Press "Enter" to skip to content

王羲之に先立つ鍾繇《薦季直表》や陸機《平復帖》について、二人の伝記や陸機の《文賦》について語りました!Chinese Calligraphy

王羲之に先立つ鍾繇《薦季直表》や陸機《平復帖》について、二人の伝記や陸機の《文賦》について語りました!

KF-Schola / 探究の探究では、頻繁に新作を更新する予定ですので登録下さいませ!https://www.youtube.com/channel/UCFO5Akv8rd0CO4lahUGn6jg

最近Twitterで編集の裏話や新作の動画の告知を始めました。フォロー下さいませ!https://twitter.com/KF_ArSin​

姉妹チャンネル KF-Ars Sinica / 系譜でたどる中華文化 もエキサイティングです!https://www.youtube.com/channel/UCVcCcF62H09v8Yk3mkU8ojg


2021年3月1日

皆さまこんにちは!王羲之のシリーズが続々と出てまいりましたけれども、今まで特に彼が書いた線の美しさ、それと線の連なりとか、線の動きとかそういった部分から、本当に色んなことを感じてこれたんじゃないかなと思ってきたんですけどもね。

私はいつも思っているのが、書を見るときに、まあ一般的には、これが上手いとか下手とか、良いとか悪いとか、非常にそういった作品としての鑑賞とか、評価をするような話す人が多いですけども、

私はそれよりもその書を見たときには、書いた人の心の動きが、その瞬間に考えたこと思ったことがピピッと、字形やその線質の変化に現れているんじゃないか、やっぱりそのただ作品、紙の上に墨で書いてあると、そういう人間味のないことじゃなくて、やっぱり産んだ人、書いた人の考えや思いが書には現れてるんじゃないかと思うんですよね。すごいそれは面白いことなんですけどもね。

それでそういった面から見ていくと、やっぱりもう一つ面白いことがあって、そのある時代に使われた書き方とか、筆法とか言いますけれども、その筆の使い方、そういった動かし方とか、話もあるんだけれども、それと同じくその当時にその気風というか、

当時の人のその非常に特徴的な雰囲気というのがありまして、それも見ていくのが面白いんじゃないかと思っておりまして、

そういった時代背景なり、その人が生きた周りの環境と、その中でその人が、書いた人の考え、思いそういったものを読み取りいくっていうのは、面白いっていうことでやってみようといるんですけどね。

そう言って見て見ましたら、もうここに出ているんですね!王羲之をやっていたつもりが、鍾繇と陸機と出ているんですけどもね。

こういった王羲之より、少し前あたりにあたる、大体西晉とか、こういった部分から見ていくというのが面白くて、二つ意味があってですね。やっぱりその前の時代ものを見ることによって、王羲之のその特徴がよく掴めるということと、

書というのは、そもそもどんどん文化も、全般的にそうなんですけどね。一方的に発展してるんではなくて、その時その時に非常にその時代に生きた人たちが、一番こう言った書き方が、一番美しいというような美意識というかね。

美意識と言ったらちょっと何か芸術みたい感じでちょっとあれ(仰々しい)ですけども、無意識のうちにそういった中で発展したわけですから、そのある時代で次の時代のもっとよくなってるかというと、そうじゃなくて少しずつ変遷しているということで、

前の時代を見ると、私なかなか好きなのが、やっぱり法帖だと、もう何度も申し上げているおりますように、もう本当に筆意の本当に細かいことは、もうダメなんですよね。

やっぱり複製に複製を重ねて分からないんだけど、肉質、真筆にものすごくありまして、それを今見ているんですけれども、こういった本当に一番この陸機の《平復帖》は、一番もう有名な名を成した人が書いた肉筆としては一番古いと言われてるし、それは今から1700年以上前、

それでこの鍾繇も、《薦季直表》、季直という人を推薦した、これ表というのは上奏文ですけれど、それが中々。一般的には法帖として伝わっているんですけども、この墨跡本がありまして、これももっと後の人が臨書をして書いたんじゃないのかなと言われてたりするんですけども。

少なくとも私がこういったものを本当に陸機、鍾繇と彼らの書を見たときに、それがじゃあ本当にその同時代に書かれたものなのかといったとき、やっぱりその時代に書かれた、後ほどどんどん出ますが、期待させてしまいますけれども。

その時代に書かれた肉筆の別の木簡や残紙という、紙のもう本当にもう書き損じてポンと捨てられちゃったものなんですけど、そういったものが発掘されたものと合わせると、

やっぱり後の人が書くとどうしても、それを、もうどうそれを本当にその通り書いたつもりでも、やっぱり尻尾を出すんですよね。尻尾を出すというのは、その後の時代にしかありえない書法が混じっちゃうということだけれども、結構これは本当にその当時に書かれたものに近いんじゃないかなと信じられじゃないかなということも、見てゆけるんですけどね。

そういったものも、ちょっと今回はやって参りたいと思うんですよね。先ずでこれ二つを一気にすると、かなりこれしゃべると思うんですよね。語るんですからね。

だからまあ大まかに見て、鍾繇と陸機とうのは、私こう言ったビデオを作っていて感じているのは、まあ自分の中では、色々自分の興味に従って学ぶんですけども、その学んでる中でやっぱりこういったビデオで皆さまに公開して披露ししなければいけないとなると、

やっぱり一生懸命、もう一回私は自分がやったことを資料に当たって、真剣にその、もう変なことで話し来たら大変ですからね。嘘を話してはいけませんから、ということでものすごく真剣に見て、色々と考釈をしていてですね。

そうしたらこの筆法にも興味があるのだけれども、私はその書いてある内容に興味を持っちゃったということで、陸機《平復帖》はなかなかこの文字を読むというのは、これ相当草書でね。ものすごいね章草というタイプの草書なんですけどもね。なかなかこの字が本当にこう読めんのかなっていう部分が学者によっても微妙に違う部分があって、

それで文意が通らなかったりすると、やっぱりこの文字の釈文はおかしいんじゃないかということもあったしてね。それで私もいろいろ調べてたりして、それである程度私の中でもこの内容が理解できたという、 何が書いてあるかということ、またそれもちょっと語りたらいいと思ってるんですけども。

ということまで発展しちゃって、ちょっと大きくなっていきますので、先ずじゃあ鍾繇とか、陸機という人は、どういう人だったかというのを簡単に、まあこれも歴史書を全部引用するのは大変ですから、ちょっとこんなものをで見ていきたいと思うんですよね。

こちらなんですけど、《三國志·卷十三·魏書十三》の中に鍾繇の伝記があるんですよね。それでこういった形で載っているんですよね。

ああ、これ「第」がちょっとこれがところに入っている!これ間違いの字、違う字がなんか混じっちゃったからということなんですけども。笑い草にして下さい(笑)

それで鍾繇がどこの出身(河南省許昌市長葛)とか言うことがきちっと書いてあって、それでまあ基本的には当時の首都の洛陽で色々な政治活動を行ったわけですけどね。忠臣としてよく知られてるんですね。

鍾繇は書家としてよりかはれ 当時は言ってみれば、皇帝に仕える人ですごい真面目に人間的に立派だったっていうことでね。それで面白い話が伝わっていて、小さい頃にお父さんが「相」というのは占いですよね。占いをする人に会って、この小さい子はすごいとなかなか立派な人間になるんじゃないかとそういう「相」を感じるということでして、それで水に陥っちゃって、それでそういうような災難に遭うんじゃないかと予言されたらしいですよね。

そうすると少ししたら、ある時に橋を渡っていて、馬が驚いて陥っちゃって、死にかけたということで、お父さんがおお当たったということで、この鍾繇を大事に育てたというような話が伝わってましたね。それで一生懸命学んだっていうね。

それでそこが後に伝記が続くんですけどね。最初の部分だけ!後はご興味ある方はこの《三國志·卷十三·魏書十三》をお読みいただければと思うんですけど、

それでこの鍾繇は、唐の時代にこの張懷瓘という、この人は《書斷》という本を書いたりして、書道史をその前の書の歴史をまとめてくれるんですけど、その中にも出てきて、それで面白いことに、この中では、すごい書が良いわけだがら師が喜んでね。

蔡邕とかこの人たちは、蔡邕もなかなかの書人だって言う名前が伝わってまして、それで劉德升とこの人は結局、行書を発明したんじゃないかという話もあるぐらいの、まあ一人の人が発明したわけじゃないけれども、そのぐらいの名を成した人でありましてね。それで本当にこの鍾繇はそれ学んでですね。

それでもうこの真書とは、この当時の隷書と言われたんですけれども、隷書と楷書の合いの子みたいな状態なんですよね。それはもうすごかったと、それで柔と剛が本当に両方を兼ね備えているんだということで本当に優雅さと力強さですよね!

点画の間がなかなか味わいがあるんだよと、彼が書いたものは独特だよ、なかなか深みがあるということ、それで私がずっと話していた古意、古の味わい、そういったあんまり飾らないけれど、朴訥な中に変化があって美しさがある。

その飾らない実直な美しさがあり、この人だけなんだよ、とすごい褒めている文書があり、この伝記の中には、彼の生没年が書かれていて、史書には書いてなかった分からないんだけども、何故かちゃんと何時( 230年)に亡くなったか、何歳(80歳)でといるのか分かることで逆算すれば、何年(151年)に生まれたというのは分かるという、色々と貴重な資料でもありまして、

それが先ほどの右側にありました鍾繇ですけれどもね。今度は陸機とこの人は、私は結構好きなんですけれどもね。文学者です!大文学者だったんですけれどもね。もちろん文人として当時は非常に重用されて、

それで彼は《晉書》、もう少し後の時代の史書の中にありまして、陸機が生まれた時は、もともと呉という国がありましたが、その呉の国が、つまり今で言う、その蘇州とか、そのあたりです。江蘇省とか、江南といって、すごい長江より南の中々文化もあって、すごい発達してた地域、豊かだったんですけどね。

それでそこで小さい頃から、やっぱりものすごい才能があると異才だと、文章がやっぱりすごいんですよね。文学者なるんだけあるんだということでね。それで二十歳の時に呉が滅んじゃったと、滅ぼされちゃって、それでその故郷で静かにしてて、一生懸命をして、十年ぐらい経って、

そうすると、今度は晉という朝が出来てきて、西晉ですけどね。これでこの人はすごいということで本当に首都に呼ばれて、色々と(活躍)するんだけれども、結構政治的なその政争に巻き込まれちゃって、無実の罪を被せられて亡くなっちゃうと、大分最後はかわいそうなんですけれども、

その時の故事がありましてね。逸話、華亭の鶴の鳴いているというのを、それをもう一回聞きたかったという、それは故郷の地名ですけど、だから首都でかなり遠いところですから、洛陽はその今の蘇州あたり(松江縣は1958年に隣の上海市に編入)の鶴の鳴き声をもう一回聞きたかったというようなことを言ったので、皆がすごい残念がったという話があって、亡くなる時に無実の罪で処刑されるときに、そういう話をして、皆がすごい涙を流したという話が、そういう中でこの有名な故事もありまして、

彼はやっぱりすごい文学がすごいから、この《文賦》と、元々やっぱり漢の時代にある文学に形式で、やっぱりすごい格調の高い韻文ですけどね。 それでそれはまあ韻文と散文の間くらいかな、うん、完全にピチピチというのではなくて、結構自由な部分があって、賦というのには中には色々な種類があるんですけど、

それでその文学について、人間が文章を書くというのは、どういうことなのかということ、これを一番、読み下してしまえばいいんですけれどもね。

余(よ)、才士の作る所を観る毎(たび)に、と読むのかな。まあこれ普通に見たら、もうパンパンと、いつも見る!、何を才士の作をというから、

書き下しというのは、結構面倒くさいんだけれども、竊かに以て其の用心を得るを有りだから、結局これは読むと簡単な話で、本当に私が毎回その立派な人たちが書いた文章に作るというのは、その書くということですから、著作したものを見ると、

まあ心の中でその人達が使った細かいその配慮とか、その考えが、ピピピと分かるんだと、そういうことが書いてあるんですね。

それでいろいろ書いてあるんですよね。(文章を書くときは変化に富んだ多彩な表現があるけれども、その良し悪しは章家であると続いていて、)なかなか面白い。それで今度(自ら文を属(つづ)る毎に、尤(とりわ)け其の情を見る)は、自分が作るところにおいて、その文章をものすること、書くという時に色んな考えというものを表れてきたものを感じ取るということなんですよね。

書いたりすると自分の考えがまとまってくるし、そういうことでしょう!それで色々とやって《文賦》を作ることにしたと!

故に文の賦を作ると書いてある。それでここ(以て先士の盛藻を述べ、因て文を作るの利害の由る所を論ず)に書いてあることは、これは昔の人の優れた文章を見ていくと、それを以てですから、それでそうすると文章を作るという上で良い所と悪い所か、そういうものがよく分かるわけですよね。

だからそれで自分の中でも、色々書いてみたら、なかなか本質のところをピンピンといけているじゃないかと、ちょっと感じた!だからこういうものがいいんじゃないかっていう話(佗日に殆ど其の妙を曲尽すと謂う可し)をしていましてね。

それなかなかそこが入ってくるところは綺麗な文章なんです!やっぱりこれは!これ(中区に佇みて以て玄覽し、)結局、中心にばんと立って、そこで本質的な部分を見るようなこと、「玄」とはもう本質とかそういう意味だから、それでかつここの所(情志を典墳に頤(やしな)う)はその色んな考えを昔の人が書いた文章を読んで養うということが書いてあるんですよね。

それでなかなかここの部分(落葉を勁秋に悲しみ、柔條を芳春に喜ぶ)も美しいですよ!やっぱり!秋には落ち葉を悲しんで、春には柔らかい枝を楽しむという。条はピンピンピンということですね。

心が懍懍(りんりん)というのは、ピンという感じですね。それで霜を想い、志はこれは眇眇(びょうびょう)というのは、もう本当に広いっていう感じがしますよね。この言ってみれば擬声語というような感じですね。それで雲を望むだから、すごいスケールが大きいということで文章も美しいですよね。すごい対句になってるし、秋春、霜雲、それで心の中、志のもっと大きな、内と外とかいう話ですごい文章も美しいさすがです!

恐れ入りましたということで本当に楽しいですよね!こういうのは見てゆくと、これ本当にもう文章も素晴らしいのがいっぱいある(と書いてあります。先祖の輝かしい活躍、先人の高潔な人柄、文学の林に立ち入り、華麗な文に心を躍らせるなど)!

(慨として篇を投じて筆を援り、聊か之を斯文に宣ぶ。)それをまあ一応するはさておいて、じゃあ自分がちょっと筆を執って、文章をちょっと書いてみようかと、そういうことを世の中にちょっと、これ(聊)はおしゃべりという意味で、今でも中国語でそう(liáo)ですよ!それでちょっとしゃべっちゃおうと書いてあります!

それで陸機はすごい文章が素晴らしい!今ちょっとちらっと見ましたようにですが、私ちょっと全部読んだんです!この後も!それでこの後は何が書いてあるかというと、人が何かを考える、そういうイメージ、それを人に伝えたいといった時にどういう仕組みというか、どういうプロセスで人が考えをなして、文書なりに書きまとめて、それをきちっとした形になるのかと、そういうことを書いてくれてるんですよね!

だからその後はちょっとお楽しみに、もしご興味ある方は《文賦》を読んで頂ければ、すごい文学について、その中で色々実践的な面から、そういった文学のいいところとか、これはこう書くんだよと、これはこうなんだよとしゃべってくれていますので面白いです!

まあ中々これはまとまった形では文学的な論としては、もう一番古い方に当たるんじゃないかなと思うんですよね。

というのは、まあこの後、《文心雕龍》とかに有名な文学、もっとそれは大冊で大きいものがありますけれども、まあこの時代ぐらいから、すごいそういった文章もすごい大事にされてきたということで、そういうことも含めて見ていけたんじゃないかなと思います。(長編になりましたため、分割いたしましたが、陸機《平復帖》の考釈と書法につきましては、次回、次々回作をお楽しみ下さい!)

Follow me!

PAGE TOP