic field, Philosophical Transactions of the Royal Society of London 155: 459-512.)

それを更に量子化したディラックの量子電磁気学(Quantum electrodynamics, QED、Paul Adrien Maurice Dirac (1927). The Quantum Theory of the Emission and Absorption of Radiation, Proceedings of the Royal Society of London A. 114 (767): 243-265.)。

それに弱い力はフェルミが見つけて、(ベータ崩壊の)実験をして、理論まで考えちゃった(Enrico Fermi (1934). Tentativo di una teoria dei raggi beta, Nuovo Cimento 11: 1-19.)。

そして、ワインバーグ=サラムさんたちが、マックスウェル=ディラック理論とくっつけちゃいまして、電弱理論(Electroweak Theory, EWT)を作っちゃったんですよ(Abdus Salam; John Clive Ward (1959). Weak and electromagnetic interactions, Nuovo Cimento. 11 (4): 568–577.、Steven Weinberg (1967). A Model of Leptons, Physical Review Letters 19: 1264-1266.)!

それでフェルミオンとボソンの関係、そこにヒッグス機構といって、質量を出したいと(対称性の破れを)持ち込んだりしてやってましたけれども(Peter Ware Higgs (1964). Broken symmetries and the masses of gauge bosons, Physical Review Letters. 13 (16): 508-509.)。

そして最後に重力相互作用、アインシュタインの一般相対性理論(General relativity)ですね(Albert Einstein (1915). Die Feldgleichungen der Gravitation, Sitzungsberichte der Preussischen Akademie der Wissenschaften zu Berlin: 844-847.) 。

これが厄介でしてね。

最初の三つは大統一理論(Grand Unified Theory, GUT)と言うんですけどね(Howard Georgi; Sheldon Lee Glashow (1974). Unity of All Elementary Particle Forces, Physical Review Letters 32: 438-441.)。

それで上手く数学的な構造、同じ構造でゲージ変換と言いましたり、更にそれを超対称性変換(Supersymmetry, SUSY)をしまして、SUSYちゃんでフェルミオンとボゾンを入れ替えたりしてすごく上手くいけて、すごくきれいな非常にちゃんと整った形ですけれども(Jean-Loup Gervais; Bunji Sakita (1971). Field theory interpretation of supergauges in dual models, Nuclear Physics B. 34 (2): 632-639.、Юрий Гольфанд; Евгений Лихтман (1971). Расширение алгебры генераторов группы Пуанкаре и нарушение Р-инвариант-ности, Письма в ЖЭТФ 13 (8): 452-455.)。

まあ、それは理論上ではありますけどね。統一できるんですよ!

でも、量子重力理論はどうしても、アノマリー(anomaly)が、もう解決しようがない困った!発散しちゃったり、それが回避できなくて、しょうがないと!

そうしたら、もう今までそうなっちゃうのは、点(point)で考えているからだと。紐(string)じゃないかと言い出して、紐が振動しているんだと!

それで素粒子じゃなくて弦模型だということで(ハドロンの弦模型を構想してLeonard Susskind (1969). Structure of hadrons implied by duality, Physical Review D. 1 (4): 1182–1186.)、

更に今いったフェルミンとボゾンを交換できる演算子があるんですよ!

それで超対称性の発想を導入して、究極では超弦理論(Superstring theory)!

弦模型がスーパーになっちゃった(André Neveu; John Henry Schwarz (1971) Factorizable dual model of pions, Nuclear Physics B, 31 (1): 86–112.)!

それができて、まあ、超弦理論がいっぱい出てきて、もうどうしようもないから、

それをまた綺麗に整理していって、ウィッテンのM理論に行くわけですけれども(Edward Witten (1995). String theory dynamics in various dimensions, Nuclear Physics B. 443 (1): 85-126.)。

物理学者は色んなこういった理論が生まれていきましたときには、

先ずそれら同士の類似性や関係性を考えて、統一していったんですね。

どういうことかと言いましたら、ゲージ不変量と言いますけれども(ネーターの定理で対称性と保存則が数学的に厳密に結び付けられまして、Emmy Noether (1918). Invariante Variationsprobleme, Nachrichten von der Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen. Mathematisch-Physikalische Klasse: 235-257.)。

まあ、先ほど出てきた一番、最初のもう一番、古典的(classical)な形、

オイラー=ラグランジュ方程式から、数学者は、それをシンプレレクティック多様体(symplectic manifold)という面白い数学的な構造をもう発想してきて(Claude Godbillon (1969) Géométrie différentielle et mécanique analytique, Paris: Hermann.、Alan Weinstein (1971). Symplectic manifolds and their lagrangian submanifolds, Advances in Mathematics 6 (3): 329-346.)、

そして、ヤン=ミルズ場における、ドナルドソン不変量、サイバーグ=ウィッテン不変量など(Simon Donaldson (1983) An Application of Gauge Theory to Four Dimensional Topology, Journal of Differential Geometry 18 (2): 279–315.、Nathan Seiberg; Edward Witten, (1994). Electric-magnetic duality, monopole condensation, and confinement in N=2 supersymmetric Yang-Mills theory, Nuclear Physics B, 426 (1): 19–52.)、

きちんと何かしらの変わらない部分を考えておいて、これでそういったこと(理論の統一を)発送してきちゃうんですけれども。

実は物理学者が必要に応じて導入したアイディアを数学者が拾ってくれて、

それで公理から、厳密に定理を導くことによって組み立てて、買い直してくれている(ディラック作用素のアティヤ=シンガー指数定理など、Michael F. Atiyah; Isadore M. Singer (1963). The Index of Elliptic Operators on Compact Manifolds, Bulletin of the American Mathematical Society 69 (3): 422-433.)。

それで議論を強固にして、数学と物理学で補完し合ってくれてるんですよ!

これはすごいで大事なことでして、物理学者は結構アイディアマンすぎて、もう別に細かい部分は気にしないで、もう必要だから考えちゃう!

ところがそれを真剣にきちっと組み合わせてくれてる非常にありがたいんですよということがありまして、

また、種明かししましたら、私は言語と文字のデュアリティ(双対性)をずっと言ってまいりましたけれども、

漢字のユニークさを探究していきましょうシリーズでもうモットーになっちゃった(笑)

それは実は今お話してきたような理論物理学における反ドジッター空間(Anti-de Sitter Space, AdS)と共形場理論(Conformal Field Theory, CFT)の対応、

まあ、これは先ほど言ってきましたゲージ理論と重力理論の双対性、ゲージ/重力双対から発想したんですよ(Juan Maldacena (1998). The Large N limit of superconformal field theories and supergravity, Advances in Theoretical and Mathematical Physics 2 (4): 231–252.)!

以前ちょっとそれにぱっと触れたことありましたよね。

そのデュアリティ(双対性)の歴史、実はちょこちょこっと書いてあったんですね。よく見て頂ければと思いますけれども。

(当シリーズの)最初の頃です。

それで言語と文字、文字と文字の関係性の構築という発想、文字と文字のネットワークと言ってましたけれども、

これらのアイディアは、どこから来たんだと、お話したくなっちゃって、こんなことがありまして、

ロジャー・ペンローズさんがスピン・ネットワークを発想してしまいまして(Roger Penrose (1971). Angular momentum: an approach to combinatorial spacetime, in “Quantum Theory and Beyond”, Cambridge: Cambridge University Press.)、

それが、ループ量子重力理論(Loop Quantum Gravity)に応用されて(Carlo Rovelli; Lee Smolin (1990). Loop space representation for quantum general relativity, Nuclear Physics, B331: 80-152.)、

更に時間まで量子化されてしまいまして、

離散化された時間で遷移を与える作用積分を書けて、

スピンフォームといいますが、更に空間の量子化、時間まで量子化しちゃったもので書いちゃえという、

それでいけるんじゃないかなという研究が出来ましたて、

そういうところから(文字と文字のネットワークの発想が)来ています(John C. Baez (1998). Spin foam models, Classical and Quantum Gravity. 15 (7): 1827–1858.)。

しかも、文字を結びつける字形、字音、字義と言ってますけど、三つあります!

それはハドロン物理学における量子色力学(Quantum chromodynamics, QCD)。

先ほど強い力で出てきましたけれども。

その中で量子数がありますが、色荷(color charge)と(色の三原色のアナロジーから)いいまして、

それは三つのパラメータで構成されているんじゃないかと分かっていまして、SU(3)cのゲージですけれども(Harald Fritzsch; Murray Gell-Mann; Heinrich Leutwyler (1973). Advantages of the color octet gluon picture, Physics Letters. 47B (4): 365-368.)。

これは、私は三であることにピカーンと勝手に来てたんですよ。

実は私の頭の中でね!そんなことを話してしまうと複雑になってしまうから、今までは披露してまいりませんでしたけれども。

これで関係なさそうな、今言ったような理論物理学における相互作用の統一理論を話しながら、

私の頭の中では言語と文字、漢語と漢字の世界も同じように見えているんだとお話したかった!

そのように発想しちゃうわけですよ!

これでかつやはり、そういった形で人類の知性をフル活用して、自然の構造を解明してきた物理学者、論理学者、数学者たちに敬意を表して感謝したいということで、こんな前置きになりましたけれども。

数学においても、そもそもゲージ群を使うわけでして、その群構造は天才ガロアまでいっちゃうわけですよ!

それからブルバキ《数学原論(Éléments de mathématique)》とか、本当に少ない公理から、 あらゆる定義を導き出して、数学を組み立てたい、導き出したいという運動がありまして、

それが、構造主義(structuralism)と言いますけれども、 そういう形で人文分野でも、拡大解釈されて影響を与えまして、

結構こうした科学の方で発展した発想が人文でも役に立ってるんですよ!それが言えます!

だから、あながち、ひっちゃかめっちゃかじゃない、と言いたいです(笑)

だから、そういった関係性の構築は、

そもそも言ってみれば、龍樹(Nāgārjuna)《中論(Mūlamadhyamakakārikā)》がありますが、

無自性空(niḥsvabhāva)だと、全ては空(śūnyatā)だというところから、関係性で世界を組み立ててゆく、

これは華厳哲学とか、これは仏教哲学の世界の描像なんですよ!

ですから、ある概念やある現象、そのものを見るんじゃなくて、

別の概念や別の現象と根底に共通する構造構造の類似性を発見して、

それらによって、関係性を構築してゆこうと!

だから、ものすごい数の概念や現象を少ないルールでお互いに結びつけていくことに長けてるんですよ!

トーナメント方式に先ほどみたいにあらゆる自然の力総合作用を統合して行こうとしたときに一つの方式で全てを記述したいということですから、

だから、そういった形で私の中では、もう本当に色んなことに興味がありまして、

それらの知見を直接は関係がなくても、こうして発想の根底には関係し合っているということは、今日話したかったことでした。

それでは、そういった形で発想されました内容にいきすけれども。

特に言語と文字、文字と文字を対応付けてきた。極めて大切な今までも連呼してまいりました。六書のうち、最後に置かれている「仮借」を実際に見てまいりましょう!

やはり、 この許慎さんの説明が、八文字「本無其字,依聲託事」書いてありますね!

これはもともと字がないところに声、音が一緒だから書きましたと。字は当てた!

声によって事を託す。そういう意味です。

それはもう意味が分かります。

今まででもすごく仮借は、もういっぱい出てきて、お馴染みになっておりますから、いいと思います。

それでこの二つの字例「令」「長」から初めてゆこうと、

今まで通りに最後まで徹底してまいりましょうということでいきましょうね!

仮借の世界にいきましょう!

こちらですね!

「令」「長」 と二つの文字を出してまいりました!

いつものように上古漢語の再構、鄭張尚芳さんとBaxter-Sagartさんと(James Mattisoff教授のSTEDTによる)漢蔵祖語の語源、もしくは関係する言語の語源を調べてまいりまして、分析して書いてありますけれども。

そうすると、実は「令」は「聴く」という意味じゃないじゃないかと!

ですから、先ず字源を見ますと人が座っている形「卩(せつ)」 という字になりますよね。

この部分「令」の「卩」の部品にありますよね。

それに上にこのついているの、口が逆さの形「亼」なんですよ。

それでも思い出したんですけれども。

前に「今」という字を考えてちょっと話した時があったんですよね。

そこで「含」(「今」+飾符「口」による分化)という字もそうですけれども 。

やはり、口が逆さの形「亼」は出てまいりました。

これでこのように「令」は人が座って聴いている形をしてますけれども、

元の字はここにあります「耳」を付けた「聆」*reːŋ, *[reːŋ]じゃないかと考えられて、

意味はもちろん一緒ですけれども(《説文解字》「聆,聽也」)。可能性が高いんですよ!

ちなみに「聆」*reːŋ, *[reːŋ] > leŋ > língは、中古漢語でなぜか len で r が l になり、現代漢語にも引き継がれています。

こちらの「聽」*l̥ˤeŋ, *l̥ˤeŋ > tʰeŋ > tīngもありますけれども、こちらもので l です。この l 無声の l̥ は中古漢語になると tʰ にいっちゃうんですよね。l がtになる!

これもKF-Scholaでやりましたよね。

それでありますから、今では現代漢語tīngと読んでますよね。

だから、現代漢語ではこちらは「聆」líng、こちらは「聽」tīng ですよ!

両方とも違う音になってしまっているけれども、

最初の時は l と r は非常に混同されていることが多いということは分かるんですよ。

両方とも「きく」という意味です。

これで見ますと、これはやはり聞いてる形をしていますけれども、これはやはり会意字と思いますね。

人が人の言う事を聞いてる様を象る象形字とも、二つの部品からなってるから、合体象形字とも考えられますが、言いにくいんじゃないかと、どうしてかと言うと、

音波は象形できにくいから、「口」の形を逆にして「亼」で表してるんじゃないかと!

ちなみに「彭」という字がありますよね。

太鼓の形「壴」に「彡」と入っている字ですけれども。

「彡」の部分が、音波を表すような。

でも、やはり、音波は見えないから、もともと象形できませんから、

音波を表わす記号として、意味を合成していると考えて言えるじゃないかと!

まぁ、でもこれは解釈の違いだから、

これが合体象形字して見ても、会意字としても見てもどちらでもいいんです。

大事なことは(独体象形、合体象形、指事、会意において)、書きたい言葉が表していた意味を図として描いていることなんですよ。

聞いてるという状態を言葉に当てて、文字を書いているわけですから。

つまり、字源を特定するとき、やはり、語源とも関係があるということですね。

言葉が何を意味してるのか、文字が何が象形しているのか、

それらを相互に確かめ合えるんじゃないかということが大事なことです。

しかも、この「令」*reŋ, reŋs, reːŋs, *riŋ, riŋ-sという字ですね。

上古漢語から考えていきましたら。私、語源は実は漢語ではない外来語の可能性があって、

タイ=カダイ語族、漢語を話していた祖先と近い所に住んでいた(現在は海南島に住んでいる)黎語Hlaiに関係して、

その更に(雷州半島に住んでいたとされる)古い形、黎祖語*(h)leːŋ > *hliːŋから来ていて、それが入っていると考えられて、

即ち、外来語である可能性があるんですよ。

ちなみに「廳」tīng、「廷」tíng、「聲」shēng、「聖」shèngですけど、今は中国語になっちゃったけれども。

これらの言葉は、やはり、庁舎の「廳」ですから、 法廷の「廷」ですから、やはり、「聴く場所」という意味であった可能性があり、

それで「聲」とか、聖は下に耳も入っていて、ここにも、やはり「聴くこと」に関係している言葉でして、

それでこれらの漢字が関係するかと言えるんですね。

ちなみにこの「命」の方もやはり関係してきてしまいまして、

「命」を見ると下にも「口」がついてますよ!

本当に今でも「口」、この部分「亼」を「口」を反対した「口」ばかりが付いている!

それで上の口は逆「亼」、下の口は普通の「口」でして、

しかも、これは飾符(羨符)で前回も出てきましたけれども、

「又」から「右」に(分化して)行くときに付けてました。

抽象的にこれは「口」として意味がなくても(飾符は)飾りとして付けちゃう!

それで(仮借元と仮借先で)意味が違うから、分化字を作った!それも前回やりました!

それと同じ仕組みではないか!

そうするとこの言葉を見てに行くんですよね!次は「命」*mreŋs, *m-riŋ-sで*m- の接頭辞が付いて、派生させている!同じ語根を持っている!

それでこの語源を考えると、これはどうも漢蔵祖語で*r-mi(ŋ/n)でして、それでしかもこれを見ると似ているんですよ!

m と r が逆転している!まあ、これも前回出ました音位転換(メタテシス)かもしれません。逆になった!

しかも、「名」*meŋ, *C.meŋも関係してるんじゃないかと!同じ語源じゃないかと!

しかも、これらの言語としてかなり似ていると!

これもやりましたよね!「文字」の語源はどうかとやったとき、当シリーズにおいて語源も考えたことありました。

更に面白いのか「命名」という熟語がありますよね。

リンネの命名法など!

だから、やはりこの「名」*meŋ, *C.meŋは名前と関係していて、

更に命名に加えて、命令するという熟語もありますよね。

だから、先ほどの「令」とも関係してくるんですけれども。

こういった音位転換(メタテシス)を起こすときには、これ多分語源が違うじゃないかなと言っても、

似たような言葉とやはり引きずられて、 子音が転換してしまうということもあり得るから、面白いんですけども。

基本的に音韻対応という言語学上の理論があるんですよ。でも、理論通りにいかないのが、やはり人間でして、

とにかく、仮借の元と先を今見ていってる。

それがすごい大事でして、語源がやはり異なれば、やはり、元は別の言葉だったということでありますから、

この例が、 やはり、仮借である可能性はあるんです。

それで更に言えることが、ものすごく面白い話がありまして、

われわれは今、元号として「令和」を使っておりまして、

「令和」に加えて「令名」という言い方がありますよね。更にこの「令」に「名」を付ける。

これは「よい」という意味があるということですよ。

これそれはもう一つやはり語源が、こちらの「令」に考えられて、

それは別の言葉に(仮借をして)充てられたということですけれども。

漢蔵祖語*l(y)a(k/ŋ)ですよ!これは「良い」とか、「美しい」という意味なんですよ!

まさにそれで「良」*raŋ, *[r]aŋ、「麗」*reːls, *[r]ˤe-sと書いておきましたよね。

そうきましたから、「良い」と「麗しい」と「令」は、 全部、もともと同じ語源だった可能性があることなんですよ!凄いですよ!

しかも、先ほど(《管子·四時》「聽信之謂聖」など「聴く」として)こちらに入れてしまった聖人の「聖」。

これは実は《詩經·邶風·凱風》「母氏聖善」の中にも、聖善という「聖」に「善い」という言葉が出てきてまして(「聖善」に対して《傳》では「聖,叡也」とされますが、異なる解釈ができまして)、

聖人の「聖」、聖善の「善」という言葉は、やはり関係していて(《爾雅·釋詁上》「令,善也」とあり)、

それは前は「善い」と意味では一緒であって、善良という熟語もありますけど(即ち、語源を探索すると伝統的な四書五経の読みとは異なる読みもできます)。

それらで漢語と漢字がものすごく絡み合っていまして、相互に確認しながら、論証できているんですよ。

しかも、私たちが使う熟語は、非常に合理的に構成されていて、

大体、似た概念で組み合わせているということも分かってきているんですよ!

だから、今のことをまとめてみますと、やはり、「令」という字も、かなり「命」という字と関係していて、「命」が元の字だった可能性もあります。

つまり、「令」は聴く、「命」は名前を呼ぶ、「命令する」という概念であって、それらはかなり近いわけですから、

どちらが元の字だったかは、微妙ではあるんですけど(甲骨金文の用例では、「命令」として使われることが多いですが、それも「きく」からも意味を派生でき)、

もう字形では判断できないくらい近い概念で書いている!

でも、語源はかなり違い、継承されるから、仮借をして書かれているということが言えてこれたんですね。

しかも、本当に当シリーズで「長」やりましたよ!

「長い」という概念、長短の「長」、漢蔵祖語*(d/t)uŋと言います。

それと「長ずる」という概念、「大きくなる」という概念、成長の「長」は「張る」とか、「膨れる」、漢蔵祖語 *(d/t)aŋからきていて、

かなりその動画の中で言ってましたけれども。

「強くなる」とか、「張る」とか、「みなぎる」とか、そういう意味で弓偏の張さん、私の友達の名前ですけれども(笑)

「張」*taŋ, *C.traŋも、漢蔵祖語 *(d/t)aŋに関係しているわけですね!

張る! 膨張の「張」、拡張の「張」 「長じる」、「長ずる」は、「大きくなる」という概念ですよね。これは!

だから、実際は「長い」とか、「長さ」と「長ずる」「大きくなる」というのは、微妙に違う言葉だったかと!

その動画もかなり力説して話していました!

(元は漢蔵祖語の段階で語源が異なり、上古漢語の段階でも別の言葉であることから、)今の中国語でも、同じ漢字を使っていながら、読み方が違い(長短や長さの「長」はcháng、長老や長ずるの「長」はzhǎnɡで後者に*-sが付いた形の後継です。珍しくは、増長や増やすの「長」はzhàngもありまして)、意味ももちろん違う微妙ですけれども、 ということでありまして、

そこでものすごく話しましたから、ここでは軽く紹介するだけにしましたけれども。

許慎さんがこの2つの字を挙げたというのは、

そうした今のような事実を認識してたと言えて、

これも違う語源でしたから、明らかに違う言葉、仮借されて同じ字の中に(仮借元と先の意味が)入り込んで混じり合っちゃったという字例じゃないかと!

これは本当にすごいんですよ!

かなり前に 布石を打っておきましたけれども。

だから両方の字「令/命」「長/張」に関して言えることは、

「令」は聞く、「命」は名前を呼ぶ、命令するという概念であって、

それで「長い」と「長ずる」「大きくなる」も、全部、何かお互いに似てるんですよね。

だから、昔から混同されていて、実際に逆にこれ(「長」の甲骨金文)も、老人が杖をついているみたいな形をしていまして、

これも前回の「老」と同じですけれども、

長幼(でも構いませんが、長老の言いまちがえ)の「長」を指している図で書いているという可能性があって(《廣雅•釋詁一》「長,老也」とあり、長寿という熟語も前回に出てまいりまして)、

逆にそれが長さに感謝された転用された。

しかも、字形も長く髪の毛が伸びちゃっているんですよね!

それで「令」も先ほどこちらの「聴く」方が、字源みたいに言いましたけれども。

むしろ、「口」は(意味を書き分けるために)分化するときの飾符のみならず、「命」に行くときに意符「口」としても解釈ができて、

逆に命令の「命」の方が、本当の意味で作られた文字だったという可能性はあります(甲骨金文では「令」は「命じる」が多いですが、「王成周令(鈴)」としても使われており、「聴く」である可能性を必ずしも否定できません。)

本当に指していた字形は仮借された方の言葉に母屋を取られてという面白い表現ありますけれども。

分化字になってしまった!前回もいくつか見ましたよね!

でも、「耳」がついて、残っているものもあるから、こちらかもしれないということで字形もかなり判断が難しいです!

ですけれども、やはり違う語源の言葉が入っているというのは事実です!これはどれが先だったか分からないにしても仮借はされていました。二つとも正しい!

許慎さんは正しい例を挙げた!ということを見て来れたと思います。

次の例も「無」「舞」! これもやりましたよ!当シリーズで徹底的に否定辞と代名詞をやりました!

そちらでご覧くださいと今日は古い動画を宣伝しまくってますけれども(笑)

語源が、やはりここに全部書いておきましたけど、

やはり全部違うんですよね!

徹底的にこちらでやりましたから、今ここで私が言いたいことは、

本来の字「無」がこの踊りを図で表していました。

それが否定辞や代名詞に(仮借により)取って代わられてしまいましたから、

明らかに語源が違う言葉に使われてしまいましたから。

足「舛」をつけたり、机「丌」をを付けたりして、

更に竹冠「竹」(の意符)を付けて、本来の字形からどんどんで分化されて区別されていくんですよね。

それで元あった字はもっと複雑な字になって、

むしろ、そちらに取られてしまうというのは、

仮借された先のあるとか、ないとか、それとか、あれとか、こういう言葉(代名詞)はいっぱい出てくるから、画数が少ないほうがいいわけですから。

元あった字の方が役に複雑な画数が増えて、こういった形になって残っていることです!

先ほどの(「令」に)「耳」をつけて「聆」とか、「口」で飾符を付けた「命」も同じ理屈(分化字)です。

これとか、こうした意符をつけて(形声字にして)分けてしまう。

「張る」という字でもそうですよね!意符「弓」が付いてる!弓が張るからという作戦をとることがありますよ
ね!

ということで、面白い補助的な資料としても、こういった例がいっぱいありますから、

本当に「無」以外にもやりましたよね。否定辞はみんな仮借!そういった文法的な 概念(虚詞)ですから!

これで「我」*ŋaːlʔ, *ŋˤajʔ < 漢蔵祖語ŋa-y ⪤ ka(「錡」ɡralʔ, m.ɢ(r)ajʔ、「鋸」kas, k(r)a-s)も「汝」njaʔ, naʔ < 漢蔵祖語na-ŋ(「女」*naʔ, *nraʔ < 漢蔵祖語*nja-ŋ/k)もそうですね!

皆そういった仮借で書かれているということでして、 次の例ですけれども、これもやりましたよ!

もう、漢数字についてもかなり前に特集がありました!

今まで沢山もう布石を打っておいたんですよ!

KF-Ars Sinica(系譜でたどる中華文化)にて(笑) もう、色んなところで理解をするための材料を巻いてきたみたいですけれども。

というのも、漢字にはあまりにも仮借が多いです!

音を当てて書いた言葉が多いんですよ!

これでもうの漢数字の特集でもうやりましたから、こちらでご覧下さいと言いたいわけですけれども。

それから、私はいつも色んなことを考えてきて、

新しいことをちょっと披露したいですいうことでして、ここでちょっと見てみたいと思うんですけども。

それは一般的には、この「四」はここにありますね。

鼻水「泗」で残ってますけれども、それではなくて、鼻息「呬」を仮借したんじゃないかと言われていますけれども。

でも、私は鼻水「泗」と考えました!

どうしてかというと、 もう字形上では、もう決着はつきませんけれども。音韻上では、やはりちょっと違うんですよ!

それでそのことについてちょっと深めてみて参りたいと思うんですけども。

鼻水「泗」 versus 鼻息「呬」ですけれども(笑)

先ず、鼻水「泗」*hljids, *[s.lij-s] < siɪHは、漢蔵祖語*b-ləy-kです。

そして鼻、息「呬」hrids < hˠiɪHは、漢蔵祖語s-britでして、鼻水「泗」の語源、漢蔵祖語*b-ləy-kの意味は「涙」という意味、それで(上古漢語で)鼻水「泗」だけでなく、「涙」という意味もあります(《廣韻》「泗,涕泗也」)。

そしてこちらは、鼻息「呬」で語源も鼻息です。

漢蔵祖語s-britのbi部分が「鼻」という意味ですけれども。

それでもう一つ「鼻」に関係して「息」という字です。

自分の「自」*ɦljids, *s.[b]i[t]-sはもともとこれ鼻の形の象形ですね。(仮借される前の言葉「鼻」*blids, *m-bi[t]-s, Cə-bi[t]-sに漢蔵祖語*biがありますから) ということでありますけれども。

「息」*slɯɡ, *sək > sɨk̚ですから、かなり音が違うんですよ! だから、正しくないから、私は書かなかったですけれども。

概念も似ていて、字形も古い形では、鼻から息がプシューと出る形ですけれども。

やはり、「息」*slɯɡ, *səkを遡ると漢蔵祖語*m-sakですから、これは「息」です。もしくは、「生きる」「命」という意味がありますけれども(漢蔵祖語と日琉祖語で同じように「息」から「生きる」という意味を導いていますから同じです。)

言葉としてはまったく別じゃないかなと思いまして、まあ、戻ってみますね。

そこで思ったんですよ! それではどうして私が、鼻息説「呬」を退けて、鼻水説「泗」を採るのかですね。

まず数字の「四」*hljids, *s.li[j]-s > siɪHでして、漢蔵祖語*b-ləyです。

漢蔵祖語の段階でもう既に鼻水(の語源の涙)b-ləy-kはkが付いてます!これは接尾辞-kですから、全く同じ音でした!

当たり前ですけれども、上古漢語「四」「泗」*hljids, *s.lij-sも、中古漢語siɪHも全く同じです(現代漢語も、官話sì、粤語sei3, si3ともちろん同じです)!

即ち、鼻水「泗」、「氵」に「四」と漢数字「四」は、漢蔵祖語、上古漢語、中古漢語、現代漢語と全部一緒の音だから、(特に漢蔵祖語と上古漢語の一致から)仮借したと考えました!

普通は仮借をするにしても、微妙に音は違ってましてね。逆にを全く同じっていうのは、珍しいですよ!

ですから、次元を考えるときも、やはり、漢蔵祖語、上古漢語、中古漢語など、文字学だけでは解決できない問題も、音韻学や言語学まで射程に入れると論証の精密さが上がります!

それは当たり前ですよね!

音韻学と文字学、音と形、相互に深い関係がありますよ!

それは言語と文字のデュアリティ(双対性)です!

どこまでいっても、文字は言語を書いたものですから、こういった、ものすごい一致!

ちなみにこちらの鼻息の方は、漢蔵祖語s-britで鼻水の方はb-ləyではないでしょう!

だから、これは全く一緒です!相当、説得力がありますよということであります。

まあ、もう文字としては、これ鼻水たらりーんなのか、鼻息なのか微妙なところです!

郭店楚簡《老子甲本》も、春秋時代の金文も、微妙な所です!鼻の形をしているけれども!

だから、文字上では、もう絶対に決着がつかないということでありましたけれども。

「九」に関しても、これもあれから、また更に考えたんですよ!

それで披露してみたいと思うんですけどね。

一般的にはこの「寸(肘)」か「厷(肱)」の仮借と言われているんですよ!

前に漢数字を取り上げたとき、私は字形の観察の結果。

この肘じゃないかという考え方に疑義を感じてお話してまして、

それでこの「己」とか、「記」「紀」、これらと関係あるじゃないかと言いましたけれども。

前回は(字音も紹介程度に話をしましたが、主に)字形だけでいきましたけども、詰めてきましたけども。

音韻の対応を観察した結果、

やはり、そちらからもこの肘を退けて、

肘を退けて、己が正しいと言うと、私が正しいという意味になってしまうけれども(笑)

本当に冗談ですけれども、二つの意味で「己が正しい」と思います。

先ほどの「四」と同じ考え方ですよ!

先ず、こちらの方で見ていきます。

今の説をちょっと検証しましょう!

語源がそもそも違うんですよ!

この「寸(肘)」か「厷(肱)」で(先ほどの「呬」*hrids, *― < 漢蔵祖語s-britと「息」slɯɡ, sək < 漢蔵祖語m-sak と同じように)混ざり合ってしまっておりますけれども、

後者の方「厷(肱)」*kʷɯːŋ, *[k]ʷˤəŋ < 漢蔵祖語kuːŋ < 南亜祖語koŋから入ったじゃないかという外来語説もありますけれども、

もう一つの「寸(肘)」*tkuʔ, *t-[k]uʔ < 漢蔵祖語*s-g(r)uの固有語で両方とも、

「厷(肱)」*kʷɯːŋ, *[k]ʷˤəŋ < 漢蔵祖語kuːŋ < 南亜祖語koŋは、木の枝みたいな意味でありました言葉で体から枝みたいに肘が分かれてるからという(アナロジーで)行ったんだろうけれども。

「寸(肘)」*tkuʔ, *t-[k]uʔ < 漢蔵祖語*s-g(r)uはこれ完全に肘という意味であります!

もう一つこの「寸(肘)」には問題があって、

もともと字形上、この字は甲骨金文の初期の段階ではなくて、

「寸」という字が入っている尊敬の「尊」*ʔsuːn, *[ts]ˤu[n] > t͡suənでして、

これの下の部分「廾」だけ、これ本当は青銅器、祭器を両手で持ち上げている手の部分の形「廾」が、後の時代に省略されて「寸」として残ったんじゃないかということです。

それで数字の「九」は、もう殷代の甲骨金文にありました!

ですから、その時代に見つからなことはおかしいんですよね。

それでこちらの「厷」*kʷɯːŋ, *[k]ʷˤəŋ > kwəŋは、甲骨金文にもあるんですよ。

しかし、前にもこれはお話したと思いますけれども。

甲骨文で刻まれた文章で見ても、本当に「厷(肱)」として使われるかどうかは分からない。

微妙でありますけれども、Baxter-Sagartさんたち上古漢語を再構するとき、

「寸(肘)」*tkuʔ, *t-[k]uʔ >ですけれども、

この「寸(肘)」が「九」に使われた文字ですが、文字学者の季旭昇さんの《説文新證》の意見を引用して、再構の根拠としました。

また、漢蔵祖語*s-g(r)uが、キュービット(cubitum)という、肘で長さを測る単位ということで、

その数字と関係あるんじゃないかというようなことで補強もしてましたけれども(Laurent Sagart & William H. Baxter (2014). Reconstructions of Old Chinese, New York: Oxford University Press: 31 & 155.では蔵緬祖語の例として、チベット文語ཁྲུ, khru、ギャルロン語「肘」tə²² kru³³が「肘」が挙げられます)。

文字としての存在とか、その時代にあったのかとか、 別の字の「厷(肱)」と「寸(肘)」を混同しているなどの説を基にしているから、間違いの可能性があるんじゃないかと気づいたわけですね。

言語学者は、音韻学はものすごく詳しいですけれども、文字学には明るくないから、文字学者の意見を引用して考えるしかないわけですよね。

そうするとこういう落とし穴があって、

両方に精通しないと気づかない場合があるんですよ。

もう相当、徹底的に考えていかなければいけない。

前にも言いましたけど、「又」の場合は、ここに少しひっかかりあるんです。

右手だったら、小指の部分に当たりますけれども。

数字「九」はこれはどう見ても真っすぐですよね。

それで金文では確かに手みたいにありますけれども。

(前にお話ししましたが、手にしてはグネグネ曲がり過ぎていて、)形になんか違和感があるんですよね。

それで数字では結構、一本パーンと棒が入るときあって(「百」や「千」など)、

元はS字形で抽象的な符号字である可能性もあります。

どうしてかというと、一から八までは符号字だった。あと「十」もそうです!

でも、十進法なのに「九」だけ、「一」「二」「三」「亖(四)」「五」「六」「七」「八」まで符号で来ていて、

まあ、「四」はいいですよ!これは元は四本線「亖」だったものが、春秋戦国時代に仮借されて、これ書き誤ったり間違えてしまう可能性があったから、変えたかも分かりませんけれども(領収書で使われる「壹、貳、參、肆、伍、陸、柒、捌、玖、拾」に似ています)。

それは四本「亖」あったからいいですよ!

また、「十」は一本立てに棒が入るわけですから、

「九」だけやはり仮借というのも変な話なんですよ。

統一性がないという意味でして、

まあ、前には一から四がセット、五から八までセットという、易の八卦と関係してるんじゃないかと、

八までは記数の符号であったかもしれないと(卦画が刻まれた資料を見ながら)お話しましたけれども。

そして、「十」*ɡjub, *t.[ɡ]əp < 漢蔵祖語gipも確かには金偏に「十」で「針」kjum, kjums, t.[k]əm < 漢蔵祖語k-ra(p/m)ですから音も似ていて、仮借されたという考え方もあるんですけれども。

一本線「丨」として書かれている抽象的な符号だという考えてもあって、

「九」も仮借字なら、確かに一から四がセット、五から八までセット、九と十はまたセットというセット理論は一定の説得力(セットと説得をかけた言葉遊び)があります(笑)

でも、やはり、「十」は「一」のような一本線と紛らわしくなるから、縦に立てた。垂直に立てた形「丨」で「十」となり、

「九」はS字型で抽象的な符号字である可能性もあるからということもありますけれども。

やはり、仮借という見方をしたら、

結縄という話をしました。以前に数字をやりましたとき、縄、縄の形である可能性があって、

それはどういうことかというと、結縄で記録をしました!

記録の「記」という字の古い形でこの糸偏の「紀」も縄に関係しているから(意符「糸」が付いた)だろうと!

それで「己」は「おのれ」に仮借されてしまって、

元は古事記の「記」、日本書紀の「紀」だったはずです!

記録の「記」、年紀の「紀」は、

言葉の語源を見ると漢蔵祖語*(k/ʔ)uk > *m-kuː(k/ŋ)で何かと言いましたら、私を驚いたんですよ!

「年」(k/ʔ)ukと「曲がる」m-kuː(k/ŋ)という意味が違いますよね!

でも、漢蔵祖語の段階でも、もう既に関係している可能性が高いと考えられる!同じ語根である!

じゃあ、「曲がる」m-kuː(k/ŋ)と「年」(k/ʔ)ukが結びつくのか、結縄と関係あるかもしれないと!

今話しているのは少しデータをどう見るかという部分に入っておりますけれども。

これで(結縄により農業をするため)年や数字を記録したことから、年紀という熟語がありますよね。

編年記とか、年代記、年紀(でもいいですが、紀年というつもりでして、《竹書紀年》という先秦の史書もありまして、) そうした熟語でも証左されるじゃないかと!

まぁ、記紀万葉、古事記、日本書紀、萬葉集と言いますけれども。

語源「年」(k/ʔ)ukと「曲がる」m-kuː(k/ŋ)、「記録する」という概念から、

歴史書(《竹書紀年》《史記》《古事記》《日本書紀》など)という形に行くんじゃないかと(しかも、「記」「紀」には、記録と時代という両方の意味が含まれていることが先に語源から確かめられました。)

そこで次はこう考えるわけですよ!

じゃあ、「己(おのれ)」という意味はどこから来たんだと!

私それも調べました!

先ず、語源として考えられるのは、

漢蔵祖語*(k/g)um, *guŋでして、STEDTでは二つ用意されていて、両方とも意味は「からだ」ですから、

これは統合される必要があるかもしれない!

別々に再構されて、(データベースの不備で)二つにデータが置かれたかもしれないです!

それで漢語にも入っていて、ここにありますよね!

「軀」*kʰo, *[kʰ(r)o]という、体躯という、熟語がありますけれども、やはり熟語!

それとこちらの「躬」*kuŋ, *k(r)uŋ、これも「からだ」と読みます。「み」と訓が付いています。

ですから、「軀」*kʰo, *[kʰ(r)o]と「躬」*kuŋ, *k(r)uŋが近い!

やはり、これは語源が一緒の可能性が高い!

しかし、もう一つの可能性がありまして、

漢蔵祖語*s-kəwは、「身体」とか、「胸」とか、「死体」いう意味もあります。やはり、「からだ」ですけれども。

それで極め付けが、今で仮借されたと、私が今、主張しております、

「九」と漢蔵祖語*s-kəwの段階で既に音が全く同じです!

子音と母音がすごいです!これもぴったんこ!

だから、先ず記紀万葉の「記」「紀」が、元の字として作られて、

それでそれが「己(おのれ)」の方にも仮借されて、

それで「九」とも、もう非常に(音が近いどころか同じのため、)まあ、赤で書かれていたり、黄色でハイライトされている関係の三つの言葉(「紀」*kɯʔ, *k(r)əʔ、「記」*kɯs, *C.k(r)ə(ʔ)-s < (k/ʔ)uk 、「己」kɯʔ, *k(r)əʔ < *s-kəw、「九」*kuʔ, *[k]uʔ < *d/s-kəw)です。

これらが関係している可能性はあります。

ちなみに「己」は、自分の体を指して自己、自分という熟語ありますけれども。

先ほど言いませんでしたが、これが鼻の形で自分の自、 やはり、「鼻」*blids, *m-bi[t]-s, Cə-bi[t]-s < 漢蔵祖語*biに関係して、これは(文字ができる前から、言葉の段階で)鼻を指して、自分だという意味で関係ある可能性があります。

それと、自分の体を指して、自分だという(英語でもsomebody, everybodyなど、身体bodyから抽象的な人称代名詞を導いています。)

そういうところが来ているだろうと!これは言葉上(で起きたことです。)

ここで最後に論証を完成させると、記録の「記/紀(己)」がなぜ「九」なのかと!

もう本当に子音が一致しちゃってる!

漢蔵祖語の段階で発音が同じでして、「四」(と「泗」)もそうでした!

それで音韻は規則的に変化をしますから、

漢蔵祖語の時点で同じなら、上古漢語のラウンドでも同じように変化して、同じ音である可能性の高いわけですよ!

字形も似ている字音も似ている!概念も似ている!字義も似ている!

そういった色んな角度から考えて、多分これじゃないかなと考えました(「己」*kɯʔ, *k(r)əʔ < s-kəw、「九」kuʔ, *[k]uʔ < *d/s-kəw)。

私はもともと物事を考えるときには、これだけが正しいというんじゃなくて、色んな説を一番正しいらしい説をいくつか持ってきて、

それの良いところ、悪いところを一つ一つ考えて取捨選択して考えていくんですけども。

ですから、この仮借の事例としても、これらの問題もきれいに片付いたと思うんですよ。

漢数字の特集のときは、主に文字学の方、字形の分析で説明しましたけれども、

ここでは言語と文字のデュアリティで言語学の方から、再解釈をして、厳密に論証してきました。

次は何が出てくるんだ!といいましたら、

方位「東西南北」が出てまいりました!

結論から言ってしまえば、今は仮借はテーマなんですよ !

それで方位もかなり抽象的な概念ですよね!

全て仮借です!

前に否定辞で致しましたように、語源は何か、字源はなにかと当てていきましょう!

先ず、「東」 *toːŋ, *tˤoŋの語源は、上古漢語で考えると漢蔵祖語*tuである可能性があり、これは「起きる」「起き上がる」と考えられて、

《説文》「東,動也」で動くとされていて、《廣韻》「動,出也」を見ると「動く」とは、「出る」ということでして、

まあ、太陽が出る所という可能性はあります(声符が異なる「暾」*tʰuːn, *[tʰˤur]もそうした意味です。)

ちなみにこのチェパン語थोङ्‌सा, thoŋ‑でも、そうした形になってますから。

でも、字形はここにありますね!

「橐(たく)」*tʰaːɡ, *tʰˤakや「束(そく)」*hljoɡ, *s-tʰokは「袋(リュックサック)」という意味ですけど、

「束」は縛っている袋ですが、それらに近くて、この二つの文字を甲骨金文でどういう字形であるか、字書を引いて頂ければと思いますけれども。

この字「東」はそこに何らかの一本を加えたりして、改造している形なんですよ。

音も近いんですよね。

更に「量」*raŋ, *[r]aŋと「糧」*raŋ, *[r]aŋとも(字形が)近いんですよね。

これはどうも米袋の形、もしくは袋の象形で更に見ていきましたら、

こちらの「重」*doŋʔ, *N-toŋʔがすごいですよ!人が背負っている!袋!これそのままです!

もう、そのまんま東じゃないか(笑)

これを同じ形が持ってますから、

今度この「重」*doŋʔ, *N-toŋʔを見てみるんですよ。

そうするとこの音は近いから入ったんだろうと!

非常に音が近い!そして、こちらの「重」の語源を結構、一生懸命、調べたんですよね。

まぁ、これ見ると人が座っています!先ほど、「令」のところで「卩」がありましたね。

人が座る形「卩」に袋の形「東」で特に古い文字は成り立ちます!

それで見ると「座る」という漢蔵祖語*m-(t/d)u(ŋ/k) である可能性はあるんですよね!

でも、「重い」はや、はり「座る」「留まる」から、「重い」に語義派生できるかどうか、ちょっと微妙でして、

私、結構頑張った「重い」という概念であるかと、

ですけれども、「重」には(漢語で)「きつい」というね意味もありますよね。

「厳重」とか、「きつい」という、あと「強烈」という意味もあります。

それは、やはり、どうも「膨れるとか」、それよりも「(ピンと)張っている」、先ほど「長い」で出てきました漢蔵祖語*(d/t)aŋの語源である可能性もあります。

音が近いわけですから!

だから、私がいつも言っているみたいに、一つから一義的に、この語源はこの漢字ではなく、漢蔵祖語*m-(t/d)u(ŋ/k)しか当たってないというわけではないわけで、いくつか考えられて、

(即ち、今のテーマの仮借をされて、)全部が混じり合っている可能性はあります。

それで特にこのムピ語thoŋ⁵ とカレン祖語*thəᴮは「重い」という意味ではっきり関係している可能性はありますけれども。

ここは結構、語源的には微妙なところではあるんですよ。

ですから、ちょっと提案という形でさせていただきたいですけれども。

漢蔵祖語と上古漢語の音韻対応を見ましたら。

接頭辞*m- > *N-は結構よくありまして、

そして、語根は t/duでして、 は、接中辞だから、u > oは多い。oは多い(笑)

今日は冗談が多いです(笑)

それで「東」もそうですよね。

u > o、tu > toŋ、この-ŋ は接尾辞、形態論的に到格の接尾辞(terminative suffix)-ŋの可能性があります。

まあ、こちらの*-kは分配の接尾辞(distributive suffix)かな。

まあ、とにかく、語根から派生させたいときのマーカーじゃないかと!

だから、少なくとも、今見えてきたことをまとめてみますね。

まあ、漢蔵祖語「座る」「留まる」m-(t/d)u(ŋ/k)は、確かにこの「重」doŋʔ, N-toŋʔの語源である可能性は結構高い!かなり近い!また、漢蔵祖語「きつい」「膨れる」(d/t)aŋも入ってる可能性もあります。

そして、「東」*toːŋ, *tˤoŋは袋、何故なら人が背負ってあります。

それで(字源として)袋の形をしているでいいんじゃないかと言えると思います。

そして、次の「西」ですけれども。

これは、先ず、語源から考えていきますね!

上古漢語「西」*sɯːl, *s-nˤərで漢蔵祖語*s-n(i/u)(ː)p/m ⪤ *r/s-nyap/mである可能性がある。

それをこれを見ますと「沈む」「入る」という意味でして、

「入(はいる)」*njub, *n[u]p、「内(うち)」*nuːbs, *nˤ[u]p-s、「納(おさめる)」*nuːb, *nˤ[u]p、「衲(なおす)」*nuːb, *[nˤup] という言葉でして、 上古漢語*r/s-nyap/mも入ってる!

これも同じ語源でありますけれども。

字源は結構、考えたとき、これは複雑でして、

もともと、これは塩(鹽)の袋じゃないかという説がありまして、

この「西」という字のいろいろと字形の古い形「㢴」(小篆)、「卥」(古文)、「卤」(籀文)、

まあ一番いいのは、甲骨金文を見てしまえばいいんですけれども。

それで甲骨金文を見るとこの点が中に入っているものがあって、それが「鹵」です。

今は字数をちょっと限るために(甲骨金文で)字は出てませんけれども。

それでこれは「鹵」*raːʔ, *[r]ˤaʔで漢蔵祖語*laと上古漢語では、r と l が混同されるということはよくあり、

しかも、「塩(鹽)」という概念だから、ここだろうと!(「鹵」が含まれる「鹽」*ɡ·lam, *[ɢr][o]mや「鹹」*ɡrɯːm, *Cə.[ɡ]ˤr[o]mの語源は別で*g-ryumです。両社とも漢蔵祖語で「塩」を意味します。)

しかも、全然、音が違うんですよ!だから、問題がありまして、そこで私考えました!

もう一つ(字源の候補として、季旭昇《説文新証》などで)言われてる「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sという、「恖/思」*snɯ, *[s]əの上の部分は、

頭蓋骨の上の泉門、赤ちゃんの頭蓋骨が閉じないから、十字に頭が見えるんですね!

上古漢語の音が「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sで「西/卤」*sɯːl, *s-nˤər!これ近いであろうと!

それで語源は、更に「恖/思」*snɯ, *[s]əも、「腦」*nuːʔ, *nˤ[u]ʔも、漢蔵祖語*s-nəw-kであり近い!これだろうと!

それで音がとにかく上古漢語の時点で「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sと「西」*sɯːl, *s-nˤər が近いわけですから、 「𠙷/囟」は「し」と読みますけれども。

だから、こちらから仮借しただろうと!

字形をを見てみますと、本当にこの字は袋と本当に似ているけれども、こうなっていて、 ここでちょっと面白いんですよ!

最初期の甲骨金文の字形で「西/卤」が結構ばらつきがあるんですよ。

私、全部違うものを持ってきましたが、全部合理的に解釈できるんじゃないか!

つまり、描いているものは、一緒なんじゃないか!?

これは髪の毛が見えますね!この三本で赤ちゃんのやはり頭蓋骨が閉じてない。まだ、発達してない。

これで泉門を象形したことから、子供の「子」が、甲骨金文の初期の字形「𢀇」、ここに出していませんから、字書で引いて頂ければと思いますけど、

ここに出て来る形でまぁ一応、(ものすごい画数が多くて)楷書化「𢀇」がされてはいるんですけども。

きちんと《説文解字》「囟,頭會腦蓋也」は理解してました!

この「囟」は頭蓋骨の脳蓋だと書いてあります。

頭の蓋、脳の蓋と書いてあります!

そして、この子供を象った「𢀇」の上の部分は、脳蓋を書いた泉門であって、

それで髪が生えてる形、三本がありますから、

だから、これちゃんと《説文解字》「𢀇,籀文子,囟有髮,臂脛在几上也」の字型の分析も正しくて、

この下の方は、ハイハイをしている足の方と言ってるんですね。

そちらは(今見ている「囟」とは)関係ないですけれども。

ですから、非常に面白いです! やはり、袋だと解釈できない!まあ、これ袋は開いているといえば、そうかもしれないけれども。

やはり、この形は他の字との関係性を見たとき、字形の関係性を見たときに、(きわめて類似性があるため、)合理的に解釈できます。「𠙷/囟」→「西/卤」や「𢀇/子」の方が!

だから、私は両者の音が非常に似ていて、「西/卤」*sɯːl, *s-nˤər、泉門を象った「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sで近い!

それですごいのが、実は漢蔵祖語の上古漢語「西」*sɯːl, *s-nˤərの語源と思われる*s-n(i/u)(ː)p/m ⪤ *r/s-nyap/mで上古漢語「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sの語源と思われる漢蔵祖語s-nəw-kが、既に非常にやはり近いですよ(特にs-n(i/u)(ː)p ↔ *s-nəw-k)。

それで実は上古漢語の再構は、かなり後の中古漢語を基にしているんですよね。

ここに書いたんですけれども、中古漢語を一応全部、きちんと書いておきました!

上古漢語、中古漢語で反切でそれが書いてあるんですけれども。

その時代には、もうかなり後になって、音韻的にかなり馴らされちゃって(漢蔵祖語、上古漢語の段階で異なる子音が同化したり、母音が変化して、)子音と母音が(変わっています。)

それで、実は漢字の祖先の文字体系(甲骨金文)が誕生した殷周ではなく、

戦国時代か、下手したら、《説文解字》など辞書が編纂された秦漢まで下さるくらいなんですよね(上古漢語の再構には楚簡の通仮や《説文》の諧声を用いており、特に後者は既に秦漢で文字の整理がされた後だからです。)

その上古漢語を復元するために使われる材料や資料がですから。

音がもう変わりすぎちゃってるんですよ。

千年の音韻変化はものすごいですよ!

形態素がくっついてて、きちっと分析して分かる形であったものが、どんどん同化していくとか、それと脱落したりして、音がどんどん言いやすく壊れていくんですよ。

即ち、6000年前の漢蔵祖語の究極な地点から確認することは、

上古漢語は下限としては2000年くらい前でしょうから、

そこまであったとすると、かなり時代が4000年もあるんですよ!

でも、その間ぐらいはこうだったんじゃないかと挟み撃ちをして、

漢蔵祖語と上古漢語、6000年前と2000年前、それで4000年前はこうだった!

間はこうだったんじゃないかなということで挟み撃ち!

私はサンドイッチ作戦とサンドイッチみたいに挟むから(と名付けましたけれども)(笑)

そして、上古漢語より古い形が分かるじゃないかと!

私は驚いていること、発見したことっていうのは、

仮借をされた元と仮借をされた先の音が、既に漢蔵祖語の言葉同士でもすごく似通っていましたよね。

まあ、それは当たり前ですよね。

(上古漢語の時点でも、漢蔵祖語を継承して音が似ていましたから、)仮借をしたりするときは、音を考えて一番近いものを使うわけだから。

そして、私が今こういった挟み撃ち、サンドイッチ作戦を考えちゃったのは、

漢蔵祖語から上古漢語でも、そうですけれども、

印欧語族における歴史比較言語学を学んだから知っていることなんですよ。

つまり、古典ラテン語とか、古典ギリシャ語とか、アヴェスタ語とか、サンスクリットは、

それら自体はかなり古い6言語ですけども、

印欧祖語まで遡ると、更に古い形、(ラテン語より古い)イタリック祖語、(ギリシア語より古い)ヘレニック祖語とか、(サンスクリット、もしくはヴェーダ語やアヴェスタ語より古い)インド=イラン祖語が分かってきて、

あとは(古スラヴ語やリトアニア語より古い)バルト=スラヴ祖語、(トカラ語AとBより古い)トカラ祖語、(ヒッタイト語より古い)アナトリア祖語などもあるんですよね。

かなり、もっと古い段階の言語の音はこうだったじゃないかと、更に挟み撃ちをいくことによってより分かってくることが多くあったんですよ(確かにそれらの古典語と同じくらい古い同じ語派の別の言語との比較なども含めて全体で整合がとれるように構築することがあります。例えば、ラテン・ファリスク・オスク・ウンブリア語などを比較して、イタリック祖語をより強く再構できます。)

だから、結構そういった漢字が、 発生して成長していった時代は、

結構、上古漢語より前の時代であることが多いです(上古漢語Old Chineseは、殷代より後の漢語の再構です。漢祖語Proto-Siniticは、論争のある白語を除き、上古漢語から分岐した言語しかないため、漢蔵祖語との挟み撃ちでしか知りえません) 。

それを理解するためには漢蔵祖語から下がってくる。上古漢語から上がっていく、挟み撃ち、サンドイッチ作戦大事だと言いたいと思います。

だから、そういった形で違うルートから、攻めていっているわけです。

そして、「西/卤」*sɯːl, *s-nˤərや「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sも、実は三人称の「廼/乃(なんじ)」*nɯːʔ, *nˤə(ŋ)ʔ, nˤəʔ、「あなた」という言葉にも仮借されて使われているんですよね。

それでそちらの方は漢蔵祖語*na-ŋ「あなた」が語源です。

更に面白いことが、「西/卤」が、棲息の「栖/棲」がありますよね。 木偏に「妻」ですが、木偏に「西」でも書くわけです。

それは漢蔵祖語*g-na-sから来ている可能性があり、 「留まる」とか、「休む」とか、「住む」とか、そういう言葉です。

そのため《説文解字》では、この「西」という字は、鳥の巣の形じゃないかと解釈をしておりましたけれども。

Baxter-Sagartも、それを引用して(William H. Baxter & Laurent Sagart (2014). Old Chinese: A New Reconstruction, New York: Oxford University Press: 146-147.) 、

この先にお話した漢蔵祖語*s-n(i/u)(ː)p/m ⪤ *r/s-nyap/m、「沈む」や「入る」と関係させていましたけれども。

「沈む」とか、「入る」から、漢蔵祖語*g-na-s、「住む」、「留まる」に意味が転じたというのは、結構きついですよ(即ち、究極の語源まで遡らずに両者を引伸で意味を結び付けるとこじつけて説明してしまう危険性があると感じております)。 概念的に遠いです!

まあ、私はいつも言っている一義的に語源が決まるとは限らないです。

仮借をされたり、既に言葉の上で混同されていて、それにも字が当てられたから、あながち間違いと言えないかもしれないですけれども。

やはり、漢字同士の関係や意味だけを見ていくと、

そもそも言葉が先にあって、その言葉を書く文字がある程度、用意されている中で、最も音が近く書けるという文字を選んで書くわけですよ。

仮借をしようとした人は、頭の中でそう考えるわけですよ。

そうされたとき、また仮借された元と先、前と後で意味的にも似ていると混同が起きたか、

もしくはそれぞれ別の言葉に漢字が当てられて、混同が生じた!

つまり、もともと違う語源だった別の言葉に同じ文字、近い発音だから当てられた。

そうすると(両者で意味の)混同が生じますよね。

だから、一つの漢字の中に結び付けられてしまいますからだから、

別の語源、別の言葉の取り違えミステイクが、今までも結構ありましたよね。

やはり、言語と文字のデュアリティに基づいて、語源と次元を区別して、仮借の関係を今お話してみたいに調べた方がいいんじゃないかと思いまして、やってまいたんですね。

ですから、今はここで分かってきたことは、「西/卤」*sɯːl, *s-nˤərの語源は、間違いなく「𠙷/囟」*snɯns, *[s]ə[r]-sで決着が付くと思います。

音も形も一緒だから!

そして、色々なバラエティーのある「西」の初期の頃の書き方(甲骨金文やそれが伝えられた古文「卥」や籀文「卤」)を全部、この頭の泉門、頭蓋骨の形であれば、説明できますからね。

塩袋「鹵」とも、甲骨金文で同じになっちゃった部分もありまして、区別がつかないんですよ!

だから、既にもう殷周あたりでは、甲骨金文でも、「東」は米袋、「西」も塩袋、袋として既に混同されていた可能性もあります。

やはり、文字同士の関係性において、 混同が起きやすいということもあるんじゃないかと!

私が強調した字形が混同されていき、字義が移るという現象も思った以上に多いんですよね。

文字同士でも似ていたりしてあったものが、(取り違えられて)意味同士でもにてきちゃったりとか、ひっちゃかめっちゃかでした。

「西/卤」と「鹵」の場合は意味が違いすぎますから、 「塩」と「西」は違いますから、後世にちゃんとかき分け続けられたから、(小篆や楷書でも)点が入っています。

だから、字形が似ていて、実際、甲骨金文でも、殆ど同じ字形になっちゃっている!

それで書き分けられなくなっちゃって、両者の区別がつかなくなって、意味も同化していっていることもありますけれども。

ですから、言語や文字、漢語や漢字、語源や字源を考えるときは、多角的、総合的にあちらこちらから考えて、総合的に論証してゆく必要あるじゃないかと思いました。

それは色んな言語資料や文字資料に精通して、アイディアのソースとする必要なんじゃないかということでいろんな方面からちょっと掘り下げてかなり行きましたけれども。

大分、調子が出てきちゃって、勢いづいちゃって、しゃべりすぎちゃった。

ということで、次は「南」に行ってみたいと思うんです。

こちらはもう既に否定辞の動画ででお話しましたが、

「南北」は概念的にも関係があって、というのは言語的にも関係があって、

「南」*nuːm, *nˤ[ə]mの語源は、漢蔵祖語「肋骨」s-namでして、「北」pɯːɡ, pˤəkの語源は、漢蔵祖語「背中」ba-kだから、

体の前と後ろで、それを北と南にアナロジカルに使った可能性があるから、

言葉としては、体の前が南、後ろが北です。

でも、この南の方には、漢蔵祖語*g-namという非常に近い子音(発音)を持った「太陽」という意味があるから、「南」は非常に明るいから(関係がありそうな言葉があり、)

それともう一つs と g が先ほどででも、あまり言いませんでしたけれども、

同じような漢字になっていったもので s とgは同化が起きやすいんじゃないかということはありますね。

甲骨文では、「南」が更に発展した形 「㱿」が結構、多く貞人といいますが、占う人の名前でよく出てきて、

これは結構、「南」だと思われていて、「なん」と呼ばれますけれども、

「殼」に近い形に楷書化されてありますけれども、「㱿」は「殼」*kʰroːɡ, *[kʰ]ˤrok > kʰˠʌk̚で「こく」と読む可能性はあるかもしれない(とも疑いましたが、固有名詞の人名ですから、確かめようがありません。)

紛らわしいことに漢蔵祖語の段階でも、*s-namが「穀物の殻」という意味があり、更に「胡麻」という意味もあり、同じ「肋骨」と完全に同じ音なんですよ(でも、異なる言葉であると子孫の言語の考察から分かります)。

しかも、字形を見ますと、「殳」は撥「几」を手「又」に持ってますよね。これでそれを叩いている!

これを見たときに脱穀をしている姿みたいにも見えなくもない。

これで見てみますと《説文解字》「㱿:从上擊下也」の中にも、この漢字「㱿」 は上を打って、下に落とすと書いてあるんですよね。

一般としては、この「南」の字源は、楽器の釣鐘を撥「殳」で打っている姿と考えられています。

これはちゃんと撥「殳」があります!これ撥「殳」!

それで《詩經·小雅·鼓鐘》「鼓鍾欽欽,鼓瑟鼓琴,笙磬同音。以雅以南,以籥不僭」の中にも、この沢山、楽器の太鼓とか、鐘とか、瑟、これは琴ですよね。これも琴とか、笙とか、石磬の磬でしょ!

これ全部、楽器の名前ですよね。そこに並べられた中にも、「南」という字が出てくるんですよね。「みなみ」という意味じゃないですよ!これは楽器の名前としてですよ。

「雅」と「南」で「籥」(やく)と「僭」ですから、《韻會》「南亦雅樂名」を見ると、「南」という字は、雅楽の名前というふうに書いてあります。

楽器や音楽に関係する文字じゃないかということでして、

まぁこれも字形の類似性による混同の可能性もあるけれども、まあ、これは楽器が象られているとされています。

それで「南」の字形と字源をお話しました。

そして、「北」*pɯːɡ, *pˤəkですけれども、

こちらは先ほども言葉、漢蔵祖語*ba-kで「背中」でお話しましたけれども、

ここはいいんですけど、「背」*pɯːɡs, *pˤək-sの方を見ると、また、*s-suffix(接尾辞)がついてますよね!

まあ、語根から派生できていますけれども、字源もやはり、背中の「背」に肉月「月」ですから、体に関係して、

「背く」というのは、 背中を向けるから、動詞化(*s-suffix)して、まあそれも導き出せますね。

実は面白いことに字形を見ますと、この中で「北」というのは、背中をこう向けて、人が二人います!

ちなみに「从(從)」という字は、「北(背)」とは、逆に一緒に従って、同じ部品がこれ逆になってる!まるっきり逆の方を向いていますね。

だから、「从(從)」と「北(背)」は、兄弟みたいな字形上は関係ですけれども。

否定辞の特集でありました「非」*pɯl, *pəj、「北」*pɯːɡ, *pˤəkから(音を仮借をして、形が分化して、)出たんじゃないかと!

それはどうしてかといったら、「非」*pɯl, *pəjと「北」*pɯːɡ, *pˤəkで音が近い!また、字形も近いから。

だから、更に先ほどお話したみたい「西」*sɯːl, *s-nˤərか、泉門の形「囟」*snɯns, *[s]ə[r]-s」が、二人称「廼」*nɯːʔ, *nˤə(ŋ)ʔ, nˤəʔに入った。

それでこの「北」も「背」、更に「非」という否定辞に入った。仮借をされたということで仮借仮借(カシャカシャの冗談を)してますけれども、かなり激しく、

これは更に否定辞の時に漢蔵祖語の固有語ではなくて、南方系の外来語の否定辞ではないかとお話しましたよね!

そうして、全て今「東西南北」の語源と字源、仮借の原理によって、説明できたじゃないかと、

万歳じゃないかと思っています!

ここでもう今、言葉の方から見た文字の方から見た。

字形、字源、字音、語源、字義、意味が相互に結びつき合い、

また、更に関係する文字が結びつき合っていて、極めて複雑な体系をなしていたことです。

それらを理解してゆく、解きほぐしてゆくためには、

文字学だけでは、見えない世界があって、音韻学だけでも、見えない世界があって、言語学だけでも、見えない世界がありました。

漢字というのは、かなりユニークな体系でして、

それらに対して全て深い知見があってこそ、洞察があってこそ、お互いの結びつきが見えてきてするすると、どうだったのかなということが、分かることがありますね。

今はそうした方法で定説をバンバン覆したり、後考を待つという、後に考えてくれる人を待つという、未解決問題を解決してゆくため、

私は実例を挙げて、分析の方法を一つずつお話してまいりました。

実は今、私が、字形、字音、字義で分析をして調べて行きましたことは、

清代の考証学者、特に段玉裁さん(1735-1815)や王念孫(1744-1832)さんがしたことを引き継いでおりまして、

当時、彼らがまだ見ることの出来なかった甲骨金文や戦国文字などの文字資料とか、

また、知り得なかった漢蔵語族や周辺語族など言語資料をフル活用して、言語と文字の世界に切り込んでゆきまして、

言語と文字のデュアリティ、言語と文字のネットワークを論証してゆきました。

今私がしていることは、過去の先人たちがしてきたことを再結集して再結晶させているということなんですよ。

これでこうした先人たちに敬意を表しまして、次はこんなものを見ていきたいと思います。

これは何だと!?

王念孫さんの《廣雅疏證》

これはKF-Scholaの方の動画において、

もう結構たくさん利用して、論証に使った極めて重要な義書です!

その序文を段玉裁さんが書いたものです。

王念孫さんの本に段玉裁さんが序文を書いてあげました!

それで出だしから、すごいことが書いてあるんですよ!

小学とは、今でいう言語学です。

それには、形、音、義(意味)があるとはっきりと最初からドカンと来ていますね!

その三つをお互いに探究したいと書いてあります。
「小學,有形、有音、有義。三者互相求,擧一可得其二。」

しかも、びっくりしちゃったことがありまして、

ここに聖人の字を制(つく)りしは、

最初に義、意味があって、しかる後に音があると!

そして音があって、しかる後に音があると!

どういうことかと言いますと、まさに私が前回の最初に話しました!

人間が何かを書こうとした時に、最初に書きたいこと、意味があって、

それを音にして、

それでその音を言語にして、

そして、その言語の音を文字を使って書いていくということ、そのものを話してるんですよ!「学者之考字,因形以得其音;因音以得其義」

しかも、その次のところですよ。

学びし者は、字を考えるとき、

形によって、以てその音を得て、

それで音によって、以てその義を得る。

と書いてあるわけですよ。「学者之考字,因形以得其音;因音以得其義」

これは逆にそれを読む人は、形を以て、音が分かるでしょ。

そして、音を持って、意味が分かる。義が分かると!

これは、言語と文字のデュアリティのことを言ってるん ですよ!

それから六書のことが、その後に書いてあるんですね。

四つは形に関わっている。

残り二つ(転注と仮借)は、形、音、義の問題であるとしてますよね。

彼らははっきりとそのことを認識していたんですよ。

また、形書という言葉は、あまり今では使いませんが、字書のことですよね。《説文》があります!そして、《玉篇》でしょ!

音書という言葉も、あまり今では使いませんが、韻書のことですよね。《広韻》、《集韻》があると書いてあります。

そして、義書には、《爾雅》《方言》《釋名》《広雅》と書いてあり、これらはと転注と仮借に関係する書物ではないかということを彼らは見抜いた!

これは、すごい大事なことですね!

彼らは私が前回話したことをそれの本当にリーチまで来ていたと!

転注に関しても!

後はそれを実例に即して、論証したかったけれども、当時 は、まだその材料が著しく不足していたため、叶わなかった!無念だった!

でも、その中で漢字のシステムの事実に近いビジョンやアイディアまでたしてましたよ!これはすごいことですよ!

限られた材料の中でそれを洞察したわけですから!

だから、すごいということでもう盛り上がって きてますけれども。

これ見てみますよ!署名「乾隆辛亥八月,金壇·段玉裁序」

こちらに乾隆でしょ!清の時代ですよ!

これは本当に 1796年と書いてありますけれども。

それで金壇(きんだん)という場所は、今の江蘇省常州という場所 にて、段玉裁さんということで王念孫さんに書いてあげました!

そして駆け足ではありますけどね。

次の段玉裁《説文解字註》ですが、今度は王念孫さんが序文を書いているんですよ!

段玉裁さんと王念孫さんが序文を書き合うというフレンドシップ!

もう、文字学、音韻学、訓詁学において、当時に彼らのレベルに達して、理解をし合える学者は、彼らしかいなかったというくらい。

もう、知の独走状態だったじゃないかと(笑)

もう、すごいですよ!ものすごいということでして、

まあ、ここに書いてあることは、先ほどと同じことが書いてありますけれども、まあ、彼らの文体は二人とも結構異なっていて、トーンが違うんですけどね。

まあ、言いたいことは同じなんですけどね。

読んでみますよ!

これずっと見ていったときに、まぁ最初に《説文解字》とはどのような書であるかが書いてあります。

文字というのは音がある。

それで訓詁だと!これを読むんだと書いてあります。

それで許氏、許慎さんの形声、読若、

形声字と読若と言って、この字はこれの若(ごと)く読めと書いてあります。

これは古い音に基づいているんだと!

きちんと古の正しい音に基づいているということでして、

今の音とは違っているということを認識していました!

これは時代差があって、もう清代まで、もう時間が経っているから、違う音になっているんですよと、彼らは理解していました!

これも大変なことなんですよね!

そして、面白いところを行きますよ!

蓋し、異聞を広くすること(色んな異なることを聞く)、

それで、多識を備えることを以て、

而して、一隅に於いて限らざるなりと書いてあるから、

結局これ、私も文章をみたら、もうこれを読み下すのが面倒くさいんですよね。

行って帰ってきて、行って帰ってきて、

でも、もうパッパッパッと見れば分かっちゃうんですよね。

ですけど、これは結局、色んなことを聞いて知る事によって、一つにあんまりこだわりすぎないで色んな広く見ることができる!

多角的に考えることを言っています。

本当に彼らはそういう学問スタイルでした!

自分たちのことをそのように言っています。

そして、最後のところに同じように署名「嘉慶戊辰五月,高𨞄·王念孫序」

嘉慶は1815年ですから、あれから20年くらい経っているんですよね。

高郵(こうゆう)、王念孫序とありまして、

高郵、これは今でいう江蘇省の揚州ですね!

近かったんですよ! みんな!

今でいう江蘇省ですから、蘇州とかがあるあたりです。

ちょっと行くと上海とか、隣の浙江省の杭州などがありますよね。

中国の真ん中あたり、長江の下流域の城市でしたということで王念孫さんが言っていましたけれども。

実は私は段玉裁さんや王念孫さんの研究の延長線上にあるという伝統を背負って探究をしたではないかと!

それらをとても自覚するわけですよ!

本当に彼らのやったことはすごい!

それでまとめて私はこんなものを作りましたので行ってみたいと思います。

思ったんですよね!

我々は小学、文字学、音韻学、訓詁学、

それと科学、これは言語学、これは形態論、これは意味論に当たりますね。中国語で書いてありますけれども。

まあ、言ってみれば、文字の形、字形、文字の音、字音、文字の意味、字義、

それに言語学的な形態論(morphology)と意味論(semantics) などを考えていこうと、

そういった、まあ、言ってみれば、こちらは言語と文字のデュアリティ(双対性)において、漢語と漢字に迫りたい!

そうした、有機的な結合による強固な体系の構築を目指しているじゃないかと!

そもそも、我々の身近にある様々な学問体系は、それぞれ別々に研究されてきて統合されてきました。

まぁ大体、アリストテレスの自然学、プトレマイオスの天文学、ユークリッドの幾何学、ディオファントスの代数学、

インド(アーリアバタやブラーマグプタなどの)の天文学や数学

イスラム科学で統合が進んでヨーロッパにおいて物理学という形になるわけですよね。

文字ですと、許慎《説文》

音韻学ですと陸法言《切韻》

訓詁学ですと、(劉歆)《爾雅》、揚雄《方言》、劉熙《釋名》、張揖(ゆう)《広雅》というような(また、郭璞さんが《爾雅》と《方言》に註釈して)、

そして、こういった別々の分野で研究されてきたものがありますけれども。

歴時性というのは、言語の時間の経過による変化であって、

共時性というのは、言語の同じ時代の変種のことですよ!

ですから、時代性と地域性ということですね!

まあ、時間と空間という問題ですよ。

それで得て変化と変種がありまして、

また、それらをやはり、比較していったり、分析をして、それらの学問をなしてゆき、

今まで出てきました、漢蔵語族や周辺語族との相互作用で起きたことが、関係づけられてゆきました。

言語と文字のデュアリティ(双対性)がここにありますけれども。

漢語と漢字のシステムの全体をつかんでから、六書を 理解し直そうと考えたんですね。

何故なら漢代の古文学者たちは、

漢字の表記体系が成立した時代に近い漢語を話していて、後期上古漢語ですね。

殷周の甲骨金文は知らなかったでしょうが、

戦国時代の資料は知っていました。

古文や籀文(西(今文)、㢴(小篆)、卥(古文)、卤(籀文)など)

そして、彼らは自分達の理論を考えましたから、

実際に漢語や漢字の上で起きていたことを調べてから、

六書のそれぞれを見てゆこうという発想の転換を私はしたわけです。

漢字という極めて複雑難解極まる文字体系を2000年前の漢代の古文学者たちが、

「六書」という言語と文字の空間における操作のみで全てを導けるというシステムはものすごいことです。

考えてみたら、六書のうちのどれ一つが欠けても、やはり、機能しないという所まで洗練していました。すごいことだと見てきて感じました!

われわれは「六書」がある所からスタートしていますけれども。

もう知っているから、もう既に言葉に対して、文字があるという状態から話を始めてしまいがちですが、

「六書」というシステムは、何もないところから、文字を生み出してゆき、

そして、言語に充てられてゆき、更に文字と文字をつなぎ合わせた!

非常にシステミカルかつダイナミックな体系を意味しているではないかと!

だから、私は前回の動画で人類が初めて、文字を用いたという例から出してきて話していまして、

実は六書の概論を前にしたとき、全部を見て行ったときに、

許慎さんが書いた《説文解字》の敍文を見ましたら、

そこで神話みたいなことが書いてありましたけれども、

黄帝の史官の蒼頡さんが文字を生んだというところから語り出してきて、

荒唐無稽な話だと、一般的には、こんなものは伝説だと、一蹴されがちですけれども。

そもそも彼がそうした話を語り出したこと自体が、大事な事なんです!

どうしてかといったら、彼が無から有、

文字がないところから始まったという所まで思い至って考えていて、

そこから文字は生まれてきた生成過程に興味があったことを意味してるんですよ!

実は六書の話が出てくるところまで、

前の経緯のところは読み飛ばされちゃうけれども、

そういう文脈の中で六書が出てきているわけですよ!

それはすごい大事なことですよ!

六書の概論をしたときの動画をもう一回見ていただけると嬉しいんですけれども。

そこで本当に書いてありますよ!

それで《説文解字》に書かれている、六書のシステムというのは、

やっぱりインドのパーニニ(Pāṇini)さんの文法体系とか、ギリシアのユークリッド(Εὐκλείδης)の幾何体系に匹敵するくらい、

人類が到達した偉大な知の組織化の試みではないか!

それが古代中国でもなされていた!漢字という体系、漢語という体系に対してですね。

そうした六書の内容をすごく真剣に今回、見ていきましたら、

改めてすさまじいことが起きていたということを思わざるを得ないのではないか。考えざるを得ないのではないかと思いまして、

言語と文字の空間における要素を用意しておいて、

それらをどのような操作で結合させたり、分岐させたりするかという、

そうした非常に抽象的な操作、ダイナミックな方法を提示していると考えたんですよ!

先ず、そういう非常に抽象的なところから今、入ってきたんですよ!

即ち、六書とは、象形や指事により、文字を用意して、文字の形の源泉をなして、

会意で意味の合成をさせて、字形を用意したわけです。

そして、仮借で言語と対応をとり、形声は両方を合わせたんですよ!

形声とは仮借により、形声字の声符をなしまして、

そして、会意的な発想で、会意によって、意符をなしました。

そして、文字のネットワークは転注でとりました。

即ち、六書を見てみれば、文字が生まれて、そこで使われる、全ての過程を言い当てていて、導き出すことができて、

しかも、甲骨金文においても、概ね、正しく適用できることを感じました。

そして、六書も二つずつグルーピングできたんですよね。

《説文解字》の説明や字例にも対称性がありました。

組になってとてもきれいでした!

対になる概念というのは、詩でも対句などがありますけれども、対比は非常に中国の伝統的な発想です。

指事とは、頭の中にある概念を示して文字にすることです。

象形とは、外にある形状を象って文字にすることです。

そして、會意とは、図形上の操作で意味を合わせることですよ。

そして、形声とは、発音を仮借して声符をなして、意符を合わせて、概念を示したわけですよ!

まあ、音に関係するわけですよ!形と音です!

そして、転注とは、文字と文字のネットワーク!

仮借とは、言語と文字のネットワーク!

言語と文字のデュアリティは、非常に大事じゃないかと出てきてるんですよね!だから、とても2+2+2でテーマがあります。

そして、六書は言語と文字、文字と文字の類似性による関係性でネットワークの構築するために、

やはり、全てが必須の条件になっていることを感じたんですよね。

それは、究極的には、実際の例を全てそれで理解ができて、実際に文章をよむこと、それを訓詁と言いますけれども。

訓詁学をするときにも役に立つことです。

また、私たちが漢語や漢字を使う上でも大事でして、

言語や文字に対する知見や洞察は、ものすごい私たち人類を理解すること、思考を理解するわけですよ。

私たちが、実際に表現をすることにおいても、極めて強力な道具となりえるのではないかと思いました!

ですから、漢語と漢字の体系で起きていることをあらゆることを理解するために必要な最小要素ミニマムを動画にしてゆきたいという!

それが漢字のユニークさを探求するシリーズだということを思いまして、

今この画面に出ている。言ってみれば、見取り図として、ここにありますような概念。

それぞれをこれからまた掘り下げ続けていきたい。

そういうで動画を続けて行きたいと思いました。

もう今まで始まってから、相当、文字学の事をダーとやってきましたよね!

ですから、一旦ここで区切りがつきましたので、

次からは訓詁学、音韻学に進みたいと思います!

ですから、もう何とぞ、ご期待下さればとと思います。

今後とも、KF-Ars Sinicaを応援して下さいましたら幸いです。

今回もご覧下さりましてありがとうございました。

失礼を致します

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