文字の成り立ちと言語のしくみなど、固定観念に縛られない自由な発想で探究する楽しさについて存分に語りました。祝大家端午節快樂😄 縱談語言學、音韻學、訓詁學、文字學,長達一個小時左右了!
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2021年6月14日
皆さま、こんにちは!
先日にはこちらにございます。
「各」と「格」について、一時間以上語るという、動画を出してしまいまして、
いや~もう長くなってしまったんですけれども、
今回はその補遺(Supplement)として、
それについて、更に深く掘り下げてみたいと思って、
最初は筆法(や書法)について語るということやってましたけど、
それで前回が出ておりますでしょ!
そして三部作になってしまいました!
三つ目が出ます!
そこでは、初めて文字、
まあ、甲骨金文として、我々の漢字の先祖、
まあ起源と言えるものが残されておりますけれども、
最初に文字を用いた人たちが、
どういった発想で、どのような方法で、言語に文字を用いたのか、当てていったのかですよね。
彼らの思考とか、感情、思いとか、考えが、
何か最近、明晰に見えてきたと言いますか、
こういう仕組みか!こういう発想か!という興奮がありまして、
それが覚めやらない内に、皆さまと興奮を共有したい!
もう前の動画を更に重補してやっていきたいということを考えてまして、
今回の動画では、もう探求の一部始終を動画にしてみたい。
それをシェアすることは、非常に価値のあることだと思っておりまして、
そうしたことから、先ずはどんな資料があるのか、
それをどう使っていけるのか、
そしてある資料には何かが書いてある、そういったことからインスパイアーされて、
こうかもしれないとか、ああかもしれないという、思考がつながってゆく楽しさですよね!
研究とはやっぱり連想じゃないかなと思ってるんですね。
どういうことかといいましたら、
それは、意味のつながりを辿りながら、全体のまとまりを見つけてゆくといいますか、
細かい一つ一つの要素がありますけれども、それがつながっていくというか、
それがどんどんつながっていくと見えてくるものがあるんですよ。
一個の(総体としての)形が見えてくる!
それが興奮じゃないかと!
知的興奮を瞬間冷凍したい!
そういうことで、今ある資料全体を通観して、
もう通してみて、その背後にはどういう仕組みがあるのかを探り当ててゆこうと、
そして、それを論証していく、
人に伝えるためには、きちんと、論理的に組み立てなければなりませんということですから、
それをやってみたい!
そして、単なる資料紹介ではなく、探求過程をそういう全体のそしてそれを表現していく、
それをこの「各」と「格」、前回に続いておりまして、
これを以てできないかどうか!
やってみようじゃないか!
それがKF-Schola(系譜でたどるユニークな人類の文化)じゃないかなと思っておりまして、
今回こういった動画を作ってみたいな、
そういう試みをしてみたいなと思いました。
それで先ず私が何かを探究しようとしたら、
あるその事柄、まあ、今回はこの「各」「格」に関して、
それに関係してそうな、 とにかく資料を幅広く、もう奥深く集めまくるんですよ!
その上で全体を通観して、構造が把握されると、
そして、そういった過程においては、データが多ければ多いほど、
どんどん事実に近づくことができるんですよ。
やはり、考える出発点がいっぱいあれば、有利ですよね。
それでそれは何故かといったら、
とにかく、視野が広い方が、洞察が深いほうが、物事はやはり多面的でありますから、
色んな方面から、色んな角度から、思考をすることが、
やはり、大事じゃないかと思ってまして、
だからこそ、ものすごい膨大な当時の人たちの思考や発想、
思いや考え、それらを伝える資料とか、沢山の事実にもう触れ合って、
その一つ一つの事実が何を意味しているのか、
これで大きなところから見れば、
裏にはどういう仕組みがあるのか、
それをある時に瞬間的に大きな閃きが得られるという、ああ!そうだったのかという興奮ですね。
それがやはり、探究の醍醐味ではないかと、これがやはり一番の楽しみというか、
本当にもう人生最大の楽しみじゃないかと思っておりますということですが、
そこで思ったんですよ!
普通「研究」と言うと、やはり結果だけをまとめてある程度、形になって発表することですね。
それで、それに対して、また他の人が同意したり、反論したりして、
それで、また対応していく流れで、
どんどんそれを磨き上げていくといいますか、
洗練させていくわけですけれども、
私はやはり自分の頭の中で、自分で常に更に良くしていこうと努力をしておりまして、
そういった過程そのものを記録していくことは、
それは非常に面白いことではないかと、
意外と世の中にあるようでないんですよ。
だけれども、もう全部見せしちゃいましょう!という、それはなかなか少ない!
面白いじゃないかやってみると、そういった試みになってまして、
元々KF-Scholaは、やはり日常の気づきとか、ひらめきを生々しい状態で動画にして記録したい、
それを皆さんとシェアしたいということで始まったんですね。
それで今回も本当に正に真ん中を行く、ど真ん中じゃないかと言う、
本当に動画になってまいりまして、
どうか温かくKF-Scholaを応援下さりながら、楽しみ下さればと思います。
今回はこの「各」と「格」という字に関して、
まあ、ちょっと最初に前回の動画でした事を本当にさらいましょうということで、
ちょっと字源を確認して、
最初の形の文字、初文ですね。
また、最初の意味、本義と言います。
それらを明確にしてから、
この補遺(Supplement)として、
色んな古典籍、漢籍、漢文で書かれた、漢語で書かれた中国語でいう文言文や古文とも言います。
それでそれ古い、古典の漢語で書かれた用例をものすごい数、引用しまくって、
一つ一つが漢蔵祖語の語源、
それとか文字を適用していた時の仮借とか、
また、言葉自体がどう変化したのか、転義したのか、
それらを検討して注釈を加えてみたいと思います。
まあ、私が前回作った動画に対して、
また自分で自分に対して、註釈を加えるということですね。
何とぞ宜しくお願い申し上げます。お付き合いくださいませ。
それで私が最初にその衝撃を受けたこと、
まあ、一言でまとめてしまうと、
今まで思われていた以上に言語と文字の関係はものすごく複雑に絡み合っておりまして、
ある文字にはすごい数の別の語源が流れ込んでるんじゃないかという閃きを得たわけなんですよ!
それを実例で前回、検討してみましたら、
やはり、そうじゃないかという確信が深まってきたということです。
それで基本的に今まである程度はこういった甲骨金文の字形がありますけれども、
この「各」はもともと足の形をしてまして、
それで「口」みたいになっていますけども、甲骨文では明らかにこの中にU字型「凵」の中に(足「止」が)入っていく状態でありますよね。
これであるから、最初に「格」、「入って来る」、「至る」、そういう意味であり、
それでこれは元々「いたる」という意味で初文として作られた文字であったということ、
それが「おのおの(各々)」と(音が近いことから)仮借をされて転用されてしまったということ、
それでそれとは区別をつけるために、「木」が加えられたこの形が「格」としてよく使われたことによって、
小篆で木偏にこの「各」が「格」で「いたる」と固定されて、
まあ、今言ったことは、仮借(かしゃ、かしゃく)ですけれども、
「狭義での仮借」と呼びたいと思うんですよ。
どうしてかといったら、
今までの文字学や訓詁学や音韻学においては、
今までの常識だったんですけれども。
まさか、この「各」「格」という一文字の中には、
もう、明らかに異なる語源が、
これ、もう一つの漢字にも十本も流れ込んでいる。
別の言い方をすれば、仮借で書き表された言葉は、今まで考えていたよりも10倍以上があるのは、衝撃的なんですよ!
本当にこれは、中国でも、日本でも、漢字文化圏で色んなところでも、気付いた人はいないじゃないかと!?
聞いたことがない、新しい知見だ!と感じたんですね。
だから、本当にこういったことに興味を持ってしまって、気づけたということは、発見したということは、
文字を使い始めた人たちが、
また、その当時にどう考えて、どうしたのか、
それを知りたいってことでして、
それが(KF-Ars Sinica系譜でたどる中華文化で連載中の)「漢字のユニークさを探求するシリーズ」のコンセプトでもありましたし、
それで「言語と文字のデュアリティ(双対性)」がモットーだったわけですよね。
ずっと、これの発想でずっと来ておりました。
本来は言語が先にあって、そこに文字が当てられてる。
これはもう厳然たる事実ですよね。
漢語が先にあって、漢字が当てられたという、
もう自明である事実ですよ!
本当にそれでそうした「言語と文字のデュアリティ(双対性)」の観点で分析をして、探求していったから、
こういったことにも気づいたんじゃないかなと!
辿り着いたじゃないかなと思ってるんですよ!
それでそれはそもそも2000年以上前に殷周春秋戦国ですよね。
本当に秦漢になる中国が統一される前の時代の人たちが、
文字を手にして、最初に言語をどんどん書いていきたいという、
そういう自分が感じたこと、
考えたことを言葉で表現したいという、
そういう努力と情熱で漢字という体系がどんどん豊かになって、達成することができたんじゃないかということが、
それが先ず感激なことでして、 本当に当時の人とコミュニケートできた感じがするわけですよね。
しかも、実際それらを整理して、
秦漢の時代に小篆とか、それを筆記しやすくした隷書が生まれて、
我々の漢字の(直接の)ご先祖さまになったわけです!
本当に一旦そこでキューンと戦国時代にあったものをまとめて統合され、
そこからまた我々の漢字にきているわけですけれども(人類の進化における「ボトルネック効果」のよう)、
そこのときに数千字ぐらいあったんですよ。
基本的に《説文解字》に入っている文字(9353字)それぐらいありますね。
そこにある文字だけで、現在もう最先端の物理学とか、もう法律学、もう世の中には色んな事ありますよ!
それをあらゆる概念が、そこにある文字だけを組み合わせただけで書き表せることは、
これ自体が衝撃的なことじゃないかと思ってるんですよね!
もう普段、日常的に普通に使ってるから当たり前になっちゃってるけど、
文字はそれぐらいすごいものと感じでおりますよ!
本当にそういったことも、昔のそう人たちがした考えを辿りながら感じておりまして、
本当に衝撃でした!
それでそれを本当にやろうと思えば、
実際もう今は最先端の物理学の論文を説文小篆(《説文解字》の親字とされる小篆)で全部かけますよ!
本当にまあ中国語で書かれた物理学の論文持って来ていただければ、もう私全部(竹簡に)小篆で書きますよと、いうことができるんですよね!
もし、その後に作られた文字であったとしても、
(既に)部品があるから、それを組み合わせれば書けちゃうんですね。
まあ、これ冗談ですけどね!まあ、私ならやりかねないんですけどね(笑) ですけれども、
それぐらい衝撃でありまして、
それでもう一つ衝撃!これは全く違う字形を持つ文字も、実は言語の面から見たら、語源が同じであることがすごい多いことなんですよ!
それにも気づく!
こちらの「各」「格」に関しても、そうですけれども、
前回に見ましたけれども、もうものすごい数の例が挙げられて見ていけたんですね。
だから、もう「言語と文字のデュアリティ」があって、
それ(言語:文字)が一対一で対応している。
もしくは(言語:文字が)多対一で対応している。
つまり、ある言葉に対して、一つの文字が充てられている事ではないですよ。
ある一つの文字には沢山の意味があったりする。
どころか、逆に同じ語源だったものが、
ものすごい数も別の部品の文字の形で当てられていることは、
(言語:文字が)多対多になっちゃってるんじゃないかということで、
ものすごい複雑に絡み合っている!
それでその同じ文字、もしくは(意符を付加した形で)よく「諧声系列」と言いますね。同じ部品を持っている。
その文字の中にある異なる語源が流れ込んでいて(更に形声字の「諧声系列」の中には同じ語源が分化した文字も含まれていて)、
逆に言えば、同じ語源であるものが、
まあ、これは漢蔵祖語ではallofamと言いますけれども、 word familyとも言いますけど、ある言葉の家族ですね。単語家族。
そして、それに対して、全然違う声符が当てられている。文字が当てられている。(即ち、ある同じ語源の言葉の音を書くとき、別の声符を選んで用いて書かれている。)
それで戦国時代には、特にものすごい字形とか、字義にも、混乱が生じでたということで、
それを秦の始皇帝が中国を統一をしたときに、文字を統一したことは、
具体的に言えば、字形と字義(の統一)ですよね(強調していることは、一般には字形が統一された面が強調されますが、むしろある言葉を書き表そうとしたとき、文字の当て方を整理して、字義が固定されたことも見過ごせないことです)。
我々が使う漢字に近い形に固定したということで、
ああ!なるほどとその意義も分かってまいりまして、
それで一般的には漢字がやっぱり先にあるところが始まって、
それでこの漢字はこう使うとか、
そういうルールが天下り式に、これが正しい使い方ですよと刷り込まれているわけですよ。
本当に実務上はそれは必要なことで、まあみんなが好き勝手に違う文字を使って、違う字形使って、字体を使ったら、それはコミュニケーションツールとして使えないから(実際に先秦文献では今とは文字が異なる意味で使われていて難解で定説を見ないものも多いです。)
それはそれで一つは要するに社会を円滑にするという意味では意味がある。
効率化をするという意味があるんですけども、
それで漢字というものを漢語というものを探求していく中では、
その考えは(先入観となり)邪魔になる場合があるという、
逆に周りの人たちは、こう使うことが正しいとか、
この秦漢の時代に漢字の使い方が決まったもので、
それは文字の形は隷変と言いました。
隷書になった!
それが我々の楷書になってきている。
そして隷定と言いますけれども、
これは両方を固定したわけですね。
つまり、昔の古文では違う形で書かれたものは、今の字(今文)ではこう書くよということ。
それは意味の固定になるわけですよね。
だから、つまり、字形と意味と両方をある程度、規範を定めたということですね。
だから、それ以前の先秦と言います。
秦より前の古籍の表記の仕方は、後の時代でその決められた規範ルールに合わないもの、
通仮と言いますね。即ち、他の字の音を借りて、他の字で書いたというんですけれども、
実はそれも微妙でして、まあ、学術用語としてあるから使いますけれども、
もしわれわれが使ってるという漢字の使い方ではなくて、
その古籍に書いてある。そのそちら側の使い方、言い方が正しいという風になったとしたら、
逆に我々が正しいとすることが、ルールに沿わないと言われるであろうということでありますから(即ち、秦漢で取捨選択された字形や字義がわれわれが用いる漢字のプロトタイプであり、もし違う字形や字義が選ばれたなら、われわれの使い方や書き方がイレギュラーとされるほど、文字の使い方は歴史の中で恣意が多く入り込むということです。)
だから、前の実例を後の常識で判断することは、実は非常に危険なことなですね。
つまり、ある時代とか、ある地域の常識を他の時代とか、他の事柄や判断に持ち込まないということ、
それがやっぱり物事の本質に迫る極意と思っているんですよ。
それをもっと言えば、まさにそのときに、そこにいた人と同じように考えていきたいということですよね。
それで価値観とか、歴史観とか、人生観が、全然違う人たちに、
自分たちの価値観とか、歴史観とか、人生観を当てはめちゃいけないということですよね。
というのは、そうすると、違う解釈になってしまうから。
だから、逆に言えば、そうすれば、色んな異なる価値観とか、歴史観とか、人生観に触れられて、
こうした探究を続けてゆくことができて、
思考がより柔らかくなって、豊かになって、自らの常識に縛られないで考える訓練になるんじゃないかと思っておりまして、
こういう探究とは、すごい本当にまあ歴史をやってますから、
文字の歴史観はもちろん、価値観とか、人生観まで影響してくるっていう、すごいことなんですよ!
実は本当に観ていただいた方が、単にこの文字は、はい!こういうことですよと、
そうしたただ知識をシェアしようというレベルじゃない話、
もうものを考えるにはそこじゃないかと。もう本質的なことを話していると思います。
本当にそれはつまり自分と環境が発想が異なることに対して、開かれた脳みそになるんじゃないかという形で、
素晴らしい脳みそを開こうということでオープンマインド! ということでやってまいりましょうということであります。
それでそうしたことから、
漢蔵語族とか、上古漢語の最新研究から、
どうも、文字とか、言語の関係は、
漢字には、この意味があると思われてきたように、
その先秦の文章に触れれば触れるほど、同じ音で別の字で書いてしまう、申し上げました「通仮」と言いますね。
同じ音が通るから借りる、仮借の「借」、それがものすごい激しく複雑に絡み合ってるという経験は持ってるわけですよ!
これがある程度、そういった文字学や訓詁学や音韻学の勉強をすると分かることなんですよ。
ですけど、そこで思い切って、それぞれ全ての言葉には、同じ文字が与えられているとしても、
異なる語源を持ってるではないかということ、
まあ、そこまでは考えられてはいるかもしれない。
ところが、一つの文字の中にあるものですら、ものすごい異なる語源があるんじゃないかと閃きましたということ!
それをお話しできましたけれども、次はそれをどうしたら論証できるのかを考えるんですよね。
それをただ閃いただけで、そうじゃないかと言っても、
他の方々は本当かよと、勝手な思い付きだというかもしれない。
そうしたら、これはこうなっているではないかと、この発想でいけば、他のことも沢山説明ができるんじゃないかと、
そこが論証になるということを考えまして、
こうしたら、そこで漢蔵祖語に目を向けたわけですけれども、
私はどうしてかといいましたら、
もう、漢語の語源と言ったら基本的には、
もっと先に遡りたいと言ったら、
漢語が漢蔵祖語から出てるんじゃないかと学問上、もうみんな言語学者、一生懸命調べて分かってきていますから、
それを使いましょうと、せっかく皆さま一生懸命、研究して下さったこと、
今現在進行中でありますけれども、
どんどんやってますけれども、
それを以て論証してみたいと思ったわけですね。
そうなったときに、私は元々今まで印欧言語、印欧祖語がありますけど、
比較という方法で組み立ててゆこうじゃないかと、
沢山の言語を比較することによって、
その音韻と意味を音声学(phonetics)と意味論(semantics)(が結びついた音韻論phonologyや形態論morphologyなど)、
それらを以て論証していく、比較言語学(comparative linguistics)、歴史言語学(historical linguistics)と言いますけれども、
それらの経験が生きてくると思って、
音韻的な対応や意味的な対応を鍵として、上古漢語でこの「各」と特にこの「格」に結びつけられた。
発音と概念のグルーピングをすればいけるんじゃないかと思ったんですね。
そうすると、前回いたしましたけれども、
ものすごく驚いたことにピッタンコと一致してきて、
エレガントに矛盾なく説明されるということなんですね。
だから、びっくりしちゃって、これはもしかしたら、人生最大のもしくは人類最大の...とは、言い過ぎかもしれませんけれども、
漢字文化に生きる我々、漢蔵語族を話して、生きている方々が暮らしている、東アジア全体における衝撃ではないかと(いうのが大げさでないくらい)、
もう、非常に興奮しておりまして、
そして、従来の学者たちは、やはり漢字の字形とか、字音とか、字義を考える上で、
もう結構、大き誤りを起こしてきたんじゃないかなと分かって、
そうした業績や辞書などの編纂ですよね。
もう、根底から書き換えてしまうくらいの強烈な発見じゃないかと思って、
もう、興奮しておりまして、
本当にそうしたことができたのは、
やはり、20世紀から、21世紀にものすごい漢語に属するとお話しました。
漢蔵語族のものすごい数の言語、中国の南とか、西とか、東南アジアとか、北インドとか、ヒマラヤとか、チベットに広がっております少数民族の言語が、
もう、フィールドワーク!
もう、言語学者が調べ尽くしていきまして、
もう「この言葉は何というんですか!?」と質問攻めしまして調査した結果がありますから、
それでそういった言語の資料ですよね。それを意味論的(semantics)と音韻論的(phonetics)な資料を駆使して、
今までは、漢語、漢族、中華文化、中国とそういった意識の中で漢語とか、漢字は研究されてきた。
それでそういった少数民族の言語たちが調査されてきたのも、本当に最近ですし。
はたまた、6000年ほど前には、まだ「中国」という概念すらなかったわけですよ!
それでそういった新石器時代末期あたり、
その辺りから分岐したんじゃないかなという、あらゆる言語上されたわけですから、
それらの知見を甲骨金文が残されている、
殷周から秦漢まで春秋戦国を通って、
まあ、それは2000~3000年前に話された上古漢語を復元している、もう中国人のコンビがおりまして、鄭張尚芳さんとか、潘悟雲さんとか、
あとはアメリカ人とフランス人のコンビ、Baxter-Sagartが再構した上古漢語の音ですよね。
それを検証していけるのでは!と興味持って行っておりました。
それでそういった検討を建てることができたのは、
やはり印欧言語(Indo-European languages)に私がすごい元々、興味があったんですよ!
それで古い時代から、印欧言語は、やはり言語の記録はものすごい数ある!
しかも、それはかなり音で書いてある文字を使ったアルファベット(もしくはアブジャドとも言い、更にアナトリア語派ヒッタイト語やルウィ語の楔形文字やヘレニック語派ギリシア語の古形を書いた線文字Bなどの音節文字、もしくはアブギダとも言います)で書いてあるとか、結構良かったんですよね。
古い時代の音が結構分かる!
それで古くから歴史言語学、比較言語学が進んでいまして、
面白いことにやはり同じ人間だから、
漢蔵語族も、印欧語族も、比較言語学で使われる科学的手法は同じように使えるんですよね。
特に音韻論とか、人間のやはり口とか、舌とか、肺とかを使って、言語を発する、言葉を出しますけれども。
自分の思っていることを音に変えて、相手に伝えるけれども、
そういった使い方は、どんな民族でも、どんな人種でも、変わらないんですよ。
それは、だから、すごく、ある音がどう変わるかとか、
そういった対応は、非常に印欧語族で起きてることは、漢蔵語族の中でも結構起きてるんですよね。
だから、そういったことも、すごくに役に立ったり、
それで驚いたことに、例えば、田んぼの「田」がありますよね。
もう小学校一年生も知ってる!
そして「水」、小学一年生で習う!
それで小学校一年生でも知ってるような上古漢語の基本的な言葉ですら、復元は結構難しいんですよ!
本当に衝撃的ですよ!
それはどうもやはり、私は思ったのは、
上古漢語から中古漢語に移行する過程で、lがtに変わったりするんですよね(口頭でL-typeとT-typeのシンプルな話をしましたが、更に厳密にBaxter-Sagart 2014ではlˤ > d、l > j、l̥ˤ > tʰ、l̥ > ɕを想定しています。)
l(かl̥)という音はt(かd)は、ちょっとこれ結構違うように見えるんですよね!
それは結局、漢蔵語族(の色んな言語)と比較したことによって、
先ずは、Pullyblanckというアメリカ人の研究者がどうも、後にt になっているものでも、lだった。L-typeとT-typeがあるんじゃないかと言い出したり(Edwin George Pulleyblank (1962). The Consonantal System of Old Chinese, Asia Major, New Series 9 (1): 58-144.)、
それは漢語の中だけじゃなくて、漢蔵語族と比較して分かったりとか、
李方桂という学者は、もうすごいですよ(李方桂《上古音研究》(北京:商務印書館,一九七一)!本当にタイ・カダイ語族(Tai-Kadai 、もしくはクラ・ダイ語族Kra-Dai languages)に借用された言葉(と比較して)、
他の言語に昔の漢語から行った言葉で借用された方では、古い子音を保持して来てくれたから、
それで(外的に)予想できたんですね。
内的にはやっぱり分からないことがあるんですよ。
本当にその中ではもう全て変わってしまっているから、
それぐらい音韻とは、すごいガラッと1つ変わったら、
もう、全て総ざらいで変わってしまうと、
漢蔵祖語とか、上古漢語と接触した言語の借用とか、
あとは地名が、昔に音写されたもの(例えば《漢書·西域傳》のアフガニスタン北西部のヘラートにありましたἈλεξάνδρεια, Alexandria > 烏弋山離、Édouard Chavannes (1905). Les pays d'Occident d'après le Wei lio, T'oung pao 6: 519–571)で分かったりするとか、
対音資料といって、 他の言葉との当てられたことによって、
外部から見ることによって、その音の内容が分かると言えるんですよね。
まあ、今は内的と言いましたけれども、
それはつまり、外から対音資料、音を表してくれる資料がないと分からないと話しは、
漢語の中でもそうだし、漢蔵語族というレベルの中でもそうなんですよね。
どのクラスでも、やはりその中で音韻がザーッと全部変わってしまったものに関しては、
外から見ないと分からないということであります。
まあ、ただ、今のお話の中では、内的とは、 漢語族(Sinitic)の中で生じた、上古漢語から中古漢語に移行するときに、どうも l と t が入れ替わるという問題が生じたんじゃないかと、
それについては、古代タイ語とか、全く違う、それはもう語族も違います本当に、
それとか漢蔵語族の別の言語たちで分かるというお話でした。
それでlと t が入れ替わるという問題で思い出されるのが、
英語で母国語のことをmother tongueと言いますよね。
「母の舌」、「お母さんの舌」(笑)
もしくはnative languageと言いますよね!
また、言語学はlingusticsと言いますけれども、
tongueも、linguaも、(元の語源は)「舌」で「言語」に値するんですよ!本当にそのような意味になっている!
まあ、日本語でも、私みたいな話好きを漢語では「饒舌家」と言いますけれども、
「饒舌」とは「舌が豊かな」とは、いっぱいしゃべるって事だから、
やはり、舌と喋る事は、やはり、どんな言語においても、非常に近いですけれども、
tongueはゲルマン語ですよね。
languageは、中世フランス語を経由して借用されたラテン語ですよね。
lingusticsの場合は、直接ラテン語から、「学者語」と言いますけれども、
学者が後の時代に使った言葉で直ぐに(借用して)使われたから、
だから、かなり最初のラテン語のlinguaの形に近いわけですよね。
まあ、ラテン語のlinguisticaという言葉を作って、そこからしましたから。
だから、それだけ見ても、三つの層があるんですよ。
同じような言葉に関しても、印欧祖語のレベルまでいくと、*dn̥ǵʰwéh₂s、これが(西ゲルマン語派英語にいたる)tonguに当たる、ずっと色んな言葉をまとめ上げいくと再構できる。
それはどうしてかと言ったら、
ゲルマン語派の*tungǭ は、もう英語tongueのもうご先祖さま。
それでゴート語だと tuggō, 𐍄𐌿𐌲𐌲𐍉、これはゲルマン語で一番最初にアルファベットできちんと記録された、だからこういう形だったと分かります(確かに2世紀ごろのバルト海沿岸のルーン文字で断片的に残りますが、4世紀ごろのゴート語がまとまった形でゲルマン語の古い形を今に伝えます)!
それで古ノルド語も、バイキングたちの「サガ(saga)」という詩など(実は散文が主体で文学)を書いてある写本があって、tungaと分かる(古アイスランド語に移行した13世紀の《赤毛のエリクのサガ(Eiríks saga rauða)》はグリーンランドから、ラブラドル海、ニューファンドランド島、北アメリカ大陸まで到達した物語です)。
そして、古英語も記録があるtunge、
それで今の英語がtongueでしょ。
ということで、おお、なるほどとなりまして、
それでまあ、古高ドイツ語、
古い時代のドイツ語の先祖はzunga、
それで今のドイツ語はZunge 。
それでzに濁っています。tがzになっています。
それでケルト語派の古アイルランド語もtengaeでこれもtがあるんです。
印欧祖語ではdでしたから、それがゲルマン語派ではtだった。
ケルト語派もtだった。
それでトカラ語派ではkになっているんですよね。
トカラ祖語käntwo!
それで今度はインド=イラン語派、
もう今のペルシア語の先祖のアヴェスタ語ではhizuuā、それで h になってる!
それで(古ペルシア語hazāna, 𐏃𐏀𐎠を経た)古典パルシア語ではzufān, زفان、zになってる!
それでドイツ語と同じようにzに濁っている。
それでサンスクリットなど、jihvā, जिह्वाで、これはjになっている(更にパーリ語 jivhā, 𑀚𑀺𑀯𑁆𑀳𑀸 では音位転換metathesisが後ろの子音で起きていますがjです。)これは j になってる微妙だと!
それで(古代教会)スラヴ語だとjęzykŭ, ⱗⰸⱏⰹⰽⱏ、
それで今のロシア語でも、jazŷ́k, язы́кというかな、それでチェコ語ではjazyk、ポーランド語ではjęzyk、ちょっと母音が変わったという感じですから、
おお!子音が対応するということであるし、
あとは(バルト語派の)リトアニア語だとliežùvisでlになりました!
まあj、先ほどもサンスクリットとスラヴ語などはjで、リトアニア語とスラヴは近いんですけど、
やっぱり j とlは(発生の仕組みが)近いんですよね(別語源の舐めるliežti < *leyǵʰ-と混ざり合い変化したという説もありますが、子音の対応で説明がつきます。音声学上、漢語でもlとtに変わることは面白い傍証です)。
それとバルト=スラブ語ともいわれ、かなり近いところでありましたから、
それでアルメニア語lezu, լեզոでもlになっているんですね(これも舐めるlizem, լիզեմ < *leyǵʰ-と混ざるという説がありますが、子音jとlの近さから説明する方が合理的と考えられます)。
そういった形でこれだけの子音が対応していると、
今まで出てきたそれらをまとめてみますよ。
そうすると、 印欧祖語では d だったものが、
ゲルマン語派では tで z に濁るものもあるとか、
トカラ語ではk、アヴェスタ語ではh、ペルシア語、(古ペルシア語ではhでして、)そこから出て行ったものはz になって、
やっぱり濁っちゃっている。
それでサンスクリットは j 、スラヴ語派もj、リトアニア語はl、
それで問題のラテン語はどうだったのか、
それを見ると、古い時代のラテン語も、意外と断片的に残ってるんですよ。
それ(4世紀の文法学者Gaius Marius Victorinusの報告)で見るとdinguaはdだった!
ラテン語ではもともとdingua!おお!
古典ラテン語、もう私はラテン語をすごい一生懸命学ぶ、それは古典ラテン語ですよね。
キケロとか、セネカとか、(ウェルギリウスとか、ホラティウスとか、)そういった古典文学がいっぱい書いてある、
そうした時代になるとlingua、
だから古い時代の古風なラテン語だとdingua、dがlになっちゃう、linguaになっちゃう!
おお!dがlになっているじゃないかと!(先ほどのリトアニア語やアルメニア語と同じく、舐めるlingō < *leyǵʰ-と同化が起きたという説がありますが、いくつかの別の語派で同じように取り違えが起こるというのは非常に無理がありますから、子音の対応で説明するのが自然です。)
それでちなみにラテン語に近いはイタリック語派と言いますが、もう少し大きなくくりで行くと!
そうすると、オスク語はちょっとイタリア半島の南側におりました。
もうラテン語がバーッと広がったから、もう消えちゃったんだけれども。
オスク語ではfangua, 𐌚𐌀𐌍𐌂𐌖𐌀でfになっている!
だから、少なくともイタリック語派 *denɣwāの中では、すごいことに、ラテンの中では dがlになっちゃって、オスク語の中ではfになっていることも分かっている。
d, f, lおお!という感じでありますけれども、
そういった形で、結構、子音は規則的に対応するけれども、 結構変わる!
それで実際、私が先ほど言いました。
今までの語彙は、「言語」というよりかは、「舌」だったんです。全て「舌」という意味だった!
それでラテン語のlinguaには、「言葉」という意味がありますね!
それでそれが中世フランス語を経由して、lanugageになりましたけど、
だから、最終的に先ほど言いました、mother tongueとnative languageのtongueとlanguageは、
両方とも同じ、もう究極で言えば、印欧祖語までいけば、同じ語源*dn̥ǵʰwéh₂sから来てることでありますが、
それだけお互いに子孫同士して、いっぱいやり取りをして、
そうなってる事が言えます。
これで私がなぜ今見たい話をしたかというと 、
dがlになるとは、結構、衝撃的な変化だけれども、
dがlになっているのは、ラテン語にもあった通り、他の言語でもよく、起きてるんですよね!
今は印欧語族に行き過ぎましたけど、
漢蔵語族の話をしていたから、あまりやりすぎちゃうと、ちょっと危ない感じですけど(笑)
もう、そこだけで違う動画になっちゃう(笑)
軌道修正しますと、漢蔵語族で言えば、天気の「天」がありますよね。
これが、中古漢語のtʰenから、tで今まで思われていたりとか(高本漢、王力、董同龢tʰien、李方桂thinなど)、
鄭張尚芳は*qʰl'iːnにしたり、
それで最近調べてみると、
やはり、Baxter-Sagartは考えたのは、これやはり、L-typeじゃないかと!
だから、天国の「天」は*l̥ˤi[n]になってるんですよ。
lがtになった!
この「天」*qʰl'iːn, *l̥ˤi[n]という言葉の語源が分からないと言われていたんですよ!
私、一生懸命調べましたら、
そうしたら、どうもナガ祖語 *luːmとか、チェパン語 लाङ्का, laŋ.kaとか、アヌイ語 muʔ laŋ、ジンポー語 lă³¹ mu³¹などに関係あるじゃないかと思って、
少しちょっと付記しておきたいと思うんですよね。
一生懸命それらの言葉は、全部「空」とか「天」という意味を持ってますよね。
その意味と子音の配列を一生懸命調べるわけですよ。
こうやって、すごく似たようなものをいっぱい集めて、本当にそうかどうか、
語源の探索は結構大変で誤ったものを語源じゃないかって言ってしまう場合もあるから、慎重を要するんですけども、
こういったことをそうじゃないかということは提唱できんじゃないかと思っておりまして、
ちなみに先ほど田んぼの「田」がどうして、
最初、我々が「田(デン)」と呼びますよね。
これ実際に中古漢語はdenですよ。
それだけれども、これもやっぱりL-typeであって、
鄭張尚芳も*l'iːŋでちゃんと復元しました。
それでBaxter-Sagartも*lˤiŋでちゃんとしました!
それどうしてかといったら、それは分かってたんですよ!
それは漢蔵祖語においては、*b-liŋということもあり、b は接頭辞(prefix)だとすれば、
漢蔵祖語liŋはもうほぼ鄭張尚芳l'iːŋやBaxter-Sagart *lˤiŋと同じ形で、もう漢蔵祖語からあった。
それはチベット語ではཞིང, zhing、先ほど申し上げましたよね。
lであったものが、(tを経由して)z になっちゃってるものもある。
それはやはり、チベット語でz になっている!
それでレプチャ語ではlyăŋ、ジンポー語ではmă³¹liŋ³³でliŋ、(lの子音を)みんな持ってる!
そういうことで本当にこれらの言葉から、やっぱり l じゃないかということは、
それは結構昔からみんな気づいてたことだからちゃんと復元できているということで、
(また、上古漢語を書き記した出土文献という観点から、)こういったlと t の書き分けに関しても、
最近は楚簡の中である文字とある文字が、他の文字で音が近いから使われるという、
厳密に見ると、やっぱり上古漢語ではlとt が、その後には両方を合流しちゃったけど、
ちゃんと書き分けられてる事が確かめられてきておりまして、
そういった文献資料を使えるんですね。
ちゃんと符合する!
結局、簡単な単語でも、結構復元にてごすっておりまして、
やっぱりそれどうしてかって考えると、
もしかしたら、形態論的に見て、形態論(morphology)から行けば、
ものすごい簡単な単語に関しては、当てはまらない可能性があると思ったんですよね。
どうしてかといったら、それはもうかなり古い時代からずっと基本的な単語は、古い時代のその言葉を生成する方法で考えられて、
それで作られて、ずーっと引き継がれてきたからということで、
そういった言葉を生成する方法、
つまり、何か語根(radix)があったら、それに対して何かをくっつけることによって、
もっと言葉を豊かにしてゆく方法は、もっと分かれた後に生じたことに関しては、
それは前のことに関しては、ずっと引き続いてて、
言語は非常に先ほど申し上げましたように色んな層になっていて、
古い時代に生じたことが、ずっと引き継がれているもの、
次の時代に生じたこと、それでまたそこで後に分かれたものなど、
階層性があるんじゃないかということを考えていけるんですけど、
もう一つ印欧語族と漢蔵語族の言語の構造ですごい類似しているところを感じるのは、
やはり、接辞(affix)による語彙生成じゃないかと思っているんですね。
どうしてかといったら、
今申し上げましたみたいに、文字の構造とも、非常に関係があると気づいてまして、
特に同じ声符を持っている文字がありますよね。
形声文字と言いますけれども、
同じ事を表す部品があって、
それにまた違う意味の限定をするために意符が付いて、
沢山の「諧声系列」、同じ、若しくは近い音の系列がいっぱいあるわけですけど、
形声文字の中には(大きく分けて)二通りあって、
私思ったんですよ!
上古漢語においては、やはり同じ語源から、
例えば、Baxter-Sagartなどがまとめたものでは(William H. Baxter & Laurent Sagart (2014). Old Chinese: A New Reconstruction, Oxford: Oxford University Press.)、
*N-, m-, s-, t-, k-とか、それをある語根の最初にくっつけることによって、
色々と言葉の意味を変えていたり、
接頭辞(prefix)と言いますけれども、頭につけるから!
今度は真ん中に接中辞(infix)と言いますけど、 * が入ったりとか、
あと接尾辞(suffix)と言いますけど、最後に *-sがついたりとか、
そういったことによって、言葉が派生していくと!
それは接辞(affix)、接頭辞(prefix)、接中辞(infix)、接尾辞(suffix)と言いますけど、
それらが全部ありますけれども、実は結構ちゃんと今の部分にあたる部分があって、
そこに文字が当てられていて、
ある程度そういった接頭辞(prefix)、接中辞(infix)、接尾辞(suffix)がついても、
それらは形声文字の中で同じグルーピングの中に入ってるから、
書き分けていたんじゃないかと、
そこに意符を付けて、そういう風にも考えられていたり、
それで漢藏語族においても、
例えば、ジェイムズ・マティソフ(James Matisoff)教授は、*s-, ʔ-, m-, r- l- b- d- g-などを最初につけることによって、これらの言葉から、これを派生させられることを結構特定してきてるんですよ(また、接尾辞もterminative suffix *-ŋとかnominal suffix *-nとかが知られています。James Alan Matisoff (2003). Handbook of Proto-Tibeto-Burman: System and Philosophy of Sino-Tibetan Reconstruction, Berkeley: University of California Press.)。
それでどうしてそういったアメリカ人とか、フランス人とか、ロシア人の言語学者スタロスティン(Сергей Старостин)も気づいていたのかと!?
それは言語の音特性があるじゃないかと!彼らが母語としている印欧言語では、
ものすごい接辞(affix)により、
今言ったような、接頭辞(prefix)、接中辞(infix)、接尾辞(suffix)で語彙が生成されるというのは当たり前のことなんですよ!
これ本当にもうみんな知ってる!
それで一番やっぱり強烈なのは、サンスクリットのパーニニ文法(Aṣṭādhyāyī, अष्टाध्यायी)では、
もうその言葉の作り方(morphology)について、ものすごい数のルールを書いている!
それを一番初めに行ったんじゃないかな!一番古いんじゃないかなと思いますけど、
英語にもラテン語から、ギリシア語から、ゲルマン語からありますから。
別のルートから入ってきた言葉が、それぞれ造語法、言葉を作る方法が沢山ありまして、
例えば、英語で言えば一番多いのがやはりラテン系の言葉がすごく多いんですよね!
ものすごい造語能力が高いから、
例えば、actということもありますね。
actで「行う」という、 それは中世英語acteでしたけども、
それから古フランス語だとacteから借りたわけですけれども、
究極的にはラテン語のāctaですね。
それから来ている!殆ど変わらない!
まあ最後の母音が落っこちちゃっただけで、フランス語ではeに代わっているだけですけれども、
その動詞はラテン語ではagō、agereが不定詞の形ですけれども、
動詞agōはまあギリシア語のἄγωにも関係していて、
それで更に行けば、印欧祖語*h₂éǵ-e-tiに関係している!
そこから来ているんじゃないかと!
それでケルト祖語は*agetiですし、
サンスクリットajatiですし、
アヴェスター語でazaitiでしたり、
もう一つ面白いことが、先ほど申し上げたみたいに、どのレベルでその接辞をすることによって生じたかということでして、
もうこれ自体は印欧祖語のレベルでも、最初の段階から、もうある程度ちゃんと派生されたじゃないかなと!
これはどうしてかといったら、最初の部分*h₂éǵに対して-e-tiをつけているということ、
まあ、それはトカラ語といって、印欧言語で一番西から東に来た、もう中国の西まで来ましたトカラ祖語だとākæ-/āśä-でして、
トカラ語Aでは、 これはアグニ語、中国語の文献では焉耆語と言いますがākeñc、
トカラ語Bでは、AとBがあると!
それでこれはクチャ語、中国語の文献では亀茲語と言いますが、āśäṃで、
おお!全部同じだと、英語は面白いことにゲルマン語の*akanąから、
古ノルド語akaに入って、
それで英語の方言でaikという言葉が、
そこから来てるみたいでして、
それはバイキングが、古ノルド語を使ったじゃないかといわれる集団が、
もうイングランドに来襲して、大体、今の古ノルド語akaという言葉は、どっちかと言ったら、航海をするとか、その何かを動かすというところから、
元々来ているわけですけど、
印欧祖語とか、その全てのあらゆる言語は、「何かを動かす」からですが、(古ノルド語では)どうも「航海する」とか、「船を動かすこと」、「ナビゲートすること」に特化したらしくて、
その言葉が「動かす」という舟に関係する!
アイスランドまで行ったバイキング!
それでそこでは古い形が残ってて、
結構古い言葉が隔絶されて、アイスランド語akaのまま残ってるんですよね。
という形でありましたけれども、
基本的に英語では、
ラテン語からフランス語を経由して、先ほど申し上げたように、actに代わられちゃったということで、
そちらのゲルマン語からの言葉が消え去ったんですよね。
まあ、方言ではちょっと残っていると言うけど、まあ普通は知らないでしょ! aikなんでいう言葉ということですけれども!
この、ここでわかったことは、
やっぱり言語には階層があって、それは階層とは、古い時代から別れていって、どんどんクラスターがあるわけですね。
その分岐していく枝分かれするまさに系譜ですよ!
それで分岐した前で起きたことが引き継がれているかどうかを見れば、
どのあたりでどこで別れたのかというのは分かって、
それで子孫同士でも貸し借りはしている(これは語源の探索を困難にする要素となり、どちらがどちらに借用されたかを吟味する必要がでてきます)、
もうひっちゃかめっちゃか!もう、その同じご先祖さまから別れていった分家した子孫同士でも、またお互いに交換しているから、めちゃくちゃ複雑だということでして、
まあ、これは語源学(etymology)と言いますね。
今度は形態論(morphology)で行きますと、
もう言葉を沢山見てみようということで、
先ずラテン語のagō、行うというところから、
例えばāctus, ācta, āctumという言葉がありますけれども、
それは「動的な」、「動きがある」、第四変化の名詞を導く接尾辞-tusをくっつけることによって、
「動きそのもの」、それから先ほど申し上げた英語actになったわけですよ。
actという言葉を聞いたら、やはり動きが感じられる。
本当に言葉の意味として、やはりそうだとそういうところが出ているんだ!
ラテン語actusから、古フランス語acteになって、英語actになって、それは接尾辞-tus をくっつけたんだと、
そして、その調子でいくと、āctiōは目的分詞のspinumとラテン語、spineと英語で言いますけども、そのāctumに -tiōをつけた!
もしくは、先ほどの動詞agōの完了受動分詞āctusに-iōを付けて、
第三変化の名詞を動詞から導いたということで、それは「動かされた結果」actionを意味している!
āctiōという言葉は英語actionになりましたけど、
この言葉はやっぱり動いたという一つの結果を意味してるという、
英語actionというと、一連の流れでその終盤や結末まで意味しているじゃないかと、
やはりその語感と合うんですよ!すごくその分析をすると!
そして英語actorもありますね!役者とか!あとactressは女性だと!そうですね!
それもラテン語のāctorとāctrīxは、相当、上の階層の方でとは、印欧祖語の段階でh₂ǵ-に出して-tōrをつけて、 ラテン語では-or、
印欧祖語h₂ǵ-に対して-tr-ih₂-k-s(更に*-tōr + -ih₂ + -k + -s と形態素に細かく分析できます)をつけて、ラテン語ではtrix になってることでāctorとāctrīxと、
それ(印欧祖語の段階で派生したいたこと)が分かるのが、
もう、ギリシャ語でも-τωρ, -τριαがあるから、かなりラテン語の中だけで生じたのではなく、もっと古い段階でも、そういった語の形成の仕方ができるということが分かってきて、
まあ、āctorの方は英語にそのまま入って、actorになって、もう綴りがそのまま同じだと!
āctrīxは古フランス語actriz, actriceに入って、それで英語のactressになりましたね!
それは女性の方の役者ですよね!
だから、男性の役者も女性の役者もこういった-or, -trixで「これは~をする人」を導くための接尾辞で出来ているんだ!おお!生まれたということで感激をしておりますけど、
そして更に調子が出てきたから、サービスしちゃいますと、
āctīvusというラテン語から、中世フランス語actifになって、英語のactiveは、
ラテン語agō(āctus)に対して接尾辞-īvusをつけることによって、
「このように動いているということ」、動きに関係する、動きに関わることで形容詞が作られる!
おお!なるほどそうか!
じゃあ、ラテン語āctīvitāsは、中世フランス語のactivité、今のフランスもactivité、そうだ!
それで英語のactivity、ああ!これは名詞じゃないかと!なっています!
それはどうしてかといったら、
先ほどのāctīvusに-tāsを付けることによって、第三変化の名詞になってるわけでして、
しかも、そこで(フランス語のactiverや)英語の動詞activateや名詞activation、
これは今度は、āctīvitāsから、更にこれを動詞ぽくしちゃったり、また動詞ぽくしちゃって(接辞が激しくて)長たらしくなってきているんです!
それでactivationの場合は、また-tionをつけて、また名詞になっているという(更にactivationalの場合は、また-alを付けて、形容詞になっているという)、これは英語でそうですけども、
そしてこのāctuātus何だと!
これはものすごいめちゃくちゃですよ!本当にこれāctuātusは何でめちゃくちゃかというと、
āctuōの完了受動分詞だと!
じゃあ、このāctuōはどこから来たんだと言ったら、前にしましたagōから-tusで動詞を名詞にした-tusだった!
それで一回名詞āctusになった!それでまた名詞を動詞化しようと-ōをつけた。
それでāctuōが生まれた!更にそれをで完了受動分詞にしている!それがāctuātusだ!
これは本当にめちゃくちゃですよ!だからつまりそのāctus自身が「動き」ということでして、
それは動詞化することによって、(その「動き」を)「実現をする」、「動かして実現する」にして、「実現するよ!」という動詞āctuōを完了受動分詞にしちゃって、「実現された」という、
だからāctuātusは実現されたということなんですよね。
それでちなみに英語のactuate、「実現させる」ことだし、
次はこの更にāctuālisは、中世フランス語でactuel、そこから英語のactual、もう現実的なという意味で使われる「実際上」とか、
元々āctuālisに関して、āctusに-ālisがついていますね。
これは名詞「動いてること」を今度は形容詞化してるんですよね。
だから「現実」という意味になっておりました!
もう本当にすごいですよ!
「現実的な」というところまで来ちゃった!
そして、更に行きますと、agēnsという、これもagōから来ている。
これは、どうしてかといったら、ラテン語のagōの現在能動分詞で、これが複数形の対格agentīsですよ!
そこから来ているわけですけれども、英語のagent、これも「行う」から来てます!
それで更に複数形の中性agentiaから、
そこは(トスカーナ語agenziaを経由して、)中世フランス語でagenceになって、英語のagencyも来ている!
だから、agantもagencyも、どっちかといったら、「行うその能力」という方に行くんですよね。
更に行くと、agenda も、動詞agōの未来受動分詞agendus、動形容詞gerundīvumラテン語、gerundive英語の中性複数でありまして、
これはじゃあまとめると「未来にこうなされるべきことごと」という意味になるんですよ。
だから、agendaという言葉は、実際、未来の展望という意味がありますよね。
これは「将来にこうなされるべきことごと」という意味ですよ! 本当に形態論的に言えば、ああ、なるほどなと!
そのもの、うんうん!ということで見れてこれたと思うんですけれども、
このagitōですが、agōに -itōが付いて、これは反復動詞化の接尾辞で「何度も何度もする」というところから、完了受動分子agitātusを導きまして、
そこから英語のagitateになっていると!
ですから、何度も何度もするというところから、
ぱ~っとするという意味になったということなんですね。
更に印欧祖語*h₂ǵ-が、本当に大変でもう「動かす」とか「行う」の最初の古い形といいますよね。
そこの中に例えば、h₂éǵ-mn̥など、-mn̥を付けるわけですね。もしくはh₂ǵ-mén-s、
まあ、ラテン語のレベルで言えば、agōに対して-menをつけるagmenは訓練という意味ですよね。
それにex-をつけると「外」になる訳ですけど、
それに今度は接頭辞をつけます。
今まで結構、全部、接尾辞、後ろの方いじってたんですよ!
今度は前の方に付けますと、exāmen、更にそれを動詞化しますとexāmināre, exāminōですね。
まあ、フランス語examiner、ああ、同じだ!殆ど最後のeが落ちてる!
それが英語のexamineは、試験をするとか、そういう意味ではありますね。「試す」とか「調べる」という意味になりました!
それでラテン語では、既にもう動詞exāmināreから、名詞exāminātiōになって、それで古フランス語examinacion から、英語に入ってexamination!
ああ、「試験をすること」だから、これはよく知られた言葉!
おお、なるほど!と全て今までもう最初の印欧祖語の段階であった言葉は、
先ずは色んな語派に分かれて行って、
ある言葉では、こうなったってこと、それは語源的な話ですね。
語源学的な話でして、次は何があったかといったら、その今度はラテン語を中心に見ましたね!
それは最終的に英語に全部影響を与えた言葉ですけれども。
その言葉がどう語根から派生されるか、
もう殆どラテン語では後にいっぱい色んな接尾辞をくっつけて、色んな言葉を生み出しましたよね!
本当に一つ一つ(の形態素がありまして)、それは言葉の意味を我々が知っている言葉の使い方に則した形に本当に導かれていたという、
非常にエレガントだと、形態論(morphology)!
それで最後にもうex-まで最初に付けた接頭辞もあった!
なるほど!と意味がどんどん豊かになってるんですよね(また、actから接頭辞を付ければ、exact/exactly, react/reaction, enact/enactable, interact/interactiveなどもどんどん派生されてゆきます。)。 こ
うしてやはり基本的に英語は、もうフランス語、ラテン語の影響をすごい受けていて、
この特にもう言語の単語の影響を受けましたから、
それはをもう既に語彙を持ってきたということは、 形態論(morphology)とか、統語論(syntax)などまで、もう影響を受けちゃった。
激しく影響を受けたということが言えるんじゃないかと!
今、私はこんな話をして、どうして英語の単語の生まれ方、ラテン語、フランス語が出てきたか、印欧祖語まで行ったかは、
言葉は語根(root, radix)がありまして、
語根に対して前につける、真ん中に付ける、後に付けることによって、言葉がどんどんどんどんが生まれていく造語!
言葉が作られていく、その派生されていること、これだけダイナミックなんだと見たかった!
それでそうした言語観が本当にあるわけですよ!
だから、印欧言語は、基本的には統合的言語(synthetic language)と言いますけど、
色んなものをくっつけて、色々な言葉を生み出していたりするのはすごい豊かな言語なんですよ!
それでだからこそ、漢語を研究した、特に西洋の学者の方が結構、漢語のそういった形態論(morphology)に気づいてるわけですよ!
だけれども、漢語は基本的に伝統的には孤立語(isolating language)とか、分析的言語(analytic language)というよく言いますけど、
これはどういう意味かというと、
一つの音、一つの言葉に関しては、その言葉の中では、結構硬いと思ってたんですよ。
つまり、前にくっつけたり一緒にくっつけたりして、どんどんどんどん言葉が生まれていくイメージは持たれていなかった。
だから、今の中国語とか、それに長く触れてきた人たちは、
もうずっとそういう思い込みがあったけれども、
だからなかなかそのことで気づきにくいわけですよね。
形態論的に接辞をつけることによって、言葉が派生してゆくという発想自体がなかったんですよ!
でありますけれども、そうした西洋の言語学に触れた、李芳桂さんとか、鄭張尚芳さんとか、潘悟雲さんとか、龔煌城さんとかいう、
中国の学者も、今ではこういうことを一生懸命研究しましたから、
とありますけれども、やはり伝統的によく母国語で使っている言葉のイメージは、やっぱり(思考の根幹に作用する力が)すごい強いと!
だから、こういったものをすごく色んな言語の状態の色んな仕組みに触れていくことによって、
面白いんじゃないかなと、そういうことが分かるんじゃないかなと思って、
今までやってきたことをまとめていき、そういう言語観でちょっと漢語を見たいということでちょっとこんなことに行ってみたいと思うんですよね。
言語はもうコアな概念があって、
それに接辞をつけることで、
どんどん派生されていきますけれども、
漢語に関しても、漢字というのは、そのコアな部分、語根(root, radix)の部分、
その語根と明確にで対応してるんですよね。
それは形声字のオリジナルな形だと考えられ、
先ほど、形声文字には二つのパターンがあるとお話しました!
その間が長くなってしまいましたけど、ギュンと今、漢語と漢字の話に戻ってまいりましたよ!
そこで見てみますと、例えば「中」という文字がありますけど、
truŋと読みますけど、そこから接尾辞-s をつけることによって、動詞*truŋ-sが派生されるんですよね。
それで最初の「中」は真ん中だったのに、そこから「中(あ)たると」いう意味の動詞になってきて、
更に「真ん中に当たる」と、例えば、状態を示すためには、最初に接頭辞N-をつけるんですよ!だからN-truŋ-sですよね!
だから、どんどんをくっつけていくことにより、派生していくんですけれども。
どうも、古い甲骨金文においては、この「中」という一つのその旗がはためいている形の文字で、そのtruŋから派生してきたtruŋ-sと*N-truŋ-sも全部、m別々に分けないで同じように書いている!
それは今までは、例えば文字がまだ最初の初期の状態で未分化だったから、まだ未発達だったから書き分けられなかったと言われるけれども、私は違う見方をするわけですよ!
形態論的に見れば、語根をちゃんと認識をしていたということですよね!
昔の2000年前、3000年前の人たちは、すごいじゃないかと言わざるをえないです!
形態論的な事を全部きちっと理解していたということが言えて、
最後の*N-truŋ-sが付いたその形だけは、人偏を付けた仲がいいの「仲」で書き分けられていて、
それはどうしてかといったら、兄弟の長幼という、年上と年下を分けた。
「伯仲叔季(はくちゅうしゅくき)」(《春秋左傳·昭公二十六年》)とよく言いますよね。その真ん中に「仲」がいるんですけれども、
その真ん中に当たる人に意味の方に分化して、そっちのほうに行ったが故に形声字を作るときに、じゃあ意符の「人」をつけて区別しようと、
元々、(言葉として見たとき)同じところから派生した!語源が同じだったものが、分化をしていく中で書き分けられたと!
形声字が本当に生まれてきていますよね。
ですから、もう面白いことに、言葉上で見ると、 今のその「中」truŋと動詞truŋ-sと、*N-truŋ-sはずっと中古漢語でも、ʈɨuŋ, ʈɨuŋH, ɖɨuŋHと、
ちゃんと最後の*-sは去声Hになってるんですね。
しかも、N-truŋ-s、N-tが、もうくっついちゃって(子音同化して)音がɖɨuŋHになってるんですよ。
だから、ちゃんと綺麗に言語上はきちんと名詞とか形容詞、真ん中とか、真ん中であるという形容詞から、当たるという動詞があって、
それと兄弟の中で真ん中という、それら三つがちゃんと読み分けられている(使い分けられている)ということですごいんじゃないかということでして、
しかも、形態論的に見ると、*-s の接尾辞は去声の起源だと見れてこれましたり、
それでしかもそれは現代漢語においても、本当に動詞になるとやっぱり違うんですね。
本当にちゃんと去声で読めるんですよ!zhōng, /ʈ͡ʂʊŋ⁵⁵/に対して、zhòng, /ʈ͡ʂʊŋ⁵¹/!本当にということで、
長江より南の吳語、贛語、湘語、閩語、客語、粤語では、全部三つとも、今でもちゃんと読み分けていていて、
やはり、北の方の官話や晉語は、やはり最初の2つは読み分けているけれども、最後のは二番目と同じでして三番目は二番目と同化しちゃっていますけれども、すごいんですよね!
本当にそう見てみますと、やはり当時の人たちは、明らかに語根を認識して、漢字をシステマティックに漢語を今のように形態論的(モルフォロジカル)にシステマティックだった!
漢字もそれにちゃんと相当するような形でシステマティックに運用していて、
また、例えば、この「各」「格」でもよく出てくるんですけども、
*が中に入っているような形があって、それも抜けていてもあって、
それもちゃんと同じ部品で書かれていると。
つまり、「各」で言えばこっちはkˤakなんですよね。それで木偏が付いた「格」はkˤrakだから、*が入ってる!
だから、これは接中辞(infix)と認識した可能性がある。*が中に挿入されていますから、
そういうことまでちゃんと理解していたと!
「中」に話を戻しますと、元々これは、漢蔵祖語*(t/d)uŋ ⪤ *(t/d)waŋ ⪤ *ts(y)uːŋから来ていて、
しかも、チベット語ではགཞུང, gzhung、ビルマ語ではတွင်း, twang、クキ=チン祖語ではtshuŋ、ナガ祖語ではdzuːŋですよね。
だからそれからも確かめられて、究極的には、しかも「臍」から、「真ん中」という意味を共有してることで、
まあ人間の体の真ん中に臍があるからですけれども、
そういった語源からも行けるということでね。
本当にこういった基礎語、簡単な言葉、小学生でも知ってるような言葉でも、
本当に簡単な言葉に関しては、かなり古い時代から、それぞれの語派の特徴は生じてくる形態論的な構造が固まる前に既に共有されてた!
その上の時代でもう生み出されてた語彙が多く存在すると!
だからそこで見ると、上古漢語の形態論的な構造が固まる前から引き継がれている語彙があるわけですね。
もっと簡単な言い方をすれば、古い時代からずっと引き継がれている言葉は、
その古い時代に生じた色んな言葉の生み出し方によって生まれてきたことであって、
その後に生まれたルールは適用できないんですよ。
だから、英語のtongueとlanguageとlingusticsもそうでしたけども、
言語とか、語彙とか、文法とか、そういった今のような形態論とか、統語論は、
もう何段階もの層がありまして、
古い段階がどんどん分岐して、色んな言語分かれていく中で、それらを見ていくと、
どのあたりで起きたのかがよく分かって、
一番古いところから引き継いだもの、
次ぐらいの時代の別れた後から、新たに生まれたもの、
更にもう最近に生まれたものなど、
それで累層的な構造があるんじゃないかと!
だから、KF-Scholaでは、系譜で人類のユニークさを探究しましょうというコンセプトですから、
これは言葉の起源、語源ですよね。文字の起源、字源ですよね。
それの探求であって、それらの変遷を歴史がずっとなっていく、
時間を通して見ていこうということですから、
ものすごい序論が長くなってしまいましたけど、
できる限り、古い際に遡りまして、色んな資料を見ていき、私が閃いたこと、言語と文字は、ものすごい複雑に絡み合っていること、
そして、一つの文字の中にすら、
すごい数の言葉が流れ込んでいることを検討してまいりたいと思ったんですよね。
もう、今のような言語観、もしくは歴史観で漢語や漢字を見ていきましょうということで、
もう一つの中にできる限り、具体的な例を挙げて、
しかも、それが身近なactからactionが来ていると、皆知ってる言葉、そういう本当になじみやすい言葉を選んで一生懸命に語ったと思います。
ここまでご覧下さりまして、どうもありがとうございます。