陸機《平復帖》には何が書いてあるのか、今まで解明されていませんでした内容に迫りますのでお楽しみ下さい!
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彥先羸瘵,恐難平復。往屬初病,慮不止此,此已為慶。承使唯男,幸為復失前憂耳。吳子楊往初來至,吾不能相見。臨西復來,威儀詳跱,舉動成觀,自軀體之美也。思識□量之邁前,勢所恒有。宜□稱之。閔鴻、榮寇亂之際,聞問不悉。
彥先 羸瘵(るいさい)し,平復し難きを恐る。往(さき)に初めて病むに屬(およ)ぶや,此に止まらざるを慮ふれば,此に已(もっ)て慶と為す。
賀循は病で弱り、元気になるのが難しいかと心配していました。前に病気になったときは、これだけで済まないかと憂慮していましたから、これはおめでたいことです。
承るに唯男(ゐだん)を使ひとすと。幸ひに為(ため)に復た前憂を失ふのみ。
一人っ子を使いにされたとのこと。幸いなことに前の心配はなくなりました。
吳子楊 往に初めて來(い)至るや,吾は相い見えること能わず。
吳の楊方くんが先日に初めてやってきましたが、私はお会いできませんでした。
臨西に復た來り,威儀 詳く跱(そな)わり,舉動 觀を成し,自(おのずか)ら軀體の美あるなり。
臨西にまた来ましたが、威儀をよく備えており、挙動も見事であり、自ら身に備わった美しさです。
思識 □量の邁前なる,勢ひの恒に有する所なり。宜しく之を□稱すべし。
見識や力量が盛んに現れ、勢いを常に備えています。どうか彼をほめて下さい。
閔鴻(びんこう)、榮は寇亂の際,聞問(ぶんもん) 悉されず。
閔鴻と顧榮は戦乱の時のため、消息が明らかではありません。
2021年3月6日
皆さま、こんにちは!今回は陸機の《平復帖》をやってみたいと思うんですけど、
前回は鍾繇《薦季直表》やりましたけど、今回は陸機が書いた《平復帖》というのは、これは前回は上奏文でしたけれども、まあ言ってみれば、もう少し公的な文章ですけど、
この《平復帖》はお手紙なんですよね。 尺牘、そういった意味でも、またこの書は有名な人の書いた非常に史書にも名前が出てくる中で書かれたものでは、一番古いということでして、
前回の鍾繇《薦季直表》は模写かもしれないし、臨本と言いますけど、臨書されてから作られたものかもしれないし、ということでしたけども、
これはもう間違いなく、当時書かれたものじゃないかと、昔からよく言われてるものでして、
なかなかこれは古意があるんじゃないかと、そういうことですごくこの陸機の《平復帖》、昔から大事にされてきたんですけども。
この字体が、今草という今我々が使う草書とは違って、一個一個は単体でこれは章草という、隷書から両方と生まれているんですけれども、単体字であんまり連綿をしないで一つ一つの字を非常に崩して書くと良いような書体でありまして、
なかなかこれ学者によっても、一応ここに釈文をおいておいたんですけど、なかなかこれ学者によっても、これは読めない文字もありまして、ずっと私も分からなかった部分があるんですよ。
つまり大体読めば意味はどういう手紙なのかは分かるんだけども、その手紙とは基本的にその当事者間だけが了解しているような事項があって、それがいきなり出てきてパパンとくるから、これ何を意味したのか、
まあこれは文言文として、尺牘の文章としては、まあ実証的な意味は分かっても、じゃあ何を本当に意味していたのかと、
結構人名が出てくるんですよね。 これが何だろうか、誰なのか、それも分らなかったんですけれども、
今回私ももうこれをやりたいと言ったら、やっぱり中身に興味があって、どうしても私の中ではよく書で学ぶとすると、
まあこういった書かれたものを見て、これを臨書して、字の形だけを学んで、こういう筆遣いだとか、こういう形をしているとか、そういうことを多く議論するわけですけども、
私の中ではこういった文字とは間違いなく、思考とか感情、考えとか、思いを伝える道具だと思っているわけです。
つまりそれによってはっきり自分の意思を手紙を出したりして、相手に発信したわけだから、先ず内容に興味があるわけです。
それと文学的なこの間に見ましたしたように陸機の《文賦》とありましたけど、文学論とか、文学に興味あるわけなんですよね。言語としての漢語とか、あとはそういった文章、
だから内容というのはすごい大事なんですよ、ですからやっぱり内容とその筆のタッチとか、その書からすごく雰囲気すごい合ってるんですよね。それはそうですけど、真面目に書く文書はもっときっちりカチッと書くし、ある程度気心が知れた人への手紙というのは、すごいパパパパと書く!
それで彼の書き癖があって、そりがなかなか読めない難しい部分があるんですよ!他の字に読めちゃうという、まあそういった形でちょっと見ていきたいと思うんですよね。
今回、本当にこれをもうしょうがない、ビデオを作りたいったときに、いやこれちょっと意味が分からない部分があるんですよと言うと、これは感動が伝わらないんじゃないかということで一生懸命、今回ビデオを作るときに調べたんです!
もうこれもうこれ一字一句、何を意味してるのかということ、自分の中でもはっきりさせて、そうしたらある程度去年あたりに北京大学中文系で古典文献を研究している方で書にも長けている寇克讓(こうこくじょう)さんという方の《平復帖》考釈を見つけまして、《中国書画》(2020年第2期30-33)の中に論文が出ているわけなんですけど、
それは中国語で書いてあるから、それもまた内容を読んで、日本ではあんまり知られていないんじゃないかということで、話すのも面白いかも思うんですけども。
これで見ましたら、全部名前とかを考釈して、当時の《晉書》、史書に出てくる人の名前と、陸機の周りの人間関係を全部洗い直して、もう全部調べてかなり解明してくれてたと、
それを読みまして、やっぱりKF-Scholaだから、ちゃんとどの人が研究したことをはっきりさせて、それを私の中で読んだ感じをお話していきたいと思いました。
それで先ず基本的には啓功先生という有名な書家が解明したんです。かなり読めたんですよ(《〈平復帖〉說並釋文》)! だけれども、文が通らないところあって、今申し上げた去年出たばっかりの考釈で結構埋めてくれたということで、その中でちょっと見ていきたいと思うんですよね。
元々この先ずいきなり「彥先」と出てくるんですね!「彥先 羸瘵(るいさい)し」と書いてあるんですけれども、これは「彥先」が誰かが、先ず問題なんですよね!
そうして調べると、これは賀循(じゅん)さんという人の字(あざな)で、その人も陸機に近かった人なんですけどね。
その人が陸機が彼が官職を得られるように推薦したりしていた人でやっぱり近い人ですよね。人となりとかをよく知ってるんですよね。
その人を示しているんじゃないかということと、もう一説あって、この同じ字でもう紛らわしい、同じ時期に陸機の周りにいた顧榮もこの字を持っていたんですけれども(《晉書·顧榮傳》「顧榮字彥先,吳國吳人也,為南土著姓」)
まあ後でちょっと出てくるんですけれども、ここにも「榮」と出て来て、この顧榮じゃないかと、その人たちから、今がどうしてか分からないときているから、ということは、この人とは違うんじゃないかと、消去法において多分、賀循じゃないかと、あと最後まで行くと分かってくるんですよね!
賀循が病気になって、この「羸」という字は「羸(よわ)い」だから、病気で弱っているということだけれども(王羲之《妹至帖》にも「妹至羸」と出てきます)。
それでここに書いてあるのが、この四句ですよね。この「平復」と書いてありますよね。この部分から《平復帖》というんですね。
「平復し難きを恐る」と書いてありまして、「恐」ですね。これは「難」という字ですから、そういう意味で、これは要するに病気になっちゃったけど、それでちょっと心配していたんだと!
「平復」とは元気になるのかどうかは微妙だから心配してだということを書いてあるわけですね。
それで次の所に書いてあるのは、「往」という字は「往(さき)に」と読めますから、これは「往(さき)に初(めて)」。
これは病気でしょ。病垂「疒」で「病い」もしくは「病む」
これは「居る」と読むか、もしくは「属する」と読むのかとありますが、まあ意味としては、ここは病気を始めて得たときに、そういう状態にあったとか、「属(およ)ぶ」とか、もしくはそういう状態に「居る」ということですから、
「往(さき)に初めて病に属(およ)ぶ」と読むか、もしくは「病んで居るか」という時には、 これは憂慮の「慮」という字ですから、これで「止まる」ですから、「止まらざるを憂ふ」とか、それで「慮ふれば」とそうすると読めますね。
だからこれ、病気で大丈夫かなあと、この状態より悪くならないかなと心配してたということですね。
もう一回これが踊り字でここで「此」を繰り返しますね。「此(これ)を已(もっ)て」、これは 「慶」という字だから、「慶びと為す」か、もしくは「慶(けい)と為す」と。
だからそれ以上は悪くならなかったから、まあよかったんじゃないというような意味になるんですけれどもね。
ここがそれでその次の部分は、こっちがおっしゃってるから、これもなかなか、もう ここが擦れてなくなっちゃってるのかどうかということで、
これを「承る」という字でありますから、そうすると「承る」にここも欠けちゃってんですよ。これをもうここはね。
ここも剥げちゃってるということでして、でもこの賀循という人には、一人っ子(唯男)がいたということでして、 この一人っ子は誰かまで調べていてくれて、それで賀循の子供は、賀隰というそうですけれど(《晉書·賀循傳》「子隰,康帝時官至林海太守」)、
唯だ一人っ子が使いとしてきたんだということ、それでそれをすごくやっぱり、これは幸福の「幸」ですから、 ここのところはこう入ってこうですから、ここのところはこうですから。
ここのところは、どうなりますかね。今そうすると「幸いに」、これは「為(ため)」ですよね。それで「復た前の憂いを失う」ですね。動詞が来て、これ「耳(のみ)」ですね。
こういった前にあった心配事は消えた、それが嬉しいと書いてありますね。そういうことなんですよ!
最初この三行に関して言えば、この彥先(賀循)さんが、友達が病気になっちゃって、ちょっと治るか分かんなかったんだけども、その病気がまあ幸い大事に至らなくて、本当によかったねと、
それでその子供がそういう風に知らしてきてくれて、本当に安心しましたとというような 最初の三行ですね。
ここがここがここが欠けちゃって、難しいんですけどね。でもここはこの「楊」、「楊さん」、「吳子」と読まれて、「吳子楊」という人が誰かというのが、これは楊方という、まあ陸機よりもっと歳が若いから、
陸機は西晉で結構短くて後の方だったから、その後、(王羲之と同じ)東晉ぐらいにすごい文学者として名を成した人なんですけどね(《賀循傳》「循雅有知人之鑑,拔同郡楊方於卑陋,卒成名於世」)。
それは若い「吳子」と「子」が付いているということは、「江戸っ子」とかと一緒で呉という自分の同じ故郷にいた人に親しみを込めて、
この呉にいる若い楊くんというのが、という感じの書き出しですよね。それが来たんだと!これが先ほどとこれと同じで「往(さき)に」ですね。先ほど初めて、これも同じ字でこことここで出ていますね。これもそうでしたし、これも出ているということで来たんです!
それでこれ「至る」なのか、「主」なのか、「至る」と読む説はありますけど、両方「主」と読むんじゃないかと、まあでもい「至る」と読むほうが(文脈から)自然じゃないかなと。
この「呉」同じ故郷の楊くんがちょっと前に先日に来たんだけど、それで「吾」は「不」でしょ。その次がこれが「能」、「できない」とか、そういう意味で「不能」ですよね。「できない」でして、これは結構ね色んな説があって、でも最近ここは剥げちゃってるけど、少しちゃんと残ってるでしょうと、
ここで「相」といっしょで会う、ここのところは「目」ですよね。こっちに二文字でここのところまでで「見」という字の草書で二文字じゃないかと!
ここだけちょっと繋がってますけど、だからつまり私は「相見すること能(あた)わず」だから、「能(あた)わず」だから、結局会えなかった、ちょっと前に訪ねてきてくれていたみたいなんだけど、私会えなかったと!
だけどここにこれも面白くて、これ「西に臨む」と読むのか、実はこれは「臨西」は地名なんですよね。 これも行くと河北省の邢台市に当たる地名でして、その時にここに西晉の303年と書いてあるのは、この地名に居たというのは、
この当時皇帝の一族の司馬という姓がその当時の晉の皇帝の姓でしたけれども、
成都王の司馬穎が陣を置いた鄴城という場所があって、鄴という城市があったわけですけども、古い都市ですけどね。
「八王の乱」が起きた時にそれは303年(晉惠帝太安二年)だと、その地名じゃないかと考えられていて、この地名をボンと出して、「西に臨む」じゃなくて、固有名詞じゃないかという説があって、
陸機が亡くなる年なんですよ!色々とその後に司馬穎の中で色々とゴタゴタがあって、讒言されて、全然そんなことないのに、その陸機を憎む人が吹き込んだ罪を着せられて殺されちゃうという、
本当にちょっと前ぐらいに当たるんじゃないかという説になってきて、
それで「復た」でしょ、「來り」ともう1回ねそこに来てくれた。そしたら会えたらしいんですよね。
そうしたらこれ「威儀」ですね。「威儀」はその態度がすごい素晴らしいことを「詳(つまびら)く跱(そな)わり」と書いてあるから、すごいこの4文字で楊くんはすごいしっかりした人なんですということを言っている(しかも《晉書·楊方傳》「初為郡鈴下威儀」と同じ文言が出てきます)!
それでかつその次のところいきますね。まあ「挙動」とは、立ち振舞いという意味ですね。挙動という我々も使いますから。
「挙動」から来てこの「觀を」、これは「成」 と一緒でこの草書でこれはちゃんときちっと読めますね。
「觀を成す」ということで要するに立ち居振る舞いは「挙動」がもう見るに値するという、すごく見事だと書いてある。立ち振る舞いもいい、
要するに会った時の印象がものすごい素晴らしい。すごいしっかりした人でして、挙動が見事ですと書いてくれていましてね!
「自(おのずか)ら」でしょ、「自(みずか)ら」という意味でしょ、そしてこれはこの部分が「身」で「軀」、それでここの所は今度はこれは「骨」でしょ。ここが肉月でこっちが豊かで「體」なんですよね 「軀體」ですよね。
「軀體の美」ですよね。「也」ですよね。ここは剥げてるけど、だからすごいもう体つきも立派ですばらしいですよ。美しいですよとすごい褒めてますよ!
ここで楊くんをめちゃくちゃ褒めてる(笑)それで更にここのところは「思」でしょ。これは一本に(草書で)なって心ですから。それで「識」でしょ!
ここは一文字あるのか、欠けちゃって、薄くなっちゃってますよね。
それで次のところはいくつかの「黟」と読むんじゃないとか、「黒」と「多」を上と下にわけて、まあ今はこっちに書くけれども、
でもこれは「量」と読むんじゃないかと、ここです!ここちょっと欠けてるけど、まあでもちょっとここを欠けてるから分かんないけれども「力量」とか、そのその人の褒めてる、「識」は考えですよね。それで それじゃないかなと私思います。
それでそれが「前」でしょ。これは「萬」に之繞で邁進するとか、そういう意味の言葉で「邁前」でこれは「前」なんですね。 本当にだから「邁前」と言うほど凄い考えていることもすごい!
すごいずば抜けてるという意味なんですよね!盛んという意味ですからね!もう出ているという。
それで次にこれは「執る」という字で「力」はないけど「勢い」とか、そういう字になりますよね。
上の部分は「執る」ですから、それで次のこの字は「所」でしょ!このはそれでかつ次の所はここがちょっと欠けちゃっているけど、まあ立心偏「忄」があったんじゃないかという、「恒」でしょ!
それでこれが「有る」でしょ。それでここの所が最後に次のところに行けば、「宜しく」か、
だからこのところで読むでしょうね。そうするとここはどう読むかといいますと、「勢い」の「恒に有する所」と読むでしょうね。ところであるという、だからすごいもう盛ですと!
その人はものすごい人間的にもパッションが溢れているという意味でしょ。ここは でこれは「宜しく」でしょ。これ上は「冖」だから「宜しく」。それでここは剥げちゃって分からないんですよね。
これはもしくは「宜しく」という前のところを開けちゃってるかもしれないけれども、それで「稱する」という字でしょ!
「之」でしょ! だから結局まあだから四文字でここの所がきてるから、どこで切れるかな。ここで切れるか!
だからタンタンで切れて、タンタンタンタンとくるから、もう一回、タンタンタンタンてくるから、多分ここは一字があったんでしょうね。ここが剥げちゃったのかな。それで分からない!
それで四+四で来る方が文章的にはいい!ここにありますからね。1234でくるのは自然だから、これで読めるんですけれどもね。
これはまあ「宜しく之を□稱する」と、まあこれはすごい相手を褒めるという意味を持った字ですよね。
今の中国語でも、褒めるような熟語(称許など)には、この「称」するという字はよく出てきますね。日本語でも「称賛する」とかいう意味の「称」ですから、このことを褒めるべきだということ、
彼のことを取り立ててやってくれという意味なんですよね。彼のことをすごいお願いして、依頼してるということでして、
最後のここの部分がすごいここも色んな説があったんですけれど、これは基本的に「つ」は門構えですよね。それで下が「文」だから、これすごい、その先に申し上げた論文(寇克讓《平復帖》考釈、《中国書画》2020年第2期30-33)の中でびっくりした、
もう今までの釈でここが切れちゃって無くなってるから分からないし、これとこの2文字で行くと《晉書》の中に薛兼という人がいて、その人の伝の中に、この閔鴻(びんこう)ここは消えちゃっていますが、
これは「鴻(おおとり)」という字じゃないかと捉えられて、それでその人の名前ですよね。
この閔鴻さんという人と呉郡の顧榮さんじゃないかという風に当ててくれて、その二人はその薛兼という人の伝の中でちゃんと並んで出てくるということ(《晉書·薛兼傳》「兼清素有器宇,少與同郡紀瞻、廣陵閔鴻、吳郡顧榮、會稽賀循齊名,號為『五俊』」)でして、
多分その二人を並べて書いてんじゃないかと、ここは欠けているけど、そう読めるということでね。
それでその人たちは賀循、この彥先さんも一緒に並んでるんですよ。すごいところ見つけてきてくれて、ということは、それで呉から出てきた当時この五人のものすごい秀才というか、ものすごい人間がいて、
その中にこの人とこの人と顧榮さんとこの賀循は、3人揃って出てきていないかと考釈している。
すごい突破口じゃないかと、今までここが分からなかったんですよ!誰だ!誰なのかということで「夏」と読まれていたりして、ちょっとこれは「つ(門)」に「文」だろうと思ってたりして、
でもなかなかね氷解してくれて、私は感激しているんです!びっくりしている! (今までは)読むのにちょっと分からなかった部分が多すぎましたが、突破しました!
そういうふうに読めてきて、そこから、それでその人たちは「寇」、元寇とか、倭寇とか、その荒くれ者みたいな意味ですから、これは「亂れる」の「際」ですから、
要するに今もう戦争中というか、ぐちゃぐちゃになっている!先ほど言ったような内戦状態に鳴っていて、西晉がもうゴタゴタしてたんですよ!
その時でちょっとこれ「聞く」でしょ。先ほどた「つ」が門構えでこれが「耳」ですから「聞く」、ここが「問う」で、門構えに点で「問う」にこれは「不」でしょ!
それでこれが「悉す」という字だから、「聞問(ぶんもん)」というのは、これはね手紙という意味でして、手紙が来ない、
要するに消息が分からないと、明らかじゃないという意味なんですよね。「悉されず」だから、そういった今言った他の盟友たちはちょっと、今は分からないんですよと、今はちょっとゴタゴタして内戦中だから、ちょっと分からないんだと書いたんですね。
まあこの人たちはみんな結構その後も生きているんですね!それでこの陸機だけが、その年に讒言にあって殺されちゃっうという、それで華亭の鶴が鳴くのを聞きたかったという逸話(華亭鶴唳)がありましたけれども、
そういう事になっちゃったけども、まあ結構、他の方は皆長生きしてくれて、この楊くんは、結構長生きして東晉の結構有名な文学者だったんですよね。
そういった形でその当時の文学サロン(文壇)の雰囲気とか、その間でなされた通信が分かってすごく面白いということなんですよね。
この最初の段は賀循の病気が治ったということ、その子供から聞いたという部分でしょ!それでこのあたりまでは、ここまでか!
この楊方くんが一回訪ねてきてくれたけど会えなくて、また訪ねてきてくれて、それですごい立派でもう素晴らしいんだとほめまくっている!これで考えもいいしねというすごいから取り立ててあげて下さいということを言っている。
最後にその盟友たちは、後の人たちは消息がはちょっと分からないよ、今はということで三つの話題が書いてあるということで、この《平復帖》は意味が少し分かってきたということでして、
まあこれはまた学者の間でまたこれやっぱ違う字はこうなんだとか、議論を重ねながら進んでいるんですけど、
まあある程度、私の中でもああこういうことを書いてくれてるんだと読めたという感じで、ちょっと盛り上がってしまって、本当は書法のほうをやっていきたかったっていうのもありますけども、すごい面白いんですよ!
こういう当時の文人たちのその交わり、関わり、こういう形で書いて、通信してたということをご紹介できたんじゃないかなと思います!
今回ちょっと本当はこの後、書の内容を見てことちょっと皆さんは気になっちゃってるんじゃないですか、この辺りですけど(笑)
また次回にやってまいりたいと思います!
今回は陸機の《平復帖》、どういう事が書いてあるのか、そういうことを読めて楽しんでいけたんじゃないかと思います。
本当にこういった王羲之もそうですけれども、尺牘はやっぱり内容がおもしろいから、読んであげて下さい!これからも読んでいきましょうと楽しんでまいりましょう!どうもありがとうございました!