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王羲之の書法シリーズが始まりました!書を愛する方がたとシェアーしてまいります。Wáng Xīzhi, chinese calligraphy

王羲之シリーズが始まりました! 伝世法帖についておしゃべりしてまいります!王羲之はバッハと歴史上の役割が似ているなど、王羲之の署名から楷行草書などに触れました。

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2021年2月14日

皆さま、こんにちは!

今回、KF-Schola(ユニークな系譜の探究チャンネル)で王羲之をやってみようということになりました!

今まで例えば、モーツァルト、ユニークなどのトピックを色々取り上げてみようかとシリーズ化してしまいましたが、

もう思ったんですよね!この書に私すごい興味ありまして、やってみようかなと思った時にですね。

もうしょうがない、書は王羲之だ!ということで、王羲之をやりましょうということになったんですよね。

もう、溢れ出る好奇心と探求心が、今度はどちらに向かうのかと言いましたら、今度は王羲之に行きましてね。

今回はどんどん王羲之が書いたと思われている名前が伝わっているものを全部、私は点検しまして色々、もう全部見ました!それで今回というか、もう結構長い期間、続けておりますが、

これでその中でよく敷き写しされた、双鉤填墨と言いますが、それと法帖という形で、宋のあたりぐらいから、

まあ、唐よりちょっと後ぐらいから、宋ぐらいから、一般的になった法帖という、言ってみれば、石版とは言い過ぎですが、

拓本を石に刻み、拓本を取るような石版、石版画のようなやり方で法帖をコピーして、皆が学べるようにしましたが、

そうして、本当にオリジナルの書蹟はもう無くなってしまいましたが、

王羲之には、本当に沢山の法帖が伝わえられ調べてまいり、

ところで、私が何故その王羲之に興味を持ったかと言いますと、まあ、基本的に書を学ぼうとしたとき、王羲之を学ぼうと言われるんですよね。

やはり、王羲之の書は大胆さというか、もう書の表現が本当にびっくりするほど、もう行がこっちに寄ってきても、あっち寄ってきても、もう全体でもう上手くマッチさせて、結構な強烈な表現があっても、その大きな流れの中でしていたり、

あとは、繊細な部分が王羲之は非常に、もう本当に線と線の間ん繋がりなど、微妙なところとか、もう形の作り方が、もう本当に絶妙な部分もあり、すごくよく見てみますと、線もなかなか多彩ですよ!

それが連続的に非常にうまく連なるようにして、もう本当に、気脈が一定しているというか、一貫しているというか、

まあ、王羲之の作品は、作品はちょっと語弊があり、尺牘という形で手紙、お手紙を皆に親族とか、友人に書いたものが沢山残ってまして、伝わっていまして、本当に自然な流れがありまして、すごくそれが魅力的じゃないかと。

基本的によく今の人が書を学ぶとすると作品を書いたり、非常に人に見せるというような意識で書きますが、本当に書は、基本的に歴史から見ても、こうした尺牘の形など、そうした普通に日常で使ってる中でされてきたということですね。

本当は私は大きなものにバーンとした作品ですごいだろうみたいな書より、私はこうした日用の書に興味がありまして、

特にまあ、日本人はあまり、その漢字を使ってお手紙を書くことはありませんが、今中国語で書くときは、皆まあ本当に全部漢字ですから、尺牘のような表現が、本当に古風な表現ですが、そういった様式で手紙を書いたりするわけですよね。

それでそういう方が私は書としては自然で、私の趣味ですが、これは好きでして、王羲之は魅力的なんですね。(即ち、書の作品としてだけではなく、文章との調和が面白いです。)

これでしかも、その中で本当にパーンと見せるものでないですから、非常に細かい所が本当に上手く表現されていて、

例えば、王羲之自身の文面の内容からも、すごく感じられ、

一番面白い部分は、その彼のその気脈の一貫性というのがありますが、彼自身もかなり頑固な人でして、

それで非常に質実でして、質実剛健と言いますが、本当に自然で流れが爽やかさの部分と痛快な部分もありまして、

本当にその痛快さが、本当に面白いと思っています。

ですから、そういった形で王羲之の書いたものなど、これから色んな細かいところ、そのような王羲之の人となりなどが書に現れており、それも特集して参りたいと思うんですよね。

そうして、最初に出してきたのは、これは全部、私はもう全ての法帖を見つけ、もう王羲之の署名があるものを私が全部集め、形が面白いものをここに挙げてきましたが、

そう見ますと、なかなかその彼の自分の名前を書くときでも、もう同一人物が書いたとは思えないほど多彩さがありまして、

まあ、基本的には、自分でサインするとしたら、もう毎回大体同じような形になるようになりますが、

先ず、(王羲之の場合は)書体が違いますから、これは楷書ですよね。小楷、小さい楷書で書いております。それでこれが行書ですよね。行書、これも行書、この辺りも、ここから本当に行書と草書は微妙でどの程度、簡略化されるかに拠りますが、これも草書になってますね。草書、草書、草書です。

これも草書ですよね。これも草書でしたり、これもそうだと言えば、そうですがと、行草からどんどん簡略され方が激しくなりますが、基本的こういうものを見たときに、私はどうしてこういう並びにしたと言いますと、先ずこの辺りまでは、

楷書から草書に至るまで、グラデーション的な流れでどのくらいのその崩され方かで持ってきて見てみますと、本当に面白いのが、こう見たら、もう「王」という字が逆三角形ですね。

草書になると、どんどん自由になり、これがものすごく大きい!それが元々「羲」という字は、この「羊」さんに「我」という私という意味で今の中国語でwǒと言いますね。私、我という字を書き、この下にこの点々があり、こうした形ですが、これら三つの部品から構成されていますが、

基本的には、こういう草書を見たときは、この上の部分ここが大きく開いてます。これは「羊」の頭の部分で「羊」(の形)を意味して略されて残っています。

ここの部分は我という字、その草書ですよ!それで点々があるのが、この部分がここに当たりまして、

それで基本的に草書とは、楷書からよく崩されていくと言いますが、まあ、実用書では、実際上では、そうですけれども、歴史的に見ると、これはいきなり秦ぐらいの時代に沢山の行政文書を書くようになり、木簡を書いていて、その中でまあ篆隷で篆書と隷書の間から、それぞれ分かれまして、崩され方の度合いにより、草書の形も来ていますが、

楷行草は同じ所から生まれた兄弟みたいな関係ですが、まあ基本的には、このように少しずつ崩され度が高くなり、自由度が高くなると、草書にいきますね。

この「之」なんか見ますと、「之」という字は、こう、こう、こうですけれど、ここで短くなっていき、更にここで縦っぽくなりいき、更にまあこれはまあ、ある程度横の所にきていますが、これはもう更にここになりまして、最後は平仮名の「し」は「之」から来ていますから、

それで一本になり、点になっています!これはまあここですよね。ここのとこだけ残っていますけれども、

そうして、点と最後の所でこういった頻度が高い字はかなり崩されやすく、もう符号みたいになると言えまして、それで面白いことに、これを見ると、突っ込みどころが沢山ありまして、

この気づいたのが、こういう複雑な文字より、意外とこの簡単に思える、その「之」とか、「王」とか、簡単な字の方が、バラエティが多いと感じられて面白いことでしてね。

それでこの「王」は真ん中ぐらいですが、この回り方、つながり方 、ここは上が長くて、下のところで圧縮されて疏密になり、ここは間ぐらいぐっと、ここは消えて、上に空中に行き、また戻り、その紙に着手しているとか、

こちらは上に行き、ギュギュっと来たら、ここで回るのが小さく、下のところで凝縮しているとか、それでこれは逆三角形と言いました。それでこれは真ん中にくるんと行っていまして、

この線を読んでいきますね。面白いことに線の質の変化とその字型の形の変化、これはちょちょちょと、すごくとてもリズミカルに感じられたり、まあ書で沢山、臨書をすると、その元の原帖の元を書いた人の息づかいとか、

どのぐらいの圧とか、結局こういった筆蹟、筆で書かれた跡は、結局、筆の速さ、筆速と言いますが、また、紙に触れる強さ、圧力、筆圧ですよね。

それに筆の傾きがあり、傾きにより、線が少し変わり、それと、その傾きでも、右に筆管、筆の筒が右に倒れるか、左に倒れるか、向こう側に行くか、自分手前側に行くか、(内擫外拓、)上下左右、ジョイスティック🕹みたいですが、そういったパラメータがありますよね。

それとあとはその筆は紡錘形にできていまして、一番長い毛を筆鋒と言いますが、「鋒」とは、金偏に山の峰は山偏ですが、金偏に「峰」という字の右側を書きますが、筆鋒と一番とんがった部分ですね。一番長い毛がどこを通っているか、中鋒といって、真ん中を通るのか、側鋒といって筆の端っこを通るのか、

でも、側鋒は弱いから、めちゃくちゃに入れると、その線が浮いて見えますから、基本的にこの時代は中鋒で多く書かれていることに本当はなりますね。

どんどん後になると、やはり木簡とか、竹簡とか、簡牘から、その紙に移行する部分もあると思いますね。それで素材に書くものにより、やはり紙だと結構しみてくれますが、簡牘、木簡や竹簡ですと、やはり抵抗が大きいから、なかなか強く、その筆鋒で書く表面に引っかからないと、線がきちんと引けないから、筆力が強くないと書けないという部分もありますが、

そうした筆線に関していえば、そうですが、最終的には今、言いました字型、字の形ですよね。それと連なり方で、そうした配列の関係ですが、面白いことに同じくオーバーラッピングしてきちゃうんですよね。

音楽の歴史を見ても、音楽とはやっぱり音の強さと、音の長さ、音の高さ、それと音の響きですよね。その四点ほどで、音自体は書における線に当たりますが、

ですけれども、王羲之は書の歴史になりますが、今度これはまたやっていかなければ、あまりにも話が膨らみすぎて、おお、危ない危ないという感じではありますけどね(笑)

王羲之の時代に何故、王羲之が出たのか?王羲之は四世紀中盤ぐらい、東晉の時代ですが、じゃあどうして、その時代に出たかを見てみますと、やはりその前の時代では、あまり人の名前が出てこなかったですが、

それがどんどん書人と言いますけど、本当に書が達者な人たちの名前残されていまして、

名人、名手たちが、生まれてきたのは、非常に面白いのが、書かれた、言ってみれば、最終的には筆と紙な関係、また、筆の速さとか、筆の使い方ですよね。

持ち方とか、動かし方、そうした所に還元するにも変わらず、シンプルの中にも、書いた人の特徴が良く出てくることが、不思議でやはりその線だけ、線の変化もあり、線のみならず、

もう、他の文字との関係性ですよね。繋がり、連なりなどが、やはり、もうどんどんでくると、そこにも、また新しいパラメータが発生してきて、

西洋音楽で言うと、その音の高さ、長さ、強さ、響きのみならず、その音と音の関係が多くなると、ポリフォニー、多声音楽の中で和音ができ、音と音の音程の関係、和音の関係が時間で動いてゆき、和声進行とか、もう色んな音のことでしたり、

楽曲のシステムが沢山できて、個性が表現できるようになりました。その前の時代はやはり(個性を)受け入れるだけ、表現できるほどの個人にも違う風になるくらいの変化は、なかなか書においても、音楽においてもありませんでしたg、

音楽でいえば、バッハの時代ですよね。もう、本当にバロックの最後ぐらいですが、それまで来るのに時代はものすごい長いですよね。実はバッハより後より、前のほうがものすごい歴史的に長いのに記録されている音楽だけを見たとしても、

例えば、10世紀、9世紀、8世紀、7世紀ぐらいのグレゴリオ聖歌から、バッハまで1000年あります、バッハから、我々は200年か300年しかないのに、

それだけの長い期間をかけて発達してきたシステムの中で、バッハが出て来れたことと一緒で、私は王羲之はバッハに似ていると、西洋音楽に当たるとですね。

「音楽の父」なんて、バッハはよく言われるけれども、その後の音楽は皆その人、バッハが書いたものインスピレーションを受けて動いているほど組織されていまして、

王羲之も結局その前までの時代は、もう本当にずーっとしてまいりました甲骨文、殷の時代、紀元前1300年とか、王羲之から、1500年、更に1600年、1700年ほどまで遡るところまで、古い時代からずっとあったわけですよね。

金文が出てきたり、それで西周の時代、東周の時代、それから春秋戦国ありますけれども、そうすると、どんどんどんどん字形が変わっていきましたが、楚簡という楚で出てくる竹に書かれた肉筆も沢山あり、

それでも、やはり、それほど大きな個性、これはもう彼が書いたらしいというほどのインパクトは、まだそこまではいかないのは、結局それはやはり沢山の文字の中に関係性とか、文字自体の中に沢山のパラメーターがあると、

それだけ表現ができるようになり、それが大体、王羲之より前ぐらいの漢あたり、秦の時代にものすごい数の人がやはり、それまでは、金文の時代として残され、当時も沢山、簡牘が竹簡、木簡の中に書かれたは沢山あったでしょうが、もう無くなってしまいましたけれども、大体やっぱ秦の時代からは、ものすごい数の人が書を書くようになりまして、

そこからやはり、漢にきて、ものすごい、もう中国全土を統治するために沢山の人がもう沢山書きまくり、そこからやはり急速に文字が人間味を帯びてきたというか感じがして、

そこから、蔡邕とか、王羲之も意識していた張芝という草書の名手がいたり。まあ、蔡邕は今でいう隷書ですかね。

それと鍾繇ですよね。鍾繇はあまり沢山残っていないですが、王羲之もすごい好きだったみたいでして、皇象とか、索靖などは章草という書体の名手でしたが、

それで陸機もいましたが、王羲之の同年代では大体、西域の方で出た李柏という人が書いた尺牘の稿(楼蘭文書)も出ていたり、王羲之の盟友の謝安(の尺牘)も残されていますが、

そういった時代になると、書が人間味を帯びてきて、元は技術的に物事を歴史などを記録する、もしくは行政文書を書くという内容の性格であった文字が、どんどん日用されていく中で、日用と言っても、本当に識字率もどの程度か、本当に貴族や官僚ぐらいでしたけれども。

多くの人が、それでも使うようになると、書がどんどん人間味を帯びてきたという中で、王羲之に来てますけれど、そうしますと、やはり、これから見ていこうと言った時には、

こんなものを作ってしまったんですよね。どんどん、これは面白いことに王羲之が若い頃に書いたものと晩年に書いたものを見てみますと、

もう最初はやはり、竹簡とか木簡とかに書いていたから、この縦に(繊維があって、)その横の意識が強くてぺちゃんこですよね。ここを見てみますよ!それで少し縦長になってきて、縦の言ってみれば、上から下にくる、その時間軸の、要するに字を書いていた時にこの上から下へとゆく流れですよね。

こちらは、どちらかというと、横の流れが強く、隷書に近いわけですね。隷書なにかは横にもうぴちぴちと書きますから、どんどん早く、次に文字を書こうという意識で縦に流れていく、更にこれも伸びえtビヨーンみたいな形でして、本当にどんどん草書の形が洗練されてきた気がしますけれども。

これも「王」を小さく書いて、もう「羲」の上の羊さんの頭を大きくかいて、大きく空けちゃってる。

それでもう、そこに「我」を書きますね。それでここで下の所の部品「兮」を書いて、それでここらから「之」の所に入っていますが、それでここに頓首と書いて、本当にすごいですよ!

それでこれは、先ほど言ったみたいに横の流れが強いでsね。横、言ってみれば、先ほど申し上げた、今草といって、今の草書ですが、これは行書ぽいかな、こっちは章草といい、言ってみれば、単体的ですね。

それですごくに横の流れが強い、それで王羲之頓首と書いてありますけれどもと見えたり、

これはピンピンピンピンとこう空いて、これでここはここが面白い、こうきて、こうきて、こうきて、こうきて、なかなか!

このこっちが空いていて、ここで凝縮されて、それでここはすごく伸び伸びとして、それで頓首ときてますね。

これも本当に面白いのは、「羲」の空き方。それでこうして大きく空けたら、中を凝縮して疎密があり、

それで面白くて、これは、こちらはあまり出ず、こちらにいくと散漫になるから近づけて、本当ににこうした流れですよね。こういう風に来たから戻して書いていて、

頓首頓首とこうきて、縦ももう非常に真面目にまっすぐでしたが、こうきたら少しこちらにきたら、こっちに戻して、それでこうしたラインで、また戻して、右にいってこうとか、

どんどんどんどん草書は、書いていくと左に寄りますから、あるところで右にパンとこないと、やはり、引き戻さないといけません。全体ではその左右に揺れ、どんどんどんどん左に入ったら、次の行と前の行と空きますから、

ということで、これは、もうたっぷり墨をつけて書いてくれていて、そういった形で中々面白いと!これは早いですね。前の字から連綿してこう来てすごいですね。この(左右の)運動がすごい面白いです!

それで、こうきて、やはり草書とは、基本的には、同じ平行線が横にくると面白くないですから、どこをとっても平行線がないように来ていますね。

それでこっちに流れたと思ったら、ふっとこっちに来て、ぎゅっと戻していて、これは「白(もうす)」ですが、これと同じ「白(しろ)」は「白(もうす)」ですが、

やはり、簡単に略されていて、それでこれは「羲之再拝」ですが、面白いのは、こちらにきて、この頭「羊」と中身がその下の「我」で、これは「我」が右にピョンときています!

それでこちらは点があり、それで「之」に来て、「再拝」ですが、この動きが、なかなかここのところがゆったりときたら、早くなり、まあ、墨もどんどん、無くなって、こう繋いでるから、墨を付けてないから。

それで繋いだ線の受け方がすごく自然だということでして、

それでもう頭のところで「羊」がここが大きいですよね。真ん中「我」のところ、それで最後のこの最後の部品「兮」、それで「之」に移り、

もう、こちらにキュッと飛んでゆき、というのは、ここがなかったら、本当に隠してみますと、こちら(右)に少し行き過ぎていて、最後じゃあこっちに張るよということで、最後のこの一本が来ていると思うんですよね。

更にこっちに戻してきて、「敬問」か、「敬」という字ですが、こちらもすごい相当略されてまして、こちらに来て、この上と下の組み合わさり方、こちらが上、こちらが下に来て、

ここがもう略され、そうすると、その偏と旁の組み合わせ方が、なかなか絶妙ではないでしょうか。おおらかです。

それでこれはボンときたら、「門」が「つ」になってしまい、それでこれは点々は「口」ですが、「口」は上と下の画が省略されまして、点点になります!

まあ、草書は覚えなきゃいけませんが、基本的には篆隷をどんどん崩してゆき、こうなりましたが、これもなかなか突っ込みどころが沢山ありまして面白いと思うんですよね。

まあ、今回はこんな形で結構、王羲之についても、もうこのサイン(署名)だけでも、沢山、喋ってしまいましたけれども、

思ったんですよ!私はいつも物を見ると、もう漢字であれば、字源にいきます!言葉を見たり聞いたりすると、語源に行きます!どんどんルーツを遡ってしまいます!

それでプリミティブな形まで行きます。最初の形、源はどうだったのかですけれども。

それに行きますから、今度はこの草書を書くとき、草書はバラバラに分解して、実は少し戻ってみますよ。

この王羲之の「羲」という字も、そうでしたが、王羲之は字源に即して考えても、ものすごく理に適っ書き方をしています、

上の部分は「羊」でここの部分は「我」でこの最後の下の部分がありまして、「兮」という「ハ」という字を書いて、下に「丂」という字を書く形をしていますが、

その中の三つの部品をどんなに究極的に草書まで略しても、三つの部品で成り立っていまして、なんちゃってのような(書き方をせず、厳格でして)、草書というのが、難しいのは、一本棒がポンと飛んでも、違う字に見えますから、

ものすごい究極的に省略されていますから、そこで見た時には、その部品をきちんと認識しなければ、変な字(誤字)を書くという、変ちょこりんな略し方をしてしまいますから、

本当に字に対する深い理解を必要としますが、まあ、基本的にそういったところで見ているわけですけれども。

今度はその「羲」という字などを「王」や「之」が、どの字源から来ているのかなど、まあ、王羲之からどんどん歴史を遡りますが取り上げてみたいと思います。

今回は先ず王羲之に ついて、ちょっと語り過ぎちゃったかな!また、次回作をご期待くださいませ。どうもありがとうございました。

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